街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 西暦654年(白雉5年)正月5日:「孝德天皇」が、「中臣鎌足(※後の藤原鎌足)」に対して、“冠位としては最高位”となる「大織(だいしょく、だいしき、おりもののこうぶり)」と「紫冠」を授けて、「封(ふう)」を増す。・・・「封」とは、封戸(ふこ)とも云い・・・古代の豪族(≒貴族)に対する封禄制度の一つであり、且つ特定数の人民の戸(こ)を支給するものです。“封戸を食む”という意味から、実際に行なわれた支給制度を、食封(じきふ)」とも呼び・・・封戸は、食封に充てられた戸そのものを指す場合もありました。・・・つまりは、“戸としての一家族や一族などの集団が、それぞれ中臣鎌足(※後の藤原鎌足)の傘下として与えられた”と云う事です。

      ※ 同年2月内:「孝德天皇」が、「遣唐使(≒朝貢団)」を送る。「押使(おうし)」は「高向漢人玄理」、「大使」は「河辺麻呂(かわべのまろ)」、「副使」は「薬師恵日」(※5月のことであったとも)。【(第3次)遣唐使(≒朝貢団)】・・・「押使」とは、この場合・・・“派遣団の(最高司令)長官のこと”です。・・・おそらくは、これより約7カ月前に・・・“前回出航させた遣唐使(≒朝貢団)の第二船が難破してしまったことが明らかとなり、急遽編成して追加的に出航させた”のでしょう。・・・これには、“そうせねばならない事情が、倭国(ヤマト王権)側にあった”と考えるべきかと。

      ※ 同年4月内:“吐火羅國(とからのくに)の男2人と女2人、それに舎衞(しゃゑの女1人”が、「風」に流されて、「日向(ひむか、ひゅうが)」に「漂着」する。・・・この『日本書紀』によると、これ以降の西暦676年まで計4回、この「吐火羅」や、「覩貨邏」、「舎衞」という表記で、日本列島周辺の勢力のことが記述されています。・・・このことは、倭国(ヤマト王権)が、当時の国際情勢にも気を配りながら、いまだ倭国(ヤマト王権)などの古代国家に組み込まれていない日本列島周辺勢力の情報を収集し、それらとの協力関係を結ぶことや、互いに認知し合うことが急務となっていたことを物語っているのだと想います。・・・そのため、歴史書たる『日本書紀』において、自らの国家の成り立ちにふれる上で、日本列島周辺勢力が必然的に記述されたかと。
      ・・・ですから・・・古代中国などで云う「トハラ人」や、「トカラ人」などの中央アジア地域に住んだ人々とされる遊牧民族や、「墮羅(だら、たら)」と呼ばれた現在の東南アジアのタイや、ミャンマー(※旧ビルマのこと)に、かつてあったドヴァラヴァディ王朝などの・・・陸上シルクロードや海上シルクロードと呼ばれるものが、確かにあり、有名な正倉院にも数々のお宝が保管されていた事実などからも分かりますが・・・日本列島からすれば、かなり遠方の勢力についてを、古代日本の行く末を左右する戦略上の相手方として・・・これらの人々を、正史としての『日本書紀』に、わざわざ記述する必要性は少ないだろうと考えるのであります。・・・コレ、結構踏み込んでしまっていますが。
      ・・・したがって、私(筆者)は、この「吐火羅」や、「覩貨邏」という表記についてを・・・或る意味で素直に、「とから」と読み、現在の南西諸島のうち、奄美群島やとから列島、場合によっては、沖縄諸島の一部を含む島嶼群≒とから列島方面と読み解き・・・舎衞については、これら「とから列島方面」の近隣にあって、“トカラ列島方面の勢力と比べると、小さい勢力だった”と推察致します。

      ※ 同年7月24日:「西海使(さいかいし)・吉士長丹」らが、「百濟」と「新羅」の「送使」と共に、「筑紫」に着き・・・「倭国(ヤマト王権)」が、「吉士長丹」に対して、“多くの書物や宝物を齎(もたら)したことを理由”に、「位」と「封」を与える。・・・尚、「西海使」という表記になっていますが・・・『日本書紀』の編纂者達は・・・“第二船が難破した時点で、第一船の渡航目的が変わっていた”と考えた影響の表れだと想います。・・・ですから、西暦653年に、難破せずに入唐出来た第一船は、明らかに遣唐使(≒朝貢団)と見るべきです。・・・いずれにしても、第一船は朝鮮半島を経由して帰国しました。・・・吉士長丹らは、第二船が難破してしまったため、尚更のこと任務達成のため努力したのでしょう。

      ※ 同年(白雉5年)10月1日:“孝德天皇の病いが重篤となったことを聞き付けると、天皇を見舞うべく”、「中大兄皇子(※後の天智天皇)」が、“皇祖母尊(※皇極前天皇のこと)や、皇后、皇弟、公卿ら”を率いて・・・「難波長柄豊碕宮」に赴く。
      ※ 同年10月10日:「孝德天皇」が「崩御」する。・・・これにより、元号の「白雉(はくち)」が使用されなくなる。
・・・ちなみに、新たに、「朱鳥(あかみとり)」と定められるまで、元号を使用しない時期に入ります。・・・次に元号を使用し始めるのは、西暦686年7月20日以降のことであり、その期間は約32年となります。

      ※ 同西暦654年12月8日:「故孝德天皇」が、「大坂磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)」に「埋葬」される。また、“皇祖母尊(※皇極前天皇のこと)や中大兄皇子(※後の天智天皇)らの一行が、倭飛鳥河辺行宮へ一旦遷った”と云われる。・・・「大坂磯長陵」とは、現在の大阪府南河内郡太子町大字山田。その形式は、円丘。考古学名は、山田上ノ山古墳と云います。

      ・・・この西暦654年、“新羅国内では、既に金春秋による唐化政策を、積極的に採用するように”なっており・・・「金春秋」は、新たに「武烈王(※没年は西暦661年)」として「即位」。・・・すると、度々「唐王朝」へ「朝見」して、“その忠誠心を示すように”なります。
      ・・・また、同年の“百濟国内”では、「大干ばつ」によって「飢饉」が発生するも、“百濟・義慈王(ぎじおう:※生年599年~没年660年)は、これに対する有効な政策を採れなかったよう”です。



      ※ 西暦655年正月3日:「倭国(ヤマト王権)」の「皇祖母尊(※皇極前天皇のこと)」が、「飛鳥板蓋宮」にて「重祚(ちょうそ:※一度退位した君主が再び即位すること)」し、再び「斉明(さいめい)天皇」として「即位」。・・・但し、まだ「天皇号」を使用した時期でないことは、これまでと同様。そして・・・「中大兄皇子(※後の天智天皇)」が、再び「皇太子」とされる。

      ・・・“同年2月頃の百濟国内の状況として”は・・・“百濟の皇太子だった扶余隆(ふよりゅう)の宮殿を修理しなければならない程に、退廃していた”とのこと。

      ※ 同西暦655年5月1日:“倭国(ヤマト王権)国内”では・・・「龍に乗った者が空中に有り。その(風)貌は青き油笠(あぶらがさ)を着た唐人に似ており、それはまず葛城嶺(=葛城山)より、胆駒山(=生駒山)に馳せ隠れ、午の時(うまのとき:※およそ11:00~13:00頃のこと)に至りて、住吉の松嶺(現大阪市住吉区)の上を、西へと向かい、馳せ従い去る。」と。・・・まさか、宇宙人がUFOで飛来した訳ではないと想いますので・・・「油笠」とは、“当時の人々には、雨天用の笠のように見えた”ということでしょう。・・・ここにあるように、『日本書紀』中に「笠」という表記がある際には、まず注意が必要であると、個人的に私(筆者)は考えます。・・・そもそも、人が笠そのものを使用する様から連想出来ることに由来するのか?・・・枕詞(まくらことば)とまでは申しませんが・・・何やら・・・世を忍んで振る舞ったり、そのように生きる人々や、不可解且つ超人的な鬼のような存在を表現する際に、「笠」という単語というかアイテムを使用しているように想えるのです。
      ・・・それにしても、油笠を付けた龍に乗る唐人にも似た(風)貌とは?・・・まるで、『西遊記(さいゆうき)』の孫悟空(そんごくう)が乗ったキン斗雲のような動きですし・・・前段では、一見すると彗星や隕石の場合としても、おかしくないと想える表現ですが・・・“時を置いて、西へと向きを変えて飛んで行った”という表現がどうしても、気になる訳です。・・・まず、葛城山から生駒山の方向ということは・・・ほぼ真南から真北の方向へということになります。そして、その後のおよそ11:00~13:00頃には、“住吉松嶺の上を、西へと向かい、馳せ去った”と。・・・これは、いったい何を意図し、暗示する表現なのでしょうか?・・・単に、青天の霹靂的な?
      ・・・いやいや、きっと・・・倭国(ヤマト王権)国内外の状況が、風雲急を告げている時代背景を演出しており、極め付けとして、わざわざ・・・住吉松嶺と表記し、住吉大社を暗示しているところからして・・・「真南」⇒「真北」⇒「西」・・・つまりは、“仙人的な理解不能なものだったため、『朝鮮半島に目を向けよ。そして、そのために西へ向かえ。』というお告げを受けた”という事なのでしょうね。・・・しかも、“唐人に似た(風)貌の者から”として・・・ハッキリと、「唐人」とは断定せずに。・・・
      ・・・そもそも、住吉大社の主祭神は、四柱ともに海の神様でありますし・・・そのうちの一柱は・・・住吉大神の神託によって、自身のお腹に子供(※後の應神〈おうじん〉天皇)を宿したまま、筑紫から玄界灘を渡り、朝鮮半島へと出兵し、新羅を攻め、当の新羅を戦わずして降伏させて、朝貢を誓わせ、高句麗や百濟にも朝貢を約させたという、“いわゆる三韓征伐を、かつて成した”と云う神功皇后(じんぐうこうごう:※ちなみに邪馬台國(=邪馬壹國)の壹與(いよ)の可能性が高いとされています)のことですし・・・更に云うと、そもそもとして、青い油笠を被り龍に乗った唐人のような人が現れたのが、何を隠そう「葛城山」なのでした。・・・確か、中大兄皇子(※後の天智天皇)の実名と云うか、その諱も、「葛城」と云いましたよね。これは、単なる偶然なのでしょうか?・・・何やら、壮大な暗号コードが隠されているようにも想います。・・・考え過ぎなのでしょうか?・・・“彼ら”が・・・いわゆる忍びの者や、大陸からやって来た、どこかの勢力の諜報工作員だったとも考えられる訳です。
      ・・・これらについては、この後の『日本書紀』斉明天皇紀の記述で、徐々に明らかとなりますが・・・
      ・・・いずれにしても、“この一文”を挿入することにより・・・
      ・・・西暦655年5月1日の時点においては・・・“当時の誰一人として、この不思議な現象による吉凶などを判断を出来ていなかった ≒ 古代の国家政策上重んじられる占いや、天文、時、暦の研究編纂を担当する専門部署の陰陽寮(おんようりょう、おんようのつかさ、おんみょうりょう:※うら〈≒裏?〉のつかさ とも)が、未だ創られていなかったのだから仕方ない”・・・と、いう、この『日本書紀』の編纂者側の考えと、同時に・・・
      ・・・“この頃の倭国(ヤマト王権)が、国家宗教として、古来よりの神道(=古神道)と、輸入して律令国家形成に役立つ仏教との狭間にあり、そして絶妙なバランスを保つ配慮をしていたこと”をも、感じられるのです。・・・尚、この文脈は、この後に記述される数々の怪奇現象や、鬼の出現などのキッカケだったと分かるように読める構成となっています。・・・“結果としても因果関係があった”と。

      ※ 同年7月11日:「斉明天皇」が・・・“北(越)の蝦夷99人”や、“東(陸奥)の蝦夷95人”、“百濟の調使150人”・・・を「饗応」する。この時、“既に養っていた蝦夷9人と津軽の蝦夷6人”に対しては、それぞれ「冠二階」と「柵」を授ける。・・・何やら、この頃から・・・蝦夷の人々や、百濟人に対する接し方・・・“特に硬軟織り交ぜて対応する”といった印象を受けますね。

      ※ 同年8月1日:“遣唐使(≒朝貢団)の河辺麻呂ら”が、「帰国」する。・・・押使として入唐した高向漢人玄理は、唐皇帝の高宗(こうそう)に謁見するも、現地に残ったようです。後に“病没した”と云います。・・・残念ながら・・・唐王朝の、太宗と高宗の政権では、それぞれ、どう異なるのか? や、唐王朝としては朝鮮半島の百濟を、いつ攻めるのか? 、第2次高句麗出兵は、いつになるのか? 、そして、倭国(ヤマト王権)には、何を要求して来るのか? 、高向漢人玄理は、唐に残って何をしようとしていたのか? などの・・“気になることについて”の記述は一切ありません。

      ※ 同年冬の初め頃:「斉明天皇」が、“飛鳥板蓋宮が火災に遭ったため”に、「飛鳥川原宮(あすかのかわらのみや)」へ「遷幸」する。・・・これも、まさしく凶兆を示す飛鳥板蓋宮の火災に関する記述です。・・・伝承では・・・“飛鳥川原宮は、現在の奈良県明日香村川原にある弘福寺(ぐふくじ:※当時の名称は川原寺〈かわらでら〉)の地にあった”とされており・・・“斉明天皇などのための、一時的な仮住まいの宮殿だった”と考えられています。
      ※ 同年10月13日:「斉明天皇」が、“小墾田(おはりだ)に、宮を造営しよう”と、「瓦覆い(かわらおおい)」に耐え得る「用材」を求めて、「深山広谷」にて「調達」させようとするも、(・・・※太い原木を、多く伐採しようとしたため・・・)朽ち爛(ただ)れたる者が多く・・・遂に、“造営計画そのもの”を「中止」する。・・・小墾田の瓦覆いについては・・・この飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや:※文字通り、屋根材が厚い板を使用した板葺きの宮だったと考えられています)の火災に見られるように、延焼防止に有効な瓦葺きを採用しようとし、“屋根部分の自重に耐え得る建築用材を求めた”と考えられます。・・・また、そもそもとして、“瓦葺きを採用しようとした”のは・・・天皇が暮らす宮殿が、幾度も火災によって焼失して来たことへの、現実的な対応だったでしょうし・・・“唐王朝による巨大宮殿の屋根構造などに、文化的な刺激を受けた”ということもあったでしょう。
      ・・・しかし、この当時の倭国(ヤマト王権)では、古代中国に全てを倣って、石積み城壁造りの巨大宮殿の建築技術を、単に採用するという訳ではなく・・・と云うか、この時代に、そんなものを築こうとしていたら、膨大な量の石材と、その瓦屋根の荷重を支えるための柱として、巨木が多数必要となり、当時の国家財政にとっては、とんでもないことになるので、非現実的だったと云わざるを得ませんが・・・おそらくは、“古代日本建築技術の独自性をアピールすることに、こだわって木造建築で成し遂げようとした”とも考えられます。過去においては、国家的プロジェクトによって、飛鳥寺や法隆寺などの大規模木造建築物を造る建築技術そのものは保有していた訳ですから。・・・この時に、“造営計画そのものを中止した”という直接的な要因は、ズバリ建築総工費と工期ですね。・・・ですから、「朽ち爛(ただ)れたる者が多く」と、“効率の悪い工事だった”という理由説明がなされている訳です。
      ・・・いずれにしても、この当たりの時期から・・・『日本書紀』の編纂者達が・・・わざわざ、斉明天皇の失政に近いことを、記述し始めております。・・・その意図もまた、いわゆる凶兆の一つを示すことなのでしょう。・・・そして、“倭国(ヤマト王権)時代の天皇や、それを支える組織には、事前または政策実行する直前などに、再考や計画変更を促す柔軟な仕組みが、この頃には無かった”・・・つまり、裏を返せば・・・後の『日本書紀』編纂時期における“大和朝廷の組織形態を肯定するため”とも考えられるのです。

      ※ 同年内:「高句麗」と「百濟」、「新羅」が、「倭国(ヤマト王権)」に対して、並んで「使い」を遣わし、「調」を進める。・・・この際の「百濟」の「使人」は、「大使」として「西部の達率(たつそつ:※二品官のこと)・余宜受(よげず)」、「副使」として「東部の恩率(おんそつ:※三品官のこと)・調信仁(ちょうしんに)」であり、“総勢100人余り”。・・・“これら三國が斉明天皇に朝献した時”、「蝦夷」と「隼人(はやと)」のそれぞれも、「衆」を率いて「列」に加わる。殊(こと:=特に)「新羅」は、「及サン(きゅうさん:※新羅の官名と考えられ、級サンという第九等級の位か?)・彌武(みむ)」を「人質」として差し出して、“その他12人の才伎者(てひと)”を「派遣」する・・・も、「彌武」は、後に「病死」した。
      ・・・この年の朝鮮半島では・・・“百濟、高句麗、靺鞨(まつかつ)の三カ国が、新羅包囲網を形成し、33箇所の新羅側の城”を奪っていました。「靺鞨」とは、現在の中華人民共和国東北部からロシアの沿海地方付近に居住していた農耕漁労民族とされており、ツングース族とも云われていますが・・・いずれにしても、新羅が唐王朝に救援を求める事態となって・・・唐皇帝の高宗は、唐軍に高句麗を攻撃させて高句麗軍を破っています。・・・この頃から、百濟・義慈王の周辺が荒れ始め、高句麗の寶臧王(ほうぞうおう)の王都でも、異変が現れ始めており・・・このような軍事的にも緊張感が漂う最中・・・百濟は、100人余りの使節を倭国(ヤマト王権)へと派遣し・・・新羅は、人質として彌武を、その他12人の才伎者を派遣したのです。・・・ここにある「才伎者」とは、文字通りの、“特殊な技能を持つ者のことであって、律令制以前には、それまで部に編成されていた渡来系の技術者のこと”です。
      ・・・そして、ここでは・・・“淡々と事実を列記して、その朝献の際には、蝦夷や隼人らの集団が加わっていた”としており・・・また、ここにある「隼人」とは、古代日本において、“主に薩摩國(さつまのくに)や大隅國(おおすみのくに)を中心に居住していた人々のこと”です。「はやひと、はやびと」や「はいと」とも呼ばれ、“隼(はやぶさ)のような人の形容”とも、或いは“方位の象徴でもある四神に関する言葉の中から、南を示す鳥隼(ちょうじゅん)の一字である隼(はやぶさ)によって名付けられた”とも云われますが、「隼人」とは、あくまでも倭国(ヤマト王権)側の呼称です。尚、“彼らは、風俗習慣などを異とし、しばしば倭国(ヤマト王権)へ抵抗していた”とも云われます。・・・しかし、やがては倭国(ヤマト王権)の支配下に組み込まれることとなり、後には・・・「隼人」と呼ばれる“律令制に基づく官職の一つ”ともされ、“兵部省の被官”とされる「隼人司(はやとのつかさ、はやとし)」に属すこととなりますし・・・“百官名の一つ”ともなって、「東百官(あずまひゃっかん)」には、「隼人助(はやとのすけ)」などの官名もあります。


      ・・・西暦656年3月の「百濟」では、「佐平(さへい:※一品官のこと)」という役職にあった「成忠(せいちゅう)」が、“義慈王が酒色に耽(ふけ)るのを、諌(いさ)めた”ことによって、「投獄」され、「獄死」してしまいます。・・・『日本書紀』でも、“このような百濟の退廃について”を・・・「この禍(わざわい)を招けり」・・・と、記述しています。・・・尚、この「成忠」と同じ「佐平」の役職にあって、当時左遷させられていた「興首(こうしゅ)」という人物と、この「成忠」の“二人だけ”が・・・後に開始される「唐の侵攻」を予見し、“唐王朝に対する防衛策を進言していた”とも云います。

      ※ 西暦656年8月8日:「高句麗」が、「倭国(ヤマト王権)」に対して・・・“大使・達沙(だちさ)や、副使・伊利之(いりし)などの、総勢81人”を遣わして・・・「調」を進める。

      ※ 同年9月内:「斉明天皇」が、「高句麗」に対して・・・「大使・膳臣葉積(かしわでのおみはつみ)」や、「副使・坂合部連磐鍬(さかいべのむらじいわすき)」、「大判官(だいじょう)・犬上君白麻呂(いぬかみのきみしろまろ)」、「中判官(ちゅうじょう)・河内書首(こうちのふみのおびと)」、「中判官(ちゅうじょう)・某(なにがし:※名を洩らせり)」、「小判官(しょうじょう)・大藏衣縫造麻呂(おおくらのきぬいのみやつこまろ)」ら・・・を「使者」に遣わす。
・・・この『日本書紀』では・・・“この頃から、倭国(ヤマト王権)側の派遣使節にも、冠位が付けられ始めていた”としています。・・・要するに、“倭国(ヤマト王権)の外交政策上において、対外意識というものが、当時しっかりと芽生えるとともに、対外的な必要性も生じていたため、結果としても記録に遺った”・・・と考えて良いのではないでしょうか?
      ・・・尚、「副使・坂合部連磐鍬」の「坂合部(=境部)」とは、“かつての倭国(ヤマト王権)を主導していたと云われる蘇我氏宗家の分家・庶流の一つ”であり・・・“蘇我入鹿の宗家が滅ぼされた後の、この頃には既に、或る意味で倭国(ヤマト王権)政権内において復権していた様子”も分かります。・・・ちなみに・・・後世の、いわゆる古文書や系図類において、蘇我氏宗家から分流した氏族名・家系としては、“この坂合部(=境部)氏の他に確認出来る”のは・・・「高向(たかむく)氏」や、「河辺(かわべ:=河邊≒川辺)氏」、「田中(たなか)氏」、「桜井(さくらい)氏」、「岸田(きしだ)氏」、「小治田(おはりだ:≒小墾田)氏」、「石川(いしかわ:≒石河)氏」、「巨勢(こせ)氏」、「物部(もののべ)氏」、「平群(へぐり)氏」、「紀(き)氏」、「葛城(かつらぎ)氏」、「波多(はた:≒秦、畠、畑)氏」・・・などがあり。但し、当然に・・・分流したり姻族関係で結ばれた事情等については、時代によって、それぞれ異なりますが。

      ※ 同年内:「斉明天皇」が、「飛鳥岡本」を「宮地」に定める。“この時に、高句麗や百濟、新羅が並んで使いを遣わし、調を進めたため”・・・「斉明天皇」は、“この宮地に紺色の幕”を張って、「饗応」する。・・・“やがて宮室が建ったため、斉明天皇が、そこに遷幸する”・・・と、「後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)」とした。そこは、「田身嶺(たむのみね:※=多武峰)」における「冠」のように、「垣」を周囲を廻らす配置となっており、「山の名」も「田身」だったため、“これ”を「大務(たむ)」と呼ぶ。また「嶺上」では、“両側二本の槻の樹(つきのき:=高木)”によって「觀(たかどの)」を起てて、辺りを観渡すことが出来たため、そこを「両槻宮(ふたつきのみや)」と号し、または「天宮(あまつみや)」と呼んだ・・・が、この「後飛鳥岡本宮」にて、後に「火災」が起きた。・・・すると、「離宮」として「吉野宮(よしののみや)」を造った。
      ・・・尚、“西海使の(※位階級を洩らせり)佐伯栲縄(さえきのたくなわ)と小山下(しょうせんげ)・吉士國勝(きしのくにかつ)ら”が、「百濟」より歸(かえ:=帰)って、「斉明天皇」に「鸚鵡(おうむ)」を「献上」した。
・・・「槻」とは、“ニレ科の落葉高木のことであり、欅(けやき)の一種”です。“材としては、弓に適す”とのこと。・・・そもそもとして、槻の木には、神が往来する処という信仰があったようであり、「天宮」と呼ぶこともあったとされています。・・・そして「觀」とは、“いわゆる高楼のこと”であり、宮門の左右にある物見のための高い台。“もとを合せ揃える意から”・・・とされています・・・が、ここにある「觀」とは、道観、すなわち道教寺院と考えられており・・・「天宮」とは、道教思想による命名ではないか? とされております。・・・また、“この觀について”は、火の見櫓(ひのみやぐら)などの消防関連施設説や、物見櫓(ものみやぐら)などの軍事施設説もありますが、宮そのものの位置が特定されていないため、その解釈が難しいところです。
      ・・・しかし、この文脈からすれば、後飛鳥岡本宮の借景(しゃっけい)となる位置か? と想われます。
      ・・・ちなみに・・・後飛鳥岡本宮が、火災発生の火元だったのか? については定かではありませんが・・・この宮の造営に当たっては、興事を行なうため、“水を流すという凝った仕掛けの石山丘”を計画していたため、東の山に石を累ねて垣とするような、大量の垣石を必要とする工事だった筈であり・・・当然に大量の石を切り出し、それらを運搬するためには、香山(かぐやま)から石上山(いそのかみやま)まで、わざわざ水路を造らねばならず・・・結局のところ、200隻もの船を用いて石を運搬したそうでして・・・「工夫(こうふ)を損し費やすこと3万余り」・・・とか・・・「垣を造る工夫を費やし損すこと7万余り」・・・「宮の建築用材は、埃(ほこり:=矣)によって爛(ただ)れ、(芳しい香りがする)山椒も埃(矣)によって埋まってしまった」・・・等々と、散々たる記述となっています。
      ・・・更に、これらに続いて・・・「今度はまた、吉野宮を造った」・・・とか・・・「当時の民は、この水路のことを狂心渠(たふれごころのみぞ)と呼んでいた」・・・とも記述されており・・・“当時の、斉明天皇の為され様について”は、吉野宮造営の意味など微塵も理解されなかった様子が分かります。・・・かなり批判的です。


      ・・・西暦657年4月にも、「百濟」では、「干ばつ」が発生し、“草木が、ほぼ無くなった”と伝わります。

      ※ 西暦657年7月3日:“覩貨邏國(とからのくに)の男2人と女4人”が、「筑紫」に「漂着」する。“彼ら”が言うには、・・・「我々は初め海見嶋(あまみしま)に漂着した」・・・と。そこで、“倭国(ヤマト王権)は、伝馬を以って、彼らを召すこと”とした。・・・やはり、倭国(ヤマト王権)としては、彼ら彼女達から伝えられる情報を、参考としたかったのでしょう。・・・海を渡ってやって来る人々に、厚いおもてなしをして、“何らかの方法でコミュニケーションを取っていた”と考えられます。
      ※ 同年7月15日:「斉明天皇」が、「須弥山(しゅみせん)の像」を“飛鳥寺の西”に造り、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」を行なう。この年の暮れには、「覩貨邏人」を「饗応」する。【※(注釈)或る本では「墮羅人」とも云う。※】・・・ここにある“須弥山の像について”ですが・・・まず、「須弥山」とは、形状的に云うと・・・“日本庭園における須弥山形式 = 中央に突出する岩を、須弥山に例える石組み”・・・のことであり・・・“これに使用される須弥岩は、精巧な噴水構造を持っていた”ことが明らかになっています。
      ・・・そして、“この噴水に関わる技術を齎(もたら)し”たのは・・・かつて「胡人(こじん)」と呼ばれていた「古代ペルシャ人」、或いは「古代ユダヤ人」などの“ユーラシア大陸西域出身の人々”と考えられておりまして・・・当時の倭国(ヤマト王権)国内に渡来していたことが、ほぼ確実視され、また謎多き渡来系大規模氏族として有名な、秦氏などとの共通性が認められるとも想います・・・が、そもそも須弥山を思想的に云うと、“古代インドの世界観による、中心に聳(そび)える聖なる山のこと”であり・・・仏教が、古代中国や古代の日本へ伝播することによって、齎(もたら)されております。・・・特に、仏教の世界観では、須弥山を取巻いて、七つの金山と鉄囲山(てっちさん)があり、その間に八つの海があると捉え、これを九山八海(きゅうせんはっかい)と云います。・・・ちなみに、「須弥」とは、漢字による音訳であり、意訳すれば「妙高(みょうこう)」とされます。・・・以上のことから、“須弥山の像の造形は、鼻高の面立ちを持った人の姿”と考えられており・・・現実として、このような遺物が発見されております。
      ・・・また、“この斉明天皇は道教思想に強い影響を受けた人物だった”と考えられており・・・“石そのものに、普遍的な意味を見い出していた”ことや・・・“海や、湖、沼、池、川の流れ、或いは水そのものを、神聖視したり、それらを信仰対象とするという共通性を持っていた、ユーラシア大陸や日本列島に暮らした古代人達の性格”・・・“当時の飛鳥地方が、石舞台古墳(いしぶたいこふん)に代表される独特の巨石文化を持っていた”こと・・・などによって、納得出来るのではないか? と思います。・・・次に、ここにある「盂蘭盆会」とは、“父母や祖霊(おやのみたま、それい)を供養したり、亡き人を偲び仏法に遇う縁とする行事のこと”です。日本では、元々・・・ここにもあるように、“旧暦の7月15日”を中心に行なわれていました。・・・いずれにしても、この年の暮れに斉明天皇が饗応した相手は、同年7月3日に筑紫に漂着した覩貨邏人だったのか? 或いは、墮羅人であったのか? ハッキリしません。
      ・・・そもそも「墮羅」とは、世界のどの地域を指しているのか? これも謎となります・・・が、「墮羅」という文字を当てられていることや、或いは、我々現代日本人が“ダラダラ”という表現を使うことなどから想像するに・・・当時の倭国(ヤマト王権)内に居たとされる人々の数は、“極々少数であり、かなりのマイノリティー部族だった”・・・と考えても良さそうです。・・・当時の台湾や、フィリピン、パラオ諸島辺りで、元々のんびりと暮らしていた人達が、台風などで遭難し流れ着いたのかも知れません。

      ※ 同年9月:“故孝德天皇の実子・有間皇子(ありまのみこ)”が、「湯治」と称して、「牟婁温湯(むろのいでゆ)」に出向き・・・帰京した後、“その時の國の体勢を讃(ほ)め、その景色を観ているだけで、気の病いが自ら消え去ったのだと、吹聴した”とされる。・・・“そのことを聞き付けた斉明天皇”は、悦(よろこ)んで、「自ら、往って観たい」と思ったと云う。・・・一説には、父の孝德天皇の死後、有間皇子は政敵として自身の命を狙われないように、暫くの間を狂人を装っていたともされておりますので・・・湯治療養そのものが、危険地帯や、危険な時期を脱するための、絶好の口実だったのかも知れません。・・・ここにある牟婁温湯は、「紀温湯(きのいでゆ)」とも云われる・・・現在の和歌山県西牟婁郡白浜町の「南紀白浜温泉(なんきしらはまおんせん)」、若しくは「白浜温泉(しらはまおんせん)」と呼ばれている処です。

      ※ 同年内:「斉明天皇」が、「使い」を「新羅」に遣わす。この時、“沙門・智達(ちたつ)や、間人連御厩(はしうどのむらじみうまや)、依網連稚子(よさみのむらじわくご)らを、新羅への使いに付けて、大唐國へ送って欲しい”と告げる・・・も、「新羅」が、この要請を受け入れなかったため、“智達ら”が「帰国」する。また、「西海使」の「小花下(しょうけげ:※小華下とも)・曇連頬垂(あづみのむらじつらたり)」と、「小山下・津臣傴僂(つのおみくつま:※傴僂を倶豆磨とも云う)」が、「百濟」より帰って、「駱駝(らくだ)一箇(ひとつ)」と「驢(うさぎうま、ろ)二箇(ふたつ)」を献じる。・・・そして、「石見國(いわみのくに)」では・・・「白狐(しろきつね)を見た」・・・と言う。・・・「驢」とは、すなわち「ロバ」のこと。「驢馬」とも表記されます。・・・この文脈から読み取れることは・・・ここにある曇連頬垂などの西海使も、新羅には行かず、百濟を経由して帰って来ているため・・・何やら、新羅との間に、決定的な距離感というものが開き始めていたようですね。
      ・・・反対に、百濟との距離感については、近くなったようです。・・・“石見國で目撃された”という白狐が、吉兆であることからも分かるように・・・倭国(ヤマト王権)としては、“百濟との、より一層の関係改善を歓迎していた”ということなのでしょうか?


      ※ 西暦658年正月13日:「左大臣・巨勢徳多」が「死去」する。・・・「巨勢徳多」とは、かつて・・・“山背大兄王の一族を攻め滅ぼしたり、新羅征討を主張した人物”です。一応・・・“病没だった”とされています。・・・

      ※ 同年4月内:「阿臣(あべのおみ:※名を洩らせり)」が、「(第1次)蝦夷征討」を行なう。・・・“船師(ふなし、ふないくさ)は、180艘”と。・・・この際には、“齶田(あいた)と渟代(ぬしろ)の二郡に居た蝦夷の族長・恩荷(おが、おんが)が、降伏したため”・・・「阿臣(あべのおみ:※名を洩らせり)」は、“恩荷のことを、新めて渟代及び津軽(つがる)の二郡”の「郡領」に定めるとともに、「有馬浜(ありまのはま)」において、“渡島(わたりしま、おしま)の蝦夷ら”を「饗応」する。・・・「船師」とは、その読みの如く・・・“古来より沿海部に居住した海の民は、水上兵力として活躍していたこと”を物語っているようでして・・・後世で云うところの・・・水軍や、公的な海賊といったところでしょうか?・・・“この頃の倭国(ヤマト王権)の水軍力を支えたと云える”のは・・・安曇部(あずみべ)や、海人部(あまべ)、津守(つもり)氏といった、云わば海の氏族(≒海の民)です。
      ・・・そして、“古代日本の航路上における国家の背骨海域”と云えるのは・・・現代の大阪湾や瀬戸内海であり・・・紀ノ川流域に暮らした「紀(き)氏」などのように、“瀬戸内海に接した天然の良港を持ち、後背には木材産地を確保した地方豪族も、独自の水軍を持っていた”とは考えられます。・・・「齶田」とは、「秋田」のことであり・・・同じく「渟代」は「野代」のことであって、現在の秋田県能代地方と考えられ・・・「有馬浜」とは、「有間浜」や「吾妻浜」とも云われるため、現在の青森県西津軽郡深浦町の海岸ではないか? と推察されています。・・・そして「渡島」とは・・・“北海道道南地方や、旧樺太(=サハリン)辺りを示している”と考えられております。・・・これらのことにより、この征討戦は・・・“当然に日本海側の海路を利用していたこと”が判ります。
      ・・・しかし、「郡領」という表現を用いて、“倭国(ヤマト王権)による強い支配を匂わせております”が・・・“まだまだ、そんな状況には、なっていないと読むことが適切”とされていますし・・・結局のところ、“この征討戦の戦後処理でもある饗応自体が、恩荷を渟代及び津軽の郡領として、彼らを紹介したというイベントだった”と云えそうです。・・・むしろ、征討と云うよりは・・・“倭国(ヤマト王権)への蝦夷の取り込み政策”や・・・“倭国(ヤマト王権)幕下における、蝦夷による蝦夷の統制や統治を狙ったものだった”と考えられます。

      ※ 同年5月内:“斉明天皇の孫・建王(たけるのみこ)”が、「今城谷(いまきのたに)」において、“僅か8歳”で亡くなる。 【※(注釈)・・・斉明天皇が作ったとされる詩が三首ほど挿入されておりますが、ここでは割愛させて頂きます。・・・※】 ・・・皇孫の建王は、中大兄皇子(※後の天智天皇)と蘇我倉山田石川麻呂の娘だった遠智娘との間の皇子でした。・・・斉明天皇は・・・「不忍哀、傷慟」・・・つまりは、“身体が震える程傷み哀しまれた”と表現されています。・・・“我が子の中大兄皇子(※後の天智天皇)が、未だに天皇に即位してもいないのに、その中大兄皇子(※後の天智天皇)の子が先立ってしまったため、蘇我倉山田石川麻呂一族の怨念ではなかろうか?” という畏れがあったのかも知れません。・・・この時の斉明天皇は、“万歳千秋の後に至るまで、すなわち自身が入ることとなる陵墓においても、孫の建王を合葬することとして、(=自身の死後も)供養し続けると、群臣に対して公言していた”とのこと。
      ・・・また、ここでは割愛させて頂きましたが・・・“斉明天皇が、皇孫の建王を偲んで、しばしば悲嘆しては三つの歌を詠んだ”としております。・・・ちなみに、「今城谷」とは、大和國吉野郡今木村(現奈良県吉野郡大淀町今木)とされております。

      ※ 同年7月4日:“蝦夷200余り”が、「倭国(ヤマト王権)」に対して、「宮の門前」で「朝献」する・・・と、「斉明天皇」は、常よりも厚く饗応し、“相応しい位階”を、それぞれに授けて、「馬具」や「武器」と共に、「蛸旗(たこはた)」や、「鼓(つづみ)」、「弓矢」、「鎧(よろい)」などを与える。・・・また、「渟代郡」の「大領・沙尼具那(さにぐな)」には、“蝦夷の戸口と虜の戸口についての調査及び報告”を「詔」した。・・・“恭順を示す人々に対しては、厚遇した”ということです。・・・そして、“ただ単に位階を授けるだけでは不充分と判断し、倭国(ヤマト王権)の権威を高める効果を狙い、様々な物を与えた”のでした。・・・これらのことは、“新羅などの国外勢力、とりわけ唐王朝に対して、倭国(ヤマト王権)が東方の蝦夷勢力から朝貢を受けている立場である”という、云わば証明ともなる訳です。
      ・・・ちなみに、「鮹旗」とは、旗頭の下が、タコの足のように別れて垂れる纏(まとい)のような形状だったと考えられ・・・おそらくは、古代中国王朝が使用していたような、黄旗に似たものと推測することが出来まして・・・その役割は、江戸時代終末期~明治維新期における錦の御旗(にしきのみはた)と同様だったと考えられます。・・・いずれにしても・・・最後の部分では、倭国(ヤマト王権)の支配を受け容れた蝦夷勢力の一部族長・沙尼具那に対して、“蝦夷勢力の全容を明らかにした上で報告せよ”との命令を発したとの、アピールも忘れてはおりません。
      ※ 同年7月内:“沙門の智通(ちつう)及び智達”が・・・“斉明天皇の勅”を受け、「新羅」の「船」に乗って、「大唐國」へ行く・・・と、“現地”の「玄奘法師」から、『無性衆生義(むじょうしゅじょうぎ:※法相宗の教義の一つ)』を授かる。・・・ちなみに・・・この約1年前には、沙門の智達は、新羅が天皇の要請を拒絶したために、大唐國への渡航が叶いませんでした・・・が、何故に今回は、新羅の船に乗せたのか? などについては不明です。・・・新羅が、大唐國に対して外交的な配慮をしたのか?・・・はたまた、倭国(ヤマト王権)の思惑に対する警戒感故だったのか?・・・もしかすると、新羅の意向を無視した渡航であって、云わば強硬突破に近かったのか?・・・可能性としては、幾つも、ありそうです。

      ※ 同年10月15日:「斉明天皇」が、「紀温湯(きのいでゆ)」に行く。・・・そこで、「斉明天皇」は、“皇孫・建王の記憶”により、泣き悲しみ、愴(いた)む。 【※(注釈)・・・斉明天皇が作ったとされる詩が、再び三首挿入されておりますが、ここでは割愛させて頂きます。・・・※】 そして、「斉明天皇」は・・・「この想いが、世において、忘れられ去られることが無きよう、後々まで伝えよ」・・・と、「秦大蔵造萬里(はたのおおくらのみやつこまり)」に「詔」した。・・・この1年ほど前に、斉明天皇は甥の有間皇子から、紀温湯が塞ぎ込んだ病いを、癒すために素晴らしい効能を持っていることを聞き付けていましたね。・・・いずれにしても、“ここにも秦氏族の一人の名”が。・・・「大蔵造」ですから、今風に云えば、“斉明天皇の金庫番”といったところでしょうか?・・・また、「萬里」という漢字から連想出来るのは・・・万里の長城?・・・これって、ほぼ決まっちゃうんじゃないでしょうか?

      ※ 同年11月3日:“斉明天皇一行の宮不在時において留守居役とされていた蘇我赤兄(そがのあかえ)”が、「有間皇子」と“語り合う中”・・・「有間皇子」が・・・「天皇が治める政事には、三つの失策あり。一つ目は、民財を積み聚(あつ)めて大きな倉庫を起てたこと。二つ目は、長い水路を作事させて、公の粮(かて)を損し費したこと。三つ目は、丘を造るために舟に石を載せ積み運んだこと。」・・・と言い、“斉明天皇の政事(まつりごと)について、三つの失策”を「指摘」し・・・“蘇我赤兄が、自分の味方と欣(よろこ)んだ有間皇子は、尚も”・・・「年始めには、吾(われ)が兵を用いるべき時が起こるかも知れない」・・・と言ったとされる。・・・つまりは、“有間皇子が、天皇が宮不在であることを良い事に、天皇による政策を批判し、しかも謀反計画とも採られかねない発言までした”と・・・。
      ・・・ここにある蘇我赤兄は、蘇我倉山田石川麻呂の異母弟であり・・・この蘇我倉山田石川麻呂のことを、赤兄の実兄である蘇我日向が讒言したため、死へと追い遣って・・・赤兄は、この実兄の日向と同様に・・・後の西暦669年に、中大兄皇子が天智(てんじ)天皇として即位した後に・・・「筑紫率(ちくしのそつ:※大宰府の長官のこと≒大宰帥)」に任命されているのです・・・。・・・これは、もう・・・“当時の蘇我一族”が、自己勢力の生き残りを賭けて???
      ※ 同年11月5日:「有間皇子」が、“蘇我赤兄の家に向く楼(ろう)へと登り、そこに居棲わって、自らの膝を夾(はさ)むように、謀(はかりごと)を話した”ため・・・「蘇我赤兄」は、これを断れず。・・・「蘇我赤兄」は、“是(これ)にて相(手)の不祥(ふしょう:※不吉であることや、不吉な様のこと)を知った”・・・ものの、“とりあえずは止めにした”と、倶(とも)に盟す。・・・すると、ようやく・・・「有間皇子」が、“宿とすべき処”へと歸(かえ:=帰)る。・・・是(こ)の日の夜半、「蘇我赤兄」は、“宮を造る丁(てい、よほろ、ちょう:※課役された人夫のこと)を率いていた物部朴井連鮪(もののべのえのいのむらじしび)”を遣わして、“有間皇子の市経(いちぶ)の家を取り囲む”・・・と、“斉明天皇の所”へ、「驛使(えきし:=駅使)」による「便(たより)」を遣わして、奏(かな)でる(=通報した)。・・・「物部朴井連鮪」とは、かつての軍事系家系として有力だった物部氏族です。
      ・・・しかし、この時に動員されたのは、宮を警備したり守衛したりする専門職の人々などではなく、“宮を造るために集められていた丁だった”とされています。・・・斉明天皇の紀温湯訪問ご一行には、専門職の警備兵などを、概ね伴なっていたのでしょうか?・・・留守居役とされていた蘇我赤兄には、天皇や宮の役人や兵員を動員する権限そのものが、与えられていなかったのでしょうか?・・・いずれにしても、有間皇子の市経(いちぶ)の家へ! と差し向けられたのは・・・かつて仏教に関する政策などで、蘇我氏の政敵とされていた筈の物部氏でした。・・・ここに、“自己勢力の生き残りのためならば、なりふり構わないという、蘇我赤兄の心境”が読み取れます。・・・尚、「市経」とは、現在の奈良県生駒市壱分町。
      ※ 同年11月9日:「蘇我赤兄」が、“有間皇子に與(くみ)した守君大石(もりのきみのおおいわ)や、坂合部連薬(さかいべのむらじくすり)、塩屋連制魚(しおやのむらじこのしろ)”を、「捕縛」して、「紀温湯」へ送る。・・・この時、「舎人(とねり)・新田部米麻呂(にいたべのよねまろ)」は、“有間皇子の最期”まで従う。・・・このような状況下にあった有間皇子は、従兄弟でもある「中大兄皇子(※後の天智天皇)」から・・・「何故の謀反か?」・・・と「親問」されると・・・「(天與赤兄知、吾全不解) 《訳》全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も解らぬ。」・・・と答えたとされる。・・・『日本書紀』では、「親問」と記述されており・・・現代で云うところの「尋問」となりますが、あくまでも皇子様を相手としているので、“厳しい取り調べスタイルでは無かった”とは考えられます。・・・ここにある「舎人」とは、皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事した者。または、その役職のことです。
      ・・・ちなみに「采女(うねめ)」も、同様となりますが・・・“彼ら彼女ら”は、元々・・國造などの有力な地方豪族出身者であり、倭国(ヤマト王権)中枢の人物と各地方豪族の長との橋渡し役(≒パイプ役)でもありました。今に云うところの“出向役員のような者”です。・・・いずれにしても・・・ここでは、有間皇子と舎人・新田部米麻呂との主従の絆を連想させる美談が挿入されているか? のようです。・・・このようなことを、わざわざ記述していることからも・・・中央と地方との連携、すなわち倭国(ヤマト王権)勢力圏内における両者間の帰属従属関係は、政治的に確立されていた訳ではなく、まさに発展途上段階にあったと云え、いわゆる国家体制としての一体性については、まだまだ不充分であり・・・微妙な関係性の上に成り立っていたことを物語っているように想います。
      ※ 同年11月11日:「倭国(ヤマト王権)」が、「丹比小澤連國襲(たじひのおざわのむらじくにそ)」を、「藤白坂(ふじしろさか)」に遣わして・・・「有間皇子」を「絞首刑」に処す。・・・同日、「塩屋連制魚」と「舎人・新田部米麻呂」を、「斬刑」に処す。・・・また、「守君大石」を「上毛野國(かみのけのくに、かみのけぬのくに)」へ、「坂合部連薬」を「尾張國」への「流刑」に処す。【※(注釈)或る本では、有間皇子と蘇我臣赤兄、塩屋連小戈、守君大石、坂合部連薬が、短籍(たんじゃく、たんざく)を取りて、謀反についてを卜(うらな)ったと云う。 (また)或る本では、有間皇子が「まず宮室を燔(や:=焼)きて、五百人を以って一日両夜、牟婁津(むろのつ:※現和歌山県田辺市付近か?)にて、(敵を)邀(むか)え、船師を以って淡路國(の援軍)を断ち疾(や:=止)む。牢圄(ろうご)の如くに使えば、其(そ)の事は易(やさ)しく成る。」と云ったと。或る人は、諫(いさ)めて「不可なり。既に計(はか:=図)る所は然れども(≒あっても)、徳が矣(い:≒埃、ちり、ほこり)のようで(=少しも)無いのだから。
      今、皇子の年(=歳)は、十九の始めの方であり、未だ成人に及ばず、成人に至りて、其の徳を待ってからとするべし。」と云ったと。他日のこと、有間皇子が謀反についての判事(ばんじ:≒万事)の一つを與(あたえ)た時(≒謀反計画を明らかにして伝えた時)、皇子が案(を練っていた)机の脚が、故(ゆえ)無く自ずからを断った。其の謨(はかり:=謀)を止めなかったので、遂に誅戮(ちゅうりく:≒誅殺)されたものなり。※】
・・・「藤白坂」とは、現在の和歌山県海南市藤白。・・・「上毛野國」とは、上野國(こうずけのくに、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)のことであり、現在の群馬県。・・・この時に、上毛野國への流刑とされた守君大石は、ほどなく赦されるようでして・・・後の西暦661年8月には百濟救援のために水軍の将として派遣されておりますし、西暦665年12月には遣唐使(≒朝貢団)として唐へ渡海しています。
      ・・・尾張國への流刑とされた坂合部連薬も、後の西暦672年に起こった「壬申の乱」で大友皇子(おおとものみこ:※後の弘文〈こうぶん〉天皇、天智天皇の皇太子のこと)側の将として再登場致します・・・が、“この有間皇子の父・故孝德天皇さえも、中大兄皇子(※後の天智天皇)や中臣鎌足(※後の藤原鎌足)らの傀儡(かいらい)に過ぎなかった”という説もあります。・・・結果としては・・・有間皇子が、策謀を仕掛ける蘇我赤兄の罠(わな)に掛かってしまったか? のような暗~い権力闘争が、“大化の改新以後も続いていた”という状況を物語っております。・・・しかし、裏を返して云うと・・・もちろん、このことは悲劇的な出来事ではあった訳ですが・・・このことや、以前の出来事(※これまでの数々の有力者や皇位継承権を持つ人物達に降り懸かった一連の失脚事件のこと)などにおいても、“強硬的な手段を用いねばならぬ程に、倭国(ヤマト王権)内外から伝わる緊迫感が、彼ら倭国(ヤマト王権)中枢を担う人々を覆い尽くしていたため、そして将来に大和朝廷という体制を確立することに伴なって断行された行為だった”とも云えるのかも知れません。
      ・・・尚、【※(注釈)※】にもあるように、有間皇子は、この時19歳。・・・そして、ここの【※(注釈)※】では、「或本云」を“二冊”とし・・・「或人諫曰」・・・の言葉などを引用して、“具体的な謀反計画について”を言及しながらも・・・結局は・・・“止めておけば良かったのに。ほら、言わんこっちゃない。それなりの暗示もあったでしょうに”・・・と締め括っているのです。・・・ちなみに、「或人諫曰」の「或人」とは、いったい誰のことだったのでしょうか?・・・謀反計画を通報した蘇我赤兄だったのか?・・・或いは、後にほどなく赦された守君大石だったのか?・・・はたまた、坂合部連薬だったのか?・・・それならばそうと、明確にすれば良いと想うのですが、あくまでも「或る人」という表記なのです。・・・いずれにしても、当時影響力を持っていた人物や、或る血統を、庇(かば)うか? のようです。

      ※ 同年内:「越國守・阿引田臣比羅夫(あべのひきたのおみひらふ)」が、「粛慎(しゅくしん、みしはせ、あしはせ)」を討ち、生きた「羆(ヒグマ)2頭」と「羆の毛皮70枚」を献じる。・・・そして、「沙門・智喩(ちゆ)」が、「指南車(しなんしゃ)」を造る。・・・また、「出雲國(いずものくに)」では・・・「北の海の浜において、厚さ三尺を超えるほど魚が死んで積もっていた。其の大きさは、フグ(※魚偏に台と書く)の如くであり、それは雀(スズメ)の嘴(くちばし)のようで、針状の鱗(うろこ)を持ち、鱗の長さは数寸あった。俗の人は、雀が海に入って、魚と化したため、その名は雀魚。」・・・と云ったとされる。【※(注釈)或る本は云う。庚申年(※“この時より2年後”の西暦660年のこと)七月に至りて、百濟が使いを遣(つかわ)して、「大唐と新羅が力を併せて、我(※百濟のこと)を伐った(=攻めた)。既に、義慈王と王后、太子は、虜とされ、去っていた。・・・是に由りて、國家の兵士甲卒を以って、西北の畔に陣した(≒陣を張る)。城柵を繕脩(つくろ)い、山川を塞いで断つ兆なり」・・・と、奏言した。※】
      また、昨年中の「西海使」だった「小花下・曇連頬垂」が言うには、「百濟が新羅を伐する時に、小花下・曇連頬垂が歸國(=帰国)するが・・・「寺の金堂にあっては、馬自らが、昼夜に関係なく、息をすることも忘れたかのように勝手に走る。馬はただ、草を食す時のみ、止まっていた」・・・と。【※(注釈)或る本は云う。「庚申年(※西暦660年のこと)に至りて、敵の爲に滅せられる応(こたえ)なり」と。※】
・・・ここでは、倭国(ヤマト王権)の遥か北方を根拠地としていた他勢力については・・・さらっと紹介する程度ですが・・・「粛慎」とは、中国東北部やサハリンなど、現在のロシア連邦沿海地方に暮らしたとされるツングース系狩猟民族ではないか? と云われております。この粛慎は・・・“後に、この民族が暮らしていた地域の名称”、つまりは「地名」とされました。また、この粛慎という呼び名は、“周代や春秋戦国時代の華北地域を中心とした東アジア都市文化圏の人々(※後に、漢民族として統合される人々のこと)が、粛慎人の自称を、音訳した呼び名”です。「息慎(そくしん)」とか、「稷慎(しょくしん)」とも表記されます。
      ・・・ちなみに、“粛慎などの末裔”には、「靺鞨(まっかつ)」が含まれる・・・とされておりますが、古代中国の周代文献中にも、しばしば見られるほか・・・ここにもあるように、『日本書紀』にも「粛慎」の記述が見られます。・・・しかしながら、“中国文献中の粛慎”と、“日本文献中の粛慎”が確認される時期には・・・かなりの開きがあって、その関連性については、不明とされているのです。・・・したがって、この『日本書紀』で記述されている「粛慎」とは、“オホーツク文化を継承する蝦夷以外の人々”ではないか? とも推察されております。・・・“沙門・智喩が作った”という「指南車」とは、“からくり人形的な一定方向を示す装置のこと”です。・・・但し、後世で発明される羅針盤(らしんばん)とは異なり、自ら南の方角を探し当て、それを示し続けるという機能は無く・・・これら指南車の示す方向は、あくまでも操作者が最初に設定した方角となります。つまり、台車を床に置き、あらゆる方角に台車を転がし差し向けても、台上の仙人人形は、同一の方角を指し示す物です。
      ・・・これは、“基本的に南の方角を示し続けるため”に発明された装置であり・・・“中国古来からの、天子は南に面するという思想に基づく筈”と考えられております。・・・尚、倭国(ヤマト王権)の中央から観ると、西方に当たる出雲國の人々の発言内容については、注釈付きの詳細な表現となっています・・・が、この中で、出雲國の人々が「雀魚」と呼んだ魚は、「ハリセンボン」のことと考えられ・・・“あくまでも凶兆として、出雲國の人々が捉えた”としているのです。・・・つまりは、“これら不可解な現象が、百濟危急の事態を知らせるものであって、魚の大量死については、出雲國の北、つまりは朝鮮半島から異変を暗示するもの”としているのです。


      ※ 西暦659年正月3日:「斉明天皇」が、「紀温湯」から歸(=帰)る。・・・“斉明天皇が”となっていますが、これを、“斉明天皇の紀温湯訪問ご一行”と読み替えても構わないと想います。しかし、“その全てが全て”と云う事は、考え難いですね。・・・“斉明天皇の紀温湯滞在中”に、謀反の罪で有間皇子らが亡くなっている訳ですから。

      ※ 同年3月1日:「斉明天皇」が、「吉野(よしの)」へ行き、「肆宴(しえん)」する。・・・「肆宴」とは、“宮中の公的な宴席の典型例とも云うべきもののよう”です。・・・「吉野」については、大和國の南部一帯を示し、現在の奈良県南部一帯。現在でも、桜や紅葉の名所として有名ですね。元々・・・「吉野」には、“狩りに適した良い野という意味があります”・・・が、“この場合の狩り”とは、「狩猟」のことだけではなく、「紅葉(もみじ)狩り」や、「きのこ狩り」なども含みます。・・・この「吉野」は、『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』などでも有名な、後世の西行法師(さいぎょうほうし:※生年西暦1118年~没年1190年3月31日)が訪れて、実際に自らが修行したように・・・そもそもとして、仏教伝来以前の古代日本では、自然崇拝や精霊崇拝を中心とする古神道が、信仰の中心になっていました。
      ・・・吉野の「宮の平遺跡(みやのたいらいせき:現奈良県吉野郡川上村迫宮の平)」では、“祭壇と見られる環状配石遺構”が発見されており・・・「龍門山(りゅうもんざん:現和歌山県紀の川市)」に伝わる史書では、「神仙境」として登場しています。・・・また、“西暦587年7月に蘇我馬子が、排仏派の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼしたとされる丁未の乱(ていびのらん)以後”の、西暦594年に「仏教(三宝)興隆の詔」が発せられることとなり・・・“それ以降”は、この吉野にも、多数の仏教寺院が建立されます・・・が、“依然として、この頃”は・・・“役小角(えんのおづの:※生年西暦634年伝~没年701年7月16日伝)という呪術者(じゅじゅつしゃ)が、金峰山(きんぷせん:※金峯山とも表記し、金の御岳〈かねのみたけ〉とも)において、蔵王権現(ざおうごんげん)を感得(かんとく:※奥深い道徳や真理などを感じ悟ること)し、従来の山岳信仰と仏教や道教を習合したとされる日本独自の修験道(しゅげんどう)を開いた”・・・とされる時期と、ちょうど重なるのです。
      ・・・ちなみに、この「蔵王権現」とは、インドや中国にその起源を持たない、日本独自の仏であり、修験道の本尊とされ・・・その正式名称は、「金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)」、または「金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)」と云いまして・・・「金峯山寺(きんぷせんじ:現奈良県吉野郡吉野町吉野山)」が「本山」とされます。・・・これがある「吉野山」には、他にも「吉水神社(よしみずじんじゃ)」や、「如意輪寺(にょいりんじ)」、「竹林院(ちくりんいん)」、「桜本坊(さくらもとぼう)」、「喜蔵院(きぞういん)」、「吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)」、「金峯神社(きんぷじんじゃ)」など、多くの社寺が存在しています。・・・“この中にある金峯神社の主祭神”は、“吉野山の地主神”である「金山毘古命(かなやまひこのみこと)」、別名を「金山彦神(かなやまひこのかみ)」とも云い、日本神話に登場する神様でもあります。『古事記』では、「金山毘古神」と、『日本書紀』では「金山彦神」と表記されております。
      ・・・この「金山毘古神」は、「金山毘売神(かなやまびめのかみ:※金山姫神とも)」とともに・・・“神生み神話や国生み神話に登場するイザナミという女神が、火の神とされるヒノカグツチを産む際”に・・・火傷(やけど)を負ったため、衰弱していく過程で、その嘔吐物(たぐり)として生まれた神様だったためなのか?・・・現在でも、“鉱山の神や金属の神、鋳物の神”として信仰されています。・・・“金山毘古神と金山毘売神(※金山姫神とも)”は・・・おそらくは、“神武(じんむ)天皇期に、金属を取扱う一連の技術を、日本列島へ齎(もたら)して、ヤマトの勢力拡大に貢献した部族の祖先だった”と考えられます。
      ・・・そして・・・“吉野山に桜が多い訳”は? と云えば・・・“役小角が修行を積んだ結果として、金剛蔵王権現が出現して、これを感得したため、桜の樹を用いて蔵王権現像を彫った”とされており・・・“それ以降、ここで修行をする行者(ぎょうじゃ)は、桜材を用いて、権現像を彫刻し、これを祀(まつ)る習わしとしたため、桜がご神木”とされ・・・“桜の枯れ木といえども、薪(まき)とはせずに、桜の一枝を折る者に対しては、指一本を切るという厳しい掟が厳守されていた”とも云います。・・・そのため、「蔵王権現」へ祈願する際には、“ご神木とされる桜から作った苗を寄進するのが、最善の供養という風習が起こる”こととなり・・・平安時代頃からは、“更に多くの桜が植えられるようになったよう”です。・・・「金剛蔵王」という語には、“究極不滅の真理を体現し、あらゆるものを司る王”という意味があり、「権現」という語には、“権(かり)の姿で現れた神仏の意味がある”とのこと。・・・したがって、この「金剛蔵王権現」は、“仏や菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇など、全ての力を包括している”と云います。
      ・・・更に・・この「吉野」は、“修験道と所縁の深い熊野古道(くまのこどう:※熊野三山〈熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社〉へと通じる参詣道の総称”でもあります。紀伊半島に位置し、道は三重県や、奈良県、和歌山県、大阪府に跨(またが)ります。・・・このような、説明書きだけでも、何と日本的なことか!! と感じてしまうのは、私(筆者)だけでしょうか?・・・いずれにしても、“この時の斉明天皇一家”としては、単に自らの癒しや、禊(みそぎ)のためだけではなく・・・“その後の倭国(ヤマト王権)全体の運営に関して、何らかの目的を持って、吉野の地を選び、そこに出向いて、肆宴した”と考えられるのです。
      ※ 同年3月3日:「斉明天皇」が、「近江(おうみ)」の「平浦(ひらのうら)」へ、「行幸」する。【※(注釈)平の一文字を田偏に比と記し、もう一文字を羅と記す。二文字を併せて、ひらと読む。※】・・・“吉野における肆宴から、たったの二日目”。今度は、近江の平浦に!?・・・甥の有間皇子を、絞首刑にさせてしまってから、そんなに日が経っていませんからね。・・・さすがに、“ショックを隠せない様子が窺い知れる”と云えるのかも知れません・・・が、近江の平浦にて、重要人物の誰かを出迎えた?・・・或いは、相談事?
      ・・・いずれにしても、ここにある「平浦」とは、“現在の比良山地 (ひらさんち:※滋賀県の琵琶湖西岸に連なる山地) の東側一帯を示している”と考えられ、「比良の浦(ひらのうら)」とも呼ばれ、“斉明天皇作の和歌”においても、「歌枕(うたまくら:※和歌において使われた言葉や詠まれた題材のこと。現代では、専ら名所旧跡のこと。)」とされた模様であり、『萬葉集』巻11の“2743首目”には・・・「なかなかに君に恋ひずは比良の浦の白水郎(あま)ならましを玉藻刈りつつ」・・・と収録されており・・・この和歌が、「寄物陳思(ものによせておもひをのぶ)という項目」に分類されてもおります。・・・
      ※ 同年3月10日:「吐火羅(とから:≒覩貨邏)人」が、“斉明天皇のもと”に、「妻」の「舎衞婦人(しゃゑのめのこ)」と共に来る。・・・ここにあるように、「吐火羅人」と「舎衞人」が共に記述されていますので・・・おそらくは、西暦657年7月3日の条に記述された男女6人グループの中から、“選抜された夫婦だった”のでしょう。このように、“二人が夫婦だった”ことにより・・・吐火羅(≒覩貨邏)と舎衞の勢力同士は、お互いに、そんなに隔絶された距離にあった訳ではなく、“ほどほどに近い地域だったろう”との予測も成り立ちますし・・・「覩貨邏」の、「覩貨」や、「舎衞」の文字、すなわち“当て字”からも推察出来るように、何かしらの文明的な香りも致しますので、自分勝手に原始人的なイメージで観ると、大きな落とし穴に落ちてしまうような気が致します。
      ・・・少なくとも、当時の倭国(ヤマト王権)ないし、斉明天皇が引見していた訳ですから。また、「吐火羅(≒覩貨邏)」という記述が、「舎衞」よりも多いことからも・・・『日本書紀』の編纂者達が、“あくまでも吐火羅(≒覩貨邏)を中心に認識していること”も分かります。・・・したがって、その当たりを常識的に考えると、“吐火羅(≒覩貨邏)が比較的大きい勢力であり、舎衞は吐火羅(≒覩貨邏)と比べると、やや小さめの勢力であった”のではないか? とも、予想出来るのです。
      ※ 同年3月17日:「斉明天皇」が・・・“甘檮丘(あまかしのおか)の東の川上(=川辺)”に、「須弥山」を造り・・・“陸奥と越の蝦夷”を「饗応」する。【※(注釈)檮は柯之と云い、川上を箇播羅(かわら)と云う※】・・・「甘檮丘」とは、現在の奈良県高市郡明日香村飛鳥にある小丘陵のこと。標高約148m。味橿(うまかし)丘とも云い、「甘檮岡」や、「甘樫丘」とも表記されますが・・・地勢的には、“飛鳥(あすか)川が甘檮丘の東側を北流”し・・・“その対岸”には「雷丘(いかずちのおか)」があります。・・・『日本書紀』允恭(いんぎょう)天皇紀によると、“ここ”で、「盟神探湯(くかたち:※古代の裁判の一種)」が行なわれ・・・その後には、“蘇我氏宗家の大邸宅群があった”とも伝えられています。・・・現在は、飛鳥古京を一望出来る自然の展望台となっており、この付近が国営飛鳥歴史公園の一部に指定されており、2005年には「甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおかとうろくいせき)」において、「掘立柱跡」と「堀跡」などが発掘されております。
      ・・・いずれにしても、この時の斉明天皇は、“噴水機能を持つ古代の須弥山の心理的効果を駆使して、陸奥や越で暮らした蝦夷を饗応していた”とのこと。
      ※ 同年3月内:「阿臣(あべのおみ:※名を洩らせり)」が、「(第2次)蝦夷征討」を行なう。・・・“船師(ふなし、ふないくさ)は、180艘”と。・・・“この時の阿臣(※名を洩らせり)”は・・・“飽田(あくた)及び渟代二郡の蝦夷ら241人と、その虜ら31人、津軽郡の蝦夷ら112人と、その虜ら4人、胆振(□)(いぶりさへい:※□は、金偏に且)【※(注釈)胆振(□)は、伊浮梨娑陛と云う※】の蝦夷ら20人”・・・を、一同に集めて「饗応」し、それぞれに「禄」を与えるとともに、「船1隻」と「五色の綵帛(ごしきのしみのきぬ)」を以って、“彼の地(=現地)の神”を祭る。・・・“この際、肉入籠(ししりこ)が至る(=を供える)時に、問菟(という)の蝦夷・胆鹿嶋(いかしま)と、菟穗名(うほな)という二人”が進み出て・・・「後方羊蹄(しりへし)を以って、政所(まつりどころ)とすべし」・・・と云った。【※(注釈)肉入籠は、之々梨姑と云い、問菟は、塗+田偏に比+宇と云い、菟穗名は、宇保那と云い、後方羊蹄は、斯梨蔽之と云う。政所は、蓋(がい:≒慨)して蝦夷の郡か※】
      〈阿臣(※名を洩らせり)は〉“胆鹿嶋らの語(=言)”に隨(したが)いて、遂に「郡領」を置き(=定めて)、歸(=帰)る。そして、「道奥(みちのく)」を興(おこ)して、「越國」を司る「位」を、“それぞれ二階”を授けるとともに、また「郡領」を興して、“主に政(まつりごと)に(携わる者)”に対しては、それぞれ「一階」を授けた。【※(注釈)或る本は云う。阿倍引田臣比羅夫が、粛慎と戦って歸(=帰)り、虜三十九人を献じたと。※】
・・・まず、注意しなければならないのは・・・この文脈において・・・西暦658年4月に行なわれたとされる(第1次)蝦夷征討の文脈には、無かった文字が付け加えられていることです。・・・このページでは、(第2次)蝦夷征討と、割愛させて頂いておりますが・・・『日本書紀』斉明天皇紀の原文では・・・「阿倍臣が、船師百八十艘を率いて蝦夷を討つ。」・・・と、“蝦夷が暮らしていた地域”を、「國」と表現しているのです。
      ・・・このことは、(第1次)蝦夷征討とされる西暦658年4月の記述では、戦闘そのものが倭国(ヤマト王権)の主目的ではなく、“むしろ船師180艘規模の軍勢を見せ付けることによって、蝦夷達が恭順姿勢に変わる効果を狙っていた”と考えられます。・・・しかも、前回の(第1次)蝦夷征討後には、“蝦夷に対して、蝦夷の戸口及び虜の戸口についての調査報告を命じていた訳です”し。・・・もしかすると、(第1次)蝦夷征討後に・・・『また必ず来年には、同じ様に来るからね!!!』・・・ぐらいの事は、吹聴していたのかも知れません。・・・それなのに、倭国(ヤマト王権)側を満足させるような調査報告が無かったため・・・『それならば、本当に攻めるぞ!!!』・・・『でも、本当のところは・・・』・・・『百濟情勢は切迫しているし、攻めたくないな・・・』という具合いになってゆき、“この際には相当の駆け引きがあった”と考えられます。
      ・・・ですから、“胆鹿嶋と菟穗名二人の意見をも取り入れることとなって、蝦夷達が現地で信仰する神々に対しても、お供物を奉げることになった”と。・・・しかしながら・・・このことは、あくまでも・・・倭国(ヤマト王権)側からの観方であって・・・“自然環境と上手く付き合い、好戦的で無かったと伝えられる蝦夷とされた人々側からすれば、迷惑この上ない状況だった”とも想います。・・・それでも、時代的な話をすれば・・・“大陸や、朝鮮半島周辺においては、政治的な理由や戦争などにより、結果として各民族が大移動していた訳です”から・・・蝦夷の人々が暮らす地域にも、いずれは新たな渡来系の人々が流入して来ることになり、各地における文化摩擦や武力衝突なども、時間の問題だったと容易に想像出来ることでして・・・何と云うか・・・“古代国家の成立過程においては、致し方ないことだった”のかも知れません。・・・「飽田」とは、齶田(あぎた)のことであり、後に「秋田」とされました。・・・また、胆振(□)(※□は、金偏に且)【※(注釈)胆振(□)は、伊浮梨娑陛と云う※】とは、“現在の北海道道南から道央に掛けての地域”です。
      ・・・尚、「後方羊蹄」とは、“現在の北海道後志(しりべし)地方南部”のこと。・・・やはり、この文脈でも「郡領」という表現を用いて、倭国(ヤマト王権)による支配を主張しておりますが・・・その実態は? と云えば、“まだまだ、そんな状況にない”と読むことが適切とされています。・・・確かに、キッカケの一つとは云えるのですが。

      ※ 同年7月3日:「斉明天皇」が、「(第4次)遣唐使(≒朝貢団)」として、“小錦下(しょうきんげ)・坂合部連石布(さかいべのむらじいわすき:※坂合部連磐鍬とも)や、大仙下(だいせんげ)・津守連吉祥(つもりのむらじきさ)、伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)、難波吉士男人(なにわのきしのおびと)ら”を、「難波」の「三津之浦(みつのうら:※難波津のこと)」から「出航」させる。・・・“この際の入唐目的は、道奥の蝦夷男女2人を、唐王朝の皇帝・高宗に示し奉るための謁見”とされる。“使節団を乗せた二船は、呉唐の路に奉使するため”として・・・まず、「筑紫」の「大津之浦(おおつのうら:※那大津のこと)」を目指すことになるが・・・。【(第4次)遣唐使(≒朝貢団)】・・・【※(注釈)ここの記述から、同年12月3日までの記述は、『伊吉連博徳書(いきのむらじはかとこのしょ) 』からの引用が多く視られ、詳細な記述となっています。※】・・・ここにある“筑紫の大津之浦”こと、「那大津(なのおおつ)」とは、“古来から通交や通商を担うための国際港湾都市だった”と考えられます。

      ※ 同年7月15日:「斉明天皇」が、「群臣」に「詔」して・・・“都内(みやこうち)の寺”に、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』を説かせて・・・“七世の父母”へ報いさせる。・・・ここにある『盂蘭盆経』とは、『父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)』などと同様に、“古代中国で、孝の倫理を中心にして成立した”と考えられ・・・そして、「偽経」とされる代物(しろもの)です。“釈迦十大弟子の一人である目連尊者(もくれんそんじゃ、モッガーラーナ)が、餓鬼道(がきどう)に堕ちた亡き母を救うために、衆僧供養を行なったところ、この母にも供養の施物が届いた”という事象が説かれております・・・が、要するに、これは・・・“斉明天皇が、都中の寺に、広く倭国(ヤマト王権)の民の先祖供養をさせたものの、本来の仏教からすれば間違った経典に基づいていた”ということであり・・・後世の『日本書紀』の編纂者達からすれば、“斉明天皇に対して、かなり批判的な記述”なのです。

      ※ 同年8月11日:「(第4次)遣唐使節船団(≒朝貢団)」が、「筑紫」の「大津之浦(※那大津のこと)」を「出港」し、「唐」を目指す。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】

      ※ 同年9月13日:「(第4次)遣唐使節船団(≒朝貢団)」が、“百濟南岸の島”に「到着」する・・・も、“この島の名”は、明らかでなかった。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】
・・・筑紫の大津之浦(※那大津のこと)を出港してから、百濟南岸の島に到着するまでに、約1カ月を費やすなど、“この使節団一行が、それまでの遣唐使(≒朝貢団)とは異なる一面を持っていたこと”を匂わせています。・・・“この空白の約1カ月について”は、壱岐か対馬辺りにて台風に備えていたと、一般的には解釈されておりますが、むしろ・・・この辺りを拠点として、新羅の動向を探ると同時に、百濟との調整を進めていたのではないでしょうか?・・・尚、興味深いこととして、伊吉博徳という特命外交官的な人物が同船していた訳です。
      ・・・この伊吉博徳の伊吉(いきの)という姓は、そもそも、「伊岐(いきの)」とか、「壱伎(いきの)」とも表記されており、“壱岐島(いきのしま)にも繋がる渡来系の、語学力や書記能力に富む氏族”とされます。しかも、“彼自身”が、このように・・・『日本書紀』にも多く引用されて『伊吉連博徳書』と呼ばれる、(第4次)遣唐使(≒朝貢団)に随行した際の紀行記録や手記を遺しておりました。・・・『日本書紀』では、“この伊吉連博徳について”を・・・「天武(てんむ)朝前後は不遇であったが、新羅との国交が好転して以降は、持統朝に返り咲き、文武朝には大宝律令編纂者となった。」・・・と、注している人物です。・・・それに・・・“彼自身”が、後の西暦667年に送唐客使(そうとうきゃくし)として、西暦694年前後には遣新羅使(けんしらぎし)として・・・“白村江の戦い以後の重要な局面”に、再・再登場しているのです。
      ※ 同年9月14日:「(第4次)遣唐使節船団(≒朝貢団)」が、“百濟南岸の島”を、相従いて(=皆が連れ立って)、「大海」に出ずる。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】
      ※ 同年9月15日:「(第4次)遣唐使節船団(≒朝貢団)」は、“日没時の横からの逆風”により・・・“坂合部連石布(※坂合部連磐鍬とも)の乗る船”が、“南海の島”に「漂着」する。“この南海の島の名”は、「爾加委(にかい?、じかい?)」と。“坂合部連石布(※坂合部連磐鍬とも)ら”は、“そこの島人の所”において、滅せられる(≒襲撃され、殺害された)。「便り」によれば、“東漢長直阿利麻(やまとのあやのながのあたいありま)や、坂合部連稻積(さかいべのむらじいなつみ)らの5人については、島人の船を盗み乗って、唐の括州(かつしゅう:※現中国浙江省麗水付近)まで、逃げ到る”と。・・・その後、“そこの州県官人が、彼ら5人を洛陽(らくよう:※当時は唐王朝の副都でした)の京(みやこ)に送り到らせた”と。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】・・・“当時の遣唐使などの大型船には、だいたい120人位乗船出来た”とのことであり・・・「爾加委」と呼ばれた島で、大使・坂合部連石布(※坂合部連磐鍬とも)が殺害されて・・・生き残りが僅か5人とは・・・。
      ・・・“乗船していた、ほとんどの人達が犠牲となったよう”です。・・・古代のこととは云え・・・単なる災難としては片付けられない大事件だった訳です。・・・
      ※ 同年9月16日:“(第4次)遣唐使節船団(≒朝貢団)が、百濟南岸の島を、相従いて(=皆が連れ立って)大海に出ずる”・・・も、“一方の(=大使らが乗る船とは別船の)副使・津守連吉祥らが乗る船は、東北からの太急な風(=東北からの烈風)”によって・・・“(同年9月16日の夜半”には、「唐」の「越州(えつしゅう)会稽県(かいけいけん:※現在の中華人民共和国浙江省紹興付近)」の「須岸山(しゅがんさん:≒舟山群島か?)」に行き到る。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】・・・ここまでの文章や、表現方法・・・そして、『日本書紀』の記述自体が、『伊吉連博徳書』からの引用であることからも、“察しが付きます”が・・・“伊吉博徳自身は、津守連吉祥らと行動を伴にしていたこと”・・・が分かります。
      ※ 同年9月22日:“津守連吉祥らの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)”が、「唐」の「余姚県(よようけん:※現在の中華人民共和国浙江省寧波付近)」に行き到ったため・・・“乗って来た大船”と「諸々の調度物」を、そこに留め置く。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】

      ※ 同年10月1日:“津守連吉祥ら”が、「唐」の“越州の底(もと)”に行き到る。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】
・・・“越州の底(もと)”とは、現在の中華人民共和国浙江省紹興にあった、「州衙(しゅうが)」と考えられます。・・・つまりは、越州の役場所在地のこと。
      ※ 同年10月15日:“津守連吉祥ら”が、「駅(≒馬)」に乗り、「入京」する。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】・・・この場合の「京」とは、唐の都だった「長安(ちょうあん)」のことです。
      ※ 同年10月29日:“天子(※唐王朝の皇帝のこと)が洛陽に居たためとして”・・・“津守連吉祥ら”が「洛陽」へ馳せ到る。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】・・・ちなみに、原文では、下線部分のように「洛陽」と記述されている訳ではなく、「東京(あずまのみやこ)」と表記されています。・・・唐の時代には、“長安が正都”とされていましたので、これを「(西)京」。・・・そして、“天洛陽が副都”だったため、「(東)京」と呼んでいたのです。
      ※ 同年10月30日:“生き残った(第4次)遣唐使(≒朝貢団)の津守連吉祥ら”が、「唐王朝」の「皇帝・高宗」との「謁見」を果たす・・・と、「皇帝・高宗」から、“倭国(ヤマト王権)の日本國天皇や、日本國内の様相について、一緒に連れて行かれた蝦夷のことなどについて、数々の質問を受ける”こととなり・・・これらに「返答」する。【※(注釈1)『伊吉連博徳書』より引用※】+【※(注釈2)『日本書紀』では、ここで『伊吉連博徳書』以外の『難波吉士男人書(なにわのきしのおびとのふみ)』からも引用しています。その引用文によると・・・※】・・・「大唐に向かった大使が、島にて觸(ふ)れて、覆(くつがえ)る。副使は、天子に親しく覲(まみ)えて、蝦夷を示して奉(たてまつ)る。是において、蝦夷は、白鹿の皮一つと、弓三つ、箭(や:※矢のこと)八十本、を天子に献じる。・・・このように・・・『日本書紀』では、『伊吉連博徳書』からの引用が見られ、そこでハッキリと日本國という国号が記述されています。
      ・・・但し、うがった見方をすれば・・・後世における『日本書紀』の編纂時点において、“都合良く挿入された記述であるという可能性も無くは無いのです”が。・・・そもそもとして、倭国 ≒ ヤマト王権 ⇒ 日本國 という流れで考えて良いのか? という視点でさえ定説がありません。(・・・※ここまで、散々に倭国(ヤマト王権)としておきながら。・・・)・・・敢えて、一つの例を挙げるとすれば・・・世界史的に観ると・・・倭国とは、北九州地方を中心とした倭人で構成される集団国家であり・・・ヤマト王権とは、倭国以外の本州などに暮らした倭人や渡来系種族、蝦夷の人々などの混血人で構成される集団国家だったという可能性もあり・・・いずれにせよ、一つの国家として纏(まとま)っていく過程の初期段階では、云わば後世の南北朝時代のように、“大きな二つの王朝国家群が並立していた”という可能性もありますので。
      ・・・しかし、このような可能性を突き詰めてしまうと・・・いわゆる『記紀』、すなわち『古事記』と『日本書紀』など現存している古文書自体の内容や・・・日本神話や各地での伝承や逸話などについても、脚色や演出、時の為政者などの意図について、或る程度を排除せねばならず・・・結果として、非常に読み解き難くなってしまいますので、信じても良さそうな部分は信じ、これと反対と感じる部分については、それなりに読むというスタンスで良いのではないでしょうか?・・・ということで、本ページでも・・・以下に、唐王朝皇帝の高宗と津守連吉祥ら生き残った(第4次)遣唐使(≒朝貢団)の洛陽における、遣り取り部分についてを、『伊吉連博徳書』から引用しつつ、本ページ筆者の解説や感想も付け加えることに致します。・・・が、まずは、『難波吉士男人書』について・・・『伊吉連博徳書』とともに、“最古級の中国旅行記”とされますが、全文は伝えられておりません。・・・さて、この『難波吉士男人書』からの引用文を読みますと・・・伊吉連博徳は、“これらのことを、事細かに、しかも強調していた”と考えられます。
      ・・・“そもそもとして、海東が騒がしいことは承知していたため、北の海路が採れず、難破する危険性が高かった南の海路を採ることとなり、結果としては、大使の船が難破してしまった”と。・・・しかし、それでも・・・“かつての高句麗が、粛慎の矢を献上したという故事に倣って、蝦夷を連れて行き・・・唐王朝皇帝だった高宗と謁見を果たした”と。・・・“それは、それは、障害が多くて、安全な航路が塞がれていた”にもかかわらず。・・・「我が倭国(ヤマト王権)の斉明天皇や、唐王朝皇帝の高宗の、それぞれの徳が、東アジアを覆っているからです!!!」・・・とでも、奏上したのかも知れません。・・・但し・・・「大使は、島にて觸(ふ)れて、覆(くつがえ)る。」・・・という表現が気になります。これでは、まるで・・・今に云う、“脳卒中や、くも膜下出血などによって、ひっくり返ってしまった”とも読めるではありませんか? 或いは、“島の岩礁か何かに船がぶつかり、その時の衝撃か何か(※脳震とうや溺死?)によって、大使・坂合部連石布(※坂合部連磐鍬とも)が亡くなってしまった”という意味なのでしょうか?
      ・・・実際のところは、“坂合部連石布(※坂合部連磐鍬とも)の死因の真相について”は、『伊吉連博徳書』と『難波吉士男人書』の二点しか存在していないため・・・結局のところは、永遠に藪の中と云える状況なのです。・・・そのため、『日本書紀』の編纂者達は、“大使の死亡原因については、読者に任せるといった手法を採った”のでしょう。


      ※ここより、しばらくは『伊吉連博徳書』からの抜粋となります。

                  「(閏十月)卅日、天子相見問訊之、日本國天皇平安以不。」
               《訳》 閏(うるう)十月卅日(みそか)に、天子が、「日本國天皇は平安なりや否や?」と訊ね問うた。


                  ・・・この一文は、“唐王朝皇帝の高宗の質問から”始まります。そして、日本國という国名が使われた最初とされておりますが・・・後の『日本書紀』斉明天皇7年5月条にて、伊吉連博徳自らが、大倭(おおやまと?、やまと?)という国名らしき名称を用いたことが引用されていることなどからして・・・ここでは、日本國と繋げるのではなく・・・「(閏十月)卅日、天子相見問訊之曰(いわく)、本國天皇平安以不」・・・という文だったのでは? という可能性も指摘されています。・・・また、この伊吉連博徳は、同様に「倭客」という表記はしているものの、「日本客」とはしておりません。そして、「天子問曰」というのが、“一種のパターン”であり、『伊吉連博徳書』の記述を引用して、『日本書紀』の編纂者達が、“改変した可能性も高い”と云うのです。すなわち、『日本書紀』の編纂過程においては・・・“まずは、日本國天皇と言いたかったし、濁点(=、)を少しずらして、曰(いわく)という字を、日(にち)という字に置き換えたほうが好都合だった”とする説です。
                  ・・・但し、これらに反し・・・『伊吉連博徳書』においては、“伊吉連博徳自らが、ただ単に表向き・対外的には「日本」と表記し、内向きには倭という字を使用することで、結果的に使い別けていた”という可能性については、排除し切れておりませんし・・・上記でもふれたように、“二つの大きな王朝国家群が並立していた可能性もあります”ので。・・・いずれにしても、“結果的に生き残った(第4次)遣唐使(≒朝貢団)の津守連吉祥ら”にしてみれば・・・「天皇」という語が、“唐王朝に通用したことは、まずは一安心という状況だった”と云えるかと。・・・古代国家間における対話形式は、現代の電文のようなものだったでしょうから。・・・きっと、この対話については、津守連吉祥が対応したのでしょうが、まことにお見事でした。

                  「使人謹答、天地合徳、自得平安。」
               《訳》 使人が謹んで答えた。「天地の德を合せて、自ら平安なり」と。

                  「天子問曰、執事卿等好在以不。」
               《訳》 天子が、「事を執る卿ら(≒卿大夫)は恙なきや否や?」と問うた。

                  「使人謹答、天皇憐重亦得好在。」
               《訳》 使人が謹んで答えた。「天皇は、憐(あわれ)みを重ね(≒恵み賜うこと深く)、恙なし」と。

                  「天子問曰、國内平不。」
               《訳》 天子が、「國内は平(穏)でありやいなや?」と問うた。

                  「使人謹答、治稱天地萬民無事。」
               《訳》 使人が謹んで答えた。「天地萬民が無事であると稱(たたえ)、治まっています」と。


                  ・・・“この返答”には、唐王朝皇帝の高宗も、さすがに驚いたのでしょう。倭国(ヤマト王権)の天皇とは、如何なる者か? と怪訝(けげん)に思ったかも知れません・・・が、なかなかどうして、如何にも天皇らしい、あり様を示す返答だったのです。・・・そこで、高宗は、蝦夷に話題を移します。

                  「天子問曰、此等蝦夷國有何方。」
               《訳》 天子が、「これらの蝦夷の國とは何処に有るのか?」と問うた。


                  ・・・ここの記述から、“西暦659年7月3日に(第4次)遣唐使(≒朝貢団)に付け加えられた、道奥の蝦夷男女2人が、無事に、唐王朝皇帝の高宗の面前へ連れて来られたこと”が分かります。

                  「使人謹答、國有東北。」
               《訳》 使人が謹んで答えた。「(その)國は東北に有ります」と。

                  「天子問曰、蝦夷幾種。」
               《訳》 天子が、「蝦夷は幾種か?」と問うた。

                  「使人謹答、類有三種。遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷毎歳入貢本國之朝。」
               《訳》 使人が謹んで答えた。「(その)類いは三種有ります。遠くの者の名は都加留(つかる)、次の者は麁蝦夷(あらえみし)、近くの者の名は熟蝦夷(にきえみし)。今、この熟蝦夷が、本國の朝に毎歳入貢しています」と。


                  ・・・“この一文から分かること”は・・・“当時の倭国(ヤマト王権)が、蝦夷については、3グループあり”・・・と認識していたこと。・・・そして、“唐王朝皇帝の面前に連れて行かれた道奥の蝦夷男女2人が、倭国(ヤマト王権)から観ても、近くの地方に暮らし”ていて、「熟蝦夷」と呼ばれていたこと。・・・また、さりげなくですが・・・「熟蝦夷」が、“倭国(ヤマト王権)の朝廷(≒大和朝廷)に対して毎年入貢していて、倭国(ヤマト王権)の朝廷(≒大和朝廷)と熟蝦夷との間には、朝貢関係が成立していたこと”をも、主張しております。

                  「天子問曰、其國有五穀。」
               《訳》 天子が、「其(その)國には五穀が有るのか?」と問うた。


                  ・・・何故ここで、五穀か? と申しますと、“朝貢のための貢物”・・・この場合は・・・当然に、品として必要となる五穀を例(たと)えに、熟蝦夷と遣り取りしているのか? と、唐王朝皇帝の高宗から、“ツッコミ”を入れられたのでした。

                  「使人謹答、無之。食肉存活。」
               《訳》 使人が謹んで答えた。「之(これ:※五穀のこと)は無し。活かすように、(保)存した食肉なのです」と。


                  ・・・皇帝の高宗からの“ツッコミ”でしたが、そのままを正直に返答したのですが・・・

                  「天子問曰、國有屋舎。」
               《訳》 天子が、「(その)國には舎屋(やかす:※家屋のこと)は有るのか?」と問うた。

                  「使人謹答、無之。深山之中、止住樹本。」
               《訳》 使人が謹んで答えた。「之(これ:※舎屋のこと)も無し。深い山の中で、樹の本(もと)に止(とど)まって住んでおります」と。

                  「天子重曰、朕見蝦夷身面之異極理喜怪、使人遠來辛苦、退在館裏、後更相見。」
               《訳》 天子は、(このように)重ねて言っていた。「朕(ちん)は、蝦夷の身面が極めて異なるのを見て、怪しみながらも理(ことわ)りを喜んでいる。使人(※遣唐使のこと)は辛苦に耐えて遠くより来た。(ついては、一旦)館の裏へ退いて居なさい。後に更に相見えよう」と。


                  ・・・「後に更に」というところが、気になりますが・・・その場面で対話した内容までは、さすがに伊吉連博徳も書き遺してはいないようです。・・・果たして、その内容は、“ごく限られた者の記憶によってのみ、倭国(ヤマト王権)中枢の人物達に伝えられた”のでしょうか?・・・


      ※ 西暦659年11月1日:「唐王朝」における「冬至の会」が、“この日の朝”に催される・・・と、“津守連吉祥ら”が「出席」し、“唐王朝皇帝・高宗との再謁見”を果たす。・・・そこで・・・「諸蕃(≒諸外国)の中、倭客が最も勝る。」・・・と評されたが、(直)後に“出火の乱(※火災発生のこと、ボヤ騒ぎ?)があった”ため、復(また)しても、“検を受けられず終(しま)い”となった。・・・ここにある冬至の会には、倭国(ヤマト王権)の他にも、諸蕃(※三韓と呼ばれた朝鮮半島の国々など)も出席していたことが判りますが・・・そもそもの「検」とは、国交関係を証明する外交調印文書や、検印の類いだったのでしょうか?・・・いずれにしても、ここの文脈からすると・・・何か雲行きが怪しいというか、時間稼ぎをされているようにも読めますね。・・・それに、“唐王朝側は、あくまでも倭の客と認識していたと、伊吉連博徳が、さりげなく主張しているよう”ですし。
      ・・・ちなみに、唐王朝の皇帝が、洛陽で催した冬至の会には、新羅はもとより、高句麗や百濟の各出先機関の担当者(※或いは諜報機関か?)なども参加していたでしょうから、様々な駆け引きが行なわれていたと容易に想像出来ます。・・・かの高向漢人玄理が、この時生きていたのかどうか? は定かではありませんが・・・当時の唐には、既に、親新羅派とされる倭国(ヤマト王権)の留学者グループがおりましたので。・・・おそらくは、“彼らの働き掛け”があって、再謁見が早々(※翌日のこと)に実現し、朝鮮半島情勢や、倭国(ヤマト王権)が新羅や百濟と、どのような関係を取結ぶのか? については・・・“この再謁見においては、明言を避けるように!”・・・などと、“働き掛けをして、中立性を保つよう注意を払っていた”とは考えられます。・・・しかし・・・

      ※ 同年12月3日:“(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)員・韓智興(かんちこう)の傔人(ともびと)・西漢大麻呂(かわちのあやのおおまろ)”が・・・枉(ま:≒曲)げて・・・“我が客”を讒(そし)る。それによって、“(その場に居た)客らが、唐王朝の罪に問われる”こととなり・・・(その場に居た客らが)捕らえられた後に、「全員流罪」と決まる。・・・更には、「韓智興」が、前(さき)に“三千里の外へ”と流されたが、“その時の客の中に居た伊吉連博徳が奏(かな)でたため”に、とりあえず「免罪」となる。・・・事が了(おわ:終)った後、唐王朝から・・・「國家(※唐のこと)としては、来年必ず海東の政(まつりごと)あらん。汝ら倭客東に歸ることを得ず。」・・・という「勅旨」があった。・・・遂に、“津守連吉祥らの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)”は、別(々)の処、すなわち東京(※洛陽のこと)と西京(※長安のこと)とに、匿(かく:=幽閉)され、東西(=互いに往来すること)も許されず・・・戸は閉じられて、防(ふせ)ぎ禁じられるという状況となる。(遣唐使節全員は)年を経て、困苦していた。・・・この時の唐王朝としては・・・
      ・・・秘密裏に百濟への出撃準備を整えつつあったため、倭国(ヤマト王権)が派遣した(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)を、洛陽と長安とに、別々に監禁し留めて・・・“百濟への出兵計画や作戦などが伝わらないように情報封鎖した”のでした。・・・数々の困難を乗り越えて、ようやく・・・唐王朝皇帝の高宗と謁見を果たした津守連吉祥らの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)でしたが・・・折からの百濟と新羅との戦争に、唐が新羅の援軍として、参戦決定したことなどにより・・・伊吉連博徳らは、洛陽と長安とに監禁されることとなった訳です。(・・・※おそらく、一人一人別々に監禁されたように読めます。あくまでも、伊吉連博徳視点となっていますので。・・・)
      ・・・いずれにしても、このような情勢になると・・・南海の爾加委島で亡くなった、遣唐大使・坂合部連石布(※坂合部連磐鍬とも)に課せられていた最大の任務が・・・この百濟 Vs 新羅戦争に、大国の唐が介入する気があるのか否か? の確認・・・更には、もし仮に・・・唐による介入が差し迫っているのならば、それを・・・出来得る限りの期間、押し留まらせるという難しい任務だったという可能性が考えられます。・・・まさに、このような高度な外交判断と臨機応変な対応を行なえる権限を、大使の坂合部連石布(※坂合部連磐鍬とも)が一任されていたのではないでしょうか?・・・事実として、百濟が、唐と新羅連合軍に攻め込まれた時点では、倭国(ヤマト王権)は援軍を派遣していません。・・・おそらくは、百濟からの援軍要請は、倭国(ヤマト王権)側に届いていた筈ですが、“現実として派遣しなかった”のです。
      ・・・と、いうことは・・・“倭国(ヤマト王権)が戦争準備を、いまだに整えていなかったこと”を、示唆しており・・・また、“倭国(ヤマト王権)としては、坂合部連石布(※坂合部連磐鍬とも)の判断力や外交手腕、諜報能力などに対して、全幅の信頼を寄せて、彼の帰国を期待していたこと”を物語っているのではないでしょうか?・・・この頃の朝鮮半島周辺海域は、それこそ一触即発と云った危険極まりない海域であり・・・“坂合部連石布(※坂合部連磐鍬とも)が、殺害(※若しくは事故死、病死)されてしまった理由も、いわゆる諸勢力の息が掛かった海賊の仕業だったり、新羅当たりの破壊妨害工作活動だった”とも、考えることが出来るのかも知れません。・・・しかし、現実には・・・既に、大使・坂合部連石布(※坂合部連磐鍬とも)は、この世には無く・・・この12月3日の時点では、別の格好で朝鮮半島問題が表面化していた模様なのです。
      ・・・尚、そもそもとして・・・(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)員を構成していた韓智興とは、“倭人と古代中国人との混血人”であり、西暦653年には高向漢人玄理らと共に唐へと渡った人物でした・・・が、『伊吉連博徳書』によれば・・・西暦654年に帰国した当時の(第2次)遣唐使節団(≒朝貢団)員の多くが、海で亡くなったり、唐において亡くなっているのです。(・・・※第2船120人のうち、生還したのは、やはり5人でした・・・)・・・そして、この韓智興は、いつの事かは判然としませんが、帰国が叶った人でもあった訳です。・・・そんな強運の持ち主でしたから・・・今回も、その経験を期待されて遣唐使(≒朝貢団)に加わっていたのでしょう。・・・また、留学者には・・・通常の場合、付き人が数人居りましたが・・・そのうちの一人とされる西漢大麻呂が、“(伊吉連博徳が云うところの)我が客を、唐王朝に対して讒言した”と云うのです。
      ・・・ここにある“我が客”とは、この『伊吉連博徳書』の基となる日誌を認(したた)めている伊吉連博徳の側の人ではなく・・・つまり、韓智興は、伊吉連博徳からすれば、“我の側では無かった”ことになりますが・・・いずれにしても、“傔人・西漢大麻呂が、伊吉連博徳側を、讒言した”のです。・・・“西漢大麻呂が、唐の秘匿情報を得ていた”ことを、敢えて匂わせているか? のようにも読めますが・・・それでは、結果として讒言とはなりません。・・・あくまでも、伊吉連博徳側の人達を讒言しているのであり・・・“彼ら”が、唐王朝と新羅とが如何なる盟約を交わしているか否か? についてを、探る諜報員だったとしなければ、やはり讒言とはならないのです。・・・しかし、“伊吉連博徳側”と云うより、まずは、自分の主(あるじ)である韓智興が、死刑に次ぐ量刑とされる“三千里の外の流刑に処された”としていますので・・・これでは、“西漢大麻呂も、良い思いをするどころか、同列視されて、特に得をした者はいないという結末”だったかと。
      ・・・このような結末では、今に云うところの・・・ハニートラップにでも、引っ掛かって、讒言させられたのではないか? とも想いたくなります。・・・“(伊吉連博徳が云うところの)我客らについて”も、流罪が一旦決定しました・・・が、当の伊吉連博徳が、何をどのように奏上したのか? については、一切記述されていません。・・・更には、流罪については、許されたようですが・・・結局のところ、洛陽と長安の2カ所に、それぞれ、一人一人監禁され、互いに連絡をすることも禁じられていた訳です。・・・これらのことから察するに、私(筆者)は・・・“生き残った(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)の内部においてさえ、百濟や新羅、或いは高句麗などの朝鮮半島諸国に対する倭国(ヤマト王権)の方針そのものが、統一されておらず、唐王朝に対しての倭国(ヤマト王権)の方針表明や、態度表明が出来なかったことを意味している”と考えます。・・・もしも、大使・坂合部連石布(※坂合部連磐鍬とも)が存命だったならば、結果にどう影響したのでしょうか?
      ・・・坂合部連石布(※坂合部連磐鍬とも)は、倭国(ヤマト王権)の方針を統一させて、唐王朝に対して、真正面から、方針表明や協議が出来たのでしょうか?・・・歴史に、「たら・れば」は、禁句ですが・・・現実としては・・・生き残った(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)内の意見統一などに関わりなく、朝鮮半島事態は動いていくこととなったのでしょう。・・・最終的に云うと、唐王朝としては・・・内部でバタバタしている遣唐使節団(≒朝貢団)を観て・・・『・・・とりあえず、邪魔にならぬよう監禁しておけ!』・・・となっただけなのかも知れませんが。

      ※ 同年内:「出雲國造(いずものくにのみやつこ:※名を洩らせり)」に命じて、「神の宮」を厳(おごそ)かに、「修繕」する。・・・「狐(きつね)」が、“於友郡(おうのこおり)の役丁(えよほろ、えちょう、えてい:※公の労役に服するため、諸国から徴集されて上京した成年男子のこと)が手に執っていた葛(くず)の末(すえ)を、噛み断ちて、去って行ったと。・・・または、「狗(いぬ)」が、“死人の手臂(てひじ:※腕のこと)を、言屋社(いうやのやしろ)に噛み置いて行った”とも。【※(注釈)天子が崩御する兆なり※】・・・また、“高句麗の使人”が、「羆皮1枚」を持って、“其の價(あたい:=値)を、綿60斤(きん)と稱(となえ)ていたが、市司(いちのつかさ)は咲(わら)って去って行った”とか。・・・「高麗畫師子麻呂(こまのえかきこまろ)」が、“同姓の賓(客)を、私家(=自邸)に(招く)日を設けると、官の羆皮70枚を借りて、賓席のために使用した”と。“(その時の)客ら”は、羞(は:=恥)じるとともに、“どうして、かくも見事に、用意されているのか? と、怪しんで退席した”と。
      ・・・ここにある【※(注釈)※】以前の文章は、全体として興味深いですね。・・・良く観ると、ここでは、出雲國の三つのお社についてを、それぞれ記述しているのです。・・・まず、神の宮の修繕を命じた相手が、中央政権から任命される國司ではなく、地元の國造だったということに関連しています。“出雲の神の宮”とは、すなわち出雲大社(いずものおおやしろ、いずもたいしゃ:現島根県出雲市大社町杵築東)のことです。
      ・・・何故、このように読めるのか? と申しますと・・・そもそも、「國造」というのは・・・この時代の倭国(ヤマト王権)の形態が形成されていく過程・・・つまりは、地域国家群(≒部族社会や氏族社会の基)や、複数による大型地域集団、王権の連合(=連合王権)形態など、様々な表現が出来るのですが・・・要するに、「國造」は・・・“これらの過程段階における、それぞれの族長家系や首長家系、王族家系”・・・少し時代が進むと、「地方豪族」などと表現しますが・・・「大化の改新」や、その後に起きる「白村江の戦い」、「壬申の乱」などの過程を経た 中央集権的古代国家 = 大和朝廷 が出来上がってくる頃まで、ほぼ世襲制を保っており、軍事権や裁判権などを持つ各地方の支配者だった訳です。
      ・・・主に『古事記』や『日本書紀』などの日本神話(・・・※読む人が読めば、これらは単純に、日本人のルーツを物語っているのであり、ほぼ皇統譜であると云う事も出来るのです。・・・)や、各地の「風土記」からも読み取れるように・・・そこに登場する神々の多くが、各地の地方豪族の祖神(おやがみ)、つまりは、ご先祖であることが、古神道や氏神信仰、古来よりの民俗信仰などを観ても明らかなのですから。・・・それが・・・“大化の改新以降”には、中央集権的古代国家が形作られ始めて、主に祭祀を司る世襲制の名誉職となっていた訳です。・・・ちなみに、「造(みやつこ)」の訓読みの発音である「みやつこ」とは、「御奴(みやつこ)」、または「御家つ子」の意味とされています。
      ・・・さて、この一文の話に戻しまして・・・“出雲國造が、倭国(ヤマト王権)から命を受けて、神の宮の修繕を、現場で指揮したという事自体が、当時の倭国(ヤマト王権)と出雲國造との関係性を表している”ということなのです。・・・神として祭られたご先祖様にしても、神として人間界の様子を見るための宿となるお社を、自身の子孫によって修繕されるならば、許容もするのでしょうが・・・ほとんど血統などの関係性を持たない部族の子孫が、仮に修繕しても、ご利益が減じてしまったり、返って祟(たた)りを蒙(こうむ)ってしまったりと・・・この文章では、そんな『日本書紀』編纂者達の思想や、道徳観、宗教観などが、映し出されているのです。・・・そして、出雲大社の主祭神は、大國主神(おおくにぬしのかみ)。この神様は、日本神話の中で、“自身の国土を献上した”ことから、「国譲りの神」とも呼ばれており、云わば“幽冥界の主(あるじ)”ですから・・・当時の斉明天皇や、倭国(ヤマト王権)にすれば、仏だけではなく・・・幽冥界の主 = 大國主神・・・にも、祈願せねばならない程の事情があったとしか読み取れません。
      ・・・再度、この文章に戻りまして・・・「於友郡」とは、かつての意宇郡(おうのこおり:※出雲國の北西部一帯、日本海側一帯)のことです。・・・また、“この一文”では、「出雲大社」ではなく、「熊野大社(くまのたいしゃ:現島根県松江市八雲町熊野)」についても記述しています。・・・「葛の末」というのは、“切り出した材木を引っ張ったり、束ねたりと、綱として使用した葛の蔓(つる)の端を、意味している”と考えられます。・・・したがって、“切意宇郡で働く役丁が、この葛を用意していた所に、狐がやって来て、これを噛み切って行った”と読めるのです。・・・実は・・・「出雲大社」と「熊野大社」の、どちらのお社”も、「出雲國一之宮(いちのみや)」とされており、“この地域における最高の社格を持ったお社”なのです。
      ・・・しかも、“後者の熊野大社”は、“火の発祥の神社”とされることから、別名を「日本火出初之社(ひのもとひでぞめのやしろ)」と呼び、その主祭神は・・・“八岐大蛇(やまたのおろち)退治”や・・・“八岐大蛇の尾から取り出された”と云われる三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)・・・など、日本神話上で数多く語られる「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」なのです。この「熊野大社」は・・・本ページでも前述しましたが・・・“紀伊國の熊野三山”としても有名です。・・・しかし、そもそもとして、“熊野大社から紀伊國へ勧請(かんじょう:※本社の祭神を他所で祀る際、その神の神霊を分けること。分霊〈ぶんれい、わけみたま〉とも云う)された”という説と、“これらは全く別系統”とする説があります。
      ・・・「熊野大社社伝」では、“出雲國意宇(おう)郡熊野村の住人が、紀伊國へ移住した際に、分霊を勧請したのが、紀伊國の熊野本宮大社の元である”としているのです。・・・これが事実ならば、“いわゆる熊野信仰、すなわち日本独自の修験道を発展させる礎(いしずえ)が、出雲國意宇郡熊野村の熊野大社にあった”ということになります。・・・私(筆者)個人としては、これらの関連性を考えると、妙に納得してしまうのですが。・・・さて、“次の一文”に話を移しまして・・・「言屋社」とは、「揖夜神社(いやじんじゃ:現島根県松江市東出雲町揖屋)」とされています。“この揖夜神社の主祭神”は、本ページでも前述した「伊弉冉命(いざなみのみこと)」。“神生み神話や、国生み神話に登場するイザナミという女神様”です。・・・そして、このお社では、“狗が死人の腕を噛み置いて行った”と。・・・現代人にとっては、何ともグロテスクな光景ですが、“ただの犬”としている訳ではなく・・・神の使いを連想させる「狗」という字を当てております。・・・そして、極め付けの【※(注釈)※】部分が挿入されました。
      ・・・ここまでの文章では、結局のところ・・・“國造によって(然るべく)修繕された出雲大社は一応無事だった”・・・が、“役丁が携わった別のお社では、不吉なことが起きてしまった”と記述しているのです。・・・このような文章の表現方法にしても、わざわざ遠回しに、「出雲大社」や「熊野大社」、そして「言屋社」を、匂わせる仕掛けに満ちているように想えます。・・・さて、【※(注釈)※】部分以後の文章となりますが、これもまた興味深い内容となっています。・・・“古代の市況”と申しますか、国際取引・・・つまりは、経済的なお話です。・・・ここで話題とされている品は、「羆皮」と「綿」です。・・・この文章からも読み取れるように・・・当時の倭国(ヤマト王権)内における「綿」は、そのほとんどが輸入品で高価なものであり、いわゆる“貨幣を流通させる以前の国際相場(こくさいそうば)を決める際のモノサシだったよう”です。
      ・・・唐では、「1斤≒16両≒160銭」、グラム換算では、「1斤≒596.82g≒約600g」。・・・ですから、「60斤では、約3.6㎏」となります。綿繊維の比重を0.2g/立方㎝程度とすると、綿1㎏当たりの体積は5,000立方㎝程度。・・・すると、綿3.6㎏で、18,000立方㎝程度となり・・・“この綿3.6㎏分が、羆皮一枚に相当していた”というのです。・・・このように、羆皮は、当時の国際取引において、主に高句麗が交易により、肅愼などから入手していたため・・・“非常に高価なものだったこと”を物語っています。・・・「市司」とは、大化の改新後に出来た市(いち)における人や、物の出入りを管理する司(つかさ)でしたが・・・“この文章では、物価を管理する役目もあった”ように読めます。“高句麗から持ち込まれた品々についても、今で云う検査や検品をしていた”のでしょう。・・・おそらくは、“彼らが、献上品として持ち込んだ羆皮についてを自慢していた”と想像出来ますね。
      ・・・ところが、この市司は、西暦658年に、越國守・阿引田臣比羅夫が粛慎を討った戦果として、献上された羆皮70枚のことを承知しており、それらを管理する立場にあったのか? “笑って去って行った”のでした。・・・ここの文中にある「高麗畫師子麻呂」とは、“西暦653年6月に亡くなった旻法師のために、仏像や菩薩像を造ることを、当時の孝德天皇から依頼された画工狛堅部子麻呂(えかきこまのたてべのこまろ)と同一人物”とされています。すなわち、狛(こま)は、高麗(こま)として通じますので。・・・実のところ・・・「高麗畫師子麻呂」こと「画工狛堅部子麻呂」は、“倭国(ヤマト王権)側から、高句麗の使人を、私邸に招き饗応するよう頼まれていた”のかも知れません。・・・そして、この「高麗畫師子麻呂」は・・・高句麗の使人が羆皮を自慢していたことを聞き付け、思案し・・・官に対して、その事情を説明した結果、羆皮70枚を借用することが許されて・・・全ての賓席に、羆皮が敷かれることとなり、賓席そのものが終了。
      ・・・すると、“(高句麗からの)客らは、羞じ入るとともに、どうして、かくも見事に、用意されているのか? と怪しみながら、退席していった”と云うのです。・・・結局のところ、「高麗畫師子麻呂」こと「画工狛堅部子麻呂」だけでなく・・・“高句麗に対する倭国(ヤマト王権)や、阿引田臣比羅夫(あべのひきたのおみひらふ)などのお株が、グンと上がった”のでしょうね。


・・・・・・・・・・次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】