街並と天空   

『 夢と夢をつなぐこと・・・ 』

 それが私達のモットーです。 ~トータルプラン長山の仲介~ 

    

ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】



・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 同西暦1600年(慶長5年)7月25日朝:“下野国小山に居た徳川家康の元”に、“京都伏見城が攻撃されているとの飛報”が、届けられる。
      ※ 同年同日:「徳川家康」が、“会津征伐(=上杉討伐)に従軍した諸大名”を、「小山」に、「招集」し・・・“今後の方針に関する軍議”を、開く。
・・・いわゆる「小山評定」です。・・・“この前日に上方において石田三成らが挙兵したことを知った徳川家康は、直ちに「会津征伐(=上杉討伐)」を中止する方針に転換した”とされます。・・・“この時の徳川家康にとって最大の課題は、東海道や東山道に、それぞれ所領を有する豊臣恩顧の武将達が、実際にどのような対応を見せるのか? ということだった”と考えられ・・・“石田三成挙兵の報は、当然に彼ら豊臣恩顧の武将達の耳にも届いていた筈であり、彼らがその時に受けた動揺とともに、それぞれの今後について、その立ち位置というものを苦慮していた”のです。・・・そのため・・・「小山評定」では、徳川家康の命を受けた黒田長政が、福島正則に対して豊臣秀頼には害が及ばないこと、石田三成が豊臣秀頼のためにならないことを諸大名などへ説明し、東軍に就く態度を、それぞれが鮮明にするよう説得します。・・・但し、“この時点”では、未だに「内府ちかひ(=違い)の条々」が、小山までは届いておらず・・・“毛利輝元が大坂城において豊臣秀頼を擁して西軍方(≒石田方)の総大将となった事実は、徳川家康をはじめとし、小山在陣の諸将達は知る由もなかった”ようです。・・・つまりは、淀殿や豊臣政権奉行衆の一人だった増田長盛から先に届いた鎮定要請に基づき、大坂城からの指示に従う形式が依然として保たれていた訳です。・・・“もしも、この時点において、この「内府ちかひ(=違い)の条々」が、“事細かに東軍諸将に伝達されてしまっていた”ならば、後の「関ヶ原合戦」の結果は、大きく変わっていたかも知れません。・・・「内府ちかひ(=違い)の条々」は、“徳川家康に対する弾劾状であり、徳川家康による豊臣秀頼への逆心を明らかにするものであって、須(すべか)らく東軍に与する者達の軍勢が賊軍になり果ててしまう訳です”から。・・・と、ここまで記述しておきながら・・・実は、この「小山評定」の詳細についてを、直接的に記している一次史料というものが存在していないのです。・・・したがって、この小山評定の有無そのものについてや、その内容及び意義などを巡り、様々な説があるのですが・・・それでは、本ページの内容が繋がらないので、概ねのところを、思い切って以下に纏(まと)めますと・・・


      ・・・この日の「小山評定」では・・・山岡道阿弥(やまおかどうあみ:※剃髪前の山岡景友)と板部岡江雪斎(いたべおかこうせつさい)から、“当時の情勢説明と、それぞれの妻子が人質になっているため、(会津征伐〈=上杉討伐〉に従軍していた諸大名や諸将らの)進退について”は・・・“各自の自由であるとの、徳川家康の意向”が伝えられ・・・
      ・・・福島正則が、“大坂などのことは考えず、徳川家康に味方することを表明”し・・・黒田長政(※黒田孝高〈官兵衛・如水〉の嫡男)と徳永寿昌(とくながながまさ)が、“これに続く姿勢を表明”し・・・山内一豊(やまうちかずとよ)が、“自らの居城だった掛川城(現静岡県掛川市掛川)の提供を、徳川家康に申し出る”と・・・“東海道筋の諸大名が、これに概ね倣う”こととなり
(・・・※ちなみに、この提案については、山内一豊の盟友とされる堀尾吉晴(ほりおよしはる)の次男または長男とされる堀尾忠氏(ほりおただうじ)と、“山内一豊が予め協議した上での話だった”と云われます。・・・)・・・更には、福島正則が、故豊臣秀吉から預かっていた非常用の兵糧20万石についても、徳川家康へ提供すると表明するに至り・・・結果としては、“会津征伐〈=上杉討伐〉に従軍していた、ほぼ全ての従軍諸将が、徳川家康に従うことを誓約することになりました”が・・・

      ・・・信濃上田城(現長野県上田市二の丸)主・真田昌幸(さなだまさゆき)と、美濃岩村城(現岐阜県恵那市岩村町城山)主・田丸直昌(たまるなおまさ)は、これらに与すること無く、“西軍方(≒石田方)へ就く姿勢”に切換えております。


      ・・・いずれにしても、この「小山評定」の段階には・・・“故豊臣秀吉が予め徳川家康を封じ込めるためとして配置していた東海道筋の諸城や兵糧について”を、福島正則や東海道筋の諸大名から提供される格好で以って、徳川家康が確保出来たことにより、いわゆる東軍の軍事的な展開及び前線地域への兵力投入が容易となった訳です。
      ・・・そして・・・この「小山評定」が、“上記のような展開となった背景”には・・・“東海道筋の諸大名達が、かつての関白であり、西暦1595年〈文禄4年〉7月15日に亡くなった豊臣秀次(※秀吉の甥)の切腹事件以降に、徳川家康との間において、心理的且つ思想的な距離感を縮めていたため”とする指摘もあります。

      ・・・また、この「小山評定」によって、“諸大名や諸将達が、徳川家康へ提供した居城”には・・・徳川家譜代の家臣とされる松平康重(まつだいらやすしげ)や、松平家乗(まつだいらいえのり)、内藤信成(ないとうのぶなり)、保科正光(ほしなまさみつ)、北条氏勝(ほうじょううじかつ:※後北条氏の一族)らが、それぞれの城将として入城し、西軍方(≒石田方)に対する守備に当たることになります。
      ・・・ちなみに、“この小山評定の伝達役の一人だった山岡道阿弥(※剃髪前の山岡景友)は、かの甲賀忍者集団をルーツに持つと云われる甲賀組(こうがぐみ)と呼ばれる鉄砲足軽百人衆を、自身の配下に預けられていた武将”であり・・・後には、常陸古渡(ひたちふっと)藩の初代藩主とされますが・・・その後には、無嗣のため改易処分となっております。・・・尚、常陸古渡藩の藩庁所在は、常陸国河内郡古渡(現茨城県稲敷市古渡)。


      ※ 同西暦1600年(慶長5年)7月25日正午頃:“徳川家康から信夫口を任されていた伊達政宗勢”が、“上杉家の白石城(※別名は益岡城、桝岡城とも)”を、「落城」させる。・・・この当時、上杉家から白石城を預かっていた城代は、甘糟〈備後〉景継(あまかす〈びんご〉かげつぐ:※甘粕景継とも)とされますが、主君の上杉景勝の命令によって若松城(※別名は会津若松城、会津城、黒川城、鶴ヶ城とも)に詰めていたため・・・実際には、甘糟景継の甥だった登坂勝乃(とうさかかつゆき)が、その代理として守備しており・・・この前日、つまりは・・・“白石城の戦いの初日に、かつての旧領だった城下町や、外曲輪、三の丸などへ、伊達政宗が火を掛けて炎上させる”と・・・本丸を除く白石城全域を占拠された登坂勝乃は、“勝機無しとして伊達政宗へ降伏しようとした”と云われますが・・・かつて伊達政宗に滅ぼされた二本松畠山氏の旧臣・鹿子田右衛門(かのこだうえもん)が、徹底抗戦を主張して譲らなかったため・・・登坂勝乃は、鹿子田右衛門を謀殺して、伊達政宗に対して降伏し・・・伊達政宗は、叔父の石川昭光(いしかわあきみつ)に白石城守備を任せて、自身は北目城に一旦引き揚げるものの・・・
      ※ 同年7月26日:“増田長盛や、長束正家、前田玄以の豊臣政権三奉行”が、“豊後国岡(現大分県竹田市)に居た中川秀成(なかがわひでしげ:※中川清秀の次男であり、後の豊後岡藩初代藩主)”に向けて・・・“毛利輝元の軍勢2万が近江国瀬田(現滋賀県大津市瀬田)と守山(現滋賀県守山市)の間で陣取っているため、もしも東軍方(≒徳川方)の西進すれば迎撃する態勢であること、また宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)と小早川秀秋(※故豊臣秀吉の正室だった北政所の甥)の両軍勢が、京都付近の醍醐や、山科、大津に展開していることを伝える連署書状”を、この日に送る。・・・この時の増田長盛の行動については、スルーするにしても・・・この連署書状を宛てられた中川秀成に関しては・・・この当初期頃には、自身の家臣を西軍方(≒石田方)による丹後田辺城(※別名は舞鶴城〈ぶがくじょう〉とも)攻めに派遣してはいたものの・・・「関ヶ原合戦」の本戦が終結した後に、結局は東軍方(≒徳川方)へ与しております。
      ※ 同年同日:“東軍方(≒徳川方)による前日の評定において、西軍方(≒石田方)を迎撃することが決定される”・・・と、“畿内や西国の諸大名及び諸将達が、次々と陣を払って、西進を開始することとなり、福島正則の居城・尾張国清洲城(現愛知県清須市一場)”を目指して、「出陣」する。・・・そして、“伊勢方面に所領を持っていた富田信高(とみたのぶたか)や、古田重勝、氏家行広(うじいえゆきひろ)、福島正頼(ふくしままさより:※福島正則の弟)、九鬼守隆(くきもりたか)ら”は、“城防備のため”として・・・“それぞれの居城”へ、向かう。・・・また、「徳川家康」は、“当初の討伐対象とされていた上杉家に対する抑え役及び総大将”として・・・“結城晴朝(ゆうきはるとも)の姪と婚姻させ下総結城氏の家督と領地11万1千石を継がせていた結城秀康(※徳川家康の次男)”に、“里見義康(さとみよしやす)や、蒲生秀行(がもうひでゆき)、那須資景(なすすけかげ)らの軍勢を付けて、宇都宮城(現栃木県宇都宮市本丸町)や、小山周辺地に留め置き”・・・“いわゆる佐竹監視部隊としては、松平(伊豆守)信一(まつだいら〈いずのかみ〉のぶかず)や、水谷勝俊(みずのやかつとし)などを、下野と常陸の国境いへ配置して、“徳川家康自身は西軍方(≒石田方)の討伐のためとして、会津行路を反転し、西上する”(・・・※当時の情勢を見極めるためだったか?・・・)・・・も、“まずは自身の居城・江戸城”へと、向かう。・・・尚、“この時点における東軍方(≒徳川方)の第一戦略目標は、石田三成居城の佐和山城だった”とされますが・・・“徳川家康が、自身の次男であり武勇にも優れていたという結城秀康らを、この宇都宮城や小山周辺地に留め置く理由”としては・・・“当然に、会津にあった上杉家からの追い討ち攻撃を警戒し、これを牽制する意味合いがあり”・・・また、“徳川家康よりも先発して、同年7月19日に「会津征伐(=上杉討伐)」へ向かっていた徳川秀忠勢が小山付近には居らず”・・・おそらくは・・・小山よりも北の、更に宇都宮城の北方にあったため・・・“徳川家康が、上杉家や西軍方(≒石田方)に与する北関東や東北の諸勢力に対して、二重三重の障壁を構築しようとした”と考えられますが・・・何よりも、当時の徳川家康からすれば、“その動向についてが、どうしても不鮮明に映る常陸の佐竹家を監視させるという役目を担っていたよう”であります。・・・当時の徳川家康は、“上杉勢と佐竹勢が連携して動き、北方から一気に追い討ちを掛けられることを恐れて、これを最も警戒していたよう”です。・・・“佐竹義宣の父である義重は、この時既に隠居の身でしたが、満53歳の働き盛りとも云える武将”であり、当時から「鬼義重」や「坂東太郎」などと恐れられていた人物。・・・そして、この頃の佐竹家は、“滅亡した後北条氏や、奥州の伊達氏も手を焼く程だったと云われる程の鉄砲隊を備えて、義重の代から関東一の鉄砲保有数を誇っていたため、特に追い討ち上手として恐れられていた”のです。・・・かつての豊臣秀吉が、佐竹家を臣下とし、関東に転封した徳川家康や、奥州の暴れん坊だった伊達政宗などの抑え役としていた理由には・・・かつての織田信長と佐竹家が良好な外交関係を結んでいたため、その織田信長の後継者とも云える豊臣秀吉による天下統一事業を進める上において、佐竹氏族全体が盤踞していた常陸国の位置が、当時の地政学上も適っていたことも、ありますが、(・・・※諸説ありますが・・・)約20万もの大動員で以って、当時の豊臣秀吉が、「小田原征伐」を、自身の天下統一事業の一大イベントにした結果・・・当時の佐竹家としてみれば、コツコツと蓄えていた鉄砲・・・もちろん、火縄銃だったのでしょうが・・・その鉄砲の数を、あまり消費せずに、結局は温存出来ていた訳です。・・・現に、石田三成に属した「忍城(おしじょう)攻め」の際には・・・“鉄砲などは、ほとんど使用しない、水攻めのための堤防築造”・・・今で云えば、「土木事業」に、当時の佐竹家が従事しており・・・その後の「奥州仕置(※奥羽仕置とも)」でも、佐竹家の鉄砲隊は大損害を被ることが無く・・・この「関ヶ原合戦」の直前期頃まで、着実に自家の鉄砲数を蓄え続けて、“これらに必要な調練についても怠らなかった”と考えられるのです。・・・つまりは、当時の豊臣秀吉でさえ、かつての主君・織田信長が、その軍事的な利用価値に、いち早く着目して実戦に用い、大坂の「本願寺攻め」などでは、逆に苦しめられていた鉄砲という最新兵器を・・・“関東で蓄え続けていた佐竹氏族全体を過小評価出来なかった”ということでもあります。・・・鉄砲には、飛ばされる金属の玉、すなわち鉛玉(なまりだま)の他に、当然として火薬、特に「硝石(しょうせき)」が必要となり・・・この「硝石」は、当時から大陸や朝鮮半島などを通じた貿易などの商取引が成立しなければ、そもそもとして入手出来ませんので・・・時の豊臣政権の後ろ盾も無ければ、“蓄えていた鉄砲などは、まさに宝の持ち腐れになってしまう”のですから。・・・ちなみに、いわゆる「唐入り」と呼ばれた、豊臣秀吉による「文禄・慶長の役」が始められた目的の一つには、“この硝石の入手ルート確保”があって・・・更には、“後の江戸幕府(=徳川幕府)が一定の異国のみとの貿易に限る”がという鎖国政策の方針を固めた背景にも・・・“キリシタン教徒の排斥などだけではなく、この硝石などの火薬類や大砲などの海外入手ルートを統制するといった意味合いがあった”かと・・・個人的には、考えております。・・・“戦国時代には、火縄銃など火器類の保有数が世界有数だった”と云われる日本も、国内が統一されて、大きな戦さが起こり難くなり安定期に入ると・・・結果として、“主に海外の生産地に頼らざるを得なかった硝石などを利用する火縄銃などは、必然的に農機具や鍋釜などの生活必需品として、段々と再利用されたのでしょう”し。
      ※ 同年同日:「伊達政宗」が、“前日に続いて、一気呵成(いっきかせい)にと、上杉領の川股城(※別名は河股城、牛ヶ城、御影舘とも、現福島県伊達郡川俣町東福沢)襲撃を、駒ヶ嶺城(こまがみねじょう:※現福島県相馬郡新地町)主・桜田元親(さくらだもとちか)に命じる”・・・と、“この日のうち”に、「落城」させる。・・・この時、伊達政宗からの指示を受けた桜田元親は、上杉領に孤立することを恐れ、川股城(※別名は河股城、牛ヶ城、御影舘とも)を焼き払って撤退しましたが・・・結局のところ・・・当時の上杉家としては、二日で二城も失うこととなり・・・上杉家執政・直江兼続が、白石城を奪還するために、後詰(ごづめ)の軍勢を送ったものの・・・伊達家に味方する農民や野伏(のぶし、のぶせ、のぶせり:※山野で落ち武者狩りなどを行なう武装した民衆のこと)らの集団により行なわれた刈田郡小浜村(現福島県二本松市)襲撃などに手こずることになって・・・西軍方(≒石田方)の挙兵を知って西上して行く上杉討伐軍への追撃が叶わず、「北の関ヶ原」と呼ばれる情勢へ、“次第に移行した”とも云えるのです。・・・
      ※ 同年同日:“それまで加賀金沢にあった前田利長(※前田利家の嫡男)”が、“東軍方(≒徳川方)として、約2万の軍勢”を率い・・・この日、「金沢城(現石川県金沢市丸の内の金沢公園)」を、「出撃」する。・・・この時の前田利長は、“西軍方(≒石田方)の丹羽長重(にわながしげ:※丹羽長秀の長男)の拠る加賀小松城(現石川県小松市丸の内町)を攻撃するか”に見えましたが・・・
      ※ 同年同日:“事実上中止された「会津征伐(=上杉討伐)」における仙道口担当とされていた佐竹義宣”が、「赤館城(現福島県東白川郡棚倉町棚倉字風呂ケ沢の赤館公園)」に「着陣」する・・・と、“佐竹家伏見屋敷の留守居役・太縄(讃岐守)義辰(おおなわ〈さぬきのかみ〉よしたつ:※大縄と表記されることもあり)へ、「書状」を送り・・・“事態急変に伴なう緊急措置について”を、「指図」する。(※『秋田藩採集文書』などより)・・・この時の佐竹義宣は、“渦巻く情勢の真っ只中にあって、各地から届けられる情報を収集し、自身の重臣らと今後の方針について、軍議を重ねていた”のでしょう。・・・“特に、「会津征伐(=上杉討伐)」の討伐対象とされていた上杉家や”・・・“その上杉討伐軍から、そのまま東軍方(≒徳川方)に与するのか否か? などを含む情報に関して、諸大名らの軍勢配置や、その動向についてを具(つぶさ)に観察し、出来る限り見極めようとした”に違いありません。・・・一たび、次の一手を打ち間違えば、自軍が敵方から包囲殲滅される可能性もあった訳ですから。・・・いずれにしても・・・“当時の佐竹義宣が、太縄(讃岐守)義辰に対して指示した内容”とは・・・「伏見に居る佐竹家の家族は、幼少だった豊臣秀頼様のお傍を離れない場所に付け置くこと。宇治の葉の茶壷については、二個だけ持ち下がること。鷹狩用に飼育していた鷹には、餅を与えて飼育すること。故太閤下賜の雪絵については、これを古田重然(※古田織部とも)に預け、金55枚を判金(はんきん:※薄い板状に延ばした金のこと)に換えた後に、古田重然(※古田織部とも)へ遣わすこと。」・・・などとしております。
       次に、赤館城内の様子についてですが・・・現に、当時の佐竹義宣は、同伴していた佐竹氏族の者や、宿将と呼ばれていた重臣らを招集し、佐竹家の去就についてを議論したものの、「西軍方(≒石田方)に応ずべし」とする者達と、「東軍方(≒徳川方)に付くべし」とする者達の意見が対立し・・・“佐竹義久は東軍方(≒徳川方)に付くことを主張したが、なかなか決しなかった”とされています。このため佐竹義宣は・・・「西軍方(≒石田方)と東軍方(≒徳川方)のどちらが、豊臣家の義兵であるのか? についてを見定めた後に、佐竹家としての方針を決定する!」・・・と言って、“形勢を観望することにしたよう”です。・・・尚、『義宣家譜』によれば、“佐竹義宣から同年7月23日及び26日の二度に亘り、上方にあった石田三成へ書状を送っているとのこと”であり、これら二通の内容については、同年8月7日付の石田三成からの返書から推察すれば・・・“石田三成と佐竹義宣の相互の情勢を詳しく報せ合ったものだった”と考えられ、更には“同年7月23日以前から、この二人の間で連絡が取られていたことなど”も分かります。・・・また、『真田文書』によれば、同年8月1日付に豊臣政権三奉行のうちの二人だった増田長盛及び長束正家両名が、真田昌幸に宛てた書状には・・・「(上杉)景勝・佐竹可為一味候、其子細者、此中内証承候。」、つまりは「(上杉)景勝と佐竹を一味と為すべく、其の仔細については、此の中における内々の話しとして頂きたく。」・・・とあるため、“同年7月23日の時点で、佐竹義宣と石田三成との間で、何らかの新たな協力関係が出来上がっており、当時の緊急課題だった戦略的な事案をも検討していた”とする説も成立する訳です。・・・しかしながら、当時の佐竹義宣、おそらくは石田三成にしても、何らかの協力関係を新たに築く際に一致した事項は・・・“自らの野望達成のためではなく、全く豊臣家の永続のためであって、道義を違(たが)えないこと、内府こと徳川家康に向き合う態度も豊臣秀頼の行く末次第だったこと”が考えられ・・・また、“これらについてを、佐竹義宣の重臣達や石田三成の重臣達も、よくよく理解していたよう”です。・・・これについては、『秋田藩家蔵文書・常州諸家文書』にある“同年7月29日付の書状によって明らかになっている”とされます。・・・この書状は、“当時の水戸に居た佐竹家重臣の小貫(大蔵)頼久(おぬき〈おおくら〉よりひさ)から、当時の佐竹家伏見留守居役とされた太縄(讃岐守)義辰(※大縄と表記されることもあり)へ宛てた密書である”とされ、そこには・・・「万事増右(※増田右衛門少尉の略称、増田長盛のこと)様御意次第に可然候事。」とか、「御筋目ちかい(=御筋目違い)不申候や(=よ)うに可有之候間、可御心易候。」、「内府様へも、とかく秀頼様次第に候。」・・・などとあるのです。・・・ちなみに、この密書の宛先だった「太縄(讃岐守)義辰」とは、“そもそも佐竹義久の重臣だった”とされますが・・・当時の佐竹宗家当主・佐竹義重から佐竹氏直轄領の管理を命じられていることなどから、“行政手腕や、彼に対する信任には、相当なものがあった”と考えられ・・・義重次男の義広が、蘆名氏に入嗣した際には・・・“付人として会津に移ること”となり・・・その蘆名氏滅亡後は、常陸へ帰参し・・・次の当主とされた義宣に従がっては、肥前名護屋にも在陣し・・・常陸帰国後には、“水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)修築の際の普請奉行となった人物”でもあります。
      ・・・いずれにしても・・・もしかすると、同年7月26日以降頃の佐竹義宣は・・・“一説に上杉家へ派遣させていたという車斯忠などに当たりを付けて、自らの忍びの者を派遣し”・・・“上杉家の関東乱入の可能性、つまりは上杉家南進の有無についてや、作戦実行期限などの確認作業も行なっていた”のではないでしょうか?・・・当然に、「上杉は実際にはどうする?」とか、「伊達は実際にはどうする?」などと、“あからさまな質問は出来なかった”とは想います。・・・この当たりには、腹の探り合いという事情が、応分に含まれますので。・・・ちなみに、この同年7月26日以前の佐竹義宣は、現に自軍の先遣部隊を、“赤館の先まで進出させる”という指令を出しておりました。・・・この先遣部隊というのが、佐竹義宣の密命を帯びていた地侍や、忍びの者の集団だったなら? と考えてしまう次第であります。・・・
      ※ 同年同日頃:“佐竹家の与力大名とされていた蘆名盛重(※改名前は義広、佐竹義重の次男であり、義宣の次弟)勢”が、“佐竹義宣の在陣する赤館城に向かう”・・・と、「蘆名盛重」は、“小山に在陣しているであろう徳川家康”に向けて、“上方の様子について”を、問い合わせる。(※『芦名家古文書』より)・・・当時の蘆名盛重は、現在の茨城県南地域を所領としていたため、佐竹家の与力大名としては、当然に・・・江戸に向かう徳川家康勢の最短距離にあった訳です。・・・したがって、いわゆる「内府ちかひ(=違い)の条々」が発せられた概要について位は、蘆名盛重も知り得ていたため・・・“詳細な説明を、徳川家康に求めていた”かと。・・・そして、蘆名盛重の行動の背景には、“兄である佐竹義宣の意向を充分に酌み取っていたため、この同年7月26日まで赤館城には向かわず、ギリギリまで自領地の龍ケ崎や、江戸崎付近に留まっていた”という理由もあるかと想います。・・・更には、もしも本当に、佐竹家による徳川家康勢の追い討ち攻撃が、緻密な計画の元に定まっていたなら・・・“当然に、この蘆名盛重勢が、佐竹勢の先鋒部隊として、突撃攻撃などを徳川家康勢に対して仕掛けていた筈であり、自勢力の主力部隊が赤館付近まで進軍していた最中にあって、蘆名盛重の周囲も、かなり緊迫した空気が漂っていた”のではないでしょうか?・・・いずれにしても、この時の問い合わせに対して、当の徳川家康は・・・この二日後に・・・
      ※ 同年7月27日:「榊原康政」が、“東北にあった秋田実季(※安東愛季の次男であり、この当時は出羽国秋田郡など下三郡地方を領するも、この後に常陸国茨城郡へ転封され、常陸宍戸藩主となった人物)”に向けて・・・“石田三成と大谷吉継が別心したため、淀君や豊臣政権三奉行、前田利長(※前田利家の嫡男)らから徳川家康に対して上洛要請があること、また会津方面おける指揮権が徳川家康から徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)へ移されたことを伝える書状”を、送る。・・・ちなみに、この日の前後頃の徳川家康は・・・“「会津征伐(=上杉討伐)」のためとして先発していた徳川秀忠が、宇都宮付近まで南下し、この徳川秀忠が無事に宇都宮城へ入城する見込みという報せが、当時の早馬や忍び集団ネットワークを用いる事で、手元に届く情報を逐一確認し、それらを刻一刻と変化する情勢に対応させる戦略を、練っていた”のではないでしょうか?・・・“当時の徳川家康は、下野黒羽城(くろばねじょう:※別名は九鶴城とも、現栃木県大田原市前田)などを拠点として、忍び集団を用いる情報撹乱工作などをさせていた”とも云われますので。
      ※ 同年7月28日:“同年7月26日の時点に小山を発ち江戸城へ向かう徳川家康”が、“佐竹家の与力大名とされていた蘆名盛重(※改名前は義広、佐竹義重の次男であり、義宣の次弟)からの問い合わせ”に対して・・・“家康自身は小山在陣中であるとし、上方における石田三成らの挙兵は事実であること、また、詳しくは家臣の本多正信から追って報せることなどを伝える返書”を、「蘆名盛重」へ、この日、届けさせる。(※『芦名家古文書』より)・・・このように時系列的な出来事を記述する際には、私(筆者)としては非常に苦しむ処ではありますが・・・“この返書が蘆名盛重に届けられた時点では、差出人受取人双方とも、軍勢を率いて移動中だったこと”は、ほぼ間違いないかと。・・・差出人の徳川家康としては、新たな人質提供を断り、その去就がハッキリとせず、或る疑念を懐いてしまう佐竹義宣次弟の問い合わせに対する返書だった訳ですし、自分の居所などについて馬鹿正直に返答する筈もなく・・・一方の蘆名盛重としても、早馬などを用いて問い合わせの使者を出したでしょうから、これに要した時間を計算すれば、「徳川家康勢の現在位置は、この辺りか?」と、当たりを付けることも出来たでしょうから。・・・双方ともに、相手方が自勢力を、どのように見定めているのか? についてなど・・・駆け引き的な要素を、多分に含んでおります。・・・“とにかく微妙な場面だった”かと。
      ※ 同年7月29日:“江戸城に向っていた徳川家康”が、“東軍方(≒徳川方)の黒田長政(※黒田孝高〈官兵衛・如水〉の嫡男)や、田中吉政(たなかよしまさ:※故豊臣秀次付きの宿老であり、この頃は三河岡崎城主、後の筑後柳河藩主)、東北にあった最上義光”に向けて・・・“豊臣政権の三奉行(・・・※増田長盛、長束正家、前田玄以ら三名のこと・・・)が別心したことを伝える書状”を、送る。・・・当時の情報が、単に錯綜していただけのことなのか? 徳川家康に、情報操作などの何らかの意図があったためなのか?・・・いずれにしても、たった二日前の書状における理由についてが・・・「石田三成と大谷吉継」から、「豊臣政権の三奉行」に置き換わっております。・・・ちなみに、この7月29日の時点では、黒田長政と田中吉政は、既に戦略目標を石田三成の居城だった佐和山城へ向けて、既に西進しておりますので、当時の徳川家康が「石田三成と大谷吉継」に追加する戦略目標として、“プラス豊臣政権の三奉行”と指示している可能性もありますが。・・・尚、この書状の宛先とされている「田中吉政」とは、西暦1595年〈文禄4年〉7月15日の豊臣秀次切腹事件時の宿老だったため、“その当時には田中吉政に対して切腹を勧める者もいた”とされますが・・・実際には、田中吉政への処分どころか、“豊臣秀次に良く諌言をした”という理由によって、後に二度も加増を受け、徳川家康の故地とも云える三河・岡崎城主10万石の大名にされております。・・・この岡崎城主時代には、城を近世城郭に整備し、城下の町割では・・・「田中掘」と呼ばれる堀を築造して、これにより7つの町を囲み込み、西側にあった低湿地の埋立て工事を行ない・・・更には、岡崎郊外を通っていた筈の古街道・東海道についてを、城下町の中心を通るように変更し、後に「岡崎の27曲がり」と呼ばれるクランク状の道に再整備した人物でもあります。・・・この田中吉政に関しては・・・そもそもとして、“豊臣秀次切腹事件当時から徳川家康との信頼関係が築かれていたよう”にも感じられ、(田中吉政の)三河岡崎城主時代に限っても、どれもこれもが・・・あたかも、この後の「関ケ原合戦」などを予期するかのような、“急ピッチの都市計画事業だったよう”に想えてしまうのは、私(筆者)だけでしょうか?・・・田中吉政に対しては、“予め岡崎城普請や、町割り、街道整備、更には兵糧備蓄などについてが、当時の徳川家康から着々と指示されていたよう”に想えてなりません。
      ※ 同年同日:「石田三成」が、「伏見」に、「到着」する。・・・この時の石田三成が、「伏見城の戦い」に、実際に参戦したか? については不明となりますが、この翌々日には・・・
      ※ 同年7月30日:“江戸城に向っていた徳川家康”が、“会津征伐(=上杉討伐)に従軍していた東軍方(≒徳川方)・藤堂高虎”へ向けて・・・“西進せよとの命令を伝える書状”を、送る。・・・?・・・そもそもとして、この日時点における藤堂高虎は、宇都宮付近へ呼び戻されていた徳川秀忠の補佐的役割を任されていたのでしょうか?・・・それとも、徳川家康が居た江戸城や、その付近に留め置かれていたのでしょうか?・・・これらについては、残念ながら分かりませんが、どうも気になるところではあります。

      ※ 同年8月1日昼頃:“鳥居元忠らが籠城していた伏見城”が、“宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)や小早川秀秋(※故豊臣秀吉の正室だった北政所の甥)、島津義弘(※島津貴久の次男であり、島津義久の弟)らが率いる約4万から成る西軍方(≒石田方)”によって攻められ、この日に「落城」する。・・・そして、「西軍方(≒石田方)」は、“伊勢国平定のため”として、“宇喜多秀家を総大将とし、これに毛利秀元(※毛利元就四男の穂井田元清次男であり、毛利輝元の従兄弟)や、鍋島勝茂(なべしまかつしげ:※鍋島直茂の子であり、後の肥前佐賀藩初代藩主)などを付け、約3万の軍勢として、伊勢方面へと送り込み”・・・「大谷吉継」には、“北陸道方面平定”に、向かわせる。・・・とうとう伏見城が落城してしまいました・・・が、当時の西軍方(≒石田方)や東軍方(≒徳川方)の両者にしてみても、これまでの籠城戦が持つ戦略的な意味合いや影響力は相当なものがあって・・・守備側の主将・鳥居元忠は、後世に「三河武士の鑑(かがみ)」とまで称されることになります。・・・ここにある鍋島勝茂は、この日決着した「伏見城の戦い」に参加した後には、伊勢安濃津城(あのつじょう:※別名は津城とも、現三重県津市丸之内)攻めに参加するなど、西軍方(≒石田方)主力の一人として積極的に行動するものの・・・“東軍方(≒徳川方)勝利を予測していた”とされる父・直茂(なおしげ)から急使があると、直ぐに東軍方(≒徳川方)へ寝返る格好となり・・・父・直茂が、九州地方で、黒田如水や加藤清正らとともに、立花宗茂の柳川城(※別名は柳河城、舞鶴城とも)や、小早川秀包(こばやかわひでかね)の久留米城(現福岡県久留米市篠山町)を攻撃するに至り・・・鍋島勝茂勢は、「関ヶ原合戦」の本戦には参加すること無く・・・西軍方(≒石田方)が敗退した後に、黒田長政の仲裁によって徳川家康へ、いち早く謝罪すると・・・以前の戦功などによって、結局は本領安堵を認められることになるのです。・・・尚、伊勢路を進んだ宇喜多秀家ら、西軍方(≒石田方)の軍勢約3万は、筒井定次(つついさだつぐ)の居城・伊賀上野城(※別名は白鳳城とも、現三重県伊賀市上野丸之内の上野公園)を開城させています。(=上野城の戦い)・・・いずれにしても、“この頃の石田三成は、西軍方(≒石田方)に与するという姿勢を表明していた真田昌幸への書状の中”で・・・『尾張と三河国境付近において東軍方(≒徳川方)を迎撃し、その背後から上杉佐竹連合軍とともに挟撃することで勝利する目算である』・・・と述べているのです。・・・“そのためにも、西軍方(≒石田方)としては、美濃及び伊勢方面を早急に平定し、尾張へ雪崩(なだ)れ込む必要性に迫られていた”という当時の状況が分かります。


      ちなみに、同年8月5日付の真田昌幸他二名宛石田三成書状中の「備えの人数書」によれば・・・当時の石田三成による目算となりますので、あくまでも人数等についても諸説ありますし・・・当初から、或いは結果的に東軍方(≒徳川方)に加担する武将も含まれておりますが、以下に訳しておきます。・・・

      伊勢口を担当する軍勢としては・・・「秀家勢こと宇喜多秀家勢が、18,000人。・・・筑前中納言勢こと小早川秀秋勢は、8,000人。・・・土佐侍従勢こと長曾我部盛親(ちょうそかべもりちか)勢は、2,100人。・・・大津宰相勢こと京極高次(きょうごくたかつぐ:※正室は、浅井長政の娘であり淀殿の妹だった初)勢は、1,000人。・・・立花左近勢こと立花宗茂勢は、3,900人。・・・久留米侍従勢こと小早川秀包勢は、1,000人。・・・筑紫主水勢こと筑紫広門(つくしひろかど:※筑紫惟門の次男であり、同姓同名の広門の養子のこと)勢は、500人。・・・龍造寺勢こと龍造寺高房(りゅうぞうじたかふさ)勢は、9,800人。・・・脇坂中書勢こと脇坂安治(わきざかやすはる)勢は、1,200人。・・・堀内安房守勢こと堀内氏善(ほりうちうじよし)勢は、300人。・・・羽柴下総守勢こと滝川雄利(たきがわかつとし)勢は、400人。・・・城加番衆としては、山崎右京勢こと山崎家盛(やまざきいえもり)勢が、400人。・・・蒔田権之助勢こと蒔田広定(まいたひろさだ)勢は、370人。・・・中居式部少輔(なかいしきぶしょうゆう:※未詳)勢として、390人。・・・長束大蔵大輔勢こと長束正家勢は、1,000人。・・・以上、79,860人。」・・・と。

      美濃口を担当する軍勢としては・・・「某(それがし)石田治部勢こと石田三成勢が、6,700人。・・・岐阜中納言勢こと織田秀信(おだひでのぶ)勢(の)一手勢として、5,300人。・・・羽柴右京こと稲葉彦六勢の稲葉貞通勢は、1,400人。・・・羽柴兵庫頭勢こと島津義弘勢は、5,000人。・・・小西摂津守勢こと小西行長勢は、2,900人。・・・この小西行長勢の与力衆四人(※未詳)の軍勢として、4,000人。・・・稲葉甲斐守勢こと稲葉通重(いなばみちしげ:※稲葉重通の子であり、稲葉貞通の甥)勢は、400人。・・・以上、25,700人。」・・・と。

      北国口を担当する軍勢としては・・・「大谷刑部少輔勢こと大谷吉継勢が、1,200人。・・・若狭少将及び同宮内少輔勢こと木下勝俊(※故豊臣秀吉から伏見城を預かっていた城将の一人、歌人としても高名であり、故豊臣秀吉の正室だった北政所の甥)及び木下利房(きのしたとしふさ:※故豊臣秀吉の正室だった北政所の甥、勝俊の弟)勢は、3,000人。・・・丹後七頭衆(※未詳)勢として、5,000人。・・・但馬二頭衆(※未詳)勢として、二千五百人。木下山城守勢こと木下頼継(きのしたよりつぐ:※大谷吉継の次男または甥、或いは養子とも)勢は、七百人。播磨姫路衆(※未詳)勢として、八百人。越前東江衆(※未詳)勢として、2,000人。・・・戸田武蔵守勢こと戸田勝成(とだかつしげ)勢は、500人。・・・福原右馬允勢こと福原長堯(ふくはらながたか)勢は、500人。・・・溝口彦三郎勢こと溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)勢は、300人。・・・上田主水正勢こと上田重安(うえだしげやす:※晩年には茶人や造園家として知られる上田宗箇〈うえだそうこ〉のこと)勢は、300人。・・・寺西下野守勢こと寺西是成(てらにしこれなり)勢は、500人。・・・奥山雅楽頭勢こと奥山正之(おくやままさゆき)勢は、500人。・・・小川土佐守及び同左馬允勢こと小川祐忠(おがわすけただ)及び小川祐滋(おがわすけしげ:※祐忠の次男または長男とも)勢は、2,500人。・・・生駒雅楽勢こと生駒親正(いこまちかまさ)勢は、1,000人。但し、主(が)煩(わずら)うゆえ家老名代(が)人数召し連れ候と。(・・・※実際には、生駒親正の長男だった一正〈かずまさ〉が「会津征伐(=上杉討伐)」に出兵し、そのまま東軍方(≒徳川方)に与して「関ヶ原合戦」の本戦に参加しています。・・・)蜂須賀阿波守勢こと蜂須賀家政(はちすかいえまさ)勢は、2,000人。但し、主(が)煩(わずら)うゆえ、家老が名代として。・・・青木紀伊守勢こと青木一矩(あおきかずのり)勢は、6,000人。・・・青山修理勢こと青山宗勝(あおやまむねかつ)勢は、800人。・・・以上、30,100人。」・・・と。

      勢田橋(せたばし:※現在の滋賀県大津市瀬田にあった瀬田橋のこと)の東側を担当する軍勢としては・・・「勢田橋東番衆として、太田飛騨守及び同美作守勢こと太田一吉(おおたかずよし)及び太田一成(おおたかずしげ:※一吉の子)勢が、1,020人。・・・垣見和泉守勢こと垣見一直(かきみかずなお)勢は、405人。・・・熊谷内蔵勢こと熊谷直盛(くまがいなおもり)勢は、405人。・・・秋月長門守勢こと秋月種長(あきづきたねなが)勢は、600人。・・・相良左兵衛佐勢こと相良長毎(さがらながつね)勢は、800人。・・・高橋右近勢こと高橋元種(たかはしもとたね)勢は、800人。・・・伊藤豊後勢こと伊東祐兵(いとうすけたけ、いとうすけたか)勢は、500人。・・・竹中伊豆守勢こと竹中重利(たけなかしげとし:※竹中半兵衛重治の従弟か甥に当たるものの、正室が重治の妹だったため、同時に義弟にもなるため、しばしば弟との表記もある人物)勢は、360人。・・・中川修理勢こと中川秀成勢は、1,500人。・・・木村弥一右衛門勢こと木村清久(きむらきよひさ)勢は、520人。・・・以上、6,910人。」・・・と。

      この他・・・「大坂(城)御留守居として、7,500人。・・・御小姓衆として、8,300人御馬回り。・・・御弓鉄砲衆として、5,900人。・・・前備(まえぞなえ)後備(うしろぞなえ)として、6,700人。・・・(毛利)輝元衆として、10,000人。・・・徳善院こと前田玄以衆として、1,000人。・・・増田右衛門尉こと増田長盛衆として、3,000人。・・・この他、伊賀在番衆として、7,000人。・・・以上、42,400人。」・・・と。


      ※ 同西暦1600年(慶長5年)8月1日:“毛利輝元や、宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)、豊臣政権三奉行(・・・※増田長盛、長束正家、前田玄以ら三名のこと・・・)に石田三成を加えた四奉行”が、「木下利房(:※故豊臣秀吉の正室だった北政所の甥、勝俊の弟)」に向けて・・・“利房の兄・木下勝俊(※故豊臣秀吉から伏見城を預かっていた城将の一人、歌人としても高名であり、故豊臣秀吉の正室だった北政所の甥)と共に、加賀国小松(現石川県小松市丸の内町)に進出していた前田利長(※前田利家の嫡男)に備えるため”として・・・“北ノ庄(現福井県福井市中央1丁目の柴田公園)へ向かうようにとの指示を伝える連署書状”を、送る。・・・しかし・・・
      ※ 同年同日:“金沢城を出撃していた前田利長(※前田利家の嫡男)”が、“自身の勢力下にあった加賀松山城(現石川県加賀市松山町)”に、「入城」する。・・・列島各地で錯綜する情勢を見極めるが故の迷走だったのでしょうか?・・・しかし、この後の前田利長は、加賀松山城を拠点として・・・
      ※ 同年8月2日:“西軍方(≒石田方)の山口宗永(やまぐちむねなが:※小早川秀秋を補佐するために派遣された豊臣政権からの付家老)”が、“金沢城を出撃した前田利長(※前田利家の嫡男)のこと”を、聞き及ぶ・・・と、“居城の加賀大聖寺城(※別名は錦城とも、現石川県加賀市大聖寺錦町)の防備を堅めて、北ノ庄城(現福井県福井市中央1丁目の柴田公園付近)主・青木一矩(あおきかずのり:※豊臣秀吉の従兄弟)や、加賀小松城主・丹羽長重(※丹羽長秀の長男)”に向けて・・・“大聖寺城の救援を依頼する使者”を、出す。・・・しかし・・・
      ※ 同年同日:“加賀松山城に居た前田利長(※前田利家の嫡男)が、“加賀大聖寺城(※別名は錦城とも)の山口宗永(※小早川秀秋を補佐するために派遣された豊臣政権からの付家老)”に対して・・・“九里九郎兵衛(くのりくろうべえ)及び村井久左衛門(むらいきょうざえもん)(・・・※或いは村井久左衛門と云い、また或いは九里及び村井の両使と云う。・・・)を使者として、東軍方(≒徳川方)へ味方すべしとの、事実上の降伏勧告をする”・・・も、「山口宗永」が、「憤激」して、これを「拒否」する。
      ※ 同年8月3日:“山口宗永(※小早川秀秋を補佐するために派遣された豊臣政権からの付家老)らが籠城する加賀大聖寺城(※別名は錦城とも)”が、「前田利長(※前田利家の嫡男)」から攻められ、「落城」する・・・と、“山口宗永及び宗永の嫡男・修弘(ながひろ)が、この日夕方頃に、「自害」する。
・・・ちなみに、“加賀大聖寺城の最期は、前田勢約2万に対して、守備側の山口勢は約5百余りだった”と云われ・・・“山口宗永親子が自害する直前には、山口宗永が城塀の上から降伏の意思を伝えたものの、この攻城戦で既に多くの兵を失っていた前田勢が、これを許さずに城内へ突入した”とされます。・・・尚、そもそもとして・・・この時の前田利長による金沢出陣については、その解釈が二説あり・・・まずは、“「会津征伐(=上杉討伐)」に出陣する際に、背後の丹羽長重を討とうとした”とする説・・・もう一つは、“西軍方(≒石田方)の挙兵に、あくまでも対抗するために出陣した”とする説です。・・・いずれにしても、「会津征伐(=上杉討伐)」のためとして、徳川家康が関東や東北へ向かう最中に、石田三成らが五大老の一人・毛利輝元や、幼少の豊臣秀頼を擁立して挙兵する・・・と、前田利長が、大聖寺城を攻略し、その後には越前国まで攻略してしまいます。・・・しかし、“一旦金沢への帰路に就こう”としていた同年8月8日には、小松城主・丹羽長重勢に背後を襲われて、これを辛くも撃退(=浅井畷の戦い)し・・・翌9月11日には、弟・前田利政(まえだとしまさ:※前田利家の次男)の軍務放棄に悩まされながらも、再び西上し・・・同月18日には、丹羽長重と和議を結ぶことになりましたが(・・・※この時に軍務放棄とされた前田利政としては、“当時の西軍方〈≒石田方〉に自身の妻子を人質を取られたと思い、妻子らを秘かに取り戻してから、兄の利長と合流しようとしたものの、事態の急転する最中にあって遂に動くことが出来ずに、苦し紛れの仮病を装った”と考えられておりますが。・・・)・・・それでも、一連の戦いにおける戦功を以って、母の芳春院(ほうしゅんいん:※故前田利家の正室であり、俗名は まつ)の金沢帰還を期待していた兄・利長の怒りは激しかったようでして・・・故前田利家が、“利長に子が無い時には弟の利政を後継者とするように”と、遺言していたにもかかわらず・・・“当時の前田利長は、弟・利政が西軍方(≒石田方)に加担したと、徳川家康へ訴え出るに至った”とされております。・・・
      ※ 同年8月4日:“江戸城に向っていた徳川家康”が、“この時既に西進していた福島正則や池田照政(※後に輝政と改名)などの諸大名”に対して・・・“徳川家家臣・井伊直政(いいなおまさ)を派遣したので、その指示に従うようにとの書状”を、送る・・・と、“江戸を、この時離れていた徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)”に向けて・・・“榊原康政や、大久保忠隣(おおくぼただちか)、そして徳川家康の懐刀とされていた本多正信を、徳川秀忠の参謀役に就けて、合計約3万8千の軍勢”とし、“中山道から美濃方面への進軍”とを、命じる。・・・ちなみに、“会津方面おける指揮権が、徳川家康から既に移され、この日に徳川家の主力部隊を預けられた”とされる徳川秀忠本人に対しては・・・“この日より以前に、流動化する情勢に臨機応変に対応し、場合によっては徳川秀忠が率いる徳川家の主力部隊も中山道を西進せよとの徳川家康からの指令があった”と推察出来ます。
      ※ 同年8月5日:「徳川家康」が、「江戸城」に、この日戻る。・・・この日以降暫くの間、徳川家康は江戸城を動かなくなります。・・・これは、「内府ちかひ(=違い)の条々」、または「家康違いの条々」と呼ばれる弾劾状の内容が、次第に東軍方(≒徳川方)にも伝わることによって、「会津征伐(=上杉討伐)」のためとして徳川家康が率いた軍勢を、“まさに賊軍たらしめる効果が一時的にあった模様”でして・・・“石田三成の居城・佐和山城や、自身らの居城などに向かって既に西進していた東海道筋の豊臣恩顧の武将達の動向が、更に不透明となる危惧が生じていたため”・・・特に慎重な性格とされる徳川家康は・・・当時の動向について、自身が不透明であると認識し、現に上方へ向かう東軍方(≒徳川方)の背後にあった常陸の佐竹義宣に対する警戒感などから・・・藤堂高虎や黒田長政らを介して、各地の諸大名や諸将達へ書状を送り続け、豊臣恩顧の武将達の東軍方(≒徳川方)への繋ぎ止めと、西軍方(≒石田方)からの切り崩し工作を仕掛るのです。・・・具体的には・・・黒田長政を介して、西軍方(≒石田方)の総大将とされていた毛利家重臣・吉川広家に対して、毛利家の所領安堵を約束させたり・・・小早川秀秋(※故豊臣秀吉の正室だった北政所の甥)に対しては、故豊臣秀吉の正室・北政所(※後の高台院)への忠節を説くなどして、“戦時における内応を約束させていた”とされますが・・・江戸城に居た徳川家康から、東軍方(≒徳川方)への繋ぎ止めなどのためとして各地の諸大名や諸将達へ宛てた書状は約200通にも及び・・・“この情報処理能力の格差が、後の「関ヶ原合戦」の明暗を別けることに繋がっていた”とも云われます。・・・特に、当時の西軍方(≒石田方)からすれば・・・“東軍方(≒徳川方)に対して共闘したい”と考える勢力の上杉家や佐竹家は、遥か関東以北にあって・・・“これらを結ぶ東海道や中山道などの街道ルートを、当時の東軍方(≒徳川方)によって、ほぼ遮断されておりました”ので。・・・それでも、当時の石田三成から・・・「・・・(石田)三成からの使者を、(真田)昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越しに会津へ送り届けて欲しい。」(※同年七月晦日付の真田昌幸宛石田三成書状、真田宝物館所蔵文書より)・・・と、上田城にあった真田昌幸が頼まれており、“西軍方(≒石田方)と上杉家の仲介をしていたことなど”が分かりますし・・・この頃の真田昌幸は、石田三成への返書の中で・・・「・・・なぜ挙兵前に、(石田三成挙兵の意思を)知らせなかったのか?」・・・という疑問を呈しておりますが・・・当時の沼田城(※別名は倉内城、蔵内城、霞城とも、現群馬県沼田市西倉内町の沼田公園)主は、昌幸嫡男の真田信之(さなだのぶゆき)が東軍方(≒徳川方)に与していたため・・・この沼田周辺において、石田三成から上杉家執政・直江兼続への連絡が途絶したか?・・・或いは、書状の内容が多少改変されるなど、石田三成の真意が直江兼続へ伝わり難かったのでいないか? とも考えられる訳です。・・・ちなみに、“西軍方(≒石田方)を主導した”とされる石田三成が、諸大名や諸将達に宛てて現存している書状は、徳川家康よりも少ない数ですが、これは必然として・・・この関ヶ原合戦以降の世の中が、徳川家康を主軸に動いていったため、“江戸幕府(=徳川幕府)の施政下に、これらの証拠書類を遺しておくと、どうにも都合が悪い”と考えた諸大名や諸将達が、ほとんどであり・・・“結局は、廃棄処分されてしまった”ということも、その背景にはあろうかと想います。・・・“当時の徳川家康に対して明らかに敵対した”とされる石田三成は斬首とされ・・・斬首刑とされなかった西軍方(≒石田方)の諸大名達は、“当然の如くに改易処分とされた訳です”から。・・・いずれにしても、“当時の石田三成も、筆まめだったことは、徳川家康に引けを取らない人物だった”とされます・・・が、“西軍方(≒石田方)独自の情報網というものが、当時は如何せん脆弱だったこと”が、当時の上杉家や佐竹家の動向が、後付け的且つ鈍い反応となってしまった背景にあり・・・また、“当時の徳川家康が、老練且つ緻密な予測を基にして、何カ年計画とも云うべき一大プロジェクトを始動していたよう”な気が致します。・・・当時の徳川家康でさえ、予測困難な多少の不確定要素を除いては。
      ※ 同年同日:「石田三成」が、「佐和山城」に、戻る。・・・この日付に送られた真田昌幸他二名宛の石田三成書状によれば・・・“この頃の西軍方(≒石田方)は、尾張清須城に戻っていた福島正則を説得中であり、これが成功した場合には西軍方(≒石田方)は三河方面へ侵攻し、これに失敗すれば清須城を攻撃する予定だった”とされます。
      ※ 同年同日:「上杉家執政・直江兼続」が、“同家家臣で白河城(しらかわじょう:※別名は小峰城、白河小峰城とも、現福島県白河市郭内)を守る岩井信能(いわいのぶよし)”に宛てて・・・「佐竹より使者昨日罷越候、従義宣如御断者、今度上方之儀に付而、内府より証人(※人質のこと)請われ候得共、不通と申切候条、定而手切可有之候、左様に候者、御加勢申請度との事に候条、此儀は深々請合、使者返し申候、可御心安条。」・・・という内容を含んだ「書状」を、送る。(※『上杉景勝卿記』所収・同年8月5日付岩井信能宛直江兼続書状より)・・・この書状の内容は、概ねのところ・・・“上杉家執政・直江兼続が、同年8月4日に佐竹家からの使者が来着したことを、白河城(※別名は小峰城、白河小峰城とも)守将の岩井信能へ、翌日の5日に報せた書状であり、“当時の上杉家としては、佐竹義宣勢からの加勢申し出についてを、深々と請け合あった(=深々と承知し合った)ということや、おそらくは佐竹家の使者は同年7月末頃に佐竹義宣が居た赤館城を出立していたことなど”が判ります。・・・この書状の内容についてを、もう少し現代語訳すれば・・・「(佐竹)義宣の御意思を伝えるためにと、佐竹家から昨日使者が罷り越しております。(この使者によれば)今度(このたび)の(佐竹義宣)は上方之儀(≒遠く離れた上方で決定された方針)に付き従って参りましたが、内府(=徳川家康)からは新たに人質を要求されたとのこと。しかし、これについては、(佐竹義宣が)キッパリと断ったので(徳川家康からは)何も申して来てはおりませんと。しかも、(徳川家康との)手切れも已む無しと予め定められておりますし、(佐竹義宣も)左様に心得ておりますと。(これは、日頃より上杉家と佐竹家が互いに)御加勢するようにと(故太閤様や上方の石田三成らから)度(たび)重ねて申し請けていた事でありますし、(私、直江兼続としては)此の件については深々と請け合っている(=深々と承知し合っている)ので、(佐竹家の)使者をお返しした次第です。(岩井信能殿にあっても)安心されますように。」・・・と、なるでしょうか? 「内府」として、「様」を付けずに呼び捨て調に述べられている点も、気になりますね。・・・それにしても・・・
      ※ 同年8月7日:“江戸城に戻った徳川家康”が、“上杉家の白石城(※別名は益岡城、桝岡城とも)や、川股城(※別名は河股城、牛ヶ城、御影舘とも)を落城させて、北目城に引き揚げていた伊達政宗”に向けて・・・“徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)勢を宇都宮に置き、徳川秀忠には佐竹勢と談合しつつ白河表へ進撃せよと命じたことを伝える返書”を、この日に届けさせる。(※『伊達文書』より)・・・これもまた、微妙な内容です。・・・“この時点における徳川秀忠勢は、上杉家の関東乱入に備えて、下野国各地に防衛陣地を既に構築し終え、つまりは中山道西進計画に着手していた”と考えられますので。・・・と、するならば、この時の徳川家康による返書の真意は・・・“伊達政宗を西軍方(≒石田方)に取り込まれなくするためとして、徳川家康が伊達政宗に発破を掛けた”としか考えられません。・・・しかしながら、この伊達政宗でさえ・・・
      ※ 同年8月8日:“西軍方(≒石田方)の毛利家重臣だった、吉川広家及び安国寺恵瓊(※臨済宗の僧、道号は瑶甫、号は一任斎、正慶とも。豊臣政権時においては豊臣秀吉から大名に取り立てられたとするのが通説)に率いられた約1万の軍勢”が、“豊臣政権三奉行の一人・長束正家の軍勢ととも”に、「伊勢方面」へ、「出陣」し・・・「石田三成」も、“岐阜城(現現岐阜県岐阜市天主閣)主・織田秀信と相談の上”で、「尾張方面」へと、「出陣」する。・・・これも、同年8月10日付の石田三成から佐竹義宣宛書状によれば・・・“当時の西軍方(≒石田方)は、この時点では、毛利輝元が約3万の兵力を以って、浜松において東軍方(≒徳川方)を率いる徳川家康の軍勢を捕捉し、これを迎撃する予定だった”・・・とされます。・・・ちなみに、ここにある「織田秀信」とは、幼名を「三法師(さんぼうし)」と呼ばれた人物であり、かつての「本能寺の変」において亡くなった織田信忠の嫡男です。そして、当然に故織田信長の嫡孫であって・・・当時の官位が「正三位中納言」だったため、「岐阜中納言」とも呼ばれ・・・また、“キリシタン大名”としても有名かと。・・・洗礼名は「ペトロ」と云い、公卿補任の際には、その本姓を「平秀信(たいらのひでのぶ)」と記載されておりますが・・・“かつての「本能寺の変」の後に開かれた”と云われる故豊臣秀吉らの「清州会議」に担ぎ出された当事者であって・・・この頃は・・・当初は、徳川家康が発動した「会津征伐(=上杉討伐)」に従軍し、同年7月1日に出陣する予定だったのが・・・“軍装を整えるのに手間取って出陣が遅延した”とか・・・“当時の情勢を見極めるために、わざわざ遅延した”・・・などと考えられてはおりますが・・・いずれにしても、この頃の石田三成から・・・「戦勝の暁には、美濃及び尾張の二カ国を(織田秀信)宛(に)行なう。」・・・との条件を提示されて、西軍方(≒石田方)に加担したのではないか? と考えられており・・・同年8月5日付の真田昌幸他二名宛石田三成書状中の「備えの人数書」においても、織田秀信が美濃口を担当する将の一人に数えられ・・・そして、“この頃の西軍方(≒石田方)に織田秀信が加勢したことにより、美濃衆の大半がこれに従った”とも云われます。・・・ちなみに・・・もしも、当時の石田三成から織田秀信へ提示された条件通りに加増が実施された場合には、“最低でも50万石を超える知行高となって、宇喜多秀家や佐竹義宣らの石高にも匹敵する”こととなり・・・また、“父・織田信忠の旧領が美濃及び尾張だったとされているため、旧領回復や織田家再興の意味もあった”と云われます。・・・尚・・・同じく同年8月5日付の真田昌幸他二名宛石田三成書状では、上杉家や佐竹家に関連して、当時の石田三成が・・・「一 會津(※上杉景勝のこと)へも、早々關東表へ佐竹(※佐竹義宣のこと)被仰談行ニ可被及由申遣侯、貴殿(※真田昌幸のこと)よりも御入魂(ごじっこん)候而可被仰遣候事。」・・・つまりは、《現代語訳》「一 会津(※上杉景勝のこと)へも、早々に関東表の佐竹(※佐竹義宣のこと)へ仰せられていた相談通りに実行するように、(また)そのようにさせるべく申し遣わしていることを、貴殿(※真田昌幸のこと)からも御入魂(ごじっこん)に仰せ遣わされるようにして欲しい事。」・・・としております。・・・
      ※ 同年8月10日:“それまで佐和山城に居た石田三成”が、“美濃方面を抑えるためとして、自らの軍勢を率いて、西軍方(≒石田方)の大垣城(現岐阜県大垣市郭町)”に、この日に入る。・・・この大垣城の東方には、上記にもある織田秀信が拠っていた岐阜城があった訳です。
      ※ 同年同日:“伊勢路を進み、福島正頼(※福島正則の弟)と山岡道阿弥(※剃髪前の山岡景友)とが拠る長島城(現三重県桑名市長島町)へ攻撃を仕掛けていた宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)らの軍勢約3万”が、“東軍方(≒徳川方)の先発部隊が清洲城に集結するとの報(しら)せを得る”と、「長島城攻め」を「中止」し・・・「宇喜多秀家勢」が、“石田三成が入城した大垣城」へと向かうものの・・・「鍋島勝茂(※鍋島直茂の子であり、後の肥前佐賀藩初代藩主)勢」は、“美濃と伊勢との国境い付近に留まり、西軍方(≒石田方)から離脱すること”になり、“これ以後の鍋島勝茂は、西軍方(≒石田方)の軍勢には参加せずに傍観姿勢”を、貫く。・・・この直前頃に、東軍方(≒徳川方)勝利を予測していたとされる父・直茂(なおしげ)から急使があったのでしょうね。・・・しかしながら、“石田三成勢が大垣城に入った”とされる同日の、この時点において・・・“石田三成ら西軍方(≒石田方)の幹部達が描いていた、尾張や三河にて東軍方(≒徳川方)を迎撃するという戦略自体が、もはや的外れとなってしまい、木曽川付近にて東軍方(≒徳川方)を迎撃する方針へと修正されることになったよう”です・・・が、西軍方(≒石田方)の伊勢方面軍は・・・この後に、富田信高や分部光嘉(わけべみつよし)などが籠る安濃津城(=安濃津城の戦い)や、古田重勝の松坂城(現三重県松阪市殿町)などを攻略に取り掛かり、これらを約1カ月間で落城させながらも、尾張攻略を目指して北上する途上において、当時の桑名城(※別名は扇城、旭城、九華城とも、現三重県桑名市)にあった氏家行広及び氏家行継(うじいえゆきつぐ)兄弟を、西軍方(≒石田方)に加担させてもおります。・・・その一方・・・同年8月5日から遥か関東の江戸城に居た徳川家康が、西軍方(≒石田方)からの切り崩し工作を仕掛け、云わば「各地の諸大名に対する書状作戦」を展開されている最中にあっては・・・福島正則ら東軍方(≒徳川方)の先鋒部隊が尾張清洲城に集結したものの、その後には一向に徳川家康からの音沙汰が無かったため、当時の福島正則は・・・『自分達を捨石(すていし)にするのか!』・・・と激怒していたと云われ・・・“また、これに対して、徳川家康の娘婿・池田照政(※後に輝政と改名)が、反発し口論になった”とも伝えられています・・・が、いずれにしても、このような口論の後に、徳川家康からの使者とされる村越直吉(むらこしなおよし)が、清洲城に到着し・・・「なぜ、早く美濃攻略に掛からないのか?」・・・と尋ねられる(≒発破を掛けられる)や否や、“福島正則ら東軍方(≒徳川方)の諸大名や諸将達は、勇躍して美濃へと雪崩れ込むことになった”とか。・・・
      ※ 同年同日:「上杉景勝」が、“会津周辺の前線地域”から「若松城(※別名は会津若松城、会津城、黒川城、鶴ヶ城とも)」に、「帰城」する。・・・
      ※ 同年同日:“赤館城に着陣していた佐竹義宣”が、“父・義重による意見を聞き容れることになって”・・・「(佐竹家) 家臣・河井堅忠(かわいかたただ:※官途は玄蕃允、備前守とも、また河合や川井などと表記されることもある人物) 」を「江戸城」へ「派遣」し・・・“佐竹家は、西軍方(≒石田方)や上杉家には味方せず、義宣自身は赤館にあって上杉勢の関東進撃を防ぐという約定を伝える”・・・と、これに対した「徳川家康」が、大いに悦び、「使者・河井堅忠(※官途は玄蕃允、備前守とも、また河合や川井などと表記されることもある人物) 」へ、「茶釜」を、与える。(※『義宣家譜』より)・・・!?・・・“赤館城において各地から齎(もたら)される情報を分析し、上杉家とも連絡を取りながらも、自家の進路を悩み続けていた佐竹義宣が、父・義重の後押しもあって、ようやく決心が付いたよう”にも思えますが・・・。しかしながら・・・“この時の佐竹義宣の真意は、父・義重からの意見を聞き容れたということを装いながらも、時間的な経過を見越した謀略の類いだった”との説が強いのです。・・・上杉家執政・直江兼続が、白河城(※別名は小峰城、白河小峰城とも、現福島県白河市郭内)を守っていた岩井信能に宛てたという『上杉景勝卿記』所収・同年8月5日付岩井信能宛直江兼続書状の内容が伝えられていることや、後述する同年8月12日や同年8月14日の古文書などからも、“同年8月中旬頃までは、上杉家と佐竹家との間で、何らかの密約が堅く結ばれていたことが分かる”のです。・・・“この両家の結び付きを仲介した”とされる主な人物としては・・・下野宇都宮氏から下総結城氏の養子となったものの、奇しくも結城秀康(※徳川家康の次男)を迎える恰好となった結城朝勝(ゆうきともかつ)が挙げられます。
      ・・・この「結城朝勝」とは・・・下野国の大名・宇都宮広綱(うつのみやひろつな)の次男として西暦1569年(永禄12年)に誕生し・・・西暦1577年(天正5年)10月に、結城晴朝の養子となっているため・・・実の兄弟には、宇都宮国綱や、芳賀高武(はがたかたけ)がおり・・・養兄弟としては、那須資晴(なすすけはる)の室(※名前については未詳)、結城秀康(※徳川家康の次男)、この秀康の正室とされた鶴子がおり・・・結城朝勝の生母が佐竹義重の妹だったため、義重の甥に当たり、義宣とは従兄弟という間柄です。・・・後北条氏が滅亡する以前の西暦1578年(天正6年)には、北進し常陸国へ侵攻した北条氏政(ほうじょううじまさ)に対抗するため、当時の宇都宮氏と結城氏、そして佐竹氏が三者同盟を結んで、これを撃退しています。(・・・※これを「小川台合戦」とも云います。・・・)・・・この合戦には、結城朝勝が初陣(ういじん)として参戦していましたが・・・西暦1590年(天正18年)に、徳川家康の次男であり豊臣秀吉の養子とされていた秀康が、結城氏の養嗣子として入嗣すると・・・この結城朝勝は、“下総結城氏の家督継承権が無くなったため、実家の宇都宮氏へと戻った”とか、“西暦1587年(天正15年)の時点で既に朝勝が結城氏の家督を継いでいたものの、晴朝が秀康を養子として受け入れるために、この朝勝を結城氏当主の座から退かせ、朝勝が結城氏の別家を創設した”とする説もあります。・・・しかし、実兄の宇都宮国綱が、西暦1597年(慶長2年)に改易されると・・・母方の実家だった佐竹家へ、一時期は身を寄せ・・・「会津征伐(=上杉討伐)」が開始された同年7月頃には、“上杉景勝に与して白河城(※別名は小峰城、白河小峰城とも)に入り、景勝と義宣との間を取り持つ役目を果たしたり、宇都宮氏の遺臣達に下野で挙兵するように促すなどしていた”のです。・・・つまりは、上記の『上杉景勝卿記』所収・同年8月5日付岩井信能宛直江兼続書状の内容を仲介していたのが、この結城朝勝であり・・・“時代の廻り合わせによって同族とされた朝勝と秀康が、敵対する関係となっていたこと”が分かります。・・・これも、後世に家名を遺すという使命ゆえの行動だったのでしょうか?・・・いずれにしても、“結城朝勝の人生もまた、波乱万丈だった”と云えます。・・・この「会津征伐(=上杉討伐)」や「関ヶ原合戦」の後には、佐竹家出羽転封に従ったものの・・・その後の「大坂の陣」では、豊臣方として参戦するも・・・これも、また生き延びて・・・「宇都宮」に復姓し、「宇都宮恵斎宗安(うつのみやけいさいそうあん)」と名乗ると・・・“その晩年には、神官になった”と伝わります。・・・そして、西暦1628年(寛永5年)4月3日に亡くなり、享年60とされますが・・・朝勝(宗安)には男子が無かったため、佐竹家家臣・真壁(掃部助)重幹(まかべ〈かもんのすけ〉しげもと:※真壁氏幹の甥)の次男を娘婿に迎えて養子とし、宇都宮光綱(うつのみやみつつな)と名乗らせ、宇都宮氏の家名を継承させることとなり・・・この宇都宮氏が、そのまま久保田(=秋田)藩佐竹家に仕えることになったのです。

      ※ 同年8月12日:「上杉家執政・直江兼続」が、“同家家臣で白河城(※別名は小峰城、白河小峰城とも)を守る「岩井信能”に宛てて・・・「佐竹家の使者が再び一両日中にも来るとのことであり、若松城(※別名は会津若松城、会津城、黒川城、鶴ヶ城とも)へ到着次第に、その状況を報せる。」・・・という「書状」を、届ける。(※『岩井文書』より)・・・
      ※ 同年8月14日:「上杉家執政・直江兼続」が、“福島諸城にあった城将達”へ・・・「今日、佐竹家の使者を馳走するため、福島から若松城(※別名は会津若松城、会津城、黒川城、鶴ヶ城とも)へ行き、同年8月16日には再び福島へ戻るつもりである。」・・・と、告げる。(※『読史堂古文書』より)・・・ちなみに、「福島」という地名の古名は、陸奥国信夫郡(現福島県福島市)のことを指しており・・・“西暦1592年(文禄元年)に、蒲生氏郷の客将とされていた木村吉清(きむらよしきよ)が使用したことに始まる”とされております。
      ※ 同年同日或いは翌15日:「佐竹家重臣・小貫(大蔵)頼久」が、“(佐竹家側)の使者として、若松城(※別名は会津若松城、会津城、黒川城、鶴ヶ城とも)に、到着する”・・・と、“上杉景勝や、(上杉家)執政の直江兼続、佐竹家の小貫(大蔵)頼久、そして立会人を結城朝勝とする会議”が行なわれ・・・“当時の上杉家と佐竹家との間で、何らかの盟約”が、「成立」する。・・・この盟約成立に関しては、後の同年8月19日以降の上杉景勝らの行動によって、結果的に分かります。・・・
      ※ 同年8月17日:“西軍方(≒石田方)・島津義弘(※島津貴久の次男であり、島津義久の弟)が率いる約1千の軍勢”が、「美濃国垂井(現岐阜県不破郡垂井町)」に、「着陣」する。・・・垂井と関ヶ原との距離は・・・“地理的には、目と鼻の先”とも云える場所です。
      ※ 同年8月19日:“東軍方(≒徳川方)の黒田長政(※黒田孝高〈官兵衛・如水〉の嫡男)ら”が、“徳川家家臣の井伊直政」や本多忠勝(ほんだただかつ)”に対して・・・“徳川家康による江戸城出馬を待たずに、木曽川を越えて犬山城(現愛知県犬山市犬山北古券)方面へ進軍すること”を、「報告」する。・・・“徳川家康からの使者とされる村越直吉からの一言が、相当な効き目があった”ということなのでしょうか?・・・いずれにしても、この時のように諸将達の意見を集約させる必要性が迫られる場面では、黒田長政の名が幾度と無く登場致しますね。・・・いわゆる「小山評定」の際も、そうでした。
      ※ 同年同日:「上杉景勝」が、“福島掃部助(ふくしまかもんのすけ:※福島季重〈ふくしますえしげ〉のことか?)を佐竹方へ遣わす”・・・と、「福島掃部助」が、“同年8月14日或いは翌15日の会議における結城朝勝による周旋の骨折り(=苦労)に対して感謝を伝える”とともに、今後についても・・・「いよいよ御等閑(※物事を軽く観て、いい加減に扱うこと)なき様に御才覚(ごさいかく)を頼む(=すばやく頭を働かせて物事を処理することを期待している)。」・・・と、伝える。・・・尚、この時の結城朝勝は、上杉家の白河城(※別名は小峰城、白河小峰城とも)には戻らず、佐竹方の勢力圏・・・おそらくは、佐竹家重臣の小貫(大蔵)頼久に同伴し、赤館城付近まで来ていたのでしょうね。
      ※ 同年同日:「上杉家執政・直江兼続」が、“同年同日或いは翌15日の会議における立会人だった結城朝勝”へ向けて、「副状(そえじょう)」を、送り・・・「御肝煎(おんきもいり)を以って佐竹(家)と当方(※上杉家のこと)が無二(の)御入魂(ごじっこん)の処(となり)、我等に於いても満足此事(=我らにおいても、満足とはこの事でした)。」・・・と、“謝辞を述べるとともに、佐竹家重臣の小貫(大蔵)頼久が、上杉家に対して誓紙を提出するように”と、「依頼」する。・・・直江兼続、さすがと云うべきなのでしょうか?・・・それとも、当然の事と観るべきなのでしょうか?・・・慎重の上にも慎重でした。・・・“お互いに危急存亡の時だからと、佐竹義宣の側用人的な小貫(大蔵)頼久の誓紙で構わないとしたよう”です。・・・これを反対に考えれば・・・“上杉家執政・直江兼続もまた、自らが誓紙を交わす心づもりだったこと”を示唆しております。・・・“あくまでも、互いの主君の名を持ち出さずに”という配慮が感じ取れるのです。・・・いずれにしても、“同年同日或いは翌15日の会議の結果は、何らかの大筋合意に至っていた可能性が高く、最終合意の確約や、互いの保証提供については、佐竹義宣の判断に委ねられることになっていたよう”でもあります。・・・
      ※ 同年8月20日:「西軍方(≒石田方)・島津義弘(※島津貴久の次男であり、島津義久の弟)」が、“本国の薩摩に向けて、増援を要請した書状”を、この日に送る。・・・島津義弘という人物が、“この時、まさに大戦さの直前期であるということを、武将ならではの感覚によって察知していたことは、確実だった”かと。・・・「関ヶ原」とは、“目と鼻の先”とも云える「垂井」に陣取っていましたので。・・・しかし、“手勢が約1千では、島津の武勇を示すにも限界があった”ということでしょう。・・・但し、この時に小勢だったからこそ、後世で「島津の退き口」と語られる名場面を見い出せたとも云えますし・・・もしかすると、“本国の薩摩からすれば、武勇を示すだけならば、約1千の軍勢と名将の島津義弘だけで充分である”との判断があったのかも知れません。・・・でも、かなりキツイ状況ですよね。コレは。
      ※ 同年同日:“徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)勢に参加していた榊原康政”が、「越後・蔵王堂城(ざおうどうじょう:※現新潟県長岡市西蔵王3丁目の金峯神社及び安禅寺付近)主・堀親良(ほりちかよし:※堀秀治の弟)」へ向けて・・・“伊達家や、佐竹家、最上家の皆が、別条無き旨”を、報せる。・・・当時の越後国内は、“会津の上杉家が旧領地で仕掛けた”と云われる上杉遺民一揆が各地で頻発していましたので・・・“これらの鎮圧に奔走することになっていた堀親良を、榊原康政としても東軍方(≒徳川方)に留めて置きたかった”のかと。・・・もしも、越後を領していた堀家全体が、西軍方(≒石田方)に取り込まれると・・・約3万8千と云われる徳川秀忠勢であっても、背後を敵方から突かれてしまう格好に為りかねませんので。・・・きっと、榊原康政の本心からすれば、“その動向についてが不確かな佐竹家だったとしても、東軍方(≒徳川方)に有利に働く情報ならば、積極的に利用し、越後方面や堀家全体を、落ち着かせようとの狙いがあった”かと。
      ※ 同年8月22日:“東軍方(≒徳川方)の池田照政(※後に輝政と改名)らの軍勢”が、「河田(現愛知県一宮市浅井町河田)」から「木曽川」を渡り・・・“米野村(現岐阜県羽島郡笠松町米野)付近において、西軍方(≒石田方)の織田秀信勢と激突(=河田木曽川渡河の戦い、米野の戦い)”し、これを破る。・・・また、この日に、“加賀野井(現岐阜県羽島市下中町加賀野井)から渡河した福島正則らの軍勢”も、「竹ヶ鼻城(たけがはなじょう:※現岐阜県羽島市竹鼻町)」を、「陥落」させる(=竹ヶ鼻城の戦い)。(※同年8月22日付本多正信他二名宛井伊直政書状より)・・・
      ※ 同年8月23日:“東軍方(≒徳川方)の福島正則らの軍勢”が、“織田秀信の居城・岐阜城を攻める”・・・と、“その救援に駆け付け大垣城にあった石田三成勢や、美濃垂井にあった島津義弘(※島津貴久の次男であり、島津義久の弟)の軍勢”をも、「撃退」し・・・「織田秀信」を、「降服」させる。(=岐阜城の戦い)・・・この時の織田秀信は、福島正則や池田照政(※後に輝政と改名)による助命嘆願もあって、弟の織田秀則(おだひでのり)と共に、高野山へと追放されることとなり・・・後に、“そこで病没した”とされます。・・・そして、弟の織田秀則は・・・“この後に豊臣家を頼って、一旦は大坂城下に住むこととなります”・・・が、その後には、再び・・・“豊臣家滅亡に伴なう格好で、京都に移り住む”ことになります。・・・その晩年には、剃髪して「宗爾(そうじ)」と称し、“西暦1625年(寛永2年)10月27日に45歳で死去した”とされます。・・・尚、“津田信益(つだのぶます)と改名して、生き延びた”という話も伝わりますが、同名の別人だった可能性もあり、詳細は不明。・・・いずれにしても、“織田氏本宗家としては、この時期頃に断絶することになった”のです。・・・
      ※ 同年8月24日:「徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)」が、“真田昌幸が拠る信州上田攻略のため”として、「宇都宮城」を、「出立」する。(※同年8月28日付黒田長政宛徳川秀忠書状より)・・・いずれにしても、“同年8月4日から数えて20日目の出来事”となります・・・が、当時既に西進して美濃方面攻略に取り掛かっていた黒田長政への書状であり、“徳川秀忠などによる信州上田攻略作戦の発動”にも想えます。・・・しかし、実際のところは、どうだったのでしょうか?・・・“これより以前には、黒田長政らから宇都宮城に居た徳川秀忠に向けて、東海道付近や中山道付近に関する情勢が、逐一情報提供されていた”とは、当然に考えられ・・・そして、徳川家康の懐刀と呼ばれる程の本多正信という経験豊富な人材を、徳川秀忠の参謀役に就けていた訳ですから。・・・また、この同年8月24日の出来事を、同年8月28日の書状によって黒田長政へ送っていることも、更に気になるところではあります。・・・もしかすると、“西軍方(≒石田方)の真田昌幸配下の忍び集団による情報撹乱工作に、徳川秀忠などが率いた徳川家主力部隊とされる約3万8千の軍勢が、信州上田に呼び寄せられていた”という可能性があるのではないでしょうか?
      ※ 同年同日:「徳川家家臣・井伊直政」が、“西軍方(≒石田方)の犬山城主・石川貞清(いしかわさだきよ:※後に商人、その後には江戸幕府(=徳川幕府)の御家人となり、晩年は石川宗林を称する茶人)とともに籠城する竹中重門(たけなかしげかど:※竹中半兵衛重治の嫡男)や、関一政(せきかずまさ)、加藤貞泰(かとうさだやす)に対して、犬山城の明渡し勧告をする書状”を、送る・・・と、“西軍方(≒石田方)・犬山城が、放棄される気運”となる。(※同年8月24日付竹中重門他二名宛井伊直政書状より)・・・これは、井伊直政による西軍方(≒石田方)取り崩し工作であり、まさしく調略行為と云えますが・・・この時の井伊直政が、このような行動を採ったことには、納得出来る面もあります。・・・当時の犬山城は、“故織田信長の遺産とも云える近世城郭でした”ので。・・・“この城に、軍師として名高かった竹中半兵衛重治の嫡男や、美濃衆と呼ばれる屈強な武将達に籠られていた”のです。・・・もしも、この状況下で、徳川家康なり徳川秀忠が率いる徳川家の主力部隊無しで、まともに攻城戦に当たれば・・・兵の損害や時間が、かなりの確率で以って費やされることになる訳でして・・・「近江衆」と呼ばれた石田三成らの能吏達から、まずは「美濃衆」を切り離すという、“政治的な意味合いもあった”かと。・・・しかも、この時の犬山城には、既に・・・同年7月18日の時点に、郡上八幡城主・稲葉貞通の三男だった稲葉通孝が、“(会津征伐〈=上杉討伐〉による)関東陣沙汰が延期になった”として、郡上八幡城への帰途にあり・・・“稲葉貞通自身も、嫡男の典通(のりみち)や、弟の稲葉方通(いなばまさみち)らとともに、西軍方(≒石田方)として、当時の犬山城に入城していた”のです。・・・しかし、“貞通の弟だった稲葉方通だけは、豊臣秀吉の死後には、既に徳川家康に仕えていた”ともされており・・・“これでは、いくら堅城と謂えども、既に砂の城となっているようなもの”です。・・・城内に同じ東軍方(≒徳川方)の武将が居た訳ですから、当時の井伊直政としても、やり易かったのでは? とも想います。・・・少しの圧力を外から掛ければ、やがては全てが崩れてしまうのですから。・・・現に、この日以降は・・・東軍方(≒徳川方)の中村一忠(なかむらかずただ:※中村一氏の子であり、この後に徳川秀忠から偏諱を受けて、忠一と改名)及び中村一栄(なかむらかずしげ:※中村一氏の弟であり、通称は彦右衛門、別名は氏次とも)らによって犬山城が攻められると・・・“当初から東軍方(≒徳川方)の意向を汲み取っている稲葉方通などが、極秘裏に東軍方(≒徳川方)の井伊直政へ密書を送り、犬山城内の諸将から東軍方(≒徳川方)に内応する約定を採り付けた”と考えられ・・・“一同で以って、犬山城を引き上げようとした”のです。・・・

      ・・・この頃の美濃国内の状況については、概ねのところ・・・
      東濃地方では
・・・東軍方(≒徳川方)の妻木頼忠(つまきよりただ)が、西軍方(≒石田方)に与していた岩村城の田丸直昌の家臣らと交戦し、ここに・・・かつての(羽柴)秀吉に服属することを拒絶して領地を失ない、後に徳川家康に保護されていた旧領主だった遠山友政(とおやまともまさ)や、小里光明(おりみつあき)などが、旧領復活を目論んで、妻木頼忠勢に加勢して、田丸直昌や河尻秀長(かわじりひでなが)の領地へ攻め込むこととなり、西軍方(≒石田方)の苗木城(なえぎじょう:※別名は霞ケ城とも、現岐阜県中津川市苗木)や、明知城(あけちじょう:※別名は白鷹城とも、現岐阜県恵那市明智町)などを陥落させ・・・
      西濃地方では・・・市橋長勝(いちはしながかつ)や徳永寿昌らが、丸毛兼利(まるもかねとし)の福束城(ふくつかじょう:※現岐阜県安八郡輪之内町福束)や、高須城(※別名は高洲城とも、現岐阜県海津市海津町高須町)などの西軍方(≒石田方)の拠点を陥落させます。
      ・・・いずれにしても・・・次第に、東軍方(≒徳川方)優勢の気配が、色濃くなっていたのです。

      ※ 同年8月25日:“赤館城に在陣していた佐竹義宣”が、“蘆名盛重(※改名前は義広、佐竹義重の次男であり、義宣の次弟)らを残して”・・・「水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)」へ引き上げる。・・・そして、“江戸城に居る徳川家康”に向けて・・・“自身が水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)へ帰った理由についてを釈明するため”として、「佐竹家重臣・小貫(大蔵)頼久」を「使者」に立て、これを「派遣」するとともに・・・“信濃上田城の真田昌幸を攻撃するため”として・・・“この時既に進軍中の徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)勢に従がう援軍”に向けて、佐竹義久に率いさせた3百騎余り”を、「派遣」する。
・・・“当時の赤館城を離れる”という佐竹義宣の行動は、徳川家康の指図によるものではなかったため・・・“後の家康からは、独断的な軍事行動として非難されたり、更に疑念を深められるという恐れもあった”かと想われます。・・・しかし、この時の佐竹義宣としては、“何よりも具体的な態度で示すことを第一優先にしたよう”です。・・・いずれにしても、“この日の前日に、徳川秀忠が真田昌幸が拠る信州上田攻略のためとして、宇都宮城を出立した翌日の出来事”です・・・が、佐竹義宣が派遣したのが3百騎余りという規模や、その兵種についてが、どうにも気になるところではあります。・・・これは、“佐竹勢の精鋭部隊と目される騎馬鉄砲隊でも、3百騎余りを派遣した”ということなのでしょうか?・・・予測困難な戦況に対応させるなど、広い目的があったのか?・・・それとも・・・“表向きには、佐竹勢の大半については、上杉家の関東乱入を阻止する目的で、仙道口付近に残していた”ということなのでしょうか?・・・或いは・・・“佐竹勢の大半とともに、水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)へ一旦戻り、場合によっては敵とする相手方が変更される可能性があった”ということなのでしょうか?・・・もしかすると、“江戸城の徳川家康への使者として小貫(大蔵)頼久が派遣された背景にも、佐竹家存亡の危機に対応出来る能力や資質を、佐竹義宣に買われていたから”なのかも知れません。・・・つまりは・・・“この頃ちょうど争っていた美濃国内の情勢が、大きく東軍方(≒徳川方)に傾けば、その戦勝を賀する使者としての役割をも期待されていた”のかという、想像も出来てしまうのです。
      ※ 同年同日:「上杉景勝」が、“上方にあった毛利輝元や、宇喜多秀家ら”に向けて・・・“徳川家康が上洛すれば、来月中にも、佐竹と相談の上、関東表へ乱入するという書状”を、送る。(※『読史堂古文書』より)・・・この書状の内容が、“上杉家と佐竹家との間で、何らかの盟約や密約が成立していた”・・・或いは、“成立直前だった”・・・と云われる要因です。
      ※ 同年同日:“白河城(※別名は小峰城、白河小峰城とも)に在陣し、宇都宮遺臣達や農民達を味方にした結城朝勝”が、“上杉討伐軍とされていた徳川勢の後方撹乱を計る”とともに・・・“この日に、徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)勢が宇都宮を退陣したこと”を・・・「上杉家執政・直江兼続」へ、報せる。(※『読史堂古文書』より)・・・

      ・・・この頃の東北地方では、概ねのところ・・・
      小山から東軍方(≒徳川方)の諸大名や諸将達が東海道を西進し、徳川家康も江戸城に籠って東軍方(≒徳川方)への引き留め工作及び西軍方(≒石田方)の切り崩し工作を行なうなど、事実上も会津征伐(=上杉討伐)が中止されたため・・・“この前年の西暦1599年(慶長4年)1月20日に、自身の長女だった五郎八姫(いろはひめ:※後の院号は天麟院〈てんりんいん〉)を、徳川家康六男の松平忠輝(まつだいらただてる:※後の越後高田藩初代藩主)と婚約させていた”という伊達政宗でさえ・・・“上杉家の福島城(※別名は大仏城、杉妻城、杉目城とも、現福島県福島市杉妻町)を守る本庄繁長(ほんじょうしげなが)との間で講和交渉を始め、同西暦1600年(慶長5年)7月25日正午頃には攻略していた”という白石城の返還を約してまで、それまで「会津征伐(=上杉討伐)」の討伐対象とされていた上杉家と和睦を結んでしまいます。・・・更には、当時の奥羽にあった諸勢も自領へと引き上げてしまい・・・最上義光もまた情勢を観望し、上杉家に対しては伊達政宗の出方次第との態度を示します。・・・そして、出羽仙北地方の諸大名や、相馬家、南部家なども、上杉家に属してしまいます。(※『上杉景勝卿記』所収文書より)
      ・・・この頃の伊達政宗や、奥羽諸勢の行動は・・・“当時、渦中の中にあった徳川家や東軍方(≒徳川方)の優劣を見極めるための戦略的な行動だった”と考えられ・・・これと同時に、一方の上杉景勝としては、“これらの東北や関東情勢を踏まえて、まずは後顧の憂いを絶つためとして、出羽の最上義光を攻略することに方針を転換した”と考えられ・・・俗に、「北の関ヶ原」とも呼ばれる「慶長出羽合戦」へ向かうことになります。

      ・・・この頃の北陸地方では、概ねのところ・・・
      加賀の前田利長は、“東軍方(≒徳川方)の姿勢は示したものの、全く以って積極性というものが感じられず”・・・越後の堀秀治も、“東上杉家による支援を受けて起きていた国衆一揆(≒上杉遺民一揆)に苦しめられ、また西軍方(≒石田方)への勧誘を受けていたため、会津進撃を躊躇(ためら)うこととなって、反対に越中表へ西進する構え”を見せています。・・・堀秀治の与力大名とされていた溝口秀勝は、同年8月5日付の真田昌幸他二名宛石田三成書状中の「備えの人数書」にも、その名があるように、“当初から居城の新発田城(※別名は菖蒲〈あやめ〉城とも、現新潟県新発田市大手町)において西軍方(≒石田方)に与する気配があり”・・・同じく堀秀治の与力大名とされていた村上義明(むらかみよしあきら:※村上頼勝のこと)も、“居城の村上城(※別名は舞鶴城、本庄城とも、現新潟県村上市二之町周辺)にあって、同年8月初め頃から会津の上杉家に味方する方針で西軍方(≒石田方)と内通していた”とされます。・・・
      ・・・この頃の北関東地方では、概ねのところ・・・
      徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)勢が宇都宮を退陣し、真田昌幸が拠る信州上田攻略に向かうと、直ぐに・・・佐竹義宣も、赤館城から水戸城へと引き返しているため、白河口と呼ばれた那須や宇都宮などには・・・“防御陣地や、それらを守備する兵力のみ”という状況になったのです。・・・

      東北や北陸、北関東における情勢が、上記のようになったため・・・当時の徳川家康が当初から予定した会津包囲網は、ほとんど分解されてしまうこととなり・・・いずれにしても、これらの事情が作用したことによって、徳川家の軍勢と上杉家の軍勢が、結果的にも直接対決することは無く・・・この上杉家との密約の有無についてを、当時の徳川家康などから疑われていた常陸の佐竹家もまた、徳川家の軍勢と対決し、これに追い討ち攻撃を仕掛けるなど、関東や東海道方面で暴れ回ることも無くなった訳です・・・が、一方で・・・この時の佐竹義宣の行動が、“当時の徳川家康を牽制するために重要な役割を果たしていた”とも云えるのです。・・・それでも、徳川家康としては・・・“上杉勢が会津の周囲四方に分散せざるを得ずに関東へ乱入する可能性が低いことや、当の佐竹勢が上杉勢の加勢無しには発動出来ないことなどについてを、ある程度確信していた”のかも知れませんが。・・・そして、徳川家康が江戸城を発っても、佐竹勢や上杉勢は・・・“現実にも、家康不在を理由として江戸方面に出撃することは無く、白河口から後方撹乱することさえ積極的には行なおうとはしなかった、或いは出来なかった訳”です。・・・また、徳川家康から発破を掛けられていた伊達政宗が、宇都宮の主将とされていた結城秀康に会津(=上杉家)挟撃を勧めても、“当の秀康は実父の家康からの自重命令に従って、この提案に応じることは無かった”のです。・・・
      ・・・ちなみに、この頃の佐竹家の総石高は、与力大名などを含めると約百万石と云われ・・・これは、“約3万5千の兵力や、関東一と呼ばれる鉄砲保有数を誇ったとされる佐竹家鉄砲隊などを、最大動員出来ること”になります。・・・それでも、周辺各地に配置する自陣防備などのために必要な兵力を差し引くと、結果的には・・・佐竹家が追い討ち攻撃などのために機動的に動かせる兵力は約2万~2万5千程度となりますでしょうか?・・・しかし、現実としては・・・常陸の佐竹家は、当時の伊達政宗や、奥羽諸勢、それに宇都宮や、小山、江戸などにあった東軍方(≒徳川方)の大軍勢(・・・※諸説ありますが、総勢7万或いは総勢10万を超える規模などと云われます。・・・)と、太平洋に取り囲まれる格好となっており・・・“各部隊の動静を見極めた上での軍事行動でなければ、そもそもとして追い討ち攻撃などの効果が期待出来なかった”と考えられ・・・そして、当時の佐竹家が、一たび作戦行動を誤れば、少なくとも総勢7万の敵方を、一勢力で以って相手にすることとなり・・・当時の上杉家の軍勢が、出羽の最上義光攻撃などに構わず、全力で以って3万~4万の兵力を関東へ南進させ同調した軍事行動を採ってくれなければ・・・当時の佐竹家が、いくら善戦したとしても、佐竹家或いは佐竹氏族全体が滅亡するのは、もはや時間の問題となります。・・・そして、このことは、反対に・・・長年に亘り佐竹家と良好な関係を築いていた上杉家としても、同様なことが云えるかと想います。・・・自家の家名を残し氏族全体の未来を託され・・・また、“これら責任感の塊だった”とも云える・・・中世からの伝統を色濃く受け継ぐ佐竹家や、上杉家は・・・このように目まぐるしく移り変わる情勢の最中にあって、“まずは本能的な行動を示していた”のではないかとも想います。・・・また、佐竹家と上杉家の両家とも・・・“中世的な土着性などを色濃く受け継ぐ家中の構造自体が、このように目まぐるしく移り変わる情勢の最中に順応し、いち早く氏族全体の意思決定をするというのは、なかなか困難なことだった”と考えられ・・・この頃の上杉家中では、いわゆる「直江状」などがあるためか? とかく、執政・直江兼続一人の、軍略家としての功罪が注目されがちですが、後世の業績を見れば・・・直江兼続という人物は、まさしく内政や外交の人物であって、これは・・・つまり、“根回し上手の人だった”と云えますので。・・・当時は、「仁義」などの哲学を主軸とした上杉家中の意見統一を図るために、“その高い教養や弁舌能力が必要だった”とも云えます。・・・これらの事情は、当時の佐竹家にも共通しています。・・・そもそもとして、故豊臣秀吉らの方針によって戦国大名化を迫られた佐竹家も、その家中は? と問われれば・・・同族の分家筋や庶流家系を多く含んでいて、表面的には佐竹宗家の家臣団として収まっておりましたが、その実態と云えば・・・意見統一を図るための時間や根回しなどが必要とされる家中構造のままであって、上杉家執政・直江兼続と同様の役割を担っていたのが佐竹義久という人物だった訳です。・・・直江兼続と異なるのは、以前のページにもあるように・・・現実として、佐竹義久が3百騎余りを率いて徳川秀忠勢へ加勢したことや、直江兼続が西暦1620年(元和5年)12月19日まで生きたのと比べて、佐竹義久は「関ヶ原合戦」の直後期とも云える西暦1601年(慶長6年)11月28日に、“謎の死を遂げていること位”なのです。・・・尚、“存在していた”と云われる佐竹家と上杉家との盟約や密約が、現実には実行されなかった背景の一つには・・・“当時の佐竹家家中と上杉家家中で以って、盟約や密約の確証を担保出来なかった”という側面があったのではないか? とも考えられます。・・・当時の佐竹家を率いたのは佐竹義宣ですが、当時の上杉家が敵対し白石城の返還を条件に和睦した伊達政宗とは、そもそもとして従兄弟同士でしたし・・・当時の上杉景勝からすれば・・・上杉家と佐竹家との絆と、佐竹家と伊達家との絆とを血統関係で比べれば、“佐竹家と伊達家との絆のほうが遥かに強固に想えたこと”でしょう。・・・もしかすると、「会津征伐(=上杉討伐)」という名目によって、当時の上杉景勝と伊達政宗とが敵対関係に仕向けられていた両家が、現に白石城や川股城などを巡って争いを始めてしまい・・・“これを重く見た佐竹義宣が、上杉景勝と伊達政宗との間を取り持つ格好で、積極的に上杉家と伊達家の和睦条件を整えていた”という可能性もあるかも知れません。・・・但し、この当時の伊達政宗の思惑は、“ドサクサ紛れの領土拡張だった”と考えられ、“あくまでも東軍方(≒徳川方)優勢を確認するまでの一時的な和睦で構わないとしただけのこと”かも知れませんが。・・・いずれにしても、不遇と云うべきか、幸いと云うべきか、非常に迷うところではありますが・・・当時の佐竹義宣にも、上杉景勝にも、実子が無かったため、“互いの家中を納得させる人質的役割を担える適当な人物が見当たらなかった”とも考えられ・・・本来ならば・・・“上杉家執政・直江兼続が、上杉景勝の正室や、自身の正室及び自身の嫡男の三名を連れて水戸へ赴き、佐竹義宣や佐竹家中の諸将達と綿密な打ち合わせを行ない、連れて来た三名を人質として水戸へ置き”・・・“これに対する佐竹家としても、釣り合う人質提供が難しければ、車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)だけではなく、もっと多くの諸将達に然るべき規模の軍勢を会津方面へ率いさせたり、上杉家による関東南進の足掛かりとなる城の一つや二つを提供する位のことが必要だった”かと。・・・もしも、これらが実現していたなら・・・「会津から直江山城守が来て、我らと綿密な協議を行ない、会津中納言殿の御正室並びに直江山城の正室及び嫡男が水戸に逗留して居られるので、親しき上杉家が約束を違えることは有り得ない。」・・・などと、そもそもとして意見統一が難しかったとされる佐竹家中や上杉家中であっても、“結果的に纏まり同調することが出来た”のではないでしょうか? ・・・しかし、現実には・・・以前のページにもあるように、車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)が小勢を率いて上杉家へ派遣されたり(※もしくは、出奔か?)・・・東軍方(≒徳川方)の主力部隊を預けられていた徳川秀忠に向けては、佐竹義久が率いたとされる3百騎余りという微妙な(或いは絶妙な?)軍勢規模となった訳です。・・・これらのことは・・・佐竹家は、もちろんのこと、当時の上杉家でさえ・・・徳川家康を始めとする東軍方(≒徳川方)の諸将達や忍び集団などによって、互いの情報網を遮断されたり、或いは撹乱されていたため、“互いの意思疎通が芳(かんば)しくなく、且つ入手した情報そのものを確実視出来なかったこと”に起因しており・・・更には、佐竹家も上杉家も、“目の前にいる敵方を堅実に見定めないと、自家の興廃を決する大博打的な戦さとなってしまうため、自己勢力へ実際に敵対する勢力のみを相手とする防衛的な戦略行動を採る他なく”・・・そしてまた、“自己勢力を大きく損じないで、粘り強く戦っていれば、やがては勝機を見い出すことが出来る”と考え・・・“まさか、上方や美濃方面で行なわれる筈の大決戦が短時間で決着するなどとは、思いもしなかった”のではないか? とも想います。・・・情報戦略という観点から云えば・・・「内府」とも呼ばれていた、当時の徳川家康の政治的な実力と・・・いわゆる「内府ちかひ(=違い)の条々」、または「家康違いの条々」と呼ばれる弾劾状によって、反対に賊軍と為り掛けていた局面を、ひたすら江戸城に籠り約2百通に及ぶ書状を出し続け、日本列島の絵地図で以って全体の戦略を描きながら、自身が動く時機を待ち続けていた徳川家康の慎重さや戦略家としての実力・・・そもそもとして、このような情勢を創り上げるまでの、数々の政治的な布石などについては、驚くほかありません。・・・


・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】