街並と天空   

『 夢と夢をつなぐこと・・・ 』

 それが私達のモットーです。 ~トータルプラン長山の仲介~ 

    

ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】



・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 西暦671年正月2日:「大錦上・蘇我赤兄臣」と「大錦下・巨勢人臣(こせのひとのおみ)」が與(くみ)して、“殿前”に進みて、「賀正事(よごと)」を奏(かなで)る。・・・“群臣らを代表し、古来からの慣習に則って、殿前に進み出た”のが、「蘇我赤兄臣」と「巨勢人臣」でした。・・・「賀正事」は、“賀正礼(みかどおがみのこと)でもあり、古代中国における礼の概念を採り入れて、正月の天皇拝謁を儀式化したもの”です。・・・「巨勢人臣」とは、“かつての左大臣・巨勢徳陀の兄弟であった巨勢大海の子”に当たります。・・・「巨勢氏」は、蘇我氏宗家の分家家系に当たり、長きに亘って蘇我氏勢力の一翼を担っておりました。
      ※ 同年正月5日:「大錦上・中臣金連」が、「神事」を「命(みことのり:=詔)」して、宣(のたま)う。是の日、「大友皇子」を以って「太政大臣(だいじょうだいじん、だじょうだいじん)」に拜(おが)みて、「蘇我赤兄臣」を以って「左大臣(さだいじん)」とし、「中臣金連」を以って「右大臣(うだいじん)」とし、「蘇我果安臣」と「巨勢人臣」、「紀大人臣(きにうしのおみ)」を以って「御史大夫(ぎょしたいふ)」とす。【※(注釈)御史は蓋(がい:=概)して、今の大納言か。※】・・・「命(みことのり)」とは、神のことばのこと。これに対して、“神のことばを訊く側の者”を、「みこともち」と云います。・・・この「みこともち」を、代々世襲し受け継いでいたのが、「中臣氏」や「斎部氏(=忌部氏)」などです。・・・“この中臣氏の一人である中臣金連”が、「神事を命して宣う」とは、次に続く“記述中の人事については、神託に因るものと云っているようなこと”になります。・・・いずれにしても、時の天智天皇は、息子の大友皇子(≒後の弘文天皇)を史上初の太政大臣に任命し、左大臣と右大臣、御史大夫を付けて、新たな体制を発表した訳です。・・・「太政大臣」とは、国政を総覧する官職であり・・・“その職務は、大皇弟とされていた大海人皇子(※後の天武天皇)が、それまで担っていた役割と重なっていた”と考えられます。・・・逆に、大海人皇子(※後の天武天皇)からしてみれば、“近江朝廷から正式な官職が与えられずに、単なる皇族の一人とされた格好”となります。・・・ちなみに、『懐風藻』によれば・・・“大友皇子(≒後の弘文天皇)が太政大臣に任命されたのは、この5年前の出来事”としております。・・・このことについて、多くの歴史学者は、この『日本書紀』の【※(注釈)※】を採るか・・・或いは、“ここにある記述を、西暦664年2月9日の条にある冠位26階制の重出”と考えています。・・・いずれにしても、既に大皇弟とされていた大海人皇子(※後の天武天皇)が、兄の天智天皇より遠ざけられて、近江朝廷内においても疎外されていた様子が伝わってまいります。・・・この背景には、“天智天皇が大友皇子(≒後の弘文天皇)に帝王学を学ばせるなど、いずれは天皇位を継がせようとする意図があり、朝廷の将来像に関する方針転換があったため”と云われております。
      ※ 同年正月8日:「東宮太皇弟」が、「奉宣」して【※(注釈)或る本は云う、大友皇子が命を宣う。※】、“冠位法度の事”を「施行」し、「天下」に「大赦」す。【※(注釈)法度冠位の名は、新しき律令に於いて載せ具(そなえ)るなり。※】・・・【※(注釈)※】にもあるように、“冠位法度の事を、大友皇子(≒後の弘文天皇)が宣命した”という説もあって・・・“東宮太皇弟の大海人皇子(※後の天武天皇)にとっては、益々由々しき事態となってしまったという可能性がある”との記述です・・・が、この『日本書紀』の公式見解では、“あくまでも、東宮太皇弟(=大海人皇子)が、天皇の宣を奉じて(=天皇の申されたことを受けて)施行したのである”と。そして、“冠位法度の事を施行し、天下に大赦する命を宣う行為を行なった可能性がある”のは、大友皇子(≒後の弘文天皇)か? という見解に止めているのです。・・・“宣命は、専ら天皇の行為と考えられて、大友皇子が弘文天皇となった際に行なわれたとする見解が、『日本書紀』の編纂時点においてもあった”ということなのかも知れません。・・・そもそもとして、古代中国においては、夏(か)や殷(いん)、周(しゅう)の天子(≒皇帝)に依る“みことのり”は、「命」とされ、後の秦(しん)の始皇帝時代には、「命」を「制」とし、“大事の際に使用”し、また、「令」を「詔」とし、“小事の際に使用すること”で、表記を使い別けており、この『日本書紀』が記述された唐王朝時代に限れば、“皇帝即位や改元などの大事”には「詔」を、“臣下の任命など”には「勅」を使用していたのです。・・・これに対して、古代の日本では、“大事なこと”を「詔」とし、“普通の事や雑事について”は「勅」としていました。「宣」は、「天子(≒天皇)」による“みことのりではありますが、臣下らに述べ拡げるという意味もある”のです。・・・さて、これもまた、そもそもの話となりますが、古来からの日本(やまと)の神々は・・・当然のことながら・・・(古代の)中国語をお使いにはならない筈でありまして、その神々による命(みこと)は・・・元来、口伝に因るものであって、文字化されてはおりませんでした。《※通説です》・・・しかし、仏教などの渡来宗教や律令制度などを導入し始めると同時に、古代中国のように、天子(≒天皇)の詔勅を文書化することとなります。・・・すると、“一般的な詔の場合”には、漢文を用いた表記となりまして・・・これに、(古代の)日本語の順序に合わせて、漢字の助詞を加えて利用していました。・・・例えば、後世の孝謙(こうけん)天皇宣命では・・・「天皇 我 大命 良末等 宣 布 大命 乎衆聞食 倍止 宣。」・・・すなわち、「天皇(すめらみこと)が大命(おおみこと)らまと宣(のりたま)ふ大命を衆(もろもろ)聞食(きこしめさ)へと宣(のる)。」・・・と、宣じ始めて、この形式によって、「宣命」としたのです。・・・ましてや、中国の天子(≒皇帝)の詔勅の場合には、官吏によって起草され、皇帝の名のもとに発布されるものへ変容しており、既に神々とは無縁のものとなっていました。・・・日本の祝詞(のりと)も、元来は、「みこともち」の延長線上にあるものですから、神々の命(みこと)を宣(のたま)うものでしたが、“次第に神々に祈願するような内容へと変貌してゆく”こととなるのです。・・・この頃の近江朝廷の都とされていた近江大津宮では、“様々な分野において、漢文表記することが急速に進められていた”と視るべきなのでしょう。・・・その反動として・・・“朝廷内外の至る処において、文化摩擦的な事象が起こっていた”と考えられます。
      ※ 同年正月9日:「高麗(こま)」が、“上部大相(じょうほうだいそう)・婁(かる)ら”を遣わして、「調」を進める。・・・既に、高句麗という国家が滅んでいるため、この『日本書紀』における「高麗」という表記は、“一種の地方名”として、或るいは「高麗(人)」として、使用しているようです。・・・『三國史記高句麗本紀』によれば、唐王朝が高句麗を滅ぼすと、平壤に安東都護府を置いて・・・「五部、百七十六城、六十九万余戸」・・・についてを、九つの都督府と、四十二州、百県に分けて統治していました。・・・右威衛大将軍・薛仁貴(せつじんき)が、二万の軍勢によって、安東都護を兼務すると、“かつての高句麗将軍で功績のあった者達を、都督や、刺史、県令として抜擢し、華人(≒中国人)とともに治めさせたよう”です。・・・西暦669年には、高句麗最後の王となった宝蔵王(ほうぞうおう)の庶子に当たる安勝(あんしょう:=安舜、あんしゅん)が、高句麗再興のためとして、新羅へと投降し・・・西暦670年になると、この安勝(=安舜)は、君主として、唐王朝に対して反乱を起こしました・・・が、結果としては、敗れて、再び新羅へ逃げ込んでしまいます。・・・したがって、“この頃に日本(やまと)に派遣された上部大相・可婁らについては、安東都護府側からの使者だった”のか? 或いは、“安勝(=安舜)側の使者だった”のか? については不明とされています。・・・しかし、個人的には、「調を進めた」というニュアンスから、安勝(=安舜)側からの使者ではないか? と考えております。・・・そのように仮定すると・・・“当時の近江朝廷から遠く離れていた高麗の地や、新羅を経由して、それなりの情報が齎(もたら)されていた”こととなりますが。
      ※ 同年正月13日:「百濟鎭將・劉仁願」が、“李守眞(りしゅしん)ら”を遣わして、「表(ふみ)」を上(たてまつ)る。・・・肝心な表(ふみ)の概要や内容については、全くふれられておりません。・・・『三國史記新羅本紀』によれば・・・西暦670年6月に、新羅・文武王が、百濟残余の衆が反乱を起こすとの疑いを持ち、熊津都督府へ使者を送りました・・・が、逆に、熊津都督府が司馬・禰軍を派遣して、新羅の動向を探らせたため・・・新羅・文武王は、禰軍を留め置いたまま、百濟を攻めて、六十三城を攻略し、それらの住民らを、新羅へ強制的に移してしまいました。・・・同年8月には、新羅・文武王が、安勝(=安舜)を、高句麗王に冊命することとなり・・・同年12月には、“倭国(ヤマト王権)が、自らの国号を、日本(やまと)に改めた”とも記述しています。・・・いずれにしても、当時の新羅の動向が、策略的な動きだったのか否かについては、別としても・・・新羅は、唐王朝が、百濟の安東都護府や熊津都督府のように、いずれは新羅を平定し、都督府を置いて、州や県に再編し、唐王朝に編入されるのではないか? という 恐れを懐くようになり・・・亡国高句麗の再興という大義を、後押しする形で以って、現地における反乱を援助しながら、これらの反乱を口実として、更に唐王朝の直接的な影響力を削ぐという行動に移ります。・・・このような時期に、百濟から李守真らが派遣されて来た理由としては・・・“新羅が日本(やまと)に対して、具体的にどのような要請をする”のか? についてや、“近江朝廷内の百濟系渡来帰化人や高麗系渡来帰化人などの登用状況や、律令制導入の現実性などを探るという使命を帯びていた”と考えられます。・・・尚、“この年以降には、新羅が倭国(ヤマト王権)が日本(やまと)と称することについてを、承認した”ことになり・・・当時の新羅としては、“日本(やまと)に対して、唐王朝とは距離を置くように要求していた”と考えられます。
      ※ 同年正月内のこととして:是の月、「大錦下」を以って、「佐平・余自信(よじしん)」と「沙宅紹明(さたくじょうみょう)」【※(注釈)法官大輔(のりのつかさのおおきすけ)※】へ授け・・・「小錦下」を以って、「鬼室集斯(きしつしゅうし)」【※(注釈)學職頭(ふみのつかさのかみ)※】へ授け・・・「大山下」を以って、「達率・谷那晉首(こくなしんす)」【※(注釈)兵法に閑(なら)う。※】や、「木素貴子(もくそきし)」【※(注釈)兵法に閑う。※】、「憶禮福留(おくらいふくる)」【※(注釈)兵法に閑う。※】、「答ホン春初(とうほんしゅんしょ)」【※(注釈)兵法に閑う。※】、「ホン日比子(ほんにちひし)」、「賛波羅(さんはら)」、「金羅金須(こんらこんす)」【※(注釈)薬を解(し)れり。※】、「鬼室集信(きしつしゅうしん)」【※(注釈)薬を解れり。※】へ授ける。・・・「小山上」を以って、「達率・德頂上(とくちょうじょう)」【※(注釈)薬を解れり。※】や、「吉大尚(きちだいじょう)」【※(注釈)薬を解れり。※】、「許率母(こそちも)」【※(注釈)五經に明るし。※】、「角福牟(ろくふくむ)」【※(注釈)陰陽(おんみょう)に於いて閑う。※】へ授ける。・・・「小山下」を以って、“餘の達率ら50餘人”へ授ける。「童謠(わざうた)」は云う、


                多致播那播 於能我曳多曳多 那例々騰母 陀麻爾農矩騰岐 於野兒弘ニ農倶  
※ニの字は、人偏+爾。
             《訳》橘(たちばな)は 己(おの)が枝枝(えだえだ) 生(な)れれども 玉(たま)に貫(ぬ)く時(とき) 同(おや)じ緒(お)に貫(ぬ)く
             《現代語訳》橘は、それぞれ違う枝に実を生(な:=成)らすけれど、実を玉にして緒に通すときには、同じ緒に通すよね。


       この『日本書紀』は、“この西暦671年正月中の近江朝廷において、百濟亡命渡来人達の登用が盛んに行なわれたこと”を伝えています。・・・「佐平」とは、旧百濟官位十六階制の第一位であり、「余自信(=余自進)」も、“旧百濟王族”です。『新撰姓氏録』右京諸蕃では・・・「高野造(たかののみやつこ)は、百濟人佐平・余自信の後なり。」・・・とされています。・・・「沙宅紹明」は、『懐風藻』大友皇子伝に・・・「学士として、(大友)皇子の賓客となる。」・・・とされており・・・【※(注釈)※】にある「法官大輔」とは、今に云う、司法長官の次官に当たる役職であり・・・ここにある「余自信」や「沙宅紹明」は、“いずれも近江令官制に携わっていた”と視られ・・・同年正月8日の条にある【※(注釈)※】・・・つまりは、“或る本が、冠位法度の事を、大友皇子(≒後の弘文天皇)が宣明したと云う記述の根拠にされた”と考えられます。・・・いずれにしても、「沙宅紹明」は、“旧百濟王族出身の出家僧”と考えられ・・・“沙宅氏の家伝によれば、故藤原鎌足の碑文を作った才思顕抜の人物であって、文章冠世(≒抜群の文人)”とされています。・・・次にある「鬼室集斯」については、西暦665年2月の条において・・・「佐平・福信の功を以って、鬼室集斯に小錦下を授ける。」・・・とありました。元々は、達率の位にあり、これは旧百濟官位十六階制の第二位に当たります。・・・“この鬼室集斯が補任された”という「學職頭」とは、“大宝律令制における大學寮長官に相当する”とされています。・・・その他の人事については・・・“兵法に通じていたという理由から、谷那晉首、木素貴子、憶禮福留、答ホン春初ら4名”を、「大山下」として起用し・・・同じく「大山下」に、“薬に通じていたという理由から、ホン日比子、賛波羅、金羅金須、鬼室集信ら4名”を起用し(・・・※ここにある鬼室集信は、鬼室集斯と同族です。・・・)・・・“同じく、薬に通じていたという理由から、小山上として、德頂上と吉大尚の2名”を起用し・・・また、“五經に明るい”という理由から、「許率母」を、陰陽に於いて通じていたという理由から「角福牟」を、同じく「小山上」に起用し・・・「小山下」には、“他の50餘人の達率らへ授けた”との記述です。

       ・・・そもそもの教育に関する話として、この当時の中国では、「詩」や、「書」、「易」、「春秋」、「暦」、「兵法」、「論語」、「礼記」、「孝経」、「法家」などの課目を学び、後の科挙試験に合格すれば、王朝官吏への道が開けていました。これに準じて、隋や、後の唐に留学した者達は、現地の学校など、それぞれに対応する習得機関に入り、勉学に励むことになります。・・・これらのことに伴なって、古代日本においても、学校という施設を設ける気運が高まることとなり、高等教育を授ける大学が設立されました・・・が、“在来宗教の古神道や、渡来宗教の仏教による影響などが強かったために、古代中国のように、儒学を国教としたり、儒学を以って科挙試験を実施するようなことは無かった”とされているのです。・・・いずれにしても、当時の近江朝廷としては、“律令制度を布くには、まずは大学を開校し、優秀な官吏を養成することが、必須であると考えた”のでしょう。・・・「五経」とは、「詩」や、「書」、「易」、「春秋」、「礼記」のことです。・・・まずは、これらを教えられる教師が、現地に必要となります。・・・「陰陽」とは、“易の一種”ではありますが・・・“後の陰陽道や陰陽師に連なるものであって、陰陽五行説に基づき天文や地相、人文の変転、帰趨(きすう)を知るという術(すべ)を習得する学問”とされており、当時の近江朝廷としては・・・云わば、古代中国における・・・“周王朝の太公望”や、『三國志演義』中の“諸葛孔明(しょかつこうめい)のような軍師や軍略家を養成するといった重責が課せられていた”と考えられます。・・・“とりわけ、許率母や角福牟に対する近江朝廷、特に天智天皇からの期待は大きかった”と想われます。・・・そして、総勢65名以上の百濟亡命渡来人達は、日本(やまと)に帰化することとなり、近江朝廷からそれぞれの役目を担って、各分野における教師とされた訳です。
       ・・・しかしながら、『日本書紀』では、“天智天皇による、この人事方針を揶揄(やゆ)する童謡が流行った”と云うのです。・・・そもそも、上記の童謡にある「橘」とは、“古来より、神の遣いである蝶の幼虫を宿す木とされ、また神が坐す處と世俗とを結ぶものとして尊ぶ”という風習があったことから・・・“百濟亡命渡来人達、すなわち各分野における教師達を、橘に譬(たと)えている”のです。・・・つまりは、“それぞれ生まれの異なる教師に、それぞれ生まれの異なる子弟達を、連ねて学ばせること”・・・もっと云えば・・・“天智天皇が、在来の氏族や日本(やまと)という土地柄などを無視して、自らの臣下に組み込む”のと同時に・・・各氏族や、地方の有力者達にしてみれば、“自身の配下から優秀な子弟達を、生まれの異なる教師達に取られてしまう格好と映ってしまったよう”でして・・・結局のところ・・・“それらは、少々どころか、全く以って無茶じゃぁございませんか??? と、咎める風潮があった”という童謡になっているのです。・・・したがって、この『日本書紀』は、“そんな方法では、あちこちで不満が溜まっても致し方ない”ということを、このような童謡を用いて、間接的に表現している訳です。

      ※ 同年2月23日:「百濟」が、“臺久用善(だいくようぜん)ら”を遣わして、「調」を進める。・・・“臺久用善の名”は、他の史料には見られません。・・・いずれにしても、“前月13日に来日した李守真らが携えて来た表(ふみ)の内容に沿った格好だった”と考えられます。・・・きっと、“百濟を実効支配する唐王朝が、近江朝廷に対して、百濟が置かれていた当時の状況について一層の理解を求めていた”のでしょう。

      ※ 同年3月3日:「黄書造本實(きふみのみやつこほんじつ)」が、「水ハカリ(※ハカリの字は、自という字の下に、木を置く)」を、献(たてまつ)る。・・・「黄書造」とは、山城國に入植した高句麗系渡来人から成る画師集団のこと。・・・『新撰姓氏録』山城諸蕃では・・・「高麗國人久斯祁王より出ずる。」・・・としています。・・・そして、この「本實」については、『薬師寺仏足石銘』に・・・「使人として唐に赴き仏足石図を写した。」・・・とあります。・・・また、“本實という名自体”にも、「棒を要所要所に立てる」・・・つまりは、「測量する」という意味があります。・・・「水ハカリ」とは、今に云う水準器のことです。・・・現代の水準器は、一定の物体についての地面に対する角度や傾斜(水平、垂直、45度など)を確認する器具のことであり・・・「水平器」とか、或いは「レベル」とも云います。・・・この「水ハカリ」などに関わる古代の測量技術では・・・“単純な棒や、縄、貯めた水などが用いられ、現代の機器と呼べるような代物ではなかった”とは想われます・・・が、“古来から、土木や、建築、測量などの分野を中心として、実際に広く用いられていた”のです。・・・現に、“聖徳太子(厩戸皇子)や推古天皇が関わっていた法隆寺などが、水平や垂直といった概念の上で建築されております”ので。・・・したがって、この条で語られているのは・・・“水ハカリを、以前のものよりもコンパクトにして扱い易くし、より高度に改良されて、世間一般に広められるようにしたと読み解くべき”と考えます。
      ※ 同年3月17日:「常陸國」が、「中臣部若子(なかとみべのわくご)」を、貢(たてまつ)る。「長さ尺六寸」、“其の生まれし年の丙辰(※西暦656年のこと)より此の歳に至るまで”は、「十六年」なり。・・・これは、いったいどのような兆候を示すために挿入された記述なのでしょうか?・・・「中臣部若子」とは、今に云う低身長症を患った人だったのか?・・・単に、ビックリ人間を披露するために、送られた者だったのか?・・・「中臣部」とあるので、“中臣氏の封戸内の人だったこと”は判りますし、これと同時に「若子」の性別は、“おそらく男性だった”と考えられます・・・が、当時の近江朝廷へ送られた後の彼の処遇は、いったいどうされたのか?・・・いずれにしても、“身長が一尺六寸とは、尋常な話ではなく、トピックス的に挿入された記述か”と想われます。・・・それにしても・・・『日本書紀』が、この記述をわざわざ挿入した意味を考える際には・・・どうしても、送り元の常陸國の様相を知る必要があり、東國において、唯一現存する『常陸風土記』を、参考とすべきと感じますし、何よりも私(筆者)の地元話ともなりますので、以下の別ページにて、出来るだけ詳細にご紹介したいと思います。

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       ・・・別ページの『常陸風土記』を読むと・・・「中臣部若子」とは、対照的な「大太法師(だいだらぼっち)傳説」において、“巨人の話”が記述されておりますし・・・この「中臣部若子」に関する記述の、約2年前に亡くなった藤原氏の始祖たる中臣鎌足(※若い頃は、鎌子とも)と常陸國との深い関係を、どうしても無視出来ないように感じます。・・・おそらくは、この中臣部若子の送り元(≒常陸國の中臣部)としては・・・“東國の果てに位置する常陸地方では、近江の宮人達が驚くような様相ではあった”ものの、一方では・・・“現地先住民の蝦夷らに対する恭順化や、現地の開発における進捗状況を、目に見える格好で以って、強いメッセージとして送るという狙いがあった”と考えられるのです。・・・更には、“常陸國が東國の果てに位置するが故に、この頃、父の死後において、不遇の時代を過ごしていたという、中臣鎌足(※若い頃は、鎌子とも)の次男・藤原不比等(=史)や中臣氏が、時の近江朝廷内における政治的な影響力を、極力減少させないように努めつつ、他の勢力の目が東國よりも先の地方(≒東北地方などの未開地)へ向かって、藤原氏や中臣氏よりも前に力を付けることを防ぐという大きな狙いがあったよう”に感じざるを得ません。・・・これについては、“後の平安時代頃の関東地方や東北地方における藤原氏の分家・庶流の勢力や、政治的な影響力を視れば明らかなこと”と想います。・・・きっと・・・当時の藤原氏や中臣氏にとってすれば・・・“広大な関東平野の利用価値や、その将来性とともに、その奥に拡がる東北地方の山々には、金などの鉱物資源が眠っていること”を、経験的に知り得ており・・・“当時は無限大にも感じられる程の、且つ自己勢力が開発すべきフロンティアとして、認識”し・・・“仮に、多くの渡来系氏族集団を、自己勢力傘下の封戸として、近江朝廷から与えられることになれば、将来的に齎(もたら)される利益は莫大になるとの判断が働いていたことは、間違いない”のでは? と考えます。・・・更に云うと・・・『常陸風土記』には、多くの地名伝承とともに、多くの伝説や神話が記述されております・・・が、これらは・・・一方の近江朝廷からすれば、“なかなか手強い現地先住民らとの交渉や、戦いの歴史そのもの”であり・・・これらとともに、“百濟復興”に関連し、「白村江の戦い」にて大敗を喫した直後とも云える、近江朝の人々にしてみれば・・・“或る種の戦後シンドロームの中にあって、そもそもが新たな大規模派兵などについては、想像さえもしたくなかったと云える状況にあった”のでしょう。・・・ましてや、当時の日本列島には、多くの百濟遺民や高句麗遺民が急激に流入し、内政的に多くの文化的な摩擦を抱えていた時期のことでもあります。・・・そういった意味では・・・“日本武尊(やまとたけるのみこと)らの伝説や、日本神話上の出雲の国譲り伝説”にも似た伝承なども『常陸風土記』の中でも語られていますので、結果的にも・・・この条にある「中臣部若子」という人物は、“当時の藤原氏や中臣氏によって政治利用された大道具(※実際には、中臣部若子の体は小さかったのですが)の一つに過ぎなかった”と云えるのかも知れません。・・・いずれにしても・・・“低身長だった、この中臣部若子を、実際に近江朝の人々が見た”とすれば・・・“どうしたって、栄養失調気味、或いは成長不良に観えた”でしょうし・・・“東国の開発には、時間も費用も、それこそ湯水の如くに掛かる”と考えたに違いなく・・・更には・・・“この時の中臣部若子という人物の存在があったからこそ、古来より現代に受け継がれる伝統や風習、東国特有とされる東人(あずまびと)気質などが、或る意味で保全されている”のかも知れません。

      ※ 西暦671年4月1日:二月に、“新たなる臺(うてな、だい)”に、「漏剋(ろうこく)」を置く・・・と、「鍾鼓(かねつづみ)」を動かし、候時(とき)を打ち始めたりて、「漏剋」を用い始める。“此の漏剋は、(天智)天皇が皇太子を為す時に、製造させて、親しみ始めしものなり”と、云々。・・・是の月に、「筑紫(つくしのくに)」が言う。・・・「八足の鹿が生まれしも、すなわち死ぬる。」・・・と。・・・「漏剋」とは、いわゆる水時計のことです。水を入れた幾つかの容器から漏れ落ちる水を、下の容器で受け、その中に立てた矢の目盛りによって、時を計る装置でした。・・・“この漏剋に関する記述”は、西暦660年5月の条にもありました。・・・したがって、“新たな台に置いたのは、それより約11年後に造った漏剋のこと”となります。・・・約11年前の漏剋が、故障してしまったのか? 或いは、新たな暦とするためだったのか? については定かではありません・・・が、その形状としては、“2階建て建物の1階部分に、この漏剋を設置し、その2階には鍾鼓を置いていた”と考えられます。・・・後に律令制が整うと、陰陽寮における「漏剋博士(ろうこくはかせ)」が、その漏剋によって時刻を見て・・・「守辰丁(しゅしんちょう)」と呼ばれた職員に、鍾と鼓を打たせて、“時刻を知らせた”とされています。・・・この時代には、現代のようなカレンダーや、時計、当然に世界統一の標準時刻などが無かったため・・・“候時(とき)を、月の満ち欠けや、太陽の位置で認識していた”のでしょう。・・・当時の中国王朝では、天文観測をして、暦を管理し、人民に季節や農事の時を知らせねばなりませんでした。・・・つまりは、“立春には東の郊外で、立夏と立秋には南の郊外で、立冬には北の郊外で、それぞれ天帝や、山川の神々を祭ることで以って、人民に対して、季節の到来を知らしめるためには、欠かすことが出来ないものだった”のです。・・・“当時の近江朝廷も、これに倣っていた”と考えられ・・・もしかすると、“日本列島に適合する暦づくりを、試みていた”のかも知れません。・・・尚、“八足の鹿が生まれたのは、吉祥とされます”・・・が、“これが、直ぐに死んだとなれば、この上なく不吉なこと”でもあった訳です。・・・この『日本書紀』は、だいたいにおいて、凶兆を示したい時には、条の後半部分に挿入してまいります。・・・季節は、春だと云うのに。・・・しかも、この条の内容からすれば、“八本足の鹿については、西暦671年4月内の出来事”として、このことだけの記述になっているのです。

      ※ 同年5月5日:「(天智)天皇」が、“西の小殿”に御わし、「皇太子」と「群臣」を侍(はべ)りて、宴(うたげ)す。是に於いては、「田マイ」を、再奏(かなでまつ)りし。・・・「田マイ」の「マイ」の字は、人偏+舞。今に云う「田舞い」のこと。・・・この記述中にある「皇太子」とは、皇太弟・大海人皇子(※後の天武天皇)のことであり・・・つまり、この『日本書紀』は・・・“宮中における毎年五月五日の田舞いの起源を、概ねのところは大海人皇子(※後の天武天皇)が始められしもの”としているのです。・・・この当時の「田舞い」とは・・・“田んぼに、田の神を迎え、その神と一体となって飲食し、その神の力を称揚し、豊穣を祈るものだった”のでしょう。・・・それを、“国家的な祭祀にするという試みが為されていた”ということです。・・・いずれにしても、大海人皇子が後に天武(てんむ)天皇に即位してからの話となりますが・・・「詩経」では、“元々は舞楽を伴うものとされ、古代日本の歴史や伝統に基づく内容に伴なう詞(ことば)や、舞い、楽(≒音曲)があり、節目節目における祭祀や、儀式に相応しい格調、くだけた雰囲気なども求められた”とのこと。・・・尚、この5月5日の条の記述内容によって、“天智天皇は、この時健在だったこと”が分かります・・・が・・・。

      ※ 同年6月4日:“百濟(の)三部(みむら)(の)使人が、軍事(いくさのこと)を請う”ので、宣(のたま)いし。・・・やはり! と云うべきか、天皇が何をどう宣ったのか? についてが、全く記述されておりません・・・。
      ※ 同年6月15日:「百濟」が、“ゲイ眞子(げいしんし)ら”を遣わして、「調」を進める。・・・これ以前の条に記述された・・・“同年2月23日の臺久用善(だいくようぜん)”に続き、“同年6月4日の百濟三部の使人”や、そして“今回のゲイ眞子ら”の・・・“総じて百濟側とされる使者達は、いったい、どんなメッセージを近江朝廷へ届けに来た”のでしょうか?・・・但し、“同年6月4日の条にある百濟三部の使人について”は・・・“調を進めに来た訳ではなく、軍事に関する要求だった”・・・としているため、“急を要す事柄だったこと”は、理解出来ますが。・・・『三國史記新羅本紀』によると・・・この頃の新羅は、高(句)麗では安勝(=安舜)を王として冊命して、唐王朝による支配体制に反旗を翻すに至り・・・西暦671年正月には、新羅・文武王が、百濟の熊津へ侵攻していました。・・・この時の、新羅による軍事行動などに対する唐王朝軍は、百濟への救援軍を派遣します・・・が、同年6月には、現地の百濟軍ともども、石城(※扶餘郡石城面)において新羅軍に大敗しています。・・・それでも、熊津都督府に居た筈の唐王朝軍や、百濟軍などの新生百濟勢力が、当時の近江朝廷に対して、現実として何をどう要請していたのか? については、歴史書として当然のことなのか? やはり、“都合上のこととして、後世にハッキリとは遺してはいない”のです。・・・しかし、これらを裏返して考えれば・・・“現地の新生百濟勢力への救援要請か、或いは新羅支配地に対する攻撃要請だったこと”が、容易に想像出来るのですが。・・・もしかすると、“調を伴なわなかった同年6月4日の百濟三部の使人とは、在百濟の旧倭国人や旧倭国人との混血児などから成る勢力からの使者であって、当時の新生近江朝廷、或いは新生日本(やまと)に与しよう、傾倒しようとしていた”という可能性すら生じてしまいます。・・・それぐらい、同年6月4日の条にある記述の表現が、とても不自然に感じられるのです。
      ※ 同年6月内のこととして:是の月に、「栗隈王(くりくまのおおきみ)」を以って、「筑紫率」と為せり。・・・「新羅」が、“使い”を遣わし、「水牛1頭」と「山鶏(やまどり)1隻」とを別けて、獻(たてま)つりて、「調」を進める。・・・!?!?・・・何と、“栗隈王こと栗前王が、生存していたよう”であります。・・・私(筆者)は、不覚にも、前ページの前半部分(※西暦668年7月内の条)にて・・・『もしかすると・・・かつて倭の五王の時代と呼ばれていた最後期頃と同様に・・・栗前王(=栗隈王)は、ごく少数の兵ら、例えば500人位を率いて、高句麗救援のために、朝鮮半島へ渡海し、現地において高句麗陣営の一員として、現実に唐王朝軍や新羅軍と戦い、行方不明、或いは戦死してしまったのかも知れません。これについては、全くの憶測となりますが。』・・・などと書いてしまっておりました。※栗隈王(=栗前王)様、申し訳ありません。最初に謝罪してしまいます。・・・・・・しかし、そもそもの話として・・・“栗前王という人物”と、“栗隈王という人物”とを、同一人物に比定してしまって良いのでしょうか?・・・何故に、この『日本書紀』の記述中においてさえ、人物表記についてが統一されていないのでしょうか?・・・そして、“前者の栗前王”を、どうして、「くりくまのおおきみ」と訓読みするのでしょうか?・・・私(筆者)は、「前」と「隈」の字義については、相当に異なるという印象を持っているのですが。・・・“栗前王が父親”で、“栗隈王が息子だった”という可能性はないのでしょうか?・・・そしてまた、“栗前王と栗隈王が同一人物だったとしても、本人が何かの理由によって改名した”という可能性はないのでしょうか?・・・・・・“栗隈王こと栗前王に関する人物比定について”は、何とも結論が出ませんので、この当たりで止めておきます。・・・
      ・・・“この時の新羅の使者名については、意識的に伏せられているよう”に感じます。(※名を洩らせり)とも、【※(注釈)※】されておりませんので。・・・いずれにしても・・・結局のところは、百濟における事変に対して、この時の近江朝廷は、いわゆる人事異動で以って対応した訳です。それまで筑紫率だった蘇我赤兄を近江大津宮で左大臣へ昇格させ、以前にも筑紫率を経験していた栗隈王(=栗前王)を筑紫率に再任したのでした。・・・そして、当時の新羅に対しても、“具体的な軍事行動などを起こしていた”という様子もありません。これについては、きっと・・・唐王朝側に対する、“一種のマヤカシや、誤魔化しの類い”とも云えますし・・・“既に水面下で行なわれていた、新羅との談合による成果だった”とも云えます。・・・また、これも当然の如く・・・“この条の記述通りに、新羅から調を携えて、使者が近江朝廷に派遣されて来た”のです。・・・この条の記述中にある「別けて」という部分に、“ミソがくっ付いているよう”に感じます。・・・つまりは、“新羅が水牛を届けること”ので・・・“具体的な軍事行動などを起こさなかった(≒水牛の群れの中にあって、一頭だけが突入する訳でもなく)近江朝廷に対する御礼を表明”し・・・“更に、新羅が山鶏を届けること”ので・・・“山のような、すなわち強大な唐王朝の支配体制から、新羅のみならず旧高(句)麗までもが跳ね除けるような軍事行動を採って、実際に戦さで勝ちました(=山を取った≒鶏の字に掛けています)という、戦勝報告兼御礼の表明だった”と考えられるのです。・・・かなり頓智(とんち)が効いてますね。・・・頓智が効き過ぎていて、誰かによる意図的な挿入記述か? と疑いたくなる位です。・・・「頓智」と云えば・・・やはり、日本(やまと)側では、“密教系の高僧が関わっていた”のでしょうか?

      ※ 西暦671年7月11日:“唐人(もろこしびと)(の)李守眞(りしゅしん)ら”と、“百濟(の)使人ら”が、並(そろ:≒揃)いて、罷り歸(=帰)る。・・・当然と云えば、当然の反応です・・・が、“この時の李守眞らは、天智天皇、或いは近江朝廷から、上(たてまつ)っていた表(ふみ)に対する、肝心の正式回答を得られていた”のでしょうか?・・・残念ながら、これについても不明となります。・・・しかし、この時の近江朝廷としては、唐王朝に対して敢然と立ち向かい、正式に新羅や旧高(句)麗勢力と、盟約(≒密約)を結ぼうとするという選択肢も無い訳でも無かったのでしょうが・・・結局のところ、具体的には動かずに、現実路線を歩みます・・・と云いますか・・・天智天皇の身辺が、それどころでは、なくなっていった模様なのです。・・・

      ※ 同年8月3日:“高麗の上部大相・可婁ら”が、罷り帰る。・・・高麗人の可婁らは、この年の正月に進調するために来訪していました・・・が、“彼らは、この約7カ月間も、近江朝廷、或いは日本列島において、いったい何をしていた”のでしょうか?・・・おそらくは・・・高(句)麗・安勝(=安舜)王の意を汲んで、本国に関する情報収集とともに、近江朝廷及び新羅などの関係者達や在地の高句麗遺民達と、外交上の積極的な根回し活動をしつつも・・・もしかすると、近江朝廷の内政を助ける意味で、各地における協力を惜しまなかったのかも知れません。・・・このことについては、“可婁が、上部大相という官職を与えられ、宰相的立場にある人物だった”と考えられるため(・・・※少なくとも、近江朝廷としては、このように認識していたと考えられます。・・・)・・・“当時の安勝(=安舜)王から近江朝廷などとの外交関係の一切についてを全権委任されていた可能性が高かった”と云えるからです。
      ※ 同年8月18日:「蝦夷(えみし)」へ「饗」を、賜う。・・・当時の近江朝廷としても、“各地の国内勢力との一層の結束を図っていたよう”です。・・・“猫の手も借りたいという内情だった”かと。・・・それだけ、“蝦夷の人々が期待されていた”ということでもありますが。

      ※ 同年9月内のこととして:「(天智)天皇」が、“不豫(よろこば)ざる疾(やまい)”にて、寢かされり。【※(注釈)或る本は云う、八月に天皇が疾病(やまい)したまうと。※】・・・このような緊急事態に遭遇して、“同年6月内に来訪した”という新羅の使者も、さぞかし驚いたことでしょう。・・・彼らの本来の来訪目的は、“近江朝廷の今後の動静をも掴んで帰国することだった”でしょうから。・・・しかし、このような状況では、今後の動静も何も、不透明さが一層増大してしまって、そもそもの成果などが期待出来なくなってしまった訳です。【※(注釈)※】にあるように、“同年8月の時点で”という説もあったようですから。・・・もしかすると・・・天智天皇の病状を知った高麗人である上部大相・可婁らも・・・“近江朝廷が、朝鮮半島情勢に対して機敏に関与することは、もはや不可能と判断し、緊急帰国した”という可能性さえある訳です。・・・

      ※ 同年10月7日:「新羅」が、“沙サン・金萬物(こんばんぶつ)ら”を遣わして、「調」を進める。・・・同年6月内においては、その名も記されなかった新羅からの使者は、表向きには進調のためという建て前となっておりましたが、やはり・・・ここの記述を見ると・・・“朝鮮半島における戦さの直後期に送られた連絡要員、或いは忍び的な人物が、とりあえずの献上品(※水牛と山鶏)とともに、近江朝廷を来訪し、何らかのメッセージを届けた”と視るべきなのでしょう。・・・そして、“今回来訪したのは、沙サンという官位を持った金萬物ですので、こちらが新羅からの正式な使者”という解釈で間違い無いかと。・・・また、“この金萬物らを送り出した人物は、近江朝廷や大和朝廷が倭国(ヤマト王権)と呼ばれていた時代についてを、当然に良く知る文武王”ですから・・・“そのメッセージに頓智が効き過ぎていた”としても、何ら不思議では無いのかも知れません。
      ※ 同年10月8日:「内裏(だいり)」に於いて、“百(もも)の佛(ほとけ)(の)眼(みめ)”を、開かせし。・・・病気の平癒(へいゆ)のために、天智天皇の重臣達は、仏による功徳(くどく)を選択したようです。・・・“佛の眼を開かせし”とは、開眼のことであり・・・つまりは、堂内に仏像を安置して、入魂の儀を行なうことです。・・・いずれにしても、“天智天皇の病が分かってから、百仏像を安置することは時間的に不可能なこと”ですので・・・かねてより・・・“もしもの際には!”・・・と、“内裏で執り行なうことが、水面下では準備されていた”のでしょう。・・・尚・・・百仏像が、いったいどの程度の物だったのか? についてが記述されていないため、実際のところは分かりません。・・・もしも、仏師に彫らせたのであれば、相当な時間も掛かりますし、仏師の名についても、この『日本書紀』も記述すると想うのですが・・・こればっかりは、現存していると仮定してみても、現実として仏様のご胎内に、その由来などが書き残されていないと、判断さえも出来ませんし。・・・そもそもとして、“現実に仏像を百体揃えた”のか? でさえ、不明となります。・・・「百」という数については、“単なる比喩だった”という可能性もありますし・・・“曼荼羅(まんだら)のように、絵画だった”のかも知れません。
      ※ 同年10月内のこととして:是の月に、「(天智)天皇」が、“使い”を遣わして・・・「袈裟(けさ)」や、「金鉢(こがねのはち)」、「象牙(ぞうげ)」、「沈水香(ちんすいこう)」、「栴檀香(せんだんこう)」、“諸の珍しき財(たから)”を、“法興寺(ほうこうじ)の佛”へ、奉らせり。・・・ここにある「法興寺」とは、またの名を「飛鳥寺(あすかでら)」と云います。所在地は、現在の奈良県高市郡明日香村飛鳥。・・・「沈水香」と「栴檀香」は、ともに“貴重な香木”です。・・・“天智天皇は、これらの珍しい財を、法興寺へ寄進して、自身の平癒を願った”とのこと。・・・この天智天皇も、“既に亡くなっている藤原鎌足(※生前中は中臣鎌足)とともに、仏教に傾倒し、深く帰依していた模様”であります。


      【・・・さて、ここからは『日本書紀』天智天皇紀の記述内容(※【天智天皇紀より⇒】と表示します)とともに、後の『日本書紀』天武(てんむ)天皇紀の記述内容(※【天武天皇紀より⇒】と表示します)を交え、“それぞれの表現方法の違いなどを比較しながら、『日本書紀』で語られる歴史を総合的に視ることに致します。・・・】

      ※ 同年10月17日:
【天智天皇紀より⇒】「(天智)天皇」の「疾病(やまい)」が、彌留(おも:=重)し。・・・「彌留」とは、「本(もと)は、病久しくして愈(いよい)よ」を指し・・・後には、「その多くが病重たくなりて將(まさ)に死なんとす」を指すとのことであり・・・すなわち、今に云う危篤状態のこと。

                 【天武天皇紀より⇒】「(天智)天皇」は、“病に臥せられ、之(これ)を以って、痛まれること”が甚だし。是に於いて、「蘇臣安侶(そがのおみやすまろ)」が遣わされて、「東宮」を召し、「大殿」に引き入れり。・・・時に、「安侶」は、素(もと)より「東宮」を好みたまう所なりて、密に「東宮」を顧みて、曰く・・・「意(こころ)して言(げん)をしたまえ。」・・・と。・・・「東宮」は、“茲(ここ)に於いて、隱(かく)されし謀(はかりごと)が有る”と疑いつつも、之(これ:※蘇臣安侶の言のこと)を、愼(つつし)みたまう。・・・「東宮」とは、大海人皇子(※後の天武天皇)のこと。・・・ここでまた、表記の話となるのですが・・・「そが」の漢字は、当初このように「蘇賀」と表記されて、後に「蘇我」に変更されて定着したのかも知れません。・・・そして、「やすまろ」という漢字についても、「安麻侶」や「安摩侶」と、原史料類が一致していなかったために・・・『日本書紀』の編纂者達が、“敢えて、そのままに記述した”と考えられています。・・・さて、ここにある「蘇賀(=我)臣安麻侶」は、“蘇我連子(そがのむらじこ)の子”に当たります。・・・そもそも、蘇我倉麻呂の子には、「蘇我倉山田石川麻呂」や、「日向(ひむか)」、「連子」、「赤兄(あかえ)」、「果安(はたやす)」の兄弟がおりました。・・・そして、“この5人兄弟の中において、蘇我氏宗家が中大兄皇子(※後の天智天皇)に利用されるのを目の当たりにし、一定の距離感を置いていた”のが、この「連子」です。・・・『扶桑略記(ふそうりゃくき)』によれば、この「連子」は、“斉明天皇の時には右大臣だった”とされます・・・が、このことについては、この『日本書紀』では、何故か? ふれられておりません。・・・ここにある記述からすれば、“この時の天智天皇は、蘇賀(我)臣安麻侶が大海人皇子(※後の天武天皇)と懇意だったことを理由に、使者としたよう”ですが。・・・次に、「意して言をしたまえ。」という部分には、注意を要します。原文では、「有意而言矣」。これを単純に直訳すると・・・「意有りては、而(しかも、しかし)言え。」・・・となり・・・これを、“蘇賀(我)臣安麻侶の立場で考える”と、すなわち・・・『人は心に思っていること(=意)を言にするので、言にされた、その意をよく聞き分けるように。』・・・或いは、『死に直面した人は感受性が鋭く、その言から意を見抜くことがあるので、注意して言を選ぶように。』・・・との、“東宮への簡潔な助言(=アドバイス)だった”のです。・・・ちなみに、上記の『扶桑略記』とは、平安時代の私撰歴史書であり、総合的な日本仏教文化史であるとともに、いわゆる六國史(※『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』の総称)の抄本的な役割を担っており、後世の識者達から重宝されている歴史書です。

                 【天智天皇紀より⇒】“(天智天皇が)東宮を喚(よ:=呼)び、臥せりし内に引き入れて”、「勅(みことのり)」として、詔曰(のたま)う・・・「朕(われ)疾(やまい)甚だしく、以後事(のちのこと)は汝(なんじ)に屬(=託)さん。」・・・と、云々。・・・是に於いては、(東宮が、自身の)疾(やまい)を稱(とな)えて、固辭しては再び拜み、(これを)受けずして、曰く・・・「大后(おおきさき)に付屬(さず:=授)け洪業(こうぎょう:=大きな事業のこと)を奉り、大友王(おおとものおおきみ)に諸政(もろのまつりごと)を、奉宣せしめんと請うものなり。臣(やつがれ、おみ:=東宮自身のこと)は、天皇の爲に出家し、道を修めし奉らんと請い願うものなり。」・・・と。・・・「(天智)天皇」は、(遂に)許されり。・・・「東宮」が、起(た:=立)ちて、再拜し、“内裏に於ける佛殿の南”へと向かい、胡床(あぐら)にて踞(うず)き坐(す)わりてから、鬢髮(ひげかみ)を剃除(そ)りて、「沙門(さもん)」と爲(な:=成)りし。・・・是に於いて、「(天智)天皇」が、「次田生磐(すきたのおいわ)」を遣わして、「袈裟(けさ)」を、送りたまう。・・・“大海人皇子(※後の天武天皇)は、天皇の詔に対して、自分も病であるから”と「固辞」しました。・・・そして、“大后、すなわち皇后を、(天智天皇による)大業の後継者”とし、大友王(※大友皇子)に政事(まつりごと)を任せてはどうか? と「提案」し・・・“自らは出家して沙門と成り、天皇の為に平癒を祈願したいと申し出た”のです。・・・

                 【天武天皇紀より⇒】「(天智)天皇」が、“鴻業(こうぎょう:=洪業)を、東宮に授けり”と「勅(みことのり)」せしも・・・乃(すなわ)ち、“之(これ)を讓りし”との辭(ことば)を曰く・・・「臣(やつがれ、おみ:※東宮自身のこと)の不幸(さいわいなき)は、元より多くの病いが有りて、何らの社稷(しゃしょく:※国家や朝廷のこと)を能(よ)くは保てぬ。願わくば、陛下(きみ)が天下(あめのした)を舉げ、皇后(きさき)に附(よ)せて、大友皇子を立てりしことに仍(よ)りて、宜しく儲君(もうけのきみ)と爲したまえ。臣は、今日出家し、陛下の爲に功德(くどく)を修むることを欲すものなり。」・・・と。「(天智)天皇」が、之(これ)を聽(ゆる:=許)したまう。・・・(東宮は)即日(そのひ)に出家し、「法服(のりのころも)」となられし。私(わたくし)とせし兵器(つわもの)を收(と)りては、(それら)悉(ことごとく)を司(つかさ、おおやけ)へ納めたまうことに因ると。・・・「鴻業(=洪業)」とは、大きな事業のこと。・・・結局、大海人皇子(※後の天武天皇)は、慎重に、自身の言と行動とを一致させました・・・が、“大海人皇子(※後の天武天皇)の不幸”とは、東宮(=太皇弟≒皇太子)でありながら・・・かつては天智天皇の逆鱗(げきりん)にふれる行動に出てしまい・・・中臣鎌足(※後の藤原鎌足)によって取り為されるといった短所があったことや・・・太政大臣や、左右の大臣らと対立するような現状となってしまっていることなど・・・が、想像出来るのです。・・・ここで云われる「病い」とは、“ただ身体上のみのことだけではなく、精神的なものも含んでいた”のでしょう。・・・それらから鑑みて、自分は政治から遠ざかるべきと判断し、出家をして・・・“兄の天智天皇のために功徳を積みたい”・・・と、“法服を着て、身の周りの武器を役人へ納めて、即刻近江大津宮を離れた”・・・との記述となっています。

      ※ 同年10月19日:【天智天皇紀より⇒】「東宮」が、「(天智)天皇」に見(まみ)えて・・・「吉野へ之(ゆ:=行)きて、佛道(ほとけのみち)を修行せん。」・・・と請うと、「(天智)天皇」は、(遂に)許されり。「東宮」は、すなわち「吉野」に入りたまう。・・・“大臣(おおまえつきみ)ら”が、侍(はべ)り送りては、「菟道(=宇治)」に至りて、還る。・・・

                 【天武天皇紀より⇒】(大海人皇子が)「吉野宮(よしののみや)」に入る。時に、“左大臣・蘇賀赤兄臣(そがのあかえのおみ)、右大臣・中臣金連(なかとみのこんのむらじ)、大納言・蘇賀果安臣(そがのはたやすおみ)ら”が、之(これ)を送りて、自らは菟道(=宇治)より返りし。或いは、曰く・・・「虎が翼を着けて、之(これ)を放たれしもの。」・・・と。・・・“是の夕”には、「嶋宮(しまのみや)」へ、御(おわ)す。・・・ここにある記述内容にも、注意を要します。冒頭部分で、いきなり・・・「吉野宮に入る。」・・・とありますが、「天智天皇紀」では、単に・・・“吉野へ入った”・・・との記述でした。この「天武天皇紀」の記述は、おそらくは、“吉野の宮地に入った”という意味と考えられます。これについては、詳しく後述したいと思いますが・・・「嶋宮」とは、飛鳥嶋宮のことです。・・・「虎が翼を着けて、之を放たれしもの。」・・・とは、“近江大津宮という檻の中であれば、身動きがとれない虎(=大海人皇子を譬えた表現)だったものを、吉野という自由に飛び回る事が出来る手の届かぬ所に放ってしまった”という意味でしょう。・・・尚、“出家した大海人皇子(※後の天武天皇)には、当然に彼の妻や子供、舎人(とねり)らが同行、若しくは大海人皇子(※後の天武天皇)の後を追った”と考えられます。

       ・・・もしも、“藤原鎌足(※生前中は中臣鎌足)と天智天皇の死期の順番が逆だった”なら・・・「鎌足」としては、“当面の間については、大海人皇子(※後の天武天皇)を、後継天皇とし、これを補佐した”でしょうし、いずれは・・・“当時から、その将来を有望視されており、また若年だった大友皇子(≒後の弘文天皇)を、大海人皇子(※後の天武天皇)の後継候補とする”という選択肢があったのかも知れません。・・・
       ・・・しかし、“鎌足が既に亡くなっていた状況では、天智天皇と鎌足が連携して進めていた朝鮮半島政策や、近江への遷都、百濟系帰化人や高麗系帰化人達を重用する官制改革、急速な戸籍造籍等の改革”・・・これらに加えて・・・“在来宗教(=古神道)と新興宗教(=仏教)との釣り合いなどに対して、それぞれ反発していた各勢力との間に、心理的な深い溝が広がっており、まさに童謡などで揶揄される程の事態だった訳”です。・・・そして、一方では・・・“何よりも、大友皇子(≒後の弘文天皇)を太政大臣とし、蘇我赤兄臣を左大臣、中臣金連を右大臣とする、近江朝廷の新体制が、既に整っておりました。・・・“この頃の大海人皇子(※後の天武天皇)は、表向きには皇太子とされながらも、実際には政権中枢側から、かなり遠避けられていた”のです。・・・“この点”で云えば・・・“この『日本書紀』に遺されている天智天皇の死直前の言葉と、現実とが乖離していた”と云えます。“もしも、天皇が亡くなれば、権力を行使出来るのは、官制の長たる太政大臣であり、これを補佐する左右の大臣なのです”から。・・・兄の天智天皇が存命中ならば、ともかく・・・“崩御されて、政権に対する重石の役割を失なってしまえば、これを不服とする勢力同士による後継者争いのため、内戦の危険性が直ぐに高まる”こととなり・・・“いったい、どの勢力が自分に味方し、どの勢力が敵対するのか? となって、“政治的な不透明さは、更に混迷の度合いを深めることになる”のです。・・・おそらくは、“この時の大海人皇子(※後の天武天皇)としては、その当たりの状況を察知して、緊急避難的に近江大津宮からの脱出策を選択した”のではないでしょうか?・・・「近江大津宮」から「菟道(=宇治)」までは、“逢坂山(おうさかやま)を越えても、一日で往復可能な距離”とされています。つまり、“その片道については、半日で移動可能だった”訳です。・・・“この時の大海人皇子(※後の天武天皇)としては、菟道(=宇治)において、それまで付き添っていた大臣らが、近江大津宮へと引き返したことで、さぞかし安堵した”のではないか? と考えられます。・・・しかし・・・“菟道(=宇治)は、確かに吉野への古街道の入口とも云える場所でもあります”が・・・一方では・・・“既に亡くなってはいたものの、かつての藤原鎌足(※生前中は中臣鎌足)が頻繁に活動していた地域だった”とも考えられ・・・要するに、“当時の近江政権に関わっていた人物ならば誰であっても、菟道(=宇治)という地が藤原氏や中臣氏の勢力圏内であると、容易に予測出来る地域だった”のです。・・・もしかすると・・・“この時の大海人皇子(※後の天武天皇)としては、いつ誰に襲われるか分からないという恐怖感から解き放たれた”という安堵感とともに・・・“藤原氏や中臣氏の今後についての動向や、いざという際に、果たして自分に味方するのか否か? などを探るという目的を懐きながら、今に云う寄り道をしていた”のかも知れません。・・・そう考えると、“大海人皇子(※後の天武天皇)の、強(したた)かな策謀家としての一面を感じるとともに、藤原氏や中臣氏が地理的なセンスに長け、先見的に畿内の重要地域を、その拠点としていたことなど”に、驚くばかりなのですが。・・・尚・・・後に起きることとなる「壬申の乱(じんしんのらん)」のことを想えば、“菟道(=宇治)まで、大海人皇子(※後の天武天皇)に付き添っていた大臣らは、少々詰めが甘かった”とも云えるのかも知れません。・・・

      ※ 同年10月20日:【天武天皇紀より⇒】(大海人皇子が)「吉野」に至りて、居(お)わす。是の時、“諸の舍人”を聚(つど:=集)わせ、之(これ)を謂(かた:=語)りて、曰(のたま)う・・・「我は今、入道し修行せんとす。故に、隨いて修道せんと欲す者は之(これ)に留まれ。若し、仕えて名を成さんと欲す者は、還りて司に仕えよ。」・・・と。然るに、退く者无(な:=無)し。・・・更に、「舍人」を聚わせて、詔(みことのり)すること、前の如くなり。・・・是を以って、“舍人ら”の半(なかば)は、留まりて、半は退りし。・・・この『日本書紀』天武天皇紀では・・・ここで、「曰」を、「のたまう」としたり、「詔する」・・・とするなど、大海人皇子のことを、(天武)天皇として遇する表現に切り替えています・・・が、“現実には、この時点における大海人皇子(※後の天武天皇)は、あくまでも、剃髪し出家した沙門の一人”です。・・・尚、“大海人皇子(※後の天武天皇)に随行したという舎人達には、その去就を自己の判断に任せた”との記述です。しかも、“二度も篩(ふる)いに掛けた”と。・・・このことは、結局のところ・・・身の周りに潜む刺客や、密通する者達の有無を見定め、大海人皇子派であるのか? 大友皇子派であるのか? についてを見極めるために、当然に役立ちますし・・・一方では、“現実として、大勢の舎人達を収容するようなスペースを持ち合わせる大きな屋敷を確保出来なかった”という、物理的且つ経済的な事情も分かります。この時の大海人皇子(※後の天武天皇)は、あくまでも沙門の一人となった訳ですから、“近江朝廷から多額の支度金的なものは支給されなかった”でしょうから。・・・もしも、“近江朝廷から、何かしらを支給されていた”としても・・・“当面の間を食い繋ぐ程度の食料品の類いだった”でしょうし・・・“大勢の舎人達に吉野への運搬が許された物があったとしても、近江大津宮にあった大海人皇子(※後の天武天皇)一家や、舎人達の所有物に限られていた”のでしょう。・・・ちなみに・・・“この時の大海人皇子(※後の天武天皇)らが一時暮らした”と云われる場所は、宮滝遺跡(みやたきいせき:現奈良県吉野郡吉野町宮滝)とされており・・・“当時の離宮だった”と考えられておりますが・・・。
       ・・・“剃髪し出家、法服となった沙門・大海人皇子(※後の天武天皇)”は、同年10月17日には「近江大津宮」におりまして・・・同月19日中には、この「近江大津宮」を出立し・・・“その夕べ”には、「飛鳥嶋宮」を、宿所としています。

       ・・・そもそもとして、“沙門となり、政治の舞台から身を引いたと、周囲から見られるためだけに、時の皇族達の別荘地とも云える吉野宮に、大海人皇子(※後の天武天皇)自らが、暮らそうとする”のでしょうか?・・・その一方で・・・“病に臥していた天智天皇や、大友皇子(≒後の弘文天皇)、その側近達が、この大海人皇子(※後の天武天皇)一家や大勢の舎人達に対して、吉野宮の使用許可を与える”のでしょうか?・・・おそらく、これらの疑問に対する答えは、否(=NO)です。・・・要するに、『日本書紀』天武天皇紀の西暦671年10月19日の条における・・・「(大海人皇子が)吉野宮に入る。」・・・という記述そのものが、“後に天武天皇となる大海人皇子が一時期暮らしたという建物自体を、あくまでも後世においては、宮と呼称した”ということであり・・・“天武天皇紀においては、結果として修飾された表現となっているため”に、一種の誤解を生んでいるのです。・・・我々読み手とすれば、西暦671年10月19日の条にある吉野宮についてを、“吉野の宮地”と読むべきなのです。・・・とすれば・・・“沙門となった大海人皇子(※後の天武天皇)が、吉野の宮地の端(≒外れ)に、同年10月19日中に到達”し・・・そして、“同年10月20日には、吉野の宮地内にて、適当な場所と適当な屋敷とを見定めた上で、落ち着くことが出来た”という訳です。・・・それでも、ごく普通に考えれば・・・妻や子供達、そして大勢の舎人らを同行させたと云う大海人皇子(※後の天武天皇)ご一行にすれば・・・当時半日を要す行程とされる菟道(=宇治)までは、護衛と称した見送り役(≒見張り役)として、左大臣・蘇賀赤兄臣や、右大臣・中臣金連、大納言・蘇賀果安臣らが、付き添っていた訳です。・・・そして、菟道(=宇治)において、ようやく、見送り役達と別れて・・・“菟道(=宇治)を出立してからは、まさしく飛ぶような勢いで吉野に向かった”ことになります・・・が、本来ならば・・・“大海人皇子(※後の天武天皇)が出家し、それこそ仏道修行のために吉野の宮地に向かった”と云うならば・・・“当然に、彼一人と少数の従者達だった”でしょうし・・・“それこそ、吉野への道を急ぐ必要はない”のです。・・・“むしろ、彼の妻や子供達、舎人らの方が、主(あるじ)が突如として出家してしまい、自分達が心の準備をするという時間的な余裕も無く、相当に慌ただしい後追いの道程となった”と考えられます。・・・それでは、“何故に、沙門・大海人皇子(※後の天武天皇)は、家族や舎人らを引き連れて、近江大津宮を出立した”のか?・・・それは・・・“自らが沙門の身となっても、まだ大海人皇子(※後の天武天皇)の家族達や舎人ら(≒一族郎党)の身命に危険が及ぶ可能性を拭い切れなかったこと”を意味しており・・・一方では・・・兄の天智天皇としても、かつて中大兄皇子と呼ばれていた若かりし頃と違って・・・“仏教に帰依して、殺生(せっしょう)を戒められていたが故に、彼の目が黒いうちにおいては、近親者まで根絶やしにするような強硬手段を周囲に対して禁じていたから”に、他なりません。・・・つまり、兄としては・・・弟が出家し沙門となり、弟の家族達や舎人ら(≒一族郎党)が、近江大津宮を出て往けば、自身の後継者争いを回避出来るか、少なくとも先延ばしに出来ると考えたのでしょう。・・・ちなみに、“剃髪し出家した大海人皇子(※後の天武天皇)は、鵜野讚良皇女(うののさららのひめみこ:※鵜の字は、正しくは、廬+鳥)や、草壁皇子(くさかべのみこ)らの家族と、当初の半数になったと云われる舎人達とともに、吉野宮(≒吉野の宮地)に暮らした”とされています。・・・尚、「鵜野讚良皇女」とは、天智天皇と遠智娘との間に産まれた「鵜野皇女」のことであり・・・この「鵜野讃良皇女」は、後に起こる「壬申の乱」の“前後期頃”から・・・“夫の大海人皇子(※後の天武天皇)に、政治面や軍事面における助言をしていた”とも云われ・・・後に「持統(じとう)天皇」と呼ばれる女性です。


      ※ 同年11月10日:【天智天皇紀より⇒】「對馬(=対馬)國司」が、「筑紫大宰府」に“使い”を遣わして、言う。・・・「月生(た)ちる二日に、沙門・道久(どうく)と、筑紫君・薩野馬(さつのま)、韓嶋勝娑婆(からしまのすぐりさば)、布師首磐(ぬのしのおびといわ)の4人が、唐より來たりて、曰く・・・唐國使人・郭務ソウら600人や、送使の沙宅・孫登(そんとう)ら1,400人、總合(すべてあ)わすと2,000人が、47隻の船に乘りて、比知嶋(ひちしま)に於いて倶(ともに)泊りて、相謂(あいかた)りて、曰く・・・『今、吾輩(われら)の人船、數衆(かずおお)くなりて、忽然(たちまち)に彼(か)に到らば、恐らくは彼(か)の防人(さきもり)は、驚ろき駭(どよ)みて射戰(いたたか)わんとす。乃(すなわ)ち、道久らを遣わし預(あらかじめ)來朝の意を稍(ようやく)に披陳(ひらきもう)すところなり。』・・・」・・・と。・・・冒頭部分に、「対馬(=対馬)國司」とありますが、“この当時は、制度上の島司であって、國司とは追記である”とされています。・・・同年6月内には、「栗隈王(=栗前王)」が、筑紫大宰府の「筑紫率」として、再任されていました。・・・“月生(た)ちる二日”とは、同年11月2日のことです。・・・要するに、“道久ら4人が、唐より對馬(=対馬)へ到着して、そこの島司に話した内容が・・・“比知嶋に、2,000人が乗る47隻が停泊しており、これらとともに道久ら4人も、對馬(=対馬)へ向かう。”・・・と。・・・ここにある「比知嶋」については・・・現在の大韓民国巨済島(きょさいとう)の西南部に、「比珍島」という島があるのです・・・が、果たして、これで正しいのか分かりません。・・・いずれにしても、“道久ら4人が、2,000人が乗る47隻とともに、唐國から来た”とあり・・・“そのうちの一人である沙門・道久とは、留学僧だった”のかも知れません。・・・“道久以外の3人は、かつての「白村江の戦い」などにおいて唐王朝側の捕虜とされていた人物だった”のでしょうか?・・・とにかく・・・“唐王朝としては、道久ら4人とともに、1,400人もの人々を送り届けるという意図についてを、道久らに説明させた訳”です。・・・「600人」+「1,400人」=「2,000人」で、「47隻」ということは、“一隻当たりは、約42人乗船していた”とのこと。・・・このような船団が、47隻も纏(まと)まって、しかも忽然と出現すれば・・・“對馬(=対馬)の防人達は、敵軍の襲来と判断して、筑紫大宰府へと報告し、不測の事態(=武力衝突)になりかねないのではないか? と、そもそもの来朝の意が、伝わらないことを危惧していた”のです。・・・そのため、古代の日本語(やまとことば)を、当然として理解し話すことが出来る道久ら4人から、予め説明させたのです。・・・この時の筑紫大宰府や近江朝廷が、正式にどう対応したのか? については、この『日本書紀』には記述されていませんが・・・おそらくは・・・“かつての倭国(ヤマト王権)が旧百濟復興に関連し朝鮮半島に出兵した際に、唐王朝側の捕虜とされた人々の返還については、新生日本(やまと)を自称する近江朝廷としては、これに応じた”のでしょう。・・・しかし、これとともに・・・“この時の郭務ソウらによる来朝目的”として、もう一つ考えられるのは・・・“新羅の熊津攻撃によって、結果的に難民とされた現地の百濟人達や、どうしても唐王朝に従わない人々の日本(やまと)への移住や、その受入れ要請だった”のではないか? と考えられ・・・とすれば・・・“彼ら百濟難民などの受入れ態勢などについては、果たしてスムーズに事が進んだ”のか?・・・非常に疑問が残ります。・・・“たとえ一時期のこととは謂えども、船に乗る1,400人もの異国人達が、当時の倭国(ヤマト王権)や、時の百濟、時の高句麗などに協力せずに、結果的に唐王朝や新羅による支配を受け入れたという背景を持っていたから”です・・・が、もしかすると・・・“この1,400人が、百濟難民が主体という訳ではなく、朝鮮半島北方の高句麗へも移住していた、かつての倭国(ヤマト王権)人、つまりは新生日本人(やまとびと)や、現地の高句麗難民だった”・・・或いは・・・“これらの混成集団だった”という可能性も残ります。・・・しかし、“これらの場合には、近江朝廷が、彼らを受け入れる可能性が、逆に高くなる”とも云えますね。・・・いずれにしても、“郭務ソウらの派遣使節団員だけでも600人と記述されていますので、これは、かなり大規模な使節団だった”と云えます。・・・“船上で暴動などが起きないように、武装した兵らを多く各船に配置していた”のでしょうか?・・・そして・・・“いったい、どのようなメッセージを、近江朝廷に対して届けに来訪した”のでしょうか?・・・これらについても、大きな謎が残ります。・・・ここにある「郭務ソウ」については、西暦664年5月の条に、“百濟鎭將・劉仁願による表を届けに来た”とされます・・・が、『海外國記』によれば、“この当時には、對馬(=対馬)に留め置かれて、結局のところは入朝させなかった”としています。・・・また、西暦665年9月の条における254人という一行の中にも、この「郭務ソウ」の名が見えるため、この後にも筑紫に来訪していることが分かります。・・・これらについてを、総合的に判断すれば、この頃の近江朝廷は、或る意味で内向き志向と云いますか・・・内政課題についてを解消したり、内政を充実させることなどを最優先としつつも、対外的には朝鮮半島情勢の変遷を巧みに利用し、東アジアの巨大帝国となった唐王朝と、“外交上における駆け引きを繰り広げていた”と云えるかも知れません。・・・もしかすると、“今回についても、情報提供や技術協力などの人材供与や、人材派遣といった意味合いが濃かった”とも考えられますね。

      ※ 同年11月23日:【天智天皇紀より⇒】「大友皇子」は、“内裏西殿に於ける織(おりもの)の佛像前”に在りて、「左大臣・蘇我赤兄臣」や、「右大臣・中臣金連」、「蘇我果安臣」、「巨勢人臣(こせのひとのおみ)」、「紀大人臣(きのうしのおみ)」を、侍(はべ)らせり。「大友皇子」が、(その)手に「香鑪(こうろ)」を執りて、先(ま)ず起(た)ちて、誓盟(ちか)いて、曰く・・・「六人が同心し天皇の詔を奉らん。若し、違いたる者有らば、必ずや天罰を被れり。」・・・と云々。是に於いて、“左大臣・蘇我赤兄臣ら”も、(その)手に「香鑪(こうろ)」を執りて、次にと隨いては起ち、泣血(な:=泣)きては、誓盟(ちか)いて、曰く・・・「臣(おのれ、やつがれ)ら5人は、殿下(きみ)に隨いて天皇の詔を奉らん。若し、違いたる者有らば、四天王(してんのう)に打たれ、亦復(また)天神地祇(あまつかみくにつかみ)は誅罰せられしものなりて、卅(=三十)三天が此の事を證(あかし)と知らしめ、子孫は當(まさに)絶え、家門(いえ)は必ず亡(ほろ)ぶものなり。」・・・と云々。・・・まさに、“死人に口無し”といった感じです。・・・ここにある「大友皇子(≒後の弘文天皇)」は、間もなく「壬申の乱」で亡くなってしまうのですから。・・・ここの記述についても、結果的に物語性が強い表現となっておりますので、真実であるのか否か? については、正直良く分かりません。・・・そして、肝心な天皇による詔の内容についても定かではありません・・・が、内裏西殿には、百仏開眼のためとして織物の仏像があったようでして、“大友皇子(≒後の弘文天皇)が仏前で誓盟した”とのこと。・・・やはり、“近江大津宮では、在来の神々より仏の功徳が優遇されていたこと”が分かります・・・が、その一方で・・・蘇我赤兄臣らによる発言にあるように、“天神地祇による誅罰を受ける立場”となると・・・結果としては、宗教的なバランスを採る表現にしている模様ですね。・・・尚・・・もしも、大友皇子(≒後の弘文天皇)ら5人による誓盟に背けば、“四天王(東:※持國天のこと、南:※増長天のこと、西:※広目天のこと、北:※多聞天のこと)によって打たれることとなり、その後には天神地祇による誅罰も下り・・・”という、強固な誓盟を迫る内容・・・。・・・おそらくは、この『日本書紀』としては・・・“大海人皇子(※後の天武天皇)が既に出家していたということが事実確認さえ出来れば、太政大臣・大友皇子(≒後の弘文天皇)を、天智天皇の後継者で間違いなしということだった”のでしょうが・・・どうやら・・・その確証を掴めなかったのか? 或いは、それでは都合が悪かったのか?・・・結局のところ、肝心なことを伏せたままに、『日本書紀』の編纂者達は、筆を進めるしかなかったようです。・・・しかし、これでは・・・結果として、誓盟の呈を為しておらず、単なる憶測上の話となってしまいます。・・・それに・・・「泣血」とは、声無く痛哭し、泪(なみだ)血が涌くが如し。⇒泪尽きて血出ずる。⇒“罪逆し哀苦、告訴する所無し”と云った際に使う表現方法です。・・・そもそもとして、逆境に追い込まれた側の者達が為す表現方法なのです。・・・この記述中の大友皇子(≒後の弘文天皇)ら5人は、まさに大海人皇子側へ攻勢を仕掛けようとしている訳でして、むしろ立場的には優勢であって逆な筈であり・・・これでは、結果的にもアベコベな状況となる訳です。・・・但し、政権奪取に先走ったのが、あくまでも大友皇子(≒後の弘文天皇)たった一人であり、左大臣・蘇我赤兄臣ら5人としては・・・このように侍(はべ)らされてしまって、断るに断れない状況に追いこまれ、結果的にも大友皇子(≒後の弘文天皇)一人に、巻き込まれただけのこととするならば、そう読めないこともありませんが。・・・何より、ここにある記述を読んで、当時の世相などを想像すると・・・それまで、劇的な変化に乏しく、永らく受け継がれていた伝統的な慣習や文化のもとで、平和的に暮らしていた一般の古代日本人からしてみれば、当時の世相などは全く以って迷惑千万なこととして、その目に映ることとなり・・・特に、大友皇子(≒後の弘文天皇)という人物については・・・以前から、その将来性を期待されていたにもかかわらず、在来の信仰など伝統ある仕来たりを軽視し、異国かぶれとなってしまった不届き者。・・・しかも、その人は・・・百濟復興などを大義として、結果的に多くの民を巻き込んだ責任者であり、国の格好をも大きく変えた天智天皇の嫡子。・・・更には、日本列島に暮らしていた人々の子孫(=後世の日本人)達の将来に対しても、何らかの災異を齎(もたら)しかねないという、危うさの象徴。・・・などとして、表現されてしまっているようにも感じます。・・・彼の悲運は・・・稀代の中大兄皇子(※後の天智天皇)の息子として生まれたことと同時に・・・その叔父として、天武天皇となる大海人皇子があったことかと。・・・

      ※ 同年11月24日:【天智天皇紀より⇒】「近江(大津)宮」にて、“大藏省(おおくらのつかさ)の第三倉より出でたる災い”あり。・・・西暦670年4月30日の条にも・・・「法隆寺に災いあり」・・・とありました。「災」とは、天火のことです。・・・それが、大蔵省の第三倉となれば、当然として警戒が厳しい所であり・・・また、生活の場である筈もなく、失火などは起こり難い所ですので・・・結局のところ、『日本書紀』の編纂者達は、“天による警告があった”としているようです。・・・この日の出来事は、“大友皇子(≒後の弘文天皇)ら5人による誓盟の翌日のことであり、理由があって、天が災いを下された”と。

      ※ 同年11月29日:【天智天皇紀より⇒】“五臣”が、「大友皇子」を奉りて、“(天智)天皇の前”にて、盟(ちか)う。・・・是の日、「新羅王」へ、「絹50匹」や、「ふとぎぬ50匹」、「綿1,000斤」、「韋(なめし)100枚」を、賜う。・・・“五臣”とは、前述の左大臣・蘇我赤兄臣や、右大臣・中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣ら5人のこと。・・・“大友皇子(≒後の弘文天皇)のことを補佐し、更に盛り立ててゆくと、天智天皇へ盟った”との記述。・・・しかしながら・・・この前月の10月7日に派遣されて来た新羅の使者とされる沙サン・金萬物らに、“新羅王への賜物を決定した”のは、いったい誰だったのでしょうか?・・・そもそもとして、この(天智)天皇がご危篤状態の際に、大友皇子(≒後の弘文天皇)などが、新羅に対して、更に肩入れするようなメッセージを送るなどとは考え難い訳ですが。・・・(天智)天皇ご危篤に当たっては、“近江朝廷内のゴタゴタを、対外的に悟られないように配慮し、他国の干渉を受け難くしていただろう”・・・と考えられますし、もしも・・・“大友皇子(≒後の弘文天皇)を含む6人による参内が、危篤状態にある天智天皇のご意向だった”とすれば・・・この日、思い掛けなく、(天智)天皇の容態が幾らか改善したため、この好機を幸いにと、大友皇子(≒後の弘文天皇)のことを、自身の後継者として、新羅使者の沙サン・金萬物らに対して紹介したのかも知れません。・・・何だか、後世の『太閤記』における、あの場面を思い浮かべてしまいますね。・・・いずれにしても、このことから・・・当時の近江朝廷としては、新羅に対しては正式に返礼する体裁を執り・・・以前の11月10日の条にあった唐王朝・郭務ソウらが要請していたと思われる内容については、表向きには消極的に、尚且つ、それなりに対応したのではないか? と類推出来るのです。


      ※ 同年12月3日:【天智天皇紀より⇒】「(天智)天皇」が、「近江(大津)宮」にて、崩れられし。・・・この日、天智天皇が近江大津宮において崩御されます。・・・数々の歴史的な重大事に関わった、かつての中大兄皇子の死です。この時の推定没年齢は、46歳とされます。・・・“志半ばだった”と云えるのでしょうか?・・・この天智天皇が亡くなると、大友皇子は・・・実際のところ、弘文(こうぶん)天皇として正式に即位したか否か? については不明ながら・・・“太政大臣とされていた大友皇子が、暫くの間を、近江朝廷を主宰し、天智天皇の後継に立っていた”と考えられております。・・・尚、“この時の大友皇子(≒後の弘文天皇)の推定年齢は、24歳だった”とされます。

      ・・・ちなみに、【天武天皇紀より⇒】「十二月 天命開別天皇崩。」・・・つまりは、「十二月に、天智天皇が崩れられし。」・・・と、“極々最小限の記述”となっています。
      ※ 同年12月11日:【天智天皇紀より⇒】(故天智天皇を)「新宮(にいみや)」にて、「殯(もがり)」す。時に、「童謠」は曰う・・・


                美曳之弩能(みよしのの) 曳之弩能阿喩(よしののあゆ) 阿喩舉曾播(あゆこそは) 施麻倍母曳岐(しまへもえき) 愛倶流之衞(えくるしゑ) 奈疑能母騰(なぎのもと) 制利能母騰(せりのもと) 阿例播倶流之衞(あれはくるしゑ) 【其一】

             《訳》み吉野(よし)の 吉野(よし)の鮎(あゆ) 鮎(あゆ)こそは 島傍(しまへ)も良(え)き え苦(くる)しゑ 水葱(なぎ)の下(もと) 芹(せり)の下(もと) 吾(あれ)は苦(くる)しゑ 【其一】

                於彌能古能(おみのこの) 野陛能比母騰倶(やえのひもとく) 比騰陛多爾(ひとえだに) 伊麻ダ藤柯泥波(いまだとかねば) 美古能比母騰矩(みこのひもとく) 【其二】
             《訳》臣(おみ)の子(こ)の 八重(やえ)の紐(ひも)解(と)く 一重(ひとえ)だに いまだ解(と)かねば 御子(みこ)の紐(ひも)解(と)く 【其二】

                阿箇悟馬能(あかごまの) 以喩企波々箇ル(いゆきはばかる) 麻矩儒播羅(まくずはら) 奈爾能都底舉騰(なにのつてこと) 多ダ尼之曳鶏武(ただにしえけむ) 【其三】
             《訳》赤駒(あかごま)の い行(ゆ)き憚(はばか)る 真葛原(まくずはら) 何(なに)の伝言(つてこと) 直(ただ)にし良(え)けむ 【其三】


      ・・・まずは、故天智天皇の殯(もがり)が行なわれた新宮の所在についてです。・・・平安時代中期に編纂された『格式(きゃくしき:※律令の施行細則のこと)』とされる『延喜式(えんぎしき)』があり・・・この中には、“時の朝廷が管理すべき山陵諸墓に関する記述部分”として、「諸陵式(しょりょうしき)」がありまして・・・そこには・・・「山科陵 近江大津宮御宇天智天皇在山城國宇治郡 兆域東西十四町 南北十四町 陵戸六烟」・・・とされていることから、この新宮の所在は、古代の山城國宇治郡山科であることが分かります・・・が、その造営時期は? と云うと・・・この『日本書紀』では、後の西暦672年5月の条において・・・“山陵を造る為に、予め人夫を差し定めよと命じた”・・・としているため、現実のところは・・・“この12月11日に、大友皇子(≒後の弘文天皇)が、父の故天智天皇を殯するも、更に後の天武天皇の御世になってから、正式な陵墓が造営された”としている訳です。

      ・・・次に、この『日本書紀』に挿入されている童謠についてですが・・・

      上記【其一】について・・・そもそも「鮎」は、古来より、神意や吉凶を占う魚とされ、特に吉野の清流を溯上する鮎は、天皇に捧げる魚とされていました。・・・「島」とは、元来、海に突き出た岩、そして、海鳥の留まる所であり・・・“吉野の鮎”とは、吉野川の岩影で憩(いこ)う鮎のことを示しています。・・・水葱や芹は、その独特な苦みや香りなどの風味により、個人の好き嫌いがあるものの、我々現代人と同様に、当時の人々も食していた、清流の水辺に良く育つ、いわゆる水菜や山菜の一種でありまして・・・古代の人々も、きれいな水辺で、これらを増やし(≒栽培し)、それは良く収穫出来たのだろうと想像出来ます。・・・“ここでは、人間による収穫の忙しさや大変さなどとは、対照的な存在として、吉野川の岩影にて憩う優雅な鮎を登場させている”のです。

      上記【其二】について・・・【其一】と同様に・・・「臣の子」と「御子」とを、対比させています。・・・“八重の紐”とは、八重に掛けられた紐であるのか? 衣と裳を付ける八本の紐だったのか? については定かではありませんが・・・いずれにしても、「八」という数字から、“当時の社会的地位が高い身分の人の子供ら”と読めます。・・・そして、「臣の子」の方は、“まだ一重も解かない間に、御子の紐は既に解けていた”と。・・・「臣の子」が「女子」、「御子」が「男子」として読めば、恋や戯れの和歌にも想えますが・・・もしも、男子同士だった場合には、“今にも相撲か何かをとりそうな気配、つまりは取っ組合いの寸前のような静寂した場面”を、想起させませんでしょうか?

      上記【其三】について・・・この童謠は、『萬葉集』巻12にも収録されている和歌です。・・・「赤駒」とは、赤毛の馬のことであり・・・『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇紀の西暦465年7月の条にも、「赤駿」として、赤毛の駿馬が登場しています。・・・そこでは、“その赤駿が、龍や、蛇、或いは尺取り虫の如くに、うねるように飛び跳ね、突然に足を高く上げて聳(そび)え立つ様は、大きな鳥が驚いたようでもあり、その妖しき様は霊妙なものから生まれたようでもあり、とにかく見たことのないような相であって、ひとかたならぬものを発していた”と描写されています。・・・そして、ここにある和歌の意味としては、“そのような赤駒ですら、行くのを憚(はばか)るような真葛が茂る原っぱだった”と。・・・「真葛原」とは、京都の八坂神社から知恩院や青蓮院辺りの東山の山麓のことです。・・・この「真葛原」は、近江大津宮からすれば、山の彼方の山科、鏡山の彼方、八坂に入る東山の山麓の原のことであって・・・つまりは、この真葛原では・・・“当時の近江朝廷から、高句麗系渡来人達を入植させる土地とされていたため、結果として、言葉の問題や文化摩擦などが起きていた”と考えられ・・・要するに、“混沌とした世相や、混乱していた社会情勢を示している”のです。・・・したがって、この歌の後半部分については・・・“何を伝えたいのか、真葛原の如く混み入らずに、(単刀)直入が良いのに”・・・という意となります。


      ・・・このように、【其一】から【其三】までを読み繋げると、或る一つのストーリーが透けて見えるような感じが致します。・・・いずれにしても、この『日本書紀』の編纂者達は、読み手に対して、或る印象を植え付けようと、これらの童謠を挿入しているのです。(・・・※ほかにも諸説はありますが・・・)

      ・・・【其一】の童謠では、“せっせと働き、結果として苦労しているのが、大海人皇子(※後の天武天皇)”であり・・・一方では、“優雅な鮎としての大友皇子(≒後の弘文天皇)”と。

      ・・・【其二】の童謠では、“未だに準備が整わなかった大海人皇子(※後の天武天皇)周辺の状況”と・・・“既に臨戦態勢モードに入っていた大友皇子(≒後の弘文天皇)陣営”を。・・・事実は、ともかく・・・。

      ・・・【其三】の童謠では、“大海人皇子(※後の天武天皇)陣営と大友皇子(≒後の弘文天皇)陣営との直接対話や、これらの平和的解決を望んだ近江朝廷に属した人々や、一般の民の声を詠(うた)っている”とされます・・・が、観方(みかた)によっては、“大海人皇子(※後の天武天皇)と大友皇子(≒後の弘文天皇)とを、全く逆に読むことも出来る”のです。・・・これについては、やはり・・・この『日本書紀』では、同年10月19日の条において、飛鳥嶋宮を経由し、吉野へと向かった大海人皇子(※後の天武天皇)のことを、“あくまでも、或る人の言としながらも、ハッキリ”と・・・「虎が翼を着けて、之を放たれしもの。」・・・と記述しているからです。・・・とするならば、確かに・・・【其二】の童謠における「臣の子」には、大海人皇子(※後の天武天皇)も大友皇子(≒後の弘文天皇)も御子(=天皇の子)だったため・・・厳密に云えば、どちらも該当しません。・・・それでも、“大海人皇子(※後の天武天皇)が、中大兄皇子(※後の天智天皇)の弟だったため、近江朝廷からは臣と見做されてはいた”のでしょうが。・・・もしも、“この場合に当てはめて考えた”としても、あくまでも「臣」であり、「臣の子」ではありません。・・・それに、大海人皇子(※後の天武天皇)陣営が戦闘準備を整えるのは、この『日本書紀』の記述を信じれば、暫く後のこととなりますし。・・・更には・・・一方は、“解かねばならない程に、紐が八重に絡まっている状態”に想え・・・もう一方は、“解くべき紐が、初めから解けているような身軽さ”も感じられます。・・・結局のところ、『日本書紀』の編纂者達は、敢えて婉曲な表現方法を採用し、結果としては・・・“どちらとも採れるように記述している”と考えられますが・・・それと同時に、「壬申の乱」の結果を知る後世の読み手に対して・・・“何が、どうなっていても、おかしくなかったという、当時の世相を伝えたかった”のだと想います。・・・現実に「近江方(おうみがた)」と呼ばれる大友皇子(≒後の弘文天皇)陣営には・・・“数々の、しがらみや、足かせが作用していたよう”ですし。・・・


      ※ 同年12月17日:【天智天皇紀より⇒】“新羅の調を進めし使いの沙サン・金萬物ら”が、罷り帰る。・・・“この時の金萬物らは、約2か月間の滞在中に、大友皇子(≒後の弘文天皇)陣営による今後の近江朝廷運営方針などについて、何らの疑念も持たずに帰国した”のでしょうか?・・・少なくとも、“当時の近江大津宮や、その周辺に暮らしていた百濟系帰化人、高句麗系帰化人、唐國系帰化人などのネットワークから齎(もたら)される情報によって、内戦の可能性を感じ取っていた”とは考えられます。・・・何せ、少なくとも近江辺りでは、童謠にまでなっていた訳ですから。・・・ここで重要なのは、新羅・文武王に対して、具体的にどのように伝えられて、結果的に新羅の行動に、どう影響したのか? ではありますが・・・。

      ※ 同西暦671年内:【天智天皇紀より、最終文章⇒】是の歳・・・“讚岐國(さぬきのくに)山田郡(やまだのこおり)の人家には、鶏子(とりのこ)四つ足の者”が有り。・・・又(また)、「大炊(おおい)」には、“八つの鳴きし鼎(かなえ)”が有りて、或いは“一つの鼎”が鳴り、或いは「二つ」、或いは「三つ」が倶(とも)に鳴りて・・・或いは、“八つが倶に鳴れり”と。・・・古代中国の『山海經(せんがいきょう)』などでは、“多足の鳥の出現そのもの”が凶兆を示します。・・・しかし・・・それが、鶏子の四つ足を持ち・・・しかも、その半分が人間ともなれば・・・“古代の人々の目には、さぞ奇怪異様なものと映った”ことでしょう。・・・これでは、まさに妖怪であり、当然に凶兆です。真偽の程は分かりませんが。・・・「大炊」とは、大炊寮のことであり、すなわち食料を司る役所のことです。・・・「鼎(かなえ)」とは、元々、肉や魚、穀物などを煮炊きする土器を、その起源としますが、青銅器製の礼器として、祭祀にも用いられていました。・・・また、通常は、三本足で立脚する様だったため・・・「鼎談(ていだん)」とは、三人による会談を、「鼎立(ていりつ)」とは、三つの勢力が並び立つことを云います。・・・この祭祀における鼎が、ガタガタと音を発てて、一つのみならず二、三・・・八つがともに鳴ったと云うのですから、“天下争乱の兆しに満ちていたという世相を物語りたい”のでしょう。・・・個人的には、その祭祀を司った官吏は、いったい、どこの氏族出身者だったのか? についてを追究したいところではありますが・・・。・・・もしかすると???


      ※ 西暦672年3月18日:【この記述以降は、概ね天武天皇紀より⇒】「内小七位・阿曇連稻敷(あずみのむらじいなしき)」を「筑紫」に遣わして、“(天智)天皇の喪を、郭務ソウら”に告げり。・・・是に於いて、“郭務ソウら”は、咸(みな:=皆)が喪服を着て、三遍(みたび)哀れを、舉げたてまつり、東を向いて、稽首(おが)みし。・・・『日本書紀』の、ここの条では、原文を・・・「天武元年三月○○○○○」・・・として、“大海人皇子こと天武天皇の御世が始まった”としているのです・・・が、本来ならば、即位もせずに元年とすること自体、極めて異例なことです。・・・現実の天武天皇即位は、天武2年2月27日のこととなります。・・・したがって、この時期はちょうど・・・故天智天皇の皇后が天皇に即位し、大友皇子(≒後の弘文天皇)が摂政として主宰し、朝廷運営をしていたか? 或いは、大友皇子が弘文天皇として即位した時期だったか? ともされます・・・が、結局のところ、『日本書紀』の編纂者達は、“この年を元年とした”訳です。・・・しかし、それはそれとして・・・いったい誰が、阿曇連稻敷を筑紫に遣わしたのか?・・・主語が記述されていないため、結局は・・・「近江朝廷は」・・・と読まねばなりません。・・・「元年に○○詔す」となれば、通常は、即位した天皇のこととなりますが、ここでは・・・「遣わす」・・・であり、“近江朝の外交的政務の責任者だった”のでしょう。・・・“郭務ソウらは、前年の11月に、対馬(=対馬)國司を通じて、筑紫大宰府へ使者を送って来た訳です”が・・・ここの記述からすれば・・・“この時には、筑紫に上陸し、そのまま筑紫で留め置かれていたこと”になります。・・・“この3月18日になって初めて、郭務ソウらが、正式に天智天皇の死を知らされる”のです。・・・それなのに、“皆が喪服を着用した”とあります。・・・おそらくは・・・ここまでの郭務ソウらの筑紫滞在期間は、約4カ月あった訳でして・・・“この間に、天智天皇ご危篤の噂が、筑紫まで伝わって、喪服を準備することが出来た”のでしょう。このように、解釈するほかないのでしょうね。・・・しかしながら・・・“唐王朝からの使いの代表者である郭務ソウ”は、別にしても・・・配下の忍び的な人物や集団が、当時の日本(やまと)国内を、或る程度自由に駆け回り、或る種の交渉事や情報収集的な動きを見せていたとしても、決して不思議ではありませんし、筑紫に留め置かれていたのは、あくまでも外交使節だったと考えた方が良いのかも知れません。・・・古代の日本人(やまとびと)は、かつての唐人らを、唐笠を被る鬼などと見立てていた訳ですから。・・・それに、この時の郭務ソウらの使節団員だけでも、当初600人とされていますので、“小人数が筑紫から姿を眩(くら)ます位のことは、容易いことだった”かと。・・・いずれにしても、“このような大勢から成る使節団の全員が、喪服を揃えていた”となると・・・“その渡航目的としては、相当に重要な役割を本国から課せられていた”のかと。
      ※ 同年3月21日:“郭務ソウら”が、再び拜(おが)みて、「書函」と「信物」を、進める。・・・“当然”と云うべきか、書函内容に関する記述はありませんし、送られた信物の内容についても省かれております。・・・書函については、仕方ないこととしても、信物に関する目録ぐらいは、記述しても構わないと想うのですが。・・・もしかして、“当時の近江朝廷や、その外に居た主要な有力人物達へ、書函と信物を進めた”ということなのでしょうか?・・・確かに、この条は『日本書紀』天武天皇紀ではありますね。・・・だとすれば、当時の日本(やまと)国内の内政分野については、別のこととしても・・・“外交の分野では、二頭政治的な状況だった”という可能性も浮上してまいります。・・・前条の3月18日から、たった三日後と云うのも、気になるところではあります。・・・

      ※ 同年5月12日:「甲冑」と「弓矢」を以って、“郭務ソウら”に、賜う。・・・是の日、“郭務ソウら”に賜いし物は、總合(すべてあ)わせば、「ふとぎぬ1,673匹」、「布2,852端」、「綿666斤」なり。・・・ここでも、主語が省かれていますが、“賜うことが出来る主体”は、当然に朝廷機構のトップである筈です。・・・この時の近江朝廷としては、郭務ソウらへ正式に賜物をする一方で、婉曲に・・・“直前に申し入れられた件については、無かったことにして欲しい”ということだったのかも知れません。・・・さては・・・この時の唐王朝は、近江朝廷に対して、この際に・・・“いっそのこと、唐王朝による冊封(さくほう)を受け入れて、新羅や高句麗に対する協同戦線を張ってはどうか?  その見返りとしては、○○○○を用意するが。”・・・などと、具体的に持ち掛けていたのではないでしょうか?・・・しかしながら、当時の政権を担っていた近江朝廷でさえも・・・唐王朝の野望や、強(したた)かさについては、最も警戒していたようにも感じられます。・・・ちなみに・・・“郭務ソウらへの賜物中”にある「綿666斤」の、「666」という数字の部分が気になります。・・・“単なる偶然だった”のでしょうか?・・・古代の西洋社会などで意味があるという数字です。・・・古代の東洋社会でも、何らかの意味がある数字なのでしょうか?・・・
      ※ 同年5月28日:「高麗(こま)」が、“前部・富加抃(ふかべん)ら”を遣わし、「調」を進める。・・・折しも・・・混乱期にあった旧高句麗から、日本(やまと)天皇崩御の報せにより、弔問の使者が派遣されて来たようでありますが・・・。
      ※ 同年5月30日:“郭務ソウら”が、罷り帰る。・・・このように・・・『日本書紀』では、必要最小限の記述となっており、郭務ソウらがメッセージとして届けた書函内容や、信物の内容に対して・・・まるで・・・“近江朝廷側が抗議の意を示しているかのよう”です。・・・一方の郭務ソウらにしてみても、この月の末頃には、日本(やまと)国内で起こりつつある異変に勘付いていたのでしょう。・・・そして、近江朝廷との交渉を打ち切ることとし、百濟にある新都督府へと帰って、日本(やまと)国内の新たな情勢についてを、報告したのではないでしょうか?
      ※ 同年5月内のこととして:是の月に、「朴井連雄君(えのいのむらじおきみ)」が、奏(かなで)て、曰く・・・「臣(やつがれ)には、私事(わたくしごと)が有りて、獨り美濃に至りし。時に、朝庭(みかど)は、美濃と尾張、兩國の司に、曰く・・・『山陵を造らんが爲に、豫(あらかじ)め人夫を差し定めよ。』・・・と宣(のたま)いし。則(すなわ)ち、人別(ひとごと)に兵(つわもの)を執らしめんと。臣が以爲(おも:=想)うに、山陵を爲すは非(あるま)じきことなりて、必ずや事が有らん。若し、早くに避けたまわらざれば、當(まさ)に危うきことが有らんか。」・・・と。・・・或いは、奏(かなで)る人が有りて、曰く・・・「近江京(おうみのみやこ)より倭京(やまとのみやこ)に至りては、處々(ところどころ)へ候(さむらい:=侍)を置かれし。亦(また)、菟道(=宇治)の守橋者(はしもり)には、皇大弟の宮の舍人(とねり)が私粮(わたくしのくらいもの)を運ぶ事を、遮(さえぎ)れと命ぜられしこと。」・・・と。・・・「(天武)天皇」が、之(これ)を惡(にく)み、事が已(すでに)實(まこと)なりと知ることに因りては、問いを察して、令したまうものなり。・・・是に於いて、詔(みことのり)して、曰く・・・「朕(われ)が、位(くらい)を讓りて世を遁(のが:=逃)れし者たる所以(ゆえん)は、永く百年を終えても獨りで全身の病いを治めんとす。然るに今は、獲ずしても禍を(わざわい)を承(うけた)まわりしことに應(こた)える已(のみ)なり。何ぞ黙して身を亡さんか。」・・・と。・・・「朴井連雄君」とは、沙門となった大海人皇子に仕えていた舎人のことであり・・・奏(かなで)ている相手方は、後に天武天皇となる大海人皇子のことです。・・・ここにある「朝庭」とは、“大友皇子(≒後の弘文天皇)が事実上主宰していたと考えられる近江朝廷のこと”となります。・・・「山陵」とは、故天智天皇の山科御陵のこと。・・・そして、ここの条を要約すると・・・“朴井連雄君が、私用で一人で美濃へ行くと、朝庭(みかど)が美濃と尾張両国の國司に対して、山陵を造るという名目で、人夫を割り当ていたが、何やら現実には人夫達を兵士として徴用しているらしいと。また、これは、やはり山陵造営の目的などではなく、別の目的がある筈だと。更には、主(あるじ)の大海人皇子(※後の天武天皇)が、もし吉野を出立するならば、その実行を早めないと危うき事態に陥る”・・・として、“警告めいた火急の報告をした”のでした。・・・この他にも、大海人皇子(※後の天武天皇)に奏(かなで)る人が居て・・・それによれば・・・“朝庭(みかど)が、近江京から飛鳥の倭京に掛けての處々(ところどころ)に、候(=侍)を配置し、更には菟道(=宇治)橋において、皇大弟こと大海人皇子(※後の天武天皇)の宮に仕える舎人が、私的な食糧でさえ運ぶことを遮断されています”・・・と。・・・これらの報告に対して・・・「(天武)天皇は、それらの事が已(すでに)實(まこと)なりと知ることに因って、「詔(みことのり)して曰く・・・」・・・と、この時点で既に、『日本書紀』の編纂者達は、皇大弟とされていた大海人皇子のことを、「天武天皇」として扱っております。この表現も、極めて異例なことです。・・・いずれにしても、これらの報告に対する“天武天皇の発言”は・・・「百年の時を費やしてでも全身の病いを治癒させようと、位を譲った獨りの遁世者に対して、あるまじき行為なり。黙って殺される訳にはまいらぬ。」・・・といった具合となるのです。・・・この時点で既に、「天皇」と表記するような偏重ぶりですから、どうしても一方的な表現となり・・・まるで、時代劇の一場面のようです。この当たりについては、割り引いて読まなければならないでしょう。・・・それに、朴井連雄君の報告内容中に・・・「私事が有りて」・・・とありますが、これは朝庭(みかど)による公務ではないという意味でして・・・その点では・・・大海人皇子(※後の天武天皇)側の朴井連雄君が、相手方や関係者に対して、何を仕掛けようとも私事(わたくしごと)であるという論法となります。・・・一方では、大海人皇子のことを、既に天皇扱いしながらも・・・“ここだけは、已(や)むに已まれぬ弱い立場だった”と、さりげなく主張しているようですね。・・・いずれにしても、“大海人皇子(※後の天武天皇)は、この5月中には美濃や尾張でも挙兵準備を進めていた様子”であり・・・“一方の近江朝廷側も、先手を打つ格好で以って、各國司に候(=侍)の配置などを手配していた”と考えられます。・・・“吉野や近江などと、各地との間で行なわれていた”と云う、大海人皇子(※後の天武天皇)配下の舎人達の往来については、表面上は出家していた者と、出家しなかった者との違いではありますが・・・具体的には、いったいどんな、遣り取りが為されていたのでしょうか?・・・彼らの動きついては、大友皇子(≒弘文天皇)側の近江朝廷としても・・・“怪し過ぎて、看過出来ない状況だった”とは、想像出来ますね。

      ・・・尚、朴井連雄君は・・・物部尾輿(もののべのおこし)--物部麻伊古(もののべのまいこ)--朴井真古(えのいのまこ:※物部守屋とする説もあり)--朴井連雄君・・・と繋がる武門家系氏族の子孫であり、“美濃に暮らした物部氏の一族だった”とされています。
      ・・・ちなみに、これより少し歴史を遡り、“大化の改新頃の話とはなります”が・・・古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)も、次期天皇に推挙される・・・も、これを固辞し、髪と髭を落とし、袈裟を纏って出家すると、やはり吉野に入りました・・・が、この古人大兄皇子が企てたという謀反に関して、密談を持ち掛けられた吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)が、この謀反についてを、時の政権に自首してしまい・・・結果として、古人大兄皇子一族が討たれることに。・・・この謀反の密談を持ち掛けられたという者達の中には、“物部朴井連椎子(もののべのえのいのむらじしいのみ)が居た”のです。・・・
      また、その後の有間皇子(ありまのみこ)による謀反事件においても、皇子の屋敷を取り囲んだ者と云うのが、“物部朴井連鮪(もののべのえのいのむらじしび)”でした。・・・

      ・・・このように、物部朴井連(もののべのえのいのむらじ)という氏族名が共通している・・・“雄君(おきみ)や、椎子(しいのみ)、鮪(しび)ら三人の系図や相関関係などは不明とされていながら”も・・・このような古代日本の政権交代劇において、多く登場するのが・・・“物部朴井連という武門家系氏族”であり・・・“謀反や、軍事クーデターというキーワードが、頭を過(よ)ぎるような場面では、経験に長けていた氏族だった”とも云える訳です。・・・

      ・・・いずれにしても、吉野へ向けた食糧供給などが、近江朝廷側から完全に遮断されてしまえば、大海人皇子(※後の天武天皇)を護衛する舎人達の数も、必然的に減ってしまうことになります。・・・かつての古人大兄皇子や有間皇子などが追い込まれていく様を、経験的に知る者達からすれば・・・兵士徴用の兆しを知ったり、斥候(せっこう)の如くの候(=侍)を配置され、しかも食糧供給などを遮断する動きがあった段階で、既に・・・“大友皇子(≒弘文天皇)陣営が、一挙に謀反事件として処理しようと企んでいる”・・・として、“危機感を一層募らせた”のではないでしょうか?


      【・・・さて、この当たりからは、古代史最大の内戦となる「壬申の乱」へ移行しますので、『日本書紀』天武天皇紀で語られる歴史を、徐々に概略(ダイジェスト)的に視ることに致します。・・・】

      ※ 同西暦672年6月22日:(・・・※大海人皇子(※後の天武天皇)が、挙兵を決意するに至り・・・)沙門・大海人皇子(※後の天武天皇)が、“村國連男依(むらくにのむらじおより)、和珥部臣君手(わにべのおみきみて)、身毛君廣(むげつきみひろ)ら3人”を、「美濃國」へと派遣し・・・「安八磨郡(あはちまのこほり)」の「湯沐令(ゆのうながし)・多臣品治(おおのおみほんじ)」には、“この挙兵計画に関する要点について告げること”を・・・“村國連男依ら3人それぞれには、“現地における挙兵を命じる”とともに、國司らを經て(≒通り越して、頭越しに)、諸軍を差し發(た)たせ・・・「急(すみやか)に不破道(ふわのみち)を塞げ。朕(われ)も今、路(みち)に發たん。」・・・と、“具体的な指示”をする。
・・・「湯沐」とは、中宮や東宮へ支給された食封の一種であり、つまりは大海人皇子(※後の天武天皇)の直轄地のこと。・・・「湯沐令(ゆのうながし)」とは、湯沐の地(=湯沐邑)を管理し、課税などの収納を行なう現地役人のこと。・・・よって、ここにある“美濃國の湯沐は、東宮とされていた大海人皇子(※後の天武天皇)の軍事面且つ経済面における基盤だった”とされています。・・・「美濃國安八磨郡」は、現在の岐阜県安八郡全域(=揖斐川流域の神戸、安八、輪之内)及び海津郡の一部とされ、 “大海人皇子(※後の天武天皇)の重要拠点だった”とのこと。・・・要するに、“挙兵を決意した”と云う、大海人皇子(※後の天武天皇)からすれば・・・“この湯沐の地(=湯沐邑)を、近江朝廷側により先立って押さえられれば、万事窮す”といった状況に陥ることとなります。そのため、大海人皇子(※後の天武天皇)陣営からすれば・・・“湯沐の地(=湯沐邑)の勢力基盤を固め、大海人皇子(※後の天武天皇)本人を吉野から迎え入れ、この湯沐の地(=湯沐邑)を中心として、より東國からの様々な支援を得ることが急務となっていた”のです。・・・しかし・・・それでも、太政大臣や左右の大臣などで以って実権を有する近江朝廷に対抗するには、現実として大海人皇子(※後の天武天皇)側のみの戦力では、彼我の差が大きく開いていたため・・・この時の大海人皇子(※後の天武天皇)陣営からすれば・・・一般の民から集まる、伊勢や熱田などの地に対する崇敬心や、在来宗教(≒古神道や修験道、民俗信仰など)全般への信仰心などを背景として挙兵するということ・・・を、“自らが意思表明し、各地に点在する地方豪族の勢力を結集するなど、或る意味における正統性や、大義名分を持たなければ”・・・“近江朝廷へ対抗し得る兵力や軍需物資を集めることさえ、かなり困難な状況にあった訳”です。・・・この条にある「村國連男依」とは、美濃國各務郡(かかみのこおり)・村國郷の「村國神社」がある地の豪族であり・・・そこはちょうど、安八磨郡(※現在の安八郡)の東の地域に当たります。・・・「和珥部臣君手」は、和珥氏の部民である和珥部であり、春日系と云える氏族であって・・・“この一族は、近江や、伊勢、尾張、美濃、加賀など各地を分散的に拠点とした地方豪族”と考えられていますが・・・もしも、この和珥系の氏族全体が、大海人皇子(※後の天武天皇)陣営に共同歩調を採れば・・・“それはそれは、大きな勢力となる”のです。・・・次に、「身毛君広」についてです・・・が、まず「身毛」とは、美濃國の武芸郡(むげのこおり)を指しており、これは後の武義郡(むぎのこおり)に当たります。そして、この条にある「身毛君広」とは、“ここの牟義都國造(むげつのくにのみやつこ)の出身氏族”と見られ・・・この『日本書紀』では、「身毛氏」のことを・・・“景行(けいこう)天皇の子である大碓命(おおうすのみこ:※日本武尊の双子の兄)の末裔”としています。・・・尚、“身毛氏の勢力地は、各務郡の北方にあった”と考えられております。

      ・・・当時を想像するに・・・村國連男依や和珥部臣君手、身毛君廣ら3人と、特に縁が深かった美濃國に暮らす人々の間にも、故天智天皇が推し進めていた入植政策・・・つまりは、隣國近江の蒲生郡や神前郡には百濟系帰化人達を、美濃國内の不破や片縣には唐國人系帰化人達を、それぞれ居住せしめて・・・“言葉の問題や、文化摩擦を誘引し”・・・挙句の果てに・・・“朝廷人事では、彼ら渡来系の官人達を重用したため、近江朝廷に対して反発する気持ちや、不満などが燻(くす)ぶっていたこと”・・・については理解出来ます・・・が、いずれにしても、大海人皇子(※後の天武天皇)陣営としては・・・“安八磨郡の湯沐の地(=湯沐邑)を、なるべく早くに確固たる軍事拠点とし、これを更に防衛するためには、不破道を塞ぐ必要があった”訳です。「不破道」などの地域は・・・だいたい、日本列島のお臍(へそ)部分に当たりますので。・・・おそらく、この時の大海人皇子(※後の天武天皇)としては、“湯沐令・多臣品治に対して、即時に安八磨郡の兵達を招集させて、直後に出兵を指示し、國司らが近江大津宮へ報告する暇(いとま)を与えること無く”・・・“東宮(=皇大弟)は、既に挙兵された。味方せねば、それらの者達は、すなわち敵なり”・・・などと、かなり強引な姿勢で臨んで、味方を募り・・・もしかすると、近江朝廷から武器を持たされ、一旦は近江朝側の兵とされていた人夫達までも、自らの軍勢に取り込んでいたのかも知れません。・・・これと同時に、大海人皇子(※後の天武天皇)本人は、吉野から美濃國安八磨郡の湯沐の地(=湯沐邑)へ向かうにしても、まずは「宇陀」へ出て・・・「名張」 ⇒ 「伊賀」 ⇒ 「亀山」 ⇒ 「桑名」 ⇒ 「海津」・・・を経由し、これらの地域全てを切り抜けねばなりません。・・・しかし、この時の近江朝側は、既に菟道(=宇治)橋へ斥候(せっこう)の如き候(=侍)を配置しており・・・それと同時に・・・“各國司や、各地に整備されていた驛家(うまや)などの地方出先機関へは、大海人皇子(※後の天武天皇)との関わりある者達を拘束して、一時留め置く位の通達が為されていた”と考えられます。・・・とすれば・・・大海人皇子(※後の天武天皇)が、“近江朝側による捕縛網を掻い潜って突破し、美濃國安八磨郡へ辿り着くには、各地の地方豪族達による協力を得るほか、実現する見込み自体が無かった、或いは少なかった”と考えられるのです。・・・しかし、これを達成するためには、用意周到な計画と相当な準備期間が必要となる筈であり・・・この当たりを常識的に考えても・・・予めの根回しなり、説得工作が進んでいなければ、達成出来る筈が無いのです。・・・この時の状況は、まるで・・・“後世の徳川家康らによる、伊賀越えの話と、そっくりだった”と云えるのかも知れません。・・・もしかすると、この当たりの時代から、既に伊賀忍者や、甲賀忍者の起源があるのかも知れません・・・と云うか、“この可能性については、かなり高かった”と想います。
      ・・・次に、「多臣品治」についてですが・・・『日本書紀』天智天皇紀の西暦661年9月の条に・・・“多臣蒋敷(おおのおみこもしき)の妹が、百濟王子・豊璋(ほうしょう)に嫁がされる”・・・とありました。・・・「多臣品治」とは、“この蒋敷の子”であり・・・そして、“この品治の子”が、『古事記』の編纂者である「太安万侶(おおのやすまろ)」なのです。・・・何よりも・・・「多臣」とは、“神武(じんむ)天皇の皇子だった神八井耳命(かんやいみみのみこと)を祖とする名門氏族”であり、全国的な拡がりを持っておりまして・・・「多、大、太、意富、飯富、於保」・・・はいずれも、いわゆる「多氏」です。これは、“当時の倭国(ヤマト王権)の支配領域の拡大に伴なって、各地の地方豪族の系譜と多氏の系譜とが混じり合ったこと”に因ります。・・・これもまた、別ページや『常陸風土記』関連ページでもふれておりますが、“あの藤原氏を輩出した中臣氏”も・・・正確に云えば、「多氏系中臣氏」となります。・・・「物部朴井氏」や、「村國氏」、「和珥氏」、「身毛氏」、「多氏」、或いは「中臣氏」などの各氏族が、具体的にどのように、どの分野において、この頃に現実として働いていたのか? についての詳細は分かりませんが・・・後世の歴史に「天武天皇」が登場するためには、“これら各氏族の影響力が、少なからず必要だった”とは云えるかと。・・・これについては、後世の歴史が、証明の一つになる筈と考えます。

      ※ 同年6月24日~7月1日:“古代日本における最大の内戦”とされる「壬申の乱」が起こります。

      ・・・まず、美濃において、湯沐令・多臣品治が挙兵。・・・時同じくして、“大海人皇子(※後の天武天皇)が、僅かな供人を従えて、吉野を出立した”とのこと。・・・大この時の大海人皇子(※後の天武天皇)に仕える舎人には、村國連男依らの美濃國出身豪族達がおりました”・・・が、その他にも、“尾張氏らも従っていた”とされます。
      ・・・大海人皇子(※後の天武天皇)は、まず名張(※現在の三重県名張市)に入ると、現地の驛家(うまや)を燒きました・・・が、“当の名張郡司は、大海人皇子(※後の天武天皇)に対して同心せずに、出兵を拒否”します。
      ・・・すると、この状況を不利と判断した大海人皇子(※後の天武天皇)が、伊勢國に留まって占いを行なった後、「伊勢神宮」を参拝します。そして、“この参拝により、大海人皇子(※後の天武天皇)が、美濃や伊勢、伊賀、熊野などの地方豪族達の信頼や、協力を得ることに成功した”とされています。
      ・・・続いて、大海人皇子(※後の天武天皇)が、伊賀に入る・・・と、“阿拝(あはい、あえ:※現在の三重県伊賀市北部)の郡司が、兵約500を伴なって、大海人皇子(※後の天武天皇)陣営に参集した”と云います。
      ・・・そして、大海人皇子(※後の天武天皇)は、積殖(つみえ:※現在の三重県伊賀市柘植)において、自身の長男である高市皇子(たけちのみこ)の軍勢と合流します。(・・・※鈴鹿関で合流とする説もあり。・・・)
      ・・・更に、大海人皇子(※後の天武天皇)は、伊勢國でも郡司らの協力を得て、兵を獲得することに成功。・・・こうして、各地方勢力などが合流した後に、大海人皇子(※後の天武天皇)の軍勢は、一斉に美濃を目指すことに。
      ・・・その一方で、美濃において既に兵を興していた多臣品治は、不破道を封鎖して、大友皇子(≒弘文天皇)が主宰する近江朝廷と東國との交通連絡網を遮断していました。
      ・・・これによって、美濃に到着した大海人皇子(※後の天武天皇)は、東海道や東山道方面からも兵を動員出来るようになり・・・“更に兵を興すための使者を、東山(=信濃など)や尾張國などへ遣わすことになった”とのこと。・・・
      ・・・しかし、これと同じくして、大友皇子(≒弘文天皇)側の近江朝廷は、東國や、吉備、筑紫に向けて、兵力の動員を命じる使者を派遣していました・・・が、“東國への使者については、大海人皇子(※後の天武天皇)側による分断網に阻まれること”となり・・・“一方の吉備と筑紫では、現地の地方豪族の長や惣領達を、近江朝廷の命令によっては、結果的として動かすことが出来ずにいた”とのこと。特に、大友皇子(≒後の弘文天皇)は、筑紫に向けわせた使者の佐伯男(さえきのおとこ)に対して、“もしも、筑紫が出兵を拒否した場合には、筑紫率・栗隈王(=栗前王)を暗殺するようにと、予め命じていた”とされます・・・が、それでも・・・“この時の栗隈王(=栗前王)は、海外の勢力に備えることを理由として、畿内への出兵を拒否する”こととなり・・・更には、栗隈王(=栗前王)の子である美努王(みぬおう、みのおう:※三野王とも)と武家王(たけいえのおおきみ)の2人が、帯剣して栗隈王(=栗前王)の傍に控えていたため・・・“近江朝廷からの使者だった佐伯男が、反撃を恐れて、栗隈王(=栗前王)暗殺実行を断念した”と云います。しかし・・・それでも、“大友皇子(≒弘文天皇)側の近江朝廷は、吉備などの西國諸國や、近隣諸國から、大海人皇子(※後の天武天皇)陣営に対する相当な兵力を集めることが出来た”とはされてはおります。
・・・ちなみに、また「佐伯氏」が登場しております。本当に実在したのでしょうか? 「佐伯男」なる人物とは?
      ・・・すると、近江朝軍は、美濃へと向かいましたが、“軍指導部内部で足並みの乱れなどが生じて、その前進が遅れていた”とされます。特に、大友皇子(≒弘文天皇)陣営の近江方面軍将とされていた山部王(やまべのおおきみ)が・・・この『日本書紀』では、その殺害された理由についてが、ふれられてもおりませんが・・・味方である筈の蘇我果安(そがのはたやす)と巨勢比等(こせのひと:※巨勢人とも)によって、殺害されることとなり・・・また、近江出身豪族の羽田矢國(はたのやくに)が、大海人皇子(※後の天武天皇)側へ寝返るなど・・・“この時、大友皇子(≒弘文天皇)陣営全体に与えた動揺や混乱状況の深刻さが、次第に拡散していった”とされています。
      ・・・そして、河内方面でも、河内國司守・来目塩籠(くめのしおこ)が、大海人皇子(※後の天武天皇)陣営に味方しようとしたため・・・大友皇子(≒弘文天皇)側河内方面軍将の壱伎韓國(いきのからくに)によって、追い込まれ、自殺。
      ・・・更に、大和方面では、大海人皇子(※後の天武天皇)が吉野を出立した後に、大友皇子(≒弘文天皇)側の近江朝廷が、かつて故天智天皇の行幸が度々あったとされる倭京で兵を集めておりました・・・が、大伴吹負(おおとものふけい)が、大海人皇子(※後の天武天皇)陣営として大和で挙兵すると、この倭京を急襲し、占領します。・・・その後暫くは、大伴吹負が西方と北方から来襲する近江朝軍を相手に激戦となりました・・・が、倭京を守り切れずに、一旦は敗走する・・・ものの、大伴吹負が軍勢の再結集を繰り返して、今度は近江朝軍を撃退するという・・・まさに一進一退の攻防戦を繰り広げていたのです。
・・・このように、大和盆地では、一定期間を近江朝軍が、やや優勢か? 或いは、両者がほぼ拮抗しているという戦況でしたが・・・やがては、美濃から紀阿閉麻呂(きのあえまろ)が指揮する援軍が到着することとなり・・・大海人皇子(※後の天武天皇)陣営の大伴吹負は、窮地を救われることとなります。

      ※ 同年7月2日:“東國諸國から不破へ兵力を集中させた大海人皇子(※後の天武天皇)”が・・・“数万と云われる、その軍勢を二手に分けて、大和と近江の二方面”へと送り出す。
      ※ 同年7月7日:“息長(おきなが)の横河(よこかわ)”において、“村國連男依らに率いられ、進軍中だった大海人皇子(※後の天武天皇)側の軍勢が、近江朝軍を相手に、戦端を開く”・・・と、“緒戦において連戦連勝”し・・・琵琶湖東岸を、更に「進撃」する。
・・・「息長」とは、かつて近江國北東部にあった旧坂田郡息長村のこと。現在の滋賀県米原市。
      ※ 同年7月22日:「瀬田橋の戦い」において、「近江朝軍」が、“大敗”を喫す。・・・「瀬田橋」とは、現在の滋賀県大津市唐橋町。
      ※ 同年7月23日:「近江朝廷」の「大友皇子(≒弘文天皇)」が、“首を吊って自決する”・・・と「壬申の乱」が、収束に向かい始める。・・・尚、“大海人皇子(※後の天武天皇)が、大友皇子(≒弘文天皇)の死後も、暫くの間を、美濃國に留まって、戦後処理や戦後体制などの将来構想に取り組んでいた”と考えられております。“奥方の鵜野讚良皇女(※後の持統天皇のこと)を交えていた”との説もあり。・・・

      ※ 同年9月8日:「大海人皇子(※後の天武天皇)」が、「鵜野讃良皇女(※後の持統天皇)」や、“皇子ら”と共に、「美濃國不破関(≒関ケ原)」を「出立」する。
      ※ 同年9月12日:“大海人皇子(※後の天武天皇)らの一行”が、「飛鳥嶋宮」に入る。
      ※ 同年9月15日:“大海人皇子(※後の天武天皇)らの一行”が、「飛鳥岡本宮」へ遷る。
・・・大海人皇子(※後の天武天皇)は、前条にある「飛鳥嶋宮」と、ここにある「飛鳥岡本宮」とを合わせて、東南側の少し離れた所に、新たに「大極殿(だいごくでん:※古代日本における朝廷の正殿のこと)」を建てました・・・が、これら二つを併せて、「飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)」と名付けられるのは、“天武天皇の晩年のこととなります”ので、ご注意を。


・・・・・・・・・・次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】