街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 同西暦1864年(元治元年)7月1日:「朝廷」が、「京都所司代・松平定敬(まつだいらさだあき:※伊勢桑名藩主、京都守護職である松平容保弟)」と、「尾張藩主・徳川徳成(とくがわながなり:※後の義宜、徳川慶勝の三男)」、「伊勢津藩主・藤堂高猷(とうどうたかゆき)」、「志摩鳥羽藩主・稲垣長明(いながきながあき)」に対して・・・“神宮を参籠する水戸浪士の取締りを厳とするように”・・・と命じる。・・・この前月6日には、各地の神宮大宮司及び禰宜が、水戸藩士による参籠に関する上申書を、それぞれ朝廷へ提出していましたので・・・“それらの意見を勘案して総合的に判断した結果だった”と云えます。・・・但し、水戸浪士の取締りを厳とするよう命じたのは・・・あくまでも、神宮に限っていた訳でして・・・“各地に点在する多くの神社については、事実上取締りなど不可能であるから”・・・と公言しているようにも想えます。
      ・・・実際問題としては・・・“時の朝廷は、多くの神社に関しては、松平定敬や、徳川徳成、藤堂高猷、稲垣長明など、各神宮を領内に抱える藩主達に全権を委ねた”・・・と云ったところでしょうか?
      ※ 同年同日:“水戸藩士らが府下の千住新宿付近に集まり、その形勢に不穏の聞こえがある事”を以って、「出羽松山藩主・酒井忠良(さかいただよし)」と「近江宮川藩主・堀田正養(ほったまさやす)」が、“その鎮圧に関してを、幕府に、あらかじめ申請した”とされる。・・・このような、素早い出羽松山藩の動きについては・・・自藩の脱藩浪士であった川俣渉(※通称は茂七郎)が、筑波勢に参加しているので・・・理解し易いかと想います・・・が、近江宮川藩については? と云うと・・・この宮川藩は、“幕末期に入ると、佐幕派として表面上活動していたものの、やがては近江国内の諸藩が新政府側に与して、已む無く新政府側に与した”とされておりますので・・・やはり・・・“藩内に、相当数の尊皇攘夷派志士などの火種を抱えていた”と見るべきなのでしょうか?
      ※ 同年同日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が・・・“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら諸生党の側”ではなく・・・“戸田忠則(※通称は銀次郎、戸田忠敞の嫡男)や、藤田健次郎(※健二郎、建二郎とも、とも、藤田彪の次男、信の兄、水戸藩側用人)、榊原照煦(※通称は新左衛門)、大久保忠貞(※通称は甚五左衛門、甚十郎とも)、鳥居忠順(※通称は瀬兵衛)らの説を受け容れる格好”となり・・・「家老」としていた「佐藤信近(※通称は図書)」及び「朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)」を「罷免」する。・・・またもや、水戸藩内の重要ポスト(人事)に変更がありました。・・・このように、藩執行部たる重要ポストが、コロコロと変わってしまう事自体が・・・武力を以って事を解決しようとする不満分子達を、連続的に生み出していた根本要因のように感じてしまいます・・・。
      ・・・しかし、幕末期は、この水戸藩に限らず・・・幕閣人事や親藩、外様雄藩、支藩など、“そのほとんどが、似たり寄ったりの状況であった”とも云え・・・これも致し方ない事だったのかも知れません・・・が、この日に罷免したのは、佐藤信近と朝比奈泰尚の二人でしたので・・・“藩執行部の勢力バランスを均衡させようとの中庸的な政策を採ろうと努力していた”・・・とも考えられます。・・・私(筆者)としては・・・徳川慶篤公は、優柔不断な「好かろう様」ではなく、何事にもバランスを気にするなど調整能力を兼ね揃えた藩主であったと考えておりますが・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が・・・“大挙して江戸に来た士庶(=武士や庶民も)を諭して、帰藩せしむ”・・・も、“尚も聞かずして、上府する者多し”とされる。・・・一度、着火してしまった炎は、なかなか消えてくれないということでしょうか?・・・どうしても、同日に行なわれた佐藤・朝比奈両者の家老職罷免人事だけでは、水戸藩領内各地から江戸に上府する者達の気持ちが収まらなかったようであります。・・・と云うか、何をしても施策そのものが、後手に回っているように感じられます。残念ながら。
      ※ 同年7月3日:「朝廷」が、「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」に対して、“松平直克(※武蔵川越藩主)が政事総裁職を罷免された事”を「詰問」し・・・更には、“横浜鎖港の実現のため努力すべし”・・・と命じる。・・・この時の徳川慶篤は、朝廷と幕府両者から、それぞれ期待された役割の狭間の中にあって・・・かなりの政治的圧力を感じていたに違いありません。
      ※ 同年同日:“下野国栃木町や常陸国真鍋宿などで狼藉行為を働いた田中愿蔵(※郷校時雍館の元館長)”が、「筑波勢」から「除名」される。・・・当時の筑波勢が抱える喫緊課題であったとは云え・・・結果的にも、各地の士民らの理解を得られない狼藉行為を行なった訳でして、当然の措置かと。・・・しかし、“一度植え付けられてしまった筑波勢 = 極悪のイメージ”を、この正式な除名のみで以って払拭することは・・・結局のところ困難だった・・・とも云えます。
      ※ 同年7月4日:“小出順之助(※幕府旗本)と氷見貞之丞(※幕府旗本)を軍監とし北条新太郎(※幕府旗本)を徒士頭とする追討幕府軍の総勢3,775名全て”が、「下総結城」に、「集結」する。・・・
      ※ 同年7月5日:「京都所司代・松平定敬(※伊勢桑名藩主、京都守護職である松平容保弟)」が、「近江膳所(ぜぜ)藩」に対して・・・“水戸藩士と詐称し往来する者があるとして、警戒を厳とするように”・・・と令す。・・・これは、水戸藩士と詐称したほうが、各藩の領内に容易く入ることが出来たと云う事なのでしょうか?・・・水戸藩士という肩書そのものが、“一種のブランドとして利用された”のでしょうか?・・・いずれにしても・・・近江膳所藩内に、水戸藩士などに呼応する可能性を持つ尊皇攘夷派の存在があり、幕府や京都所司代・松平定敬が、それらを危険視していたことが分かります。
      ※ 同年同日:「水戸藩江戸上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも)」では・・・この日に、「鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)」と「岡部以忠(※通称は忠蔵、荘八とも)」を「家老」に・・・「三浦贇男(みうらよしお:※通称は平太郎)」を「用人」に・・・「原田誠之介(はらだせいのすけ)」を「奥右筆頭取」・・・とする新体制が布かれて、“諸生党の影響力低下が見られるよう”になる。・・・同月7月1日に行なわれた藩執行部人事後の追加的な人事。・・・今度は、“鎮派と激派による巻き返し”でした。
      ※ 同年同日:“下総結城に集結した追討幕府軍”が、二手に別れて、“筑波勢が再結集を図る筑波山”へ向かう。・・・“軍監の小出順之助(※幕府旗本)と氷見貞之丞(※幕府旗本)が率いる追討幕府軍及び市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らが率いる諸生党勢の一部(=水戸藩兵)”は、「下妻方面」へ。・・・“水戸藩使番・渡邊伊衛門及び先手物頭・富田理介(とみたりすけ)ら率いる諸生党勢の残り(=水戸藩兵)”は、「下館方面」へ。・・・
      ※ 同年7月6日:「追討幕府軍」及び“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らが率いる諸生党勢の一部(=水戸藩兵)”が、「下妻」に「到着」すると・・・“これら主要部隊”が、「多宝院(現茨城県下妻市下妻乙)」に、「本営」を置き・・・“他の部隊”は、「新福寺(同下妻市下妻乙)」や、「光岸寺(同下妻市下妻乙)」、「林翁寺(同下妻市下妻乙)」、「光明寺(同下妻市下妻乙)」、「円福寺(同下妻市下妻丙)」、「観音寺(同下妻市下妻乙)」、「雲充寺(同下妻市下妻戊)」、「専覚寺(同下妻市下妻戊)」・・・などに、それぞれ「分宿」する。・・・・・・
      ※ 同年7月7日:「追討幕府軍」及び“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら率いる諸生党勢の一部(=水戸藩兵)”が、“筑波山麗の下妻口に当たる高道祖原(たかさいはら:現茨城県下妻市高道祖と同つくば市洞下の間に広がる野原のこと)”において・・・“水戸浪士・藤田信(※通称は小四郎、藤田彪の四男)らが率いる筑波勢”と、「戦闘」に「突入」する。・・・“数で勝る追討幕府軍の激しい砲撃に対して、筑波勢は抗しきれずに、洞下まで退却する”こととなり・・・“勝った追討幕府軍”は、悠々と下妻の本陣へと引き揚げる。・・・藤田信らが率いる筑波勢は、とうとう・・・追討幕府軍と交戦することに。・・・きっと、藤田信や主将とされた田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)などにとっては・・・幕府軍と対峙することになったため、不本意な開戦だったとは考えられます・・・が、市川弘美ら諸生党が導いて来た追討幕府軍のことを、あらかじめ想定し、或る種の覚悟はあったかと。
      ・・・また、この初戦では、この対峙関係の解消を模索するために・・・いわゆる“落とし処を探る”という意味合いもあったかと。・・・狼藉行為によって田中愿蔵を除名した後の筑波勢としては。
      ※ 同年同日:“追討幕府軍に与する上野高崎藩の先発兵200名”が、「常陸下妻」の「雲充寺」に、「到着」する。
      ※ 同年同日:“この日の戦闘により洞下まで退却した筑波勢”は、急遽軍議を開いて・・・“下妻に布陣する追討幕府軍の本営に対する奇襲攻撃”・・・を決する。
・・・さては、追討幕府軍の兵達の士気や調練具合いなどを計り、軍隊としての相手方の実力を知るという意図があったのか?・・・そのため、この日の高道祖原では、霧のように散り散りとなった?・・・
      ※ 同年7月8日:“幕府では、松平直克(※武蔵川越藩主)の失脚などにより、ようやく筑波勢鎮圧の方針が本格的に定まる”こととなり・・・「幕府」は、それまでの・・・“外国掛(※異国を担当した役職のこと)としていた老中の井上正直(※遠江浜松藩主)と牧野忠恭(※越後長岡藩主)”に代えて・・・“新たに水野忠精(※出羽山形藩主)と阿部正外(あべまさと:※陸奥白河藩主)を、「老中」とし・・・“横浜鎖港の事を処理せしめる”とともに・・・「幕府若年寄(わかどしより)・田沼意尊(たぬまおきたか:※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」の「外国掛」を免じて、「筑波勢」に対する「追討幕府軍総括」に「任命」する。・・・また、「幕府大番頭・堀直虎(ほりなおとら:※信濃須坂藩主)」や、「書院番頭・織田信裕(おだのぶひろ:※幕府旗本)」、「小姓組番頭・井上正常(いのうえまさつね:※幕府旗本)」らに対しても、「筑波勢討伐」を、命じる。・・・・・・・・・
      ※ 同年同日:「下総結城藩」が、“浪士追討のため”として、「常陸国黒子村(くろごむら:現茨城県筑西市南部と旧関城町東部付近)」へ「出兵」する。
      ※ 同年同日夜:「筑波勢」が、“この日の夜半に筑波山を下る”と・・・「常陸国高道祖村(たかさいむら:現茨城県下妻市と旧下妻市東部付近)」の「民家」を焼きながら・・・「藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)」と「飯田利貞(いいだとしさだ:※通称は軍蔵、元笠間藩郷士)」ら・・・「竹内延秀(※通称は百太郎、変名は竹中万次郎、元水戸藩士)」ら・・・「青木春方(あおきはるかた:※通称は彦三郎、清五郎とも、変名は西岡邦之介、下野国足利郡大前の元豪農)」と「昌木晴雄(まさきはるお:※号は宗仙、下総国結城の神職出身、下野国佐野の元開業医)」・・・らの三隊に分けて、それぞれが「下妻方面」に向かう。
・・・・・・
      ※ 同年7月9日早朝(午前4時頃):“三隊に分けて下妻へ向かっていた筑波勢”が、“追討幕府軍が本営を置く多宝院を急襲”して、これを焼く・・・と、“本営に奇襲を掛けられ氷見貞之丞(※軍監、幕府旗本)らを潰走させられた追討幕府軍”は、士気も低く戦わずに逃走する者が続出”し・・・云わば、“全軍総崩れ”となって、「結城」まで、「退却」し始める。・・・そんな最中・・・「筑波勢」が、“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らが率いる諸生党勢の一部(=水戸藩兵)を、次の標的として定めて、諸生党勢が宿所とする新福寺に襲い掛かる”・・・も、“激しい戦闘の末、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)本人を取り逃がす”こととなり・・・また、“筑波勢の三橋弘光(みつはしひろみつ:※通称は金助、金六とも、変名は山形半六、元水戸藩士)らが、雲充寺を宿所とする高崎藩兵を襲った”・・・が、“彼らもまた、戦わずして逃走”した。
      ・・・結局のところ・・・“この日の筑波勢は、大宝八幡宮(現茨城県下妻市大宝)の社前にて、隊伍を整え戦勝報告し、筑波山に引き揚げた”とのこと。・・・
      ※ 同年7月10日:「朝廷」が、“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟”である「松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)」に対して・・・“亡き兄の松平昭訓(まつだいらあきくに:※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟、徳川斉昭の十四男)を継がせる格好”で・・・「禁裏南門の守備」と「京都守衛の任務」に当たらせる。・・・「朝廷」はまた、“紀伊及び伊予松山の二藩”に、「禁裏南門守備の任」に就かせる。・・・ここに登場する「松平昭訓」とは・・・“長兄の水戸藩主・徳川慶篤とともに上洛し、若年ながらも慶篤をよく補佐した”という人物。しかし、『水戸様系譜(みとさまけいふ)』では・・・“京都滞在中の前年西暦1863年(文久3年)11月23日に病気に罹り、この年の5月11日に死去した”とされます。
      ・・・そのため、“弟の松平昭徳がその代役”とされた訳ですが・・・この時の松平昭徳、数え年で云うところ・・・僅かに12歳。・・・武門家系に生まれた者に共通する宿命とも云えますが・・・時の朝廷からしてみても、それだけ頼もしい若者であるとの期待があったのかと。・・・
      ※ 同年同日:「幕府」が、“常陸府中、同土浦、同笠間、同下館、同谷田部、同宍戸、同下妻、下野宇都宮、同壬生、同足利、上野高崎、下総結城の諸藩に対して、追討幕府軍への応援を命じる”・・・とともに、「水戸藩」に対しても、“速やかに進撃すること”を命じる。・・・こういうことを、「矢の催促」と云うのでしょうか?
      ※ 同年同日:“筑波勢を追討するために常陸国下妻や同国下館付近に居た幕府兵らの悉(ことごと)くが、下総結城に退く”と・・・“下妻藩兵らも、自らの陣屋を焼き払った後に、その全てが江戸方面へ逃走”してしまう。・・・頭数では圧倒的に劣っていた筑波勢、そんなに強かった?・・・これが、同年7月9日早朝に実行された奇襲の効果だったことは、間違いなさそうです。・・・相当な恐怖心を、相手方に植え付けることに成功したのでしょう。
      ※ 同年7月11日:「常陸宍戸藩主・松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)」が・・・“自領内において浮浪の徒が横行しているため、水戸藩を応援せよとの(幕府の)命令について、その奉じ難き”・・・を「幕府」へ「上申」する。・・・この日、まさに・・・“その奉じ難きを、幕府へ上申した宍戸藩主・松平頼徳でした”が・・・。
      ※ 同年7月12日:「陸奥会津藩」が・・・“筑波勢は自領内へ逃れ入る”・・・と「予測」して、“封境(ほうきょう:※国境のこと)の守備”を「厳重」とする。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らが率いる諸生党勢が、下野国の間々田宿(ままだしゅく:現栃木県小山市間々田)へ退く”と・・・「江戸水戸藩邸」へ「戦況」を報じて、「増援」を請う。
・・・
      ※ 同年7月13日:「幕府」が、「勘定奉行並・立田正直(たつたただなお)」に対して、“常野出征軍(=追討幕府軍)への糧食運輸の取締りとともに、土民撫育(どみんぶいく:※その土地に暮らす民を撫でるように大切に育てること)について”を命じる。・・・また、“同月8日に筑波勢討伐を命じた大番頭・堀直虎(※信濃須坂藩主)が、異見(いけん:=異議、異論)であったためとして、この職を免じ、差控(さしひかえ:※出仕を禁じ自邸へ謹慎させられる制裁手段のこと)”とし・・・“この代役”として、「同大番頭・神保相徳(じんぼうはるのり:※幕府旗本)」を任じる。・・・更には、「小姓組番頭・逸見長昌(いつみながまさ)」を、「尾張藩」へ遣わすと、“藩主自らが参府することを促して、常陸や下野における擾乱(じょうらん:=騒乱)鎮圧のための出兵”を命じる。・・・大番頭・堀直虎が異見であったとは!?
      ・・・つまりは、“筑波勢の挙兵に対し一定の理解を示し、幕府へ意見したことが受け容れられず、自身に差控の処分が下ったこと”が分かります・・・が、後の同年9月には新たに・・・幕府から、「市中見廻役」を命じられております。・・・いずれにしても、当時の幕府としては・・・“筑波勢へ差し向けた常野出征軍(=追討幕府軍)が敗戦し、その多くが江戸に逃げ帰って来るという事自体に、かなりのショックを受けた”らしく・・・また、“どうしても受け容れ難い事態だった”かと。
      ※ 同年同日:“同月1日に水戸藩家老職を罷免された佐藤信近(※通称は図書)と朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)”が、諸生を率いて「江戸」を発ち、“帰藩の途”に就く。・・・前日に市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らから発せられた戦況報告及び増援要請が、この日までには届いていた模様です。
      ※ 同年7月14日:「幕府」が、“筑波勢に対する追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)、大番頭・神保相徳(※幕府旗本)、書院番頭・織田信裕(※幕府旗本)、小姓組番頭・井上正常(※幕府旗本)らの進発日を令す”・・・とともに、「使番・金田貞之助(かねだていのすけ:※幕府旗本)」を「陸奥仙台藩」へ、同じく「使番・朽木亀六(くちきかめろく:※幕府旗本)」を「陸奥盛岡藩(※南部藩とも)」へ、同じく「使番・松野孫八郎(まつのまごはちろう:※幕府旗本)」を「出羽久保田藩」へ遣わして・・・“各藩主の参府を促し、常陸や下野における擾乱(じょうらん:=騒乱)鎮圧のための出兵”を命じる。・・・尚、この前日に小姓組番頭・逸見長昌が遣わされた尾張藩は、徳川御三家の一つでしたが・・・当時の幕府が、この日に3名を派遣した三藩とは・・・それぞれ「伊達家」、「南部家」、「佐竹家」であり、いわゆる“外様大名の東北雄藩”です。・・・このことからも、当時の幕府の事情や政治方針についての諸々の事情と云うものが垣間見えますが・・・何よりも、当時の佐竹家からすれば・・・



      ・・・常陸国は、かつて江戸幕府(=徳川幕府)を開いた徳川家康によって出羽久保田(=秋田)へ転封される以前から、佐竹家とは長年の所縁がある旧領地となります。・・・そして・・・“西暦1864年(元治元年)の時点では、転封から262年が経過している”とは云うものの・・・上記にある幕府使番・松野孫八郎(※幕府旗本)が携えていた命令書は・・・“転封当時の佐竹家臣団を構成した各家系から、已む得ずに分家せざるを得なかった親戚筋が、現に暮らす常陸の地へ”と・・・しかも、“軍事鎮圧するために派兵せよ”という・・・“過酷且つ複雑な思いを懐かせるような幕府からの御達し”でもあった訳です。・・・

      【・・・これらの事情をご理解頂くために・・・】
      そもそもとして、出羽久保田藩は・・・藩を構成する家臣団に、佐竹氏の分流家系や庶流に当たる家系を多く含んでおり・・・また、転封から百年近くが経った頃には、これら家臣達の家系に関する家伝の乱れを正す必要性に迫られておりました。・・・


       ・・・そこで、西暦1697年(元禄10年)7月には・・・
       当時の出羽久保田藩が、自藩士らの家々に相伝されていた記録文書類(=家伝文書)を、藩庁(=久保田城:現秋田県秋田市千秋公園)へ提出させたり、各地(※そのほとんどは常陸国ですが)から採集した資料を臨写し冊子本とした『秋田藩家蔵文書(あきたはんかぞうもんじょ)』を編纂しています。
       ・・・そして、この『秋田藩家蔵文書』を、明和年間(西暦1764~1771年)と文化年間(西暦1804~1818年)に、追加的に編集して・・・結果としては、合計67冊にも及ぶ古文書として再編纂しています。
       ・・・記録文書類(=家伝文書)のうち、元禄中期頃のものを、特に「元禄家伝文書」と呼びますが・・・
       ・・・その内容としては・・・一部には、寛文年間(西暦1661~1672年)の書写もありますが・・・その他の大半部分は、元禄期から宝永初年(西暦1704年)のもの、明和年間のものなどもあって・・・総計2,495点。同姓異系を含む580氏(≒580家系)に関係する古文書です。
       ・・・出羽久保田藩では、更に・・・西暦1699年(元禄12年)、西暦1714年(正徳4年)、西暦1767年(明和4年)、西暦1804年(文化2年)・・・の四度に亘り、当時の家臣達から、各家系の由緒書上を提出させて、それらの家臣系図を編纂して・・・『諸士系図(しょしけいず)』・・・と呼ばれる古文書まで遺してくれております。

       ・・・ちなみに、私事となり恐縮ですが・・・本ページ筆者の本家筋に当たる家系も、実際に収録されていることが文献上で確認出来ますし・・・分家筋に当たる私(筆者)の家系から、この事を反証出来る一つの材料としては・・・
       ・・・当時出羽久保田藩士となっていた本家筋に当たる人物が、自らの出自に関わる事柄(≒ルーツ)を確かめ、また現地に伝わる資料の収集や墓地などの調査のためとして・・・“現実に、常陸国那珂郡(≒那賀郡)○○村まで、やって来たそうだ”・・・との、いわゆる「家系伝承」もありますので。・・・この伝承については、私(筆者)自身で勝手に、ほぼ間違いない事実だっただろうと考えております。

       ・・・更に云えば、“現実として家系伝承によって伝えられた理由を考える”と・・・
       ・・・「水戸学」の“生みの親”ともされる水戸藩2代藩主・徳川光圀公(※義公)が、『大日本史』の編纂のためとして、ほぼ全国へ、当時の学者や調査員を派遣し、各地で水戸藩による調査事業に協力して頂いた領主やお公家さん、寺社などへ、小まめに「御礼状」を送っていることなど・・・からも推察することが出来ますが・・・たとえ、外様大名であり、かつて水戸周辺地域を治めていた・・・当時の出羽久保田藩(佐竹家)による事業として行なわれる水戸藩領内での調査行為ではあったとしても・・・“正しい歴史を伝える(≒遺す)という大義があれば、現実として長期間に亘って常陸を治めて来た水戸藩(水戸徳川家)としては、何らかの妨害行為的な事をする必要すら無かった”・・・という証しになるとも云え・・・自領地を調査対象とされることになる、当の水戸藩(水戸徳川家)も、現に黙認していたのだろうとも想います・・・が、これらの背景にもまた、水戸藩(水戸徳川家)特有の家臣団構成が深く関わっておりまして・・・
       ・・・水戸藩(水戸徳川家)は・・・元々・・・藩祖とされる徳川頼房(とくがわよりふさ:※威公)が、徳川家康の十一男であったこともあり、生前の徳川家康が抱えていた、いわゆる「譜代の家臣達」に・・・立藩当初から、人材的な枯渇状態にありました。

       ・・・そのため・・・水戸藩(水戸徳川家)は・・・天下分け目の関ヶ原合戦後、ようやく召抱えられるようになっていた・・・“かつての後北条氏や、武田氏、雑賀党鈴木氏などにおける大名やその遺臣達であって、且つ西軍(≒石田方)に与しなかった事が明らかな者達”を、積極的に水戸徳川家の重臣として再雇用しながら、藩を運営しましたが・・・如何せん佐竹氏が500年近くも盤踞していた土地柄ですから・・・
       ・・・武田氏や雑賀党鈴木氏は、ともかくとしても・・・佐竹氏と後北条氏との間柄を云えば・・・常陸国南部の領有支配権を巡って、長らく互いに交戦していたため・・・「佐竹遺臣」と呼ばれる多くの領民を含む当時の常陸国の人々の感情などを考えれば?・・・

       ・・・水戸藩(水戸徳川家)は、立藩当初期から・・・“複雑な事情が絡み合い、藩経営そのものが困難を極める宿命的な藩だった”と云え・・・また、かつての佐竹遺臣「車斯忠(くるまつなただ)」に纏(まつ)わる伝承や逸話が遺っているように(※詳細は別ページに記載しています)・・・反乱や一揆などが起きる潜在的な可能性が極めて高い土地柄であった訳です。・・・この点においては、常陸から出羽久保田(=秋田)へ転封された佐竹家も同様ですが。・・・いずれにしても、水戸藩(水戸徳川家)の場合は、同様に徳川御三家を為す尾張藩(尾張徳川家)や紀伊藩(紀州徳川家)が立藩された事情とは、かなり異なっております。・・・
       ・・・しかも、当時の水戸藩(水戸徳川家)の領地は・・・太平洋に面していたため、水運を用いた交易拠点となる潜在的な資源や能力などは秘めていたものの・・・山間部や平野地では、従来通りの農林漁業を主としており・・・金属資源を得るための鉱山開発については、当時の技術やノウハウを知る者達は、旧領主の佐竹家に追随して概ねが出羽久保田(=秋田)へ行ってしまい・・・これらの技術やノウハウを持つ武田氏や雑賀党鈴木氏の遺臣達を再雇用したとしても、その雇用人数には限りがあり・・・“とてもじゃないが、立藩当初の水戸藩(水戸徳川家)を支えるほどの経済規模には達しない”・・・と云った状況。・・・結局のところは・・・“当時の佐竹家を国替えして、出羽久保田(=秋田)へ飛ばしたは良い”が・・・戦乱が収まって、政治的に安定した江戸期を通じて発展した貨幣経済の基盤となる通貨を稼ぐ、主な産業というものが空洞化・・・若しくは、これらの産業を育成する時間的余裕が残されておらず・・・
       ・・・逆に、残されているものは? と考えると・・・現地に有るのは・・・民度は高いが、佐竹氏の分流家系や庶流に当たる家系を多く含んだ佐竹遺臣達及び従来からの領民達。・・・それに、これら領民達が信仰を寄せたのは・・・歴史的に朝廷との繋がりも深い鹿島神宮などを数々抱えていて・・・多くの神社や各寺院など・・・いわゆる「寺社地」との関係性もかなり強いという土地柄。・・・これらの信仰拠点は、その悉(ことごと)くが、旧領主の佐竹氏などによって長らく庇護されていたこともあり・・・当時の為政者にすれば・・・ハッキリ云って受け持ちたくないと思わせるレベルだったのではないか?・・・とさえ想像出来るのです。

       ・・・つまり、水戸藩(水戸徳川家)は・・・そもそも、“徳川家康によって構想された実験的な藩”であった訳であり・・・政治経済や文化面などにおける宿命的な課題に対して・・・実際に尽力され、また後の水戸藩(水戸徳川家)の基盤を築いたのが、2代藩主の徳川光圀公(※義公)なのです。光圀公は、儒教「朱子学(しゅしがく)」を主軸とした思想・哲学で以って、藩内の産業育成や宗教改革、藩士教育、撫民教育などに努めました。・・・そして、これらのために必要と考えられたのが・・・皮肉にも、長らく水戸藩(水戸徳川家)の財政面を苦しめることとなる・・・『大日本史』の編纂事業なのですが・・・

       ・・・この編纂事業の社会的な影響は大きく・・・「水戸学」という尊皇思想を含む学問・思想・哲学が、水戸藩(水戸徳川家)で培われることとなり(※前期水戸学)・・・幕末期には、攘夷思想と強く結び付きます。(※後期水戸学)・・・

       ・・・ちなみに、水戸藩(水戸徳川家)は、立藩されてより暫らく時が経つと・・・特には、2代藩主・徳川光圀公(※義公)の代頃からとなりますが・・・それぞれの「扶持」とか「家禄」と呼ばれるものは、当初から低く抑えられていたものの・・・次第に・・・それまで常陸に土着し続ける佐竹遺臣の各家系の中からも、水戸藩士(※その多くは郷士)として正式に採用し始めることになるのですが・・・その状況は? と云うと、他藩と比較しても、極々少数ではありました。
       ・・・尚、上記の中には・・・分家し常陸に土着し続けた後に、商家として生計を立てるようになった元佐竹遺臣の子孫が、当時の藩財政などに貢献したことで郷士格を与えられ、再び苗字(=名字)帯刀を許される家系もあったとか。・・・これに該当する佐竹遺臣子孫の苗字については、旧姓を再び使用した格好となります・・・が、いずれにしても、この幕末期における水戸藩(水戸徳川家)には・・・当然の如くに・・・相当数の佐竹遺臣の各家系が含まれていたのです。・・・既に佐竹家の出羽久保田(=秋田)転封から二百数十年が経っておりましたから、これも当然に・・・それぞれの佐竹遺臣家系に、絶家や無嗣などの要因が無ければ、この二百数十年間のうちに分家していく訳ですので・・・立藩当初から、少禄に抑えられていた常陸土着(残留)家系の総禄高は、応分に細分化されることとなります。・・・そのため、水戸藩(水戸徳川家)立藩から二百数十年も経つと、いわゆる家臣団の構成は、どうしても高禄の藩士が少数となって、いわゆる中級下級武士と呼ばれる藩士達が大多数となっていた訳です。
       ・・・そして、これら中級下級武士達には、無給や無禄であった郷士格の人々を多く含みます。・・・要するに、水戸藩(水戸徳川家)としては、苗字(=名字)帯刀を許し、身分的な保証はするものの・・・中級下級武士と呼ばれる藩士達の暮らしは、農業や手工業など、それぞれ何らかの副業的な家業を持っていたことになる訳です。・・・何かしらの家業が成り立たなければ、少禄の者達は実際に暮らしてゆけませんので。・・・特に、幕末期頃の水戸藩(水戸徳川家)には、その家臣団構成において、このような事情を多分に含んでおりました。・・・

       ・・・再び私事となり、誠に恐縮ですが・・・当時出羽久保田藩士となっていた本家筋に当たる人物が、自らの出自に関わる事柄(≒ルーツ)を確かめ、また現地に伝わる資料の収集や墓地などの調査のためとして、現実に常陸国那珂郡(≒那賀郡)○○村までやって来た事を・・・“何故に、常陸に土着(残留)し、分家筋に当たる家系の先祖達が、単なる家系伝承としたのか?”・・・を推察すれば・・・当時の先祖達が、時の水戸藩政、つまりは・・・水戸徳川家に対する遠慮心や憚る心情が厚かったため、実際に誰が出羽久保田(=秋田)方面からやって来たのかを、敢えて書面化しなかったのではないか? と考えております。・・・先祖達の現主君は、あくまでも水戸徳川家となる訳ですから。
       ・・・尚・・・“常陸国と出羽国に離れ離れとなっていた同氏族(=一族)の間”では・・・“出羽久保田藩による定点観測的な調査事業後において、不定期の文などの遣り取りを、常陸と出羽の間、或いは江戸と出羽の間で以って適宜行なうことを約束し、常陸側に伝わる家系図を当時書き写させるなど、これらの事情を総合的に判断して、敢えて口伝により遺した”・・・と考えられるのです。
       ・・・当時、江戸定府とされた水戸藩(水戸徳川家)とは違い、出羽久保田藩には参勤交代が課せられていた訳ですので・・・江戸日本橋を起点とし、千住から白河(現福島県白河市周辺)へと至る奥州街道を、久保田藩主御一行が利用する度毎に、“常陸と出羽久保田(=秋田)に離れ離れとされてしまった各家系が、文などを用いて互いに交流を図ることは、徳川時代(=江戸時代)に入って二百年も経った頃になると、さして難しい手段ではなかった”・・・とも考えられますし・・・“参勤交代の赴任地・大江戸”において・・・異国勢力に対する「海防論」などとともに、「水戸学」が或る程度広まっていたため、当然に・・・その思想や哲学なども出羽久保田(=秋田)方面にも伝わりますので、いわゆる相乗的な作用もあったかと。

       いずれにしても、“互いに細々と交流し続けて来た、常陸と出羽久保田(=秋田)に離れ離れとされてしまった各家系の人々”は・・・この幕末期の混乱によって・・・“またしても、それぞれが根付いて実際に暮らしていた地域において、時代的な強風に晒される”ことになった訳です。・・・更に云えば・・・常陸では、本ページのように尊皇攘夷思想と佐幕開国思想との狭間で、大嵐が吹き荒れることとなり・・・後の出羽久保田(=秋田)では、旧幕府軍との対佐幕派戦争(=戊辰戦争)において、「秋田戦線」が繰り広げられることに・・・。




      ※ 同西暦1864年(元治元年)7月14日:「上野高崎藩」が、“下野国小山宿に駐屯する藩兵を自らの藩地”へ、「撤退」させる。
      ※ 同年同日:「下総関宿藩」が、“常陸国信太郡付近に浪士が横行したため”として、急遽「警戒出兵」する。
・・・尚、当時の常陸国信太郡には、“土浦藩や牛久藩、陸奥仙台、下総関宿の藩領のほかにも、計49ケ村程の幕府領や旗本領、与力給地があった”とされております。
      ※ 同年同日:“神宮を参籠していた水戸藩士ら”が、「満願(まんがん)」により、「退去」する。・・・「満願」とは、また「結願(けちがん)」とも云い、日数を定めて神仏に祈願、または修行し、その日数が満ちることを指します。尚、「満願の日」と云うように、何かの最終日を表すことも。・・・つまり、“満願成就とまでは至らぬものの、目的とする一定の成果が齎(もたら)されたため、水戸藩士らの各人が、何処の神宮を去って行った”と。・・・また、全国の神宮で一番多くの水戸藩士らが詰め掛けたのは・・・きっと鹿島神宮ですね。
      ※ 同年同日:“在京していた水戸藩士の酒泉直(さかいずみただし:※通称は彦太郎)と岩間誠之(いわましげゆき:※通称は金平)”が、「備前岡山」に至り、「藩主・池田茂政(※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟)」に「謁(見)」する・・・と、“藩主自らが上京して公武の間を斡旋し、更には来たる17日に、このことを在京の長州藩士らに説いて退京させること”・・・を請う。・・・
      ※ 同年同日:“水戸浪士の根本義信(ねもとよしのぶ:※通称は新平、変名は岸新蔵)と須藤孝正(すどうたかまさ:※通称は敬之進)ら”が、“常陸土浦藩士であり儒学者でもあった五十嵐儀一(いがらしぎいち)ら”と「会談」し・・・“これより先は筑波勢のために土浦藩が斡旋するように”・・・と求めた後、“同じく土浦藩士の藤田十五郎(ふじたじゅうごろう)へ、回答を促す書(簡)を寄せる”・・・も、土浦藩内の議が決せず、以後も折衝が続けられる。・・・
      ※ 同年7月15日:“常陸下妻で筑波勢に大敗し江戸に退却途中であった水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら”が、「武蔵国杉戸駅(すぎとのうまや:現埼玉県北葛飾郡杉戸町付近)」で、“同月13日に諸生を率いて江戸を発っていた佐藤信近(※通称は図書)と朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)ら”と「合流」する。・・・そして、“江戸においては、諸生党に替わって、激派らが水戸藩政の実権を握ったという政変の事実を知らされる”こととなり・・・直後から諸生党の進退等についての議論が始められる。・・・
      ※ 同年7月16日:“田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)を追討幕府軍総括とする軍団の先鋒部隊”が、「江戸」を発つ。・・・
      ※ 同年同日:“京都神泉(現京都市中京区神泉苑町付近)の町家”において・・・“一橋家用人の黒川雅敬(※通称は嘉兵衛、幕府旗本)や、梅澤守義(※名は亮とも、通称は孫太郎、水戸藩から出向中)、原忠敬(※名は忠成とも、通称は市之進、号は伍軒、藤田彪の従兄弟、水戸藩から出向中)らの罪状を数えて、その改悛(かいしゅん:※犯した悪事や過ちを悔い改めて心を入れ替えること、改心とも)を説き、また水戸や鳥取、岡山、長州らの尊皇攘夷派藩士達に対して臣節(しんせつ:※臣下として守るべき節操のこと)を尽くすべき”・・・との「文(書)」を掲げて激励する者あり。・・・なかなかに、と云うか、かなり具体的な内容を文(書)を掲げながら激励する人がいたのですね。・・・この通りだとすれば・・・一橋家用人の黒川などを非難しながら、尊皇攘夷派の各藩士達を激励する人物そのものが、“匿名扱いとされている”のは、ほぼ確かかと。・・・やはり、在京水戸藩士のうちの誰かか?・・・或いは、“この日より3日後の事変を知り得ていた人物だった”のでしょうか?
      ※ 同年7月18日:“水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)や、前家老の佐藤信近(※通称は図書)、朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)らの意見が纏まり”・・・「諸生党勢」として、「武蔵国杉戸駅」を「出発」し、「水戸」へと向かう。・・・“まずは国許(くにもと)へ”ということに。・・・
      ※ 同年同日夜:“前年の八月十八日の政変により京都を追放された長州藩の一部の藩士や浪士ら”が・・・関東が筑波勢の決起によって混乱する最中・・・“尊皇攘夷の意を一層強くし、また自藩の名誉回復を願う嘆願書を朝廷に奉り、且つ自藩への討伐勅命が下る以前にその目的を一定程度達成しようと、京都守護職・松平容保(※陸奥会津藩主)らの公武合体派を排除するため”として、「武装挙兵」し、「禁裏」を目指す・・・も、この時、“諸の廷臣や禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)、慶喜弟の松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)、京都守護職・松平容保(※陸奥会津藩主)、所司代・松平定敬(※伊勢桑名藩主、京都守護職である松平容保弟)ら在京の諸候が、相次いで参内し、警守する諸兵らは九門を悉(ことごと)く閉ざして禁裏内外”を「厳守」する。
      ・・・そして、“参内した諸候の一人であった一橋慶喜が、諸藩を指揮して、迫り来る長州勢に対して退去を呼び掛ける”ものの・・・“会津藩を擁護する姿勢を一貫して採る孝明天皇から、繰り返し長州掃討を命じられる”こととなり・・・最終的には、“一橋慶喜も強硬姿勢”に転じる。
・・・この時に一橋慶喜公が率いた兵力は、“歩兵隊100名余り、講武所から小筒組50名、遊撃隊150名、別手組100名、床几隊(しょうぎたい)100名、雑用方100名であった”とされます。・・・慶喜公の弟であった松平昭徳の隊、すなわち本圀寺党を含む水戸藩兵の隊は、一橋家の床几隊100名余りとともに、禁裏内紫宸殿南庭の東側御門となる日華門(にっかもん、じっかもん)を守備しています。
      ・・・尚、「床几隊」とは・・・文字通り、「床几(=腰掛け)」に由来する“一橋慶喜専属護衛部隊だった”と考えられ・・・後に、征夷大将軍に就任することになる徳川慶喜の警護などを目的として西暦1868年(慶應4年)に結成されるも、「上野戦争」では明治新政府軍に敗れることとなる・・・“同音の彰義隊(しょうぎたい)の元々の姿のよう”です。但し、「彰義隊」には、「大義を彰(あきら)かにする」という意味があるそうですが。・・・しかしながら・・・これも、水戸藩にて『大日本史』を編纂する専門部署であった「彰考館」が、「彰考館」と呼ばれた“名称由来”、つまりは・・・「彰往考来(=往事を彰らかにし、来時を考察する≒古き事を彰らかにし、将来や未来を考察する)」が、「大義を彰かとする」・・・という「水戸学」の“精神や気風そのもの”なのであります。・・・
      ※ 同年7月19日:“御所西辺の蛤御門(はまぐりごもん:現京都府京都市上京区付近)”において・・・“尊皇攘夷派浪士を含む長州勢と、陸奥会津及び伊勢桑名の藩兵”が、「衝突」し、ここに「戦闘」が「勃発」する。・・・“一時は、長州勢が禁裏防御を突破して御所内に侵入する”・・・も、“それまで乾門(いぬいもん)を守っていた薩摩藩兵が援軍に駆け付けると、形勢が逆転する”ことになり・・・結局は、「長州勢」が「敗退」してしまう。(=禁門の変、蛤御門の変、元治の変、元治甲子のとも)・・・尚・・・この時、長州藩士の久坂玄瑞や入江九一(※別名は河島小太郎)などが死亡。・・・
      ※ 同年同日:「幕府」が、「水戸藩」に対して、“下総国の小金宿や駅(うまや)に、尚も屯集する士民を退散させる”べく令す。・・・この時も尚、屯集し続ける水戸藩士民らは、やがて・・・
      ※ 同年7月20日:「幕府」が、“筑波勢を追討する下館藩兵を応援するため、別手組を派遣する”こととし・・・“陸奥仙台藩へ派遣した使番・金田貞之助(※幕府旗本)”と、「大久保次右衛門(おおくぼじえもん:※帯刀とも、幕府旗本)」を、その「目代(=目付役)」とする。・・・
      ※ 同年7月21日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「手書(しゅしょ:※自筆の手紙や親書のこと)」を、「家老」へ下して、“江戸へ上って来た士民の一半(いっぱん:※半分のこと)”を、「帰藩」させる。・・・ここにある「家老」とは、当然に鎮派。・・・いずれにしても、“藩主・徳川慶篤公が、自筆の手紙で以って、懇(ねんご)ろに家老へ申し伝えた”ということは・・・ようやく、鎮派の家老にしても・・・“さもありなんと、士民の一半とともに水戸へ帰るべきか”・・・という素地が、醸成出来たとの判断が働いていた筈です。・・・大勢の水戸士民らが、水戸藩の上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも)や、中屋敷(※駒込邸とも)、下屋敷(※本所小梅村、現東京都墨田区向島1丁目付近)などに溢れかえっている状態だったでしょうし、幕府からも再三に亘って帰藩させるべく政治的な圧力が掛かっていたでしょうから。
      ※ 同年同日:「水戸藩参政・渡邊半助(※元々は鎮派)」が、諸生を率いて「江戸」を発ち、“帰藩の途”に就く。・・・ここにある渡邊半助は、同年6月4日に・・・当時の家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)や、朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)、佐藤信近(※通称は図書)のことを、藩地(=水戸領)へ斥(しりぞ)けようと・・・“独自の行動を起こしていた”とされますが?・・・
      ※ 同年7月22日:“幕府旗本の池田長発(※幕府旗本)と河津祐邦(※伊豆守とも、幕府旗本)らの遣仏使節(=横浜鎖港談判使節)”が、“パリ約定調印の後に、以前より予定していたイギリス訪問を中止して”・・・「横浜」に「帰港」する。・・・そして、“池田ら遣仏使節が、対外和親政策を幕府に建議する”・・・も、“幕閣は、使節一行が当初の目的とする横浜鎖港の使命を果たせなかった”ことを怒り・・・「池田長発」を「半知召上げ及び蟄居」とし、“副使の河津”へも「免職及び蟄居」を命じる。・・・遥々パリまで行って、横浜鎖港の目的を果たせず・・・このような仕儀となり、幕府から処分された池田長発と河津祐邦でした・・・が、それでも、「半知召上げ及び蟄居」と「免職及び蟄居」という、“軽めの処分”で済んでおります。
      ・・・これは、時の幕府が、当初から横浜鎖港などは実現出来ないという可能性も想定した上で、敢えて遣仏使節を送り出していたことを物語っているのではないでしょうか?・・・つまりは、この2名への処分は・・・“想定していた、あらかじめの措置であり、朝廷や諸藩への弁明のためであった”・・・と感じてしまうのは、私(筆者)だけでしょうか?・・・本来ならば、何が何でも達成しなければならなかった横浜鎖港であった筈であり、それが達成出来なかったとなれば・・・通常は「切腹」を命じられていても、おかしくないのではないでしょうか?・・・いずれにしても、この日の時点で、幕府或いは幕閣などの首脳陣達には・・・“理由は兎も角、横浜鎖港は成らず”・・・との情報が広まったと考えられます。・・・すると、この横浜鎖港や攘夷決行などのために挙兵した筑波勢への対処方法も、自ずと定まってしまうのかと。・・・
      ※ 同年7月23日:「長州藩」が、同月19日に「禁門の変」を起こしたことにより、「孝明天皇」から「朝敵」とされる。「朝廷」はまた、「幕府」に対して・・・『夷狄(いてき)のことは、長州征討が済むまでは、とやかく言わない』・・・との意を示すに至る。・・・すると、当時の政治課題とされていた横浜鎖港問題そのものが事実上の保留事項とされ・・・結果としても、筑波勢挙兵の大義名分が減じられることとなり・・・常陸や下野で拡大していた騒乱が、次第に水戸藩における内部抗争としての色彩を強めていくことに・・・。
      ※ 同年同日:「幕府」が、“常陸府中、同宍戸、同下妻、同土浦、同笠間、同下館、下野宇都宮、同壬生、同足利、上野高崎、下総結城、肥後高瀬の12藩”に対して、「常陸や下野における浮浪の徒(=筑波勢)への追討」を命じる。・・・“12藩の中の高瀬藩”とは、肥後熊本新田藩のことであり、本領の所在は現在の熊本県玉名市。当時の藩主は細川利永(ほそかわとしなが)。・・・但し、この肥後熊本新田(=高瀬)藩は、藩主が江戸鉄砲洲に暮らして、参勤交代を行なわない定府大名でした。・・・そのため、幕府から筑波勢追討へ駆り出されることになったようです。
      ※ 同年同日:“水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)と前家老・朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)らの諸生党勢”が、「水戸藩庁(=水戸城)」に入る。・・・そして、“城下に潜伏する反対派の藩士や浪士ら(※激派や筑波勢の一族らを含む)の屋敷を放火する”・・・と、“家人らを逮捕、投獄または斬殺、銃殺などの報復的行為”に至る。・・・「諸生党勢」には、更に諸口の警守を厳にして筑波勢に対して備えた。・・・とうとう藩庁(=水戸城)の城下で、報復的な行為が発生してしまいました。・・・時間的な余裕さえあれば・・・“このようなことにはならなかった”と想いたい。何たって、“水戸っぽ同士”ですから・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩士127名”が、「奉命(ほうめい:※貴人から命令をうけたまわること)」により・・・“藩主自らが帰藩すべきことと、横浜鎖港の功績を遂げて、藩内の奸徒を斥けること”・・・を請う「連名書簡」を、「藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」へ奉る。・・・私(筆者)は、ここにある「水戸藩士」とは、“諸生党勢が水戸に向かった後に江戸に残っていた水戸藩士であり、激派に対して同情、若しくは同調した鎮派勢力の者達だった”と考えます。・・・したがって、「藩内の奸徒」とは、水戸藩庁(=水戸城)に入った諸生党勢を示しており・・・“横浜鎖港の功績を遂げるとともに、藩主自らが「藩内の奸徒」の処分をすべき”・・・と願う連名書簡であったかと。
      ※ 同年同日:「筑波勢」が、「常陸府中」において、“報復手段を採る諸生党勢への対策評議”を行なう。・・・そこで、“藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)らの水戸藩出身者は、まず藩庁(=水戸城)に蔓延(はびこ)る諸生党勢を制圧すべし”と「主張」する・・・も、“他藩からの参加者達は、水戸藩内の内輪揉めに加わる気などはなく、挙兵当初の目的であった攘夷実行を優先すべし”との「主張」。・・・筑波勢の内部でも、或る種の動揺や意見対立が生じていたことが分かります。・・・結局のところ、両者の主張は平行線となり、間もなく勢力が分裂することになります・・・が、この時の互いの主張については、後の大正時代まで生きた“筑波勢(≒天狗党)の生き残り”とされる薄井督太郎(うすいとくたろう:※号は飛虹、小蓮とも、変名は薄井龍之、竜之とも、信濃国飯田城下の醤油醸造業出身者)の「懐旧談(かいきゅうだん)」が伝わっております。
      ・・・この「薄井督太郎」とは、「安政の大獄」の際に武田正生(たけだまさなり)の元に身を寄せ、筑波山挙兵に参加し筑波勢として行動した人物ですが、後に筑波勢が天狗党勢と呼べる段階、すなわち武田正生が率いて常陸国を出て京都を目指していた途上(=西上の際)において、自身の故郷が戦場となることが偲び難いという理由によって、天狗党勢から離脱した人物であり・・・その離脱の際には、武田正生から信頼され、一橋慶喜公宛の書状を託された人でもあります。・・・但し、この書状については後の動乱のため、実際に慶喜へ書状が届くことはありませんでしたが。・・・それでも明治維新後には、岩倉具視(※号は対岳)の知遇を得て、山形県権大参事や、東京裁判所判事、名古屋裁判所長、秋田裁判所長などを歴任した人物でもあります。
      ・・・いずれにしても、その「懐旧談」によれば・・・藤田信の主張は、『先ず内奸(=諸生党)を排除して藩庁(=水戸城)を占拠した上で、諸藩の協力を得ながら攘夷のための兵を出すのが得策である』と。・・・これに対して、筑後久留米脱藩浪士の権藤真卿(ごんどうしんきょう)は、『吾輩は、天下のために外夷を攘わんことを志しているのであって、水戸の党派争いなど吾輩のあずかるところではない』と激憤し、その場を立ち去ってしまったと。・・・
      ※ 同年7月24日:「幕府」が、「禁門の変」を起こした“長州藩を征討するため”として、“西国の21藩”に対して、それぞれ「出兵」を命じ(=〈第1次〉長州征討令)・・・対外的には、「パリ約定批准」を「拒否」して、その「約定破棄」についてを、“イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四カ国”に対して「宣言」する。・・・パリ約定破棄については、あくまでも・・・江戸幕府(=徳川幕府)の見解であり、当時の国際法?的なルール上、有効であったのかについては、良く分かりませんが・・・きっと、西洋的に考えれば、一度交わした契約なのだから、日本側が一方的に解約するならば、再び・・・“それなりの損害を賠償せよ!という事になる”のでしょうね。・・・既にフランスとは、日仏修好通商条約を締結していた訳ですから。・・・
      ※ 同年同日:“筑波勢の藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)、田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)ら”が・・・“攘夷に先んじて、まず水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らの諸生党勢を討つこと”・・・に決する。・・・報復に次ぐ報復の連鎖が・・・
      ※ 同年同日:“これまで筑波勢に参加していた処士(しょし:※在野にいて仕官していない人のこと)の権藤真卿(※筑後久留米脱藩浪士)や、同じく処士であった青木春方(※通称は彦三郎、清五郎とも、変名は西岡邦之介、下野国足利郡大前の元豪農)ら60名余り”が・・・“水戸藩士による党争に関与することを喜ばず”・・・「筑波勢」の「本営」を去る。・・・ちなみに・・・青木春方は、この後実際に・・・横浜の外国人を襲撃しようとして、反対に下総古河藩兵によって捕らえられ・・・この年の10月16日に斬刑に処されてしまいます。・・・
      ※ 同年7月25日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、“幕府より長州藩征討令が発せられたることを以って”・・・“特に藩士ら”を戒(いまし)める。・・・「戒める」という、“藩主からの厳しいお達し”が・・・
      ※ 同年同日:“藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)らの筑波勢”が、「常陸国長岡」を発ち、“水戸藩庁(=水戸城)へ突入を図る”・・・も、“それを待ち構えていた家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら諸生党勢による猛攻を受けて”・・・「常陸府中」へ「退却」する。・・・いくら精鋭の集団であっても、それを待ち構えて藩庁(=水戸城)に籠られると・・・城には、鉄砲や大砲が備えてあった訳でして・・・
      ※ 同年7月26日:「幕府」が、「水戸藩」に対して、“筑波山に屯集する元藩士らを速やかに鎮撫すること”を令し・・・また、「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、「征途」に就いて、「軍令」を発す。・・・
      ※ 同年同日:「常陸宍戸藩主・松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)」が、「備前岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟)」へ、「書(簡)」を寄せて・・・“生父たる故斉昭(※烈公)の御遺志を継いで、国事に尽くすこと”・・・を求める。・・・宍戸藩主・松平頼徳は、同年7月11日に幕府へ対し、自領内において浮浪の徒が横行しているためとして、水戸藩を応援出来得る状況にないと上申していましたが・・・。・・・結局は、“支藩の辛いところだった”と云えるのかも知れませんね。
      ※ 同年同日:“江戸に在府していた水戸藩士数十名”が、「連署」して・・・“藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)自らが帰藩し、藩内の士民を鎮撫されるべき”・・・との「建議書」を、「藩主」へ奉るべく、「家老」へ「嘆願」する。・・・同年7月23日に続いて、2回目の藩主への要請でしたが、いったいどの家老へ嘆願したか? についてや、1回目は「127名」とされていたのが、“数十名”に置き換わり・・・また、建議書の内容も、「藩内の奸徒」に触れていないため・・・“在江戸の生粋の鎮派勢力に属した水戸藩士達数十名だった可能性が高い”と感じます。・・・少しばかり、見分けが付きにくいですが。
      ※ 同年7月27日:「水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)」が、「故斉昭(※烈公)」の正室「貞芳院(※名は吉子、芳子とも、慶篤や慶喜の実母、有栖川宮織仁親王の第12王女)」を頼って、「水戸城代・鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)」に対する「謹慎処分」を解こうとしたものの、“そう”は成らず。・・・そこで・・・「市川弘美」は、“前家老・朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)らと謀り、主命と偽って、鈴木重棟を政務”に「復帰」させた。・・・それ以後は、「鈴木重棟」が、“諸生党を助ける人事異動を行なう”ことになる。・・・何だか、勧善懲悪ものの時代劇ドラマを観ているかのようです・・・が、いずれにしても・・・この日から、後の8月半ば頃まで、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らは、水戸における藩政の実権を掌握し、江戸に居る藩主・徳川慶篤の意向と関わりなく、限定的ではあったものの、国許の藩政を動かすことが可能となったのです。・・・
      ※ 同年7月28日:“同月3日に筑波勢を除名された田中愿蔵率いる一団(≒田中隊)”が、「竹原宿」を発ち、各地を転戦しながら、この日は「常陸国那珂郡野口村(現茨城県常陸大宮市野口)」の「郷校時雍館」へ、“その拠点を移していた”・・・が、そこに・・・“常陸国鯉淵村(現茨城県水戸市鯉淵町と笠間市鯉淵付近)を中心とする周辺の30カ村程の農民らによって組織された自警団的な集団(※当時は鯉淵勢と呼ばれました)”が、“追討幕府軍や諸生党勢に加わる格好”で・・・“この野口村周辺”に「出現」し・・・「田中隊」との間で、「激戦」が繰り広げられる。・・・ちなみに、常陸と下野で悪名を轟かせた田中隊でさえも・・・当時1,000人を超える規模とも云われた鯉淵勢が、束になって襲い掛かって来た訳ですから、かなりの苦戦を強いられた筈です。
      ・・・尚、こういった内乱においては・・・どちらの勢力も、食糧や軍資金調達のためとして・・・自勢力とは異なる思想や手法論を持つ勢力であっても、時には同調したり・・・或いは、半ば強制的に協力させられていた村役人や豪農、商家、神官の住まいなど・・・に対する打ち壊しや放火が各地で相次いだとか。・・・もはや、無秩序状態に近かったかと。・・・当時を考えれば・・・何せ、ごく最近まで良好な関係を続けていた隣村同士の士民達が、互いに武具を持って争う羽目になってしまったのですから。・・・この時代を生きた人々が、どうしたって口が重くなるのも、理解出来ます。
      ・・・何が善で、何が悪であるのかが、ハッキリしなかった時代でしたから・・・当然に、村々の農民達を扇動した者達も居たでしょうし・・・扇動された格好の農民達にしたって、常陸国の場合・・・その多くが、いわゆる佐竹遺臣の子孫達であって、元はと云えば、武門家系の人々が多く・・・単に、歴史的な境遇で、この頃は農業などを生業(なりわい)としていただけですので・・・それぞれの家系の人々が受け継いでいた想いや願望なども、相当にあったでしょうし。・・・複雑且つ難解なのです。・・・
      ※ 同年7月30日:「幕府」が、“同月14日に使番・朽木亀六(※幕府旗本)を派遣していた陸奥盛岡藩主・南部利剛(なんぶとしひさ)”に対して・・・“常陸付近の浪徒を鎮撫するため、兵を率いて江戸へ上府せよ”・・・と命じる。・・・まずは、外様雄藩の中では、一番遠方の盛岡藩からということなのでしょうか?
      ※ 同年同日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「幕府」に対して・・・“自らの名代として自藩の領内を鎮撫するために、支藩の常陸宍戸藩主・松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)を、水戸へ派遣すること”・・・を請うと・・・「幕府」は、“その請求”を許して、「宍戸藩主・松平頼徳」に対し・・・“徳川慶篤の名代として水戸に赴くこと”・・・を命じる。・・・宍戸藩主・松平頼徳にしてみれば・・・まさに、“支藩の辛いところパートⅡ”。・・・そして、水戸藩主・徳川慶篤のお傍近くに居る藩士達の「127名」や“数十名”の要望通りとは為らず。つまりは、藩主自らによる水戸帰還の実現は叶いませんでした。・・・しかし、水戸藩主・徳川慶篤公としては・・・“横浜鎖港などの実現を最優先事項として捉えた上で、自らが率先して政治活動に打ち込むために、然るべき人材を自らの代役に立てた”・・・と、個人的には信じたい・・・。
      ※ 同年7月内:“前年からの馬関(=下関)海峡の封鎖(=下関事件)によって多大な経済的損失を受けていたイギリスが、長州藩に対して懲戒的報復措置を採ることを決定する”・・・と、“アメリカ、フランス、オランダの三カ国に参加を呼び掛け、都合艦船17隻から成る連合艦隊”を「編成」する。・・・また、「水戸藩士・野村鼎実(※通称は彝之介、号は清籟舎、箕水とも、奥右筆頭)」が、「長谷川允迪(※名は後に清とも、通称は作十郎、号は艮山、青水とも、藩校・弘道館の元舎長)」と「相談」し・・・“朝廷の勅使下向を仰いだ上で、前家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)を江戸に入れよう”・・・と考え、“同藩士・山口正定(※通称は徳之進)を説いて、上京及びその斡旋を図ろう”・・・とするも、同月19日に「禁門の変」が起こったため、成就しなかった。・・・当時の長州藩にしてみれば、“大ピンチ”と云える状況でした。同月24日には、幕府によって〈第1次〉長州征討令が発せられておりましたし、このように外国の連合艦隊が臨戦態勢を採っていたとは。
      ・・・と云いますか、このような状況は当然に幕府に対して伝えられていた筈であり、これもまた・・・同年7月24日の第1次長州征討令よりも、かなり以前の段階で計画され、その頃合いを見計らっていたと考えるのが自然ですね。・・・そして、水戸藩士の野村や長谷川の行動についても、水戸藩存亡の危機を何とか回避しようとしていたものと理解出来ます。・・・いずれにしても、当時の前家老・武田正生を江戸に迎えるということが、前提にあったようですが。・・・

      ※ 同年8月4日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)”が、「江戸」を発ち、“領内士民を鎮撫するため”として、「水戸」へと向かう。・・・尚、これに前後して、“本家筋の水戸藩(水戸徳川家)から松平頼徳の附家老とされた山中広成(やまなかひろなり:※通称は新左衛門)や、水戸藩家老で鎮派の榊原照煦(※通称は新左衛門)、大久保忠貞(※通称は甚五左衛門、甚十郎とも)、鳥居忠順(※通称は瀬兵衛)ら”も、「松平頼徳」に従う。・・・このように、水戸藩における内乱を鎮撫させるためとして、この日江戸を発した軍勢のことを・・・「大発勢(だいはつぜい)」と呼びます。・・・そして、軍事組織としては・・・ここにもあるように、実質的には・・・その概ねが水戸藩士民らによる混成部隊であって・・・主将、或いは総大将としては、水戸藩主・徳川慶篤公の名代である宍戸藩主の松平頼徳公。
      ・・・当然として、宍戸藩は水戸藩の支藩でしたので、松平頼徳公の側近や藩士らも、元はと云えば水戸藩(水戸徳川家)の出身者達。・・・更に云えば・・・同年7月21日の水戸藩主・徳川慶篤公自らの手書による説得で以ってしても、尚も帰藩せずに、江戸に留まっていた水戸藩士民達であって・・・鎮派、若しくは激派に対しても同情を覚えていた者達であり・・・当時、水戸藩庁(=水戸城)を拠点としていた諸生党勢を排除しようとする者達。・・・要するに「大発勢」とは・・・筑波勢を討伐するために向けられた追討幕府軍などとは、その対象や編成目的などが全く異なる・・・ほぼ水戸藩(水戸徳川家)のみによる内乱鎮撫軍であった訳です。・・・
      ※ 同年8月5日:“イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四カ国によって組織された連合艦隊”が、「馬関(=下関)海峡」において、“長州藩砲台と交戦状態”に入る。・・・このような時期に、わざわざ・・・西欧四カ国の連合艦隊が、長州藩と交戦したということは・・・もはや、“西欧四カ国と長州征討幕府軍とが、阿吽の呼吸で以って、共同作戦的なデモンストレーション行為を行なった”と見るのが自然です。・・・表向きには、あくまでも・・・イギリスが主導した軍事的な制裁手段であったとはしても。
      ※ 同年同日:「幕府」が、“在京する水戸藩家老・大場景淑(※通称は弥右衛門、号は一真斎)”に対して・・・“一橋家を警守するため在京していた水戸藩兵を帰藩させるように”・・・と命じる。・・・また、「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、「下総古河」の「陣中」にて、「下野宇都宮藩」に対し・・・“常陸国臼井(現茨城県つくば市臼井)への出兵”・・・を命じる。・・・奇しくも・・・水戸藩ほか関東及び東北の29藩に対して筑波勢の取締りが命じられた日と同日(※同年4月3日のこと)に・・・当時水戸藩の家老職にあった武田正生へ、禁裏御守衛総督と摂海防禦指揮を兼務した一橋慶喜を助けるためとして、慶喜自らが依頼したという本圀寺党を含む水戸藩兵を・・・“幕府が、再び水戸へ帰藩せよ”と命じた訳です。・・・これでは、まるで・・・“直臣をほとんど持たない一橋慶喜公の手足をもぎ取るが如くの命令”であり・・・当時の幕府が尊皇攘夷思想が強い水戸藩兵らを、京都、すなわち孝明天皇のお傍に配置しておく事自体を、如何に危険視していたかが窺えます。
      ・・・表向きには、“自藩の内乱を鎮めるために働け!”ということなのでしょうが。
      ※ 同年同日:「松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)」が、「京都」の「本圀寺瑞雲院」へ移る。・・・
      ※ 同年同日:「常陸麻生藩」が、“浪士追捕のためとして、常陸国潮来(現茨城県潮来市)付近へ兵を出す”・・・と、“次いで麻生藩内の富田(現茨城県行方市富田)付近”にも繰り出して、「軍功」を上げる。・・・“軍功を上げたという相手方”が、いまいちハッキリとしません・・・が、どうやら・・・この後に登場する「潮来勢(いたこぜい)」を指しているようです。・・・当時の常陸国には、「鯉淵勢」とか、「潮来勢」などと呼ばれる、別々の勢力が・・・ほぼ同時に割拠していたため、何とも判り難いですが。
      ※ 同年8月6日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「書(簡)」を、「備前岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟)」へ寄せて・・・“茂政が長州藩に対し通牒するとの風評があること”・・・についてを「警告」する・・・も、“(池田)茂政としても、弁明する所あり”・・・とされる。・・・きっと、長兄の徳川慶篤にすれば、他藩(※この場合は池田家のこと)を継いだ実弟の風評についても、神経を尖らせるほど・・・備前岡山藩には、軽挙妄動を慎むことを求めて、且つ“実家たる水戸藩に何かあれば、備前岡山藩も無傷ではいられまい・・・また、その逆でも然り”・・・と心配していたのでしょう。
      ※ 同年同日:「常陸土浦藩主・土屋寅直(つちやともなお:※前水戸藩主・徳川斉昭の従兄弟)」が、「幕府」へ、「書(簡)」を致して・・・“常陸と下野における浪士を説諭するには、尊皇攘夷の意を酌(く)みとって、横浜鎖港を断行し、人心を安堵させることこそ、急を要すべきである”・・・と説く。・・・幕府が断続的に開国路線を突き進んでいる時期において・・・“この行動は、何とも勇気があった”とは云えます・・・が、儒学者・五十嵐儀一や藤田十五郎らなどの土浦藩士と水戸藩士らとは、そもそもとして長年に亘る交流があった筈であり・・・必然的に、土浦藩内も尊皇攘夷思想への傾倒が著しかったと考えられるため・・・当然と云えば、当然だったかと。
      ・・・しかしながら、常陸国における大藩の水戸藩と隣接若しくは近隣諸藩も、ほぼ同様であり・・・こと横浜鎖港問題については・・・どちらかと云えば、水戸藩(水戸徳川家)寄りの藩論が主流だったと推察出来るため・・・土浦藩主・土屋寅直は、当時水戸藩を取り巻く位置に所在しており・・・且つ、水戸藩や周辺諸藩の脱藩浪士達、更には各地からの義民達を多く含む武装集団を追討する立場に置かれていた諸藩に共通する「意見」や「想い」を代表して、このような書(簡)を、時の幕府へ届けたのかも知れません。
      ※ 同年同日:「下野黒羽藩主・大関増裕(おおぜきますひろ)」が、「幕府」へ、「書(簡)」を致して・・・“水戸藩領の下野国大山田村(現栃木県那須郡那珂川町大山田上郷と大山田下郷)付近に、浪士が数百人屯集しているとの情報があったため、同国須賀川村(現栃木県大田原市須賀川)及び同国須佐木村(現栃木県大田原市須佐木)へも出兵すること”・・・を「上申」する。・・・この当たりの下野黒羽藩の動きで感じるのは・・・“もはや、水戸藩各地において、筑波勢に続き、鯉淵勢や潮来勢などの新たな武装集団が割拠し始めており、今抑えないと、手が付けられなくなるし、自藩にも飛び火する恐れがある”・・・との「焦り」、或いは「緊急事態宣言」かと。
      ※ 同年8月7日:「幕府」が、“常陸国潮来付近に筑波勢が屯集していたためとして、下総佐倉及び上野高崎の二藩”に対して・・・“下総国佐原(現千葉県香取市佐原付近)への出兵”・・・を命じる。・・・これについては、前々日(※同年8月5日のこと)に常陸麻生藩が軍功を上げた後に、結果として散り散りにされていた尊皇攘夷派の士民らのことを、救出し、且つ再糾合するために・・・当の筑波勢が、潮来付近に集まっていたと見るのが自然でしょうか?・・・いずれにしても、“常陸国内各地や下野国などの近隣諸国から、かなり多くの士民達が、筑波勢の筑波山挙兵を知り、これに参加しようとしていたこと”が窺えます。・・・
      ※ 同年同日:“イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四カ国によって組織された連合艦隊”が、この日まで、“長州藩の馬関(現山口県下関市中心部付近)及び彦島(現山口県下関市彦島付近)上の砲台”を、徹底的に「砲撃」する・・・と、“各国の陸戦隊”が、これらを破壊した後に、「占拠」する。(=四カ国艦隊下関砲撃事件)・・・このため、馬関(=下関)海峡の砲台を四カ国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、これ以後は、西欧列強に対する武力での攘夷を放棄するに至り・・・逆に、海外の新知識や技術を積極的に導入し、軍備や軍制の近代化を図ることになります。・・・更には、後の西暦1866年(慶應2年)、坂本直柔(さかもとなおなり:※通称は龍馬、土佐脱藩郷士)や中岡道正(なかおかみちまさ:※通称は慎太郎、土佐脱藩郷士)などの仲介によって、同様に近代化路線を進めていた薩摩藩と「薩長同盟」を締結し、共に討幕(=倒幕)路線を進むこととなるのです。・・・
      ※ 同年8月8日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)が率いる大発勢”が、「常陸国片倉駅(かたくらのうまや:現茨城県小美玉市堅倉)」に「到着」する・・・と、“下総国小金付近に屯集していた水戸藩尊皇攘夷派士民ら数千人”が、これに属す。・・・また、“水戸藩前家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)と同藩元目付・山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄)ら”が、秘かに「大発勢」に従う。・・・こうして・・・江戸を発った「大発勢」の規模は・・・“当初の約1,000人から一挙に3倍の約3,000人へと膨れ上がった”と云われます。
      ・・・尚、前家老・武田正生と元目付・山国共昌は、当時の諸生党によって失脚させられていた訳であり・・・なるほど、“共通事項と云えるものがあります”が・・・水戸藩元目付・山国共昌については・・・実弟が、筑波勢の主将とされた田丸直允であり・・・下野国太平山において、幾度も実弟や藤田信らとの交渉を任されていた担当者の一人でしたので・・・時局の移り変わりとともに、彼自身の行動や思想哲学に対しても、何かしらの心理的な変化を与えていたのかも知れません。・・・結果としては・・・極力、事を穏便に済ませようと説得していた側が、逆に諭されてしまったようにも想えます。・・・いずれにしても、この時の武田正生は、62歳位。・・・田丸直允は、60歳位。・・・山国共昌に至っては、71歳位。・・・・皆、この幕末混乱期が訪れなければ、きっと好々爺であった筈。
      ・・・彼らのみならず、水戸藩(水戸徳川家)では、内紛や内乱めいた世相となり・・・老若男女が、士分の人も、神職の人も、学者も、医者も、商家の人も、農民も、漁民も、あるゆる仕事で生計を立てていた人々が・・・“時流という大嵐に晒されていた様子”が分かります。・・・
      ※ 同年8月9日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、“常陸下館、同土浦、同笠間、下野宇都宮、同壬生、陸奥福島、同二本松の諸藩”に対して・・・「筑波山への進撃」・・・を令し、次いで・・・“追討幕府軍に従う諸藩兵ら”が、「常陸国臼井」や「沼田(現茨城県つくば市沼田)」、「田中(現茨城県つくば市田中)」などに至る。・・・筑波山において、「対筑波勢戦」が始められようとしています。・・・尚、この時・・・諸藩兵らが入った臼井村と沼田村は・・・当時は、ともに寺社領、田中村については旗本領・・・とされていましたので、“筑波山への進撃(≒登頂)ルートを確保するためとして、また付城(つけじろ)や出城(でじろ)的な陣地としての役割を期待されていた”と考えられます。
      ※ 同年同日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)が率い、水戸藩の前家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)や元目付・山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄)らが合流した大発勢(※これ以後は、単に大発勢と表記します)”が、この日の「暴風雨」のため動けず・・・そのまま「常陸国片倉駅付近」に「滞在」した。・・・
      ※ 同年同日:“勿来の関(なこそのせき)付近の水戸藩領大津村(現茨城県北茨城市大津町)側”において、“水戸藩士・西丸亮(※通称は帯刀、号は松陰)ら”と「諸生党勢」が、「戦闘」に及ぶ。・・・「勿来の関」とは、現福島県いわき市勿来町付近にあった古代からの関所であり・・・常陸と陸奥の国境い辺り。・・・“戦闘そのものは、小規模だったよう”ですが。
      ※ 同年8月10日:「大発勢」が、「常陸国片倉駅付近」を発ち、「長岡宿」を経て、“諸生党勢が籠もる水戸藩庁(=水戸城)へ入城しようとする”・・・も、“これに対する水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らの諸生党勢は、大発勢の中に激派の者が多数含まれているのを知り、また自派の失脚を恐れ”・・・“水戸藩庁(=水戸城)の兵備を厳にして、松平頼徳のみの単騎入城については迎え入れる”としたものの・・・結局は、“随員らの入城について”を拒んだ。・・・そのため、“松平頼徳らの大発勢は、一旦城下南方の薬王院(やくおういん:現茨城県水戸市元吉田町)へ入った後、再び水戸藩庁(=水戸城)へと向かった”・・・が、この時・・・“水戸城兵(=諸生党勢)が、松平頼徳の先衛役へ砲撃”し・・・遂に、“戦いの火蓋”が開かれる。・・・かろうじて水戸藩の家老職に留まっていた市川弘美らの諸生党勢が、藩主・徳川慶篤の名代とされた松平頼徳の先衛役へ砲撃???・・・これが、“やけっぱちの乾坤一擲的な砲撃だった”のか?
      ・・・或いは、“時の幕閣から市川弘美が密命や内命といったものを受けての軍事的な挑発行為だった”のか? ・・・などについては、もはや知る由もないのですが・・・当時の大砲は、そう簡単に操作出来る訳もなく、単なる暴発や誤砲撃であったとは考え難いため・・・“市川弘美ら諸生党勢が、何らかの強い意志で以って砲撃した”と考えるのが自然です。・・・いずれにしても、この砲撃は・・・“藩主・徳川慶篤の意向に、公然と反発した事になる訳”でして・・・この後の展開を予測出来ていたかどうか? も、かなり怪しくなるほど、綱渡り的な行動に踏み切ったのです。・・・想えば・・・筑波勢に参加した者達や激派と目される者達の家族や家人達まで、“血の粛清とも云うべき厳しい処断を行なった諸生党勢もまた、自身のみなら兎も角、自らの家族や家人達まで累が及ぶと覚悟して、“それならば、いっその事”と、博打的な行動に出てしまったのかも知れません。・・・
      ※ 同年8月11日:「幕府」が、“鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん:※米問屋兼両替商の今橋鴻池家)や加島屋作兵衛(かじまやさくべえ:※米問屋兼両替商の長田家)、その他京阪の豪商ら14名”に対して、「献金」を命じる。・・・この頃の世相を背景とし、云わば、“国家の一大事という名目”での献金命令でした。・・・当然に、豪商らにしてみれば、大迷惑であった事には違いありませんが、この時一回限りであって欲しいとの感情なども理解出来ます。・・・しかし、この時期に京阪の豪商らに対して、“白羽の矢が当てられた”のは・・・江戸を中心とする東国経済が大停滞し、今に云うインフレーションが発生していた時期に・・・ちょうど、筑波勢の挙兵事件が重なり、それが幕府の想定以上に大規模化且つ長期化する様相となり・・・更には・・・西国でも、長州征討が始められた直後期であったためと考えられます。・・・そう考えると、“四カ国艦隊下関砲撃事件など、つまりは幕府が西欧四カ国連合艦隊の強力な火力に頼ってまで、西の長州藩の始末を急いでいた”・・・という事情も窺えるのです。
      ・・・尚、京阪の豪商らにすれば、時が移ると・・・献金先がほぼ逆転してしまい・・・結果として、大混乱が生じることになりますが・・・京阪の豪商らは・・・幕府の反対側、すなわち討幕(=倒幕)側勢力からも、半ば強制的な資金供与を迫られており、当然に・・・それぞれの商い自体を傾けるようなリスクも生じていたかと。・・・
      ※ 同年8月12日:“水戸藩庁(=水戸城)に籠る市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら諸生党勢によって、自らの先衛役を砲撃され、事実上も入城を拒まれた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)”は、“擾乱(=騒乱)となることを憂いて、まずは常陸国那珂湊へと移って対策を練るべき”・・・と、水戸城外の台町(現茨城県水戸市台町)を、この日発つ。・・・しかし、市川弘美ら諸生党勢の兵が、諸々の所にて、“松平頼徳らの大発勢を阻んだため”・・・“松平頼徳が率いる大発勢”は、諸生党勢兵を各個撃破しながら、「磯浜(現茨城県東茨城郡大洗町磯浜町)」へと進む。・・・“散り散りとされた諸生党勢”は、一旦水戸藩庁(=水戸城)に籠った後に・・・「岩船山・願入寺」に再結集していた・・・が、“大発勢の立原韻(※通称は朴次郎、号は祐堂、徒士頭、彰考館総裁の立原翠軒の孫)らと交戦する”こととなって・・・「那珂湊」に「敗走」させられる。
      ・・・結局のところ・・・この日以降は、「大発勢」と「諸生党勢」が、“那珂川を挟んで睨み合いながら、数日間を対峙、交戦”した。・・・尚、この頃の藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)らが率いる筑波勢は? と云えば・・・“水戸城下で諸生党勢と交戦するも敗退”し・・・“藤田信らの本隊と別れて江戸へ向かって進撃していた一派も、鹿島付近において追討幕府軍に敗北”してしまう。・・・結果として、“この日に残存する筑波勢”は、水戸藩小川郷校での再集結を図って、その移動の真っ最中。
・・・
      ※ 同年8月13日:「第14代征夷大将軍・徳川家茂」が、“小姓・加藤十太夫(かとうとうだゆう)及び小納戸頭取り・戸田三郎兵衛(とださぶろべえ)ら”を、「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」へ遣わして、「慰問」させる。・・・実際には・・・慰問と云うよりも・・・“浪士らの筑波勢を早期に鎮圧せよ”・・・と、将軍・徳川家茂が発破を掛けたのでしょうね。
      ※ 同年同日:“那珂川を挟んで大発勢と対峙していた諸生党勢”が、対岸の「日和山台場(現茨城県ひたちなか市山ノ上町湊公園内、別名は御殿山台場)」から、“松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)率いる大発勢が陣地を構える磯浜海防陣屋(現茨城県東茨城郡大洗町磯浜町)”に向けて、盛んに「砲撃」を加える。・・・これに対して・・・“大発勢の立原韻(※通称は朴次郎、号は祐堂、徒士頭、彰考館総裁の立原翠軒の孫)ら”が、「祝町下台場(現茨城県東茨城郡大洗町磯浜町)」から「応戦」した。・・・お互いに大砲を以って交戦した模様・・・。・・・榴弾砲(りゅうだんほう)的な?・・・きっと、砲弾が“雨あられ状態”で降って来たかと。・・・
      ※ 同年8月14日:“各地での激戦を潜り抜けた藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)や飯田利貞(※通称は軍蔵、元笠間藩郷士)ら残存していた筑波勢”が、「水戸藩小川郷校」を発つ・・・と、“諸生党勢と対戦中の大発勢に接近して、これに加勢する姿勢”を示す。・・・この頃、既に・・・水戸藩江戸屋敷の藩政や執行部人事は、鎮派がほぼ完全に掌握していた格好ですので・・・激派と呼ばれる筑波勢としても、藩主・徳川慶篤による藩政回復の命令を受けていた大発勢とは、思想哲学的に共有出来る事柄も多く・・・また・・・“水戸藩庁(=水戸城)を奪還するために共同戦線を張ろう!”・・・との意思表示だったかと。・・・
      ※ 同年8月15日:“水戸藩主の名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)”が、「水戸藩前家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)」に対して・・・“その次男・魁介と金子久維(※通称は勇二郎、変名は西村久介、桜田門外の変に関与した金子教孝の次男)らを付けて先鋒部隊とし、那珂湊に拠る水戸城兵(=諸生党勢)を翌16日に襲撃すること”・・・を「決定」し・・・また、「水戸藩」の「家老・三木直(みきただし:※通称は左太夫)」と「社寺奉行・加藤直博(※通称は八郎太夫、四郎衛門とも)」を、「江戸」に遣わして、“現地の状況”を、「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」へ、「上申」させる。・・・水戸藩主名代の松平頼徳としては、まず前家老・武田正生や、その次男・・・そして、「桜田門外の変」に関与した金子教孝の次男である久維を・・・那珂湊に拠る諸生党勢への先鋒部隊とした訳です。
      ・・・これについては、“水戸藩政を回復する”という名目からすれば、それこそ「筋(すじ)」と云え、納得出来るかと。・・・ちなみに・・・金子久維は、この後に那珂湊などで諸生党勢と戦います・・・が、今度は追討幕府軍に降伏するに至り、下総古河藩に禁固されることとなって・・・西暦1866年(慶応2年)11月10日に、獄中にて病死します。享年24。・・・尚、“松平頼徳が中間報告させた現地の状況”には・・・当然として・・“田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)や藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)らの、当時残存していた筑波勢の動静が含まれていた筈”・・・です。
      ※ 同年8月16日早朝:“大発勢麾下の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)や武田魁介(※武田正生の次男)ら”が、“那珂湊の市川党の兵(=諸生党勢)”を、「襲撃」する。・・・更には、“元水戸藩士・藤田信(※通称は小四郎、藤田彪の四男)と元笠間藩郷士・飯田利貞(※通称は軍蔵)らの筑波勢”が、「常陸国小川」より来たりて・・・“市川党の兵(=諸生党勢)を藩の要路から退けようと武田正生らを援けた”ため・・・“市川党の兵(=諸生党勢)”が、「水戸」へ逃れる。・・・この日早朝の軍事行動については・・・大発勢の執行部間では、当時過激な暴徒と見做していた筑波勢と行動を共にする事自体に、当初から抵抗があったようです・・・が、実際には、“このように共同作戦的な同時行動を実施し、それを筑波勢から既成事実化される”こととなって・・・結局は、共に諸生党勢と戦うことになった模様です。また、この日の合流後は・・・当初より筑波山挙兵そのものに反対していた武田正生でさえ、実際に筑波勢と共に行動するようになっています。
      ・・・このことは、結局のところ・・・“筑波勢とも呼ばれ、急進的な尊皇攘夷思想を持つ激派(=後の天狗党)が、当時水戸藩内で大多数を占める鎮派の勢力を多く含み、且つ水戸藩前家老・武田正生や元目付・山国共昌らが既に加わる大発勢と、共同作戦を実施することによって、藩論を統一し水戸藩を立て直すことを第一目標とし、そのために障害となる諸生党勢の一掃や、自らの勢力の生存を図っていたこと”・・・を示すものであり・・・“この日の大発勢と、残存する筑波勢とが、共に那珂川を渡河し、対岸の日和山や、水戸藩営大砲鋳造所の反射炉などに布陣する市川党の兵(=諸生党勢)を、水戸へ敗走させた”という光景を物語っているようです。
      ※ 同年同日:“依然として水戸藩庁(=水戸城)の藩政を握っていた城代・鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)及び家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)”が・・・“家老の戸田忠則(※通称は銀次郎、戸田忠敞の嫡男)と尾崎為貴(※通称は豊後)、大森多膳(おおもりたぜん)”に代えて・・・“前家老の佐藤信近(※通称は図書)と朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)”を、再び「家老」とする。・・・少々分かり難いですが・・・“あくまでも、同日早朝の那珂湊敗戦による緊急措置として、城代・鈴木重棟と家老・市川弘美が共同して、水戸城内や城下など限定された地域における人事権を行使した”・・・ということなのでしょう。・・・もちろん、ここには水戸藩主である徳川慶篤の意向については、完全に無視されており・・・“最後に生き残る筈である自分達が、全ての鍵を握る”・・・との、鈴木重棟や市川弘美の思考が感じられます。・・・
      ※ 同年8月17日:「大発勢」が、「磯浜海防陣屋」を引き払い、「湊郷校」に入る。・・・「湊郷校」とは、常陸国那珂郡湊村(現茨城県ひたちなか市山ノ上町)にあった「敬業館(けいぎょうかん)」のこと。
      ※ 同年同日:“水戸藩主の名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)”が、“水戸藩助川領主であり藩主から同年6月1日に家老職を罷免されていた山野邊義芸(※主水とも)”に対して、「戦況」を報じて・・・“人心の鎮定と奸徒(=諸生党)処置への協力を求める”とともに・・・“水戸城近くの神勢館(しんせいかん:現茨城県水戸市若宮町辺り)を大発勢の拠点とするため”として・・・「神勢館館長兼砲術師範役・福地広延(ふくちひろのぶ:※通称は政次郎)」に対して、“その旨”を、命じる。・・・水戸藩の「助川領」とは、現在の茨城県日立市助川町のことであり・・・「神勢館」は、9代藩主・徳川斉昭(※後の烈公)が藩士のための製砲所兼射的場として、那珂川右岸に建てた施設です。・・・そして、水戸藩主名代とされた松平頼徳からすれば・・・“もはや、当然に諸生党勢を除外したオール水戸藩で以って、人心の鎮定と諸生党排除を目指す”・・・という覚悟の表れだったかと。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩家老で大発勢に参加していた鎮派の榊原照煦(※通称は新左衛門)ら”が、“在江戸の附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)ら”に対して・・・“藩主の名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)が水戸へ下向した後の情勢”を報じて・・・「苦衷(くちゅう:※苦しい心や胸のうちのこと)」・・・を述べる。・・・“この時の、榊原照煦ら鎮派の苦衷を察する”に・・・“いつの間にやら、筑波勢(≒後の天狗党勢)と共に、かつては共に働いた諸生党勢と戦う次第となった経緯(いきさつ)や、横浜鎖港など前藩主・斉昭(※烈公)の遺志を達成するには程遠い状況である”・・・と、半ば悲観的に憂(うれ)いたからかと。・・・今で云えば・・・“かなり微妙な感じであり、また深刻度合いも相当なもので、先行きを見通せない”・・・という不安感と・・・“もはや、ここに至っては、在江戸の附家老・中山信徴などの影響力に頼るほかなく”・・・との期待感が入り混じっている感じです。・・・
      ※ 同年8月19日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、使者を以って、「天機」を、窺う。・・・ここにある「天機」とは・・・“造化の秘密や天地自然の神秘、生まれつきの才能、天子(※日本においては天皇のこと)の機嫌や天気の意味がある”・・・とされます・・・が、“この時の徳川慶篤の心境”としては・・・家老・榊原照煦らからの使者によって、“水戸藩領内各地での激戦や混乱、惨状を知らされたため”・・・“今後は、どんな展開が予想され、新たにどんな世相や政治課題が生まれて、実際にどのような状況に見舞われるのか?”・・・等々を、思案していたに違いありません。・・・
      ※ 同年8月20日:「幕府」が、“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の請(求)”を「容認」して・・・“下総国松戸(現千葉県松戸市)、同国市川(現千葉県市川市)、同国房川戸(ふさのかわど)の関所及び武蔵国中川(現埼玉県さいたま市見沼区中川)、同国逆井(現千葉県柏市逆井)、同国千住(現東京都足立区千住)の番所通行における、水戸、常陸府中、陸奥守山の三藩士らによる警戒”を、厳にさせる。・・・「陸奥守山藩」とは、現在の福島県郡山市に存在した藩であり、ここも水戸徳川家の御連枝に当たる支藩。藩庁は守山陣屋で、常陸国内にも所領を有し、松川陣屋を置いておりました。
      ・・・当時の藩主は、松平頼升(まつだいらよりのり)であり、この「元治甲子の乱(≒天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)」の際には、自藩内にも動揺が広がっていましたが、忠孝の道を誤らないように説得し、事を収めています。また、その後に勃発する「鳥羽・伏見の戦い」の頃には、勤王論に傾いて、奥羽越列藩同盟には参加しするものの、出兵延期願いを提出して動かず、官軍すなわち新政府軍が進軍した際には、降伏して二本松藩への攻撃に加わりました。・・・そして、明治期に入ると、松平頼之(まつだいらよりゆき:※前水戸藩主・徳川斉昭(※烈公)の二十二男、慶篤や慶喜の異母弟)を養子に迎えることになります。・・・「房川戸の関所」とは、常陸利根川を挟んで、現茨城県古河市中田と現埼玉県久喜市栗橋町付近に設けられていた関所のこと。・・・尚、常陸利根川のことを、古くは「房川」と称していたとの説あり。
      ・・・そして、“水戸藩主・徳川慶篤の請(求)を幕府が容認したということについて”ですが・・・これは、当然として幕府内で即日決済されている可能性は低く・・・“暫らく以前からの慶篤の請(求)内容であった”・・・と考えられ、奇しくも・・・この日の前日に榊原照煦らの鎮派から齎(もたら)された後における慶篤の心境や藩内の鎮撫方針を反映しているとは限りません。・・・きっと、“暫らく以前からの慶篤による藩内鎮撫方針”としては・・・“せめて、常陸国内とその周辺に限定する格好で、この騒乱を鎮撫させたかった”・・・という事を物語っているように感じます。・・・
      ※ 同年同日:“田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)率いる追討幕府軍”が、「下総結城」に至る。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)”が、“水戸藩家老の榊原照煦(※通称は新左衛門)、大久保忠貞(※通称は甚五左衛門、甚十郎とも)、鳥居忠順(※通称は瀬兵衛)ら”を率いて、「那珂湊」から「水戸神勢館」に至る。・・・そして、「従士・飯田正親(いいだまさちか:※通称は総蔵、水戸藩大番頭)」を、「水戸藩庁(=水戸城)」に遣わして・・・“家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らを諭して、自ら入城しようとした”・・・が、“市川弘美らは、その飯田正親を拘留した上に、更に戦備を整えて”・・・“松平頼徳の入城”を、再び拒んだ。・・・・・・
      ※ 同年8月21日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が・・・“将軍・徳川家茂が長州藩討伐へ進発しようとすること”を以って・・・「武蔵忍藩主・松平忠誠(まつだいらただざね)」及び「播磨姫路藩主・酒井忠績(さかいただしげ)」に対して、「江戸城留守役」を命じる。・・・ここにある酒井忠績にあっては・・・当時、幕府の老中職にあった人物ですので・・・すると、“定府大名の水戸徳川家当主としての徳川慶篤による命令であった”と推察出来ますね。・・・“あくまでも、将軍・徳川家茂の代役としての命令だった”と考えられますし・・・家茂の健康状態が、“当時から、あまり芳(かんば)しくなかった”という可能性もあります。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)”が、“水戸神勢館における開戦について”を、「書状」により、「水戸藩元家老・山野邊義芸(※主水とも)」へ報じて、“その来援”を求める。・・・この時の松平頼徳からすれば・・・“いつまでも助川領に留まって居ないで、早く水戸へ応援しに来い!”・・・との催促でしたが・・・
      ※ 同年8月22日:“水戸藩庁(=水戸城)に拠る家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら率いる諸生党勢”が・・・“水戸藩主名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)率いる大発勢が拠る神勢館”に対して、「一斉砲撃」を加える・・・と、“両軍が全面衝突”に至り・・・その直後、“福地広延(※通称は政次郎、神勢館長兼砲術師範役)が率いる大発勢の部隊”が、「九丁目口」において「反撃」に転じて・・・“諸生党勢と激しい戦闘”となる。・・・また、この時・・・“家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら”が、“大発勢に加わる前家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)”に対し、「書(簡)」を致して・・・“先日来の行動を責め、武田正生の自決(=自害)”を促した。・・・戦場と化し、砲撃戦や白兵戦が繰り広げられていた水戸で・・・“大義名分と大義名分とのぶつけ合い”も、現実に行なわれていたようです。
      ※ 同年同日:“追討幕府軍の先鋒部隊とされた下野壬生藩主・鳥居忠宝(※丹波守とも)率いる藩兵ら”が、「筑波山」を、「攻略」する。・・・但し、この時の筑波勢は、そのほとんどが筑波山を下りており・・・主力部隊とも云える藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)や飯田利貞(※通称は軍蔵、元笠間藩郷士)らの残存していた筑波勢は、ゲリラ戦を各地で展開しながらも、同年8月16日早朝の時点では、既に那珂湊で大発勢と合流していたため・・・当の筑波山では、大した抵抗も無かった筈ではありますが・・・。
      ※ 同年8月23日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、“糧食そして夫役と兵火による罹災のため”として、「常陸下妻藩」に「保証金」を「支給」する。・・・大変興味深い内容です。・・・下妻藩から追討幕府軍へ、糧食と夫役が供出され、また戦火による罹災のために・・・“下妻藩へ保証金が支給された”と。・・・つまりは、同年7月16日に、追討幕府軍の先発部隊が江戸を発った際には、自軍用の糧食を約1カ月分を用意していたことが分かります。・・・当時の田沼意尊としては、約1カ月間位で筑波勢を鎮圧することを当初想定していた訳でして・・・したがって、“この8月23日に、不足物資と関係する夫役を、現地付近の下妻藩から調達し、それに対して保証金を充てた”と。
      ※ 同年同日:「諸生党勢」が、「新町口」と「蓮池町口」より「進軍」し、「神勢館」への「砲撃」を「続行」する。・・・尚、「新町口の戦い」では・・・「大発勢」が、辛くも「諸生党勢」を破った・・・ものの、「立原韻(※通称は朴次郎、号は祐堂、徒士頭、彰考館総裁の立原翠軒の孫)」が、“十丁目口への進軍中”に「戦死」する。・・・立原韻の享年33。・・・
      ※ 同年同日:“助川陣屋(※助川海防城とも、現茨城県日立市助川町5丁目)に居た水戸藩元家老・山野邊義芸(※主水とも)”が、“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)からの書状”を受け取り・・・“松平頼徳の入城交渉のため”として・・・「水戸」へと向かう。・・・“松平頼徳から、水戸藩庁(=水戸城)入城交渉における仲介役として、山野邊義芸が白羽の矢を立てられたため”でした。
      ※ 同年8月24日:「水戸藩」が・・・“領内の常陸国染谷村(現茨城県石岡市染谷)など53カ村において、年貢全免要求など不穏な動きがあること”・・・を「把握」する。・・・当時の染谷村は、幕府旗本領です。・・・村名など、他の52カ村の詳細については分かりませんが、常識的に解釈すれば、“染谷村周辺の52カ村”ということになるでしょうか?・・・いずれにしても、尊皇攘夷派の士民らが常陸国内各地で武装蜂起し、これに反対する勢力も相対する事態となっていましたので・・・各地の田畑が戦乱により荒らされてしまったり、場合によっては収穫期の最中に働き手の農民が、いわゆる「義民」として、各勢力へ集団的に参加してしまうなど・・・もし、これらが発生すると、必然的に・・・地域の収穫高は、下がる一方だった訳でして、年貢全免要求などに繋がるのも無理はなかったかと。
      ※ 同年同日:「水戸藩元家老・山野邊義芸(※主水とも)」が、“水戸への途上”に・・・“諸生党勢・寺門登一郎(てらかどといちろう)らと石神外宿(現茨城県那珂郡東海村石神外宿)で戦った後に敗走していた筑波勢・大津彦之允(おおつひこのじょう:※元水戸藩小十人組)や油田敬之介(ゆたけいのすけ:※元水戸藩士)ら”・・・と「遭遇」する・・・と、“大津らの残存筑波勢と合流した山野邊義芸”は・・・“水戸への迂回路を採る”こととし・・・「常陸国大和田村(現茨城県日立市大和田町)」に入る。・・・しかし、ここで・・・“民兵(≒諸生党側の自警組織? 或いは、農民一揆勢?)”から「攻撃」され・・・“山野邊義芸は、この民兵らについては、石那坂(いしなざか:※石名坂とも、現茨城県日立市石名坂町)まで追撃して、結果敗走させた”・・・ものの、“水戸への要路に立ちはだかる困難のため”として・・・「助川陣屋(※助川海防城とも)」へ引き返す。・・・当時の常陸国内が、“何処も危険地帯だらけであった”という状況は分かります・・・が、いずれにしても・・・
      ・・・当時の山野邊義芸としては・・・同じ水戸藩士民らの間で斬り合いとなる先行きに・・・“虚(むな)しさや、やるせなさ”・・・を感じ取っていたに違いありません。・・・しかし、結局のところ・・・山野邊義芸は、水戸へは?・・・
      ※ 同年8月25日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が・・・“筑波勢に備えるためとして”・・・諸兵を従えて、「常陸笠間」に「布陣」する・・・と、“大番頭・神保相徳(※幕府旗本)らに、兵を率いらせて水戸へ”と向かわせる。・・・次いで、「神保相徳」が、“下野宇都宮や同壬生、陸奥二本松などの諸藩兵と共に、水戸城兵(=諸生党勢)を助けて、水戸藩主名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)らの兵(=大発勢)”と、「神勢館」にて戦う・・・が、互いに勝ち負けあり。・・・藩庁たる水戸城へ入場すら出来ずにいた大発勢が・・・この頃、筑波勢の加勢を受け・・・また、水戸藩庁(=水戸城)を死守し、藩の家老職にあった市川弘美ら諸生党による幕府方への工作活動などもあって・・・結果として、追討幕府軍から筑波勢と同一視されることとなり・・・とうとう、幕府から討伐対象とされてしまいました。
      ・・・このため、追討幕府軍が諸生党勢を助ける格好となって・・・各勢力が入り乱れることとなり・・・筑波勢を含む大発勢と、諸生党勢を含む追討幕府軍との間では、激戦が数日間に亘って繰り広げられることになったのです。・・・
      ※ 同年8月26日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、“重臣らに直々の書状”を与えて・・・“朋党(とものとう)を戒め、各々其の職を守るべし”・・・と諭す。・・・「朋党」とは、仲間の党や対等に肩を列べる党、味方の党との意味合いがあります。・・・藩主・徳川慶篤からすれば・・・結局のところは、“まずは重臣ら各自が、自らの党を戒めて、本来の職務に専念し、軽挙妄動は控えよ!”・・・という説諭であったかと。・・・きっと、慶篤は自領の水戸において想定外の事態が起きることを案じながら、“自らをも戒めていた”と想います。・・・
      ※ 同年8月27日:「前越前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)」が、「書(簡)」を、「前土佐藩主・山内豊信(※号は容堂)」及び「筑前福岡藩の世・黒田慶賛(くろだよしすけ:※後の黒田長知)」へ寄せて・・・“横浜鎖港談判の経過と、幕府使節(=遣仏使節)・池田長発(※幕府旗本)らへの処罰、筑波勢征伐の状況、元尾張藩主・徳川慶勝(※改名前は慶恕)の征長総督辞任の件、越前福井藩主・松平茂昭(まつだいらもちあき:※慶永の養子)の上京など”・・・についてを報じる。・・・・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩領の常陸国鯉淵村など30カ村余りの農民兵3,000名余り”が、「同小鶴村(現茨城県東茨城郡茨城町小鶴)」、「同長岡村(現茨城県東茨城郡茨城町長岡)」などで、「筑波勢」を「襲撃」し、これを「逃走」させる。・・・農民兵3,000名余りとは・・・“この3日前(※同年8月24日のこと)に、水戸藩元家老の山野邊義芸らが交戦した民兵(≒諸生党側の自警組織? 或いは、農民一揆勢?)らの一派であった”と考えるべきでしょう。・・・それにしても、同年7月28日の時点において、筑波勢を除名された田中愿蔵率いる一団(≒田中隊)と交戦した1,000人を超える規模とも云われる鯉淵勢が・・・僅か1カ月位のうちに、約3倍に膨れ上がる・・・とは、凄まじい限りです。・・・山野邊義芸が、理由については兎も角、“水戸入りを一旦断念した”という気持ちも理解出来ます。・・・
      ※ 同年8月29日:“水戸藩庁(=水戸城)に拠る家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら”が、“水戸藩士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、前家老)や、山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄、元目付役)、元水戸藩士の田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)らの家族”を、「獄」に投じて、その「邸宅」を「没収」する。・・・この時点では、諸生党らが・・・“武田正生と山国共昌のことを、浪士ではなく水戸藩士であると見做していたこと”・・・が分かりますが・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)”が、“水戸藩前家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)ら”と議して・・・“大発勢による水戸藩庁(=水戸城)入城や、そのための工作活動等が困難である”・・・と「判断」するに至り・・・“(大発勢の)再挙を図るため”として・・・再び、「那珂湊」へと退く。・・・この時の水戸藩庁(=水戸城)の内外には・・・諸生党勢のほかにも、神保相徳(※幕府旗本、大番頭)らが率いる追討幕府軍や、それらと共に下野宇都宮や同壬生、陸奥二本松などの諸藩兵達が駆け付けていた訳ですので・・・このように、松平頼徳が、再び那珂湊へ退くと決断した事は致し方ないことであったとは想います・・・が、那珂湊という場所を選択した理由については・・・やはり、“多くの大砲や弾薬が調達し易く、また背水の陣を敷けば、長期戦にも耐え得る”との考えからでしょう。
      ・・・しかし、“背後にある太平洋上から、この後に艦砲射撃を受けるなど”とは・・・この時は、まだ知る由もなく・・・。
      ※ 同年8月内:「朝廷」が、“尾張、紀伊、水戸、陸奥会津、伊勢桑名、越前福井の諸藩”に令して、“京都内外を警守”せしむ。・・・そんな頃・・・「水戸藩」が、“藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)に随従する藩士ら(=大発勢)を諭して、解散させようとする”・・・も、“常野出征軍(=追討幕府軍)の諸兵”は、各所において「筑波勢」と「交戦」し・・・“常陸国内の各村”は、「武装」して、「筑波勢」及び「尊皇攘夷派」に対する「自衛」を図る。・・・ここで云う「水戸藩」とは、おそらくは・・・藩主・徳川慶篤が定府していた“江戸サイドのことを指す”と考えられます。・・・反対に、“水戸サイドである”とするならば、“この頃既に、藩庁(=水戸城)を中心に、粛清の嵐が吹き荒れており、云わば無政府状態的に認識されていた”でしょうから、結果的にも辻褄(つじつま)が合いませんので。
      ・・・いずれにしても・・・那珂湊に入った大発勢にしてみれば、かなり不利な局面に突入していた様子が窺えます。・・・・・・


・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】

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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】