街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 西暦1867年(慶應3年)1月3日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「フランス」へ向かうため、この日「京都」を発ち、「兵庫」から「長鯨丸(ちょうげいまる)」に「乗船」し・・・その後、「横浜」へ向けて「出航」する。・・・「長鯨丸」とは、当時の幕府が、イギリスの鉄製汽船を購入した運輸船です。・・・後の「戊辰戦争」では、榎本艦隊の一隻として参加する・・・も、箱館にて明治新政府軍に捕獲され・・・新政府の民部省へ移管されました。・・・ちなみに、“前年の12月14日以前”に、幕府、つまりは徳川昭武の異母兄・徳川慶喜が、異母兄の因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、故徳川斉昭の五男)に相談していたのは、“兵庫からフランスへ直行可能な艦船の手配について云々だった”かと。・・・
      ※ 同年1月9日:「睦仁親王(むつひとしんのう)」が、「踐祚(せんそ)」し・・・「明治天皇」とされる。・・・ちなみに、“この時の明治天皇は、満14歳であり、且つ元服前の践祚だったため、立太子礼を経ずに天皇に即位した”とされますね。・・・
      ※ 同年1月11日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「幕命」により、「フランス郵船・アルフェー号」に「乗船」して、「横浜」を発ち・・・「フランス」へ向かう。【綱要】・・・この後の徳川昭武は、使節団を率いて約50日を掛けて渡仏しました。・・・この時の使節団の中には・・・会計係として、後に「日本資本主義の父」とも云われる渋沢栄一(しぶさわえいいち:※武蔵国榛沢郡血洗島村の豪農出身、この時は幕臣)や・・・随行医として、高松凌雲(たかまつりょううん:※名は権平、荘三郎とも、一橋家専属医師を経て、この時は幕府の奥詰医師)・・・通訳としては、かつての遣仏使節(=横浜鎖港談判使節)にも随行経験があった山内堤雲(やまのうちていうん:※名は六三郎とも、幕臣)などが含まれます。・・・尚、この遣欧使節団は、フランス・ナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問。
      ・・・万博終了後は、同じく幕府代表団として、スイスや、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴訪し・・・その期間に、オランダ王・ウィレム3世や、ベルギー王・レオポルド2世、イタリア王・ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、イギリス女王・ヴィクトリアに謁見しました。・・・それ以後の徳川昭武は、パリで当初予定5箇年の留学生活に入ることとなるのですが・・・。
      ※ 同年1月20日:「長州藩」と「小倉藩」との間で、「講和」が「成立」する。・・・これまでの期間は、小倉藩兵が、長州軍に対して遊撃戦を挑み・・・一時には小倉城を奪還するに至った・・・ものの、前年10月からは、長州藩が停戦成立した他戦線の兵力を小倉方面に集中して攻勢を強め・・・豊前国企救(きく)郡南部にあった小倉藩の防衛拠点の多くが陥落するに至り・・・ようやく、この日講和が成立したのです。・・・この企救郡については、この時の講和条件の一つが、“長州征討の根拠の一つとされた長州藩主父子の罪が解かれるまで、長州藩が引き続き占領下に置くこと”とされていたため・・・結局のところ、“小倉藩は企救郡を回復することが出来なかった”とのこと。・・・更には、長州藩主父子が朝敵の罪を赦免され、再び官位を得た後にも、企救郡は小倉藩に返還されずに長州藩の支配下に置かれ続けることとなり・・・西暦1869年(明治2年)に至ってから、日田県の管轄に移されることとなるのです。
      ・・・これらのことから、この頃の長州藩は、“様々な情報ルートを用いて、中央政界の状況を凝視しつつ、現実にゲリラ戦を遂行していたこと”が分かります。
      ※ 同年1月23日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「勅許」を得て・・・“征長軍の解兵”・・・を令す。・・・“長州藩と小倉藩が講和成立してから3日後の事”でした。・・・この時の徳川慶喜は、数えで31歳。
      ※ 同年1月27日:“故孝明天皇の御葬儀”に、「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が「供奉(ぐぶ)」する。・・・「供奉」とは、行幸や祭礼などの際にお供の行列に加わること。・・・いずれにしても、“故孝明天皇は徳川慶喜に対して、厚い信頼と期待を掛けておられた”と伝わりますので・・・徳川慶喜公としても、“熟知たる想いがあった”でしょう。

      ※ 同年2月5日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「下阪」して、“フランス公使のレオン・ロッシュ”を「引見」し・・・“幕政改革の意見”を「聴取」する。・・・
      ※ 同年2月8日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「帰京」す。・・・この時の徳川慶喜公は、ようやく京都に入ったようです。宿所は、相変わらず・・・若狭小浜藩屋敷(※若州屋敷とも)であったかと。・・・
      ※ 同年2月18日:「幕府」が・・・“常野暴徒鎮撫の際に幕吏へ属して尽力した上野前橋藩の農民210人余りの労を賞して”・・・「金」を給す。【綱要】・・・「前橋藩」は、かつて政事総裁職を罷免された松平直克が、前橋城を修復して武蔵川越から藩庁を移した藩でしたので・・・そこの領民を賞するということは、“元治甲子の乱(≒天狗党の乱)の戦後処理という側面と同時に、藩主・松平直克に対する褒賞的な意味合いもあった”かと。・・・
      ※ 同年2月19日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「下阪」す。・・・徳川慶喜公は、また・・・“何やら積極的に行動した模様”ですね。・・・済ませるべきことを済ました後に。
      ※ 同年2月20日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、再び、“フランス公使のレオン・ロッシュ”を「引見」する。・・・この頃の仏国公使・ロッシュは、徳川慶喜が将軍職に就いたため、幕政改革について建言することを構想して、幕府中心の統一政権確立に向けて努めていた模様。・・・これが後に、「慶應の改革」として実現しますが・・・。
      ※ 同年2月21日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「帰京」す。・・・
      ※ 同年2月29日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の乗船するフランス郵船・アルフェー号”が、「フランス・マルセイユ」に「到着」する。・・・この時の徳川昭武は、数えで15歳。

      ※ 同年3月1日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「記念写真」を「撮影」される。・・・
      ※ 同年3月5日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、“兵庫開港についての勅許”を、「朝廷」へ「奏請」する・・・も、許されず。・・・これまで朝廷は、安政五カ国条約締結については勅許した・・・ものの、“尚も兵庫の開港については勅許を与えない”・・・という状況が続いていました。・・・故孝明天皇の後継に、年若の明治天皇が立たれていたため、新天皇のご意向を掴むための奏請だったのでしょうか?・・・いずれにせよ、この時の徳川慶喜公としては・・・“兵庫開港については已むなし”・・・との判断だったかと。・・・
      ※ 同年3月6日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「フランス・マルセイユ」を発ち・・・「同国・リヨン」にて「一泊」する。・・・
      ※ 同年3月7日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「パリ」に「到着」し・・・「カピュシン街」の「グランホテル」に「投宿」する。・・・
      ※ 同年3月17日:“フランス・パリのレセップス邸にて”・・・“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”と、「日本薩摩琉球国太守政府」を自称する「薩摩藩」との対立関係が表面化する。・・・何と、フランスに来てまで・・・。
      ※ 同年3月18日:“幕府による国家主権を疑問視する記事”が、“フランス各紙”に「掲載」される。・・・そうなるのでしょうね、きっと・・・。・・・おそらくは、薩摩藩による事前の外交攻勢の賜物だったかと。・・・
      ※ 同年3月20日:「幕府」が、“武蔵忍や、同岩槻、同川越、下総佐倉、同古河、同関宿、下野大田原、同宇都宮、同壬生、常陸土浦、同下館、上野高崎の12藩”に対して・・・“城詰の御用米中から、総計4,389石の米を江戸へ廻送せん”・・・と命ずる。【綱要】・・・いわゆる“お蔵米(おくらまい)の供出命令”でした。・・・日本では、“一食に米1合、一日計3合が概ね成人1人当たりの消費量とされ、一石は成人1人が一年間に消費する量にほぼ等しい”と考えられるため・・・「総計4,389石の米」とは・・・つまり、“4,389人の一年間の消費量相当”となります。・・・これだけの米が、百万人都市と云われる大江戸に流入すれば、普段の事でしたら、効果もそれなりにあるのでしょうが・・・この時は、既に全国的な凶作のため、米不足の状況にあり・・・更には、“外国産米を緊急輸入しても間に合わなかった”と考えられますので・・・残念ながら、効果のほどは、さほどに・・・。
      ・・・それにしても、“これらの「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」で追討幕府軍に参加した12藩の支出として考えれば、相当に厳しい要求量だった事”には違いありません。・・・
      ※ 同年3月22日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、“兵庫開港の勅許について”を、「朝廷」へ再び「奏請」する・・・も、尚も許されずに、この日に「下阪」する。・・・徳川慶喜公としては、“我慢の為所(しどころ)”と云えるのでしょうか?・・・
      ※ 同年3月24日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「テュイルリー宮殿」において、「フランス皇帝・ナポレオン3世」に「謁見」し・・・「国書」を「提出」する。・・・“国書の差出人”は・・・当然に将軍・徳川慶喜公でしょうね。・・・
      ※ 同年3月25日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、“イギリス公使のハリー・パークス”を「引見」し、次いで“フランスや、アメリカ、オランダの公使達”を「引見」し・・・この時、“各々の条約の如くに兵庫を開港すべき旨”を「声明」する。・・・徳川慶喜公の声明は、“のらりくらり”と、いつまでも勅許を下そうとしない朝廷への揺さ振りだったのでしょうか?・・・いずれにしても、攘夷思想から討幕へ傾きつつあった薩長同盟としては・・・公(おおやけ)の場にて、先手を打たれた格好となります。・・・
      ※ 同年3月26日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「パリ万国博覧会・会場」において、“各国の産物”を見る。・・・尚、この日に、「フランス皇帝・ナポレオン3世」から「贈物」が届く。・・・
      ※ 同年3月27~28日:“フランス公使のレオン・ロッシュ及び同国陸軍派遣の軍事顧問団・団長のシャルル・シャノワーヌ参謀大尉”が、“大坂城に居た将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)”に「謁見」し・・・“幕府陸軍の大規模改革の必要性などについて”・・・を述べる。・・・そこで、「徳川慶喜」は、“江戸において陸軍総裁・松平乗謨(※後の大給恒、三河奥殿藩及び信濃田野口藩主)から承ることと、必要経費については勘定奉行から支給する旨”・・・を「回答」した。・・・この後の幕府陸軍は、大幅な軍制改革を実施することとなり・・・同年9月には、仏国陸軍の軍事顧問団が横浜から江戸へと移って・・・“軍事教練を受ける兵員数を増やした”とのこと。・・・
      ※ 同年3月28日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「大坂城」において、“イギリス及びオランダの公使達”と、再び「謁見」する。・・・尚、この日、“イギリス人のフレデリック・ウィリアム・サットン”が、「徳川慶喜」を「写真撮影」した。・・・
      ※ 同年3月29日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「大坂城」において、再び“イギリス公使のハリー・パークス”と「会見」する。・・・また、この日も、“イギリス人のフレデリック・ウィリアム・サットン”が、「徳川慶喜」を「写真撮影」する。・・・当時の写真は、被写体が動いてしまったりすると、上手く写りませんからね・・・。・・・それにしても・・・当時の対外君主的な人物を、絵画やスケッチなどではなく、写真に撮影させるという公式の行為が齎(もたら)す影響力を考えれば・・・“当時の写真力”は、西洋社会にとっても、かなりのインパクトを与えたのではないでしょうか?・・・
      ※ 同年3月内:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、“幕臣・西周(にしあまね:※通称は経太郎、周助とも、号は甘寐斎、天根とも、石見津和野藩医の子、哲学者、啓蒙学者)を召し出して仏蘭西(フランス)語を学ばせるも、政務多端(=政務多忙)につき、幾多も行なえずとして”・・・これを廃す。・・・仏蘭西(フランス)語と云うか、フランス人の哲学や、考え方、更にはフランス革命などについてを詳しく学ばせようとしたのではないでしょうか? 今後の外交交渉などのために。・・・尚、この頃の徳川慶喜公は、ここにある幕臣・西周に限らず、“多くの幕臣達を江戸から上洛させても、自身は畿内を離れずといった状態”であり・・・政権機能そのものの畿内移転を、現実的に推し進めていた模様です。・・・これが、当時の徳川慶喜公の新政権構想の一端?・・・だとしたら、徳川慶喜公のことを江戸幕府(=徳川幕府)最後の征夷大将軍と呼んで良いのやら?・・・非常に悩むところです。・・・

      ※ 同年4月3日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「帰京」す。・・・
      ※ 同年4月4日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「パリ万国博覧会・会場」において、「パノラマ館」を「見物」する。・・・当時の「パノラマ館」は、湾曲した壁面全体に精巧な風景画を描き、中央の観覧者に実景の中に居るような感覚を与える回転画を観せる館だったかと。・・・
      ※ 同年4月13日:“フランス公使のレオン・ロッシュ”が、「書(簡)」を、「幕府」へ呈して・・・“日本の政体を各国へ弁明すべき旨”・・・を「建議」する。・・・これにより、“将軍・徳川慶喜が国律を起草せしむ”・・・当時の西洋人からは、“将軍の上に天皇を戴くという日本政体の構図そのもの”が、非常に理解され難く・・・現実に、兵庫開港勅許問題などもあり・・・一方の徳川慶喜公としても、「尊皇」が第一優先事項であって、“あくまでも将軍は、天皇の臣下たるべき”という思想哲学でしたので・・・このように、何らかの憲法的な国律文書を、新たに起草させようとした訳です。・・・
      ※ 同年4月18~19日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭の七男)」が、「摂政(せっしょう)・二条斉敬(※徳川慶篤や徳川慶喜らの従兄弟)」を訪ねて・・・“朝廷が、イギリス公使の敦賀旅行の件につき、議奏(ぎそう)・広橋胤保(ひろはしたねやす)など4名を退役せしめた薩摩や、因幡、備前の三藩に対して、京都警備を命じたこと”を「難詰」し・・・「徳川慶喜」は、この翌日、「帰館」する。・・・まず、この時の二条斉敬は、故孝明天皇の崩御によって、「関白」から「摂政」となっていました。・・・次に「議奏」とは、幕府が朝廷の意向を間接的に統御するため設置した役職であり、常に天皇に近侍して勅宣を公卿に伝達し、または上奏を天皇に取次いだり、重要政務を合議したりしました。これが幕府の奏請により設置される役職のため、ほとんどの場合で広橋胤保などの親幕的な公卿が任じられていたのです。
      ・・・また・・・兵庫開港勅許問題や、各地で一揆や打壊しなどが多発して治安状況が良くない時期だからこそ、イギリス公使のハリー・パークスが越前国敦賀への視察旅行を計画し、実行してしまいます。・・・すると当然に、大坂から敦賀へ行くには、京都近くの伏見や大津を通る必要があります。・・・そんな状況下において、この情報を得た薩摩藩は、“英人が伏見や大津を通行することに反対しなかったこと”を理由として、浪人を使い、鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)らの公家に働き掛けて・・・結果、広橋胤保ら4名の議奏を、責任追及して解任させてしまったのです。・・・このような事情があったため、将軍・徳川慶喜公としては、従兄弟同士であったればこそ、摂政・二条斉敬に対しては、夜を徹して説明し、結果として難詰せざるを得なかったかと。・・・つまりは、“因幡鳥取や備前岡山の慶喜の兄弟達の二藩はともかく、討幕の気配さえ感じられる薩摩藩の謀略には、断じて踊らされるべきではない!”と。・・・この事件、本当は将軍職を継ぎたくなかった徳川慶喜公にとっては、非常に大きな出来事だったと想います。
      ・・・徳川慶喜公としては、この時点で・・・“一時期は自身も期待を掛けていた外様雄藩出身の尊皇(=勤皇)志士達を、また慶喜自らが構想し、且つ幕府を継ぐべき新たな統治機構に対する政敵として見做すようになり、ほとんどロック・オン状態とするキッカケとなった”のですが・・・。《・・・薩摩藩出身や所縁のある方々、スミマセン。ここの表現については、あくまでも昔の事として取り上げておりますので、ご勘弁下さい。・・・》
      ※ 同年4月26日:“在京していた水戸藩家老の鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)ら”が、“将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)による兵庫開港奏請を諌めん”と欲し・・・「藩士・岩間誠之(※通称は金平)を、「備前岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、徳川慶喜の異母弟、故徳川斉昭の九男)」と「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、徳川慶喜の異母兄、故徳川斉昭の五男)」へ遣わして・・・“其の指揮”・・・を請う。・・・この日、“池田茂政と池田慶徳”が「相議」して、「書状」を、“在京の鈴木重義”へ与えて、これを「慰諭(いゆ:※慰め諭すこと)」し、“水戸藩政回復に専心せしむ”【綱要】・・・この時の“鈴木重義ら”、つまりは「本圀寺党」は・・・尚も水戸や江戸から遠く離れた京都にあり、当時の水戸や江戸で影響力を持ち続けていた「諸生党」による余波については、受けずに居られた模様。
      ・・・但し、水戸や江戸に居た鈴木重義ら本圀寺党達の、国許に居た家族達については、当時既に投獄されていた可能性が高いでしょう。“天狗党勢の家族達”、若しくは“大発勢の家族達”として。・・・それにしても・・・横浜の鎖港については、既に事実上も不可能となっていた訳ですが・・・この時の政治課題となっていた兵庫開港問題についても諦めずに、尚も故徳川斉昭の子らを頼った・・・ものの、反対に慰諭されて、まずは藩政回復を目指せとの指示を受けた訳です。・・・至極、ご尤(もっと)も。

      ※ 同年5月1日:“在京していた水戸藩士の藤田大三郎(ふじただいさぶろう:※任三郎とも、藤田彪の三男、藤田健次郎の同母弟、藤田信の異母兄)ら80名余り”が、「備前岡山」へ赴いて・・・“岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、徳川慶喜の異母弟、故徳川斉昭の九男)が朝幕の間に出でて斡旋し、兵庫開港を阻止するように”・・・と請う。・・・次いで、“其の党(の者)7名”が、更に「岡山」から「因幡鳥取」へ至り・・・「鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、徳川慶喜の異母兄、故徳川斉昭の五男)」に「謁見」して・・・“同じく請う所あり”【綱要】・・・おそらく、“在京する水戸藩家老・鈴木重義経由の報せのみ”では、本圀寺党の80名余りが承服出来ずに・・・このような仕儀になったかと。・・・
      ※ 同年5月7日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“フランス・ナポレポン3世の招待を受けて”・・・“ロシア皇帝や、プロシア国王ととも”に、「ベルサイユ宮殿」へ行き・・・この日の夕方には帰る。・・・
      ※ 同年5月11日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「カピュシン街」の「グランホテル」を出て・・・「ペルゴレーズ街」にある“ロシア人貴族の屋敷”を借りる。・・・この四日前に、ロシア皇帝とともにベルサイユ宮殿へ行ったことが幸いしているかと。・・・やっと、定宿出来る屋敷を丸ごと借りられたようです。
      ※ 同年5月14日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「二条城」において、“前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)や、前土佐藩主・山内豊信(※号は容堂)、島津久光(※薩摩藩主の島津茂久父)、前伊予宇和島藩主・伊達宗城ら”と、「四侯会議(しこうかいぎ)」を開く。・・・また、この日、「将軍・徳川慶喜」は、「写真師・横田彦兵衛(よこたひこべえ:※号は朴斎)」に命じて、“これら4名の肖像写真”を「撮影」させる。・・・まず、この日開催された四侯会議が、どうして「四侯」とされいるのか? 参加者数は5名ではないか? という点についてですが・・・これは、有力な大名経験者3名と薩摩藩の最高実力者1名から成る合議体制であり、且つ将軍・徳川慶喜や摂政・二条斉敬に対する諮詢(しじゅん)機関として設置されたためです。
      ・・・この日に撮影された肖像写真の現物というのは、ともに着色が施され、後に松平慶永によって衝立に仕立てられ、福井市立郷土歴史博物館に所蔵されているものなのですが・・・これに付属する松平慶永自筆の箱書によれば・・・“この日、徳川慶喜が、四侯によって国事を議論させると、後にその労を労(ねぎら)うため、酒を振る舞い、写真鏡(=カメラ)を取り出させて、出席者4名の肖像を撮影した”・・・とのこと。この箱書の原文からは、将軍・徳川慶喜自らが4名を撮影したのか?、写真師に撮影させたのか? がハッキリしないものの・・・この肖像写真については、他に伊達家に伝わるものもありまして・・・その包み紙には、伊達宗城の自筆により・・・「横田彦兵衛が撮影した」・・・と記されております。・・・このように、福井に伝わる肖像写真と伊達家に伝わる肖像写真が、同日に同じ人物らを撮影していることから、“結果として同じもの”と考えられるのです。・・・とすれば、より詳しい包み紙の記述から、福井市立郷土歴史博物館所蔵の肖像写真も、“徳川慶喜の命によって横田彦兵衛が撮影したもの”となります。
      ・・・そして、この「横田彦兵衛(※号は朴斎)」とは・・・横田家が、“京都二条城大手門前にて、朝廷への献上品などの取扱いをする家柄であったため、当然に将軍家などとの繋がりも深く”・・・それ故に、“この横田彦兵衛(※号は朴斎)は、明治維新以前からオランダ人から写真技術を学ぶことが出来る人物だった”と考えられ・・・また、後の明治期になると、現在の兵庫県神戸市中央区付近に当たる・・・“神戸元町の鯉川筋(こいかわすじ)において、実際に写真館を開業した人物”とされますが、これ以上のことは残念ながら分かりません。・・・しかしながら、横田彦兵衛(※号は朴斎)は、現実に、“幕末政局に大きな影響力を持つ4名を、写真の被写体とした”のです。
      ・・・ちなみに、“前述のイギリス人・サットンや、この条にある横田彦兵衛(※号は朴斎)が撮影した写真”は・・・いずれも、政局の転換時期に撮影されており・・・その内の何枚かは、版画という形に変換され、「ロンドン・ニュース」など海外の挿絵入り新聞に掲載されることとなりました。・・・それらは、版画への変換過程で幾分かの誤差が生じることはあったものの、文字だけでは望めない具体性を伴なっていたため・・・この時期にフランスへ赴いていた徳川慶喜の異母弟・昭武を迎えた現地の人々の間でも、具体的にイメージされ始めるのです。
      ・・・そして、この日の「四侯会議」では、いったい何が話し合われたのか? についてですが・・・彼ら四侯は、喫緊課題とされていた兵庫開港問題と長州藩処分問題を論じることとなります・・・が、“以前の大坂城における外国公使達との謁見の場において、徳川慶喜が兵庫開港を宣言したこと”に対して・・・そもそもは・・・“これを、明らかな朝命違反とする薩摩藩士らが追及し、徳川慶喜を窮地に追い込んだ上で、あわよくば政権そのものを、この四侯による会議制に変えてしまおうとする計画だった”とされます。・・・しかし、実際に行なわれた「四侯会議」では・・・“出席者達の労を労(ねぎら)うためとして、徳川慶喜が酒を振る舞っている最中、この会議の開催を呼び掛けた側である筈の徳川慶喜が、会議の流れや結論を変えようと仕掛けたのか? 次第に泥酔する呈となり・・・その勢いのままに、これらの論争に参戦すると・・・結果として、この四侯会議の主導権を握る格好で以って終了してしまい・・・薩摩藩士らによる当初の目論見については達成されずに終わってしまったのでした。
      ・・・“酔っ払いながらも論旨を貫き通すとは、徳川慶喜公の腹芸芝居だった”のでしょうか?・・・いずれにしても、この「四侯会議」の結果・・・“政治交渉による倒幕に限界を感じた薩摩などの討幕派達は、次第に武力討幕へ傾くことになった”のです。・・・尚、この時の「四侯会議」に「二条城」を使用したのは、あくまでも「議場」として利用しただけのことであって・・・徳川慶喜公が暮らす宿所としては、“相変わらず”の「若狭小浜藩屋敷(※若州屋敷とも)」です。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「フランス教育省」に対して・・・“徳川昭武のための教師派遣”・・・を「申請」する。・・・徳川昭武のパリ留学も、この遣欧使節団の渡航目的の一つでしたので。
      ※ 同年5月23日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「参内」し・・・“兵庫開港及び長州藩に対する寛大な処分に関する勅許”・・・を「奏請」する・・・と、この「朝議」は夜を徹した。・・・この時の徳川慶喜公は・・・先日行なわれた「四侯会議」から数えて約8日間を費やし、そこで導き出された基本路線を踏襲しつつ・・・も、依然として、兵庫開港に断固反対し、大の長州藩嫌いとなっていた朝廷から、如何にして勅許を下して頂くか? について、熟慮に熟慮を重ねて奏請したのでしょう。・・・いずれにしても、徳川慶喜公の粘り強い交渉能力については、疑うべきも無いかと。・・・ちなみに、“徳川慶喜が英・仏・米・蘭の公使らを引見し、勅許を得ぬまま兵庫開港すべき旨を声明した、同年3月25日の徳川慶喜の印象について”は・・・“イギリス公使のハリー・パークス”が・・・「今まで出会った日本人の中で最も優れた人物」・・・と語り、“絶賛していた”とのこと。
      ※ 同年5月24日:「朝廷」が・・・“将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)より奏請された件について”・・・を「勅許」する。・・・これにより、兵庫の開港については・・・「西暦1868年1月1日から」・・・との朝廷の許可が、ようやく得られた訳です。・・・“西欧列強から突き付けられていた期限の約半年前の勅許”となりました。・・・
      ※ 同年同日:「幕府」が、「朝廷」に対して・・・“15万俵を増貢すること”・・・を奏す。・・・同日の勅許に対する返礼かと。・・・尚、「俵」という単位になっておりますが、“貢がれる対象の産物”は「米」とは限りません。・・・米や、大豆、小麦などは、「 一俵 ≒ 60kg ≒ 一石 ≒ 金一両(名目レート)」という“通り相場”でした。・・・これが、馬鈴薯や大麦の場合には、「 一俵 ≒ 50kg 」となり、蕎麦の場合には、「 一俵 ≒ 45kg 」、木炭の場合には、「 一俵 ≒ 15kg 」となります。・・・いずれにしても、「15万俵」 とは、財政状況が厳しかった当時の幕府にとって、“破格の対応だった”と云えます。・・・洋式艦船だったら、いったい何隻買えたことやら。・・・
      ※ 同年5月26日:「幕府」が、「安芸広島藩」に対して・・・“長州藩を諭して、謝罪の嘆願書を提出せしめん”・・・と命じるものの、行なわれず。・・・このことは、広島藩の調停能力や意思に関わりなく・・・当時の長州藩にしてみれば、当然のことだったかと。・・・第2次長州征討戦では、薩摩藩などの協力を得て幕府諸軍を圧倒し、結果としても長州藩が勝っていましたから。・・・
      ※ 同年5月29日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「パリ万国博覧会・産業館」において・・・“出品物に対する賞牌授与式”・・・に「参列」する。・・・今に云う、「ゲスト・プレゼンター」だったのでしょうか?・・・

      ※ 同年6月2日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「パリ万国博覧会」を「一覧」し・・・「グランプリ牌」を受取る。・・・今に云う、“クール・ジャパン効果だった”のでしょうか?・・・当時のフランスとしても・・・“他の欧州諸国に対して、日本という極東の文化国が、今まさに開国したのは、フランスの影響があったればこそ”・・・と喧伝出来る訳ですし。・・・
      ※ 同年6月21日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「テュイルリー宮殿」の「フランス皇帝・ナポレオン3世」を「訪問」し・・・「ポルトガル王妃」と「面会」する。・・・何となく、西洋貴人達の社交場が、あちこちの宮殿だったことが分かります。・・・
      ※ 同年6月29日:「幕府」が、「国内事務総裁」や、「会計総裁」、「外国事務総裁」を「新設」し、これらと「陸軍総裁」及び「海軍総裁」に、“老中達”を「任命」する・・・とともに、“以前からの老中月番制”を「廃止」する。・・・これは、「慶應の改革」と呼ばれるものの一部です。・・・これにより、老中を専任の長官とする事実上の五局体制が確立された訳ですが・・・“この時、唯一総裁に任じられなかった老中首座・板倉勝静(※備中松山藩主)が五局を統括調整して首相役を務める事実上の内閣制度が導入されて、若年寄や三奉行以下の位置付けも大きく変更された”とのこと。・・・
      ※ 同年同日:「幕府」が、“勘定奉行並で関東在方掛(=関東郡代)の河津祐邦(※伊豆守とも、幕府旗本)”に・・・“安房国や、上総国、下総国、常陸国の支配”・・・を命じ・・・“その陣屋を、下総国布佐村(現千葉県我孫子市布佐)へ設けしむ”【綱要】・・・この「河津祐邦」は、前年の西暦1866年(慶應2年)9月19日以降に、安房、上総、下総、常陸国などの領主や寺社等を巡視し、各地の実態調査を行なっていましたので、このような具体的な話になったかと。・・・ちなみに、当時の下総国布佐村は、「旗本領」とされておりますので、領地の差配方法など・・・“幕政改革の一環として、いち早く着手出来た”のではないでしょうか?・・・そして、これまた当然に・・・当時の将軍・徳川慶喜から河津祐邦という人物が期待され、慶喜の意向も反映されていると想います。
      ※ 同年6月内:“同年5月1日に備前岡山へ赴いていた水戸藩士の藤田大三郎(※任三郎とも、藤田彪の三男、藤田健次郎の同母弟、藤田信の異母兄)ら”が、「帰京」する。【綱要】・・・“藤田大三郎ら本圀寺党”にすれば、兵庫開港問題が朝廷による勅許という格好で以って、前月に決着してしまい、失意の内での帰り道だったかと。・・・

      ※ 同年7月11日:“イギリス人のフレデリック・ウィリアム・サットンが撮影した写真を基とした、徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の肖像版画”が、「イラスト・レイテッド・ロンドンニュース」に「掲載」され・・・“その紙面”では、慶喜が「新しい将軍」として紹介される。・・・
      ※ 同年7月22日:「幕府」が、「陸軍奉行並・平岡庄七(ひらおかしょうしち)」に、「水戸藩政改革用掛」を命ずる。【綱要】・・・これは・・・尚も水戸で権勢を振るう諸生党の人々にしてみれば、“結構なインパクトを与えられていた”かと。・・・それは、水戸出身将軍・徳川慶喜が行なう幕府の軍制改革により任命された平岡庄七が、「陸軍奉行並」という肩書でしたから。・・・これは、“武力を以ってしてでも従わせるとの、将軍・慶喜の強いメッセージに他ならない”のでした。・・・
      ※ 同年7月23日:「幕府」が・・・“長州藩末家の吉川経幹(※周防岩国藩主)及び家老並1名を上阪させる旨”・・・の「命令」を、「安芸広島藩」に伝えさせる。・・・幕府としては、“長州藩が謝罪の嘆願書を提出しなければ、相当な人物を長州藩主親子の名代として上阪させ、釈明させよう”との思惑だったかと。・・・
      ※ 同年7月24日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「下阪」す。・・・
      ※ 同年7月25日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、“フランス公使のレオン・ロッシュ”を「引見」し・・・「仏艦」を「訪問」する。・・・徳川慶喜が前日に下阪した理由は、“このためだったよう”です。・・・将軍自ら、西洋の海洋・軍事技術が詰まった軍艦に乗艦していた訳です。・・・“百聞は一見に如かず”ということでしょうね。兎に角、古くからの仕来たりを壊して、改革を推し進める時代とは云え、かなり積極的な将軍だったことは間違いないかと。・・・これと同時に、いちいち中間管理職達を挟んで、何かと停滞するよりは・・・出来る限り即決で以って、スピード感をより重視するワンマン・タイプだったようです。・・・人によっては、短気に感じるかも。・・・
      ※ 同年7月26日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、“フランス公使のレオン・ロッシュ”を、再び「引見」する。・・・前日の仏艦訪問で、何かの疑問点を懐いたのでしょうか?・・・それとも、何かしらの質問に対する返答を、レオン・ロッシュに求めていたのでしょうか?・・・
      ※ 同年7月27日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、“イギリス公使のハリー・パークス”を、「引見」する。・・・この頃の徳川慶喜公は、英国と仏国の間を活発に動いているため・・・“西欧諸国から有利な条件を引き出すためとして、何らかの駆け引きをしていた”のでしょうか?・・・
      ※ 同年7月28日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「帰京」す。・・・

      ※ 同年8月6日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「パリ」を発ち、「スイス」に向かう・・・と、この日、「スイス・バーゼル」に「到着」する。・・・
      ※ 同年8月8日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“スイスの大統領”に「謁見」する。・・・
      ※ 同年8月14日:「元水戸藩士・原忠敬(※名は忠成とも、通称は市之進、号は伍軒、藤田彪の従兄弟)」が、「京都二条」の「官舎」において、“麾下の鈴木豊次郎(すずきとよじろう:※水戸藩出身の幕臣)と依田雄太郎(よりたゆうたろう:※水戸藩出身の幕臣)ら2名の士”によって、「斬殺」される。・・・尚、“豊次郎の兄・鈴木常太郎(すずきつねたろう:※水戸藩出身の幕臣)や、木村久之丞(きむらひさのじょう:※阿波国美馬郡貞光村出身、元新徴組世話役)、笠原八雲(かさはらやくも)、清水武二郎(しみずたけじろう)らの死について”が、“この事件の関連死”とされる。【綱要】・・・“この日に暗殺された原忠敬”は、西暦1863年(文久3年)に一橋徳川家を継いだ“一橋慶喜付きの家老”となりました・・・が、その後の1866年(慶應2年)12月に徳川慶喜が将軍に就任すると、“奥番格奥詰の幕府目付”となっています。
      ・・・そして、徳川慶喜と共に、薩摩や長州藩など諸藩の勤皇志士達の反対を押し切る格好で、兵庫開港の勅許を得ることになりますが・・・“そのことを尊皇攘夷思想が尊皇開国に傾いたためだ!”・・・と、憤慨する勤皇志士達も、数多くおり・・・結局のところ・・・この日、京都二条の官舎にて結髪中に、幕臣で、原忠敬の麾下にあった鈴木豊次郎と依田雄太郎に暗殺されたのです。・・・そして、原忠敬斬殺後は、二条城近くの板倉屋敷前において、鈴木豊次郎は切腹し、依田雄太郎は追手によって斬殺されました。・・・目的達成を知った豊次郎の兄・鈴木常太郎は、この板倉屋敷の邸主であった幕府老中・板倉勝静(※備中松山藩主)へ自首し、“その2日後に切腹”します。・・・木村久之丞については、「新徴組」の世話役を務めた人物であり、新徴組上層部を批判して謹慎とされるも、“この頃は新徴組を脱走していた”とのこと。
      ・・・ちなみに、依田雄太郎や、鈴木常太郎及び豊次郎兄弟と、木村久之丞ら4名については・・・幕臣の山岡高歩(やまおかたかゆき:※通称は鐵太郎、号は一楽斎、居士号は鉄舟、一刀正伝無刀流の開祖であり禅や書の達人だったとも)が、後の西暦1883年(明治16年)に開創した禅宗の全生庵(ぜんしょうあん:現東京都台東区谷中)に納めた『尊攘遺墨(そんじょういぼく)』と題される連名帳に、彼ら4名の名があり、且つ全生庵にある山岡高歩の墓の左脇に彼ら(暗殺者側)6名の墓がある”ため・・・“山岡高歩と同じく幕臣であり、山岡とともに「新徴組」の取締責任者であった高橋政晃(たかはしまさあき:※通称は精一、号は忍歳、後年の号は泥舟)ら当たりの2名が、原忠敬暗殺を唆(そそのか)したのではないか?” とも云われています。
      ・・・尚、依田雄太郎、鈴木常太郎、鈴木豊次郎の3名の墓は、京都東山の長楽寺(ちょうらくじ:現京都府京都市東山区八坂鳥居前東入円山町)のほかにも、水戸の「常磐共有墓地」にもあります。・・・また、ここにある笠原八雲と清水武二郎については、実際の役割などは不明とされています・・・が、ここにある原忠敬暗殺事件については、単に水戸藩出身者や所縁のある者達による尊皇攘夷と尊皇開国という二つの思想の違いに因るものと考えるべきなのか? 或いは、当時の水戸で行なわれてしまった粛清の嵐を発端とする私怨に因るものが大きく影響していたのか? ・・・非常に悩むところです。
      ・・・いずれにしても、幕臣・山岡高歩は、“後の江戸無血開城の直前”に、主君・徳川慶喜の依頼によって、官軍つまりは新政府軍の西郷吉之助(※後の隆盛)の陣中へ単身乗り込み、慶喜の恭順意思を伝えるなど、旧幕府側代表・勝義邦(※後に安芳と改名、通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)と新政府側・西郷吉之助(※後の隆盛)との最終会談の前交渉段階において、非常に大きな役割を果たすことになるのです。・・・そして、これも何故か?・・・上記の『尊攘遺墨』には、“真蹟ではない”とされるものの、連名書の署名に「坂本龍馬」の名を確認出来るそうです。・・・
      ※ 同年8月16日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「スイス・ベルン」を発ち、「オランダ」へ向かう。・・・
      ※ 同年8月20日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「オランダ国王・ウィレム3世」に「謁見」する。・・・
      ※ 同年8月27日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「ベルギー・ブリュッセル」に「到着」する。・・・
      ※ 同年8月28日:“フランス公使のレオン・ロッシュ”が、「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」へ、「政治改革意見書」を呈す。・・・現代ならば、内政干渉に当たるのでしょうが。あくまでも、「意見書」ということで。・・・このような、ロッシュ個人としての幕府に対する極度の肩入れは、フランス本国の意向を無視したものとなっていた模様です。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「ベルギー王・レオポルド2世」に「謁見」する。・・・
      ※ 同年8月内:“幕府が、武蔵国荏原郡駒場野(現東京都目黒区駒場付近)の一帯を上知(あげち:※幕府が大名や、旗本、御家人から、または大名が家臣から、それぞれの知行地を没収すること)し、撤兵伝習調練場にしようとしたため”・・・“現地の農民達”による「騒擾」が起こる。(=駒場野一揆)・・・この時、幕府が設置しようとしたのは、“フランス式の撤兵伝習調練場”です。・・・“この駒場野一帯”は、元々徳川将軍家の鷹狩場が設けられており、この地域に狩りの際に利用する馬を止める場所(=駒場)があったことが地名の由来とされています。・・・この駒場の北方一帯には、当時は農地よりも林地が目立っていました・・・が、幕府が構想した拡張範囲について、何らかの風説が拡がることとなり・・・農地を奪われることを恐れた周辺の農民達が一揆を起こして、番小屋を破壊するなどの行動に出たのです。
      ・・・幕府が、この一揆に対応するためとして、上知地域選定の変更を検討したことを示す史料もあります・・・が、この後に、幕府による「大政奉還」があったため、フランス式伝習調練場計画は実現せず・・・結局のところ・・・この騒擾や一揆の始末については、ハッキリしないまま終息してしまったようです。・・・しかし、この騒擾や一揆については、当時の幕府の衰退ぶりを示す事件として、目黒区や、渋谷区、世田谷区の歴史として記されております。

      ※ 同年9月2日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「写真撮影」した後に、“ベルギー・ブリュッセル市内”を「遊覧」し・・・この夜、「観劇」する。・・・
      ※ 同年9月6日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「ベルギー王・レオポルド2世」から、“テルヴューレンにおける狩猟”に「招待」される。・・・当時の武士達の嗜(たしな)みが「鷹狩り」だとすれば、西洋の紳士達の嗜みは「ハンティング(≒鉄砲や猟犬などを用いる狩猟)」ですよね。・・・
      ※ 同年9月9日:「幕府」が・・・“関八州における酒造貸株を停止して、其の他各地における醸造高を1/3に減石せしむ”・・・と令す。【綱要】・・・米不足や一揆騒動への緊急対策として、株取引を停止し、醸造高をも減石したのです。・・・ちなみに、「醸造高」としていますので、今回の命令については・・・「酒造」だけではなく、「お酢」や「醤油」などの“醸造関連品など”も含んでいるかと。・・・とすれば、我々現代人が、滅多に経験することがないような、もの凄い米不足だったかと。・・・或いは、軍糧米の確保のため?・・・
      ※ 同年9月12日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「フランス・パリ」へ戻る。・・・この時の徳川昭武公は、ようやく欧州歴訪を一段落させて、遣欧使節の目的の一つとされる、“パリ留学生活に入ることになる”のでしょうか?・・・
      ※ 同年9月19日:「幕府」が、“在京する水戸藩家老の大場景淑(※通称は弥右衛門、号は一真斎)ら”に・・・“本圀寺詰の諸藩士に、九門の内外を巡邏(じゅんら:※警備のため見回って歩くこと)せしむ事”・・・を命じる。【綱要】・・・「本圀寺詰の諸藩士」とは、その主体は・・・当然に水戸藩の本圀寺党のことですが、「諸藩士」というのが気になります。・・・もしかすると、水戸藩の支藩出身者達も参加していたのでしょうか?・・・しかも、この本圀寺党に対して、朝廷ではなく・・・“幕府が、禁裏九門の内外を巡邏せよ”と。・・・つまりは、“将軍・徳川慶喜からの指示”に他なりません。・・・これには、“薩摩藩や長州藩などによる朝廷工作から、明治天皇&その側近達を遠ざける”という意図があったのでしょうか?・・・
      ※ 同年同日:“長州藩士の木戸孝允(※改名前は桂小五郎)など”が、「山口」において、「薩摩藩士・大久保利通(※通称は一蔵、正助とも、改名前は利済)」と「攻守同盟」を約す。(※『慶喜公伝』より)・・・『慶喜公伝』に記されているということは・・・それまでは、密約成立か? との認識だった「薩長同盟」が・・・“徳川慶喜公側に確実視される結果になった”とのことでしょう。この日、山口から詳細な情報とともに徳川慶喜公に届けられた訳です。・・・
      ※ 同年9月20日:「安芸広島藩士・植田乙次郎(うえだおつじろう:※通称は別に与右衛門、鷺之助、吉輔など)」が、「山口」を訪れて、「長芸出兵盟約」を「締結」する。・・・これにより、討幕に向けて、薩摩、長州、安芸広島の三藩軍事同盟が成立したのです。・・・広島藩は、これまで幕府から幾度か長州藩への仲介役とされていましたが、どうにも消極的な様子でありまして・・・それに、藩主・浅野長訓も、名君として慕われ、自藩の洋式軍制への変革も比較的早期に取り組んでいた人物でしたから。・・・いずれにしても、これら三藩は、洋式軍制や軍装を持つ強力な軍隊を、着実に整えていた訳です。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「パリ」を発ち、「イタリア」へ向かう。・・・徳川昭武は、約一週間・・・パリにおける留学の準備は進められたのでしょう・・・が、実際に留学生活に移行することは出来ずに、今度はイタリアへ・・・。
      ※ 同年9月21日:「朝廷」が、「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭の七男)」を「内大臣」に任じる。“右近衛大将は元の如し”・・・「徳川慶喜」は、この月に、正式に「二条城」へ移る。・・・ようやく、この同年9月21日以降の時点で・・・徳川慶喜公は、京都における宿所を、若狭小浜藩屋敷(※若州屋敷とも)から二条城へと移したのです。
      ※ 同年9月23日:「幕府」が、“フランス式軍事教練の成果に満足し”・・・“軍事顧問団・団長シャルル・シャノワーヌ参謀大尉”に宛てて・・・“陸軍奉行並・石川総管(いしかわふさかね:※通称は若狭守、常陸下館藩主)及び浅野氏祐(あさのうじすけ:※通称は伊賀守、幕府旗本出身の若年寄)の連名による感謝状”・・・を送る。・・・しかし、翌10月には「大政奉還」が、慶應4年1月には「鳥羽伏見の戦い」が勃発することとなり・・・結局のところ・・・仏国軍事顧問団による軍事教練としては、1年強という期間で終了されることとなります・・・が、“フランス軍人の一部には、後の箱館・五稜郭(現北海道函館市五稜郭町)が陥落する直前時期まで、旧幕府軍と行動を共にしていた者もあった”とのこと。・・・
      ※ 同年9月24日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「イタリア・フィレンツェ」に「到着」する・・・と、“駅からホテルまでの歓迎式典あり”・・・なかなかの熱烈歓迎ぶりだったようですね。・・・
      ※ 同年9月27日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「イタリア国王・エマヌエーレ2世」と「面会」し・・・この夜、「観劇」する。・・・

      ※ 同年10月2日:“これより先の紀伊藩主・徳川茂承(とくがわもちつぐ)”は、「幕府」に対して・・・“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の謹慎を解かんとすること”・・・を、請う。・・・この日また、“徳川茂承の老臣・三井備後守(みついびんごのかみ)”が、「幕府老中・稲葉正邦(※山城淀藩主)」に「謁見」し・・・“重ねて、これ”を請う。・・・国体の護持や幕府の権威を取り戻すためには、“徳川家が一つに纏まらなければならない時期である”との判断だったからかと。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「イタリア・ミラノ」において、「イタリア王子」に「面会」する。・・・「イタリア王子」の名が記されていないようで・・・東洋の島国・日本から来た貴公子としては、曖昧、且つただ漠然とした記憶だったのでしょうか?・・・それとも、名を明かさない方が良いとの判断からか?・・・そもそも、「イタリア・ミラノ」の何処で会ったのか?・・・勝手に想像は膨らみますが、ここは謎としておきましょう。
      ※ 同年10月3日:「前土佐藩主・山内豊信(※号は容堂)」が、「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」へ・・・“政権奉還の建議書”・・・を呈す。・・・“新しい時代の扉が開いた”ということなのでしょうか?・・・いずれにしても、“当時の徳川慶喜公は、このような事態となることを、あらかじめ想定し、且つ準備していた”とは想います。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「イタリア・フィレンツェ」に「到着」する。・・・
      ※ 同年10月8日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「イギリス艦」に「乗船」し・・・「マルタ島ヴァレッタ港」へ向かう。・・・
      ※ 同年10月11日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「マルタ島ヴァレッタ港」に「到着」し・・・“そこの軍事施設”を「見学」する。・・・「そこの軍事施設」とは、おそらく・・・造船所などを併設した、当時の軍港だったかと。・・・すると、この時の徳川昭武は、上記にある「イタリア王子」から、“もし興味があったら、マルタ島でも見に行ったらどう?、○○○○○を紹介するよ!”などという話を受けた可能性も?・・・
      ※ 同年10月13日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、“在京の諸藩主及び重臣達”を、「二条城」に召し出し・・・「幕府老中」に、“政権奉還の決定”を告げさせて、「意見」を徴(ちょう:※要求すること)す。・・・これが了(おわ:=終)ると、“薩摩藩士・小松清廉(※通称は尚五郎、後に帯刀、前名は肝付兼戈)や、土佐藩士・後藤正本(ごとうまさもと:※後の元曄、通称は象二郎、号は暘谷、雲濤、光海など)など6名”を「引見」する。・・・これが、かの有名な「大政奉還」の場面と、その直後についてです。教科書や参考書にも、挿し絵として載っていますね。・・・いずれにしても、前土佐藩主・山内豊信(※号は容堂)より直接的に建議されてから数えて、10日後のこととなります。
      ・・・ちなみに、この10日間については・・・徳川慶喜公が、この決定を磐石にするための、云わば「根回し期間」として適宜活動していたと考えられます。・・・故に、討幕派と目される薩摩藩士・小松清廉(※通称は尚五郎、後に帯刀、前名は肝付兼戈)が筆頭に引見され・・・次に、政権奉還の建議書を呈した土佐藩士・後藤正本(※後の元曄、通称は象二郎、号は暘谷、雲濤、光海など)が引見されているのかと。・・・よって、“この時に徳川慶喜公から引見された6名”は・・・“それぞれ温度差や最終到達点に多少の違いはあれ、可能な限り早く大政奉還を成就させて、徳川家を政権中枢から外すという狙いでは一致していたこと”が分かります。・・・それにしても、当時の薩摩藩士・小松清廉としては、本当に将軍・徳川慶喜が大政奉還を断行してしまい(※あくまでも、大政を朝廷から預かる幕府側における決め事としてですが)・・・正直なところ・・・“泡を喰って驚いた”・・・のではないかと。・・・
      ※ 同年同日:「前右近衛権中将・岩倉具視(※号は対岳)」が、“薩摩藩主親子”へ宛てて、「討幕の密勅」を、「同藩士・大久保利通(※通称は一蔵、正助とも、改名前は利済)」へ「手交」する・・・とともに、“長州藩主親子に対する官位復旧の宣旨”を、「長州藩士・広沢真臣(※通称は兵助、号は障岳、向山とも)」へ「手交」する。・・・岩倉具視ら討幕派の人々は、二条城における政権奉還の決定の報せを受ける・・・と、“その同日に、慌てて討幕の密勅やら、朝敵とされていた長州藩主親子の復権に関する文書を発した”のでした。・・・ちなみに、岩倉具視(※号は対岳)が長州藩へ手交した文書は、あくまでも長州藩主親子に対する官位復旧の宣旨ですが、この時既に討幕のための薩長同盟が成立していましたので・・・当然に文書としても、“GOサイン”となる訳でして・・・つまりは、長州藩に対しても「討幕の密勅」が下されたということに他なりません。・・・
      ※ 同年10月14日:「高家旗本・大澤基壽(おおさわもとひさ、おおさわもととし:※名は基輔とも、通称は七助、采女)」が、“将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の命”により、「大政奉還の上奏文」を、「朝廷」へ「提出」し・・・“奉還せんこと”を請う。・・・奇しくも、“討幕の密勅が発せられた翌日の出来事”でした。・・・
      ※ 同年10月15日:「朝廷」が、“大政奉還について”を許す。(=大政奉還)・・・この当たり、“朝廷が勅許を下す素早さについて”は、如何に考えるべきなのでしょうか?・・・やはり、摂政・二条斉敬(※徳川慶篤や徳川慶喜らの従兄弟)の存在が大きかったかと推測出来ます。・・・何の見込みも無いままで、徳川慶喜公が大政奉還を、一方的に決定してしまうとは考え難いので。・・・
      ※ 同年10月17日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が・・・“朝召を蒙(こうむ)る諸大名が上京するまでの期間は、在京の諸大名及び藩士を召し出して衆議を尽くさんとすること”・・・を「建議」する。・・・結局のところは・・・“各藩にて、それぞれ話を纏(まと)めておくように”とのお達しだったかと。・・・また、この時点では、「将軍・徳川慶喜」としてのリーダーシップについては健在だったことも分かるかと。・・・しかし・・・このことが、討幕に決していた薩長同盟の当事者達から観ると、とてもじゃないが許容出来る筈も無く・・・。
      ※ 同年10月20日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「参内」して・・・“(朝廷による)御委任の権限についての八箇条から成る伺書”・・・を「提出」する。・・・“江戸幕府(≒徳川幕府)としては、朝廷から約260年間も政治を与(あずか)っていた訳ですから、古くからの仕来たりを変更するためには、大別しても八つの課題があり、それをまた指摘或いは質問させて頂いた”ということでしょう。・・・然(しか)るに・・・“朝廷の背後に暗躍する公家衆や薩長同盟に関係する者達よ、如何に返答するのか?”・・・と。・・・
      ※ 同年同日:「幕府」が、“関東諸国の御用金献納者に対して、献納高と同額の金札”を「交付」し・・・“その通用”を「布告」する。・・・このように、当時の幕府は、全国規模の大政については朝廷に奉還してはいても、尚も関東諸国の領地等における管轄権などを保有し・・・現に、このような通達をしていました。・・・しかしながら・・・現実に、金・銀・銅などの貴金属を含む小判や銭を回収することに励みながらも、これと同額の紙幣を世間に広く供給しようとはするものの・・・後に幕府そのものが無くなってしまうと・・・当然に、“これらの紙幣は、小判や銭との交換した証文という価値しかなく・・・結局のところは、“ただの紙切れとなってしまう運命なのです”が。・・・これについては・・・“たとえ、そうなるだろうとは分かってはいても、何が何でも当時の幕藩体制を護持したいと願う人々が、関東圏に相当数居た”という推測は出来ますね。・・・
      ※ 同年10月21日:この日、“討幕の実行延期に関する沙汰書”が、発せられる。・・・この沙汰書を発行した主体は? と云うと、当然に・・・明治天皇の内意を汲んだ側近達ということなのでしょう。つまりは、摂政・二条斉敬(※徳川慶篤や徳川慶喜らの従兄弟)や、前右近衛権中将・岩倉具視(※号は対岳)などのことかと。・・・いずれにしても、これによって、岩倉具視が同年10月13日に発していた「討幕の密勅」の実行についてが、“事実として、取り消されていた”と考えられます。・・・また、この時既に、幕府が政権を朝廷に返上していたため、“討幕の意味さえも失なった”ことにより・・・“当時の薩摩藩側も、実際に工作中止命令を江戸・薩摩藩邸(現東京都港区芝5丁目のNEC本社ビル辺り)に伝えていた”とのこと。・・・
      ※ 同年10月23日:“尾張や、紀伊、水戸、福井、肥後熊本、肥前佐賀、筑前福岡、因幡鳥取、阿波淡路徳島、伊勢津、近江彦根、陸奥仙台の諸藩と、其の他徳川氏の一門、譜代諸藩の重臣ら”が、「京都・円山」に会して・・・“外交措置に関する朝裁について”・・・を「協議」する。【綱要】・・・このように大規模集会が持たれた理由は、“この3日前”に、将軍・徳川慶喜が八箇条の伺書を提出した後に、“朝廷から何らかの回答があった”ため・・・それらを実行するためには、具体的にどうしたら良いか? を検討し、且つ誰が、どのような立場や権限を以って行なうのか? などを協議していたのでしょう・・・が、いったい誰が、この協議自体を主導して、また何らかの結論を見出すことが出来たのか? については、かなりの疑問が残りますし・・・この協議自体も、相当に紛糾していたとは想像出来るのですが・・・。・・・そういえば、かつても・・・「京都・円山」では、尊皇攘夷の実行について、会合が持たれていたような気がしますけど?・・・
      ※ 同年10月24日:「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「朝廷」へ・・・“将軍職の辞表”・・・を呈す。・・・あくまでも、“征夷大将軍職の辞任を認めて欲しいとの願いをした”ということであって・・・この後暫らくは、朝廷からの許しが出ない状況が続きます。・・・時の朝廷としては・・・国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付きながら、緊急政務の処理を引き続き徳川慶喜に委任し、将軍職についても暫時従来通りとしたのです。・・・一方の徳川慶喜公の目的からすれば、“公議政体論のもとで、徳川宗家当主たる自分が、首班となる新体制を作り上げることにあった”とも云われますが。・・・いずれにしても、“朝廷が大政奉還についてを許してから9日後のこと”であり・・・そして、“京都・円山における大集会の翌日のこと”でした。・・・ちなみに、この時、徳川慶喜は、数えで31歳。
      ・・・尚、本ページでは、徳川慶喜公が朝廷から征夷大将軍職の辞職を認められる同年12月9日までを、「将軍・徳川慶喜」と表記し・・・同様に、同年12月9日まで江戸や関東地方を治めていた政体組織を、これまで通り「幕府」と表記することに致します。
      ※ 同年同日:「幕府」が、“老中格兼陸軍総裁・松平乗謨(※後の大給恒、三河奥殿藩及び信濃田野口藩主)や、老中格兼海軍総裁・稲葉正己(いなばまさみ:※安房館山藩主)、若年寄兼会計奉行・永井尚服(ながいなおこと:※美濃加納藩主)、若年寄兼陸軍奉行並・石川総管(※通称は若狭守、常陸下館藩主)ら”に、「上東」を命ずる。【綱要】・・・“上東を命ずる”とは、“江戸へ上れとの命令”です。・・・彼らの肩書きから察するに・・・“当然に、それなりの武装や軍艦などを伴なった江戸への帰府(=江戸行き)であり、少々キナ臭くなっていた様子”が窺えます。・・・京都を中心とする畿内から、幕府の軍事力が減る代わりに、薩長などの討幕派とされる軍事力が増す筈ですから。
      ・・・しかし、同日に将軍・徳川慶喜が将軍職の辞表を提出していますので、当時の徳川慶喜公からすれば・・・文字通りに、“夷(えびす)を征するために、天皇や朝廷からの与えられている軍事力なのだから、もはや畿内に留まっている必要性は無く、江戸に戻って準備に取り掛かれ!”・・・との意図もあり・・・また、薩長同盟を推す公家衆へ、現実というものを知らしめるためのデモンストレーション的な意味もあったかと。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「フランス・パリ」に「到着」する。・・・今度こそ、バリ留学生活に入ることが出来るのでしょうか?・・・
      ※ 同年10月内:“庶民ら”が、鳴物入りにて「街中」を騒ぎ回り・・・「ええじゃないか!」等と連呼しながら、集団で町々を巡る熱狂的な民衆運動が、東海道や、江戸、京畿などの各地方へ拡大する。・・・前ベージにある「世直し一揆」が、更に炎上していた様子が・・・。
      ※ 同年10月内:「大坂城代・牧野貞直(※別名は貞明や貞利とも、常陸笠間藩主)」が、「丹波福知山藩」に対して・・・“安治川(あじがわ:現大阪府大阪市西区の河川)の警守や、其の警守においては川尻(かわじり:※川が海に注ぐ辺り、河口付近のこと)についてを無用とする事、且つ諸の川を通航する船舶については警戒を厳とする事など”・・・を、令す。【綱要】・・・この条は・・・東海道や、江戸、京畿などの各地方において、いわゆる“ええじゃないか騒動”が、この時期に活発化していたために、当時の責任ある立場の人々が、如何に対応したかを物語っております・・・が、そもそもの話として・・・“時の討幕派が、国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦だった”との説もあります。・・・ちなみに、後の同年12月13日には、ここにある丹波福知山藩が、自藩士を京都へと派遣し、幕命(※旧幕命か?)により、旧京都所司代邸の警備に当たることとなります。・・・
      ※ 同年10月内:「在京薩摩藩士・西郷吉之助(※後の隆盛)」が、“同藩士の益満休之助(ますみつきゅうのすけ)や、伊牟田尚平(いむたしょうへい)、小島将満(こじままさみつ:※通称は四郎左衛門、変名は相楽総三、村上四郎とも、下総国相馬郡出身郷士の四男)ら”を集めて・・・“江戸・薩摩藩邸を拠点とする討幕派浪士らの集団”を「結成」させる。・・・ここで結成された浪士集団は、西郷吉之助(※後の隆盛)から・・・“江戸や関東各地を攪乱するように”・・・との密命を帯びていたのです。・・・将軍・徳川慶喜が大政奉還したことにより、武力討幕計画の大義名分を失なった薩摩藩は、幕府側を挑発することによって、相手方から先に戦端を開かせようと画策していた訳です。・・・後に、“関東各地の尊皇攘夷派に顔が利く小島将満が、檄を飛ばして浪士達を募ると、500名ほど集まった”と云います。
      ・・・しかし、“その中には、高い志を持つ者も居たものの、博徒などの無頼の徒が混じっており、まさに玉石混交の集団だった”とのこと。・・・また彼らは、江戸薩摩藩邸内の「糾合所(きゅうごうしょ)」と呼ばれる学校の建物を屯所としたため、「糾合所屯集隊」と呼ばれたり、当時一般には「薩摩御用盗(さつまごようとう)」と呼ばれ、恐れられていました。・・・これは、“彼ら薩摩御用盗”が・・・薩摩藩士の益満休之助から、小島将満への指示が出されると、決まって夜毎に薩摩藩邸を発ち、大政奉還をして自重していた幕府に対する挑発活動をして、“新たな討幕の勅命を得るため”として・・・または、“勤皇活動費を得るため”と称して、豪商の店に押込み強盗を働き・・・更には、辻斬り、放火と江戸市中を暴れ回ったからでした。・・・但し、“彼ら薩摩御用盗”にも、一応の掟(=ルール)はあって、“その襲撃対象は、幕府を支援する御用商人や、挑発活動を妨害する警察組織、貿易商人などに限られていた”とも、云われますが。
      ・・・現代人からすると、身勝手な理屈に感じますが、彼らには・・・“尊皇攘夷運動の讐敵(しゅうてき:※恨みのある相手、仇敵のこと)を誅戮するという大義名分があった”とされます。・・・しかし、いつの間にやら・・・「攘夷」が「討幕」に、置き換わってしまったのです。・・・いずれにしても、“彼ら薩摩御用盗の挑発活動によって、江戸の治安は極度に悪化していた”とのこと。・・・尚、この浪士集団結成の当初の目的は・・・あくまでも、“先々代将軍・徳川家定の未亡人となり、この時も江戸城内に暮らしていた天璋院(てんしょういん:※落飾前の篤姫)の護衛のため”とされていましたが。・・・

      ※ 同年11月6日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「イギリス」へ向けて「出発」する。・・・またしても、本格的なパリ留学生活に移行することが出来なかった模様。・・・
      ※ 同年11月7日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「ドーヴァー海峡」を「横断」し・・・「イギリス・ロンドン」に「到着」する。・・・
      ※ 同年11月9日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「汽車」に乗り、「ウィンザー宮殿」へと向かい・・・「イギリス・ヴィクトリア女王」に「謁見」する。・・・そうですか。産業革命の象徴とも云うべき、本物の汽車に乗りましたか。模型大の蒸気機関車ではなく・・・
      ※ 同年11月15日:“土佐脱藩郷士の坂本直柔(※通称は龍馬)と中岡道正(※通称は慎太郎)”が、「京都・河原町」の「近江屋邸」にて、「刺客」に「襲撃」され・・・「斬殺」される。(=近江屋事件)・・・当時の「近江屋」は、“由緒ある醤油商”であり、所在は現在の京都府京都市中京区塩屋町(河原町通り沿い)。“この時の坂本直柔らが軍鶏(しゃも)鍋を食べようとしていた矢先という話”は有名ですね。・・・ここにある「刺客」については、諸説ありますが・・・「京都見廻組」という説が有力でしょうか?・・・ちなみに、この斬殺事件直前期の同年11月上旬には、「新政府綱領八策」を起草して、“新政府の中心たる人物の名を、故意に「○○○自ら盟主と為り」と空欄にしておいた”とか。・・・この○○○の処に誰が当てはまるのか? ということについても、様々な説があるようですが・・・。
      ・・・「土佐」と云えば、この坂本直柔らだけでなく、前藩主・山内豊信(※号は容堂)や、藩士・後藤正本(※後の元曄、通称は象二郎、号は暘谷、雲濤、光海など)などが、「大政奉還」に深く関わっており・・・どうしても・・・。
      ※ 同年11月22日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)率いる遣欧使節団”が、「イギリス・ドーヴァー港」を発ち、「フランス・カレー」を経て・・・「パリ」へ戻る。・・・「戻る」と、ありますので・・・この時の徳川昭武は、今度の今度こそ?・・・
      ※ 同年11月23日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“留学に専念し始めて”・・・「乗馬」を「日課」とする。・・・ようやく、本格的な留学生活に入れたようです。・・・ちなみに、ここにある「乗馬」とは、西洋馬術のこと。・・・馬の扱いで、日本の古式馬術との大きな違いは、鐙(あぶみ)への両足の掛け方でしょうか?・・・西洋馬術では、両足の踵(かかと)に重心を置いて、馬の横腹部分を蹴りますが・・・日本の古式馬術では、両足のつま先部分に重心を置いて、どちらかと云うと馬の脇腹部分を蹴るのです。・・・したがって、鐙そのものの形状も、かなり異なりますが・・・これも、山間部を多く含む日本列島に適した馬術として育まれて来たためと考えられます。
      ※ 同年11月25日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“乗馬用の馬”を「購入」し、「洋服」を着始める。・・・和装から洋装へ。・・・頭髪、つまりはチョンマゲ部分は、おそらく、この頃はまだ従来通りであり、“左腰の二本差し”については?・・・
      ※ 同年同日:“薩摩御用盗の上田修理(うえだしゅり:※本名は長尾真太郎とも、武蔵国豊島郡青山出身の徳川家鷹揚鳥見役・秋庭三左衛門の伜とも)を隊長とする十数名”が、「甲府城(現山梨県甲府市丸の内1丁目)攻略」を「計画」する・・・も、「八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)」によって、“この計画”が「露見」し・・・この日、「撃退」される。(=薩摩御用盗による甲府城攻略失敗)・・・“この甲府城攻略計画を阻止した”とされる「八王子千人同心」とは、武蔵国多摩郡八王子(現東京都八王子市)に配置された郷士身分から成る幕臣集団であり、その主な任務は甲州口(武蔵と甲斐の国境)の警備と治安維持とされていました。
      ・・・この事件では・・・まず、隊長の上田修理や、富田弥十郎(とみたやじゅうろう)、堀秀太郎(ほりひでたろう)、植村平六郎(うえむらへいろくろう)、加藤隼人(かとうはやと)、神田湊(かんだみなと)、安田丈八郎(やすだじょうはちろう)、笹田宇十郎(ささだうじゅうろう)、下僕の重助(じゅうすけ)、原宗四郎(はらむねしろう)、柴生健司(しのうけんじ)らが、江戸・薩摩藩邸を出発し・・・途中の八王子に到着する・・・と、妓楼とされていた「千代佳」と「壺伊勢」を宿としました。・・・しかし、ここで、「甘利建次郎(あまりけんじろう)」という「八王子千人同心」が登場するのです。・・・実は、この「甘利建次郎」とは、“上田修理らとともに八王子宿まで同行していた原宗四郎その人”でした。・・・この時の甘利建次郎は、変名を「原宗四郎」と偽り、幕府の間諜として(※今に云う、潜入捜査です)、関所があった駒野木駅(こまぎののうまや:現東京都八王子市付近)の鈴木金平(すずききんぺい)ら農兵隊の首領へ支援を要請する・・・と、「千代佳」を強襲して、ここで富田弥十郎や、植村平六郎、堀秀太郎、下僕の重助らが討たれます。
      ・・・甘利建次郎達は、次に「壺伊勢」へ斬り込みました・・・が、“上田修理と神田湊の2名は負傷するも、加藤隼人や、安田丈八郎、笹田宇十郎らの襲撃者達と共に、辛くも江戸・薩摩藩邸に逃げ込むことが出来た”とのこと。・・・いずれにしても・・・薩摩御用盗が、たった十数名で以って甲府城を攻略しようとしていたとは?・・・おそらくは、彼らとしても、本当に甲府城を攻略出来るという確信は無く、実際の甲府城における防御施設や警備体制を決死覚悟で調査し・・・得られた情報を、これまた決死覚悟で江戸・薩摩藩邸に持ち帰る事が主目的だったかと。後の討幕へ繋げるためとして。・・・兎に角、“この頃は、不穏な出来事だらけ”と云った様相であり・・・また、かつての戦国時代に負けず劣らず、いわゆる忍者集団が活躍の場を広げていた様子も感じられますね。・・・
      ※ 同年11月26日:「幕府」が、「老中・稲葉正邦(※山城淀藩主)」に対して、「水戸藩用掛」を命じようとする・・・も、この日、「稲葉正邦」は「書状」を上げて、“これを辞す”【綱要】・・・“厄介な事態に至った水戸藩について、責任を預けられようとした事を嫌った”のでしょうか?・・・
      ※ 同年同日:“在京の陸奥会津藩士”が、“水戸や、備前岡山、肥前島原、陸奥盛岡、石見浜田、陸奥仙台の諸藩士”と会して・・・“時事を議す”【綱要】・・・この条の中にある盛岡藩(※藩主は南部氏)と仙台藩は、ともに外様雄藩であり、この当時の仙台藩主は、「伊達宗敦(だてむねあつ)」。この「宗敦」は、かつての「四侯会議」に参加した伊達宗城(※前伊予宇和島藩主)の次男、若しくは五男と伝えられる人物です。・・・そして、水戸藩や備前岡山藩については、既にご承知の通りであり・・・残る肥前島原藩と石見浜田藩については・・・実はこれも、それぞれの藩主が故徳川斉昭の遺児であり・・・島原藩主・松平忠和(まつだいらただかず)は、故徳川斉昭の十六男。・・・石見浜田藩主・松平武聰(まつだいらたけあきら)も、故徳川斉昭の十男。・・・つまりは、盛岡藩と仙台藩を除けば、どの藩も・・・藩主達が、この頃の水戸藩主・徳川慶篤や、将軍職の辞任を要求していた徳川慶喜の異母弟なのです。
      ・・・いずれにせよ、この条は・・・この日以後に起こり得ると想定された「戊辰戦争」への準備が話し合われていた模様を伝えているのです。・・・
      ※ 同年同日:この日、「イラスト・レイテッド・ロンドンニュース」が・・・「徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)が、将軍の後継者となるに違いない」・・・と報じる。(※西暦1867年12月21日付)・・・“当の本人は、そのような気は全く無かった”とは想いますが・・・。
      ※ 同年11月27日:“在京する水戸藩家老・大場景淑(※通称は弥右衛門、号は一真斎)や、水戸藩士の野村鼎実(※通称は彝之介、号は清籟舎、箕水とも、奥右筆頭)、長谷川允迪(※名は後に清とも、通称は作十郎、号は艮山、青水とも、藩校・弘道館の元舎長)”が、「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」に「謁見」して・・・“藩惜(はんせき)の念”・・・を訴える。【綱要】・・・ここにある「藩惜の念」とは・・・つまりは、“当時の水戸藩のみならず全国的な惨状と相成り、水戸藩が藩是(はんぜ)としていた攘夷決行が遠のく状況について嘆きつつも、尚も故徳川斉昭の遺志を全うすべきと、故徳川斉昭の遺児たる徳川慶喜へ、ただひたすらに訴え掛けていた”と想うのですが・・・。
      ※ 同年11月29日:「幕府」が、「関八州」に対し、“免許鑑札更新のためとして”・・・“醤油や、味噌、酢、酒類の造石高及び売捌(うりさばき)石数などの取調べについて”・・・を命ずる。・・・当時は、“醤油や、味噌、酢、酒類の醸造販売が、免許制であったこと”・・・が分かると同時に、“幕府が、これらの生活必需品の詳細な流通実態を把握したかった”という切迫状況も感じ取れるかと。・・・
      ※ 同年11月30日:「大坂城代・牧野貞直(※別名は貞明や貞利とも、常陸笠間藩主)」が、“長州藩兵が摂津国下村(現兵庫県神戸市西区平野町下村)に陣するとの報”を聞き、“大坂を警守する諸藩に対して、兵を備えるよう内命した”ものの・・・次いで、“これ”を止める。【綱要】・・・?・・・牧野貞直が、“ある噂を聞き付けて、長州藩による進攻に備えようとした”と? そして、”この情報についてを判断し直して、結局は止めた”と?・・・このような具体的な噂については、討幕派から意図的に流布されていた可能性が強く、当時の大坂城代・牧野貞直が一時信じて踊らされるのも、致し方ない事かと。・・・いずれにしても、“まことしやかな噂が数多く流布された上に、ええじゃないか騒動が全国規模に拡大していたこと”も、ほぼ明らかなので・・・。

      ※ 同年12月3日:「朝廷」が、「将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」に命じて・・・“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の上京”・・・を促す。【綱要】・・・ようやく朝廷の勘気が和らいだのか?・・・それとも、“兎に角、申し開きするために上京せよ!”とのことだったのか?・・・いずれにしても、“物騒な噂が飛び交う当時の近畿地方へ、水戸藩兵を伴なって朝廷を警護せよ!”という催促に等しいかと。・・・徳川慶喜公のほかには・・・朝廷が頼りとする若き武将・徳川昭武は、遠くフランスにて留学中でしたから。・・・尚、この時期では、まだ・・・“徳川慶喜公のことを「将軍」として、朝廷が手離さなかったこと”も分かります。・・・
      ※ 同年12月6日:「幕府」が、“因幡鹿奴(しかの)藩主・池田徳澄(いけだのりずみ:※鹿奴藩は鳥取藩支藩)が朝覲(ちょうきん:※諸大名などが参内して天皇などに拝謁すること)するを以って、其の江戸城・鍛冶橋門警守を止めさせる”・・・と、“常陸谷田部藩主・細川興貫(ほそかわおきつら:※後の下野茂木藩主)が、同城呉服橋門(ごふくばしもん)内の非常警備を止めさせるを以って”・・・“これ”に代える。【綱要】・・・呉服橋門の正式名称は、「呉服橋見附門」。この「呉服橋見附門」は、“濠の外域に幕府御用達の呉服商が多く住んだために名付けられた”とのこと。所在は、現在の東京駅北側方面の呉服橋交差点辺り。・・・いずれにしても、当時の幕府としては、それまで慣習として決められていたお役目について、ただ諸藩に続けさせるのではなく・・・“諸事情に鑑み、臨機応変に対応していたこと”が分かります。
      ※ 同年同日:「ベルギー国王・レオポルド2世」が、“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)への贈物”として、「二連式銃」を届けさせる。・・・この時の徳川昭武は、かなり人気のある貴公子として、西欧諸国から厚遇されていた様子が分かります。・・・この時に送られた「二連式銃」も、“紳士の嗜(たしな)みとして利用するハンティング用であった”かと。・・・いずれにしても、この時の徳川昭武は、数えで16歳。・・・
      ※ 同年12月7日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「フランス・テュルリー宮殿」において、「皇帝・ナポレオン3世」に対し、“年賀の挨拶をする”・・・とともに、“兄である将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)と昭武本人が撮影された写真”を贈る。(※この日は西暦1868年1月1日)・・・このように、当時の西欧社会では、“君主自らが撮影された写真や、君主自らを刻印した硬貨(=コイン)などを、遣り取りする外交儀礼があった”とのこと。
      ※ 同年同日(=西暦1868年1月1日):西欧列強諸国の艦隊が停泊中に、兵庫港(=神戸港)が開港される。・・・将軍・徳川慶喜が、ようやく得た朝廷の勅許により、この日無事に兵庫が開港された訳です。・・・ちなみに、各国の外交団は前年11月中から、予定されていた兵庫開港を見守るため、大坂湾に停泊していました。・・・
      ※ 同年12月8日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“洋服姿”で、「愛犬・リヨン」とともに、「写真撮影」する。・・・ここにある「愛犬・リヨン」とは、“ナポレオン3世から贈られた犬だった”とのことであり・・・個人的に、とうも気になってしまい、実際の写真画像を見ましたが、“少年期の徳川昭武の身長と比べて、ほぼ同サイズの大型犬”であり・・・私(筆者)には、“レトリバー系の狩猟犬のように”見えました。・・・これも、紳士の嗜(たしな)みだったかと。
      ※ 同年12月9日:「明治天皇」が、「王政復古の大号令」を発して・・・“徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)に辞官(※内大臣職の辞職のこと)と納地(※徳川宗家領地の削封のこと)”・・・“京都守護職及び京都所司代の廃止”・・・“江戸幕府(=徳川幕府)の廃止”・・・“摂政及び関白の廃止”・・・“新たに、総裁、議定、参与の三職を置くこと”・・・を命じる。(=王政復古の大号令)・・・“この大号令の発布”は・・・そもそも、“幕府によって予定されていた正式な諸侯会議の開催が難航している最中に、薩摩や、越前福井、尾張、土佐、安芸広島の雄藩五藩が、クーデターを起こし朝廷機構を掌握したためであった”とされ・・・また、この「王政復古」が大号令された直後、つまりは同日夜半(※午後6時頃開催)に、御所内の小御所で開催された「小御所会議」で決定されたのです。しかも、当事者たる徳川慶喜本人が参加すらしていない会議なのでした。
      ・・・この「小御所会議」の構成員は・・・まずは「明治天皇」を筆頭に・・・「総裁」として、皇族・有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王・・・「議定(ぎじょう)」としては、皇族・仁和寺宮嘉彰(にんなじのみやよしあきら)親王(※後の小松宮彰仁親王)、皇族・山階宮晃(やましなのみやあきら)親王(※勧修寺宮済範親王とも)、公家・中山忠能(なかやまただやす)、公家・正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる:※後の嵯峨実愛)、公家・中御門経之(なかのみかどつねゆき)、元尾張藩主・徳川慶勝(※改名前は慶恕)、前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)、広島藩世子・浅野茂勲(あさのもちこと:※後の浅野長勲)、前土佐藩主・山内豊信(※号は容堂)、薩摩藩主・島津茂久(※後の忠義)
      ・・・「参与」として、公家・大原重徳(おおはらしげとみ)、公家・万里小路博房(までのこうじひろふさ)、公家・長谷信篤(ながたにのぶあつ)、公家・岩倉具視(※号は対岳)、公家・橋本実梁(はしもとさねやな)、尾張藩士・丹羽賢(にわまさる)、尾張藩士・田中不二麿(たなかふじまろ)、越前福井藩士・中根師質(なかねもろかた:※通称は、雪江、栄太郎、靱負とも、後の松陰漁翁)、広島藩士・酒井十之丞(さかいじゅうのじょう?)、広島藩士・辻維岳(つじいがく:※通称は、勘三郎、将曹とも、号は僊風)、広島藩士・桜井与四郎(さくらいよしろう)、土佐藩士・後藤正本(※後の元曄、通称は象二郎、号は暘谷、雲濤、光海など)、土佐藩士・神山郡廉(こうやまくにきよ:※通称は左多衛、雅号は郡風、君風とも)、薩摩藩士・岩下方平(いわしたみちひら:※通称は左次右衛門、左二とも)、薩摩藩士・西郷吉之助(※後の隆盛)、薩摩藩士・大久保利通(※通称は一蔵、正助とも、改名前は利済)・・・とのこと。
      ・・・ちなみに、各藩の藩士達については、そのほとんどが後日(※同年12月10日~12日)における追任であり、この「小御所会議」に参加していない者達も、尾張藩、越前福井藩、広島藩、土佐藩から、それぞれ1名ずつ「参与」に追任されているのです。・・・

      ・・・そして、この「小御所会議」の展開は? と云うと・・・明治天皇の外祖父である議定・中山忠能から開会が宣言された後・・・同じく議定の公家側から、「徳川慶喜が政権を返上したと云うが、果たして忠誠の心から出たものかどうかは怪しい。忠誠を実績を以って示す(※辞官納地を指す)ように譴責(けんせき)すべきである」との議題を掲げる最中にあって・・・しかし、それを遮って、前土佐藩主・山内豊信(※号は容堂)が、「そもそも、今日の事は一体何であるか!!!この会議に、今までの功績がある徳川慶喜を出席させず、意見を述べる機会さえ与えないのは陰険である。二、三の公家が幼沖なる天子を擁して、陰謀を企てたものではないか!!!」と主張する論陣を張ったとか。(※『徳川慶喜公伝』より)・・・すると、参与だった公家・岩倉具視(※号は対岳)が、「今日の挙は、悉(ことごと)く天子様のお考えの下に行われている。幼き天子とは何事か!!!無礼者!!!」との反論をし、前土佐藩主・山内豊信(※号は容堂)が失言については謝罪したと。(※これも『徳川慶喜公伝』より)
      ・・・但し、この山内と岩倉の遣り取りについては、後に創作された「挿話」とする説もありますが。(※同時代史料とされる『丁卯日記』や、『大久保利通日記』、『嵯峨実愛手記』などには記載が無いこと、その後の会議においても議定・山内の発言力が何ら抑制されていないことなどから、明治天皇の権威を高めるための後世の文飾である疑いが強いとする説です)・・・いずれにしても、この後に・・・議定の前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)が、山内豊信(※号は容堂)に助け船を出して、徳川慶喜の参加を重ねて求めたものの・・・岩倉具視(※号は対岳)と薩摩藩士・大久保利通(※通称は一蔵、正助とも、改名前は利済)が、徳川家の罪状を並べて、これを断固拒否したと。(※これもまた『徳川慶喜公伝』より)
      ・・・そして、大久保利通が、「徳川慶喜が辞官及び納地に応ずることが前提であり、それが無い時には免官及び削地を行ない、その罪を天下に晒すべき」と主張するも・・・今度は、土佐藩士・後藤正本(※後の元曄、通称は象二郎、号は暘谷、雲濤、光海など)が、“公明正大な措置が肝心であり、この会議は陰険であるとの前土佐藩主・山内豊信(※号は容堂)の持論”を支持することとなり(※土佐藩としての持論ですからね・・・)・・・薩摩藩・大久保と土佐藩・後藤との間で激論が交わされることに。・・・すると、これに議定の元尾張藩主・徳川慶勝(※改名前は慶恕)と前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)が、前土佐藩主・山内豊信(※号は容堂)の持論を支援し・・・岩倉・大久保両名の案は、薩摩藩主・島津茂久(※後の忠義)が賛同したのみで・・・この会議の趨勢は、慶喜許容論へ傾きつつあったとか。・・・すると、議定の中山忠能が紛糾していた場を治めようと、正親町三条実愛らと話そうとしたところ・・・岩倉が、「天皇の御前会議で私語致すとは何事か!!!」と叱り・・・一時休憩になったとか。(※ここについては、『岩倉公実記』より)
      ・・・その休憩中、岩倉が広島藩世子・浅野茂勲(※後の浅野長勲)に対して、「この会議における妥協は有り得ず、いざという時には非常手段を採らざるを得ない」との覚悟を語ってから、浅野茂勲の賛同を得た後・・・その情報を、広島藩士・辻維岳(※通称は、勘三郎、将曹とも、号は僊風)が土佐藩士・後藤正本(※後の元曄、通称は象二郎、号は暘谷、雲濤、光海など)に伝えて・・・無駄な抵抗となることを悟った後藤が、この「小御所会議」における前土佐藩主・山内豊信(※号は容堂)の持論について妥協を促し、後に説得したとか。(※これも『岩倉公実記』より)・・・結局のところ、前土佐藩主・山内豊信(※号は容堂)の持論について、当の山内本人が折れてしまったため、元尾張藩主・徳川慶勝(※改名前は慶恕)と前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)も、「小御所会議」の決議に従うことになり・・・「王政復古の大号令」における大まかな骨子についてが決着したのだと。・・・

      ・・・この後には、元尾張藩主・徳川慶勝(※改名前は慶恕)と前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)が、徳川慶喜へ辞官(※内大臣職の辞職のこと)及び納地(※徳川宗家領地の削封のこと)の決定を伝える(※この翌日のこと)こととし、且つ慶喜がこれらを自発的に申し入れるという形式を採ることが決定された訳です。・・・あくまでも徳川慶喜には、口を挿ませずということでしょうか? きっと、そうなのでしょうね。・・・また、この大号令とともに、結果として・・・徳川慶喜の将軍職辞任要求については、ようやく認められたことになる訳ですが・・・幕府の廃止と新体制(≒新政府、明治政府?)の樹立を宣言(※王政復古の大号令のこと)した後に、新体制による朝議が開かれる(※小御所会議のこと)と・・・一部の公家衆及び討幕派の薩摩藩を筆頭とする有力な五藩による主導で以って、徳川慶喜の内大臣職辞職や幕府の領地を朝廷へ返納することまで決定されることとなり・・・加えて、「禁門の変」の後に京都を追われていた長州藩や公家衆の復権をも認められることになったのです。
      ・・・また、この時に樹立された新体制側からすれば、京都周辺を警備していた会津藩や桑名藩を追っ払うことで、徳川慶喜による新体制への参入を排しつつ・・・一方では、古来からの摂政や関白などの朝廷機構における政治権力を復活させるのでもなく、五摂家を頂点とする公家社会の門流支配をも解体し・・・新しい天皇親政や公議政治の大義名分を骨格とする大号令となった訳です。・・・そして、この日以後の徳川慶喜公は? と云えば、一部の納地については拒否しながら(※約400万石全返納処分から、松平慶永(※号は春嶽)らの努力により約200万石の半納処分になった)も・・・幕臣など配下の者達の暴発を抑えるために、京都・二条城から大坂城に移ることになるのです。・・・ちなみに、この時の徳川慶喜は、数えで31歳。・・・

      ※ 同年同日:“浪士・竹内啓(たけのうちひらく:※通称は嘉助、号は節斎、武蔵国入間郡竹内村の名主)や、元薩摩藩士・会沢元輔(あいざわもとすけ)ら”が、「下野国出流山(いずるやま)満願寺(まんがんじ:現栃木県栃木市出流町)」に拠りて、“自ら”を「官軍先鋒薩州藩出流山糾合方隊」と称し、“附近へ檄して同志を募る”・・・この日、“下野足利や、武蔵川越、加賀金沢などの藩”が、“その状況”を、「旧幕府」へ報ずる。【綱要】(=薩摩御用盗の野州挙兵)・・・まるで、“かつての天狗党勢挙兵の再現かのよう”です・・・が、彼ら「官軍先鋒薩州藩出流山糾合方隊」の挙兵目的は・・・「官軍」であることを自称していたので、“討幕思想であったこと”は、ほぼ明らかかと。“実力を以ってしてでも”ということなのでしょう。・・・尚、この「官軍先鋒薩州藩出流山糾合方隊」が檄文を発すると、“150名をも超える一団となって行軍を開始した”とのこと。・・・
      ※ 同年同日:「フランス皇太子」が、「年賀の返礼」に、“皇帝代理”として・・・“水戸藩主・徳川慶篤(※徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”を「訪問」する。・・・
      ※ 同年12月10日:「元尾張藩主・徳川慶勝(※改名前は慶恕)」及び「前越前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)」が、「二条城」に至りて・・・“将軍職辞職の勅許と、内大臣職の辞職及び納地(※徳川宗家領地の削封のこと)の勅諚”・・・を、「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」へ「伝宣(でんせん:※勅旨を伝達すること)」する。・・・この日、徳川慶喜公は、正式に「王政復古の大号令」についてを伝えられることになる訳です・・・が、それを齎(もたら)した人物が徳川慶勝・松平慶永の2名だとは、実際に予測してはいたものの・・・慶喜公本人は兎も角、“旧幕臣達が受けた衝撃は相当あった”でしょうね。・・・
      ※ 同年12月11日:“関東取締出役・渋谷鷲郎(しぶやわしろう)率いる旧幕府方の諸藩兵”が、「下野国岩船山(現栃木県栃木市)」や、“栃木宿の幸来橋付近”において・・・この日より数日間、「官軍先鋒薩州藩出流山糾合方隊」と「交戦」し・・・“これ”を破る。(=薩摩御用盗による野州挙兵鎮圧)・・・この交戦が始まってから2日後の同月13日には、岩舟山にて元薩摩藩士の会沢元輔が戦死し・・・その後に、この「官軍先鋒薩州藩出流山糾合方隊」が鎮圧され・・・敗れた浪士・竹内啓(※通称は嘉助、号は節斎、武蔵国入間郡竹内村の名主)は中田宿(現茨城県古河市中田地先の利根川河川敷付近)で捕らえられることとなり・・後の同月24日に処刑されました。・・・しかし、“その他の数名は脱走して、やはり江戸・薩摩藩邸に逃げ込んだ”とのこと。
      ・・・いずれにしても、「官軍先鋒薩州藩出流山糾合方隊」の挙兵は、旧幕府方によって早期に鎮圧されてしまいます。・・・尤も、薩摩御用盗とすれば、“旧幕府側を撹乱するとともに、挑発して交戦する気にさせるのが主目的であった”と考えられるため・・・“戦さにおける勝敗は、二の次とされていたよう”にも、感じられますね。・・・
      ※ 同年12月12日:「朝廷」が、“在京する水戸藩家老・大場景淑(※通称は弥右衛門、号は一真斎)らに、二条城の留守を命じる”・・・とともに、“在江戸の若年寄格・永井尚志(※通称は玄蕃頭、旧幕府旗本)には、そこに留まりて、物情を鎮定せしむ”【綱要】・・・“朝廷”が、水戸藩や旧幕臣に対して、“直接的な命令”を下しております。・・・これは、いったいどういう事なのでしようか?・・・この当たりの事情としては・・・ハッキリと「明治新政府」とは自称出来ない・・・或いは、仮に“自称した”としても・・・“相手方から到底理解されないから”ということなのでしょう。
      ・・・更には・・・元々、尊皇思想には違いない水戸藩や、その水戸徳川家出身者から征夷大将軍を擁した徳川宗家に対しては、“新政府を名乗らずとも、明治天皇の御名で以って、水戸藩主・徳川慶篤(※徳川慶喜の同母兄)や徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)などの頭越しに先例を作ってしまえば良い!!! との印象や・・・反対に、“大混乱期が過ぎ去って復興せねばならない水戸藩については大場景淑らに、そして、大混乱が今後予想される大江戸市中の取締りについては永井尚志に、それぞれ任せたぞ!!! との温情的措置”という印象も、感じ取れるのですが。・・・きっと、この状況には・・・朝廷内における、急進派的な討幕勢力と、直前時期まで摂政とされていた二条斉敬(※徳川慶篤や徳川慶喜らの従兄弟)ら佐幕派勢力との間で繰り広げられた葛藤が大きく影響しているかと。・・・
      ※ 同年同日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「京都・二条城」を出て、「大坂」へと下り・・・「大坂城」に入る。・・・この時、徳川慶喜公が、経済的且つ軍事的にも重要な拠点の大坂を押さえたことは、その後の政局や戦局においても旧幕府側に優位に働くこととなるのですが。・・・ちなみに、この時に・・・それまで京都周辺を警備していた会津・桑名藩の藩主及び藩士達なども、“大坂入り”しております。・・・
      ※ 同年12月14日:「王政復古の大号令」が、“諸大名”へ「布告」される。・・・ようやく、この時点で・・・。“新体制への転換”とされる「王政復古の大号令」と明治天皇がご臨席された「小御所会議」から数えて、5日後のこととなります。・・・と云うか、5日も掛かってます。・・・
      ※ 同年同日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、“フランス公使のレオン・ロッシュ及びイギリス公使のハリー・パークス”と、「非公式会談」を行ない・・・“徳川慶喜が両公使に大政奉還以降の経緯を述べた後に、彼らの意見を求める”・・・この時は、仏国公使・ロッシュが、まず徳川慶喜との会談約束をとり付けた後に、これを知った英国公使・パークスが、強引に割り込んだ模様です。・・・仏国も英国も、当然に自国の国益を考えた上での意見だったかと。・・・彼らの意見の違いから、徳川慶喜公は何を悟ったのでしょうか?・・・
      ※ 同年12月15日:“薩摩御用盗・鯉淵四郎(こいぶちしろう:本名は坂田三四郎とも、変名は長州藩士の海野次郎)を隊長とする三十数名から成る武装集団”が、“相模荻野山中藩・大久保教義(おおくぼのりよし)の山中陣屋(現神奈川県厚木市下荻野)”を「襲撃」し・・・“この山中陣屋”が「焼失」する。(=薩摩御用盗の相州襲撃)・・・この襲撃の後、鯉淵四郎らも、江戸・薩摩藩邸へ戻ります・・・が、“死者1名、負傷者2名であり、比較的に損害は小さかった”とのこと。・・・反対に、相模荻野山中藩からすれば、藩主・大久保教義が甲府城勤番のため留守中だったものの・・・結果としては、“陣屋(=藩庁)が焼かれてしまい、被害は甚大だった”と云えますし・・・何やら・・・同年11月25日に起きた薩摩御用盗による甲府城攻略失敗が関係しているような?・・・報復的な意味合いが?・・・
      ※ 同年12月16日:「王政復古の大号令」が、“一般庶民達”へ「布告」される。・・・“新体制への転換”とされる「王政復古の大号令」と明治天皇がご臨席された「小御所会議」から数えて、7日後のこととなります。・・・と云うか、これまた7日も掛かっております。・・・
      ※ 同年同日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「大坂城」において、“イギリス、フランス、アメリカ、オランダ、イタリア、プロイセンの六カ国の公使達”を「引見」し・・・“日本への内政不干渉及び外交権の幕府による保持”を「承認」させる。・・・ここにある「プロイセン」とは、“ホーエンツォレルン家出身君主が統治し、かつては現在のドイツ北部からポーランド西部に掛けてを領土”とする欧州の王国であり、首都は「ベルリン」でした。・・・いずれにしても、この時の引見の場にあった徳川慶喜は、各国公使達に対して、王政復古を非難し、締結済み条約の履行や各国との交際や交流については、尚も自分の任務であると宣言したのです。・・・このことにより、新体制(≒新政府、明治政府?)において、前土佐藩主・山内豊信(※号は容堂)や前越前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)ら公議政体派と呼ばれる勢力が盛り返すこととなったのです。・・・
      ※ 同年12月18日:「旧幕府」が・・・“三河刈谷藩主・土井利教(どいとしのり)への江戸城竹橋門警守、三河西端藩主・本多忠鵬(ほんだただゆき)への同城半蔵門口警守、備中浅尾藩主・蒔田広孝(まいたひろたか)への同城清水門口警守、上総一(之)宮藩主・加納久宜(かのうひさよし)への上野山内警守”・・・についてを免じると・・・“下総結城藩主・水野勝知(みずのかつとも)には同城半蔵門口警守”を命じ・・・また、“常陸下妻藩主・井上正巳(いのうえまさおと)には溜池附近への非常出兵及び藩邸旁近の巡邏(じゅんら)を止めさせて、同城清水門口の警守”を命じた。【綱要】・・・この条については・・・「旧幕府」とされつつも、時の徳川宗家や諸藩が現前として存在し、且つ旧幕府・徳川宗家から諸藩が命令を受けていた様子が分かりますし・・・江戸城や周辺重要施設の警守については、一言で云えば「適材適所」とされており・・・
      ・・・若年寄格・永井尚志(※通称は玄蕃頭、旧幕府旗本)だけでなく、勝義邦(※後に安芳と改名、通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟、旧幕府旗本)などの活発な働きぶりが、容易に想像できますね。・・・
      ※ 同年同日:「常陸谷田部藩主・細川興貫(※後の下野茂木藩主)」が・・・“自身の病を以って上京延期について”・・・を、「朝廷」へ請う。【綱要】・・・“この頃の谷田部藩”は、水戸藩内乱の影響を受けたり、領内では凶作が続いて百姓一揆が頻繁に起こるなど・・・“藩財政は、かなり苦しかった”と云われますので・・・この時は、藩主自身の病を、その理由とし、朝廷に対して新体制(≒新政府、明治政府?)側や旧幕府側(≒徳川宗家を含む佐幕派勢力)の今後を占うため・・・ひいては、“自家(≒自藩)の成り行き”をも確かめるべく、上京延期を申し出たのでしょう。・・・
      ※ 同年12月19日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「朝廷」に対して・・・“王政復古の大号令を撤回すること”・・・を「要求」する。・・・公然に・・・。この時の徳川慶喜公には、かなりの自信があるように窺えます。・・・
      ※ 同年12月20日夜:“出羽庄内藩預りの新徴組”が、“予(か)てから江戸・薩摩藩邸裏門周辺を見張っている”・・・と、“そこに鉄砲や槍などで武装した薩摩御用盗50名が出て来たため”・・・“これ”を「追撃」する。・・・“この時の薩摩御用盗50名も、結局は散り散りとなって薩摩藩邸へ逃げ帰った”とのこと。・・・この頃、幕命によって江戸市中の警備に当たっていた庄内藩と新徴組は、「御用盗」と称される討幕派浪士達の本拠地が、江戸三田・薩摩藩邸だということに気付き始めていたものの・・・確たる証拠については、尚も掴めずに居たようです。・・・更には、「王政復古の大号令」が布告される以前の幕府内でも、小栗忠順(※通称は又一、後の小栗上野介、幕府旗本)が、“強硬に討幕派浪士達の退治”を唱えれば・・・勝義邦(※後に安芳と改名、通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟、旧幕府旗本)は、“忍耐を続けるべきであり、退治については時期尚早である”・・・と、反対する具合だったとか。
      ・・・結局のところ、「王政復古の大号令」が布告された後の、当主不在の江戸や関東各地では、“当面の治安維持方針などに、微妙なズレが生じていた模様”が窺えます。・・・
      ※ 同年12月22日:「朝廷」が・・・「徳川内府宇内之形勢を察し政權を歸し奉り候に付き、朝廷に於て萬機御裁決候に付ては、博く天下の公儀をとり偏黨の私なきを以て衆心と休威を同ふし、徳川祖先の制度美事良法は其儘被差置き、御變更これ無くの候間、列藩此聖意を体し、心付候儀は不憚忌諱極言高論して救縄補正に力を盡し、上勤王の實效を顯し下民人の心を失なはず、皇國をして一地球中に冠超せしむる樣淬勵致すべき旨御沙汰候事」・・・という「告諭(こくゆ:※告げ諭すこと、説き聞かせること)」を出す。・・・この「告諭」は、“事実として徳川幕藩体制による大政委任の継続を承認した”と云えるものではあります・・・が、それでも・・・「王政復古の大号令」についてを、取り消したことにもならず・・・。但し、“同年12月19日に徳川慶喜公が要求した、王政復古の大号令撤回については、ほぼ認められていた”と考えても良さそうです。・・・それなのに?・・・
      ※ 同年同日深夜:“薩摩御用盗30名余り”が、“新徴組の屯所とされていた赤羽根橋の蕎麦処・美濃屋”へ、「鉄砲弾」を撃ち込み・・・後に「三田薩摩藩邸」へ逃げ込む。・・・“同月20夜の事件に対する反撃だったよう”です。・・・幸いなことに、犠牲者は出なかったようですが・・・。・・・まさしく挑発的な武力行使だったかと。・・・
      ※ 同年12月23日:「江戸城・西ノ丸」が「焼失」する。・・・この江戸城西ノ丸焼失事件については、当時から、“薩摩藩と内通する奥女中の犯行と、噂されていたよう”です。・・・討幕の実行延期に関する沙汰書が、同年10月21日に出される・・・と、結果としても、「討幕の密勅」が事実上取り消される格好となっていたのですが・・・。これらの事実とともに、当然に・・・“討幕のための挙兵中止命令も、江戸・薩摩藩邸へも伝えられていた”のです。・・・しかし、“討幕のために挙兵準備を進めていた薩摩藩邸では、闘志を燃やす志士達を、もはや抑えられず”・・・“薩摩藩邸に出入りする討幕派志士達は、これらを無視して工作活動を、尚も続けていた”と考えられる訳ですね。・・・尚、この事件についても、薩摩藩士であり、また「薩摩御用盗」とされる伊牟田尚平や小島将満(※通称は四郎左衛門、変名は相楽総三、村上四郎とも、下総国相馬郡出身郷士の四男)が、仕掛けた火災だった”と、当時から噂されております。
      ・・・もし、“これらの噂の通りだった”としたならば・・・“江戸城・西ノ丸を焼く”という意味合いについてを考えざるを得ません。・・・「江戸城の西ノ丸」は、長きに亘って、将軍(≒徳川宗家当主)の隠居所や世子の居所として使用されていた場所ですから。かなり象徴的な意味合いが生じますので。・・・つまりは、“徳川慶喜には、世子を儲(もう)けて隠居するなど、以っての外(ほか)である!!!”・・・と。・・・だとすれば、かなり陰険で執拗な挑発行為と云わざるを得ません。・・・当時の江戸っ子達の目には、どう映っていたのでしょうか?・・・短気で喧嘩早いのも、江戸っ子気質とされますから。・・・そう云えば、水戸っぽ気質も似たようなものでしたね。・・・何だか、導火線へ執拗に火の粉を降り掛けられているような気がしなくもない・・・。
      ※ 同年同日夜:“江戸市中警備に当たる出羽庄内藩巡邏兵の屯所への発砲事件”が「発生」し・・・“庄内藩の使用人1名”が「死亡」する。・・・今度は、犠牲者を出してしまいました。・・・「薩摩御用盗」と呼ばれた討幕派浪士集団による旧幕府への挑発活動が、“次第にエスカレートしていたこと”を物語っております。・・・尚、“この事件の舞台となった屯所は、春日神社前だった”とのこと。・・・
      ※ 同年12月24日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「書(簡)」を、「水戸藩主・徳川慶篤(※徳川慶喜の同母兄)」に与えて・・・“其の謹慎を解き、また関東地方に蜂起せる草賊を討伐せしむ”【綱要】・・・同月3日には、朝廷から上京を促されていた水戸藩主・徳川慶篤でしたが・・・この頃、ようやく政治的な事情や大義名分が整うこととなり、“あくまでも関東地方に蜂起せる草賊を討伐するため”という必要性が生じて・・・結果として、“それまで続けられていた水戸藩主(=水戸徳川家当主)の自主的な謹慎措置が解かれる格好”となった訳です。・・・もちろん、“この時の関東地方に蜂起せる草賊”とは、下野国出流山(現栃木県栃木市出流町)に拠った「官軍先鋒薩州藩出流山糾合方隊」や、「薩摩御用盗」と呼ばれた討幕派浪士集団などのことです。
      ・・・これらの事を、逆に考えれば・・・実弟の徳川慶喜としては、“いざという時に頼りとする兄・徳川慶篤が、時の朝廷に誘(おび)き寄せられて京畿付近に居ること自体が、大きなリスクを含む”と考えて・・・“これまでの期間は、兄・徳川慶篤には江戸・水戸藩邸に留まってもらっていた”と考えるべきなのかも知れませんね。・・・
      ※ 同年同日:“旧幕府老中・稲葉正邦(※山城淀藩主)ら旧幕臣達”が、“元将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)不在の折に、江戸や関東における度重なる騒乱の黒幕には薩摩藩ありとし、遂に武力行使をも辞さずとの強硬手段”を「決意」する。・・・この日、“稲葉正邦ら”は、「出羽庄内藩江戸留守役・松平親懐(まつだいらちかひろ:※通称は権十郎とも、出羽庄内藩家老)」に対して・・・“薩摩藩邸内の賊徒引渡しを求めた後、従わずば、討入り召し捕らえんとの命(令)”・・・を下す。・・・この時の旧幕臣達の想いについてを、一言で云えば・・・“既に堪忍袋の緒が切れた状態だった”かと。
      ・・・この時の松平親懐は、この命令に対して・・・「薩摩側が素直に引渡すとは思えず、討入りとなること必至に付き、また庄内藩は先日、銃撃被害を受けており、この状況下で討ち入れば、私怨私闘の謗(そし)りを受けてしまう為、他藩と共同で事に当たらせて欲しい」・・・と願い出ると、これが受け容れられて・・・“出羽庄内藩や、同上(ノ)山藩、庄内藩支藩の同松山藩、越前鯖江藩、武蔵岩槻藩の五藩が参加する”こととなり、戦闘指揮は庄内藩監軍・石原成知(いしはらしげとも:※通称は、倉右衛門、元庄内藩中老)が執ることに。・・・尚、“討入りの際の陣容”としては、薩摩藩邸の戦力は浪士200名及び馬16頭との予備情報があったため・・・この24日中には、“庄内藩から約500名、上(ノ)山藩から約300名、鯖江藩から約100名、岩槻藩から約50名の藩兵と、いわゆるお抱え浪士集団のため”として、大砲や、鉄砲、槍などの軍備が庄内藩下屋敷に集められ・・・それぞれが夜食を食べてから、赤羽根橋に集結し・・・翌日の討入りに備えていたのです。
      ・・・尚、これには、“フランス式軍事教練を受けていた「伝習隊」などの旧幕府兵や諸藩の軍勢も参加して、討入り側は2千名余りに達した”とのこと。・・・
      ※ 同年同日:「朝廷」が・・・“常陸谷田部藩主・細川興貫(※後の下野茂木藩主)の要請について”・・・を許す。【綱要】・・・ちなみに、後の谷田部藩主・細川興貫は・・・翌年の西暦1868年(慶應4年)3月に、自藩士119名を率いて上京し、京都警護を務めますが・・・結局は、新政府側へ恭順の意を示すこととなります。・・・
      ※ 同年12月25日未明:“旧幕府側の出羽庄内藩や、同上(ノ)山藩、庄内藩支藩の同松山藩、越前鯖江、武蔵岩槻など五藩の兵ら”が、“江戸三田の薩摩藩邸”を「焼討ち」する。(=江戸薩摩藩邸の焼討事件)・・・これら五藩の兵らは、薩摩藩邸及びこの薩摩藩邸に隣接していた薩摩支藩の日向佐土原藩邸を包囲する・・・も、“薩摩側が窮鼠状態となることを危惧し、庄内藩が受け持つ北門と西門のうち、西門付近だけは意図的に包囲を緩めていた”とのこと。・・・そして、交渉役とされた庄内藩士・安倍藤蔵(あべとうぞう)が単身で薩摩藩邸を訪問する・・・と、薩摩藩邸留守役・篠崎仲苗(しのざきなかなえ:※通称は彦十郎、薩摩藩士)を呼び出して、薩摩御用盗ら賊徒浪士を武装解除した上で一人残らず引渡すよう通告します・・・が、この時の篠崎は、その場で即時引渡しを拒否。・・・「やはり引き渡されはせんでしょう。では、これにて御免。」・・・と言った安倍を、藩邸の外に送り出した篠崎は、外の様子を探るため藩邸の潜(くぐ)り戸を出る・・・と、そこに、庄内藩兵が待ち受けていたのです。
      ・・・安倍が「もはや手切れでござる」と呼び掛け、それを機に旧幕府方が討入りを決行して、篠崎は庄内藩兵に槍で突き殺され・・・包囲していた庄内藩兵らも砲撃を始め、同時に西門を除く三方から薩摩藩邸に討入りを開始。・・・迎え撃つ薩摩藩邸や薩摩御用盗の者達も、応射するなどして奮戦しました・・・が、多勢に無勢であり、戦闘開始から約3時間後・・・旧幕府側の砲撃や浪士らの放火により、薩摩藩邸がいたる処で延焼し、もはや火の手を止める術(すべ)は無かった模様です。・・・それでも、当初から脱出を指示されていた薩摩御用盗の浪士達は、火災に紛れて薩摩藩邸を飛び出し、二十数名が一組となって逃走を開始し・・・薩摩藩士の伊牟田尚平や小島将満(※通称は四郎左衛門、変名は相楽総三、村上四郎とも、下総国相馬郡出身郷士の四男)らの数組が、幕府方の包囲網を突破し、浜川鮫州方面へ走り続ける・・・と、道筋の民家に放火するなど、旧幕府側の追跡を錯乱しつつ、品川へ向かいました。
      ・・・彼らが目指していたのは、品川に停泊する薩摩藩の運搬船・翔鳳丸(しょうほうまる)でしたが、焼討ちと同時に、その翔鳳丸は旧幕府の軍艦・回天丸(かいてんまる)の接近を受け、既に沖合いへと逃げ出していたのでした。・・・すると、伊牟田尚平や小島将満らは、漁師らから小船を奪って、沖合いへと船を出し、何とか翔鳳丸に乗り込もうとしたのです。・・・この時、150名余りの浪士らが、沖合いの翔鳳丸を目指すものの、翔鳳丸は再び回天丸に接近されることとなり、錨を揚げ江戸からの撤退を決断します。・・・翔鳳丸は、ようやく先に乗り込めた小島将満ら28名を収容したものの、残りの者達を置き去りにして、紀州方面へ向けて出航。・・・残された者達は、羽田方面へと小船で向かいましたが、上陸後に捕縛されることとなり、薩摩藩士・益満休之助も捕らえられたのです。
      ・・・結局のところ、この焼討ち事件による死者は、薩摩藩邸使用人や同藩御用盗ら浪士が64名・・・旧幕府側では、上(ノ)山藩が9名、庄内藩2名の計11名。・・・また、“旧幕府側に捕縛された薩摩御用盗らの浪士は、112名に及んだ”と記録されています。
      ・・・いずれにしても、この江戸薩摩藩邸の焼討事件によって、旧幕府側は新体制(≒新政府、明治政府?)側に対して・・・“或る種の口実を与えてしまった訳”です。・・・返す返すも・・・
      ※ 同年同日:「旧幕府」が、“武蔵忍藩や下野壬生藩など19藩による要請”を許して・・・“元治元年の常陸及び下野騒乱における降人の御預を解き、且つこれら降人を、速やかに上阪せしむ”【綱要】・・・“西暦1865年(元治2年)2月23日の時点において、近江彦根藩へ付預とされていた70名の身柄がどうなったか? について”は、やはり分かりません。・・・近江彦根藩による厳しい訊問に耐えられたのか? さえ・・・。
      ・・・但し、“この頃まで天狗党勢に参加した水戸藩士らを生存させて、且つ監禁していた”とするならば・・・彦根藩そのものが、ちょうど大政奉還が為された直後頃より、譜代大名の筆頭であったにもかかわらず、新体制(≒新政府、明治政府?)側へ藩論を転向させる・・・と、これより数日後に勃発する「鳥羽伏見の戦い(※慶應4年/明治元年1月3~6日)」で、彦根藩家老・岡本宣迪(おかもとのぶみち:※通称は半介、号は黄石)が、旧幕府軍と共に大坂城に詰めるのですが・・・その一方では、彦根藩兵の主力が、東寺近くにある四塚や大津で薩長官軍の後方支援に当たり、大垣への出兵に際しても、やはり先鋒部隊となっているため・・・果たして・・・“家老・岡本宣迪らと共に、水戸藩出身の約70名が大坂城へ辿り着けたのか?”・・・或いは、その前に?・・・等々史料上は、残念ながら分かりません。・・・
      ※ 同年12月26日:“(王政復古の大号令による)新政体に参加していた徳川慶勝(※改名前は慶恕、元尾張藩主)ら”が、「大坂城」に至りて・・・“徳川宗家の辞官納地についての勅諚”・・・を「伝宣」する。・・・この日、徳川宗家に対する辞官及び納地についての新たな勅諚が、改めて大坂城に齎(もたら)されることとなり・・・徳川宗家の納地については、当初の約400万石全返納処分から、松平慶永(※号は春嶽)らの努力によって、約200万石の半納処分になっていました。・・・“これより遡ること、ちょうど10日前の16日”には、元将軍・徳川慶喜が、英国、仏国、米国、蘭国、孛国(=プロイセン)の公使らを引見し、日本への内政不干渉及び外交権の幕府による保持についてを対外的に宣言して、徳川慶勝(※改名前は慶恕、元尾張藩主)や松平慶永(※号は春嶽、前越前福井藩主)らの公議政体派が、新政体内における勢力を盛り返していたためでした。
      ・・・当初は新政体の財源確保のためとされていた徳川宗家側への一方的な全領地返上命令が、このように変更されることとなり・・・つまりは、諸侯一般に対して経費を応分に課すという名目に改められた訳です。・・・ちなみに、この日以前には、徳川慶喜が再上洛の上で、(王政復古の大号令による)新政体における「議定」への就任が確定するなど・・・徳川宗家の辞官納地については・・・やはり、“事実上の骨抜き措置”とされつつあった模様です。・・・尚、この当たりの権力闘争については、日毎の立場逆転劇が目まぐるしく、まるでジェットコースターにに乗っている気分ですね。・・・
      ※ 同年同日:「旧幕府」が・・・“江戸の五街道に関門を置き、過書(かしょ:※関所通行の許可証のこと)を以って出入りせしめる”・・・とともに、“陸奥守山藩主・松平頼升及び常陸府中藩主・松平頼縄に、板橋宿(現東京都板橋区東部付近)を警守せしむ”【綱要】・・・「江戸の五街道」とは、東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道のこと。・・・旧幕府は、特に中山道方面の基点となる板橋宿を、徳川家一門の陸奥守山藩主と常陸府中藩主に託す格好で、実際に警守させたのでした。・・・やはり、“(王政復古の大号令による)新政体側の軍勢が江戸に侵攻する”と、まことしやかに噂される情勢を物語っているようです。・・・
      ※ 同年12月28日:“同月25日に起きた江戸薩摩藩邸における事件について”が、“大坂城の徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の元”へと伝えられる。・・・実際には、対薩摩強硬派として知られる大目付・滝川具挙(たきがわともあき、たきがわともたか:※通称は三郎四郎、播磨守とも、旧幕府旗本)と勘定奉行並・小野広胖(おのひろとき:※通称は友五郎、内膳正とも、元常陸笠間藩士、後の旧幕臣)が、江戸や関東における薩摩藩の横暴な行為や薩摩藩邸における焼討ち事件の情報などを携えて、江戸から上阪する・・・と、大坂城に居た徳川慶喜に対して、“率兵上京を進言した”と云います。・・・これに、元老中・板倉勝静(※備中松山藩主)と元将軍・徳川慶喜は、“薩摩討つべし”と沸き上がる幕臣達や陸奥会津藩ら諸藩士の声を抑えることが出来ず・・・結果として、“討幕派・薩摩藩の目論見通りに、旧幕府が討薩への意思を固めるに至った”と云われます。・・・その様子を語るのが、『復古記(ふっこき)』という「戊辰戦争」を中心とした記録を纏めた史料集なのです。
      ・・・しかしながら・・・この『復古記』は、後に明治新政府が編纂したものであり、その中には・・・『(大)坂城にて甚だ敷く上様へ相迫り候者は、滝川播磨、塚原但馬、小野内膳正にて之れあるべしと申すこと』・・・と、当時の(王政復古の大号令による)新政体側に参加していた徳川慶勝(※改名前は慶恕、元尾張藩主)による証言として語られているのです。・・・尚、この中の「塚原但馬」とは、塚原昌義(つかはらまさよし:※通称は重五郎、但馬守とも、旧幕府旗本)のことです。
      ・・・ちなみに、そもそもとして・・・江戸薩摩藩邸の焼討事件の発端とされ、また実際に薩摩御用盗と相対峙していた新徴組は、“そこまで大事になる”とは考えていなかった様子であり・・・新徴組・十二番隊取締の山口三郎(やまぐちさぶろう)などは、“薩摩藩邸討入りの3日前”に、勝義邦(※後に安芳と改名、通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)を訪ねて語った際には・・・「恐らく戦さになるだろう」ぐらいであり・・・また、出羽庄内藩士・安倍藤蔵は・・・「今後はのんびり、やりましょう」と述べており・・・この時点では、まだ当事者達は、大規模な「鳥羽伏見の戦い」や、しばらく長引くこととなる「戊辰戦争」などを想定していた訳ではなさそうであります。・・・これも、同時代人達の感覚と、後世の歴史編纂における扱いには、かなりのズレが生じているようですね。・・・
      ※ 同年12月29日:「旧幕府」が、「勘定奉行並・岡田忠養(おかだただやす:※通称は利喜次郎、安房守とも、旧幕府旗本)」に、“下総国布佐村の陣屋へ在陣させる”・・・とともに、“安房や、上総、下総、常陸国の旧幕府領を管理せしむ”【綱要】・・・この日、旧幕府は、“同年6月29日より勘定奉行並で関東在方掛(=関東郡代)の河津祐邦(※伊豆守とも、幕府旗本)に設置させていた旧幕府領の陣屋及び四カ国の管理権を託した訳”です。・・・ちなみに、この頃の河津祐邦は、同年8月15日に「長崎奉行」に就任し、同年10月11日には「長崎」へ着任していますので・・・。
      ※ 同年12月30日:「旧幕府」が、“武蔵岩槻藩主・大岡忠貫(おおおかただつら)に其の領地武蔵国埼玉郡及び上野国那波郡の内443石余りを、常陸下妻藩主・井上正巳には其の領地武蔵国埼玉郡の内401石余りを、それぞれ上知せしむるを以って”・・・“これらの代地として”・・・“大岡忠貫へは下総国香取及び葛飾二郡の内591石余りを、井上正巳へは常陸国真壁郡及び下野国都賀郡二郡の内491石余り”・・・を給す。【綱要】・・・この条で分かるのは、“岩槻藩主・大岡忠貫は、名目上148石余りの加増とし・・・下妻藩主・井上正巳も、名目上90石余りの加増とした”ということ。・・・当然に、“旧幕府領から”ということです。・・・今に云う、リスク分散的な処置だったかと。・・・旧幕府領、つまりは徳川宗家領が、(王政復古の大号令による)新政体側による一番目の標的とされていたからに他なりません。ですから、この前日の条では、勘定奉行並・岡田忠養(※通称は利喜次郎、安房守とも、旧幕府旗本)に旧幕府領を管理せしめていた訳ですね。
      ・・・さすがに、この当時の(王政復古の大号令による)新政体側には、これほどの実務管理能力は備わっていなかったでしょうから。・・・
      ※ 同年内:“横浜居留地24番館のビアトなる者”が、『万国新聞紙』に・・・“元将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の写真を、日本のタイクーン(=大君)と紹介し、且つそれを一分二朱にて販売する旨”・・・の「広告」を出す。・・・なかなか興味深い内容です。・・・『万国新聞紙』とは、当時の横浜居留地に暮らすイギリス領事館付牧師(聖公会)・ブックワース・ベーリーが発行していた日本語新聞(月刊紙)です。・・・つまりは、“ビアトなる者”が、当時の日本人に向けて、今に云う、“元将軍のブロマイド写真を売ろう”とした訳です。しかも、「一枚当たり一分二朱」で。・・・また、“ビアトなる者”が何処の国の人だったのか? も、とても気になりますね。・・・やっぱり、フランス人関係者だったのでしょうか?・・・それとも、イギリス人・フレデリック・ウィリアム・サットンの関係者だったのでしょうか? イギリス領事館付牧師が発行していた新聞ですしね?
      ・・・いずれにしても、当時の徳川慶喜公に協力した者による新聞広告であり・・・また、開港した後の横浜居留地などだけでなく、横浜を中心地として、関東地方の人々や外国人達の母国への伝播までを視野に入れ、それらの視覚的な広告効果を狙った戦術としか考えられません。・・・当時の日本人にしたらば、“元将軍の徳川慶喜公の姿を、瓦版ではなく写真で拝める時代となったとは!?!” と、仰天したのではないでしょうか。・・・それだけ当時の写真力は、かなりのインパクトがあったかと。・・・ちなみに、イギリス領事館付牧師のブックワース・ベーリーは、“後の西暦1872年(明治5年)頃に帰国した”とされております。・・・
      ※ 同年内:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「フランス皇帝・ナポレオン3世」から「鏡玉(きょうぎょく:※レンズのこと)」を贈られ・・・後に、“これ”を「船橋鍬次郎(ふなばしくわじろう)」へ与える。・・・この条の最後にある「船橋鍬次郎」とは、幕末期から明治・大正期に掛けての「絵師」であり・・・一説には「写真家」とも呼ばれる「中島仰山(なかじまぎょうざん)」のこと。・・・この御仁は、「一橋家・付切(つけぎり)」であった船橋半右衛門の次男として生まれ・・・この翌年に、中島家へ養子に入り、中島姓を名乗りました。・・・ちなみに「付切」とは、代々一橋家の専属として仕える人物であり、身分は幕臣です。“一般の幕臣と比べれば薄給とされるも、格式については高かった”と云われますが・・・
      ・・・同時代の関根雲停(せきねうんてい)や増山雪斎(ますやませっさい)などと並んで、博物図譜的な動物画を数多く残しています。・・・彼については、確たる裏付けは取れないものの・・・“徳川慶喜公が将軍だった頃には、慶喜の命によって京都・二条城内や同本丸などを撮影したり、フランス皇帝・ナポレオン3世から贈られたフランス式軍服を身に付ける慶喜の肖像写真を撮影した”とされ・・・その後は、慶喜公に従うかたちで以って、上野大慈院や、水戸弘道館、静岡宝台院、静岡紺屋町へと移住しつつも、常に「二級侍従」として勤め、また慶喜公に油絵を教えた師匠でもあります。・・・尚、この頃の船橋鍬次郎こと中島仰山は・・・“古風な拳銃を所持して、これを持って慶喜のお供をしていた”とも云われます。・・・

・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】