街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ◆ 「那賀郡(なかのこおり)」東には、大海(※太平洋のこと)。南には、香島(=鹿島)と茨城の郡。西は、新治郡であり、下野國(しもつけのくに)との堺(さかい:=境)には、大きなる山あり。北は、久慈郡。・・・現在の茨城県水戸市の一部、ひたちなか市全域、常陸大宮市の大部分、那珂市全域。・・・郡衙の所在は、現在の水戸市渡里。

      ★ 大太法師(だいだらぼっち)傳説
      [最も前は之(これ)を略す] 平津驛家(ひらつのうまや)。(この)西(方の)一、二里には、岡が有りて、(その)名を、曰く・・・大櫛(おおくし)・・・と。・・・上古(≒遠い昔)には、(その)體(からだ)が極めて長大なる人(≒巨人)が有り。・・・丘壟(きゅうりょう:=おか=丘陵)の上に、(その)身を居(お)きつつも、蜃(しん、オオハマグリ:※神話上且つ想像上の動物のこと)を採りては、之(これ)を食(は)む。・・・其の所では、食らいし貝(殻)が聚(あつま:=集)り積もりて、岡(≒貝塚のこと)を成す。・・・時(の)人が、大朽(おおくち)の義(こころ)より取りて、今でも・・・大櫛の岡(おおくしのおか)・・・と謂う。
      ・・・其の大なる人の踐跡(ふみあと:※足跡のこと)は、長さ卅
(=三十)歩餘り、廣さ廿(=二十)歩餘りなりて、(その)尿(いばり、ゆばり)(の)穴跡(あなあと)は、廿(=二十)歩餘りなり。【※(注釈)大櫛---平戸と大串の二村が相接せり。※】[以下之(これ)を略す]・・・ここにある「大太法師(だいだらぼっち)」の別称としては・・・「でいだらぼっち」や、「だいらんぼう」、「だいだらぼう」、「でいらんぼう」、「だいらぼう」、「デエダラボッチ」、「デイラボッチ」、「デイラボッチャ」、「デーラボッチャ」、「デエラボッチ」、「デーラボッチ」、「タイタンボウ」、「デエデエボウ」、「デンデンボメ」、「ダイトウボウシ」、「レイラボッチ」、「ダダ星」、「おおきいぼちゃぼちゃ」・・・など様々あります。・・・また、「大太郎坊(だいだらぼう)」とも表記し・・・九州地方では、「大人弥五郎(おおひとやごろう)」とされています。

      ★ クレ臥之山之蛇神(くれふしやまのへびかみ)傳説
      「茨城里(うばらきのさと)」。此れより以北には、高き丘がありて、(その)名を、曰く・・・クレ臥之山(くれふしのやま:※〈クレ〉は、日暮れの意。この〈クレ〉の字は〈日〉偏+〈甫〉の一字と〈時〉を合わせて計二字より成る)・・・と。古老が、曰く・・・『兄の名を、努賀ビ古(ぬがびこ:※〈ビ〉の字は、〈田〉+〈比〉)・・・妹の名を、努賀ビ咩(ぬがびめ:※〈ビ〉の字は、〈田〉+〈比〉)という兄妹二人有り。(この)妹が、室(むろ:※古代における周囲を壁で塗り込めた部屋、特には寝室のこと)に在る時、姓名(な)も知らぬ人が有りて、常に就(つ)きては、婚(みあい、えんぐみ)を求め、夜に來たりて、晝(ひる:=昼)には去りし。・・・遂には、(この妹と、姓名も知らぬ人の二人が)夫婦(めおと)と成るも、一夕(いっせき:=一晩)にして懷妊(はらむ)なり。・・・(この妹が)産月(うみづき)に至り、終(つい)に小さき蛇を生む。(生まれた小さき蛇は、夜が)明けても無言なりて、闇(くら:≒暗)くなれば母(※この妹のこと)に語りし。
      ・・・是に於いては、母(※この妹のこと)と伯(おじ:※伯父のこと=この兄妹の兄のこと)が、驚き奇(あやし)みて、(この兄妹二人の)心挾(こころのはざま)では、神子(かみのこ)かと、即ち(小さき蛇を)淨(きよ)き杯(さかずき)へ盛り、(祭)壇を設けては、安らかに置くも・・・一夜の閒(あいだ:=間)に、杯中(さかずきのなか)が、已(すでに)滿たされり。・・・更に、易(やさ)しく
(≒優しく)、ホトギ(※湯や水を入れる大きな甕のこと。〈ホトギ〉の字は、上部に〈分〉+下部に〈瓦〉)へ、之(これ:※小さく生まれた筈の蛇のこと)を置けば、亦(また)ホトギの中を滿たす。(≒またしても、蛇が大型化していた)
      ・・・此れの如くが、三(度)、四(度)(みたびよたび)なりて、敢えて器(うつわ)を用いず。母(※この妹のこと)は、子(※大型化していた蛇のこと)に告げて、曰く・・・「汝の器宇(うつわのいえ)を量りしに、自ずと神子(かみのこ)と知れり。(しかし)我が屬(ともがら)の勢いとて、養ない(成)長させることが出来ず。此れに有るべからずの者なりて、宜しく父(※大型化していた蛇の父であった神のこと)が在る所に從え。」・・・と。【※(注釈)養長---養育成長の義なり。※】・・・時に、子(※大型化していた蛇神のこと)は、哀しみ泣きて、面(おもて:※顔面に噴き出す涙のこと)を拭(ぬぐ)いて答えて、曰く・・・「敢えて辭(ことば)とする所も無かりしに、謹んで母の命じられしことを承らん。然るに、共に去り往く人が無く、一身獨(ひとり)にて去り往けとは。(我が)望みは、(我を)矜(あわれ:=憐れ)なると、小さき子を一人副(そ)えられれば、と請うものなり。」・・・と。
      母(※この妹のこと)が、曰く・・・「我が家所に有るは、母と伯父のみなり。是亦(これもまた)、汝が知る所にて明らかなり。(他に小さき子などの)人が無きことに當(あ)たりても、(母の指示に)相從(あいしたが)うべし。」・・・と。爰(ここに)、子(※大型化していた蛇神のこと)は、恨めしさを含めつつも、何も言わず。・・・決別の時に臨みては、(子は、その)怒りと恐れには勝ることが出来ず・・・“伯父(※この母の兄のこと)を(雷を落とすことによって)震え殺してから、天に昇らん”・・・と欲す。・・・時に、母(※この妹のこと)は、驚き動き、ホトギを取りて、之(これ:※このホトギのこと)を投げりしに・・・神子(かみのこ:※大型化していた蛇神のこと)に(ホトギが)觸(ふ:=触)れて、(この神子は、天に)昇ることを得ず。・・・因って、(神子として生まれし蛇神は)此の峰に、留められり。』・・・と。・・・(この時の)ホトギと、甕(みか、かめ:※酒を醸すに用いる大きな甕のこと)を盛(さか)りし所が、今も片岡の村(かたおかのむら)に存す。
      ・・・其の子孫(※天に昇れなかった神子の子孫達のこと)が、社を立てては、祭りを致し・・・(これを)絶ゆることなく、相續(そうぞく)するものなり。[以下之(これ)を略す]

      (この)郡(の)東北には、粟河(あわかわ)を挾みて、驛家(うまや)を置く。
【※(注釈)本(もと)は、粟河の近くにありて 河内驛家 と謂う。今も、本名(もとのな)に隨(したが)いて、之(これ)とす。 粟河とは、今の那珂川なり。※】其れ(※河内驛家のこと)の以南に當(あ:=当)たりては、泉が坂中(さかのなか)に出でる。・・・水が多く流れ、尤(もっと:≒最)も清らかなりて、之(これ)を・・・曝井(さらしい)・・・と、謂う。・・・(この)泉に縁(そ)えりし所に居(お)る村落(の)婦女が、夏月(なつのつき)に會い集いては・・・布を浣(あら:=洗)いて、(日に)曝(さら)し乾す。[以下之(これ)を略す]・・・「曝井」とは、現在の水戸市愛宕町(あたごちょう)にある「滝坂の泉」を指していると云われ・・・現在でも、台地の傾斜地から豊富な水が湧き出ております。


      ◆ 「久慈郡(くじのこおり)」東には、大海(※太平洋のこと)。南西は、那賀郡。北は、多珂郡であり、陸奥國(むつのくに)との堺(さかい:=境)には、岳(たけ:※高き山々のこと)があり。・・・現在の茨城県常陸太田市全域、日立市の一部、常陸大宮市の一部。・・・郡衙の所在は、現在の常陸太田市薬谷町及び同市大里町。・・・尚、『和名類聚抄』には、この久慈郡の倭文郷(しとりのさと)についての記述あり。これは後述致します。

      古老が、曰く・・・「(この)郡より以南には、體(かたち)が鯨鯢(くじら、けいげい)に似たる小さき丘が、近くに有り。因って、倭武天皇【※(注釈)日本武尊※】が、久慈(くじ)と、名(付)けられし。」・・・と。[以下之(これ)を略す]

      淡海大津朝光宅天皇の世
【※(注釈)天智(てんじ)朝※】に至りて、藤原内大臣(ふじわらのうちのおおおみ)の封戸(ふうこ)を檢(しら)べしむ使いとして遣わされし輕直里麿呂(かるのあたいさとまろ)が、堤を造りて、池を成す。・・・其の池(≒輕直里麿呂が工事した池のこと)より以北には、谷會山(たにあいやま)と謂われる所あり。(その谷會山には、いくら)腕により穿(うが)ちても、(その)形は磐石(ばんじゃく:※大きくて非常に堅固な様のこと)なるが(の)如しの、黄色き岸壁が有り。・・・(そこに)猿猴(さる、えんこう:※体が大きめな手長猿などの猿類のこと)が集まり來たるも、(その猿猴達が)食らうなどして、常に宿(やど)りし。【※(注釈)谷會山---棚谷村の山中なり。※】

      (この)郡(の)西北六里には、河内里(こうちのさと)。本(もと)は・・・古古之邑(ここしむら)・・・と名(付)けられしものなり。【※(注釈)俗説では、 古古(ココ) という猿聲(さるのこえ)を為すと謂われり。※】・・・(この)東(の)山には、石鏡(いわかがみ)があり。(ここには)昔、魑魅(すだま、ちみ)が在りて、鏡を萃集(あつめ)め、見たり翫(もてあ)そぶなりとも、則(すなわ)ち自ずと去れり。(≒魑魅は勝手に消えてしまったとか)【※(注釈)俗に曰く、鬼面(おにのおもて)が、鏡により、疾(や:=病)みて、自滅せりと。魑魅とは、木や石の怪(もののけ) の稱(となえ)なり。※】・・・(そこの)土は、色が青紺の如しにて、畫(えが:=描)くに用いれば麗(うるわ)しからん。【※(注釈)俗に云う 阿乎爾(あおに) と。或いは、加支川爾(かきつに) と云う。※】
      ・・・時に、「朝命(ちょうめい:※朝廷による命令のこと)」に隨(したが)いて、(これを:≒青紺色の絵の具を、朝廷へ)進納(たてまつ)る。所謂(いわゆる)久慈河の濫觴(らんしょう:※始まり、源のこと)なり。・・・(古古之邑の)出自(しゅつじ:≒でどころ)は、猿聲(さるのこえ)なりと。[以下之(これ)を略す]

      (この)郡(の)西 □ 里には、靜織里(しどりのさと)。上古
(≒遠い昔)の時、(すなわち)未だ綾(あや:※様々な模様を織り出した絹織物のこと。綾織り、綾織物とも)を織る機(はた:※機織り機のこと)を識(し)らず、未だに知る人も在(あ)らぬ時に、此の村にて、初めて織られし。之(これ)に因り、(靜織里と)名(付)けられしものなり。・・・(この靜織里の)北には、小さき水(※小川のこと)が有りて、(その)色は瑪碧(めのう)に似る丹石(あかきいし)が交雑(まじわ)りて、火鑽り(ひきり:※火起こしのこと)には(≒火打ち石としては)、尤(もっと:≒最)も好(よ:=良)し。・・・故に、以って・・・玉川(たまがわ)・・・と、號(よびな)す。【※(注釈)瑪碧とは、玉(ぎょく)の一種なり。※】・・・「靜織里」には、「大化の改新」の以後に、「倭文部(しとりべ)」。・・・つまりは、“文様付きの布を織る技術者集団が居住していた”と考えられています。

      (この)郡(の)北 □ 里には、小田里(おたのさと)。(地勢が概ね山地であったため、結果として小さな田を多く墾いたので)墾田(はりた、こんでん)を為すこと多きなるに因りて、以って之(これ)が名(付)けられし。(この)所には、清き河が有りて・・・(その水)源は、北(の)山に發す。・・・郡家(の)南(方)近くを經ては、久慈の河(くじのがわ)に(出)會(あ)う。・・・(そこでは)腕の如しの、大きなる年魚(あゆ:※鮎のこと)が多く取れり。・・・其の河の潭(ふち:=渕)を・・・石門(いわと)・・・と、謂う。(その石門では)慈(いつく)しみある樹林が(形)成され、上(の枝々)が歴(れき)として(≒悉くに)、幕(おお:=被)い即(つ:=尽)くす。・・・(その石門では)淨(きよ)き泉が、淵を作りて、下(の流れ)が是(これ)潺湲(せんかん:※水が流れる様)とす。・・・□□□□□青葉に、飄(つむじ:※風がひるがえって舞う様のこと)が吹きて、蔭景之蓋(かげのかさ:≒蔭の笠)となれば(≒日差しを遮る程に深い樹林が、風にひるがえって、その葉が多く舞い散れば)
      ・・・白砂も亦(また)翫波之席(もてあそぶなみのせき)を鋪(み:≒見、魅)せる。(≒川底の白砂もまた、波によって舞い踊る)・・・夏月(なつのつき)には、日を熱くするため、(その石門から)近き郷や、(また)遠き里であっても、(人々が)暑さを避けて、涼しさを追う。・・・(人々が、それぞれ)膝を促し、手を攜(たずさ)えては、筑波(つくは)の雅(みやび)なる曲を唱(とな)えつつ、久慈之味酒(くじのうまざけ)を飲む。・・・是(これ)と雖(いえど)も、人(の)間の遊び(ひとのまのあそび:≒人の世)が、頓(とみ:≒特)に塵中之煩(ちりなかのわずらい)を忘れさせり。・・・其の里とは、大伴村(おおともむら)。・・・(そこには)涯(きし)が有り、土(の)色は黄なりて、群鳥(むらどり)が飛び來たりては、啄咀(ついばみ)て食(くら)える所なり。

      ★ 綺日女命(かむはたひめのみこと)傳説
      (この)郡(の)東七里には、太田郷(おおたのさと)。長幡部の社(ながはたべのやしろ)があり。古老が、曰く・・・「珠賣美萬命(すめみまのみこと)【※(注釈)珠賣美萬命とは、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫にて、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり。※】が、自ら天より降られし時、御服(みけし)を織る為に從いて、ともに降られし神名(みな、かみのな)は・・・綺日女命(かむはたひめのみこと)・・・と。(綺日女命は)本(もと)は、筑紫國(つくしのくに)日向二神之峰(ひむかふたかみのみね)にありて、三野國(みぬのくに)引津根之丘(ひきつねのおか)に至れり。【※(注釈)三野國とは、美濃國なり。※】
      ・・・後に、美麻貴天皇の世【※(注釈)崇神(すじん)朝※】に及びて、長幡部(ながはたべ)(の)遠祖たる多弖命(たてのみこと)が、自ら三野を避(さ:=去)りて、久慈へ遷りては、機殿(はたどの)を造立(ぞうりゅう)し、初めて之(これ)にて織られし。其の織れたる服(はたもの)とは、更に裁縫(さいほう:※布地を裁って衣服などに縫いあげることや、針仕事のこと)すること無くして、自ずと衣裳(みけし、いしょう)と成る。・・・之(これ)を・・・内幡(うつはた)・・・と謂う。」・・・と。【※(注釈)内幡---織れる儘にて着用することを得る全服(うつはた)の義か。※】或いは、曰く・・・「織り絹を紡ぐ時に當たりて、輙(すなわ)ち人に見られることを為すが故に、屋扉(やのと)を閇(と:=閉)ざし、内を闇(くら:=暗)くして、(絹を)織る。」・・・と。因って・・・烏織(うつはた、からすばた)・・・と名(付)けられしものなり。【※(注釈)烏織---伴信友は、闇織(くらおり)の訛(なま)り 黑織(くろおり) と讀(よ:=読)むべしと云う。※】
      ・・・強兵(つわもの)(の)劍(つるぎ)を利(き)かせしも、(この織り絹を)裁斷(たちきる)ことは得ず。・・・今は、年毎(としごと)に別けて、神調(かみのみつぎ)を為し、之(これ:※長幡部の社のこと)へ獻納(たてまつ)る。・・・「長幡部の社」とは、現在の常陸太田市幡町(はたちょう)にある神社です。・・・この付近には、古墳や横穴石窟群が多く存在しており・・・少なくとも古墳時代の頃には、“布や絹を織る技術を持った人々が暮らしていたこと”が判ります。

      ★ 國巣(くにす)、土蜘蛛(つちくも)傳説
      此れより以北には、薩都里(さとのさと)。古(いにしえ)に、(その)名を土雲(つちぐも)【※(注釈)土雲とは、土蜘蛛 なり。※】と曰(い)う國栖が有りて・・・爰(ここに)、兎上命(うなかみのみこと)が誅滅せんと、兵(つわもの)を發(お)こして、能(よ)く殺さしめんと令する時に、(その兎上命が)・・・「(ここは)福(さち)ある所哉(ところかな)。」・・・と言う。因って・・・佐都(さと)・・・と名(付)けられしものなり。・・・(佐都の)北(方の)山には、白堊(しろつち:=白土)が有りて、之(これ)を塗りたることや、畫(えが)くことには、可(よ)し。・・・(佐都の)東(方)には、賀ビ禮の高峰(かびれのたかみね:※〈ビ〉の字は、〈田〉+〈比〉)と謂う、大山(おおきなるやま、たいざん)がありて・・・即ち、立速日男命(たちはやひおのみこと)、(若しくは、もう)一つ(の)名を速經和氣命(はやふわけのみこと)と稱(とな)えし天神(あまつかみ、てんじん)が在り。【※(注釈)賀ビ禮---入四間山(いりしけんやま)の古名なりと。※】
      ・・・本(もと)は、自ら天より降りて、即ち松澤樹(まつさわのき)(の)八俣(やまた)の上に、坐(すわ)りし。・・・(この)神(による)祟(たた)りは、甚だ嚴(おごそ)かなり。・・・(もしも)大小便の時に、(この神に)向かいて行なう人が有らば、疾(やまい)に苦しむる者や、災いが到る者を、側近くに居る人へ示し令(おし)えるものなリ。・・・甚だ辛苦(くるし)められし毎に、状(況)を具(そな)えて、朝(廷)へ請うと・・・(朝廷が)片岡大連(かたおかのおおむらじ)を遣わして、(この神を)敬い、祭りしものなり。・・・(片岡大連が)祈りて、曰く・・・「今、所坐(おわし)ます此の處(≒松澤樹の八俣の上)には、朝夕を穢臭(けがらわし)める百姓(の)家が近くなりて、(御神が)坐りし理(ことわり)は無し。宜しく避け移りては、高山の淨き境にて鎮(しず)まるべし。」・・・と。・・・是に於いて、(この御)神は祷告(ねがいごと)を聽きて・・・遂に、賀ビ禮の峰へと登られし。・・・其の社は、石を以って垣を為し、(その)中には種屬(やから)が甚だ多し。
      ・・・并(あわせ)て、品寶(くさぐさのたから)とされし弓や、桙(ほこ)、釜器(かまうつわもの)の類いが皆、石と成りて、之(これ:=この社)に存(のこ)る。・・・凡(およそ)、諸(の)鳥で經過者(すぐるもの、すぎるもの)は、急ぎ飛び避けるに盡
(つ:≒尽)くし、當(の)峰上(みねのうえ)には無しと。・・・古(いにしえ)より自然(のまま)にて、今も亦(また)、之(これ)と同じなり。・・・即ち小水(おがわ:=小川)が有りて、薩都河(さつがわ)と名(付)けられしものなり。・・・(その水)源は、北(方の)山より起こり、南に流れては、同じく久慈河(くじがわ)へと入る。(≒同じように久慈河へ合流する)[以下之(これ)を略す]・・・「薩都里」とは、現在の薩都(さと)神社がある、常陸太田市里野宮町周辺と云われております。この薩都神社は、賀ビ禮神(かびれのかみ)を祀る里宮で、現在の日立市入四間町の山には、その奥宮があります。
      ・・・「立速日男命」とは、里川沿岸の薩都里における開拓の祖神として伝えられ、殖産興業や、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、厄除けなどに、ご利益があると云われております。

      高市(たけち)と稱(とな)えし所がありて、此れより東北へ二里には、密筑里(みつきのさと)。【※(注釈)密筑---水月村 或いは 水木村 か。※】(その)村中(むらのなか)には、淨き泉がありて、俗に・・・大井(おおい)・・・と、謂う。・・・(そこは)夏は冷たく、冬には温かなる湧く流れが、川を成す。・・・(そこが)夏(の)暑き時には、遠邇(えんじ:※遠い所と近い所、遠近のこと)(の)郷里に、酒肴(さけさかな)を齎賚(もたら)して、男女が會い集いては、休遊(あそび)飲樂(たのしむ)ものなり。・・・其の東南では、海濱を臨めり。【※(注釈)石決明、棘甲贏、魚貝などの類い、甚だ多し。 石決明---鮑(あわび)。棘甲贏---けうに なり。※】(その)西北は、山野を帶びる。【※(注釈)椎や、櫟、榧(かや)、栗が、生える。鹿や、猪が、之(これ)に住まう。※】・・・(これらは)凡(およそ)山海(の)珍味にて、悉(ことごと)くを記せず。
      ・・・「密筑里」とは、現在の日立市水木町にある「泉が森(いずみがもり)」の近くではないか? と考えられています。・・・そこは現在でも、“泉から湧き出す水量が多く、当時の雰囲気を遺している”と云われております。

      此れより艮(うしとら:=東北)へ卅(=三十)里には、助川驛家(すけかわのうまや)。・・・昔は・・・遇鹿(あいか)・・・と、號(よびな)す。古老が、曰く・・・「倭武天皇【※(注釈)日本武尊※】(の)皇后が、參(まか)り遇(あ)う此の時に至れることに因りて、之(これ)を名(付)けられしものなり。【※(注釈)皇后は、弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)、弟橘比賣命 なり。※】國宰(くにのみこともち)が久米大夫(くめのまえつきみ)の時、鮏(さけ)が取れたる河の為、改めて・・・助川・・・と名(付)けられしものなり。」・・・と。【※(注釈)俗語では、鮏祖(さけのそ)が、須介(すけ)の為と謂う。 鮏とは、鮭の大なる を斯(か)く稱(とな)えるものなり。※】


      ◆ 「多珂郡(たかのこおり)」東南には、大海(※太平洋のこと)が竝(なら)ぶ。西北は、陸奥と常陸二國の堺
(=境)となりて、之(これ)に高き山があり。・・・現在の茨城県高萩市全域、北茨城市全域、日立市の大部分。・・・郡衙の所在は、不明とされますが、現在の高萩市内と見られています。

      古老が、曰く・・・「斯我高穴穗宮大八洲照臨天皇の世【※(注釈)成務朝※】に、建御狹日命(たけみさびのみこと)を以って、多珂國造(たかのくにのみやつこ)を任じられし。・・・茲(ここに)、初めて人が至りて、峰(の)險しさと、岳(の)崇(とうと)さが為す地體(ちたい:≒地勢)を歴驗(めぐりみ)ることに因りて・・・多珂の國(たかのくに)・・・と名(付)けられしものなり。【※(注釈)建御狹日命は、是即ち 出雲臣同屬 と謂いて、今では多珂(たか)石城(いわき)と所と謂われる、是なり。風俗(くにびとの)説では、曰く 薦枕(こもまくら)多珂の國 と。※】・・・建御狹日命が、當所に遣わされし時、久慈(くじ)(の)堺の助河(すけがわ)を以って、道前(みちのくち)と為し【※(注釈)(この)郡を西北に去りて六十里は、今猶(いまなお)道前里(みちのくちのさと)と稱えり。※】
      ・・・陸奧國(みちおくのくに、むつのくに)石城郡(いわきのこおり)苦麻の村(くまのむら)が、道後(みちのしり)を為すものなり。・・・其の後、難波長柄豐前大宮臨軒天皇の世【※(注釈)孝德朝※】に至りてからの癸丑年(※白雉四年、西暦653年のこと)、多珂國造・石城直美夜部(いわきのあたいみやべ)と、石城(いわきの)評造部(こおりのみやつこべ、ひょうぞうべ)志許赤(しこあか)らが、惣領・高向大夫に、遠く隔(へだて)る所に部(すぶ)れ、往來するに不便なるを以ってと申し請い、多珂と石城二郡が、分けて置かれしものなり。」・・・と。【※(注釈)石城郡は、今は陸奧國堺内に存す。※】・・・「薦枕」とは、「多珂の國」の「多珂(たか)」の部分に掛かる枕詞(まくらことば)です。

      其の道前里(みちのくちのさと)には、飽田村(あいたむら)。古老が、曰く・・・『倭武天皇【※(注釈)日本武尊※】が、東陲(とうすい:※東の果てのこと)を巡る為として、頓(≒特)に此の野へ、宿をたまう。(ここに)有りし人が、奏(かな)でて、曰く・・・「野(の)上に群れる鹿は、無數(=無数)なりて甚だ多し。其の聳(そび)えし角は、蘆(あし)の枯れの原の如くなりて、其の吹氣(いぶき)を比ぶれば、朝霧が立ちつるに似たり。又(また)、海には鰒魚(ふぐ:=河豚)が有りて、大きさ八尺の如し。諸種珍味(くさぐさのちんみ)と并(なら)びても、遊びの理(ことわり)は多くあるものなり。」・・・と。【※(注釈)吹氣---息吹 の訳なり。『古事記』参照。※】
      ・・・是に於いて、(倭武)天皇が、(飽田村の)野へ(行)幸し、橘皇后を遣わしては、(その)海を臨みつつ、(そこでの)漁を令す。・・・(人々が)捕獲の利を相い競いて、山海の物を別けつつ探(さぐ)りたまいし。・・・此の時、野において獵る者は、終日を驅射するも、一宍も得られず。【※(注釈)宍---生肉なり。※】・・・海において漁したる者は、才(はじめて:=初めて)から、須臾(しゅゆ:※一瞬のこと)にしては採れ、百味(もものあじ)を得ることに盡(≒尽)くせり。・・・(人々は)獵りと漁とを已(すでに)畢(お:=終)え、羞じ(入)るばかりの御膳を、奉(たてまつ)りし。(その)時に、(倭武天皇が)陪從(おもとびと)へ「勅(みこと)」して、曰く・・・「今日の遊びは、朕(われ、ちん)が皇后と與(くみ:≒組み)して、各(おの)が野と海とに就きて、同じく祥福(さち:=幸)を爭いしものなり。【※(注釈)俗語が、曰く 佐知 と。※】
      野(の)物が得られずと雖(いえど)も、而(しかし)海(の)味は飽き盡(≒尽)くすほどに食らえり。」・・・と。・・・後代(の)跡を追って、飽田村と名(付)けられしものなり。・・・國宰(くにのみこともち、くにのつかさ)が、川原宿禰黑麿(かわらのすくねのくろまろ)(の)時、大海の邊(あた)りの石壁に、觀世音菩薩(かんぜおんぼさつ)(の)像(かたち)を彫り、(これを)造る。』・・・と。・・・今も、之(これ)に存(のこ)る。因って・・・佛濱(ほとけのはま)・・・と號(よびな)すものなり。[以下之(これ)を略す]・・・「佛濱」とは、現在の日立市田尻町にある海辺。・・・『常陸風土記』の編纂当時には、崖の断面に「観世音菩薩」が彫られ、“それを確認することが出来ていた”との記述です。・・・この記述は・・・“既に仏教が、当時の東國の果てとも云える常陸國に根を下ろしていたこと”を示しています・・・が、現在は・・・風雨による風化現象や、波による浸食などによって、摩滅が激しく・・・残念ながら良く見えません。・・・但し、<県指定史跡名>仏ケ浜(ほとけがはま)の指定あり。

      (この)郡(の)南卅(=三十)里には、藻嶋驛家(めしまのうまや)。・・・(藻嶋驛家の)東南(の)濱には、碁子(ごいし:※碁石のこと)がありて、色は珠玉(しゅぎょく)の如しなり。常陸國には、麗(うるわ)しき碁子が有ると所謂(いわれる)も、唯(ただ)是の濱のみなりと。・・・(その)昔、倭武天皇【※(注釈)日本武尊※】が、船に乘り、海に浮かびて、島磯(しまいそ)を御覽したまうに、種種(くさぐさの)海藻(にぎめ、かいそう)が、多く生えて、(ここに)繁茂(はんも)す。・・・因って、今も亦(また)名(付)けられしに然り。[以下之(これ)を略す]> ・・・藻嶋驛家の有力候補地としては、現在の日立市十王町伊師が挙げられます。・・・その理由としては・・・この「伊師」に、「目島」という「小字名(こあざめい)」が遺っていることと・・・他の遺跡との位置関係などからです。


      ◆ 『常陸風土記逸文』
      【※『萬葉集』より・・・信太郡の由縁・・・】

      黑坂命(くろさかのみこと)が、陸奧蝦夷(みちのおくのえみし)を征罰(ことむけ)、事が了(おわ)りて、凱旋す。・・・(黑坂命は)多歌郡(たかのこおり)角枯之山(つぬかれのやま)に及びて、病に遇いて、身を故(う:=失)せり。・・・爰(ここに)、角枯(つぬかれ)を改めて・・・黑前山(くろさきのやま)・・・と號(よびな)すものなり。・・・黑坂命の輸轜車(きくるま)は、自ずと黑前之山(くろさきのやま)を發(た)ち、日高見之國(ひだかみのくに)へ到れり。【※(注釈)輸轜車---御遺骸を運ぶ車なり。※】・・・(その時の)葬具(はぶりつも)(の)儀(よそおい)は、赤籏(あかはた)や青幡(あおはた)が交雜(まじわ)り、飄(つむじ)がア(※〈ア〉の字は〈風〉+〈易〉)がり、雲(の如く)飛び、(また)虹(の如く)張りて、(そこの)野を瑩(て:=照)らし、路(みち)を燿(かがや:=輝)かせり。時(の)人は、之(これ)を・・・幡垂國(はたしでのくに)・・・と、謂う。・・・後世(の)言が便(たより)するに・・・信太國(しだのくに)・・・と稱(とな)えられしものなりと。

      【※『萬葉集』より・・・新治郡の大神驛家(おかみのうまや)・・・】
      新治郡に驛家あり。(その)名を・・・大神(おかみ)・・・と、曰(い)う。・・・(その)所以(ゆえん)は、大蛇(おろち、だいじゃ)が多く在るを、稱(とな)えしものなり。・・・因って、(この)驛家に名(付)けられしものなり。

      【※『常陸風土記の原本』より・・・大谷村(おおたにむら?、おおやむら?)の鼓(つづみ)と琴(こと)・・・】
      「常陸(の)國(の)記」は云う・・・「大谷村(おおたにむら?、おおやむら?)の大榛(おおはり)を採り、本(もと)を伐りては、鼓を造り・・・末(すえ)を伐りては、琴を造りし。」・・・と。・・・俗に・・・比佐頭(ひさつ)・・・と、謂う。・・・「榛(はり)」とは、ハンノキの古名であり、カバノキ科の落葉高木のこと。山野の低地や湿地、沼などに自生し、過湿地においても森林を形成する数少ない樹木とされます。・・・そして、江戸時代末期までの旧常陸國内のうちで、ここの記述のように「大谷村」と表記され続けていたことが確認出来る村は・・・茨城郡と信太郡、後に真壁郡となった白壁郡の中に三カ村程ありました・・・が、“この逸文のみ”では、これ以上掘り下げて調べることが出来ません。・・・また、“これら三カ村のうち、いずれかにおいて、鼓や琴など楽器作製の為の原材料として調達していた”として・・・これら三カ村の、それぞれから運ばれて、國衙などで主に使用されたと予想しても・・・それらの距離は、ほぼ同じとなり・・・やはり、甲乙付け難い状況と云えます。

      《※ 『常陸風土記』終 ※》



      ・・・さて、『常陸風土記』を通して読むと、多少なりとも違和感を持たれる方も居られるのではないでしょうか?・・・ 歴史上、「天皇」という尊称を使用し始めたのは、「天智(てんじ)朝」の後の「天武(てんむ)朝」、或いは「持統(じとう)朝」とされておりますので、“これよりも、かなり時代を遡る”こととなる「倭武天皇」とか、「息長帯比売皇后」などという表現方法に戸惑われるのではないか? と思います。・・・ましてや、この『常陸風土記』の中で、「倭武天皇」と表記される「日本武尊(やまとたけるのみこと)」は、実際に「天皇」として即位しておりませんし、「息長帶比賣(おきながたらしひめ)天皇」とされる「神功皇后」も、同様です。・・・それでは、何故『常陸風土記』では、「○○天皇」と表記するのか? 矛盾しているように感じますよね。
・・・しかしながら・・・古代においては、“自らが天皇に即位しなくとも、その子が天皇になると、その親に対しても天皇という尊称を用いることがある”とされているのです。
      ・・・この日本武尊(≒倭武天皇)の場合には、“その子が、第14代目とされる仲哀(ちゅうあい)天皇となった”とされておりますし・・・そして、“この仲哀(ちゅうあい)天皇の御后(おきさき)が、息長帯比売皇后すなわち、神功皇后なのです”から。
・・・但し、この日本武尊(≒倭武天皇)も、仲哀天皇も、神功皇后でさえ・・・当時の王権国家連合を代表する倭国(ヤマト王権)における最大の功労者や、時の実力者だった訳です・・・が、一方では・・・「天皇」という尊称を、自ら使用していた訳ではなく・・・これらの尊称を、“実際に送り名される”のが、後の「天武朝」、或いは「持統朝」の頃となるのです。・・・したがって、あくまでも『常陸風土記』の編纂時点における、古老達が伝え聞いて来た話の上(=伝承上、伝説上)では・・・日本武尊(≒倭武天皇)などについては、“天皇と称されるほどの人物として伝えられていた”と、素直に読んで良いのだと想います。
      ・・・また、『古事記』や、『日本書紀』、この『常陸風土記』などで語られるように・・・現実として、日本武尊(≒倭武天皇)という一人の人物が実在し、数々の伝説を生み出していたのか? などについては・・・実のところ、日本武尊(≒倭武天皇)複数人説などがあるために、定かではありません・・・が、複数人説を採る場合であって、“彼らが、その形跡を遺したとされる時代以降だった”としても・・・“朝鮮半島情勢などを発端に、当時の王権国家連合から大和朝廷へと国の体裁を変貌させるキッカケとして、彼らが影響していたこと”は、事実と云えるのです。・・・ちなみに、私(筆者)の私見としては・・・この『常陸風土記』にある「日本武尊(≒倭武天皇)」とは、“ただ一人の固有名詞としてではなく、大和朝廷による日本列島支配や統治に当たって、その最前線で活躍した人々の総称であって、結果として概ねの事跡が、この名に収斂(しゅうれん)されていった”と考えております。
      ・・・尚、この「日本武尊(≒倭武天皇)」は・・・『古事記』や『日本書紀』(・・・※これら二書を併せて『記紀』と呼びます。・・・)では、武勇猛猛しい英雄や軍神とされる一方で、各地で熱烈な恋愛をし、父である景行(けいこう)天皇による冷徹な命令に思い悩む若者として語られております。・・・確かに、この『常陸風土記』において登場する「日本武尊(≒倭武天皇)」にも、武人としての苛烈さや、容赦無き姿などが垣間見えます・・・が、その一方で・・・“当時の常陸國の民や、自然に対する慈悲の心を併せ持ち、各地で五穀豊穣を祈念するかのような老成した仁徳の君子といった風情を醸し出す人物として語られていること”は、やはり特筆すべきと感じます。・・・そして、これとともに・・・“常陸國において日本武尊(≒倭武天皇)が名付けたという由来のある地名がそのままに、或いは少しの表記や読み方を変化させながらも、現代まで、これほど多く遺されていることについて”も、驚かされます。
      ・・・それにしても・・・どうして、いわゆる『記紀』と、この『常陸風土記』とでは、“描かれ方が、こうも違う”のでしょうか?・・・


      【※ ・・・ここで、改めまして・・・『古事記』や『日本書紀』、つまりは・・・いわゆる『記紀』それぞれの記述中においても、“日本武尊(※古事記では倭建命と表記)については、内容が多少異なっております”が・・・これを敢えて、しかも極々簡単に説明すると・・・ ※】


       父は、第12代・景行天皇。
       母は、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。
       本(もと)の名は、小碓命(おうすのみこと)。景行天皇の第三皇子。
・・・『日本書紀』と『先代旧事本紀』では、第二皇子とされる。
       父の景行天皇に命じられ、九州南部の熊襲(くまそ)を平定し・・・更に、蝦夷(えみし)討伐の為として、東國へ派遣される。
       “東國への往途”においては・・・駿河國で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)により野火の難を払い・・・走水の海(はしりみずのうみ)では、“妃の弟橘比賣命の犠牲により、海上の難を逃れたこと”は、有名な話かと。
・・・弟橘比賣命については・・・『日本書紀』では、「弟橘媛」と表記する。

       ・・・しかし、“この時に入水して亡くなった筈の弟橘比賣命です”が・・・“常陸國内(行方郡、久慈郡、多珂郡)で以って日本武尊(≒倭武天皇)と再会する話”が、『常陸風土記』では、記述されています。

       “その後、東國平定の帰途で、四阿嶺(あずまやみね)に立ち、そこから東國を望んで、弟橘比賣命を想い出し”・・・「吾妻はや(わが妻よ・・・)」・・・と嘆く。“それからは、東國のことを、アヅマ(=東=吾妻)と呼ぶようになった”と。

       いずれにしても、“日本武尊という人物が、東國からの帰途において、近江と美濃との國境にある伊吹山(いぶきやま)の神を討ちに行く際に、病いを得て、伊勢國能煩野(のぼの)において没する”と。
・・・


       ・・・そして、この『常陸風土記』では、“何故これほど多くの地名を、日本武尊(≒倭武天皇)が新たに名付けた”とされているのでしょうか?・・・仮に、“日本武尊(≒倭武天皇)のモデルとなった人物が複数人存在したというのが真実だった”としても・・・“新しい土地に名を付けることは、それぞれの個人的な趣味や好みの問題”では、ありません。・・・これらの土地には、元々・・・國巣や、土蜘蛛などと呼ばれた先住民達が暮らし、古くから親しまれていた元来の地名(≒呼称)があった筈です。・・・東國の征服者として派遣された日本武尊(≒倭武天皇)にとっては、遥か遠方にある東國の常陸地方は、歴史的にも未だ手着かずの新天地だった訳です。・・・“もしも、日本武尊(≒倭武天皇)が複数人存在した”とすれば・・・“彼ら自身による成果として、現地に対しては、威信というものを示しておく必要があり、土地そのものや、住民達を領有する”という宣言でもあった筈です。・・・更に云うと、“各地における地名(≒呼称)の定着度合いは、新しい征服者に対する先住土着民達の服従の証とされた”のでしょう。
       ・・・かくして・・・“土地の所有や、貸し借りなどの概念すら存在していなかった当時の常陸地方でも、服従しなかった先住民達は、更に奥地へ追い遣られること”となり・・・“高天原から来た”と云われる氏族達を、常陸國開発の先頭集団として・・・次第に、『領有する、領有される』という概念が、発生して来る訳です。


       ・・・さて、次に・・・常陸國と藤原氏や、常陸國と中臣氏との間にある・・・“切っても切れない程の繋がりについてを、考察してみたい”と思います。


       まずは、藤原氏についてを記述したいと思います。
       ・・・そもそも、“藤原氏の始祖である中臣鎌足〈※鎌子とも〉は、常陸國の出身者だった”という説があります。・・・これは、藤原氏を輩出することになった中臣氏が・・・“一説に、常陸國鹿島の出身だった”とされているからです。・・・“鎌足(※鎌子とも)の父・中臣御食子(なかとみのみけこ:※生没年不詳)が、鹿島神宮の祭祀者として大和から派遣された時、夫人の大伴智仙娘(おおとものちせんのいらつめ)との間に産まれた子が、鎌足(※鎌子とも))だった”という説です。・・・そもそもとして、“中臣氏は世襲によって鹿島神宮の祭祀者を務めておりました”ので、父・御食子が常陸國へ派遣されて来たこと自体には、疑問は生じません。・・・そして、“この鎌足(※鎌子とも)が常陸國鹿島で産まれたこと”が・・・現在の奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある「談山神社(たんざんじんじゃ)」の『多武峰縁起(とうのみねえんぎ)』の冒頭部分や、『大鏡(おおかがみ)』という平安時代後期(白河院政期)に成立した紀伝体の歴史物語においても・・・「(藤原鎌足が)常陸國で生まれたまえり。」・・・と記されているのです。

       ・・・上記の「談山神社」は・・・“いわゆる神仏分離以前のこと”とはなりますが・・・元々は、「多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)」という寺院でした。・・・鎌倉時代に成立した「寺伝」によれば・・・“鎌足(※鎌子とも)の長男であり唐留学から帰国した僧・定恵(じょうえ)が、父・藤原鎌足(※生前中は中臣鎌足)死後の西暦678年(天武天皇7年)に、父・鎌足の墓を、摂津安威の地(=阿武山古墳)から大和國多武峰の地へと移して、十三重塔を造立した”のが、その発祥とされているのです。・・・

       次に、『大鏡』についてを、記述する前に・・・まずは、『藤氏家傳(とうしかでん)』についてを、説明しなければなりません。
       ・・・この『藤氏家傳』とは・・・本ページの関連ページでも、一部抜粋しておりますが・・・“西暦760年(天平宝字4年)に成立し、古代から藤原氏に代々伝えられて来た、藤原氏初期の歴史が記された伝記”であり・・・それには、「上巻」と「下巻」があって・・・『日本書紀』や、『続日本紀』には無い歴史が記述されています。・・・「上巻」は、『大織冠傳』と呼ばれるものであり、藤原鎌足(※生前中は中臣鎌足)と長男の定恵、次男の藤原不比等(=史)についての伝記とされます・・・が、藤原不比等(=史)の条についてのみ、現存しておりません。
       ・・・そして、“この「上巻」を著して、また編纂した”とされるのが・・・“藤原不比等(=史)の孫であり、藤原南家の祖とされる藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の次男・藤原恵美押勝(ふじわらのえみのおしかつ:※改名前の藤原仲麻呂のこと)”なのです。
       ・・・「下巻」は、『武智麻呂傳』と呼ばれるもので、“藤原武智麻呂の伝記を、記したもの”とされております。・・・この「下巻」の“著者及び編纂者は、僧の延慶(えんけい:※生没年不詳)”とされます。・・・“この延慶については、奈良時代の僧だったことは分かりますが、その出自は一般的に不明”とされております。・・・しかし、この『藤氏家傳』に関わっている以上、当然の如く・・・“藤原氏の出身者であったり、或いは藤原南家と、ごく親しい間柄だった人物の可能性が高い”のです。・・・例えば、定恵の弟子僧とか・・・。

       ・・・この『藤氏家傳』の「上巻」、すなわち『大織冠傳』においては・・・“(鎌足〈※鎌子とも〉が、大和國高市郡大原で生まれた”としていることが・・・『多武峰縁起(とうのみねえんぎ)』の冒頭部分や、『大鏡』における・・・「(藤原鎌足が)常陸國で生まれたまえり。」・・・という記述とは、“正反対の内容となっている”のです。・・・そのため、“結果的としては、成立年代の古い『藤氏家傳』の方を重んじる”と・・・“それより後代に成立した”とされる『大鏡』の方は、“物語性が強く信憑性に欠け、鵜呑みに出来ない”という一般の評価となっているのです。・・・それにしても、『大鏡』の中で、“わざわざ、藤原鎌足(※生前中は中臣鎌足)についてを、常陸國鹿島出身としたこと”については・・・“それなりの理由があったに違いない”と、私(筆者)は感じてしまう”のですが。・・・

       ・・・ここに、どうしても大きな疑問が生じてしまいます。・・・まずは、“そもそもとして、その家系についてのみ伝えるという意図を持つ(藤氏)家傳の内容と、先祖供養や祖先神を祀るという目的で以って神聖な場所に奉納した(多武峰)縁起の内容とが、結果的に異なってしまった”のか?・・・そして、『藤氏家傳』の「上巻」には、“何故に、藤原鎌足(※生前中は中臣鎌足)の死後における中興の祖とも云えるキー・パーソンの、藤原不比等(=史)の条が現存していない”のか?・・・また、このことに関連して、どうしても気になるのが・・・『多武峰縁起』と『藤氏家傳』の両方に影響を与えることでは共通している、“もう一人のキー・パーソン定恵の存在”なのです。・・・“この兄・定恵と弟・藤原不比等(=史)との間における父・藤原鎌足(※生前中は中臣鎌足)死後における関係性が、大きな謎を誘い込んでいる”ような気がしてなりません。

       いずれにしても、“藤原鎌足(※生前中は中臣鎌足)の出身地問題が、いったい、どれだけ重要な意味を持つ”のか?・・・現代人からすると、少し想像し難い部分もありますが・・・“当時の歴史的な背景や、政治状況、信仰面を交えて、考えてみたい”と思います。


       まず、『藤氏家傳』を伝えたのは、“藤原不比等(=史)の長男の家系”・・・つまりは、「藤原南家」であり・・・これについては、納得出来ます。・・・そして、『藤氏家傳』は、今で云う“内部文書や、内部史料(資料)の類い”であって・・・また、一方の『多武峰縁起』は、“祖先神(※藤原鎌足、談山大明神、談山権現のこと)を祀るという公(おおやけ)の行為そのものを記した公表文書や、公表史料(資料)の類いに当たる”と想います。・・・このように分類して考えると、“どちらか一方が虚偽であると、立証すること自体が難しいことのよう”に感じます。・・・“どちらにしても、嘘を語る必要がありません”から。・・・とすると、“これらの内容が、正反対に見えることは、実は矛盾していないとも云える”のではないでしょうか?
       ・・・つまり、“藤原鎌足(※生前中は中臣鎌足)の父とされる中臣御食子のルーツそのものは、紛れもなく常陸國鹿島であって、時の天子の宮があった飛鳥に拠点を遷した後に、再び常陸國鹿島に祭祀者として戻り(=赴任して)、そこで鎌足(※鎌子とも)が産まれた”ということが成り立つとも考えられるのです。・・・このように理解すると、“生涯の拠点とする家としての飛鳥の地と、父とされる中臣御食子の赴任地及び息子の鎌足(※鎌子とも)の出生地としての常陸國鹿島”の二つが同時に成立する訳です。

       ・・・そして、“藤原鎌足(※生前中は中臣鎌足)の長男だった定恵は、長きに亘る唐國滞在から帰った後には、主に僧としての一生”を送っております。“各地に、この定恵に纏わる伝承”があります。(・・・※『日本書紀』では、父の死後間もなく亡くなったとされておりますが。・・・)
       ・・・また、その一方で・・・“兄の定恵とは、歳が離れていた弟・藤原不比等(=史)は、父の死後における不遇の時期を乗り越えて(・・・※藤原不比等〈=史〉が天智天皇の御落胤とする説もありますが。・・・)、特に持統朝において隆盛を極め、大和朝廷内に藤原家という一大政治勢力を作り上げる”ことになります。・・・しかし、やがて・・・“藤原不比等(=史)の子の代になると、藤原四家として政治的に活躍の場を拡げていた藤原家も、時の天然痘流行に対しては勝つことが出来ず、次々と当主を亡くし、その勢いが削がれてしまうこと”になります。・・・すると、“当時の中央政権では、藤原家に替わって、橘諸兄(たちばなのもろえ)らが台頭し、国政を担うようになる”のです。・・・“このような状況下で藤原南家を継いだ藤原恵美押勝(※改名前の藤原仲麻呂のこと)は、当然に藤原家を再興しつつ、『藤氏家傳・上巻』の編纂作業に従事した”と考えられます。・・・もしかすると、この当たり事情に・・・“藤原恵美押勝の御祖父さんに当たる藤原不比等(=史)の条が現存していない、つまりは遺せなかったという理由がある”のかも知れません。

       ・・・尚、このページにある『常陸風土記』の編纂に関与したと考えられる藤原宇合(ふじわらのうまかい:※藤原不比等〈=史〉の三男)が、常陸國守に任じられた理由として考えられるのは・・・

       1.“中臣氏(≒藤原氏)に所縁(ゆかり)がある常陸國における律令政治の確立を要望されていた”こと。
       2.大和朝廷の方針として、“陸奥國などの北方に暮らしていた、朝廷にまつろわぬ人々(=蝦夷の人々)に対して、律令政治による國家像を観せて恭順化を図るとともに、その最前線拠点としての整備を急いだ”こと。
       3.“常陸國に従事していた自家のルーツたる中臣氏の活躍を称揚する”こと。
         ・・・などがあったと考えられます。

       ・・・上記3.については・・・『常陸風土記』にもあるように、“常陸國における開発史を語りながらも、中臣氏(≒藤原氏)の祖先達の活躍ぶりを、殊更に記述しているから”です。


       さて、次に中臣氏についてを記述したいと思います。
       ・・・別ページにも記述しましたが、「中臣」という“文字そのものに、神と人との仲を取り持つ臣”という意味が込められております。
       “中臣氏の大元のルーツは、九州地方(・・・※おそらく上古の昔に黒潮に乗ることなどによって関東地方の常陸などに入った・・・)だった”とされますが、“何らかの事情により、この大元のルーツは、九州地方に残るグループと、関東地方の常陸などに移住するグループの二派に分派した”と考えられます。

       そして、当時の常陸國には、“神八井耳命(かんやいみみのみこと)を、その始祖とし、神と人との仲を取り持つ忌人(いわいびと)として、倭国(ヤマト王権)や、後の大和朝廷においても、祭祀者を世襲する”ことになった「多氏(おおうじ:=大氏)系中臣氏」と・・・“天児屋根命(あめのこやねのみこと)を、その始祖として、天神寿詞(あまつかみのよごと、あまのかみのよごと)を伝える中臣氏のもとで、卜占(ぼくせん)に従事する”ことになった「中臣(鹿島連)卜部氏」とがありますが・・・“前者の多氏系中臣氏によって、古代常陸地方の大半が、開拓された”と云われているのです。


       これらの中臣氏についてを、もう少し詳しく纏めると・・・

       ① 「多(=大)臣系中臣氏」の大元のルーツは、九州地方あり・・・“初代・神武(じんむ)天皇の子であった第2代・綏靖(すいぜい)天皇の同母兄に当たる神八井耳命(かんやいみみのみこと)を、その始祖”とする。
       ② 『古事記』によると・・・“神八井耳命の子孫の系統には、意富臣(※多氏のこと。ほかに大・太・飯富・於保とも表記する)や、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奥石城國造、常道仲國造(ひたちなかのくにのみやつこ)、長狭國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣などの19氏族があり、これらが各地方へと分散”し始める。
       ③ 「多(=大)臣系中臣氏」は、“神武天皇東征前の九州地方において活躍し、倭国(ヤマト王権)の祭祀分野を司る重要氏族として繁栄”する。
       ④ 「多(=大)臣系中臣氏」は、“古墳時代の初め頃(=3世紀中頃)には、倭国(ヤマト王権)の大和地方への移動に伴い、当時の物部氏や、出雲系氏族などとともに、王権の側近氏族”となる。
       ⑤ 「多(=大)臣氏」は、“古墳時代(=4世紀頃)には、“倭国(ヤマト王権)による領地拡張政策に伴なう上記②の19氏族による先遣隊的な氏族の一つとして、各地の國造などに任命”され始める。

       ・・・上記のように、「多(=大・太・意富・飯富・於保)氏」は、それぞれが神武天皇の皇子・神八井耳命の末裔を称しており・・・『常陸風土記』茨城郡の条や、『常陸風土記逸文』においても、“大臣族(おおのおみのやから)とされる黑坂命(くろさかのみこと)の記述があること、そして、上記下線部分にある常道仲國造が、同じく神八井耳命の末裔としていること”からも・・・「ひたちのなか」の「なか」との関連性などを重視されて、“多臣氏系中臣である”と考えられているのです。・・・すると、前述のように、神八井耳命の末裔とされる「多氏系中臣氏」と、天児屋根命の末裔とされる「中臣(鹿島連)卜部氏」が、結果として区別されることとなります・・・が、“本来のルーツとしては、ともに同じだった可能性もある”と想います。・・・それは、『古事記』の記述中において、“中臣(鹿島連)卜部氏の祖神として、天児屋根命を登場させていたために、後に祭祀者としての中臣氏から、政界に参画することとなった藤原氏が、いわゆる貴族として分出した際に、便宜的に辻褄合わせされたという可能性を否定出来ないから”です。
       ・・・あくまでも、可能性としてですが。・・・いずれにしても、この「多(=大・太・意富・飯富・於保)氏」は、“天智天皇の時代に登場しており、天智天皇と藤原氏の始祖である中臣鎌足〈※鎌子とも〉との関係”や・・・そもそもとして・・・“元明(げんめい)天皇により、『古事記』の編纂者として指名され、『日本書紀』にも何らかの関与が考えられる太安万侶(おおのやすまろ)が、この多(=大・太・意富・飯富・於保)氏の出身者だった”ことからも・・・『記紀』における“内容そのものが、結果的として中臣氏の祖先神たる神々と関連付けられて語られている”のではないでしょうか?
       ・・・そして、“古代の日本社会”・・・とりわけ、“当時の常陸地方”を考えるに・・・“5世紀頃と目される多くの古墳群が、現に存在している”こと・・・更に、“中臣鎌足(※鎌子とも)常陸出身者説の背景”としては・・・『常陸風土記』香島(=鹿島)郡の条にもあるように、“当時は鉄(くろがね)と呼んでいた沙鐵(すなのくろがね、さてつ:※砂鉄のこと)の産出地としての鹿島が認識されていたにもかかわらず、香島の神山(かしまのかみのやま)とされて、むやみに入山することを規制していた”との記述も見られるため・・・このことは、つまり・・・“香島の神山に関しては、祭祀者とされていた中臣氏のみは、特別に入山出来たこと”を意味しており・・・これは、今に云うところの・・・“採取権の独占に当たり、当然として採取した鉄(くろがね)を精錬し、様々な鉄製品を作り上げる技術を保持していた”と考えることが出来る訳です。・・・また、“これらのことは、倭国(ヤマト王権)と呼ばれていた頃はもちろん、大和朝廷となった段階においても、蝦夷征討や国家体制造り上、かなりの社会的インパクトがあった”と想像出来るのです。
       ・・・それに・・・「中臣鎌足」や、かつての「鎌子」という名からも分かるように・・・“金偏を用いる字を、個人名(=ファーストネーム)に使用していることなどからも、中臣氏と鉄などの金属関連技術との関係性”が感じられますし・・・“火と製鉄の関係からも、祭祀を司る者 ≒ 神と人の中を火(煙)によって取り持つ者という関係式が成り立つ”のでは? とも想います。・・・尚、祭祀者や製鉄技術集団として、この「多氏系中臣氏」を見ると・・・これら『記紀』の中では、“何故に秦(はた)氏に関する記述が希薄である”のか? についての謎が、解けるような気もします。・・・まるで、“その存在自体に極力ふれないよう努めているかのよう”でありまして。・・・おそらくは、“古墳時代以前における秦氏の存在が、相当なものであると、当時から認識されていた”のではないでしょうか?


       ・・・では、ここで改めて・・・“藤原氏の始祖・中臣鎌足(※鎌子とも)が、常陸出身だったという説”について、この『常陸風土記』や、『新鹿島神宮誌(鹿島神宮社務所発行)』から・・・“各系図を基に、考察してみたい”と思います。


       まず、『新鹿島神宮誌(鹿島神宮社務所発行)』の「神系系図」によると、“武甕槌神(=武甕槌命)の系譜”として、次のように記載されています。
       <武甕槌神の系譜・神系系図>
       ・武甕槌命---武治速見命---火穂見命---武狹別命---甕津彦命---種雄命---道根命---建之臣命---伊香津子命---鹿島臣命---狹山彦命---


       次に、“中臣家の氏神(祖先神)とされる天児屋根命 ~ 『常陸風土記』香島郡の条の記述にある大中臣・神聞勝命と・・・その後に、鹿島大宮司家へと、いわゆる藤原家が分流する直前の(中臣)臣狹山命(※同じく『常陸風土記』香島郡の条に記述あり)まで”を、見てみます。

       <中臣系系図・鹿島大宮司家系図>
       ・天児屋根命(あまのこやねのみこと)---天押雲命(あまのおしのくものみこと)---天多禰伎命(あまたのねぎのみこと)---宇佐津臣命(うさつおみのみこと)---大御食津臣命(おおみけつおみのみこと)---伊香津臣命(いかつおみのみこと)---梨迹臣命(りとおみのみこと)---神聞勝命(かむききかつのみこと)---久志宇賀主命(くしうかぬしみこと)---國摩大鹿島命(くにすりおおかしまのみこと)---※臣狹山命(おみさやまのみこと)※


       上記の「(中臣)臣狹山命」から「鹿島大宮司家(※右方向の流れ〈→〉)」と、いわゆる「藤原家(※矢印方向の流れ〈↓〉)」が分岐します。(※藤原宇合までを表示します)
       ※臣狹山命(おみさやまのみこと)※---狹山彦命---大広見命---(12代略)---[鹿島大宮司家] 中臣大宗---
               ↓
               ↓※臣狹山命から藤原家を生む流れ
               ↓
              雷大臣命(いかつちおおおみのみこと)---跨耳命(あとみみのみこと)---大小橋命(おおおはしのみこと)---阿麻毘舎卿(あまひさのきみ)---真人大連(もうとのおおむらじ)---鎌大夫(かまのまえつきみ:※中臣鎌子のこと。(※蕃神〈となりのくにのかみ〉を礼拝したために國神が怒ったのだとして、時の欽明〈きんめい〉天皇に仏像の廃棄を奏上した人であり、大化の改新を行なった藤原鎌足より5代前の人物)---黒田大連(くろたのおおむらじ)---常盤大連(ときわおおむらじ)---可多能祐大連(かたのさのおおむらじ)---御食子卿(みけこのきみ:※小徳冠に任じられる)---中臣鎌足(※天智天皇より死の一日前に藤原姓と大職冠を賜与される。紛らわしいが、かつて中臣鎌子としていた時期あり)---藤原不比等(=史)---藤原宇合(※常陸守に任じられる)---

       ・・・上記の<武甕槌神の系譜・神系系図>と、<中臣系系図・鹿島大宮司家系図>からも分かるように・・・「狹山彦命」の名が共通していることによって、『新鹿島神宮誌』では・・・“狹山彦命が、このように神系にも見えるため、ここに神系中臣系が一致して、神系を含む鹿島中臣氏になった”・・・と説明しています。・・・そして、『常陸風土記』久慈郡の条などの記述以外にも・・・“西暦746年(天平18年)3月に、中臣部二十烟(=戸)及び占部五烟(=戸)に、中臣(鹿島)連の姓が与えられていることなどを挙げて、中臣鎌足〈※鎌子とも〉と常陸國の密接な関係を裏付けている”・・・として、“鎌足〈※鎌子とも〉常陸出身者説の可能性を示している”のです。・・・更には、“奈良にある御蓋山(みかさやま)は、鹿島神宮のある三笠山(みかさやま)が春日大社への分霊の際に、一緒に遷して名付けられたものだ”・・・とも説明しています。・・・確かに、“中臣鎌足〈※鎌子とも〉が常陸出身者であれば、春日大社に武甕槌命が祭祀されていることや、三笠山の名などの説明にも、納得し易い”ように感じられますね。


       ・・・さて次に・・・“古代の常陸地方と、物部(もののべ)氏などとの関わりについてを、考察してみたい”と思います。
       「物部氏」とは、いわゆる『記紀』からも分かるように、“古代日本が、漢字や仏教を採り容れる以前から勢力を誇っていた出雲系氏族”です。・・・この物部氏と古代の常陸地方との関わりについては、藤原氏や中臣氏ほどの文章量を、発見出来る訳ではありません・・・が、これとは別に、“常陸の地には、現在も多くの鹿島神社や香取神社の小社が存在”しています。・・・どうやら・・・この「物部氏」は、“各地における戦死者を慰霊するため、その英霊や亡霊など祀る軍事関係部民として、そもそも分散していったよう”なのです。・・・つまりは、“古代における古戦場の周辺地には、物部氏の形跡があっただろう”と想定出来る訳です。・・・「もののべ」の「もの」とは・・・本来 は、「鬼」・・・つまりは、「精霊」を指していて、“この氏族には、そう云ったものを鎮めたり、統御する力を持った司霊者の集団だった”のではないか? とされています。・・・そして、“彼らは、古くから日本海の海上などを操船して、各地との交易を行ない、倭国(ヤマト王権)が成立した後も、北方の蝦夷の人々との交流を持ち、独自の財政基盤を継承”していました。
       ・・・このことは、“各地に遺る勾玉(まがたま)や、倭国(ヤマト王権)が仏教を採り容れ始めて、仏像製作や金象嵌のために、金の国内需要が高まっていた時代に、砂金調達などに着手していたことなどから”も判ります。・・・“古代日本の或る時期においては、あの蘇我氏にも劣らぬ程の勢力を誇った”と云えるかも知れません。・・・また、“古代の常陸地方は、この物部氏と他の出雲系氏族達によって、主に砂金などの貴金属の調達(=鉱山開発)が行なわれ”・・・“多臣系中臣氏達によって、鉄を用いた農器具生産を含む開拓などの土地開発事業が、主に進められていた”とも云えるのです。・・・古代の常陸地方では・・・少なくとも、奈良時代には・・・現在の茨城県久慈郡大子町付近において、“砂金が発見されておりました”ので。・・・ちなみに、“古代の関東地方における鉱山開発では、隣接する現在の栃木県那須郡那珂川町馬頭における砂金採取から始まった”とされています。・・・もちろん、当時は・・・“現代のような鉱脈調査などは出来なかったでしょうから、さぞかし地道な作業だった”とは考えられますが。
       ・・・“大和朝廷から、正式に金などの鉱物資源調達の令が下される時代になる”と・・・砂金献上については、現在の宮城県遠田郡涌谷町よりも、少々遅くなってしまい・・・“残念ながら、日本最古の金の産地としての称号は逃しました”が・・・それでも、“古代の常陸地方から産出された砂金は、当時の国内需要だけではなく、遣隋使(≒朝貢団)や遣唐使(≒朝貢団)などの資金として、かなり重要な役割を果たしていた”ようです。・・・“古代の中国や朝鮮半島においても、稀少金属の砂金などは、まるで当時の世界共通の貨幣のように、目方による取引きが出来た”と考えられるのです。現に、“金は有事に強い”とされておりますし。・・・いずれにしても・・・『記紀』の中では、欠かすことの出来ない古代の出雲地方と、その出身氏族とされる「物部氏」という重要な要素が・・・古代の常陸地方においても、必然的に中臣氏などと関わっていた”と云えるのです。


       ・・・上記の『常陸風土記』久慈郡の条では・・・常陸國において、初めて機(はた)織りされた場所として、「靜織里(しどりのさと)」が記述されております。・・・そして、この『常陸風土記』には・・・“謎多き氏族とされる秦氏に関する直接的な記述は、見当たらない”のです・・・が、この「靜織里」の記述の後に・・・“いわゆる綺日女命(かむはたひめのみこと)傳説における太田郷(おおたのさと)・長幡部の社(ながはたべのやしろ)”として、とても興味深い記述内容があります。・・・“珠賣美萬命(すめみまのみこと)こと瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨なされた時、御服(みけし)を織るために従って来た神の名を、綺日女命と云い、元は筑紫國の日向二神之峰に居て、後に美濃國の引津根之丘へ遷った”と。・・・そして、“崇神(すじん)天皇の御世になってから、長幡部の遠祖・多弖命(たてのみこと)が美濃國を去り、常陸國の久慈へと遷り、機殿を造って、初めて布などを織ったことなど”が記されています。
       ・・・また、この久慈郡の条の冒頭部分にも、“天智天皇の御世に、藤原内大臣(※藤原鎌足のこと)の封戸の検査が行なわれたこと”が記述されており・・・“機織技術が、中臣氏または多氏(おおうじ:=多臣)によって伝えられたよう”にも読み取れるのです。・・・それは何故か? と云いますと、この「綺日女命」とは・・・いわゆる『記紀』に登場しない神様なのですが・・・その「当て字」などからも分かるように・・・云ってみれば、「機織の女神様」なのです。・・・そして、“この女神様は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫・瓊瓊杵尊に従った”と。・・・このことは、つまり・・・“日本神話上における天孫降臨傳説を示している”のですが・・・「筑紫國の日向二神之峰」とは、“日向の高千穂地方の峰のこと”です。
       ・・・ちなみに、“天孫である瓊瓊杵尊が、日向の高千穂地方の峰に降臨した際には、五柱の神々が随伴”していました。・・・天児屋根命(あめのこやねのみこと)や、布刀玉命(ふとだまのみこと)、天宇受売命(あめのうずめのみこと)、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)、玉祖命(たまのおやのみこと)・・・の五柱です。・・・“これら五柱の神々は、それぞれ”・・・中臣連(なかとみのむらじ)や、忌部首(いむべのおびと:※後に斎部氏)、猿女君(さるめのきみ)及び稗田氏(ひえだうじ)、作鏡連(かがみづくりのむらじ)、玉造部(たまつくりべ:※玉作とも)・・・の「祖神」に当たります。・・・尚、「稗田氏」は、“天武天皇などに仕えて、そのズバ抜けて高かった暗唱能力によって、『古事記』編纂に関与した稗田阿礼を輩出”しています。
       ・・・さて、ここで・・・「瓊瓊杵尊」と「綺日女命」との関係性を考えますと・・・
       ・・・この「綺日女命」は、『記紀』の記述中には、“その個人(神)名は、登場しておりません”ので・・・“天孫降臨に随伴した五柱の神々とともに従った機織技術を持つ宗女神だったろう”と考えられます。・・・ここにある「宗女」とは、“正統な血縁で繋がる嫡出子(※ここでは娘のこと)”という意味です。・・・
       ・・・それでは、“『記紀』における日本神話で語られている神々の系譜から、瓊瓊杵尊の子孫でありながら、その直系卑属を登場させていない神様を絞り込む”と・・・ここで、浮かび上がって来るのは・・・「瓊瓊杵尊」の子・天火明命(あめのほあかり)の・・・そのまた、子(※つまりは、瓊瓊杵尊の孫)である「天香山命(あめのかぐやまのみこと)」なのです。・・・ちなみに、「瓊瓊杵尊」の子である「天火明命」とは、“太陽の光や、熱などを神格化した神様”であり、いわゆる「太陽神」や、「農業の神」として信仰されています。この神様も、“出雲系の神”と云えます。・・・そして、肝心の「瓊瓊杵尊」の孫とされる「天香山命」とは、“稲霊(いなだま:=穀霊)として、崇敬を集める神様”なのです。・・・おそらくは、“この当たりが綺日女命のルーツ”として、考えられます・・・が、この『常陸風土記』では、結局のところ・・・天孫降臨傳説を仄(ほの)めかしながらも・・・「天児屋根命」、つまりは“中臣の祖先神の影響下における話としているよう”なのです。
       ・・・しかしながら、“機織技術そのものについては、本来的には秦氏族が、大陸から日本列島に持ち込んだ技術だった”と考えられます。・・・それでも、この『常陸風土記』では・・・“機織技術が東國に持ち込まれた際には、あくまでも中臣氏または多氏(おおうじ:=多臣)の影響下で伝えられた模様について”を、語っているのです。・・・

       ・・・“これらの古傳”に因みますと・・・「太田郷」における「長幡部の社(=長幡部神社)」のほかにも・・・古代の「靜織里」には、「静神社(しずじんじゃ)」が、建てられておりました。・・・この「靜織里」は、中世まで「久慈郡」とされていました・・・が、「文禄検地(※いわゆる太閤検地のこと)」によって「那珂郡」に編入されており・・・現在では、“お花見の名所”でもあります。・・・そして、この静神社境内の東方には、「新宿古墳群」が在って・・・そのうちの「権現塚古墳」は、墳丘長さ・約31mの前方後円墳であり、“その築造時期は5世紀末頃”と見られています。・・・この「新宿古墳群」とは、“静神社を祀った倭文部(しとりべ)達の墳墓”と考えられています。・・・「倭文」とは、“日本古来の文様を持つ素朴な織物とされる倭文織(しつおり)のこと”であり・・・“織り上げて、布状にしたもの”を・・・「志豆波多(しづはた)」とか、「阿衣(あや)」と呼んだそうです。・・・一説には、これらの「しとり、しどり、しつり」が縮まって、“静(しず)という社名(やしろのな)になった”と考えられています。
       ・・・また、“志豆波多の波多(はた)が、秦(はた)氏との関連がある”という説に従えば、当然の如く・・・「秦氏」と「倭文部」との関係性も感じられます。・・・もし仮に、「志豆波多」の「志豆」の部分・・・つまりは、「しず」という「音」が、“古代秦氏の影響の強かった土地や、名称などに使用された”とすれば、「靜織里」も、“本来は、秦氏と所縁の深い土地だった”可能性が出て来る訳です。・・・ちなみに、“前述の権現塚古墳よりも、少し築造時期が古く、ほぼ5世紀初頭頃のものと推定される常陸國北西部に点在する前方後方墳について”は、概ね「出雲系様式」と云われており・・・“倭国(ヤマト王権)による領地拡張時代に、出雲系氏族が集団で移住し、この地域の開発に従事した形跡の一つ”ではないか?・・・そのため・・・“常陸國内各地において、出雲系の神々や、出雲系の(神)社が多く存在し、日本神話中の出雲神話と云える部分とも酷似した伝承がある”のではないか? とも考えられるのです。
       ・・・尚、上記の「静神社」の「御祭神」は、「建葉槌命(たけはづちのみこと)」です。・・・この「建葉槌命」は、“天照大神が、天の岩戸(=天岩屋)に隠れてしまった際に、力持ちの神として活躍した天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)の孫”に当たり・・・別名を、「天羽槌雄命(あめのはづちのおのみこと)」とも云います。・・・更に、この「建葉槌命」は、“常陸國の一之宮・鹿島神宮の御祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、当時の常陸地方に居た星神香香背男(ほしのかがせお)を倒す際に協力した神”でもあります。・・・いわゆる「日本神話」において、「天津甕星(あまつみかぼし)」とも呼ばれる「星神香香背男」については、『日本書紀』に、次のような記述があります。


       「經津主神 武甕槌神 遂誅邪 神及草木石類 皆己平了 其所 不服者 唯星神香々背男耳 故加 遣倭文神 健葉槌神則服 故祈登云々」

       ・・・そして、上記の『鹿島神宮誌』でも・・・“鹿島神宮の御祭神である武甕槌神が、出雲における国譲りの後に、各地を平定して国家としての統一を図り、当時の未開の地だった東國に入ると、星神香香背男を討って国中を平定したこと”が記述されております。・・・これは、前述の『日本書紀』の内容とも、一致しています。・・・つまり、このことは・・・“当時の常陸地方において、星神香香背男が天空の星々を観ながら操船する高度な航海技術を持った先住民の族長や、頭領だったことを示している”のです。
       ・・・尚、現在の茨城県日立市には、「大甕倭文神社(おおみかしずじんじゃ)」があります。・・・この神社には、“星神香香背男が、その族長や頭領として、常陸國久慈郡大甕山の東端に暮らしながら、太平洋に面する北日本一帯における制海権を掌握していた”という伝承とともに・・・“建葉槌命に討たれた星神香香背男を封印している”と謂われています。・・・この神社の御祭神には・・・“織物を始めて、組織的な産業を最初に興こした神(≒倭文神)、そして知恵の神として、様々な生活の術(すべ)を東國に広めて、古代人達の生活向上に貢献したことなど”によって・・・やはり、「建葉槌命」を祀っているのです。・・・この他には・・・


       「一条兼良(いちじょうかねよし)」が著した『日本書紀纂疏(にほんしょきさんそ:※日本書紀の注釈書)』においても・・・「建葉槌命 當陸出 倭文 之地 倭文神 恐是武甕槌之属也」・・・とされており 、“建葉槌命が、倭文神である”と伝えています。

       また、「卜部兼方(うらべのかねかた)」の『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』では・・・「倭文神 座常陸國依之諸祭幣物不内 倭文者 常陸之所濵也」・・・とされており・・・“倭文神の根源地が、古代の常陸地方に求められる”との説もあります。

       ・・・「鹿島神宮」で祀られる「武甕槌命」とは、中臣氏と藤原氏との関係の如く、藤原氏の氏社である「春日大社」の「御祭神」でもあります。・・・ちなみに、「星神香香背男」と「建葉槌命」は、“どちらも、元々は出雲系の神々”と考えられ・・・「星神香香背男」は、“読んで字の如く”の「星の神」。・・・一方の「建葉槌命」は、「倭文氏」の「祖神」であり・・・どうやら、物部氏も、この「建葉槌命」を信仰したようであります。・・・この「建葉槌命」が、“武甕槌命の属”とされることから・・・当然に、中臣氏との関わりも考えられ・・・“本来の倭文神は、秦氏の氏神だったにもかかわらず、常陸國においては、いつしか中臣氏の氏神に置き換えられてしまった”という可能性があるのです。・・・いずれにしても、“武甕槌命や、建葉槌命、星神香香背男らの神々が、古代の常陸地方において登場する傳説そのもの”が・・・日本武尊(≒倭武天皇)の東征傳説以外の逸話として・・・“未だ倭国(ヤマト王権)と云われていた時代に、東國への進出が実施されていたことを、物語っている”と考えられるのです。

       “神代の時代”・・・「天」には、「天照大神」が在り・・・「地」には、その皇孫である「瓊瓊杵尊」が在って・・これら二柱の神々の協力により・・・“天地位を定めて、まさに天孫降臨が為されよう”・・・としていました。・・・しかし、“建国し国内統一するという目的を達成するためには、どうしても、当時の日本列島各地に散在していた荒ぶる國賊ら(≒荒ぶる神々ら)を、一掃若しくは懐柔しなくてはなりません”でした。・・・“九州の筑紫地方や、当時は火の國と呼ばれた後の肥前地方や肥後地方などは、天孫系の神々(=祖先神)の活躍によって、既に平定され鎮静化しつつありました”・・・が、“太平洋に面して、北日本の入口に当たる常陸地方では、未だに香香背男と称する大敵が、その根拠地としており、天孫系朝廷(=倭国〈ヤマト王権〉)を阻む大きな障害”となっていました。
       ・・・“これより以前には、香香背男の一族は、駿河富士山麓の海岸付近にあって、狼藉を働いては周辺の人民を悩ました”とされます・・・が、“天孫系氏族らの倭国(ヤマト王権)の進出によって、徐々に東北方面へと追い遣られて、当時の常陸地方東岸の片隅とも云える三日星の浜辺に暮らすことになった”とのこと。・・・そして・・・“その族長や頭領とされる香香背男は、その眼光は星の如くに爛々と輝き、その体格は毅然として雲突くばかりに高く、足は剛健にして猛獣の如くに強く、手は長大にして禽鳥(きんちょう)の如くに素早く、その上幾百幾十万の同族を指呼し、自ら諸所の神岩の上を漁りて好んで魚介類を頬ばり、夜は巧みに姿を眩(くらま)して大甕山上の雷断石の間隙に隠れ、進退自在、千変萬化、独特の技で敵を侮り、民を悩ましては、國の尊厳の何たるかを知らぬ者だった”・・・と伝えられています。・・・興味深いことに、“この風貌や食性など”が・・・まさしく、『常陸風土記』那賀郡の条における“大太法師(だいだらぼっち)傳説”に酷似しています。
       いずれにしても・・・そんな状況を打開するために・・・“天孫降臨以前の建国の第一策として、香香背男撃退の廟議(=朝議)が為され、出雲國の國譲りを無事に終えた經津主命(※香取神宮の祭神のこと)と武甕槌命(※鹿島神宮の祭神のこと)とが、その撃退に当たることになった訳”です・・・が、“常陸國においては、星神香香背男を単なる悪者として扱う訳ではなく、星の神や目の神として、現にお祀りしている”のです。・・・それでも・・・“倭国(ヤマト王権)の蝦夷征討に対し、先住民の族長や頭領として抵抗し続けた香香背男という人物は、『日本書紀』の中では、結果的に荒ぶる國賊の代表格にされてしまった”とも云えるのです。


       ・・・次に、“古代の常陸地方と中臣氏や、藤原氏など、更には聖徳太子(厩戸皇子)との関わりについてを、考察してみたい”と思います。
       “遣隋使(≒朝貢団)などにより、聖徳太子(厩戸皇子)達が中心となって推進した”とされる「仏教導入政策」では・・・倭国(ヤマト王権)の祭祀者として、当時の大和地方を拠点としていた中臣氏は・・・“在来宗教(≒古神道など)の継承者であり、廃仏派でもあった物部氏とともに行動したため、時の一大勢力に成長した崇仏派の蘇我氏によって、自己勢力側を衰退させられてしまうこと”になります。・・・しかしながら、“それまでの倭国(ヤマト王権)を支えていた従来の祭祀者や、その祭祀方法については、一挙に仏式へ大転換して国全体を運営する”という訳にもゆかず・・・“地方に在した中臣氏の中から、つまりは常陸國においては、祭祀や開拓のために土着していた同族の多氏系中臣氏が、これに代わることになった”と考えられます。・・・そして、“その子孫に当たるのが、後に藤原姓を賜与されることとなる中臣鎌足(※鎌子とも)だった”と考えられるのです。・・・また、これが・・・“中臣鎌足(※鎌子とも)が、鹿島神宮の祭祀者として大和地方から派遣された父・御食子と母・大伴智仙姫との間に産まれたのではないか? とされる所以”です。
       ・・・ちなみに、“鎌足(※鎌子とも)の母の実家が、大伴氏だったことが判ります”が・・・そもそもとして、この「大伴」とは・・・「大きな伴造(とものみやつこ)」・・・という意味であり、“時の政権に直属する多数の伴部(ともべ)を率いていたこと”に因みます。・・・そして、この「大伴氏」の伝承によれば、“軍事的な部民を率いていたことが想定されることから、当時の物部氏などとともに、時の政権における軍事分野を、主に管掌していた”と考えられています。・・・また、この「大伴氏」は、“宮廷を警護する近衛兵のような、親衛隊的な役割を担っていた”とされ・・・一方の「物部氏」には、“各地における戦死者の英霊や亡霊など祀る軍事関係部民としての役割があって、それ故に日本列島各地へ分散していた”のではないでしょうか?・・・“両氏族ともに、どちらかと云うと、国軍的な色合いが濃い氏族”なのです。


       ・・・『常陸風土記』香島郡の条では・・・香島(=鹿島)が、「神郡(かみのこおり)」と呼ばれ・・・“実際に、中臣氏が管轄し、当の中臣部や、中臣(鹿島連)卜部氏などが土着していたこと”を、物語っております。・・・そして、この条では・・・“鹿島の地においては、別々の社で祀る神々”として・・・それぞれ・・・「武甕槌神」、「天児屋根命」、「經津主大神(ふつぬしのおおかみ)」・・・とし、“これら三柱の神々を総じて、香島之大神(かしまのおおかみ)と呼び、特に武甕槌神については香嶋天之大神(かしまのあまつおおかみ)と呼んだ”とされています。・・・また、“この武甕槌神は、天地草昧以前に、諸祖(かみろみ)天神(かみろぎ)が高天之原(たかまのはら)に於いて八百萬神(やおよろずのかみ)を集い會わせた際に、事向けて平定しようと、自ら高天(の)原に降り來たる大神(おおかみ)だった”ともしています。
       ・・・この記述は、“武甕槌神が、出雲における国譲りの際に、わざわざ天から降った”ということではなく・・・“武甕槌神が、単独で常陸國へ天から降された天つ大神だったと語っている”のです・・・が、逆に云うと・・・“日本神話における出雲に纏(まつ)わる部分へ、意図的に天界からの使者として、この武甕槌神を挿入した”のではないか? とも考えられる訳です。・・・

       ・・・尚、“平安時代前期の歴史書及び神道資料”とされる『古語拾遺(こごしゅうい)』では・・・上記の「經津主大神(=經津主命)」についてを、“下総國香取神宮の御祭神”としています。・・・実は、この「香取神宮」の「御祭神・經津主大神(=經津主命)」とは・・・“本来は、物部氏の御祭神と考えられるのですが、後のこととして、中臣氏の祖先神(=氏神)の武甕槌神と、いつしか同格化されて、同じく奈良時代(※西暦768年のこと)に、春日大社へと合祠されている”のです。・・・このように、『記紀』などにおいて、“武甕槌命と經津主命が、その神代史において重んじられて来た”のは・・・実のところ・・・“中臣氏や、藤原氏の祖先神(=氏神)だったから”とも云えます。・・・更には、“倭国(ヤマト王権)から大和朝廷と呼ばれるようになる、6世紀から7世紀頃に掛けて、時の中央政権にも影響力を持つようになっていた中臣氏や藤原氏に課せられていた社会的且つ政治的な役割として、結果として日本神話へ投影されたのが、出雲の国譲りだった”のではないか? と考えられるのです。
       ・・・『日本書紀』が編纂されたのは、“ちょうど藤原不比等(=史)が大和朝廷の中枢にあった時代(=奈良時代)ですので、当時の中臣氏や藤原氏にとってすれば、結果的に都合の良い解釈によって、神話の時代以降が語られている”という可能性については、かなり高いと感じます。・・・特に、『日本書紀』などを読む際には、“後の平安時代において、その栄華を極めることとなる藤原氏による視点や、この当たりの事情について”を、充分に考慮しなければなりません。
       ・・・このように考えると、“蘇我氏により一旦は中央政権から遠ざけられることになった中臣氏 ≒ 藤原氏の権威回復までの行程と、後の朝廷機構内において蘇我氏を滅ぼすに至る藤原氏についてを、歴史的に正当化するため”・・・そして、“時の天皇と藤原氏との関係、特には藤原氏の傀儡的な存在だったとも考えられる女帝達の正当性を示すため”・・・また、“律令制による中央集権化を、何としても歴史的な偉業とするために、『日本書紀』を編纂するという目的があったこと”・・・などが、分かります。・・・更には、“そのために歴史上利用された”のが、かの「聖徳太子(厩戸皇子)」でした。
       ・・・つまりは、“蘇我氏を滅ぼした藤原氏を正当化するために、聖徳太子(厩戸皇子)の実績を、より高く評価し、聖人化までして”・・・結論としては、“悲劇の一族だったと、意識付ける必要があった”のです。・・・“これらによる、或る種の反動とも云えます”が・・・“中臣氏が、古来より司った神と人との仲を取り持つという意義の上では”・・・“中臣鎌足(※鎌子とも)が、その没後に新たな氏を賜与されたことを、一種のケジメ”とし・・・それと同時に・・・“後の中臣氏とは、政治的な立場で以って、一定の距離感を保つことになる藤原氏”が・・・“その始祖の長男・定恵を、唐留学からの帰国僧としたり”・・・“次男・藤原不比等(=史)などによる現実の政策実行手段としては、その当初期において、廃仏派と崇仏派の、ちょうど中間の位置に、自家(≒藤原家宗家)を置こうと見定めていた(≒中庸に徹していた)”・・・とも考えられるのです。・・・


       《おわりに》
       “地名伝承が多く、それが内容の大半を占めていること”は・・・何も、このページの『常陸風土記』に限ったことでは無く・・・他の「風土記」でも共通していることではあります・・・が、“いずれも、古代における地名が持つ重大性について”を感じざるを得ません。・・・それは・・・“それぞれの土地に対する古代人の認識を示す尺度であり、同時に地域開発などの程度を表す道標(みちしるべ)でもあったから”に、他なりません。・・・尚、この『常陸風土記』についてを、特に云えば・・・“その編纂時期を考える”と・・・“藤原不比等(=史)が隆盛させた藤原家宗家が、天然痘流行のために、一旦その勢力を衰えさせてしまった後に、記述されたものですから、その当たりの事情についても、充分に考慮しなければならない”とは、想います。



・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】