街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      さて、「中大兄皇子(※後の天智天皇)」は、“白村江における敗戦直後当たりから、唐王朝と新羅による日本列島侵攻を怖れたため”として・・・「対馬」や「北九州・大宰府」には、「水城(みずき)」を、瀬戸内海沿いの“西日本各地(※長門、屋嶋城、岡山など)”などには、「百濟」などからの帰化人達の協力を得て、「朝鮮式古代山城」などの防衛拠点を、次々と築造して・・・北九州沿岸部には、「防人(さきもり)」を配備し始め、「都」を「近江」へ遷すこととなります。・・・そこで、「近江令(おうみりょう)」と呼ばれる“古代日本最初となる法令体系を施行した”と云われております。

      ※ 西暦664年2月9日:「天皇(すめらみこと)」が、「大皇弟(ひつぎのみこ)」に命じて・・・“氏上(このかみ)、民部(かきべ)、家部(やかべ)らへ、冠位階名の事を増して、換えること”・・・を「宣」じる。・・・“其の冠”は、「二十六階」有り。・・・「大織(だいしき)」、「小織(しょうしき)」、「大縫(だいぶう)」、「小縫(しょうぶう)」、「大紫(だいし)」、「小紫(しょうし)」、「大錦上(だいきんじょう)」、「大錦中(だいきんちゅう)」、「大錦下(だいきんげ)」、「小錦上(しょうきんじょう)」、「小錦中(しょうきんちゅう)」、「小錦下(しょうきんげ)」、「大山上(だいせんじょう)」、「大山中(だいせんちゅう)」、「大山下(だいせんげ)」、「小山上(しょうせんじょう)」、「小山中(しょうせんちゅう)」、「小山下(しょうせんげ)」、「大乙上(だいおつじょう)」、「大乙中(だいおつちゅう)」、「大乙下(だいおつげ)」、「小乙上(しょうおつじょう)」、「小乙中(しょうおつちゅう)」、「小乙下(しょうおつげ)」、「大建(だいこん)」、「小建(しょうこん)」、是を「二十六階」とす。
      ・・・“前(さき)の花(か)”を改め、「錦(きん)」と曰い、“錦より乙に至るまで”、「十階」を加える。・・・又(また)、“前の初位一階”に加え換え、「大建」、「小建」の「二階」とす。・・・此の異なるを以って、餘(あまり:=余)は、前に依りて、「並」とす。・・・“其の大氏の氏上”には、「大刀」を賜う。・・・“小氏の氏上”には、「小刀」を賜う。・・・“其の伴造(とものみやつこ)らの氏上”には、「楯干し」と「弓矢」を賜う。・・・亦(また)其に、「民部」と「家部」を定める。
・・・まず、ここで「天皇」とされたのは、“称制中である筈の中大兄皇子のこと”であり・・・「大皇弟」とは、皇太子のことを訓じて、「ひつぎのみこ」と読ませている訳でして・・・且つ、“これが指し示す人物は大海人皇子(おおあまのみこ:※後の天武天皇のこと)となる筈です”から・・・明らかに・・・人物の表記などが混乱しており、相当とされる表記から逸脱しております。・・・この中大兄皇子が、正式に天皇に即位するのは、後の天智天皇紀7年の条、すなわち西暦668年のこととされておりますので。
      ・・・この当たりの表記上における混乱や表現方法の違いがあることが・・・“『日本書紀』の編纂者が複数人存在した”と云われる所以です・・・が、このような混乱が生じた要因として考えられるのは・・・後世の『日本書紀』の編纂時点において、天智(てんじ)天皇の治世を定めるため、本来は即位年を元年とし、それまでの出来事を前紀或いは称制紀とすべきとする立場が正統なのでしょうが、そうしてしまうと・・・結果として天智天皇紀は、3年で終わることになってしまいます。・・・結局のところ、『日本書紀』の編纂者達の仲間内においては、天智天皇の称制年を元年とする立場で、意見が収束した模様なのですが・・・『日本書紀』の編纂時期・・・厳密に云うと、その完成直前時点において、参考とされていた史料の記述内容に、天智天皇の即位年を元年としていたものがあって、それらから引用したため、“このような混乱が生じてしまった”と考えられます。・・・それにしても、この西暦664年2月9日の条で・・・どうして、中大兄皇子を天皇とし、大海人皇子を皇太子に指名されていたかの如く読ませたかったのか?
      ・・・この冠位階名に関する改革が、後の天武(てんむ)天皇期に実施された大宝律令に繋がるものであって、且つ大海人皇子が東宮と呼ばれていた時代から取り組んでいたことを強調したかったのか?・・・いずれにしても、“中大兄皇子が弟の大海人皇子に冠位階名の事を命じたという、この改革が白村江の戦いにおける大敗北が契機となっていたこと”は明らかです。・・・そして、この条で語られているのは、冠位七以下の官職に対する実質的な増強施策であり、かつてない規模での船の建造や軍士、軍需物資、兵糧の調達などのため、生産や製造、運搬においては効率面を向上し、組織化させて、それらに功があった者達を重んじる必要性が生じていたためと考えられます。・・・やがて、生産や、製造、物流などが活性化し始め、倭国(ヤマト王権)における中央政権への政治的求心力も高まることとなり、古代の国家観や民俗観が形成されて、それまでには纏めきれなかった地方豪族や、その配下にあった一団、蝦夷集団、渡来系集団を、この序列に一挙に組み込む絶好の機会となっていたのです。
      ・・・この当時、「大化の改新」について無関心で居られた人々も、“この時代の流れには乗り遅れまい!”としていたのでしょう。地方豪族の長としても、既に倭国(ヤマト王権)に従っていた氏族らにも、冠位を与えれば、国軍としての意識も強くなってゆくでしょうし、下賜されると定められた大刀や、小刀、楯干し、弓矢よりも、もっと功を上げて、もっと上等な物を! という競争心も芽生えてくる筈です。・・・そして、自らの勢力を大きく成長させるために、かつての部民の戸籍化にも拍車が掛かったのでしょう。・・・このことは、“亡命して来る百濟・高句麗の有力者達のみならず、蝦夷と呼ばれていた人々など、様々な才能や技術を持った集団を、古代国家日本(やまと)に取り込むことに役立つことになった”のです。・・・白村江の戦いにおける大敗北は、当時の倭国(ヤマト王権)に対し、大きな衝撃を与え、その人的な損失や物的損害も甚大だったでしょうが、それまで比較的に平和に暮らしていた日本列島人の意識を大きく変えざるを得ない効果を齎(もたら)したのです。
      ・・・ここの条にある「楯干し」とは、原文では「干楯」と表記されておりますが・・・おそらく、これは“楯干し漁法のこと”と考えられます。“この楯干し漁法”は、遠浅の海岸に複数の竿を建てて、これに網を張り、潮が引いてから、魚の群れを囲い込み、網の中で跳ね回る魚を手掴みにするという豪快な漁法であり、当然に人々が集団的な行動が出来ないと、海の幸の恩恵には与(あず)かれません。・・・この『日本書紀』では、“天皇の御浦(みうら)において催される、古代の魚掴み取り大会への出場権を褒美としていたこと”も分かります。

      ※ 同年3月内:“以って、百濟王(くだらのこにきし)善光(ぜんこう)王ら”が、「難波」に(到着し)、居す。・・・京の北に、殞(お:=落)ちる星有り。・・・是の春に、地が震える。・・・『日本書紀』では、ここでも「百濟王」と記述しておりますが、これは明らかに、後世の編纂時点における追記部分です。・・・この『日本書紀』によれば、「善光」とは、“豊璋の弟”とされています。・・・『続日本紀(しょくにほんぎ:※平安時代初期に編纂された勅撰史書)』では、「徐禪廣(じょぜんこう)」とも。“中国側史料”では、「扶余勇(ふよゆう:=徐勇)」とされる人物です。・・・いずれにしても、“彼は、亡命渡来人として難波に暮らした”とされますが、どこから移り住んで来たのか? については、不明とされます。・・・おそらくは、“旧百濟における百濟復興軍には加わらず、当時の倭国(ヤマト王権)内に滞在し続けていた可能性が高かった”と考えられます。“人質的な存在意義があった”かと。・・・“やがて善光の子孫が、時の持統天皇から百濟王(くだらのこにきし)の姓を賜り、旧百濟の王統を伝える”こととなります。
      ・・・尚、この条の後半部分については、流れ星や地震を凶兆の象徴的な現象として語っているだけなのでしょうか?

      ※ 同年5月17日:「百濟鎭將・劉仁願」が、“朝散大夫(ちょうさんだいぶ)・郭務ソウ(かくむそう:※ソウの字は、立心偏+宗)ら”を遣わして、「表函(ふみひつ)」と「献物(みつき)」を進める。・・・「百濟鎮将」とは、唐王朝の正式な官職名ではなく、百濟占領司令官の意とされています。・・・これが、“新生大和朝廷による精一杯の表現だった”と考えられます。・・・「朝散大夫」とは、唐王朝の従五品下の官職名です。・・・この『日本書紀』では語られておりませんが・・・唐王朝が使者を遣わして来た、これ以前のこととして・・・『三國史記新羅本紀』によると・・・“この年の2月には、唐王朝と新羅、新生百濟の三者による会盟が、既に成されていたとのこと”であり・・・そして、“朝散大夫・郭務ソウ」が新生大和朝廷に遣わした、この時の表函の内容、すなわち外交目的を示すと考えられる記録”が、『海外國記(かいがいこくき)』に遺されております。(・・・※下記にて説明致します・・・)
      ・・・そこでは、“白村江の戦い以後、唐王朝が百濟占領政策について、当時の倭国(ヤマト王権)による一定の承諾を得るためだった”としながらも・・・その結果として、“新生大和朝廷は、朝散大夫の郭務ソウらを國使とは認めず、筑紫の太宰において対応し、入京を許さなかった”という説を採用しています。・・・表函の内容は、おそらくは・・・“百濟における当時の倭国(ヤマト王権)の既得権益を完全に放棄せよ!”などといった・・・“かなり厳しい要求だった”と想われます。・・・この頃の唐王朝からしてみれば、“百濟王とは、もはや高句麗へ逃亡中の扶余豊(=豊璋)でも、ましてや倭国(ヤマト王権)内に居たとされる扶余勇(=善光)でもなく、自国軍に降伏し恭順していた扶余隆だった訳です”が・・・一方の新生大和朝廷としては、“難波に居た百濟王・善光王の存在が、現にあると主張したいため”に・・・上記にある“同年3月内の条を、わざわざ記述している”と考えられます。



      『海外國記』とは・・・『日本書紀・補注26-五』によりますと・・・「相國寺(しょうこくじ:現京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町)」の「瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)」が、西暦1470年(文明2年)に著した『善隣國宝記(ぜんりんこくほうき)』巻の「上」にあり・・・元々は、“西暦1118年(元永元年)4月における「大外記・中原師遠(なかはらのもろとお)」や、「中原広宗(なかはらのひろむね)」、「中原広忠(なかはらのひろただ)」、「清原信俊(きよはらののぶとし)」らによる「勘申(かんじん:※=勘進。朝廷の儀式などの諸事について、先例や典故、吉凶、日時などを調べて上申すること)」から引用されたものであり・・・
      ・・・9世紀末に「藤原佐世(ふじわらのすけよ)」が撰した「日本國現在書目録・土地家部」の「海外記四拾巻」や、“13、4世紀頃に成立した「本朝書籍目録・地理部」の「海外國記四十巻(天平五年、春文撰)」とあるのと同じ書物と見られる”とあり・・・つまり、この『海外國記』は、“西暦733年(天平5年)に撰せられたものであり、『日本書紀』以外で、この時代を知る史料、特に外交文書として非常に貴重なもの”と云われます。・・・いずれにしても、この『海外國記』に、この時期の経緯(いきさつ)が詳しく記載されておりますので、下記をご覧下さい。

    【・・・この『海外國記』によりますと・・・】
      『海外國記』が曰く・・・「天智天皇三年四月、大唐の客が來朝し、大使の朝散大夫上柱國・郭務ソウら卅人と百濟佐平・禰軍(ねぐん、でいぐん)ら百餘人が、對馬(つしま:=対馬)島に到りて、大山中・采女通信侶(うねめのつうしんのりょ?)や、僧・智辨(ちべん)らを遣わして、客を別館に來喚す。是に於いて、智辨が問いて、曰く・・・「表書あわせて獻物有るも以って不」・・・と。使人が答えて、曰く・・・「將軍の牒書(=公文書)一函あわせて獻物が有り」・・・と。乃(すなわ)ち、牒書一函を智辨らに授けて、奉上す。但し、獻物は ケン看する(=調べる)も、不將(=保留)とす。
      ・・・九月に、大山中・津守連吉祥や、大乙中・伊岐史博德(※伊吉連博德のこと)、僧・智辨らは、筑紫の大宰の辭(ことば:=言葉)を稱(となえ)し。實に是れ、勅旨として、客らに告げ、今客らの來る状は、是れ天子の使人に非ずと見え、百濟鎭將の私使にして、亦(また)文牒を復し賚(たま)う所は、執事に送上する私辭(わたくしごと)にして、是を以って、使人は入國を得ず。書(ふみ)は亦(また)、朝廷に上げず、故に客らの自事(=出来ること)は、略(おおよそ)を、言辭を以って、(御)耳に奏上するのみ。・・・十二月に、博德は、客らに牒書一函を授け・・・函上に、日本(やまと)鎭西筑紫大將軍が、鎭西將軍と著し、百濟國に在する大唐行軍り摠管(=総官)へ牒(ふだ)して、使人の朝散大夫郭務ソウらが至りて、披覽來(=披露された)牒(ちょう)は、意趣を尋省(=拝察)するに、既に天子の使いに非ずして、又(また)天子の書(ふみ)無く、唯(ただ)是(これ)摠管(=総官)の使いにて、乃ち執事の牒(ちょう)となり、牒は是れ、私意の牒(ちょう)なりて、唯(ただ)口奏(かなで)るのみにて、人は公使に非ずして、入京を不令とす、云々。」

      ・・・ちなみに、この『海外國記』では、“四月としている出来事”を、『日本書紀』本文では、“五月の事”とし・・・同じく・・・“九月の事”が、“十月の事”となっています・・・が、これらについては、特に重要な要素でないと判断出来るため、ここではふれません。郭務ソウや禰軍らが、入朝した日なのか?、帰国した日なのか? ぐらいの誤差となりますので。・・・しかし、“相手方の外交儀礼上における不備を逆手に取って”・・・云わば、“自らの楯として、唐王朝側の正式な使者を私使扱いとし、暫くの間(※約半年間)留め置いて、結局は入京させない”という方針を下した、当時の倭国(ヤマト王権)政権の中枢に居た人々の外交判断も、さることながら・・・“采女通信侶や、智辨、津守連吉祥、伊吉連博德らの、経験豊富で機智や機転が効く現地外交官達を、当時の海外情報入手拠点だった対馬へ配していたことが、かなりの効果を齎(もたら)した”と考えられます。
      ・・・実は・・・“この時、中大兄皇子(※後の天智天皇)や、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)らの政権中枢に居た人々は、長津宮で、内政や外交に関わりなく、様々な指揮を執っており、それぞれが迅速な対応をしていた”のです。・・・“僧・智辨は、唐への留学僧だった”と考えられ・・・“津守連吉祥や、伊吉連博德にしても、唐での経験が深く、しかも白村江の戦いが始まる直前と云える時期に帰国しており、何よりも彼らは、言語や慣習にも通じていた訳”です。・・・“当時の先進的な律令国家、そして礼を重んじる巨大帝国・唐王朝としては、その正統性を示すための、天子(=皇帝)からの書が無いこと”を以って・・・日本(やまと)側の外交官達は、それを逆手に取り・・・“ならば、私辭(わたくしごと)に過ぎない”・・・などと、“相手方の急所を突いた事は、まことにお見事だった”と云えます。
      ・・・中大兄皇子(※後の天智天皇)や、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)らとしては・・・“百濟鎭將からの私辭(わたくしごと)には、鎭西筑紫大将軍からの私辭(わたくしごと)で返答すれば良い”・・・と、はね返した格好です。・・・但し・・・『日本書紀』では、“必要最小限の記述のみ”としておりまして・・・この『海外國記』ほどに、“詳しくは語っていない”のです。・・・そもそもとして、故斉明天皇や中大兄皇子(※後の天智天皇)の政権に対して批判的ですから。・・・



      ※ 同西暦664年5月内:「大紫(だいし)・蘇我連大臣(そがのむらじのおおおみ)」が、薨(みまか)る。【※(注釈)或る本は、大臣が薨るを五月と注す。※】・・・「蘇我連大臣」とは、故蘇我倉山田石川麻呂の弟達の中の、「連(むらじこ)」であり・・・『扶桑略記(ふそうりゃくき)』によると、“故斉明天皇の治世時には、右大臣だった”とされますが・・・やはり、『日本書紀』では、ふれられておりません。・・・尚、ここの記述は、同年3月の条の後半部分・・・「京の北に殞(お:=落≒しぬ)ちる星有り」・・・に、対応している部分と考えられます。凶兆として。

      ※ 同年6月内:「嶋皇祖母命(しまのすめみおやのみこと)」が、薨る。・・・「嶋皇祖母命」とは、糠手姫皇女(あらてひめのみこ)のことであり・・・押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)に嫁いで、後に舒明(じょめい)天皇となる田村皇子(たむらのみこ)を出産した女性です。この嶋皇祖母命は、中大兄皇子(※後の天智天皇)や、大海人皇子(※後の天武天皇)の祖母に当たります。・・・やはり、ここでも同年3月の条の後半部分・・・「是の春に、地が震える」・・・という記述部分に対応しており、“凶兆を告げていた”としているのです。・・・『日本書紀』の表現方法を細かく視ると・・・一種の法則と云うか、セオリーと云っても良いのかも知れません。

      ※ 同年10月1日:“郭務ソウらを発ち遣わす勅”を、宣じる。是の日、「中臣内臣(なかとみのうちつおみ:※中臣鎌足のこと)」が、「沙門・智祥(ちしょう)」を遣わして、「物」を「郭務ソウ」へ賜う。・・・『海外國記』では、“郭務ソウらを對馬(=対馬)の別館にて応接し、公使とは認めず、また入京もさせずに、筑紫大宰の辭(ことば)を勅旨として、鎭西筑紫大將軍が百濟國に在る大唐行軍摠管に牒した”としていました。・・・この『日本書紀』でも、“郭務ソウらを発ち遣わす勅を宣じると、郭務ソウらを、百濟鎭將・劉仁願の私使として、勅を宣じている”のです。・・・しかし、“このようなことに対して、わざわざ勅した”とは、いったい何を主張しようとしているのでしょうか?・・・郭務ソウらは、同年5月17日には對馬(=対馬)に来ているため、“この10月1日まで帰ることを許さなかった”ということを主張しているのでしょうか?
      ・・・“百濟における権益関係の処遇や、百濟に取り残されていた倭国(ヤマト王権)の軍将らと、唐側の捕虜交換等についての話し合いが難航していた”のでしょうか?・・・はたまた、“公使とは認めず私使として帰国させるという、何とも日本的な反論手法によって押し切るにも程があるとして、当時の外交上の非礼に当たらぬよう中臣内臣(※中臣鎌足のこと)が努めていた(≒フォローしていた)と、さりげなく主張している”のでしょうか?
      ※ 同年10月4日:“郭務ソウら”に、「饗」を賜う。・・・またしても、主語についてを、ハッキリさせておりません。・・・この前の文脈からすると、当然に新生大和朝廷ということとなるのでしょうが。・・・要するに、『日本書紀』の編纂者達は・・・“郭務ソウらに物を与え饗宴を開くなどして、気分良く御帰国願うため、新生大和朝廷も外交努力はしていた”・・・と一定の理解を示しているのかも知れません。
      ※ 同年10月内:「高麗大臣・蓋金(がいこん)」が、其の國に於いて終(しゅう)し、“兒(こ:=児)ら”へ遣言して、曰く・・・「汝(なんじ)ら兄弟は、魚と水の如くに和し、爵位を争ふこと(なか)勿れ。若(も)し是の如くにあらざれば、必ずや隣が咲(わら)うことにならん」・・・と。・・・「蓋金」とは、高句麗の莫離支(ばくりし:※最高官職とされます)だった「泉蓋蘇文(せんがいそぶん)」のこと。・・・『三國史記高句麗本紀』によれば、“蓋金の死は、西暦666年のこととし、長男だった男生の墓誌によると、西暦665年のこと”とされています。・・・蓋金には、長男に「男生」、次男に「男建」、三男に「男産」がおりました・・・が、“彼の死後”に、このような遺言内容に反して・・・莫離支の就任を巡って、この長男と、次男及び三男との間で、対立が表面化しました。・・・結果として、長男の「男生」が排斥されて、攻撃を受けてしまいます。・・・すると、「男生」は、唐王朝に救援を求めることとなり・・・結局のところ、“唐王朝による介入を招いて高句麗自体が滅びる”ことになります。
      ・・・“蓋金が、死の直前に遣言していた”にもかかわらず、高句麗も百濟同様に、王家や臣下達における内紛が、祖国滅亡の引き金となった訳です・・・が、この『日本書紀』では、“蓋金が西暦664年10月に危惧していたことが、現実となってしまった”という伏線なのです。

      ※ 同年12月12日:“郭務ソウら”が、罷り歸(=帰)る。・・・おそらくは、“新生大和朝廷の方針や意向を感じ取り、失意混じりの帰国だった”でしょう。・・・しかし、“郭務ソウらが帰国した後の唐王朝による百濟占領政策や、新生大和朝廷に対する政策方針を決定する上での貴重な情報を持ち帰った”とも考えられます。・・・“その当たりの事情には、中臣内臣(※中臣鎌足のこと)の関わりが感じられると、同年10月1日の条は主張している”のでしょうか?・・・
      ※ 同年12月内:「淡海國(あうみのくに)」では・・・「坂田郡(さかたのこおり)の人・小竹田史身(しのだのふびとむ)の猪槽(ししうけ)の水中に、忽然と稻が生まれ、身(=実)が取れ、而も收まり、日々富に到る」・・・と。「栗太郡(くるもとのこおり)の人・磐城村主殷(いわきのすぐりおお)の新婦の床席頭端に、一宿の間に稻が生まれ、而も穗をつけて、其の旦には頴(ほさき:=穂先)が熟して垂れ、明日の夜には更に一穗を生じる。・・・新婦が庭に出でる・・・と、両箇の鑰匙(やくし:=鍵)が、自ら天より前に落ち・・・婦が(それらを)取りて、(夫の)殷(おお)に與(あた)えると、殷は富を始めて得たり」・・・と言う。・・・「淡海國」とは、近江國のこと。・・・「坂田郡」とは、琵琶湖東岸の伊吹山の西南(※米原と彦根、長浜の一部)辺り。・・・「栗太郡」とは、琵琶湖南岸の東部(※草津、栗東周辺)辺り。・・・「猪槽」とは、豚など家畜の餌や、水を呑ませるための容器のこと。
      ・・・小竹田史身の名は、この『日本書紀』以外には見られないようです・・・が、「史(ふびと)」とされているため、“文書を司る、当時の下級役人だった”と考えられます。そして、個人名(=ファーストネーム)が「身(む)」。・・・また、ここで語られている内容ですが・・・時期外れにもかかわらず、しかも、下級役人の猪槽において・・・「水中に、忽然と稻が生まれ、身が取れ而も收まり、日々富に到る」・・・と、当時の古代日本人にとって観ると、まさしく吉兆を示しており・・・“当時の近江國における水稲稲作で、家畜の糞などを肥料として利用し始めたこと”を伝える説話ではないか? とされています。・・・いずれにしても、“家畜の糞の利用開始や、気温に比べると暖かい水、肥沃な大地、良い種籾などが揃い、新生大和朝廷全体における稻の収穫量(≒税収)が増加していたこと”を示す報告となっています。・・・尚、これに続く文章からすれば、“当時の近江國では、土壌改良や稻の品種改良などが始められていたことをも示唆しているよう”です。
      ・・・「磐城」とは、すなわち“石木のこと”であって・・・“石木そのものが、泥炭(でいたん)や亜炭(あたん)を産出する土地を示している”ため、栗太郡から蒲生郡(がもうのこおり)の辺りではないか? とされております。・・・また、「村主(すぐり)」も、“百濟からの帰化渡来人に多い氏族名”です。・・・そして、この磐城村主の夫の個人名(=ファーストネーム)が、「殷(おお)」とキマシタ!・・・そうです、『日本書紀』の編纂者達が、「司馬遷(しばせん)」によって編纂された『史記(しき)』を読み、“良く知っていた”と考えられる・・・“古代中国王朝の殷(いん)という字を、個人名(=ファーストネーム)に当てている”のです。・・・現実には、当時の殷(いん)の人々は、自らの國のことを商(しょう)と呼び、中国西方の西アジア地域などと通商して深い交流を持ち続け、東アジアで、いち早く青銅器技術などの様々な技術を取り入れ、富や軍事技術、甲骨文字(≒漢字の前身)などの文化を生み出すなど、東アジアの文化面において多大な影響を及ぼす程の古代国家でした。
      ・・・ちなみに、商(しょう)という字から、商人(しょうにん、あきんど)という単語が生まれています。・・・それ程に、富や、軍事力、豊かな文化を欲しいままにしていた古代の殷(いん)王朝も、やがては・・・殷の周囲にあった中国大陸内の部族国家連合から疎まれることとなり・・・次の時代を担うと、それまで目されていた殷と隣接していた周(しゅう)王朝において、伝説的な軍師とされる太公望(たいこうぼう:※後の斉太公のこと)が登場すると、結果として殷王朝が滅んでしまいます。・・・こういった史実を知った上で、『日本書紀』の編纂者達は・・・磐城村主殷の、新しい婦人が齎(もたら)した・・・おそらくは、“白村江の戦いで敗れて、新生大和朝廷が治める近江國に渡来したと考えられる、ご婦人の枕元”では・・・次々に稻が実ることとなり、一対の鑰匙が、天から、自ら落ちてくるような状態(・・・※「鑰」は「かぎ」、「匙」は「さじ」のことなので、“運を開いて幸運をすくい取る”という意。・・・)となって・・・“やがては、磐城村主殷が暮らした近江國栗太郡が、豊かになった”と語っているのです。
      ・・・“この時期の新生大和朝廷が治めた諸国では、政策的且つ実験的な土壌改良や、品種改良が行なわれるようになって、稻の収穫高が飛躍的に伸び、次第に豊かになる者が増え、結果として税の増収に繋がっていった”と考えられます。

      ※ 同年内:“対馬嶋(=対馬島)や、壱岐嶋(=壱岐島)、筑紫國らに於いて”は、「防(さきもり:=防人)」を置きて、「烽(とびひ:※烽火のこと)」を與(あたえ)る。・・・又(また)「筑紫」に於いては、「大堤(おおつつみ)」を築いて、「水」を貯す。名を曰く・・・「水城(みずき)」・・・と。・・・この『日本書紀』では、“前条にて新生大和朝廷の内情や内政面を語った上で、ここで深刻な認識について”を示しております。・・・“私使扱いとし帰国させた郭務ソウらが新生大和朝廷に突き付けた条件の背景には、百濟攻略に当たらせた約40万人をも動員する唐王朝の戦闘継続能力があった”のでしょう。・・・新生大和朝廷にすれば、“唐王朝側の大船団や陸軍部隊を目の当たりとしていた訳でして、現実の脅威として一般的にも認識されていた”と考えられます。
      ・・・当時の中大兄皇子(※後の天智天皇)や、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)らは、“唐王朝側の陸上部隊による筑紫などへの上陸作戦を想定して、烽火(のろし)による伝令システムを整備させ、巨大な土塁を築いて、その前方には堀を設けて侵入を妨げる”という対策を講じていました。・・・その規模は・・・全長1.2kmに亘り、基底部で幅80m、高さ13mを越える人工土塁を築いて、博多湾側に幅60m、深さ4mの堀を造り、水を貯えるとともに、“戦時においては、御笠川を堰き止め貯水する構造であり、基底は暗渠とされ、平時においては、内部の溜水を放出していた”と云います。


      ※ 西暦665年2月25日:「間人大后(はしひとのおおきさき)」が、薨(みまか)る。・・・「間人大后」とは、故孝德天皇の皇后であり、中大兄皇子(※後の天智天皇)の妹に当たります。・・・中大兄皇子(※後の天智天皇)は、故孝德天皇を難波宮に置き去りとし、倭京に遷ってしまった際には、この妹も伴なっていました。・・・孝德天皇の危篤に際しては、中大兄皇子(※後の天智天皇)が、どういう考えで、妹の間人大后を伴なってまで遷り、そして倭京から戻ったのか? そして、当時の人々の目には、どう映っていたのか? そもそもとして、間人大后の死因は? などについては、一切ふれず終いとなっており・・・この『日本書紀』では、何か不自然な感じも致します。・・・
      ※ 同年2月内:“百濟國の官位階級”を校じ勘(かんが:=鑑)み、仍(すなわち)“佐平・(鬼室)福信の功”を以って、「鬼室集斯(きしつしゅうし)」へ、「小錦下(しょうきんげ)」を授ける。【※(注釈)其の本(もと)の位は達率※】復(かえ)りて、“百濟の百姓男女400餘人”が、「近江國神前郡(かむさきのこほり)」に居す。・・・“校じ勘み”とは、百濟國官位階級と新生大和朝廷の冠位26階とを、改めて照らし合わせてみたとの意。・・・鬼室集斯には、“佐平・(鬼室)福信の功があったので、山(せん)位ではなく、錦(きん)位を授けた”とのこと。鬼室福信や鬼室集斯については、別ページに前述しております。・・・近江國神前郡は、彦根や東近江の愛知川流域一帯のこと。

      ※ 同年3月1日:“間人大后の爲として、330人”を、「度(ど)」す。・・・「度」とは、仏教用語。仏門に入り出家受戒するという意。・・・それにしても、“330人とは、大そうな人数”です。・・・全て女性の僧尼だったのでしょうか?・・・いずれにしても、この『日本書紀』の編纂者達が、わざわざ記述した思惑などを考えれば・・・“当時の新生大和朝廷の成り立ちに対して、間人大后が何かしらの影響力を与えていた”という可能性については、無きにしも非ず。・・・結構重要なキー・パーソン?・・・もしかすると・・・“一時期には、この間人大后を女帝とする待望論があったのか”も知れませんね。・・・
      ※ 同年3月内:“(近江國)神前郡の百濟人”へ、「田」を給う。・・・『日本書紀』斉明天皇紀では、“唐の捕虜達を近江國墾田に住まわせ、後に美濃國の不破と片県の二郡に移らせた”としておりますので・・・鬼室集斯ら百濟百姓男女400餘人は、まず同年2月の時点で近江國神前郡に住まわされて、唐人らが既に開墾し始めていた田を・・・“この年の3月内に、新生大和朝廷から給わったよう”ですね。・・・新生大和朝廷が、近江國への入植事業において、唐系渡来帰化人達と百濟系渡来帰化人達との間で争いが生じないように、政治的な配慮していたことが分かります。

      ※ 同年8月内:「達率・答ホン春初(とうほんしゅんしょ:※ホンの字は、火偏+本)」を遣わし、「長門國(ながとのくに)」に於いて、「城」を築く。・・・「達率・憶禮福留(おくらいふくる)」と「達率・四比福夫(しひふくぶ)」を遣わし、「筑紫國」に於いて、“大野(おおの)及び椽(き)の二城”を築く。・・・「耽羅」が、「使い」を遣わして、「来朝」す。・・・またしても、主語がハッキリしませんが・・・ここは、“新生大和朝廷が、旧百濟から引き揚げて来た、旧百濟の軍将や官吏達に対して、日本(やまと)国内で活動する権限を緊急的に与え、直接長門國と筑紫國に赴きさせて、結果三つの朝鮮式古代城を築かせた”と読むべきなのでしょう。・・・或いは、“朝鮮半島から日本列島へ渡海した瞬間から、旧百済の自治権が無くなり、新生大和朝廷の支配下に置かれていた”とという意味なのでしょうか?・・・いずれにしても、“彼ら3人の達率は、後に新生大和朝廷に帰化”しております。
      ・・・この後の『日本書紀』天智天皇紀10年正月の条には・・・「達率・答ホン春初と達率・憶禮福留から、兵法を閑(なら:=習)えり」・・・とありますので、それまでの新生大和朝廷には無かった軍政上の概念を伝える重要な兵法家達だった訳です。・・・「答ホン春初」は、後の『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく:※平安時代初期の西暦815年に、嵯峨〈さが〉天皇の命により編纂された古代氏族名鑑のこと)』には・・・「百濟國朝鮮王淮(おうわい)より出ずる」・・・とあり、「麻田連(あさだむらじ)」という姓(かばね)を賜っています。・・・同様に、「憶禮福留」も、同じく『新撰姓氏録』には・・・「石野連は、百濟國近速王孫憶頼福留より出ずる」・・・とあり、「石野連(いしのむらじ)」という姓を賜ります。・・・ちなみに・・・「近速王」とは、百済第13代王の「近肖古(きんしょうこ)王」のことであり、この『日本書紀』では「肖古王」、『古事記』では「照古王」、『新撰姓氏録』では「速古王」とも表記され・・・『晋書』では、「余句(よく)」とされています。
      ・・・いずれにしても、“憶頼福留こと石野連は、近肖古王の孫だった”と。・・・「四比福夫」も、“同族の一人と考えられる四比忠勇という人物”が、「椎野連(しいのむらじ)」という姓を賜わっております。・・・もしかすると、“椎野連こと四比忠勇は、旧百濟王都の泗ビ(しび:※ビの字は、サンズイ+比)という地名に、この四比という名のルーツを持っている”がのかも知れませんね。・・・尚、この条では、最後にさりげなく・・・「耽羅が来朝した」・・・と、しておりますので・・・長津宮において、中大兄皇子(※後の天智天皇)や中臣鎌足(※後の藤原鎌足)らが、倭国(ヤマト王権)軍撤退以後の朝鮮半島に関して、何らかの情報を得ていたことも分かりますが・・・



       さて、当時の新生大和朝廷には無かったと云うか、それまで必要とされてこなかった朝鮮式古代城についてですが・・・

       「漢字」では、「城」の字は、「土偏+」となります。そもそも、ここの“成”とは、「盛」のことであり・・・「以って民を盛(い)るるなり」・・・とされ、『國人は全て、城邑(じょうおう)の中に居ながら武装し、その城邑を戍(まも)る』という意味が、「國(くに)」という文字に・・・元々込められております。


       ・・・こういった概念が、中国や大陸における古来からの城造りに反映されており・・・このことは、非情な話となりますが・・・大陸における戦争そのものが、古代の大型集落群(≒地方民族國家群)同士の戦いそのものであり、その戦いに敗れてしまうと・・・必然的に敗れた民族(≒部族)は、仮に自らの生存を保障されたとしても、奴隷とされたり、服属や恭順を強いられ、勝者側の政治面や文化面において利用されるという弱肉強食の世だったからに他なりません。
       ・・・したがって、これも必然として・・・それらを阻止したり、妨害するために、城邑に籠もり、守りを固めて、決定的な敗北状況から逃れようとしたのです・・・が、これら古代中国などのように、邑(むら)の周囲に、巨大な壁を築いて邑を囲み、門を通じてのみ出入りするという風習や概念そのものが・・・それまでの古代日本には必要とされてこなかった訳です。つまりは、それまでは、主に民族(≒部族)を、糾合したり統合する目的における日本列島内の争いはありましたが、民族(≒部族)や、文化などを含む國そのものが滅ぼされかねないという大規模な戦争というものに、幸いにも遭遇せず、この飛鳥時代に至っていたのです。・・・古代の日本に、このような恩恵が授けられていたのは、一にも二にも、大陸とは海により物理的且つ情報的な隔たりがあったため・・・強大な歴代古代中国王朝からすれば、遥か彼方にある東夷(とうい)の國と一括りにして、これら東夷の國々とは、むしろ形式上の友好を強めて、陸続きの隣国を攻略する方を優先した結果だった訳です。
       ・・・ちなみに、歴代古代中国王朝が、「東夷」という差別的な表現を改めようと努めるのは、中国最後の統一王朝となる清(しん)の第6代乾隆帝(けんりゅうてい)以後のことです。・・・この理由としては・・・“清王朝自体が、いわゆる中華思想においては北狄(ほくてき)と呼ぶ満州族(まんしゅうぞく)が建てた王朝であり、漢民族主体の明(みん)王朝を倒して建国された元(げん)系(≒モンゴル系)中国王朝だった”という背景にあります。

       再び、朝鮮式古代城の話に戻します。
       「城」という「漢字」を・・・日本では古来から、「しろ」と「訓読み」するほかにも、「き」と「音読み」しています。
       ・・・この「き」とは、「柵(き)」を、その由来としており・・・日本列島内においては、倭国(ヤマト王権)も既に、蝦夷と呼ばれていた人々との勢力圏境界辺りに、この「柵」を築いていた訳です。


       ・・・時を遡ること、神功皇后による新羅征討の際には・・・「新羅に詣(いた)りて、蹈鞴津(たたらのつ)に次(やど)りて、草羅城(さわらのさし)を拔きて還る」・・・と、当時の朝鮮半島にあった城のことを、「さし」と呼んで(=訓読みして)、その形状や機能については、当時の倭国(ヤマト王権)人も認識していましたが、敢えて日本列島内には導入していませんでした。・・・当時の倭国(ヤマト王権)人にとっては、城は矢から身を守り、柵は人の侵入を防ぐという機能のみで、事足りていたのです。・・・倭国(ヤマト王権)に対峙した蝦夷の人々からしても、これも敢えて、森林などの自然環境を焼き尽くす可能性のある火矢などを、人間同士の争いにおいて用いることを極力避けておりましたから。
       ・・・これらのことは、日本列島全体が、縄文から弥生、古墳、そして、この飛鳥時代当たりまで、世界史的に見て比較的平穏無事だったことを示しておりますが・・・やがては、倭国(ヤマト王権)の勢力圏から遠方にあった蝦夷の人々が暮らす地域も、大陸方面から粛慎らの、青銅器や、鉄器、火などを戦いに用いる民族(≒部族)によって、次第に侵攻を繰り返されることとなりました。・・・そんな最中に、白村江の戦いで大敗北を喫し、国家存亡の危機に見舞われることとなっていた新生大和朝廷にすれば、朝鮮半島で経験した光景そのものが、大きな衝撃として受け止められていたのでしょう。・・・唐王朝側の軍勢だけでなく、百濟復興のための味方ゲリラ部隊でさえも、城を根城(ねじろ:=軍事拠点)として中長期戦に臨み、火矢どころか雲梯(うんてい)や衝車(しょうしゃ)などと云った強力な攻城兵器を駆使しながら戦う様を見ていた訳ですから。・・・当然に、草木などの可燃性材料で造られた構造物では、油を含ませた火玉を投げ込まれれば、ひとたまりもありませんし。
       ・・・この時の新生大和朝廷にとっては・・・単に防衛のためだけでなく・・・兵や民が籠もる機能を備える城をどう造るか?・・・雲梯や衝車と云った強力な攻城兵器を有する唐王朝側の攻撃に耐え得る強度や高さなどの構造を持ち、且つ火攻めにあっても難燃材料により耐え得ることが出来て、人のみならず食糧や飲料水などを守る方法・・・などを、“可及的速やかに、しかも幅広く学ぶことが必須となっていた”のでした。
       ・・・こういった背景があって、当時の中大兄皇子(※後の天智天皇)や中臣鎌足(※後の藤原鎌足)らは現状の柵のみでは不充分であると判断し・・・石で基礎部分を締め固め、敵が乗り越え難い分厚い土塁や深い堀、水城などを築造するとともに、かつての(鬼室)福信らがゲリラ戦などで実践したように、大軍の動きを牽制することが可能となる三つの山城(※長門國、筑紫國大野、筑紫國椽)を築かせた訳です。

       ・・・長門國における城の所在地については、肝心な遺構が発見されていないため、詳細は定かではありませんが・・・いずれにしても、“下関海峡を臨める箇所にあった”と考えられており、“現在の山口県下関市豊浦町にある茶臼山辺り”との説の他にも・・・唐櫃山(かろうとやま)説や・・・火の山説・・・霊鷲山(りょうじゅやま)説・・・などがありますが・・・いずれにしても、“これらの山々を背景にして、下関海峡付近における船団の航行を阻止する構えになっていただろう”と考えられています。・・・筑紫國の大野城については、水城の東北にある四王寺山の山頂部及び尾根伝いに、周囲5kmの土塁と石垣を築き、城門や兵舎、倉庫などと視られる礎石や敷石が遺っております。・・・筑紫國の椽城については、水城の南にある基山(きざん)に築かれ、東西700m、南北1kmに亘る土塁や、石垣の跡が遺されています。



      ※ 同西暦665年9月23日:「唐國」が、“朝散大夫沂州司馬上柱國・劉德高ら”を遣わす。【※(注釈)「ら」と謂うは、右戎衞郎將上柱國の百濟・禰軍、朝散大夫柱國・郭務ソウ、凡そ二百五十四人。七月廿八日に、對馬(=対馬)に至りて、九月廿日に、筑紫に至り、廿二日に、表函を進めると。※】・・・西暦664年5月17日の条では、“主語が、百濟鎭將・劉仁願でした”が・・・今回は、「唐國」を主語として・・・この『日本書紀』は、“この使節が唐國の正使だった”としている訳です。・・・「沂州」とは、現在の中華人民共和国山東省臨沂県エン州のこと。・・・「司馬」とは、武官の長のこと。・・・「上柱國」とは、「勲官(※将官や兵士の戦功に対する勲功のこと)として、正二品に比す」とあるため、当時の官吏としては最上位となります。・・・【※(注釈)※】内の“右戎衞郎将上柱國の百濟・禰軍”とは、前述の『海外國記』の中にある百濟の佐平・禰軍のこと。・・・2011年に、中華人民共和国の西安において、彼の墓誌が発見されています。
      ・・・それによると、“彼の家系は、古代中国から百濟に帰化した漢人系であり、彼の曽祖父の時代から百濟の佐平という官職を歴任していた”とのこと。・・・しかし、百濟の役において、この禰軍は、弟の寔進とともに、唐王朝に帰順しました。・・・当時の百濟からすれば、この時点で既に、唐王朝による「埋伏の計」に掛かっているようにも想えますが・・・いずれにしても、『海外國記』にもある通り、新生大和朝廷との外交交渉の最前線において一翼を任されていた人物ですので・・・この禰軍や弟の寔進らが、豊璋王と(鬼室)福信を反目させ、他の百濟旧臣達を唐王朝側に引き込むような謀略に関わっていたという可能性はあります・・・が、この唐國正使として来朝した際には、新生大和朝廷に対して、唐の庇護下にあった義慈王長子の(扶余)隆が継承すべきと主張し、その現実を認めさせて、“唐王朝に敵対することなく、従う姿勢で以って幕引きを図った方が賢明である”と勧告していたのでしょう。・・・尚、“軍将としては、そこは抜かり無く、日本列島内の地勢情報や、海路情報を調査するという役割をも担っていた”と考えられます。
      ・・・ちなみに、この新生大和朝廷との外交交渉の最前線における形跡が、禰軍の墓誌に遺されておりました。・・・そこには、“新生大和朝廷のことを、倭国(ヤマト王権)とはせずに、日本(やまと)としていた”のです。・・・“このことは、この外交交渉の際に、新生大和朝廷が自らを日本(やまと)と称し始めていたこと”を示唆しております。

      ・・・それにしても、劉德高や禰軍、そして再来日した郭務ソウらの目には、新生大和朝廷若しくは日本(やまと)はどう映っていたのでしょうか?・・・おそらくは、当時の筑紫に居ながらにして日本列島内に暮らしていた漢人などの協力を得て、その人脈を駆使し、各地の様々な情報が集められていたことでしょう。・・・これもまた、おそらくは・・・意外に感じられるかも知れませんが・・・収集された情報についてを、いくら分析しても、当然に自国や大陸にある各都市と比べて視ても、賑わいは無く、かなりの辺境の地(≒ド田舎)と映ったことは間違いなかったのでしょうが、これらとともに・・・倭国(ヤマト王権)軍が朝鮮半島において、思うように行動出来なかったことと同様に、彼ら唐王朝軍にとって視ても、容易には理解出来ない地勢だったと考えられます。まるで、古来から中国の人々が懐いていた、仙人達が暮らす世界のように感じていたかも知れません。
      ・・・皆様ご存じのように、日本列島には・・・四季があって、各地の気候風土も様々、且つその国土も急峻な山々に阻まれ、各地の連絡網についても、人により踏み締められた道幅の狭い古街道や、複雑極まりない河川、その水の路と海路、そして各地に散在する様々な施設や拠点群・・・要するに、日本列島全体が天然の要害となっており、もし用意周到に軍備を整え大船団で渡海しても、かなりの長期戦を覚悟しなければ、戦果が望めないような・・・しかも、唐王朝軍が、それまでに経験し、戦術面で培っていた攻城戦などが、あまり役に立たない、更には何十頭もの牛や馬による戦車(≒チャリオット)や、騎馬隊を扱かう一撃離脱戦法などをする場所そのものが少ないと云った地勢だったため、唐王朝軍にすれば戦術上におけるマイナス情報ばかり多かったのではないでしょうか?・・・まさに、日本列島が、不沈船と映ったのかも知れません。
      ・・・きっと、禰軍らによる帰国報告では、日本(やまと)と自らを呼称し始めた倭国(ヤマト王権)の様相が・・・大陸とは状況がかなり異なり、河川については、黄河や長江とはまるで違っていて、狭く浅く、しかも急流で、都など中心地へ向かうとしても、日本海側や瀬戸内海など複数のルートを経由しなければならず、大陸の中原(ちゅうげん)のような平野地帯が、そもそもとして少なく、くねくねとした山々の間に各地の盆地があるという地勢の連続であって・・・到底、唐王朝軍が得意とする大軍によった戦法が活かせず、戦いの長期化を覚悟せねばならないと、報告されたのではないか? と考えられます。

      ・・・尚、『伊吉連博德書』の著者である“伊吉博德(※博得とも)の言”として・・・“西暦653年5月の遣唐使(≒朝貢団)とともに唐へと渡り、長年遊学していた、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)の長男である定恵(じょうえ)について”を・・・「定恵は、乙丑の年(※西暦665年〈天智天皇4年〉のこと)を以って、劉德高らの船に付きて帰る」・・・と、遺されております。・・・この西暦665年9月23日に、劉德高は定恵を連れて、戦後処理使節として、新生大和朝廷に来訪していたのです。
      ・・・そして、新生大和朝廷に、前回は私使として扱われた郭務ソウらの御一行は、“総勢百人余り”とされているのに対して、今回の正式な使節団(※郭務ソウも含む)は、“凡そ二百五十四人”ということであり、それなりの外交圧力とはなったのでしょうが、むしろ凡そと記述されている事が、より重要でして・・・つまりは、唐へ留学させていた定恵を、この254人という具体的な唐王朝側の人数に含めるのか否か? という問題点が浮上し、この『日本書紀』の編纂時点においても、編纂者達の判断や編纂方針というものが、統一出来ていなかったことをも示唆している訳です。・・・単純に「二百五十余」と記述出来れば、編纂者達の苦労は無かったとも云えるのですが。・・・いずれにしても、“劉德高らが、この定恵を連れて来たという事実のほうが、当時の新生大和朝廷に対して、かなりの影響を与えたことは確実”であり・・・唐王朝が、“今回については、何だかんだ云い逃れることは許さない!!!”という、強いメッセージを込めていたと考えられます。
      ・・・ここにある【※(注釈)※】によれば、“同年7月28日には定恵を仲介役或いは人質として立て、對馬(=対馬)において、新生大和朝廷に対して、今回の来意を伝えた”のでしょう。・・・そして、おそらく・・・“このことは、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)へと伝えられ、戦後処理における交渉開始に、相当な効果を発揮していた”と考えられます。・・・また、劉德高らは、同年9月20日には筑紫に入り、同月22日に表函を届け・・・おそらく・・・“翌日の24日当たりには、新生大和朝廷との第一回目会談をした”と考えられますが、この『日本書紀』では、誰がどのように応対したのか? についてはふれていません。・・・“この日程からすれば、中大兄皇子(※後の天智天皇)や中臣鎌足(※後の藤原鎌足)が、筑紫に居たということになる”のですが・・・。

      ※ 同西暦665年10月11日:「菟道(うじ)」において、大きく「閲(けみ)」す。・・・ここについても、主語がハッキリしておりませんが、“新生大和朝廷、或いは日本(やまと)と読んで良いか”と想います。・・・「菟道」とは、現在の京都府宇治市付近のこと。つまりは宇治のこと。文字通り、菟(うさぎ)が飛び出すような道だったかと。・・・“閲す”とは、今で云う閲兵式典や閲兵パレードのこと。・・・今回の正式な使節団に対する新生大和朝廷の外交手段として、また武力的な示威効果を狙うための閲兵式典だった”とは考えられますが・・・そうなると、必然的に・・・劉德高らの正式な使節団が、宇治辺りまで来ていることになり・・・この行事を主催した人物についても、諸説ありますが・・・私(筆者)は、“中臣鎌足(※後の藤原鎌足)が、筑紫の長津宮を発ち、劉德高らを案内する格好で、菟道での閲兵式典を主導していた”と、勝手に想像しております。

      ※ 同年11月13日:“劉德高ら”に、「饗」を賜う。

      ※ 同年12月14日:“劉德高ら”に、「物」を賜う。
      ※ 同年12月内:“劉德高ら”が、罷り歸(=帰)る。
・・・ここまで、『日本書紀』では、続けざまに、主語や会談内容などについてを、ハッキリさせておりませんが、これらの日程間隔をみると・・・“同年10月11日前後から12月14日前後に掛けては、劉德高らと新生大和朝廷の政権中枢にあった複数の人物との間で、濃密な会談と云うか、外交的な打ち合わせが行なわれていた”のは、間違いないことかと。

      ※ 同西暦665年内:是歳に、“小錦・守君大石ら”を、「大唐」へ遣わす、云々。【※(注釈)「ら」と謂うは、小山・坂合部連石積(さかいべのむらじいわつみ)や、大乙・吉士岐彌(きしのきみ)、吉士針間(きしのはりま)。蓋(がい)して、唐使人を送るか。※】・・・これまでの流れからすれば・・・同年11月13日には、筑紫の長津宮や難波宮ではなく、“後飛鳥岡本宮において饗が行なわれたということになる”のでしょうか?・・・また・・・そこには、称制中ではあっても、中大兄皇子(※後の天智天皇)が同席していなければ、この『日本書紀』に記述する必要すら無い筈です。・・・それに・・・“同年10月11日の条にある菟道(=宇治)という場所も気になる”のです。
      ・・・「宇治」と呼ばれる京都南郊地域には・・・現在、世界遺産として登録されている平等院があります。(・・・※現在の10円硬貨にもある平等院鳳凰堂としても有名・・・)この『日本書紀』で語られている飛鳥時代よりは、暫く後世のこととなりますが・・・これもまた有名な『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台とされ・・・平安時代初期からは、そこは貴族達の別荘が営まれる程に風光明媚な処であるとともに、この平等院は・・・西暦998年(長徳4年)に、時の摂政とされる藤原道長(ふじわらのみちなが)の別荘として建てられた建物(※宇治殿と云います)を、西暦1052年(永承7年)に関白・藤原頼通(ふじわらのよりみち)が仏教寺院に改築したものと云われ・・・藤原氏とは、特に所縁の深い寺院なのですが・・・



      上記のような菟道(=宇治)という土地柄において、“この飛鳥時代の戦後処理使節だった劉德高らに、わざわざ閲兵式典を観せた”となると・・・自然と、それを主導していた人物の名として、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)が浮上して来るのです。・・・また、“饗が行なわれたのが、後飛鳥岡本宮だった”とすると・・・“そこに到る道筋として、同年10月11日当たりから11月13日までの、約1カ月間を費やした”という期間を考えてみても・・・単純に、瀬戸内海の海路を通って、菟道(=宇治)や後飛鳥岡本宮に到った訳ではなく・・・“大和川を溯りダイレクトに後飛鳥岡本宮へ到るルートを、わざわざ避けて、淀川を溯ってから菟道(=宇治)に到り、閲兵式典を観せてから、木津川に入り後飛鳥岡本宮へ到るというルートで案内していた”と考えられるのです。・・・
      ・・・すると、黄河や長江を見慣れた唐王朝の軍将達や、錦江を見慣れた禰軍達にしてみれば、唐王朝ご自慢の大型船は、淀川や木津川では、すぐさま航行不能となり、結果的に小型船を調達しなければならず、更には、あちこちの河川が曲がりくねっていて・・・“仮に、木津辺りから飛鳥に向かう山越えルートを歩かされたとしても、都に到る道としては、とんでもなく難所に思えて仕方なかった”と考えられます。・・・
      ・・・“このように考えると、中大兄皇子(※後の天智天皇)や中臣鎌足(※後の藤原鎌足)などの新生大和朝廷側が、唐王朝側の軍将らを含む戦後処理使節団に対して、飛鳥侵攻や日本(やまと)侵攻は非常に困難なことだと想わせ、結果として彼らを翻弄していたこと”になります。・・・
       ・・・ちなみに、同年12月中に劉德高らが帰国した理由としては・・・“後の西暦666年正月に行なわれる唐王朝皇帝の高宗の封禅の儀(※皇帝が天と地に対して、その即位を知らせて天下泰平であることを感謝する儀式のこと)に間に合わせるためだった”ともされているのです・・・が、仮に、この『日本書紀』の記述通りに、“同年12月14日直後に日本列島を発った”としても、この「封禅の儀」には、きっと間に合いません。・・・そして、これもまた仮の話となりますが、“筑紫の長津宮で饗が行なわれた”としても、この行事に果たして間に合うのか? 疑問が残ります。・・・これらについても、“あの手この手と、あらゆる手段を講じる新生大和朝廷側が、劉德高らの一行を出来得る限り引き留めていたよう”にも感じますが・・・正直なところ、同年9月23日から12月に掛けての日程などに関しては、どう理解すべきかハッキリしない感じです。・・・

      ・・・そこで、この頃の状況についてを、海外史料で調べてみると・・・『三國史記新羅本紀』によれば
・・・西暦664年2月に、新羅・文武王が、角干・金仁問及び伊サン・天存に、唐の勅使・劉仁願や百濟・扶餘隆との間で以って、熊津における(三カ国)同盟を内諾させ・・・その後の翌西暦665年8月には、(新羅)王が、(唐の)勅使・劉仁願と(百濟の)熊津都督・扶餘隆との間で、熊津・就利山で、改めて会盟したと云います。その際の盟約内容は・・・「扶餘隆を(百濟の)熊津都督とし、其の祭祀を守らせ、其の桑梓(そうし:=故郷)を保ち、新羅に依倚し(いい:=頼りと)、長く与える國として、各(おの)の宿憾(=怨)を除いて、好く和親を結び、各(おの)の詔命を承りて、永く藩服なさしむ」・・・とのこと。・・・つまりは、新羅が、唐の藩屏となって、扶餘隆は唐王朝による熊津都督として、新羅を頼り、百濟の旧領地領民を治めることとしたのです。・・・『三國史記百濟本紀』によれば・・・西暦665年に扶餘隆(・・・※前年に熊津都督に任ぜられる・・・)が・・・
      ・・・「新羅王と熊津城で会い、白馬を刑(=犠牲と)して以って盟す。(劉)仁軌は盟辭をつくり、金書鉄契して新羅の廟中に藏す。盟辭は新羅紀の中に見(あらは)る。(劉)仁願らが還ると、(扶余)隆は衆が携(たずさ)えて散(=離散)るを畏れて、亦京師に歸る」・・・とあります。・・・『旧唐書』列伝「劉仁軌」には・・・「泰山に封ず、(劉)仁軌は新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長を領して赴き會す。高宗は甚だ悅び、大司憲に擢拜(=抜擢)す」・・・とあり、“劉仁軌は、同年8月の会盟を終えると、百濟を出発していた”のでした。・・・
      ・・・上記の『三國史記』や『旧唐書』などの海外史料によると・・・唐王朝皇帝の高宗は、西暦664年7月に、“西暦666年正月を期して、泰山において封禅の儀を挙げる旨を天下に告げ、諸王には西暦665年10月に洛陽へ、諸州刺史には同年12月に泰山へ、それぞれ集まること”を命じています。・・・また、同西暦665年の『冊府元亀(さっぷげんき:※中国北宋時代に成立した類書の一つ。類書とは、百科事典のようなもの)』外臣部によれば・・・“その年の8月以降、百濟に居た劉仁軌も、新羅や百濟、耽羅、倭人ら四國の使いを領して、西還し、泰山に赴いた”とされます。・・・そして、同書の帝王部によると・・・“同年10月に洛陽を発った高宗に従っていた諸蕃酋長の中に、東西アジア諸国と並べて倭国を挙げている”とされます。・・・これらは、要するに・・・“同年7月28日の時点において、對馬(=対馬)に着いた劉德高らの一行が、会盟内容について知らされていることとなり、百濟は唐王朝の支配下に入り、扶餘隆が熊津都督に就任し、新羅が唐王朝の藩屏となることに決まっていた”のです。
      ・・・おそらくは、この時の唐王朝は、倭国(ヤマト王権)≒新生大和朝廷に対して・・・“旧百濟における既得権益全ての放棄と、高句麗への支援停止、新羅からの撤兵、唐王朝への朝貢、これらに対する倭国(ヤマト王権)≒新生大和朝廷の方針を明らかにするための証として、皇帝の高宗による封禅の儀に参列すべし”・・・などと、要求し・・・“もしも、これらに背くことになれば、唐王朝に対する敵対行為と見做し、倭国(ヤマト王権)≒新生大和朝廷へ侵攻することも止むを得ないと、外交的且つ軍事的な圧力を掛けていた”と考えられるのです。
      ・・・一方の新生大和朝廷では、“白村江の戦いの大敗北の結末を観た親唐派や親新羅派の勢力が、その勢いを盛り返し、定恵など唐へ留学経験のあった僧や学生達が、遣唐使(≒朝貢団)などの必要性についてを力説していた”と想像出来るのです。・・・“是歳に、小錦・守君大石らを大唐に遣す、云々。”とは、すなわち・・・“唐王朝と新生大和朝廷の間において、或る種の合意が成立したこと”を意味し・・・【※(注釈)※】において・・・「蓋(がい)して唐使人を送るか」・・・とあるのは、“送るという一種の口実を使って、封禅の儀に参列させたと云うニュアンスを含んでいる”と考えられるのです。・・・しかし、“守君大石らが、この西暦665年12月14日以後に帰唐したとされる劉德高らのための、事実上の送使だった”としても、高宗による封禅の儀に間に合うとは考えられません。
      ・・・それでも、“守君大石の冠位としては、送使に似つかわしくない程の小錦と云う高位を与えていることや、そもそも劉德高が封禅の儀が行なわれる泰山近郊の沂州の官人だったことなど”を鑑みれば・・・“劉德高らの来日目的と守君大石らの遣唐目的の中には、唐王朝皇帝の高宗による封禅の儀という、事実上の回答期限が設定されていて、これと同時に、新生大和朝廷内における意見調整が、なかなか定まらなかったこと”を物語っているのです。・・・『冊府元亀』外臣部にある「倭人」と云う表記についても、“封禅の儀に遅れて参加した守君大石らの一行についてを、併記したもの”とみることが出来るとされます。・・・ちなみに、この「守君大石」は、この『日本書紀』斉明天皇紀でも語られていますが・・・“かつての有間皇子の事件に連座し、上毛野國への流刑とされていた人物”です。・・・「坂合部連石積」は、西暦653年(白雉4年)の(第2次)遣唐使(≒朝貢団)に学生として加わっていた坂合部連磐積のことです。・・・“吉士岐彌と吉士針間の二人について”は、今に云うところの“船長や航海士だった”と考えられます。
      ・・・繰り返しとなりますが・・・『旧唐書』列伝・劉仁軌では、西暦665年の条に・・・「泰山に封ず、(劉)仁軌は新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長を領て赴き會す。高宗は甚だ悅び、大司憲に擢拜(抜擢)す」・・・と、されており・・・“劉仁軌が連れて行った倭人の酋長”とは、朝鮮半島において唐王朝の捕虜となり帰順していた倭国(ヤマト王権)軍将、或いは現地の有力者達4人となるのでしょうか?・・・“その人物達を、敢えて酋長とし参列させて、皇帝の高宗を甚だ悦ばせた”とは、いったいどういうことだったのか?・・・さては、西暦664年5月17日の時点において、つまりは・・・“百濟鎭將・劉仁願が、朝散大夫・郭務ソウらを、新生大和朝廷に遣わし、表函と献物を進めた”と云う時点において・・・そもそもとして、“新生大和朝廷の誰かによって、それ相応の人物を、秘かに朝鮮半島に遣わしていた”という可能性も考えられるのですが。・・・いずれにしても・・・“そんな折に、遅れ馳せながらも、正式な使いとして守君大石らが、遣唐して来た”となれば、現地の百濟鎭將だった劉仁願としては、大いに慌てさせられたことでしょう。
      ・・・このように、新生大和朝廷と、一方で相対する唐王朝という国家間において、“この西暦665年に遣わされたという小錦・守君大石らの一行のこと”を、『日本書紀』では「送唐客使」として扱っておりますが、実質的な第5次遣唐使(≒朝貢団)と、理解しても構わないかとも想います。

      尚、唐王朝の戦後処理使節団が連れられて帰国したキーパーソンの一人と考えられる僧・定恵についてですが・・・“実父である中臣鎌足(※後の藤原鎌足)の生前中に、幸いにも朝鮮半島の旧百濟を経て帰国出来たこと”となり・・・この『日本書紀』では、“帰国後間もなくの同年12月に没した”とされております・・・が、『元亨釈書(げんこうしゃくしょ:※鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史)』によれば、“定恵の没年についてを、西暦714年(和銅7年)としている”のです。“この後50年近くも、生きていた”という計算になります。・・・いずれにしても、この定恵は、帰国した後に、現在の奈良県高市郡明日香村小原の大原で亡くなり・・・“この際には、高句麗からの亡命僧だった道賢(どうけん:※同顕とも)が、誄(しのびごと、るい)を創った”とされております。・・・それにしても、何故この定恵だけが、帰国のために約12年間も費やし、しかも白村江の戦いでの勝敗が明らかになった直後に、唐使の劉德高らとともに帰って来ることが出来たのか? については、そもそも謎とされているのです。

      ここからは私筆(者)の、あくまでも私見となりますが・・・これらの謎には・・・
      僧・定恵が倭国(ヤマト王権)側有力者の人質として唐王朝側へ預けられたという当初から課せられていた役割や、現地在外高官としての役割。そして、新生大和朝廷側における急成長氏族としての藤原家の存在。そもそもとしては、“定恵が帰国したとされる大和朝廷内における実弟・藤原不比等(ふじわらのふひと)の存在感や立場などが、深く関係している”と考えられますし・・・“西暦665年9月の帰国以後、同年12月を過ぎても、この定恵が生きていたことを示す形跡や伝承が日本各地に遺っていることなど”を鑑みると・・・“この時に帰国した定恵は、政治の表舞台からは意図的に離れて暮らすこととし、『元亨釈書』が云うように、西暦714年頃までは生存していても、全く矛盾しない”のではないか?・・・と考えております。・・・いくら「正史」とは云え・・・現実に生きている人の形跡を後世で完全に抹消することと・・・本当に亡くなっている人の足跡を歴史的に操作する場合とを比べれば・・・前者のほうが、はるかに難しいと云えるからです。




      ※ 西暦666年正月11日:「高(句)麗」が、“前部(ぜんぶ)・能婁(のうる)ら”を遣わして、「調」を進める。・・・是の日、「耽羅」が、“王子・姑如(こにょ)ら”を遣わして、「貢」を献ずる。・・・この時の高(句)麗としては、“新生大和朝廷の今後の方針を見極めたかったでしょうし、耽羅としても、同様だった”のでしょう。・・・もしかすると、ここにある耽羅については・・・“王子を、わざわざ派遣して来ていること”からすると・・・“唐王朝に対する新生大和朝廷と耽羅の行く末についての協議が行なわれていた”のかも知れません。・・・「前部」とは、当時の高句麗に居た5部族(・・・※高句麗五部(こうくりごぶ)と呼ばれます・・・)の一つです。・・・この「高句麗五部」とは・・・『新唐書』東夷伝高麗伝によれば、「内部(=桂婁部、黄部とも)」、「東部(=順奴部、左部とも)」、「西部(=消奴部とも)」、「南部(=灌奴部、前部とも)」、「北部(=絶奴部、後部とも)」の“五部族”としています。
      ・・・これらを、ジックリ見て頂けると分かるように・・・内部を中心に置いて、古来より、大陸で最も高貴な色とされる黄色を、「内部」に当てて・・・正面に当たる南方面に向くと・・・まず、左側の東方向が「東部」となり・・・前方の南方向が「南部」・・・右側の西方向が「西部」・・・後方の北方向が「北部」・・・となる訳です。・・・“こういった命名方法自体に、古代の高(句)麗人の或る種の思想が込められておりますし、当時の唐王朝と比べても、決して引けを取っていなかったよう”にも感じます・・・が、この後のこととして・・・“高句麗という国家そのものが、唐王朝に滅ぼされる”こととなり・・・“多くの高(句)麗人達が、渡来人として、古代日本へ辿り着くことになった”のです。・・・そして、“彼らは、大和朝廷の部民制における部(べ)と同様に、高句麗で使用していた部族名を、氏名(うじな)として暫くの間使用していたよう”です。・・・“大和朝廷における部”では、「上部(かみべ)」、「下部(しもべ)」、「前部(ぜんぶ)」、「後部(こうぶ)」、「東部(とうぶ)」と区分され、“音訓両方の読み”が見られます。
      ・・・また、この前部・能婁の子孫である、「前部高文信(ぜんぶのこうのぶんしん?)」も、洩れなく後の大和朝廷に帰化して、「福当連(とんたのむらじ、ふくとうのむらじ)」を賜ります。『新撰姓氏録』によれば・・・「福当連は、高麗國人の前部能婁より出づる」・・・と。

      ※ 同年3月内:「皇太子」が、“親しき佐伯子麻呂連(さえきのこまろのむらじ)の家に往き(=行き)て、(佐伯子麻呂連が)其の所患(そのやまい:※皇太子の精神的な苦痛のこと)”を問う・・・と、“(皇太子は)元(はじめ)より従(つか)えし功”を、慨(なげ)きに歎(なげ)く。・・・まず、ここにある「皇太子」とは、大海人皇子(※後の天武天皇)のことではなく、“兄の中大兄皇子(※後の天智天皇)を示す”と考えられ・・・「(皇太子が)慨きに歎く」という状態にさせた“其の所患について”を、“元より従えし功”としています。・・・これは明らかに・・・“(皇太子の)母親の故斉明天皇などの政策決定に誤りがあって、このような事態に至ってしまった”とか・・・“この時の政策決定に対して、自分(=皇太子)が強く関与出来ずに、このような事態に至ってしまった”などという・・・“あくまでも、(皇太子が)自己反省し後悔している様子を表現をしていた”と、この『日本書紀』は記述しているのです。
      ・・・ちなみに、(皇太子から本心を吐露されたと云う)「佐伯子麻呂連」とは・・・“蘇我倉山田石川麻呂が、その生前中に中大兄皇子(※後の天智天皇)へ推挙した武人であり、宮廷の警備等を担当した佐伯部の出身”とされ・・・“かつての蘇我入鹿や、古人大兄皇子の暗殺事件にも関与した人物とされております”ので・・・そういった人物の前で、今更ながらに、「慨きに歎く」ということは?・・・!!!・・・いずれにしても、この『日本書紀』の記述内容だけを、“鵜呑み”にして良いのでしょうか?・・・あまりにも、サスペンス劇場的なのです。
      ・・・もしも、この『日本書紀』の編纂者達の手元に、“ここにある条について、基となる史料があった”とすれば、それは・・“・後世に伝わった、公卿ら祖先達の日記の類いだった筈”であり・・・その内容は、あくまでも当時の噂だったり、まことしやかに囁(ささや)かれていた話であることが多い筈なのです。・・・『日本書紀』の編纂者達は、まるで当時の中大兄皇子(※後の天智天皇)の日記を見ているか? のような記述にしていますね。・・・しかも、この『日本書紀』には、“佐伯子麻呂連が亡くなった没年や、その時の様子などについて”が、一切記述されておりません。・・・これでは、“この頃の皇太子の状況を知らしめるだけのために、この条を挿入した”と考えられても、仕方ないことだと想うのですが。・・・ちなみに、ここにある「佐伯子麻呂連」は、現実としては・・・彼が亡くなった後に、「大錦上」を贈位されております。・・・それが分かるのは、『続日本紀』天平宝字元年12月9日の条があるからです。
      ・・・いずれにしても、“佐伯子麻呂連は、この西暦666年3月以降に没した”と考えられてはおります・・・が、『日本書紀』の編纂者達にとっては、佐伯子麻呂連が都合良く亡くなっているのです。・・・そもそもとして、本当に実在した人物だったのか? かなり疑わしいと云わざるを得ません。・・・「皇太子が、親しき佐伯子麻呂連の家に往きて、~」とまで、記述するのでしたら・・・せめて、【※(注釈)※】ぐらいは、挿入しても良いのでは? とも思いますが・・・後の天武天皇や持統天皇が編纂させた『日本書紀』でしたから、そうもいかない事情があったのでしょうね。・・・私(筆者)としては、別ページでもふれておりますが、『常陸風土記』においても、数多く「佐伯」が登場しており、この『日本書紀』との、一種の共通性が見られると感じております。・・・まるで、“困ってしまった時の佐伯様! としている”か? のようです。・・・どちらも、後の藤原氏による影響が強く反映された書物ですので。

      ※ 同年6月4日:「高(句)麗」の“前部・能婁ら”が、罷り歸(=帰)る。・・・同年正月11日に、来日した前部・能婁らは、約半年間程滞在していた訳です・・・が、この期間は如何なる活動をしていたのでしょうか?・・・意味深な感じですね。

      ※ 同年7月内:「大水」あり。是の秋に、「租調」を、復す。・・・「大水」とは、大水害のこと。そして、「是の秋に租調を復した」と。・・・この文章が意味するところは・・・つまりは、“(当時の新生大和朝廷が)取り立てたり収納していた租税を、(地方豪族達などに対して)返還する程の大水害があった”と。・・・数年間に亘る租調の軽減や免除ならともかく、一旦徴収していた租調を復すということは、余程のことだったと推察出来ますが、いったい大和朝廷内の、どの地方や地域を指し示しているのか? この条の記述だけでは、判断出来ませんが・・・“とにかく、ひどい災害だった”としているのです。・・・ちなみに、租調についての行政的な記述があるので、いつもの凶兆表現と読まなくても良いのかも知れません・・・が、次の条と関連させているような気もしますし・・・。

      ※ 同年10月26日:「高(句)麗」が、“臣の乙相奄ス(おつそうあんす)ら”を遣わして、「調」を進める。【※(注釈)大使が臣の乙相奄ス、副使が達相遁(だちそうどん)、二位の玄武若光(げんむにゃくこう)ら※】是の冬に、“京都(みやこ)の鼠”が、「近江」に向かい移る。“百濟男女2000餘人”を以って、「東國」に居せしむ。凡(およ)そ緇(くろ:※黒衣や僧のこと)と素(す:※白衣や俗人のこと)とを擇(えら)ばずして、癸亥の年(※西暦663年のこと)より起こりて三歳(=三年)に至るまで、“並の官食”を、賜(たま)えり。・・・倭漢沙門・智由が、「指南車」を献(たてま)つる。・・・高句麗が使者を派遣して来た目的は、同年6月に唐王朝が第3次高句麗出兵を開始したのを、大和朝廷へ急を報ずるためだったのではないか? とされております。
      ・・・『日本書紀』では・・・西暦664年10月には、高麗大臣・蓋金(がいこん)が、息子達による不和を懸念しつつ亡くなり・・・翌西暦667年10月には、長子・男生が城を出たところで、弟二人に帰城を拒まれ、結果として唐王朝へ逃げ込んだとしており、これら高句麗の内紛を契機に、唐王朝が男生を支援する格好で、高句麗滅亡を図ったされています。・・・『旧唐書』では、これらが起こった年を、西暦666年としています・・・が、『三國史記高句麗本紀』では、唐王朝が高句麗出兵の軍を発したのを西暦666年6月のこと、そして唐王朝が男生を・・・「特進・遼東大都督兼平壤道安撫大使を授け、玄菟郡公に封ず」・・・として、叙任したのを、西暦666年9月のこととしております。
      ・・・これらのように、各史料によって、多少の時期的なズレが視られるものの、『日本書紀』としては・・・「京都の鼠が、近江に向かいて移る。(=東方向へ移る)」・・・という、予兆的且つ暗示的な文章を挿入した上で、百濟男女2千人余りを、東國(※当時の大和朝廷支配圏内東方の近江國という意)へと移したことに関連させ、後に起こる高句麗滅亡時に生じる多くの亡命者を念頭に置いていたため、【※(注釈)※】において、高句麗人三人の身分と名を言及したのかも知れません。・・・乙相奄スと達相遁の二人については、不明となりますが・・・玄武若光については・・・「従五位下高麗若光が王姓を賜わる」・・・という記述が『続日本紀』の西暦703年(大宝3年)4月4日の条に視られ、これにより外国出身王族の子孫を意味する姓(かばね)の王(こにきし)を、賜与されていることが分かるため、旧高句麗王族の一人に考えられる・・・ものの、その出自については不詳とされています。
      ・・・したがって、この『日本書紀』の玄武若光と『続日本紀』の高麗若光とが、同一人物ならば・・・“旧高句麗王族の一人として、王姓を認められたことになる”のですが、傍証が無いため確認は出来ません。・・・ちなみに、「高麗(こま)氏系図」では、“若光を武蔵國高麗氏の始祖としているが確かではない”とされています。
      ・・・また、これに関連する「武蔵國高麗」という地名については・・・『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』という平安時代中期の辞書中において、“武蔵國高麗郡は、高麗郷と上総郷と云う、二つの郷から成り、其々が高句麗及び上総國(かずさのくに)からの移住者らによって開拓かれた土地”とされ・・・前者の高麗郷については・・・“高句麗の使者として、西暦666年10月26日に来日したとされる若光が、祖国の高句麗が、西暦668年に滅ぼされてしまったため帰国出来なくなり、相模國大磯に一旦住み、その後武蔵國に移り住んで、高麗郷と呼ばれるようになった”という話が、ほぼ定説化しています。現在の神奈川県大磯町高麗2丁目には、「高来神社(たかくじんじゃ:※高麗神社とも)」が御座いますし、『続日本紀』西暦716年5月16日の条では、“大和朝廷が、東海道の計7カ國から1,799人の高句麗人を、武蔵國に集団移住させて、高麗郡を設置した”としていることから視ても・・・“その一員の中に、高麗若光が含まれていて、武蔵國高麗郡へ移住していた”としても、何ら不思議では無いとされているのです。
      ・・・この条の話に戻しますと・・・『日本書紀』における玄武若光は、「二位」と記述されております。・・・旧高句麗の伝統からすれば、乙相と達相を、それぞれ大使と副使と読むために、結果としては「二位」を、“大使と副使の両方を兼ねた位(くらい)と解釈する”のですが・・・この『日本書紀』では、「奄ス」のことを、代表の大使として、【※(注釈)※】に記述しています。・・・そのため、“その両位を兼ねていた”という玄武若光のことを、一番最後に記述していることが、どうにも腑に落ちないのです。・・・もしかすると、この玄武若光は、西暦666年10月26日の時点において、高句麗側が緊急避難的に、大和朝廷へ送り届けられた幼少の王子、若しくは高句麗と大和朝廷の更なる同盟強化を約束し、人質的な意味合いを伴ないながら、そのことを象徴する高句麗人と倭人との混血人だったのかも知れません。
      ・・・いずれにしても、この条で通して語られていることは・・・“中大兄皇子(※後の天智天皇)が、後に東國の近江へと遷都するため、宮の造営や城などの高度な建築土木技術を持つ百濟男女2千人余りという集団を、各種工事に携わせるため、現地の近江に住まわせていたということ”を記述し・・・“そのために、大和朝廷が、西暦663年から三年の月日と、彼らの並の暮らしを保障する官食とを、僧や俗人の身分に関係なく費やしていた”と云っているのではないでしょうか?・・・次に、「指南車」についてですが・・・西暦658年に遡りますが、「沙門・智喩が、指南車を造る」・・・とありました。・・・この指南車は、基本的に南の方角を示し続けるために発明された装置であり、中国古来からの「天子は南に面する」という思想に基づいています。
      ・・・この『日本書紀』では、“それ自体には、あまり実用的な意味は無かったにもかかわらず、中大兄皇子(※後の天智天皇)の権威を高めたり、中大兄皇子(※後の天智天皇)が当時の中国思想に傾倒し過ぎていたために、再度献上されたのではないか? としているよう”にも読めますね。・・・この指南車が、どんな物だったのか? などの説明が無く、献上した人物についても、“わざわざだった”のでしょうか?・・・倭漢(やまとのあや)沙門・智喩(ちゆ)や、智由(ちゆ)が、さも倭国人と漢人の混血氏族出身者であることを、強調しているようにも想えますので。・・・また、“西暦658年に指南車を造った”とされる沙門・智喩と、今回の沙門・智由ですが・・・おそらくは、同一人物だったと考えられますが、これらの条だけで判断することは、正直云って難しいのかも知れません。


      ※ 西暦667年2月27日:「天豊財重日足姫天皇」と「間人皇女」とを、「小市岡上陵」へ、合せ葬る。是の日、「皇孫・大田皇女」を、“陵前の墓”に、葬る。“高麗・百濟・新羅が皆”、御路に於いて、「哀」を奉(たてま)つる。「皇太子(※称制中の中大兄皇子のこと)」が、群臣に謂いて、曰く・・・「我、皇太后天皇の勅したまえる所を奉つりて、萬民を憂え恤(あわれ)むが故に、石槨の役(いわきのえだち)を起こさず。冀(こいねがう:=乞い願う)る所は、永代は鏡誡(あきらかなるいましめ)を以ってせよ。」・・・と。・・・「天豊財重日足姫天皇」とは、故斉明天皇のことであり、中大兄皇子(※後の天智天皇)の実母です。・・・「間人皇女」とは、中大兄皇子(※後の天智天皇)の実妹です。・・・そして、「大田皇女」とは、中大兄皇子(※後の天智天皇)と、蘇我倉山田石川麻呂の娘だった遠智娘との間に産まれた皇女であり、故斉明天皇の孫に当たります。
      ・・・前述の西暦665年2月の条では、「間人大后が薨る。」・・・と、これに続く西暦665年3月の条では、「間人大后の爲として、330人を度す。」・・・として、故孝德天皇の大后、すなわち皇后として遇されておりましたが・・・この西暦667年2月27日の時点では、或る意味で、『日本書紀』の編纂者視点によって記述されているようにも想えます。・・・それが分かるのは、ここにある文章の中段を読み飛ばすと・・・「皇太子が、群臣に謂いて、曰く・・・」・・・と、続くからです。中大兄皇子(※後の天智天皇)の弟である“大海人皇子(※後の天武天皇)の視点が、色濃く反映されているように読める”のです。つまり、“間人皇女は、故斉明天皇の娘であり、兄である中大兄皇子(※後の天智天皇)の妹、そして後に皇太子とされた大海人皇子(※後の天武天皇)の兄妹であった”と。
      ・・・斉明天皇は、西暦661年7月に、筑紫の朝倉宮で崩御し・・・同年11月には飛鳥の川原で殯(もがり)されました。・・・これについては、百濟への派兵と、現地において劣勢が続いていた状況下のことであり、皇太后天皇(※故斉明天皇のこと)の意向による勅を以って行なわれる石槨の役、すなわち横穴式石室墳墓造営の賦役については、時の皇太子の意向により起こさずとして、故斉明天皇のご遺体が、飛鳥の川原において殯された後に、どこかで仮埋葬されていたように読めます。・・・また、皇孫・大田皇女は、後に皇太子とされる大海人皇子(※後の天武天皇)の姪でもありますが、彼に嫁いでおり、つまりは夫婦になった訳でして。・・・しかも、この大田皇女は、西暦661年正月には、身重の身なから、斉明天皇と実父・中大兄皇子(※後の天智天皇)らが乗る船団に加わって、筑紫方面へと向かい、その船上において、大海人皇子の皇女である大伯皇女(おおくのひめみこ)を出産し、その後にも大津皇子を出産しています。・・・しかしながら、この大田皇女が、いつ亡くなられたのか? については詳細不明となっているのです。
      ・・・これとは別のこととして・・・・西暦658年5月の斉明天皇は、同じく皇孫の建王(※中大兄皇子と遠智娘との男子)を喪してから、万歳千秋の後に至るまで、すなわち自身が入ることとなる陵墓にて、孫の建王を合葬し、供養し続けると、群臣に対し公言していました。・・・何やら・・・この西暦667年2月27日の時点においても、同じく皇孫である大田皇女の場合にも、以前の建王の場合に準じて、後に皇太子とされる大海人皇子(※後の天武天皇)の影響力があったかのような、云い回しとなっているのです。・・・この当たりの事情については、この『日本書紀』の編纂時における各史料が、天武天皇期や持統天皇期以後に残存していたものを基(もと)にしていると考えられますので、致し方ないことなのかも知れません。
      ・・・現在の宮内庁によれば、故斉明天皇の御陵は、奈良県高市郡高取町大字車木にある山稜とされ、その陵号を「越智崗上陵」と呼んでおりますが・・・“この故斉明天皇の御陵所在地そのものが、中世以降は所在不明とされていた”にもかかわらず・・・“各処を転々とし、江戸幕末期になってから、現在の御陵地に定まった”という経緯があるのです。・・・その一方では、平成22年まで奈良県高市郡明日香村大字越において行なわれていた発掘調査によって、“故斉明天皇の御陵の可能性が高まっている”と云われる「牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)」があり・・・これも、巨大な石槨構造を持つ八角形墳であり、『日本書紀』で皇太子(※称制中の中大兄皇子のこと)が謂ったとされる・・・「永代は鏡誡(あきらかなるいましめ)を以ってせよ。」・・・という表現とは、やや矛盾しているようにも感じます。・・・但し、後世の時代時代における解釈によって、各処を転々としていた訳ですし、鏡誡(あきらかなるいましめ)の定義も変わっていた可能性があるとも云えるのですが。
      ・・・いずれにしても、“高麗や百濟、新羅が、この西暦667年2月27日の合葬に、御路上で、参列していた”とされているので、“高句麗の臣・乙相奄ス(おつそうあんす)らが、帰国せずに大和朝廷内に滞在し、合葬に参列していた”とは考えられます。・・・しかし、こうした場合だったからこそ、『日本書紀』の編纂者達が、敢えて・・・「高(句)麗」を「(在日)高麗(人)」とし、同じく「百濟」を「(在日)百濟(人)」、「新羅」を「(在日)新羅(人)」として・・・“それぞれ読ませようとしている”・・・とは考えられるのです。・・・

      ※ 同年3月19日:「都」が、「近江」へ、遷る。“是の時、天下の百姓は、都を遷すことを願わず、諷諫(ふうかん:※それとなく遠回しに諌めること)する者が多く、童謠(わざうた)も亦(また)衆(おお:=多)し”。“日々夜々には、失火する処多し”。・・・当時の中大兄皇子(※後の天智天皇)としては、都を難波などよりも、更に内陸部の近江大津宮(おおみのおおつのみや:現滋賀県大津市錦織)へと移し、唐王朝や新羅に対しても、最奥の防衛拠点を準備出来たことになります・・・が、そもそも・・・新たに宮を造営するのではなく、都そのものを遷すということは、尋常なことではありませんでした。しかも、当時の皇太子とは云え、称制中の中大兄皇子でしたから。どういう権限で以って遷都出来てしまうのか? となる訳です。・・・したがって、天下の百姓にとっては、甚だ迷惑なこととされ、それとなく遠回しに諌めることや、童謠を用いて表現することが精一杯の世相となり・・・“政情不安により、昼夜を問わず火災が発生し、かなり不穏な空気が漂っていた”と云うのです。
      ・・・『日本書紀』の編纂者達は、これより以前の条において記述しているように・・・“故斉明天皇や間人皇女、皇孫・大田皇女ら皇族の葬式関係を執りし切った中大兄皇子が、その当時の強権を発動したため”と断定しているようです。・・・事実としても、間違い無かったかと。・・・いずれにしても、近江遷都の直接的な理由は、“唐と新羅による連合軍の侵攻に対する防衛のため”とされています。・・・これらに対応するためとして、対馬嶋や壱岐嶋、筑紫國らに、防人を置いて、烽火による情報伝達方法を整備し、筑紫には水城を築造、更には長門國と筑紫國に、三つの朝鮮式古代城を築かせて、飛鳥においては塀の設営が行なわれていたのです。
      ・・・こうなると、唐・新羅連合軍にとってすれば・・・新生近江朝廷の都が、如何にも遠くに感じられたことでしょう。・・・もしも、北九州や下関辺りを陥落させたとしても、奈良までは、まだまだ遠く、瀬戸内海における海戦ともなれば、その激しい潮流に唐船団は翻弄されるに違いありません。・・・瀬戸内海に誘い込まれ、下関側から海上封鎖されれば、云わば袋の鼠となり、朝鮮半島の扶余や平壌とは異なり、退却が困難となり、仮に大和川や淀川に侵入出来ても、錦江などと異なって唐船の船底は川底などに閊(つか)えてしまい、兵站や動員などが極めて難しくなるのです。・・・これらの事情は、劉德高や百濟・禰軍らが、菟道(=宇治)を経由して、周囲の地勢を視させられていたため、当然に理解していた筈であり・・・また、新生大和朝廷若しくは新生近江朝廷が、実質の遣唐使(≒朝貢団)を、新たに派遣するという合意が達成されたことによって・・・“いきなり唐・新羅連合軍が倭国(≒新生近江朝廷)へ侵攻するという可能性は少なかったと視るべき”なのです。
      ・・・それでは、現実の遷都理由として考えられるのは何だったのか? となりますが・・・まずは・・・“旧百濟から二千人余りもの亡命者達を一挙に近江國へ入植させたことだった”と考えられます。・・・狭隘な奈良盆地では、このような大規模集団を迎え入れる余裕は、もはや無かったのです。・・・現在の近畿圏では、奈良のことを、かなり田舎で、歴史遺産しかない処と、一般的に認識されているようです・・・が、この時代は、然(さ)に非ず。・・・当時の奈良は、地理的にも、日本列島のほぼ中心部にあり・・・政治的に云っても、倭国(≒新生大和朝廷≒新生近江朝廷)の中心地ですし、東アジア世界におけるキャラバン・ルートの始発点兼終着点・・・つまりは、シルクロードの始発点兼終着点。・・・この時代の後に創られる「東大寺・正倉院」などは、特に有名ですよね。
      ・・・当時の奈良地方は、遥か遠方から商人などの異国人達がやって来る国際都市となっておりましたし・・・これとともに・・・当時の奈良盆地には、海で漂流し、すぐには帰国出来なかった数々の渡来人達を住まわせる居留地的な場所を、かなり含んでいたと考えられるのです。・・・歴代の天皇や、政権の中枢に居た人々は、彼ら漂流民や帰国しなかった渡来人達から異国の情報や文化を吸収し、外交や内政などに活かそうとしていました。・・・自ずと・・・彼らを、自らの近くに留め置き、自己勢力に組み込んでみたり、事ある毎に技術や知識を参考としたり、当時の国家組織において適任と考えられる役割をも、新たに与えたりしていた訳です。
      ・・・現実に日本列島へやって来る理由については、それぞれ別だったとしても、当時の政権中枢に居た人々は、渡来して来る異国人達を、単なる商人や外国使節、難民などとしてではなく、優秀な人材として認識していたのです。ましてや、新生大和朝廷若しくは新生近江朝廷としては・・・当時の高句麗情勢などの変化に伴ない、各勢力同士間における往来が頻繁となっていた時期のことです。
      ・・・しかし、この西暦667年当時は、残念ながら・・・奈良盆地における、当時の食糧事情やインフラ面において、二千人余りもの異国の大規模集団を養うだけの土地が現実的には無く・・・政治的にも、これだけの大規模集団が渡来するということと、白村江の戦いにおける大敗北とが、負の相乗効果を齎(もたら)すことによって・・・“更に国内の世情不安に繋がってしまうのを阻止するためだった”と考えるべきなのです。ですから、前年の西暦666年7月内のこととして・・・「大水あり。是の秋に租調を復す。」・・・と、“一国や二国程度で起きた事態などではなく、少なくとも近畿地方全体が大水害によって、内政的に云っても大きなダメージを被っていたことを、敢えて仄めかしているのだ”と想えます。・・・そして、この頃の琵琶湖東岸地域では・・・“既に土壌改良や、稲の品種改良が進み、百濟系渡来人達が数百人単位で送り込まれ、その土地の開墾をしたと考えられる唐人の捕虜達も、美濃國不破と片県の二郡に移住させられていた”のです。
      ・・・また、昭和初め頃に完全に姿を消すこととなり、かつての淡水湖とされる宇治の「巨椋池(おぐらいけ)」の灌漑工事では・・・単なる耕地整備に止まらずに、宇治川や木津川、淀川流域の水路の合流地点として開発され・・・宇治~瀬田川~大津のみならず、宇治~山科川~大津、宇治~淀川~鴨川~粟田口~大津など、複数の河川ルートを活性化させていたのです。・・・これらのことを考えると・・・おそらく、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)が主導したと想われる菟道(=宇治)で行なわれた閲兵式典は・・・新生大和朝廷独自とも云える機動力に長けた水軍戦力を・・・百濟・禰軍らに対して、或る程度披露する・・・といった象徴的且つ外交的な意味合いがあったのかも知れません。
      ・・・それにしても、“中大兄皇子(※後の天智天皇)らが進めた奈良から、或いは難波からの、近江への遷都に対しては、反発や疑念を懐く人々が多かった”と云うか、この『日本書紀』では、“童謠にまで多く唄われる程に、散々な表現となっております”が・・・結局のところ、この状況に至る背景とされる旧百濟地方への援兵や白村江の戦いにおいて、当時の倭国(ヤマト王権)がいったい、どれぐらいの人や船、物資を失なっていたのか? については判然としません。しかし、「大化の改新」によって齎(もたら)された税収増の成果などを、大きく損なってしまったことは、ほぼ間違いないかと。・・・そして、そんな状況に至っても、更に多くの渡来人達に対する追加的な出費が、更に加算されることとなり、当時の国家財政というものを大きく傾けていたことは想像に容易い訳です。
      ・・・おそらくは、古代日本史上初めて直面した大規模な国際紛争に介入したため・・・ごく一部の国内勢力にとっては、倭国(ヤマト王権)が敗戦しても、それなりに恩恵的なものがあったのでしょう・・・が、大多数の百姓達(=諸々の氏族達)にとってすれば、内心に大きな不満を抱いていても、何ら不思議ではありません。・・・“この頃の世相について”は・・・『萬葉集』の歌人や、百人一首などでも有名な「柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ:※生年西暦660年?~没年720年)」や、「高市連黒人(たけちのむらじくろひと:※生没年不詳)」が吟じた短歌からも想像出来ます。・・・若き日の柿本人麻呂からすれば、“称制中だった中大兄皇子(※後の天智天皇)の御心や考えが量り難かった”のでしょう。・・・高市連黒人は、“淡海(あうみ:=近江)の國つ神の霊威が寂びれて、國が荒れていることを悲しんだよう”です。
      ・・・これより少しばかり時代を遡ってみると、そもそも百濟系渡来人達は、倭国(ヤマト王権)内において、蘇我氏宗家の庇護下にありました。・・・聖徳太子(厩戸皇子)の登場以降は、倭国(ヤマト王権)と百濟の背後にあった隋王朝や唐王朝との直接交流が始まって・・・百濟・義慈王との関係がギクシャクしていたのでした。・・・聖徳太子(厩戸皇子)が、仏教に関連して、高句麗との関係をも深め始める・・・と、今度は新羅が、唐王朝へ近寄り始めることとなり・・・それに対して、倭国(ヤマト王権)と百濟、高句麗の三者が、ようやく不快感を共有し始めます・・・が、次第に・・・新羅から政治的な援助を受けて唐王朝へ留学した経験のある倭国(ヤマト王権)国内の人達が中心となって、倭国(ヤマト王権)による百濟一辺倒の政権運営について、危惧感を募らせることとなりました。
      ・・・例えば、5世紀から6世紀に掛けて・・・奈良盆地北部に勢力を持っていた中央豪族の「和邇(わに)氏」や、古代の近江國坂田郡(※現在の滋賀県米原市)を根拠地とした地方豪族の「息長(おきなが)氏」などは、“どちらかと云えば親新羅、親高句麗の傾向があった”とされています。・・・唐王朝は、第1次高句麗出兵以後に、“まず百濟を”と、狙いを定めて、唐・新羅連合軍を百濟へ向けると、大干ばつなどで元々疲弊していた百濟は、一旦は滅びます・・・が、倭国(ヤマト王権)が百濟を再興すべく帰還させた「豊璋王」とした人物が、ゲリラ戦術などにより当時奮戦していた、百濟王族・(鬼室)福信を殺してしまい、結果としては“白村江の戦いの真っ最中に、高句麗へと逃亡する”に至ります。・・・すると、既に唐王朝へ降伏していた豊璋の兄・扶余隆が、唐王朝支配下の百濟熊津都督として任ぜられることになったのです。
      ・・・要するに、白村江の戦い以後に日本列島へ亡命渡来して来た百濟人達は、確かに技術面や文化面においては有益であるものの・・・一方では、なかなか百濟滅亡を認めない、百濟の再興を諦めない人達の集団だったがために・・・当時の新生近江朝廷や、それ以前の頃に渡来し既に帰化して時の政権に参画していたとされる伝統的な百濟人勢力からしてみれば・・・同じ百濟人とは云え、対唐外交上においては、極めて扱いに困るような集団だったのでしょう。・・・この時の中大兄皇子(※後の天智天皇)が、称制を解いて正式に天皇へ即位するには、この時期の奈良という地は、精神的に云っても重たいものがあったのではないでしょうか?・・・前述の“親しき佐伯子麻呂連の例もあります”し・・・天智天皇の和風諡号である・・・「天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと、あまつみことさきわけのみこと)」・・・という命名から察するに、これを・・・“天~別という枠組みのなかに在って、命開(みことをひらかす)”・・・と解釈して、“称制中の中大兄皇子(※後の天智天皇)が、新たなる地において、新たなる政治風土をも求めていた”とも考えられる訳です。
      ・・・いずれにしても、称制中の中大兄皇子(※後の天智天皇)は、新しい都を置く地として、琵琶湖の東岸ではなく、西岸地域を選ぶことになりました。その「近江國滋賀郡」は、北から順番に・・・「真野郷」、「大友郷」、「錦織郷」、「古市郷」・・・の、“四つの郷”からなります。当時の中大兄皇子(※後の天智天皇)は、“この地にあった地方豪族らとは、元々強い連携関係があった”とも推測出来ます。・・・前中国王朝への遣使(=遣隋使≒朝貢団)などで有名な「小野妹子」は、“真野郷出身の和邇系氏族”であり、この「真野郷」は、“現在の堅田周辺地域”。・・・「大友郷」は、“現在の坂本周辺地域”であり、ここの「大友氏」は、“大友皇子(おおとものみこ)を擁立した氏族”です。・・・「錦織郷」は、“宮廷の近江大津宮が置かれた地”でであり、“現在のJR大津京駅周辺地域”。・・・「古市郷」も、和邇系氏族と所縁のある地域であり、“現在の石山周辺地域”。
      ・・・このように、称制中の中大兄皇子(※後の天智天皇)が琵琶湖西岸地域を選んだ理由は・・・おそらくは、“宇治~山科、宇治~京都側~山科辺りの交通連絡網上の要衝拠点を意識していた”のでしょう。・・・「山科」には、“古くから山科川と旧安祥寺川流域に中臣鎌足(※後の藤原鎌足)を輩出した中臣氏が勢力を持ち”・・・“京都側の東北部には、粟田氏や小野氏が支配した地域の名残り”と考えられる「粟田口」や、「小野(=高野川上流)」などの地名が遺っております。現在の京都市左京区上高野にある「崇道(すどう)神社」の裏山からは、“小野毛人(おののえみし)の墓誌”が出土しています。この「毛人」とは、遣隋使(≒朝貢団)だった“小野妹子の子”です。・・・八坂神社辺りから南部に掛けては、文字通り「八坂氏」の支配地域とされ・・・「八坂造(やさかのみやつこ)狛國(=高句麗國)の人」・・・とあります。・・・そして、織部(おりべ≒錦織〈にしこり〉部)と呼ばれる渡来系工人集団が、畿内を中心に、各地に設けられた文字通りの「織部」という処に、分散して居住していました。
      ・・・また、加茂川と高野川の合流点から南部に掛けての鴨川周辺にも、“織部郷が、雄略(ゆうりゃく)天皇期以降に存在していたこと”が分かっているのです。・・・尚、加茂(=賀茂、鴨)川流域は、古来より「賀茂氏」が勢力を持っておりました。・・・とにもかくにも・・・当時の中大兄皇子(※後の天智天皇)の脳裏からは・・・“淀川~鴨川、粟田口~山科、そして近江國辺り”・・・に対する関心が、どうしても離れなかったのでしょう。・・・いずれにしても、この頃の中大兄皇子(※後の天智天皇)としては・・・自分自身が筑紫において指揮を執った白村江の戦いでの大敗北によって・・・“百濟政策そのものや、戦略上且つ戦術上における敗北原因についてなど、かなりの吟味を行なっていた”に違いなく・・・“百濟各地の山城に拠り、唐・新羅連合軍を苦しめた百濟王族・(鬼室)福信らの功績、つまりは朝鮮式古代築城技術やゲリラ戦術などを知るに至った”のでしょう。
      ・・・そして、期待して百濟へ帰国させた豊璋王の行動については、事後に聞く度に、(鬼室)福信がそれまで果たしていた役割の重要性と、彼を失ってしまった重大性に後悔したのではないでしょうか?・・・それ故に、“中大兄皇子(※後の天智天皇)は、山城築城や新都造営などにおいて、旧百濟の軍将や工人達を重用した”と考えられるのです。・・・また、“近江令の施行”に当たっては、(鬼室)福信の一族と視られる「鬼室集斯」が、近江朝廷の「学職頭(ふみのつかさのかみ)」に任じられていますので・・・“当時の中大兄皇子(※後の天智天皇)が百濟系渡来人達を、いわゆる文官として多く重用していたことなど”も分かります・・・が、それにしても、“中大兄皇子(※後の天智天皇)としては、かなり思い切った遷都を試みた”ことに違いはないのです。・・・“この遷都についてを英断と視る”のか? 或いは、“日本書紀的な史観に捉われる”のか?・・・悩ましい限りですね。・・・

      ※ 同年6月内:「葛野(かどの)郡」が、「白きつばくらめ(=燕)」を、献ずる。・・・「葛野郡」とは、山城國葛野郡のこと。現在の京都府京都市右京区の大部分から成り、北区の一部や、中京区の一部、下京区の一部、南区の一部、西京区の一部を含みます。・・・前年の西暦666年10月26日の条では・・・「京都の鼠が、近江に向かいて移る。(=東方向へ移る)」・・・と、いう予兆的且つ暗示的な文章を挿入していた『日本書紀』が、“今度は明るい兆し”として記述しています。・・・いずれにしても、新しい政治が始まる際に、白い鳥獣を献ずることが、恒例行事となっていたかのようですね。・・・

      ※ 同年7月11日:「耽羅」が、“佐平・椽磨(でんま)ら”を遣わして、「貢」を献ずる。・・・この時は、王子を遣わすのではなく、官人であり佐平格の人物を派遣して来ており、“通常の朝貢関係を示している”とも考えられます・・・が、そもそも・・・耽羅は、自らの歴史を記すという習慣や伝統を持っていなかったため・・・このように、周辺国の史料記述から知り得るのみなのです。・・・したがって、この『日本書紀』では、「佐平・〇〇」とされております・・・が、果たして・・・耽羅国内の位階制度によって、「佐平」という官職があったのか? についてさえ、甚だ疑問なのです。・・・しかし・・・“耽羅そのものは、暖流と寒流がぶつかり合う海産物に恵まれていた島であり、古来より朝鮮半島や日本列島との間における交易上の中継拠点として、それなりに栄えていた”とは考えられています。・・・但し、“それ相応に、周辺からの政治的な影響も受けざるを得なかった”とも想いますが。
      ・・・この時の耽羅は、旧百濟と倭国(≒新生近江朝廷)側の陣営に属していたため、“唐王朝と新羅からの脅威に曝(さら)され続けていた”とも考えられます。・・・したがって、耽羅としては、“前年の西暦666年正月11日に開始された新生大和(≒近江)朝廷と耽羅との、行く末についての協議や、その方針決定の確認などのため来訪した”と考えられるのです。

      ※ 同年8月内:「皇太子」が、「倭京」へ、(行)幸す。・・・ここにある倭京の所在については明らかではありません。・・・しかし、中大兄皇子(※後の天智天皇)は、過去においても、時の孝德天皇を難波宮に置き去りとし、孝德天皇の皇后だった間人大后や、孝德天皇の姉家族、その他の官人らを伴なって行ってしまったことがありました。・・・いずれにしても、ここにある倭京は、 倭(やまと) = 大和(やまと) ⇒ 奈良に造った京(みやこ)・・・だったことは、一般的にも理解出来るのですが、何故に、わざわざ多忙極まりない、この時期に新都の近江大津を離れる必要があったのか?・・・何やら・・・この中大兄皇子(※後の天智天皇)には、側近中の側近達との間で以って、深く今後の施策や作戦を練り上げたい際には、倭京へ行っているような気配もありますね。
      ・・・この時の中大兄皇子(※後の天智天皇)としては、耽羅から齎(もたら)された唐王朝や新羅に関する何らかの情報の真偽を確かめると同時に、耽羅から唐王朝や新羅などへ必然的に渡ってしまう新生近江朝廷に関する情報、特に新都近江大津の守りの構えや日本列島防衛計画そのものなどについて、情報的にも遮断したかったのかも知れません。まるで、唐や百濟からの渡来帰化人達を避けるかのように。・・・もしかすると・・・“耽羅の佐平・椽磨らを迎え入れた処が、この倭京であって、突貫工事中で完成に至っていない新都・近江を、極力彼らの目にふれさせずに、倭京で饗応しながら、様々な外交方針や作戦計画などを練っていた”という可能性もあります。・・・せっかく、ここまで劉德高や百濟・禰軍らに対して、新生近江朝廷へ侵攻することは難しいと思い至らせていた訳ですから。・・・いずれにしても・・・“当時の新生近江朝廷としては、或る意味で耽羅をも警戒し、このことは、東アジア全体において情報戦らしきものが、既に繰り広げられていたことを物語っている”と考えられます。

      ※ 同年10月内:「高(句)麗大兄の男生」が、「城」を出でて、「國」を巡る。・・・“是に於いて、城内の二弟が、側(そば)で助くる士大夫(したいふ)の悪しき言を聞きて、入ること勿(なかれ)”と拒む。・・・“是に由り、男生は大唐へ奔(はし)り入りて、其の國を滅ぼさん”と謀る。・・・ここにある「男生」については、前述の西暦666年10月26日の条をご覧下さい。・・・高句麗は、明くる年の西暦668年には滅びることとなります。・・・尚、ここの「士大夫」とは・・・漢代の頃までの士大夫の意味と同じく・・・文字通りに「士」、すなわち下層の支配階級と・・・「大夫」、すなわち上層の支配階級とを、“併せて指している”と考えられます。・・・当時は、軍事が優先する社会だったため、「士大夫」とは、特に「士」と「軍将」とを、意味しており・・・つまりは、“城内の二弟は、身分の上下に関わらず士官達から悪しき言を聞き容れ、城に入ること勿(なかれ)と、大兄の男生を拒んだ”となります。

      ※ 同年11月9日:「百濟鎭將・劉仁願」が、“熊津都督府熊山縣令上柱國司馬・法聰(ほうそう)ら”を遣わして、“大山下・の境部連石積ら”を、「筑紫都督府」に送る。・・・ここにある「境部連石積」とは、西暦665年に、唐王朝からの正式な遣使として来訪していた劉德高らが帰国する際に、送唐客使(≒実質的な第5次遣唐使)として派遣されていた「小山・坂合部連石積(さかいべのむらじいわつみ)」。または、それより遡って、(第2次)遣唐使時代に学生として登場した「坂合部連磐積」のことです。当然に、同一人物です。この条では、出国時の「小山」から、帰国時或いは帰国後において「大山下」の冠位に昇格していることが分かります。・・・『三國史記高句麗本紀』によると、“唐王朝皇帝の高宗は、高(句)麗大兄の男生を取り込み、李勣(りせき)を派遣”し・・・“この年(=西暦667年)の9月には、高句麗西部の新城を攻略し終えていた”のです。
      ※ 同年11月13日:“司馬・法聰ら”が、罷り歸(=帰)る。「小山下・伊吉連博德」と「大乙下・笠臣諸石(かさのおみのもろいわ)」を以って、「送使」とす。・・・“劉仁願が、軍将からなる法聡らの一団を派遣し、同年11月9日に筑紫に入り、同月13日に帰国”という慌ただしい状況だったのは・・・“高句麗攻略が、最終局面に入ったことを一方的に告げ、新生近江朝廷の反応を見るためだった”のでしょう。・・・“この頃の高句麗が、新生近江朝廷に対して、救援要請していた”としても、不思議はありません・・・が、“近江朝廷が、送使として、予(かね)てから交流のあった外交官・伊吉連博德らを遣わした事によって・・・唐王朝としては、高句麗の救援要請に応じることは無いと判断出来ていた”とも考えられます。
      ・・・そして、このことによって、近江朝廷に、或る意味で突き付けられるのは・・・“地理的に云っても、百濟からの亡命者達のように、そう易々とは、大勢の難民が高句麗から日本列島へ亡命渡来して来る可能性は低く、もし仮に高句麗滅亡という事態に至っても、既に渡来し暮らしていた(在日)高麗人らが、帰国し得る祖国を失なうだけ”という状況に他なりません。
      ※ 同年11月内:「倭國(やまとのくに:=大和國)・高安城」、「讃吉國(さぬきのくに:=讃岐國)山田郡・屋嶋城」、「對馬國(つしまのくに:=対馬國)・金田城」を、それぞれ築く。・・・近江朝廷は、伊吉連博德らの送使を送りながらも、その一方では着々と、防衛拠点を築いて、守りを固めていたようですね。・・・確かに、いつ何時、唐王朝の矛先が自らに向かっても、おかしくない状況でしたから。・・・特に高安城は、生駒と八尾の間の高安山に築かれた山城であり、“最後の砦的な役割を与えられていたよう”です。・・・また、讃岐國の屋嶋城と対馬國の金田城も、“敵勢の侵攻速度を遅らせるなど、重要な障壁及び防衛拠点とされていたこと”も分かります。
      ※ 同年潤11月11日:「錦(にしき)14匹」、「纈(ゆわた)19匹」、「緋(あけ)24匹」、「紺布(はなだのぬの)24端」、「桃染布(つきそめのぬの)58端」、「斧(おの)26」、「釤(なた)64」、「刀子(かたな)62枚」を以って、“椽磨ら”に賜う。・・・近江朝廷としては、“耽羅についても、なんとかして自己の傘下若しくは協力勢力として、引き留めておきたかった”のでしょう。


・・・・・・・・・・次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】