街並と天空   

『 夢と夢をつなぐこと・・・ 』

 それが私達のモットーです。 ~トータルプラン長山の仲介~ 

    

ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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【はじめに】



   我々が「地名」などの話題にふれるとき・・・“誰もが無意識”に、その「固有名詞」の「発音」や「響き」、“その意味”を想像しながら、話や文脈全体を理解しようとしているのではないでしょうか。
   ・・・このことは“我々(ヒト)の脳構造”・・・とりわけ「言語中枢」と呼ばれる部位が、“左右二つに分割されているため”なのです。その一つは「音声」や「文字」などの「情報」を理解するための部分・・・云わば、受信アンテナ的な役割を担う部分です。・・・この隣に、もう一方の「音声」を使用する言語運動という形で(※つまりは、発声により)、「情報」を発信するための部分があり、主に“これら二つの部位が、互いに活発な遣り取りを行なうこと”によって、言語活動全体を成立させるという仕組みになっています。

   日本では、古くは奈良時代に編纂された『古事記』、『日本書紀』、『常陸風土記』などに記されて来たように・・・「地名の起源」についての探索や研究は、我々の関心を惹きつけてきました。・・・しかしながら、「日本の地名」についてのみに限定してみても、より普遍的な「語源解釈法」や、それが、いつ頃命名され、当時の人々に浸透していったかを特定することは、「地名学」や「言語学」、「考古学」、「民族学」、「文化人類学」などによる、様々なアプローチ方法はあるものの・・・なかなか、「こうだ!これにほぼ間違いない!」・・・と“断言出来る状況は稀なケース”であり、多くが未解明と云えるのでしょう。
・・・これはこれで、“歴史ロマン”を掻き立てられるのものですが。
   “言葉の生きた化石”とも云われる「地名」の探求は、“古代語研究と同義となることが多い”ため、「発音」や「響き」を含むその「言葉」の「読み方」や「呼び方」、「地名」を、“同次元で扱う姿勢がより重要となる”のかも知れません。
   ・・・それにしても、私(筆者)自身を含め、多くの方々は、“地名そのもの”の「発音」や「響き」、“その意味が現代に至るまで受け継がれて来た”という事実や、“地域の歴史そのものの”に対して、「意味」や「メッセージ性」などを、何かの機会に見い出しているのではないでしょうか。

   ・・・そこで、こちらの関連ページではこの“意味・メッセージ性”を「キーワード」に・・・甚だ大雑把かも知れませんが・・・できるだけ、それぞれの時代順にポイントを踏まえながら記述していきたいと思います。

   (・・・※申し訳ありません。当初のページ構想を遥かに超えて“~大河ドラマ~「日本の曙」”みたいになってしまいました。まだ内容的にも、「江戸時代末期」ぐらいまでで、完成には程遠いものですが、“キリの良いところで、その都度公開すること”に致します。追加や修正などを加えながら、“ジックリ”とページを増やしていきたいと考えております。さすがに中途半端にして終われませんので、ライフワーク的にやっていこうと。・・・また、かなりのデータ量となってしまったので、元のページを分割し、それぞれへのリンクをページの上下部に貼りました。・・・ひま暇にご覧頂けたらと思います。尚、各ページでは・・・“所どころ、或いは概ねの部分”を訳して記述しておりますが、筆者の主観や史観が影響して必ずしも正確な訳とは云えないかも知れません。これらの点に関しては、何卒ご了承願います。(・・・訳し方や、解釈方法については、皆様方にも是非チャレンジして頂けたらと・・・)・・・尚、古文書等からの引用部分は、出来得る限り原文に忠実にしたいと考えまして、旧字を多用しております。そのため、もしかするとPCサイト変換機能を利用した場合など皆様の表示媒体によっては、「文字抜け」や「文字化け」などが発生することがあるかも知れません。できましたら、パソコンと同程度の環境でご覧下さい。



  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】



   ・・・まずは、「人類の起源」と「その進化」についてから、“おさらい”してみましょう。(・・・※いきなりすごい昔からでスミマセン・・・)

   ・・・「人類の起源」は、今から約700万年~600万年位前まで遡ります。・・・“この頃”に、「我々(ヒト)の祖先」と、「現生類人猿」とされる「チンパンジー」及び「ボノボ(=ピグミーチンパンジー)」との間において、“共通祖先から、それぞれ枝分かれした”と推定されています。

   ・・・ちなみに「現生類人猿」では・・・「チンパンジー」のほかに・・・“今から約1,250万年前頃に、我々(ヒト)の祖先と枝分かれした”と考えられる「オランウータン」なども、“ヒト以外の生物”と比べれば、脳が発達し、或る程度の道具を使うことが出来ますし、それぞれが同種個体間において、「鳴き声」や「ジェスチャー」などによるコミュニケーションをしています。但し、“彼ら”の「脳の構造」や「唇」、「舌」などの「口腔形状」が、我々(ヒト)と比べると未発達なため、多種多様な「発音」や「滑舌」などは出来ません。あくまでも、「ヒト」のように「耳」と「口」とを使用しない、視覚に頼った視覚言語の域を脱していないということです。・・・それでも“彼ら”を単なる「サル」と考えるのは“大きな誤り”であり、生物学的に分類してみても“彼ら”は、間違いなく“ヒトの仲間”です。・・・裏を返せば、むしろ「ヒト」が“彼ら類人猿の仲間であり、その進化過程においても、ごく近い関係にある”と云えるのです。

   では、「脳」という部位の大きさや容量の違い・“上記以外”における、これら現生類人猿と我々(ヒト)との大きな違いとは、いったい何でしょうか?

   ・・・「ヒト」は、直立2足歩行をし、犬歯があまり発達していない(≒退化した)ということ。
   ・・・「ヒト」は、4本足で身体を支え続ける必要性から解放されたため、自然界においては“その取扱い”に慎重を期たさねばならなくなる「火の特性」を理解して使用出来たり、複雑な物や道具を作製し、“それを使いこなすことが出来る”ということ。
   ・・・そして何よりも・・・“ヒトとヒト個体間”の「合図」や「会話」、「歌(唄)」、「原始音楽」、“世界各地の古代遺跡”の壁画にもあるような「絵」や、“絵文字の類いによる伝達方法以外”にも・・・“進化過程上における多種多様な表現方法及び複雑な言語体系を持ち得た”が故に・・・情報伝達量が格段に多く、“効率の良いシステム”とされる「それぞれの文字」を「発明」し・・・“その個体の生存期間を超えても、その生涯で得られた「知識」や「技術」、「歴史」などについてを、後世に伝える手段そのものを持ち得た”ということでしょう。


      ・・・唐突ですが・・・ここで「アフリカ単一起源説」と「イヴ仮説」について、ふれておきたいと思います。
     ☆「アフリカ単一起源説」について
・・・これは、現在“圧倒的多数の支持を受けている説”とされているものですが、それが、云わば定説とされる以前は・・・“人類は、それぞれの地域において、独自の進化を遂げた”と考えられていました。(※これを多地域進化説と云います)・・・例えば、「北京原人」が、“東洋系のヒトへ進化”し、「ネアンデルタール人」が“西洋系のヒトへ進化した”とする説などです。
       しかし、今日では・・・そもそも・・・“我々(ヒト)を含む人類の祖先”が、何故に“約700万年~600万年位前頃”に、突如として「遺伝的突然変異」を起こしたのか? について、ハッキリしている訳ではありませんが・・・おそらくは・・・「生息域」であったアフリカ大陸の乾燥化に伴なって、森林が減少し、サバンナの拡大が起きたため、その環境変化に伴なっているのではないか? と考えられています。・・・大雑把に云うと、“生存してゆくために、木の上などの森林生活から、サバンナでの移動生活へと、生息域そのものを切り換えざるを得なかった”のではないか? ということです。
      ・・・そこで、我々(ヒト)を含む人類の祖先達は全て、アフリカ大陸をその起源とすると捉え・・・結果としては、自らの生活に適した環境を求めて、移動しながら暮らすことに長けていた(≒移動せざるを得なかった)「ホモ・サピエンス」が、“世界各地へと拡散し、現在のような様々な人種を形成した”と考えるようになったのです。(※これをアフリカ単一起源説と云います)・・・ですから、一見して特徴が異なるように見える現在の人種も・・・生物学的には、“単一のホモ・サピエンス”という「カテゴリー」で括られている訳です。

     ☆「イヴ仮説」について・・・「ヒト」の細胞内にある遺伝子情報の「ミトコンドリアDNA」は、必ず「母親」から「子」へと受け継がれ、「父親」からは受け継がれないという特徴があります。したがって、この「ミトコンドリアDNA」を調べれば、「母親」、「母親」の「母親」、更に「母」の「母」の「母」の・・・と、“過去の女系”については、辿ることが出来るのです。(※前述のように、父親の系統を遡ることは出来ません)・・・また、この「ミトコンドリアDNA」は、「組換え」を経ることがないため、“個々人のミトコンドリアDNAにおける違いは、突然変異のみによる”と考えることが出来ます。
      そのため、このミトコンドリアDNAの突然変異に着目し、出来るだけ多くの民族から集めた遺伝子情報における塩基配列を、それぞれ詳しく解析することで・・・どの系統と、どの系統が近いものなのか? や、いつ頃に分岐したのか? 更に遡って、母方の祖先についてを・・・云わば、追跡出来る訳です。
      ・・・そして、“この方法”により得られた結果を基にして、系統樹(けいとうじゅ)を作成すると・・・“人類の系譜”は、二つの大きな枝に分かれ・・・一つは、“アフリカ人のみからなる枝”・・・もう一つは、“アフリカ人の一部と、その他全ての人種からなる枝”であることが解るとともに・・・“全人類に共通する祖先のうちの一人”が、「アフリカに暮らしていた」ことを示唆していたのです。・・・このように、“科学的に明らかにされた古代の一人の女性(=母親)”に対して、『旧約聖書』に登場する最初の女性である「イヴ」から当てはめて、名付けられた愛称が「ミトコンドリア・イヴ」です。・・・また・・・ヒトに共通する女系祖先(=母親)の一人=「ミトコンドリア・イヴ」・・・は、“今から、約16±4万年前”・・・つまり、“約20~12万年前頃に、生存していた”と結論付けられ・・・上記の「アフリカ単一起源説」を支持する“有力な証拠の一つである”とされています。

   ・・・「人類進化の大きな流れ」について、話を戻すと・・・

   ①猿人(アウストラロピテクス) ⇒ ②原人(ホモ・エレクトス) ⇒ ③古代型新人とも云われる旧人(ホモ・ハイデルベルゲンシスやホモ・ネアンデルターレンシスなど) ⇒ ④現代型新人とも云われる新人(ホモ・サピエンス) と考える説が、現在の主流です。
   「我々(人)」を、生物学的に分類すると、“言わずもがな”の「ホモ・サピエンス」です。

    ※「ホモ」とは、「人類」のことです。・・・ちなみに、“上記の流れ”から外れる「化石人類」と呼ばれる種類が他にも複数ありますが、“それらのほとんどは現生人類には繋がっていない”と考えられています。何らかの理由によって、子孫を残せずに、“絶滅してしまった種”ということになります。
   ・・・ちなみに、ヨーロッパ考古学の時代区分では・・・「石器の出現期(約200万年前頃)」から「農耕の開始期(※地質学的に云う完新世初頭)」にまでを、「旧石器時代」としています。

    ① 猿人(アウストラロピテクス)
      ・・・「脳の容量」が、“ヒトの1/3程度”であり・・・「身長」が、“110~150㎝と、チンパンジー並み”で、「種類」も、いろいろとおりました。・・・“後期のアウストラロピテクスは、常時であったかは不明ですが・・・「2足歩行」していたことが、アフリカ・タンザニアの「ラエトリ遺跡」の「足跡化石」などによって、“確実視”されています。また、1974年には、“約320万年前の地層”から、「アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)」という種の、保存状態の良い「骨格化石」が発見されています。・・・ちなみに・・・この「アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)」は、その発掘作業中に、たまたま「ビートルズ」の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ザ・ダイヤモンド」という音楽が流れていたため、「ルーシー」と名付けられました。
    ② 原人(ホモ・エレクトス)
      ・・・“180万年前頃”に登場します。これが、“真正のヒト(ホモ)属”であるとされています。・・・「ホモ・エレクトス」とは、「2本足で直立歩行するヒト」の意。・・・“その起源について”は、良く解っておりません・・・が、上記「ルーシー」が属する“アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)」から派生した”という説が強いです。・・・“初期のホモ・エレクトスの脳容量は、750~800mL程度”でした・・・が、“後期には、1100~1200mL”まで大型化しました。・・・この「ホモ・エレクトス」となってから、人類がアフリカ大陸を出立し、ユーラシア大陸のアジアやヨーロッパに到達することとなり、繁栄を遂げたのです。これを「第1回目の出アフリカ」と云います。尚、アジアで繁栄したのは、「ジャワ原人」や「北京原人」など。・・・「ジャワ原人」については、“ほんの数万年前まで生きていた”という説もあります・・・が、“アジアにおいて繁栄した原人は、現在のヒトとは、繋がりがない”と考えられています。・・・一方で、“ヨーロッパに進出したホモ・エレクトスは、ホモ・ハイデルベルゲンシスに進化した”と考えられています。

      ※「ジャワ原人」の末裔か? : そもそも「ジャワ原人」が生きていたのは、“約180~170万年前頃”と考えられて来ました・・・が、2003年に、「インドネシア・フロレンス島」において、小さな「人類化石」が発見され・・・その「身長」は、“1m程度”であり・・・「頭の大きさ」は、“我々(ヒト)の1/3程度(≒グレープフルーツ大)”。このように、「身体」が小さくなってしまった原因としては、「島嶼矮小化(とうしょわいしょうか)」という“孤立する島々などで起こりやすい現象のためではないか?” とも考えられています。・・・この種のことを、「ホモ・フローレシエンシス」と呼び、その愛称は「ホビット」。・・・“約10~1.2万年前頃まで生息していた”と推定され・・・“ホモ・エレクトスを、その先祖に持つと考えられるジャワ原人の子孫”とする説や、“小型ヒト属の新種”とする説などもありまして、“論争の真っ只中”と云えます。・・・いずれにしても、この時代には、既に我々(ヒト)=ホモ・サピエンスが進出して来ていたでしょうから、“同地域で一時期共存していた”のでは? とも考えられています・・・が、“彼らは、約1.2万年前の火山噴火により絶滅してしまった”と云います。

    ③ 古代型新人とも云われる旧人(ホモ・ハイデルベルゲンシスやホモ・ネアンデルターレンシスなど)
      ・・・この旧人も、現在のヒトとは区別されておりますが、上記のホモ・エレクトスよりは進化していたようです。「ホモ・ハイデルベルゲンシス」や「ホモ・ネアンデルターレンシス」などが属します。・・・「ホモ・ネアンデルターレンシス」は、「ネアンデルタール人」とも呼ばれ、“約3万年前頃までは、生存していた”という地域があり・・・そこで、現在の「ヒト=ホモ・サピエンス」と“同時期・同地域において、混生していた可能性”があります。・・・但し、二種の「ホモ=人類」が“互いに協調していたのか?、反目していたのか?、或いは無視し合っていたのか?” などについては、尚不明な点が多いです。

      ※「ネアンデルタール人」の謎 : 「ネアンデルタール人」は、「ドイツ・ネアンデル谷(タール)」において発見された「化石人類」です。“約30万年前頃に登場し、約3万年前頃まで生存”していました。「我々(ヒト)=ホモ・サピエンス」の“直系祖先ではない”との見解が有力。彼らは、ヨーロッパから中近東辺りで暮らし、「脳の容量」は“1400~1700mL”にも達していて、これは「ホモ・サピエンス」の「脳の容量」とされる“1400mL程度”を超えております・・・が、「脳内」において「精神」を司る部分、つまりは「前頭葉(ぜんとうよう)」の発達程度が悪く・・・「口腔形状」については、その「喉(のど)の構造」によって、“複雑な声は出せなかった”と考えられています。・・・結局のところは、「ヒト=ホモ・サピエンス」のような“複雑な言語体系を持ち得なかった”と考えられているのです。・・・それでも、高度な道具を作製したり、火の使用を行なうことが出来て、且つ“死者を埋葬することも出来た”と考えられています。(※但し、死者に対して花を手向けたかどうかについては議論あり)・・・もう少し、追記すると・・・通常、「ネアンデルタール人」を、ホモ・ネアンデルターレンシスに属する種”と、分類してしまいますが・・・もしも、“彼らが我々(ヒト)と同じ服装をしていたら、おそらく見別けが付かないだろう”と云われる程に、“我々(ヒト)=ホモ・サピエンスとの外見上の違いは、ほとんど無かった”と考えられているため・・・“彼らのこと”を、「ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス」とし・・・我々(ヒト)のことを、「ホモ・サピエンス・サピエンス(≒知恵を重ねるヒト?)」・・・と、細かく分類する学者さんもいるそうです。
       ・・・しかしながら・・・2010年5月、アメリカの科学雑誌・サイエンスで、興味深い説が発表されおります。・・・それによると・・・“ネアンデルタール人が約3万年前頃に絶滅する以前”・・・つまりは、“今から約10~5万年前頃(※その後の最新研究によって約6万年前頃と訂正されました)の中近東辺りにおいて、アフリカ大陸を出立した初期のヒト=ホモ・サピエンスとネアンデルタール人が出会い、交雑(混血)した後に、ヨーロッパやアジアなどへ拡散して行った”というのです。・・・その根拠としては・・・“現代のフランス人や、中国人、パプアニューギニア人の遺伝子内に、ネアンデルタール人特有の遺伝情報が1~4%含まれていた”と、報告しています。・・・ですから・・・“その当時のアフリカに残っていたヒト=ホモ・サピエンスの子孫には、この遺伝情報が伝わる筈が無い”とされるのです。

    ④ 現代型新人とも云われる新人(ホモ・サピエンス)・・・ホモ・サピエンスとは、知恵のあるヒトという意。上記のホモ・ハイデルベルゲンシスが、我々(ヒト)=ホモ・サピエンスの直系祖先と考えられています。

     ・・・ちなみに、我々(ヒト)のことを正式学名では・・・かなり長くなりますが・・・「真核生物ドメイン動物界脊椎動物門真正後生動物亜界左右相称動物新口動物上門脊索動物門脊椎動物亜門四肢動物上綱哺乳綱正獣下綱真主齧上目真主獣大目霊長目直鼻猿亜目真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科ヒト亜科ヒト族ヒト亜族ヒト(=ホモ)ヒト(=サピエンス)種」 ・・・と分類するそうです。

     さて、“約17~12万年前頃”に、「ホモ・サピエンス」が東アフリカに出現しましたが・・・“初期の現代人類(※我々現代人の祖先のこと)”が、“言語や、音楽、宗教などを、どの程度発展させていたのか?” については、明らかになっておりません。
     ・・・しかし、“出現後は、5万年前後の期間を掛けて、アフリカ大陸全体へ徐々に拡散”し・・・“約10~8万年前頃のホモ・サピエンスは、主流とも云うべき、以下の三つの集団に、まず分岐した“・・・とのこと。

     一つ目は、“南アフリカに居住し、カポイド(※コイコイ人及びサン人)の祖先とされる集団”。
     二つ目は、“中央アフリカと西アフリカに居住し、ニジェール・コンゴ語族とナイル・サハラ語族の祖先とされる集団”。
     三つ目は、“移住せず、そのまま東アフリカに留まった集団”。

     ・・・詳細については、良く解っていないのです・・・が、“上記三集団のうちの一部(一派)が、世界各地へと分散していった”のが、大元(おおもと)と考えられています。(※同じく、約10~8万年前頃か?)

     ・・・現在考えられている、“ホモ・サピエンスの世界各地(=アフリカ大陸以外)への分散(※「第2回目の出アフリカ」とされるが諸説あり)ルート”は? というと・・・
     “約7~6万年前頃(中期旧石器時代の末期)”に・・・まず、アフリカ大陸の対岸に位置するアラビア半島へ向かい・・・次に、イラン付近へ進出。・・・そこを起点として、“北ルート、南ルート、西ルートの三方面”へと拡散します。

       ・・・“南ルートを選択した集団は、約5万年前頃”に・・・“サフル大陸(現在のオセアニア地域)方面へ進出し、オーストラロイドの前身”となる。
       ・・・“西ルートを選択した集団は、約4~3万年前頃”に・・・“ヨーロッパ方面へ進出し、コーカソイドの前身”となる。
       ・・・“北ルートを選択した集団は、約5万年前頃”に・・・“アルタイ山脈付近を経由して東アジア方面へ進出し、モンゴロイドの前身”となる。

     ・・・上記のうち、“東アジア方面へ進出したホモ・サピエンスは、天然の要害とも云えるヒマラヤ山脈やアラカン山脈などが障壁となって、“中東地域やインド亜大陸の人々”との交流を絶たれて、独自の遺伝的変異及び環境適応を成し遂げることとなります。・・・こうして、“現代日本人が人種的に属す、モンゴロイドが形成された”と考えられています。・・・そして・・・“モンゴロイドは、その後の約1.4~1.2万年前頃には、当時のベーリング地峡(※現在のベーリング海峡のこと)を横断し、アメリカ大陸にも進出。・・・また・・・“約3,000~2,000年前には、太平洋の島々への移住”も果たしました。
・・・ちなみに・・・我々モンゴロイドは、内臓脂肪を貯め込む肥満遺伝子(※倹約遺伝子とも)を、他の人種と比較すると、2~4倍程度多く持っているらしく・・・“肥満症から糖尿病などに進行しやすい体質”とされています。・・・注意しましょう(^o^)

     一連の進化過程において、何よりも注目すべきは・・・“我々(ヒト)の現代的な行動の全てに亘る大飛躍や大躍進が、これら上記の分岐や分散があって、初めて起きた”と認められることです。
     「ヒト=ホモ・サピエンス」による道具作製や、行動全般における急速な洗練化は、“約8万年前頃から顕著”となります。
     そして・・・“言語、音楽、宗教、造形美術、自己装飾、埋葬儀式、取引などを含む現代的な行動が、約3万年前頃から、より鮮明”となりました。・・・つまりは、“多種多様な人種へ枝分かれすることとなる、それぞれの民族や人種の(祖先)集団”が、世界各地で、それぞれ定住し始め・・・“何らかの理由による、別地域への移住”を繰り返します。・・・特に、このページのテーマである「地名」を、それぞれの言語で発明し、各地に命名しながら。そして、“それぞれの歴史的過程を経て、様々な影響を受けながらも、現在に至る”と考えられるのです。


     さて、ここで・・・“我々現代人が暮らしている日本列島に絞り込みたい”と思います。・・・時代は、「旧石器時代」です。「人類」が「日本列島」へ移住した時に始まり・・・“その終期は、約1.6万年前頃”と考えられています。「無土器時代」や「先土器時代」とも云います。・・・地質学的には「氷河時代(=氷河期)」と云われる“第四紀更新世の終末~完新世初頭に掛けて”です。・・・ヨーロッパ考古学の時代区分で云えば、「後期旧石器時代」に概ね相当します。・・・尚、この「旧石器時代」に属すと想定されている遺跡は、“日本列島全体に数千カ所”あると云われております。

     ・・・ちなみに、この「旧石器時代」における「(世界の)人口推計値」が・・・研究者によって、算定する基準などに、それぞれの違いはあるものの・・・概ね以下のように発表されています。

     ・・・「前期旧石器時代(約400~20万年前)」:12万5千人 (注:“約400~200万年前”のいわゆる「先史時代」、つまりは「猿人(アウストラロピテクス)の時代」も含みます)
     ・・・「中期旧石器時代(約20~4万年前)」:100~120万人
     ・・・「後期旧石器時代(約4~1.3万年前)」:220~300万人 (注:日本では「縄文時代草創期」をも含みます)


     ※(日本の)旧石器時代の終期とは・・・青森県外ケ浜町の「大平山元Ⅰ遺跡」から出土した土器に付着していた炭化物を、「AMS法放射性炭素年代測定暦年較正年代法」という手法により調査し、そこから得られた約1万6,500年前のものという分析結果よって導き出されたものです。そのため、「大平山元Ⅰ遺跡」は、“後期旧石器時代末期頃から縄文時代草創期に掛けての遺跡”と云うことが出来ます。・・・尚、ここで年代測定された土器は、“世界で最も古い時期の土器である”とも云えます。・・・また、この「大平山元Ⅰ遺跡」から発掘された「石鏃(せきぞく:※石を材料として作られた鏃〈やじり〉、矢尻とも。または矢先や矢の根のこと。古い呼び方では、石弩〈いわのやのね〉、矢の根石〈やのねいし〉とも。いずれにしても、矢の先端に紐などで固定させて用いる刺突用の小型石器のこと)」は、“世界最古の弓矢使用”を示唆しております。

     ※日本列島における人類の形跡について・・・“現在、発見されているものの中では、日本最古のものではないか? と注目されている”のが・・・島根県出雲市多伎町砂原の「砂原遺跡」です。2009年に発掘調査が行なわれました。ここの出土品や、それらが出土した地層などによって、“その年代は、約12~11万年前頃(中期旧石器時代)に遡ること”が出来るようです。
      ・・・しかしながら・・・そもそもとして・・・日本列島では、その土壌性質により、骨などが遺り難いこともあって・・・この「砂原遺跡」を含め、“旧石器時代の前中期頃における人類化石”が、未だ発見されておりません。・・・それでも・・・「人類」ではないのですが、“最終氷(河)期以前に渡来していたと見られる哺乳動物化石”が、「野尻湖湖底遺跡」をはじめとする日本各地から出土しているため、こういった動物を狩るために、ユーラシア大陸から“旧石器人が日本列島に到達していた可能性はある”と考えられています。・・・つまり、“ヒト=ホモ・サピエンスに進化する以前”・・・或いは、“ヒト=ホモ・サピエンスが日本列島へ到達する以前の原人や、旧人段階の人類が遺した旧石器文化の形跡ではないか? ということさえ、想像出来る訳です。・・・また、そもそも旧石器時代の前中期頃における遺跡調査例が少なく、出土品としては石器や生活道具類が発見される程度なので・・・日本列島内における前中期旧石器時代については・・・“原人や旧人段階の人類なのか否か? についてを別にした”としても・・・“彼らの生活スタイルが、狩猟を中心とした短期間の移動生活だっただろう”と推測されているのです。
      ・・・尚、南九州地方の地層は、火山灰による時代測定が比較的容易であり・・・種子島の「横峯遺跡」における、“約3万年以上前の地層からは、日本最古の調理場跡”が発見されています。


     ・・・さて、そもそも・・・“この地球上に、現在の日本列島のような弧状の形が現れて来たのは、約500万年前頃”とされています。・・・但し、“その形状”は、現在のものとは大きく異なり・・・まだ、ユーラシア大陸と陸続きの状態でした。・・・その後の火山噴火などによる地殻変動や、氷(河)期を繰り返し経ることによって、、地形を変化させて来ました。・・・それから、“悠久の時”が過ぎて・・・“旧石器時代頃になる”と・・・

     【旧石器時代・日本列島内の様相は?】

     ① 約2万年前頃(後期旧石器時代)の日本列島の形状と、道具としての石器とは?・・・未だに、“現在の本州部分や、四国部分、九州部分などが分離せずに、一つの大きな地塊、つまりは一つの大きな島”でした。・・・“この一つの大きな島”と、“現在の北海道部分が陸地として繋がるか、繋がらないかという程度、微妙な感じだった”と云えます。ただ・・・それでも、“現在の北海道部分とサハリン島(旧樺太)部分が連続して、シベリア方面のユーラシア大陸とは陸続き”となっており・・・また、“現在の朝鮮半島部分とは、対馬海峡らしき海域内に壱岐島の原形のような島”が現れていました。・・・ちなみに、“この時期が、ちょうど氷(河)期最後の更新世後期頃”とされています。

     ・・・“従来説”では、氷(河)期の日本列島が、ユーラシア大陸と陸続きだったため、“現代日本人の直系祖先に当たる、或る集団が獲物を追って、日本列島にやって来た”とされておりました・・・が、近年の研究により・・・“たとえ、氷(河)期の最寒期であっても、津軽海峡部分と対馬海峡部分に、海域部分が残ってしまうため、完全に陸続きとはならなかった”ことが解っています。・・・但し、これと同時に・・・“氷(河)期の最寒期でも海が氷結しなかったため、当時の旧石器人達が歩行による渡海が不可能であり、且つ筏(いかだ)や小舟による操船技術を持ち得なかった場合”には、到底説明出来ない発見がされています。・・・現在の関東地方にある後期旧石器時代遺跡から、伊豆諸島・神津島(こうづしま)産の「黒曜石(こくようせき)」が発見されているからです。このことなどを根拠として、“現代日本人の直系祖先に当たる集団は、筏や小舟に乗り、日本列島へ渡海した”という説もあります・・・が、残念ながら・・・“この時期頃と確認出来る筏や小舟などの遺物そのもの”が発見されていないため、“少数意見”となっています。

     ・・・しかしながら、この旧石器時代を通じて、“現在の北海道部分を除く日本列島全域(※一つの大きな地塊、つまりは一つの大きな島)において、ナイフ形石器と呼ばれる石器が広く使用されていたこと”も分かっています。
     “約2万年前頃”には・・・“シベリア方面”から、新たに「細石刃」と呼ばれる石器が齎(もたら)され、“現在の東日本部分”を中心に広まり・・・暫くは、“東日本部分の細石刃文化と、西日本部分のナイフ形石器文化が併存”していました。・・・しかし、“約1.5万年前頃”になると、西日本のナイフ形石器は、急速にその姿を消すこととなり、東日本と同様の細石刃が広く使用され始めます・・・
     ・・・が、その一方で、時を遡ること約2万年・・・“約4万年前頃(後期旧石器時代早期)には、当時の旧石器人による、知的で効率的な採掘作業の形跡と云える約4~3万年前頃のもの”であり、且つ世界最古と目される磨製石器(※局部磨製石斧とも)の多くが・・・「高原山黒曜石原産地遺跡群(※栃木県北部の高原山、ちなみに火山です)」・・・を始めとして、“日本列島の各地で作製されていた”ことが分かりますし・・・このことからも、“日本列島では、かなり昔から独自の磨製石器文化が形成されていたこと”なども窺い知れます。・・・更に、大分県豊後大野市の「岩戸遺跡」からは、“約2.4~2万年前頃のもの”と目される「こけし型の岩偶(人形)」が出土したことで、“旧石器時代にも、何らかの信仰的なものがあった”ことを窺い知ることも出来るのです。・・・“この時代”は、とかく謎も多いのですが、とても興味を掻き立てられる時代と云えます。

     ② 自然界の様相は?・・・更新世も中頃を過ぎる・・・と、“寒冷な氷期と温暖な間氷期が、約10万年毎に繰り返される”ようになって・・・植生の変化も、これに適応するかのように・・・規則的な変化を見せています。・・・この氷期を、“約6万年前後で区切る”とすると・・・前半は、温暖性の針葉樹によって占められる針葉樹林の時代であり・・・後半は、亜寒帯の針葉樹が繁茂する時期(※約5万年前頃と約2万年前頃の二度)と、それ以外のコナラ属が繁茂する時期から成ります。・・・“最終氷(河)期の最盛期(約2万年前頃)の植生”は・・・“現在の北海道南部から中央高地に掛けては、亜寒帯性針葉樹林”であって・・・“それより西側は、温帯性針葉樹と広葉樹が広範囲に混生”し・・・“暖温帯広葉樹林(≒照葉樹林)は、西南日本の太平洋側沿岸の一部と南西諸島に後退していた模様です。
     ・・・そして、“この頃の日本列島には、姶良(あいら)カルデラの巨大噴火による大量の火山灰”が、九州地方から東北地方辺りまで降り注ぎ、各地の植生に対しても大きな影響を及ぼします。・・・“そもそも寒冷化していた時期に、火山噴火が起きた”ことにより・・・また結果としても、“火山灰を含む分厚い雲が長期間発生し、列島各地を覆った”ことによって、植物は光合成に必要な日光を得られ難くなって・・・“更に針葉樹林化を加速させた”と考えられているのです。
     ・・・また、動物界では・・・“渡り鳥などの鳥類以外にも、幾度となく様々な陸上動物が、氷(河)期に大陸から日本列島へ渡って来た”と考えられています。・・・“これらの動物群も、我々の祖先(人類)と同様に、それぞれの食糧を求めて日本列島の環境に適応していった”のでしょう。・・・“最終氷(河)期中にユーラシア大陸と、ほぼ繋がっていた現在の北海道部分では、マンモス動物群の渡来が可能だった”ことが解っています。・・・かなり遡ります・・・が、“約35万年前頃には、ナウマン象が日本列島部分に出現していた”ものの・・・“約1.7万年前頃には、このナウマン象そのものが絶滅しておりますし・・・また、野尻湖遺跡(約4万年前頃)の地層からは、“旧石器人の手によるナウマン象の骨を加工した骨製品が纏(まと)まって発見されている”のです。(※〈超〉古代の野尻湖周辺における狩猟自体の決定的な証拠は未発見ですが、骨を加工していたという可能性を強く示唆しています)・・・ちなみに、ナウマン象などの象一頭分の食肉によって・・・“約50人を一集団とした場合、総カロリーにして約45日分を賄うことが出来た”・・・と推定されていますので、氷(河)期の最盛期(約2万年前頃)の人類とされる旧石器人達にとっては・・・食糧確保が、自身や集団が生存するための最優先事項であり・・・結果として、“日本列島内に残っていたマンモス動物群を獲り尽くしてしまった”と考えられます。
     ・・・後期旧石器時代には、主に「コナラ」や、「クリ」、「クヌギ」などの落葉広葉樹林が・・・西日本から東日本を、次第に覆っていったようです。
     ・・・“日本列島における氷期から間氷期への急激な変化”は、地質学的に視ても同様であり、これらを更新世から完新世へと、明確に区分しています。・・・“約11万年前頃から涼しくなり始めた”という一連の気候変化や、海流変化、海面温度の変化、植生を含めた生態系の変化も・・・云わば、“地球の営み”によって齎(もたら)されていました。・・・このことは、当然に・・・動物群や、我々(ヒト)の祖先に対しても、多大な影響を及ぼします。・・・例えば・・・それまでは、全国的に均一的な石器文化だったのが、“この変化を契機として、地域色のある石器文化”に・・・つまりは、西日本と東日本といった、それぞれの石器文化圏の分立に影響を及ぼした”という可能性などが考えられています。・・・また、生物学的に云っても・・・“我々(現代人)の肥満遺伝子や倹約遺伝子とも呼ばれる遺伝情報(DNA)として、前回の氷(河)期における食糧確保や生存競争に関わっていたため、特に厳しい時代を乗り切ったことに起因する形跡”も確認されておりますし・・・。

     ③ 旧石器人の食糧は?・・・主に、狩猟や漁労によって食糧を得ていたと考えられ・・・
     ・・・狩猟については・・・当時の遺跡から「ニホンシカ」や「イノシシ」、「ノウサギ」などの中小哺乳動物、「ナウマン象」や「野牛」、「原牛」など大型哺乳動物の獣骨が出土しており・・・また、これらの大型哺乳動物を解体するための作業場(※解体場遺跡とも)や、解体に適した石器類(※狩猟具に適す先の尖ったものや、壊れ易いという性質を持つ一方で、切ることに長けたものを作製し発達させていました)が、発見されております。
     ・・・漁労については・・・当時の直接的な証拠は未発見なのですが・・・「追い込み漁」などの、“或る程度の集団化を必要とする漁法や、洗練化された漁法”は別としても・・・ごく原始的な「刺突漁」などならば、“充分に可能だった”と推測されています。・・・また、漁場についても、“そのフィールド”は・・・“河川以外でも、沿岸部辺りまでは達していただろう”と考えられています。・・・それは、伊豆諸島産・黒曜石を始めとして、魚類や甲殻類などに適した加工石器(※細石刃と呼ばれます)が、同様に伊豆諸島で発見されており・・・これらと同じ黒曜石が南関東各地の遺跡でも発見されているため・・・結果としても、“旧石器人が、操船技術などの、何らかの海上交通手段を持っていた”ことが想像出来ますし・・・また、日本列島における旧石器文化と、既に原始的な刺突漁に用いた道具類が発見されている東シベリア地方とが、文化交流面でも強い関係性があったことを示しているからです。
     ・・・尚、上記において・・・主に・・・としたのは、さすがに“この時代に本格的な農耕は無理だった”としても・・・陸上の「草花」や「木の葉」、「木の実」、おそらくは「海藻類」なども、原始的な方法によって採集していた可能性があるからです。・・・単純な話として・・・旧石器人は、「無毒」であることさえ理解出来れば、それらを食糧にしていたと考えられます。また「有毒」であったり、反対に「効能あり」と経験的に理解した上で、“独自の言語”によって、他の個体に対して、その意思を伝達することが出来たならば・・・下記⑤[旧石器人の「木の文化」と「火の使用」について]でもふれますが・・・世界史的に見ても“この時代(前期旧石器時代)当たり”から・・・「原人」や「旧人」の段階であったとしても、人為的な火の使用を始めたと考えられる時代ですので・・・もしも、「有毒」と判断出来るものは、狩猟などで使用したり・・・逆に「効能あり」と判断出来るものは、「薬」として利用するなど・・・様々な可能性が考えられるでしょう。・・・ますます、〈超〉古代ロマンが膨らみます。

     ④ 旧石器人の住居や墓制は?・・・日本列島における旧石器時代遺跡がある場所は、現代の「台地」や「段丘」、「丘陵」、「高原」など、比較的に見晴らしの良い、洪積世の台地縁辺部にあることが多いです。・・・これは現代人と、ほぼ同じ考えによるものだと想います。
     遺跡は・・・多くの場合、“旧石器人の日常生活の場”としての「拠点遺跡(※住居跡とも)」や、獲物を解体するための「作業場(※解体場遺跡とも)」、石器を作製加工する「石器製作場遺跡」、「石器や剥片など生活道具類遺物が集中している箇所」、「複数の礫群(れきぐん)が集中している箇所」や、「炉址(ろし)」、「配石」、「土坑(どこう)」、「墓杭」などで「構成」されています。
     ・・・“彼ら”の定住を想わせる定住住居跡の出土例が少ないことから、“彼ら旧石器人は、或る一定の生活領域内を移動しながら狩猟や、漁労、採集によって暮らしていた”ことを裏付けていると考えられています。
     ・・・そのため、果たして“集落と云えるほどの部族集団だったのか? や、相当規模を有していたのか?” や、“個体によって、社会的な役割が決められていたり、分業体制を有していたのか?” などについては、残念ながら良く解っておりません。
     ・・・“旧石器時代の人々の多く”が、「洞穴」や「岩陰」などを、“雨よけ”などのために利用していたことは、一般的に考えられていることであり・・・発見される遺跡数は、少ないながらも「半地下式竪穴住居」が発掘されております。

     【旧石器人の住居・・・大阪府藤井寺市の「はさみ山遺跡住居跡」:※おそらくは、「後期旧石器時代」に当たる“約2.2万年前頃のもの”と推定されています】
     ・・・この住居跡は、深さ約30cmの「半地下式竪穴住居」であり・・・“その窪地の周囲”には、1.0~1.7mの間隔をおいて直径14~22㎝の「柱穴」が7つあり・・・“その外側”には、浅い「溝」が廻らされていました。・・・“住居の範囲“は、東西に約6m×南北に5m・・・“その形状”は、「楕円形」・・・「柱」は、合計13本と推定されています。・・・尚、「柱穴」は、「円状」に並び・・・“各柱穴”が、その円の中心に向かって斜めに掘られ、これに「木」を差し込むと、上方で“その中心に集まる角度”となっていた(※つまりは屋根部分とする構造)ため・・・結果として、約6m程の「円錐形竪穴住居」が復元出来た訳です。
     ・・・旧石器人が、いわゆる「土間」に当たる部分を、“わざわざ約30cm掘り下げた理由”としては・・・おそらくは、“冬場に暖をとるためだった”と想います。・・・「地面」には、「地熱」が伝わるために多少なりとも温かく、逆に夏場には多少涼しく感じますので。
     ・・・いわゆる「屋根」に当たる部分には、「雨よけ」や「保温」などのために「草」や「皮」を覆っていたと考えられています。
     ・・・この「はさみ山遺跡」において出土した、ほかの「遺物」としては、“約1.8万年前頃”の「ナイフ形石器(サヌカイト製)」、「翼状剥片」、「石核(※一般に打製石器の素材とされる剥片をはがし取った際に残った原石のこと)」など約200点もありました。
     ・・・尚、住居跡とは少し離れた場所にあった「沢」を挟んで東側には・・・縦約160cm×横約270cmの「楕円形状」の「土坑」が見つかっており・・・これが、いわゆる「墓(=土坑墓〈どこうぼ〉)」ではないか? と推定されています。

     【旧石器人の墓制】
     ・・・上記の「はさみ山遺跡」でも同じですが、そもそもとして、沖縄など一部地域を除く日本列島では・・・その「土壌性質」や、「微生物」などの働きにより、骨を分解してしまうため、肝心の「人骨」や「人類化石」が見つかっておりません。・・・しかしながら、“死者を埋葬した”と考えられる「墓(土坑墓)」が複数見つかっており・・・そこには、“死者が生前に使用していた”と考えられる「装身具」や「石器」、「玉(ぎょく)」などが副葬されていました。・・・これらの副葬物には、「赤色顔料」とされる「ベンガラ(=紅柄〈べにがら〉)」が付着したまま残存していたものもあります。
     ・・・このことが・・・“死者に対してのみ行なう宗教的埋葬方法だったのか?”・・・はたまた、“死者が生前に自身へ施した、単なるシンボルペイント(=マーク)だったのか?” など、もはや特定出来ませんが・・・世界的に見ると、「東シベリア」や「カムチャッカ半島」、「東アジア」などにおいては、“死者を埋葬するという習俗”が、遅くとも「後期旧石器時代(約2万年前頃)」には現れて来た”と云われておりますので・・・“何らかの意味があった”ことは、ほぼ確実と云えそうです。

     ⑤ 旧石器人の「木の文化」と「火の使用」については?
     “旧石器人が使用していた道具類の形跡”・・・“石器類上での話”となると・・・“この頃”は・・・日本列島に「銅」や、「青銅」、「鉄」などの先進技術が齎(もたら)されることとなる、“遥か以前の話”となりますので・・・残念ながら・・・“堅い樹種の生木(なまき)などの植物資源を加工するのに有利となる頑丈な石器(※削器や石斧)は、あまり発達していなかった”と考えられております・・・が、そもそもとして・・・“この頃”の日本列島は、「旧石器時代」の「氷期」から「間氷期」に当たり、“概ねのところ、森林資源に恵まれた地域だった”とも云えます。
     ・・・“これらの森林資源”を、「旧石器人」は、後世の「縄文時代」と呼ばれる時代に至るまで(≒最終氷〈河〉期が終わった頃)、“むざむざ、見逃し続けていた”のでしょうか?
     ・・・“我々現代人”は当然のように、“これらの森林資源”が「道具」や「燃料」など、様々な用途に利用出来ることを理解している訳ですが・・・
     ・・・更には・・・“彼ら旧石器人が生きた時代”・・・世界各地で火山噴火などが多発していた頃・・・“彼ら”は、「火砕流」や「落雷」による「森林火災(=山火事)」などの自然現象を、まさに“目の当たり”にしていました。・・・その当時には、犠牲者が出たかも知れませんし・・・何よりも“明日の糧(かて)を求めて、とりあえず安住の地へと避難するため、一定期間については移動生活をしていた”と考えられます。・・・それと同時に、“彼らは経験から様々なことを学んだ”のでしょう。・・・そして、“移動生活をする発端”となった、これらの自然現象についてを、“それぞれの部族内、或いは異なる部族同士”においても、「伝承」や「逸話」、「神話」などで共有していた”とも考えられます。・・・そもそもとして、“木の上での暮らし”・・・それこそ、「類人猿」と呼ばれる約700万年~600万年前までは・・・「森林」こそが、“我々(ヒト)の祖先の生活領域のほとんどだった”のですから、そこには「木」や「森林」との“永~いお付き合い”がある訳でして・・・少なくとも、ヒト(ホモ)属とされている「原人」⇒「旧人」⇒「新人」へと進化する過程において・・・この旧石器人が日本列島に到達する以前から、“火を操る技術そのものを、既に習得していた可能性は大きい”と云えるのです。・・・そうでなければ、氷(河)期最寒期などが、幾度も訪れる厳しい時代を乗り越えられなかったのではないか? と考えます。・・・それとも・・・“現代人に繋がる全ての祖先達だけ”が、氷(河)期最寒期などに限って、その都度・・・“比較的温暖な地方へと大移動し、厳しい時代を遣り過ごした”のでしょうか?・・・

     【旧石器人の「木の文化」について】
     ・・・1931年に、「人類化石」の一部が出土し、「明石原人ではないか?」と、かつて議論を巻き起こした兵庫県明石市の「西八木遺跡」が発掘された地層と・・・同じ地層とされる「更新世中期」の「礫層(※最終の間氷期後半:約8万年前頃~最終の氷期前半:約6万年前頃)」から、“人工的な加工痕”が認められる「板状」の「木片」が、1985年に発見されました。・・・この「板状木片」のサイズは、長さ23.4㎝×最大幅4.8㎝×厚さ0.4㎝というものであり・・・“少なくとも、二種類の石器を用いて加工されたもの”と考えられています。・・・しかし、その「用途」については未解明。・・・それでも、“注目すべき事”としては・・・一つ目に、“この板状木片の樹種”が挙げられます。・・・鑑定によれば・・・樹種については、「ハリグワ」という広葉樹の一種であって・・・この「ハリグワ」が、“なかなか板状には裂け難いという性質のため、人工的に加工されたものである”と推定されているのです。
     ・・・注目すべき二つ目の点は、“この板状木片が作製された年代”です。・・・「更新世中期の礫層(※最終間氷期後半:約8万年前頃~最終氷期前半:約6万年前頃)」からの出土で間違いなければ・・・“中期旧石器時代のもの”となり・・・この頃の我々(ヒト)=ホモ・サピエンスは? と云えば、この地球上に出現してはおります・・・が、“約6万年程前”、つまりは「中期旧石器時代末期」にならないと、“アフリカ大陸を出立すらしていない筈”ですし・・・少なくとも、“当時の日本列島は、旧人の時代”ということとなってしまい・・・“この調査結果に立脚する”と・・・“旧人が作製した板であった”とする可能性が生じてしまうのです。・・・うーむ・・・“ヒトの進化過程における、大きな矛盾点を含むか”のような・・・「謎」が、どんどん深まってゆく感じが致します。・・・
     ・・・尚、これと同じ地層から、一つだけ三角形の小さな「碧玉(へきぎょく)製石器(剥片)」が発見されています。・・・この「碧玉」は、当然に、「硬度」が高いものであり、すなわち“硬い石”。・・・これを加工して、装身具などの道具とするためには・・・通常の場合、“硬度が同程度以上の石同士”を打製して作らねばならず、そのヒトの経験上から得られる判断や根気とともに、それ相応の工夫や、工作時間を必要としますし・・・“硬いが故”に、後世では、“古代人達”の「祭祀」や「交易」などで利用され、いわゆる「宝石」として位置付けられた、“当時としても貴重な石”なのです。・・・“これらの事”は、いったい何を物語っているのでしょうか?・・・この「碧玉製石器(※剥片)」の存在は・・・“崖地などの大規模崩落などの自然現象を除く”と・・・“いわゆる自然の力だけ”では説明することが難しく・・・地球の重力を利用し、高い崖地の上から、下方の大きな石を目掛けて、何度も投げ付けるなどしない限り・・・いずれにしても、ヒトの手による物であることは、ほぼ間違いないのでしょうが。・・・とすると、“ヒトの進化過程そのもの”や、“文化的にも途上過程”とされる「中期旧石器時代」などに対して・・・それこそ、“一石を投じているか”のようにも想えますね。・・・
     ・・・ちなみに、この「ハリグワ」ですが・・・そもそもは、“中国・朝鮮原産の樹種”とされ、その特徴や利用法は・・・
     [特徴]・・・棘がある雌雄異株の落葉小高木。腋目は短くまっすぐ伸びて棘となる。葉は互生で表面には艶がある。雄花序は葉腋にでてほぼ球形。雌花序もほぼ球形。花被片は肉質となり、赤く熟し食べられる。
     [利用法]・・・樹皮や根は腰痛、喀血(かっけつ)に。果実は食用に。材としては、黄色の染料に。樹皮は製紙材料に。葉はクワよりも硬いが、蚕は食べる。・・・とのことであり、“意外と多用途”なのです。
     ・・・「三角形」の小さな「碧玉製石器(剥片)」については、“碧玉単体が海を渡ってやって来る(=漂着)”ことは考え難いため(※比重で海底に沈みますので)・・・これらもまた、“古代ロマンを膨らませる要因”と云えます。

     上記④【旧石器人の住居】のような「竪穴住居」と云うと・・・我々は、つい・・・「縄文時代」や「弥生時代」の住居形態をイメージしてしまいますが・・・これら竪穴住居の「原形」と云いますか、“基本的な姿”は・・・“おそらくは、後期旧石器時代当たりまで遡ることが出来る”ことが解ってまいりました。
     そのことによっても、“旧石器人が、住居のための建築材料となる木材を実際に利用していたこと”が解ります。
     ・・・おそらくは・・・“生木などの堅い木々に適した堅い石器を棒に取り付ける”ことさえ出来れば・・・きっと、「石斧」や「ショベル」、「スコップ」などの道具類を準備するなどして・・・“暮らしの各場面に役立つ道具を発明して、生産効率を上げていくことも出来た”でしょう。・・・「はさみ山遺跡住居跡」の“住人とされる旧石器人達”は、・・・“コツコツと、小人数で合計13本もの木々を、大きな石斧などを使って倒し、建築資材の柱とした”のでしょうか?・・・しかも、直径14~22㎝位の「丸太」です。・・・これは、現代人でも、けっこう“きつい作業”となります。・・・後に、“どこかへと移住する”ことを想定していた“簡易式住居”とは・・・到底想えないのですが。

     【旧石器人の「火の使用」について】
     ・・・ここでは、“そもそも、人類がいつ頃から火を利用し始めたのか? など”について、ふれる前に・・・“日本列島における旧石器時代の遺跡内で現れている、火を使用していた形跡について”を・・・整理しておきたいと思います。
     ・・・上記④【旧石器人の住居】で「複数の礫群(れきぐん)が集中している箇所」、「炉址(ろし)」としていたところです。

     まず、「複数の礫群(れきぐん)が集中している箇所」の「礫群が集中している箇所」とは・・・簡単に云ってしまえば、「野火」や「焚き火」の“形跡”なのですが・・・“旧石器人が、実際に行なった火の使用例として、真っ先に考えられている場所”のことです。・・・“だいたい、拳大(こぶしだい)の、焼かれた礫(れき)が、1~3m程の範囲内から纏まって出土した状態”を指します。
     ・・・「複数の」となりますから・・・旧石器時代遺跡でも、「礫群(れきぐん)集中が見られる箇所」は一つではなく、幾つか発見されることが多い訳です。
     ・・・「礫群」の中の「礫」には・・・「礫」が“火の熱”によって、「赤」や「黒」に変色していたり、細かな「ヒビ」が一部入っているものもあります。
     残念ながら、この「礫群」の用途を決定付ける出土事例は、発見されていませんが・・・と云いますか、そもそも“野火や焚き火の形跡なので、その用途の特定自体、かなり困難”なのです。・・・しかし、それまでの人類史や民俗例などから、“主に加熱調理に利用した”のではないか? と考えられています。

     「炉址(ろし)」とは・・・文字通り、「炉(ろ)の址(あと)」です。この「炉址」は、“そのタイプ”が、幾つかあるのですが・・・ここでは、「石囲い炉」を“その一例”として挙げます。・・・
     ・・・「石囲い炉」では・・・ただ単に、“発掘地層内に火を使った形跡”が見つかるだけでなく・・・“だいたいグレープフルーツ大”の・・・「川原石」などの自然石を、「コ」の字状に配石したものであり・・・“その広さ”は、だいたい1m四方です。
     ・・・「コの字状」に並べられた自然石は、もちろん“当時の地表面にあった土が焼けて硬くなり、赤黒く変色”していたりします。
     “炉址(ろし)の内部やその周辺から”は、「焼けた礫」の「破片」や「炭化物」が出土します。・・・そして、「焼けた礫」には、“もの”が燃焼する際に生じる、「スス(=炭素)」や「タール」などの“形跡が遺る”訳です。・・・やはり、「加熱調理」や「暖」をとることを目的としたのでしょう。

     「礫群」や「炉址」とともに、旧石器人の「火の使用」についてを考える上で“重要な形跡”とされているのが、上記の「炭化物」です。それらは、“僅か数㎜程度”の、細かな物質です。・・・“この炭化物が集中している箇所”を、特に「炭化物集中」と云います。
     ・・・ちなみに、ここで云う「炭化物」とは、「燃材」としての「木々」が焼けた際の・・・いわゆる「燃えカス」のことです。“その一つ一つは極めて小さな粒”です・・・が、これらが集中していることによって・・・“旧石器人が、その場所で”・・・云わば、「反復継続」して「火」を利用していた可能性が高いと推測出来る訳です。
     また、“旧石器時代の遺跡内”では・・・この「炭化物集中箇所」と、石器を作製加工する「石器製作場」が近接していることが多く、“作業場近く”で効率良く「火」を利用していたことも解ります。

     ・・・それにしても、かなり「旧石器時代」の“イメージ”が違って来ませんか?・・・当然「マッチ」や「ライター」など“無い時代”です・・・旧石器人は皆、“意外と器用で、火起こしが上手かった”のかも知れません。・・・この「火起こし」が特に上手かったとされる「ヒト」は・・・現代で云う「シャーマン」や「魔法使い」のように・・・他のヒト属から、特別視されただけのことなのでしょうか?・・・或いは、それぞれの集団において、役割を与えられた、云わば「火起こし専門職」とも呼ぶべき「ヒト」だったのでしょうか?
     ・・・いずれにしても・・・“彼らの生活スタイル”が、「狩猟」や「漁労」、「植物採集」などによって“食べていくこと”を中心とする、“あくまでも、一定期間の定住生活だった”と推測されてはいても・・・やはり・・・“この時代当たりから、現代人に通じる一種の社会性が、少なくとも根付き始めていた”とも云えるのではないでしょうか?・・・もっと云うと・・・“むしろ発想が逆”で・・・“火を利用する技術と一種の社会性、それと各言語などの意思伝達手段を持ち得た旧石器人達だからこそ、その都度の環境変化に適応することが出来て、必然的に絶滅を免れて来た”のではないでしょうか?
     ・・・この「火の使用」と「ヒトの社会性」との、“切っても切れない程の密接な関係”は、「何故ヒトは人なのか?」という“根源的なテーマ”を含んでいるため、もう少し掘り下げたいと思います。

     ・・・それでは、“そもそも「人類」が、いつ頃から「火」を利用し始めたのか?”という点なのですが・・・スミマセン。“ハッキリ”としたことは解っておりませんが・・・
     ・・・“人類が突如として、火起こしを始めた”とは、考え難いため・・・“初期頃”の「火の利用」については、「落雷」や「山火事」などによって、“現に燃えている木の枝など”を、「洞窟」や「住居」へ持ち帰り、「火種(ひだね)」として保存したのではないか? と考える説が強いです。
     現在、“人類が火を使用した形跡”として考えられている「遺跡」としては・・・
     ・・・「南アフリカ」の「スワルトクランス洞窟」:約160万年前頃
     ・・・「東アフリカ・ケニア」の「チェソワンジャ遺跡」:約140万年前頃 などです。
     ・・・この時代の主な人類は、「原人(ホモ・エレクトス)」と云われており・・・“アジアで繁栄し、その後に絶滅したと見られる北京原人の発見地(=中国の周口店)”では、“分厚い灰の地層”が発見されているため、「火」を絶やさぬように燃やし続けた形跡ではないか? との説もあります。・・・しかし、いったい何のために?・・・“様々な可能性”が考えられますね。

     ・・・とにもかくにも、「ヒト(ホモ)属」による「火の利用」が始まってから、“ヒトは、社会的にも文化的にも、劇的に洗練された”と考えられています。
     このことによって、“ヒトの生態は、火の明るさや、その熱のため”に一変しました。「夜間」や「寒冷地」における活動域が拡大し、「ヒト」を襲う「獣」から身体を守ることが出来たり、「虫除け」とすることも出来るようになった訳です。
     “その初期頃”には・・・“自ら”による「火起こし」が難しかったため、「火」を共同管理する必要性に迫られ、“ますます集団生活を洗練させた”と考えられています。
     そして、「火の熱」を用いた「調理(=加熱調理)」を習得することによって・・・「栄養摂取面」をも、劇的に向上させることとなりました。

     ・・・そもそも、“原人(ホモ・エレクトス)に進化する以前の猿人(アウストラロピテクス)段階”では・・・“彼らは、いったい何を食べていた”のでしょうか?
     ・・・“彼らの生活領域”は、主に「森林」でした。・・・おそらくは・・・他の「獣」に、“彼ら自身が捕食されてしまうという危険性があった”ため・・・“手に届く範囲内のもので、無毒であると、理解出来たもの”ならば、何でも「食用」としていた可能性があるでしょう。
     ・・・「果実」や「種子」、「花」、「葉」、「樹皮」、「草花」などの「地下茎」や「根」、「蜂蜜」、「アリ」などの昆虫類(※動物性タンパク質です)、「ネズミ」などの小動物、“その他中小哺乳動物の死骸”・・・だったと考えられています。
     ・・・基本的には、“草食系”・・・厳密に云うと、「雑食」であり・・・当然に、「生食」でした。

     ・・・しかし、「猿人(アウストラロピテクス)」が、「火」を使用して「肉食」が進むと、「動物性タンパク質」や「(動物性)脂質」などの効率的な栄養摂取が可能となって・・・結果として、生物学的な身体変化を引き起こすことになりました。
     その「身体」は・・・それまでは大量の植物を消化するために、主に必要とされた大きな腸管を、やがて小さくさせるとともに・・・「動物性タンパク質」や「(動物性)脂質」を摂取し続けたことにより・・・「脳」が大型化したのです。・・・これを、「脳と腸のトレードオフ」と云うそうです。
     ・・・そこに・・・“何万年も続く氷(河)期など”の・・・大きな気候変動が繰り返され、“生活領域の環境が変化”し・・・“いわゆる食糧獲得が困難な時代が到来”します。

     ・・・すると、「人類」は・・・やがて、“原人(ホモ・エレクトス)の段階”に進化し・・・「石器」を発明したため・・・これを使用して、原始的な「狩猟」や「漁労」が可能となりました。
     ・・・“ちょうど、この頃”には・・・“必要とされる総摂取カロリーの約65%を、動物性の栄養源に依存していた”という説もあります。

     ・・・ちなみに、「タンパク質」は、加熱されることによって・・・“原人(ホモ・エレクトス)を含む動物にすれば、その栄養を、更に摂取し易く”なります。
     黒化(炭化)した「獣の骨」が、“世界各地の遺跡から出土している”ため・・・“原人(ホモ・エレクトス)が、火を使用した初期頃から、食肉を加熱調理することで、動物性タンパク質などを効率良く摂取していた”ことが解ります。
     「生肉」と“加熱調理された食肉”とを比較すると・・・“その消化のために必要とされるエネルギー量”は・・・当然に、“後者が省エネ”と云えます。
     「加熱調理」することで、更に「コラーゲン」の「ゼラチン化」を助け、“炭水化物同士の結合を緩めるようになり、その栄養を吸収し易くする”とともに、“病原となる寄生虫や細菌などを減少させること”にも役立ちます。
     また、多くの「植物」には、そもそも「灰汁(あく)」が含まれますが・・・「マメ科」の植物や「根菜類」には、“トリプシンやシアングリコーゲンなどの有毒成分”が・・・「アマ」や「キャッサバ」などの植物には、“有害な配糖体が含まれている”ため・・・“火を使用する以前”には、専ら無毒と分かる種子や花、果肉などの、単糖や炭水化物を含む部分のみを、食用としていた”ようです。
     ・・・それが・・・“火を使用し始めて、食糧に出来る対象が更に拡がった”のです。・・・これらの植物などを加熱調理したことにより、「デンプンの糖化」も“効率的に出来る”ようになり、原人(ホモ・エレクトス)の総摂取カロリーが更に上がったことで・・・“更に、脳の大型化を誘発した”のではないか? との説もあります。
     ・・・実際に、原人(ホモ・エレクトス)化石の「歯」や、その「付着物」からは・・・“加熱調理無しでは食べ難い”とされる・・・“硬い肉片や、硬い根菜類などの痕跡”が発見されています。

     いずれにしても、「火の利用」を始めた頃から、「原人」や「旧人」などの「ヒト(ホモ)属」は、“その個体数を徐々に増やした”ことは間違いないようです。

       ※「ヒト(ホモ)属」の「火の使用」における“考古学的考証の難しさ”について
       いわゆる「先史時代」から「旧石器時代」のように、“その期間が何百万年もある大昔”の「遺跡発掘」において、「ヒト(ホモ)属」が「火」を使っていたか否かについてを調べることは、そもそもとして非常に困難なことと云えます。・・・“ごく小規模な火使用の形跡の場合”には・・・長期間の風雨に曝(さら)されるなどして、“その形跡自体が遺物として遺らないのが、ほとんど”であり・・・、その他の化学反応や、後の火山活動、落雷による自然発火や加熱現象などがあるためです。・・・また、「ヒト(ホモ)属」が暮らした(≒滞在した)と想われる「洞窟」や「洞穴」などは、「風雨」に曝され難く、「火を使用した形跡」が遺りやすい環境とは云えます・・・が、そもそもが「風」や「地下水」などによる“自然の力”によって創られた「石灰岩質」などから成る空間であり、結果としても浸食されやすい横穴である場合が多く・・・“何百万年も経ながら、現代に至るまで原形を留めていることは、ごく稀なこと”なのです。

     ⑥ 「土器の出現」・・・そして、日本列島は「縄文時代」へ
     既に「石器」を「道具」として使いこなしていた・・・日本列島では、“旧石器人達の世界(≒社会)”に、「豆粒文土器」や「無文土器」・・・そして、「縄文土器」が出現して来ます。
     ・・・当然に、「火の利用」が出来ないと、これらの「土器」は作れません。
     ・・・残念ながら、“日本列島で最初の土器が、具体的にどのような経緯(いきさつ)で出現した”のか? については、良く解っておりませんが。

     ・・・「中国江西省」の「洞窟遺跡」で“世界最古と思われる約2万年前の土器”が見つかっておりますが・・・“この地域の旧石器人達の間では、あまり普及しなかった”ようです。・・・これもまた、謎です。
     ・・・いずれにしても、“世界でも最古級(約1万6,500年前)の土器”が、青森県外ケ浜町の「大平山元Ⅰ遺跡」から出土していることや、他の遺跡においても多くの土器が出土していることから・・・“日本列島では、相当に土器文化が普及していた様子”が窺えます。したがって、“この頃の日本は、世界でも有数の土器普及地方であった”とも云えます。・・・具体的には・・・「旧石器時代末期」に、長崎県の「泉福寺洞窟」における「豆粒文土器」や、“本州各地”において「無文土器」が出土し始めます。
     ・・・「我々」は、一般的に「土器」のことを、「運搬」や、「貯蔵」、「煮炊き」、「祭祀」などのために使用したと理解しがちです・・・が、“この出現期頃の土器の役割や目的”は? というと・・・まだ、充分に解明されている訳ではありません。

     しかし、・・・「旧石器時代末期」≒“縄文時代草創期の古代人の暮らしの一端” を覗いてみると・・・
     北海道帯広市の「大正3遺跡」の場合・・・2003年(平成15年)秋の発掘調査では・・・遺跡の北側から口縁部に「隆帯」が巡らされ、その下に「爪形文」や「刺突文」、「へら状の押引き文」などの文様が付された・・・“尖がり底の特異な土器片”、が数百点出土しました。・・・「石器」としては、“木葉形や、小型の槍先の形状をしたもの”、「半月形石器」、「彫刻刀形石器」などが、5千点以上”も出土。・・・いずれにしても・・・これらは、“それまで北海道内で発見されなかった縄文時代草創期の遺物”であり・・・“北海道最古の土器文化”と云えます。
     また、この時に発掘された土器片を研究したチームが、土器に付着した「焦げカス」を分析したところ・・・「海産物成分」が見つかり・・・「炭素」による年代測定値」では、“1万4,500~1万4,000年前頃のもの”とされ・・・“煮炊きに使ったと確認された土器では、世界最古級のもの”であることが解ります。・・・ちなみに、この「焦げカス」から検出された「海産物成分」とは、“河川を溯ったであろう、サケやマスの類いである可能性が高い”とのこと。詳しくは、“サケ・マス類に見られる脂質成分を検出した”と。

     特に、「旧石器時代末期」≒「縄文時代草創期」の、日本列島では・・・「土器」は、“主に、灰汁(あく)抜きや、煮沸、煮炊きのため、つまりは食料加熱用としていた”と考えられるため・・・小動物などの「狩猟」や、“自然の恵み(≒植物の実、根など、貝、鳥獣、魚)のみに依存するなど、食料採集を中心とする生活では、あまり使用しなかった”と予想されることから・・・“彼らの中でも、比較的に定住する傾向を持った集団などが、より多くの土器を使用していた”と考えられているのです。


     ・・・そして、長期間(≒約13,700年間)続いて、“世界史的にも稀”とされる「縄文時代」へと、ゆっくり移行する”こととなります。・・・
     ・・・日本列島では、最終氷(河)期と云われる「ウルム氷期」が終わって、次第に温暖化して来ると・・・「ドングリ」や「クリ」などの堅果(=木の実)、「貝類」を含む魚介類、山菜、根菜など、多種多様な動植物を、「食糧」として確保出来るようになり・・・煮炊き以外にも、「貯蔵(保存)」などのためとして、土器を利用しました。・・・やがて、“日本列島沿岸部”を中心として、「塩づくり」が“始められる時代”が到来します。・・・それまでの「灰汁(あく)抜き」や、「煮沸」、「煮炊き」を・・・“より洗練化させ”・・・「塩分補給」などのための「味付け」をすることが可能となった訳です。
     その一方で・・・このことが“むしろ契機”となり・・・“日本列島各地”において、更に「定住化傾向」が進み、複数の「竪穴住居」により構成された「縄文集落群」が形成されるようになります。
     ・・・したがって・・・“彼ら縄文人の生業(なりわい)は、旧石器時代を概ね受け継ぐ格好のまま”となり・・・主に「採集」や「狩猟」、「漁労」を行なうことによって・・・特に、沿岸部では、土器を用いた塩づくり”が次第に普及して・・・そこで、生産される「塩」や「海産物」などを用いた広汎な「交易」が可能になって行った・・・と考えられています。



     〈※追記:筆者の私見Ⅰ〉
     ・・・“日本列島において、上記④の「はさみ山遺跡住居跡」などが出現して来た時代的な背景など”を推察するに・・・どう考えても、“単身者や小人数程度”の居住スペースではなく・・・“一、二家族位でも利用出来そう”にも想えます。・・・これは、原始的な人間社会が、既に形作られていた状況証拠なのではないか? “旧石器人の一部について”は、専ら獲物を追うだけの移住スタイルから、時には周辺部族などとの物々交換などで生計を立て、“あまり移住しないでも暮らせる生活スタイルや、或る種の定住スタイルというものが、芽生え始めているよう”にしか想えません。・・・つまり、このことは・・・“或る程度の集団同士”が互いに協力しないと生きてゆけないような環境下だったことを裏付けているのではないか?・・・そして、“ちょうど、この頃が、最終氷(河)期が終わって、自然環境に恵まれた縄文時代への移行期と合致している”のではないか? と考えております。・・・但し・・・たまたま偶然に、当時の“この地域”が水や食糧に困ることのない程に自然環境に恵まれた、“稀有な土地柄だっただけ”で、そこに滞在した構成メンバーの“数人(2、3人か?)が、流行病いなどにより、“ほぼ同時期に亡くなり、土坑墓に埋葬されただけ”・・・という可能性も残りますが・・・。

     いずれにしても・・・“何らかの理由によって、火や木を効率的に利用出来なかった旧人類達の相当な犠牲の上で、我々の祖先と目される旧石器人が、厳しい氷(河)期や、当時の縄張り的生活圏などにおいて、自然界の生存競争を生き残った”のではないか? と考えております。
     ・・・また、「旧石器時代末期」≒「縄文時代草創期」の頃は・・・そもそも、“それ以前の氷(河)期とされている期間でさえ”も、太平洋に面した“日本列島全域”と、“地球のほぼ反対側ので大西洋と面する地域”とを比較しても・・・「旧石器時代末期」≒「縄文時代草創期」の日本列島のほうが、“多少温暖な気候だった”ことも解って来ており・・・これが、尚更・・・間氷期に入ることによって、黒潮などの温暖な海流が洋上に流れ込むなど・・・“日本列島周辺の気候は、更に温暖化傾向が強められる”こととなり・・・“これら気候変動等に伴なって、自然界(≒動植物界)の様相が、更に多様化して、四季を含んだ豊かな環境を形成したのではないか?” と考えるのです。
     とにもかくにも、“これらの変化によって、彼ら旧石器人達が食糧とする対象が増えていたこと”に違いはありません。・・・そして・・・彼ら旧石器人達は、多種多様な食糧などを求めて日本列島へと。または、“種族の生存を図るため”に。・・・当時を考えれば、“周辺各地から別グループの旧石器人達が、多く渡来する”など、かなりの人々が流入していた可能性が高いと考えています。・・・もしかすると、当時の日本列島では、“小爆発的な人口増加があった”のかも知れません。・・・このことは、最近のDNA解析技術の向上によって・・・“旧石器人の後裔となる筈”の「縄文人」の遺伝的特徴・・・つまりは、“縄文人のDNA塩基配列が、ユーラシア大陸や東南アジア方面に点在したと考えられる大陸系やその他の民族グループと比べても、いずれとも一致しない”・・・という特有な血統的特徴を持った縄文人の実像が解かって来ること”で裏付けられるのではないか?” と考える次第です。・・・ちなみに、“我々現代日本人”のうち・・・「本土日本人」は、「縄文人の遺伝子(DNA)」を“平均して一人当たり約12%ほどを受け継いでいる”ことが解かりました。(平成28年9月1日:国立遺伝学研究所などによる研究グループ発表)・・・また、上記【⑥「土器の出現」・・・そして、日本列島は「縄文時代」へ】でもふれておりますが・・・日本列島沿岸部における塩生産の始まりや、我々の遺伝子情報:=ミトコンドリアDNAを含むDNA全体の更なる解析技術の発展などがあれば・・・“かつて日本列島で暮らした旧石器人に関する、様々な謎を解く鍵になる”ような気がしてなりません。
     ・・・尚・・・“彼ら旧石器人達が、塩生産を始めた”ということは・・・当然に・・・“彼ら”が「グルメ」となってゆく訳ですが・・・このことは・・・“当時、かなりのインパクトを与えた出来事だった”とも想います。・・・“塩生産を、実際に始めるまで”を考えると・・・“健康的な塩分補給のため”には・・・「動物」や「魚類」の「内蔵」などに含まれる「有機塩」を摂取したり、内陸部で「岩塩」を掘り当てたり・・・或いは、非常時には“自らが発汗する汗を舐めること位しか”考えられませんので。・・・まぁ、それまでの「氷(河)期」とは違い、“世界的”に見ても・・・“当時の日本列島周辺の気候が、それだけ暖かく、過ごし易くなっていた”ということでしょうか。当然に、気候が暖かくなれば、人体は発汗し易くなり、不足分を何らかの方法で摂取しなければなりませんので。・・・更には・・・“効率的な塩生産を始めるため”には、「火を使用する技術」や・・・「土器」や「石器」などの「道具類」を生産し・・・“それらが欠損すれば修理や補充をしていくという知恵”、“それらの技術を他の個体(他者)に伝える古代言語が、必要不可欠となる”・・・と考えられるのです。
     ・・・それに、“効率的な塩生産が始められる”と・・・これにより、「食糧の保存」や「貯蔵」が可能となり・・・更に、これを利用して、他の集団との物々交換など、“原始的な交易”へと繋げることが出来る訳です。・・・現代においても、「お清め」として「塩」を用いること・・・“我々日本人”が、古来から「旨味」を感じ・・・それを表現する「単語」を使用する「言語」に持っていること・・・「身体の体毛」が薄くなって来たこと・・・など、様々な事柄との“因果関係がある”と考えます。
     ・・・そして何よりも、本ページの「テーマ」である・・・現在のところ、完全に解明されてはおらず、また“国際的にも系統関係が不明な言語”とされている「現代日本語の成立過程」や、「固有名詞」としての「地名」に対して、必然的に深く関与することとなる・・・“その大元(おおもと)の言語、すなわち“当時の日本列島圏内の言語”は・・・“概ね古代の多民族言語から成る、複数言語がミックスされたもの”であり・・・それが後には、重複するものや不必要な「単語」、「形容詞」などを、その都度「収れん」させながら・・・これと同時に、“日本列島に暮らした人々の感性などの影響を受けて、洗練化を遂げた言語である”と。・・・特に、「我々」が使用している「現在日本語」における「発音」や「響き」の中にも、“この縄文時代以後当たり”から脈々と受け継いでいるものが少なからず有る”のではないか? と考えております。

     〈※筆者の私見Ⅱ:ここは、読み飛ばして頂いても結構です〉
     ・・・『かつての日本(先史時代)には、高度に発達した超古代文明があった!?』という・・・“人によっては、SFに聴こえる逸話”も・・・「出アフリカ」を実行したという「ホモ・サピエンスグループ」・・・(※一つの集団か複数集団だったのか? や、その時期や回数などについては、定かではありません)・・・が、長い期間を掛けて、少しずつ環境適応や進化を遂げながら、“遥かユーラシア大陸東端部に位置する日本列島までに渡来した訳です”から・・・(※しかも、少なくとも、日本列島への渡来ルートは、北・西・南の3ルート、もし操船技術に長けた種族や部族も入れるとすれば、全方位で4ルート、5ルート?)・・・“神秘的にも聴こえる考え”なのかも知れませんが・・・「出アフリカ」によって、『進化過程上の時間的余裕があった』こと、これとともに「ホモ・サピエンス」と「ネアンデルタール人」との「交雑(混血)」が可能だったのならば、“ヒト(ホモ)属間”での・・・今日の「常識」からは、奇跡的とも云えるかも知れない・・・既に日本列島へ到達して、先に暮らしていた原人や旧人達の血を引くヒト達との間で・・・もしかすると、今に云う「ハイブリッド化」が可能だったのかも知れません。・・・当然に、結果として生物学的に相性の悪かった種は、自然淘汰され絶えてしまうでしょうから。・・・また、文化面でも・・・現在は、解読不可能とされたり、学術界において否定されることが多い「神代文字」などの古代記号的文字? や・・・ピラミッド?・・・ストーンサークル群?(≒環状列石群)・・・環状木柱列?・・・のような、“当時何のために造ったのか想像しか出来ないもの”・・・それに、現在は海底に眠る海底遺跡?・・・なども、“日本国内にある”ようですから・・・まんざら可能性が無い話ではないのかも知れません。


     ・・・本ページの「旧石器時代」を通じて・・・日本列島において、「古代文字」と云えるものが一般的に使用されていたのか否か? について” を別にしてみても、何らかの「言語」や「言葉」が、“その部族内や、互いに交流する部族間で使用された”ことは、常識的に考えても問題とはならない筈です。・・・少なくとも、“後期旧石器時代に日本列島に到達していた”と推測される「我々(ヒト)=ホモ・サピエンス」の「脳構造」や、「脳容量」、それに唇や舌などの「口腔形状」は既に、或る程度発達していた筈であり・・・生物学的にも、「言語」を理解し「会話」する能力を有していたことは明らかなのですから。・・・つまり、“発声によって、何かを表現し、他の個体(他者)に対して、少なくとも、意思の伝達が出来た”と考えるほうが、むしろ自然であると想います。・・・さすがに、“日本列島の広域に亘るような統一的な言語とは申しません”が。・・・“ごく単純な名詞など”の「単語」については、“当時の日本各地のそれぞれ”において、“〇〇〇風にアレンジされたり、発明された”のでしょう。・・・いずれにしても、使用されていたこと自体を否定する方が、むしろ難しいのでは? と考えております。・・・(※但し、我々が使用する現代の日本語に、そのままのかたちを遺しながら・・・尚、現在まで繋がるという確実な起源と云えるのか? という点などについては、いろいろと後述したいと思っております)


・・・・・・・・・・次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】