街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ・・・年が明けて、西暦1859年(安政6年)になると・・・
      ※ 同西暦1859年(安政6年)5月25日:「幕府」が、“開国により小判類が海外へ流出する事を阻止するため”として、「正字金(せいじきん)」と「二朱銀(にしゅぎん)」の「鋳造」を「開始」する。
      ※ 同年5月内:“鵜飼知信(※通称は吉左衛門、号は拙斎、水戸藩京都留守居役)及び鵜飼知明(※通称は幸吉、菊次郎とも、変名は小瀬伝左衛門、水戸藩京都留守居役助役)親子が拘禁、また水戸藩家老・安島信立(※通称は帯刀、戸田忠敞の実弟)と奥右筆・茅根為宜(※名は泰とも、通称は伊予之介、号は寒緑)も監禁されるなど”して、「安政の大獄」が本格的に始動されると、“これらに反発する水戸藩士や領民達”が、再び「小金宿」などに「屯集」する。(=第二次小金屯集)
・・・ようやく第一次小金屯集という騒動が収まり掛けようとしていた時期だったのですが・・・。

      ※ 同年6月2日:「幕府」が、“下田・箱館”に続き、「横浜」及び「長崎」の両港を開いて、“諸外国との通商(=貿易)”を「開始」する。・・・このように、時の幕府によって日本各地の港が開放されるようになると、この後には・・・幕府がポルトガル(西暦1860年)とプロシア(西暦1861年)との間でも、それまでに前例としていた和親条約と修好通商条約を結ぶこととなり、これら両国へ「文久遣欧使節(ぶんきゅうけんおうしせつ)」を西暦1861年(文久元年)に派遣します。・・・更には・・・スイス(西暦1864年)やベルギー(西暦1866年)、イタリア(同西暦1866年)、デンマーク(同西暦1866年)・・・また明治期に入ってからは、スペイン(西暦1868年)、スウェーデン(同西暦1868年)、ノルウェー(同西暦1868年)、オーストリア(西暦1869年)、ハンガリー(同西暦1869年)など・・・とも、同様の条約が結ばれることになります。

      ※ 同年7月20日:「東シベリア総督」の「ニコライ・ムラビヨフ」が、“7隻の艦隊を率いて江戸に来航し、日露における国境策定交渉”を「開始」する。
      ※ 同年7月27日:“横浜の波止場近くにおいてロシア海軍の軍人が殺害されるという事件”が「発生」する。
・・・これが幕末期最初の外国人殺害事件となるのでしょうか?・・・いずれにしても、海軍少尉や水兵、賄い係の計3名が、突然武装した日本人数名に襲われ・・・賄い係が重傷を負い、海軍少尉と水兵の2名が亡くなってしまったのです。・・・しかし・・・事件後の東シベリア総督・ムラビヨフは、初代駐日総領事で医師でもあったラザフォード・オールコックの勧めにもかかわらず、“時の幕府(≒日本政府)に対して賠償請求をしなかった”とのこと。

      ※ 同年8月11日:“アメリカ外交官・タウンゼント・ハリスらの激しい抗議によって、幕府が発行間もない正字金と二朱銀の鋳造について”が「停止」に追い込まれる。(=幕末の通貨問題)・・・結局のところ、日本と諸外国における通商(=貿易)上の金銀についての交換比率の合意が整わずに、金や銀の含有率が高かった小判類の海外流出を防止出来なかった訳です。鋳造開始から三カ月も持ちませんでした・・・。
      ※ 同年8月27日:「幕府」が、「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」に対して、「隠居・謹慎」を命じる。・・・この時、一橋慶喜は、数えで23歳。
      ※ 同年同日:「幕府」が、「前水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」に対して、「水戸」における「永蟄居(えいちっきょ)」を命じる。・・・
      ※ 同年同日:“幕府により江戸の摂津三田藩邸へ監禁されていた水戸藩家老・安島信立(※通称は帯刀、忠敞の実弟)が、大老・井伊直弼自らに、切腹を命じられる”・・・と、同所において亡くなる。享年48。・・・そして、“水戸藩奥右筆・茅根為宜(※名は泰とも、通称は伊予之介、号は寒緑)及び鵜飼知信(※通称は吉左衛門、号は拙斎、水戸藩京都留守居役)”も、同じく「三田藩邸内」において「死罪」に処される。・・・しかし、“鵜飼知信の子である知明(※通称は幸吉、菊次郎とも、変名は小瀬伝左衛門、水戸藩京都留守居役助役)”は、「戊午の密勅」を“実際に水戸藩へ届けた人物とされていた”こともあって、「幕府評定所」から「獄門(ごくもん)」を申し渡されることとなり・・・「伝馬町牢屋敷」にて「斬首」された後に、「小塚原刑場(現東京都荒川区南千住2丁目辺り)」で「梟首(きょうしゅ)」とされる。・・・茅根為宜は享年36。鵜飼知信は享年62。鵜飼知明は享年30。
      ・・・ちなみに、「獄門」とは・・・元々庶民に科される死刑の一つだったため、武士階級の出身者からすれば、名誉など微塵(みじん)すら無い極刑に相当します。・・・そして「梟首」とは、晒し首のことです。・・・

      ・・・尚、安島信立(※通称は帯刀、忠敞の実弟)の辞世の句は・・・「玉の緒の 絶ゆとも良しや 我が君の 陰(かげ)の守りと 成らんと思へば」、「武蔵野の 露と儚(はかな)く 消えぬとも 世に語り継ぐ 人もこそあれ」、「草に置く 露の情けも あるものを 如何に激しく 誘ふ嵐ぞ」、「無き人の その言の葉も 繰り返し 見る我さへも 袖濡らすかな」・・・の四首。
      ・・・茅根為宜(※名は泰とも、通称は伊予之介、号は寒緑)の辞世の句は・・・「振り捨てて 出でにし後の 撫子(なでしこ)は 如何なる色に 露や贈らむ」
      ・・・鵜飼知信(※通称は吉左衛門、号は拙斎、水戸藩京都留守居役)の辞世の句は・・・《雪満山野に於いて》「野や越えむ 山路や越えむ 道別けも うづもれ果てて 雪ぞ煩(わずら)ふ」
      ・・・鵜飼知明(※通称は幸吉、菊次郎とも、変名は小瀬伝左衛門、水戸藩京都留守居役助役)の辞世の句は・・・《述懐》「世にも有りて 数ならぬ身も 国の為 尽くす心は 人に変わらじ」

      ・・・水戸藩の安島信立(※通称は帯刀、戸田忠敞の実弟)ら4名の死は、前ページのように・・・実のところ、“幕府大老・井伊直弼失脚させる秘事発覚の責めを負わされた”のか? “将軍継嗣問題において大老・井伊直弼の反対派として活動したために粛清された”のか?・・・ハッキリしません。しかしながら・・・“実際の幕府評定所による尋問において、安島信立の罪が一旦無罪とされたものを、大老・井伊直弼から再審議を命じられることとなり、そして再び評定所によって無罪と判断されると、井伊直弼自らが安島信立へ切腹を命ずることになった”とのことであり・・・吟味する側からすれば、安島信立らからの自白や自供を期待していたことが、よくよく分かるのです。・・・いずれにしても、「戊午の密勅」の下賜された日から数えると、水戸藩家老・安島信立らの切腹や死罪までが、僅か20日足らずの出来事でした。
      ・・・この当たりの吟味や裁定に至る状況を、真実或いは妥当な処分と見るのか否か?・・・ちなみに、“この事件”を伝える『水戸藩史料』によれば・・・「(安島)信立が審を受くる、挙止慎重言句もせず、罪を一身に受け、義によりて屈せず、幕府有司も皆其の器識徳量に感称し、其の死を惜しまざるは無し。」・・・としており、結局のところは・・・これもまた、“謎が深い事件だった”と云え・・・特に、この幕末動乱期における政治の舞台では、権謀術数の限りを尽くして、或る勢力同士が主導権争いを繰り広げていた訳でして・・・“相手方を打ち負かし沈黙させるまで追い込んでいた様子”とともに、“幕末動乱期における互いの大義や、正義感の違いなどについても伝わるものがある”と思います。

      いずれにしても、孝明天皇による「戊午の密勅」が水戸藩にも下賜されていたことが判明する・・・と、時の大老・井伊直弼(※近江彦根藩主)は、当然の如くに激怒し・・・当時の幕府が、“戊午の密勅の内容については、尚も秘匿し続けながら”も・・・尊皇攘夷論のオピニオンリーダーであり大老・井伊直弼の政敵と見做されていた水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)に対して、水戸における永蟄居(えいちっきょ)を命じることになった訳です。・・・そして、“これらの出来事を発端に、厳重な処分が伴なう政治弾圧が本格的に始動された”とも云われます・・・が、この時の徳川斉昭(※後の烈公)にすれば、政治生命そのものを絶たれる格好とされたのです。
      ・・・尚、徳川斉昭(※後の烈公)の永蟄居に伴なって、那珂湊・水戸藩営大砲鋳造所において行なわれていた鉄製大砲の鋳造も一時中断されることとなりました・・・が、水面下では・・・この翌年の西暦1860年(安政7年)2月に脱藩し、大老・井伊直弼の襲撃を企てた一人とされる金子教孝など尊皇攘夷派志士(=密勅返納反対派=激派)達による計画を誘引してしまうことになります。
・・・ちなみに・・・この金子教孝は、徳川斉昭が水戸藩主となる際に尽力し、斉昭の信任を得てから、藩の徒目付や吟味役、奥右筆、西郡奉行などを歴任した人物です。西暦1844年(弘化元年)には、水戸藩主・徳川斉昭が「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施するなどした際に幕府から嫌疑を受けて隠居謹慎へ追い込まれると、金子教孝はこの処分に対する反対運動を起こしましたが、藩内の門閥保守派により、自身も蟄居の身となっています。
      ・・・その後の西暦1849年(嘉永2年)になると、斉昭の復帰と共に金子教孝も赦されることとなり・・・西暦1853年(嘉永6年)には郡奉行に復帰。翌年の西暦1854年(安政元年)には那珂湊・水戸藩営大砲鋳造所にも関わる「反射炉用掛」を兼任しているのです。・・・しかし、その後の金子教孝は・・・いわゆる「桜田門外の変」の首謀者の一人として、他の実行者と共に処刑されてしまう訳ですが、彼が携わった純度が高い鉄鋼の生産や、鉄製大砲の鋳造が・・・後に起こる「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」や「那珂湊の戦い」などと繋がっており・・・また彼は、「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」の際に、筑波山挙兵時の主将とされる田丸直允(たまるなおみつ:※通称は稲之衛門、水戸町奉行)の甥に当たります。

      ※ 同西暦1859年(安政6年)10月7日:「越前福井藩士・橋本左内(はしもとさない:※諱は綱紀、号は景岳、幕末期の思想家・志士)」が、「伝馬町牢屋敷」にて「斬首」に処される。享年26。・・・この橋本左内は、当時の帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者であり、時の将軍継嗣問題では主君の松平慶永(※号は春嶽)を助けて一橋慶喜擁立運動を展開して幕政改革を訴えていたのですが・・・惜しくも「安政の大獄」に散ってしまいます。・・・辞世の句は・・・「五月雨(さみだれ)の 限り有りとは 知りながら 照る日を祈る 心忙(こころせわ)しき」・・・と、次の漢詩が一首。・・・「二十六年夢裡過 願思平昔感滋多 天祥大節嘗心折 土室猶吟正気歌」・・・ちなみに、同時代人の評価としては・・・幕府で勘定奉行などを務めた川路聖謨(※号は敬斎)は、彼のことを
      ・・・「扨(さて)又た(また)橋本左内へは初めて対面仕候が、未だ壮年に見え候に、議論の正確、驚入り候事共にて、餘に辨晰、刀もて切られぬ迄の事に候ひて、かばかり押つめられ、迷惑に侍りし事は覚え候はず。」・・・と。
      ・・・そして、水戸藩家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)は、彼のことを
      ・・・「備中殿(※幕府老中だった堀田正睦のこと)笑い給ひて、左衛門(※幕府の勘定奉行だった川路聖謨のこと)が申せしは、(橋本)左内は二十四五ばかり、六七にはなる間敷き若者なるに、辨論、才知、天晴なる事共にて殆ど辟易(へきえき:※うんざりすること、嫌気がさすこと)せる由、越公(※橋本左内の主君・松平慶永のこと)にはよき家来を持たれたりと、殊の外(まことのほか)賞嘆しおれり。」、「東湖(※水戸藩の藤田彪のこと)の後又東湖あり」・・・と。
      ・・・また、長州藩の吉田松陰は、彼のことを・・・「(橋本)左内と半面の識なきを嘆ず。」・・・と。
      ・・・更に薩摩藩の西郷吉之助(※後の隆盛)は、彼のことを・・・「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す。」・・・としています。
      ※ 同年10月27日:「吉田松陰」が、「伝馬町牢屋敷」にて「斬首」に処される。享年30。
      ・・・辞世の句は・・・「終(つい)にゆく 死出の旅路の 出立は 係(かか)らむことぞ 世の鑑(かがみ)なる」、「人の為 打たれし人の 名は永く 後の世までも 語り継がまし」、「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」、「親想ふ 心に優(まさ)る 親心 今日の音擦(づ)れ 何と聞くらむ」、「呼出しの 声待つほかに 今の世に 待つべきことの なかりけるかな」・・・の五首と、次の漢詩が一首。・・・「今我為国死 死不背君親 悠悠天地事 感賞在明神」

      ※ 同年12月内:“密勅返納を阻止しようとする水戸藩の尊皇攘夷派(=激派)士民ら数百人”が、「長岡宿(現茨城県東茨城郡茨城町長岡)」に「屯集」する。(=長岡屯集)
・・・第二次小金屯集から数えて、約半年後の出来事となります。・・・
      ※ 同年12月27日:「幕府」が、「政字銀(せいじぎん)」の「通用」を「開始」する。・・・しかし、“この政字銀が、当時としては最低品位の銀であった”とのこと。・・・“インフレ時には良くある事”かと。・・・いずれにしても、正字金と二朱銀の鋳造停止から約4カ月後の出来事です。

      ・・・年が明けて、西暦1860年(安政7年)になると・・・
      ※ 同西暦1860年(安政7年)1月18日:「幕府」が、“日米修好通商条約の批准書を交換するため”として、「遣米使節団」を「アメリカ・ワシントン」に向けて「派遣」する。(=万延元年遣米使節)・・・ちなみに、この使節団が西暦1854年(嘉永7年)3月3日の日米和親条約締結後における最初の公式訪問団となります。・・・この使節団の正使と副使には、ともに外国奉行と神奈川奉行を兼務していた新見正興(しんみまさおき:※豊前守とも、幕府旗本)と村垣範正(むらがきのりまさ:※通称は与三郎、号は淡叟、幕府旗本)が任命され、目付には小栗忠順(おぐりただまさ:※通称は又一、後の小栗上野介、幕府旗本)が選抜されており・・・尚、この時の目付役だった小栗忠順は、本来は不正の有無について等を監察する任務を担っていた訳ですが、“通貨交換比率の交渉という非公式な役目も担っていた”とも云われます。
      ・・・いずれにしても・・・これら3名を正規の代表とする使節団77名は、米国海軍・ポーハタン号に乗船し、太平洋を横断、そして渡米することになります。また、ポーハタン号の事故など万が一の事態に備えて、幕府軍艦奉行だった水野忠徳(みずのただのり:※号は癡雲、幕府旗本)の建議により、正使一行とは別に護衛を名目とする咸臨丸(かんりんまる)が派遣されることとなり、軍艦奉行並だった木村喜毅(きむらよしたけ:※号は芥舟、幕府旗本)を軍艦奉行に昇進させて、咸臨丸の司令官に任じています。・・・この時の木村喜毅は、乗組士官の多くを軍艦操練所教授の勝義邦(※後に安芳と改名、通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)を始めとする長崎海軍伝習所出身者で固めるとともに、通訳として欧米事情に通じていた中濱萬次郎(※ジョン万次郎のこと)を選抜し・・・蘭学塾(※慶應義塾の前身)を創立していた福沢諭吉を、“木村喜毅の従者として乗船させた”のです。

      ※ 同年3月3日:“水戸脱藩浪士17名と薩摩脱藩浪士1名が、政道を正すためとして、江戸城の桜田門外において幕府大老・井伊直弼(※近江彦根藩主)”を「暗殺」する。(=桜田門外の変)・・・・・・後の明治維新への発端とされるほど、当時の日本を揺るがした大事件ですので、以下に纏(まと)めます。



      《井伊大老を襲撃した志士達の経歴や事変後について》

      ・關遠(※通称は鐡之介、号は錦堆、丹楓、蘭室、桜園、楓巷とも、変名は三好貫太郎、三好貫一郎、三好貫之助とも、元水戸藩北郡務方与力)
・・・西暦1836年(天保7年)水戸生まれ。家禄10石3人扶持。藩校弘道館に学び、西暦1853年(嘉永6年)の黒船来航時に浦賀や横浜を視察する。剣術流派は、北辰一刀(ほくしんいっとう)流。西暦1855年(安政2年)に家督を相続し、西暦1856年(安政3年)から北郡奉行所に勤めると、大子郷校の建設や農兵の組織づくりなどに努め、尊皇攘夷運動に身を挺(てい)す。西暦1858年(安政5年)には、「戊午の密勅」を廻達するため、高橋愛諸(※通称は多一郎、字は敬卿、号は柚門、変名は磯辺三郎兵衛)らの指示で長州などを巡歴して決起を促す。「安政の大獄」が始められると、井伊大老襲撃を高橋らと企画し、その上奏のために上京する。翌西暦1859年(安政6年)に蟄居させられるが、翌西暦1850年(安政7年)2月に脱藩する。その際には、“白昼堂々と蟄居屋敷を脱走した”と伝わる。
      ・・・事変では、現場総指揮。襲撃時の斬り合いには不参加。
      ・・・事変後は、京都へ向かい、鳥取や長州など諸国に潜伏したが、常陸国久慈郡袋田村(現茨城県久慈郡大子町袋田)の豪農・桜岡家や、同国久慈郡高柴村(現茨城県久慈郡大子町高柴)の益子(ましこ)家などに匿われる。この後、逃走途中の越後国雲母温泉(きらおんせん:現新潟県岩船郡関川村上関)で捕縛され、西暦1862年(文久2年)5月11日に江戸において斬首。享年39。
      ・・・辞世の句は・・・「捨てて甲斐 有るか無きかは 白雪の 積もる思ひの 消えぬ身にして」
      ・・・著書に、『西海転蓬日録(さいかいてんぽうにちろく)』や『南遊遣悶集(なんゆうけんもんしゅう)』など。

      ・岡部忠吉(おかべただよし:※通称は三十郎、元水戸藩小普請組)・・・西暦1818年(文政元年)水戸生まれ。“度量が広く小事に拘(こだわ)らない性格であった”と伝わる。剣術流派は、北辰一刀流。・・・事変の前には、あらかじめ商人に変装し、偵察や同志の潜伏先選定を担当した。
      ・・・事変では、検視見届役。襲撃時の斬り合いには不参加。
      ・・・事変後は、關遠(※通称は鐡之介、号は錦堆、丹楓、蘭室、桜園、楓巷とも、変名は三好貫太郎、三好貫一郎、三好貫之助とも、元水戸藩北郡務方与力)らとともに、京都や大坂へ向かい、薩摩藩の率兵上京計画が不可能と知って水戸へ帰還すると、水戸城下周辺や常陸国久慈郡袋田村に潜伏した後に、再び江戸へ出る。・・・西暦1861年(文久元年)2月に、江戸吉原(現東京都台東区日本堤1丁目及び日本堤2丁目付近)で捕縛され・・・同年7月26日に金子教孝(※仮名は孫二郎、孫三郎とも、号は錦村、本姓は川瀬、変名は西村東右衛門)らとともに伝馬町牢屋敷にて斬首。享年44。

      ・稲田正辰(いなだまさたつ:※通称は重蔵、元水戸藩郡吏)・・・西暦1814年(文化11年)水戸生まれ。常陸国那珂郡下国井村(現茨城県水戸市下国井町)出身の郷士。剣術流派は、北辰一刀流。水戸藩郡吏となる以前には、水戸奉行所の町方同心を勤める。・・・西暦1858年(安政5年)9月初旬の「第一次小金屯集」に参加した後に脱藩。
      ・・・事変では、“二刀流の剣豪であった”と云われる彦根藩士・河西良敬(かわにしよしたか:※通称は忠左衛門)によって斬り倒され、襲撃者側では唯一の闘死者となる。享年47。

      ・山口正(やまぐちただし:※通称は辰之介、元水戸藩郡奉行、同目付)・・・西暦1832年(天保3年)水戸生まれ。幼少より武芸や歌道に優れていたと伝わる。水戸藩の大番組出身者。家禄200石。剣術流派は、北辰一刀流。
      ・・・事変では、彦根藩士の反撃によって重傷を負う。
      ・・・事変の直後、江戸八重洲川岸にあった織田兵部少輔邸(現東京都千代田区丸の内2丁目の丸の内二丁目ビル際辺り)の塀際で自刃。織田家からの届け出によれば、“山口は、左の後ろから首が落ちかかり、左腕も切れかかり、二の腕も落ちかかり、そのほか数か所の傷があった”とされており、“事変直後に同伴していた鯉淵珍陣(こいぶちちんじん:※通称は要人、元常陸国諏訪神社の神官)によって介錯された”とも伝わる。享年29。

      ・鯉淵珍陣(※通称は要人、元常陸国諏訪神社の神官)・・・西暦1810年(文化7年)に、常陸国那珂郡上古内村にあった諏訪神社(現茨城県東茨城郡城里町上古内)の神官の子として生まれる。・・・但し、この諏訪神社は、後の西暦1908年(明治41年)10月24日より同所の鹿島神社に合祀される。・・・剣術流派は、北辰一刀流。父の後を継いで神官となってからは、その誠実な性格により氏子達から信頼されて、近村数社の顧問となり神道の普及に努めながら、産業振興や若者達への教育にも力を注ぐ。徳川斉昭が水戸藩主になると、領内の神官達が優遇されるようになり、鯉淵も「郷士並(ごうしなみ)」の待遇を受けるとともに、次第に藩政へ関わるようになった。“この鯉淵は、お社自体も距離的にも近かった常陸国静(しず)神社の神官・斎藤一徳(さいとうかずのり:※通称は監物、号は文里、変名は佐々木馬之介)などに感化され、行動を共にした”とも伝わる。
      ・・・事変では、山口正(※通称は辰之介、元水戸藩郡奉行、同目付)と同様に、彦根藩士の反撃により重傷を負って、江戸八重洲川岸の織田兵部少輔邸の塀際で自刃。享年51。
      ・・・辞世の句は・・・「君が為 思いを張りし 梓弓(あずさゆみ) 引き手緩(ゆる)まじ 大和魂」

      ・広岡政則(ひろおかまさのり:※名は則順、則頼とも、通称は子之次郎、元水戸藩小普譜組)・・・西暦1840年(天保11年)水戸生まれ。林氏の出身者であり、家禄は100石。剣術流派は、北辰一刀流。広岡政則の実兄には、後の「那珂湊の戦い」において、内乱の沈静化のための大発勢(≒鎮派)として、藩内の門閥保守派や幕府軍と戦うこととなる林以徳(はやしもちのり:※通称は忠左衛門、変名は吉野三平、水戸藩士)がおり・・・この林以徳の妻、つまりは広岡政則の義理姉は、明治初期の女流歌人として活躍する中島歌子(なかじまうたこ)。
      ・・・事変では、彦根藩士の反撃により負傷し現場から逃れたが、辰ノ口を通り、そこにあった番所、或いは当時の姫路藩主・酒井家(※酒井〈雅楽頭〉忠顕のこと)の屋敷(現在の皇居・大手門交差点辺り)外まで辿り着いたが、そこで力尽き自刃。享年21。
      ・・・辞世の句は・・・「ともすれば 月の影のみ 恋しくて 心は雲に なりませりけり」

      ・佐野光明(さのみつあき:※通称は竹之介、竹之助とも、変名は海野慎八、佐藤武兵衛とも、元水戸藩大番組)・・・西暦1840年(天保11年)水戸生まれ。“先祖代々、武を以って仕える家柄であったため、幼少より北辰一刀流剣術や抜刀術、砲術などを習得し、藩校弘道館において学問にも励むようになってから、同志の海後宗親(かいごむねちか:※通称は磋磯之介、後の菊池剛蔵、元常陸国三嶋神社神官家出身)との親交を持った”とされる。しかし、“水戸藩でも評判の暴れ者であり、且つ大男ではあったが、剣術の腕前は未熟な面もあった”とする説もあり。
      ・・・事変では、彦根藩士の反撃により重傷を負うが、斎藤一徳(※通称は監物、号は文里、変名は佐々木馬之介、元常陸国静神社の神官)・黒澤勝算(くろさわかつかず:※通称は忠三郎、変名は黒澤勝等、元水戸藩大番組)・蓮田正実(はすだまさざね:※通称は一五郎、変名は蓮田正美、蓮田仙之介とも、元水戸藩寺社方手代)ら三名とともに連れ立って、和田倉門前の幕府老中・脇坂安宅(わきざかやすおり) 屋敷(現東京都千代田区丸の内1丁目辺り)へ移動し、そこで『斬奸趣意書(ざんかんしゅいしょ)』を提出し自訴する。しかし事件当日の夕刻に絶命。享年21。
      ・・・辞世の句は・・・「桜田に 花と屍(かばね)は 晒(さら)すとも 名に弛(たゆ)むべき 大和魂」

      ・斎藤一徳(※通称は監物、号は文里、変名は佐々木馬之介、元常陸国静神社の神官)・・・西暦1822年(文政5年)に、常陸国那珂郡静(しず)村にあった静神社(現茨城県那珂市静)の神官の子として生まれる。“背が高く面長で力が強く、幼少より意思は強固で物覚えが良かった”とされる。剣術流派は、神道無念(しんとうむねん)流。加倉井砂山(かくらいさざん:※江戸時代末期の教育者、漢詩人、この加倉井砂山が、一党一派に思想が偏ることを好まずに各方面に国家有用の人物を育成するという方針で個性尊重教育や女子教育をしたことは珍しかった)や、藤田彪(※号は東湖、藤田幽谷の次男)に師事し、水戸藩主・徳川斉昭が設置した藩校弘道館内の鹿島神社神官を兼務する。・・・西暦1844年(弘化元年)に幕府によって水戸藩主・徳川斉昭への隠居謹慎処分が下されると、これに抗議して、領内の神職を糾合して処罰解除運動に参加するも、自身も隠居させられ禁固4年の居村謹慎処分を受ける。
      ・・・西暦1849年(嘉永2年)11月に、この処分が解除されると、西暦1858年(安政5年)には「戊午の密勅遵奉」及び「安政の大獄阻止」を求めて活動し・・・翌西暦1859年(安政6年)5月に神職61人を率いて江戸へ出府し、時の幕府に対して連署の上で建議する。
      ・・・事変では、当初予定では『斬奸趣意書』を提出する役目を帯びていたため、実際の戦闘に参加する筈では無かったものの、同志達の窮地を見過ごせなかったのか? 戦闘で彦根藩士の反撃に遭い重傷を負ってしまう。しかし、佐野光明(※通称は竹之介、竹之助とも、変名は海野慎八、佐藤武兵衛とも、元水戸藩小姓組)・黒澤勝算(※通称は忠三郎、変名は黒澤勝等、元水戸藩大番組)・蓮田正実(※通称は一五郎、市五郎とも、元水戸藩寺社方手代)ら3名とともに連れ立って、和田倉門前の幕府老中・脇坂安宅屋敷へ移動し、そこで『斬奸趣意書』を提出して自訴する。この『斬奸趣意書』を認(したた)めたのは、斎藤一徳とされる。それでも、事変から五日後に当たる西暦1860年(安政7年)3月8日に落命。享年39。
      ・・・辞世の句は・・・「国の為 積る思ひも 天津日(あまつひ)に 融(とけ)て嬉しき 今朝の淡雪」

      ・黒澤勝算(※通称は忠三郎、変名は黒澤勝等、元水戸藩大番組)・・・西暦1830年(天保元年)水戸生まれ。下記の大関増美(おおぜきますみ:※通称は和七郎、変名は大関忠次郎、大関恒右衛門、酒泉好吉とも、元水戸藩大番組)は黒澤勝算の実弟であり、上記の広岡政則(※名は則順、則頼とも、通称は子之次郎、元水戸藩小普譜組)は甥に当たる。剣術流派は、北辰一刀流。水戸藩主の徳川斉昭・慶篤親子に仕えて、西暦1853年(嘉永6年)に庄机廻(しょうぎまわり)に任命される。・・・西暦1854年(嘉永7年)1月に江戸詰となり・・・同年4月に帰国すると同年6月に馬廻組となる。・・・西暦1855年(安政2年)2月に100石の家督を相続し、西暦1858年(安政5年)1月に大番組に編入される。藩内でも先鋭的な尊皇攘夷思想の持ち主であったとされ、「戊午の密勅」が水戸藩へ下された際にも勅を幕府に渡さずに奉勅するように訴えており、その後の「安政の大獄」によって“水戸藩が特に処罰されたのに憤激していた”とされる。
      ・・・事変では、彦根藩士の反撃により重傷を負うが、佐野光明(※通称は竹之介、竹之助とも、変名は海野慎八、佐藤武兵衛とも、元水戸藩小姓組)・斎藤一徳(※通称は監物、号は文里、変名は佐々木馬之介、元常陸国静神社の神官)・蓮田正実(※通称は一五郎、変名は蓮田正美、蓮田仙之介とも、元水戸藩寺社方手代)ら3名とともに連れ立って、和田倉門前の幕府老中・脇坂安宅屋敷へ移動し、そこで『斬奸趣意書』を提出し自訴する。手当てにより命を取り留めたが、黒澤の身柄は、肥後熊本藩細川家預かりとなる。
      ・・・同年3月5日から「桜田門外の変」に関する評定が開始されるも、その後には富山藩前田家へ預け替えられ・・・西暦1860年(万延元年)4月21日に摂津三田藩九鬼家へ再び移されるも、同年7月12日に病死。但し「病死」とは、あくまでも記録上の話であり、“傷が悪化して亡くなった”とも云われます。享年31。
      ・・・辞世の句は・・・「遥々(はるばる)と 心虎子(こし)地(ち)の 今日こそは 思ひも晴れて 結ぶ夢かな」、「君が為 身を尽くしつつ 益荒雄(ますらを:※立派な男や勇気ある強い男のこと)の 名を挙げ通す 時をこそ待て」・・・の二首。

      ・蓮田正実(※通称は一五郎、変名は蓮田正美、蓮田仙之介とも、元水戸藩寺社方手代)・・・西暦1833年(天保4年)水戸生まれ。蓮田正実の父・蓮田宗道(はすだむねみち:※通称は栄助)は水戸奉行所の町方同心。“家禄が7石扶持であったため、私塾を開いていた”と云う。その父が42歳で死去すると、正実の老いた祖父・蓮田栄吉が町方同心に再勤して一家を支えたが、一家の家計は苦しく、正実の母と2人の姉は裁縫など手間賃仕事をし、正実もまた11、12歳頃から内職をして家計を補う。孫の教育についてを疎かにしなかった祖父は、玉川立蔵(たまがわりつぞう)の塾に正実を入門させるも、正実は金銭が足りずに充分に通えなかった模様。しかし正実は、これら窮乏生活があっても、朝4時には起床し、夜は10時頃まで内職をしながらも苦学に励んだとされ、18、19歳頃に詩歌や書道など年長者達を驚嘆させるほどに上達し、算学や絵画にも秀で多芸だったと。
      ・・・独学が不可能な武芸については、貧困ゆえに我慢するも、15歳頃から金子直通(かねこなおみち:※名は徳褒とも、通称は健四郎、字は猛卿、号は豊水、三河出身で天保11年から水戸藩に仕えた剣術家)の道場に通うと、上達早く3年程で人に秀でた腕前となり、神道無念流の印可を受ける。・・・西暦1855年(安政2年)6月には、水戸藩の軍用方小吏として出仕するが、同年10月には寺社方に転任する。その職務上、斎藤一徳(※通称は監物、号は文里、変名は佐々木馬之介、元常陸国静神社の神官)らを知り、“思想的な感化を受けた”とされる。・・・「安政の大獄」が始められ、翌年に徳川斉昭が水戸における永蟄居を命じられると、この蓮田正実は西暦1860年(安政7年)2月11日に江戸へ向かって家を出る。
      ・・・事変では、彦根藩士の反撃により重傷を負うが、佐野光明(※通称は竹之介、竹之助とも、変名は海野慎八、佐藤武兵衛とも、元水戸藩小姓組)・斎藤一徳(※通称は監物、号は文里、変名は佐々木馬之介、元常陸国静神社の神官)・黒澤勝算(※通称は忠三郎、変名は黒澤勝等、元水戸藩大番組)ら3名とともに連れ立って、和田倉門前の幕府老中・脇坂安宅屋敷へ移動し、そこで『斬奸趣意書』を提出し自訴する。蓮田の身柄は、肥後熊本藩細川家から近江膳所(ぜぜ)藩の本多家へ預け替えられ・・・西暦1861年(文久元年)7月26日に幕府評定において死罪と決まり、伝馬町牢屋敷にて斬首。享年29。
      ・・・辞世の句は・・・「故郷の 空をし行かば たらちめに 身のあらましを 継げ良かりがね」、「世の為と 思ひ尽くせし 真心は 天津御神(あまつみかみ)も 見そなはすらむ」、「急がねど いつか嵐の 誘い来て 心忙(せわ)しく 散る桜かな」・・・の三首。
      ・・・尚、蓮田は肥後熊本細川家滞在中に、「桜田事変図」を描き遺し・・・伝馬町牢屋敷における獄中生活にあっても、“当時の取調べの仔細についてを記録した”とされる「蓮田市五郎(※市五郎の市は、一の誤記とされます)筆記」を遺しています。
      ・・・そして、幕府方からの尋問を受ける最中にあっては、蓮田は幕吏の池田頼方(いけだよりかた、いけだよりまさ:※当時、江戸南町奉行などを兼務した人物であり、妻は摂津三田藩主の九鬼隆国の娘)から狼藉(※桜田門外の変のこと)の趣旨を問われると、“委細を尽くしてある『斬奸趣意書』によりご承知ありたい旨を述べた”とされ、当時の幕吏側が前水戸藩主の徳川斉昭を罪に陥れるつもりで誘導尋問を繰り返したものの、それを悟っていた蓮田正実は・・・「もし前君(※徳川斉昭のこと)の内命にて掃部頭様(※井伊直弼のこと)を討つなら、水戸藩からは立場ある武士達が喜んで罷り出でて、且つ討ち方もあるべきでしょうが、何故に軽輩の我々が出ずる事を得るのでしょう。」・・・と答えたとされ・・・また、「蓮田市五郎(※市五郎の市は、一の誤記とされます)筆記」を遺す意図については、次のように自ら記しています。
      ・・・「幕吏の横暴は云うまでもないが、老公(※徳川斉昭のこと)へ冤罪を帰そうとする気炎(※意気盛んなこと)も幕府方にあり、自分(※蓮田正実のこと)の偽口書きを、死後に認められかねない為、幕吏による取調べの大意を書に認(したた)めた」と。・・・ちなみに、幕吏として蓮田正実などに尋問をした池田頼方には、“西暦1859年(安政6年)11月に、「安政の大獄」における吉田松陰の判決に際して、流罪を相当として、大老・井伊直弼へ書面を提出したものの、大老・井伊の裁可によって、それを覆されてしまい、死罪相当へと書き改められた”という経緯(いきさつ)があります。

      ・大関増美(※通称は和七郎、変名は大関忠次郎、大関恒右衛門、酒泉好吉とも、元水戸藩大番組)・・・西暦1836年(天保7年)水戸生まれ。上記の黒澤勝算(※通称は忠三郎、変名は黒澤勝等、元水戸藩大番組)は大関増美の実兄であり、広岡政則(※名は則順、則頼とも、通称は子之次郎、元水戸藩小普譜組)は甥に当たる。剣術流派は、北辰一刀流。西暦1846年(弘化3年)に、叔父の大関家養子となって150石の家督を継ぐ。・・・西暦1855年(安政2年)に馬廻組に任命され・・・西暦1858年(安政5年)に大番組に編入される。“実兄と同様に藩内でも先鋭的な尊皇攘夷思想の持ち主であった”とされ、「戊午の密勅」が水戸藩へ下された際にも勅を幕府に渡さずに奉勅するように訴える。そのため、時の幕府が後ろ盾となっていた藩内の門閥保守派から圧力を受けると、商人に変装して名も「酒泉好吉」と改め、江戸へ潜入する。
      ・・・事変では、彦根藩士の反撃により負傷するが、森直長(もりなおなが:※通称は五六郎、変名は森大之進、元水戸藩小姓組)・杉山当人(すぎやままさと:※通称は弥一郎、変名は杉山秀邦、元水戸藩鉄砲方御用)・森山政徳(もりやままさのり:※通称は繁之介、元水戸藩矢倉奉行手代)ら3名とともに連れ立って、肥後熊本藩主・細川斉護(ほそかわなりもり)屋敷(現東京都千代田区丸の内1丁目辺り)へ移動し、そこで『斬奸趣意書』を提出し自訴する。大関の身柄は、越中富山藩前田家、続いて但馬豊岡藩・京極家へ預け替えられ・・・西暦1861年(文久元年)7月26日に幕府評定において死罪と決まり、森・杉山・森山ら3名とともに、伝馬町牢屋敷にて斬首。享年26。
      ・・・辞世の句は・・・「国の為 名に惜むべき 武士(もののふ)の 身は武蔵野の 露と消ゆとも」

      ・森直長(※通称は五六郎、変名は森大之進、元水戸藩小姓組)・・・西暦1838年(天保9年)水戸生まれ。家禄は300石。剣術流派は、北辰一刀流。森直長の長兄には、後の「那珂湊の戦い」において、内乱の沈静化のための大発勢(≒鎮派)として、藩内の門閥保守派や幕府軍と戦うこととなる森三四郎(もりさんしろう:※水戸藩士)あり。
      ・・・事変では、“森直長の剣術の腕前と気性の激しさが買われて、先頭の撹乱役に指名された”と伝わり、彦根藩士の反撃によって負傷するも、大関増美(※通称は和七郎、変名は大関忠次郎、大関恒右衛門、酒泉好吉とも、元水戸藩大番組)・杉山当人(※通称は弥一郎、変名は杉山秀邦、元水戸藩鉄砲方御用)・森山政徳(※通称は繁之介、元水戸藩矢倉奉行手代)ら3名とともに連れ立って、肥後熊本藩主・細川斉護屋敷へ移動し、そこで『斬奸趣意書』を提出し自訴する。大関の身柄は、豊後臼杵藩稲葉家、続いて大和小泉藩片桐家へ預け替えられ・・・西暦1861年(文久元年)7月26日に幕府評定において死罪と決まり、大関・杉山・森山ら3名とともに、伝馬町牢屋敷にて斬首。享年24。
      ・・・辞世の句は・・・「いたづらに 散る桜とや 言ひなまし 花の心を 人は知らずて」・・・ちなみに、この辞世の中の「言ひ」が、「井伊」に掛けられていると捉えて、“幕府大老・井伊直弼のことを襲撃の際に狙撃した人物が、この森直長であった”とする説や、“この辞世の句自体が、金子教孝(※仮名は孫二郎、孫三郎とも、号は錦村、本姓は川瀬、変名は西村東右衛門)のものとする説”もありますが・・・この他に、もう一首・・・「露の身と 想えば 軽き花雪 散るべき時は 大和魂」・・・があります。・・・いずれにしても、“当時の井伊直弼は居合の達人としても知られていた”とのことであり・・・“現実の襲撃時には、この森直長が直訴状を持ちながら井伊直弼が乗る籠に近づき、隠し持った短銃を用い至近距離から撃った弾丸が井伊直弼の腰部を貫いた”とされます。
      ・・・もしかすると、森直長が撃ったという、この一発の弾丸が無ければ、易々と井伊直弼の首級が取られることは無かったのかも知れません。・・・また、この時の短銃が現存しており、“水戸藩主であった徳川斉昭が、当時のコルト社モデルを複製させたものであったことが判明している”とのこと。・・・尚、森が生前中に、稲葉家の家臣達へ語った記録は、「森五六三郎物語」と呼ばれます。

      ・杉山当人(※通称は弥一郎、変名は杉山秀邦、元水戸藩鉄砲方御用・留付列)・・・西暦1824年(文政7年)水戸生まれ。“杉山当人は、鉄砲師としての技量を買われて士分(=郷士)とされた”と伝わる。剣術流派は、北辰一刀流。・・・事変の前には、“あらかじめ幕府大老・井伊直弼の動静を探索し、その機会を待っていた”とされる。
      ・・・事変では、彦根藩士の反撃により負傷するが、大関増美(※通称は和七郎、変名は大関忠次郎、大関恒右衛門、酒泉好吉とも、元水戸藩大番組)・森直長(※通称は五六郎、変名は森大之進、元水戸藩小姓組)・森山政徳(※通称は繁之介、元水戸藩矢倉奉行手代)ら3名とともに連れ立って、肥後熊本藩主・細川斉護屋敷へ移動し、そこで『斬奸趣意書』を提出し自訴する。杉山の身柄は、越後村松藩堀家に預け替えられ・・・西暦1861年(文久元年)7月26日に幕府評定において死罪と決まり、大関・森・森山ら3名とともに、伝馬町牢屋敷にて斬首。享年37。
      ・・・辞世の句は・・・「今更に 云ひが日も無き 我が国の 堅気(かたぎ)なりけり 異国(からくに)の船」・・・「云ひ」という部分は「井伊」に掛けているようです。

      ・森山政徳(※通称は繁之介、元水戸藩矢倉方手代)・・・西暦1835年(天保6年)水戸生まれ。“身分は低かったが、両親が森山政徳の教育に力を入れたため、武芸も学問も上達が早かった”と伝わる。剣術流派は、北辰一刀流。水戸藩に仕えると、当時の矢倉奉行とされていた高橋愛諸(※通称は多一郎、字は敬卿、号は柚門、変名は磯辺三郎兵衛)の配下に属す。・・・西暦1859年(安政6年)12月には、「戊午の密勅」の返納反対を唱えて長岡宿に屯集(=長岡屯集)し、その後に脱藩。
      ・・・事変では、“戦闘に参加するも、ほとんど無傷であった”とも、または“負傷していた”ともされますが、大関増美(※通称は和七郎、変名は大関忠次郎、大関恒右衛門、酒泉好吉とも、元水戸藩大番組)・森直長(※通称は五六郎、変名は森大之進、元水戸藩小姓組)・杉山当人(※通称は弥一郎、変名は杉山秀邦、元水戸藩鉄砲方御用)ら3名とともに連れ立って、肥後熊本藩主・細川斉護屋敷へ移動し、そこで『斬奸趣意書』を提出し自訴する。森山の身柄は、陸奥一関藩田村家、更に下野足利藩戸田家へ預け替えられ、幕府方による尋問を幾度も受けますが・・・「自分(※森山政徳のこと)は、あくまでも同志に誘われて挙(きょ:※井伊大老襲撃のこと)に加わったに過ぎず、誰が計画し指示したのかについては分からない」・・・と“最後まで譲らなかった”とされる。・・・西暦1861年(文久元年)7月26日に幕府評定において、この森山政徳も死罪と決まり、大関・森・杉山ら3名とともに、伝馬町牢屋敷にて斬首。享年27。
      ・・・辞世の句は・・・「君が為 思ひを遺す 武夫(もののふ)の 失(な)き人数に 入(い)るぞ嬉しき」

      ・広木有良(ひろきありよし:※通称は松之介、元水戸藩評定所吏員)・・・西暦1838年(天保9年)水戸生まれ。安政の初め頃に水戸藩評定所の物書雇となった後に、同藩寺社方の物書雇へ転任する。“身分は低かったが、職務に熱心で忠義の志が厚く、武芸にも秀でていた”と伝わる。剣術流派は、北辰一刀流。
      ・・・事変では、彦根藩士の反撃に遭ったものの、大きな負傷は無く現場を脱し、戦闘不参加の關遠(※通称は鐡之介、号は錦堆、丹楓、蘭室、桜園、楓巷とも、変名は三好貫太郎、三好貫一郎、三好貫之助とも、元水戸藩北郡務方与力)や岡部忠吉(※通称は三十郎、元水戸藩小普請組)などとともに、当初の予定通りに京都を目指す。
      ・・・事変後は、捕吏を逃れながら加賀金沢や越後など各地を転々とするが、幕府による厳重な警戒のため一旦水戸へと帰郷する。・・・数日後、再び京都を目指して出発するも、やはり幕府による追跡が厳しく、能登国珠洲郡正院村の本住寺(現石川県珠洲市正院町小路)に潜伏した後、越後国佐渡島や越中国付近を転々とする最中、偶然にも水戸藩を出奔して越後国新潟に隠遁中の後藤輝(ごとうてる:※通称は哲之介、権五郎とも、常陸国久慈郡和久村〈現茨城県常陸太田市和久町〉出身の元水戸藩郷士)と居合わせた。・・・すると後藤輝は、旅費を用意した上で僧体となった広木有良の逃亡を助ける。・・・この時に逃亡を助けられた広木有良は、後に相模鎌倉の上行寺(現神奈川県鎌倉市大町)に至ると、そこで一時期匿われることとなり、改めて頭を丸め僧形となる。しかし、其処で他の同志達が刑死したことを知り、上行寺の南東にあった墓地において、事件後満二年目となる西暦1862年(文久2年)3月3日に自刃。享年25。

      ・海後宗親(※通称は磋磯之介、後の菊池剛蔵、元常陸国三嶋神社の神官)・・・西暦1828年(文政11年)に、常陸国那珂郡本米崎村にあった三嶋神社(現茨城県那珂市本米崎)の神官の子として生まれる。この海後宗親は、“常陸国多賀郡大久保村(現茨城県日立市大久保町)にあった暇修館(※大久保郷校とも)の医学館へ通い、20歳頃に水戸へ出て剣術や砲術を学んでおり、この頃から佐野光明(※通称は竹之介、竹之助とも、変名は海野慎八、佐藤武兵衛とも、元水戸藩大番組)と親交を深めて、高橋愛諸(※通称は多一郎、字は敬卿、号は柚門、変名は磯辺三郎兵衛)や斎藤一徳(※通称は監物、号は文里、変名は佐々木馬之介、元常陸国静神社の神官)らの影響を受けた”とされる。尚、剣術流派は、北辰一刀流。この海後宗親は、西暦1858年(安政5年)8月に「戊午の密勅」が水戸藩へ下された際にも勅を幕府に渡さずに奉勅するように訴えて江戸へと向かい・・・翌西暦1859年(安政6年)12月に、その返納反対を唱えて長岡宿に再び屯集して、返納反対の行動を採る。
      ・・・事変の前には、西暦1860年(安政7年)2月21日に水戸藩を脱藩して江戸へ潜伏。
      ・・・事変では、彦根藩士の反撃に遭い、自らの指を斬り落とされるも、大きな負傷は無かったため現場を脱して、当初の予定通りに京都を目指す。
      ・・・事変後は、捕吏を逃れて常陸国那珂郡小田野村(現茨城県常陸大宮市小田野)にあった親戚筋の高野家に隠れ、更には会津や越後にも潜伏。・・・西暦1863年(文久3年)には水戸藩政が落ち着きを一旦取り戻したため、郷里の大久保村に帰ると、直後の「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」や「那珂湊の戦い」などにも、変名の「菊池剛蔵」を使用して参加することとなり・・・明治維新後には、警視庁や茨城県庁などに勤め・・・退職後は、生業(なりわい)たる神主を経て・・・明治36年(西暦1903年)5月19日、水戸の自宅にて没す。享年76。
      ・・・彼の遺稿として、「水戸藩関係文書」に、“井伊大老襲撃の一部始終”を伝える『春雪偉談(しゅんせついだん)』や・・・他にも、“彼の姪が、当時の海後宗親の記憶を基に記した”とされる『潜居中覚書(せんきょちゅうおぼえがき)』があります・・・が、これについては本ページで後述したいと思います。何せ、「菊池剛蔵」としての活動歴もある人物ですので。

      ・増子誠(ましこまこと:※通称は金八、後の大畠誠三郎、変名は増子誠三郎、増子正木、落合誠三郎とも、元水戸藩小普請組)・・・西暦1823年(文政6年)に、常陸国東茨城郡石塚村(現茨城県東茨城郡城里町石塚)で生まれる。剣術流派は、北辰一刀流。西暦1858年(安政5年)には、「戊午の密勅遵奉」及び「安政の大獄阻止」を求めるなど、常に尊皇攘夷派(=密勅返納反対派=激派)として活動する。“井伊大老襲撃計画に関わったのは、西暦1860年(安政7年)になってからであった”と云われ・・・事変の前には、高橋愛諸(※通称は多一郎、字は敬卿、号は柚門、変名は磯辺三郎兵衛)ら同志の意を受けて、郷里の石塚村を出て江戸へ向かい、商人に変装して江戸に至る。江戸では、まず同志の杉山当人(※通称は弥一郎、変名は杉山秀邦、元水戸藩鉄砲方御用)と日本橋にあった井筒屋に投宿し、岡部忠吉(※通称は三十郎、元水戸藩小普請組)らとともに、後に江戸に入る同志達のための潜伏先を用意したり、桜花を描いた提灯(ちょうちん)を目印として夜毎に連絡役を担う。
      ・・・尚、この増子誠は、“後の菊池剛蔵こと海後宗親(※通称は磋磯之介、元常陸国三嶋神社の神官)と同じく、明治の世まで生き延びた一人”でしたが・・・事変では、腕や肩に傷を負ったものの、幸い浅手だったため、現場を脱して西国を目指します。しかし、何処も警戒が厳重となっていたため、それも叶わず、一旦郷里の石塚村へ帰ります。・・・その後は、自身を商人と偽り捕吏による追跡を逃れながら、常陸国北部での潜伏逃亡生活を送り・・・明治に入ってから、再び郷里に戻ります。そこで、ようやく同志達の処分を知ることとなり、“自身が生き存(ながら)えていることに対する後ろめたさを感じつつも、この事変に関しては黙して語ろうとしなかった”と云います。また、同志達の冥福を祈りながらも、石塚村の大畠家に養子に入り、大畠誠三郎と改名。その晩年は、地元の青年達に漢学を教え、読書や狩猟の余生を過ごし・・・西暦1881年(明治14年)10月11日に病没します。享年59。

      ・有村兼清(ありむらかねきよ:※通称は次左衛門、治左衛門、治左エ門とも、薩摩脱藩浪士)・・・西暦1838年(天保9年)12月28日薩摩生まれ。兄に、有村俊斎(ありむらしゅんさい:※後の海江田信義、薩摩藩茶坊主)、有村兼武(ありむらかねたけ:※通称は雄助)あり。剣術流派は、薬丸自顕(ゆくまるじげん)流を学んだ後に、江戸において北辰一刀流を修める。西暦1858年(安政5年)、兄の有村兼武(※通称は雄助)とともに江戸において脱藩し尊皇攘夷活動を行なう。後に水戸藩士らの尊皇攘夷派(=密勅返納反対派=激派)志士達との交流を深め・・・翌西暦1859年(安政6年)に「安政の大獄」が始められると、これに憤慨する。
      ・・・事変では、行列中央の駕籠を襲い、路上に引き摺り出して、井伊大老の首級を挙げる。この時、井伊の首級を持ち去ろうとするが、供回りの彦根藩士・小河原宗親(おがわらむねちか:※通称は秀之丞)に後頭部を斬り付けられて重傷を負う。この時は同行した広岡政則(※名は則順、則頼とも、通称は子之次郎、元水戸藩小普譜組)が、小河原宗親(※通称は秀之丞)を斬り伏せたが、幕府若年寄・遠藤胤統(えんどうたねのり:※近江三上藩主)の辻番所付近において力尽き、自害を図る。この時の有村兼清は、まず割腹しようと着用していた皮の稽古胴を外そうとしたが紐を外せず、携帯していた短刀を雪上に立てて自身を押し掛けようするが、見当を付けられなかった。そのため、“周囲の人々に井伊大老の首級を運ぶように要請したが、後難を恐れて応じる者がいなかった”とされる。そこで、“水を飲めば早死に出来る”という「割腹の教え」に従って、手近な雪を口に含んでいたところを救出され、遠藤邸に運び込まれたが、間もなく絶命。享年23。
      ・・・辞世の句は・・・「岩金(いわがね)も 砕け粗目(ざらめ)や 武士(もののふ)の 国の為にと 思ひ切る太刀」、または「黒鉄(くろがね)も 遠(とほ)ら粗目(ざらめ)や 益荒雄(ますらを:※立派な男や勇気ある強い男のこと)が 国の為とて 思ひ切る太刀」、「君が為 尽くす心は 武蔵野の 野辺の草葉の 露と散るとも」、「古郷の 花を見捨てて 迷う身は 都の春を 思ふばかりに」・・・の四首。


      《井伊大老襲撃事件に関与した者達の経歴や事変後について》

      ・金子教孝(※仮名は孫二郎、孫三郎とも、号は錦村、本姓は川瀬、変名は西村東右衛門、元水戸藩西郡奉行及び反射炉用掛)
・・・西暦1804年(文化元年)に、水戸藩の郡奉行などを歴任していた川瀬教徳(かわせのりなり:※通称は七郎衛門、初名は直正、本姓は田丸)の第二子として水戸で生まれる。後に水戸藩士・金子能久(かねこよしひさ:※通称は孫三郎)の養子となり、家禄は200石。当初は小普請組士として出仕する。西暦1829年(文政12年)に水戸藩主の継嗣問題が起こると、実父の教徳らとともに徳川斉昭を擁立。徳川斉昭が水戸藩主になると、その下で徒目付や吟味役、奥右筆を経て西郡奉行となり、特に民政分野で手腕を発揮する。後の「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」の際に、筑波山挙兵時の主将とされる田丸直允(※通称は稲之衛門、水戸町奉行)の甥に当たる。
      ・・・事変の前には、西暦1860年(安政7年)2月に水戸藩を脱藩し、江戸へ至る。“同年3月1日に、關遠(※通称は鐡之介、号は錦堆、丹楓、蘭室、桜園、楓巷とも、変名は三好貫太郎、三好貫一郎、三好貫之助とも、元水戸藩北郡務方与力)を現場総指揮として指名し、井伊大老襲撃を実行する者達へ規約五条を指示した”とされる。
      ・・・事変当日には、品川宿(現東京都品川区)で待機し、井伊大老暗殺成功の報を得ると、佐藤寛(さとうひろし:※初名は教寛、通称は鉄三郎、本姓は藤原、変名は安島鉄三郎)や有村兼武(※通称は雄助、薩摩脱藩浪士)とともに京都方面へ向かい、京都や大坂において薩摩藩の有志らと後挙を謀ろうとするも、その薩摩藩の捕吏により伊勢国四日市(現三重県四日市市)にて捕縛され、伏見奉行所(現京都府京都市伏見区讃岐町)へ引き渡されたが、その後江戸へと送還され・・・西暦1861年(文久元年)7月26日に、事件の首謀者として他の実行者と共に処刑される。享年58。その死に際には、“水戸を脱藩する際に、袖に縋(すが)るのを無言で振り放した11歳の息子のことを不憫がっていた”とも伝わる。
      ・・・辞世の句は・・・「いたずらに 散る桜とも 云いなまし 花の心を 人は知らずに」、または「いたずらに 迷ふ伏見の 旅衣(たびごろも) はや元のまま おとづれもがな」、「ます鏡 清き心は 玉の緒の 絶えてし後ぞ 世に知らるべき」、「国思ひ 家をも捨てて 武士(もののふ)の 名を惜しむ故(ゆえ) 身をば惜しまず」・・・の四首。一首目の「云い」は、やはり「井伊」に掛けている模様。

      ・佐藤寛(※初名は教寛、通称は鉄三郎、本姓は藤原、変名は安島鉄三郎)・・・西暦1836年(天保7年)水戸生まれ。・・・事変の直前時期(※西暦1860年〈安政7年〉3月1日及び2日のこと)には、“金子教孝(※仮名は孫二郎、孫三郎とも、号は錦村、本姓は川瀬、変名は西村東右衛門、元水戸藩西郡奉行及び反射炉用掛)と江戸日本橋の一旗亭にて井伊大老襲撃計画を謀議した”とされる。
      ・・・事変では、金子教孝の補佐人として、桜田門外における井伊大老殺害を見届けた後に金子教孝への連絡役を務め・・・事変当日には、金子教孝や有村兼武(※通称は雄助、薩摩脱藩浪士)とともに京都方面へ向かい、京都や大坂において薩摩藩の有志らと後挙を謀ろうとする・・・も、薩摩藩捕吏により伊勢国四日市にて捕縛され、伏見奉行所へ引き渡されたが・・・同年3月24日に江戸へと護送される。・・・西暦1861年(文久元年)7月26日に「江戸追放刑」を受ける・・・も、翌西暦1862年(文久2年)には赦されて、余生を江戸で暮らし、 大正4年(西暦1915年)に没す。享年80。
      ・・・尚、著書に『佐寛筆記』があり、“井伊大老襲撃事件の詳細については、彼が遺した記録によるところが大きい”とされます。

      ・高橋愛諸(※通称は多一郎、字は敬卿、号は柚門、変名は磯辺三郎兵衛、元水戸藩北郡奉行及び奥右筆頭取)・・・西暦1814年(文化11年)水戸生まれ。藤田幽谷(※名は一正、通称は次郎左衛門)の門弟や藤田彪(※号は東湖、藤田幽谷の次男)に学んで尊皇攘夷論に傾倒して、“改革急進派の中でも屈指の秀才”と云われる。西暦1839年(天保10年)に高橋家の家督を継ぐと、藩主・徳川斉昭に抜擢され床几廻組に属す。西暦1841年(天保12年)には藩主の側近とされる奥右筆に任命される。西暦1844年(弘化元年)5月に藩主・徳川斉昭が幕府から隠退謹慎処分を受けると、高橋は江戸へ上って幕府へに対し斉昭の免罪に向けて活動した。しかし高橋自身は、門閥保守派により西暦1848年(嘉永元年)7月に蟄居処分とされる。それでも、西暦1849年(嘉永2年)3月に徳川斉昭が許されると高橋愛諸も復職し・・・西暦1855年(安政2年)には、北郡奉行となって農兵組織や郷校の建設に携わる。
      ・・・同西暦1855年(安政2年)12月には、水戸藩の奥右筆頭取をも兼務し、改革急進派の中心人物となり・・・「戊午の密勅」に基づく国政改革を志して、水戸藩への弾圧を強める井伊大老を倒すため諸藩の連携を画策。・・・西暦1858年(安政5年)10月11日には、水戸藩士の住谷信順(※通称は寅之介、変名は小場源介、加藤於菟之介とも)と大胡資敬(※通称は聿蔵、変名は菊地清兵衛)両名を南海道(※土佐などの四国地方や紀州のこと)へ、矢野長九郎(※本姓は豊島、名は長邦、後に長道とも、変名は弓削三之允、長九郎とは代々の世襲名か?)を西海二道(※九州地方のこと)、關遠(※通称は鐡之介、号は錦堆、丹楓、蘭室、桜園、楓巷とも、変名は三好貫太郎、三好貫一郎、三好貫之助とも)を北陸・山陰・山陽の三道”へと向かわせる。・・・西暦1859年(安政6年)に徳川斉昭が幕府から永蟄居処分を受け、水戸藩に対し密勅の返還が命じられると、高橋愛諸は強硬に不返論を主張する・・・も、会沢安(※通称は恒蔵、号は正志斎、欣賞斎、憩斎とも)らと対立して、再び蟄居処分とされる。
      ・・・“この頃から高橋愛諸は、密かに金子教孝(※仮名は孫二郎、孫三郎とも、号は錦村、本姓は川瀬、変名は西村東右衛門、元水戸藩西郡奉行及び反射炉用掛)や有村兼武(※通称は雄助、薩摩脱藩浪士)らとともに井伊大老襲撃を計画し、これと同時に密勅が江戸へ運ばれるのを防ぐためとして、改革急進派の藩士らを指揮して、水戸街道の長岡宿に屯集させた人物”とされ・・・当時これを危険視した幕府が水戸藩に対し屯集者達の解散を命じると、一方の徳川斉昭も屯集者達へ解散を説得することになり・・・結果として、“自身が捕縛される事を察した高橋愛諸は、西暦1860年(安政7年)2月に水戸藩を脱藩”する。・・・そして、同年3月3日に井伊大老襲撃計画が実行されることに決まり、また当初の予定では同時に薩摩藩兵が上京し大坂から京都へ入り朝廷を守護する事になっていたため・・・
      ・・・高橋愛諸は、先んじて薩摩藩の有志達に合流しようと、長男の諸徳(ゆきのり:※通称は廉之介、後に庄左衛門、字は士翼、名は諸恵とも)や小室正徳(こむろまさのり:※通称は治作、常陸国那珂郡緒川村小舟〈現茨城県常陸大宮市小舟〉出身の水戸藩郷士)、大貫則光(おおぬきのりみつ:※通称は多介、常陸国那珂郡西塩子村〈現茨城県常陸大宮市西塩子〉出身の水戸藩郷士)とともに大坂へ向かった・・・が、当時の薩摩藩が動かず、京坂における挙兵計画は頓挫してしまう。・・・後に大坂に潜伏した高橋愛諸らは、井伊暗殺の成功を知り、薩摩藩兵の上京を待ったが、潜伏地を幕吏に探知され・・・西暦1860年(万延元年)3月23日、大坂の四天王寺(現大阪府大阪市天王寺区四天王寺)境内にあった寺役人・小川欣司兵衛(おがわきんじべえ)宅にて長男の諸徳(※通称は廉之介、後に庄左衛門、字は士翼、名は諸恵とも)とともに自刃。享年47。
      ・・・辞世の句は・・・「鳥が鳴く 吾妻(あづま)建男(たけお)の 真心は 鹿島の里の 貴方(あなた)ぞと知れ」・・・ちなみに、これは“自身による血書であった”とされます。

      ・高橋諸徳(※通称は廉之介、後に庄左衛門、字は士翼、名は諸恵とも)・・・西暦1842年(天保13年)、水戸藩奥右筆であった高橋愛諸(※通称は多一郎、字は敬卿、号は柚門、変名は磯辺三郎兵衛)の長男として水戸で生まれる。・・・事変に先んじて、父や小室正徳(※通称は治作、常陸国那珂郡緒川村小舟出身の水戸藩郷士)、大貫則光(※通称は多介、常陸国那珂郡西塩子村出身の水戸藩郷士)とともに大坂へ向かう。しかし、潜伏先を幕吏に探知され・・・西暦1860年(万延元年)3月23日、大坂・四天王寺の境内にあった寺役人・小川欣司兵衛宅にて父とともに自刃。享年19。
      ・・・辞世の句は・・・「今さらに 何をか言わめ 言わずとも 尽くす心は 神や知るらむ」

      ・小室正徳(※通称は治作、常陸国那珂郡緒川村小舟出身の水戸藩郷士)・・・生年不明。
      ・・・事変後は、高橋親子に随行した大坂で薩摩藩の決起を促すものの・・・西暦1860年(万延元年)3月内に自刃。

      ・大貫則光(※通称は多介、常陸国那珂郡西塩子村出身の水戸藩郷士)・・・西暦1835年(天保6年)生まれ。
      ・・・事変後は、高橋親子に随行した大坂で薩摩藩の決起を促したが、後に大坂・堺にて捕縛され、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。・・・しかし、その伝馬町牢屋敷において西暦1860年(万延元年)7月29日に獄死。享年26。

      ・川崎健幹(かわさきたけもと:※通称は健蔵、後に孫四郎、変名は篠崎源太郎、元水戸藩北郡務方与力)・・・西暦1826年(文政9年)水戸生まれ。水戸藩の現職家老で井伊大老自らが切腹を命じたとされる安島信立(※通称は帯刀、戸田忠敞の実弟)の従者出身であり・・・西暦1855年(安政2年)以降には北郡奉行を務めていた高橋愛諸(※通称は多一郎、字は敬卿、号は柚門、変名は磯辺三郎兵衛)の配下となる。・・・事変以前から、大坂において薩摩藩などとの挙兵計画のために活動し、井伊大老襲撃班との連絡役となった。・・・しかし、薩摩藩などとの挙兵計画の画策中に「桜田門外の変」が決行されると、幕吏から追われることとなり、京坂における挙兵計画を企てたとされる高橋親子を、幕吏と奮戦して西暦1860年(万延元年)3月23日に逃がし、自身は生國魂神社(いくくにたまじんじゃ:※現大阪府大阪市天王寺区生玉町)前において自害を図り、翌24日に落命。享年35。

      ・山崎恭礼(やまさきゆきのり?:※通称は猟蔵、変名は丹波屋栄蔵、丹波屋栄介とも、元水戸藩北郡務方)・・・西暦1828年(文政11年)10月1日水戸生まれ。水戸藩北郡奉行であった高橋愛諸(※通称は多一郎、字は敬卿、号は柚門、変名は磯辺三郎兵衛)の配下。・・・事変の以前から上記の川崎健幹(※通称は健蔵、後に孫四郎、変名は篠崎源太郎、元水戸藩北郡務方与力)らとともに、高橋の指示により「丹波屋」という商人姿で大坂で活動し、薩摩藩士などとの連絡役であったとされる。・・・しかし、事変後に捕縛されると絶食を続け、西暦1860年(万延元年)4月9日獄死。享年33。

      ・木村聿(きむらいつ:※通称は権之衛門、変名は里見孝助、元水戸藩吟味役)・・・西暦1824年(文政7年)生まれ。家禄は15石2人扶持。“安政年間の初め頃から尊皇攘夷派として活動した”とされる。・・・「安政の大獄」が始められると、井伊大老襲撃計画には参加したものの、江戸における薩摩藩有志との連絡役とされたため、襲撃そのものには不参加。
      ・・・事変後は、幕吏の追手を逃れて四国地方や陸奥仙台などに潜伏し続けたが・・・西暦1863年(文久3年)3月26日、水戸において病死。享年40。

      ・宮田瀬兵衛(みやたせべえ:※常陸国多賀郡宮田村〈現茨城県日立市宮田町〉出身の水戸藩郷士)・・・西暦1814年(文化11年)生まれ。“国事を憂い尊皇攘夷派として奔走していた”とされる。・・・事変後の西暦1860年(安政7年)3月11日に肥後熊本藩主・細川斉護屋敷へ自訴し、“自らも井伊大老襲撃の一味である”と告げたため、同西暦1860年(万延元年)4月23日に揚屋入(あげやいり)を命じられると、それより間もなく獄死。享年47歳。
      ・・・ちなみに・・・「揚屋入」とは、江戸の伝馬町牢屋敷内に設置された特別な牢房に押し込まれること。

      ・有村兼武(※通称は雄助、薩摩脱藩浪士)・・・西暦1835年(天保6年)薩摩生まれ。兄に、有村俊斎(※後の海江田信義、薩摩藩茶坊主)、弟に有村兼清(※通称は次左衛門、治左衛門、治左エ門とも)あり。剣術流派は、薬丸自顕流。西暦1858年(安政5年)、弟の有村兼清(※通称は次左衛門、治左衛門、治左エ門とも)とともに江戸において脱藩し尊皇攘夷活動を行なう。後に水戸藩士らの尊皇攘夷派(=密勅返納反対派=激派)志士達との交流を深める。・・・翌西暦1859年(安政6年)に「安政の大獄」が始められると、これに憤慨し井伊大老襲撃や、京坂における薩摩藩を主体とする挙兵を計画する。
      ・・・西暦1860年(安政7年)3月3日の事変当日には、品川宿で待機し、井伊大老暗殺成功の報を得ると、金子教孝(※仮名は孫二郎、孫三郎とも、号は錦村、本姓は川瀬、変名は西村東右衛門、元水戸藩西郡奉行及び反射炉用掛)や佐藤寛(※初名は教寛、通称は鉄三郎、本姓は藤原、変名は安島鉄三郎)とともに京都方面へ向かい、京都や大坂において薩摩藩の有志らと後挙を謀ろうとするも、幕府によって脱藩浪士達が捕縛されることを恐れた薩摩藩の捕吏が、道中の伊勢四日市で有村兼武らを捕縛し、伏見の薩摩藩邸へ送る。当時の伏見奉行は薩摩藩が担当していたものの、水戸藩出身の不逞浪士とされていた金子教孝や佐藤寛についてを庇いきれず幕府へと引き渡され、有村兼武自身も薩摩へ護送された・・・が、幕吏による探索が厳しく、薩摩鹿児島へも迫られることとなり、西暦1860年(万延元年)3月24日、藩命により切腹。享年26。
      ・・・辞世の句は・・・「沼水(ぬまみず)の 底に沈める 蓮葉(れんよう)の 浄(きよ)き心を 誰か知るらむ」、「大君の 憂(う)き御心(みこころ)を 安(やす)めずば 再び国に 帰らざらめや」・・・の二首。

      ・島龍雄(しまたつお:※通称は八郎、後に男也、本姓は石井、元常陸笠間藩士)・・・西暦1809年(文化6年)7月20日、笠間藩士である石井盛郷(いしいもりさと)の長男として生まれる。・・・“歴代の常陸笠間藩主・牧野家は、越後長岡藩の支藩として、また幕閣の要職にも就任することが多かった家柄であったにもかかわらず、表面上の石高8万石に対して実質の石高が伴なわなかったことなどが要因となり、江戸時代後期頃は特に慢性的な財政難に苦しんでいた”とのこと。その一方では、歴代藩主達が剣術を奨励して、唯心一刀(ゆいしんいっとう)流と示現(じげん)流を二大流派としたため、幕末期には・・・「剣は西の柳河(※筑後柳河藩のこと)、東の笠間」・・・と呼ばれるなど、“その剛勇が知られるようになっていた”とされます。
      ・・・ちなみに・・・「唯心一刀流」とは、剣術だけでなく槍術も含むなど一刀流の古い形態を伝える流派。もう一つの「示現流」とは、薩摩藩を中心に伝わった古流剣術であり、有村兼清(※通称は次左衛門、治左衛門、治左エ門とも、薩摩脱藩浪士)などが学んだ薬丸自顕流とも流れを一にしています。・・・いずれにしても、この島龍雄(※通称は八郎、後に男也、本姓は石井、元常陸笠間藩士)は、父から示現流剣術を学び、13歳の頃には、笠間藩の飛び領地であった陸奥国(磐城国)磐城郡上神谷村及び下神谷村(現福島県いわき市平中神谷)において「剣法引立世話役」を務めるほどであり、その後には北辰一刀流剣術を学んで、この他にも槍術や薙刀術、居合術などの諸武術を更に修行し、やがては当時の尊皇攘夷運動に加わるようになります。
      ・・・西暦1829年(文政12年)には、笠間藩を脱藩して「島龍雄(※通称は八郎、後に男也、本姓は石井)」と名乗り始め・・・西暦1844年(弘化元年)には、伊勢国度会(わたらい)郡御薗(みその)村(現三重県伊勢市御薗町)へと移り、現地の無住寺で「鹿島(かしま)流」と称する道場を開き・・・西暦1848年(嘉永元年)には、その道場を大坂に移して、“その12年後に川崎健幹(※通称は健蔵、後に孫四郎、変名は篠崎源太郎、元水戸藩北郡務方与力)が自害を図ることとなる生國魂神社の境内”に道場を開いて・・・西暦1857年(安政4年)には、自身が学んだ剣術や槍術、薙刀術、居合術などの武術を統合し「皇道剣法」と称していたとのこと。・・・しかし、“同じく常陸国出身者であった佐久良東雄(さくらあずまお:※※他の通称は靱負、寛、静馬、健雄とも、字は高俊、法名は良哉、雅号は薑園、本姓は飯島、幕末期の国学者・歌人)などと協力して、事変の首謀者の一人であった高橋愛諸(※通称は多一郎、字は敬卿、号は柚門、変名は磯辺三郎兵衛、元水戸藩北郡奉行及び奥右筆頭取)を匿っていた”として、大坂の町奉行所により捕らえられる。
      ・・・この後、江戸伝馬町牢屋敷へと送られて・・・西暦1861年(文久元年)11月5日に獄死。享年53。

      ・小野寺慵斎(おのでらようさい:※元陸奥三春藩士であり、銃砲を重視していた長沼流兵学者、数え年で69歳の時に常陸土浦藩の軍学者として招聘される)・・・西暦1792年(寛政4年)陸奥国三春生まれ。・・・この小野寺慵斎に関してを記す史料は少ないものの・・・三春藩士を勤め上げた後、江戸へと入り、「海防」と叫ばれるようになった頃から活躍した人物だった模様。
      ・・・「天保の改革」で知られる幕府老中・水野忠邦が遠江浜松藩主であった時代(※西暦1845年〈弘化2年〉9月2日以前のこと)には、水野忠邦が自藩内における異国船来襲に備えて大砲の鋳造や海岸警備案の見直しを実施し、且つ「自国警衛組書」という指針をも当初計画しますが、その時に浜松藩の軍事顧問とされたのが、この小野寺慵斎という人物。
      ・・・彼が数え年で63歳の時、つまりは西暦1854年(嘉永7年)7月には、長沼流兵学の主要兵書とされていた『兵要録(へいようろく:※内容は兵談、将略、練兵、出師、陣営、戦格の全六編22巻から成る。この幕末期には国際紛争に発展するという危機感の高まりから備後福山藩や信濃松本藩などで出版されて有識者間で広く読まれたようです)』を、長州藩の儒学者として知られる小国融蔵(おぐにゆうぞう:※名は武彜、通称は別に剛蔵、号は嵩陽)に対し、江戸品川の東海寺(現東京都品川区北品川3丁目)にて教授し・・・彼が数え年で66歳の時、つまりは西暦1857年(安政4年)5月には、小野寺慵斎を訪ねて来たという薩摩藩家老・鎌田正純(かまたまさずみ:※通称は蔵人、出雲とも)に対して、所見を説くなど・・・兵学のみならず思想においても革新的な人物であったかと。
      ・・・いずれにしても、井伊大老襲撃計画に関連して、この小野寺慵斎が具体的にどのような役割を担っていたのかについては・・・後の明治期に書かれた歴史書では、“彼が生前中に郷里三春へ送った書状中に、この井伊大老襲撃事件に関与していたという旨が記されていた”とし・・・また、“おそらくは参謀役として井伊大老襲撃計画に関わっていた”ともされております・・・が、“実際の史料などでは小野寺慵斎という人物が井伊大老襲撃事件に具体的に関与していた”という記述は発見されておらず、今のところ詳細は不明。・・・それでも、この小野寺慵斎は井伊大老襲撃が実行された西暦1860年(安政7年)3月3日、高齢であったため襲撃者グループに加えられなかったのか? 或いは“本人は参加したくとも、熱病を患って襲撃には結果的に参加出来なかった”とも伝えられております。
      ・・・そして、事変後の小野寺慵斎は、“同西暦1860年(万延元年)4月に土浦藩士・若林監之助(わかばやしかんのすけ)の推薦により同藩に招聘され、土浦藩における兵学の教授となって、藩校・郁文館(現茨城県土浦市文京町)で月に三度の講義が行なわれていた”と云います。しかし、この小野寺慵斎は、井伊大老襲撃事件に加わった水戸藩脱藩浪士らの多くが捕らえられていた西暦1861年(文久元年)4月12日、土浦藩内の自宅にて自刃。享年70。・・・尚、この小野寺慵斎が最後に仕えた土浦藩主・土屋寅直(つちやともなお)は、父の彦直(よしなお)が水戸藩の6代目藩主・徳川治保(とくがわはるもり)の三男であったため、水戸徳川家・斉昭の従弟に当たります。・・・このような諸事情もあってか? “当時の土浦藩主・土屋寅直は小野寺慵斎自刃という事態を考慮し、慵斎の亡骸を土屋家歴代の菩提寺である神龍寺(現茨城県土浦市文京町)に手厚く葬った”とされますが、その墓石には「慵齋野處士之墓」とのみ記されており、「小野寺」という姓は確認出来ません。
      ・・・これらもまた謎です。彦根藩による当時の報復や、時の幕府によるお咎めを恐れた土浦藩による忖度があったのでしょうか?・・・いずれにしても、この小野寺慵斎という人物が井伊大老襲撃事件に具体的に関与していたのか? についてを別にして考えても、“井伊大老を実際に襲撃した志士達と思想的に共有していたものがあった”ということだけは、類推出来てしまいます。・・・


      《その他・“井伊大老襲撃事件に関与していた”とされ、亡くなった人々》

      ・後藤輝(※通称は哲之介、権五郎とも、常陸国久慈郡和久村出身の元水戸藩郷士)
・・・西暦1831年(天保2年)生まれ。常陸国久慈郡和久村の庄屋であり、山横目(やまよこめ:※郡奉行配下の山林保護を監督する役人のこと、別名は大山守とも)を務める。・・・西暦1858年(安政5年)7月以降の藩難に際しては、同年翌8月の戊午の密勅問題に東奔西走し、水戸藩主・徳川斉昭の雪冤(せつえん:※無実の罪を晴らして、身の潔白を明らかにすること)と奉勅を図って、同年翌9月初旬の「第一次小金屯集」に参画するなどしたものの、将軍の臣下である筈の水戸徳川家(=水戸藩)へ朝廷から直接勅書が渡されたため、結果的に幕府の権威が失墜したとして関係者が厳しく処罰されることとなり、この後藤輝は越後国新潟方面に隠れ住むことになります。
      ・・・しかし、この後藤輝は越後国新潟で隠遁生活を送る中で「桜田門外の変」に参加した広木有良(※通称は松之介、元水戸藩評定所吏員)との運命的な再会を果たすと、僧体とさせた広木有良の逃亡を助け、後の西暦1861年(文久元年)の冬、広木の身代わりとなって幕吏に捕らわれることになるのです。その時の所持品からは広木有良の印が見つかった上に、本人が取り調べの際に広木であると供述したため、翌西暦1862年(文久2年)5月に江戸へ送られ、伝馬町牢屋敷に入獄されてしまいます。しかし、伝馬町牢屋敷では、広木有良と名乗っていた後藤輝に対する尋問は行なわれず・・・黙して語らずの体であった後藤は、絶食のため同年9月13日に獄死。享年32。


      尚、この後藤輝と広木有良の二人についてや、井伊大老衝撃前後の状況などは、『櫻田烈士傳(さくらだれっしでん)』の「廣木松之介傳」が、より詳しいため・・・私(筆者)が、本文中の使用漢字の一部を常用漢字に直し、繰返しの符号や変体仮名については通常の表記に改め、句読点や濁点、読み等を含めるなど、多少読み易くしてから、ほぼ原文のままで紹介したいと思います。・・・この『櫻田烈士傳(明治30年11月1日・郁文館発行)』の著者は、幕末から明治期にかけての漢学者とされる「綿引泰(わたひきやすし:※通称は泰介、字は天行、号は東海)」という人であり、この後に水戸藩から一橋家へと出向し西暦1867年(慶應3年)8月14日に殺害されてしまう原忠敬(はらただたか:※名は忠成とも、通称は市之進、号は伍軒、藤田彪の従兄弟)の門下生です。また、この綿引泰も、水戸藩校・弘道館の訓導(くんどう:※現代の学校制における教諭のこと)を経た後に宮内省へ出仕した人物であり、この他の著書には『烈士詩傳(れっししでん)』や『疑獄録(ぎごくろく)』、『自強斎叢書(じきょうさいそうしょ)』などあり。
      ・・・ちなみに、『櫻田烈士傳』の冒頭部分では、著者である綿引泰自身のことを「東海道人」とし・・・同じく巻末部分では、綿引泰のことを「茨城縣水戸藩士族」と紹介しています。

      ※以下の「」内が、『櫻田烈士傳・廣木松之介傳』より。私(筆者)による注釈や補足は・・・挿入部分・・・内に挿入しています。
      広木松之介伝
       広木松之介有良は評定所物書雇なり。大関和七郎と睦しかりければ桜田の企てに同盟し、事はてゝその場を逃れ去り。一旦国に帰りしが、父某(ちちのなにがし:=父の何某)がいかにその場にて打ち死をば得せずして帰りしやと罵りたれば、松之介志を励まし、そここゝと潜み歩き、能登の国正院村の日蓮宗某寺の住職は所縁ある人なれば、尋ね往き僧形となりて潜み居たりしが、余りに詮鑿(せんさく:=詮索)きびしきにより、そこより便船(=船便)にて佐渡の国に航し久しくありて、また再たび能登に来り。それより越中の或る寺へ往き身を寄せたりけるに、同志の人々皆刑せられたりと聞き、歎息して吾一旦の死を逃れ今日に至れるは、後に図る所ありてなり。今は、しも世の中の事せんすべなし。独生を偸(ぬす)むべきに非ずとて、ある日、主僧に謁して四方八方の物語りするうちに、人生は朝露の如しとかや。今日無事なる顔を見たりとて、あすはいかがあるべき。某(それがし)、もし万一の事あらんには、後世をよきにはからひ玉はれ(たまわれ)かしと、言葉を残して立去りぬ。程なく墓所にて腹切りうせぬる人ありといふに、和尚いたり見れば、松之介にてありき。
       時に文久二年三月三日なり。年二十五。その翌々年甲子の十一月にいたり、行脚の僧水戸に来りて、松之介が家を尋ね、そがかたみの品々さし出し、最後の有様なと、こまごま語りいだせしに、そ一家の人々も久しくゆくへ(=行方)を知らさりしか、初めて臨終のやふす(=様子)を聞き、かたみに袖をしぼりしとなん。某(=何某)云、当時松之介江戸伝馬町の獄にて死刑となりし報を得て、父三蔵遺骸引取として、水戸よりいたれり。容皃骨柄のわが子に肖(に:=似)もやらず。そのうちに知る人ありて、後藤哲之介が亡きからなりと云ふにより、空しく帰国せしことあり。こは、松之介が其場(そのば)を逃れ出て越後の新潟に飄泊せしに、図らずも哲之介にめぐりあひたり。哲之介は、久しくこゝにありて知る人も多ければ路費の用意なと何くれととりなして、他へ逃しやり、松之介が印形を預り居たり、同じ国なまりの人とて、遂に捕はれとなり。糾問の上取持の品取調べしに、紛れもなく松之介の実印なれば、いひとくすべ(=言い説く術)もなく遂に牢屋に送られたるなりと、亡友・小山春山(おやましゅんざん)その頃獄中にありて知れるを以て、その顛末を物語れり。
       因て、こゝに哲之介の略伝をかゝげ、またその時新潟にての口書(くちがき)なるものあり。参考にもと併せ記すこと、左の如し。・・・“後藤輝(※通称は哲之介、権五郎とも、常陸国久慈郡和久村出身の元水戸藩郷士)の事を伝えられた”という小山春山が、この『櫻田烈士傳』の著者である“綿引泰(※通称は泰介、字は天行、号は東海)の今は亡き友であった”としております。・・・そして、この文中にある小山春山という人物は、幕末期の漢学者であり尊皇攘夷運動家としても知られ、その名は鼎吉、朝弘とも。字は毅卿、遠士とも。別号は楊園。・・・西暦1827年(文政10年)3月10日に下野国真岡の裕福な塚田家に生まれ、子供の頃から医学を志して、儒学や国学(=歴史)については水戸藩の会沢安(※通称は恒蔵、号は正志斎、欣賞斎、憩斎とも)に師事します。その他にも藤田彪(※号は東湖、藤田幽谷の次男)や大橋訥庵(おおはしとつあん:※通称は順蔵)らとも、この頃から親交を結んでいたとされます。
       ・・・元々は真岡木綿の買継問屋が小山春山の家業でしたが、異国船来航とともに木綿関連事業が不振気味となったため、株を手放して家督を実弟に相続させると、西暦1853年(嘉永6年)に江戸へ出て漢方医・尾台榕堂(おだいようどう:※通称は良作)に学びます。漢学については、常陸土浦藩の儒学者・藤森弘庵(ふじもりこうあん:※通称は恭助、字は淳風、別号は天山、如不及斎とも)に師事し、その後は郷里の真岡で医業を営みながら、家塾を開きました・・・が、この小山春山が、後の西暦1862年(文久2年)1月15日に起こることになる「坂下門外の変」に連座し、大橋訥菴らとともに捕縛され一時投獄されてしまいます。
       ・・・尚、この小山春山の長男である小山馨三郎(おやまけいざぶろう;※名は惟馨、朝義とも、号は猷風、変名は小野馨之允)が、水戸において藤田信(※通称は小四郎、藤田彪の四男)と義兄弟の契りを結び、水戸藩の尊皇攘夷改革激派(≒後の天狗党)として「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」に参加して、西暦1865年(元治2年)2月16日に越前国敦賀にて斬首(※享年19)されたため、父親であった小山春山自身も乱に関与した事とされ、再び佃島への流刑とされました。しかし、明治維新後の西暦1869年(明治2年)には浦和県の権大参事を務め・・・その後には司法省や大蔵省に勤め・・・大蔵省を最後に退官すると、東京で家塾を開き、西暦1891年(明治24年)1月1日に死去。享年65。
       ・・・いずれにしても、この『櫻田烈士傳・廣木松之介傳』において、以下に記述される後藤輝については、奇跡的且つ運命的な伝達事項だったと感じざるを得ません。
       ・・・ちなみに、著者の綿引泰(※通称は泰介、字は天行、号は東海)が、“ここで紹介する”という「口書」とは・・・そもそも、江戸時代における被疑者などの供述調書のことになります。しかし、このように「口書」とされるのは、本来は足軽以下の百姓や町人などの場合に限られており・・・被疑者が、この時の後藤輝のように、武士階級出身であることが明らかな場合は、通常は「口上書(こうじょうがき)」と呼ばれた筈なのですが・・・。・・・もしかすると、この『櫻田烈士傳』の著者であり、且つ“広木松之介有良を自称した後藤輝についての口書を発見したため、読者の方の参考になるかと考え、ここで紹介することに致します”と云う綿引泰(※通称は泰介、字は天行、号は東海)の表現方法・・・つまりは、「その時新潟にての口書(くちがき)なるものあり。参考にもと・・・」という部分に、“武士階級という身分が消滅してから久しくなり明治時代の人間として生きることになった著者・綿引泰を含めた当時の人々の想いが込められている”と考えた方が良いのかも知れません。・・・

       「
後藤哲之介輝は常陸国久慈郡和久村の郷士なり。慷慨(こうがい:※世間の悪しき風潮や社会の不正などを、怒り嘆くこと)して国をいて(=出でて)、四方に奔走せしが、文久元年新潟にて常陸訛(ひたちなまり)の言語を恠(あやし:=怪)まれて捕はれ、姓名を問はれしに、広木松之介と答ふ。そは、井伊殿を犯せし者なりとて、厳しく警固して江戸に送られしが、其人ならぬとを知られけれども、獄に下(くだ)し、別に糾問の旨もなくて月日を経るに、其後一粒の食をも喰はざりしが、二年九月十三日、終に息絶へたり。年三十二。

       広木松之介新潟に於て穿鑿口書(せんさくくちがき)の書面

        水戸殿家来にて出奔致候由申立候
        酉十二月十九日揚屋入     広木松之介 酉三十五才・・・“この穿鑿口書に、広木松之介こと三十五才として登場する人物”は・・・あくまでも、広木松之介有良本人であると自称する後藤輝(※通称は哲之介、権五郎とも、常陸国久慈郡和久村出身の元水戸藩郷士)のことであり、以下の口書中にある家系的且つ家族的な話については、後藤輝が自身を正直に語った内容であると推察出来ます。・・・
        右之者致吟味候処(みぎのものをぎんみいたしそうろうところ)、妻弟共家内三人暮し。水戸城下上町白銀町に住居。・・・「水戸城下の上町白銀町」とは、現在の茨城県水戸市本町3丁目のこと。・・・小普請(こぶしん)と唱へ、無役にて金八両三人扶持宛行(あてがい)請け。弟一同、提灯張致し相暮罷在。尤(もっとも)、宛行は家内人数高に応じ増減有。之一人に付、一人扶持金壱両貳分程宛に有之候(これありそうろう)。頭支配は月に相代り候得共、去申二月出奔致候節は、高橋源右衛門組下に有之候。・・・ここにある「高橋源右衛門」とは、高橋愛諸(※通称は多一郎、字は敬卿、号は柚門、変名は磯辺三郎兵衛、元水戸藩北郡奉行及び奥右筆頭取)のことでしょうか? 当の高橋愛諸でなくても、「源右衛門」という名を用いたという可能性は大ですが。・・・おそらくは、この「源右衛門」とは、広木松之介を名乗っていた後藤輝による創作名であり、「桜田門外の変」の成功を導いた高橋愛諸に対する賛美の意味もあったかと。・・・
        父は広木三蔵と申、是又小普請組(こぶしんぐみ)にて去未年三月十五日五十八歳にて病死致し候に就き、同年五月中と覚ゆ。家督致し、母はセンと申候。水戸殿領常州那珂郡青柳村・百姓助蔵より縁付参り。去る午年九月五十才にて死し。・・・本物の広木松之介有良の父は、広木有清(ひろきありまよ:※通称は善蔵)、母は宮崎氏の出身者でしたので・・・この時の取調べでは、広木松之介有良を装う後藤輝(※通称は哲之介、権五郎とも、常陸国久慈郡和久村出身の元水戸藩郷士)が、後藤家の話を語っていたことが分かります。・・・
        妻キヨは同家中・玉村助左衛門娘にて三ケ年前貰ひ受け、当酉廿八才。弟松蔵は同廿五歳に相成。先祖は、右青柳村・百姓にて三蔵と申、年暦不覚。水戸源文殿御代、・・・水戸藩6代目藩主・徳川治保時代のこと・・・与力に被召出、此者迄五代相続致居候処、近年外国御通信諸藩交易御差許相成候に付、御国政御改革被仰出。加之(これにくわえ)乍恐(おそれながら)、御祖宗の御遺命にも被為背、長崎表踏絵を被廃候上、邪教寺・・・キリスト教の教会など、外来宗教施設のこと・・・を御取建(おんとりたて)に相成候由、及承皇国の御為に不相成儀、歎敷(≒嘆かわしき)且(かつ)残念に存候。出府の上、御老中へ罷出、交易御差止相成候様直訴可仕と、年来厚く相交り候。同領分同国茨城郡静村神主・斎藤監物、並同家中にて学友・杉山弥一郎と密に申合候。
        後同人は、出府致候間、跡慕ひ打合せ候積を以て去申二月八日家内の者へ無沙汰に出奔致し、兼(かね)て契約の通り(斎藤)監物方へ相越候処、同人病気にて同道相成兼候に付、江戸表にて待居る積の処、路雑用乏敷候間(みちざつようとぼしきそうろうあいだ)、及合力右才覚中(みぎとごうりきしさいかくにおよび)、同十三日迄同人方へ逗留致し、同十四日出立、筑波へ登山。
        志願成就の義相祈(あいいのり)、二日の間参籠。同廿日夜下総国関宿より乗船、翌廿一日江戸表着。深川海辺・大工町、名町不存(まちのなはぞんぜず)。郷宿に止、宿致候所、取落物有。之一ト先帰国の積、翌日出立、水戸道中へかゝり、同廿五日帰宅。尚又、廿七日出立、廿九日江戸着。前同所へ止宿、翌三月朔日浅草蔵前通にて杉山弥一郎に行逢候間、最寄酒店に於て酒飲前書直、訴の志願弥々相遂度様相噺候処、外に手段有之候間、明二日芝・愛宕山境内へ可相越。委細の始末は、其節談判可致旨申聞候に付、立別れ候。頃は、夜深候間、両国橋辺。明船へ泊り同日愛宕山へ相越。同人へ面会致候処、交易御差止の儀、御老中方へ歎願致候ども、御取用有之間敷(これあるまじく)。右は、畢竟(ひっきょう:≒絶対の)井伊掃部頭・筆頭にて、万端一巳の権威を震ひ、品々奸悪の及所業候儀に付、国家の為、身命を抛(なげうつ)。
        明日、同人登城を待請(まちうけ)、途中に於て打果し候上、其段(そのだん)御老中方へ申立候はば、自然御取用にも可相成と、同志の者十七人申合。尤(もつとも)其期(そのご)に至り、手負(ておい)の者は致自訴(じそいたし)、無難の者は一先場所を立去り、一両年の間何れへ成共立忍ひ、跡々の成行見及候上、弥御取用不相成候はば、素々(もともと)国家の為とは乍申(もうしながら)、対公儀(こうぎにたいして)不容易所置(よういざるしょち)に及候義に付、銘々(めいめい)自訴致候積り、且(かつ)斎藤監物も疾(やまい:※戦闘による負傷のこと)に。出府一味に有之(これあり)。
        右に付ては、同夜吉原町遊女屋へ寄合候、手筈申合候事の由、密話も有之候に付、尤(もっとも)の儀と存直、様一味可致段相答、夫々(それぞれ)も同道にて桜田御門外地理の様子見置、夕七ツ時吉原町名前不存遊女屋へ相越候所、右(斎藤)監物初、同家中・佐野竹之介、大関和七郎、広岡子之次郎、森五六郎、黒沢忠三郎、蓮田市五郎、稲田重蔵、関三十郎【注釈 本文 関三十郎は、岡部三十郎の儀に而(しかして)は無之哉(これなきかな)と、相糾候処、右は十ケ年程以前、不調法の儀有之、主人方暇相成候に付、岡部と改姓致し候哉(そうろうや)。難斗候得ども(=難しき事とは、そうらえども≒難しき事とは存じますが)、暇相成候節は、関と名乗候儀の由に御座候。】、増子金八、森山繁之介。・・・尚、ここの注釈部分の記述によって・・・「桜田門外の変」において現場の検視見届役とされ、この頃既に捕縛されていた岡部忠吉(※通称は三十郎、元水戸藩小普請組)が、同事変の現場総指揮役となって同時期に逃走し続けていた關遠(※通称は鐡之介、号は錦堆、丹楓、蘭室、桜園、楓巷とも、変名は三好貫太郎、三好貫一郎、三好貫之助とも、元水戸藩北郡務方与力)の身代わりとして振る舞うことで、何かしらの望みを叶えるための言動だったのでしょうか?・・・いずれにしても、幕吏を相手に、時間稼ぎ的な行動をしていたことが窺えます。・・・当時の關遠は、やはり小説や映画で描かれるように、全国の雄藩による新たな政治行動や、新たな挙兵計画などのため奔走していたのでしょうか?・・・
        領分神官にて鯉淵要人、海後嵯嶬之介并(あわせて)水戸家にては又者(またもの)と覚候。関鉄之介事。関新兵衛薩州浪人・有村治左エ門、姓名不存者とも壱人追々罷越(おいおいまかりこし)、尤(もっとも)其節(そのせつ)、始て面会致し候者も有之(これあり)。・・・「関新兵衛」とは、関鉄之介こと關遠(※通称は鐡之介、号は錦堆、丹楓、蘭室、桜園、楓巷とも、変名は三好貫太郎、三好貫一郎、三好貫之助とも、元水戸藩北郡務方与力)の父の名前であり、關遠が水戸藩士・関昌克(せきまさかつ:※通称は新兵衛)の長男ですので・・・「桜田門外の変」に際しては、關遠が父の「新兵衛」という名を継承し、“正々堂々と事に当たっていたこと”を物語っております。・・・
        此者共(このものども)、(有村)治左衛門、(広岡)子之次郎外壱人は、先供へ立向ひ、(斎藤)監物・(杉山)弥一郎等は(井伊)掃部頭殿を目掛け、其余は游軍(ゆうぐん)并(ならび)に跡供を支へ候積り、且(かつ)御同人を打留候へば、声立候筈に付、右を相図に戦争を相止、場所速に立去候。積暫時列席窃(ひそか)に夫々(それぞれ)申合、翌三日暁七ツ時頃吉原町出立。駕籠に乗り、明ケ頃愛宕山へ登りし所、同志の者共追々相集り、路々旅支度致し中には、着込竹具足等用意の者も有之(これあり)。折節雪降出候に付、其身(そのみ)半纏股引脚、半赤桐油竹子笠等相用。五ツ時頃より桜田御門前所々に彳(たたず)み待受候処、同刻過(井伊)掃部頭殿登城に(有村)治左衛門方外へ近寄候間、(有村)治左衛門等四人先供に突当り咎め候を汐に、一同雨具かなぐりすて抜連切掛け、此者は二人へ手負ひさせ候迄は覚居候得共、其後は確(しか)と見留めも無之由、間もなく合図の声立候に付、直様引上候得共、戦闘の紛刀の鞘(さや)振落し候間、無是非携居候。
        刀は【注釈 本文 刀の儀は、無銘長二尺七寸。鍔(つば)は鉄すかし葵唐艸(あおいからくさ)摸様。縁頭(ふちがしら)鉄無地。目貫(めぬき)龍金焼付鮫黒塗。柳糸(りゅうし)黒。鞘黒けしたたき。下げ緒(さげお)黒真田のよし申立候。】堀際と覚、投捨(なげすて)駈走(かけばし)り候砌(みぎり)、(有村)治左衛門は首級を太刀に貫ぬき駆行候を見受候得共、其余の者共は何れに散乱致し候哉。不相弁(あいわきまえず)、暮六時頃板橋宿へ罷越、同所に於て紺木綿股引脚半相調、町人体に相成、京都へ立越候積、信州路に於て脇差(わきざし)は通り古鉄買(ふるてつがい)に売払、懐剣所持大津宿迄相越候所、京都は手配厳重の由風聞承候に付、大津より船にて海津へ相廻り候節、懐剣は湖水へ取落し、夫(それ)より越前、能登、越後国等所々売卜。又は日雇稼(ひやといかせぎ)等致し立廻り風聞承り候処、交易御差止に不相成(あいならず)。而(しかも)已(すで)に無之(これなし)。新潟表へも御開港相成候に付、此節新規に御台場御立連に相成候由の風説(ふうせつ)有之(これあり)。
        左候ては弥願意不相貫儀に付、右御立連ねの有無見届、万一事実に於ては最早志願も是迄の儀と存絶ち兼、而(しかも)申合の通、出府の上、自訴(じそ)可致(いたすべし)と決心致し、当月十八日新潟表へ罷越、海岸御台場御立連の摸様見請候後【注釈 本文 新潟御台場の儀は、是迄洲崎御番所付にて海岸近くに有之(これあり)。近年海(きんねんのうみ)当強く(まさにつよく)、追々(おいおい)欠崩(かけくず)れ、危難の場所に相成候間、御番所一同右に取寄、信濃川縁へ引移候積を以て、夫々(それぞれ)目論見(もくろみ)の上、当十月中摸様。御普請同十一月中より御台場の方仕掛取還し、当時仕立中に御座候。】於旅人宿相尋、寺町通徘徊致し候所、支配向の者に被取咎(とがめられ)、被差押(さしおさえられる)候儀の旨、申立候。・・・ここの最後の一文によって、広木松之介有良本人であると自称した後藤輝(※通称は哲之介、権五郎とも、常陸国久慈郡和久村出身の元水戸藩郷士)が、越後国新潟において捕縛された際、つまりは“自首した時の様子”が分かります。・・・


      ※さて、ここで再び《その他・“井伊大老襲撃事件に関与していた”とされ、亡くなった人々》に戻ります。

      ・佐久良東雄(※他の通称は靱負〈ゆきえ〉、寛、静馬、健雄とも、字は高俊、法名は良哉、雅号は薑園、本姓は飯島、幕末期の国学者・歌人)
・・・常陸国新治郡浦須村(現茨城県石岡市浦須)の土浦藩郷士・飯島平蔵(いいじまへいぞう)の長男として、西暦1811年(文化8年)3月21日に生まれる。幼名は吉兵衛。生家は代々名主を務める家系。・・・9歳の時、同国同郡下林村(現茨城県石岡市下林)の真言宗観音寺に入り、住職であった「阿闍梨・康哉(あじゃり・こうさい)」の弟子となる。「万葉法師」との別名もあるほど『萬葉集』を研究した康哉に従がって、万葉和歌についてを学ぶ。・・・15歳で得度し、法名を良哉、字を高俊と改める。・・・数え年で17歳頃の西暦1827年(文政10年)には、“減租を求めて蜂起した民衆を説得し沈静化させ、更には代官へ直訴して民を救った”と伝わる。
      ・・・その後、真言宗豊山派の総本山・長谷寺(現奈良県桜井市初瀬)において仏道の修行を行なうが、数え年で22歳頃の西暦1832年(天保3年)に、康哉没後の観音寺・第28代住職を引き継ぎ・・・その三年後の西暦1835年(天保6年)には、同国同郡真鍋村(現茨城県土浦市真鍋)の善應寺・第18代住職となる。
      ・・・この頃から、水戸藩の藤田彪(※号は東湖、藤田幽谷の次男)や会沢安(※通称は恒蔵、号は正志斎、欣賞斎、憩斎とも)、常陸笠間藩士で儒学者の加藤桜老(かとうおうろう:※通称は麟、後に有麟、幼名は日出吉、元佐竹遺臣の家系とされる水戸藩士・佐藤家に生まれ14歳で外祖父の笠間藩士・加藤家の養子となる)、土浦藩士の大久保親春(おおくぼちかはる:※通称は要、字は子信、号は靖斎、安政5年に戊午の密勅の水戸藩への降下運動に参画し安政の大獄で永押込処分となり土浦藩獄舎にて病没する)、同じく土浦生まれの国学者・色川三中(いろかわみなか:※通称は桂助、三郎兵衛、弥三郎とも、本名は英明、号は東海、瑞霞園とも、土浦の薬種兼醤油醸造業の家に生まれ、史学や古典研究に励んだため、本人による著書や編著も数多いものの、当時の蔵書一万巻を所有したという蔵書家としても知られる)、同じく“土浦藩で小山春山(※名は鼎吉、朝弘とも、字は毅卿、遠士とも、別号は楊園、幕末の漢学者)に対して漢学を教えた”とされる藤森弘庵(※通称は恭助、字は淳風、別号は天山、如不及斎とも)などと交友しながら学ぶ。
      ・・・そして、この頃から「東雄」と号して歌人としても知られるようになり、更に「水戸学」を学んで国学を講じたため、その学識が評価され、藤田彪らから水戸藩への出仕を勧められたものの、“これについては固辞した”と伝わる。・・・西暦1842年(天保13年)に善應寺住職を辞して、江戸矢ノ倉町(現東京都中央区東日本橋)へ移住し、“国学四大人の一人とされて幕末思想界に大きな影響を与えた”とされる平田篤胤(ひらたあつたね:※通称は正吉、半兵衛、大角とも、名は玄瑞、胤行とも、号は真菅屋、気吹之舎など、出羽久保田〈秋田〉藩士の大和田祚胤〈おおわだとしたね〉の四男として生まれるが、後に江戸在住の備中松山藩士で代々山鹿流兵学者であった平田篤穏〈ひらたあつやす〉の養子となる)の門下に入って、更に国学を学ぶとともに書道をも精進した。・・・翌西暦1843年(天保14年)6月に国学復古を志して勤皇を誓って還俗すると、その足で鹿島神宮を参詣し桜樹千株を奉献する。“この時の桜の様”、つまりは“雪のように潔く消える”という意味を込めて、“佐久良〈靱負〉東雄と自称するようになった”と伝わる。
      ・・・佐久良〈靱負〉東雄は、西暦1844年(弘化元年)に水戸藩の奥医師であった鈴木玄兆(すずきげんちょう)の娘・輝子と結婚して二男二女を儲けたが、“各地で尊皇論を遊説しながら、同年中に京都へも上った”とされる。・・・翌西暦1845年(弘化2年)に再度上京すると、妙法院宮(みょうほういんのみや)家の家人となり和泉国大鳥郡(現大阪府大阪市堺市)に滞在しながら歌学を講じ、更に大坂・北久宝寺(現大阪府大阪市中央区北久宝寺町)に移ると、坐摩神社(いかすりじんじゃ:現大阪府大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺)の神官をも務め、「坐摩版」と呼ばれる国学書の出版を行なうとともに、惟神舎(かんながらしゃ)を開いて国学や皇学を指導する。・・・西暦1854年(安政元年)に再度京都に移って、神祇伯(じんぎはく、かみづかさのかみ:※律令官制における神祇官の長官のこと)・白川資訓(しらかわすけのり)に「伯家神道(はっけしんとう)」を学んで「神祗道学師」の称号を受けると、更に妙法院宮に召されて中奥席格となり「皇学教授」に任じられる。
      ・・・西暦1857年(安政4年)には妻の輝子が亡くなり、この頃から「静馬」或いは「健雄」との通称を名乗って「薑園(きょうえん)」と号す。・・・その後に再び大坂に移り住むと、西暦1860年(安政7年)の「桜田門外の変」に参加した者達の支援を行ない・・・“当時の京坂における挙兵計画を企てたとされる高橋愛諸(※通称は多一郎、字は敬卿、号は柚門、変名は磯辺三郎兵衛、元水戸藩北郡奉行及び奥右筆頭取)と諸徳(※通称は廉之介、後に庄左衛門、字は士翼、名は諸恵とも)親子を匿った”という咎(とが)により、同西暦1860年(万延元年)3月23日に同志達とともに捕縛され、大坂・松屋町(現大阪府大阪市中央区松屋町)牢獄に繋がれる。・・・同年4月上旬に江戸・伝馬町牢屋敷へと移送され・・・同年6月27日、獄中にて病死。享年50。
      ・・・尚、この佐久良東雄の死後、本人が「吾、徳川の粟を食わず」と宣言し、“断食して命を絶った”という説が流れ・・・また、彼が生前中に詠み、死後に編纂された『薑園歌集』の中には、“彼の烈々たる精神が溢れる遺言状、若しくは辞世の句ではないか?”と目される・・・「今聞きて 忌(い)まし死ぬとも 嬉しきは 上(かみ)なき神(かみ)の 道にぞありける」・・・という一首あり。

      ・飯田忠彦(いいだただひこ:※通称は要人、刑部、左馬とも、諱は初め恒憲、後に持直とも、字は子邦、本姓は里見、法名は黙叟、その他の号に環山、野史氏、夷浜釣叟〈いひんちょうそう〉など、幕末期の国学者)・・・西暦1799年(寛政10年)12月18日、長州藩の支藩とされる周防徳山藩士・生田兼門(いくたかねかど:※通称は十郎)の次男として生まれる。父の兼門は、初め里見姓を名乗ったが、後に生田家の養子となった。・・・この生田兼門の次男・忠彦は、幼少の頃から歴史に対して関心を示し・・・2、3歳頃に、“乳母が菅原道真の像を見せると泣き止み”・・・5、6歳の頃には、“菅原道真の絵を自ら描いていた”とされ・・・8歳で、“当時の大名家や幕府役人の氏名や石高、俸給、家紋などを記した年鑑形式の紳士録”とされる『武鑑(ぶかん)』を・・・12歳で、“かつての徳川光圀(※義公)から水戸藩の編纂事業”とされていた『大日本史』を愛読し、これに特に感動したという忠彦は、“この当時の記述内容が後小松天皇時代で途絶している事を嘆いて、続編の執筆を自ら志すようになった”と云う。
      ・・・13歳で藩校に入ると、翌年に同藩士・松尾恒貞(まつおつねさだ)の養子となり、恒憲(つねのり)と名乗って江戸へ遊学し、兵学などを修める。・・・しかし、数え年で20歳の時、当時の周防徳山藩主・毛利広鎮(もうりひろしげ)に近侍していた西暦1818年(文政元年)に、自身の女性問題を咎められた事から同藩を出奔し、そのまま京都に上ってしまう。・・・その後、河内国八尾(現大阪府八尾市)の郷士・飯田忠直(いいだただなお:※通称は謙介)の婿養子となり、飯田持直(いいだもちなお:※通称は要人)と改名したものの、そこでも養父との折り合いが悪く、西暦1823年(文政6年)には妻のキホと離縁し、同家も出奔。それでも「飯田姓」を用いながら、名を「忠彦」と改め、“かつての江戸へ遊学した際からの念願であった”という『大日本史』の続編編纂のための史料集めに奔走した。
      ・・・数え年で36歳の時、“一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)の実母・吉子女王(※名は芳子とも、有栖川宮織仁親王の第12王女であり、落飾後の貞芳院、没後は文明夫人とも)の実家でもある有栖川宮(ありすがわのみや)家”の家人・太田左兵衛(おおたさひょうえ)の紹介により、同家当主の韶仁親王(つなひとしんのう)から“一定の職掌が無い家来”を意味する「家来無席」というポストを与えられ・・・西暦1834年(天保5年)11月27日に同家の家人とされる。これについては、“有栖川宮家の家人という肩書きを与えることによって、忠彦が史料収集などで各地の寺社や旧家を訪ねる際に、便宜を図るためであった”と伝えられる。
      ・・・その後の飯田忠彦は、『大日本史』続編編纂のための史料収集活動の拠点を、韶仁親王の三男・公紹入道親王(こうしょうにゅうどうしんのう)が門主を務める江戸上野・寛永寺(現東京都台東区上野桜木1丁目)へと移し、ほぼ独力で続編執筆に励んだとされ・・・また、その未完成の草稿は、当時の寛永寺の僧侶に請われたことにより、同寺で活版印刷したものが、韶仁親王を通じて仁孝天皇に献じられる。・・・飯田忠彦が数え年で50歳の西暦1848年(嘉永元年)には、有栖川宮家の諸大夫(しょだいぶ:※親王家や摂家など公家における家司〈けいし〉の職名のこと)・豊島茂文(とよしましげふみ)の誘いにより京都へ戻り、韶仁親王の世子であった幟仁親王(たかひとしんのう)の家人として宮家に復帰する。
      ・・・尚、この頃までに、後小松天皇から仁孝天皇までの21代の治世を紀伝体で記し、『大日本史』の後継的な歴史書とされる『大日本野史(だいにほんやし)』の編纂を終えて、西暦1851年(嘉永4年)に全291巻の清書が完成したため、同年5月29日に豊島茂文など親交のあった人々を招待し「野史竟宴(やしきょうえん)」と題する宴の席を催す。この宴の出席者は、各々が『大日本野史』の登場人物の中から選抜して、その人物を題材にした和歌や漢詩を詠んだとされ・・・これらの詩歌が、同年内に『野史竟宴詩歌(やしきょうえんしいか)』として編纂出版される。
      ・・・江戸幕府(=徳川幕府)が日米修好通商条約の勅許を朝廷へ要請した西暦1858年(安政5年)には、有栖川宮幟仁親王の長男である熾仁親王(たるひとしんのう)が・・・「諸外国は、陽に貿易を求め、陰に邪教(※キリスト教などの外来宗教のこと)を布教せんとしている。」・・・という意見書を朝廷に出すと、これが幕府の注目を集めるところとなり・・・“この意見書の起草に関わった”とされる飯田忠彦と豊島泰盛(とよしまやすもり:※豊島茂文の長男)が、同年12月6日に京都町奉行所から出頭を求められ、いわゆる「安政の大獄」に連座し、そのまま二人ともども拘禁される。・・・これより約10カ月の拘禁期間を経た豊島泰盛は放免されるものの・・・この飯田忠彦については、更なる吟味のため江戸へと送られる。この時の飯田忠彦は、“吉田松陰のような刑死を覚悟した”とされるが、本人が具体的な政治活動を行なっていなかったことや、幕府に対して有栖川宮から抗議があったことなどから、“京都に戻された上での押込100日の刑”を受ける。
      ・・・この刑期が満了した西暦1860年(安政7年)2月6日、飯田忠彦は青天白日の身となったが、翌月には隠居の上で出家し、その名も「黙叟(もくそう:※黙っている老人の意)」と改め、山城国紀伊郡深草村(現京都府京都市伏見区深草鞍ヶ谷)の浄蓮華院(じょうれんげいん:※別名は深草毘沙門天)において隠遁生活を送り始める。・・・しかし、この隠遁生活が始まってから僅か3カ月の後に「桜田門外の変」が起こり、同西暦1860年(万延元年)5月14日、事変への関与が再び疑われることとなり、伏見奉行所によって捕縛されてしまう。・・・但し、“黙叟こと飯田忠彦は、この事変には具体的には関係しておらず、伏見奉行所による取調べにも毅然として受け答えしていた”とされる・・・も、当時の奉行所が彼への疑いを弱めず、尚も「御尋合中の者」として、付近の宿に幽閉し続けた。・・・このため、当時の黙叟こと飯田忠彦は、冤罪で捕らえられ上、理不尽な処遇を受けた事に憤激し・・・同年5月22日、所持していた脇差で喉元を突き、時の幕府に対して抗議的な自害を図り・・・それより五日後の同年5月27日、手当ての甲斐なく死亡。享年62。
      ・・・いずれにしても、この黙叟こと飯田忠彦は生前中・・・常に尊皇の大義を唱えて、多くの勤皇の志士達との交流があり、水戸徳川家(=水戸藩)とも関係が深かった有栖川宮家の家人とされていたことなど様々な要因があったため、当時の伏見奉行所から不適切且つ無礼な尋問、今に云う“行き過ぎた取調べが行なわれた”という可能性は大かと。・・・また、自身を「夷浜釣叟」と号す感覚などを想像すれば、この人物が最後に自死を選択した覚悟についても、何となく分かるような気が致します。・・・

      ・伊能(いの:※吉原谷本楼の元妓とされ、当時の妓名〈ぎめい〉は滝本、「桜田門外の変」における現場総指揮・關遠の妾)・・・回向院(えこういん:現東京都荒川区南千住5丁目)の墓地内に大正10年7月に建立された「烈婦瀧本之碑」によれば・・・この伊能は、“西暦1838年(天保9年)の生まれであり、伊予国大洲(現愛媛県大洲市)の出身者であった”と伝わる。
      ・・・彼女は、關遠(※通称は鐡之介、号は錦堆、丹楓、蘭室、桜園、楓巷とも、変名は三好貫太郎、三好貫一郎、三好貫之助とも、元水戸藩北郡務方与力)が井伊大老襲撃事件を起こす西暦1860年(安政7年)3月3日以前に江戸潜伏中の關遠を助けたため、同西暦1860年(万延元年)3月内に幕吏により捕縛されると、事変後の潜伏先探索のためとして・・・「笞杖(ちじょう:※笞罪の執行に用いるムチのこと)交 下体無完膚 更之取石堆積 膝上血肉迸離」・・・という過酷な拷問を受け・・・「終不言痩死于獄中」・・・と、西暦1860年(万延元年)6月6日に江戸の伝馬町牢獄にて亡くなる。享年23。



      ※ 同西暦1860年(安政7年)3月18日:「江戸城火災」や「桜田門外の変」などの災異のため、「安政」から「万延」に「改元」される。

      ※ 同西暦1860年(万延元年)4月12日:「幕府」が、“和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう:※仁孝天皇の第8皇女、孝明天皇の異母妹、後の明治天皇は甥に当たる)の徳川将軍家への降嫁(こうか:※皇女や王女が非皇族すなわち臣下の男性に嫁ぐこと)”を「奏請」する。
・・・いずれにしても、上記のように「安政の大獄」が進められ、「桜田門外の変」により幕府大老・井伊直弼(※近江彦根藩主)が暗殺された後に・・・幕府老中・久世広周(くぜひろちか:※下総関宿藩主)と共に幕閣を主導した老中・安藤信正(あんどうのぶまさ:※陸奥磐城平藩主)などが、故井伊大老の開国路線を継承しつつも、幕府の権威を取り戻すためとして、このように公武合体路線を推進し、この方針に基づいて和宮親子内親王の徳川将軍家への降嫁を決めますが・・・その一方で・・・この政策を進めた安藤信正らが、尊皇攘夷派の志士達の多くから反発されることになり、憎悪の炎を向けられることに・・・。


・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】