街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 同西暦1865年(慶應元年)12月7日:「朝廷」が、“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の京都警衛への勤労”を賞して、「金千両」を賜う・・・も、「松平昭徳」は、これを「辞退」する。【綱要】・・・然もありなん。・・・恐れ多くも・・・朝廷からの過ぎる褒賞を受け賜ると、松平昭徳本人を政治的に突出させてしまいますので。・・・大昔の源義経の一件もありますし。・・・松平昭徳本人は、“あくまでも水戸藩(水戸徳川家)出身者の一人として、天狗党勢の始末を見届ける補佐役として京都警衛に勤めただけのこと”とした訳です。
      ※ 同年12月8日:「長州藩」は、“広島・国泰寺における交渉中に、幕府が戦端を開くのではと危惧し、宍戸備後助(※別名は山縣半蔵)や木梨彦右衛門らの交渉使節団の引揚げを命じた”・・・ものの、“命令を受け取った宍戸や木梨達”は・・・“正式な幕議決定を聞くまでは帰れない”・・・として、尚も「広島」に残る。・・・第2次長州征討が開始される直前期の一場面です。
      ※ 同年12月9日:“長州藩の毛利慶親父子”が、「幕府」に対して、「待命書(たいめいしょ)」を「提出」する。・・・「待命」とは、命令が出るのを待っていること、その地位を保ちながら一時的に職務を担当しないこと、特に、職務や任地が決まっていないこと。・・・このことは、すなわち自藩内の状況が、もはや自身らの指図によるものではなく、統制が効かない仕儀となったことを、毛利慶親父子が表明した訳です。・・・そして、この時の長州藩の軍制は、それまでの武士を中心とした軍隊ではなく、奇兵隊(きへいたい)など武士階級以外の出身者達を精鋭兵に育て上げるなど、抜本的に変更されることとなって・・・結果としても、“オール長州やチーム長州と呼べる体制となった契機そのものを示している”と想います。
      ※ 同年12月内:“上総一(之)宮や、同請西、同久留里、同飯野、下総関宿、同佐倉、上野高崎などの諸藩”は、それぞれ「幕命」によって・・・“常野事件の降人”を、「寄場奉行(よせばぶぎょう)」へ「交付」す。【綱要】・・・「寄場奉行」とは、「加役方人足寄場(かやくがたにんそくよせば)」と呼ばれることも。これは、幕府若年寄の支配に属する役職であり、江戸石川島(現東京都中央区佃2丁目付近)の人足寄場(にんそくよせば)や、常陸国筑波郡上郷村(現茨城県つくば市上郷)、大坂、箱館に設置された自立支援施設として管掌されました。
      ・・・ちなみに、江戸石川島の人足寄場は、西暦1789年(寛政元年)に、“鬼平”こと 火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)長官・長谷川宣以(はせがわのぶため:※通称は平蔵、幕府旗本)が、時の老中・松平定信(まつだいらさだのぶ:※陸奥白河藩第3代藩主)へ人足寄場の設置を建言し、西暦1790年(寛政2年)から実際に運用が始められた施設であり、“その収容定員は数百人程度、概ね300~400人を収容され、施設内には作業所のほか浴場や病室が設置され、喫煙や煮炊きも許され、炬燵(こたつ)もあった”と云われます・・・が、“常陸国筑波郡上郷村などの他の施設などは、ここまで整備されていた訳ではなく、運営資金もかなり厳しかった”と推測されまして・・・実際には、那珂湊で降伏した大発勢に参加した浪士や義民らに対して、時の幕府が寛大な措置を許す訳もなく・・・不衛生な環境や食糧事情などにより、多くの人々が亡くなったのです。・・・
      ※ 同年12月内:“水戸藩士・栗田寛(くりたひろし:※号は粟里)”が、『戸籍考(こせきこう)』を刊行す。・・・「栗田寛」とは、水戸の国学者、歴史学者。後の東京帝国大学教授。・・・この栗田寛は、水戸城下で代々油屋を営む栗田雅文(くりたまさふみ)の子として生まれ・・・後に、石河幹脩(いしかわみきのぶ)や、会沢安(※通称は恒蔵、号は正志斎、欣賞斎、憩斎とも)、藤田彪(※号は東湖、藤田幽谷の次男)らから「漢学」や、「国学」、「史学」を学び・・・20歳の時に『古字集(こじしゅう)』を著わしました。
      ・・・24歳の時、町人出身者ながらも、『大日本史』を編纂する専門部署の彰考館への出仕を命じられると、水戸学者の豊田亮(とよだりょう:※通称は彦次郎、字は天功、号は松岡、晩翠)から指導を受けて、史書編纂事業に当たり・・・西暦1861年(文久元年)には、『国造本紀考(くにのみやつこほんぎこう)』を著わして、その将来を嘱望され・・・この翌年には、以前から手掛けていた『大日本史』の本紀・列伝全100巻を書写し終える・・・も、“その中で紀伝体歴史書に必要な「志」と「表」、特に「日本神話」の研究には欠かせない「神祇志」が未完成であることを嘆いて、その完成を志した”と云います。・・・しかし、前水戸藩主・徳川斉昭や豊田亮(※通称は彦次郎、字は天功、号は松岡、晩翠)らが相次いで世を去り、水戸藩内が政争の時代に突入する・・・と、政争に関与せず彰考館の維持に尽力しました・・・が、結局のところ、藩内の理解を得られず・・・野に下ってしまいます。・・・それでも、西暦1867年(慶應3年)に入ると、『大日本史』の編纂再開論が高まることとなり、栗田は彰考館物書役として呼び戻されることに。
      ・・・栗田は、西暦1869年(明治2年)、藩に対して『大日本史』の「表」、「志」を上書きして編纂し、“天下に尊皇の大道を示すべきである”と唱えました。・・・すると、この年に彰考館が水戸徳川家の直属機関とされ、藩の支配からは離れることとなって、栗田ら職員も水戸徳川家の家扶(=家人)となりました。・・・しかし、これによって、“藩政の動向に編纂事業が左右されることが無くなり、以後の事業は大いに捗(はかど)ることになった”と云います。・・・彰考館は、西暦1871年(明治4年)に「刑法志」を、次いで順次完成する「志」を刊行しました。・・・栗田は、廃藩置県後、茨城県や教部省の修史局への出仕を命じられ、神道祭祀制度の整備や修史事業に尽力しました・・・が、西暦1875年(明治8年)には辞職して、『大日本史』の編纂に専念し、「仏事志」や、「職官志」、「氏族志」、「礼楽志」、「食貨志」などを刊行しました。・・・また、西暦1880年(明治13年)には、私塾の輔仁学舎(ほにんがくしゃ)を、現茨城県水戸市梅香に開設して、「水戸学」を受け継ぐ次世代育成に努めたのです。
      ・・・そして、西暦1884年(明治17年)に元老院准奏任御用掛に召されると、そこを5年間勤務した後の西暦1889年(明治22年)から、再び『大日本史』の編纂に専念しながら・・・西暦1892年(明治25年)には、東京帝国大学文科大学教授として、「日本史」と「国文学」の講義を持つようになります。・・・この頃になると、“栗田の教えを受けた世代”が、“栗田の構想を元として”・・・残されていた「志」や「表」の編纂作業に努め始め、“栗田の悲願”であった「神祇志」が完成します。・・・栗田は、この後の西暦1899年(明治32年)に63歳で亡くなりましたが、『大日本史』は一部の校訂などを残し、ほぼ完成していました。・・・ようやく、明治天皇(めいじてんのう)へ『大日本史』の完成が上奏されたのは、“栗田の死から7年後の出来事”でした。
      ・・・栗田寛の著書としては、他に・・・『神葬略説(しんそうりゃくせつ)』や、『大日本史音訓便蒙(だいにほんしおんくんべんもう)』、『葬礼私考(そうれいしこう)』、『神祇志料(じんぎしりょう)』、『荘園考(しょうえんこう)』、『勅語講義(ちょくごこうぎ)』、『祭礼私攷(さいれいしこう)』、『天朝正学(てんちょうせいがく)』、『常磐物語(ときわものがたり)』、『神器考証(じんぎこうしょう)』、『古風土記逸文(こふどきいつぶん)』、『標注古風土記(ひょうちゅうこふどき)』、『新撰姓氏録考証(しんせんせいしろくこうしょう)』、『栗里先生雑著(りつりせんせいざっちょ)』などがあります。
      ※ 同年12月内:“水戸藩士・内藤正直(ないとうまさなお:※通称は弥大夫、号は耻叟、碧海とも)”が、「藩校・弘道館」の「教授頭取(※総教とも)」となる。・・・「内藤正直」とは、明治期に活躍した歴史家。後の東京帝国大学教授。・・・この内藤正直は、西暦1827年(文政10年)常陸国水戸南町に美濃部茂政(みのべしげまさ)の次男として生まれました。つまりは美濃部茂定(※名は享とも、通称は又五郎、側用人)の実弟に当たります。・・・そして、この西暦1865年(慶應元年)10月25日に実兄の美濃部茂定が斬刑とされた時には既に、同じく水戸藩士の内藤氏を継いでいました。・・・美濃部氏と内藤氏は共に家禄200石、水戸藩譜代中士の家格でした。
      ・・・正直が、内藤氏を継いだのは20歳の時、西暦1846年(弘化3年)の事でした・・・が、この正直が14歳の頃、西暦1841年(天保12年)には、藩校・弘道館に入学し・・・ここで、“会沢安(※通称は恒蔵、号は正志斎、欣賞斎、憩斎とも)や藤田彪(※号は東湖、藤田幽谷の次男)らに師事し、後に幼少期の七郎麿(※徳川斉昭の七男、後の一橋慶喜、徳川慶喜のこと、本名は松平昭致)の学問相手を務めると、藩主・斉昭(※烈公)の思想や行動には疑義を挿(はさ)まず、忠実な家臣として終始していた”と云います。・・・西暦1855年(安政2年)、正直が29歳の時、水戸藩の軍用掛りに任じられ、藩中一切の軍事を掌ることになりました・・・が、自身はこの栄進を以ってしても・・・「悔慚(=恥入る)の一なり」・・・と謙遜しています。・・・その後には、御用調役などの要職に就きました・・・が、西暦1859年(安政6年)には、藩内論争に巻き込まれて、謹慎の上、隠居を命じられてしまいます。
      ・・・しかし、西暦1865年(慶應元年)、すなわち、“この条の通り”に、天狗党勢の鎮圧に参加した功績によって藩校・弘道館の教授頭取(※総教とも)に任命されます。・・・それでも、西暦1864年(元治元年)の天狗党勢の争乱終結後には、“門閥保守派の諸生党政権下において、鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)から忌まれることとなってしまい、江戸の鈴木邸の庭内で、斬られる寸前となりました・・・が、“運よく一命は助かった”とのこと。・・・更に、西暦1866年(慶應2年)になると、再び藩内論争に巻き込まれることとなり、今度は水戸へ下されて入獄させられました。・・・幕末の水戸藩における動揺の中で、ある時は長く獄に繋がれ、ある時は謹慎幽閉の身となるなど、実に身分変動の甚だしい人生と云えます・・・が、それでも、後の混乱期に乗じる格好で水戸を脱出し、暫らくの間、放浪生活をしたのです。
      ・・・その後の西暦1870年(明治3年)には、山形県(府藩県三治制の県)職員となり・・・西暦1878年(明治11年)には、当時の東京府に新設された小石川区の区長に就任し・・・西暦1881年(明治14年)になると、群馬県の中学校校長に任じられて、再び教育に携わるようになりました。・・・また、西暦1884年(明治17年)には東京大学講師を・・・西暦1886年(明治19年)からは帝国大学文科大学教授として、「経学」や、「日本史」、「支那歴史」、「支那哲学」、「漢文学」、「和漢古代法制」などの科目を担当し、西暦1891年(明治24年)まで勤め上げました。・・・尚、“西暦1889年(明治22年)からの約2年間”は、陸軍教授も兼任しました。・・・この内藤正直が東京帝国大学文科大学教授として勤め終えた直後期に、前条に登場した栗田寛(※号は粟里)が同大学教授として、“ちょうど入れ替わりの如くに就任した格好”となります・・・が、内藤は「後期水戸学」の思想と学風を堅持し、尚も提唱し続けて・・・西暦1903年(明治36年)に東京の小石川で永眠しました。享年77。
      ・・・内藤正直の著書としては・・・『開國起源安政紀事(かいこくきげんあんせいきじ)』や、『徳川十五代史(とくがわじゅうごだいし)』、『支那文学全書(しなぶんがくぜんしょ)』の「四書講義 上巻 大学 中庸 論語」、同書「四書講義 下巻 孟子」、同書「小学 孝経 忠経 講義」、同書「近思録講義」、『悔慚禄(かいざんろく)』などがあります。
      ※ 同年内:“写真師(≒写真家)の内田重(うちだしげる?:※通称は九一、肥前長崎出身)”が、「大坂・石町(現大阪府中央区石町の天満橋付近)」にて、「写真館」を「開業」して・・・“大坂城内の西洋式調練や、風景、風俗”を「撮影」する。・・・また、“京都町奉行の大久保忠恕(おおくぼたださと:※通称は主膳、幕府旗本)の家臣某(なにがし:※内田重ではないか?とも)”が、“四枚続き”の「二条城歩兵調練之図」や、「慶喜公御滞在京都御旅館(本願寺)之図」などを「撮影」する。(※『日本写真史年表』より)・・・「内田重」とは、後の明治5年に、宮内省御用掛として明治天皇の肖像写真を撮影して、有名になった人物です。・・・また、「大久保忠恕」とは、松平康國(まつだいらやすくに:※漢学者)や佐久間信恭(さくまのぶやす:※英語学者)らの父に当たります。・・・

      ・・・年が明けて、西暦1866年(慶應2年)になると・・・
      ※ 西暦1866年(慶應2年)1月4日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致、後の徳川慶喜のこと)や、京都守護職・松平容保(※陸奥会津藩主)、水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)ら”が、「参内」して、正を賀す。【綱要】・・・尚、この時、松平昭徳は、数えで14歳。・・・初めて孝明天皇に拝謁しています。
      ※ 同年1月6日:「京都守護職・松平容保(※陸奥会津藩主)」が、「備前岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟、故徳川斉昭の九男)」へ「書状」を復して・・・“水戸藩内訌に関して憂慮する情を述べ、尚も周旋すべき旨”・・・を答える。【綱要】・・・京都守護職・松平容保までもが、水戸藩の内訌に関して、一部の幕閣と諸生党による戦後処理と云うか・・・“粛清”を憂慮し、同情していた模様。・・・そして、“尚も岡山藩主・池田茂政らが周旋すべきとのアドバイス”・・・。
      ※ 同年1月16日:“遠江掛川藩の前藩主・太田資始(※元幕府老中)”が、「幕府老中・水野忠精(※出羽山形藩主)」を訪ねて・・・“徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の謹慎解除”・・・を「入説」し・・・“其の帰途”に、「徳川慶篤」を訪ねて、“これを告げる”・・・も、“水戸藩士の中には、太田資始の心中(しんちゅう)を疑う者あり”・・・“これに、(太田)資始が怒りて”・・・“その情報”を「幕府」へ訴える。【綱要】・・・想えば、“これより1年半ほど前”の・・・西暦1864年(元治元年)6月12日には、水戸藩士らが、同志30名余りと連れ立って太田資始の邸宅に至り、資始と謁見しましたが・・・資始が、当時の水戸藩内紛を扇動し、鎖港の幕議を阻み、政事総裁職・松平直克(※武蔵川越藩主)を排斥したことなどを挙げて、“水戸藩士らが資始を難詰した”という騒動がありましたね・・・。・・・この頃の水戸藩士らにしてみれば、太田資始の行動は、“いまさら感”を強く滲(にじ)ませるだけであり、このような事態に発展したかと。・・・
      ※ 同年1月21日:“長州藩士の木戸孝允(きどたかよし:※改名前は桂小五郎)ら”が、“坂本直柔(※通称は龍馬、土佐脱藩郷士)の斡旋”により、“薩摩藩士の小松清廉(こまつきよかど:※通称は尚五郎、後に帯刀、前名は肝付兼戈)、西郷吉之助(※後の隆盛)ら”と「京都」にて「会合」し・・・“薩摩と長州が連携して王政を復活せん”・・・と「密約」す。(=薩長同盟)・・・東日本において、水戸藩の内訌問題や、天狗党勢や大発勢などに対する“粛清の嵐”が吹き荒れていた頃・・・西日本においては、長州藩もまた、“自身の生存を図る必要性に迫られていた”のでした。・・・
      ※ 同年1月22日:「禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致、後の徳川慶喜のこと)」が、「参内」して・・・“長州藩の処分案を奏上する”・・・と、「勅允(=勅)」を蒙る。・・・前年の西暦1865年(慶應元年)6月17日、同年9月21日に続いて、“長州藩に関する三度目の勅允”でした。

      ※ 同年2月1日:“尾張藩の前藩主・徳川茂徳(とくがわもちなが:※後の徳川茂栄、徳川慶勝の異母弟であり藩主・徳川徳成の叔父且つ養父)”が、「書(簡)」を、「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」へ寄せて・・・“水戸藩士が慶篤の謹慎解除の機運を高めるためとして運動する事に、忠告する所あり”・・・この日、「徳川慶篤」が、「書(簡)」を復して、“其の厚意に対する謝意”を著わす。【綱要】・・・こうして、同じ徳川御三家の尾張藩から、“一部の水戸藩士らの動きに関して、水戸藩主・徳川慶篤が諌められた”のでした。
      ※ 同年2月6日:“元水戸藩士の照沼恒太郎(てるぬまつねたろう)”が、“下総古河藩の付預中”に「病死」す。【綱要】・・・また一人亡くなってしまいました。
      ※ 同年2月28日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「書状」を、“幕府老中の板倉勝静(※備中松山藩主)、井上正直(※遠江浜松藩主)ら”へ復し・・・“前年の2月以降は水戸藩士らを厳科に処したる事無き”・・・を答えて・・・“以後は幕府の承認を待ってから処刑すべき旨”・・・を述べる。【綱要】・・・藩主不在の水戸において“粛清の嵐”が吹き荒れていた事実については、さすがに・・・自身の進退が中途半端にされていた徳川慶篤の耳にも届けられていた模様。・・・そして、諸生党が牛耳る水戸藩庁(=水戸城)の独断で進められていた、云わば・・・“口封じ的な処刑の連鎖を一旦止めさせて、あくまでも幕府の責任により事を治めるように”と注文を付けたのでした。・・・藩主不在の水戸で行なわれていた事が、幕閣と諸生党が結託した上での事であったことは、徳川慶篤も重々承知の上だったでしょうが、現に藩主の立場とされたままの慶篤でさえ、口を挿(はさ)まざるを得なかったという過酷な事情が窺えます。・・・

      ※ 同年3月6日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“将軍・徳川家茂への御機嫌伺いのため”として、「大坂城」へ行く。・・・
      ※ 同年3月8日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「親書」を、“在藩の家老”へ与え・・・“自身の謹慎解除のために諸生らが集会したり出府する事を戒めつつ、意見がある者には、これを録上げせしむ”【綱要】・・・同年2月1日の、尾張藩の前藩主・徳川茂徳からの忠告より数えて約1カ月。・・・水戸藩主・徳川慶篤は、この間熟慮に熟慮を重ねていたのでしょうか?・・・いずれにしても、この時の徳川慶篤は江戸に居たため、水戸でどのような事が起こっているのか? については、“断片的且つ諸生党に都合の良い情報などしか得られなかった”と考えられます。・・・上記では・・・“意見がある者にはこれを録上げせしむ”・・・とは、なっておりますが、諸生党が牛耳る水戸藩庁(=水戸城)から、果たして真実が伝えられたのか? どうか甚だ怪しい・・・。当時の幕閣と結託する諸生党からすれば、“江戸藩邸において篭の鳥状態の前?現?藩主様が、さえずり鳴いているようなものだった”でしょう。
      ・・・“一瞬にして燃え拡がる狂気というもの”に支配され、引くに引けない状況まで物事を進めてしまった諸生党は、幕末の混乱期と謂えども、反対勢力の女性を含む家族や家人らまでも処刑、投獄せしめて、“それまでの武家社会における暗黙の掟というものを破ることになった訳”です・・・が、西国の長州藩では、この頃の水戸藩などと尊皇攘夷思想は共有していたものの、自ら武家が統制する社会・・・すなわち、“身分制をなし崩し”にしてまで、自藩の軍制改革を断行し、第2次長州征討幕府軍と相対峙していたのでした。・・・西欧列強諸国が注目する中で。・・・これでは、“水戸藩が、長州や薩摩藩などの攘夷実行や鎖港の魁(さきがけ)になった”と云うより・・・“反面教師となった”と云ったほうが良いのかも知れません。・・・もちろん、「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」や“水戸藩内訌”などを経てから、“討幕(=倒幕)思想というものが、現実味を当時帯びて来ていた訳であり、その点では意味があった”とも云えますが・・・皮肉なことに、水戸徳川家(水戸藩)は・・・将軍家(徳川宗家)、つまりは幕府の補佐を宿命付けられた“お家柄”でした。
      ・・・まさに、これらの板挟みとなってしまった訳です・・・。更に云えば、日本という島国が、この当時・・・天皇を頂点とする朝廷組織、つまりは公家社会と・・・征夷大将軍を頂点とする幕藩体制、つまりは武家社会と・・・公家や武家以外の身分層の人々と・・・西欧列強諸国からの開港及び不平等な修好通商条約締結要求、つまりは軍事力を伴なう外交圧力など・・・との狭間に立たされることとなり・・・また誤解を恐れずに云えば・・・必然的に、常陸国の「水戸」という地を発端として、“大勢の血を伴なう歴史的な大実験が行なわれた”と感じざるを得ないのです。・・・
      ※ 同年3月10日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“京都の一橋邸内”にて、「写真」を「撮影」する。・・・「京都の一橋邸内」とは、若狭小浜藩屋敷(※若州屋敷とも)であったかと。

      ※ 同年4月14日:「薩摩藩士・大久保利通(おおくぼとしみち:※通称は一蔵、正助とも、改名前は利済)」が、「幕府老中・板倉勝静(※備中松山藩主)」に対して・・・“薩摩藩は長州征討への出兵を拒否する旨の建白書”を「提出」する。・・・同年1月21日には、いわゆる“薩長同盟”が密約されていましたから。・・・尚この時、板倉勝静は勅命により長州征討を起こした幕府の正当性を主張して建白書の受取りを拒絶したものの・・・幕府が、これまで勅命を無視してきた事実を列挙する大久保利通と大論戦となり・・・再三に亘る交渉の結果、大久保が板倉へ建白書を受け取らせることに成功した模様です。

      ※ 同年5月1日:「幕府」が、“老中に再任されていた小笠原長行(※肥前唐津藩の世嗣)”を遣わして・・・“長州藩及び支藩の家老らを、広島の国泰寺へ召し出して、長州藩所領の10万石を削るとともに、毛利慶親父子の蟄居”・・・を命じる。・・・“家老ら”とは、それぞれの藩主名代のこと。・・・実は、この時・・・長州藩家老・宍戸備後助(※別名は山縣半蔵)が、病気を理由に出席しなかったため・・・幕府は、“末家の名代を宗家の名代を兼ねさせて長州藩へ幕命を伝えることにした”とのこと。
      ※ 同年5月3日:「幕府」が、“広島の国泰寺へ召し出した長州藩及び支藩の家老ら”に対して・・・“速やかに帰国し、それぞれの藩主へ命令事項を伝えるとともに、同月20日までに請書を出すように”・・・と「命令」する。・・・但し、実際には・・・請書の提出期限についてが、吉川経幹(きっかわつねまさ:※周防岩国藩主)の請願によって、「5月29日まで」とされました・・・が、“この日までに請書を幕府へ提出し命令に従わなければ、翌6月5日を以って、第2次長州征討幕府軍が諸方面より進撃する”と告げられていた模様。
      ※ 同年5月8日:「幕府」が、“藩主から広島へ滞在するように命じられていた長州藩家老の宍戸備後助(※別名は山縣半蔵)ら”を「拘束」し・・・“その身柄”を「安芸広島藩」に預ける。・・・当時の安芸広島藩主は、浅野長訓(あさのながみち)。・・・このように、第2次長州征討が行なわれると、浅野長訓は停戦を呼び掛けており・・・また同年7月には、岡山藩と阿波淡路徳島藩の二藩主との連署によって、幕府及び朝廷に対して、征長の非と解兵を請願しています。・・・尚、後の明治新政府に対しては、早々と“恭順の意”を示しています。
      ※ 同年5月13日:「幕府老中・水野忠精(※出羽山形藩主)」が、「江戸」において、“イギリス、アメリカ、フランス、オランダとの改税約書(かいぜいやくしょ)”に「調印」する。・・・「改税約書」とは、西欧列強四カ国からの外圧のもとで改訂された関税協定のこと。「江戸協約」とも。正式には、この6日後に発効しました。・・・結局のところ、兵庫沖に集結した英、米、仏、蘭の四カ国連合艦隊の軍事的な威嚇行動により、幕府は兵庫開港延期の代償として関税率引下げ要求に応じるほか無かった訳です。
      ・・・これにより、安政五カ国条約では輸入品価格の5%~35%を掛ける従価税方式であった関税が、4年間の物価平均で定まる原価の一律5%を基準とする清国並みの従量税方式に改められていますが・・・このほかにも、無税倉庫の設置や、外国向け輸出品の国内運送費を非課税とすること、貿易制限の撤去なども規定されていました。・・・そのため、外国商品は国内の物価上昇(インフレーション)に即応しない安価な商品が大量に流入することとなって、当時の国際貿易収支を不均衡としただけでなく、日本における産業資本の発達が著しく阻害されることとなりました。・・・その一方で、高価格な外国商品の輸入(※最新式の鉄砲など)に関して云えば、このことが有利に働いて、それらの輸入が促進された・・・ものの、その対価とされる金や、銀、銅などの良質な貴金属が、当時の日本から大量に海外へ流出してしまいました。・・・
      ※ 同年5月15日:「幕府」が、“以前に越前国敦賀に於いて遠島を申し渡した元水戸藩士100名余り”を赦し・・・“これらの者達”を「若狭小浜藩への御預(=幽閉)」と為す。【綱要】・・・“以前”とは、西暦1865年(元治2年)2月21日のこと。・・・“100名余り”とは、“当初遠島と決められていた武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、すなわち武田正生の孫)や、鈴木福太郎、古内丑太郎、関清太郎、照沼粂次郎らの110名”とされています。・・・しかし、小浜藩に付預とされていた人数は、“当初は137名”だった筈。・・・“差引き27名”は、何処へ行ってしまったのやら?・・・まさか、流行病などに罹って亡くなったということは、若年者達であったことを想えば、考え難く・・・すると、“彼ら27名の身柄は、早々と水戸藩へ送られたか、一橋慶喜に身元保証されて引き取られたか”だったと想います。
      ・・・いずれにしても、“彼ら110名の身柄”は、それまで敦賀を領した小浜藩に預けられていましたが、“この日に遠島処分が中止され御預(=幽閉)、つまりは謹慎処分へと変更された”とのこと。・・・この処分変更の背景には、もちろん・・・“彼ら110名が若年者だった”こともあります・・・が、当時大坂城に居た将軍・徳川家茂が重い病を発症したため、天狗党勢などに参加し死んでいった者達の怨念を恐れたのでは? とも考えられる訳です。・・・これを直接的に裏付ける訳ではありませんが、“彼ら110名”を預かっていた小浜藩主・酒井忠氏は、後に徳川家茂が死去し・・・一橋慶喜が将軍位に就いて徳川慶喜となると、先代藩主・酒井忠義が南紀派の中心人物の一人として、「安政の大獄」を主導したことを怨み続ける慶喜が小浜藩に復讐するのではないか? と思案したため・・・“彼ら110名を、若狭国三方郡佐柿(現福井県三方郡美浜町)の屋敷に移して厚遇した”と伝わります。
      ・・・ちなみに、この頃の一橋慶喜公が京都の宿所としていたのは、若狭小浜藩屋敷(※若州屋敷とも)でしたので、自ずと・・・遠島処分とされていた元水戸藩士達の情報が、慶喜公の耳まで届けられる訳です。・・・
      ※ 同年5月26日:「越前鯖江藩」が、“藩邸が狭隘且つ宇治警守等に服するを以って、前宍戸藩主・松平頼位(※通称は将監、字は子有、号は豊山)の御預(=幽閉)を辞したい”・・・と「幕府」へ請う。【綱要】・・・???前宍戸藩主・松平頼位は、羽前新庄藩邸に御預だった筈では?・・・これも、“前条の如く”に、何かの怨念を恐れたためであったか?・・・いずれにしても、当時の鯖江藩にしてみれば、“これ以上の負担は、どうやっても無理!”と云わんばかりに、この頃幾度か幕府へ陳情していました。・・・また・・・この当時、宍戸藩自体が廃藩とされていましたので、松平頼位の身柄については、ご本人にとっては気の毒なのですが、云わば“たらい回し”にされていた感じを受けます。・・・しかし、後の西暦1868年(慶應4年)2月には、明治新政府より宍戸藩の復旧を命じられ、その家督を頼位が再相続することになり・・・西暦1880年(明治13年)7月に家督を次男の頼安(よりやす)に譲り・・・西暦1886年(明治19年)12月17日、77歳で亡くなりました。
      ・・・ちなみに、この松平頼位も、永井尚志(※通称は玄蕃頭、幕府旗本)と同じく、作家・三島由紀夫の高祖父に当たります。
      ※ 同年5月28日:「江戸」において「米価」が「暴騰」したため、「窮民」が「暴動」を起こし、「騒擾(=騒乱)」が、この後数日に及ぶ。・・・やはり、米騒動が起きてしまいましたか。

      ※ 同年6月2日:“第2次長州征討幕府軍の先鋒総督として徳川茂承(とくがわもちつぐ:※紀伊藩主)し”が、「広島」へと向かい・・・“広島に居た小笠原長行(※幕府老中、肥前唐津藩の世嗣)し”は、「豊前小倉」へと向かう。・・・とうとう、第2次長州征討幕府軍が動き出してしまいました。
      ※ 同年同日:「武蔵忍藩主・松平忠誠」が、“秋季の京都宿衛を命じられたるを以って”・・・“常野降人の御預(=幽閉)を止めること”・・・を「幕府」へ請う。【綱要】・・・越前鯖江藩と同様の事情だったのでしょうか?・・・
      ※ 同年6月3日:“秋第2次長州征討幕府軍・先鋒総督の徳川茂承”が、「石州口」へと転じ・・・その代わりに、「松平宗秀(まつだいらむねひで:※別名は本荘宗秀、幕府老中、丹後宮津藩主)」が、「広島」に入る。・・・
      ※ 同年6月7日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致、後の徳川慶喜のこと)”が、この日「参内」し・・・“長州藩が裁許に服さざるを以って征討する旨”を「奏上」する・・・と、“速やかに追討の功績を奏上せよとの勅”が、下される。・・・
      ※ 同年同日:“第2次征長の役(=長州再征とも)の戦端”が開かれる。・・・とうとう・・・
      ※ 同年6月13日:「朝廷」が、“江戸に居た水戸藩附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)”に対して「上京」を命じる。【綱要】・・・
      ※ 同年6月14日:「幕府」が、“米価暴騰のため”として・・・“諸国の酒造高を2/3(※関東八州については3/4)とすること”・・・を命じる。・・・幕府は、少しでも多くの米を食糧用に回して、米価の相場を引き下げようとした訳です。・・・ちなみに、通常の清酒(日本酒)造りでは、「酒米(さかまい)」と呼ばれる品種を使用し・・・普段我々が食す「お米」とは区別して生産されております。昔から。・・・要するに、この時の幕府による命令は・・・“味が多少劣ったとしても、皆で栄養摂取することを重視し、国難を共に乗り越えよう”・・・ということです。
      ※ 同年6月21日:「幕府」が、「水戸藩」に対して・・・“附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)の差控(※出仕を禁じ自邸へ謹慎させられる制裁手段のこと)を赦した上で、速やかに上阪させること”・・・を命じる。【綱要】・・・?・・・この時の幕府の思惑は?・・・水戸藩内訌に関する事後調査?・・・
      ※ 同年同日:「輪王寺(りんのうじ)門主・慈性入道親王(じしょうにゅうどうしんのう)」が、「書状」を、「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」へ与えて・・・“幽囚させられている藩士や民を寛典(※寛大な恩典や寛大な処分のこと)に処すべき”・・・と「勧告」する。【綱要】・・・「輪王寺」とは、現東京都台東区上野公園にある天台宗の東叡山輪王寺。・・・「慈性入道親王」とは、有栖川宮韶仁(ありすがわのみやつなひと)親王の第2王子。・・・この「慈性入道親王」は初め、旧嵯峨御所・真言宗大覚寺(現京都府京都市右京区嵯峨大沢町)に入り・・・西暦1822年(文政5年)に光格天皇の養子となり・・・親王宣下(しんのうせんげ)を受けた後に出家した人物です。
      ・・・その人が、この頃の尊皇攘夷が叫ばれる混迷の時代に、あろうことか・・・有栖川宮・慈性入道親王門主として、幕府から勤皇討幕(=勤皇倒幕)の疑いを掛けられ、宗派が少し異なる天台宗、しかも徳川家の菩提寺でもある江戸・輪王寺の住職を兼務するようにとの命が下されたのです。・・・大覚寺の宗祖は、弘法大師(※空海のこと、密教系真言宗の開祖僧)であるにもかかわらず。・・・“慈性入道親王門主は、嵯峨御所の大覚寺をこよなく愛され、その地を離れたくないという想いが強かった”とされます・・・が、“幕命に背くことも出来ず、いよいよ江戸へと出発する時、大覚寺の勅使門から出門する際に、何度も何度も振り返られ、大覚寺に未練を残された”ということがあって・・・この勅使門のことを「お名残りの門」と呼ぶようになったとのこと。・・・また、“江戸の東叡山輪王寺では、天台座主(てんだいざす)として、5年ほど過ごした間も、大覚寺の伽藍復興の念願を訴え、輪王寺を弟の公現入道親王(こうげんにゅうどうしんのう:※北白川宮能久親王とも、最後の輪王寺宮)に譲るなど、着々と大覚寺への帰山に備えていた”とのこと。
      ・・・幕府も、長年に亘る慈性入道親王の熱意にほだされたのか、隠居の上での帰山を、ようやく認めたのです・・・が、出発寸前の西暦1867年(慶應3年)11月24日に、江戸にて亡くなってしまいます。享年55。・・・“現在の輪王寺にある有栖川宮・慈性入道親王のお墓は、京都大覚寺の方角を向いている”とのことです。・・・きっと・・・この時の水戸藩主・徳川慶篤は、このような人生を送った高僧から・・・“貴方が藩士や民を守らずに、誰が守るのか!!!”・・・と叱咤激励されていたのですね。
      ※ 同年6月内:「幕府」が、“米価暴騰により京都の在米が不足したため”として・・・“諸藩”に対して、“大坂からの廻米”を「命令」する。・・・西日本では、第2次長州征討が開始され、兵庫沖には西欧四カ国連合艦隊が出現した訳ですので、このようになるのも当然かと。

      ※ 同年7月10日:「幕府」が、「讃岐高松藩」に対し・・・“付預の元宍戸藩士16名を常陸府中藩へ”・・・“同じく15名を陸奥守山藩へ”・・・の「御預替」と為す。【綱要】・・・
      ※ 同年7月15日:「水戸藩附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)」が、「江戸」を発ち、“西上の途”に就く。【綱要】・・・中山信徴は、朝廷からは“上京せよ”と・・・一方の幕府からは“上阪せよ”と命令されておりましたが・・・。
      ※ 同年7月16日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致、後の徳川慶喜のこと)”が、「下阪」す。・・・
      ※ 同年7月18日:「水戸藩」が、“城下往来へ”・・・“無燈通行を戒める旨”・・・を達す。(=郡庁令達)・・・水戸藩は、夜間における無燈火通行を戒めるためとして、各郡庁へ通達したのでした。・・・この通達を発したのは、“言わずもがな”の諸生党です。
      ※ 同年7月19日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致、後の徳川慶喜のこと)”が、「帰京」す。・・・・・・
      ※ 同年7月20日:「第14代征夷大将軍・徳川家茂」が、「大坂城中」にて「死去」する。享年21。・・・「幕府」は、“その喪”を秘す。・・・将軍・徳川家茂の死因については、漢方の御典医達による診断では・・・“胃腸障害と脚気が原因で心不全を起こした”・・・とされます・・・が、西洋医の幕府奥医師達による診断では・・・“これをリウマチだとして譲らなかった”・・・と云います。・・・いずれにしても、享年21。・・・幕府からの公武合体要請を受けて、西暦1862年(文久2年)に和宮親子内親王と結婚し、将軍としては229年振りとなる上洛を果たして、義兄に当たる孝明天皇に攘夷を誓った徳川家茂でした。・・・ちなみに、“その死に際しては、将軍家(徳川宗家)の後継者、つまりは次期将軍として、御三卿の田安家から(徳川)亀之助(※後の徳川宗家第16代当主となる徳川家達、田安家の徳川慶頼三男)を指名した(≒遺言した)”とされますが・・・。
      ・・・尚、“その喪を秘す”とされてはいても、“あくまでも世間一般に対して”ということであり、当時の・・・大坂や京都に居た幕閣や、幕府関係者、諸藩の重役達、それに孝明天皇、朝廷組織を構成するお公家衆などの一部には、当然に伝わっている筈です。
      ※ 同年同日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・松平昭徳(※徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“第14代征夷大将軍であった故徳川家茂が「昭徳院」と諡されたため”・・・自身を「松平昭武」と「改名」する。・・・要するに、「昭徳」⇒「昭武」と名を変えた訳です。・・・尚、「戈(ほこ)を止める」と書いて「武」と読みますので、松平昭武本人の当時の想いが伝わって来るのではないでしょうか?・・・いずれにしても、この時の松平昭徳は、数えで14・・・実年齢で満13歳の少年ですが、兄達に負けず劣らずの賢い御仁だったかと。
      ※ 同年7月21日:“薩摩藩主の島津茂久(しまづもちひさ:※後の忠義)及びその父・島津久光”が・・・“一揆や打壊しが激しく発生していた件について”を「言及」し、“政体変革及び第2次長州征討停戦の建言書”を、「関白・二条斉敬(※徳川慶篤や一橋慶喜らの従兄弟)」へ「提出」する。・・・老中、すなわち幕府に対しては、薩摩藩士・大久保利通が、同年4月14日に建白書を受け取らせ・・・この日は、藩主と国父で以って、関白、すなわち朝廷へ建言書を提出して・・・薩摩藩の藩論や立場を意志表明しながら、現に叩かれていた長州藩を擁護する構えを見せた訳です。・・・当然に、薩長同盟が密かに締結されていたからでもあります。・・・
      ※ 同年7月22日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致、後の徳川慶喜のこと)”が、「下阪」す。・・・さては、従兄弟でもあった関白・二条斉敬からの早馬による報せがあった?・・
      ※ 同年7月24日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致、後の徳川慶喜のこと)”が、「帰京」す。・・・・・・この時の一橋慶喜公の脳内では、どんな分析や解析活動が行なわれていたのでしょうか?・・・
      ※ 同年7月27日:「伊予松山藩」が、“神奈川台場(現神奈川県横浜市神奈川区神奈川1丁目付近)の陣屋”を、「下総古河藩」へ「引渡」す。【綱要】・・・「神奈川台場」とは、幕府旗本の勝義邦(※後に安芳と改名、通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)によって設計され、伊予松山藩が築造した台場です。・・・この前日までは、伊予松山藩が警備を担当し、この日から古河藩が警備を引継いだという訳です。
      ※ 同年7月28日:「幕府」が、“将軍・徳川家茂の名を以って”・・・“家茂が病や危篤に及んだ際には一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致、後の徳川慶喜のこと)に相続せしめ、且つ将軍の名代として長州へ出陣せしめんとすること”・・・を、「朝廷に「奏上」す。・・・時の幕府は、第14代征夷大将軍・徳川家茂が薨去(こうきょ)したことを、世間一般には秘匿しながら、このような奏上を朝廷へしたのでした。・・・つまりは、“将軍・徳川家茂の遺言であった”と。・・・どうして、“このような展開になったか?”と申しますと・・・ちょうど、この頃に行なわれている第2次長州征討戦の勅命は・・・そもそもとして一橋慶喜が、この時点で薩長同盟締結の確たる証拠が得られぬまま、それでも・・・何らかの疑念を持たざるを得なかった当時の薩摩藩による妨害を抑えつつ、長州征伐の勅命を朝廷から、ようやく得ていた訳です。
      ・・・しかし、薩摩藩の出兵拒否や、征討対象の長州藩が軍制改革し藩兵を近代化した精鋭部隊に創り上げていたため、同年6月7日以降の第2次長州征討幕府軍は苦戦を強いられるようになって、各所で連敗を喫するようになっていました。・・・そんな最中に、“幕府の総大将”たる将軍・の徳川家茂が、大坂城で薨去してしまいます。・・・すると、“家茂が後継指名した田安家の(徳川)亀之助を推す江戸城大奥を中心とする反慶喜勢力の存在や、一橋慶喜がこのように混迷している時期の将軍就任に対して強硬に反発する実家・水戸藩の存在などが影響して、再び将軍後継問題として認識され始めていた”のです。・・・そんな状況下にあって、幕府老中・板倉勝静や、同じく老中であり現実に第2次長州征討幕府軍の一部を率いた小笠原長行は・・・云わば、“国家危急の時だからこそとして、江戸城大奥や水戸藩などの異論を抑えながら、一橋慶喜を次期後継将軍に推した”訳です。・・・しかしながら・・・“当の本人は?”と云えば、将軍職就任については、これより暫らくの間、頑(かたく)なに固辞することになるのですが。・・・
      ※ 同年同日:“一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致、後の徳川慶喜のこと)が、禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮の職”を辞す。・・・禁裏御守衛総督、摂海防禦指揮ともに、幕府の了解のもとに、朝廷から与えられた役職でしたので。・・・これによって、“一橋慶喜の表向きの肩書き”は無くなりました。・・・強いて云えば、「一橋(徳川)家当主」とだけ呼べるのでしょうか?
      ※ 同年7月29日:「朝廷」が・・・“一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致、後の徳川慶喜のこと)が徳川宗家を相続する件及び慶喜が将軍の代わりとして長州へ出陣する件についての勅許”・・・を下す。・・・時の朝廷による承認となりますが・・・この裁可が下されるまで、“たったの一日”でした。・・・尚、この時の一橋慶喜は、数えで30歳。
      ※ 同年7月30日:“一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致、後の徳川慶喜のこと)”が、“前日の勅許について”を「奉承(ほうしょう)」す。・・・「奉承」の意味は、“恭(うやうや)しく承(うけたまわ)る”で良いかと思います。・・・但し、“一橋(徳川)慶喜が奉承したという内容についてが、ハッキリと慶喜を次期将軍にする”と記されていた訳では無かったため・・・“この当たりが、一橋(徳川)慶喜が将軍職就任についてを、頑なに固辞することに繋がっている”と考えられます。・・・尚、“この条以降”は、慶喜が徳川宗家を実質的に継いだ体裁となりますので、「徳川慶喜」と表記致します。
      ※ 同年7月内:「幕府」が、“江戸・佃島(つくだじま)に在獄する水戸藩の降人”を、「水戸藩」へ「引渡」す。【綱要】・・・「佃島」とは、「石川島」のこと。この「石川島」は、その南にある佃島とは別の島であり、元々は、「鎧島(よろいじま)」と呼ばれる、佃島の北に隅田川河口の三角州として発達した島でした。・・・江戸時代の初期頃に、「石川重次(いしかわしげつぐ:※通称は八左衛門、幕府旗本)」が、この鎧島を、第3代征夷大将軍の徳川家光より拝領されたため、「石川島」という別名が付けられたのです。・・・尚、この頃の「佃島(=石川島)」には、かつての水戸藩が整備した「石川島造船所」や、「人足寄場」があって、“比較的に罪刑が軽い者達が収容されていたよう”です。・・・いずれにしても・・・同年5月15日以降は、天狗党勢や大発勢など水戸藩と関わりの深い者達に対する幕府や諸藩の処遇について、“何やら風向きが変わって来たか”に感じます。・・・やはり、“一橋慶喜が次期後継将軍候補に浮上していたことが影響している”と考えられます。
      ・・・これと同時に、水戸藩政を牛耳っていた諸生党としては、徳川慶喜という人物が次期後継将軍に就任することについて、諸手を挙げて賛成出来る筈もなく・・・“むしろ将軍だけには就任して欲しくない”という感情に繋がって、これに強硬に反発したのではないでしょうか?・・・自らが藩内で粛清を行なった反動としての報復行為を恐れていたでしょうし。

      ※ 同年8月1日:“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・松平昭武(※後に徳川昭武と改姓し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「参内」した後・・・「一橋邸」において、「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」と「対面」する。・・・建前としては、弟・松平昭武による儀礼的な挨拶だったのでしょう・・・が、この時の対面では、いったい何が話し合われたのでしょうか?・・・歳の差がある単なる兄弟間の話だったとしても、興味が湧く場面かと。・・・やっぱり、愚痴をこぼしたのかなぁ? 慶喜公。・・・それとも、話題をガラリと替えて、写真術の話でもレクチャーしていたのかな?・・・それはそうと、ただ「一橋邸」とあるため、危うく見過ごすところでした。慶喜・昭武兄弟が対面したという場所についてです。・・・“昭武が参内した後”・・・ということであり、江戸城内の一橋邸である筈は無く・・・当然に、京都であって、御所の傍?・・・ということは、慶喜公が京都における宿所としていた若狭小浜藩屋敷(※若州屋敷とも)のことですね。これは。
      ・・・また、あくまでも・・・この時の弟・松平昭武としては、小浜藩の屋敷と云うよりも、「一橋邸」と呼ぶ方が相応しいとの認識があったかと。・・・
      ※ 同年同日:「関白・二条斉敬(※徳川慶篤や徳川慶喜らの従兄弟)」が、「水戸藩附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)」を召し出して・・・“水戸藩の内政を整えて、尊皇攘夷の大義に尽くすべき”・・・を「諭示(ゆし)」する。【綱要】・・・「諭示」とは、口頭または文書で諭し示すことです。・・・結局のところ、水戸藩附家老・中山信徴も、“朝廷からの上京命令を優先した”のでした。・・・
      ※ 同年8月3日:「上総飯野藩」が、「幕命」により・・・“常野降人で保監中の柴田定之丞(しばたさだのじょう)ら11名”・・・を、「評定所」へ「交付」す。【綱要】・・・「評定所」とは、江戸時代の最高裁判機関であり、政策立案や審議なども行ないました。幕政の重要事項や、大名旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判を行なった機関で、トップに老中が一名、その下に町奉行、寺社奉行、勘定奉行とで構成されており、これに大目付や目付が審理に加わって、評定所留役が実務処理を行なっていました。その中でも、特に町奉行、寺社奉行、勘定奉行を「三奉行」と呼んで、評定所の中心構成員とし、通常の場合には、寺社奉行四名、町奉行二名、公事方の勘定奉行二名を「評定所一座」と称しました。・・・ちなみに、評定所が置かれた場所は、この幕末期には・・・江戸城外・辰ノ口(現東京都千代田区丸の内一丁目4番南西部・丸の内永楽ビルディング)とされており・・・ちなみに、明治維新直後には、そこに「糾問所」が置かれて、新撰組隊士の二名が取調べを受けています。
      ※ 同年8月6日:「水戸藩附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)」が、「大坂」に至る。【綱要】・・・
      ※ 同年8月7日:「朝廷」が、“徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の禁裏御守衛総督職及び摂海防禦指揮職の辞職についての勅許”を下す。・・・“単なる事務手続き”のようにも想えますが、これらの職は、あくまでも朝廷によって設けられた役職(=肩書き)でしたので。・・・
      ※ 同年8月8日:「幕府」が、“老中・板倉勝静(※備中松山藩主)や若年寄の大河内正質(※松平正質とも、上総大多喜藩主)、本多忠紀(※陸奥泉藩主)ら”に命じて・・・“将軍名代の徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の進征に随従せしむ”・・・次いで、“尾張や、水戸、加賀金沢、薩摩など十余藩の重臣”に対しても、“これ”を命じる。【綱要】・・・尾張や、水戸、加賀金沢などについては理解出来ますが・・・ここに、第2次長州征討出兵を建白書にて拒否した薩摩藩や、その建白書を受け取らされた老中・板倉勝静が含まれております。・・・これには、“幕府が、ただ強引に薩摩藩などへ命令した”と云うより・・・も、“幕府や徳川慶喜から、薩摩藩内の有力な勢力の一つとして、西郷吉之助(※後の隆盛)らに対する、特別な期待があったよう”に感じられます。
      ・・・つまりは、“遠くの本国の意向や承諾無しでも、とりあえず在京する西郷らだけは、随従するのではないか?” と。・・・或いは、“薩長同盟なる密約の有無について、その存在を推し量るため、わざわざ、このような命令を出した可能性もあった”かと想います。・・・
      ※ 同年同日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、“長州出陣のため”として、「参内」についてを「御暇(おいとま)」す。・・・いわゆる「暇乞い」です。
      ※ 同年8月9日:「一橋徳川家」が、“二条堀川東入町(現京都府京都市中京区薬屋町付近か?)・横山榮五郎(よこやまえいごろう)の定職人であった阿部寿八郎(あべじゅはちろう?)”を、「写真師」として抱え入れる。(※『新稿一橋徳川家記』より)・・・まず、この日の時点で、一橋徳川家の当主は空席という状態である筈なのです・・・が、“このように、一橋徳川家としての実態があり、且つ機能していた”とのことなのです。・・・ということは、阿部寿八郎という人物を写真師として雇った主体は・・・当然に、前一橋徳川家当主の徳川慶喜ということになります。・・・ちなみに、“この条の阿部寿八郎”が、長崎出身の写真師「阿部徳」こと、「亀谷徳次郎(かめやとくじろう)」と同一人物だとする説あり。
      ※ 同年8月11日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、“俄(にわ)かに、明日12日の長州への出陣”を止める。・・・???・・・徳川慶喜公が、薩長同盟なる密約の存在を確信したのか?・・・はたまた、同年8月1日の小倉城(こくらじょう:現福岡県北九州市小倉北区)陥落などの戦況報告を受けて、勝てる見込みの薄さに失望したか?・・・いずれにしても、“同月8日からの2日間に、あらゆる情報に接し、様々な対処方法についてを検討していた”と考えられます。
      ※ 同年8月15日:“幕府老中の板倉勝静(※備中松山藩主)ら”が、「水戸藩附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)」を召し出し・・・“水戸藩の藩政改革についての朝命を達し、其の施行に関する腹案を示して、意見を問う”・・・と、「中山信徴」は・・・“幕威により貫徹すべき”・・・と答える。【綱要】・・・同年8月1日に、関白・二条斉敬から伝えられていた水戸藩の藩政改革について、“今度は幕府の老中達から、こうしてはどうか? と腹案を示されながら、中山信徴が質問された”とのこと。・・・また、質問された中山信徴は、「幕府の権威によって貫徹すべき」と、“至極もっとも”な答え。・・・この気持ち、分かるような気がします。
      ・・・“何せ、水戸藩内の藩論統一運動の最中に、様々な政治課題について、自らに都合の良い結果を求めるあまり、一方の諸生党の意見や建言を採用して、結局のところ水戸藩の勢力を骨抜きにし、更に藩内を滅茶苦茶にしたのは、貴方達幕閣の方々であったでしょう? 激派はともかく、大発勢と呼ばれた旧来の同志達のほとんどは、処刑または投獄させられ、ついこの間まで自分も差控させられていたのですから。まったく、中間管理職は辛いな・・・”と。
      ※ 同年8月16日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、“第2次長州征討軍の兵を解き、諸大名を召集して、爾後(そののち:=其の後)の方略を議すべきとの書(簡)”を、「朝廷」へ「奏請」す。・・・徳川慶喜は、このように朝廷に働き掛けて、休戦の詔勅を引き出そうとしたのです。
      ※ 同年8月18日:“幕府老中の板倉勝静(※備中松山藩主)らと水戸藩附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)”が・・・“水戸藩の藩政改革の方法について”・・・を再び「協議」す。【綱要】
      ※ 同年8月19日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「朝廷」から・・・“前将軍と同様に厚く御依頼されていた政務を、従前通りに取扱うべきとの朝命”・・・を蒙る。【綱要】
・・・ここにある朝命とは、孝明天皇の仰せという意味合いが強そうです。
      ※ 同年同日:「京都所司代・松平定敬(※伊勢桑名藩主、京都守護職である松平容保弟)」が、「書(簡)」を、「武家伝奏(ぶけでんそう)」に呈して・・・“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の謹慎が既に三年に及び、家政の整理が緒(しょ)に就くを以って、其の謹慎が解かれること”・・・を請いながら、「朝旨」を伺う。【綱要】・・・「武家伝奏」とは、武家からの奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たした朝廷の職であり、公卿が任じられました。・・・また、「緒(しょ)に就く」とは、物事に着手して着手した物事の見通しがついて軌道に乗り出す様や、物事が順調に動き出すこと、またそれに取り掛かることなどを表しています。
      ※ 同年同日:「水戸藩若年寄・芦川友直(あしかわともなお:※通称は市兵衛)」が・・・“諸生党31名を交代要員として”・・・「江戸」へ「出府」させる。【綱要】・・・何となく幕閣の一部と水戸藩附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)との協議に反応しているかのように感じますね。
      ※ 同年8月20日:「幕府」が・・・“第14代征夷大将軍・徳川家茂が死去したこと”・・・を「発喪(はつも)」する。・・・「発喪」とは、喪を発して、その人の死を人々に知らせることです。・・・いすれにしても、将軍・徳川家茂の死より一月後のことでした。
      ※ 同年同日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、“前将軍の発喪と同時”に、「徳川宗家」を正式に継ぐ。・・・尚、“慶喜は、この日に下阪して城代屋敷に入ると、幕府の軍制改革などに着手”した。・・・ちなみに、徳川慶喜公が正式に徳川宗家を継いだ際には・・・「我が意の如くに弊政を改革して差し支えなければ」・・・との“条件付きの承諾だった”とのこと。
      ※ 同年8月21日:「朝廷」が、“徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)からの奏請を許して”・・・この日、“第2次長州征討休戦についての勅命”が下される。・・・

      ※ 同年9月2日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「施政の大方針・八条」を記して、「幕府老中」へ授ける。・・・施政の大方針・八条の内容は・・・まず第1条に、「仁を以って政治目的と為す」、つまりは、儒教道徳の「仁政」を基本とすることが掲げられ・・・第2条以下には、「人材登用」の件・・・「冗費(じょうひ:※無駄な費用のこと)節約」の件・・・「陸軍増強」の件・・・「海軍増強」の件・・・「国際交流」の件・・・「通商貿易」の件・・・「貨幣純正化」の件・・・であったとされますが・・・これらは、“徳川宗家相続の条件付き承諾による、我が意の如く”という改革分野を、幕府の老中達へ示したものだったかと。・・・したがって、それぞれの改革分野の詳細については、具体的には記されて無かった模様です。
      ※ 同年同日:“徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)からの内意を受けた幕府軍艦奉行・勝義邦(※後に安芳と改名、通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)”が、“長州藩士の広沢真臣(ひろさわさねおみ:※通称は兵助、号は障岳、向山とも)及び井上惟精(いのうえこれきよ:※通称は馨、聞多とも、号は世外、三猿とも)”と・・・「厳島(いつくしま:※通称は宮島、安芸の宮島とも)・大願寺(だいがんじ:現広島県廿日市市宮島町)」にて「会談」する。・・・この日の会談により、“第2次長州征討幕府軍と長州藩との停戦合意”が「成立」し・・・“大島口、芸州口、石州口における両者の戦闘”は「終息」した。・・・尚、この時の徳川慶喜や勝義邦は、“会津藩や朝廷上層部などの長州征討継続強硬派の反対を押し切る格好で、停戦合意を成立させた”とのこと。
      ・・・しかし、この日の停戦合意成立だけでなく、“前月21日にも朝廷から休戦についての勅命が下されていた”にもかかわらず・・・長州藩は、前月1日に小倉城を陥落させた後も、小倉方面における侵攻を緩めることはなく、対小倉藩との戦闘は終息していませんでした。・・・この長州藩の違約行為に対しては・・・もはや幕府には長州藩に対して停戦履行を迫る力はなく、小倉藩は独自に長州藩兵への抵抗や反撃を展開していたのです。・・・このことからも、“長州藩兵が戦さの勢いに乗じて、急速に討幕(=倒幕)の手応えを持ちつつあったこと”が窺えるかと。・・・ちなみに、徳川慶喜公は、この日の停戦成立直後から、旧式武装である事が明らかになった幕府陸軍に対して、フランスの支援を受けるなど、幕府の軍制改革に着手するようになります。・・・
      ※ 同年9月3日:「朝廷」は、“京都所司代・松平定敬(※伊勢桑名藩主、京都守護職である松平容保弟)が前月18日に奏請した水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の謹慎解除についてを許さず”・・・「松平定敬」は、“尚も後の朝命”を「期待」する。【綱要】・・・この背景には、前年10月1日の“故徳川家茂の将軍辞意表明騒動の際に、孝明天皇が「今後の幕府人事へは干渉しない」という約束”が、少なからず影響してるかと。・・・それにしても、ここまでの水戸藩主・徳川慶篤は、正式に幕府から謹慎命令を受けていた訳ではなく・・・幕閣らと結託し水戸藩庁(=水戸城)を牛耳る諸生党から自身の家族を江戸へ送り込まれるなど・・・慶篤自身とその家族が実質的に江戸藩邸に押し込められることとなり、事実上も国許の政治に関わる行動を制限されていたような状況でしたので。・・・むしろ・・・“表向きには、徳川慶篤があくまでも自主的に謹慎していた”と見える訳です。
      ・・・このように考えると、同年8月19日には水戸藩若年寄・芦川友直が、諸生党31名を江戸藩邸へ送り込んでおり、“益々藩主・徳川慶篤周辺の監視や行動制限が厳しくなっていた”と推察することが出来るのです。・・・結局のところ、“このような状況を打開するためとして、京都所司代・松平定敬が朝廷に働き掛けていた”と考えられます。
      ※ 同年9月6日:「水戸藩附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)」が、「下阪」し・・・この日、「江戸」に「帰府」する。【綱要】・・・こうして中山信徴は、関白・二条斉敬、つまり朝廷からは、“尊皇攘夷の大義に尽くすべき”と諭され・・・大坂城に居た老中・板倉勝静ら、つまり幕府からは、“水戸藩の藩政改革という課題を与えられ”・・・“この日、江戸藩邸に持ち帰った”のでした。
      ※ 同年9月7日:「朝廷」が、“諸大名召集の勅を下し、決議の次第については徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)を以って奏聞せしめること”とす。
      ※ 同年9月12日:“幕府老中の稲葉正邦(いなばまさくに:※山城淀藩主)と松平康英(まつだいらやすひで:※陸奥棚倉藩主、後の松井康英、後の武蔵川越藩主)”が、「書(簡)」を、「武家伝奏」に致して・・・“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の謹慎解除について”・・・を「再請」す。【綱要】
・・・???・・・ここに来て、“新たな徳川慶篤応援団現る!?”・・・と云うか、“水戸藩附家老・中山信徴が江戸に持ち帰った藩政改革の一環であった”かと。・・・観方によっては、“徳川宗家を継いだ徳川慶喜による巻き込み技だった可能性”も大。
      ※ 同年9月19日:「幕府」が、「大目付・駒井朝温(こまいともあつ:※幕府旗本)」を「水戸藩邸」に遣わして・・・“老中・井上正直(※遠江浜松藩主)や、若年寄・遠山友禄(とおやまともよし:※美濃苗木藩主)、増山正修(ましやままさなお:※伊勢長島藩主)らが、水戸藩の藩政改革の事に任ずるべき旨”・・・を達す。【綱要】・・・同年8月15日に、水戸藩附家老・中山信徴が「幕府の権威によって貫徹すべき」と、老中・板倉勝静らに返答したため、このような次第になったかと。・・・そして、このことにより、“この時の藩政改革については、事実上も水戸藩政を牛耳っていた諸生党には一任させることが出来ないと判断するに至り、幕府自らがこのような体制を、水戸藩に受け容れさせるという非常手段を採用した”かとも。
      ※ 同年同日:「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、徳川慶喜の異母兄、故徳川斉昭の五男)」が、「水戸藩京都邸吏・長谷川允迪(※名は後に清、通称は作十郎、号は艮山、青水とも、藩校・弘道館の元舎長)」を「鳥取」に「召致」し・・・“水戸藩の内情について”・・・を聞く。【綱要】・・・池田慶徳公にしてみれば、実家の内情を心配してのことだったのでしょう。
      ※ 同年9月26日:「朝廷」が、「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」に対して、“除服出仕の宣下”を下さる。・・・「除服出仕」とは、喪が明けた後に役所に出仕することです。・・・つまりは、“故徳川家茂の喪が明けたならば、出来るだけ早くに朝廷へ出仕せよ”とのご命令でした。・・・
      ※ 同年同日:「幕府」が、“安房、上総、下総、常陸国など各地の領主や寺社等”へ・・・“関東郡代(かんとうぐんだい)・河津祐邦(※伊豆守とも、幕府旗本)が巡視する事”・・・を達す。【綱要】・・・「河津祐邦」とは、横浜港を再度閉鎖するという交渉を幕府から託されていた、かつて遣仏使節(=横浜鎖港談判使節)の副使であり、帰国後には「免職及び蟄居」という“軽めの処分”を受けていた人物ですが・・・“その処分から僅か約5カ月後となる12月”には「蟄居」を解かれ・・・“この年の3月16日”には幕府陸軍歩兵頭並(1000石取り)として復帰し・・・“この前月26日からは関東郡代”とされました。
      ・・・この「関東郡代」とは、西暦1864年(元治元年)の「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」によって、関東地方の各地が戦場となったことが時の幕府に衝撃を与えたため、“その年の11月”に再び設置された役職であり、“幕府直轄領以外の旗本領や寺社領などに対しても訴訟や治安維持に関する権限を行使することが可能とされ、更には新田開発や、治水灌漑、酒造制限、生糸改印などの民政や経済政策に関する権限も強かった”と云います。・・・いずれにしても、“この河津祐邦が、このタイミングに関東郡代として返り咲いていること”を考えると、“徳川宗家を継いだ徳川慶喜公が、もはや横浜鎖港などは不可であり、開国やむなし”と、ハッキリ意識していたように感じられるのです。・・・

      ※ 同年10月6日:「水戸藩士・長谷川允迪(※名は後に清、通称は作十郎、号は艮山、青水とも、藩校・弘道館の元舎長)」が・・・“因幡鳥取及び備前岡山二藩への使い事”を終えて・・・「帰京」する。【綱要】・・・長谷川允迪は、岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、徳川慶喜の異母弟)の元へも、出向いたようですね。・・・
      ※ 同年10月10日:「幕府」が、「水戸藩附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)」を召し出し・・・“水戸藩の藩政改革のためとして、目付の岩田通徳(いわたみちのり:※幕府旗本)と堀錠之助(ほりじょうのすけ:※幕府旗本)を水戸藩へと遣わし、家老の鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)らを斥けんとする内意”・・・を伝える。【綱要】・・・とうとうと云うべきか、“水戸藩内における風向きが完全に変わったよう”であります。・・・また、伝えられたという“内意”ですが、事実上謹慎状態にあった水戸藩主・徳川慶篤の内意と云うよりは、むしろ・・・幕府、つまりは“徳川慶喜の内意だった”のでしょう。
      ※ 同年同日:「水戸藩附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)」が、“藩主の意”を受け、「家老・鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)」を諭して、“其の退職”を請わせる。【綱要】・・・附家老・中山信徴は、“筋違い”とならぬように、藩主・徳川慶篤の意向を確かめた上で、家老・鈴木重棟に対して、あくまでも鈴木重棟自らが退職を申し出ることを勧めた訳です。
      ※ 同年10月11日:「水戸藩家老・鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)」が、“江戸から水戸へ帰らん”とす。【綱要】・・・きっと、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)など他の諸生党達へ報せて、今後について協議しようとしたのですね。・・・
      ※ 同年10月12日:「幕府」が、“諸国凶作のため”として・・・“外国米の輸入販売”・・・を「許可」する。・・・当時、「世直し一揆」などと呼ばれる一揆や打壊しが多発した上に、この年の凶作が重なったことで・・・“必要な国内需要に対して、何をどうやっても、生産と供給能力が追い付かなかった”とと考えられます。・・・東日本と西日本で内乱が発生し、備蓄米は底をつき始めていた筈であり、これも致し方なかった事かと。・・・それにしても、何処から輸入したのでしょうか? ・・きっと、清王朝辺りから安値で仕入れて、日本へと運搬し、高値で売り捌(さば)くのでしょうね。・・・そして、この時の海運業を担った勢力は?・・・
      ※ 同年10月14日:「水戸藩士・遠山重明(※通称は熊之介、側用人見習い、藩校・弘道館の舎長)」が、「書状」を、「同藩附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)」に呈して・・・“藩政改革の人材登用において、過激な対応により優秀な人材を失うことが無きように”・・・と請う。【綱要】・・・この書状の内容については・・・遠山重明を側用人見習いとしたのが藩主・徳川慶篤でしたので、“当然に慶篤の心の内を著わしていた”と想われますし・・・もしかすると、“慶篤自筆の書を、遠山重明から直接、中山信徴の手に呈されて、慶篤の言葉を伝えていたのか”も知れません。・・・そして・・・このことを、逆に考えれば、この頃の江戸藩邸内に居た慶篤は、謹慎と云うよりも、むしろ幽閉に近かったのではないか? とも想えるのです。・・・
      ※ 同年10月16日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「除服」の後、初めて「参内」する。
      ※ 同年同日:「水戸藩士・内藤正直(※通称は弥大夫、号は耻叟、碧海とも、藩校・弘道館の教授頭取)」が、「書状」を、「家老」に致して・・・“前藩主夫人の貞芳院(※名は吉子、芳子とも、徳川慶篤や慶喜の実母、有栖川宮織仁親王の第12王女)の助けを得て、藩主・徳川慶篤と、徳川宗家を継いだ徳川慶喜の兄弟間を調停し、朝廷と幕府双方に対する感情を緩和させること”・・・を「建言」する。【綱要】
・・・ちなみに、“この内藤正直が、再び藩内論争に巻き込まれて入獄させられる以前の出来事”であるため・・・これは、“水戸での話”です。・・・したがって、“書状の宛先”の「家老」とは、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら諸生党の家老となります。・・・この建言が、内藤正直が入獄させられる間接的な理由だったのでしょうか?
      ・・・いずれにしても、この頃の諸生党の幹部らにしてみれば、“幕府からは梯子を外される格好となって、戦々恐々という心境だった”でしょうから・・・内藤正直から、このような書状を受け取れば、“かつての渡邊半助(※元々は鎮派)の如くに目障りな存在であった”ことは、ほぼ間違いないかと。・・・
      ※ 同年10月18日:「幕府」が、“水戸藩士が欲しいままに江戸へ往復する事を禁じて”・・・“中川や、市川、松戸、千住、関宿などの関所関門を通行する者には、必ず目付の印鑑を提示させること”・・・とす。【綱要】・・・時の幕府は、水戸藩士に対する自由往来禁止措置を採った訳です。・・・もちろん、その主な標的は、諸生党の人々であったかと。・・・
      ※ 同年同日:“幕府老中・井上正直(※遠江浜松藩主)や、若年寄・遠山友禄(※美濃苗木藩主)、大目付・戸川安愛(※号は晩香、幕府旗本)、目付・岩田通徳(※幕府旗本)ら”が、“江戸小石川の水戸藩邸”に至りて・・・“藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)に謁(見)し、藩政改革の事を議する”・・・と、“家老・鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)以下の在邸諸生ら”が、悉(ことごと)く「登殿」して・・・“これを拒み、幕吏達”を「威嚇」する。【綱要】・・・もはや、“殿の御前であろうとなかろうとお構いなし”といった状況です。・・・しかも、“老中以下の幕吏達に対して威嚇した”と認識される始末。・・・切羽詰まった気持ちは分かりますが。いくらなんでも・・・。・・・ちなみに・・・大目付・戸川安愛は、かつて同じく大目付・永井尚志(※通称は玄蕃頭、幕府旗本)らと共に、広島の国泰寺において、長州藩家老・宍戸備後助(※別名は山縣半蔵)に対して「八箇条」を訊問した人物です。・・・故に、“交渉馴れしているとともに、頭も切れる人物だった”かと。・・・
      ※ 同年10月21日:「幕府目付・堀錠之助(※幕府旗本)」が、この日に「水戸」へ至り、「藩校・弘道館」に宿す・・・と、「水戸藩庁(=水戸城)」では、“目付派遣の報せを聞き付けて”・・・“藩士・遠山重明(※通称は熊之介、側用人見習い、藩校・弘道館の舎長)や、内藤正直(※通称は弥大夫、号は耻叟、碧海とも、藩校・弘道館の教授頭取)らを挙用(きょよう:※下の地位にいた人を上の地位に採り立てて使うこと)して、藩政改革の実績を示さんとする”・・・も、“偶々(たまたま)、江戸藩邸における情報”が達し・・・“諸生らが、紛擾(※揉め事、紛争、紛糾のこと)し、却って幕吏を論詰せんとする”に至る。【綱要】・・・この時の諸生党の人々からしてみれば、幕府目付・堀錠之助が藩校・弘道館を宿舎としたことが、相当に意外な出来事として受け止められたのではないでしょうか?・・・幕府は自分達の味方であると信じていたでしょうし。
      ・・・ましてや・・・この弘道館は、かつて追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)が、笠間から水戸へ進軍した際に本営地とした場所ですから。・・・今度追い遣られるのは、誰? と連想したのかも知れません。・・・しかし、一方の幕府目付・堀錠之助にしてみれば、そんな事は気にせずに・・・むしろ、藩主・徳川慶篤の側用人見習いとされていた遠山重明や、そこで教鞭を採っていた内藤正直らと、肝心な藩政改革の実績について聞き取りたかったに相違なく、“実務者としての選択だった”と想うのですが。・・・いずれにしても、このことで、“諸生党が、遠山重明や内藤正直らを、挙用せざるを得なくなった訳”です。・・・これが、時の幕府が考えた“真の狙い”だったかと。・・・
      ※ 同年10月29日:「水戸藩」が、“家老・朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)の職”を免じて・・・“藩地における謹慎”・・・を命ずる。【綱要】・・・“この条”の「水戸藩」とは、おそらくは・・・“江戸の水戸藩邸のことであって、且つ幕府の後押しを背景として行なわれた藩政改革の一環を示している”と想うのですが・・・それとも、“水戸藩庁(=水戸城)内において、とりあえずは幕府に対して恭順の意を示しておいたほうが良い”とする諸生党らの意見による影響でしょうか? ・・・“藩主・徳川慶篤の側用人見習いとして、その内意を受けている遠山重明や、内藤正直らの働きがあったと考えれば、後者のよう”でもあり・・・正直、良く分かりません。・・・
      ※ 同年10月内:「長州藩」が、“停戦が成立していた他戦線の兵力”を、「小倉方面」に「集中」して・・・尚も攻勢を強める。・・・

      ※ 同年11月7日:「幕府」が、“徳川宗家を継いだ徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の生父・徳川斉昭の祥忌(しょうき)29日を以って”・・・“毎月の殿中精進日と為す事”・・・を令す。【綱要】・・・「祥忌」とは、人の死亡した月日と同じ月日のこと。「祥月(しようつき)命日」とも。・・・これも、当時の政治を物語ることですね。・・・故徳川斉昭の生前中には、散々たる処分があったため、当時の人間としても、複雑な心境だったのではないか? と想います。・・・
      ※ 同年11月14日:「幕府」が、「目付・榎本亨造(えのもときょうぞう:※名は享三、亨蔵とも、通称は対馬守、幕府旗本)」を、「水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」へ遣わして・・・“弟の松平昭武(※後に徳川昭武と改姓し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)を使節と為しフランスへ派遣し、且つ5箇年を同国に留学せしめる”・・・とともに、“かつての陸奥会津藩主・松平容保への養子とする旨の約定については、昭武に代えて、次弟の松平昭則(まつだいらあきのり:※後の松平喜徳、水戸藩主・徳川慶篤や徳川慶喜の異母弟、故徳川斉昭の十九男)とし、前尾張藩主・徳川茂徳(※一橋家相続後は徳川茂栄、徳川慶勝の異母弟であり尾張藩主・徳川徳成の叔父且つ養父)に一橋家を相続させるべきとの内旨”・・・を達す。【綱要】
      ・・・徳川慶喜が徳川宗家を継いだため、それまで慶喜が当主だった御三卿・一橋家を、前尾張藩主・徳川茂徳に継がせ・・・また、この条では直接的な記述はありませんが・・・それまで当主不在であった御三卿・清水家については、いずれ・・・慶喜の異母弟であり、幼年ながらも慶喜の天狗党勢鎮定軍に随った松平昭武に相続させようとしていた訳です。徳川慶喜公が。・・・これは、“弟である松平昭武を、異母兄の慶喜名代及び幕府代表使節として、パリ万国博覧会への参加させたり、当初予定5箇年のフランス留学など欧州へ派遣させて、弟に広い世界を学ばせるため”でした。・・・徳川慶喜公の弟達への期待感が、如何に強かったかが感じられますね。・・・ちなみに、“この条にある榎本亨造”も、後に・・・前述の永井尚志や、榎本武揚(※通称は釜次郎、号は梁川、変名は夏木金八〈郎〉)、土方義豊(ひじかたよしとみ:※通称は歳三、号は豊玉、変名は内藤隼人)らとともに、蝦夷地へ向かって会計奉行を務めた人物です。
      ※ 同年11月15日:“水戸藩家老の鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)ら”が、この日、「藩士・内藤正直(※通称は弥大夫、号は耻叟、碧海とも、藩校・弘道館の教授頭取)」を「江戸藩邸」に「拘禁」し・・・後に、“これを水戸へ護送し、官邸への禁錮(きんこ)”がとす。【綱要】・・・「禁錮」とは、監獄に閉じ込める刑罰のこと。・・・つまりは、“何らかの罪を犯したとして、内藤正直を禁錮刑に処した”ということ。・・・すなわち、“諸生党の鈴木重棟ら”が、“徳川宗家を継いだ徳川慶喜の内意を背景とした幕府の意向や水戸藩主の意向を、無視するが如くの実力行使だった訳”です。・・・また、鈴木重棟に限っても、自らの退職申し出の件については、事実上拒絶したことに他なりません。・・・
      ※ 同年11月18日:“水戸藩の諸生ら”が、“幕府による藩政改革”に対して「反抗」し・・・「水戸・常磐山(ときわやま)」の「東照宮境内」に「集合」す。【綱要】・・・水戸・常磐山の東照宮とは、水戸東照宮のこと。この所在は、現茨城県水戸市宮町2丁目。・・・“この条”では、ただ「集合す」とありますので、現に集まって何かを相談していた様子だけは分かります。・・・まだ武装などはしていなかったようです。
      ※ 同年同日:“水戸藩家老の鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)ら”が、「藩士・菊池剛蔵(きくちごうぞう:※改名前の海後宗親のこと、元常陸国三嶋神社神官家出身)」を「水戸」で捕らえ、「禁錮」とす。【綱要】・・・この条については、以下に補足致します。(↓↓↓)



      上記にある菊池剛蔵、すなわち海後宗親は、「桜田門外の変」の後、常陸国那珂郡小田野村の高野家に約7カ月ほど隠れて、その後は会津や越後方面に潜伏していました。・・・西暦1863年(文久3年)頃には、水戸藩が「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」が起こる以前の藩内情勢もあり、捕吏による追跡が緩んでいたためなのか? その罪が赦されると、郷里に戻って、「菊池剛蔵」と改名しました。・・・そして、また藩内抗争に身を投じることとなり、西暦1864年(元治元年)に「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」が起こると、今度は「大発勢」に加わったため、下総関宿藩に「御預」となります・・・が、結果として、ここも無事に逃れることが出来たのです。“この西暦1866年(慶應2年)11月18日に捕らえられるまで”は。・・・しかし、この時の禁錮刑をも耐え抜くことになるのです。
      さて、“海後宗親の姪が、当時の記憶を基にして記した”という『潜居中覚書』は、この菊池剛蔵こと海後宗親(※通称は磋磯之介、元常陸国三嶋神社神官家出身)はもちろん、増子誠(※通称は金八、変名は落合誠三郎、元水戸藩小普請組)の“逃亡生活の一端”を知ることが出来る史料なので、ここで要約をご紹介致します。
      ・・・海後宗親の実兄の粂之介(くめのすけ)は、常陸国那珂郡小田野村の吉田八幡神社の神官であった高野家の養子に入って神職を継いでいました。
      ・・・そのため、海後宗親は「桜田門外の変」の後、兄を頼って秘かにこの神社境内に潜伏したのですが・・・。
      ・・・この覚書によれば、西暦1860年(安政7年)3月3日に、幕府大老・井伊直弼(※近江彦根藩主)を襲撃した後、数週間を経た3月末頃に、この吉田八幡神社に海後宗親が現れて、当初は境内の「神座」という人が出入りしない処に匿われていた・・・ものの、その後、“この潜伏の事実が発覚するのを懼(おそ)れて、この神社の裏山に潜んでいた”・・・と云います。しかし、“高野家の米の買い入れ量が増えたことで出入りの米商人に怪しまれたり”・・・“捕吏による捕縛の気配についてを、近隣住民の情報によって察知し間一髪で遣り過ごすなどの苦難もあった”・・・とのこと。・・・また、“裏山に潜伏している弟のために、兄・粂之介自らが食料や酒を持って山に入り、大声で詩吟や歌を詠み歩いて、然も精神が錯乱したと周囲に見せ掛けながら、山中に潜む弟を捜し回った”・・・とも記されています。・・・そして、海後宗親がいよいよ、この裏山を離れる際には、“粂之介の妻が真綿が入った胴着を新調し、宗親を職人姿とさせて、無事を祈りつつ見送った”・・・とのこと。・・・尚、高野家の庭先には、現在も「海後磋磯之介潜居趾」の碑が建てられています。
      ・・・また、“波乱に満ちた菊池剛蔵こと海後宗親の生涯”を「モデル」として、歴史小説作家・吉川英治が『旗岡巡査』という小説を書き、これが後に映画化されています。



      ※ 同西暦1866年(慶應2年)11月19日:“水戸藩家老の鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)ら”が、“藩士の遠山重明(※通称は熊之介、側用人見習い、藩校・弘道館の舎長)や、石河幹二郎(いしかわみきじろう:※藩校・弘道館の助教)ら”を、「禁錮」とす。【綱要】・・・これも、諸生党からすれば、前月21日に“挙用してやったのに、余計なことを画策しおって!!!”ということだったのでしょうか?・・・いずれにしても、藩校・弘道館の主だった者達が、ほとんど禁錮刑とされた模様なのです。・・・
      ※ 同年11月20日:「幕府目付・堀錠之助(※幕府旗本)」が、この日に「水戸」から「帰府」する・・・と、“水戸藩附家老の中山信徴(※通称は与三左衛門)らは逡巡(しゅんじゅん)して江戸に在りて”・・・「帰藩」せず。【綱要】・・・「逡巡」とは、決断出来ずにぐずぐずすること。尻込みすること。躊躇(ためら)うこと。・・・“藩政改革の交渉担当窓口”として期待される藩校・弘道館の主であった者達がほとんど、禁錮刑とされていた訳ですから、逡巡するのも致し方ないことかと。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩の諸生ら”が、この日に「蜂起」したことにより・・・“藩政改革を断行する目途が立たず”【綱要】・・・とうとう、諸生党が武装蜂起してしまいました。・・・
      ※ 同年11月21日:“水戸藩士の塙勝等(はなわかつひと:※通称は清之允)ら”が、「水戸」を「脱走」する。・・・“これ以後、藩を脱する者が数十名に及ぶ”【綱要】・・・“この時、諸生党に組み込まれることを良しとはしない藩士らが脱走した”とのこと。・・・それにしても、“数十名”と記されていることで、この頃の水戸の在藩家臣団が如何に小規模となっていたかが分かります。・・・これは、那珂湊で降伏した大発勢に参加して諸藩に御預されていた人々や・・・越前国敦賀まで行き、敦賀などで留められていた人々の多さについてを物語っているのだと想います。・・・
      ※ 同年11月28日:「幕府」が、“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・松平昭武(※後に徳川昭武と改姓し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)をフランスへ派遣し、明くる年に巴里(=パリ)にて開催される万国博覧会に参列させしむ命(令)”を、「水戸藩家老」へ申し渡す。・・・これ以後、「松平昭武」は「徳川姓」を称す。【綱要】・・・徳川宗家を継いだ“徳川慶喜の内旨ではなく、幕府からの正式命令”でした。

      ※ 同年12月1日:「朝廷」が、“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の京都警衛における功を賞して”・・・「従四位下」に叙し、「左近衛権少将」に任ず。【綱要】
      ※ 同年同日:「幕府」が、“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・松平昭則(※後の松平喜徳、水戸藩主・徳川慶篤や徳川慶喜の異母弟、故徳川斉昭の十九男)を以って、陸奥会津藩主・松平容保の養子”・・・と為す。【綱要】
・・・前月14日の“徳川慶喜ご内意”の通り。
      ※ 同年12月3日:「幕府」が、“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)に対し、御三卿・清水家を継がせるとともに、徳川宗家の徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)を営内へ暫らく住まわせる”と「内命」したため・・・この日、「松平昭徳」も、“これ”へ移る。【綱要】・・・“この時の徳川慶喜の営内”とは、当然に大坂城のことであり、“そこに徳川昭武も清水家当主予定者として入居した”とのこと。。・・・また、徳川昭武は、この時・・・“僅か満13歳2カ月と少しの頃”です。・・・きっと、歳が離れた兄の慶喜から、異国へ発つ弟に対して、様々な訓示や心構えを伝授されたのでしょう。
      ※ 同年12月5日:“徳川宗家を継いだ徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)”が、「正二位・大納言」、「征夷大将軍」、「右近衛大将」に任じられる。(=江戸幕府〈=徳川幕府〉第15代征夷大将軍の将軍宣下)・・・同年8月20日の徳川家茂発喪以降、徳川慶喜は徳川宗家を相続していた・・・ものの、将軍職就任については拒み続けており・・・ようやく、この日に将軍宣下を受けて、第15代征夷大将軍に就任しました。・・・一般には、“幕府へ恩を売る格好で将軍となり、その後の政治情勢を有利に進めるという狙いがあった”と云われますが・・・ここまでの就任固辞が、“慶喜の政略によるものと見做なせる”という根拠も・・・また、“この政略説を否定する”という根拠も、ともに乏しいのが実情です。 ・・・しかし、“この頃の慶喜は、現実的な開国を意識するようになっており”・・・“この日の将軍職就任受諾については、当然に現実的な開国体制構築を視野に入れていた”と考えられるのです。
      ・・・慶喜自身、つまりは“徳川宗家のバックアップの一つ”として・・・“御三卿・一橋家を、慶喜より少し年上で苦労人の徳川茂徳”に継がせ・・・“もう一つの御三卿・清水家は、若年の弟・松平昭武を継がせて、西欧諸国で見聞を広めさせように”・・・と、今まさに自身の名代として、パリ万博やフランス留学へ旅立たせようとしていましたから。・・・ちなみに、この時の徳川慶喜は、数えで30歳。
      ※ 同年12月8日:「幕府」が、“各分野の専門家を含む士官6名及び下士官兵9名から成るフランス陸軍軍事顧問団”を「招聘」し・・・この日、“この一行”が「横浜」に「到着」する。・・・この日到着したのは、計15名でした・・・が、“後に4名が追加派遣され、総勢19名となった”とのこと。・・・尚、この軍事顧問団は、仏国陸軍大臣の権限により選抜された人材であり、その団長とされたのは、「シャルル・シャノワーヌ参謀大尉」とのこと。
      ※ 同年同日:“前日に横浜へ到着したフランス陸軍軍事顧問団”が、「訓練」を「開始」する。・・・この軍事顧問団は、現神奈川県横浜市中区山手町「港の見える丘公園」付近にあった当時の陣屋において、幕府の精鋭部隊とされる「伝習隊」に対し、“砲兵や、騎兵、歩兵三種の軍事教練を開始した”とのこと。
      ・・・この時の「伝習隊」は、当時の最新装備を有したものの、陸軍所(=幕府の旧講武所)から公募により集められた旗本らの士分は、ともかく・・・“旗本領地の農民から当初募集する予定も上手くゆかずに、博徒や火消などの無頼の徒を徴募して編成されていて、総勢1,400名規模だった”とのこと。・・・また、シャノワーヌ参謀大尉は、暫らく教練を行なった後の同年3月に・・・“兵士、特に士分の基礎体力不足や、全体としての軍馬の扱いについての能力不足、また騎兵に関しては優先順位を下げて、歩兵や砲兵へ重点を置くべき”と指摘する建白書を提出しています。・・・シャノワーヌ参謀大尉が、かなりの鬼教官であったことも分かりますが、即戦力を欲していた当時の将軍・徳川慶喜公や幕府側の事情というのも理解出来ますね。
      ※ 同年12月14日:「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、徳川慶喜の異母兄、故徳川斉昭の五男)」が、「書(簡)」を、「幕府」へ致して・・・“自身の病を以って、上京についての猶予を請い、また洋服や戎装(じゅうそう:※軍装や戦さの装いのこと)などの採用については不可と述べるとともに、水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)が、フランスへ派遣することについても不可”・・・と述べる。【綱要】・・・鳥取藩主・池田慶徳は、かつての西暦1863年(文久3年)6月14日、朝廷から拝命した摂海守備総督として、英国船へ発砲し攘夷実行の姿勢を、実際に示した人物です。・・・そして、“これまでも実家の水戸藩などと共に、尊皇攘夷実行のためとして、朝廷や幕府に対して様々な政治活動を行なっていたこと”を考えれば・・・この日以前に、徳川宗家を継いでいた徳川慶喜本人、或いは時の幕府から、何かしらの内旨を受けていたのかも知れません。
      ・・・いずれにしても、自身の弟が徳川宗家と将軍職を継いだため・・・“それぞれの立場の違いから生じる影響によって、後の現実的な手法の違いが、この兄弟間で決定的となった”ように感じられます。・・・弟の徳川慶喜公からすれば、“頼りになる兄へ、せっかく相談を持ち掛けたのに、これでは全否定されたようなもの”。・・・一方の兄の池田慶徳公からすれば、“いくらなんでも、これは早急に過ぎるし、それに今までと違い過ぎるだろ”と。・・・もしかすると、鳥取藩の軍装変更に関することだけではなく、“この兄弟達の弟である徳川昭武が率いると予定された使節団の派遣行為自体”に関して、何らかの依頼・相談をしていた可能性もあるのでは?・・・
      ※ 同年12月17日:「水戸藩」が・・・“藩士の禄を3箇年間減ずる旨”・・・を達す。(=郡庁令達)・・・“この条”の「水戸藩」とは、“藩庁(=水戸城)を根城とし蜂起していた”という諸生党のことかと。・・・諸生党は、藩士の禄を3箇年間減ずる事で、“藩政改革を為した”と藩の内外に示したかったのか否か?・・・それにしても、“水戸藩士数十人が脱走した後のことであり、生粋の諸生党員のみが在職し、藩庁(=水戸城)を運営していた”と考えられるため・・・まるで・・・“諸生党自らも連帯責任を負いますので”・・・と、“将軍職を継いだ徳川慶喜公や幕府に対して、主張しているかのようなタイミング”なのです。・・・
      ※ 同年12月25日:「孝明天皇」が、「崩御」する。・・・まさに内憂外患の、この時期に・・・。九州の小倉地方では、長州藩と小倉藩兵が、交戦状態にある頃です。・・・在位は21年。宝算36(=満35歳没)。・・・いずれにしても、“攘夷思想が強く、保守的な人物であった”とされる孝明天皇が、“これからは期待出来る”と考えたであろう、徳川慶喜を征夷大将軍などに任じてから数えて、“僅か20日後のこと”でした。年末のことでもあります。・・・その死因は・・・一応は、“天然痘であった”と診断されております・・・が、他殺説も存在しており、尚も議論があるところですね。・・・証拠不十分による不起訴状態と云ったところでしょうか?・・・いずれにしても、この時の孝明天皇の死については、当然の如く・・・世間一般には秘されております。・・・
      ※ 同年12月28日:「幕府」が、“水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”に、「御三卿・清水家」を継がせる。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“米価暴騰や、凶作、課役苛重、村役人の非違(ひい:※法に背く行為のこと、違法行為のこと)などのため”・・・「陸前」や、「陸中」、「羽前」、「岩代」、「上野」、「下野」、「武蔵」、「越後」、「信濃」、「越前」、「飛騨」、「三河」、「近江」、「伊勢」、「摂津」、「但馬」、「和泉」、「美作」、「石見」、「紀伊」、「播磨」、「伊予」、「豊前」、「豊後」などで、「一揆」や「打壊し」が起こる。・・・大変な事態です。・・・日本列島各地で、同時多発的に、しかも「世直し一揆」が発生したとのこと。
      ・・・この頃・・・“長州藩一藩に対して、規模で比べれば比較にならない程の大軍であった第2次長州征討幕府軍が、脆(もろ)くも大敗し、現に西欧列強の黒船が主要開港都市に寄港し、見慣れぬ西洋人達が闊歩し交易などを行なっていた訳です”から。・・・そして、“実際の暮らしぶりは、むしろ悪くなる一方で、一向に良くならない”という矛盾。・・・更には、“それまで二百数十年に亘っていたために、その後にも続くと思われていた幕藩体制そのものも、意外にも脆く、腐っているのではないか?”・・・と。・・・当時の身分にかかわらず、全ての日本人が、漂う空気に敏感だったのです。・・・それに、たった三日前に、当時の日本人の精神的な支柱、若しくは宗教指導者とも云える孝明天皇が亡くなってしまった訳ですから。・・・また、“日本列島各地で、同時多発的に”という点が気になります。・・・まるで、どこかの勢力が、あらかじめ用意しておいた導火線に、火打石で以って火を起こしたかの如く・・・。
      ・・・この幕末期にも、いわゆる忍者集団が存在していたのですね。戦国時代とは、装いはかなり違っていたのでしょうが。・・・水戸藩の内訌によって、既に実証済みであるかのように・・・。・・・
      ※ 同年同日:「元水戸藩士・藤田彪(※号は東湖、藤田幽谷の次男)」の著書『常陸帯(ひたちおび)』が「刊行」される。・・・こんなに早く・・・。
      ※ 同年同日:「水戸藩士・青山延寿(あおやまのぶとし:※字は季卿、通称は量四郎、号は鉄槍斎、青山延光の弟、藩校・弘道館の教授頭取代理、彰考館権総裁)」の著書『読史雑詠(どくしざつえい)』が「刊行」される。・・・
      ※ 同年12月29日:“孝明天皇が崩御された”と「発喪」される。・・・この発喪されたタイミングは?・・・もはや世間に動揺が広まってしまったためと観るべきでしょうか?・・・
      ※ 同年12月内:「幕府」が、“イギリス、フランス、アメリカ、オランダ四カ国の公使”に対して、「上阪」を求める。・・・“ようやく将軍職に就くこととなった徳川慶喜は、西欧列強諸国の意向や世界の現状を確かめるため、積極的な行動に出た”と考えられます。・・・そして・・・この直後頃に・・・将軍・徳川慶喜が、“日本のタイクーン(=大君)”として、西欧諸国からは高評価を受けることに繋がるのですが・・・。

・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】