街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      【 7世紀初頭頃からの東アジア情勢、倭国(ヤマト王権)≒大和朝廷内の出来事、これらの交流史、百濟の役(えき)、白村江の戦い、戦後の東アジア情勢などを、《・・・時系列に沿って・・・“西暦618年、唐の建国当たり~688年頃まで”(※特に、注釈などを付記しない部分は、『日本書紀』を中心にして記述しています。・・・私(筆者)による解説や感想付きです)・・・倭国(ヤマト王権)≒大和朝廷に関する事柄には、左側に ※ 印を付して、赤茶色にて表示します。・・・尚、「暦」につきましては・・・基本的に「年」を“西暦表示”としましたが、判別出来る部分については、“元号表示”している箇所もございます。・・・「月日」や「季節」については、原文に忠実とさせて頂きまして、「陰暦」のままです。 》】

      ・・・朝鮮半島情勢は、6世紀から7世紀の頃となっても・・・まだ、「高句麗」や、「百濟」、「新羅」の三カ国で対立していましたが・・・“この頃”は、特に「新羅」が、「高句麗」と「百濟」から“圧迫される存在”となっていました。・・・
      ・・・一方で、西暦581年に建国された「隋王朝」は、“中国南北を統一”し、「文帝(※楊堅のこと)」と「煬帝(※楊広のこと)」の治世時、計4度の大規模な「高句麗遠征」を行なう・・・ものの、いずれも失敗に終わります。

      ・・・その後、隋王朝は、国内において反乱や謀反が起こり、西暦618年には「煬帝(※楊広のこと)」が殺害され、滅ぶこととなり・・・これによって、「唐」が建国されるのです。

      ・・・西暦627年、朝鮮半島の「新羅」は、「百濟」から攻められた際に、「唐」に援助を求めましたが・・・“この時の唐は、内戦(≒統一戦)の最中にあり、新羅を援助することは出来ませんでした”・・・が、“この時の高句麗と百濟が、唐に敵対した”ためとして・・・「唐」は、“新羅を冊封国(さくほうこく)として支援する情勢となった”のです。

      ・・・翌年の西暦628年、「唐」が“中国統一”を果たして・・・「唐王朝」を成立させました。


      ※ 西暦629年正月4日:「舒明(じょめい)天皇」が「即位」する。「諱(いみな:実名のこと)」は、「田村(たむら)」。但し、まだ「天皇号」を使用した時期ではなく・・・「和風諡号」は、「息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)」。・・・“聖徳太子(厩戸皇子)や、推古天皇が亡くなった後の倭国(ヤマト王権)の中枢”で・・・“この田村皇子と山背大兄王(やましろのおおえのおう)が、それぞれ次期天皇に名乗りを挙げる気配となり、二派に分かれて、政争となった後の出来事”です。・・・

      ※ 同年4月内:「舒明天皇」が、「田部連(たべのむらじ)」を「掖玖(やく)」へ「派遣」する。・・・「掖玖」とは、縄文杉で有名な屋久島(やくしま)と、そこに暮らしていた人々のこと。


      ※ 西暦630年正月12日:「舒明天皇」が、「寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ:※宝皇女とも)」を「皇后」に立てる。・・・この寶女王や宝皇女と表記される女性が、後に皇極(こうぎょく)天皇や斉明(さいめい)天皇と呼ばれる・・・推古天皇以来、二人目の女帝となります。

      ※ 同年3月1日:「高句麗」と「百濟」が、「倭国(ヤマト王権)」に対して、それぞれ「使人」を遣わし、「朝貢」する。・・・この年も、倭国(ヤマト王権)との関係が悪化していた新羅からの使人はありませんでした。西暦598年頃より、新羅との公式な国交は途絶えていた模様です。・・・それは、倭国(ヤマト王権)が、西暦600年2月当たりの推古天皇期から、旧任那地方をルーツとする人々や、そこの土地、既得権益などを守ることなどを口実として、新羅の行動に関連して朝鮮半島情勢に介入していたからです。

      ※ 同年8月5日:「舒明天皇」が、「遣唐使」を送る。「大使」は「犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)」、「副使」は「薬師恵日(くすしのえにち)」。【(第1次)遣唐使(≒朝貢団)】

      ※ 同年9月内:前年4月に「掖玖」に「派遣」されていた「田部連」が「帰任」する。

      ※ 同年10月12日:「舒明天皇」が、「飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや:現奈良県高市郡明日香村岡)」に遷る。
・・・ちなみに、飛鳥岡本宮と名付けられたのは、文字通り飛鳥の岡のふもとだったから。


      西暦631年2月内:前年9月頃までの、“交渉の成果”があったのか? “掖玖の人々”が「倭国(ヤマト王権)」に「帰属」する。

      ※ 同年3月1日:「百濟」の「義慈王(ぎじおう)」が、「倭国(ヤマト王権)」に対して、王子「豊璋(ほうしょう)」を「人質」として送る。

      ※ 同年9月内:「舒明天皇」が、「有馬温湯(ありまのゆ)」に「行幸」する。
・・・有名な有馬温泉のことです。摂津(せっつの)國・・・つまりは、現在の兵庫県神戸市北区有馬町。

      ※ 同年12月内:「舒明天皇」が、「飛鳥岡本宮」に帰る。


      ※ 西暦632年8月内:「唐王朝」が、使者「高表仁(こうひょうじん)」を「倭国(ヤマト王権)」に「派遣」するとともに・・・“(第1次)遣唐使(≒朝貢団)の犬上御田鍬らと、先の第3次遣隋使(≒朝貢団)として既に入唐して僧となっていた旻(みん)”を、“帰国の途”に就かせる。
・・・僧となった旻の、出家前の俗名は・・・新漢人日文(いまきのあやひとにちもん)。

      ※ 同年10月4日:「唐王朝」の使者「高表仁」と、「犬上御田鍬」らが、「難波津(なにわのつ)」に「到着」する。


      ※ 西暦633年正月26日:「唐王朝」の使者「高表仁」が、“帰国の途”に就く。・・・“この際に、吉士雄麻呂(きしのおまろ)が、対馬まで高表仁を見送りに出向いた”とされる。・・・しかし、『旧唐書(くとうじょ)』によると・・・「與王子爭禮 不宣朝命而還」・・・《訳》「(日本の)王子と、礼について争うこととなり、唐王朝(=皇帝)の意向を倭国(ヤマト王権)へ伝えないまま、帰国した。」・・・とされております。
・・・この『旧唐書』の記述を、そのまま信じれば、唐王朝と倭国(ヤマト王権)との外交儀礼上、何らかの不手際があって、使者の高表仁が・・・『お話にならん!!!』と感じた風でもありますが・・・高表仁は、約3カ月間も倭国(ヤマト王権)に滞在していた訳でして、ここでは禮(=礼)のことで、爭(=争)いとなったとはされているものの・・・常識的には、やはり・・・何らかの外交交渉が決裂したと捉えるべきなのでしょう。
      ・・・しかし、当時を考えれば・・・特に、倭国(ヤマト王権)からすると・・・唐王朝は、前の隋王朝に取って代わったばかりであり・・・云わば、相手を見定めることが、何よりの先決事項であったため・・・舒明天皇自らが謁見するのではなく、とりあえず皇子、すなわち高表仁が云うところの王子を、舒明天皇の代理としたという可能性は考えられます。・・・すると、隋王朝を滅ぼして、自信満々且つ意気揚々の唐王朝としてみれば・・・外交儀礼上、どうしても受け入れ難い対面となる筈であり、結果として爭(=争)いとなったとしても不思議ではありません。・・・しかし、こう考えると、代理人に立てられたという皇子は、いったい誰だったのか? ということになりますが・・・当時の中大兄皇子(※後の天智天皇)では、いくらなんでも年齢的に幼すぎるので・・・結局は、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)当たりの人? ということになるのでしょうか?

      ※ 同年内:「舒明天皇」が、“物部兄麻呂(もののべのえまろ)を、武蔵國造(むさしのくにのみやつこ)に任じた”とされる。(※『聖徳太子伝暦』より)


      ※ 西暦634年正月15日:「舒明天皇」が、“豊浦寺(とゆらのてら)において、塔の心柱(しんばしら)を建てた”とされる。(※『聖徳太子伝暦』より)
・・・豊浦寺は、現在の奈良県高市郡明日香村豊浦にありました。当時は、桜井道場(さくらいどうじょう)とか桜井寺(さくらいでら)とも呼ばれる日本最古の尼寺(あまでら)でだったそうです。・・・ちなみに、日本において、初めて女性出家僧が出現したのは、西暦584年のこととされ・・・まずは渡来系帰化人の娘3人が、得度(とくど)して尼(あま、に)となったようです。彼女ら3人の出家前の俗名は、それぞれ・・・司馬達等(しばだっと、しばたちと、しばのたちと、しめたちと)の娘とされる島(しま:※当時11歳、元興寺縁起には年17とあり)・・・漢人夜菩(あやひとのやぼ)の娘とされる豊女(とよめ)・・・錦織壺(にしごりのつぼ)の娘とされる石女(いしめ)であり・・・出家後の法名は、それぞれ・・・善信尼(ぜんしんのあま、ぜんしんに)、禪藏尼(ぜんぞうのあま、ぜんぞうに)、恵善尼(えぜんのあま、えぜんに)と云いました。
      ・・・現代の我々からすれば、あまりにも若い頃に出家しているようにも思えますが、何せ平均寿命が短かった古代のこととなりますし・・・自分の娘達の出家を許した(≒させた)親達にしてみても、仏教などを通じて、倭国(ヤマト王権)での暮らしに道筋を立てるとともに、当時や将来の繁栄などを願うといった狙いがあった筈であり、現代人がとやかく云うべき事柄では無いようにも想います。・・・それに、舒明天皇にしてみても、単に渡来系帰化人の願いだけのために、豊浦寺に塔の心柱を建てた訳では無く・・・仏教を、更に広めることなどによって、渡来系帰化人達が持っていた先進的な文化や思想などを、全般的に吸収し、現実の統治や政治に活かそうとした筈ですから。・・・法名を善信尼とした島の父親である司馬達等などは、あの司馬氏の一族だったと考えられ・・・当時の倭国(ヤマト王権)からしてみれば、今に云う世界的にも著名な知識人の一族が、或る意味で政治亡命に近い格好で、安住の地を求めて、日本列島まで遥々海を渡って来てくれたのですから。
      ・・・これも当然に考えられることですが・・・推古天皇や厩戸皇子(※後の聖徳太子)の頃当たりから、倭国(ヤマト王権)は、古代中国において、仏教だけではなく、各分野に精通した知識人達や、先進技術を持った人々を、高待遇を以って、その一族ごと招いていたのではないでしょうか? 今に云う、スカウトやヘッドハントです。・・・司馬達等や、漢人夜菩、錦織壺にすれば、豊浦寺が倭国(ヤマト王権)における、云わば氏寺となる訳ですし、一方の・・・旧来の日本列島人からすれば、先進技術とともに渡来した人々の先祖達のために、各所にお社を建てることにより、外来の神や、その地域を拓いた祖先神として敬って、お祀りまでしてしまうという、寛容性に富んだ国民性を持っておりましたから。・・・ホント、日本って大昔から、おもてなしの国なんですね。
      ・・・それでも、古代は古代ですから、現実的には・・・本ページの下記において、少しばかりふれておりますが・・・奴隷民階級と云うか、奴隷制度的なものも、厳然としてありましたので・・・いわゆる悪さをしたり、地域や國に対して損失を与えた場合などは、その人及びその家族や子孫達までも、奴隷民とされて・・・人身売買の対象とされたり、使役を課せられたり、様々な制限を定められたりと、シビアな状況となる訳です。・・・現代社会からすると、トンデモナイ事ですが、時代は古代のことですので。・・・ちなみに、この古代の奴隷制度的なものが、公式に否定されるのは、後の平安時代前期頃となります。

      ※ 同年8月内:「倭国(ヤマト王権)」で、“長き星が南方”に見える。これを、皆は、「彗星(ほうきぼし)」と呼んだ。


      ※ 西暦635年正月内:「倭国(ヤマト王権)」で、“彗星が東”に見える。
・・・うーむ、何でしょう? 前年8月に続く記述です。・・・自然科学的に云う、本当の彗星だったのか?・・・或いは、宇宙空間、特に太陽系の、火星と木星の間にある小惑星帯(=アステロイドベルト)から飛来し、地球の引力によって大気圏に突入した小惑星の欠片(かけら)、つまりは隕石の落下を物語っているのでしょうか?・・・正直判りません・・・が、わざわざ古代の日本列島人が書き遺している訳ですから、その真意を掴みたいところですね。・・・

      ※ 同年6月内:「百濟」が、「倭国(ヤマト王権)」に対して、「達率(たつそつ:※百濟の官職名で二品官のこと)」の「柔(ぬ、にゅう、じゅう)」らを遣わして、「朝貢」する。


      ※ 西暦636年正月内:「倭国(ヤマト王権)」で、「日蝕(=日食)」があった。

      ※ 同年3月内:「倭国(ヤマト王権)内」で、“采女(うねめ)に対して乱暴を働いた者”が「懲罰」される。“この時、三輪君小鷦鷯(みわのきみのおささぎ)が、嫌疑を懸けられたことを苦にして”・・・「自死」してしまう。
・・・「采女」とは、天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行なう女官のことであり・・・詳しくは後述致しますが・・・“地方の有力豪族の出身者が多かった”とされています。

      ※ 同年5月内:「倭国(ヤマト王権)」で、「長雨」が続く。その後にも、「旱魃(かんばつ:=干ばつ)」や「飢饉(ききん)」が起きる。

      ※ 同年6月内:「飛鳥岡本宮」が「火災」に遭って、「舒明天皇」が「田中宮(たなかのみや:現奈良県橿原市田中町)」に遷る。
・・・この年の記述では・・・特に、日食や三輪君小鷦鷯の怨霊による祟(たた)りとされる長雨や、旱魃、飢饉、宮の火災など全般に亘って、不吉な兆しのオンパレード状態だったと表現しているか? のようです。


      ※ 西暦637年2月内:「倭国(ヤマト王権)」おいて、東から西へと流れる「大星」が現れ、同時に「雷」に似た「音」有り。時の人曰く「流星の音、亦(また)は地の雷」と。是に於いて、僧「旻」や僧が曰く「流星に非ず。是は天狗なり。其れが吠える聲(こえ)は雷に似れり」と。翌3月には「日蝕(=日食)」あり。・・・ここにある大星とは・・・おそらくは、地球に落下して来て、大気圏内で燃え尽きなかった、やや大きめの隕石のことでしょう。・・・当時の倭国(ヤマト王権)の人々にすれば、その流れゆく方角が・・・東 ⇒ 西 であり・・・没落や死を意味する不吉な兆しの極め付けとして、目に映っていたと考えられます。・・・そのためなのか? この時の現象のことを、僧の旻らは天狗(あまつきつね、てんぐ)が吠える聲と認識していたことが分かります。・・・そして、その翌月には、日食ありと。

      ※ 同年内:「舒明天皇」が・・・“蝦夷が入朝を拒否して反乱を起こしたため”として・・・「上毛野君形名(かみつけののきみかたな)」を「将軍」として、“これ”を討たせる。・・・「蝦夷」とは、古代日本の歴代中央政権から見て、日本列島の東方(※現在の関東地方や東北地方など)や、北方(※現在の北海道地方)に住み、なかなか倭国(ヤマト王権)の統治システムに属さなかった人々のことです。・・・この反乱鎮圧の際には、元祖・内助の功と云うか・・・女武者的なエピソードが記述されております。・・・それは・・・当初、上毛野君形名率いる鎮圧軍が、蝦夷の者達に包囲されてしまい、為す術(すべ)を見失い掛けた時に、上毛野君形名の妻が・・・『上毛野の先祖は、海を渡って戦功を上げたのに、この様(さま)では、後世の笑い者になってしまう!』と・・・上毛野君形名の妻自らが、夫の剣と弓を取って、自身に装着し、大いに弓弦を鳴らしながら、味方兵士達の士気を奮い立たせたところ、蝦夷の者達を退かせることが出来たと。
      ・・・“上毛野の先祖”とは、『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇53年5月条によると・・・古代の竹葉瀬(たかはせ)という人物のことでありまして・・・彼は、新羅が倭国(ヤマト王権)に朝貢しないことを問責するために、朝鮮半島へ派遣されることとなり、その途上において吉兆とされる白鹿を獲たため、仁徳天皇に献上した後に新羅へと向かい、戦功を上げたと記されています。また・・・彼の弟は、その後のことになりますが、再び新羅と戦うこととなった上毛野田道(かみつけののたみち)だったと云います。・・・いずれにしても、上毛野君形名の妻が、女武将的に記されていることが事実だったなら・・・倭国(ヤマト王権)の古代の女性達は、単なる巫女やシャーマンとされるだけではなく、時として男性よりも強い力を発揮したのかも知れません。・・・古代中国の思想や制度などを、採用し始める以前の古代日本が、母系社会や女系社会だったことを物語るエピソードだと想います。


      ※ 西暦638年内:“百濟、新羅、任那”が皆、「倭国(ヤマト王権)」に対して、それぞれ「朝貢」する。また、“福亮(ふくりょう)僧正(そうじょう)が、法起寺(ほうきじ、ほっきじ:現奈良県生駒郡斑鳩町岡本)に、金堂を建立(こんりゅう)した”とされる。(※『法起寺塔露盤銘』より)・・・百濟が単独で朝貢して来るということは納得出来ます・・・が、新羅、任那とされているのは、どういうことなのでしょうか?・・・おそらくは・・・この頃、既に朝鮮半島では、百濟と新羅の両国間における勢力争いや国取り合戦などの小競合い的紛争が常態化していたと考えられるので・・・ここでは、これより以前の倭国(ヤマト王権)側が、その了承に基づき、新羅に対して旧任那地方の一部を割譲していた特定の地域についてを、新羅や任那とし・・・“たとえ、それが一時的に奪還した百濟側の成果だったとしても、朝貢関係にあった倭国(ヤマト王権)への外交上の配慮によって、百濟側が旧新羅と旧任那についての徴収権を代行し、倭国(ヤマト王権)に届けに来た”・・・という、かたちを敢えて採ったのではないでしょうか?
      ・・・もっと簡単に考えれば、倭国(ヤマト王権)としても、巨大帝国・唐王朝の存在があったため、因縁浅からぬ新羅とも、一定の外交関係を保っておこうとする配慮だったかと。


      ※ 西暦639年7月内:「舒明天皇」が、「詔(みことのり)」して、“百濟川(くだらがわ)辺りに、大宮と大寺”を、「造営」し始める。「大匠(おおたくみ)」には、「書直縣(ふみのあたい、ふみのあがた)」を「任命」する。・・・「百濟川」とは、奈良盆地中部を流れる曽我(そが)川の古称です。・・・また、この大宮及び大寺については・・・諸説あるのですが・・・現在の奈良県桜井市吉備辺りである可能性が高いとされ・・・「大匠」とは、今で云う現場の最高責任者や大工の棟梁のこと。・・・ちなみに、書(ふみ)氏の祖先は、應神(おうじん)天皇期に渡来したと記される漢人系、すなわち渡来帰化系氏族です。

      ※ 同年12月内:「舒明天皇」が、「伊予温湯(いよのゆ)」に「行幸」する。「百濟大寺(くだらのおおでら)」に、「九重塔」が建つと云う。・・・「伊予温湯」とは、伊予國(現愛媛県松山市)にある有名な道後温泉のことです。・・・「百濟大寺」とは、上記(※西暦639年7月内の条)中の大寺を示しており・・・やはり、現在の奈良県桜井市吉備の吉備池廃寺跡と考えられています。・・・そして・・・そこに、建っていた九重塔を含む大寺が、その創建から・・・あまり時を隔てずに・・・建物ごと、別の場所に移築した可能性を示唆しています。


      ※ 西暦640年4月内:「舒明天皇」が「伊予」から帰り、「厩坂宮(うまやさかのみや:現奈良県橿原市石川町付近)」に「滞在」する。

      ※ 同年5月内:「舒明天皇」が、“唐から倭国(ヤマト王権)に渡って来た僧・恵隠(えおん)”を、「導師」として、『無量寿経(むりょうじゅきょう:※大乗仏教の経典の一つ)』を「読踊(どくじゅ)」させる。
・・・「読踊」とは、いわゆるお経を、信仰し読み上げること。

      ※ 同年10月内:「唐」への学問僧「南淵請安(みなぶちのしょうあん)」と学生「高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)」が、「新羅」を経由し「帰国」する。また、「舒明天皇」が、「百濟宮(くだらのみや)」に遷る。・・・学問僧の南淵請安と学生の高向漢人玄理は、ピッカピカの学問僧や学生ではありませんでした。遡ること・・・約32年も前に・・・同じ立場で、当時の隋に渡り、且つ学んでいた超大ベテランの学問僧と学生です。・・・このことから察するに・・・東アジア情勢や各国の世相などを調べ上げて、国(ヤマト王権)が利する状況を創り上げるために・・・云わば、地均しのために、大陸へ渡っていたのではないでしょうか?・・・尚、百濟宮という表記もまた、上記の大宮を示していると考えられ、現在の奈良県桜井市吉備辺りとされています。


      ※ 西暦641年10月9日:「舒明天皇」が、「百濟宮」にて「崩御」する。
      ※ 同年10月18日:「宮」の「北」にて、「殯(もがり)」する。「中大兄皇子(※当時16歳、後の天智天皇)」が、「誄(しのびごと、るい)」を行なう。
・・・「殯」とは、古代日本で行なわれていた葬儀儀礼であり・・・説明すると、長文となりますが・・・死者を本葬するまでの長期間において、棺に遺体を仮安置し、死者との別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、且つ慰めて、死者の復活を願いつつも、遺体の腐敗や白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な死を受け容れることとされており・・・死者の棺を安置する場所を指すこともあります。尚、この殯の期間に、遺体を安置した建物を殯宮(もがりのみや:※『萬葉集』では、あらきのみや)と云います。・・・そして「誄」とは、死者の生前の功績を讃え、その死を悼むために、詩文や誄詞を詠むことです。偲び言の意からとされております。・・・ちなみに、この時の中大兄皇子には兄達がおりましたが、彼らを差し置いて、今に言う「弔辞」を述べた訳であります。・・・


      ※ 西暦642年正月15日:故「舒明天皇」の「皇后(※諱は寶女王、宝皇女)」が、「皇極天皇」となる。・・・皇極天皇は、日本史上2人目の女帝です。この時49歳・・・但し、まだ天皇号を使用した時期ではなく、「和風諡号」は、「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)」。・・・『日本書紀』によると、“皇極天皇は古(いにしえ)の道に従って、政(まつりごと)を行なった”とされます。・・・その在位中には、“蘇我蝦夷(そがのえみし)が大臣(おおおみ)として重用されることとなり、蝦夷の子であった入鹿(いるか)自らも国政を執った”とも。
      ※ 同年正月29日:“故舒明天皇により、百濟への使者として派遣されていた安曇比羅夫(あずみのひらふ)”が、「百濟」の「弔使(ちょうし)」を伴って「帰国」する。これにより、「皇極天皇」が、“百濟の弔使”から・・・“百濟情勢について”・・・を聞く。

      ※ 同年2月21日:「皇極天皇」が、“難波津に到着した高句麗の使人”から・・・高句麗情勢について”・・・を聞く。

      ※ 同年4月8日:「蘇我蝦夷」が、“追放された百濟王族・翹岐(ぎょうき)を、その従者と共”に、「倭国(ヤマト王権)」に呼び寄せる。この際には、「安曇山背連比良夫(あずみのやましろのむらじひらふ)」が、“この翹岐”を、「自邸」に迎えて「安置」する。

      ※ 同年7月25日:「蘇我蝦夷」が、“雨乞いのため”として、『大乗経典』を「転読(てんどく)」させる・・・も、“微雨のみで、効果が無かった”ため、同年29日には、“これ”を止める。

      ※ 同年8月1日:“皇極天皇自らが、天に雨乞いを祈る”・・・と、「雷」が鳴り、「大雨」が降る。・・・“この大雨は5日間続いた”と。
・・・これによって、水不足が解消され、天下の民が喜んだとされますが・・・いずれにしても、“皇極天皇がシャーマン的な力を発揮したよう”に、記述されております。・・・しかし・・・これは、上記(※同年7月25日の条)中の蘇我蝦夷が、後に暗殺され(≒失脚し)たための潤色と考えられますので、相当割り引いて読んだほうが良さそうです。

      ※ 同年9月3日:「皇極天皇」が、“百濟大寺の建立と、船舶の建造”を命じる。・・・おそらく、この百濟大寺の建立というのは・・・“夫だった故舒明天皇が完成を見届けられなかった事業を、妻の皇極天皇が正式に継承し、後の政策の正当性を持たせる”という意味があったかと。・・・そして、ここにある船舶とは、当然に百濟式の船のことであり・・・まるで、後の百濟復興戦を想定していたか? のような記述となっています。
      ※ 同年9月19日:「皇極天皇」が、「小墾田宮(おはりだのみや)」に、“宮室を造ること”を命じて・・・同年12月21日に、この「小墾田宮」へ「遷幸」する。・・・この小墾田宮とは・・・西暦603年に日本史上初めての女帝として豊浦宮(とゆらのみや)で即位した推古天皇が、当時の新宮として小墾田宮を造営しながら、聖徳太子(厩戸皇子)や蘇我氏一族らと共に数々の重要施策を行なった権力の中心的な宮だったという・・・つまりは、故地と目されていたため・・・おそらくは・・・この時の皇極天皇としては、故地にあやかって、自らの政治的な求心力の強化を図る狙いもあったかと、想います。・・・ちなみに、小墾田宮の所在は、これまで、現在の奈良県高市郡明日香村豊浦字古宮を、その推定地としていました・・・が、近年の発掘調査により、奈良県明日香村雷周辺にあった可能性が高いと考えられております。
      ・・・そうなると、これまで小墾田宮の推定地とされていた明日香村豊浦字古宮土壇において、発掘されていた遺構は、いったい何だったのか? ということになりますが・・・地理的にも、豊浦宮に隣接し、出土したという瓦も、豊浦寺の瓦に共通することなどから・・・最近では、蘇我氏の邸宅跡と考えられるようになっています。

      ※ 同年内:「蘇我蝦夷」が、“自らの祖廟(おやのみたまや)を、葛城高宮(かつらぎのたかみや)の地に建てて、八つらの舞を行なった”と云う。また、“この際の蘇我蝦夷は、多くの民を使役して、子である入鹿の墓までも造らせた”と。そして、“上宮(かみつみや:※山背大兄王のこと)の娘である大娘姫王(いらつめのみこ)が、これらを知って憤慨した”とされる。・・・「八つらの舞」の「つら」の字は、人偏に「八」と「月」と書きます。この「八つらの舞」とは、祝賀の舞のことです。・・・また「葛城高宮」とは、現在の奈良県御所市極楽寺付近であると考えられております。・・・蘇我蝦夷自らが、宮と表現していたことからも分かりますが、当時の蘇我氏の専横ぶりを、意図的に強調して表現しているようですね。


      ・・・この西暦642年頃から、朝鮮半島の「百濟」が、本格的に「新羅侵攻」を繰り返します。
      ・・・すると、“中国統一を果たして巨大帝国となっていた唐王朝”が・・・“先の王朝である隋王朝同様”に・・・「高句麗出兵」を画策し始めます。



      ※ 西暦643年2月内:「倭国(ヤマト王権)」の「地方」において、“巫覡(ふげき)達が、それぞれ木綿垂や紙垂を取り付けた枝を持ち、蝦夷が通る橋などに待ち伏せて、神懸かり的なこと”を、言い競う。・・・「巫覡」とは、神を祀り、その神に仕え、その神意を世俗の人々に伝えることを、役割とした人を指します。・・・そして、女性の場合には「巫(ふ)」、男性の場合は「覡(げき)」や「祝(ほうり)」と云いました。神和(かんな)ぎの意とされます。・・・つまりは、後世で云うところの社家や神職、神官などの人々です。・・・これらを担った氏族を、敢えて絞り込むとすると、中臣氏や忌部氏(=後の斎部氏)などのことと想われます。

      ※ 同年4月28日:「皇極天皇」が、「飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや:現奈良県明日香村岡)」に「遷幸」する。・・・この時の皇極天皇は、50歳。・・・それにしても、皇極天皇が、故地である筈の小墾田宮に暮らしたのは、たったの4カ月。・・・このように飛鳥板蓋宮へ遷幸してしまって、いったい大丈夫?・・・とも、感じますが、これが大丈夫なんです。・・・皇極天皇は、そもそもとして小墾田宮を、飛鳥板蓋宮が完成するまでの、仮り宮として認識していたようなのです。飛鳥板蓋宮は、この文字通り、屋根部分を板材(※それも、豪華な分厚い板材)を用いて、これを葺いたと考えられているお宮ですので。・・・ちなみに、当時の一般的な屋根材は、檜皮(ひわだ)や草、茅(かや)、藁(わら)でしたので・・・おそらくは・・・檜(ひのき)の分厚い板材を豪華に使用したという飛鳥板蓋宮は、当時でも相当に珍しい建築物だったと想像出来ます。
      ・・・いずれにしても、大陸から伝来した最先端の様式とされる瓦葺きを採用したのは、当時は仏教寺院だけだったという印象を、この『日本書紀』の編纂者達は、我々読み手に対して、与えたいようでもあります。・・・このように感じてしまうのは、上記(※同年2月内)のこととして、巫覡達が、神懸かり的なことを、言い競うという内容を、わざわざ伝えているからです。しかも、巫覡達が言い競ったという根拠を示さずに。・・・つまりは、この『日本書紀』の編纂者達は・・・あくまでも、当時のこととしながらも、“皇極天皇の治世では、在来文化 Vs 伝来文化、すなわち 古神道 Vs 仏教 を背景とする文化的な摩擦が起こっており、この時期にシャーマン的な力を発揮していた皇極天皇でさえも、自らの新宮では、在来文化を踏襲する板蓋宮を採用したのである”・・・と、読ませたいのではないでしょうか?
      ・・・現実のこととして、瓦葺きの建築物は・・・当初から仏教寺院以外の建築物では、なかなか普及せず、平安時代以降の貴族邸宅として有名な寝殿造(しんでんづくり)でさえも、檜皮葺きであり・・・本格的に、瓦葺きが普及するのは、江戸時代以降のことなのです。・・・尚、この飛鳥板蓋宮は、そもそもとして、その造営について皇極天皇から命じられたのが、蘇我蝦夷であり・・・この後に起こる乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)では、皮肉にも蘇我蝦夷の子である入鹿が、この飛鳥板蓋宮で殺害されたり・・・更には、その後、皇極天皇自らが斉明天皇として、重祚(ちょうそ:※一度退位した君主が再び即位すること)したり・・・この飛鳥板蓋宮が火災に見舞われる・・・など、様々な出来事が起こります。・・・尚、飛鳥板蓋宮の近くには、蘇我入鹿の首塚などもあります。

      ※ 同年9月1日:「皇極天皇」が、故「舒明天皇」を「押坂陵(おしさかりょう)」に遷して「改葬」する。

      ※ 同年10月12日:「蘇我入鹿」が、“蘇我氏の血を引く古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を、皇極天皇の後継にしようと目論んだ”とされる。
・・・古人大兄皇子は、故舒明天皇の第一皇子。古人皇子や古人大市皇子、吉野太子とも呼称されます。母は、蘇我馬子(そがのうまこ)の娘であった蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)。娘は、倭姫王(やまとひめのおおきみ:※後に天智天皇の皇后となる)。・・・

      ※ 同年11月1日:“蘇我入鹿の側近だった巨勢徳多(こせのとこた、こせのとくだ)や、土師娑婆(はじのさば)ら”が、“山背大兄王一族”を攻める。
      ※ 同年11月11日:“山背大兄王一族”が、「斑鳩宮(いかるがのみや)」にて、“全員自害”する。
・・・これもまた、ミステリーです。・・・“この山背大兄王が、自害に追い込まれた”という事情にも諸説あります。・・・そもそも、この『日本書紀』には、その記述が無く・・・後世の『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』という厩戸皇子(※後の聖徳太子)に関する伝記にある話によれば・・まずは、“この山背大兄王が、厩戸皇子(※後の聖徳太子)の子だった”としているのです。・・・・・・この伝記は、現存する聖徳太子伝記としては最古のものとされており、現在は国宝とされています・・・が、その原本は? と云うと、残存はしてはおらず、唯一とされる写本が、江戸時代末期まで法隆寺(ほうりゅうじ)の秘蔵物として遺っていたため、天下の孤本とも云われます。内容は、主に仏教的な事績を記録していますが、一部についてが、どうしても『日本書紀』と異なる記録なのです。
      ・・・そして、この伝記の作者や成立年代ともに、不詳とされております・・・が、この写本の巻末に所有者であったと思われる高僧の名・・・相慶(そうけい、しょうけい:※法隆寺五師の一人とされる12世紀後半の人物)と、遺されていることから・・・編者については、法隆寺と所縁のある高僧であり・・・その内容から、主たる部分については、少なくとも、弘仁年間(西暦810年~824年)以降~917年(延喜17年)以前には成立し、西暦1050年(永承5年)までには、現在に伝わる体裁になったと考えられています。・・・また、『記紀』以前の古い史料が、基礎となっていることも思量されるため・・・これが、『記紀』を補完し得る信用度の高い古文書として、脚光を浴びるようになりました。
      ・・・いずれにしても、山背大兄王一族が、全員自害に追い込まれた背景は・・・当時の天皇が、長男への世襲に限らず、皇族達から次期天皇に相応しいとされる人物が選ばれていたため・・・天皇として推されるための判断基準としては、人格や年齢のほか、代々の天皇や諸侯との血縁関係などが、大きく影響していたと考えられ・・・これは、当時の天皇家の権力が、まだ絶対的なものではなく、あくまでも諸豪族を束ねる長(おさ)という立場だったことに起因しています。・・・また、推古天皇の後継者争いの際は、敏達(びだつ)天皇系(=田村皇子)と用明(ようめい)天皇系(=山背大兄王)との対立だったとも云われておりますし・・・この山背大兄王一族が全員自害という結末には、多数の皇族が関わっていたとも考えられるのです。・・・結局のところ、山背大兄王を疎んじる蘇我入鹿と、皇位継承において優位を画策する諸皇族の思惑が一致したために、起きた事件だったとも云えるかと。


      ※ 西暦644年正月元日:「皇極天皇」が、「中臣鎌子(なかとみのかまこ:※後の中臣鎌足、藤原鎌足)」を、「神祇伯(じんぎはく)」に「任命」する。・・・そして、“中臣鎌子(※後の中臣鎌足、藤原鎌足)が、蘇我入鹿が専横することを憎み、政権を打倒するため、秘かに中大兄皇子(※後の天智天皇)を擁立しようと図った”とされる。・・・「神祇伯」とは、古代日本の律令官制における神祇官の長官のことです・・・が、まだ・・・この頃には、このような官職名があったという確証が無いので、おそらくは・・・後世における演出的な表現と読んだ方が無難であると想います。

      ※ 同年7月内:“駿河國(するがのくに)の不尽河(ふじがわ:※富士川のこと)の畔で、大生部多(おおうべのおお、おおうべのおおし)という人が、橘(たちばな)や犬山椒(いぬざんしょう)に付く蚕(かいこ)に似た虫(≒揚羽蝶などの幼虫)が常世神(とこよのかみ)である”と称し、それを祀れば、貧しい者は富み、老いた人は若返る”と「吹聴」する。・・・“そのため人々は、虫を台座に安置し、舞い踊っては家財を喜捨(きしゃ:※進んで金品を寄付や施捨すること)して崇め・・・往来では、馳走(ちそう)を振る舞い、歌い踊っては、恍惚(こうこつ:※=意識がはっきりしないさま)となり、富が訪れるのを待った”と。・・・やがて、“この騒動は、都のみならず周辺地方にも波及し、私財を投じて財産を失う者が続出”して「社会問題」となった。“渡来系豪族だった山城國葛野(やましろのくに・かどの:現京都府京都市内の旧葛野郷)の秦河勝(はたのかわかつ)は、この騒動を懸念して、鎮圧に当たり、騒乱を起こして民衆を惑わす者”として・・「大生部多」を「討伐」した。
      ・・・とされておりますが、実のところは、大生部多の生死については不明。・・・ちなみに、「大生部」とは、職業部の内の壬生部(※諸皇子の養育に携わる人々とその封民のこと)の一つですので、そもそも民を惑わすような、一種のカリスマ性があったのかも知れませんし・・・これもまた、倭国(ヤマト王権)が全体的にも不安定だったということなのでしょう。・・・そして、ここにある「秦河勝」とは、何を隠そう聖徳太子(厩戸皇子)の側近として活躍した人物であり、商才に長けた富裕な商人でもありました。・・・また、倭国(ヤマト王権)の財政にも、深く関わっていたとも云われ・・・一説には・・・その財力によって、平安京の造営や伊勢神宮の創建などにも関わっていたともされます。・・・そもそも、この秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して、倭国(ヤマト王権)に渡来した大氏族集団であり、そのルーツは、秦(しん)の始皇帝に遡れるとも。
      ・・・いずれにしても、この秦河勝は、秦氏の族長的な人物だったとされており・・・この秦河勝が没したのは・・・赤穂(あこう)の坂越(さこし)とされ・・・現在でも、そこで神域とされている生島(いきしま、いくしま:現兵庫県赤穂市坂越生島)には、秦河勝の墓があり・・・坂越湾(さこしわん)に面して、秦河勝を祭神とする大避神社(おおさけじんじゃ)が鎮座しています。・・・尚、この大避神社には・・・、その伝承によると・・・秦河勝が弓月國(ゆづきのくに?、ゆつきのくに?、クンユエ?)から持ち帰ったという胡王面(こおうのめん)があり、天使ケルビム(=智天使:※キリスト教やユダヤ教で、知識を司る天使のこと)とされる像が彫られていると云います。・・・この胡王面は、我が国で現存する最古の伎楽(ぎがく:※古代の日本で演じられた仮面舞踊劇のこと)の面として、伝えられており・・・これについては、胡(こ:※古代ペルシャ)の王という設定のため、高い冠を被っており、顔の彫りが深く、鼻が高い面相と云われています。
      ・・・更には、この神社の呼称である大避は、延喜式(えんぎしき:※平安時代中期に編纂された格式〈=律令の施行細則の一つ〉)以後のことであり・・・それ以前には、元々「大闢(だいびゃく)」とされていました。・・・景教(けいきょう:※古代キリスト教の教派の一つでネストリウス派とも云う)の研究者は・・・「中国では、ダビデを漢訳して大闢と書くが、大避神社は渡来民族である秦氏によって、古代の日本に齎(もたら)された景教を祀るために建立された礼拝堂であり、坂越が古代ペルシャ人、或いは古代ユダヤ人の渡来地」・・・と述べているのです。・・・尚、この大避神社には、キリスト教で重要視される「12」という数字に纏(まつ)わる事象が多くあります。・・・このことは、秦河勝がイエス・キリストと同じように、12人の弟子(≒使徒)を伴っていたことに由来すると云われ・・・神社拝殿の天井絵柄の枚数(※12×8枚)、拝殿へ向う階段の段数、境内のヤスライ井戸の石柱数、船渡御(ふなとぎょ)における祭礼船の数、櫂伝馬船(かいでんません)の漕ぎ手の人数、神社を祀る社家の総数は、全て「12」なのだそうです。
      ・・・更に、祭りの日程が旧暦の9月12日であったり、神社への初穂料(はつほりょう:※神前結婚や七五三や地鎮祭、お宮参り、安産祈願、厄払いなど神道の祈祷や祭祀の時に神社に渡す謝礼のこと)も、昔は12銅だったが、現在では12の倍数になっているとのこと。

      ※ 同年11月内:「蘇我入鹿」が、“父・蝦夷の邸宅”を「宮門」と呼び・・・“自邸”を「谷宮門(やきゅうもん?)」と呼び・・・“自分の子らのこと”も、「王子」と呼んだ。“邸宅の周囲”には、「城柵」を設けて、“武器を持たせた力士(ちからひと、すまいひと)を配置した”と。・・・と、ここに現代の大相撲のルーツの一つと考えられる力士という表記が。・・・これは、この『日本書紀』のみならず、同時期に編纂されたと考えられている『古事記』垂仁天皇紀にも、力士の表記があるとか。・・・いずれにしても、大昔の力士は、武器を持たされていたんですね。現代風に云えば警備員さんや守衛さんのような仕事内容だったのでしょうが、後世で云うところの侍(さむらい)や武士(ぶし、もののふ)のルーツでもあります。・・・ということは・・・蘇我蝦夷や蘇我入鹿の邸宅は、城柵をも備えた、まさに城とも呼べる機能を持った建造物だった可能性が高いですね。
      ・・・蘇我氏は、仏教を積極的に採り入れ、これとともにやって来る様々な技術も、ハイピッチで吸収した筈であり・・・結果としても、天皇を凌ぐほどの富も蓄えて、しかも蘇我氏出身の女性達を時の大王(おおきみ:※後の天皇)に嫁がせて、皇位継承権を持つ皇族達を輩出していた訳ですから。・・・当時の人々が、蘇我氏の邸宅を見れば、まさに最先端の、城のような仏教寺院として認識したのではないでしょうか? ・・・皇極天皇は、自らの宮、すなわち飛鳥板蓋宮において、在来の文化を重要視し、結果として伝統建築を踏襲していたのにもかかわらず。・・・もしかすると、蘇我氏の邸宅は、瓦葺きの屋根だったかも知れません。

      ・・・この西暦644年には、「唐王朝」が、「第1次高句麗出兵」を「実行」しています。


      ※ 西暦645年6月8日:「中大兄皇子(※後の天智天皇)」が、「蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)」に対して・・・“蘇我入鹿暗殺計画を告げた”・・・とされる。・・・この蘇我倉山田石川麻呂ですが・・・蘇我馬子の子であった蘇我倉麻呂(そがのくらまろ)の子であって、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟に当たります。・・・その兄弟には、日向(ひむか)や赤兄(あかえ)、連子(むらじこ)、果安(はたやす)がおり・・・そして、この時、既に・・・蘇我倉山田石川麻呂の娘である遠智娘(おちのいらつめ)が、中大兄皇子(※後の天智天皇)へ嫁いでおり・・・この後にも、遠智娘の妹の姪娘(めいのいらつめ)が、同じ様に嫁ぐこととなるのですが・・・
      ※ 同年6月12日:“倭国(ヤマト王権)内”で、「乙巳の変」が起こる。・・・そもそもとして・・・“三韓(※高句麗、百濟、新羅のこと)から、進貢(※三國の調、つまりは三韓からの調)の使人が、倭国(ヤマト王権)に来訪した”とされます。・・・この三國の調(つき、ちょう)とは・・・大臣の蘇我入鹿が必ず出席する儀式であり・・・“実際に、飛鳥板蓋宮の大極殿(だいごくでん)で行なわれた”と考えられております。・・・一説には・・・“三韓の使人の来訪そのものが、蘇我入鹿を、おびき寄せるための偽装工作だった”ともされますが・・・とにもかくにも、中大兄皇子(※後の天智天皇)と中臣鎌足(※後の藤原鎌足)らが共謀して、蘇我入鹿を殺害したのです。・・・しかし・・・
      ※ 同年6月13日:“入鹿の父・蘇我蝦夷が、自邸に火を放って、多くの珍宝を道連れに、亡くなった”とされる。・・・そもそもとして、“三韓(※高句麗、百濟、新羅のこと)からの調とは、それらの地方から産出された特産物などを納めること”です。・・・ちなみに、この調(つき)には、接頭語としての「み(≒御?≒三?)」が“くっ付いて”、後に「みつぎ」と呼ばれるようになります・・・が、これは、さて置き・・・この時の火災において蘇我蝦夷が焼いてしまったという珍宝の中には、“かなり貴重な史料があった”とされています。・・・まずは、『天皇記(すめらみことのふみ、てんのうき)』です。
      ・・・これは、西暦620年(推古天皇28年)に聖徳太子(厩戸皇子)と蘇我馬子が編纂したとされる歴史書であり、『日本書紀』推古天皇紀620年の条によれば・・・「皇太子(※聖徳太子のこと)と嶋大臣(しまのおおおみ:※蘇我馬子のこと)は、臣(おみ)と連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、國造(くにのみやつこ)の百八十部と、公民らの本記(もとつふみ)を并(あわ)し、共に之(これ)を議(はか)りては、天皇記(すめらみことのふみ)及び國記(くにつふみ)を録(しる)す。」・・・これらが、事実とすれば、皇室の系譜を記述したものだったと推定されますし、未完であった可能性も高かったとも云われる歴史書なのでした。・・・また、これが『國記』とともに編纂されたという経緯(いきさつ)についても分かります。・・・しかし、この『國記』については・・・その編纂作業に加わっていたと考えられる船史惠尺(ふねのふびとえさか)という人物によって、この時の火災現場から取り出されて・・・しかも、これが中大兄皇子(※後の天智天皇)に献上されたことになっております・・・が、結局のところ・・・『天皇記』と『國記』ともに現存しておりません。
      ・・・もしも、ここにある記述が事実とすれば、『古事記』や、『日本書紀』よりも以前の書物ということになり、大変貴重な史料だったと考えられますが・・・『國記』の内容は? と云うと、倭国(ヤマト王権)の歴史を記した諸氏の系譜や、由来と事績などを記した歴史書であるとする説が有力です。・・・しかし、倭国(ヤマト王権)の風土や地理を記した地理書だったとする説もあるのです。・・・それでも・・・蘇我蝦夷がどうして、これらの書物を焼こうとしたのか? または、この時に救い出された貴重な『國記』を献上された中大兄皇子(※後の天智天皇)が、何故に、きちんと保全出来なかったのか?・・・やはり、編纂途中や改ざん途中であって、後世にそのままの内容では、都合が悪く遺せない事柄を含んでいたり、新たに編纂しようとする史料の基礎資料とするだけで事足りて、結果として用済みとされただけなのか?・・・そもそもとして、聖徳太子(厩戸皇子)や蘇我馬子など蘇我氏に繋がる血統が遺した実績の類いなど、後世に伝える意思もなく、完全否定したかったのか?・・・等々、想像出来てしまいますが・・・残念ながら、謎と云えます。
      ・・・但し、2005年11月13日に、『日本書紀』の記述を裏付ける蘇我入鹿の邸宅跡が発見されており、これによって今後の発掘次第では・・・もしかすると、『天皇記』や『國記』の一部が発見される可能性もあるとされていることを、念のため付け加えておきます。
      ※ 同年6月14日:「皇極天皇」が、“同母弟の軽(かる)皇子”に「天皇位」を譲る。“日本史上初となる、この譲位”によって、「孝德天皇」が「即位」する。・・・この「孝德天皇」によって、“姉の皇極”は、新たに「皇祖母尊(すめみおやのみこと)」の「称号」を奉られ・・・これと同時に、“甥の中大兄皇子(※後の天智天皇)”を「皇太子」と定める。・・・但し、まだ天皇号を使用した時期ではなく、孝德天皇の「和風諡号」は、「天萬豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)」。・・・実は、この天皇即位及び皇太子指名の際には、ひと騒動あったようでして・・・そもそも、皇極前天皇は、故舒明天皇との間の実子だった中大兄皇子(※後の天智天皇)へと譲位しようとしたのです・・・が、当の息子・中大兄皇子(※後の天智天皇)に拒絶されてしまいます。・・・すると、中大兄皇子(※後の天智天皇)の異母兄でもある、故舒明天皇の第一皇子だった古人大兄皇子が、次期天皇候補の一番手とされます・・・が、この時にも、事実上の拒絶や遠慮などがあったようでして・・・当の古人大兄皇子が、突然出家してしまったのです。
      ・・・そうなると、纏まるものも纏まらないといった状況が一時的に生まれ・・・「乙巳の変」の直後期の混乱状況に対する他無かった倭国(ヤマト王権)中枢としては・・・この事態を、至急的速やかに安定させたかった筈であり・・・当時、かろうじて纏まる可能性が高かった、“故舒明天皇の義弟である(孝德)天皇と、故舒明天皇の第二皇子である(中大兄)皇太子”を、決定するのでした。・・・ちなみに・・・古人大兄皇子が、故舒明天皇の第一皇子、すなわち大兄であり・・・「中大兄」とは、二番目の大兄(※次男のこと)を意味するニックネームのようなものです。本来の諱は、「葛城(かづらき、かつらぎ)」と云いました。・・・それにしても、中大兄皇子(※後の天智天皇)や中臣鎌足(※後の藤原鎌足)らの智謀の高さなどにも感嘆しますが・・・古人大兄皇子が、父・舒明天皇の崩御前後頃より懐いていた気持ちや、結果として出家しなければならなかった気持ち・・・また、この後に起きることや・・・そこまでやっても許容されなかった、当時の事情などを察するに・・・悲劇性というものを、感じざるを得ません。
      ※ 同年(※大化元年)6月19日:「孝德天皇」が、“日本史上初めて”となる「元号」を立てて、この年を「大化元年」とする。・・・但し、この元号「大化」は・・・残念ながら・・・日本列島各地の隅々までは・・・つまりは、全国的な規模では普及しなかった模様なのです。・・・少なくとも、“倭国(ヤマト王権)から徴税される側の地方豪族や地方役人などでは、大化という元号そのものが、あまり利用されていなかったよう”なのです。何でも・・・『日本書紀』には「大化」と記述されてはいるものの・・・実際に「大化」と記された木簡や、竹簡などの考古学的遺物の発見例が少なすぎるとか。・・・

      ※ 同年7月2日:「孝德天皇」が、「皇后(※間人皇女〈はしひとのひめみこ〉のこと)」と、“二人の妃”を立てる。
      ※ 同年7月10日:“高句麗、百濟、新羅の使人”が、「倭国(ヤマト王権)」に対して、それぞれ「朝貢」する。「孝德天皇」が、「任那」の「調(つき、ちょう)」を代行した「百濟」の「使人」に対して、“調の不足”を「叱責」する。
・・・当時の旧任那地方は、新羅の勢力下にあったものの、完全に制圧されていた訳でもなかったようです。・・・



      ・・・さて、ここで・・・“大化の改新後の古代日本”、すなわち“孝德天皇期頃”からの・・・「租(そ)・庸(よう)・調」などの制度について、出来るだけ詳しく説明しておきたいと思います。
      ・・・“新たな施政方針”を示した「改新の詔」の一つに・・・「罷旧賦役而行田之調」・・・と、ありまして、これが“租税の改定を示す条文”とされています。ここに示された「田之調」とは・・・“田地面積(≒耕作面積)に応じて賦課される租税”であり・・・後の「田租」の“前身に当たるもの”と考えられています。・・・この「田之調」は、“古代日本の租庸調制が、古代中国の制度を元(もと)としていながらも、当時の諸事情によって、結果的に日本風に改めて導入されたもの”と考えらております。
      ・・・「租」は、「國衙(こくが)」の「正倉(しょうそう)」に蓄えられて、「地方の財源」に充てられ・・・「庸」及び「調」は、当時の「宮地」、すなわち「都(=飛鳥地方)」へと運ばれて「中央の財源」とされました。
また、これら「庸」と「調」は、“当時の宮地へ、実際に運んでいたのは、荷物そのものを生産した農民自身(※運脚夫を兼務)であり、國司に引率されて運んだ”とされています。・・・しかも、“これに要する労力などは全て、運脚夫を兼務した農民らの自弁とされ、かなり大きな負担となっていた”ようです。・・・尚、“現物によって納められる税”は・・・通常、8月から徴収作業が始められ、“それぞれ”に「木簡(もっかん)」を付けてから・・・「郡衙(ぐんが:=郡家、郡庁)」・・・更には、「國衙(=國庁)」の「正倉(=倉庫)」に集積され・・・11月末には、「都」の「大蔵省(おおくらのつかさ)」に納められました。・・・「奈良時代」になると、原則として「荷車」や「船」を用いる輸送方法が、当時認められていなかったため、“在地の民の中”から、「運脚夫」が指名されて、「都」まで実際に担いで行きました。
      ・・・そのため、“荷を運ぶ往路では、食糧など全てが自弁とされていたために、実際に餓死者などが出ていた”とも云います。・・・そして、“これらの運脚夫達が歩いた道”が、「國府」と「都」とを、ほぼ直線で結ぶ「官道七道(かんどうしちどう:※驛路〈えきろ、うまやみち〉のこと)」だったと、されています。
      ・・・概ねのところ、このような“租・庸・調の制度だった”のです・・・が、“地震や土砂災害などの、いわゆる天変地異が発生した場合には、その地域は免税される”こともありました。実際に・・・西暦772年(宝亀3年)に「豊後國(ぶんごのくに)」で発生した山崩れの際(※『続日本紀(しょくにほんぎ)』巻32)や・・・西暦830年(天長7年)の「出羽國(でわのくに)」における地震(※『日本逸史(にほんいっし)』巻38)・・・西暦841年(承和8年)の「伊豆國(いずのくに)」」における地震(※『続日本後紀』巻10)・・・などでは、それぞれの災害に関する記述とともに、“租・庸・調の一部については、免除された”という記録があります。

      「租」は・・・「田一段当たり、二束(たば)二把(は、つかみ)」と定められ・・・これは、“当時の収穫高(≒総生産高)のおよそ3%~10%に相当”しました。・・・原則としては・・・“その年”の9月中旬から11月30日までに、結局は“時の朝廷”へと納入され・・・“災害時用などの備蓄米(※不動穀とも)を差し引いた、残り分が國衙の主要財源”に充てられました。しかし、収穫高(≒総生産高)は、“当然に気候や気象条件などに左右されるものであって、当時の歳入としては極めて不安定だった”ため・・・律令制施行後間もない頃には・・・これを「種籾(たねもみ)」として、“農民に貸し付けた出挙(すいこ:※古代日本における利子付き貸借のこと)から生み出される利子分を、主要財源とするように”なりました。・・・“時の朝廷側と在地農民ら間”における、このような「税法上の賃借システム」を、特に「官稲出挙(かんとうすいこ)」と呼びます。・・・“この官稲出挙の一部”は、「舂米(つきよね、つきしね:※臼で搗いて脱穀した米、つまりは白米のこと)」として、1月から8月30日までの間に、“時の都へと運上された”のです。
      ・・・そして、“戸(いえ)ごとに、五分以上の減収があった場合には、租が全免される”という規定(※賦役令水旱虫霜条と云います)や・・・“そこまでの大きな被害が無かった場合”でも、「半輸(はんゆ)」と呼ばれる“比例免除措置が適用される場合もありました”・・・が、これらと同時に・・・“当時の農業技術では、全免や比例免除の措置を避けること自体が、なかなか困難なこと”でもありました。・・・そこで、“一つの令制國内毎”、つまりは“一カ國毎に、予定されていた租の総計に対して、7割の租収入を確保すること”を目標とする「不三得七法(ふさんとくしちほう)」と呼ばれる規定が導入されたのです・・・が、これを達成することも、結局は困難だったため・・・西暦806年(大同元年)に、“旧例として原則化されるまで、しばしば数字上の変更が行なわれる”こととなります。・・・尚、“唐王朝の律令制”では、“丁男(ていなん:※21~59歳の男性のこと)の人数を基準”とした「丁租(ていそ)」であるのに対して・・・これらのように、“古代日本の律令制”では、“田の面積を基準”とする「田租(でんそ)」となっていました。
      ・・・そのため、“古代日本”における「租」は、“律令制施行以前の初穂儀礼に由来する”のではないか? とする説もあります。・・・いずれにしても、「租」は、“農耕地から生み出される収穫物に対する税に相当しており、現代における所得税の類いとも云える”かと。

      「庸」は・・・「正丁(しょうてい、せいてい、しょうちょう、せいちょう)」とされた“21歳~60歳の男性”と、「次丁(じてい、じちょう)」とされた“61歳以上の男性”に対して、賦課されました。元来は、“正丁及び次丁が、時の都へ上った後に、正丁は10日間、次丁は5日間の、土木事業に従事する労役義務(=歳役:さいえき)でした”が・・・次第に、“歳役の代納物として、布や綿、米、塩などが認められることとなり、これら代納物を時の都へ納入したもの”についても、「庸」と呼ぶようになります。そして、“特に庸を米で納める場合”には、「庸米(ようまい)」。“布で納める場合”は「庸布(ようふ)」と称したようです。・・・「庸米」は、“古代を通じて徴収され、一俵=二丁(≒人)分相当とされた”と考えられています。
      ・・・「庸布」は、“時代により、基準をその都度変更されます”が、“西暦717年(養老元年)には、四丈二尺(=一丁分の庸布+調布〈ちょうふ:※これについては、後述致します〉の長さ)を、一端”とし、“二丈八尺(=二丁分の庸布)を、一段と称する”ようになり・・・これら「端」と「段」は、後の「長さの単位」としても用いられるようになります。・・・尚、この「庸布」には、“納付した人物の國郡郷姓名についてを、両端に墨書きする規定が存在していた”とされていますので・・・“納付される側の人々からすれば、“各地の繊維製品の技術レベルを量ることが出来た”とも云えるのです・・・が、“前身”とされる「改新の詔」では、“一戸当たり庸布一丈二尺、或いは庸米五斗を徴収する”という規定があって、それが“律令制下でも引き継がれた”と考えられています。
      ・・・この「庸」は、「舎人(とねり)」などの「衛士」や、「采女(うねめ)」などための「食糧」・・・つまりは、“公共事業の雇役民への賃金”として用いられる財源とされました・・・が、当時の「宮」が置かれた「都」や、“畿内の國々、すなわち山城國(やましろのくに)や、大和國(やまとのくに)、河内國(かわちのくに)、和泉國(いずみのくに)、摂津國(せっつのくに)とされた令制五カ國及び飛騨國(ひだのくに)”に対しては、この「庸」は賦課されませんでした。・・・当時の「都」や“令制五カ國”が、「庸」を免除されていた理由は、おそらくは・・・“時の朝廷の政策方針として、各地方からやって来る大勢の労役者達を養ないつつ、これらの地域を更に発展させて都市化を進める必要があった”とともに・・・“この政策方針に反発する勢力を都の近郊地域に発生させないよう、極力努めていたことなど”が考えられます。
      ・・・しかし「飛騨國」については、“むしろ保有する豊富な森林資源を、宮などの造営に必要とされる原材を期待していたこととともに、それらを取扱う技術に長けた民の集団として、つまりは宮などを造営する技術者集団の匠丁(しょうてい、たくみのよほろ)として、期待していた”ことが分かります。“当時の飛騨國の民は、時の朝廷から、里毎に10人が一年交替で徴発され、後の平安時代頃には、総勢100名”とされていました。・・・いわゆる「飛騨工(ひだのたくみ)」です。この「匠丁」は、「木工寮(もくりょう)」や「修理職(しゅりしき、すりしき)」などに所属して、“工事関係全般を担う”こととなります。・・・・いずれにしても、「庸」は、“現代における人頭税の一種、例えるなら、住民税の類いと云える”かと。
      「調」は・・・“対外的な公式文書”としての性格を持つ『日本書紀』にも、数多く出てまいります。・・・“この調は、正丁、次丁とともに、令制下の年齢区分の一つでもある中男(ちゅうなん:※17歳以上20歳以下の男性のこと。・・・大宝令下では、少丁〈しょうてい〉と云います)に対しても、賦課されたもの”であり、「繊維製品での納入(=正調)」が基本となりますが、“これら繊維製品の代わり”に「地方特産品」として定められた「34品目」、或いは「貨幣(=調銭)による納入(=調雑物)」も認められていました。・・・このことは、“古代中国の制度との大きな違い”です。“古代日本の調は、時の都へと納入”され、朝廷の主要財源として、「官人」の給与などに充てられました。また、“当時の都”や「令制五カ國」では軽減され、「飛騨國」においては、この「調」は免税されていました。・・・この理由は、“前述の庸の場合と同様だった”と考えられます。
      ・・・「正調」は、“調の本質とも云えるもの”であり、「繊維製品」を以って納入されました。この「正調」を大別すると、「絹」で納入する「調絹(ちょうきぬ)」と、「布」で納入する「調布(ちょうふ)」がありました。・・・「絹」は、当時から“天皇など高貴な身分の人々が用いる最高級品”とされ・・・一般の「布」とは、別格とされていました。・・・したがって、「調布」は「麻」をはじめとして、「苧(う)」や「葛(くず)」などを原料とする“絹以外の繊維製品”を指しています。・・・“これら納められる反物(たんもの)の寸法相当”とされる「税負担」は、時代によっても異なりますが・・・特に、「美濃國(みののくに)」で織られた「絹織物」である「美濃ぎぬ」と、「上総國(かずさのくに)」で織られた「麻織物」である「望陀布(もうだのぬの)」は、“古くから上質”とされていました。・・・これらは、“時の朝廷において、東國に在した地方豪族の忠誠心を示す貢納品”としても評価され、「東國の調」と呼ばれて・・・実際の「宮中行事」や「祭祀」などに用いられました。
      ・・・このため、“調の制度上”も、「美濃ぎぬ」と「望陀布」に関しては、“特別な規定が設けられていた程”です。・・・尚、「調」には、「副(産)物」とも云える「調」に付属した税もありました。・・・“正丁のみ”が、「紙」や「漆」などの「工芸品」を納めることが出来たのです。・・・「調銭」は、「調(≒絹とそれ以外の布など)の物納」に替えて、“銭によって納税する制度”でした。・・・但し、“まだ、この頃は後世のようには貨幣経済が発展しなかった”ため・・・“この制度の目的は、銭貨流通や資金還流政策の一環だった”と考えられており・・・“大宝律令が施行された後に始められることとなる和同開珎(わどうかいちん)の鋳造後”に施行されました。・・・この“制定当時”は、“銭五文を、調布の長さ一丈三尺に相当するもの”と定められました・・・が、“実際には、貨幣価値の変動によって左右されていた”と云います。京畿地域では、後世の神亀年間~天平年間では、「正丁一人につき九文」とされていたとか。



      ※ 同西暦645年(大化元年)7月14日:「孝德天皇」が、「尾張(おわりの)國」と「美濃國」に対して・・・“神に供えるため”として・・・「幣」を課す。・・・

      ※ 同年8月5日:「孝德天皇」は、「東國(とうごく)」など「諸國」の「國司」を「任命」し、「戸籍(へのふみた、こせき)の作成」と「田畑の検校」などを命じる。また、「倭国(ヤマト王権)」に「鐘」を備えて、“訴訟の遅滞に抗議する者が撞(つ)けるように”する。「良民」と「奴婢(ぬひ)」の「子」の「別」を定める。・・・この頃の戸籍は、まだ律令制による人民把握のための戸籍ではなく・・・『日本書紀』によると、西暦540年(欽明〈きんめい〉天皇元年)8月の条には・・・「秦人(はたひと)、漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、國群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以って、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす。」・・・とあり、6世紀中頃には、まず渡来系の人々を、戸籍によって統制していたことが分かります。
      ・・・西暦569年(欽明天皇30年)春正月には、“詔について”・・・「吉備(きび)の白猪屯倉(しらいのみやけ)では、年齢が十歳あまりに達しているのに、籍に漏れているため、賦課を免ぜられている者が多かったため、膽津(いつ)を遣わして、田部の丁籍を検定させた。」・・・と、あります。・・・同年4月になると、“膽津は詔で述べられている通り”に・・・「良く丁(よほろ)を調査して籍を定め、田戸を編成したので、その功を褒めて白猪史(しらいのふひと)の姓(かばね)を賜い、田令(たづかい)に任じた。」・・・と、しています。・・・いずれにしても、「丁籍」では、“課役を負担する成年男子のみを記載”しました。・・・ここにある「田戸」とは・・・“田部を編成し、丁籍よりも正確な戸籍を造った”のか? という疑問も湧きますが・・・実は、“初めて籍を造っただけで、後には定期的な籍を作成することも無かったよう”であります。
      ・・・更には、西暦574年(敏達〈びだつ〉天皇3年)10月の条に・・・「大臣の蘇我馬子を吉備に遣わし、白猪屯倉と田部ともに増益して、その田部の名籍を、膽津に授けた。」・・・とあり、この時の「名籍」とは、“胆津が新しく造ったものであって、後の戸籍や計帳(けいちょう:※これについても後述致します)に近いもの”と、考えられています。・・・ちなみに、これらは・・・渡来系集団や屯倉(みやけ)の、田部などに関する造籍であり、全ての人民を対象とする律令制における戸籍とは異なります。・・・尚、この頃の戸籍は・・・“西暦647年(大化3年)から西暦664年(天智天皇3年)までの期間中に、飛鳥京で一括投棄された”と考えられる「木簡」の中に・・・「白髪部五十戸、(□)十口」・・・とあり、ここにある(□)部分については、「五」であると推定出来るため・・・結局のところ、“五十戸を単位として、行政的に把握する試みが進められていたこと”を示しているのです。そして、各地の村落を、行政的に把握するための統一的な造籍を可能とするには・・・次段階として、より体系的な法が必要とされるのでした。
      ※ 同年8月8日:「孝德天皇」が、“仏教への(布教のための)援助を約(束)”し・・・“僧・旻ら10人の僧”を選んで、「十師」とし・・・「仏教興隆」の「詔」をする。・・・「十師」とは、遣隋使(≒朝貢団)や、遣新羅使(≒朝貢団)などとして、若き日に、仏教を学び帰国した学問僧や、布教などのため倭国(ヤマト王権)へ亡命した高僧らが選ばれたのでしょう。

      ※ 同年9月1日:「孝德天皇」が、「使者」を遣わして、「諸國」の「武器」を治めさせる。・・・おそらくは、倭国(ヤマト王権)領域内の統制のためでしょう。・・・後世で云うところの、刀狩り的な?
      ※ 同年9月3日:「古人大兄皇子」が、“謀反を企んだ”とされる。・・・出家までしていたのに・・・。
      ※ 同年9月12日:「中大兄皇子(※後の天智天皇)」が、“古人大兄皇子を討った”とされる。(※但し、同年11月30日や同年11月内とする説もあり)
      ※ 同年9月19日:「孝德天皇」が、「土地」の「貸借」を「禁止」する。
・・・土地の貸借は、倭国(ヤマト王権)にとって、租税上の効果に深く関わってまいりますので。

      ※ 同年12月9日:「孝德天皇」が、「宮」を「難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)」の「地」へと、遷す。・・・この難波長柄豊碕は、内裏(だいり)や朝堂院(ちょうどういん)などの新機能を持つ建築群と云われ、それまで見られなかった程、大規模で・・・しかも日本史上初と云える本格的な宮殿建築でした。・・・これは、過去の遣隋使(≒朝貢団)や遣唐使(≒朝貢団)などにより、蓄積された様々な分野の技術情報などを、建築的に導入した成果とも云えます。・・・尚、“この頃から、飛鳥地方の豪族を中心とする政治から、天皇を中心とする政治へと移り変わった”とされております。・・・ここの推定地は、摂津國難波(現大阪府大阪市中央区の難波宮跡公園付近)。


      ※ 西暦646年(大化2年)正月元日:「孝德天皇」が、「改新之詔(かいしんのみことのり)」を宣す。・・・有名な「大化の改新」のことです。様々な国内法制を定めております。・・・ここでは、詳細については、割愛させて頂きますが・・・
      ① 各地の「部曲(かきべ)」、「田荘(たどころ)」を停止する。
      ② 「京師(みさと)」を制定。「畿内」を、東は「名張横河」、南は「紀伊兄山」、西は「明石の櫛淵」、北は「近江の逢坂山」までとする。
      ③ 「戸籍」、「計帳」、「班田収受之法(はんでんしゅうじゅのほう)」を定める。「五十戸」を「里」とし、「里長」を置く。「田」の「長さ」は三十歩(ぶ)、「幅」は十二歩を「一段」とし、「十段」を「一町(ちょう)」とする。「一段」からの「租」は、「稲二束二把(は、つかみ)」、「一町」では「稲二十二束」とする。
      ④ 「調の制」、「官馬の制」、「兵の制」、「采女の制」を立てる。

      ・・・③の「戸籍」に関しては、“五十戸を一単位として、行政的に把握する試みが進められたこと”が分かります。・・・同じく③にある「計帳」とは、“課役を徴収するため、毎年作成される基本台帳”であり・・・“戸籍と同じく後の律令時代の人口(=人頭)を知ることの出来る史料”でもあります。そこには、“人口や、性別、年齢、一人一人の身体的特徴まで”が、里長(=郷長)により書き上げられており・・・國毎に纏(まと)められる・・・と、“調や庸、雑徭(ぞうよう)、軍役など課役賦課のための基本台帳”とされました。・・・「雑徭」とは、“前述の歳役とは異なるものであり、國司によって人民に課せられた労役義務のこと”です。・・・現代で云うところの地方税。“正丁の場合は一年に60日間、次丁については30日間、中男については15日間を、それぞれの上限”として、土木工事などに従事しました。・・・したがって、課役される民にしてみれば、時の都へ行く事なく地元地方において労役を済ませれば良いため、前述の歳役と比べれば、その拘束期間の上限日数が多いと感じられた筈・・・と想います。
      ・・・いずれにしても、“この計帳の作成”には、三段階がありまして、次の三種類の文書から成ります。・・・その一つ目を「手実(しゅじつ)」、二つ目を「歴名(れきみょう)」、三つ目を「目録(もくろく)」と云いました。
      一つ目の「手実」とは・・・“戸主が作成し、毎年6月末日までに、京職(きょうしき:※京の司法や行政、警察を司った行政機関のこと)や國司へ提出する申告書”であり・・・“戸主以下全戸口の姓名、年齢、続柄を書き上げた文書”でした。・・・当時の識字層を考えると、“郡司や里長が、この手実作成を代行する場合も多かっただろう”と推測されています。
      ・・・「官司は、“上記の手実”に基づいて、「歴名」と「目録」を作成します。
      二つ目の「歴名」とは・・・“各戸における手実の内容についてを、一里(五十戸)分に列挙して、一巻の帳簿に纏めたもの”です。“各戸毎に、負担すべき調及び庸が記録”され・・・おそらくは、里全体の調及び庸をも記録して、前年との戸口の異同が詳細に示されていた点(=比較出来た点)が、いわゆる戸籍とは違っていたのではないか? と考えられています。
      三つ目の「目録」は・・・“具体的な戸についてを記載しない、数字だけの統計文書”です。“一國及び各郡の戸数や口数が、課役負担の有無を基準として、詳細に集計されていて、前年度との異同や、その年の調及び庸が示されたもの”でした。・・・“後の飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)によれば、毎年8月末日までに、都へ進上するべく義務付けられたという計帳”は、この「目録」を指しており・・・「都」では、“これによって、毎年の歳入予定を知る”でとともに・・・“全国の口数、特には課口数を掌握していた”でのです。・・・ちなみに、二つ目(※上記)の歴名の作成や、京都進上の規定は、飛鳥浄御原令に具体的に定められていた訳ではありませんでした。


      ※ 同西暦646年(大化2年)正月内:「孝德天皇」が、「子代離宮(こしろのかりのみや)」に「行幸」する。また、「諸國」に対して「兵庫の地」を「修営」させる。・・・子代離宮は、当初の小郡宮(こごおりのみや)で、本来の宮ではありません。云わば、“孝德天皇の仮住まいですが、難波狹屋部邑(なにわのさやべのむら)にあった”とする説あり。・・・いずれにしても、“難波地方だった”と考えられます。

      ※ 同年2月15日:「孝德天皇」は、“民の投書を受けるため”として、「櫃(ひつ)」を設ける。・・・おそらくは、“当時の民事訴訟や、税負担軽減のお願いなどを目的としていた”とは考えられます・・・が、後世の江戸時代における目安箱(めやすばこ)的なものだったのでしょうか?
      ※ 同年2月22日:「孝德天皇」が、「子代離宮」から帰る。「高句麗」、「百濟」、「任那」、「新羅」の「使い」が、「倭国(ヤマト王権)」に対して、それぞれ「調賦(つきふ、ちょうふ)」を貢ぐ。・・・調賦となっているので・・・おそらくは、“弩(ど)などのほかにも、金属製の武器類も含まれていた”と考えられます。軍事力などの強化を図っていた訳ですね。

      ※ 同年3月2日:「孝德天皇」が、「東國」の「國司」を、「訓戒」する「詔」を発す。・・・何のための訓戒だったのか? については、次の条で分かります。
      ※ 同年3月19日:「孝德天皇」が、「東國」の「朝集使(ちょうしゅうし)」に対して、「國司」の「失政」を咎(とが)め、「訓戒」する「詔」を発す。・・・「朝集使」とは、律令制施行後の古代日本において、大宰府や諸国から考課(※勤務評定のこと)に必要な資料などの行政文書の提出や、行政報告のため、都へ毎年派遣された使者のことですが・・・この時点ではまだ、律令制が発布されておりません。したがって、朝集使という名詞に惑わされぬように。・・・ここは、あくまでも・・・“後の朝集使のような役割を課せられた役人が、東國から都へ派遣され、倭国(ヤマト王権)へ考課についてを報告した際に、孝德天皇がその内容を知ることとなって、結果として東國を担当していた國司が叱られた”・・・と読むべし。
      ※ 同年3月20日:「中大兄皇子(※後の天智天皇)」が、“自ら”の「入部(いりふ?)」と「屯倉(みやけ)」を、「孝德天皇」に献じる。「孝德天皇」は、“各地で私有されていた屯倉の百八十一カ所”を「停止」して、「公有」とする。・・・(孝德)天皇の政治的な求心力と経済力、これらに伴なう倭国(ヤマト王権)の中央集権化を、実質的に強化した訳です。
      ※ 同年3月22日:「倭国(ヤマト王権)」が、「王臣」と「庶民」の「墓制」を定めて、「殉死」を「禁止」する。“祓(はらい)に纏わる諸々の愚俗について”も、禁じる。“上京途中”における「馬の飼育請負」を、「登録」させ、「不正」を禁じる。「市司」と「要路の渡守」に、「田地」を与え、「渡し賃の徴収」を止めさせる。・・・後半部分は、馬を複数頭乗り継いでいた古代の連絡システムや、川の渡しについての話ですね。・・・“それら要所要所における不正徴収を禁じることとした”・・・それだけ、愚俗や不正が横行し、大化の改新の効果を期待しながらも、矢継ぎ早に細々とした掟を発布しているため、“発展段階の当初期にあった”とも云えるのでしょう。

      ※ 同年8月14日:「孝德天皇」が、「品部(しなべ、ともべ)」を「廃止」し・・・“旧職”を廃して「百官」を設け、“官位を叙する方針”を「詔」する。・・・孝德天皇は、従前からの倭国(ヤマト王権)内組織に対する大行政改革に着手した訳です。・・・ちなみに、「品部」とは、大化の改新以前から倭国(ヤマト王権)に直属していた部民(※職業部や名代など)のことであり・・・これに属していたのは、その多くが、渡来系のご先祖を持つ人々でした。

      ※ 同年9月内:「孝德天皇」が、「高向漢人玄理」を「新羅」に遣わして、“人質を要求する”とともに、「任那」からの「調」を「停止」させる。また、「蝦蟇行宮(かわづのかりみや)」に行く。・・・任那地方の民は、倭国(ヤマト王権)と新羅から二重朝貢を強いられていたのでしょう。当時の倭国(ヤマト王権)としても、任那地方は貴重な既得権益そのものでした。・・・そのため、新羅に対し外圧を掛けた訳ですね。・・・蝦蟇行宮も、当初の小郡宮で、本来の宮ではなく・・・“孝德天皇の仮住まいであり、子代離宮と同様に、難波地方にあった”と考えられています。


      ※ 西暦647年(大化3年)正月26日:「高句麗」と「新羅」の「使い」が、「倭国(ヤマト王権)」に対して、それぞれ「調賦」を貢ぐ。

      ※ 同年4月26日:「孝德天皇」が、“皇子、群臣、百姓ら”に対して・・・“庸調(ようちょう)」を与える旨”・・・を「詔」する。
・・・今に云うところの、税の再分配的な?、後世の江戸時代で云うところのお国替え(=転封)的な?・・・ちなみに、「百姓」とは・・・いわゆるお百姓さん(=農民層)のことでは無く・・・読んで字の如く、様々な姓(かばね)を持った・・・つまりは、様々なルーツやバックボーンを持った人々という意味です。・・・ですから、ここには、地方豪族や渡来系帰化人集団なども含まれる訳です。・・・この後の記述にも、幾度となく登場しますので、ご注意を。

      ※ 同年10月11日:「孝德天皇」が、「有馬温湯」に「行幸」する。

      ※ 同年12月30日:「孝德天皇」が、「武庫行宮(むこのかりみや)」に行く。
・・・この武庫行宮は、現在の兵庫県西宮市山口町の公智神社(くちじんじゃ、こうちじんじゃ)とされています。

      ※ 同年内:「孝德天皇」が、「小郡」を壊して「宮」を造り、「七色十三階の冠」と「出仕時の礼法」を定める。そして、「荒田井比羅夫(あらたいのひらふ)」が誤って、「溝」を掘って「難波」へ引いてしまい、“工事がやり直しになったことを諌める者があった”ので、「即日中止」させる。また、「渟足柵(ぬたりのき、ぬたりのさく)」を造り、「柵戸(さくこ、きのへ、きべ)」を置く。・・・小郡宮は、子代離宮や蝦蟇行宮のことであり、難波長柄豊碕宮造営のための建築資材として再利用されたのでしょう。エコです。・・・それにしても、“荒田井比羅夫が指揮した土木事業が、結果として間違ってしまった”という興味深い話ですね。・・・この荒田井比羅夫は、倭漢比羅夫(やまとのあたいのひらふ)とも云い、漢人系の渡来氏族出身者と見られています。・・・そして、おそらくは・・・この土木事業に動員された工夫(こうふ)達は、当時としては高度な土木技術を多く日本列島に持ち込んだとされる百濟人などの渡来系氏族集団や、任那地方から帰国した倭国(ヤマト王権)の人々だったのでしょう。
      ・・・間違い工事の原因は・・・きっと、荒田井比羅夫と、これに動員された工夫(こうふ)達との、コミュニケーション不足、すなわち多言語間で生じる誤解だったと想われます。・・・そもそもとして、荒田井比羅夫の官位は、大山位であり、後の冠位十九階の中でも十一位か、十二位程度のものであり、決して高い官位だったとは云えません。・・・ここにもあるように・・・荒田井比羅夫は、当時の国家的土木事業において、その指揮を執りますが、結果として大失態を演じてしまうこととなりましたが、後の西暦650年には、宮の造営を統括する役所の長官と推察出来る「将作大匠」の地位にありますので、信頼回復のためであったのか? については分かりませんが、大失態後も荒田井比羅夫が相当に努力し続けていたことは、良く分かります。・・・いずれにしても、天皇を中心として立案された政策運営に携わる存在が、旧来の大豪族から官人達へと移行し始めていた時期に・・・この荒田井比羅夫は、まさしく実務官人としての人生を歩んでいたのです。
      ・・・このエピソードは・・・孝德天皇や中大兄皇子(※後の天智天皇)が目指していた律令国家に、試行錯誤を繰り返しながらも、移り変わろうとする古代日本そのものの姿とも重なることだと想います。・・・「渟足柵」とは、“越國(こしのくに:※高志國とも)にあった”とされる古代城柵です。中世では、「沼垂城(ぬたり)」とも呼ばれます。詳細は不明ですが、現在の新潟県新潟市東区にあったと考えられています。・・・尚、「柵戸」とは、7世紀から8世紀に掛けて、“城柵を維持するために、その中や周辺に置かれた人々”を云います。彼らは、現代の関東地方や北陸地方、信濃國(しなののくに)、東北地方、九州地方などの辺境域に設置された城柵へ移住しました。そして、自らが土地を開墾して暮らしながら、城柵の造営や修理に当たり、戦時の際には城柵の防衛に当たっていたのです。
      同年内:「新羅」が、「倭国(ヤマト王権)」へ「金春秋(こんしゅんじゅう:※後の武烈王)」を遣わすとともに、「遣新羅使」の「高向漢人玄理」らを送る。・・・“この時の貢献物”は、「孔雀(くじゃく)」と「鸚鵡(おうむ)」を、“それぞれ一羽ずつ”。“金春秋は、事実上の人質として、倭国(ヤマト王権)に留まる”ことになります。


      ※ 西暦648年(大化4年)2月1日:「孝德天皇」が、“三韓”へ「学問僧」を遣わす。・・・孝德天皇、ご熱心。しかも、留学先は唐王朝ではありませんでした。それでいて、留学したという僧の名も記述されていません。・・・三韓へ向けられた学問僧達の真の目的は、仏教を通じた東アジア情勢の調査や、三韓との外交交渉、そして、唐王朝に頼ることなく東アジアのなかにおける優勢を目指し・・・むしろ、これを模索するための布石であり、且つ得られた情報や習得した技術を、国内の内政分野や軍事力を含む国力整備の起爆剤とするため、この『日本書紀』に、いちいち各人名を記述出来ない程の人数を派遣した可能性もありますね。

      ※ 同年4月1日:「倭国(ヤマト王権)」が、「古い冠」を廃す。・・・但し、“左右の大臣は、尚も古い冠を被っていた”とされる。・・・?これは・・・“従前の慣習や伝統についてを、全否定する訳ではないですよ!! でも新体制なんだから、概ね一新してしまうけどね!”・・・ということなんでしょうか?

      ※ 同年内:「新羅」が、「倭国(ヤマト王権)」に対して、「使い」を遣わし、「調」を貢ぐ。「倭国(ヤマト王権)」では、「磐舟柵(いわふねのき、いわふねさく)」を治めて、「蝦夷」に備え、“越と信濃の民”を選んで、初めて「柵戸」を置く。・・・「磐舟柵」とは、現在の新潟県村上市岩船周辺に置かれたとされる古代城柵です。これは、「石船柵」とも表記され、8世紀初め頃までありました。正確な場所については、不明とされます・・・が、“新潟方面や長野方面より、屈強な男達が兵士として選抜され、軍役に就かせた”との記述。・・・唐王朝や朝鮮半島諸国、すなわち三韓のうちの〇〇〇対策のためとは、記述出来なかったので・・・蝦夷、すなわち、あくまでも日本列島内事情による対策として、軍事的な動員を図り、いわゆる武威を示したのではないでしょうか?・・・つまりは、中長期的且つ軍事的なデモンストレーションや予行演習の類いだった可能性も?・・・いずれにしても、“舟柵は、海より敵が迫るという前提で造られたもの”と考えられますので。
      ・・・本当に、当時の蝦夷や、その他の諸勢力が攻めて来るという切迫状況があったのか?、甚だ疑問です。・・・もしかすると、下記の朝鮮半島情勢が思いのほか早い時期で、倭国(ヤマト王権)の中枢の人達に伝わっていたのでしょうか?・・・これらについては良くは分かりませんが・・・信濃の民については・・・当時の倭国(ヤマト王権)が、兵力としてだけでは無く、信濃にある豊富な森林資源を、船や柵の原材料、彼らが持つ技術をも、期待していたことは、薄々と伝わって来ますね。

      ・・・西暦648年頃から、唐王朝が「百濟への侵攻」も画策し始めます。・・・これは・・・少なくとも、西暦643年9月頃には、唐王朝が“百濟の国内情勢について”を・・・「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(※『冊付元亀』より)・・・として、“防衛上の不備や、人心の不統一が生じていて、総じて乱れているという情報を、“既に入手していたから”です。

      ・・・しかし、“これらの朝鮮半島情勢について”は、「倭国(ヤマト王権)」にも伝わり・・・“大化の改新の最中にあった倭国(ヤマト王権)内においても、唐王朝に対する警戒感が、更に高まる”ことになります。


      ※ 西暦649年(大化5年)2月内:「孝德天皇」が、「冠位十九階」を「制定」する。「高向漢人玄理」と「釈僧(しゃくそう)・旻」に命じて、「八省百官」を置く。
・・・冠位制度については、この頃、試行錯誤していた模様ですね。・・・「八省百官」とは、律令制における官制機構と、その全体を指す言葉でありまして・・・「八省」とは、中務 (なかつかさ) 、式部(しきぶ)、治部(じぶ)、民部(みんぶ)(※以上は左大弁〈さだいべん〉の所管)、兵部(ひょうぶ)、刑部 (ぎょうぶ) 、大蔵(おおくら)、宮内(くない)(※これらは右大弁〈うだいべん〉の所管)であって、これら八つの省の総称。・・・「百官」とは、官(かん、つかさ)、省(しょう、せい)、職(しき、しょく、つかさ)、寮(りょう、つかさ)、司(し、す、つかさ)及び台(だい、うてな)、府(ふ、みやこ、くら)、使(し、つか、せし)の諸官司・・・または、その官人の総称です。

      ※ 同年3月17日:“阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が死亡したため”・・・「孝德天皇」が、「朱雀門(すざくもん:※宮城において南面する正門のこと。宮城の12の門のうち最も重要な門)」に出でて、「哀哭(あいこく:※声をあげて悲しみ泣くこと)」し、嘆く。・・・ここにある阿倍倉梯麻呂は、“大化の改新を推し進めた”という左大臣(さだいじん)・阿倍内麻呂(あべのうちまろ)と、同一視されている人物です。孝德天皇にとっては、まさしく片腕とも云える人物だったのでしょう。
      ※ 同年3月24日:「蘇我日向(そがのひむか)」が、「皇太子・中大兄皇子(※後の天智天皇)」に対して、“異母兄の蘇我倉山田石川麻呂を讒言(ざんげん)する”・・・と、「孝德天皇」が、「軍兵」を起こし・・・「蘇我倉山田石川麻呂」が逃げ去る。・・・ここにある蘇我倉山田石川麻呂は、「乙巳の変」に関係しており、大化の改新直後には、右大臣(うだいじん)に任命された重臣であり・・・当時の蘇我氏としては、棟梁的且つ長老的な人物です。・・・たった7日前に、左大臣の阿倍内麻呂が亡くなったばかりのことですので・・・これも、古代日本の政治力学というものなのでしょうか?・・・まるで○・○○事件のようなことが起きたか? のようですね。
      ※ 同年3月25日:「蘇我倉山田石川麻呂」が、「山田寺(やまだでら:※奈良県桜井市山田にあった古代寺院のこと)」において、「自害」する。・・・・・・
      ※ 同年3月26日:“孝德天皇に派遣された追討軍”が、「蘇我倉山田石川麻呂」の「首級」を落とし・・・“この事件に連座した者のうち23人が、斬首または自死となり、15人が流罪”とされ・・・“そもそも讒言したとされ、倉山田石川麻呂の異母弟でもあった蘇我日向”が、「筑紫」の「大宰帥(だざいのそち、だざいのそつ)」となる。・・・「大宰帥」とは、大宰府の長官のこと。・・・蘇我日向の行動による結果の評価について、左遷と観るか? 栄転と観るか?・・・後者のほうが圧倒的に多いですね。

      ※ 同年4月20日:「孝德天皇」が、「巨勢徳多(こせのとこた、こせのとこだ)」を「左大臣」に、「大伴長徳(おおとものながとこ)」を「右大臣」とする。・・・これらの人事で以って、それまで倭国(ヤマト王権)中枢内で栄華を誇っていた蘇我氏宗家の影響力を減じることが出来たということなのでしょうか? 或いは・・・この後間もなくの頃にも遣新羅使が派遣されておりますので・・・右大臣・蘇我倉山田石川麻呂を自害に追い遣ったという根本理由に・・・孝德天皇や中大兄皇子(※後の天智天皇)などとの・・・新羅に対する外交政策、軍事介入方針、仏教優遇政策・・・などにおいて、かなり大きな食い違いがあったと考えるのは、想像に難くありませんね。

      ※ 同年5月1日:「孝德天皇」が、「三輪色夫(みわのしこふ)」と「掃部角麻呂(かにもりのつぬまろ)」を、「新羅」に遣わす。・・・

      ※ 同年内:“新羅の善徳女王(ぜんとくじょうおう:※生年西暦632年~没年647年、新羅初の女王)”が・・・“王族の金春秋(※後の太宗武烈王)に代わる人質として”・・・「金多遂(きんたすい)」を、「倭国(ヤマト王権)」へ「派遣」する。・・・“この時の従者”は、37人。


      ※ 西暦650年(大化6年)正月元日:「孝德天皇」が、「味経宮(あじふのみや)」に行き「賀正礼」を行なうと、“その日のうち”に帰る。
・・・味経宮については、“現在の大阪府摂津市別府(べふ)にある味府神社(あじふじんじゃ)”を、その伝承地とする説がある一方・・・“同府大阪市内の上町台地上だった”とする説もあるようです。

      ※ 同年2月9日:“穴戸(あなと:=穴門)の國司だった草壁醜経(くさかべのしこぶ)”が、「孝德天皇」に対して、「白き雉(きじ)」を献じる。・・・「穴門」とは、海峡(※この場合は関門海峡のこと)のことを指しており・・・日本神話にも、穴戸神の名が見えますが・・・“この頃”に、穴門國造(あなとのくにのみやつこ)の領域と、阿武國造(あむのくにのみやつこ)の領域をあわせて、穴戸國(あなとのくに)が設置されることとなって・・・更に、この後の西暦665年(天智天皇4年)には、“長門(ながとの)國へと改称した”とされております。
      ※ 同年(※白雉元年)2月15日:「孝德天皇」が、“白雉(しろきじ)を観る儀式を行なう”・・・と、「大赦」し、また「白雉(はくち)」と「改元」するとともに・・・“穴戸國に対しては、鷹を放つことを禁じ、同国の調についてを、三年間免除”する。・・・尚、『日本書紀』では、儀式の様子を詳細に記述しておりまして・・・「左右大臣と百官人らが四列を紫門の外に爲した。」・・・と云い、主催者の孝德天皇や、皇太子の中大兄皇子(※後の天智天皇)、左大臣の巨勢徳多、右大臣の大伴長徳の他にも、粟田臣飯蟲(あわたのおみのいいむし)や、百濟の王子である豊璋(ほうしょう)、其の弟である塞城(さいじょう)及び忠勝(ちゅうしょう)、高句麗の侍医である毛治(もうじ)、新羅の侍學士らと、三國公麻呂(みくにのきみのまろ)、猪名公高見(いなのきみのたかみ)、三輪君甕穗(みわのきみのみかほ)、紀臣乎麻呂岐太(きのおみのおまろきだ)、伊勢王(いせのおおきみ)、倉臣小屎(くらのおみのおくそ)などの出席者の名が見られ・・・結局のところ、“盛大なイベントだった”と語られております。
      ・・・ちなみに、『論衡(ろんこう)』と云う、古代中国の後漢時代における王充(おうじゅう:※西暦27年生~1世紀末頃没)が著した全30巻85篇から成る思想書にも、これらに関連する記述がありますが・・・古来より、この白雉は特別な霊力を持ち、且つ吉兆を示す鳥とされておりました。・・・故に、孝德天皇は・・・これらの白雉を保護するため、天敵の鷹を放つ(=鷹狩りをする)ことを禁じて、税を三年間について免除した訳です。

      ※ 同年(白雉元年)4月内:「新羅」が、「倭国(ヤマト王権)」に対して、「使い」を遣わして「調」を貢ぐ。

      ※ 同年10月内:「倭国(ヤマト王権)」が、“宮地(※宮の建設地を指します)とするために墓を壊されたり家を遷されたりした人”へ、「物」を与えるとともに、「荒田井比羅夫」に「宮の堺」の「標(しるべ)」を建てさせる。
・・・?墓を壊されたり家を遷されたりした人って?・・・いわゆる古墳群や住居を、強制的に取り潰されてしまった中央豪族傘下の人々?・・・いずれにしても、宮建設のために土地が強制収用された事業を物語っており・・・これより約3年前、土木事業で大失態をしでかしてしまった荒田井比羅夫、地道に頑張っています。・・・もしかすると、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)当たりに、その実務者能力を買われていたのかも知れませんね。

      ※ 同年内:「山口大口(やまぐちのおおぐち)」が「詔」を受けて、「千仏像」を刻む。「孝德天皇」が、「安芸國(あきのくに)」に「百濟舶(くだらぶね)二隻」を造らせる。・・・「山口大口」とは、山口大口費(やまぐちのおおぐちあたいとか、漢山口直大口(あやのやまぐちのあたいおおぐち)などとも呼ばれる飛鳥時代の仏師です。・・・やはり伝承によると・・・應神天皇期に、後漢の霊帝(れいてい)の曾孫である阿知使主(あちのおみ)が率いて、“古代日本へ帰化した東漢(やまとのあや)の一族だった”と。・・・後世の奈良時代のこととなりますが、有名な公卿、そして武人ともされる坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)が、自身の先祖として、“その阿知使主のこと”を述べていたと云います。つまりは、自分は山口大口の子孫であると。・・・「百濟舶」とは、文字通りの、当時の先進技術が詰まった百濟式の船のことです。・・・尚これも、当然のこととして・・・安芸國には、この先進技術を持ち込んだ百濟系の人々などの技術者集団が暮らしていたのでしょう。


      ※ 西暦651年(白雉2年)3月15日:「孝德天皇」の同母姉「皇祖母尊(※皇極前天皇のこと)」が、“十師達”を呼び寄せて「設斎(せっさい)」する。・・・「設斎」とは、仏僧が法要の読経などを終えた後に、関係者や来賓など一同に対して食事の膳を振る舞うことです。・・・この時の皇祖母尊(※皇極前天皇のこと)は、夫だった故舒明天皇のためだけに、関係者や十師達を設斎したのでしょうか?・・・この『日本書紀』には、この時に同席していた関係者や来賓などについて、また誰のための法要だったのか? について、一切記述しておりません。・・・しかし、こうして記述しない理由を推察すれば・・・法要の対象とされる故人が2名以上の複数、そして近親者であることは確実であり、それは・・・故舒明天皇と・・・?・・・?

      ※ 同年6月内:「百濟」と「新羅」が、「倭国(ヤマト王権)」に対して、それぞれ「使い」を遣わして、「調」と「貢ぎ物」を献じる。

      ※ 同年12月30日:「孝德天皇」が、「大郡(おおごおり)」から、新しい「宮」へと遷り・・・そこを、「難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)」と名付ける。また、二千百人余りの「僧尼」に『一切経(いっさいきょう)』を「読踊」させる。
・・・西暦645年(大化元年)12月9日にも、同じ趣旨とも採れる記述があるので・・・要するに、“宮の規模が、小郡から大郡へと、だんだんと拡張された後に・・・本格的な宮殿としての難波長柄豊碕宮が、ほぼ出来上がったため、新しい宮へと遷った”と云うことなのでしょう。・・・『一切経』とは、釈迦(しゃか)の教説に関わる経、律、論の三蔵と、その他の注釈書を含む経典の総称のことであり、『大蔵経(だいぞうきょう)』とも。
      ※ 同年内:「倭国(ヤマト王権)」が、“新羅の貢調使・知萬(ちまん?)らが唐服(※唐王朝の官制による制服のこと)を着て、筑紫に着いたため、その変更について”を、咎(とが)めて・・・これら貢調使達を追い返す・・・と、「左大臣・巨勢徳多」が、「中大兄皇子(※後の天智天皇)」に対して、「新羅征討」を「進言」する・・・も、結果として、“この進言”は「不採用」となる。・・・新羅による倭国(ヤマト王権)への貢調使派遣については、倭国(ヤマト王権)側では・・・新羅は相手国の仕来りを無視するのか!? いったい、どうゆうことだ? 或いは、我が国よりも、唐を宗主国に選んだのか!?・・・という筋道(すじみち)の問題となってしまいました。・・・知萬さん達、ちょっと軽率だったかも?・・・というか、これは狙い通りですか!?・・・いずれにしても、この年に、左大臣・巨勢徳多による新羅征討進言が採用されなかった理由としては・・・おそらくは、倭国(ヤマト王権)の国力面(≒戦争継続能力)などにおいて、時期尚早とされたのでしょう。
      ・・・倭国(ヤマト王権)国内は、大化の改新の真っ最中でしたし、いくら巨勢徳多が短期決着を目論んで戦争に突入してみても・・・大昔とは違って、渡海後の戦いとしなければ、得られる筈の領土拡張や権益獲得も、ままならない状況となる訳であり・・・中大兄皇子(※後の天智天皇)としては、その当たりを冷静に分析していたのかと。それに・・・もしも、この時に、大きなリスクを承知の上で、新羅との交戦に踏み切っていたなら・・・当時、国力不足で盤石と云えなかった国内の社会状況では、これに乗じた反対勢力が、幾つも出現する可能性もあったかと。


      ※ 西暦652年(白雉3年)正月元日:「孝德天皇」が、「元日礼」を終えてから、「大郡宮(おおごおりのみや)」に行く。・・・難波長柄豊碕宮への移転準備(≒引越し)のため、大郡宮へ行った(=一旦戻った)と、考えて良いのではないでしょうか?
      ※ 同年(正月~3月内?):「倭国(ヤマト王権)」が、「班田(はんでん)事業」を、“概ね完了”させる。・・・西暦646年から始まられていた班田収受之法による事業についてです。・・・「班田」とは、古代日本における農地(=田)の支給や、収容に関する法体系のことであり・・・後の同年4月にほぼ完成された戸籍や計帳に基づいて、まずは、倭国(ヤマト王権)から受田資格を得た豪族や民へ、田が班給(はんきゅう)されます・・・が、死亡者があった場合には、それらの田については、倭国(ヤマト王権)に収められることとなり、公(おおやけ)のものとなるのです。・・・このように、班給された田そのものが、まさに課税対象とされ、その収穫物から租(そ)が徴収されました。・・・これは、“当時の中国で行なわれていた均田制(きんでんせい)の影響のもとに施行された”と考えられております。

      ※ 同年3月内:「孝德天皇」が、「難波宮(なにわのみや)」に帰る。・・・難波宮=難波長柄豊碕宮のことです。・・・政務や移転準備(≒引越し)のため、約3カ月弱を要したということでしょうね。

      ※ 同年4月15日:「孝德天皇」が、「僧・恵隠」を「内裏(だいり)」に呼んで『無量寿経』を講じさせるとともに・・・「沙門(しゃもん、さもん)・恵資(えし)」を「論議者」とした後に、“沙門千人”を「作聴衆(さくちょうしゅう)」とする。・・・「沙門」とは、出家して、修行に専念する人のこと、つまりは求道者のこと。・・・また、“この頃から”・・・「内裏」という表現が出てまいりますので・・・建築的に云えば、“天皇が居住する宮≒政(まつ)りごとや祀(まつ)りごとを主にする場所である”と認識されるような・・・本格的な宮殿が完成していたという裏付けになるとも想います。
      ※ 同年4月20日:「僧・恵隠」が、『無量寿経』を講じ終える。
      ※ 同年4月内:「倭国(ヤマト王権)」が、「戸籍事業」を、“概ね完了”させる。また、「百濟」と「新羅」が、「倭国(ヤマト王権)」に対して、それぞれ「使い」を遣わして「調」と「貢ぎ物」を献じる。
・・・西暦646年から始まられていた戸籍事業のことですが・・・後の西暦652年には、追加事項があったようです。・・・“その時の追加事項”とは・・・それまでは、五十戸につき一人の里長を定めていましたが・・・“里長の下部組織に、新たに五戸に一人の長(≒五戸組の長)を置き、その五戸組の長同士が、互いに検察し合うものとされた”とのこと。・・・いずれにしても、統一的な造籍及び行政的に村落把握を成し遂げるには、更に体系的な法が必要となります。・・・ちなみに、古代日本の戸籍制度は・・・主なものに、庚午年籍(こうごねんじゃく)や庚寅年籍(こういんねんじゃく)が挙げられますが・・・『正倉院文書』には、古代の戸籍の一部が現存しています。これが、日本最古の現存戸籍とされておりまして・・・“西暦702年(大宝2年)のもの”とのことであり、当時の家族形態などを、具体的に知ることが出来るそうです。
      ・・・そして、当時の紙が大変貴重なものだったため、なかなか廃棄されずに、他の官司や官寺などに回されて、その裏面を再利用するのが一般的だったようです。(※これを紙背文書〈しはいもんじょ〉と云います)・・・尚、東大寺に保管された『正倉院文書』の中には、“こうした戸籍を再利用されたもの”が含まれており・・・正倉院の宝物そのものとは別の意味で、多くの貴重な情報を齎(もたら)しています。・・・また近年、漆紙文書(うるしがみもんじょ)が、秋田城跡や多賀城跡、下野國府(しもつけのこくふ)跡など、各地方の城柵遺跡や官衙から出土し・・・他にも、戸籍木簡(こせきもっかん)が、周防(すおうの)國府などでも出土しており、赤外線による解読作業が行なわれております。・・・これらのうちの庚午年籍は、西暦670年(天智9年:庚午の年)に成立した戸籍です。古代の日本においては、一般の戸籍については6年毎に作成され、30年を経ると廃棄される規定でしたが、この庚午年籍については、永久保存とされました。
      ・・・尚、『弘仁格式(こうにんきゃくしき:※大宝元年から弘仁10年の法制を類別に編集したもの)』序には・・・「天智(てんじ)天皇元年に至り、令二十二巻を制す、世人所謂近江朝廷之令也」・・・と記述されており・・・これが、後に近江令(おうみりょう)と呼ばれるものです。

      ※ 同年9月内:“孝德天皇の宮”が「完成」する。・・・難波宮=難波長柄豊碕宮が、ようやく完成したのです。・・・尚、この頃”が・・・“大化の改新と呼ばれる一連の大行政改革によって、倭国(ヤマト王権)内で、一応の結論を得られた頃”・・・つまりは、“一応治まった頃だった”と考えられ・・・ちなみに、これ以降の倭国(ヤマト王権)の外交政策については・・・唐王朝が、倭国(ヤマト王権)から遠く離れた高句麗ではなく、倭国(ヤマト王権)の伝統的な友好国だった百濟を、海路から攻撃する可能性が出ていたことにより・・・倭国(ヤマト王権)は、ともに自国と友好関係にあった大国の唐王朝及び百濟との狭間において、二者択一を迫られることとなります・・・が、その背景としては、一貫した親百濟路線説や、孝德天皇=親百濟派、中大兄皇子=親唐・新羅派、孝德天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百濟派など、歴史学者によって、その意見が別れるといった状況でもあります。
      ※ 同年12月30日:「孝德天皇」が、“天下の僧尼”を「内裏」に呼んで・・・「設斎」や、「大捨(たいしゃ)」、「燃明(ねんめい)」をする。・・・設斎、大捨、燃明・・・いずれも仏教用語となりますが・・・孝德天皇が様々な事象に対して、祈願させたと読んで構わないと想います。


      ※ 西暦653年(白雉4年)5月12日:「孝德天皇」が、「遣唐使(≒朝貢団)」を送る。・・・第一船の「大使」に「吉士長丹(きしのながに)」、「副使」は「吉士駒(きしのこま)」、「学問僧」に「定恵(じょうえ)」や「道昭(どうしょう)」らの、“総勢121名”。第二船の「大使」は「高田根麻呂(たかだのねまろ)」、「副使」は「掃守小麻呂(かにのもりのおまろ)」の“総勢120名”だった。・・・但し、“後者の第二船”は、後に難破してしまう。【(第2次)遣唐使(≒朝貢団】
      ・・・ここにある“学問僧の定恵及び道昭の二人は、かなりの重要人物”と云えます。
      ・・・まず以って、「定恵」の「父」は、「中臣鎌足(※後の藤原鎌足)」であり、「定恵」の“出家以前の俗名”は「中臣真人(なかとみのまひと)」。そして、“この人の実弟には、後に藤原氏の地位を盤石とするための礎となった藤原不比等(ふじわらのふひと)がいる”のですが、“この西暦653年5月12日時点には、弟の不比等はまだ誕生しておらず、定恵は鎌足の一人息子”という状況だったのです。・・・(※定恵と不比等は、約16歳違いの兄弟とされています)・・・“この定恵は、唐に渡ると、長安懐徳坊にある慧日寺(えにちじ:※慧日道場とも)に暮らし、玄奘法師(げんじょうほうし:※三蔵法師とも、『西遊記』のモデルとされた人物としても有名)の弟子僧に当たる神泰法師(じんたいほうし)に師事”します。
      ・・・そして、“この定恵は、遊学して内経外典に通じていた”と云いますが、藤原氏の前身とされる、“そもそもの中臣氏は、古来より神祇に関わる一族であり、仏教伝来に際して”は、「中臣鎌子(なかとみのかまこ:※欽明天皇時代から飛鳥時代にかけての豪族のこと。後に藤原鎌足となる中臣鎌足〈鎌子〉とは別人です)」や、「中臣勝海(なかとみのかつみ)」らの“強硬な仏教反対者を輩出しているのです。・・・しかも、“父である鎌足自身も、当時から倭国(ヤマト王権)の重臣であり、その長男である人物が出家するということは、熱心な仏教信者として知られる蘇我氏においても無かったこと”であり、“まさに前代未聞の事態だった”と云えるのです。・・・これに関しては、“定恵の出生に関わる謎がある”とか、“僧体となった方が、唐留学に優位であったから”とか、或いは“父の鎌足が倭国(ヤマト王権)の外交責任者であり、僧侶が当時の外交使節とされていたことと関係している”・・・など諸説ありますが・・・結局のところ、これも“未だ定説を見ない状況”です。
      ・・・次に、後者の「道昭」については・・・“遣唐使(≒朝貢団)の一員”として、「定恵」らとともに入唐した後・・・“玄奘法師本人に師事して法相教学(ほっそうきょうがく)を学んだ”とされています。・・・そして、“この玄奘法師も、異国から来た、この学僧・道昭を大切にし、同室で暮らしながら、指導した”と云います。・・・また、“年時不明のこと”とはなりますが・・・“玄奘法師の紹介によって、古代中国の南北朝時代頃に、相州(そうしゅう:※西暦606年頃まではあったと考えられています)にあった隆化寺(りゅうかじ)”の「高僧・慧満(えまん)」に、「参禅(さんぜん:※禅の道に入って修行すること、または座禅を組むこと)」し・・・“倭国(ヤマト王権)への帰国後”に、現代に繋がる「禅の教え」や「思想」を、“初めて齎(もたら)した人物”とされているのです。
      ※ 同年5月内:「孝德天皇」が、“病中の旻法師(みんほうし)の部屋”へ「見舞い」に行き・・・直接、“優しい言葉”を掛ける。(※白雉5年7月の出来事とも)・・・ここにある旻法師とは・・・かつて遣隋使(≒朝貢団)の学問僧として、隋王朝へと渡り・・・帰国後には「釈僧」とか、“天下の僧尼”などとも呼ばれるようになり・・・仏教の興隆に尽力したため、十師にも選ばれた高僧であり・・・大化の改新の各政策にも深く携わった人物です。

      ※ 同年6月内:「百濟」と「新羅」が、「倭国(ヤマト王権)」に対して、それぞれ「使い」を遣わして、「調」と「貢物」を献じる。「孝德天皇」が、“旻法師の死”を知ると、「使い」を遣わして、「弔問」させて、「物」を贈る。また、“旻法師のため”に、多くの「仏像」や、「菩薩像」を造らせて、“それら”を「山田寺(やまだでら:現奈良県桜井市山田)」に「安置」させる。

      ※ 同年7月内:「孝德天皇」が、“難破した遣唐使船(※高田根麻呂らが乗った第二船のこと)の生存者5人のうち、筏(いかだ)を作って、助けを求めた門部金(かどべのきん)”を褒める・・・と、その「位」を進めて「禄(ろく)」を授ける。
・・・(第2次)遣唐使(≒朝貢団)の内、日本列島に漂着して生存が確認された者が、“たったの5人だった”と。・・・ちなみに、「門部金」の「門部」とは、律令制における衛門府(えもんふ)に属して、宮中諸門の取り締まりに当たった武官のことです。・・・つまりは、門部に属していた金(きん、キム?)さん・・・朝鮮半島の出身者だったのでしょうか?

      ※ 同年内:「皇太子・中大兄皇子(※後の天智天皇)」が、“倭京(やまとのみやこ、わきょう)へ遷ること”を請う・・・も、「孝德天皇」が許さず。・・・そのため、「皇太子」が、「皇祖母尊(※皇極前天皇のこと)」や、「間人(はしひと)皇后」、「皇弟」を連れて、「倭飛鳥河辺行宮(やまとあすかのかわべのかりみや)」に行く。・・・すると、“公卿大夫や百官の人々”が皆、「皇太子・中大兄皇子(※後の天智天皇)」に随(したが)って、そこへ遷る。・・・「孝德天皇」は、“このことを恨んで、皇位を去りたいと思いつつ、宮を山碕(やまさき)に造らせるとともに、和歌を(間人)皇后へ送った”とされる。・・・「倭京」とは、古代の日本に存在していた宮都とされており、『日本書紀』天武(てんむ)天皇紀の条においても、幾つかの記述が見られます。・・・この倭京は、一般的には、大和に置かれた京(みやこ)を指しますが・・・九州地方にあったとする俗説もあります。
      ・・・また、「山碕」とは、山背國(やましろのくに:=山城國)乙訓(おとくに)郡山崎(現京都府乙訓郡大山崎町の地内)との憶測もありますが・・・現在のところ・・・この山碕宮については、遺跡どころか、その推定地さえハッキリしておりません。


・・・・・・・・・・次ページに続く・・・・・・・・・・





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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・「乙巳の変」】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】