


・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・
※ 西暦1876年(明治9年)2月12日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。後の節公)」が、「アメリカ独立百年大博覧会御用掛」を命じられることとなり、これに伴なって「陸軍少尉」を免じられる。『明治天皇紀』より・・・アメリカ独立百年大博覧会のための御用期間は、開催されるフィラデルフィアにおける同年5月10日~11月10日までの期間だったとのこと。
※ 同年3月12日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」によって、“アメリカ独立百年大博覧会への自費渡航に関する願書”が、提出される。・・・当時の明治政府財政事情が窺い知れますね。・・・現代日本には海外留学支援制度という方法がありますが、この当時は・・・博覧会への参加そのものが、“生まれ変わった日本”を諸外国に認めさせる最低限の機会であると同時に、“東洋の文明国家”をアピールする絶好の機会であった筈・・・。・・・元薩長勢力で大半が占められていた明治政府の側からすれば、この御用掛という役目の適任者が・・・旧水戸藩主の徳川昭武ということになったのでしょう。・・・明治政府側としては、かつてのパリ万国博覧会への参加実績や留学経験を買っていたのでしょうが・・・この場面で、元々尊皇思想が強い水戸徳川家の若きプリンスを当ててきましたか?・・・ましてや、政府と云うよりも、明治天皇のご内意を窺えば・・・当然に、“水戸っぽ魂に火が点くというもの”です。自費であろうと無かろうと、与えられた職務を全うするに違いありませんし。・・・徳川昭武が再び学び始めていたフランス語は・・・特に軍事教練上、西洋式の・・・フランス陸軍組織の編成や戦術面を習得する為に必須のスキルではありますが・・・この時のような社交的且つ政治的な場面においても、大いに役立つ筈であり・・・そもそもとして、この前日の人事決定の際まで・・・何やら、旧幕臣達や水戸徳川家に関係する人々が、水面下で働き掛けていたようにも感じられますね。
※ 同年3月28日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、「フィラデルフィア」に到着する。・・・この時、徳川昭武は、数えで24歳。・・・尚、さすがに蒸気船。アメリカ合衆国北東部のフィラデルフィアまで約16日間の渡航期間。
※ 同年8月内:「明治政府」が、“全国の華士族”に対して、「金禄公債条例」を公布し、従来の禄高に応じた額面の金禄公債証書を一時金として支給するとともに、“以後の俸禄支給そのもの”を打切る。・・・・・・西暦1871年(明治4年)7月14日に「廃藩置県」が断行されてから、全国の華士族に対する明治政府による支出が超過したものになっていたのです。・・・すると、明治政府は・・・特に華族よりも割合の多かった士族達を自活させるため、「士族授産(しぞくじゅさん)」と称し・・・農業・工業・商業への転職推進を図って、官林の荒蕪地(こうぶち)を安価で払い下げたり・・・或いは、北海道への開拓移住を勧誘または奨励するなど・・・次第に秩禄支給そのものを打切る方向へと政策を進めていた訳です。・・・しかし、この政策は・・・実業というものに不慣れだった士族層の人々の経済的な没落を、或る意味で決定的にしてしまうこととなり・・・後の社会不安に繋がってしまいました。・・・
※ 同年11月13日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、「仏国留学願書」を提出する。・・・ちょうど、この三日前に、“アメリカ独立百年大博覧会御用掛のお役目を果たしておりました”ので。・・・きっと、仏国留学への再挑戦という真意が、あらかじめ徳川昭武の念頭にあったのでしょう。・・・かつてのパリ万国博覧会参加へ旧幕府使節団として臨む際に、当時将軍であった異母兄:徳川慶喜からの訓示というものが・・・世が明治に変わった、この時でさえ、尚も活きている、または継続中であるという認識だったに違いありません。・・・いずれにしても、この時の仏国留学については、無事許可されたようです。(↓↓↓)
※ 同年12月6日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、「フランス・オルレアン」において「レオポルド・ヴィレット」と再会し、“彼の世話”により、“エコール・モンジュへの入学手続”を済ませる。・・・この「レオポルド・ヴィレット」とは、かつてバリ留学中の徳川昭武に対する教育係として、フランス側から推薦された人物であり、仏国陸軍将校(大佐)。当時のパリ万国博覧会への参加や、昭武のパリ留学を目的としていた遣欧使節団の日本人達から、“陸軍大佐”を意味する「コロネル」のニックネームで呼ばれていたとのこと。・・・次にある「エコール・モンジュ」とは・・・「エコール」が、フランス語で、学校や学派、流派を意味しておりまして・・・「モンジュ」とは、築城術を学んで画法幾何学を完成し、解析幾何学などにも業績があったフランス人数学者の名です。・・・よって、「エコール・モンジュ」とは、日本語に直訳すると、「モンジュの学校」、あるいは「モンジュ学」となりますが・・・これと同時に「エコール・ポリテクニク」のことを意味し、“当時のフランス国防省所轄下にある高等理工科専門学校のこと”をも指しております。・・・尚、この学校は、数学者「ガスパール・モンジュ」の提唱によって、国立中央職業学校として創設され、科学知識の向上と軍隊内の技術者養成を目的としていました。・・・当初は、フランスの高等教育に対する弊害と視られていた、極めて観念的・抽象的な考えに抵抗する意味合いによって、「諸学芸 (≒ポリテクニク) の学校」という呼称が用いられていましたが・・・後に、これが専門学校の正式名称になったようです。・・・また・・・かつては、ここの卒業生の大半が軍の将校となっていた模様であり・・・学問的に云えば、「数学」や「機械工学」、「物理学」、「化学」など、各分野を学ぶ教育課程です。・・・いずれにしても、当時の徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)は、フランス語を、ほぼ会得し・・・更に専門的な分野の学問や技術そのものまで習得しようと考えていたことが分かります。
※ 西暦1877年(明治10年)4月内:“徳川慶喜の生母・貞芳院(※名は、吉子、芳子、〔俗名〕登美宮とも、有栖川宮織仁親王の第12王女)”が、「静岡」を旅行し、この後約11カ月間を慶喜と共に過ごす。・・・この時の徳川慶喜は、数えで41歳。・・・尚、それまで貞芳院は、1872年(明治5年)まで、水戸偕楽園内の「好文亭」に暮らしておりまして・・・其処のすぐ近くで起きた、かつての「弘道館の戦い」の際には、“貞芳院の居室付近にも銃弾が流れ飛んだ”と云いますので、身の危険については、かなりの経験をされていた筈です。・・・ちなみに、この頃の徳川慶喜の居処は、駿府改め静岡の紺屋町元代官屋敷であり・・・この慶喜邸は「紺屋町御住居」と呼ばれていたとのこと。・・・そして、この頃の貞芳院は、実子で第10代目水戸藩主・徳川慶篤の跡を嗣いだ昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)の世話となり、向島小梅の邸宅(※旧水戸藩下屋敷のこと)内で暮らしていました。・・・いずれにしても、息子の慶喜は、この後の約11カ月という期間を、存分に親孝行していたのではないでしょうか。・・・一方の生母・貞芳院にしてみても、極短期間だったとは云え、息子の慶喜が旧幕府における最後の将軍職を継ぐこととなった後、瞬く間に紆余曲折があって、今生の別れ的に覚悟を決めていたことが・・・時を経ることによって、名目は「旅行」であったとしても、思い掛けなく実子・慶喜との暮らしが実現出来る運びとなり、さぞかし嬉しく、喜ばしい約11カ月間になったのではないでしょうか。この母子は、慶喜が生後7カ月の頃までは、江戸で同居暮らしできましたが、その後は母が江戸に暮らし、慶喜は水戸で養育されましたので。・・・いずれにしても、ようやく徳川慶喜の静岡における謹慎暮らしにも安定傾向が見え始めていたのでしょう。慶喜の心身や静岡周辺の政情面からしても、母上君を迎えられる態勢が整った時期だったと推察します。この時、「明治」に改元されてから約10年を経ておりますが、人々の記憶や感情については、そう易々と割り切れる筈も無く。・・・徳川慶喜を守っていた旧幕臣達の一部にも、時の開港鎖港などの政策課題を巡っては、旧水戸藩なり水戸徳川家に属する人々への、一種の嫌悪感などもあったでしょうから。・・・
※ 西暦1878年(明治11年)5月18日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、“渋沢栄一(※武蔵国榛沢郡血洗島村出身の旧幕臣)と永井尚志(※通称は玄蕃頭、旧幕府旗本、蝦夷共和国の元箱館奉行)両人”が、御機嫌伺いに来たる。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この時の徳川慶喜は、数えで42歳。・・・それにしても・・・「御機嫌伺い」・・・ですか?・・・自身の謹慎暮らしの外の世界との接触、特に政治的な勢力との接触については極力避けておられた筈の慶喜公。・・・とは云っても、たとえ外の世界の動向や動静について無関心を装って居たとしても・・・“肝心の外の世界についてを充分に研究し、且つ理解しておらねば、重要な時期が巡って来た際に判断や手段を誤る”との・・・これぞ「水戸学精神」、または「水戸学の教え」。・・・当時の徳川慶喜公としても、数少ない信頼のおける者達から齎(もたら)される外の世界についての情報は、かなり貴重なものだったかと。・・・また、議論することや発言することなどを苦としない、その性格から、御機嫌伺いに来た筈の渋沢・永井両人に対する逆質問なども多かったのではないか? とも想像出来てしまいます。・・・ちなみに、2021年(令和3年)のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、この当たりの時期についてを、どのように描くのか? 興味が尽きませんね。・・・と、下書きして置きながら、本ページの公開時期が放送終了後の2025年(令和7年)に入り、かなり遅れてしまいましたが。・・・放送された「青天を衝け」での“描かれ方”については、納得出来ました。なるほど。・・・尚、ここにある徳川慶喜家『家扶日記』とは、明治5年から大正元年までの41年間に亘る日記であり、徳川慶喜の家扶(かふ:※家務や会計を司る家令に次ぐ使用人。つまりは執事のこと)となった、旧幕臣の「小栗尚三(おぐりしょうぞう)」、「新村猛雄(しんむらたけお)」、「松平勘太郎(まつだいらかんたろう)」ら3人によって記録されたものです。・・・この3人のうち、最初にある「小栗尚三」は、名を「政寧(まさやす)」とも云いますが、元々は陸奥相馬中村藩第9代藩主・相馬祥胤(そうまよしたね)の三男として生まれ、その後旗本・小栗政長(おぐりまさなが)の養子となって、1862年(文久2年)5月に「目付」から「禁裏附(きんりづき:※天皇の住まう禁裏〔京都〕御所の警衛や、公家衆の監察などを司る役職のこと)」となり、1864年(元治元年)2月に「京都東町奉行」に就任するも、「池田屋事件」や「禁門の変」が起こって京の治安は悪化してしまう。1865年(慶応元年)10月に在京のまま「勘定奉行(勝手方)」となり、翌1866年(慶応2年)7月に「関東郡代」を兼帯するも、翌1867年(慶応3年)年2月に兼帯についてを免ぜられ、翌1868年(慶応4年)1月に職を免ぜられて「勤仕並寄合(きんしなみよりあい:※役職に就いていた者が辞して無役となった時の家格のこと)」となり、明治維新後の1869年(明治2年)に「静岡藩郡奉行兼勘定頭」や「会計掛権少参事」となるも、「廃藩置県」を迎えることとなり、1881年(明治14年)6月に徳川慶喜家の家扶となった人物です。・・・次にある「新村猛雄」は、元小姓頭取で、この後に徳川慶喜側室の一人とされる新村信(しんむらのぶ)の養父となる人物です。・・・最後にある「松平勘太郎」は、大坂町奉行や大目付、勘定奉行などを務めた松平(勘太郎)信敏のことであり、1865年(慶応元年)の英米仏蘭4カ国艦隊の大坂湾来航の際に、フランス艦を訪れて来航の目的を問い質した人物と同一人物と考えられます。・・・ちなみに、“明治期の華族家”には、「家令(かれい:※華族家で、家の事務や会計を管理したり、他の雇い人を監督した人。つまりは執事長のこと)」を筆頭として、「家扶」や「家従(かじゅう:※華族家の庶務を司る者で、家扶の次席)」、「家丁(かてい:※召使いの男、下男のこと)」という職員を配置することが認められており・・・慶喜邸の場合には、維新後の1902年(明治35年)6月まで徳川宗家(※旧将軍家とも)の隠居という立場にありましたので、徳川宗家が雇用して慶喜邸へ配置する形態(≒今に云う出向扱い)を採用したため、“家扶以下の職員”が勤めることになっていました。
※ 同年11月3日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、旧幕臣「山岡高歩(※通称は鐵太郎、号は一楽斎、居士号は鉄舟、一刀正伝無刀流の開祖となる人物で禅や書の達人)」が来訪す。“(明治)天皇への参賀について”の相談あり。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・それにしても、当時の慶喜公としては非常にナイーブな事項についての相談があった模様です。・・・いずれにしても、この1878年(明治11年)11月3日より約半年前の出来事、つまりは渋沢・永井両人による御機嫌伺いが、当時の慶喜公による総合判断というものに多少なりとも影響していると考えられますが・・・。
※ 西暦1880年(明治13年)5月18日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「正二位」に叙せられ、旧位に復される。・・・なるほど!・・・上記にある“旧幕臣・山岡高歩が齎(もたら)した相談”というのは、慶喜公の位階に関して名誉回復するという活動だったようです。日付までピッタリの2年後となりますので。・・・いずれにしても、この時の徳川慶喜は、数えで44歳。
※ 同年夏期:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、“エコール・モンジュの夏休み期間中”に、其処を「退学」すると、“同時期にフランス留学していた甥・徳川篤敬(※第10代目水戸藩主・徳川慶篤の長男として生まれ、徳川昭武の養嗣子となって、この後に水戸徳川家第12代目当主となる人物。後の定公)ととも”に、「ドイツ」や、「オーストリア」、「スイス」、「イタリア」、「ベルギー」を旅行する。これら欧州歴訪の後に、イギリスのロンドンに約半年間滞在する。・・・!?・・・せっかくのエコール・モンジュを退学ですか?・・・現代人の感覚からすれば、停学や休学扱いでも構わないようにも感じてしまいますが。・・・まぁ約3年半の期間は学問や技術の習得を中心とした暮らしだったでしょうし、当時の徳川昭武公としては、“仏国エコール・モンジュにおいては納得出来るまで学んだため、他の欧州諸国の動向や動静への探求心に火が点いたということ”なのでしょうね。きっと。・・・その欧州歴訪の旅に、ちょうど陸軍士官学校を卒業して1879年(明治12年)からフランス留学していた甥・徳川篤敬をお供にして、貴重な経験を積むことや家族関係の強化にも尽力されたのでしょう。甥の徳川篤敬とは、2歳程しか年の差がない、まるで兄のような徳川昭武公でしたから。・・・いずれにしても、この時の徳川昭武は、数えで28歳。
※ 同年11月15日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「大礼服(たいれいふく:※エンパイア・スタイルの宮廷服のこと)」を新調する。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・おそらくは、“天皇参賀について”の「内命」、あるいは「打診」があったものかと。そのための準備でした。
※ 西暦1881年(明治14年)5月15日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、「仏国留学」を終えて「マルセーユ」を出帆する。・・・この時の徳川昭武は、数えで29歳。
※ 同年6月24日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、「横浜」に到着する。・・・アメリカ独立百年大博覧会御用掛としての海外渡航より数えて、約5年3カ月ぶりの帰国となります。・・・想えば・・・アメリカ独立百年大博覧会参加のための渡航費用でさえ、水戸徳川家による自費としていた訳ですので、当然にフランス留学中や欧州滞在中に掛かる費用も、当然に自費であった筈。むしろ、その方が都合が良かったのでしょう。当時の明治政府による出費を受けると、かえって制約があるとも云えますので。・・・当時の徳川昭武公にしてみれば、かつてのパリ万国博覧会参加後の第1次仏国留学期間中、再三に亘る要請を受けて帰国せざるを得なかったという経験を、既にお持ちでしたから、このような対応も当然だったかと。・・・いずれにしても、約5年3カ月に及ぶ第2次仏国留学と云うか、第1次海外渡航時の関係者達への外交官的な挨拶巡り旅行と云うか・・・いろいろとお疲れ様でした。・・・ちなみに、徳川昭武公の第1次海外渡航時の訪問先は、訪問順(※当のフランスは除く)で・・・「スイス」、「オランダ」、「ベルギー」、「イタリア「、「イギリス」の5カ国であったのに対し・・・今回の第2次仏国留学の際には、前回にあった「オランダ」が外されて、「ドイツ」と「オーストリア」の2カ国が加えられていました。・・・その理由については・・・徳川昭武や篤敬に、元々視察という目的があって、各国ごとに習得可能な技術や日本が学ぶべき生産体制の違いが影響していると云うか・・・一言で云うならば、当時の国際情勢・・・特に欧州情勢が影響しているのが分かりますが・・・また同時に、“日本側の政治機構が生まれ変わっていたためだった”とも考えられます。・・・いわゆる旧幕府による鎖国政策があった時代さえ、長崎出島などを通じて細々と交流や通商関係にあったオランダよりも、最新の科学や土木・建築分野、蒸気機関車などを含む工業分野、広くは殖産興業や各国ごとに異なる文化面の違いなどを、“それぞれ深く理解するためだった”とも云えそうです。また、フランスの「エコール・モンジュ」で徳川昭武公が習得を優先的に取り組んだのではないか? と考えられる技術・・・実際に見た物を、スケッチする技術・・・或いは、自身によるメモやスケッチ、記憶などを基にして、後に精密な図面として仕上げる技術・・・つまりは「製図」を学んでいたのではないか?・・・そう考えると、私(筆者)自身が納得出来るかな? と思い、もう少し掘り下げて「エコール・モンジュ」や「エコール・ポリテクニク」についてを調べたところ・・・やはり、そうでした!・・・
そもそも、「エコール・ポリテクニク」の技術教育システムとは・・・2年制を採用し、主に公共事業を担う指導者や技術官僚を育成することを目的としており・・・そこの学生が卒業した後は、「応用学校(Ecole d application des services publics)」へと進んだようであり・・・その「応用学校」では、「軍事」、「土木」、「造船」、「機械」、「鉱山」、「地図」の技術者を養成したとのこと。・・・そして、これら分野の技術者を教育するために、「解析」と「設計」を基礎に置いて・・・それまでの学生達への経験的な専門技術習得のための授業のほかに、新たに「理論」と「製図」のコースを学ばせた・・・と。・・・尚、「数学」や「力学」、「物理」、「化学」、「化学実験」、「鉱物学」、そして「図法幾何学」を技術解析の基礎理論として教育へ位置付けたと云い・・・そこに、元々の数学者であって且つ西暦1797年に「エコール・ポリテクニク」の校長となっていた「ガスパール・モンジュ」が、科学の理論と技術の実際(※プラクティスとも)とを結合するように技術教育を組み立てたとか。
・・・ちなみに、校内における講義だけでなく、実験や実習を行なう「ポリテクニク」のカリキュラムが、“現代における工学部のモデル”と云われるそうです。・・・肝心の「製図コースの成立」については・・・
・・・現代では、何かしらの設計についてを精密な図面を通して行なうことが、もはや常識として考えられておりますが・・・
18世紀の「モンジュ」や「ポリテクニク」では、何かしらのデザインを図面を通して行なうシステムを提案し、実際の技術者教育へ組み込んでいた訳です。・・・そのため、「エコール・モンジュ」や「エコール・ポリテクニク」の教育課程を修了した技術者たる職人達は、実際に図面というものを利用していたのです・・・が、当時の図面とは、単にスケッチ程度のものか、実際に有する物の形を描いたものであって・・・彼らが尚も三次元の物体をデザインしようとするには、実際に模型を作るか、材料を加工しなければならなかったとか。・・・そして、この伝統的なデザイン方法が、尚も続いていたようであり、19世紀半ば頃に至っても、精密な図面を利用したデザインは稀であったと。・・・よって、このような状況に対して一石を投じるような教育上の挑戦が、「ガスパール・モンジュ」によって「エコール・ポリテクニク」で実践されたのです。その為のカリキュラムが「製図コース」であり、「図法幾何学」は三次元の物体を二次元の図面へ正確に表現する理論として教えられたとのこと。
また「ガスパール・モンジュ」が教えたとされる18世紀の図法幾何学の授業は・・・現代とは異なり・・・「木材加工」及び「石材加工」についての知識や、「機械学」も含まれていたとか。・・・いずれにしても、「エコール・ポリテクニク」にとっては、「製図コース」が重要な科目とされて、多くの時間が製図の実習に費やされていたとも。・・・
・・・一方で、徳川昭武公自身も、当時の技術者教育の本場とも云える「エコール・モンジュ」で、納得いくまで学問研鑽に努められていたのではないでしょうか?
ちなみに、日本における「製図コース」と「図法幾何学コース」の歴史としては・・・
明治政府が「製図コース」を教育制度の中に位置付けており・・・これが最近の1990年代まで続いておりました。・・・「CAD(キャド)」と呼ばれるコンピュータープログラム上で設計図書が描けてしまう時代となりましたので。・・・これも時代に伴なう事象として納得せざるを得ませんね。但し、「CAD(キャド)」を取扱う側の資質としては、バッテリーや電力が無い場合においても図面を描けるという技能や想像上の物体やパーツ等をイメージ・構成する力などは、必要不可欠とは云えるのですが。
尚、日本における技術教育機関の歴史としては・・・
西暦1877年(明治10年)、明治政府が高等教育機関としての「大学(※現在の東京大学)」と「技術学校(※呼称は工部大学:Imperial College of Engineering)」の二校が設立されております。
・・・前者の「東京大学」には、理学部の中に技術教育を目的とした4年制の工学科が設けられ・・・後者の「工部大学」は、スイスのポリテクニクがモデルとされており、技術官僚を養成することを目的とされた6年制の学校でした・・・が、いずれにせよ、この二校には「製図コース」が設けられており・・・
・・・それから9年後の・・・西暦1886年(明治19年)、明治政府によって「高等」、「中等」、「初等」において、それぞれの教育制度が定められ・・・
・・・後者の「工部大学」が、「東京大学工学部」に組み込まれることとなって・・・つまりは、明治政府が世界に先駆ける体裁で以って、当時の高等技術学校を「大学」として認めた訳です。・・・
そもそも江戸時代を通じて・・・日本人は、西洋などの異国から齎(もたら)される各種の技術等に関する知識を、早い段階から「学問」として・・・広くは「蘭学」などと呼び、その理解に努めようとしておりましたから。・・・このような事もまた、「水戸学」の一部を構成しており、根底に流れる考え方でもあります。・・・「水戸学」は、決して「攘夷」だけを声高に訴えていた訳ではありません。「孫子の兵法」の中の『彼を知り己を知れば・・・』の如く、相手方の力量や技術力などを総合的且つ丹念に研究や研鑽を積むこと無しでは、“己の身の処し方一つにしても、将来へと進む道が定まらず”と云う哲学的な思想が根底に流れているのです。・・・但し、その根底にあったものが、江戸時代後期から幕末期頃に掛けては、当時置かれていた国際情勢や国内事情により・・・その主体に置かれるべきものが、個人から地域コミュニティや国家観などへと拡大的に置き換えられて考えられていたと云う事だと思います。それぞれの当時の公(おおやけ)と云う、一定の信頼感を伴なう社会的地位や立場で以って。・・・
※ 同西暦1881年(明治14年)6月25日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が参内し、「フランス製置き時計」を献上する。・・・明治天皇へのお礼の気持ちを込めたお土産ですね。・・・そもそも、“アメリカ独立百年大博覧会への海外渡航自体”にも、“明治天皇により徳川昭武をとのご指名があった”と考えられます。
※ 西暦1882年(明治15年)2月4日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、異母兄「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男」に面会するため、「静岡」を訪問する。・・・この時の徳川昭武は、数えで30歳。・・・きっと、仏国留学中や中欧旅行の話だけでなく、互いの趣味や嗜好、学問、研究分野など、話題には事欠かなかったでしょう。・・・また、これと同時に・・・“昭武帰国の日から約半年の期間を置く”ことによって、徳川慶喜や昭武など徳川家の人々が、何者からか政治利用されるという懸念を払拭したいという配慮が感じられますね。・・・“この明治15年という年”・・・しばらく後の4月6日には、かの「自由民権運動」を主導した自由党総理の板垣退助(いたがきたいすけ:※元土佐藩士)が、岐阜県にて演説終了後、刺客に襲われ重傷を負ったり・・・5月には、東京でコレラが猛威を振るって、死者を3万人以上出してしまったとか・・・。7月の朝鮮半島では、京城(現ソウル)で内乱が起こって暴徒が王宮へ乱入し、日本公使館などが襲撃される(※壬午事変とも)事件の発生・・・等々、世情が非常に不安定な状況でしたから。
※ 同年6月18日:“左大臣職に異動していた有栖川宮熾仁親王”が、「欧米歴訪」に出発する。・・・
※ 同年10月内:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“熱海にて湯治中の生母・貞芳院(※名は、吉子、芳子、〔俗名〕登美宮とも、有栖川宮織仁親王の第12王女)”に会いに行く。・・・この時の徳川慶喜は、数えで46歳。・・・1878年(明治11年)3月までの親子水入らずの静岡旅行より数えても、はや四年以上の月日が経っておりました。・・・いずれにせよ、「忠孝」における「孝」なのですが・・・どうやら、上記にある同年2月4日には、徳川昭武に伴なわれて、慶喜生母・貞芳院が熱海の湯治宿へ向かったようであります。・・・そして、同年10月中に実子・慶喜と、熱海にて落ち合って湯治をし、次いで静岡に向かって、母子で親しく過ごしたようであります。
※ 同年11月6日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、(徳川宗家より)四男「厚(あつし)」を「分家」させる。・・・厚の生母は、徳川慶喜の側室の一人とされる中根幸(なかねさち)。“兄の夭折により、父・慶喜に事実上の長男として育てられた”と云われます。・・・「厚」は、僅か9歳で徳川宗家から分家させて、華族に列せられることとなりました。・・・尚、徳川宗家そのものの家督については、1868年(慶応4年)閏4月29日の時点で、既に慶喜から(※明治新政府が慶喜に代わって)德川家達(とくがわいえさと)への相続が許可されておりました。
※ 西暦1883年(明治16年)1月21日:“徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)と妻・瑛子(※栄姫とも)の間”に、長女「昭子」が産まれる。「昭子」の名は、貞芳院(※名は、吉子、芳子、〔俗名〕登美宮とも、有栖川宮織仁親王の第12王女)による命名なり。『(戸定)備忘録』より・・・水戸徳川家の嫡流として、待望の第一子が誕生し、誠に喜ばしい出来事でした・・・が・・・
※ 同年2月1日: 左大臣「有栖川宮熾仁親王」が、「欧米歴訪」より帰国する。・・・期間8カ月弱の歴訪でした。
※ 同年2月8日:“徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)の妻・瑛子(※栄姫とも)”が、産後の肥立(ひだち)が悪く、この日亡くなる。『(戸定)備忘録』より・・・・・・
※ 同年5月25日:この日、「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、「宮内省」へ「隠居願い」を提出」し、同月30日には、これが認められる。『(戸定)備忘録』より・・・・・・・・・
※ 同年6月11日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、異母兄「徳川慶篤(※徳川慶喜の同母兄。順公のこと)の長男「篤敬(※後の定公)」へ、“児手柏(このてがしわ)等の品”を譲り渡して、“家督相続の儀式”を執り行なう。『(戸定)備忘録』より・・・この時の徳川昭武は、数えで31歳。・・・昭武は、自らも若くして、甥の篤敬へ、本来受け継がれるべきであった水戸徳川家の嫡流の男子へ、“バトンタッチ”した訳です。この当たり、ご先祖の旧水戸藩第2代藩主の徳川光圀が実子を他家へ出し、実兄の嫡男を自家へ迎え入れ、自らの後継者としたという経緯(いきさつ)と、ほぼ同じでした。むしろ“この経緯に倣っていた”と考えるほうが自然です。・・・それだけ、水戸で代々受け継がれてきた「水戸学」などに代表される“朱子学傾向が強い”と云われる「思考方法」や、「学問」、「哲学」が尊ばれていたことが分かります。・・・ちなみに「児手柏」とは、水戸徳川家に代々伝わる「宝刀」とされ・・・“この刀銘の由来”は、表裏でその刃紋が異なることから、万葉集の歌に因んで「児手柏」と名付けられたと云います。・・・いずれにしても、“この宝刀の伝来経路や関係者など”が、特に興味深いため、少々掘り下げたいと思います。
【児手柏包永(このてがしわかねなが)】とは・・・
鎌倉時代末期の大和国刀工・手掻包永(てがいかねなが:手掻派初代開祖)により太刀として製作される。・・・「手掻派」は、奈良東大寺に従属して「輾磑門(てんがいもん)」という境内西方の門前に居を構え、刀剣製作によって鎌倉時代末期の正応頃(※西暦1288年頃)から室町時代中期末の寛正頃(※1460年頃)に活躍していました。・・・この経緯により、輾磑門の「てんがい」が訛(なま)って、「手掻」と称するようになったと云われます。書き文字としては、「手掻」のほかに・・・「輾磑」や「天蓋」なども使用されます。
この頃の刃長は二尺七寸(約82~85㎝)、表裏で刃紋が異なり・・・表刃紋(人が身に装着した際の外側)が大乱刃、裏刃紋(人が身に装着した際の内側)が中直刃・・・であったと伝わり、目釘孔(めくぎあな)は三つ。茎(なかご:※普段は柄〔つか〕に収められる、日本刀のグリップ部分のこと)の先には、「包永」の二字銘あり・・・と。
・・・太刀として製作された「包永」は、後に・・・室町幕府第12代将軍の足利義晴(あしかがよしはる)から細川藤孝(ほそかわふじたか:※後の幽斉)が拝領した・・・あるいは、旧大和国奈良坂(奈良北部)にあったものを細川藤孝が入手した・・・と伝わります。
・・・足利義晴が将軍職にあったのは、西暦1521年(永正18年)から1546年(天文15年)のこと。嫡男の菊堂丸を元服させて「義藤」と名乗らせ、将軍職を譲り・・・以後は「大御所」として「義藤(※後の第13代将軍義輝のこと)」を後見し・・・1550年(天文19年)、近江国穴太にて死去。
・・・細川藤孝も・・・以前のページにも度々登場しておりますが・・・西暦1534年(天文3年)生まれ。1540年(天文9年)、室町幕府第12代将軍・足利義晴の命令によって、義晴の近臣であった細川晴広(ほそかわはるひろ:御部屋衆、内談衆。官職は刑部少輔。※佐々木氏出身者)の養子となり、1546年(天文15年)には第13代将軍・足利義藤(※後の義輝のこと)の偏諱を受けて、「細川(与一郎)藤孝」を名乗り始める。
さて、ここにある第13代将軍・足利義輝や細川藤孝などは、本ページの水戸徳川家だけでなく、旧常陸国地域や人々との歴史上の関わりと申しますか、不思議な縁と云えるような事柄があるため、更に掘り下げたいと思います。
・・・西暦1571年(元亀2年)に、細川藤孝が大和国の多聞山城を攻めて、奈良興福寺の僧「荒三位(こうざんみ/あらさんみ)」という者との立ち合いとなり・・・この時、相手の「荒三位」を組み伏せた後に首級を挙げ・・・きっと、その時の武勲による褒賞とされたのでしょう。・・・「義藤」の後見人で、亡くなる直前まで「大御所」とされていた故足利義晴の所蔵品の内から、おそらくは・・・当時の奈良坂(奈良北部)に所蔵されていた太刀「包永」を、数年前に既に亡くなっていた旧の主君・足利義輝公より授かった「下賜刀」とした。(・・・≒奈良興福寺の僧「荒三位」に押収されていたものを、結果的に取り返した・・・)・・・しかし、当の細川藤孝は、刃長が二尺七寸(約82~85㎝)もある太刀の扱いずらさに、困惑し閉口していたとか。(・・・何故、この時の細川藤孝が困惑し閉口したのか? については、後述致します・・・)
いずれにせよ・・・当時の細川藤孝は、この太刀を四寸ほど短く磨き直させ・・・その表裏の刃紋が異なる様から、万葉集の和歌に因んで「児手柏」と命名し・・・
「兵部大輔藤孝磨上之異名号児手柏 天正二年三月十三日」と刻み込ませ・・・茎(なかご)には、「包永」の銘が遺されることとなるのです。
ちなみに、細川藤孝が万葉集から引用したとされる和歌とは・・・
《原文》 「奈良山乃 兒手柏之 兩面尓 左毛右毛 侫人之友 右歌一首博士消奈行文大夫作之」
《和歌部分かな読み》 「ならやまの このてがしわの ふたおもに かにもかくにも ねじけひとのとも」
『万葉集 巻16-3836』
《一部の解説》 「侫人(ねじけひと)」とは・・・「表裏どちらから観ても様(さま)にならない人」という具合に・・・≒あまり見てくれは良くない とか、≒どちらかと云うと若干悪く見得る との比喩表現。
《作者の解説》 作者とされる「博士消奈行文大夫」とは・・・「消奈行文(せなのゆきふみ)」・・・飛鳥時代の豪族で、高句麗系渡来人とされる背奈福徳(せなふくとく)の子。
“行文自身”は、奈良時代の貴族・歌人とされ、官位官職は従五位下・大学助。「消奈行文大夫(せなのぎょうもんのまへつきみ)」の名で以って、この『万葉集』のほかには『懐風藻(かいふうそう)』に五言詩を2首を遺す。
この西暦1574年(天正2年)より遡ること約85年前の事となりますが・・・
後に「兵法家」として名声を得ることとなる・・・
1489年(延徳元年)、常陸国鹿島家(常陸大掾氏)四宿老の一つとされる「吉川(よしかわ)家」、また常陸国一之宮鹿島神宮の神職家系とされていた「卜部(うらべ:※本姓)家」・・・
の次男として、幼名「朝孝(ともたか)」が誕生しました。・・・
後の「塚原卜伝」です。
この「吉川(卜部)朝孝」が・・・5、6歳の頃には、既に父・吉川覚賢(よしかわあきかた)から「鹿島古流(鹿島中古流とも)」を学び・・・その父の剣友でもあった、塚原城(現茨城県鹿嶋市沼尾)の塚原新右衛門安幹(つかはらしんうえもんやすもと)の養子に入ると、義父・安幹からは「天真正伝香取神道流」を学んだとされ・・・また、「鹿島新流」や「鹿島神伝神影流」、「直心影流」の初代流祖とされる松本政信(まつもとまさのぶ:常陸国鹿島家四宿老の一つである松本家※本姓は祝部〔ほふりべ〕)も、幼少の朝孝の武芸に、大きな影響を与えた師の一人でした。・・・いずれにせよ、“若き日の卜伝”は幼い頃より、剣を含む武芸の達人達から、濃密な稽古や修行法を伝授されたのかと。
西暦1505年(永正2年)に元服した朝孝は、「塚原新右衛門高幹(つかはらしんうえもんたかもと)」と名乗り、いわゆる(第1次)廻国修行へ出立したとされます。・・・剣を含む武芸の達人達から多くを学んだ「塚原高幹」は、全くの負け知らずであり・・・
後年に卜伝の弟子となる加藤信俊(かとうのぶとし)の孫の手による『卜伝遺訓抄』後書によれば・・・その戦績は・・・
『十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り。』・・・という“凄まじさ”でした。
「塚原高幹に転機が訪れたとされるのは・・・1519年(永正15年)のことであり、高幹が30歳の頃とされますが・・・鹿島へ帰郷してから、鹿島神宮に千日間参籠すると・・・遂に鹿島大神(かしまのおおかみ:※武甕槌大神〔たけみかづちのおおかみ〕とも。武芸や武門の神様のこと)より・・・『心を新しくして事に当れ』との神示を頂き・・・また、師匠の一人であった松本政信から伝授された秘技「一の太刀(ひとつのたち)」という奥義を会得。この「一の太刀」は、厳しい修練や真剣勝負を積み重ねた後に達する境地や領域(≒ゾーン)のことです。・・・尚、“実家たるト部家伝統の剣を伝える”という意味で、この後は自らを「ト伝(ぼくでん)」と号したとされています。
上記にあるように・・・まさしく真剣勝負は19回、合戦への参陣は37回に及んだと云われ・・・西暦1523年(大永3年)には、卜伝は高天原の合戦(≒常陸鹿島家の内乱)に出陣し、首級を21も討ち取る軍功を挙げ・・・また、当時も剣豪として知られていた・・・おそらくは・・・箕輪長野家家臣時代であり、若き日の上泉信綱(かみいずみ/こういずみのぶつな:※後に剣聖と讃えられる剣豪の一人で、新陰流の開祖) を下野国(※一説には上野国まで)に訪ねて、その弟子となり・・・彼から、当時の「陰流」を学んだ・・・とも云われております。
いずれにしても・・・こうして、他の武芸流派の真髄をも学んだ「塚原卜伝」が・・・新たな流派「鹿島新当流」を起ち上げることとなる訳ですが・・・では、そもそもとして・・・秘技「一の太刀」とは、いかなる奥義だったのか?
「一の太刀」とは、“師匠の松本政信から卜伝へ授けられた秘技であり、極々一部の高弟にしか教えられなかった”と云います。・・・それ故、「一の太刀」の全貌については、必ずしも明らかにはなっておりませんが・・・
一説では・・・“小太刀を用いた攻防自在、斬り掛かって来た相手を一瞬のうちに倒す技”・・・ということ位しか伝わっておりませんが、奥義とされる秘技「一の太刀」については、“門外不出とし限られた高弟達にしか教えなかった”・・・ともされております。
・・・とはいえ、塚原卜伝の生涯を通じて研鑽し続けた「鹿島新当流」の武芸は・・・小太刀や太刀を使用する技のほかにも、棒術や馬術などを含む総合的な武術(≒古武道)であり・・・結局のところは、『国に平和をもたらす為のもの』として位置付けられたとのこと。
70歳近くになったト伝は・・・自身が到達した境地である剣技「一の太刀」・・・すなわち『国に平和をもたらす為の剣の道』を伝えるためとして、自身三度目の廻国行脚へ出立し・・・
戦国時代の武将として知られる・・・室町幕府第13代将軍・足利義輝を始めとし・・・義輝の弟であり、室町幕府第15代将軍の足利義昭(あしかがよしあき)・・・細川藤孝・・・伊勢国司・北畠具教(きたばたけとものり)・・・一説には、甲斐武田家(・・・別ページにもあるように、甲斐の武田家は元々は常陸国出身氏族ですので、然も有りなん?・・・)家臣で軍師として知られる山本勘助(やまもとかんすけ)・・・などへ指南したとも云われ・・・
とりわけ、足利義輝や細川藤孝、北畠具教に対しては、剣技「一の太刀」を伝授したとされます。・・・卜伝が彼らに「一の太刀」を伝授した理由は、彼らが高い社会的立場にあったからではなく、「心技体」と云われる三位一体の素養全てを兼ね備えていたからだと考えられます。
彼ら三武将のうちで、特にト伝との親交が深かったのは・・・
やはり、『剣豪将軍』とも呼ばれた足利義輝その人であり・・・また、そのための繋ぎ役として重要な役割を果たしたのが、幕府衆の一人であった細川藤孝だったのではないでしょうか。
当時「洛陽」と呼ばれていた京都に、塚原卜伝が剣術指南役として招聘された際には・・・『弟子を約80人も引き連れ、ほかに大鷹3羽、馬3頭を率く』という、“大変豪奢な行列(≒後世で織田信長が行なう馬揃え的な軍事パレード?)だった”・・・とか。いずれにしても、傾奇(かぶ)いてますね。細川藤孝あたりの演出があったとしても。・・・これらと同時に、当時の室町幕府御所周辺の人々が、如何に或る種の権威を必要としていたのかなどの事情も感じ取れますが。
足利義輝らの有力な武将達が、彼の高弟になったことにより、その名声は天下に対して爆発的に轟くことになり・・・更に弟子達の数が増えることとなって・・・また、それぞれの弟子達が新流派を興すなど、戦国期における起爆剤的な役割も大きかったと考えられます。・・・
塚原卜伝の弟子達の中でも、その代表格と云えるのは・・・「鹿島神道流」の鹿島盛幹(かしまもりもと)や、「霞流」の桜井霞之介(さくらいかすみのすけ:※真壁暗夜軒とも)・・・とりわけ・・・後に徳川家康へ剣術指南することとなる「鹿島新当流」の後継者とされる松岡則方(まつおかのりかた:※鹿島神宮大祝職。松岡兵庫助とも)・・・等々。
いずれにせよ・・・晩年の「塚原卜伝」は、こうして諸国を巡り、行く先々で剣術などの武芸を指南していますが・・・
西暦1565年(永禄8年)5月、高弟の一人とされる室町幕府第13代将軍・足利義輝が・・・「永禄の変(えいろくのへん)」により、“いわゆる三好三人衆”に襲撃され、非業の死を遂げることになり・・・自ら剣を手にして応戦したものの、所詮は多勢に無勢で、無念の最期だったとも伝わります。・・・時代は風雲急を告げているのでした・・・。
この翌年の西暦1566年(永禄9年)、塚原卜伝77歳の時・・・自身3回目の廻国行脚を終え、常陸鹿島に帰郷することとなり・・・1571年(元亀2年)、国の平和を願う一人の兵法家・剣豪は、83歳の生涯を閉じました。・・・彼が掲げた崇高な思想とその技術体系から・・・人々は、いつしか『剣聖』の名を献じるようになったと。・・・
そして・・・この西暦1571年(元亀2年)を、単なる歴史的な偶然と観るのか?・・・はたまた、奇妙な運命的出来事と捉えるのか?
太刀「包永」の所在経緯を巡っては・・・細川藤孝が、この西暦1571年(元亀2年)に何故、大和多聞山城を攻め、奈良興福寺の僧「荒三位」と立ち合うことになったのか?・・・そしてそれが、何故偉大な兵法家「塚原卜伝」が亡くなった年だったのか?・・・
まず第一に背景として考えられるのが・・・当時の洛陽京都を含む近畿地方(≒天下)における世情の混乱、特に寺社勢力による政治介入があり、いわゆる混沌状態にあったことかと。・・・
遡ること1568年(永禄11年)9月には・・・かの織田信長が、義輝弟の足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府第15代将軍職に就けています。・・・そして、この頃の細川藤孝からしてみれば・・・既に亡くなっていた、“かつての主君・足利義輝公の弔い合戦”・・・ひいては、“弟君・足利義昭を筆頭とする幕府再興活動の真っ只中という情勢下にあった”のです。
そして・・・この時、敵対勢力の中に・・・奈良興福寺の僧「荒三位」が居り、立ち合いすることになった訳で・・・その「荒三位」が・・・旧主君であり、且つ塚原卜伝の門下生同志(=先輩後輩の間柄)とも云える遺品の一つ「包永」を保持していたのです。・・・これはもう、宿命的な出会いとしか云い様がないことだったかと思います。
また、「包永」の所有権そのものを合法的に継承した細川藤孝が、この太刀の扱いずらさに、何故に困惑し閉口したのか? についてを云えば・・・ごく単純な事として・・・塚原卜伝高弟として伝授された秘技「一の太刀」が、“小太刀特有の技だったから”に違いありません。・・・それ故に、「鹿島新当流」の奥義とされる秘技「一の太刀」の正統な継承者の一人を自負する細川藤孝としては・・・亡き主君や亡き師匠への鎮魂歌(≒レクイエム)的な魂が宿る一刀として、太刀「包永」を四寸程短く磨き直させ・・・小太刀「児手柏包永」へと再生したのでしょう。・・・表裏で刃紋が異なるという、その様から・・・その表裏どちらかを、志半ばで斃れた旧主君と・・・武芸という分野で多くの功績を遺し、83歳の生涯を全うした師匠という・・・二人の生き様を重ねて観ていたのかも知れません。そして、表裏一体を為す造形美に、目指すべき境地や中庸(ちゅうよう)精神・魂・心の有り様などの象徴と見做したのではないでしょうか。・・・それにしても・・・この後、宮中文化の正統な『古今伝授(こきんでんじゅ)』をも継承することとなる細川藤孝の才能や感性には、もはや驚くことしかできませんが。
・・・この後には・・・太閤「豊臣秀吉」の蔵刀を記した巻物の中に、再生された小太刀「児手柏包永」があったことから・・・細川藤孝が・・・この小太刀に、いわゆる箔を付与した上で太閤秀吉に献上したものだったのか?・・・いずれにせよ、“大坂御物の一つ”とされ・・・一時期は“時の政権下”に収められていた模様です。・・・太閤秀吉の性格上、箔が付いた物品には目が無さそうですし。
・・・その後の「児手柏包永」の所在を廻っては、諸説あるものの・・・
細川家から豊臣政権に内々の下賜願いがあったのか否か? などの経緯については分かりませんが・・・この小太刀は、再び細川家に引渡されて・・・細川藤孝の次男・興元(おきもと:※長男忠興の同母弟)へと継承された・・・と伝わります。
・・・細川興元(※幽斉次男)は、西暦1594年(文禄3年)に、当時まだ嫡子が無かったため、長兄「忠興」の次男「細川興秋(ほそかわおきあき)」を養子に迎えます。・・・細川興元は、太閤秀吉没後には、徳川家康に仕えることとなり、「関ケ原合戦」や、その前哨戦であった「岐阜城攻め」、その後の「福知山城攻め」においても、“細川勢の先鋒隊”として奮戦。・・・“関ケ原合戦後”には、長兄「忠興」が“豊前へ国替え”になると・・・細川興元は、これに従って「小倉城(現福岡県北九州市小倉北区)」の「城代」を勤めます。
・・・しかし、西暦1601年(慶長6年)12月になると、細川興元は長兄「忠興」と不仲となってしまい・・・結局は、隣国の黒田長政(くろだながまさ)に助力を得て、出奔し・・・その後は、自ら「自安(じあん:※持安とも)」と名乗って、堺の妙国寺(現大阪府堺市堺区材木町東4丁目)で数年過ごした後に、父の藤孝を頼ることとなって、京都小川屋敷にて隠棲生活を続けておりましたが・・・
・・・西暦1608年(慶長13年)の春には、“駿府の大御所・徳川家康の取り成し”によって・・・細川興元と、長兄「忠興」との間で和解が成立します。・・・“この取り成しに対する御礼”として、興元は大御所・徳川家康に「児手柏包永」を献上し・・・一方の大御所・徳川家康は、その返礼として興元へ500貫を与えた・・・とも伝わりますが、そもそもとして・・・豊臣政権下で行なわれた朝鮮出兵時(※文禄・慶長の役とも)や、「関ケ原合戦」の時点(※西暦1600年〔慶長5年〕9月15日)には、既に徳川家康の差料とされていた・・・という説もあり、実際のところ判然としません・・・。・・・そういえば、“常陸佐竹家の存続問題に関して取り成した”のも、「細川藤孝」でしたね。・・・この頃には、細川家自体の問題だけでなく、各外様大名家やそれら家臣達の処遇問題も多かった訳でして・・・と、なると・・・それら返礼品とされた武具刀剣類や、茶道具などの美術工芸品も・・・当然に、その真贋や由来などの格式をも重要視される訳でして・・・きっと、総合的な判断に因るところが大きかったのでしょうね。
尚・・・細川興元の実父「藤孝」が、西暦1610年(慶長15年)8月に亡くなると・・・興元は、江戸幕府(※徳川幕府とも)第2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ:※家康三男)により「関ケ原合戦」における武勇が認められ、この年に下野国芳賀郡茂木一万石の大名に取り立てられ・・・また1614年(慶長19年)からの「大坂の役」にも出陣すると、そこで再び手柄を挙げ・・・1616年(元和2年)に、常陸谷田部藩一万六千石の初代藩主とされております。
いずれにしても・・・一旦、徳川家康の所蔵刀とされた後に・・・一説には・・・江戸幕府(※徳川幕府とも)2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ:※家康三男)が、この「児手柏包永」を父で大御所の家康に幾度となく所望するも許されず・・・そんな折に、徳川家康の十一男で水戸藩初代藩主となる徳川頼房(※威公のこと)の養母・お梶(※英勝院のこと)が、大御所・家康に強請(ねだ)って、ようやく徳川頼房へ譲り渡された・・・と伝わります。
この「児手柏包永」は・・・その後、「水戸徳川家の宝刀」として、特に厳重に取り扱われていたようでして・・・代々の藩主が江戸を離れ水戸へ下向する際にも、必ず藩主自らが携行することとなり・・・“藩主自らが携行せず、この小太刀だけを積み荷として、江戸と水戸の間を往復させねばならない場合において”は・・・その道中を、「御先手頭一騎及び与力同心二十五騎が鉄砲携帯の上で守護した」とされます。・・・何やら・・・その時々の徳川将軍家から、いわゆる屁理屈や難癖を付けられて、この宝刀を取り返されることを何とか阻止したいという思惑が有ったとか? 無かったとか?・・・諸説ありますが。
時代が変わり、「明治」、「大正」を迎えた水戸徳川家では・・・西暦1921年(大正10年)11月28日に競売が実施されることとなり、これにより多くの刀剣類が世に流失することになったものの・・・この「児手柏包永」については・・・「特に由緒あり」との理由により、そのまま水戸徳川家に所蔵されることになりました。
・・・しかし、このように由緒ある宝刀として厳重に管理されていた「児手柏包永」も・・・西暦1923年(大正12年)9月に起こった「関東大震災」によって焼失してしまうのです。・・・きっと『業火により融け落ちてしまった』とされたのでしょう。結果としても、「現存を確認出来ない」と処理されたようでして・・・
当時の「罹災美術品目録所載」には・・・
「罹災美術品目録所載」
包永刀號児手柏 在銘
中心ニ兵部大輔藤孝磨上之異名號児手柏天正二年三月十三日ト彫付有之
長二尺三寸 ハバキ元一寸 横手下七分 厚二分四厘 反七分
有事故而神祖授與之
傳云、細川幽斎所蔵、刀之左右鍛磨之光彩不同、猶柏葉之向背色異、故名之曰児手柏、幽斎毎戦帯之、必勝、故献之神祖、神祖関原之役佩之、悉平賊徒
と有り・・・“長らく目録のみが現存し現物は存在しない”と考えられておりました。・・・ちなみに、この目録上は・・・「神祖関原之役佩之」、つまりは「徳川家康公が関ケ原合戦の際にこれを帯刀していた」と伝わる・・・とされております。
しかしながら・・・
極々最近の2015年(平成29年)、“焼身の状態ではあるものの、水戸徳川家により保管され続けていた”ことが分かり・・・
現在は、公益財団法人徳川ミュージアム(現茨城県水戸市見川1丁目)による所蔵となっております。
・・・上記の公益財団法人徳川ミュージアムは、水戸徳川家13代当主の徳川圀順公(※後の明公)が、水戸徳川家に伝来していた大名道具や古文書類を寄贈して設立した博物館(旧財団法人水府明徳会)であり、西暦1977年(昭和52年)に開館しています。
・・・その所蔵品は・・・徳川家康公の遺品(≒いわゆる駿府御分物〔すんぷおわけもの〕を中心に、家康公の十一男である水戸藩初代頼房公や、2代光圀公(※義公のこと)らの歴代藩主達、その家族の遺愛の什宝約3万点に及びます。・・・更には、敷地内にある彰考館文庫収蔵の『大日本史』草稿本や、その編纂のために全国から集められた古文書類約3万点からも史料が展示されますし・・・この「児手柏包永」以外にも被災した刀剣が、「167振もある」とされますので・・・様々な視点から歴史造詣を深めるのにお薦めです!!・・・
[総まとめ] ・・・結局のところ、江戸時代に成立したと云われる「水戸学」とは、いったい何だったのか?・・・「水戸学」の一端・・・
江戸時代に入る以前の・・・“水戸学の形成を醸成させた素地などについて”は、右のページ(
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末 云々】)以前を、是非お読み頂けたらとは思いますが・・・。さて・・・
江戸時代初期の朱子学(しゅしがく)派儒学者「林羅山(はやしらざん)」により・・・「上下定分の理」や、“その名分論”・・・が、武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府(※徳川幕府とも)の「正学」とされる。
・・・江戸時代中期の老中「松平定信(まつだいらさだのぶ)」が、西暦1790年(寛政2年)に「寛政異学の禁」を発するが、皮肉なことに・・・朱子学派の台頭により、天皇を中心とした国造りをすべきとする尊皇論と尊皇運動が興ることとなり・・・後の倒幕運動や明治維新へと繋がってゆくことに。・・・
・・・全てが全てとまでは云えませんが・・・支那(シナ)の学問の一つである朱子学派に傾倒した儒学者達が、日本古来の神道的なものや、それらの価値観と次第に習合してゆくのは・・・不思議と云えば不思議な事象かな? とも想います。
・・・そもそもとして・・・
「朱子学(※宋学とも)」を大成した「朱子」とは・・・後世の尊称であり、名前を「朱熹(しゅき)」と云い・・・文弱(※文事にふけって弱々しいこと)で知られた宋王朝の学者でした。
宋王朝は・・・満州地方より興った金王朝の圧迫を受け、次第に南方へ逼塞し「南宋」と称されるようになり・・・金王朝に次いでモンゴル地方に興った元王朝に、攻め滅ぼされた王朝でした。
「朱子学(※宋学とも)」は・・・当時の東洋世界の中心や文化の中心と考えられていた中華そのものが・・・野蛮を意味する夷狄(いてき)に取って替わられるという危機感や、夷狄に対する脅威論があった時代に、大きく発展した学問だったと云えます。
これらの事情により、「朱子」は大義名分を重んじ、自身が属した現王朝の正統性に拘(こだわ)らざるを得なかった事情が分かります。
結果としても、「朱子」は・・・「簒臣(さんしん:※君主への忠誠心などは無く、自分の公人としての立場を考えず、徒党を組んで権力を握り君主を惑わす臣下や帝位を簒奪する臣下のこと)」や、「賊后(ぞくごう:※賊のように君主や君子達を惑わす后のこと)」、「夷狄」・・・を厳しく斥けようとしました。
当時の「朱子」は、自身が属した宋王朝の正統性の拠り所として、「簒臣」や、「賊后」、「夷狄」を決して正統とは見做さず・・・『中華の歴代創業君主達の中で、この道義に適うのは後漢の光武帝(こうぶてい)只一人である』・・・と主張したのです。
いずれにしても・・・これらの台頭や簒奪が顕著に現れるようになると・・・君主、つまりは皇帝の姓が、単純に易(か:≒替)わることになるため、このような王朝交替を「易姓革命(えきせいかくめい)」と呼びます。
「朱子」は、このような「易姓革命」や、それに繋がる兆候をも認めないと主張した訳です・・・が、そんな事を云えば云うほど・・・概ねのところ易姓革命によって王朝を交替して来た支那(シナ)世界においては、かつてから正統な王朝などは・・・ほぼ存在しなかったことになってしまいます。
現に、江戸時代初期に中国大陸を支配したのは、漢民族による明王朝を倒した清王朝でした(※西暦1644年のこと)が・・・この清王朝は、元(もと)はと云えば満州地方周辺の女真族(じょしんぞく:※平安時代にあった「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」は、この部族の一派と考えられております)・・・つまり、いわゆる中華思想的に観れば観るほど、当の女真族は「北狄(ほくてき:=北方の蛮族)」になる筈であり・・・また、朝鮮半島高麗地方から観れば、高麗以東の夷狄を示す東夷(とうい)と呼ばれた部族国家に他ならず、学問的? 理屈上も、対立軸にあった敵対勢力の金王朝や元王朝などは、正統な王朝ではないと。・・・しかし、そうなると・・・「朱子」が属した「南宋」は? という矛盾が同時に生じてしまうことに・・・。
・・・ちなみに、「刀伊」という漢字は、当時の高麗語で「toi-トイ」と発音していたのを、古代日本で通用した漢字を当てたものとされております。
・・・そんな国際情勢と学問的矛盾の渦中にあった江戸時代前期・・・朱子学派の儒学者であり軍学者とも知られる「山鹿素行(やまがそこう)」は、寛文9年(1669年)に尊皇思想の歴史書『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』を著わします。
・・・彼の論旨や主張を要約すれば・・・
・・・『万世一系の天皇を戴く日本こそが中華であって、故に中国あるいは中朝と呼ばれるべきである』・・・としたのです。
・・・すると・・・日本国内に居た儒学者達が、従来から抱いていた支那(シナ)世界に対する複雑な想いが・・・次第に・・・失望感へと傾倒してゆきます。また、それに反比例するが如く・・・自国日本への様々な関心を呼び興すことになってゆくこととなり・・・このことによって、思想や学問、芸術などの各分野で表現されるようになった現象を、「日本型華夷(かい)意識の高まり」などと云います。
そもそも、中国・春秋時代の儒教の始祖とされる「孔子(こうし)」の教えは・・・『温故知新的且つ先王の道を重んじる』という思想に因るものでした。
・・・となれば・・・『日本における天子や先王に当たる存在は何か?』ということとなり・・・当時の儒学者達から、日本古来の神道や皇室の存在などに対する注目が集まるのは、ごく自然な流れであったかと。
これらの事情を踏まえつつ、次に取り上げたいのは・・・「水戸学」が醸成なり発展したのが、何故「水戸」を中心としていたのか? についてです。
一般的に「(前期及び後期)水戸学」が形成されたのは、いずれも「水戸徳川家」に由来するとされております。・・・しかし、この史実に影響を与えた時代情勢や背景的なものについては、縷々(
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末 云々】)以前のページで述べておりますので、再度ご覧頂けたらと思います。・・・また、この「水戸学」を「前期」と「後期」とに敢えて分類することは、この思想哲学を研究対象として学ぶ上では必要なこととは思いますが、時代やその背景的な社会情勢などを勘案しながら考察しないと、あまり意味は無いのかな? とも想いますので・・・ごく単純に・・・「前期」を、その勃興期と・・・「後期」を、その再興期とか、世間から再脚光を浴びた時期として考えるのが良いのではないでしょうか。
さて・・・“水戸徳川家の家祖”は、徳川家康の十一男・頼房公(※威公のこと)でした。
・・・そして、“彼を継ぐ世子とされた”のが、いわゆる「水戸黄門」として後に知られる光圀公(※義公のこと)です。
光圀公は・・・その死後に「義公」と諡されたことからも分かるように・・・「朱子学」に相当傾倒した人物だったと云って良いでしょう。
伝承では、光圀公が18歳の時に、「司馬遷(しばせん)」の『史記(しき)・伯夷伝(はくいでん)』を熟読し・・・その中でも、“伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)兄弟の行(くだり)”を読んで、深く感銘を受け・・・“それまでの自らの非行や乱行を悔い改めた”とされます。
「伯夷」、「叔斉」とは・・・「殷(いん)王朝」に属した「孤竹(こちく)国」という国の“公子兄弟(※伯夷が長男、叔斉が三男)”であり、“それぞれも殷王朝・紂王(ちゅうおう)の家臣であった”とされ・・・いずれも、“主君たる紂王を討って殷の天下を奪った周(しゅう)王朝の禄を食むことを潔(いさぎよ)しはとせず”・・・“それぞれが別々に山へ分け入って、蕨(わらび)だけを食べ、義を重んじて後に二人とも餓死した”・・・とされる“伝説的義人として語られる兄弟”です。
上記の“伯夷と叔斉兄弟の行”とは・・・概ねのところ・・・
『伯夷と叔斉は孤竹公の子であり、孤竹は自分の死後には、三男の叔斉に家を継がせようと考えていた』と云い・・・
『やがて父の孤竹が亡くなると、三男の叔斉は兄を差し置いて、家を継ぐ事を躊躇(ちゅうちょ)し、長男の伯夷へ譲ろうとした』・・・
しかし、『長男の伯夷は、父の遺言に背くことはできないと家を出てしまう』・・・
すると、『三男の叔斉もまた長兄の気持ちを察して、その後を追うように家を出てしまった』と。・・・
そして、『(旧孤竹)国の人々は、やむを得ず、(故孤竹公の)次男を立てて家を嗣がせたのだ』と。
また史実として確認できる光圀公は・・・日本へ亡命して来た中国明王朝の儒学者「朱舜水(しゅしゅんすい)」を、西暦1665年(寛文5年)6月に江戸に招聘し、同年7月には其処へ移住させています。
・・・“この朱舜水が齎(もたら)した学問”は、「朱子学」と「陽明学(ようめいがく)」の中間に在るとされており・・・また、『理学や心学を好まず、空論に走ることを避け、実理・実行・実用・実効を重んじた(≒経世致用の学にも通じる)』・・・とされます。
・・・光圀公が、このような「朱舜水」を深く敬愛したことにより・・水戸徳川家や水戸藩内に、思想的な影響を強く与えることとなりました。
光圀公が「(水戸徳川家の)世子」として定められ、頼房公が健在であった西暦1657年(明暦3年)には・・・後に『大日本史』と呼ばれ、歴代の水戸徳川家と水戸藩の財政を圧迫し続けることとなる、歴史書編纂という大事業(※修史事業とも)に着手します。・・・この修史事業を成し遂げるためとして・・・当時の水戸藩実質石高は、尾張徳川家(尾張藩)や紀州徳川家(紀州藩)の約半分の年間28万石ほどでしたが、“その内の8万石分を毎年割いた”と云われているのです。
水戸徳川家(水戸藩)は、自藩財政や領内経済を傾けてまで・・・“初志貫徹し、この大事業を成し遂げるべきとの大方針の基”・・・光圀公の死後も続けられ・・・その完成を見たのは、何と江戸時代も終わって・・・“西暦1906年(明治39年)になってからのこと”となります。
光圀公が、このような修史事業を発起した要因として考えられるのは・・・
一つ目としては・・・水戸藩が常陸国に置かれた目的に深く関わりますが、長い期間を常陸佐竹氏族によって統治され、また江戸からの鬼門方角に当たる地域を、徳川家そのものが円滑円満に守護し統治せねばならないという使命を課せられていたから。当初期は、徳川家康の実子「武田信吉」に水戸城を任せたものの・・・甲斐武田氏は、元々は常陸国出身氏族ですから、徳川家康としては容易に差配できるであろうとの判断があったか?・・・いずれにしても、常陸国の概ねの部分を含む地域の統治は、上手くはゆかず、病弱とされる信吉自身が亡くなってしまうなど・・・当時の感覚から云えば、「超難治地域」と云って差支えないかと想います。生前の武田信吉時代と云っても、ごく短い期間でしたが、それでも実際に「水戸城奪還計画事件」なども起きてしまいましたので。・・・次の頼房公時代は、武力や厳しい監視などで難を乗り越えましたが・・・其処を引き継ぐ光圀公としては、旧主であった佐竹氏族恩顧の遺臣や領民らを纏めていくには、彼らが信じるもの全てを包含し、且つそれらを超越した哲学的な思想を掲げざるを得なかったのでしょう。
二つ目としては・・・“いわゆる徳川御三家の筆頭とされていた尾張徳川家(尾張藩)の初代藩主・徳川義直(とくがわよしなお)”が、儒学を好んで尊皇思想を持ち、西暦1646年(正保3年)に『類聚日本紀(るいじゅにほんぎ:※『日本書紀』から『日本三代実録』までの六国史を、そのまま年代順に纏めた通史資料とされるもの)』を編纂していたことや・・・
三つ目としては・・・“朱子学派儒学者の林羅山と林鵞峯(はやしがほう)父子”が、“水戸徳川家の頼房公と光圀父子”とも親交があった上で、徳川宗家たる江戸幕府(※徳川幕府とも)により「国史」としての『本朝通鑑(ほんちょうつうがん:※幕府により編集された漢文編年体の歴史書のこと)』の編纂事業に参加していたことに触発されていたこと・・・などが挙げられるのではないでしょうか。
いずれにしても、この光圀公が水戸徳川家の家督を譲り受ける前後頃における・・・
光圀公による“義や筋道(すじみち)の実践”は、かなり徹底しており・・・
既に讃岐国高松藩の初代藩主とされていた長兄「松平頼重(まつだいらよりしげ)」の実子を、自身の養子とし・・・将来の「(水戸徳川家の)世子」として、徳川将軍家及び幕府に届け出て・・・光圀公の実子が、代って長兄「頼重」の養子として、高松松平家を継ぐことになりました。・・・このことが、“光圀公が、長男と三男の間で孤竹国の王位を譲り合った伯夷と叔斉の兄弟の伝説に倣ったもの”とされる由縁です。
光圀公が水戸徳川家の家督を譲り受け、水戸藩の2代目藩主となった後には・・・
*西暦1663年(寛文3年)から、水戸藩領内の寺社改革に乗り出して、村単位に『(水戸)開基帳(かいきちょう:※光圀時代に行なった強力な宗教統制や社寺整理の際に基礎資料とされた地誌のこと)』の作成を命じ・・・
*西暦1665年(寛文5年)9月には、上記の「朱舜水」を伴なって、当時「国許」と呼ばれた水戸へと赴き・・・“光圀公を発起人とする修史事業(※後の『大日本史』のこと)”の編纂に参加した「安積澹泊(あさかたんぱく:※通称は覚兵衛。≒物語『水戸黄門』に登場する渥美格之進のモデル的人物)」や、「佐々宗淳(さっさむねきよ:※通称は介三郎。≒物語『水戸黄門』に登場する佐々木助三郎のモデル的人物)」、「木下順庵(きのしたじゅんあん)」、『中朝事実』を著した「山鹿素行」などの儒学者や僧、神職の者達とも議論や交流を深めつつ・・・敬愛する「朱舜水」とともに、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将「楠木正成(くすのきまさしげ)」を、“日本史における尊皇の忠臣”として承認しております。
*翌西暦1666年(寛文6年)には、領内寺社の破却や移転などを断行し・・・
神社については、永らく続けられていた神仏習合状態にあったものを、社僧を別院に住まわせるなど神仏分離を徹底させるとともに・・・由緒ある静神社(現那珂市)や吉田神社(現水戸市)などについては、それらの修造を助けたり・・・神主など神職の者達を、京都に派遣して、神道を系統的に学ばせてもおります。
寺院については、当時多くの末寺などが乱立状態にあることが、藩士領民らの葬祭費などが藩内経済を逼迫させている一因として・・・由緒ある寺院とされた長勝寺(現潮来市) や願入寺(現東茨城郡大洗町)などについては、支援や保護を図りつつ・・・も、多くあった整理し末寺などを廃寺としています。
そのほかにも・・・水戸藩士らの墓地として、特定の寺院や宗派に属さない共有墓地を、水戸上町及び下町に設ける(※それぞれ現在の常磐共有墓地と酒門共有墓地のこと)・・・等々・・・
*西暦1682年(天和2年)4月に、光圀公が敬愛した「朱舜水」が江戸で亡くなり・・・その墓所は、水戸藩主累代の儒式墓地である瑞龍山(ずいりゅうさん:※現茨城県常陸太田市)であり、明朝儒式様式の墓が建てられております。
*西暦1683年(天和3年)には、江戸時代中期の真言宗の僧・国学者・歌人とされる契沖(けいちゅう)に『万葉代匠記(まんようだいしょうき)』と呼ばれる、文献資料に根拠を求めて実証することを尊重した『万葉集』の注釈書を委嘱しました。仏典漢籍に通じた契沖に依頼したことにより、後に興ることとなった国学方面での光圀公の功績と云えるでしょう。
この『万葉代匠記』は、古典学史上画期的なものとして、内外の典籍を自由自在に使用した実証的な注釈が高く評価されています。・・・「代匠」という語は、『老子』下篇と『文選』第46巻豪士賦の中に、その出典があり、『本来これを為すべき者に代わって作るのであるから誤りがあるだろう』という解釈の基・・・当初は、光圀公の志により水戸徳川家が『万葉集』の諸本を集め校訂する事業を行なっており・・・寛文から延宝年間に掛けては、江戸時代前期の歌人・和学者として知られた「下河邊長流(しもこうべちょうりゅう/ながる)」に註釈の仕事を託したものの、その長流が病となって、この依頼を果たせなくなったため、光圀公の同好の士であった「契沖」を推挙したとされます。・・・この『万葉代匠記』の「初稿本」は、西暦1688年(元禄元年)頃・・・「精選本」は、1690年(元禄3年)に成立しました。・・・ちなみに、「初稿本」が完成した後、水戸徳川家によって作られた校本と『詞林采葉抄(しりんさいようしょう:※南北朝時代に成立した『万葉集』注釈書のこと)』がともに「契沖」に貸し与えられ、それら新しい史料を用いて「初稿本」を改めたものが、「精選本」となります。・・・しかし、「初稿本」は、当時の世に或る程度広まりました・・・が、「精選本」は光圀公没後における水戸徳川家内紛などにより、日の目を見ること無く、そのまま水戸徳川家に秘蔵されることとなり・・・明治になってから刊行されております。
いずれにせよ・・・この『万葉代匠記』では、『万葉集』の中にある語法に一定の規則性があることを見出すなど、現在の日本語学の基礎となり得るものを多く指摘しております。・・・「契沖」は、こうした『万葉集』の正しき解釈を求める過程において、当時主流となっていた「定家仮名遣(ていかかなづかい)」の矛盾に気付いて、歴史的に正しい仮名遣いの例として、『万葉集』のみならず『日本書紀』や、『古事記』、『源氏物語』などの各古典から採集し、それらを分類しています。・・・こうして成立したのが、語学書『和字正濫鈔(わじしょうらんしょう)』であり・・・個々の語彙の仮名遣いの根拠を示した表記法は、「契沖仮名遣(けいちゅうかなづかい)」と呼ばれ、後世における歴史的な仮名遣い成立に大きな影響を与えているのです。
これらのように、光圀公は・・・学問を含む多くの漢籍文化を領内に伝えながら、更に水戸藩領全体の経営にも数多くの実績を積み上げ続けて・・・西暦1691年(元禄4年)5月には、常陸国久慈郡新宿村西山(現常陸太田市新宿町)に建築された隠居所(※西山荘とも)にて隠棲生活に入るのです。・・・光圀公が何故に、其処を隠居所にしたのか? については、諸説ありますが・・・この周辺地域は・・・常陸佐竹氏が長い間、その根拠地としていた地域であり、当然に・・・庶流家系を多く含む佐竹氏とは歴史的な密接度合が高く、更には佐竹氏秋田転封が決定された際に至っても、そのまま常陸に残留する佐竹遺臣達の家系氏族も多かったため、ごく最近まで新支配者とされた水戸徳川家を受け容れ難いという心情は、少なからず有ったかと。・・・光圀公的? な善政を実践し始めた光圀公個人への尊敬の念も、もちろん醸成されていったのでしょうが・・・これは、心情的には徐々に融和していったと考えられ・・・一方で・・・光圀公が“そういった場所”を隠棲生活の拠点としたのは、“光圀公自身が大勢の佐竹遺臣達への抑え役”として機能するため、云わば目付や監視するために選んだ・・・という言い伝えもあります。
いずれにしても、それから約5ヶ月後の西暦1691年(元禄4年)10月・・・光圀公は、敬愛した「朱舜水」と同じく儒式墓地とされる瑞龍山に、自らの「寿蔵碑(じゅぞうひ:※生前墓のこと)」を建てて、“そこに自らが着用した衣冠束帯(いかんそくたい)を埋めた”と云われ・・・また、その石碑裏面には、光圀公が自らの半生を筆に起こした原稿部分と、江戸時代前期の儒学者で彰考館総裁を務めた「鵜飼錬斎(うかいれんさい)」との撰文が為された・・・と伝えられる“以下の碑文”が刻まれております。・・・ここに、“光圀公の生い立ちから彼の志など”が凝縮されていると想われます。(↓↓↓)
【梅里先生(※徳川光圀のこと)碑陰(ひいん)並びに銘】
《原文は漢文表記となりますが・・・》
『先生常州水戸産也其伯疾其仲夭先生夙夜陪膝下戰戰兢兢
其爲人也不滞物不著事尊神儒而駁神儒崇佛老而排佛老常
喜賓客殆市于門毎有暇讀書不求必解歡不歡歡憂不憂憂月
之夕花之朝斟酒適意吟詩放情聲色飲食不好其美第宅器物
不要其奇有則隨有而樂胥無則任無而晏如自蚤有志于編史
然罕書可徴爰捜爰購求之得之微遴以稗官小説摭實闕疑正
閏皇統是非人臣輯成一家之言元祿庚午之冬累乞骸骨致仕
初養兄之子爲嗣遂立之以襲封先生之宿志於是乎足矣既而
還鄕即日相攸於瑞龍山先塋之側痤歴任之衣冠魚帶載封載
碑自題曰梅里先生墓先生之靈永在於此矣嗚呼骨肉委天命
所終之處水則施魚鼈山則飽禽獸何用劉伶之鍤乎哉其銘曰
月雖隱瑞龍雲光暫留西山峯建碑勒銘者誰源光圀字子龍』
《上記原文読み下しの一例として・・・》
『先生(※徳川光圀のこと)は常州(じょうしゅう/つねしゅう)水戸の産(うまれ)なり。 其の伯(はく)は疾(や)み、其の仲(ちゅう)は夭(よう)す。先生は夙夜膝下(しゅくやしっか)に陪(ばい)して戦戦兢兢(せんせんきょうきょう)たり。
其の人と為(な)りや、物に滞(とどこお)らず、事に著(ちゃく)せず。神儒を尊んで神儒を駁(ばく)し、仏老を崇(あが)めて仏老を排す。常に
賓客(ひんかく)を喜びて、殆(ほと)んど門に市(いち)す。 暇(いとま)ある毎(ごと)に書を読めども、必ずしも解することは求めず。歓びては歓びを歓びとはせず、憂ひては憂ひを憂ひはとせず。月の
夕(ゆうべ)、花の朝(あした)に、酒を斟(く)みて意に適すれば、詩を吟じて情を放(ほしいまま)にす。聲色飲食(せいしょくいんし)は其の美を好まず、第宅器物(ていたくきぶつ)は
其の奇を要せず。有れば則(すなわ)ち有るに随(したが)つて樂胥(らくしょ/たの)し〔み〕、無ければ則ち無きに任せて晏如(あんじょ)たり。蚤(はや)くより、史(ふみ)を編(あ)むに志有り。然(しか)れども書の徴(しる)すべきもの罕(まれ)なり。爰(ここ)に搜(さぐ)りて爰に購(あがな)ひ、之(これ)を求めて之を得たり。微遴(びりん)するに稗官(はいかん:※古代中国の官職名であり、民間の風聞を集めて王に奏上した下級役人のこと)して小説を以てす。実(じつ)を摭(ひろ)ひ疑はしきを闕(か)き、皇統を正閏(せいじゅん)して、人臣を是非し、輯(あつ)めては一家(※日本という一国家のこと)の言(げん)と成す。元禄庚午(げんろくこうじん)の冬、累(しき)りに骸骨(がいこつ)を乞(こ)ふて致仕(ちし)す。
初め兄の子を養ひて嗣(し)と為し、遂に之を立てて以て封(ふう)を襲(つ)がしむ。先生の宿志(しゅくし)、是(これ)に於(おい)てか足れり。既に
郷に還りては、即日攸(ところ)を瑞龍山(ずいりゅうさん)先塋(せんえい)の側(かたわら)に相(そう)し、歴任の衣冠魚帯(いかんぎょたい)を痤(うず)め、載(すなわ)ち封(ふう)じ、載ち
碑(ひ)して、自(みずか)ら題して梅里先生の墓と曰(い)ふ。先生の霊は永く此(ここ)に在りて、嗚呼(あぁ)、骨肉は天命終(おえ)たる所に委(まか)せ、水では則ち魚鼈(ぎょべつ)に施すなり、山では則ち禽獣(きんじゅう)に飽(あ)かしめん處(ところ)なりと。何(なん)ぞ劉伶(りゅうれい:※中国晋王朝時代の文人で、酒びたりの自由気ままな生活を送ったとされる人物のこと。≒つまりは、分不相応な人物との比喩です)の鍤(すき:=鍬)を用ひんや。其の銘は曰ふ。
月は瑞龍の雲に隠(かく)ると雖(いえども)、光は暫(しばら)く西山(せいざん)の峯に留(とど)まれりと。碑を建て銘を勒(ろく)する者は誰(たれ)ぞ、源(みなもとの)光圀、字(あざな)は子龍(しりょう/しりゅう)哉(かな)と』。
《上記読み下し文の大意としては・・・》
『先生(※徳川光圀のこと)は常陸の国水戸に生まれた。その兄(※讃岐高松藩初代藩主・徳川頼重のこと)は疾み(≒頼重が故あって家臣の家に生まれて10余年間日陰の身で育ったこと)、仲兄(※亀丸/亀麿のこと)は早世した。先生(※徳川光圀のこと)は、常に朝早くから夜遅くまで、神々や父母、年長者の膝下で、畏れ慎む気持ち(≒兄を跳び越えて水戸家を継いだことの後ろめたさ)を以って努力していた。
ものに拘(こだわ)らず、些細なことには執着しない性格であった。神道や儒教、仏教、老子の尊ぶべきところは尊重し、捨てるべきところについては、一向に顧(かえり)みなかった。
常に来客を喜び、まるで多くの人が出入りする市(いち)のようだった。時間があれば、相応に書物を読んだが、理解するまでとは必ずしも求めなかった。歓びや憂いついては、決して度を越すということはなかった。
月夜や花が咲く日中を愛(め)で、酒を酌んでは、その時の心情を詩として吟じた。音曲や女色、飲食については美を求めず、邸宅や器物にも
あまり執着しなかった。有れば有ったで楽しみ、無ければ無いで不平を言わなかった。若い時から歴史を編纂する志があったが、参考とする書物はあまり多くは無かった。そのため、あちらこちらで探し求めては購入し、些細な民間伝承の類いなどの情報を収集しては、詳細な比較検討を重ねていた。正しき事実については拾い取り、疑わしきものは捨て去って、当時の史書に誤り伝えられていた皇統を正しく見直し、過去の忠臣や婦人などについての誤謬(ごびゅう)を訂正するなどして、(≒『大日本史』編纂事業を始めて)日本国家における歴史(≒国史)を著した。元禄3年(西暦1690年)の冬には、自ら骸骨のような頭を垂れて、官職の辞職を乞い願い、そして辞職した。
初め、兄(※讃岐高松藩初代藩主・徳川頼重のこと)の子「綱条(つなえだ)」を養子としてから世子(せし)と為し、遂には水戸徳川家(水戸藩)を襲封させた。ようやく先生(※徳川光圀のこと)の宿願が叶ったのである。以前に
郷里に帰ってから、瑞龍山にある先祖の墓の傍(かたわら)に、在任中使用していた衣服や魚帯(※中国唐王朝時代に木製または銅製により魚の形に造られた、常に官吏が携えて、自らの身分を証したもの)を埋めることにより封じ、更には碑(いしぶみ)を建て、自ら題した「梅里先生墓」を刻(きざ)ませた。先生(※徳川光圀のこと)の霊魂は、永くここに泊(とど)まるのである。あぁ、骨肉から成る人体については天命が尽き果てるところに任せ、水中で死ねば魚や亀に施すなり、山中で死ねば鳥獣の腹を満たしてやろう。どうして、分不相応な劉伶の鍬などの葬具(≒宝の持ち腐れ的な、意味を為さない葬具)を用いる必要が有ろうか。よって銘しておく。
「月が瑞龍山の雲間に隠れても、その光(・・・※いわゆる光圀公の「光」と韻を踏んでおります・・・)は、しばらく西山(せいざん)の峰に留まるであろうと。この碑を建て銘を刻ませた者とは源光圀、字は子龍である」と。』
・・・光圀公は、西暦1700年(元禄13年)12月6日、“この西山荘(せいざんそう)”にて没し・・・享年73。「義公」と諡号されるのです。
尚、光圀公没後のこととなりますが・・・西暦1692年(元禄5年)11月22日には、上記にある「佐々宗淳」に命じて、“楠木正成公の戦没地”とされる「湊川神社(みなとがわじんじゃ:※現兵庫県神戸市中央区)」に建碑を行なわせており・・・碑の表面には、生前の光圀公の字によって『嗚呼忠臣楠子之墓』と。・・・碑の裏面には、“生前の朱舜水による賛辞”が刻まれており・・・“楠公祭祀の先駆け”としているのです。・・・それまで天才軍略家としては知られていた楠木正成公でしたが、光圀公と「朱舜水」らによる再発見により、支那(シナ)の代表的忠臣として語られる「諸葛孔明(しょかつこうめい)」に匹敵する忠臣との評価を得られるようになりました。
上記のほか・・・光圀公による事績については、統一書名『西山遺事(せいざんいじ)』・・・別書名としては、『桃源遺事(とうげんいじ)』や『西山公御遺事(せいざんこうごいじ)』・・・と呼ばれる光圀公に関する逸話などを集大成した伝記が、より詳しいかと。・・・この伝記物の著者とされるのは、上記にある「安積澹泊(※通称は覚兵衛)」などの“生前に光圀公と交流があった者達”や、“光圀公の誕生に力を尽くした水戸藩家老・三木之次(みきゆきつぐ)の孫・三木之幹(みきゆきもと)”、「宮田清貞(みやたきよさだ)」、「牧野和高(まきのかずたか)」らであり・・・編纂されたのは、光圀公没年の翌西暦1701年(元禄14年)のこととされますが・・・
健在であった頃の光圀公は、或る時期から隠棲生活に入るまでの期間において・・・『毎年元旦の早朝には直垂(ひたたれ)を着し、京都方向へ遥拝していたこと』や、『近臣達には折に触れて、わが主君は天子(※天皇のこと)なり。今将軍は我が宗室(※徳川本家のこと)なり。と語っていた』と、この『西山遺事』に記されています。・・・つまりは、どちらかと云えば・・・“天皇は「忠」の対象であり、将軍家は「孝」の対象である”と。
光圀公の人生を、私(筆者)が勝手に振り帰れば・・・
当時の関白左大臣「近衛信尋(このえのぶひろ)」の娘「近衛尋子(このえちかこ:※通称は泰姫〔たいひめ〕や台姫、院号は法光院、諡号は哀文夫人)」との婚姻(※西暦1654年〔承応3年〕のこと)が、本人のみならず、後世における水戸徳川家の家風に対して、かなり大きな影響を及ぼしていたかと。・・・義理の父に当たる「近衛信尋」は、後陽成(ごようぜい)天皇の第四皇子であり、いわゆる「皇別摂家」です。また、次期天皇と目されていた「後水尾天皇(ごみずのおてんのう)」の同母弟でもあり・・・つまりは、その娘の「尋子」は、“後陽成天皇の外孫”であり、“後水尾天皇の姪っ子”に当たります。・・・しかし、惜しくも・・・正室「尋子」は、病気により1658年(万治元年)閏12月に、「享年21」で亡くなってしまい・・・
翌1659年(万治2年)の元旦・・・光圀公は、夫人の死を悼んで・・・下記の『元旦に藤夫人(とうのふじん)を祭る文』を著しております。
《原文は漢文表記ですが・・・》
『(中略)物換(かえ)りて、年改(としあらため)れども、我が愁(うれい)は移ることなし。谷の鴬(うぐいす)百たび囀(さえず)れども、我は春無しと謂(い)はん。庭の梅は已(すで)に綻(ほころ)びたれども、我は真(まこと)ならず謂はん。去年の今日は対酌して觴(さかずき)を挙げ、今年の今日(こんにち)は独り坐(ざ)して香を上(あげ)る。鳴呼(あぁ)哀しいかな。幽冥長(とこし)へに隔(へだ)つ。天命なるか。維(ただ)霊よ来(きた)り格(いた)れ。』
・・・尚、夫人の実家「近衛家」に奉ずるためとして、『藤夫人病中葬礼事略(とうのふじんびょうちゅうそうれいじりゃく)』をも記しております。・・・「細川藤孝(※後の幽斉)」が後継したとされる『古今伝授』と比較できる訳ではありませんが・・・この当たりの、葬祭儀礼を含む宮中文化の一端が、水戸徳川家(水戸藩)にも伝えられていたこと自体が・・・後に「(後期)水戸学」の再興期と呼ばれたり、世間から再脚光を浴びた時期と重なって来るとともに、“水戸徳川家(水戸藩)における尊皇の家風や気風が、光圀公を淵源とするところが大きい”と云えますし・・・光圀公が雲隠れ為された(≒光圀公没)後には、“その余光が、明治維新の源流となって、煌々と後世を照らした”・・・とも云えるのです。
・・・と、ここまでは・・・概ねのところ・・・いわゆる「(前期)水戸学」・・・つまりは、“その勃興期”に関する事柄でした。
次に「(後期)水戸学」の再興期の後、あるいは世間から再脚光を浴びた時期以降のこととなりますが・・・様々な事件などが起こって、(
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末 云々】)以前のページ内容の如く「(後期)水戸学」というものが、或る種の起爆剤となって「明治維新」を牽引する役割を果たしました・・・が、当時の水戸徳川家(水戸藩)が直面した事件などを、かなり大雑把に要約致しますと・・・
*西暦1868年(慶応4年)1月:鳥羽伏見において幕府軍が新政府軍に敗退し・・・京都で慶喜公護衛の任に当たっていた本圀寺党(※激派とも)勢は、諸生党(※門閥保守派とも)討伐の勅許を得て江戸に帰り、水戸藩の江戸藩邸から諸生党を駆逐。これにより、諸生党の朝比奈や筧ら十数名は免職謹慎となって、水戸へと戻って行く。市川は罷免された。・・・藩主の慶篤は、諸藩預かりとなっていた天狗党(※激派とも)勢数百人を赦免して、再び水戸藩政に復帰させる。
*同年(慶応4年)3月下旬:本圀寺党勢が3月下旬に水戸へと向かうと・・・水戸へ本圀寺党勢が向かっているとの急報に接した中間派(※鎮派/大発勢とも)が、いち早く反応し・・・本圀寺党勢迎撃のために諸生党が出払っている隙を突くかたちで、水戸藩庁(※水戸城のこと)を占拠してしまうが・・・この時、中間派は諸生党の退庁(退城)を待ったが、占拠した中間派が諸生党に敵対して幽閉されていた者達を解放し・・・逆に諸生党員らの家禄を召し上げ、お家断絶とした。・・・これにより諸生党は、仕方なく一旦は会津方面へ退くことになり・・・その後には、越後方面を転戦することに。
*同年(慶応4年)3月26日:本圀寺党勢が水戸に到着し水戸藩庁に入ると・・・未だ水戸に留まっていた諸生党の者や、その協力者達を・・・死罪や投獄するなどして厳しい粛清が始められることに。
*同年(慶応4年)10月1日: 会津藩庁(※会津城のこと)が新政府軍により陥落した後、水戸からの征討隊が会津に駐在していることを知った諸生党勢は、ほぼガラ空き状態となっている水戸藩庁を奪還すべく、市川らが急遽水戸へと向かう。・・・その途中、新政府軍による攻撃を凌ぎながら水戸へ到着した・・・が、諸生党勢来襲を知り恐怖心に駆られた水戸藩庁を守っていた城内兵(※旧中間派と旧本圀寺党勢から成る者達のこと)が、幽閉していた諸生党員16人による内応を恐れて処刑し始め、同日中に20人をも追加処刑してしまう。
*同年(慶応4年)同日:諸生党勢による水戸藩庁奪還攻撃が始まり、城内兵との間に壮烈な銃撃戦が行なわれたが、落とせなかったため・・・諸生党勢が藩校弘道館に入る。
*同年(慶応4年)10月2日:水戸藩庁を守っていた城内兵(※旧中間派と旧本圀寺党勢から成る者達のこと)が、藩校弘道館に殺到して、激戦が繰り返される。・・・これにより、武器も少なく前夜以来飲まず食わずの諸生党勢は、徐々に後退することに。・・・尚、この時点において、辛うじて戦える諸生党勢は158名に減じていた。
*藩校弘道館の戦いに勝利を収められなかった諸生党勢が、水戸藩庁奪還計画を断念し・・・一旦銚子方面に退いてから、函館にあった榎本武揚の軍に、その身を投じることとした・・・が、水戸藩庁を守っていた城内兵(※旧中間派と旧本圀寺党勢から成る者達のこと)から追討隊500名が編成されて、その諸生党勢を追い駆けた。
*銚子において高崎藩兵らにより押し戻された諸生党勢が、行き先を千葉方面へ変更する・・・が、その途中で水戸藩追討部隊に追い付かれ、決死の戦闘が始められることとなり・・・攻守双方に多くの犠牲者を出すことに。
*江戸に潜伏していた市川が、水戸藩追討部隊から選抜された捜索隊に発見されると・・・水戸へと護送された後に、逆さ磔の刑に処せられる。
上記の経緯からも分かるように、当時の水戸徳川家(水戸藩)には・・・
市川らの諸生党(※門閥保守派とも)と・・・中間派(※鎮派/大発勢とも)・・・そして、天狗党(※激派とも)及び本圀寺党(※激派とも)の・・・概ねのところ、三大派閥が存在しており・・・特に、諸生党(※門閥派とも)と天狗党(※激派とも)の対立が顕著であって、且つ長きに亘ることとなり・・・一方が他方を、ほぼ潰滅させて藩政の要職を占めると・・・やがては、その振り子作用的な反動があるという繰り返しとなりました。・・・そのため、互いに対する憎悪は、次第に激烈となって・・・報復行為も過酷の度合いを増してしまったようです。
・・・明治維新を主導した薩摩や、長州、土佐等の雄藩においても、そうでしたが・・・「尊皇か佐幕か?」とか、「攘夷か開国か?」を巡る方法論上の対立は・・・それぞれの度合いに強弱はありましたが・・・いずれの藩内においても、多少なりとはあったかと。
・・・しかし、何故に水戸徳川家(水戸藩)においてのみ、このような藩内政争の最終局面において、骨肉の争いに明け暮れては互いの血を流し合い、次世代を担う筈の優秀な人材を多く失なうことになったのでしょうか?・・・現実として、“明治新政府の要職に就いて傑出した活躍をする元水戸藩士が、ほとんど出ない”という寂しい結果となってしまいました。
そこで、その遠因として考えられる事柄について、私(筆者)なり(下記①~⑥)に集約してみました。
①当時の水戸藩主であった慶篤公(※後の順公)の体力や気力などを含む、云わばリーダーシップ上の問題です。
一般的に・・・組織の長が、確たる信念を持って、強力且つ迷うことなく組織の構成員を牽引出来れば、その組織は大きな成果を収められると云われます。
この時の慶篤公は・・・英明で行動的なカリスマ性を備え、水戸藩のみならず全国的にも影響を与えた人物であり、あまりにも偉大なオピニオンリーダーと当時認識されていた前藩主の斉昭公(※烈公のこと)・・・と、どうしても比較されてしまうという、気の毒な立場にあったことは容易に理解できますが・・・それにしても、“どこか頼りない感じ”に、各史料上で描かれております。
ましてや・・・斉昭公は、当時「御簾中(ごれんじゅう)」と呼ばれた正室や各側室との間に「二十二男十五女」を儲けた偉大な? 父親であり・・・慶篤公の兄弟姉妹には、幕末最後の将軍や、因幡鳥取藩主、備前岡山藩主等々おりましたので、“水戸学そのものが伝播する起爆剤としても、かなりのものがあった”かと。
慶篤公は・・・筑波山における天狗党挙兵の後すぐに、市川ら諸生党が江戸屋敷に押し寄せて、慶篤公に鎮圧を強く要請すると、それに同調し・・・その後に、中間派(※鎮派/大発勢とも)の者達が押し寄せると、たちまち翻(ひるがえ)ってしまった・・・というのが、一例に挙げられるかと。・・・当時の藩重役や藩士らの意のままに、「よかろう」と同意するばかりであったことから、陰では「よかろう様」と呼ばれていた、とすら云われております。・・・優秀な弟達や、偉大な父親とともに当時の尊皇攘夷論を牽引する藩士らが多かったことも、慶篤公の判断を惑わせていた可能性もあり、本当にお気の毒だとの印象を得ます。・・・しかも、亡くなってからの諡号が「順公」とされておりますので。・・・従順な?・・・
それでも、江戸時代の大半と云える期間においては・・・斉昭公的? なリーダーシップなどは、そもそも現藩主に対して期待する風潮は、むしろ少なく・・・重臣らの合議による補佐を受けながら、藩祖の敷いた路線を忠実に歩むことこそ理想の藩主像とされ、いわゆる「お家の安泰」こそが、重臣や藩士らの願うところであり・・・このことが、藩内に門閥保守派とも呼ばれる「諸生党」の台頭を許容する土台となりました。
江戸時代を通じて・・・その治政に顕著な実績を残して「名君」と讃えられる人物が、どれほどいたか? を考えれば明らかかと。・・・そういう意味では、「大津浜事件」などの“数々の事件における実体験を持つ斉昭公のほうが、むしろ稀有な藩主だった”と云えますし・・・平時でさえあれば、無用な波風を立てないことこそ、藩主に求められていたことであって、上記のような水戸藩内訌の全責任を、慶篤公に求めるのは、酷なことと云わざるを得ません。
②水戸藩士達の中に、藩士全体を纏めるリーダーのような人材が出てこなかったという問題です。
江戸時代における大半の藩主達のように、藩主が“いわゆるお飾り的な存在だった”とすれば・・・これを主体的に補佐して、実際に藩政を動かす者が、当然必要になります。
江戸幕府(※徳川幕府とも)開府後の治世宜しきを得て・・・次第に、戦国期の荒々しい気質や気風が消えてゆき・・・比較的に平和な世が続きます。
諸藩においても・・・藩内に上下の身分関係が築かれることとなり・・・藩政に直接参与する家柄や職掌も、同時に固定化されてゆき・・・
いわゆる“概ね鎖国政策”により、対外的に刺激の少ない、変化が捉えにくい時代になっていました。・・・すると、専(もっぱ)ら前例主義によって物事が処理され始め・・・更には、常識的且つ効率的に物事の決着が諮られるようになり・・・個人の能力ではなく、身分や家柄に重きを置いた藩政運営が行なわれるようになってまいります。
概ねのところ・・・江戸時代を通じて観ても・・・いわゆる「赤穂浪士」として称賛される「元家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)」のように・・・非常事態の際に現出するという人物は、ごく稀であり・・・ましてや、戦国武将的な英傑と評されるような家老などは、ほとんど観られなくなってまいります。・・・尚、「赤穂事件」の当事者たる浅野家や大石家などのルーツには、常陸真壁や常陸笠間との関わりもあります。
諸藩において、たまに実力を備えた大物的? な家老や重臣が現れたりすると・・・藩の世継ぎ問題に干渉したり、お家乗っ取りを企てたりして・・・かえって、その藩政や方向性などを混乱させてしまいますので・・・卓越した人材などは、そもそもとして求められていなかったいう具合なのです。・・・ちなみに、水戸徳川家(水戸藩)でも、光圀公(※義公のこと)時代に似たようなことがありました。・・・
そういった面から云えば・・・前藩主の斉昭公時代の水戸徳川家(水戸藩)では・・・とかく改革への情熱に駆られて理想や理念に突っ走りがちな藩主に対して抑制力を適宜効かせながら、他の同僚達と役割分担をし、且つ門閥保守派とも調整を図るなどして、水戸藩政を纏めていくという役割を果たした「藤田東湖(※名は彪〔たけき〕、藤田幽谷の次男)」は、既にこの世の人ではなく・・・
幕末期の水戸藩における三大派閥の各指導者とされたのは・・・天狗党(※激派とも)の「武田耕雲斎」、中間派(※鎮派/大発勢とも)の「榊原新左エ門」、諸生党(※門閥保守派とも)の「市川三左衛門」でした・・・が、“現藩主の信頼のもとに各派閥間の壁を乗り越えて、云わば藩論全体や全ての派閥を束ねるような強烈な力量を持った者は少なかった”・・・とは云えるのかと。
③“立原翠軒と藤田幽谷の子弟門弟同士”が、互いに反目していたため・・・“その後の政権簒奪競争が激化し、やがて深刻化した”・・・とする説です。
光圀公以来の『大日本史』編纂を続けていた彰考館の総裁を務めた「立原翠軒」が見い出した逸材が「藤田幽谷」なのです・・・が、後に両者間において、学問的且つ解釈上の問題で、のっぴきならないほどの確執が生じてしまい・・・幽谷とその弟子達は、翠軒を彰考館から追い出してしまいます。
これにより、“彰考館を追い出された翠軒の教えを引き継いだのが、門閥保守派(※諸生派とも)”であり・・・一方で、“幽谷の学派が革新派(※天狗派とも)に継承される”こととなって・・・やがて、これが水戸藩内訌のキッカケとなってしまいます。(≒第1段階)
門閥保守派(※諸生派とも)と革新派(※天狗派とも)との間の溝を、更に深めたキッカケとされるのが、“水戸藩第9代藩主の座を巡る権力抗争”でした。
門閥保守派(※諸生派とも)は、当時の江戸幕府(※徳川幕府とも)重鎮らの幕閣達に働き掛けて、時の将軍・家斉(いえなり)の子「清水(※御三卿の一家)公」を、徳川御三家「水戸家」の世継ぎにと活動し・・・一方で、水戸藩士らの大半を占める中士以下の者達(≒中間派〔※鎮派/大発勢とも〕と革新派〔※天狗派とも〕)は、大挙して江戸に上って、門閥保守派と同様に幕府要人へ第8代藩主の弟「斉昭」を嗣子にと陳情したのです。・・・結果として、この後に亡くなった8代藩主「斉脩(なりのぶ)公(※後の哀公)」の遺言によって決着が図られることとなり、「斉昭」が水戸藩第9代目藩主に就任しています。
就任直後の斉昭公は、それまで藩の要職を独占していた門閥保守派(※諸生派とも)を退けると・・・自身の藩主就任に貢献した藤田幽谷の弟子であった「相沢正志斎」や、幽谷の子「東湖」などを藩制改革の重要ポストに起用したため・・・門閥保守派(※諸生派とも)と革新派(※天狗派とも)との間の溝が、一層深まってしまいます。(≒第2段階)
水戸藩における斉昭公の名声は、当時の重要ポストにあった者達の抜群の企画力や実行力によって高まりました・・・が、これと同時に・・・斉昭公による過度な寺社改革などに対しては、門閥保守派(※諸生派とも)の急先鋒とされる「結城寅寿(ゆうきとらじゅ)」などが筆頭に挙げられますが、いわゆる反対者が多かったのも事実です。
後に、結城ら門閥保守派(※諸生派とも)の政略によって、殿様の斉昭公が幕府から嫌疑を掛けられることとなり・・・西暦1844年(弘化元年)には、幕府から藩主の辞任及び謹慎生活を命じられ・・・水戸藩政の実権は、結城ら門閥保守派(※諸生派とも)の重臣達が再び掌握したのでした。
しかし、斉昭公の謹慎が、中間派(※鎮派/大発勢とも)や革新派(※天狗派とも)の活動によって、半年ぶりに解かれ復権が叶う・・・と、再度中間派(※鎮派/大発勢とも)と革新派(※天狗派とも)の者達が水戸藩政に返り咲くこととなり・・・“門閥保守派(※諸生派とも)結城寅寿の家禄が半減される”ことに。
西暦1854年(安政元年)、結城寅寿の死罪については、極めて抑圧的だった藤田東湖が「安政大地震」によって圧死する・・・と、結城寅寿は“藩主斉昭公の毒殺を諮った”という嫌疑が掛けられ、死罪に処せられてしまいました。・・・これらの影響により、門閥保守派(※諸生派とも)と革新派(※天狗派とも)との対立構造が、更に確定的になってしまった。(≒第3段階)
④江戸時代に硬直化していた身分制度などが、この時の水戸徳川家(水戸藩)に重く圧し掛かり、巡りに巡って・・・“或る意味で凝縮した格好で以って爆発的に噴出した”・・・と観る説です。
江戸時代の水戸藩内では、藩士らの身分階層が固定化され、それらが基本的に次世代へと継承されておりました。・・・但し、後に「上士」と呼ばれることとなる“門閥保守派(※諸生派とも)の家老格の家柄”とは云っても、立藩当初期に再就職した旧武田家遺臣や旧後北条家遺臣、雑賀党鈴木氏一門などの出身者であって、“神君・徳川家康公譜代家臣の出自を持つ家系は少なかった”とはされますが。・・・上記にある「結城寅寿」も、禄高は一千石ほどであって、他藩と比べれば「高録」とは云い難いです。・・・それでも、“結城家は、小山家や宇都宮家とともに「水戸藩御三家」と称されていた”とされる家系(※詳しくは白河結城氏の一流)でもあります。この結城家は・・・どちらかと云うと、豊臣政権時代の宇都宮家は、常陸佐竹家の麾下(≒与力)大名とされていましたので、北関東において威勢の良い頃の佐竹家に属した陪臣や遺臣と云って良いのかと。しかも常陸佐竹氏側も、これら下野国の有力氏族武将達とは、婚姻関係など結ぶなど、長年に亘って良好且つ強固な関係構築を図っておりましたので。・・・常陸国にある水戸藩の領域に、下野国の一部が含まれるのが何よりの裏付けかと想います。
そんな水戸藩も、光圀公が2代目藩主に就いた頃から、要は藩政の確立や安定化のためとして・・・祖父の家康公が秋田へ追い遣った常陸佐竹家に属した者達(=旧佐竹家遺臣達)の中から、選抜し且つ段階的に・・・「藩士」や「郷士」などと呼ばれる、多くの中級下級武士(※中士、下士とも)達を現地採用してゆきました。・・・彼らは、藩の内外においても「武士」として認知され、また「苗字帯刀」を許された者達と云えます。・・・光圀公が2代目藩主に就いた時期は、“まだ戦国時代や豊臣政権時代の残り香的なものがあった”とされる頃ですから、大胆と云えば大胆なことであり、光圀公の豪気な気質を物語っているかとも想います。
水戸の古地図などを見ると・・・水戸藩士らの住まいを建てる土地は、立藩当初期から基本的に水戸城内や城外各地に割り振られて貸与されていましたし・・・現地採用された「郷士(※下士とも)」でも、“お役目によって里替え的な異動は多少はあったのでしょうが、基本的には先祖伝来の集落近辺や交通の要衝付近に警護役や管理役、集落の長として居住することが許されていた”と考えられます。
それでも、戦国時代や豊臣政権時代の残り香的なものが失われて、世相がより安定的になって来ると・・・
世の中は、様々な分野において、それぞれが固定化されるようになり・・・
例えば・・・
人と人との付き合い、つまりは「交際」や、男女の婚姻などの「通婚」においては・・・同じ地区内の者同士や、同様の家格における藩士ら家族同士との組み合わせと相成りまして・・・その縁故の塊り? 的なものは、時を経るに連れて凝縮してゆき、より堅固なものになってまいります。
また、斉昭公の時代には、藩校弘道館だけでなく、藩領各地に「郷校」と呼ばれる藩士や領民らのための教育機関が15校も設置されて、いわゆる大義名分などを基軸とした「水戸学」を中心に、思想や哲学、武芸、医学、農学、薬学など各方面の研究や教育が盛んに行なわれることとなり・・・また、これらの教育機関で教鞭を執ったのが、彰考館に所属した立原翠軒や藤田幽谷の子弟門弟達、国学を学んだ神職の者達などでしたから・・・なお更に、藩校弘道館や各地の郷校を中心としたコミュニティ内の連携や、藩校と各郷校間における連帯感も深まってゆく訳です。・・・これはもう「教育革命」と云って良い状況だったかと。・・・かの「吉田松陰」なども学んでゆきましたからね。・・・
いずれにしても、人同士の付き合い上で云えば・・・
“保守的な門閥保守派に属した人達は、水戸藩士の中でも上士同士の連帯関係である”と云え・・・後に徒党を組むこととなった「諸生党」は、“これら上士の子弟達の連帯関係”と云える訳です。
一方で・・・“保守的な門閥派に属さなかった人達”を考えると・・・少しばかり複雑な事情を汲み取らねばなりません。・・・
前述の“保守的な門閥派に属した人達”でさえ・・・徳川家康公譜代家臣の出自を持つ家系の出身者が、ほとんどいなかった立藩当初の水戸藩では・・・いわゆる「旗本」や「御家人」とされる人が、幕府から指名されて水戸藩への出向する「附家老」や・・・旧武田家遺臣や旧後北条家遺臣、雑賀党鈴木氏一門の者など、“関ケ原合戦以前の頃に主家筋が、徳川家により継承されていた者達、若しくは改易されていた者達の中から、いずれにせよ出自や思想面において適当と当時考えられた者達が選抜されて再就職した者達”・・・であり、それぞれの再就職時期も随時という具合でした。・・・但し、旧武田家遺臣の者達に限っては、“約5百年ぶりの常陸国Uターン移住だった”とは云えますが。
したがって、反対に・・・“保守的な門閥派に属さなかった人達”を考えれば・・・専ら・・・“自家の出自などが明確で、且つ地元への土着意識や改善志向の強かった旧佐竹家遺臣達の中から、思想面などにおいて適当と当時考えられた者達が選抜された後に、再雇用の決定が為された家々の者達”と云え・・・それぞれの再雇用時期も、門閥保守派と比べても、さほど変わらぬ時期という具合でしたので・・・後に大きく燃え盛る炎のようになった革新派(※天狗派とも)や、革新派(※天狗派とも)ほどには激化しなかったものの譲るに譲れないという拘りを持つ中間派(※鎮派/大発勢とも)と云われた人々の実像が、それぞれ浮かび上がって来るのではないでしょうか。・・・そういう意味では、「天狗党」として徒党を組んだ者達は、幕末期に硬直化していた水戸藩政や身分制度のみならず、天下国家のためとして当時の幕府へ物申すために挙兵した者達であり、概ねのところ「中士」及び「下士」と呼ばれた人々だった訳です。
要するに・・・“片や既得権益を手放したくない” Vs “片やこれらを排除しよう”・・・という対立構造自体が、思想とか天下国家を論ずる以前の問題として、水と油のような宿命的な関係にあり・・・“これらが巨大なウネリとなって、諸藩の何処よりも先に幕末混乱期の水戸徳川家(水戸藩)で現出してしまった”・・・とする説です。
⑤水戸徳川家(水戸藩)における思想哲学の問題です。・・・上記の①から④までの内容にも、必然的に深く関わってまいりますが・・・
光圀公以来とされる「尊皇敬幕」という思想哲学は、我が国における神代古代以来の歴史を遡れば辿り着くことができるものの一つですし・・・また、上記にある統一書名『西山遺事』には・・・『(光圀公は)近臣達には折に触れて、わが主君は天子(※天皇のこと)なり。今将軍は我が宗室(※徳川本家のこと)なり。と語っていた』・・・とされてもおります。
“まだ戦国時代や豊臣政権時代の残り香的なものがあった頃”とは云え、『我が主君は、天子(※天皇のこと)なり』と、ハッキリ主張して・・・『現在の将軍は、我が宗室(※徳川本家のこと)なり』と、これまた云い切ってしまうところは・・・如何にも光圀公の思想や哲学を物語ってはおりますが。
しかし、当時の政情や社会構造を考えれば・・・水戸徳川家の宗家たる将軍家(≒幕府)は、自らの政権の正統性の根拠を、天皇を頂点とする皇室や朝廷に求めつつも、政治的には朝廷を無力形骸化しながら、財政的にも手足を縛るが如く圧迫し始めておりました。・・・その様は、“まさに陽尊陰抑の如く”であって、「尊皇」は表面的且つ形式的にされつつあった訳です。・・・そんな統治が進められていた頃に、「尊皇敬幕」を主張する徳川家康公の孫である光圀公が傑出していたこと自体が、彼の反骨精神や義を重んじる気質を裏付けているかと。
この「尊皇敬幕」という思想哲学は、朝廷と時の幕府が同じ方向を向いていたり、一方が他方に異見を表明しない限りにおいては混乱を生じませんので、何ら矛盾はありませんが・・・
この矛盾が露(あら)わになってしまったのが・・・幕末期における西欧列強諸国に対する開港通商問題でした。
現実として、外交や内政の政治面を掌(つかさど)る幕府は、西欧列強諸国の工業技術力や軍事力に対しては、とても太刀打ちできないことを、予め悟っておりましたので・・・「開港と通商」という幕府による現実的な路線と・・・一方の、天皇を戴く朝廷は、皇祖以来の伝統や前例主義を重んじて「攘夷」という原理原則論に終始することなり・・・いわゆる国論が二分されることに。
時間的な余裕さえあれば、“開港をし西欧列強諸国などと通商を図り、国内における工業化を進め経済力を高めた後に、異国勢力を追い払う”という「開国+攘夷論」も有り得ましたが・・・
当時の国際情勢における日本を取り巻く状況は、米国における南北戦争終結など、様々な事情が絡み合うことによって切迫度が増していたため・・・
結果としては・・・「尊皇」ならば「攘夷」・・・「敬幕(※佐幕とも)」ならば「開国」・・・という風に、絶対的に「攘夷」か?「開国」か? によって、二分されるとともに・・・水戸徳川家(水戸藩)では、光圀公以来の「尊皇敬幕」という思想哲学が、ほぼ真っ二つ状態に引き裂かれてしまった訳です。
但し、「最後の将軍」として知られる徳川慶喜公は・・・いわゆる「海防論」や、「尊皇攘夷」を唱えて活躍した水戸藩9代目藩主・徳川斉昭の七男として誕生した水戸徳川家の出身者ですが、御三卿の一家「一橋家」を相続した後に、将軍家たる徳川宗家を受け継いだ御仁でもありますが・・・
この慶喜公自身による回想録『昔夢会筆記(せきむかいひっき:※渋沢栄一が旧主の汚名を雪〔そそ〕ぐため、西暦1893年〔明治26年〕に企画し、以後25年に及ぶ歳月を費やして完成させたもの)』には・・・
『烈公(※実父・徳川斉昭のこと)尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先立ち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝(はい)し給(たま)いしは、今なお知る人多かるべし。予(※慶喜のこと)が二十歳ばかりの時なりけん。烈公一日予(※慶喜のこと)を招きて「公(おおやけ)に言い出すべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等(われら)は三家三卿の一つとして、幕府を輔翼(ほよく)すべきは今さら言うにも及ばざることながら、もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるが如きことあらんか、我等はたとえ幕府に反(そむ)くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(※光圀公のこと)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るること勿(なか)れ」と宣(のたま)えり。』・・・とありますので・・・
徳川慶喜公ご自身としては、「大政奉還」を行なったり、その後にも・・・「錦旗の御旗」を掲げる官軍(≒明治新政府軍)に対しては恭順姿勢を貫いており、江戸城無血開城の際にも自ら謹慎されておりますので・・・“光圀公以来の「尊皇敬幕」については、その身を以って実践して来たという意識を生涯持っていた”・・・と想われます。・・・確かに・・・。
したがって、水戸徳川家(水戸藩)における尊皇の家風や気風についてを決定付けていた発端は、やはり“光圀公以来のこと”との結論で良いのではないでしょうか。・・・尚、上記のような「(前期及び後期)水戸学」が、過大に誇張されたり、或る部分を曲解されたり、或る意味においては悪利用されたために・・・後の昭和期に、数々の爪痕(つめあと)を残すことに繋がった・・・と観る視点も確かに有りますので、私(筆者)個人としては、複雑な心情を抱かざるを得ないところではありますが・・・
いずれにしても、幕末頃における尊皇敬幕論の破綻? と申しますか・・・「尊皇敬幕論」の真髄? 肝(きも)? が、水戸藩士や領民達のみならず、諸藩の人々にも、広く且つ深く理解されるようになってさえいれば、水戸藩のみならず周辺諸藩を巻き込むような闘争にまで発展しなかったのではないか? ・・・とする説であります。
⑥「水戸っぽ」との呼称もありますが、北関東地方において培われた「水戸人」の気質や性格についてです。・・・上記の①から⑤までの内容にも、必然的に深く関わってまいります。
現在の茨城県水戸市を中心とする地域の住民気質を表現した言葉に、「水戸の三ぽい(みとのさんぽい)」があります。
「水戸っぽ」の気質として、良く語られるのは・・・一般に、「理屈っぽい」とか、「怒りっぽい」・・・「骨っぽい」、あるいは「飽きっぽい」の、いわゆる「三ぽい」です。
これらは、更に・・・水戸人の、社交的とは云い難い直情傾向的な気質を表したものとされています・・・が、これら全てを、敢えて裏読みすれば・・・本来の「水戸っぽ」とは、“自己主張する事などが特に下手な訳でもないのに、何かに対して限界まで我慢したりする傾向がある”のです。
要するに・・・『何かと我慢強く、なかなか自己主張をしない。逆に云うと・・・世間的には、そんなに自己主張をしなくとも、それなりに上手く暮らしてゆける』と。・・・“こういった気質が、水戸っぽの三ぽい全てに通じている”のではないか? と、多々感じます。・・・そして、これらのことには、それぞれに相当の理由があって・・・前ページに至るまでの中世から近世、特に幕末期という・・・歴史的には、ごく短期間と云える時期に・・・“水戸藩領内や周辺地域などで繰り広げられた激動の光景を、多く目の当たりにした人々の記憶が、かなりの度合いで作用しているよう”に、想えてならないのです。・・・特に「骨っぽい」が、「飽きっぽい」へ転じられているところから察するに。・・・
水戸は、常陸佐竹氏の秋田転封以後の江戸時代を通じて、長らく水戸徳川家(水戸藩)の領地とされ、藩のお取り潰しや他地域からの入封などはありませんでした。・・・但し、水戸徳川家の分家として「支藩(しはん)」なるものを自領域内に設け、其処を分家の長たる(支)藩主に、水戸本藩から適当な家臣達を付与して、事実上も分割統治させてはおりましたが。・・・この当たりの事情については、当時の幕府からすれば、“幕府の許可なく進めたことが大問題となるような事案でした”・・・が、光圀公の強烈なキャラクターが優っていたのか? 光圀公の筋論が、時の幕府を捻じ伏せたのか? は、定かではありませんが・・・既成事実として容認されていたようであります。・・・おそらくは、当時の水戸藩領域は江戸城の鬼門方向に当たりますし、常陸佐竹氏が長らく治めていた地域ですので・・・きっと、『この辺りの情勢は、かなり不穏な状態にある』と報告し、『(徳川宗家たる将軍家或いは幕府は)この地域独自の統治方法については認めよ!』などとする前提条件付きの交渉が行なわれていた可能性が?・・・確か光圀公は、幕府による「大船建造の禁」にも背いて、蝦夷地探検のためとして「快風丸」を建造し探検させていたような?・・・これも特別扱い?・・・
いずれにせよ、当時の水戸藩領域内では・・・光圀公以来とされる『大日本史』の編纂事業や、城下町の上水道敷設事業などを完成させるために、莫大な予算を必要としたため、領内各地で特産品奨励や開墾事業などの殖産事業が盛んに行なわれるとともに・・・質実剛健的な側面をも持つ「水戸学」の影響によって、自らが質素倹約に努める水戸徳川家の家風に染め上げられた結果とも云えますし・・・他地域との人的交流が少なかったことに起因して、各個人における学問や研究上の積み上げ成果が向上しやすかった反面・・・幕府や諸藩からすれば、これらが若干閉鎖的に観られていたとは考えられ・・・光圀公や斉昭公が実践した政策施策は、幕府や諸藩に対しては、かなりのインパクトを与えていたのではないかと。・・・
また、徳川御三家の城下町でありながら、特有の華やかさや風情がないと評されがちな水戸の質実剛健的な気風は、上記の三ぽい気質によるもの”とも云われており・・・特に「理屈っぽい」については、光圀公が始めた「水戸学」に由来すると云われ・・・“武士として一旦主張したら一歩も譲らず、徹底的に自論を貫こうとする傾向があった”とも云われます。・・・こうした気質は、とかく相手への不寛容につながりがちですので、我々現代人も注意せねばなりませんが。
尚、幕末期の・・・“斉昭公への隠居謹慎処分”や、「安政の大獄」、“西欧列強諸国への開港問題と日米修好通商条約締結など”、“時の大老・井伊直弼による独断専行的な政治手法”などが、“「怒りっぽい」と「骨っぽい」とか謂われる水戸藩士領民らの心情に、火を付け、更に火に油を注いで炎の如くにしてしまった”とも考えられ・・・後に起こった、概ね元水戸藩士らによる「桜田門外の変」や「天狗党の乱」などは象徴的な事件と云えるのでしょう。
そして、「理屈っぽい、怒りっぽい、骨っぽい(或いは)飽きっぽい」と云われる「水戸の三ぽい」が、それぞれの局面において影響し・・・幕末期の思想哲学的且つ学問的な論争から、水戸藩内訌へ発展し・・・骨肉の争いの結果、新時代「明治」の当初期に活躍したであろう人材そのものが不足してしまった訳です。・・・
それぞれが目指す目標到達点などについては、歴代の水戸徳川家(水戸藩)に属した誰しもが、然ほどに変わらなかった筈なのに・・・いつしか、些細な行き違いや実際の手法論などの違いによって、当時の身分に関わりなく始められた藩内抗争に、水戸藩に関わった多くの人々が翻弄されることとなり・・・実の兄弟や、家族、親戚付き合い、立場上の上下関係など、様々な社会的単位を超える格好で以って、結果として対立してしまったのですから。
・・・いずれにしても、“当時を生き延びた水戸人の心に対して精神的な衝撃を、かなり与えたために”・・・後世で「水戸の三ぽい」が云われるようになったのではないでしょうか?・・・・・・[総まとめ 終]
※ 西暦1883年(明治16年)8月3日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、「斉藤貫行(さいとうつらゆき?:※静岡県士族出身)」の三女「八重」を召し抱える。『(戸定)備忘録』より・・・「八重」は、ベビーシッターや乳母(うば)など、長女「昭子」の養育担当者として期待されたのでしょう・・・が、後の1885年(明治18年)8月16日以降、徳川昭武との間に、次女「政子」、長男「武麿(※早世す)」、次男「武定」、三女「直子」、四女「温子」、三男「武雄(※早世す)」を儲けることとなるため・・・今に云う「後妻さん」に当たりますが・・・そもそもの話として・・・“当初から妻問い婚や足入れ婚などの性格を帯びること”が、前提事項とされたのでしょう。・・・これら「妻問い婚」や「足入れ婚」などの婚姻形態については、かつての社会的要請などがあった訳であり、『私(筆者)などの現代人が、とやかく言う立場にはない』と思いますので、割愛させて頂きます。
※ 西暦1884年(明治17年)4月7日:“徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)の松戸別邸”が、ようやく落成式を迎え、この日に座敷開きをする。・・・「松戸別邸」とは、戸定邸(とじょうてい)のことであり、所在は現千葉県松戸市松戸。・・・そもそも松戸宿が、江戸時代に江戸と水戸を結ぶ水戸街道の宿場町であったため、この傍にある松戸神社には水戸藩2代藩主・徳川光圀(※義公のこと)所縁の銀杏があるなど、旧水戸藩とは歴史的にも繋がりが深い土地柄なのでした。
※ 同年6月22日:“徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)一家”が、「松戸別邸(※戸定邸とも)」に移り住む。この時、昭武の生母「万里小路睦子(までのこうじちかこ:※秋庭とも、万里小路建房の六女であり故徳川斉昭の側室)」も同行す。・・・この日から「戸定邸」が、徳川昭武一家の生活拠点となるのです・・・が、この頃の徳川昭武は、「麝香間祗候(じゃこうのましこう:※明治維新の功労者である華族または親任官の地位にあった官吏を優遇するため、明治時代の初めに置かれた資格で、職制や俸給等の無い名誉職のこと)」という公職に就いていたため、定期的に皇居(=旧江戸城)へ行かなければならず、その時には都内の水戸徳川家本邸(※旧水戸藩下屋敷の向島小梅邸)を使用し、狩猟や自転車、魚釣り、焼き物などのプライベートなアウトドアライフを楽しむ際には、この「松戸別邸(※戸定邸とも)」を使うようになるのです。
※ 西暦1885年(明治18年)2月8日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、異母兄「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」に会うために、「静岡」を訪問し、同月19日まで滞在する。・・・松戸引越しのご挨拶 and 親睦 and 下記にある事業計画の相談?・・・
※ 同年内:旧幕臣「山岡高歩(※通称は鐵太郎、号は一楽斎、居士号は鉄舟、一刀正伝無刀流の開祖となる人物で禅や書の達人)」が、一刀流小野宗家第9代「小野業雄(おのなりお)」から、「道統(※儒教の道を伝える系統のこと)」や「瓶割刀(かめわりとう)」、「朱引太刀(しゅびきのたち)」、「卍(まんじ)の印」を継承されて、「一刀正伝無刀流(いっとうしょうでんむとうりゅう)」を開く。・・・この頃の山岡高歩は、西暦1871年(明治4年)の廃藩置県に伴なって明治新政府に出仕してから・・・「静岡県権大参事」や「茨城県参事」、「伊万里県権令」を歴任しておりましたが・・・これらとともに、剣の道などを極めんとする、その志には驚嘆に値します。・・・また「茨城県参事」を任されていることに興味が湧いて、山岡高歩について多少深堀りしましたところ・・・“然もありなん”と想いました。・・・山岡高歩は、1836年(天保7年)6月10日に江戸の本所(現東京都墨田区界隈)で、蔵奉行(くらぶぎょう:※幕府御米蔵の管理を司った奉行で、御蔵奉行とも)で木呂子村(きろこむら:※現埼玉県比企郡小川町木呂子)の知行主だった小野(朝右衛門)高福(おの〔ちょうえもん〕たかとみ:※家禄は六百石)の四男として生まれますが・・・母が、「塚原磯(つかはらいそ)」と云い、常陸国鹿島神宮神職・塚原石見(つかはらいわみ)の二女であって・・・その直系先祖は、上記で“水戸徳川家の宝刀とされた児手柏包永にて触れた塚原卜伝その人”なのです。・・・おそらくですが、当時の山岡高歩にしてみれば・・・母の故郷における、自己の精神鍛錬や武者修行的な希望が叶った「茨城県参事」の就任だった筈であり・・・一方の明治新政府側からしても、「水戸学」などの影響によって混乱してしまった領域内の世情が、ほぼ沈静化しつつあったとは云え、現地の政情不安を早期に払拭して復興したいとの意向から、彼に白羽の矢を立てたのかと想われます。・・・但し、“茨城県参事としての在任期間は二十数日”と、かなり短いものとなりましたが。
※ 西暦1886年(明治19年)1月12日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「関口隆吉(せきぐちたかよし)」と「蜂屋定憲(はちやさだのり)」が、“年頭の挨拶”に来邸し、“支那(シナ)より到来の筍”を献上す。「殿(※徳川慶喜の四男・厚のこと)」が、御逢いする。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「関口隆吉」とは、幕末期に徳川慶喜御謹慎所勤方や身辺警衛精鋭隊頭取並及び町奉行支配組頭となって、慶喜の警護役を歴任した人物であり、後の「江戸城無血開城」にも立会って、市中取締役頭に就任し、勝安芳(※通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)や山岡高歩(※通称は鐵太郎、号は一楽斎、居士号は鉄舟、一刀正伝無刀流の開祖となる人物で禅や書の達人)らとともに徳川慶喜を駿河へ移すなど、幕末の戦後処理や新時代確立のために尽力した人物でもあります。1870年(明治3年)には、現在の静岡県菊川市月岡に移り住み、牧之原台地の茶園開拓の大事業に着手。しかし、明治新政府から強い要請を受け、僅か一年余りで上京。そして三潴(みづま:※現在の福岡)県権参事や、山口県令を歴任。山口県令時代の1876年(明治9年)には、元長州藩士・前原一誠(まえばらいっせい)らによる「萩の乱」を鎮圧して、その後も中央政府の要職を務め、1884年(明治17年)に、第3代目の静岡県令に着任し、1886年(明治19年)には、地方官官制公布によって初代静岡県知事に任命されておりました。・・・また「蜂屋定憲」とは、旧江戸幕府直轄の教学機関とされた昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ:※正式名称は学問所や昌平黌〔しょうへいこう〕とも)に学んだ教育者であり、1868年(慶応4年)に徳川家に従い駿府(すんぷ:≒現静岡県静岡市)に移ると、明治維新後は静岡県庁に入庁し、1875年(明治8年)には学務課長となる。後に静岡師範学校校長を兼務して、夜学開設に尽力したとされる人物でもあります。・・・尚、この頃に徳川慶喜の家扶達から「殿」と呼ばれていたのは、慶喜四男の「厚」のことであり、“兄の夭折によって慶喜の事実上の長男として育てられた”と云われ、この頃実質的に隠居暮らしをしていた父・慶喜の代役として来客に応じていたことが窺えます。
※ 同年3月内:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、“旧水戸藩領の天龍院地区”に、山荘「悠然亭(ゆうぜんてい)」を建てる。・・・この時、徳川昭武は、数えで34歳。・・・旧水戸藩領の天龍院地区とは、現茨城県常陸太田市折橋町の山中となります。・・・旧水戸藩は、かつては“この辺り”で、今に云う「牧場経営」や「林業経営」をしておりました。・・・残念ながら、「天龍院」が建つ“この敷地全体”が、現在では廃集落化しており、立入禁止となっております・・・が、この天龍院地区の山林は、かつては「(水戸)徳川家山林」とも呼ばれて“特別な山”として保護されていました。・・・旧水戸藩による牧場経営は、第2代藩主の徳川光圀(※義公のこと)に遡ることが出来るのですが、そもそもは“軍用馬飼育”のため、当時の陸奥盛岡藩(※南部藩とも)から馬13頭を取り寄せて、現茨城県高萩市内の山林に「大能牧場」を開設したのが始まりとされ・・・第9代藩主の徳川斉昭(※烈公のこと)が「新牧」を新たに営んだり・・・明治期を迎えると、この徳川昭武が、天龍院地区へ山荘「悠然亭」を建てて、実際に牧場経営を(水戸)徳川家として始めることとなりました。・・・林業については・・・徳川昭武が水戸徳川家の家督を譲った篤敬(※定公のこと)の嫡男「圀順(くにゆき:※水戸徳川家第13代当主。後の明公のこと)」の代の話となりますが・・・圀順自身の海外生活や学習もさることながら、当時「ドイツ林学」を学んで帰国した東京帝国大学教授・川瀬善太郎(かわせぜんたろう)博士に依頼して、「森林施業方案」の編成など「(水戸)徳川家山林」つまりは「民有林」を活用した“初めての試みを実践するなど、近代的な林業経営基盤確立に貢献”しました。・・・尚、古老によれば、“森林経営に熱心であった圀順公を、地元の人々は「徳川さん」と親しみを込めて呼んでいた”と云い、“その圀順公自身も、天龍院地区の隣接にある大熊地区(現茨城県高萩市大熊)へ、しばしば家族連れでやって来ていた”と云います。・・・ちなみに、この徳川圀順(※水戸徳川家第13代当主。後の明公のこと)は、“ご先祖の徳川光圀(※義公のこと)以来、長らく水戸藩の編纂事業”とされて来た『大日本史』を西暦1906年(明治39年)に完成させ、これを「明治天皇」へ献上した人物であり・・・上記の現公益財団法人徳川ミュージアムを設立した人物でもあります。
※ 同年8月13日:「関口知事(※関口隆吉のこと)」が、「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」へ「碁盤」を献上す。素読(そどく:※すよみ、そよみとも)教師「小笠原袖先(おがさわらしゅうせん?/じゅせん?)」が、「碁」を拝見す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「素読」とは、“漢文の学習方法の一つで、意味される内容などの解釈をせずに、ただ書かれている文字を声に出して読むことを繰り返し、文章を暗唱できるようにする方法”とされますが・・・「碁」を拝見したとされる“素読教師の小笠原袖先なる人物”の詳細が分かりません。・・・何となく、旧江戸幕府の老中や外国事務総裁を務めた小笠原長行(おがさわらながみち)本人か? 若しくは小笠原長行に連なる一族の出身者のような気が致します。全く以って単なる憶測ですが。・・・
※ 同年10月18日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“先般、碁盤を頂いた関口知事(※関口隆吉のこと)に対する礼として黒羅紗(くろらしゃ)”を、「吉松為三郎(よしまつためさぷろう:※新村らと同じく家扶の一人)」を使いとし届けさせる。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・“黒色のラシャ”とは・・・陣羽織? の可能性がありますね。・・・いずれにせよ、厚手の黒色毛織物には間違いないのでしょうが・・・もしかすると、フランスに旧幕府軍練兵の一部を任せたこともありますので?・・・だとすると、当時厳しい謹慎生活を送っていた徳川慶喜にすれば、「碁」という娯楽頭脳ゲーム ≒ 思考シミュレーションが何らかの役に立つなど、非常に嬉しかった? それ故の返礼品?・・・自分には、もはや黒羅紗陣羽織などは無用となっているので、静岡県知事たる組織の長には必要であろうとの配慮だったのでしょうか?
※ 同年11月5日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“生母「貞芳院(※名は、吉子、芳子、〔俗名〕登美宮とも、有栖川宮織仁親王の第12王女)」の病気見舞い”のために、“向島小梅の邸宅(※旧水戸藩下屋敷)”に、この日到着する。・・・“明治維新となり静岡に謹慎してから初めての上京”でした。・・・この時、徳川慶喜は、数えで50歳。
※ 同年12月21日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」へ、「前田五門(まえたごもん?)」が、「蜜柑」を献上す。また「(静岡県知事の)関口隆吉」が、出頭す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「前田五門」とは、旧幕臣であることは間違いないようですが・・・おそらくは、徳川慶喜が暮らす通称「紺屋町御住居」の屋敷門付近を守衛した現場警官の責任者だったかと。・・・また「関口」については、「〇〇知事」ではなく「関口隆吉」と個人名で記録されているので、公務ではなく、あくまでもプライベートな訪問だったかと。・・・つまりは、年末のご挨拶ですね。
※ 西暦1887年(明治20年)1月14日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“笹間洗耳(ささませんじ)所有地分の買上げ”について、“代理(人)の関口知事宅”に於いて相渡され候(そうろう)事。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここの記事について補足説明しますと、この頃の徳川慶喜は静岡の紺屋町元代官屋敷とされる通称「紺屋町御住居」に暮らしておりましたが、その屋敷地が東海道線開通に伴なって停車場(≒現静岡駅)建設予定地に含まれてしまったため、この日の記事の次第となりました。要するに、この際に土地譲渡の交渉窓口及び邸地取り纏めの代理人は、当時の静岡県知事である関口隆吉が担当しましたが、蒸気機関車による騒音を懸念した徳川慶喜は、建設予定地から離れた新居を探すこととなり、当時「笹間洗耳」という人物が所有していた土地を買い求めることが相整ったとの記事なのです。・・・ちなみに、ここにある「笹間洗耳」は、“東京の目黒新富士も所有していた”という記録も残っているようでして、“いわゆる大地主さん”と云えるかと。尚、この笹間洗耳は、この後に亡くなった関口隆吉の墓がある臨済寺(りんざいじ:※元々は戦国大名・今川家の菩提寺であり、江戸期を通じて徳川家の手厚い庇護を受けた禅宗寺院のこと。現静岡市葵区大岩町)の墓碑建立や、興津清見寺(せいけんじ:※徳川家康が今川家の人質時代に過ごした処であり、江戸期を通じて徳川家の手厚い庇護を受けた禅宗寺院のこと。現静岡市清水区興津清見寺町)にある咸臨丸乗組員殉難碑の設立にも関わった有力者であって、更には静岡学問所(※幕府の崩壊後に駿府に移封された徳川家が藩の再建や旧幕臣らの人材育成のために明治元年に開設した学校のこと)の教科書として選定された「四書白文(ししょはくぶん)」や「小学白文(しょうがくはくぶん)」の著者とされ、教育分野でも功績を遺した人物なのですが・・・“彼が所有していた”という「目黒新富士」に興味が湧き、少し調べたところ・・・目黒新富士は、五度にも亘る千島列島探検で知られる幕臣(旗本)・近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)の別邸として造られた処であり、目黒川の谷からそそり立つ場所にあって、新富士からの眺望は素晴らしく江戸名所の一つとされて、“富士山信仰の参詣者が多く集まった”と云われ、本物の富士と目黒新富士を対比させた歌川広重(うたがわひろしげ)の作品などもありますし・・・この「近藤重蔵」も、「大日本恵登呂府」の標柱を立てた人物として知られる一方で、書誌学や北方地図作製史の分野でも論じられる人物でもあります。・・・尚、「目黒新富士」の現在地は、新富士坂と別所坂の接合地点付近と云えるかと。・・・いずれにしても、「(笹間)洗耳(せんじ)」という漢字を当てていることからしても、“水戸学的な何か”を感じてしまうのは、私(筆者)だけでしょうか?
※ 同年2月10日:「(静岡県知事の)関口隆吉」が、“(徳川)宗家宛代金の受取書”を持参して来邸し、「(慶喜家扶の)新村猛雄」と面接す。(この後)「新村猛雄」と「成田金吾(※新村らと同じく家扶の一人)」が、“庭木をどうするかで草深の邸地”を巡見す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・上記の笹間洗耳から買い受ける土地代金については、徳川宗家の支出が充てられていたとのこと。・・・そして、徳川慶喜の家扶が二人で以って、屋敷の建設予定地を下見に行ったと。・・・庭木については、いわゆる日本庭園で云うところ、風水的な事柄や借景など充分に吟味せねばなりませんので。
※ 同年5月24日:旧幕臣「山岡高歩(※通称は鐵太郎、号は一楽斎、居士号は鉄舟、一刀正伝無刀流の開祖で禅や書の達人)」が、「明治政府」により、“維新の功績”が認められ、「子爵(ししゃく)」に叙される。・・・“旧幕臣らに対する名誉回復に、明治維新より約20年の期間を要した”と考えるべきなのでしょうね。・・・逆に云うと、これまでの明治政府には、その余裕が無かったのかと。・・・
※ 同年7月14日:「(慶喜家扶の)新村猛雄」が、“新邸についての世話への礼金とする十五円”を、戸長「佐倉信武(さくらのぶたけ)」へ贈るために、「関口邸」へ持参す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここにある「佐倉信武」とは、静岡県知事・関口隆吉の父の故郷にある池宮神社の神職だった人物であり、西暦1884年(明治17年)には「静岡大務新聞(※後の静岡民友新聞)」を発行、1886年(明治19年)には「静岡高等英華学校」を設立して同校長に、そして同年(明治20年)には静岡女学校(※現在の静岡英和女学院のこと)の開校時の校主とされた教育者でもあります。・・・いずれにせよ、“上記にある笹間洗耳を、静岡県知事・関口隆吉に紹介して土地買い上げの話し合いをする環境を整えたのが佐倉信武だったこと”が分かります。
※ 同年10月14日:“草深邸の事で色々と世話になった戸長「佐倉信武」へ十五円渡すように”と、「(静岡県知事の)関口隆吉」へ依頼するため、「(慶喜家扶の)新村猛雄」に持参させる。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・!?・・・一見すると・・・これが、実質的に2回目の礼金の請け渡しだったのか? もしくは・・・ちょうど、この3カ月前に新村猛雄に礼金十五円を持参させたものの、何らかの事情で関口隆吉が預からなかったのか? については、正直なところ判別は難しいのですが・・・「再度」という表現が為されていないので・・・おそらくは、関口隆吉を含む佐倉信武側が『恐れ多い』と遠慮されていたのかと想います。・・・
※ 同年12月15日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“西草深邸地の譲り受け手続き”が完了したため、「関口知事」より「地権証」を受け取る。登記については、「殿(※徳川慶喜の四男・厚のこと)」が代理して、「水野静恵(みずのしずえ?)」に依頼す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここにある「地権証」とは、江戸時代においては「沽券(こけん)」と呼ばれていた書面のことです。・・・尚、ここにある記事は、非常に重要なところですので、補足説明致します。・・・この時点では、まだ「大日本帝国憲法(※西暦1889年〔明治22年〕2月11日のこと)」が発布される以前のこととなり、当然に我々の暮らしに関する「民法(みんぽう)」も、未だに制定されていない頃の話となります。明治政府内で、喧々諤々の草案作成議論はあったのでしょうが。・・・いずれにしても、この記事にあるのが「登記法」と呼ばれた法律であって、“我が国における初めての法律”と云えます。・・・また、ここの記事は、いわゆる「権利に関する登記」と云うのですが・・・これを規定する「登記法」が、「明治19年法律第1号」によって1887年(明治20年)2月から施行されていたのです。・・・そして、いわゆる「権利に関する登記」では、「地所登記簿」と「建物登記簿」が別々に作成されることとなり・・・登記簿そのものも、当事者の申請に基づいて、所有権の取得等を登記するようになった訳です。・・・したがって、“現在の不動産登記法のご先祖”と云えます。・・・尚、ここの記事にある「水野静恵」なる人物ですが、「静恵」という名前だけでは、正直なところ男女の区別も付きませんが・・・いずれにせよ、徳川宗家や水戸徳川家と縁の深い水野家出身者だったとは考えられます。・・・現在で云えば、“司法書士さん的な資質と能力を持つ人物だった”と云えるでしょう。・・・また、登記申請についてを代理した徳川厚(※慶喜の四男)は、学習院大学を業して間もない頃に当たりますので、“東京近郊に居た水野静恵”に、登記事務を依頼したのかと想います。
※ 同年12月31日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」より、「(静岡県知事の)関口隆吉」が“彼の世話に対する礼として浅機織(あさはたおり:=麻機織)一反”を、「尾崎伊兵衛(おざきいへえ)」が“樹木の礼として金十五円”を、それぞれ賜る。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・大晦日の記事です。・・・徳川慶喜に対して様々な世話をした「関口隆吉」については、上記の記事からも分かりますので割愛しまして・・・次の「尾崎伊兵衛(おざきいへえ)」なる人物ですが、“静岡県で製茶貿易業を営む実業家だった”とされておりますので、ここにある「樹木」とは・・・おそらくは「茶の木」だったのでしょう。新しい屋敷内で茶を摘む元将軍の姿が想像できてしまいますね。・・・そう云えば、徳川慶喜のご先祖様に当たる徳川光圀公(※義公とも)と「お茶」に関する逸話もありますので。・・・現在の茨城県東茨城郡城里町の古内(ふるうち)地区には、古刹とされる清音寺(せいおんじ)という禅宗寺院があるのですが・・・常陸佐竹氏と縁の深い寺院ですので、別ページの何処かで触れているかも知れませんが・・・其処では、“室町時代初期から茶の栽培が始められていた”と云われ・・・“江戸時代の徳川光圀公が、この清音寺を来山した折に、ここで産出されたお茶を献上したところ、その味の良さ(※当時は抹茶にして味わったそうです)に感嘆して「初音(はつね:※通称は初梅とも)」と命名したとされ、その後には古内地区一帯で茶葉が広く栽培されるようになった”と伝えられており・・・光圀公が命名した茶「初音」の母木は、今でも寺の境内地に残っておりますし・・・このページ内にある統一書名『西山遺事』中の記事には、光圀公が吟じた漢詩もありますので・・・そういった心境だったのでは? と、どうしても想像してしまうのと同時に・・・この年の記事中に、静岡県知事・関口隆吉を筆頭として徳川慶喜の周囲にいた人々の個人名が記述されているので、“彼らに世話になった”との感謝の気持ちも感じられるかと。
※ 西暦1888年(明治21年)1月6日:この日、“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、“徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)からの書状”が到来す。・・・尚、この年昭武との直書などの遣り取りは、4、5回に及ぶ。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この時、徳川慶喜は、数えで52歳。
※ 同年1月13日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「(静岡県知事の)関口隆吉」にと、“約束の鷺(さぎ)一羽と真鴨一羽”を、家丁「窪田道徳(くぼたみちのり?)」に届けさせる。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・約束の鷺 and 約束の真鴨・・・気になりますね。・・・おそらくは食用だと考えられますが・・・誰かから届けられたものか?・・・とすれば、この後の記事に出てくる人物か?・・・
※ 同年3月6日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“静岡の西草深(現静岡県静岡市葵区西草深)”へ、この日移る。・・・徳川慶喜は、これまで静岡の紺屋町元代官屋敷とされる通称「紺屋町御住居」に暮らしておりましたが、ようやく新邸が完成し、この日に引っ越しとなった訳です。・・・尚、徳川慶喜は明治30年11月16日まで、西草深(現静岡県静岡市葵区西草深)に暮らすことになりました。
※ 同年3月27日午前:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「自転車」を用いて運動する。・・・この時、徳川慶喜は、数えで52歳。・・・同月末(↓↓↓)の外出のための準備運動だったのでしょうか?・・・いずれにしても、当時の自転車には希少価値があったかと。
※ 同年3月31日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)が大坂と京都を旅行した帰路の途中において、無事に静岡まで到着したこと”を、向島小梅の邸宅(※旧水戸藩下屋敷)へ、「電報」を用いて知らせる。この日の午後には、“上足洗村(現静岡県静岡市葵区上足洗)の高木久左衛門(たかぎきゅうざえもん)方”へ「昭武」を同道して赴く。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・やはり、何となくですが・・・「自転車」を利用したように想えます。また、高木久左衛門なる人物は、旧幕臣或いはその縁者かと想いますし、「電報」については、ようやく整備事業が整ってきていた頃の通信技術と云って良いのではないかと。・・・尚、この後にも慶喜と昭武との間で数回に亘り詳細な遣り取りがあった様子が分かります。
※ 同年4月1日午後:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」とともに、「浅間(せんげん)」に行く。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・前日の記録から察するに、地元にある駿河国総社「静岡浅間神社(現静岡県静岡市葵区宮ケ崎町)」を参詣されたようですね。・・・年度変わりにも当たりますので。
※ 同年4月2日午後:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」とともに、「鮫池(さめいけ)」へ「打払(うちはらい:※鴨猟のこと)」に行く。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・前日の記録から察するに、鴨猟のために現在の浜松シーサイドゴルフクラブ内(静岡県磐田市)にある「鮫島池」へ行ったようであります。・・・ちなみに、その時の猟における成果については分かりませんが。・・・この時の徳川昭武は数えで36歳でしたが、兄の慶喜は数えで52歳であり、若干ハードだったかと。
※ 同年4月3日午後:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」を同道して、「久能山東照宮」を参拝す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・家祖たる徳川家康公に、ご兄弟揃って参拝したのですね。・・・久能山東照宮は、現静岡県静岡市駿河区根古屋。
※ 同年4月6日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)から徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)への進物”は、以下の通り。「興津鯛(おきつだい:※アマダイの一夜干しのこと)」二十枚。同夫人(※徳川慶喜の正室・美賀子のこと)より「静岡製盆」一組。生母・貞芳院へ慶喜より「竹細工虫篭」一ツ、昭武長女「昭子」へ「針箱」一ツ。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・これぞ「水戸学」が染み込んだ徳川慶喜公一家のチョイス!! 質素でありつつも、実用的なものばかりです。
※ 同年4月22日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、生母「貞芳院」へ「返書」を差出し、“昭武へ依頼していた買上げ物の件”につき、「浅沼」より申越す(≒言ってよこした)。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここにある「浅沼」とは、地名であって現在の佐野市浅沼町のことか? もしくは元水戸藩士の姓か? のどちらかとは想いますが、正直判断できません。・・・もしも、地名のことだとすれば、徳川慶喜・・・若しくは慶喜生母の貞芳院から、お遣い物の依頼が徳川昭武にあったように読めるため、また昭武の長女「昭子」は当時3歳を迎えておりましたので、いわゆる「七五三詣」をした際の、義理の母たる貞芳院への(昭子と命名した件と上記にある進物針箱1ツなどへの)返礼に当たるのではないでしょうか。そして、昭武らが七五三詣をしたところは、「浅沼八幡宮(現栃木県佐野市浅沼町)」だったのではないかとも想います。いずれにせよ、「水戸学」が染み込んだ水戸徳川家の方々が、全く無関係の処を同月吉日に参詣する筈もなく、何かしらの由縁があったかと。・・・尚、「浅沼」が姓だった場合には、何らかの事情により、この徳川慶喜家『家扶日記』にも、名を記述しないように配慮していた可能性がありますが・・・。
※ 同年5月12日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「(静岡県知事の)関口隆吉」へ、“種々尽力の礼にと、刀及び金五十円”を贈る。「(慶喜家扶の)新村猛雄」が「関口邸」へ代参す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・うーむ、「刀」というのが気になりますね。・・・業物(わざもの)だったか?
※ 同年5月16日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“この日の午後2時に(静岡県知事の)関口隆吉を招待した”ため、「関口隆吉」が出頭すると、“二階の奥座敷”へ招く。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・徳川慶喜の新邸・西草深の屋敷は2階建てだったようです。・・・いずれにせよ、二階の奥座敷とは、当然にプライベート空間となりますので、徳川慶喜の関口隆吉に対する信頼感は、相当のものがあったかと。
※ 同年6月15日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”に、“生母「貞芳院」から写真を進められし候旨”が、「山中」より申し来たる。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここにある「写真」とは、徳川慶喜の自画像写真であることは間違いありませんが・・・「山中」とは、慶喜の近習者だったのではないか? と考えられますし、元水戸藩に所縁のある人物と云えるでしょう。・・・いずれにせよ、貞芳院による・・・“この5日後のために姿勢を正しくなさい”との親心であったかと。・・・何せ、徳川斉昭(※烈公のこと)のご正室であり、有栖川宮織仁親王の第12王女でもあらせられますので。
※ 同年6月20日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「従一位」に叙せられる。・・・「正二位」から「従一位」に至るまで、約6年を要したことになります・・・が、明治維新から約20年が経った・・・ちょうど、この頃から、徳川慶喜家『家扶日記』には、慶喜自らが能動的な行動を起こすような記事が、多くみられるような気が致します。
※ 同年6月21日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」より「書状」が到来し、“登美宮(※慶喜生母「貞芳院」の俗名であり、正式には「登美宮吉子女王」のこと)や、昭武、博(※慶喜の五男のことであり、後の池田仲博侯爵のこと)ら揃いの写真”が回覧される。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この写真の記録については、慶喜生母の貞芳院とは書かずに、俗称の上で略称表記としておりますので、慶喜あるいは昭武の直筆の可能性がありますね。・・・いずれにしても、プライベートな家族写真であることには違いありません。・・・慶喜と昭武は、当時の写真技術に夢中だったことが分かりますが・・・。
※ 同年7月3日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、“小梅様(※水戸徳川家を継いだ徳川篤敬〔※後の定公〕のこと)へ依頼した鉄砲の出来に付き、通運社へ託す旨”の「報せ」が来たる。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここにある「鉄砲」とは、もちろん狩猟用のものであり・・・且つ慶喜専用の特注仕様だったようですね。
※ 同年7月9日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」に「書状」を差出す。尚、この日に鉄砲の「照星(しょうせい)」が出来上がり、これが東京より到着する。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・鉄砲の「照星」とは、小銃などの銃身先端にある突起状の照準装置のことらしいです。・・・いずれにせよ、上記にある同年4月2日午後に行なった鮫池での打払(※鴨猟のこと)が、何となく試射だったように想われますし・・・“何事も極めんとして、下手な妥協はしない水戸学精神”が感じられますね。
※ 同年7月10日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“鉄砲試射のために、上足洗村の高木久左衛門方”へ赴く。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・再び“上足洗村の高木久左衛門”が登場しました。・・・上記の同年3月31日の記述通りでありますので、少し調べたところ・・・高木久左衛門なる人物は、江戸時代初期頃から長崎を拠点に続いた砲術家の正統な継承者のようです。つまりは、慶喜の鉄砲における「お師匠様」ですね。・・・この頃は、上足洗村(現静岡県静岡市葵区上足洗)に居を移していたことが分かります。
※ 同年7月13日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」は、“(屋敷の)二階において(静岡県知事の)関口隆吉と酒肴を交えての囲碁”となり、(これを)「小笠原袖先」が観戦す。(その後、徳川慶喜が)“関口隆吉が(同月)廿日まで東京に滞在するため”に、“山岡高歩(※通称は鐵太郎、号は一楽斎、居士号は鉄舟、一刀正伝無刀流の開祖で禅や書の達人)への手紙”を依頼す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・山岡鉄舟への手紙?・・・そして、再び“素読教師の小笠原袖先なる人物”が登場してます。・・・
※ 同年7月16日:「関口(静岡県)知事」が、“明日に東京へ出張し三日滞在との由”、“徳川慶喜から山岡への伝言を聞くため”に出頭す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・静岡県知事・関口隆吉が公務で東京出張する目的の一つは、山岡高歩の病状が悪化したためでした。・・・徳川慶喜にとっては、自身の名誉回復活動の他にも、度々慶喜邸を訪問して、陶器を献上したり、書画を献上したり、水牛細工のコップを持参しながら、旧主君の耳に貴重な情報を届けており、山岡に対する感謝の念を抱いていたことは確かかと。・・・そして、これらを良く知る関口隆吉も、あくまでも公務のための東京出張としつつも、旧主君の伝言を直接聞きに来たところなどは、単なる忠心や武士道を超えた互いの友情的な感情があったのではないか? と考える次第であります。
※ 同年7月19日:この日、「山岡高歩(※通称は鐵太郎、号は一楽斎、居士号は鉄舟、一刀正伝無刀流の開祖で禅や書の達人)」が亡くなり、「葬儀」が同月22日に、その後に「初七日法要」が行なわれる。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この訃報に対した徳川慶喜は、隠居暮らしの身を理由に、葬儀などへの参列は控えております・・・が、旧主君自らの伝言は、山岡本人へは届けられていたと考えられます。・・・山岡高歩の死因は、胃癌とされており、享年53。その死に様は・・・皇居に向きながらの結跏趺坐(けっかふざ:※仏教、特に禅宗で瞑想する際の座法のこと)状態で絶命した・・・とされております。・・・当時の明治天皇が居らっしゃる旧江戸城の無血開城や、旧主君の名誉回復活動などで活躍しながらも、一人の求道者として貫き通した人生だったかと想います。そして残念ながら、数名の殉死者は出てしまいました・・・が、彼の生前における逸話を一つ。・・・西暦1875年(明治8年)に、明治天皇に献上された「あんぱん」があります。この「あんぱん」には、“桜の塩漬けを載せる”という特徴がありました。そう、あの「木村屋」です。・・・いずれにせよ、このパンを考案したのが、創業者の木村安兵衛(きむらやすべえ)とその次男でした。・・・“生前の山岡高歩は、この「あんぱん」を好んで、毎日のように食した”と云われ、“木村屋の看板”は山岡自筆の揮毫(きごう)に依るものであり・・・山岡との縁で、この「あんぱん」は、静岡で隠居生活中の徳川慶喜にも献上されておりました。・・・木村屋創業者たる木村安兵衛は、常陸国河内郡田宮(たくう)村(現茨城県牛久市田宮町)の農家に次男として生まれ、父は長岡又兵衛(ながおかまたべえ)。妻は、川原代(かわらしろ)村(現茨城県龍ケ崎市)の木村安衛門(きむらやすえもん)の長女「文(※ぶん、文女とも)」という名であり、この木村家へ婿に入って、献上品の「あんぱん」が誕生した訳ですが・・・この日の記事にある山岡高歩の死より約1年後の1889年(明治22年)7月26日に木村屋創業者の木村安兵衛も亡くなるのです。
※ 同年7月31日:午後三時に、「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、“大久保一翁(おおくぼいちおう:※隠居以前は忠寛、旧幕府旗本出身の若年寄で、元会計総裁などを歴任した人物)死去との電報”が来る。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この電報を誰が発信したのか? が、定かではありませんが・・・おそらくは、関口(静岡県)知事なり旧幕臣ネットワーク上に居た人物だったのは確かかと。・・・ここにある「大久保一翁」とは、上記の勝安芳(※通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)や、同月19日の記事で亡くなった山岡高歩(※通称は鐵太郎、号は一楽斎、居士号は鉄舟、一刀正伝無刀流の開祖で禅や書の達人)らとともに「江戸城無血開城」に貢献したため「江戸幕府の三本柱」と云われる人物であり、その後に徳川宗家・徳川家達に従い旧駿河国へ移住して旧駿府藩政を担当し・・・更に後の明治新政府では、東京府第5代目知事となって政府の議会政治樹立などに協力するなど実績を遺しました。享年72。
※ 同年8月23日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」に、十男「精(くわし)」が生れる。・・・この時の徳川慶喜は、数えで52歳です。・・・「精」の母は、徳川慶喜の側室・新村信であり・・・“精自身”も、明治32年1月20日に、勝小鹿(かつころく:※日本海軍の初代海軍卿・勝海舟の嫡男)の婿養子となっております。つまりは、“(旧姓徳川)精は、勝安芳(※通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)の孫に当たる人物”であり、「勝伯爵家」を正式に継承した訳です。・・・幕末動乱期をともに乗り越えた両家ですので、もの凄く感慨深いものがあるかと。・・・
※ 同年9月30日:静岡西草深において、“徳川斉昭(※烈公のこと)の写真”が回覧される。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・おそらくは・・・徳川斉昭が亡くなったのが、西暦1860年(万延元年)8月15日のことですから、現在の太陽暦にすると同年前日の9月29日が、いわゆる「ご命日」となりますので、その翌日に写真を回覧したのかと。・・・尚、回覧された写真を徳川慶喜へ送ったのは誰だったのか? となりますが、おそらくは・・・松戸別邸(※戸定邸とも)にあった徳川昭武・・・若しくは、向島小梅邸(※旧水戸藩下屋敷)にあった慶喜生母の貞芳院だったかと。
※ 同年10月1日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“写真到着の返書”を差出す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・これまた、誰へ? という返書宛先がありませんが、上記の如く・・・松戸別邸(※戸定邸とも)にあった徳川昭武へ・・・若しくは、向島小梅邸(※旧水戸藩下屋敷)にあった慶喜生母の貞芳院へ送ったかと。
※ 同年10月12日:この日、“徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)の嗣子とされる武定”が、「松戸戸定邸」に生れる。・・・この時の徳川昭武は、数えで36歳。・・・この日生れた武定が、後の西暦1892年(明治25年)の特旨によって子爵位を授けられると、それまで「松戸の別邸」とされていた邸宅が「松戸徳川家の本邸」とされます。・・・更に後の明治30年代には、父の異母兄「徳川慶喜」も、何度かここを訪れて、父昭武とともに趣味の写真撮影などを楽しんだり、多くの皇族が長期滞在するなど、由緒ある御屋敷とされて・・・その後の1951年(昭和26年)には、ここの土地及び建物が、武定によって松戸市に寄贈されております。
※ 同年10月15日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」へ、異母弟「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」より、“この12日に男子が出生し、武定と命名した”との報知あり。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・きちんと報告。・・・
※ 同年10月19日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、“(徳川宗家を:=徳川家達のことを)先発した湯浅貫一郎(ゆあさかんいちろう:※徳川宗家の家従)”が、午後八時過ぎに到着す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・徳川宗家・徳川家達が静岡に向かう?・・・
※ 同年10月21日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元へ向かう徳川宗家・徳川家達”を、“(慶喜家扶の)新村猛雄が、三島(現静岡県三島市)で出迎え”し、“(慶喜家扶の)吉松為三郎と(家達家従の)湯浅貫一郎の両名が、静岡停車場(≒現静岡駅)で出迎え”をす。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・徳川宗家・徳川家達は、“この日の午後9時30分頃に静岡へ到着した”とのこと。・・・徳川を封じ込めるために明治初期に立藩され廃藩置県まで存在した静岡藩を、この徳川家達が藩主や藩知事を担っていたため、官吏や市中の有志らが午後1時頃から大歓迎で待っていたそうです。
※ 同年10月22日:午後七時過ぎに、「蜂屋定憲(※静岡師範学校校長)」や「袖山正志(そでやままさし?:※静岡警察署長のこと)」、「(慶喜家扶の)吉松為三郎」、「(家達家扶の)川村一(かわむらはじめ?)」が先導して、“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)と徳川宗家・徳川家達”が、「久能宮(※久能山東照宮のこと)」を参詣す。午後四時からは、“奏任(そうにん:※官吏の任官手続きの種類で上奏を経て官職に任じられること。または、その官職のこと。つまりは高等官の一種)以上の役人”を「招請」し、「謝恩会」を開く。列席者は、「関口隆吉(※静岡県知事)」、「伊志田友方(いしだともかた:※静岡県書記官)」、「安原吉政(やすはらよしまさ?:※静岡始審裁判所長)」、「鈴樹忠告(すずきただつぐ?:※静岡警察署長)」、「村田豊(むらたゆたか:※静岡県書記官)」、「相原安次郎(あいはらやすじろう?:※静岡県警部長)」、「杉山叙(すぎやまのぶ?:※静岡県収税長)」、「梅沢敏(うめざわさとし:※静岡県議会議員)」、「近藤弘(こんどうひろし:※久能与力であり、有渡〔うど〕安倍〔あべ〕郡長)」、「蜂屋定憲(※静岡師範学校校長)」、「上田敏郎(うえたとしろう?:※静岡県技師)」なり。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・徳川宗家を継いだ徳川家達は、当然に久能山東照宮を参詣せねばなりません。・・・謝恩会列席者も、当時の静岡県政における重役揃いかと。
※ 同年10月23日:午前九時三十分過ぎに、“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)と徳川宗家・徳川家達”が、「(静岡)師範学校」と「病院」を巡視す。午後からは、「宝台院(ほうだいいん:※徳川家康の側室である西郷の局の菩提寺で浄土宗寺院。現静岡県静岡市葵区常磐町二丁目)」や「浅間社」、「臨済寺」へ。供(とも)は、「(家達家令の)溝口」、「(家達家従の)湯浅」、「(家達家扶の)川村」、「(家達家扶の)滝村」、「(慶喜家扶の)新村」、「(静岡県知事の)関口隆吉」、「(静岡県警部長の)相原安次郎」なり。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この時の「浅間神社」には、総勢二千余名の士族(旧幕臣)達が集合して、慶喜と家達の御詞(おことば)を聞いたとか。・・・
※ 同年10月24日:午前七時に、「御前(※徳川慶喜のこと)」が(徳川宗家の徳川家達に)同道して、「汽車」にて「大井川辺」へ行く。案内役は、「(静岡県知事の)関口隆吉」。供は、「(慶喜家扶の)小栗尚三」と「(慶喜家扶の)梅沢覚(うめざわさとる?:※梅沢敏の弟)」のほか、“(徳川)宗家の用人五人”なり。「停車場(≒現静岡駅)」からは、「相原安次郎」が先導す。帰邸は午後六時なり。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ただ単に汽車に乗車して大井川辺へ行ったのではなく・・・風景や機関車などの写真撮影もしているような気がしますね。・・・徳川宗家の徳川家達をもてなす気持ち and 記念撮影的な?・・・
※ 同年10月25日:午前八時過ぎから午後五時半まで、“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)と徳川宗家・徳川家達”が、“旧幕臣ら”と立食にて歓談す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・いわゆる立食による西洋式のお披露目パーティーですね。あくまでも、徳川宗家・徳川家達のお披露目ではありますが。・・・いずれにしても、元将軍様の徳川慶喜が、多くの元家臣らと公式に歓談したのは、この時が維新後初めてだったそうです。
※ 同年10月26日:午前八時過ぎより、「徳川宗家・徳川家達」が、「(静岡)県庁」にて、「関口知事」と「村田書記官」に面会す。午前十時半からは、「御前(※徳川慶喜のこと)」が(徳川家達に)同道して、「華陽院(けよういん:※徳川家康の母方である源応尼〔げんのうに〕が祀られる浄土宗寺院のこと。現静岡県静岡市葵区鷹匠二丁目)」へ。それより(先)は、「汽車」にて「清見寺」へ行く。その後、“海辺を散策して漁夫を集めて網を引かせる”と、「海水浴場」に赴かれ「海水楼(かいすいろう:※海辺にある高い建物のこと)」にて小休止す。(その折に)「菓子料」として「千円」を被下(くださる)。慶喜公とともに夕方には帰邸す。案内役は、「関口知事」。供は、「(家達家令の)溝口勝如(みぞぐちかつゆき)」、「(家達家従の)湯浅貫一郎」、「(家達家扶の)滝村小太郎(たきむらこたろう)」、「(慶喜家扶の)新村猛雄」、「(慶喜家扶の)吉松為三郎」、「(慶喜家扶の)梅沢覚」、「(慶喜家扶の)久貝正路(くがいまさみち?)」なり。午後七時過ぎより、“従一位様(※徳川慶喜のこと)を御初(おはじ)めとし三位様(※徳川家達のこと)から、表奥一同(※表詰めの者や奥詰めの者一同ともに)に御饗応されて御酒や肴迄(さかなまで)”被進下(すすめくだされ)候事。(これには)「柏原(※徳川慶喜侍医、蘭方医であった柏原学而〔かしわばらがくじ〕のこと)」を御招(おめし)被下候事。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・午前八時過ぎからの事は、今に云う「表敬訪問」and “案内役を宜しく頼む的な?”・・・ここにある「(家達家扶の)滝村小太郎」も、ただ者ではありません。滝村は、奥右筆を勤めた旧幕臣であり、「音程」なる訳語を考案した人物なのです。滝村が音楽に堪能で英語も達者だったことは、明治前期に来日して勝安芳(※通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)の息子と結婚したクララ・ホイットニーの日記にも窺えます。滝村は、月琴や胡琴など当時流行の清楽の楽器を奏で、音楽を通じてクララや式部寮(しきぶりょう)伶人(れいじん:※雅楽を奏する人のことであり、後の宮内省楽師のこと)とも交流があり・・・西暦1879年(明治12年)に設置された音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)は、滝村が訳した『西洋音楽小解(せいようおんがくしょうかい)』と『約氏音楽問答(ユーシーおんがくもんどう)』の原稿を1881年(明治14年)に買い取って西洋音楽の用語を定める参考とし、ほかにも『西洋音楽調和要法(せいようおんがくちょうわようほう)』や『愛米児孫唱歌声法(エメルソンしょうかせいほう)』といった和声や発声法に関する書も訳しています。『西洋音楽小解』から現在まで生き続ける用語には、「音程」のほかにも「平均律」や「旋法」などがあり、『約氏音楽問答』からは「全音階」や「半音階」、「長調」、「短調」などがあるとのこと。
※ 同年10月27日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「写真師」が出(いず)る。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・?・・・打合せ?
※ 同年10月28日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「写真師」が終日出る。徳川宗家「徳川家達」が、「久能宮」を参詣す。先導役は、「(静岡県知事の)関口隆吉」、「相原(静岡県)警部長」、「袖山(静岡)警察署長」なり。供は、「近藤(久能与力であり、有渡安倍)郡長」、「蜂屋(静岡)師範学校長」、「伊志田(静岡県)書記官」、「(家達家の)溝口家令」、「(家達家の)川村家扶」、「(家達家の)湯浅家従」、“当家(=慶喜家)家扶の吉松為三郎”なり。同日(中)に、「勝安芳(※通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)」から、慶喜へ「掛軸」が贈られる。この日は西洋料理が振舞われ、「関口知事」が陪食す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「写真師」とは、いったい誰なのか?・・・いずれにせよ、終日に亘って久能山を参詣した徳川宗家・徳川家達に同行しているようであり、他にも何か貴重な写真を撮影しているような気配が致します。そして、ここで浮上してくる人物は、やはり・・・西暦1869年(明治2年)に松本良順(※幕末明治期の医師、政治家)から「写真術」を学び、後に徳川慶喜に従って静岡に移住し、静岡で最初の写真館「徳田写真館」を開いたとされる「徳田孝吉」なのでしょう。彼が1876年(明治9年)に静岡七間町(現静岡県静岡市葵区七間町)に店を開くと、大変な賑わいを魅せたそうですが、旧主君の徳川慶喜にも写真技術を教えて、毎日のように二人で撮影に出掛けていたとのことですので。尚、『沼津城内原図』には「徳田定賢(とくださだたか)」との名で記載がありますので、定賢本人(※孝吉とは写真師としてのハンドルネームのようなもの?)、若しくは定賢の息子さんに当たるのではないかと想います。尚、「松本良順」とは、父が佐倉藩藩医で順天堂を営んだ佐藤泰然(さとうたいぜん)。外務大臣の林董(はやしただす)は実弟に当たります。後に幕医の松本良甫(まつもとりょうほ)の養子となった人であり、翌1889年(明治22年)4月23日に記述がある「佐藤進(さとうすすむ)」の義理の祖父に当たります。これを単なる偶然と云う勿れ。・・・また、本記事中末尾にある勝安芳(※通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)が贈った掛軸の題材には、きっと深い意味が込められていた筈です。
※ 同年10月29日:“徳川宗家・徳川家達に徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)”が同道して、「吐月峰(とげっぽう:※現静岡県静岡市駿河区丸子にある山名、または柴屋寺〔さいおくじ〕の別名のことであり、見事な月が観られる名所)」から「徳願寺(とくがんじ:※現静岡県静岡市駿河区にある禅宗寺院のこと)」へ行く。供は、「(慶喜家従の)平石波三郎(ひらいしなみさぶろう?)」、「(慶喜家従?の)原七九郎(はらしちくろう?)」、「相原(静岡県)警部長」、「袖山警部(※警察署長を兼務?)」のほかに、“(徳川)宗家の用人四人”なり。「吐月峰」に次いで、“片桐且元(かたぎりかつもと) の墓”に詣(まいる)。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここにある「片桐且元」とは、「大坂冬の陣の発端」とされる事件を、徳川家康に弁明した豊臣家家臣です。・・・そして、この「誓願寺」にも、“片桐且元 の墓”があります。所在は、静岡県静岡市駿河区丸子となります。
※ 同年10月30日:午前八時過ぎに、徳川宗家「徳川家達」が、「関口隆吉邸」へ、“(慶喜家扶の)久貝正路を供”にして行く。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この後、“両替町(※現静岡駅周辺地)にあった芙蓉楼(ふようろう)にて、県庁に勤める官吏一同が徳川家達を招待し、厚志のお礼と送別のための懇親会が催されたと、上記にある佐倉信武が創立した静岡大務新聞(※後の静岡民友新聞)が報じた”とのこと。
※ 同年10月31日:徳川宗家「徳川家達」が、午前六時に出立し、「箱根」にて一泊す。(これを)「関口(静岡県)知事」と「(慶喜家扶の)新村猛雄」が、「箱根」まで見送りす。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・静岡からの帰りルートとしては、“倉沢→当時の鈴川村(※現在の富士市)→原宿→沼津→三島→箱根→千駄ケ谷へ”だったようです。
※ 同年11月1日:“三位様(※徳川家達のこと)の出迎え”のために、「殿(※慶喜の四男・厚のこと)」が、「新橋」へ行く。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・徳川宗家の徳川家達が東京に到着されました。・・・東京新橋で家達を迎えたのが、徳川厚(※慶喜の四男)だったということは・・・厚は、学習院大学卒業後しばらくの間は、東京暮らしをしていた訳ですね。・・・そして、厚の住まいは、当然に徳川家達の管轄下にある千駄ケ谷にあったと考えられます。厚の妹達(=徳川慶喜の娘達)も、家達に預けられておりましたので。
※ 同年11月2日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“(諸々の)世話に対するお礼”として、「関口(静岡県)知事」へ、“紅白の七子織(ななこおり:※斜子織とも)、白の七子織、加茂川染の縮緬(ちりめん)を各一反ずつ”を、「(慶喜家扶の)新村猛雄」に届けさせる。同日(中)に、「(静岡県警部長の)相原安次郎」が、“水戸光圀公筆の額”を慶喜へ献上す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・光圀公自筆の額というのが、非常に気になるところですが・・・こうして・・・ようやく徳川宗家による静岡訪問旅行が完了しました。世が世なら、徳川将軍家直々のお出まし旅となりますので・・・この10月中の記事では・・・いったい、どちらが礼を受けているのか? 多少混乱させられますが、“旧幕臣達が多く勤めた当時の静岡県関係者と徳川家の絆が、より深くなった”のは確かと。・・・尚、“水戸光圀公筆の額”を献上した「(静岡県警部長の)相原安次郎」は、“元駿府藩士”とはされます・・・が、当時の水戸徳川家とも、それなりに縁のある人物だったと云えるかと想います。「水戸学」の生みの親とも云える光圀公自筆の額なんて、容易に準備できるとは考えられませんので、“徳川宗家・徳川家達から彼が信頼されて、水戸徳川家出身者の慶喜公へのお礼の品として、徳川宗家所蔵品の中から選抜したものを預かっていた”と考えられる訳です。・・・いずれにしても、“元駿府藩士の相原安次郎が、西暦1871年(明治4年)に明治新政府が、渡舟(わたりぶね)の他の交通手段として河川への架橋許可を与える太政官布告の際に、これを受けて安倍川架橋を発案した人”とはされておりますし、武の心得をも充分に備えた人物だったかと。
※ 同年11月11日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“過日の写真を通運使を以って差出したる趣(おもむき)の書状”を「川村(かわむら)氏」へ差出すとともに、「千駄ケ谷(※徳川宗家・徳川家達のこと)」、「小梅(※水戸徳川家・徳川篤敬のこと)」、「松戸(※徳川昭武のこと)」に向けて、「通運使」にて“過日の写真と椎茸を一箱ずつ”を差出す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・まずは、徳川家の本宗家や分家たる関係者に対して、この日送ったものとは、当然に「(焼き増した)写真」となる訳ですが・・・具体的には、どんな写真だったのか? を考えると、前段にある「川村氏」が、謎を解く大きな手掛かりになるかと想います。・・・結論から云えば、この時の写真は、前月末における徳川慶喜の自画像写真などであり、且つ衣冠束帯姿だったかと。そして、前月末に撮影した写真師は、同年6月15日にあった慶喜生母「貞芳院」の発意を契機とした伝達事項によって、水戸徳川家関係者によって紹介された人物だったのでしよう。・・・尚、ここの記事にある「川村氏」とは、上記にある“(家達家扶の)川村一(かわむらはじめ?)の一族の人、或いは「一(はじめ?)」そのものが変名だった可能性もあります”が・・・おそらくは、“川村(帰元)修正と清雄の父子”だったろうと想います。・・・この「川村(帰元)修正」とは、長崎奉行などを歴任した父を持つ旧幕臣であり、後の西暦1892年(明治25年)に『旧事諮問録(きゅうじしもんろく)』において、自身の体験を詳細に語り、将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った「御庭番(おにわばん)」に関する貴重な記録を遺した人物ですし、当然に日本海軍初代海軍卿の勝安芳(※通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)や、慶喜の鉄砲技能における“お師匠様? 的な高木久左衛門ら”との人脈を持っていた筈です。・・・父子共々、明治維新後には徳川宗家を継承した徳川家達に従って静岡へ移住してもおります。・・・子の「川村清雄(かわむらきよお)」もまた、1868年(明治元年)から徳川家達・奥詰(※いわゆる将軍の御学友)として仕え始めた人であり、有力な後援者に勝安芳(※通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)を持つ“明治洋画界における先駆者の一人”です。彼の作風としては、近代日本絵画が洋画と日本画に分かれていく最中にあって、両者を折衷し、ヴェネツィアなどで学んだ堅実な油画技術を以って、日本画的な画題や表現で和風の油画を描く独特の画風を示しており・・・何よりも、作画時期を明治中期とする『徳川慶喜像』川村清雄筆が、現物として公益財団法人德川記念財団に保管されておりますので。・・・いずれにせよ、“古そうで新しい、一見すると新技術や新技法を使ってはいても、伝統や格式については忠実にする”という「水戸学」を感じざるを得ない出来事だと想います。
※ 同年11月12日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“御二方様(※徳川慶喜と家達の両名のこと)の対写写真(≒被写体写真)”を、「(静岡県知事の)関口隆吉」と、「(静岡県警部長の)相原安次郎」、「(静岡師範学校長の)蜂屋定憲」、「(静岡県議会議員の)梅沢敏」、「(慶喜邸警護役責任者?の)前田五門」へ送呈す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・やはり、今に云う「記念写真」だったようです。
※ 同年11月20日:“千駄ケ谷(※徳川宗家・徳川家達のこと)へ進呈した椎茸と写真がともに相達したため披露との旨”、“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ報知あり。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・きちんと届きましたとの報せ。
※ 同年11月30日:「伏島近蔵(ふせじまちかぞう)」が、“神代杉桧(じんだいすぎひのき)”を、「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」へ献上し、(これらを)取次(役)の「関口(静岡県)知事」より受け取る。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここにある「伏島近蔵」とは、幕末から明治期に掛けて活躍した、旧上野国(現群馬県)出身の実業家であり、横浜を開拓した代表的人物の一人です。・・・そして、“神代杉桧”とは、いわゆる「神代木(じんだいぼく)」のうち、「杉」と「桧」のことです。・・・このうち「神代杉」は、水中や土中に埋もれて長い年月を経過した杉材であり、過去に火山灰の中に埋もれたものという。青黒く、木目が細かく美しい。伊豆半島や、箱根、京都、福井、屋久島などから掘り出されて、工芸品や天井板などの材料として珍重されます。・・・一方の「神代桧」も、工芸品や天井板などの材料として珍重されますが、歴史の重さを感じる色味と質感のグレイッシュな桧特有の柄であって、同時に炭酸飲料のサイダー的な香りが漂うなどと云います。・・・いずれにしても、“霊的なパワーアイテムを贈る”という伏島近蔵の意図が気になるところですが・・・伏島近蔵は、西暦1877年(明治10年)の西南戦争時において羅紗(らしゃ)取引等で巨利を得た人物とされますので、単に“ご常連様への返礼やご挨拶的な献上品”だったのかも知れません。・・・たしか、1886年(明治19年)10月の記事に「黒羅紗」があったような?
※ 同年12月13日:「関口(静岡県)知事」が、“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、“明日上京のため暇乞い”に来邸す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・再び屋敷の二階間を使用したのでしょうか?・・・「〇〇知事」となっているので、プライベート空間ではなく、きちんとした応接間を使用しているかと想います。
※ 同年12月20日:「藤田任(三郎)」が出頭し、“斉昭(※烈公のこと)の写真”を、持参す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「持参す」となっているので、元将軍の徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)との面会は叶わなかった? あるいは、憚(はばか)りがあって藤田任(三郎)が面会を望まなかった可能性もありますね。・・・ここにある「藤田任(三郎)」は、元水戸藩士であり、またの名を「藤田大三郎(ふじただいさぶろう)」と云います。藤田(任三郎もしくは大三郎)は、藤田東湖こと彪(たけき)の三男であり、藤田健次郎の同母弟、藤田信の異母兄になります。藤田(任三郎もしくは大三郎)は、幕末の水戸藩内訌の際の一時期ではありましたが、激派とされる本圀寺党に属したものの、明治維新後には再び中道無派閥となって、西暦1892年(明治5年)までは当時の水戸県幹部「権小参事」であって、史料上は1874年(明治7年)まで確認できるのです。しかし、今に云う「地方公務員」を辞めた後の記録としては、この徳川慶喜家『家扶日記』しか見つかっておりませんので・・・“貴重品と云える斉昭(※烈公のこと)の写真を持参して来た”という記事から察するに、当時の水戸徳川家に仕え続けて居たか? あるいは、当時の水戸徳川家のごく間近に居続けていたと考えられる訳です。・・・いずれにしても、この年6月に徳川慶喜が「従一位」に叙せられた報せは、藤田(任三郎もしくは大三郎)が暮らし続けた水戸まで届いた筈ですので。・・・とにもかくにも、藤田(任三郎もしくは大三郎)が静岡西草深(現静岡県静岡市葵区西草深)に実父・斉昭の写真を持って来たのですから、当時の徳川慶喜や慶喜の家扶達にしてみれば、かなり複雑な心境の筈なのですが、下記の翌年春の記事のように慶事における挨拶的な段取りがあったのかも知れません。・・・そのため、このような記事になったかと想います。・・・
※ 同年12月24日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「(静岡県知事の)関口殿」と、「(久能与力兼有渡安倍郡長の)近藤殿」、「(静岡警察署長の)袖山殿」、「(静岡県警部長の)相原殿」へ、“歳暮として反物一反ずつ”を、遣いの者に持参させる。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・こうして、ようやく徳川宗家の家達らによる静岡旅のあった年が暮れてゆく訳ですが・・・それまでは謹慎暮らしに半ば慣れ切っていた徳川慶喜にしてみると、さぞかし気配りと気疲れの連続だったかと。・・・この時の徳川慶喜は、数えで52歳であって老け込むには、まだ早い歳ではあるのですが・・・この年に静岡西草深(現静岡県静岡市葵区西草深)の新邸に移ったとは云え、“徳川慶喜一家は身分上も経済上も宗家・徳川家達の管轄下にあった”とされており、実際に東京千駄ケ谷の家達からの送金によって静岡に暮らす一家の生活を支えて貰っていた訳です。実家の水戸徳川家との交流などは、“あくまでも親戚付き合いとして”と云うのでしょうか? そこには、自ずから制限が掛かる訳でして・・・。
※ 同年12月26日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“井上義次(いのうえよしつぐ)よりの写真拝領願い”に対して、「写真一枚」を下さる。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここにある「写真一枚」とは、徳川慶喜の自画像写真だったことは間違いないと想うのですが・・・「写真拝領願い」を出してまで実際に下賜された人物となると、かなり絞られてくると考えて調べましたところ・・・ありました。『沼津城内原図(ふまづじょうないげんず)』という古地図が。この図面は、西暦1873年(明治6年)に完成したもののようであり、「沼津市明治史料館(※所在は静岡県沼津市西熊堂)」の所蔵品であると。この図面は、1868年(明治元年)に旧幕臣達が沼津城内へ移住した際の居住地を示しており・・・この中に「井上義次」の名が、ハッキリと。・・・ちなみに、この徳川慶喜家『家扶日記』の記事中でハッキリせず、慶喜の囲碁を観戦したと云う・・・上記の素読教師・小笠原袖先らしき人物の名”もありました。『沼津城内原図』には「小笠原景則(おがさわらかげのり)」と。「小笠原姓」を名乗る家は、この人物しか記載されていないので、おそらくは「小笠原景則」、もしくは“小笠原景則の跡継ぎの人”で間違いないかと想います。
※ 同年12月31日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、“徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)より御筒(おんつつみ)譲渡の届書(とどけしょ)が調印の上”、「浅沼」より「一葉(いちよう)」が廻(めぐ)る。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・再び「浅沼」という名詞が入ってまいりました。このように大晦日の記事ですし、当時の徳川昭武が佐野の浅沼に居ることは、あまり考えられないので・・・どうやら「浅沼」とは姓であり、何らかの事情により名を記していないようです。・・・そう考えると、徳川昭武の長女「昭子」に近い人物に絞られてまいりますので・・・これを調べましたところ、ありました。・・・この徳川慶喜家『家扶日記』において「浅沼」とされている人物は、「浅沼廣道(あさぬまひろみち)」と云いまして、“徳川昭子や昭子の妹達の御供役”でした。・・・すると、この大晦日の記事中の“御筒譲渡の届書”とは・・・“徳川昭武の家族や、幼い娘「昭子」らが直筆した新年への抱負などを記す書初め的なものだった”のではないでしょうか。何となく、そんな気が致します。
※ 西暦1889年(明治22年)1月1日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の名代として(慶喜家扶の)小栗尚三”が、「関口(静岡県)知事」と「伊志田(静岡県)書記官」へ、“年頭の挨拶”をす。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・現代ならば、年頭の挨拶は官庁仕事始めの時期になるのでしょうが、一家が身分上も経済上も徳川宗家・徳川家達の管轄下にあり、関口(静岡県)知事らの住まいが近かったとなれば、致し方ないところかと。
※ 同年1月22日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「関口(静岡県)知事」が来邸し、“故大久保一翁(※隠居以前は忠寛、旧幕府旗本出身の若年寄で、元会計総裁などを歴任した人物)の遺物・硯(すずり)と筆二対”を、持参す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・通常、一つの硯と一本の筆で一対なのでしょうから・・・故大久保一翁の形見分けだとしても、何か深い意味があるのではないか? と感じてしまいます。・・・それとも、一対については、大久保一翁と同じ前年7月に亡くなった山岡高歩(※通称は鐵太郎、号は一楽斎、居士号は鉄舟、一刀正伝無刀流の開祖で禅や書の達人)の遺品だったのかも知れません。・・・
※ 同年1月23日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「庭石」を「天竜川」より買い上げる。代金は、「関口(静岡県)知事」へ廻(めぐら)す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「天竜川」は、現在の長野県から愛知県、静岡県を経て太平洋へ注ぐ河川であり、様々な色や模様をした石があります。これは、天竜川の流域に異なる岩石で出来た山塊があるためで、そこから砕かれた石が水とともに少しずつ天竜川に流れて来ます。・・・中央アルプスや伊那山脈には、「花崗岩(かこうがん)」や「片麻岩(へんまがん)」が広く分布しています。特に比較的近年に急上昇をして出来上がった中央アルプスは、高温のマグマがゆっくりと冷えて固まった火成岩の一種・花崗岩が多いのが特徴と云えます。・・・そして中央構造線沿いには、マイロナイトが分布しています。マイロナイトは地下深くで出来た断層岩の一種で、緻密で固い岩石です。・・・また南アルプスには、緑色岩やチャートなどの堆積岩が分布しています。更に、それらが変成作用を受けて出来た結晶片岩や粘板岩、火成岩の一種・はんれい岩も分布しています。・・・尚、岩石の種類を調べることで、その石がどこから流されて来たのか? 概略を知ることもできるとのこと。・・・この時の徳川慶喜は、如何なる岩石を買い上げたのか?・・・いずれにしても、“庭石の運搬に、当時の水運を利用したため、静岡県知事の関口隆吉を経由して代金を支払った”とのこと。br>
※ 同年3月20日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“関口(静岡県)知事へ酒リッチモンドを一ダース、(慶喜家扶の)新村猛雄を使い”とし贈る。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「酒リッチモンド」とは、ウイスキーの一種でアメリカン&バーボンのことか?・・・だとすると、アルコール度数が46%もある強いお酒ですね。・・・
※ 同年3月28日:「(徳川御三卿・田安家九代目当主)徳川達孝(とくがわさとたか)」が、“同月24日より徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ来邸す。この日に、“(徳川達孝が)関口宅を訪問して、八丈縞(はちじょうじま:※八丈島でつくられる絹の縞織物のこと)二反”を持参す。供は、「(家達家令の)溝口勝如」、「(慶喜家扶の)新村猛雄」、「藤田」なり。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここにある「徳川達孝」については、補足説明させて頂きます。徳川達孝は、この月の23日に徳川慶喜の長女「鏡子(きょうこ:※慶喜と側室・新村信との間に生まれた女子)」が輿入れしています。つまりは、徳川慶喜は達孝の義理の父に当たり、新村猛雄の孫が徳川御三卿の田安家へ嫁いだ訳です。記載順に関しては、徳川宗家の管理下にあった慶喜家からすれば、(家達家令の)溝口勝如を筆頭にし・・・最後に「藤田」とのみ、名を省略することは致し方ないところと云えるでしょう。・・・この前年の西暦1888年(明治21年)6月21日には、徳川慶喜の元に昭武より書状が到来し、登美宮(※慶喜生母「貞芳院」の俗名であり、正式には「登美宮吉子女王」のこと)などの家族写真が回覧されておりましたので、これを契機に婚礼話が進められていたのかと想います。新妻の徳川鏡子と彼女の祖母に当たる貞芳院(※名は、吉子、芳子、〔俗名〕登美宮とも、有栖川宮織仁親王の第12王女)のツーショット写真が現存していますので・・・やはり、この記事にある「藤田」とは藤田任(三郎)のことだと考えられますね。この婚礼話に水戸徳川家の最長老であった登美宮が重要な役割を果たしていた裏付けになるかとも想います。
※ 同年4月1日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「鯨ガ池(くじらがいけ)」にて銃猟す。鴨猟の三番手までは、「関口(静岡県)知事」、「袖山(静岡警察)署長」、「(静岡師範学校長の)蜂屋定憲」の順とし、以下は、“三浦弘夫(みうらひろお)、(徳川慶喜侍医の)柏原学而、国友直(くにともただし?/なおし?)、鵜殿(うどの)ら家庭教師の四名の順”にて贈る。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・鴨猟には、日本古来よりの鷹狩のような武士道的? もとい西洋紳士的な順番があるようですね。・・・鴨猟を行なった場所は、現在の「鯨ヶ池」とのこと。所在は、静岡県静岡市葵区下。・・・徳川慶喜の家庭教師として記述されている「三浦弘夫」とは、駿河出身で、本姓は「高村(たかむら)」。明治維新の頃は、大久保一翁(※隠居以前は忠寛、旧幕府旗本出身の若年寄で、元会計総裁などを歴任した人物)のもとで歌書を講じた人であって、国学者や神職の人物。西暦1883年(明治16年)には、静岡県の神部(かんべ)神社と浅間(せんげん)神社、大歳御祖(おおとしみおや)神社の宮司となって、三社の国幣小社昇格に尽力しています。・・・次にある「国友直」とは、幕末期の水戸藩士であって、当初は強い尊皇攘夷思想を持っていたとされ、また(徳川御三卿の)一橋家家臣や徳川慶喜の側近として知られる梅沢孫太郎(うめざわまごたろう:※後の国友守義)の次男です。・・・最後にある「鵜殿」とは名が省略されておりますが、「鵜殿長道(うどのながみち)」のことです。この鵜殿長道とは、徳川斉昭(※烈公のこと)の子である池田慶徳(いけだよしのり:※徳川慶喜の同年の兄)が幕末期の藩主を勤めた鳥取藩(※当然に「水戸学」の影響あり)の元家老のことであり、「京都詰」とされていた時に「長州藩救解(※長州藩の罪を弁護して救う活動のこと)」などに努めた人物であったことは良く知られておりますが、「志野流茶道」の宗匠でもあり、国学研究者の一人でもあります。故に、徳川慶喜の茶道や歴史研究の師匠だったかと。
※ 同年4月11日:“(静岡県知事の)関口殿が怪我致し”に付き、“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)のお使いとして(慶喜家扶の)新村猛雄”が相勤(あいつとめ)る。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・!!!・・・“関口殿の怪我”の原因や状況は、勝安芳(※通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)の『海舟日記』にも詳しく記されているようですが・・・概ねのところは・・・当時の関口静岡県知事が、隣接県の愛知で行なわれる「招魂祭」に参加するために、開通から間もない頃の東海道線のトロッコ車両に乗った際に起こった事故が原因とされます。何でも、“関口知事が招魂祭式典に間に合わないと焦って、貨物用のトロッコ車両に乗ってしまった”と謂われます。・・・そもそもとして、旅客用ではなく貨物用ですから車両連結時の衝撃力なども現代の衝撃緩衝装置などは比べるまでもなく相当な力が加わった筈だとは考えられますが、とにかくトロッコ車両の衝突事故に遭遇してしまい重傷を負ったそうです。ちなみに事故現場は、現在の静岡県静岡市駿河区丸子新田であり、用宗駅付近だとのこと。但し、用宗駅そのものは、後の明治42年に開業しています。・・・いずれにしても、当時の徳川慶喜は多く世話を焼いてくれた関口隆吉に対して、慶喜最側近の一人であり彼との接点も多かった新村猛雄が代役とされたのです。・・・代役を立てざるを得なかった理由については、下記の記録から推察できます。(↓↓↓)
※ 同年4月13日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、上京す。(この後に)「(那須)塩原」と「日光」、「水戸」、徳川昭武の「松戸別邸(※戸定邸とも)」を廻り、翌5月20日に静岡に帰る。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・当時の徳川慶喜が新村猛雄を自身の代役としたのには、事故に遭遇した(静岡県知事の)関口隆吉と同じ目的があったからであり、自らの気持ちだけでは如何ともし難い事情があったからです。つまりは、徳川家と所縁の深い土地各所における招魂祭列席目的が最優先事項だったかと想います。特に、明治維新に関連して亡くなった当事者たる英霊に対する鎮魂の想いから。・・・また、上京後の徳川慶喜は、小梅(※水戸徳川家本邸〔=旧水戸藩下屋敷の向島小梅邸〕のこと)で、生母・貞芳院(※名は、吉子、芳子、〔俗名〕登美宮とも、有栖川宮織仁親王の第12王女)と対面し、ついで松戸別邸(※戸定邸とも)の弟・昭武を訪ねて、貞芳院も交えて翌5月9日まで滞在しています。その後に、(那須)塩原を経由地として日光へ行き、(日光)東照宮を参拝し、水戸徳川家の墓所である常陸太田の瑞龍山で墓参りをしてから、静岡に帰っています。
※ 同年4月16日:“(静岡県知事の)関口殿怪我の儀に付き急の御用”ありて、「(慶喜家扶の)新村猛雄」が出頭す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・新村猛雄が出頭したのは、病院だったそうですが・・・いずれにしても、この時の徳川慶喜は、各地で行なわれていた招魂祭列席などのための、云わば移動生活中だった訳であり、“危急の報せによって新村猛雄が駆け付けた”のかと。・・・ちなみに、『海舟日記』では以下のように記述されております。(↓↓↓)
※ 同年同日:「静岡(県書記官の)伊志田友方」が、“関口怪我大患と成リ候”にて、「医師頼ミ方」として出府す。勝安芳(※通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)の『海舟日記』より・・・静岡(県書記官の)伊志田友方は、(静岡県知事の)関口の治療を、優秀な医師に依頼するために、県庁に出府したのだと。・・・いずれにしても、関口知事の容体は深刻だったのは間違いないかと。・・・
※ 同年4月17日:午後四時に、“(静岡県知事の)関口殿への病気見舞い”として、「御前(※徳川慶喜のこと)」が、“目録百円”を、被為送与入(おくりあたえいれなされられ)相成候事(あいなりそうろうこと)。供は、「(慶喜家扶の)新村猛雄」なり。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・“目録百円”とは、今に云う「小切手帳」のようなものだったかと。当然に徳川慶喜直筆の署名があった筈です。
※ 同年4月18日以降のこととして:連日の如く、“(慶喜家扶の)新村猛雄と小栗尚三”が、交替で(静岡県知事の)関口殿を病院に見舞い、「菓子」や、「かしわ鳥(※日本在来種の茶色いニワトリ肉のこと)」、「鶏卵」などを持参す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・
※ 同年4月19日:“徳川慶喜より(静岡県知事の)関口隆吉の容体に関するお尋ね有り”て、「(静岡師範学校長の)蜂屋定憲」が出頭し、詳しく申し上げる。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この時の徳川慶喜は、まだ移動生活中の頃です。・・・したがって、この時の“お尋ね”とは、北関東地方の都市部に居た徳川慶喜から、その居所まで鉄道電話(※鉄道事業者用の内線電話のこと。列車運行の保安などのために公衆交換電話網の障害に影響されない通信網として整備されている)を用いて至急訊ねたいとのものだったのでしょう。西暦1880年(明治13年)12月には、鉄道電話が日本で初めて開通していたとされますので。当然に東海道線静岡駅の駅舎には、鉄道事業者用の電話機があった筈ですから。したがって、(静岡師範学校長の)蜂屋定憲が出頭したのが、静岡駅の駅舎であって、当初期は緊急連絡のためとして、本来は鉄道事業者用の電話設備を、要人達が利用することは許されていたことも分かりますね。
※ 同年同日:「関口潜(せきぐちひそむ?:※関口隆吉の末弟)」が、兄の病気(については)宜敷(よろしき)ノ旨と、(勝安芳に)伝え報せり。勝安芳(※通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)の『海舟日記』より・・・当初は、旧幕臣ネットワークにより勝安芳にも、楽観的に伝えられていたようであります。
※ 同年4月22日:「伊志田(静岡県)書記官」が、「(徳川慶喜が暮らした西草深邸の)玄関」に出頭し、関口(静岡県)知事からの伝言「内務大臣の命により高木軍医総監が診断したところ、(自身の)命に別条無しとの事」を、“御前(※徳川慶喜のこと)に宜しく申し伝えてくれるように”と依頼す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここにある「高木軍医総監」とは、高木兼寛(たかきかねひろ)海軍軍医総監のこと。前年の西暦1888年(明治21年)には、日本で最初となる博士号授与者の一人であり、この後の1905年(明治38年)には男爵とされる。東京慈恵会医科大学の創設者。・・・いずれにせよ、“要は心配御無用との伝言”だった訳ですが・・・。
※ 同年4月23日:「伊志田(静岡県)書記官」が、「佐藤進」を同行し出頭す。(慶喜に)“(静岡県知事の)関口隆吉の病状について”を、説明す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この時の徳川慶喜は、まだまだ移動生活中の頃です。・・・したがって、この記事も鉄道電話を利用した会話だったと考えられますが・・・ここにある「佐藤進」とは、西暦1880年(明治13年)に陸軍軍医総監を辞めて、ちょうどこの頃は、順天堂医院院長として経営に専念していた時期でしたが、いずれにせよ医師であり医学者です。彼もまた、1907年(明治40年)に男爵とされますが、常陸国太田の内堀で醸造業・高和清兵衛(たかわきよべえ)の長男として生まれ、後に佐倉順天堂に入って、その堂主であり叔母の夫でもある佐藤尚中(さとうたかなか/さとうしょうちゅう)の養嗣子となって、「佐藤」となりました。幕末期には、養父の尚中とともに、「鳥羽伏見の戦い」で負傷した会津藩兵の治療にも当たっています。明治になると、ドイツへ留学し、東京の順天堂を引き継ぎました。また、「細菌学」を目指した野口清作(※野口英世のこと)が、この佐藤進に相談し、北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所への入所を推薦してもらうことになったため、野口英世の細菌学研究への門戸を開いたのが佐藤進だったと云うこともできます。・・・いずれにしても、ドイツで最新の「細菌学」を学んだ佐藤進を同行させていることから察するに、関口隆吉の怪我や傷口から何らかのバイ菌が体内に入ってしまったと推測できる訳です。・・・また「水戸学」では医術や薬学についても、多少は心得させておりますので、伝言ではなく徳川慶喜自身が医師による専門的な見解を聞かないと納得しなかったようにも想えます。
※ 同年4月25日:「関口潜(※関口隆吉の末弟)」が、出頭す。“(慶喜に兄の)容体”を、詳しく伝える。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この時の徳川慶喜は、まだまだまだ移動生活中の頃です。・・・今度は(静岡県知事の)関口隆吉の近親者から、彼の容体を聞いたようであります。
※ 同年4月26日:東京の「増田寛厚(ましたひろあつ?/ますだひろあつ?)」が、「写真石版」を、(慶喜に)献上す徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここにある「増田寛厚」については、残念ながら詳細不明ですが、献上された品から察するに、当時の石材調達業者、あるいは貿易商関係者かと想います。・・・「写真石版」とは、平版印刷方法の一つであり、写真技術と云っても印刷技術と云っても良い技術ですので。元々は、西暦1798年(寛政10年)のドイツで発明された技術であり、簡単に云うと・・・石版石の表面に脂肪性インクで文字や絵などを描いて水分と脂肪分の反発性を利用して印刷する方法で、現在のオフセット印刷の初期形態と云えます。石版石の素材としては、炭酸カルシウムを多く含む石灰石で・・・欠点としては、何と云っても石が重く、しかも高価で入手し難いということだったようです。ちなみに、当初期には薬品処理に頼る不安定さがあったにもかかわらず、絵画が盛んだったフランスを中心に発展したものです。別名は「リトグラフ」とも。・・・確か上記に、写真に関連して、徳川慶喜と明治期の洋画家「川村清雄」には接点もありましたので・・・「増田寛厚」なる人物は、この両名の人間関係に遡上する人で、もしかすると現在の埼玉県秩父市辺りを活動拠点としていた人だったかも知れません。全くの憶測ですが。・・・この日の4日後には、下記にあるように、徳川慶喜は弟の昭武邸を訪れていますので、土産品的な意味合いもあったかと。
※ 同年4月30日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“徳川昭武の松戸別邸(※戸定邸とも)”を訪れ、翌5月9日まで滞在す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・松戸の戸定邸に約10日間の滞在。・・・さぞ、これまで巡った各地の写真を撮りまくり、松戸近郊の写真をも収めたのでしょう。・・・この時の徳川慶喜は、数えで43歳。
※ 同年5月15日:“三位の(徳川)家達”から要請ありて、「池田大医」が、明日には(徳川慶喜を)来診すると。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・どうやら、徳川宗家・徳川家達の邸宅があった千駄ケ谷で、今に云う(徳川慶喜の)巡行後における健康診断的な医学チェックが行なわれる予定が、この翌日に組み込まれたようであります。・・・ここにある記事は、何となく徳川慶喜本人が記述しているようであり、また少々徳川家達に対しては、やや御節介が過ぎるとの感情を抱いているかのような表現に感じますね。・・・徳川家達にしてみれば、長年の謹慎暮らしが解かれて、各地を約1カ月の間巡行した慶喜の健康に障りが無かったかの確認だけでもして欲しいとの労いの気持ちを含んだものだったように想います。・・・ちなみに、徳川慶喜がきちんと健康チェックを受診したのか? など、翌日の記事については公開されていないため事実は分かりませんが、数えで43歳の慶喜でしたから、体力的には多少疲労が溜まってはいても、本人は意気軒昂だったのではないでしょうか?・・・ただ一つ、(静岡県知事の)関口隆吉の容体に関しては心配で仕方なかったとしても。・・・尚、本記事中にある「池田大医」とは、日本の近代西洋医学の礎を築いた人物とされる「池田謙斎(いけだけんさい)」のことです。彼は、西暦1870年(明治3年)よりドイツ・ベルリン大学へ留学し、1876年(明治9年)に帰国。その後に陸軍軍医監などを経て、1881年(明治14年)頃には東京大学・初代医学部綜理に就任し、1888年(明治21年)に日本初となる医学博士号を受けた人物でもあります。今に云う、「スーパードクター」だったかと。・・・もしも、徳川家達の配慮を汲み取って、慶喜が「池田大医」による診察を受けていたならば、きっと(静岡県知事の)関口隆吉の容体に関する質問が多くあったのでは? とも想いますが。
※ 同年5月17日:“(静岡県知事の関口)隆吉が死去した”ため、この日午後八時三十分過ぎに、“(徳川慶喜が)徳川宗家の家令”へ出状(しゅつじょう)す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・やはり、徳川慶喜が抱いていた拭い切れない不安が、的中してしまったようです。・・・「出状す」とは、主に文書や報告書の提出を意味しています。どちらかと云えば、事務的な表現ですし・・・また、徳川家達の千駄ケ谷邸に居た慶喜だから故か? 提出した家令の名も記述されていないようですので・・・それだけ、徳川慶喜が受けた心理的なショックが大きかったと考えられます。彼の社会的な地位の回復には、関口隆吉の功績は大でしたし、囲碁まで対戦する仲になっていましたから。・・・尚、(静岡県知事の)関口隆吉の死因は、結局のところは、トロッコ車両の衝突事故で負った傷口から進行してしまった「破傷風」でした。目に見えない細菌の恐ろしさが分かりますね。
※ 同年5月20日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、この日「静岡」に帰る。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・非常にシンプルな表現で記述されています・・・が、千駄ケ谷では、実際に様々な準備や手配が必要だったと考えられます。
※ 同年5月21日:“午後一時より臨済寺”にて、「(静岡県知事だった故)関口隆吉」を送葬す。“一位(※徳川慶喜のこと)、三位(※徳川家達のこと)、殿(※慶喜の四男・厚のこと)の代理”として、「(慶喜家扶の)小栗尚三」が勤める。“慶喜及び家達よりの葬儀補助(金)は、五百円なり。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・
※ 同年5月22日:「臨済寺」にて、“(静岡県知事だった故)関口隆吉初七日の法事”あり。「(慶喜家扶の)小栗尚三」が代拝す。“一位(※徳川慶喜のこと)、三位(※徳川家達のこと)各々の香典”は十円とし、徳川厚(※慶喜の四男)は五円を御供えす。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・・・・何となく事務的な表現になっておりますが、前日には多額の葬儀費用を用立てていた徳川家であります。
※ 同年6月17日:“(徳川慶喜に対して徳川)宗家より、(同月)十九日が松月院(※故関口隆吉のこと)の三十五日に当たるため、餅料として千疋ずつを、関口潜(※関口隆吉の末弟)と壮吉(そうきち:※隆吉の長男で浜松高等工業学校初代校長)へ届けるよう取り計らって貰いたい”との、申し出あり。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・
※ 同年7月12日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、“静岡(西草深)の徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)邸”を訪問し、(慶喜へ)進物す。(同月)十六日には帰京す。・・・この時の徳川昭武は、数えで37歳。・・・そして、写真の件や慶事など異母兄弟同士の遣り取り以外では、久々となる徳川昭武の登場となっており、また前年の西暦1888年(明治21年)同月中記事にあった共通の趣味上の一件、つまりは狩猟用鉄砲照星の一件以来のこととなります・・・が、この7月という月は、水戸徳川家のみならず、元将軍だった徳川慶喜や、家達の徳川宗家にとっては、旧暦新暦に関わらず、非常に意味深い月であり・・・特に、“徳川昭武が同月16日中には帰京した”という記事が重要なのです。・・・旧暦新暦で云っても同じ1868年のこととなりますが・・・(慶応4年/明治元年)7月17日には、「江戸」が「東京」と改称された日でありますし、この日を新暦で云うと9月3日になります。・・・これとは逆に、(新暦の)同年7月4日は(旧暦の)5月15日となり、いわゆる「上野戦争」によって“彰義隊が壊滅した日”であります。・・・同様に、(新暦の)同年7月13日は(旧暦の)5月24日となりまして、“徳川宗家の駿府70万石への減封と移封が決定された日”となるからであります。
※ 同年12月24日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“材木献上のお礼”として、“故関口(静岡県)知事へ二百円”を、“周智郡奥領家村(※現静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家〔みさくぼちょうおくりょうけ〕)の奥山瀬作(おくやませさく)へ白縮緬一反”を贈る。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・(静岡県知事の)関口隆吉が亡くなった年の暮れに、“あくまでも材木献上へのお礼とする二百円”を、彼の遺族らへ贈ったのです。・・・ちなみに、このタイミングで触れてしまって良いのか? 多少不安な心境ではありますが、故関口隆吉の次男「出(いずる)」などの兄弟について記しておきます。「関口出」は、父が破傷風によって亡くなった後のこととなりますが、彼が15歳位の時に「新村出(しんむらいずる)」となりました。徳川慶喜の家扶で、慶喜の側室・新村信の養父に当たる元小姓頭取・新村猛雄の養子となったのです。そもそも、徳川慶喜家(※徳川別家とも)と故関口隆吉との厚い信頼関係は、西暦1886年(明治19年)1月12日頃から始まった話ではなく、幕末期の主従関係にまで遡ることができる訳です。徳川慶喜の多彩な趣味の一つに写真術獲得などがありましたが、彼の遺した写真の中には15歳時の新村出を写したものもあります。そして「新村出」は、徳川慶喜家(※徳川別家とも)の子弟らの家庭教師を務め、後に言語学者や文献学者となった人物であり、彼の業績として良く挙げられるのは、「キリシタン語学の創始」や「語源語誌の考証」、特に有名なのは『広辞苑(こうじえん)』の編纂者であることかと。また彼の実弟(※故関口隆吉の四男)には、「関口鯉吉(せきぐちりきち)」がおりますが、彼もまた天文学者や気象学者として知られます。この兄弟は、それぞれ京都帝国大学や東京帝国大学の名誉教授となりました。いずれにせよ、この記事の時期当たりからも、徳川慶喜家(※徳川別家とも)や関口家に影響を齎(もたら)したであろう広い意味での「水戸学」の影響を感じるのは、私(筆者)だけなのでしょうか?・・・尚、後半にある「周智郡奥領家村」とは、いわゆる旧幕領であり、徳川家所有土地から徳川慶喜の西草深邸建築のための建材供給地とされたのが分かりますが、建材にされる立木代金については徳川家所有地から調達できたため必要とされなかった筈なのですが、伐採や製材に掛かった手間賃などの作業運搬経費については、奥山瀬作から特段の世話に与(あずか)ったのでということかと想います。
※ 西暦1890年(明治23年)4月21日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“(徳川御三卿の)一橋と清水両家”へ、“久能山及び富士山の写真”を、進呈す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この時の徳川慶喜は、数えで54歳。・・・やはり、前々年の1888年(明治21年)10月28日に“写真師何某”を連れて出掛けた際に撮影した写真の中から、ベストショットを選定したのかと。もしかすると、参詣云々とは別の日に撮り溜めたものの中から、という拘(こだわ)りがあったかも知れません。
※ 同年5月17日:「臨済寺」にて、“故関口隆吉の一周忌法要”あり。“徳川家の代拝として(慶喜家扶の)小栗尚三”が、出席す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・
※ 同年9月16日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、“(松戸の)戸定の地”を、「永戸寅吉(ながととらきち?/えいととらよし?)」より購入す。・・・この時の徳川昭武が購入した土地は、既に昭武が暮らした松戸別邸(※戸定邸とも)の敷地ではなく、“その隣接地”となります。と云うのも、この年の11月には、この土地とは別の農地「三角畑」を購入して、芝生が植えられた現存する洋風庭園としては日本最古とされる「旧徳川昭武庭園(※戸定邸庭園とも)」が完成したとされるからです。・・・この庭園は、徳川昭武がフランス留学など約5年間の欧米滞在や、パリで開催されたパリ万国博覧会に出席した際などで見聞きした知識を取り入れて、西暦1884年(明治17年)から本格的な造園作業が行なわれていました。松戸別邸(※戸定邸とも)に接する書院造庭園と、その南方に広がる東屋庭園の2つの区画に分かれており、その庭園様式は大きな芝生を中心とした平地部分となだらかな築山を配した部分から成っていて、芝生地の中には、象徴の樹木として「イヌマキ」の植栽が特異な景観を形造っています。また庭園は、「スダジイ」や「クヌギ」、「コナラ」などから構成される林によって囲まれていて、日本庭園の伝統的技法となっている借景を採り入れて、高台の優れた景勝地を選び、田園風景を充分に眺望できるような設計が為されております。・・・これもまた、“古そうで新しい、一見すると新技術や新技法を使ってはいても、伝統や格式については重んじる”という「水戸学」を感じざるを得ない事かと想います。
※ 同年12月3日:“故関口(静岡県)知事返上の馬具”を、「(慶喜からすると義理の息子に当たる)綱町様(※徳川達孝のこと)」へ、本日相廻し置候(おきそうろう)事。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・徳川慶喜の長女「鏡子(※慶喜と側室・新村信との間に生まれた女子)」が輿入れした田安徳川家の邸宅は、「綱町」と呼ばれた現在の東京都港区三田2丁目にありました。・・・それにしても、“知事返上の馬具”とは如何なる物だったのか?・・・おそらくは、徳川慶喜が将軍様と呼ばれていた頃・・・つまりは、幕末期における徳川慶喜の御謹慎所勤方や身辺警衛精鋭隊頭取並及び町奉行支配組頭を仰せつかっていた頃に与えた物だったかと。・・・そして、当主が亡くなって役目を果たすことが出来なくなった事が、関口家が徳川慶喜家へ返上した理由なのでしょう。これも「ケジメ」のつけ方です。
※ 同年中のこととして:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「静岡浅間神社拝殿図」、「静岡浅間神社摩利支天」、「静岡浅間神社内池之景」、「静岡臨済寺外観」、「久能山全図」、「静岡阿部川橋」、「龍華寺より三保を望む」、「双鶴之図」を、撮影す。『日本写真史年表』より・・・やはり、写真師・徳田孝吉から手ほどきを受けて、ベストな構図で捉えた各地の情景写真だったかと。
※ 西暦1891年(明治24年)4月13日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“生母・貞芳院(※名は、吉子、芳子、〔俗名〕登美宮とも、有栖川宮織仁親王の第12王女)の米寿(※数え年で88歳に達した算賀のこと)祝い”のため、この日に上京す。同月22日には、「静岡」に帰る。・・・この時の徳川慶喜は、数えで55歳。・・・慶喜生母・貞芳院(※名は、吉子、芳子、〔俗名〕登美宮とも、有栖川宮織仁親王の第12王女)は、幕末期に起きた「水戸藩校・弘道館の戦い」では怖い思いもされた方ですが、矍鑠(かくしゃく)としておられるようです。
※ 同年10月21日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」より、“慶喜生母・貞芳院(※名は、吉子、芳子、〔俗名〕登美宮とも、有栖川宮織仁親王の第12王女)の写真”を、受取る。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・きっと、上記にある米寿祝いのために撮影された写真ですね。葵の御紋が入った着物姿で写った有名な写真かと。
※ 西暦1892年(明治25年)3月9日:“十二時の汽車”にて、“常宮(つねのみや:※竹田宮妃とも、明治天皇第6皇女)と周宮(かねのみや:※北白川宮妃とも、明治天皇第7皇女)両殿下”が、(静岡に)御出まし為されて、“(静岡高等小学校付属)幼稚園の生徒一同”が、「(静岡)浅間神社」にて、拝謁す。「(徳川)誠(まこと:※慶喜九男のこと)」は、“両殿下のお側”に召されて親しく拝謁し、「菓子」を、頂戴す。“(徳川)英子(※慶喜十一女のことであり、誠の姉)は欠席”に付き、“教員の関口マス(※故関口隆吉の娘)”が、「(この)菓子」を、持参す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・少しばかり昔は、幼稚園の子供達を「園児」とは呼ばなかったようであります。・・・それはそうと、徳川慶喜が前年中に静岡各地で撮影した情景写真の数々が・・・何となく、この日のためだったような印象を持ちます。明治天皇に対する徳川家の一員としての根回し的、且つ何らかのアピール?・・・尚、ここにも故関口隆吉の子女が、高等小学校教員として参加していました。関口隆吉の子供達には、学者肌の人が多いのですが、徳川慶喜親子ともども公私の区別なく守護されていたかのように感じます。
※ 同年4月24日:「関口隆正(せきぐちたかまさ:※隆吉の婿養子)」が、(静岡西草深の徳川慶喜邸に)来邸し、“(自身の)著書である『聖論訓義(しょうろんくんぎ?)』、『国文渕源(こくぶんえんげん)』、『山田長政傳(やまだながまさでん)』と、養父・故関口隆吉の遺稿『備忘録』”を、“一位(※徳川慶喜のこと)様と三位(※徳川家達のこと)様”へ、献上す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここにある「関口隆正」も、西暦1884年(明治17年)に清王朝へ留学経験がある、明治大正期の漢学者です。この年の7月頃は静岡県尋常中学校で教鞭を執り、後に私立静岡女学校の第3代校主となっています。その後には陸軍通訳として従軍したり、日本統治時代の台湾で内政や民政に当たる弁務署長となったり、これら弁務署長を辞職した後には満州で南満洲鉄道社員となって大連に滞在したり、そのまた後には台湾で銀行や印刷会社の創立に携わったりと、何となく新一万円札に似たような結構マルチな活躍をした人物だったようですが、元々は江戸時代後期の儒学者・清水礫洲(しみずれきしゅう)の四男として生まれ、国文学者・中村知常(なかむらともつね)の養子となった後に、関口隆吉の娘と結婚したのです。・・・それにしても、『聖論訓義』や『国文渕源』については漢学者だったとのことなので、幾分腑に落ちます・・・が、これらの後に続く『山田長政傳』については、どうやら自費出版されたものらしいのですが、いまいち分かりません。・・・主人公の「山田長政」とは、江戸時代前期のシャム(※現在のタイ)・日本人街を中心に東南アジアで活躍した人物のことであり、通称は仁左衛門(にざえもん)。出生地は、駿河国や伊勢国、尾張国などの説がありますが、元々は沼津藩主・大久保忠佐(おおくぼただすけ)に仕えて六尺(※駕籠舁〔か〕きのこと)をしていたものの、その後の1604年(慶長9年)、若しくは1612年(慶長17年)頃に、当時の朱印船に乗って、長崎から台湾を経てシャムに渡ったとされ、この後に貿易商人・津田又左右衛門(つだまたざえもん)を筆頭とする日本人によって組織された傭兵部隊に加わって頭角を現し、アユタヤー郊外日本人街の頭領になったとされております。貿易商人「津田又左右衛門」のほうも、朱印船貿易に従事している時点で、徳川家との密接な信頼関係がある訳ですが、シャム滞在中に、現地国王の要請により、主人公・山田長政とともに日本人傭兵部隊を率いて、隣国の侵攻を防ぐなどの功績が認められて、国王の信任を得て王女を妻とし、また寛永年間の初めには生誕地・肥前長崎に帰って、材木町の乙名(おとな:※町役人のこと)や年行司などを務めた人物なのです。・・・いずれにしても、この1892年(明治25年)の静岡界隈では、複数史料を参照した信頼性のある山田長政などの歴史上の人物研究が盛んだったようであります。きっと、これは名誉回復が叶った徳川慶喜家だけではなく、静岡に移住して生活基盤が落ち着いて、それぞれの展望が拓(ひら)けてきていた旧幕臣達の家々も同様だったかと想います。・・・それでも何故に、関口隆正が『山田長政傳』を著わそうと着想したのか? についてが分かりませんが、“主人公の山田長政は、戦闘の際に足に受けた傷により命を落とした”と云われますので、この頃の関口家に対する旧主・徳川家からの多大な援助に対する感謝の気持ちとともに、義父の隆吉が鉄道衝突事故による傷がもとで破傷風となって亡くなったことに関係していたのではないか? と考えられる訳です。
※ 同年5月17日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」と「(慶喜からすると義理の息子に当たる)徳川達孝」が、ともに“静岡の(徳川)慶喜”を、訪問す。同月20日には帰京す。・・・この時の徳川昭武は、数えで40歳。・・・3年前の5月17日は、(静岡県知事だった)関口隆吉が亡くなった日ですので、いわゆる「三回忌法要」に出席するために、慶喜邸に宿泊したとのことですね。
※ 同年10月15日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」が、“小梅(※水戸徳川家本邸〔=旧水戸藩下屋敷の向島小梅邸〕のこと)より持参したカメラ”により、“松戸別邸(※戸定邸とも)の使用人馬と番犬等”を、撮影す。・・・異母兄の徳川慶喜は、風景や情景を撮影したものが多いように感じられますが・・・弟の昭武のほうは、人物や動植物などに的を絞った写真が多かったように感じられます。・・・きっと、被写体が勝手に動いてしまうものを撮影するには、それなりのテクニックがなければ叶わなかったのではないか? と想うのですが、もしかすると・・・当時最新式のカメラを取得していたのかも知れません。・・・もう、小梅邸から何が出てきても、ちょっとやそっとでは驚きません。かつての「桜田門外の変」に使用されたと云われる、彫りによりグリップ部分を梅で象(かたど)った当時最新式の短銃が現存しているらしいので。
※ 西暦1893年(明治26年)1月27日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“生母・貞芳院(※名は、吉子、芳子、〔俗名〕登美宮とも、有栖川宮織仁親王の第12王女)が死去された”ため、上京す。・・・享年90でした。まさに天寿を全うされたと想います。諡号は、「文明夫人」と。・・・尚、“生母の訃報を電報で知り上京した徳川慶喜でしたが、臨終には間に合わず、そのまま葬儀に参列し、水戸徳川家の墓所である常陸太田・瑞龍山の埋葬地まで付き従った”とされます。・・・徳川慶喜公の母上については、“幕末期の水戸徳川家(水戸藩)を支えた奥方様であり、徳川斉昭公の正室、宮家出身者女性だった”と、単純に語り切ることは到底できませんので、彼女の家族や関係者などから複層的に観るため・・・これまでと多少重複しますが、寄り道致します。(↓↓↓)
「吉子女王(※正式には、登美宮吉子女王)」とは・・・西暦1804年(文化元年)9月25日に、有栖川宮織仁親王の第12王女(※末娘)として生まれる。幼称・俗称は「登美宮(とみのみや)」。母は、織仁親王の家女房(いえにょうぼう:※側室のこと)「安藤清子(※安藤大和守の娘)」改め、「清瀧(きよたき?)」。
同母兄に「尊超入道親王(そんちょうにゅうどうしんのう)」、異母兄に「韶仁親王(つなひとしんのう)」など。異母姉に「楽宮喬子(さざのみやたかこ:※徳川家慶の御台所)」、「孚希宮織子(ふきのみやおりす:※安芸広島藩第8代藩主・浅野斉賢〔あさのなりかた〕の正室)」など。
水戸藩第9代藩主「徳川斉昭」の「御簾中(ごれんじゅう:※正室のこと)」となって、「徳川吉子」。第10代藩主・徳川慶篤や最後の征夷大将軍・徳川慶喜の生母。院号は「貞芳院(ていほういん)」。没後に「文明夫人」と諡される。
[水戸藩第9代藩主・徳川斉昭との婚約と結婚初期の頃]・・・当時としては結婚適齢期を遥かに過ぎた年齢と云える27歳になった西暦1830年(天保元年)に、徳川斉昭との縁談が纏まって、同年の年末・12月28日に婚約が調(ととの)った。
婚約時の斉昭は31歳だったが、尊皇論の気運が高まる水戸藩士(※多くは中級下級武士)らと同じ志を持って藩主となって約1年の頃であり・・・藩主就任までは部屋住み同然の処遇だったため、正妻が無かった。
そんな中にあって、“この婚約は異母姉・喬子の肝煎りで決まった”と云われ・・・また、この婚約勅許を下した「仁孝天皇」は、「水戸(家)は先代以来、政教能(よ)く行なわれ、世々勤王の志厚しとかや、宮の為には良縁為るべし」と満足していたとか。・・・尚、西暦1831年(天保2年)2月26日、(婚儀のため江戸へ下向する)暇乞いのために、宮中に上る際に(吉子女王が)詠んだ詩歌が・・・『天ざかる ひなにはあれど 櫻花 雲の上まで 咲き匂はなん』。
吉子女王は、翌西暦1831年(天保2年)3月18日に京都を出立し、翌4月6日に江戸に到着。・・・(吉子女王が)江戸に到着した際の様子については、藤田幽谷の門下生で、江戸で侍読(じどく:※藩主斉昭に学問を教授する学者のこと)となった水戸藩士の国学者「吉田令世(よしだのりよ)」が、『吉田令世日記』に記録しており・・・「遠路の旅だが疲れも無く、機嫌が良いご様子。容姿については格別の話は今まで聞かなかったが、御目通りした者の話では、真(まこと)に美しく、御年28歳になると云うことだが、19歳か20歳位に見えると云う」と。・・・ちなみに、この他に「吉田令世」が遺した著書には、『宇麻斯美道(うましみち)』、『歴代和歌勅撰考(れきだいわかちょくせんこう)』、『声文私言(せいぶんしげん/せいもんしげん)』、『永言鈔(えいげんしょう)』、『万葉綺語標(まんようきごしるべ)』、『難霊能真柱(なんたまのみはしら)』などあります。
同年4月9日に、(有栖川宮家と水戸徳川家の間で)結納が交わされ・・・同年12月18日に婚儀が執り行なわれましたが・・・同年夏頃に、斉昭が描いた吉子女王の肖像画が現存しており・・・暫らくは、“公家風のおすべらかし及び小袖に袴姿”で過ごしていたご様子です。・・・ちなみに、この肖像画に添えられた斉昭の文から、夫となる斉昭が、“実際に「吉子」と呼んでいた”と考えられるとか。
斉昭には、吉子が嫁ぐ前に側室が生んだ女子があり、結婚後も数多くの側室を持って、計37人の子を儲けましたが、“夫婦仲は睦まじかった”と云われます。・・・吉子が嫁いで間も無い頃、義理の母となった峯寿院(ほうじゅいん:※8代藩主・徳川斉脩〔とくがわなりのぶ〕の御簾中)に・・・「自分は年齢が高く、子供を産むことは無理かも知れないので、斉昭に側室を就(つ)けて欲しい」と申し出たものの・・・斉昭は、前にも増して吉子の許(もと)に渡ったとか。
斉昭との間には、西暦1832年(天保3年)に長男の慶篤を、翌1832年(天保4年)に二男の二郎麿(じろうまろ)を、1835年(天保6年)に五女の以以姫(いいひめ)を、1837年(天保8年)に七男の慶喜を儲けましたが、二郎麿は生後9カ月で、以以姫は生後18日で夭折しました。そして慶喜は、斉昭の教育方針によって、生後7カ月で国許の水戸へ送られ、同地で養育されたのです。
[夫・徳川斉昭の謹慎と復権について]・・・水戸藩主は原則として「江戸定府」とされていたものの、藩政改革に着手するため、斉昭は長期に亘って領国水戸へ下ります。
吉子も領国の実情を深く知るため、また吉子の希望もあって、西暦1840年(天保11年)7月には斉昭が江戸藩邸の経費削減を目的とする吉子の水戸下向を幕府へ請願しました・・・が、“当代藩主の正室が江戸を離れてはならぬとの禁”は、幕府の基本方針であったため、当然に認められませんでした。・・・全国諸藩では珍しい「江戸定府」なのですが、云うのは簡単、でも実情はまさに火の車状態だったかと。大江戸と呼ばれた都会で暮らしを支えるには、当然に諸々の物価は高いですし、国許の水戸から届けられる年貢などには限りが有りますし、何よりも水戸徳川家(水戸藩)だけが徳川御三家としての対面や格式を常に意識して領国経営をせねばならず・・・今で云えば、大企業のトップリーダーが東京本社に身を縛られて居て、右腕なり現地社長や副社長が国許・水戸の経済や社会を軌道に乗せねばならず、要するに非効率的なのです。・・・更に、この頃は農作物の不作や飢饉、「大津浜事件」などが起こった後のことでしたから。
斉昭は、再び西暦1844年(天保15年)1月に吉子の水戸下向を幕府へ願い出ましたが、時悪く・・・斉昭による水戸藩領内の諸改革が相まって、ごちゃまぜ状態にされたのか? 幕府から要らぬ嫌疑を招く一因とされてしまいます。・・・結局のところ、同年5月に斉昭が幕府から「隠居及び謹慎」を命じられてしまい、長男・慶篤(※当時13歳)が、水戸藩の第10代藩主とされたのです。・・・これにより、斉昭と吉子の夫婦はともに、小石川・水戸藩上屋敷から駒込・中屋敷へと移り住みこととなった訳ですが・・・ちょうど、この頃の吉子の「奥女中」として仕え始めた「西宮秀(にしみやひで)」の回顧録『落葉の日記』によれば・・・斉昭は謹慎中とはされていたものの、奥向きの生活は穏やかであり・・・ある時、“珍しいヒヨドリのつがい”を、将軍家から拝領した際には、夫婦ともに大変喜んで、斉昭も文献を調べたり、飼育に詳しい者を召し出すなど協力し・・・“やがて卵が産まれると孵るまで毎日眺めて、親鳥が雛を世話する様子に夫婦で感心していた”と云います。
その後に、鎮派や激派を中心とする水戸藩の改革派達(※多くは中級下級武士層)によって、幕府への斉昭の復権活動があって、これらが転機となり、やがて幕閣達も協調策に転じます。
西暦1847年(弘化4年)には、将軍・徳川家慶の意向によって、斉昭七男の慶喜が、徳川御三卿の一橋家へ養子入りして、その当主を相続します。
西暦1849年(嘉永2年)になると、斉昭が水戸藩政へ参与することについては許されます。
西暦1852年(嘉永5年)12月には、長男の水戸藩第10代藩主・慶篤に、将軍・徳川家慶の養女「線姫(いとのひめ/せんひめ:※有栖川宮幟仁親王の娘で吉子の大姪)」が輿入れします。・・・斉昭吉子の夫妻は、この入輿に先だって、同じく有栖川宮家の姫で家慶の養女「精姫(あきひめ:※吉子の姪であり、後の韶子〔あきこ〕のこと)」との縁組を望んでいましたが、“既に筑後久留米藩主・有馬頼咸(ありまよりしげ)との婚約が決定済みとの理由で断られてしまい、尚も継続して交渉した結果だった”とか。・・・それでも、線姫が大変な美人で慶篤との仲も良く、“舅・斉昭と姑・吉子の喜びは大きかった”と云います。・・・しかし、1854年(嘉永7年)に線姫が吉子にとって初孫となる「随姫(よりひめ:※慶篤の長女であり、後に阿波徳島藩主・蜂須賀茂韶〔はちすかもちあき〕に嫁ぐ)」を産みましたが、1856年(安政3年)に若くして亡くなってしまいます。
西暦1853年(嘉永6年)に、斉昭はペリー来航問題に際して「海防参与」を命じられて幕政の一部にも参加することとなりましたが、その対外的な強硬論によって、翌年3月には幕府の日米和親条約締結は已む無しとする決定に異を唱えて辞意を表明するなど、早くも幕閣達と対立してしまいます。・・・また、国許の水戸藩内でも、門閥保守派(※諸生党とも)の結城寅寿らが、藩主・慶篤に迫るなど前藩主の斉昭批判を強めることとなり、彼らの(斉昭)批判文書を、江戸にあった老中・阿部正弘に提出してしまいました・・・が、この時の吉子が、(一橋)慶喜とともに、長男・慶篤を譴責し、提出された批判文書を取り戻させています。
西暦1856年(安政3年)の初めには、斉昭に対して、“幕府より特命ある場合を除き登城には及ばず”との命令が下されます。
西暦1857年(安政4年)5月になると、(一橋)慶喜が生母・吉子に対して斉昭の辞任を勧めることとなり・・・同年7月には、斉昭が「海防参与」を辞任します。
西暦1858年(安政5年)1月2日、年賀のため父母の許を訪れた(一橋)慶喜が、“幕府を飛び越えて朝廷へ入説する事は控えるように”と、父・斉昭に意見した際に同席していた吉子も、「(一橋)慶喜の云う事に理があるので、過ぎた行ないを(幕閣達へ)謝すように」と意見しています。この時の様子については、渋沢栄一による『昔夢会筆記』の中の「烈公(※斉昭のこと)御直諫の事」によれば・・・「折ふし御同席なりし貞芳院様(※吉子のこと)も傍より詞(ことば)を添へて、『刑部(※慶喜のこと)の申す所、理にこそ候へ、御過を謝し給(たま)はんこと然るべからん』と仰せられ、しか(ら)ば烈公も遂に頷(うなず)かせ給へり。」と。
[夫・徳川斉昭の水戸永蟄居と死去について]・・・西暦1858年(安政5年)6月、孝明天皇からの勅許無きまま、日米修好通商条約に調印してしまった幕府に対して怒った斉昭・(一橋)慶喜父子らは、江戸城に登城して大老・井伊直弼に抗議したものの・・・逆に、その無断登城を理由として、翌7月に「謹慎及び登城停止」を命じられてしまう。・・・同年8月になると、朝廷より水戸藩に対して、“幕政扶助と勅諚廻達を命じる密勅”が下されます。これを「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と呼びます・・・が、これを発端として大老・井伊直弼ら幕閣を中心にして激化した「安政の大獄」によって・・・
翌西暦1859年(安政6年)8月、斉昭が国許・水戸における「永蟄居処分」となって、江戸から遠ざけられることとなり、翌9月1日に江戸を出発した。・・・その約3カ月後の12月5日、吉子は(幕府の許可を得た上で)江戸を出立し、初めて水戸へ下ることとなった。・・・しかし、水戸藩領内では、斉昭処分後も戊午の密勅問題を巡って・・・勅を(朝廷へ)返納せずに行動を起こすべきとの激派(※天狗党、後の本圀寺党とも)・・・慎重を期して(朝廷への)返納をも容認する鎮派(※中間派、後の大発勢とも)・・・断固として(この密勅自体を)幕府へ引き渡すべきとの門閥保守派(※諸生党とも)・・・の三つに藩論が分かれて、更に混迷度を増してゆくことに。・・・
「永蟄居処分」となっていた斉昭は、問題となった勅書を、水戸城内の祖廟に納めて、藩内の鎮静化しようと図り・・・また藩内では、慎重を期して(朝廷への)返納をも容認する鎮派(※中間派、後の大発勢とも)が主流だったが、勅を(朝廷へ)返納せずに行動を起こすべきとの激派(※天狗党、後の本圀寺党とも)が中心となって、勅書返納については断固阻止しようと水戸街道・長岡宿に集まってしまいます。これを「長岡屯集」と呼びます・・・が、この時に屯集した長岡勢に同情し、また彼らと内通して捕縛についてを逃れさせた家老・大場一真斎(おおばいっしんさい)に対しては、吉子が・・・「両公(※斉昭と慶篤のこと)の意向を受け入れず、御国(=水戸藩そのもの)が無くなっても良いと申す者達が、(御国の)為に成るとは思わない」・・・と、叱責したとのこと。・・・ちなみに「大場一真斎」とは、“長らく斉昭に仕え、その藩政改革に協力した人であり、斉昭没後は慶篤に仕え、政争が激化した水戸藩の混乱収拾に尽力したものの、水戸藩浪士が引き起こした東禅寺襲撃事件の責任を問われて家老職を解任させられるとともに謹慎に処されるも、やがて再びの復帰を許されることとなり、慶篤に従って上洛・・・慶篤の実弟・徳川慶喜が第15代将軍になると、慶喜から直臣として迎えられて、二条城留守居役を任じられ、そのまま1841年(明治4年)に亡くなるまで京都で余生を送った”と謂われる人物です。
翌西暦1860年(安政7年)1月、『落葉の日記』によれば・・・水戸に大雪が降ったため、斉昭が「自分は慎みの身であるが、御三階(※水戸藩庁・水戸城中の櫓のこと)にて、この雪を見られよ。弘道館の梅も咲てみやらん」と言って、吉子を気遣った。
同年3月3日も季節外れの雪が降り、吉子はこの三階櫓から「みかんまき」をして楽しんだが・・・江戸から夜半過ぎに急使が来て、「桜田門外の変」の一報を聞いた斉昭が、吉子の寝所へ行って人払いをする。・・・お側付きの者達は、この後に何事が起こるかと大いに心配したが、“吉子の周囲ではこの事による大きな変化は起きなかった”と云われます。
同年8月15日夜、斉昭が蟄居処分のままに死去。この日はいわゆる中秋の名月であり、観月の宴を終えた夜半近くの突然死だった。・・・当時も様々な憶測があったようですが、一応は心筋梗塞と推定されています。
夫の死没により、吉子は程なく落飾して、「貞芳院」と名乗ります。
“夫の一周忌”に、「月」を詠んだ短歌に・・・
「めぐりくる こよひの月を まちつけて 君いますかと したふはかなさ」
この後に、「見月恋昔」のお題にて・・・
「ともにみし むかしのきみの かげそへて むかふもかなし もちの夜の月」・・・とあります。
[動乱期:明治維新の前後の頃]・・・柱石の如しとされた斉昭の死後、水戸藩は激しい内部紛争に陥ってしまいます。
「貞芳院」と名乗った吉子は、若干気弱で決断力に欠けると云われた長男・慶篤の補佐を務めます。夫の死後も、引き続き水戸に暮らしました・・・が、故斉昭の遺志だからとして、水戸藩家臣らの名を列挙し、彼らを罷免しないように求めた藩内人事に対しては、「貞芳院」による介入を伺わせる慶篤宛書簡が残っています。・・・また“慶喜の将軍擁立には尽力していた”とも謂われますが・・・一方で、“将軍後見職として、京都にあった慶喜に対しては、幕閣達の悪名が立てられないように”と、幕府を心配する手紙を送っておりました。
しかし、水戸藩主・慶篤は藩内における対立を収拾できず・・・西暦1864年(元治元年)に激派・天狗党の筑波山における決起(※筑波勢挙兵とも)があり・・・対する門閥保守派・諸生党による筑波勢参加者及び係累へ者達への報復行為もあって・・・遂には、幕府追討軍が出動して軍事的な鎮圧行動に乗り出した結果、門閥保守派・諸生党が優勢となって・・・これに連動した諸生党が、更に故斉昭の政策に協力した豪農や地元有力者らの屋敷などを打ち壊すなど、水戸藩とこの周辺地域は、大変な事態に陥りました。
これらの事態を収束させるため、藩主・慶篤の名代で内乱鎮静に当たることになった、いわゆる水戸支藩の宍戸藩主・松平頼徳の軍勢(※中間派、大発勢とも)が、江戸から水戸へと向かったものの・・・門閥保守派・諸生党による政治活動が功を奏したのか? 筑波勢(※天狗党勢とも)などの尊皇攘夷派と同一視されて、幕府追討軍から攻撃されてしまうことに。・・・
「貞芳院」こと吉子は、この時・・・“門閥保守派・諸生党の市川三左衛門に対して、宍戸藩主・松平頼徳の軍勢(※中間派、大発勢とも)を水戸藩庁(※水戸城のこと)に入れるように”と主張したと云いますが、市川らには聞き入れられません。
結果として、主家筋に当たる本藩鎮静化の責務を果たせなかった松平頼徳は切腹することとなり・・・筑波勢(※天狗党勢とも)は、「禁裏御守衛総督」となっていた慶喜に対して、父・斉昭の遺志を請願するために、上京を試みたものの・・・慶喜は、これを討伐軍を率いて迎え撃つ立場となっていたのです。
藩主・慶篤が、水戸藩江戸屋敷内においても実権を握れない最中にあって・・・筑波勢(※天狗党勢とも)の処刑が進められると、門閥保守派・諸生党が水戸藩庁(※水戸城のこと)城下で、筑波勢(※天狗党勢とも)に参加した者達の家族らに対する報復を始め・・・後に幕府が瓦解すると、反対に筑波勢や天狗党勢の生き残り(※本圀寺党とも)が、門閥保守派・諸生党を仇敵として報復をすることに。・・・そして、同母弟の慶喜は、最後の将軍に就任するも、紆余曲折あって・・・後の「戊辰戦争」の勃発によって、従兄弟の有栖川宮熾仁親王に追討される身の上とされてしまいます。
西暦1868年(慶応4年)4月5日、藩主・慶篤が水戸藩庁(※水戸城のこと)にて病没する。既に、「江戸城無血開城」や、“同母弟・慶喜の水戸謹慎などが決まる最中での死去だった”ため、その「喪」は秘されて・・・慶篤の遺児・篤敬(※後の定公)に代わって、欧州留学中だった徳川昭武(※慶篤・慶喜の異母弟で、当時は徳川御三卿・清水家の当主)を呼び戻して「水戸藩主」に据えることとなりましたが、水戸藩はおよそ8カ月に亘る藩主不在状態だったのです。
同月15日、慶喜が水戸藩庁(※水戸城のこと)に隣接する藩校・弘道館に入りましたが、“生母・吉子とは会わなかった”と云います。
同年7月には、慶喜は静岡に移りますが・・・
同年10月、水戸藩庁(※水戸城のこと)の大手門を挟んでの、筑波勢や天狗党勢の生き残り(※本圀寺党とも)の者達と、門閥保守派・諸生党勢が、水戸藩士ら同士による「弘道館の戦い」が起こされて・・・その時の銃弾が、「貞芳院」こと吉子の居室付近にも飛んだのです。・・・この時の様子については、『落葉の日記』で・・・「御城(※水戸藩庁、水戸城のこと)にも大将と申し奉る人無しにつき、貞芳院様(※吉子のこと)を大将に致しおり候事、故に先方(※門閥保守派の諸生党勢のこと)にても貞芳院様(※吉子のこと)を目掛けて鉄砲など打ち込み候」・・・とあります。・・・この時の、水戸藩庁(※水戸城のこと)奪還攻撃を始めた諸生党勢が、故斉昭の未亡人を敵の大将と見做していたとは。・・・それだけ、水戸徳川家(水戸藩)においては、「貞芳院」こと吉子の存在や、言動による影響が大きかったという、何よりの証拠かと想います。
[水戸偕楽園・好文亭(こうぶんてい)での暮らしぶりについて]・・・「貞芳院」こと吉子は、西暦1869年(明治2年)から1872年(明治5年)まで、偕楽園内の「好文亭」に暮らしました。
その理由としては、一つ目に・・・上記の「弘道館の戦い」などにより、水戸城や城下町が、焼けてしまったり、荒廃してしまい・・・「水戸藩主」や「(水戸)藩知事」として、その任に与(あず)かった徳川昭武(※慶篤・慶喜の異母弟)としても、義理とは云え母に当たる「貞芳院」こと吉子の健康や、暮らし向きを第一優先に配慮したから。
二つ目に・・・全国諸藩の「藩」が、公式に制度として存在していたのが、同じくして西暦1869年(明治2年)の「版籍奉還」から1871年(明治4年)の「廃藩置県」までの2年間だけだったと云えるから。
そして・・・そもそも「好文亭」は、「貞芳院」こと吉子の夫・故徳川斉昭(※烈公のこと)が、詩歌や管弦の催しなどをして、領内の人々と共に心身の休養を図る目的で建てられたものであり、建築年は西暦1842年(天保13年)。・・・「好文」と名付けられたのは、これが“梅の異名”であって・・・『学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅の花が開かなかった』・・・という古代中国の故事に基づいております。
その建物は、“木造2層3階建ての本体部分と、北方に繋がる「奥御殿(※此処は平屋造り)」から成っており・・・“斉昭が建物の配置や建築意匠までを自ら定めた”と云われていて・・・更に「奥御殿」を設けた理由は、“万一水戸城中で出火などあった場合に対して、一時的な立ち退き避難場所として備える”という目的と・・・歴代の水戸徳川家当主達は、ご先祖の光圀公(※義公のこと)が『大日本史』編纂に取り組み始めた頃から、当主自らが質素倹約する旨が家訓となっていたため、華美な管弦などを愉しむこと自体が禁制とされていたため、“主に城中で働く女性達が遊息する場所として、その利用を認めていた”という配慮があったようですから。・・・いずれにしても、西暦1840年(天保11年)から1844年(天保15年)頃に、徳川斉昭が御簾中(※正室のこと)・吉子を水戸へ下向させるために幕府へ願い出ていますので、建築当初の目的としては、やはり・・・“有栖川宮織仁親王の第12王女(※末娘)を、水戸に迎え入れるために恥ずかしくない体裁を整える”というのが、一番先にあったかと想います。・・・ようやく水戸で共に夫婦が暮らせたのは、西暦1859年(安政6年)12月から1860年(安政7年)8月までの僅かな期間でしたから、この「好文亭」を共に利用した回数は、さほど多くは無かったと考えられます。
・・・ちなみに、別ページの何処かで触れたとは思うのですが・・・「好文亭」には、日本初となる「配膳用昇降機(※人力手動式エレベーター)」が設置されており・・・これも「水戸学」による成果の一つとは云えるでしょう。
「貞芳院」こと吉子は、この「好文亭」に暮らしながら、偕楽園の梅と亡き夫・斉昭について、次の詩歌を詠んでいます。・・・ご本人による前説付きです。
好文亭の梅咲きたる(=咲き足る)を見て、三十年余り五年の昔、我君(※斉昭のこと)の仰(おおせ)によりて、あまた(=数多)の梅の実を、つとめ(=勉め)て此国(※日本のこと)にまか(=蒔か)せ給(たま)ふとて、何くれと仰こと(=仰せ事)あふ(=会う)し(=日々)をおもひいでて(≒思い出しながら)・・・
「いとどしく(≒いよいよ著しく) 猶(なお)しのば(=忍)るる むかし(=昔)かな 花もその世の 事なわす(=忘)れそ
梅がか(=梅ヶ香)を 世々に残して 我君の 深きこころ(=志)を 人に伝えよ」
・・・何とも含蓄のある詩歌です。
[東京移住後の暮らしぶりについて]・・・「貞芳院」こと吉子は、西暦1872年(明治5年)9月に、東京向島の小梅邸(※旧水戸藩下屋敷のこと)に移った。この時の水戸徳川家当主は、異母兄・慶篤の跡を継いだ昭武であり・・・その昭武を継いで、吉子の孫・篤敬(※慶篤の長男)となります・・・が、吉子は引き続いて、水戸徳川家における奥向きの最上位にあって、子女の命名や教育にも携わった。
吉子の甥となる有栖川宮熾仁親王の『熾仁親王日記』によれば・・・西暦1873年(明治6年)1月以降、吉子は甥・有栖川宮熾仁親王と、度々互いを訪問し合ったり、或いは風邪の見舞いを遣り取りし・・・同年6月には、貞子妃(さだこひ:※徳川斉昭の十一女)を病気で亡くして、2番目の親王妃となる董子(ただこ:※越後新発田藩主・溝口直溥〔なおひろ〕の養女)と熾仁親王との結納の祝いをしたり・・・同年11月には、水戸から鮭(※常陸那珂川で採れた献上鮭のこと)を取り寄せて贈るなどして、水戸徳川家と有栖川宮家との親交が復活した様子が記されています。
西暦1874年(明治7年)9月には、吉子が「正二位」を追贈された斉昭自作の羊筆(※山羊〔ヤギ〕の毛を使用した羊毛筆のこと)を、熾仁親王へ贈り・・・同年10月末には、慶喜の同年の兄であり元鳥取藩主の池田慶徳邸に、熾仁親王を招くと、昭武のほか水戸徳川家の親族らを揃えて、彼をおもてなししています。
「貞芳院」こと吉子は、夫・斉昭の教育方針により生後7カ月で国許の水戸へと送られて養育され、また武家社会の慣習上、徳川御三卿・一橋家へ養子に出したことで、慶喜とは同居する生活はできませんでしたが、互いに親しく文通を行なうなど、頻繁に母子で交流していた様子が遺された書簡などから窺えます。・・・西暦1877年(明治10年)4月には、老齢ながらも、実子・慶喜の隠棲する静岡へと向かい、約11カ月に亘って、共に静岡を旅行しました。
「貞芳院」こと吉子は、西暦1882年(明治15年)2月に、徳川昭武に伴なわれて熱海へと向かい、同年10月中に実子・慶喜と落ち合って湯治し、次いで静岡に向かって、母子で親しく過ごすことができたようです。
西暦1886年(明治19年)11月に慶喜は、生母・吉子の病気見舞いのため、静岡謹慎後初めて上京し・・・1889年(明治22年)4月にも上京して、小梅邸(※旧水戸藩下屋敷のこと)で吉子と対面し、次いで別邸(※戸定邸とも)の昭武を訪ね、吉子も交えて翌5月9日まで滞在。その後日光や瑞龍山の墓参りして静岡に帰りました。
実子・慶喜の三度目の上京は、西暦1891年(明治24年)4月、生母・吉子の米寿(※数え年で88歳に達した算賀のこと)祝いの席であり・・・これが母子の最後の対面となりました。
[吉子の人物像について]・・・渋沢栄一の著書『徳川慶喜公伝』によれば・・・生母・吉子についてを、実子・慶喜が・・・「世にも健気なる御生まれにして、才媛の誉高く、内助の功頗すこぶる多し。烈公(※斉昭のこと)薨後には、水戸の重臣等、事に臨みて決を請ひ奉れる事も尠(すく)なからず、稀に見る所の女丈夫におはせし」と評しています。
その性格は、豪気そのものだったようで・・・夫婦共に、とても馬が合う仲だった模様。
西暦1834年(天保5年)に、斉昭が蝦夷地開拓を幕府へ請願した際には、吉子も夫と共に蝦夷地に渡る決意を固めて、懐妊中にも係わらず雪中で薙刀や乗馬の訓練に励んだり・・・また、江戸小石川・水戸藩上屋敷の奥庭を散歩中に這い出て来た1匹の蛇を、人の手を借りずに自ら打ち殺した・・・と伝えられております。
その気丈さは、当時から「鬼の女房に鬼神(※似た者夫婦を指すことわざであり、〔割れ鍋に綴じ蓋〕という意味)」と云われる程だったと。
また、西暦1858年(安政5年)7月の『小人目付発大老及び老中宛上書』には、吉子について・・・
「兼々(かねがねより)御簾中(※登美宮吉子のこと)ニは気象(=気性)も被在之(これにあらされられ)、文筆達者(ぶんひつたっしゃ)ニ被取廻(とりまわしされ)、女中向之(じょちゅうむきの)世話は勿論(もちろん)、御家政向(ごかせいにむけ)或(あるい)ハ海防之議論(かいぼうのぎろん)まで抔拈(ふてん:≒詳〔つまび〕らか)を被申出候程之義(もうしでされそうろうほどのぎ)ニ有之候処(とするところこれありて)、此度(このたび)御処置之次第(ごしょちおきのしだい)、殊之外(ことのほか)御不平之由(ごふへいのよし)ニ而(しかも)、日光御門主(※上野東叡山・寛永寺貫主と日光日光山・輪王寺門跡を兼務した人のことであり、皇子や宮家出身者がなった)とは御続柄(≒血縁関係がある方であって)、旁以(かたわらでもって)同意被成候由(どういなされしそうろうよし)ニ而、京都江御上書(きょうとへのごじょうしょ)有之候趣噂仕(うわさのおもむきこれありとつかまつりそうろう)」
とあるので、御簾中(※正室のこと)が取り仕切る普段の奥向きのことばかりでなく、(水戸)藩政にも深く関わり、更に全国諸藩を巻き込む海防問題に対しても関心を持ち、議論に及んでいたことが窺えますし・・・そして、第12代将軍・徳川家慶の御台所の妹に当たり、有栖川宮家出身者でもあった吉子が、(水戸)藩政のみならず、本来は幕府が主導して対処する国防問題をも関心や意見を持っていたことについて、大老・井伊直弼をはじめとする南紀派の幕閣達が恐れていたことも分かります。
・・・一方で、夫を立てることは怠らず、今に云う「モテ男」の夫を、良く支えて・・・庶子の教育にも目を配るなど、「賢夫人」としての名声は、かなり高かったと云えます。・・・吉子の逸話として、夫・斉昭が夜中に小用で起きると、吉子は、その都度布団を外して両手を着きながら待っていたため、斉昭が「それは無用」と言っても、一向に止めなかったとか。
また、結婚当初の頃の逸話として・・・(水戸徳川家の家風や家訓により)自ら質素な綿服を、普段から着る斉昭の考えに対しては、“綾(※華美とされる絹織物のこと)は多少傷んでも見栄えが良く、丈夫で長持ちするため、高貴な者の衣装に用いるのに良いとの考え”から、当初は賛同しなかったものの、しばらくして自らも綿服を着るようになったとか。・・・それはそれで心配する老女に対しては・・・
「すそたもと(=裙袂) 合さばなどか 合はざらむ 表に添ひし 裏の身なれば」
・・・との短歌を詠んで、夫の考えに歩み寄る姿勢を示したと。
・・・それでも、側室を24人、お手付女性は20人以上、儲けた子女は何と37人と謂われる夫・斉昭に対しては、多少は思うところもあったようでして・・・それは、そうでしょう。・・・
懐妊中に乗馬をする吉子を見て心配し・・・「落馬しないよう鞍の前に棒を立ててはどうか?」・・・と、夫・斉昭が馬廻り役人と相談しているのを聞き付けた懐妊中の吉子は・・・「では、御前の前壺には天保銭大のお穴をお開けに為さるようおっしゃい」・・・と、“腰元女中に命じて皮肉った”という逸話もあります。頓智(とんち)が効いていて結構ストレートな表現です。
吉子の容姿については・・・吉子付きの奥女中だった西宮秀が、仕え始めた頃の30代終盤の吉子のことを、“京人形のようで真にお美しく例えようもない様(さま)であった”と述懐しています。
吉子の趣味や嗜好については・・・多芸で、和歌や有栖川流の書の他に、刺繍や押絵などの手工芸、楽器では箏(こと)や篳篥(ひちりき:※雅楽や神楽などで使う管楽器・吹き笛のこと)を良くしたとか。
釣りも趣味とし、“水戸下向の後には、城下の川(※常陸那珂川の支流などで、おそらくは小舟に乗って)で良く釣り遊びをしていた”と云います。
[吉子の葬儀や墓誌文について]・・・吉子は、長命を全うして、西暦1893年(明治26年)1月27日に死去しました。享年90。諡号の「文明夫人」は、“夫・斉昭が生前に決めていたものだった ”と云います。
その葬儀は、同年2月5日に谷中・天王寺において行なわれました。
棺は、116人の親族らに護られながら、上野停車場(※上野駅のこと)を出立し、水戸までは汽車で。その後は、人力による2泊3日の路程となり、水戸徳川家歴代の墓所・瑞龍山(現茨城県常陸太田市)に葬られました。
・・・電報により生母・吉子の死去を知って上京した慶喜は、臨終には間に合いませんでしたが、そのまま葬儀に参列して、墓地への埋葬まで付き従いました。
尚、慶喜の静岡謹慎時代における上京回数は、計5度ありましたが・・・そのうち三度は、「病気見舞い」、「米寿祝い」、「葬送」であって、いずれも生母・吉子に直接関わるものであり、慶喜にとって生母の存在が如何に大きかったのかを物語っています。そして、慶喜は生母を偲んで以下の二首を詠んでいます。
「いまははや いかに思ふも かひなくて ととめかねるは 涙なりけり」
「常ならば かわりなしやと のたまはん 御言葉なきぞ かなしかりける」
また、同年2月3日付けの朝野新聞(ちょうやしんぶん:※明治7年から明治26年まで東京で発行された民権派の政論新聞のこと)中の訃報記事に、吉子の孫・篤敬による墓誌文が掲載されており・・・
《これについても原文は漢文表記なのですが・・・》
「夫人天資叡明仁慈、儀容端正、接物有法、恩意曲至、平生好雅楽、善筝篳篥、通書法、工和歌、而旁嗜武技、妾媵畏愛、内外粛然、弘化元年烈公致仕、国歩極艱、夫人恒在側、克左右烈公、以済大難、其用心也最苦、後迨元治慶応之際、国家益多故、而夫人憂労、終始不渝、衆心繋焉一朝溘焉」・・・とあります。
※ 西暦1893年(明治26年)3月20日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「吐月峰」へ「自転車」にて赴き、“(徳川)厚(※慶喜の四男)と(慶喜家扶の)梅沢”が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「吐月峰」は月見の名所ですので、きっと・・・徳願寺にも立ち寄って、「月」を良く詠んだ生母・貞芳院を偲んだのでしょう。
※ 同年4月21日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“小梅様(※水戸徳川家を継いだ徳川篤敬〔※後の定公〕のこと)より写真到着の旨”の返書を出す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この記事中にある写真とは、おそらく・・・晩年を東京向島の小梅邸(※旧水戸藩下屋敷のこと)に暮らした生母・貞芳院が写されて、撮り溜められていたものだと想います。
※ 同年5月9日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)が注文していた自転車”が、この日の「汽車便」にて「神奈川」より到着す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「神奈川」から取り寄せているので、輸入された自転車だったかと想います。しかも、時期的に云えば、空気入りタイヤを装着したものだったかと。
※ 同年5月13日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前六時頃より「自転車」にて運動致し、(これに)「曲淵(まがりぶち)」が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「自転車」については、届けれて間もない新車だった筈です・・・が、「曲淵」さんについてが、良く分かりません・・・が、いずれも旧幕臣であり慶喜に従って静岡移住したとされる・・・「曲淵景明(まがりぶちかげあき)」、若しくは「曲淵景行(まがりぶちがゆき)」と、彼らの子息と考えられる「曲淵市次郎(まがりぶちいちじろう)」と「曲淵宏(まがりぶちひろし)」・・・という四名の名が史料上にあるようなので、このうちの誰かで間違いないとは想うのですが。・・・下の名前まで記載されていないと、“この人”と断定できないのが、何とも消化不良気味に感じてしまうというのが、これまた悩ましいところではありますが。・・・これとは別に、何処かに徳川慶喜家の(後の)家令や家扶、家従、家丁を記録した職員名簿的な史料はありませんでしょうか?
※ 同年6月8日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「自転車」にて運動致し、午後には「写真師・徳田」が出頭して、(これを慶喜邸内の)「御矢場(おんやば)」にて、撮影す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「自転車」で運動することは、既に日課となっていた模様です。そして、午後は「弓道場」での撮影ですね。
※ 同年6月26日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、“写真師・徳田が過日来度々出頭した写真の世話について20円”を、下す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・“写真の世話”とは、徳川慶喜への写真撮影の指南を含んだものと考えられます。
※ 同年6月29日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、朝に「自転車」にて運動致し、“安在(あんざい)の河原辺”まで行く。“(これに慶喜家扶の)梅沢”が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「安在」とは、現在の「安西」のことであり、静岡県静岡市葵区安西。つまりは、“安倍川の河原付近まで自転車遠乗りを行なった”との記事。・・・同伴した梅沢さんは、おそらく駆け足だったかと。
※ 同年7月4日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「(写真師の)徳田」が出頭し、“(徳川慶喜の)側(そば)にて撮影”との事。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・どんな被写体だったのか? については、残念ながら分かりませんが・・・おそらくは、徳川慶喜本人の写真だったかと想います。しかも、ポーズを決めた姿で。
※ 同年7月5日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“安倍川橋や臨済寺等の撮影”に、赴く。“(これに慶喜家扶の)新村と(慶喜の家従、あるいは家丁の)曲淵”が、同伴す。・・・曲淵家そのものは・・・元々は、甲斐武田家に仕えた武田遺臣で、江戸時代の後期には大坂西町奉行や江戸北町奉行とされた家系とは想うのですが・・・。
※ 同年7月6日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、九時頃より、“近傍へ写真を持参”し、出掛ける。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この記事によれば、同伴者はいなかった模様。・・・そして、写真機やカメラ持参とはなっていないので、自ら撮った写真を、誰かに観せるためだったか? と考えられますね。
※ 同年7月7日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「(写真師の)徳田」が出頭す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここで、前日に写真を持って行った「近傍」というのが、「徳田写真館」だったことが分かります。・・・おそらくは、写真指南役(※こういう役職はありませんので、写真の家庭教師と云うべきなのでしょうが)の徳田孝吉から・・・「何でも良いので、何かしら撮ってみて下さい」・・・などと、“お題”を出されていたのでしょう。
※ 同年7月8日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、十時半頃より、“安倍川辺ヘ写真撮影“”に赴く。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・またしても、同伴者無しで。・・・写真撮影という名目ならば、近傍ぐらいは一人で出掛けられるという自由を知ってしまったか? の元将軍様。
※ 同年7月9日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「(写真師の)徳田」が出頭す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この7月初旬からは、毎日異なるお題を出され、その出来栄えを、しっかり届ける写真館主の姿が、目に浮かぶようですね。
※ 同年7月10日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前八時より、“久能山と浜辺へ写真撮影”に、赴く。“(これに慶喜の家従、あるいは家丁の)曲淵”が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・
※ 同年7月12日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前十時頃より、“久能山と浜辺へ写真撮影”に、行く。“(これには写真師の)徳田”が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この二日前には、“何かが予定通りとはならなかったこと”が窺えます。そのための指南役の同伴だったかと。・・・それとも、写真の構図に関わる景観を選定しきれなかったのか? 指南役の眼に頼ったのか? 何となく、何かに出展して評価を受ける立場に臨むような気配が致します。・・・
※ 同年7月13日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「(写真師の)徳田」が、出頭す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・・・・
※ 同年7月14日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、十一時前に、“近村へ写真撮影”に、赴く。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・またしても同伴者無しで、しかも「ただ近村へ」と告げて。ほとんど毎日と云って良い程、頻繁に。
※ 同年7月16日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、八時半頃より、“石部辺へ写真撮影”に、赴く。“(慶喜家従の)平石と(写真師の)徳田”が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・うーん、困りました。「石部」という地名には、二つほど候補地がありまして・・・一つ目は、「せきべ」と読む現在の静岡県静岡市駿河区石部。・・・二つ目は、「いしぶ」と読む現在の静岡県賀茂郡松崎町石部。・・・この日の出発時間を観ますと、何となく後者の「いしぶ」の方かと想います。この7月という季節と、「いしぶ」に広がる棚田の風景を考慮しますと。
※ 同年7月17日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「(写真師の)徳田」が、出頭す。翌十八日、十九日にも、出頭す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・・・・何やら、写真の仕上がり具合や、出展する作品を吟味しているような?・・・
※ 同年7月24日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」へ、“写真と自書”を発送す。「千駄ケ谷(※徳川宗家・徳川家達のこと)」より、“写真と直書到来の事”の報知あり。「(写真師の)徳田」が終日出頭す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・元水戸徳川家当主や徳川宗家の人脈を活用した、何かの宣伝活動?・・・としか思えない程、写真を使っていた模様。
※ 同年7月31日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「(写真師の)徳田」が出頭す。翌8月1日にも出頭。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この7月の記事は、写真に関してばっかりという日々でした。翌8月も同様だったようです。
※ 同年8月4日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「(写真師の)徳田」が出頭し、「夜幻燈映写会(やげんとうえいしゃかい)」を、催す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・なるほど、この日のためだったんですね! あちこちで撮影に明け暮れた理由の一つは!・・・もう一つの理由としては、生母・貞芳院が亡くなられて、新盆(にいぼん/しんぼん)の時期に当たるため・・・もしかすると、母子で思い出があった静岡各地を撮影して、この日のために準備していたのかも知れませんね。・・・「幻燈」とは、「magic lanterm(マジック・ランタン)」のことであり、電燈やランプなどの光源を用いて、スライドに描かれたり写されたりしたイメージを、レンズを通して拡大し、映写幕に投影する装置。現代のスライド式プロジェクターの原型や元祖と云えるものであり、いわゆる写真や映画との関係で云えば、その中間的な存在なのでした。ロマンがありますね。・・・ちなみに、この明治20年代頃は・・・小学校の教室や校庭などで、特に「幻燈映写会」が開催されるようになり、これが全国的に広まって流行となり、その様は「幻燈熱」と呼ばれたとか。・・・また、1886年(明治19年)には、茨城県久慈郡にあった太田聯合教育集会所において、「解剖圖及び地球天体等を影写する幻燈試用式」が行なわれた、との記録も遺っております。・・・これはこれで、何かと「水戸学」と所縁のある常陸太田での幻燈試用式でしたので、当然に水戸徳川家の元当主だった徳川昭武(※後の節公)や、昭武を引き継いだ徳川篤敬(※後の定公)などの働き掛けや協力があったのではないか? と考えられるため、妙に納得できてしまいます。そして、彼らに強い影響を与えたのが、徳川慶喜だったのではないか? と。
※ 同年8月5日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「(写真師の)徳田」が出頭す。翌6日と同月8日、同月12日も出頭。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・前日の催しで試用された設営機材の片付けなど、いろいろと考えられますね。
※ 同年8月16日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前十一時より、“大崩辺へ写真撮影”に赴く、(これに)「木原」が、同伴す。・・・“大崩辺”とは、「大崩海岸付近」のことであり、駿河湾沿いの現静岡市駿河区石部から焼津市浜当目にかけて続く急崖の海岸。延長は約4kmあって、この地名は崩落が多いことに由来するとか。・・・尚、再び「木原(きはら)」さんという名が、出てまいりました。これも初見となりますが、翌9月の記事に「木原六蔵(きはらろくぞう)」とフルネームで登場致します。・・・尚、上記同年5月13日の記事中にある「曲淵さん」とは、やはり「曲淵景明」のことで間違いないようであります。・・・これらについては、原史料までを確認した訳ではありませんが、郷土史家・前田匡一郎氏が解読した、著書『慶喜邸を訪れた人々』が出版されているので、まず間違いないかと。
※ 同年8月26日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前九時頃より、“臨済寺と浅間神社へ写真撮影”に赴く。(これに慶喜四男の)「厚」が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここで、徳川厚さんについて補足致します。彼は、しばらく東京千駄ケ谷の徳川宗家・徳川家達の庇護下にありながらも、1881年(明治14年)に宗家から分家して、1888年(明治21年)7月に学習院大学を卒業していますので、この頃は徳川慶喜家から観ても別家当主として扱われる立場になっていた訳です。・・・それでも、慶喜の四男として、この年の3月20日には吐月峰へのサイクリングや、この日の写真撮影など、慶喜が重要なイベントと考えるものには同伴していたのかと想います。
※ 同年8月27日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“近村へ写真撮影”に、出掛ける。(これに慶喜四男の)厚や、“(慶喜七男の)久(ひさし:※後の慶久のことであり、厚の異母弟で、当時9歳頃)、(慶喜家扶の)新村、(慶喜家従の)平石”が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この日も、徳川慶喜としては重要で意味のあるイベントだったかと。・・・徳川慶喜家の別家当主としての厚と、後に徳川慶喜家の後継となる久を、連れ立っておりますので。その立会証人的な意味を、年長者の新村猛雄が担っていたということではないでしょうか?
※ 同年9月3日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「(写真師の)徳田」が出頭す。同月7日も出頭。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・徳川慶喜が重要で意味のあるイベントと考えた写真撮影の成果は如何に?・・・また、(慶喜七男の)久の素養を観る良い機会となったのでしょうか?・・・うーん、帝王学?
※ 同年9月8日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“興津へ写真撮影”に、赴く。“(これに)木原と(写真師の)徳田”が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・もしかすると、興津にある清見寺と、其処にある咸臨丸乗組員殉難碑を撮影するために行ったのかも知れません。
※ 同年9月9日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、“江崎礼二(えざきれいじ)に依頼していた引き伸ばし写真”が、「千駄ケ谷(※徳川宗家・徳川家達のこと)」より、到来す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここにある「江崎礼二」とは、美濃国厚見郡江崎村(※現岐阜県岐阜市)生まれの写真家で、後には政治家となる人物です。また「早撮りの江崎」との異名もある人だったので・・・もしかすると、依頼していた引き伸ばし写真の被写体は、海鳥など素早く飛ぶものだった可能性があるかも知れません。・・・だとすると、前8月16日の大崩辺りにおける写真が有力候補かと想います。
※ 同年9月10日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“鈴川辺へ写真撮影”に赴く。“(慶喜家扶の)新村と(写真師の)徳田”が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・“鈴川辺”とは、現在の静岡県東部・駿河湾岸付近にある富士市内の旧集落のことであり、砂丘地と背後の低湿地に挟まれる地域ですので・・・この日は、農村風景を撮りにいった模様です。・・・おそらくは、収穫前の稲穂が、神々しく頭(こうべ)を垂れた頃の情景だったかと。
※ 同年9月12日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前八時頃より、“近辺へ写真撮影”に赴く。「(これに慶喜家従の)平石」が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「近辺へ」と云うわりに、少し早めのご出立。・・・さては、何をカメラに収めるか悩みつつ? とにかく、その辺りをブラっと撮り歩くかのような?・・・元将軍様ですよ。この方。
※ 同年9月25日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前九時過ぎより、“安倍川橋辺と吐月峰等へ写真撮影”に赴く、「(これに慶喜家扶の)梅沢」が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・連日の如く写真撮影のための小旅行。・・・同伴者も大変ですね。入れ替わり立ち代わりといった具合です。
※ 同年9月26日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前八時半頃より、“浅間社内の井ノ宮と安倍川橋辺へ写真撮影”に赴く。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この日は同伴者が無かった模様。・・・自邸から、ちょっとの距離だから! と云うようなニュアンスが感じられますが・・・アマチュアカメラマン・徳川慶喜の誕生と云えるのではないでしょうか?・・・芸術家の域に、その足を既に踏み入れているような?・・・これも、徹底した「水戸学の影響かも知れません。
※ 同年9月28日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前九時頃より、“大崩辺へ写真撮影”に赴く。「(これに慶喜家従の)平石」が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・
※ 同年9月29日:この日、徳川慶喜長女「田安鏡子」が亡くなる。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・あくまでも、徳川慶喜家の『家扶日記』における表現なので、事務的な感じを受けてしまいますが、実父・慶喜や、義理の祖父に当たる新村猛雄などの心中については、察して余りあるかと想います。・・・何せ、享年21という若さでの病死でしたし、高齢の慶喜生母・貞芳院と当時19歳頃の鏡子との、ツーショット写真も遺っておりますので。・・・ちなみに、徳川達孝との結婚後、四女を儲けております。
※ 同年9月30日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、“原充実(はらみちざね?:慶喜家従?の原七九郎の身内ま者か?)や、木原六蔵、(慶喜の家従、あるいは家丁の)曲淵景明、中根正隆(なかねまさたか:※徳川慶喜の側室・中根幸の兄弟か?)、関口隆正(※関口隆吉の婿養子)、中林仲(なかばやしなかし?)、永塚起正(ながつかおきまさ?)、柴田勝右衛門(しぱたかつえもん)、司馬賢吉(しばけんきち?)”が、「御機嫌伺い」に、来邸す。また、「小栗倉三郎(おぐりくらさぶろう)」より、“(徳川慶喜家が)写真原版代価”の請求あり。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・“御機嫌伺いに来た”という9人のうち、「中林仲」と、「永塚起正」、「柴田勝右衛門」、「司馬賢吉」については詳細不明となりますが、静岡の自邸を拠点として写真や絵画、狩猟など身内多趣味だった徳川慶喜の協力者や関係者、慶喜の健康を診る医師などではないか? と推察致します。・・・尚、後半部分にある「小栗倉三郎」について補足致します。この「小栗倉三郎」は、明治期の商社マンと云いますか、ビジネスマンで、元々は徳川慶喜家の家従・千田実(せんだみのる:※元静岡藩士・千田泰根か?)の子として生まれ、後に(慶喜家扶の)小栗尚三の養子となった人物で、この頃は「東京紡績会社(※後の大日本紡績会社で、現ユニチカ)」の「副商務長」という肩書だったかと。また、母の兄(=伯父)には「岡田省胤(おかだあきたね?)」という有能なビジネスマン(※後に東洋レーヨン株式会社で、現東レの監査役となる)とて活躍した相馬恵胤(そうまやすたね)子爵家の家令がおります。・・・ちなみに、この「小栗倉三郎」は、慶喜による回想録『昔夢会筆記』を完成させた渋沢栄一とも交流があったことが、渋沢本人の日記(※明治33年6月23日)からも確認できます。この時の話し合いの目的は、東京紡績と尼崎紡績が合併する以前(※後に大日本紡績会社となる)の将来的な展望だった模様です。「明治三三年六月廿三日・曇・○上略 午後三時小栗倉三郎来ル、大坂紡績会社将来ノ金融ノ方向ヲ申述ヘル、但山辺社長ノ書翰ヲ携帯セラレタルナリ ○下略」と。・・・いずれにしても、「小栗倉三郎」は、相馬恵胤子爵家や養父・小栗尚三などと関係を基に、徳川慶喜家とも良好な築いていたことが窺えるのです。・・・きっと、この時に請求された写真原版代も、相当な金額になっていたでしょうから。
※ 同年10月20日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」と「(水戸徳川家を継いだ)徳川篤敬(※後の定公)」が、“十二時九分着の汽車”にて、「静岡」に到着す。・・・
※ 同年10月21日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」と「(水戸徳川家を継いだ)徳川篤敬(※後の定公)」を同伴して、“富士川と鈴川辺”へ赴く。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「富士川」は、現在の長野県や山梨県及び静岡県を流れる河川であり、古くは『万葉集』に詠まれたり、「治承・寿永の乱」と呼ばれる一連の戦役の中でも、有名な「富士川の戦い」が起きた場所。・・・たしか「鈴川」には、この前月に徳川慶喜が(写真師の)徳田を同伴して写真撮影に出掛けていましたね。弟や甥っ子を、現地案内した訳ですね。
※ 同年10月23日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男。節公のこと)」と「(水戸徳川家を継いだ)徳川篤敬(※後の定公)」が、“城内(じょうない)や浅間、その他の場所”へ、「写真撮影」に行く。・・・「城内」とは、現静岡県静岡市葵区城内町のこと。・・・この日は、徳川昭武や篤敬の気が向くままに写真撮影したのでしょう。・・・徳川慶喜の写真は、その芸術的な感性で、絵画の代わりに風景や、文明や技術などによる成果を含んだものが多く・・・徳川昭武の写真は、どちらかと云えば、人々が働く姿や、躍動する様子を捉えたのが多いように感じられますので。
※ 同年10月25日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「(水戸徳川家を継いだ)徳川篤敬(※後の定公)」を同伴して、“遠州・舞阪辺へ写真撮影の為”に赴く。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・“遠州・舞阪辺”とは、現在の静岡県浜名郡舞阪町舞阪付近のこと。・・・元々は、東海道五十三次の江戸から30番目の宿場町「舞坂宿」。ここは東西を結ぶ今切渡しの渡船場として賑わいを見せたと云い・・・また、“この明治期に観光業が再興した”とされるので、相当な賑わいだったかと。
※ 同年10月29日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午後に、“浅間へ写真撮影”に、出掛ける。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この日は、単独行動の徳川慶喜。・・・おそらくは、この日の前日か前々日当たりに、徳川昭武と篤敬が帰っていたのかと想います。
※ 同年10月30日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「(写真師の)徳田」が出頭す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・例の如く。
※ 同年10月31日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”に、“同月23日に(徳川慶喜が)発送した写真が到着したとの旨が、四谷(※徳川御三卿・徳川達孝のこと)と千駄ケ谷(※徳川宗家・徳川家達のこと)より報知ありて、(家達家令の)溝口と(家達家扶の)川村より慶喜が撮影した写真を頂戴した”との「礼状」が、来たる。この日の朝、「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“城内と停車場(≒現静岡駅)へ写真撮影”へ出掛ける。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・
※ 同年11月4日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、この日の朝、“富士川と鈴川辺へ写真撮影”に赴く。(これに慶喜の家従、あるいは家丁の)曲淵と(写真師の)徳田が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・
※ 同年11月9日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“午前八時五一分発の汽車”にて、“岩淵辺へ写真撮影”に、出掛ける。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・“岩淵辺”とは、かつて存在した静岡県庵原郡の村落付近のことであり、現在の富士市岩淵。江戸時代には、富士川の渡し場があったことから、東海道の間の宿(※吉原宿~蒲原宿)として栄えました。
※ 同年11月10日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、(水戸徳川家を継いだ)徳川篤敬(※後の定公)より、写真送付についての書状が到来し、翌11日に(その)写真が到来す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・何やら、水戸徳川家出身者間で、撮影写真の評価を、互いに行なっているような?
※ 同年11月16日:“(徳川慶喜が撮影した)写真一包”を、「小包郵便」にて発送すの事。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・小包郵便で一包とは、たくさん撮ったんですね。
※ 同年11月18日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、「木原」と、「(慶喜家従の)平石」、「(慶喜の家従、あるいは家丁の)曲淵」に対して、「写真御用取扱」を命ず。この日、“小梅様(※水戸徳川家を継いだ徳川篤敬〔※後の定公〕のこと)より写真が安着したとの旨”の報知あり。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この日を境に、ようやく「木原さん」こと「木原六蔵」を、正式に「(慶喜の家従、あるいは家丁の)木原六蔵」と呼べそうです。それも「写真御用取扱」として専門職採用だったと云えるかと。
※ 同年11月20日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“清水江尻辺に写真撮影”のため、出掛ける。・・・“清水江尻辺”とは、現在の静岡県静岡市清水区江尻町付近のことであり、清水港を有した江尻宿があった処です。また、「江尻」の由来は、巴川の尻(=下流)を示し、巴川がつくった砂洲上にあったから。
※ 同年11月23日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前十時半より、“安倍川辺へ写真撮影”に赴く。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・
※ 同年11月24日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「(写真師の)徳田」が出頭す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・
※ 同年11月25日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前八時より、“鈴川辺へ写真撮影”に赴く。“(これに写真師の)徳田と(慶喜の家従、あるいは家丁の)木原”が、同伴す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この『家扶日記』上の表現が微妙に変化してまいりました。写真師・徳田さんを先にして、写真御用取扱・木原さんを後としています。・・・これは、きっと木原さんを徳田さんの助手的な役回りにさせたとの事なのでしょう。
※ 同年11月27日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前八時半より、「写真撮影」に出掛ける。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・?・・・この日は目的地を特に定めず、ブラっと行った模様です。しかも同伴者無しで。
※ 同年11月28日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「(写真師の)徳田」が出頭す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・
※ 同年12月3日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前十一時過ぎより、「写真撮影」に出掛ける。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この日もブラっと出掛けたようですが、少し遅めの出発時刻かと想います。・・・ピクニックやハイキング的な?
※ 同年12月7日:“長野県会議員で同県小県(ちいさがた)郡長であった中島精一(なかじませいいち)”が、「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」に「写真」を献上す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・ここにある「中島精一」は、長野県「小県郡長」を辞職した後に蚕卵紙の製造販売事業を営んで、1900年(明治33年)に同県「東筑摩郡長」を務め、1902年(明治35年)5月には「茨城県警部長」になった人物です。尚、1941年(昭和16年)3月9日に亡くなりましたが、当時からすれば、かなりの長寿と云える享年94歳。
※ 同年12月11日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前八時半より、“近辺へ写真撮影”に赴く。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・この日も、同伴者は無かった模様。
※ 同年12月13日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前九時より、“近村へ写真撮影”に出掛ける。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・
※ 同年12月17日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前より、“清水辺へ写真撮影”に赴く。・・・“清水辺”とは、現在の静岡県静岡市清水区付近のことですが、清水港辺りにブラッと出掛けたということなのでしょうか?
※ 同年12月18日:「(水戸徳川家を継いだ)徳川篤敬(※後の定公)」が、“書状に添えて、到来した写真原版の領収証”を、「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」へ差出す。“(慶喜からすれば義理の息子に当たる)綱町様(※徳川達孝のこと)より写真が到来した”ため、その「領収証」を差出す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・
※ 同年12月21日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、“(水戸徳川家を継いだ)徳川篤敬(※後の定公)に兼ねてから依頼していた写真機械”が到来す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・“兼ねてから依頼していた写真機械”とは何ぞや? ということになるかと想うのですが・・・広角レンズなどカメラ部品だったのでしょうか? ・・・この前後の撮影ポイントを考えると、どうも風景写真のような気が致します。
※ 同年12月22日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、午前九時過ぎより、“写真撮影の為”に、「城内(じょうない)」へ赴くとともに、“(水戸徳川家を継いだ)徳川篤敬(※後の定公)”へ「写真」を発送す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・「城内」とは、“徳川慶喜邸近く”の、現静岡県静岡市葵区城内町です。
※ 同年12月24日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、「(写真師の)徳田」が出頭す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・
※ 同年12月25日:“徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)の元”へ、“注文していた写真原版十六ダース”が到来す。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・同月18日に、水戸徳川家を継いだ徳川篤敬(※後の定公)から、前もって領収書が送られて来た現物ですね。
※ 同年12月28日:「徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※烈公のこと〉の七男)」が、“高松大谷(おおや)村辺浜手へ写真撮影の為”に出掛ける。徳川慶喜家『家扶日記』より・・・“高松大谷村辺浜手”とは、現静岡県静岡市駿河区大谷辺りの海岸線付近のことですね。
・・・・・・以上のように、西暦1893年(明治26年)の記事では、徳川慶喜公が写真撮影などに没頭している様子が特に多く遺されている訳ですが・・・早朝に出掛けたとして、昼食はどうしたのでしょうか? ・・・
・・・そもそも、この頃の元将軍様は一日三食制だったのでしょうか? “一般的に一日三食制となったのは、江戸時代の元禄期(西暦1688年~1704年)以降のこと”とされていますが・・・
・・・この方は何かと厳しい「水戸学」の環境下で育った人なので、“一日二食だった”と謂われても、おかしくないとは想うのですが。・・・
・・・などと想い当たり、水戸徳川家(水戸藩)及び徳川慶喜個人としての食や、その好みなどについて・・・次ページでは、少し寄り道を致します。・・・・・・
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治帝即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾七へ 【近代・1876年(明治9年)2月から1893年(明治26年)内までの約17年間・水戸徳川家の欧州留学・宝刀「児手柏包永」とその関係者達・[総まとめ]「水戸学」とは、いったい何だったのか? 水戸学の一端・徳川斉昭の正室「吉子女王」とは】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾八へ 【近世Ⅲ~近代・水戸徳川家(水戸藩)及び徳川慶喜の食について・徳川斉昭著『食菜録』を読む】