街並と天空   

『 夢と夢をつなぐこと・・・ 』

 それが私達のモットーです。 ~トータルプラン長山の仲介~ 

    

ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】



・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      【近世Ⅱ】《会津征伐(=上杉討伐)と関ヶ原合戦、そして転封》
      そして、世に云う“天下分け目”の「関ヶ原合戦」が起こることとなり、郷土茨城の大名配置が大きく変更される訳ですが・・・この時期についても、常陸佐竹氏や、上杉氏、徳川氏などに焦点を当てながら、少々詳しく記述することに致します。


      ※ 西暦1600年(慶長5年)4月1日:“豊臣政権下の五大老(ごたいろう:=老衆)筆頭とされ、大坂に居た徳川家康”が、“会津に居た上杉景勝の執政とされる直江兼続”へ向けて・・・“上杉家との外交交渉に当たる西笑承兌(さいしょうじょうたい:※臨済宗の僧、号は月甫、南陽、相国寺承兌とも)に認(したた)めさせた詰問状”を、発する。
・・・ここにある「西笑承兌」とは、前ページにもあるように・・・“かつては、美濃佐竹(長山)氏などとも相論関係にあった相国寺(しょうこくじ)という大寺院(臨済宗相国寺派)の僧”であり・・・“山城国伏見(現京都市伏見区)の人物だった”とされます。・・・ということは?・・・当然に・・・“当時の上杉家や、かつての上杉氏から自家の当主を迎えたため、上杉氏とは親戚筋、或いはほぼ同族家系である”と云っても構わない佐竹家などからしても・・・“徳川家康の外交窓口としての西笑承兌の資質や能力などについては、役不足だったなど”とは考えられず・・・。・・・いずれにしても、“この西笑承兌が、豊臣秀吉や徳川家康の顧問的且つ外交僧的な役割を務めて、特に諸法度や外交文書の起草や、学問奨励策や寺社行政の立案、法要などの仏事の運営に重要な役割を果たした”でとのこと。・・・この時の詰問状の内容は、概ね以下の通り。


      「景勝卿(※上杉景勝のこと)が会津に在国したまま、その上洛が遅れていることについて、徳川内府様(※徳川家康のこと)は少なからず不審を抱かれて居られます。上方(かみがた)においては、穏便でない噂が流れておりますので、伊奈図書(いなずしょ:※伊奈昭綱のこと)と河村長門(かわむらながと)を下らせました。また、香指原(こうざしはら:※現在の福島県会津若松市神指町本丸の神指原のこと)に新城を築いたり、越後河口(※現在の新潟県東蒲原郡津川口のこと)の道を修理し橋を架けるなどは、特に宜しきこととは思われませぬ。景勝卿がそのように思っていながら、直江山城守(※直江兼続のこと)殿がこれに意見しないのは(直江山城守殿の)油断であって、内府様のご不審は、尤(もっと)もなことかと。

      一、景勝卿に謀叛の心が無ければ、神社の起請文にて申し開きすることが、内府様のご内意です。
      一、景勝卿が律儀なことは、故太閤(※豊臣秀吉のこと)様以来、内府様も良く存じて居られます。故(ゆえ)に、起請文を認(したた)めて、その釈明さえすれば、何らの咎(おとが)めは無しとのこと。
      一、但し、隣国越後の堀監物直政(ほりけんもつなおまさ:※堀秀治の家老の堀直政のこと)が、上杉家に異志有るを疑って、再三告発をしているため、これについては、しっかりとした謝罪が必要かと。ご注意下さい。
      一、この春、北国(加賀)の肥前(ひぜん:※肥前守の略称、前田利長〈まえだとしなが:※前田利家の嫡男〉のこと)殿も謀叛の疑いを掛けられましたが、内府様の道理に適(かな)った思し召しによって、その疑いは晴れました。これを好(よ)き先例としてご覚悟され、上杉家も身を処すべきでありましょう。
      一、京都では、増右(※増田右衛門少尉の略称、増田長盛〈ましたながもり〉のこと)や、大刑少(※大谷刑部少輔の略称、大谷吉継〈おおたによしつぐ〉のこと)が、内府様への話をされているため、釈明については両人へ伝えて下さい。榊式太(※榊原式部大輔の略称、榊原康政〈さかきばらやすまさ〉のこと)に伝えられても良いかと思います。
      一、何と云っても、景勝卿の上洛が遅れているのが(最大の)原因ですから、とにかく一刻も早くに景勝卿が上洛し、内府様へ謝罪為(な)されるように。貴殿(※直江兼続のこと)から、勧(すす)めて下さるように。
      一、上方においては、会津で武器を集めていることや、道や橋を造っていることが、問題とされております。内府様が景勝卿の上洛を待っているのは、高麗(こうらい:※李氏朝鮮のこと)へ降伏するように使者を遣わしているためです。(高麗、或いは上杉家が)もしも降伏しなければ、来年か再来年かに軍勢を出すことになります。その相談も為されたいとの由(よし)。一刻も早く(景勝卿が)上洛し、直接釈明されるよう、貴殿(※直江兼続のこと)が相図(あいはか)らうべきです。
      一、愚僧(※西笑承兌のこと)と貴殿(※直江兼続のこと)は、数年来親しく付き合って参りましたので、現在の状況(自体)が心配でなりません。会津の存亡や上杉家の興廃が決まる重大事のため、よくよく思案を廻(めぐ)らされるべきでありましょう。これらは全て、使者の口上にも含めております。頓首(とんしゅ:※書簡や手紙の文末尾に書き添えて相手に対する敬意を表す語)。
           豊光寺(ほうこうじ)(にて)・・・
             (西笑)承兌(より)
      卯月朔日(※旧暦の4月1日のこと)
        直江山城守殿
             御宿所へ」


      ・・・と、書面上の西笑承兌の表現は、上杉家の対面というものにも配慮しながら穏やかなものですが、その真意は? と云うと、上杉家の執政たる直江兼続の、主君に対する補佐責任の追及・・・つまりは、直江兼続への個人攻撃と、上杉家に対する脅(おど)かしに満ちております。・・・要するに、“加賀前田家のように、大人しく膝を屈して、臣下の礼を採れば良し”と。・・・“さもなくば、高麗(※李氏朝鮮のこと)へ差し向けようとしている軍勢を、会津上杉家へ向けることとなり、結局は討伐されてしまうぞ”との恫喝だった訳です。・・・ちなみに、差出人の西笑承兌が、“この詰問状を記した”という豊光寺は・・・“この西笑承兌が、故豊臣秀吉追善のために創建した”という塔頭寺院です。・・・その所在地は、当然に相国寺内にあります。現在の京都府京都市上京区今出川通鳥丸東入相国寺門前町です。・・・しかし、後の「天明の大火」によって焼失してしまい、廃絶の危機にも遭いましたが、これまた随分と後の・・・西暦1882年(明治15年)に、荻野独園(おぎのどくおん)という臨済宗の僧侶によって、慧林院とその子院である霊香軒の客殿を移築し再興されておりますが・・・。・・・


      ※ 同西暦1600年(慶長5年)4月14日:“徳川家康による上杉家への上洛命令の拒否を、事実上通知する書簡”(・・・※世に云う直江状〈なおえじょう〉のこと・・・)が、“上杉家との外交交渉に当たっていた西笑承兌(※臨済宗の僧、号は月甫、南陽、相国寺承兌とも)”に対して、「上杉家執政・直江兼続」から、この日送られる。・・・当時の外交は、書簡による遣り取りが、主でしたので・・・直江状の内容は、まさしく筋道の類いの話だった訳です。・・・しかしながら、この直江状については、全くの偽文書とは判断出来ないものの、後世に大幅に改竄された部分があるのではないか? とする説もあります・・・が、この時の直江状の内容は、概ね以下の通り。・・・ここについては、かなりの長文となってしまいますが、私(筆者)による現代語訳を、原文の下に「・・・《現代語訳》」と、適宜付け加えることに致します。・・・但し、いつものように参考資料程度にお考え下さるよう、お願い致します。


      「四月一日の書状、十三日に会津に着き、具(つぶさ)に拝見。お訊(たず)ねに対して、返答致します。・・・

      一、当国の儀其元に於て種々雑説(ぞうせつ、ざっせつ)申すに付、内府様(※徳川家康のこと)御不審の由、尤も余儀なき儀に候、併して京と伏見の間に於てさへ、色々の沙汰止む時なく候、況んや遠国(おんごく)の景勝(※上杉景勝のこと)弱輩と云ひ、似合いたる雑説と存じ候、苦しからざる儀に候、尊慮(そんりょ)易かるべく候、定(さだめ)て連々聞召さるべく候事。

      ・・・《現代語訳》一、東国の事について、そちらでは種々の雑説(※諸説のこと)が流布され、(結果として)内府様がご不審に思われるのも、尤もなことです。しかも、京都と伏見の間でさえ、問題が生じており(・・・※西暦1595年〈文禄4年〉7月15日の豊臣秀次〈とよとみひでつぐ〉切腹事件などの豊臣政権内のゴタゴタを念頭に置いていると考えられます。・・・)、色々なご沙汰が止む気配も無さそうであります。ましてや、遠国(※会津のこと)にある上杉景勝は若輩者と云われ、これに似合うかのような雑説であると存じており、(これらについては、当方では)あまり問題視はしておりません。(内府様には)ご安心為されるように、様々な方面から広く聞いて欲しいものです。

      一、景勝上洛延引(えんいん)に付何かと申廻り候由不審に候、去々年国替程なく上洛、去年九月下国、当年正月時分上洛申され候ては、何の間に仕置等申付らるべく候、就中(なかんずく)当国は雪国にて十月より三月迄は何事も罷成らず候間、当国の案内者に御尋ねあるべく候、然らば何者が景勝逆心具に存じ候て申成し候と推量せしめ候事。
      ・・・《現代語訳》一、上杉景勝の上洛が先延ばしされているから、何かと申し廻られているとのことですが、(上杉景勝は)一昨年に(会津への)国替えがあったばかりの時期に上洛し、去年の九月に帰国したのです。当年の正月の時分に上洛せよと申されても、(上杉景勝としては)いつ何時に国元の政務などを執ったら良いのでしょうか。とりわけ当国は雪国ですから、十月より三月までの期間は、何事も出来ません。当国に詳しい者にお尋ね下されば、いったい何者が上杉景勝に逆心ありと申したり、推量したりするのかについてが、自ずと判る事かと。

      一、景勝別心(べっしん)無きに於ては誓詞を以てなりとも申さるべき由、去年以来数通の起請文反古になり候由、重て入らざる事。
      ・・・《現代語訳》一、上杉景勝に別心(※背こうとする気持ちのこと)が無ければ誓紙を以って答えよと申されますが、昨年以来差し出した数通の起請文については、反故(ほご)に為されております。重ねて差し出す必要は無き事かと。

      一、太閤(※故豊臣秀吉のこと)以来景勝律儀の仁と思召し候由、今以て別儀あるべからず候、世上の朝変暮化には相違候事。
      ・・・《現代語訳》一、上杉景勝を太閤様以来の律儀者であると、(内府様が)思っておられるとの事ですが、(これについては)今以って変わり御座いません。世間に良くある朝令暮改(ちょうれいぼかい:※命令や政令などが頻繁に変更されて一定しないこと)などとは全く違います。

      一、景勝心中(しんちゅう)毛頭別心これなく候へども、讒人(そしりびと)の申成し御糾明なく、逆心と思召す処是非に及ばず候、兼て又(また)御等閑(ごとうかん)なき様に候はば、讒者御引合せ是非御尋ね然るべく候、左様(さよう)これなく候内府様御表裏と存ずべく候事。
      ・・・《現代語訳》一、上杉景勝の心中には別心などは毛頭ございませんが、讒人の申す事へのご糾明が無く、逆心ありと(内府様に)思われてしまうのでは、是非もありません。重ねて言えば、もしも、ご等閑(※物事を軽く観て、いい加減に扱うこと)されないのであれば、是非とも(実際に)讒る者を引き合わせて、お尋ねするべきでしょう。左様にされないのであれば、内府様(にこそ)表裏ありと思わざるを得ませんが。

      一、北国肥前(※北国肥前守の略称、前田利長のこと)殿の儀思召のままに仰付られ候、御威光浅からざる事。
      ・・・《現代語訳》一、前田利長殿については、内府様の思し召しのままに仰せ付けられたと承っており、(内府様の)御威光が強かりし故(ゆえ)と存じております。

      一、増右(※増田右衛門少尉の略称、増田長盛のこと)や大刑少(※大谷刑部少輔の略称、大谷吉継のこと)御出頭の由委細承り及び候、珍重に候、自然用所の儀候へば申越すべく候、榊式太(※榊原式部大輔の略称、榊原康政のこと)は景勝表向の取次にて候、然らば景勝逆心歴然に候へば、一往御意見に及んでこその筋目(すじめ)、内府様御為(おんため)にも罷成るべく候処に、左様の分別こそ存届けず候へども、讒人の堀監物奏者を仕られ、種々の才覚を以て妨げ申さるべき事にはこれなく候(や)、忠信か、佞心か、御分別次第重て頼入るべく候事。
      ・・・《現代語訳》一、増田長盛や大谷吉継のご出世についてを、お知らせて頂きまして、委細を承知致しました。大変目出度き事と存じます。用件があれば自ずと、そちらへ申し越す所存であります。榊原康政(について)は、上杉景勝の公式な取次役とされております。仮に、上杉景勝の逆心なるものが歴然としているならば、(内府様へ)一応の御意見をする事こそが、(榊原康政が担うべき)筋目であり、(また)そうする事が、内府様の御為となるにもかかわらず、それをしないばかりか、よりによって、讒人である堀監物(※堀秀治の家老の堀直政のこと)の奏者に仕えて、その種々の才覚を以って様々な工作をし、上杉景勝を妨げているのではないでしょうか。(彼が)忠義者であるのか、奸臣であるのかについて、(内府様の)よくよくのご分別次第であると存じており、重ねて頼み入るところであります。

      一、第一雑説ゆえ上洛延引候御断り、右に申宣べる如に候事。
      ・・・《現代語訳》一、第一に、雑説があるが故に(上杉景勝の)上洛が先延ばしにされているとのご指摘については、きっぱりと否定させて頂きます。右(=上記)に申し宣べた通りであります。・・・ちなみに、これらの書簡の文中で、「右(記)」が「上記」や「これらの事」などとなる訳は、文章そのものが縦書きとなっているからです。

      一、第二武具集候こと、上方の武士は今焼(いまやき)や炭取(すみとり)、瓢べ(ふくべ)以下人たらし道具御所持候、田舎武士は鉄砲弓箭(きゅうせん:弓矢のこと)の道具支度申し候、其国々の風俗と思召し御不審あるまじく候、不似合の道具を用意申され候へば、景勝不届の分際(ぶんざい)何程の事、これあるべく候や、天下に不似合の御沙汰と存じ候事。
      ・・・《現代語訳》一、第二に、(上杉景勝が)武器を集めているとの事ですが、上方の武士は今焼き(※古い伝統的なものに対して、新しく焼かれた焼き物のこと、慶長年間には茶入れや黒茶碗、香合なども今焼きと呼ばれたとのこと)や、炭取、瓢べなど、人たらしのための茶器類を御所持されておりますが、(東国武士などの)田舎武士は鉄砲や弓矢の道具支度をする事が、其の国々の風俗(≒お国柄、伝統)と思し召して、ご不審無きようお気に為さらぬことです。もしも、不似合いの道具を用意せよと(上杉景勝や直江兼続らに)申されても、(むしろ)上杉景勝が不届きな分際であり、(且つ)これを何程の事かと為されたほうが良く、(これしきの事を気にされていては)天下においては、まさに不似合いのご沙汰であると存じます。

      一、第三道作り、船橋申付られ、往還の煩なきようにと存ぜらるるは、国を持たるる役に候、条(じょう)此の如くに候、越国に於ても舟橋道作り候、然らば端々(はしばし)残ってこれあるべく候、淵底(えんてい)堀監物存ずべく候、当国へ罷り移られての仕置にこれなきことに候、本国と云ひ、久太郎(※堀秀治のこと)踏みつぶし候に何の手間入るべく候や、道作までにも行立たず候、景勝領分会津の儀は申すに及ばず、上野や、下野、岩城、相馬、正宗(※伊達政宗のこと)領や、最上、由利、仙北に相境へ、何れも道作同前に候、自余の衆は 何とも申されず候、堀監物ばかり道作に畏れ候て、色々申鳴らし候、よくよく弓箭を知らざる無分別者(むふんべつもの)と思召さるべく候、景勝に天下に対し逆心の企てこれあり候わば、諸境目、堀切、道を塞ぎ、防戦の支度をこそ仕らるべく候へ。十方へ道を作り付けて逆心のうえ、自然人数を向わせられ候わば、一方の防ぎさえ罷りなるまじく候、いわんや十方を防ぎ候ことまかりなるものにて候や、縦(た)とへ他国へ罷出で候とも、一方にて(こそ)景勝相当の出勢罷成るべく候へ、中々是非に及ばざるうつけ者と存じ候、景勝領分道作申付くる体たらく、江戸より切々御使者白河口の体御見分為すべく候、その外奥筋へも御使者上下致し候条、御尋ね尤もに候、御不審候はば御使者下され、所々境目を御見させ(候はば)、合点(がてん)参るべく候事。
      ・・・《現代語訳》一、第三に、道造りや船橋についてを(上杉景勝から)申し付けられて、(人や物資の)往来についてを不便無きようにとする事は、国を持つ者にとっては当然の役目であると存じます。そもそも、条(※条坊制における東西に走る大路のこと)とは、此(こ)れの如くなのではないでしょうか。(当家は、かつての)越後国においても、舟橋や道をつくりましたので、これらが(現地の)端々に残っていると存じます。(このことは)堀監物(※堀秀治の家老の堀直政のこと)も、良く存じている筈です。当国(=会津)へ罷(まか)り移されてより、これまで(これらの)仕置が為されていなかっただけのことです。(越後は上杉家の)本国でもあるので、久太郎(※堀秀治のこと)を踏み潰すためとして、(新たに)手間暇を掛ける道理は無く、また道を造らずとも(久太郎ごときを)立てなくすることぐらいは、それこそ造作も無き事であります。上杉景勝の領分である会津の事は申すに及ばず、上野や、下野、岩城、相馬の地は、伊達政宗領や、最上、由利、仙北と接しており、いずれの境においても、道造りについては同然のことかと。自余の衆(※上杉家や伊達家らの衆のこと)は何も申さないのに、堀監物(※堀秀治の家老の堀直政のこと)ばかりが畏れて、色々と申し鳴らして(ピーピーと鳴き騒いで)いるのです。(堀監物のことを)よくよく弓箭(や戦さのこと)を知らない無分別者とお思いに為られることです。もしも、上杉景勝に天下に対する逆心の企てありとしたならば、むしろ諸の境目や、堀切、道を塞いで防戦支度こそを整えるでありましょう。十(とう)の方角へ道を造ってから、逆心を懐いていたのでは、多勢で以って攻められた際には、自ずと一方の防御さえ敵(かな)わぬこととなり、ましてや、十方全てを防ぎ切ることなど出来るでしょうか。たとえ他国へ(の道を造って)罷り出たるとしても、一方にしか道が残されていなければ、上杉景勝は相当の出勢規模となる筈であり、これでは(上杉景勝が)、とんでもない“うつけ者”となってしまいます。上杉景勝が道造りを(直江兼続らに)申し付けるという“体(てい)たらく”についてなのでしょうか。江戸からの御使者が、頻繁に白河口や、その外奥の街道筋でも行き来しているようでありますので、(西笑承兌殿の)お尋ねは、尤(もっと)もな事かとも存じます。もしも、(内府様に)ご不審があると云うなら、(実際に)御使者を向かわされて、所々の境目を御見分下されば、合点して頂けるでしょうに。

      一、景勝事当年三月謙信(※故上杉謙信のこと)追善に相当り候間、左様の隙を明け、夏中御見舞の為上洛仕らるべく内存に候、武具以下国の覚、仕置の為に候間、在国中きっと相調い候様にと用意申され、候処、増右、大刑少より御使者申分され(候)は、景勝逆心不穏便に候間、別心なきに於ては上洛尤もの由、内府様御内証(ごないしょう:※表向きとせずに内々にしておくこと、外部には隠しておくこと、ナイショ話のこと)の由、迚(とて)も内府様御等閑なく候はば、讒人申分(もうしぶん)有らまし仰せ越され、きっと御糾明候てこそ御懇切の験(けん)したるべき処に、意趣(いしゅ)逆心なしと申唱へ候間、別心なきに於ては上洛候へなどと、乳呑子(ちのみご)の会釈、是非に及ばず候、昨日まで逆心企てる者も、其行はずれ候へば、知らぬ顔にて上洛仕り、或は縁辺(えんぺん)、或は新知行など取り、不足を顧みざる人と交り仕り候当世風は、景勝身上(しんじょう、みのうえ)には不相応に候、心中別心なく候へども、逆心天下にその隠れなく候、妄(みだ)りに上洛、累代弓箭の覚まで失い候条、讒人引合御糾明これなくんば、上洛罷成るまじく候、右の趣(おもむき)景勝理か否か、尊慮過すべからず候、就中景勝家中藤田能登守(※藤田信吉のこと)と申す者、七月半ばに当国を引切り、江戸へ罷移り、それより上洛候、万事は知れ申すべく候、景勝罷違い候か、内府様御表裏か、世上御沙汰次第に候事。
      ・・・《現代語訳》一、上杉景勝の(私)事ではありますが、当年三月は謙信(※故上杉謙信のこと)の追善(法要)に当たるため、(上杉景勝としては)その間隙を縫った後の夏頃に、(内府様の)お見舞いのためとして、上洛されるおつもりのようであります。武具(集め)の事など国の政務については、(上杉景勝が)仕置の為の期間についてを、(上杉景勝の)在国中に、きっと整えるように用意せよと申されていたところに、増田長盛と大谷吉継からの御使者が参られて、上杉景勝の逆心や不穏なる事態との便りが、この間にあったとか申され、(上杉景勝に)別心が無ければ、(何より上杉景勝が)上洛する事が最善であり、(このことは)内府様によって内々で調べられているとの事でした。しかしながら、ご等閑(※物事を軽く観て、いい加減に扱うこと)されないのであれば、讒人の申分のあらましを、こちらにお伝えになった上で、しっかりとご糾明為されてこそ、細部まで心が行き届いた(内府様や西笑承兌殿の)ご親切の証とされるべき処であって、(上杉景勝には)意趣や逆心などは無いと(当方が)申しているのにもかかわらず、別心が無ければ上洛せよなどとは、(まさに)乳飲み子にも等しき解釈であって、(そもそもとして)筋(すじ)が通りません。昨日まで逆心を企てていた者までが、その行ないから外れて、知らぬ顔し上洛して(内府様に)仕えさえすれば、或いは(内府様の)お気に入り(人事)の役職とされたり、或いは(内府様から)新たな知行などによって取り立てられたり、不足という事についてを振り返ろうともしない人と交流せねばならぬようなご時世などは、上杉景勝の身上(や信条)には全く以って相応しく無きことかと。(上杉景勝の)心中には別心など無しといえども、逆心(らしきもの)が天下(内府様)に示されてしまっている際に、やみくもに(上杉景勝が)上洛すれば、(上杉家)累代の弓箭による名誉まで失なうこととなり、讒人を引き合ってからのご糾明が無くば、上洛するという前提が整わず、これらの事は上杉景勝にとって理となるのか、(或いは)否となるのでしょうか。とにかく熟慮為されるべきかと。とりわけ上杉景勝の家中には、藤田信吉という者が(かつては)おりまして、(これが)七月半ばに当国(=当家)を出奔し、江戸に移ると、その後に上洛したとの事は、全て知らされておりますので、上杉景勝が間違っているのか、内府様に表裏があるのか、世上に居られる(内府様の)ご沙汰次第の事と存じます。

      一、千言万句も入らず候、景勝毛頭別心これなく候、上洛の儀は罷成らざる様に御仕掛け候条、是非に及ばず候、内府様御分別次第上洛申さるべく候、たとえこのまま在国申され候とも、太閤(※故豊臣秀吉のこと)様御置目(おんおきめ:※遺命のこと)に相背き、数通の起請文反故になり、御幼少の秀頼(※豊臣秀頼〈とよとみひでより〉のこと)様へ首尾なく仕られ(なば)、此方より手出し候て天下の主になられ候ても、悪人の名逃れず候条、末代の恥辱と為すべく候、此処の遠慮なく此事を仕られ候や、御心(みこころ)易かるべく候、但し讒人の儀を思召し、不義の御扱に於ては是非に及ばず候間、誓言も堅約も入るまじき事。
      ・・・《現代語訳》一、(私〈※直江兼続のこと〉が、今さら西笑承兌殿へ)千言万句を申し上げるまでもありませんが、上杉景勝に別心などは毛頭ございません。しかし、(上杉景勝)上洛の事については、(その)上洛が叶わぬように為されているためであり、是非も無き事であるかと。内府様のご分別によって(上杉景勝の)上洛を申されている事は、重々承知しておりますが、たとえ(上杉景勝に)このまま在国すべしと申されても、故太閤様の遺命に背くこととなり、(そして、これまでの)数通の起請文も反故となり、(また)ご幼少であらされる豊臣秀頼様をも、ないがしろにする行為となり果てますので、(たとえ)当方(※上杉家のこと)から手出しして、(上杉景勝が)天下の主(あるじ)になったとしても(・・・※直江兼続が申し述べたという、この場合の仮想敵が、越後の堀秀治なのか? 当時の大坂城西の丸に居座っていた徳川家康のことなのか? については判然としませんが・・・いずれにしても、“敵方が誰であっても、戦さの大義名分が立つのは当方であり、負ける筈は無い”との比喩表現とされております。・・・)、悪人との汚名を被ることは必然であり、(更には)末代までの恥辱となります。ここには遠慮というものもありませんし、このような事を(内府様から)指示されるなどとは考えてはおりませんので、どうか(西笑承兌殿は)ご安心下さい。但し、(内府様が)讒人が云う事をご信用為されて、(上杉景勝を)不義の扱いと為されるようでは、已むを得ない事態となるため、(上杉景勝による)誓いや堅い約束などは、もはや(その)必要すら無いかと。

      一、爰許(ここもと:=当方≒藤田信吉のこと)に於て景勝逆心と申唱え候間、燐国に於て、会津働とて触れ廻り、或は人数、或は兵粮を支度候へども、無分別者の仕事に候条、聞くも入らず候事。
      ・・・《現代語訳》一、当方(を出奔した藤田信吉)から上杉景勝に逆心ありと申し唱えられている間に、(堀監物らから)隣国にて会津(上杉家)が攻めて来ると触れ廻られて、或いは(上杉討伐軍の)人数や、或いは(上杉討伐軍の)兵糧を支度していたとしても、(それらは)無分別者のやることであり、もはや聞くまでもありません。

      一、内府様へ使者を以てなりとも申宣(もうしの)ぶべく候へども、燐国より讒人打ち詰め種々申成し、家中よりも藤田能登守引切候条、表裏第一の御沙汰あるべく候事、右条々御糾明なくんば申上られまじき由に存じ候、全く疎意なく通じ、折ふし御取成(おんとりな)し、我らに於て畏(おそ)入るべきこと。
      ・・・《現代語訳》一、内府様への使者を以って申し宣べるべきかとも存じましたが、隣国から讒人が(内府様へ)押し寄せて様々な事を申しているようですし、(上杉)家中からも藤田信吉を引き離すような状況となり、(これらは)表裏第一を旨とする(内府様の)ご沙汰のあるべき姿なのでしょうか。(当方としては)これらに対する(内府様の)ご糾明が無ければ、(いくら)申し上げようとしても、(結果として)申し上げられないと心得ております。(これらについては、当方としては)疎(うと)んじる意向は全く無く、(これまでの西笑承兌殿による内府様への)取り成しについては、(上杉家の皆が)折伏(おりふ)して感謝致しておりますが、(あくまでも)我らにおいて(納得し、また内府様へ)、畏れ入るべき事であるかと。

      一、何事も遠国ながら校量仕り候有様も、嘘のように罷成り候、申すまでもなく候へども、御目にかけられ候上申入れ候、天下に於て黒白御存知の儀に候間、仰越され候へば実儀と存ずべく候、御心安きまま、むさと書き進じ候、慮外(りょがい)少なからず候へども、愚慮(ぐりょ)申述べ候、尊慮を得べきためその憚(はばか)りを顧みず候由、侍者奏達(じしゃそうたつ)、恐惶謹言(きょうこうきんげん)。
      ・・・《現代語訳》一、何事も遠国であるため推量しつつ(この書簡を)認(したた)めているという有り様ですが、(まるで)嘘のような情勢となってしまいました。(西笑承兌殿へは)申すまでも無き事かとも存じましたが、(西笑承兌殿の)見たまま、ありのままを(内府様へ)上申して頂きたく存じます。(西笑承兌殿が)ご存知のように、(この)天下においては、白が黒とされる事と相成りまして、もしも、(西笑承兌殿など、しかるべき人物に、こちらへ)お越し頂ければ、真実がお分かりになると存じ、また(内府様や西笑承兌殿の)御心が安んじられたままであればと、むさ苦しくも(これを)書き進めております。少なからず不躾(ぶしつけ)ではありましたが、私(※直江兼続のこと)の愚かな考えについてを、(これにて)申し述べさせて頂きました。(まずは、内府様や西笑承兌殿の)尊慮を得たいと心得まして、その憚りを顧みること無く、申し述べた次第であります。侍者奏達(※直江兼続の侍者により、この書簡を届けさせるという意)。恐惶謹言(※恐れ畏まり、謹んで申し上げる意であり、相手方への敬意を表するために手紙の末尾に用いる語)。

             直江山城守
                 兼続(より)
      慶長
        四月一四日
        豊光寺
          侍者御中」


      ・・・と、いわゆる「直江状」では、上杉家執政の直江兼続が、“徳川家康の痛い処を突いて”おります。・・・上杉家に逆心有りと世間に騒ぎ立てて居られるようですが、そもそも天下に対する野心を持つのは家康の方ではないか? と、反対に、糾弾している訳です。・・・また、この書簡では、同年4月1日付けの詰問状の中にあった加賀前田家については、他家のこととしているためなのか?・・・相撲で云えば、軽く“いなし”ており・・・サッカーで云えば、軽く“スルー”しており・・・“前田家のように安易な妥協は一切しない。論点を明確にして、公(おおやけ)の場で白黒をハッキリさせよう。もしも、そのように対応しないのであれば、東国武士の上杉家としては、是非に及ばず”と(≒上杉家としては、自らは望まないが、結果としての戦さについては致し方無しと)。・・・との決意を示唆しているのです。・・・これが、まさに・・・“条件付きの挑戦状や、条件付きの宣戦布告状の類い”と、徳川家康には捉えられることとなり・・・。


      ・・・いずれにしても・・・

      ※ 同西暦1600年(慶長5年)5月3日:「徳川家康」が、「西笑承兌(※臨済宗の僧、号は月甫、南陽、相国寺承兌とも)」を介して・・・“上杉家の上洛拒否や自らに対する非難に満ちた直江兼続からの書状”を、「一読」する・・・と、“直ちに自身の重臣達を呼び集め”・・・「会津征伐(=上杉討伐)」のためとして、“東国の諸大名を京都へ招集する命令”を、「下知」する。
・・・この際の徳川家康が、東国の諸大名を、わざわざ京都へ招集したのは、会津の上杉家から遠ざけることで、“会津近隣の諸大名間で行なわれる可能性があった何らかの結託や、上杉家から会津近隣の諸大名へ対する調略行為などを避けるためだったと同時に、徳川家康や徳川氏に対する感情や忠誠心的なものを量る意味合いがあった”かと。・・・いずれにしても、“直江状の内容を知った徳川家康が、関ヶ原合戦のキッカケと云われる会津征伐(=上杉討伐)を決意した”とされております。
      ※ 同年5月中旬頃:“常陸の佐竹義宣”が、“徳川家康からの招集命令”に応じて、「京都」に、「到着」する。・・・“さもありなん”と云うべきでしょうか?・・・“この時の佐竹義宣としては、自らの軍勢を率いらずに、少人数によって、あくまでも豊臣政権下の五大老筆頭の下へ、とりあえずも馳せ参じた”ということだったかと。・・・きっと、この当時の徳川家康としても、“自らの野心と云うか、自身の残り寿命から来る焦り的な心情などを、他者から悟られぬように極力配慮していた”と考えられ・・・“当然に、大義名分が成り立つような理由を付けて、諸大名を京都へ呼び出していた”のでしょうから。

      ※ 同年6月2日:「徳川家康」から、“京都招集に応じていた関東の諸大名に対して、会津征伐(=上杉討伐)における陣触れ”が出され・・・“佐竹家担当箇所については、仙道口(せんどうぐち)とすること”や・・・“伊達家担当箇所については、信夫口(しのぶぐち)とすることなど”が、この日に「決定」される。・・・この時の徳川家康は、“南部利直(なんぶとしなお:※南部信直の長男であり、後の陸奥盛岡藩主)や、秋田実季(あきたさねすえ:※安東愛季の次男であり、この当時は出羽国秋田郡など下三郡地方を領するも、この後に常陸国茨城郡へ転封され、常陸宍戸藩主となった人物)、戸沢政盛(とざわまさもり:※戸沢盛安の長男であり、この後に常陸国多賀郡及び茨城郡などを与えられて常陸松岡藩主とされ、後に出羽新庄藩主となった人物)、それに加えて本堂(ほんどう)氏や、六郷(ろくごう)氏、赤尾津(あかおつ、あこうづ)氏、滝沢(たきざわ)氏などを、現在の山形県に集結させ、最上義光(もがみよしあき)を主将として米沢口から会津へ侵入させ、津川口からは前田利長や堀秀治などを配置し、四方から攻めさせる作戦を考えていた”とされます。・・・尚、「仙道」とは、現在の福島県で使用されている「中通り」のことです。これは、福島県地方についてを地勢的に三地域に言い分けた呼称であり・・・この「仙道」、つまりは「中通り」の他には・・・太平洋側の「浜通り」と、内陸部の「会津地方」と呼ばれる地域名があります。・・・そして、「仙道」こと「中通り」の地勢は、東の阿武隈高地と西の奥羽山脈に挟まれており、その大部分が阿武隈川と久慈川の流域に相当し、北から中通り低地と呼ばれる福島盆地や郡山盆地、本宮盆地、須賀川盆地、白河盆地などが並んで、また南には久慈川の谷があります。・・・古くから関東地方と東北地方とを結ぶ主要街道が通じており、「山道(さんどう)」とも呼ばれておりました。・・・いずれにしても、この時の佐竹義宣としては、“徳川方によって、この仙道(※山道とも)の入り口付近に配置されることとなり、会津征伐(=上杉討伐)を目的とする自軍を率いるために、水戸へと向かった訳なのです”が・・・。・・・ちなみに、上記の「信夫口」とは、現在の福島県北部付近のことであり、所在で云えば福島県福島市の一部となります。・・・したがって、この「信夫口」から、当時の伊達政宗が上杉領へ侵攻する場合には、まずは刈田郡(かったぐん:※現宮城県刈田郡蔵王町及び七ヶ宿町)に入ることになるのですが・・・この刈田郡を抑える軍事上の重要拠点が、“故豊臣秀吉による奥州仕置(※奥羽仕置とも)により伊達政宗が没収され、当時の蒲生氏郷(がもううじさと)へ与えられて築城された”という白石城(※別名は益岡城、桝岡城とも、現宮城県白石市益岡町)だったためなのか、この後には・・・伊達家 Vs 上杉家 という構図で以って、「白石城の戦い」が始まったとのこと。・・・当時の徳川家康による「会津征伐(=上杉討伐)」では、結局のところ・・・徳川家 Vs 上杉家 という構図における直接的な交戦は、起こらなかった訳ですが・・・“現実には、間接的且つ局地戦的な戦闘は、行なわれることになる”のです。・・・
      ※ 同年6月6日:この日、「大坂城西の丸」において、“会津征伐(=上杉討伐)に関する評定が開かれる”・・・と、「佐竹義宣」は、“これに従う格好で、水戸への帰途”に、就く。・・・・・・
      ※ 同年6月8日:「後陽成(ごようぜい)天皇」が、「晒布(さらしぬの)100反」を、「徳川家康」へ、「下賜」する。・・・ここにある「晒布」とは、漂白された糸で出来た織物のことであり・・・その色は、当然に純白です。・・・ということは・・・“後陽成天皇が徳川家康へこの晒布を下賜した”という意味合いを考えると・・・“これも当然のように、内府とも呼ばれていた当時の徳川家康からすれば、時の天皇から源氏の長者、或いは源氏の棟梁として任命された、或いは認められたということになる”のでしょうが・・・そもそもとして、藤原北家勧修寺流の上杉氏や、清和源氏の佐竹氏などからすれば・・・『えっ! 今更なの? そもそも天皇から下賜して頂く前に、自家に伝来する白旗の類いは無かったの? 自前のものは?』・・・という感覚はあったかと。・・・いずれにしても、“当時の徳川家康から後陽成天皇なり朝廷なりへ、何らかの働き掛けが無かったら、このようなパフォーマンスには至らなかった筈ですので、徳川家側の政治力が光っていたから”とも、云えますし、何よりも・・・“この頃既に、徳川家康本人の頭の中には、豊臣政権後の政権構想というものが出来上がっていた”のかも知れません。・・・
      ※ 同年6月15日:「徳川家康」が、“(徳川家)家臣の天野康景(あまのやすかげ)及び佐野綱正(さのつなまさ)”を、“大坂城西の丸の留守居役”に任じる。・・・この日に、「豊臣秀頼」が、「徳川家康」へ、「黄金20,000両」及び「米20,000石」を、「下賜」する。・・・幼少の豊臣秀頼が下賜したのは、結局は会津征伐(=上杉討伐)のための軍資金と兵糧ですね。・・・但し、当時の豊臣政権の規模や蓄財状況などからすれば、“かなり小規模のものであり、道銭(みちせん)程度の下賜物だった”とも想えてしまいますが。
      ※ 同年6月16日:「徳川家康」が、“会津征伐(=上杉討伐)のため”として、「大坂城」を、「出馬」する。・・・・・・・・・・・・とうとう出馬してしまいましたが、いち早く向かった先は・・・
      ※ 同年6月18日:「徳川家康」が、“会津征伐(=上杉討伐)のために率いた軍勢の一部”を残して、「京都・伏見城」を、「出立」する。・・・ここにある「伏見城」とは、現在の京都府京都市伏見区桃山地区。・・・いずれにしても・・・この「伏見城」が、“徳川家康の家来衆によって占拠され始めた”のは・・・少なくとも、この日から同年7月15日に掛けてのこと。
      ※ 同年6月23日:「徳川家康」が、「浜松」に、「宿営」する。・・・「浜松」とは、現在の静岡県西部に位置する浜松市のこと。・・・さすがです、徳川家康。・・・“京都の伏見城を出てからは、東海道周辺に配置され、かつての旧領地の諸城さえ使用せずに、宿営した”とのこと。・・・この日以降も、自身の居城である江戸城まで、一気に通過します。・・・当時の徳川家康に与えられていた小田原城(※別名は小峯城、小峰城、小早川城、小早川館とも、現神奈川県小田原市城内6)でさえ、利用しなかったようです。・・・いずれにしても、“軍勢が移動する際に可能性が懸念される野戦については、徳川家康本人は経験豊富な武将だったため、相当な自信を持っていた”のでしょうね。・・・この当時は、かつての徳川家康の領地だった遠江国や、三河国、駿河国の地域などは、故豊臣秀吉によって召し上げられ、いわゆる豊臣恩顧の武将達へ分領されておりましたので、彼らに対して武威を示しつつ、“結果的にも自ら、或いは自軍に従わせよう”との意図なども分かります。・・・しかし・・・“後陽成天皇から下賜されたという晒布100反”が、この従軍中に実際に利用されたのか? また、その効果の程は? と、個人的には気になってしまいますが。
      ※ 同年6月24日:「徳川家康」が、「島田」に、「宿営」する。・・・「島田」とは、現在の静岡県中部に位置する島田市のこと。
      ※ 同年6月25日:「徳川家康」が、「駿府」に、「宿営」する。・・・「駿府」とは、現在の静岡県静岡市のこと。
      ※ 同年6月26日:「徳川家康」が、「三島」に、「宿営」する。・・・「三島」とは、現在の静岡県東部、伊豆半島の中北端に位置する三島市のこと。
      ※ 同年6月27日:「徳川家康」が、「小田原」に、「宿営」する。・・・「小田原」とは、現在の神奈川県西部に位置する小田原市のことであり、かつては後北条氏の最も重要な軍事拠点とされていた処です。・・・何せ、故豊臣秀吉による「小田原征伐」では・・・諸説ありますが・・・“約20万を超える軍勢からの包囲攻城戦に対して、約3カ月間も持ち堪えた”という「惣構(そうがま)え」を、持っておりましたので。・・・しかし、この時の徳川家康は、この小田原城には入場せず、この翌日には藤沢へ向かっています。・・・
      ※ 同年6月28日:「徳川家康」が、「藤沢」に、「宿営」する。・・・「藤沢」とは、現在の神奈川県南部中央に位置し、相模湾にも接する藤沢市のこと。
      ※ 同年6月29日:「徳川家康」が、「鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう:※現神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目)」を「参拝」して、“諸戦における戦勝”を、「祈願」する。・・・この「鶴岡八幡宮」とは、「鎌倉八幡宮」とも呼ばれますが・・・“言わずもがなの武門家系の源氏や、鎌倉武士などの守護神(≒軍神)”であり・・・かつての源頼朝をはじめとして、何の因果か?・・・この時の徳川家康から討伐対象とされてしまった上杉家先代当主の上杉謙信も、過去にここを参拝するなど・・・とても知名度が高いお社ですので・・・もしかすると、“徳川家康は、後陽成天皇から下賜されたという晒布100反を、ここで用いた”のかも知れません。

      ※ 同年7月2日:「徳川家康」が、“自身の居城としていた江戸城”に、「入城」する。・・・“この日から、徳川家康による、もう一つの戦さ、つまりは文書による自己勢力への参陣や加担についてを全国の諸大名へ促す調略作戦が、本格的に始動された”と考えられますが・・・
      ※ 同年7月5日:“備前や、美作、備中半国、播磨三郡の計57万4千石を領し、また豊臣政権の五大老の一人でもあった宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)”が、「豊国神社(とよくにじんじゃ:※神号を豊国大明神とされた故豊臣秀吉を祀るお社のこと、現京都府京都市東山区大和大路正面茶屋町)」において、“西軍の副大将”として、「出陣式」を行ない・・・これに、“故豊臣秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ:※後の高台院)”が・・・“側近の東殿局(ひがしどののつぼね:※大谷吉継の生母)”を、「代参」させる。
      ※ 同年7月7日:「徳川家康」が、“最上義光や、秋田実季(※安東愛季の次男であり、この当時は出羽国秋田郡など下三郡地方を領するも、この後に常陸国茨城郡へ転封され、常陸宍戸藩主となった人物)ら東北の諸大名”に対して・・・“会津征伐(=上杉討伐)に関する指示”を出し・・・“自身の嫡男だった徳川秀忠(※徳川家康の三男)には、同月19日の出陣とする事と、家康自身については同月21日の出陣にする事”を、伝える。
      ※ 同年7月12日:“増田長盛や、長束正家(なつかまさいえ)、前田玄以(まえだげんい)の豊臣政権三奉行”が、“広島に居た毛利輝元(もうりてるもと)”に向けて・・・“大坂御仕置之儀の為として、毛利輝元の大坂(城)入りを要請する書状”を、送る。・・・また、「増田長盛」は、「徳川家家臣・永井直勝(ながいなおかつ:※後の上野小幡藩主や、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主となる人物)」に対しても、“大谷吉継の眼病と石田三成の出陣に関する雑説についてを知らせる書状”を、送る。
・・・この日の増田長盛の行動については、どう理解したら良いのでしょうか?・・・後の争い事を避ける意図があったのか?・・・単に、徳川家康への告げ口の類いだったのか?・・・微妙なところですね。・・・いずれにしても、永井直勝を経由して、徳川家康は・・・“大谷吉継の眼病や、石田三成の出陣に関する雑説がある事については、聞かされていた”と見るべきかと。・・・ちなみに、ここにある永井直勝の子孫には、作家の永井荷風や、三島由紀夫などあり。
      ※ 同年7月13日:“毛利輝元の家臣だった宍戸元次(ししどもとつぐ)ら”が、“徳川家家臣の榊原康政や、本多正信(ほんだまさのぶ)、永井直勝”に向けて・・・“かつて毛利家外交僧でもあった安国寺恵瓊(あんこくじえけい:※臨済宗の僧、道号は瑶甫、号は一任斎、正慶とも。豊臣政権時においては豊臣秀吉から大名に取り立てられたとするのが通説)が、毛利輝元の命令に従がって東進させていた軍勢を、近江から大坂に戻していることを知らせる書状”を、送る。・・・
      ※ 同年同日:“会津征伐(=上杉討伐)の先鋒部隊(※東軍方〈≒徳川方〉の一部)”が、「江戸」を、「出立」する。・・・
      ※ 同年7月14日:“毛利輝元の重臣だった吉川広家(きっかわひろいえ)”が、“安国寺恵瓊(※臨済宗の僧、道号は瑶甫、号は一任斎、正慶とも。豊臣政権時においては豊臣秀吉から大名に取り立てられたとするのが通説)が、毛利輝元の命令に従がって東進させていた軍勢を、近江から大坂に戻していることを知らせる書状”を、「徳川家家臣・榊原康政」へ、送る。・・・この前日に出されていた宍戸元次らによる書状も、同様の内容でしたが・・・これらの書状の中で、宍戸元次や吉川広家などは・・・安国寺恵瓊の軍勢が、大坂への転進していることについて、石田三成と大谷吉継の関与を疑いながらも、“あくまでも主君の毛利輝元は、これを関知していない事として述べている”のです。・・・このことについては、“徳川家以外ならば、どこの家中でも似通った状況だった”と云えそうですね。・・・ちなみに、前日付けの書状や、ここの書状も同様ですが、当時に上杉家の公式な取次役とされていた榊原康政に向けられていること、そして後者の書状については・・・今でいえば、“ダメ押し的に、重臣の吉川広家から出されていること”にも、注目です。・・・当時の佐竹家中で、このような役割を担っていたのが、佐竹義久という人物だった訳です。・・・
      ※ 同年7月15日:“豊臣政権の三奉行から大坂入りを要請されていた毛利輝元”が、この日、「広島」を「出立」するとともに・・・“当時の徳川家康から肥後国における謹慎を命じられていた加藤清正”に向けて・・・“豊臣秀頼への忠節を示すためとして上洛を促す書状”を、送る。・・・当時の加藤清正が、東軍方(≒徳川方)に与する事態も想定されたため、毛利輝元らによって加藤清正への説得工作が行われた模様でありますが・・・そもそもとして・・・この加藤清正は、かつての石田三成襲撃事件の当事者でもあったため、徳川家康寄りの武将と考えられがちですが、元々は秀吉子飼いの人物だった訳ですし、この時は・・・西暦1599年(慶長4年)に、島津家の重臣だった伊集院氏が主家の島津家に反旗を翻したとされる「庄内の乱」に関して、徳川家康が豊臣政権の五大老として事態収拾を図っていた最中に、加藤清正による重大な背信行為が発覚したため、徳川家康から激怒されることとなり、肥後謹慎の身となっていたのですが・・・当時から「築城名人」とも呼ばれた加藤清正が、自ら築いた居城の熊本城(※別名は銀杏城、現熊本県熊本市中央区)本丸御殿の大広間には、「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれる一番格式が高い部屋があって・・・“そこの壁や襖などには、古代中国漢王朝時代の悲劇のヒロインとされる王昭君(おうしょうくん)の物語が描かれていた”とのこと。・・・この「昭君之間」という呼称自体が、「将軍之間(しょうぐんのま)」の隠語であって、“当時の加藤清正が故豊臣秀吉の遺児である豊臣秀頼を迎え入れるために用意した部屋”との説もありますし・・・“加藤清正とは、まさに表裏一体の人物だった”のではないかと。・・・しかし、この後の加藤清正は、怒りが収まらなかった徳川家康に懇願して、大坂に居た家臣を、会津征伐(=上杉討伐)に出陣する家康の下に派遣していたためだったのか?・・・西軍方(≒石田方)の挙兵を知った徳川家康は、結局のところは・・・その家臣を肥後に帰して、加藤清正の東軍への加勢を認めることになりますが。・・・そして、この加藤清正は、自らの家臣を徳川家康に預けていた期間は、黒田如水(くろだじょすい:※黒田孝高、黒田官兵衛のこと、黒田長政の父)と連絡を取りながら、東軍方(≒徳川方)に協力する約束を交わしており・・・徳川家康の書状を携えた家臣が帰国した同西暦1600年(慶長5年)8月後半からは、黒田軍とともに出陣し、小西行長(こにしゆきなが)の宇土城(うとじょう:※別名は城山とも、現熊本県宇土市神馬町)や、立花宗茂(たちばなむねしげ)の柳川城(※別名は柳河城、舞鶴城とも、現福岡県柳川市本城町)などを開城させたり、調略するなどして、九州の西軍方(≒石田方)勢力を次々に破るなど、大暴れすることとなり・・・戦後の論功行賞では、小西領だった肥後の南半分を与えられて、52万石の大名となるのです。・・・
      ※ 同年同日:「島津義弘(しまづよしひろ:※島津貴久の次男であり、島津義久の弟)」が、“会津の上杉景勝”に向けて・・・“毛利輝元や宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)、豊臣政権の三奉行、小西行長、大谷吉継、石田三成らが豊臣秀頼のために決起した事を伝えて、これに対する同意を求める内容の書状”を、送る。・・・上記にもあるように、「慶長の役」の直後に、「庄内の乱」が起きてしまい、“これが関ヶ原合戦の直前期の大乱だったため、島津家が関ヶ原合戦へ大軍を送れなかった原因となった”とも云われておりますが・・・“後世”の『島津家代々軍記』では・・・ここにある島津義弘が、徳川家康からの援軍要請を受けて約1千の軍勢を率いて、徳川家家臣・鳥居元忠(とりいもとただ)らが籠城する伏見城の援軍に馳せ参じたのにもかかわらず・・・鳥居元忠が、主君の家康から島津義弘へ援軍要請したことを聞いていないとして、鉄砲玉まで撃ち込んで伏見城への入城を拒否したため・・・結果として・・・島津義弘隊が、伏見城を包囲していた西軍方(≒石田方)約4万の軍勢の中に孤立してしまったため・・・“島津義弘が、当初の意志を翻(ひるがえ)して西軍方(≒石田方)に与することにした”・・・などと遺されてはおりますが・・・これは、おそらく後世における潤色でしょう。・・・島津義弘という人物は、「関ヶ原合戦」では、いわゆる「島津の退き口」を行なったという武将ですから・・・きっと、伏見城攻城戦では小勢を以って相手方の懐に飛び込んで、その決着を急いだのでしょう。・・・これよりずっと後世のこととなりますが・・・ここにある島津家や、毛利家に限らず・・・いわゆる幕末の動乱期では、この江戸幕府(=徳川幕府)成立過程時期が、後世で薩摩や長州などで志士と呼ばれる若衆に与えた思想的な影響については、かなり大きなものがあったかと。・・・私(筆者)としては・・・出羽へ転封された佐竹家や、この佐竹家の旧領を与えられた水戸徳川家も、その例外には当たらないのではないか? と考える次第であります。・・・
      ※ 同年同日:“水戸へ戻った佐竹義宣”が、「佐竹家中」に対して、“軍法十一箇条の触れ”を、出す。(※『秋田藩採集文書』より)・・・“この軍法十一箇条の概要について”は、以下の通り。


      「一、喧嘩口論は堅く停止する。違反者は理非を論ぜず両方共成敗(=斬罪)する。傍輩知音(ほうばいちいん:※友人関係や知り合い同士のこと)の好(よしみ:※縁故者のこと)で加担する者は、本人よりも曲事(くせごと:※違法なこと)であるから、厳重に成敗する。もし後日に判明した場合でも、その主人の曲事と見做す。
       一、先手に理(ことわ)りなく武見(ものみ:※物見のこと)として出ることを停止する。
       一、下知(げち:※命令のこと)に背いて、たとえ功名を立てても、軍法に背いた以上、(これを)成敗する。
       一、人数押し(=行軍)のときに傍道(ぼうどう:※道の傍らに居ること)してはならない。みだりに通る者は成敗する。
       一、諸事奉行人の指図を守らない者は成敗する。
       一、味方の地で放火や濫妨狼藉(らんぼうろうぜき:=乱暴狼藉)をする者は成敗する。
       一、陣中で馬を取放すことは曲事とする。
       一、小荷駄押し(=兵糧運送)は軍勢に混入しないように申し付けること。みだりに混入する者は成敗する。一手ずつ集めて、それぞれ奉行を付けること。
       一、諸(もろの)商売や押し買い狼藉を停止する。違反者は見付け次第に成敗する。
       一、他(の)国衆と寄(り)合うことは停止する。もし用所(=用件)があれば、主人へ断ること。陣中の見物は停止する。違反者は見付け次第に成敗する。
       一、諸(もろの)勝負(=勝負事≒賭け事)は堅く停止する。違反者は見付け次第に成敗する。」



      ・・・尚、史料においては確認することが出来ませんが・・・いずれにしても、“上記の軍法十一箇条が発せられた同年7月15日以降に、水戸周辺にあった佐竹勢の先鋒部隊が出陣し、岩城との国境いへ向かっていた”と考えられます。

      ※ 同年7月17日:“安国寺恵瓊(※臨済宗の僧、道号は瑶甫、号は一任斎、正慶とも。豊臣政権時においては豊臣秀吉から大名に取り立てられたとするのが通説)による建議を採用した毛利輝元”が、“輝元の養嗣子・毛利秀元(もうりひでもと:※毛利元就四男の穂井田元清次男であり、毛利輝元の従兄弟)と引き換えに、徳川家康の妻妾の身柄を落ち延びさせる”こととして・・・“徳川家康から、ともに(徳川家康不在の)大坂城西之丸留守居役とされていた天野康景及び佐野綱正”から、「(徳川家康不在の)大坂城西之丸」を「無血接収」する・・・と、この「毛利秀元(※毛利元就四男の穂井田元清次男であり、毛利輝元の従兄弟)」を、その「西之丸」へ、入れる。・・・また、“毛利輝元と宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)の二人”が、“加賀金沢の前田利長”に向けて・・・“徳川家康の非を警鐘した内容の書状”を、この日に送る。・・・これらと、ほぼ同時に・・・“徳川家康に対する事実上の宣戦布告状、且つ、増田長盛や、長束正家、前田玄以ら豊臣政権三奉行が連署した”・・・いわゆる「内府ちかひ(=違い)の条々」が、諸大名へと、発せられる。
・・・ここの前半部分については、相当な長文となってしまうため、本ページでは割愛させて頂くこととし・・・後半部分の「内府ちかひ(=違い)の条々」などを説明致します。・・・この当時の豊臣政権には、五奉行が居た訳ですが、そのうちの三名は、上記の通り。・・・そして、その五奉行の一人であり、西軍の中心人物とされる石田三成は・・・この日以前には、近江国坂田郡の佐和山にあった佐和山城(現滋賀県彦根市佐和山町の佐和山山頂付近)にて、表向き謹慎処分という状況にありましたが・・・“この日以降については、お忍び的に大坂城へ入城し、大谷吉継や毛利輝元らの兵を糾合し挙兵した”とされます。・・・また、五奉行のうち残りの一人は、浅野長政(あさのながまさ)でした・・・が、“この頃既に徳川家康の派閥に取り込まれているといった状況”です。・・・この浅野長政は、更に・・・かつて佐竹家の与力大名とされ、佐竹義宣の従兄弟でもあった宇都宮国綱(うつのみやくにつな:※宇都宮広綱の嫡男)の改易を主導した人物でもありますので・・・浅野長政という人物は、“豊臣秀吉が死去する以前から、徳川家康とのパイプを独自に持っていたこと”を窺い知ることが出来ます。・・・いずれにしても、豊臣政権のいわゆる五奉行のうちの三奉行の連署で以って、徳川家康が会津征伐(=上杉討伐)と称して上方を離れた隙に・・・“石田三成が、他の三奉行を仕切る格好で以って、この「内府ちかひ(=違い)の条々」を書かせた”とされております。・・・この時の弾劾状(13カ条)の内容は、概ね以下の通り。・・・これについても、私(筆者)による現代語訳を、原文の下に「・・・《現代語訳》」と、適宜付け加えることに致します。但し、いつものように参考資料程度にお考え下さるようお願い致します。


      [・・・いわゆる「内府ちかひ(=違い)の条々」・・・または、「家康違いの条々」とも呼ばれる弾劾状の一部にある13カ条+α(アルファ)・・・]

      「一、五人の□奉行(※大老や老衆のこと)、五人之年寄(※奉行のこと)共、上巻誓紙連判候て無幾程、年寄共之内、弐人被追籠(おいこめ)候事

      ・・・《現代語訳》一、五人の大老(=老衆)や五人の奉行(=年寄)らが、ともに上巻の誓紙連判を取り交わしてより、このかた幾ばくも経ずに、奉行(=年寄)の内の二人(※石田三成と浅野長政のこと)についてを、(内府こと徳川家康が)閉じ籠めたり謹慎させた事。・・・

       一、五人之奉行衆内羽柴肥前守(※前田利家のこと)事、遮而(さいぎる)誓紙を被遺候て、身上既可被果候処ニ、先景勝(※上杉景勝のこと)為可討果、人質を取、追籠候事
      ・・・《現代語訳》一、五人の大老衆のうち前田利家の事では、まさに(前田利家の)身が果てようとする直前に、(前田利家から、内府こと徳川家康への)誓紙を遺(のこ)されているにもかかわらず、(内府こと徳川家康は)これを遮(さえぎ)り、まず上杉景勝を討ち果たす為として、(前田家から)人質を取って、(この前田利長の母親を)閉じ籠めた事。・・・・・・

       一、景勝なに(=何)のとか(=とが、咎)も無之ニ、誓紙之筈をちか(=違)え、又ハ太閤(※豊臣秀吉のこと)様被背御置目、今度可被討果儀歎ケ敷存、種々様々其理申候へ共、終無許可被出馬候事
      ・・・《現代語訳》一、上杉景勝には何らの咎も無く、(内府こと徳川家康が、上巻の)誓紙内容にも背(そむ)いて、または太閤様のご遺命にも背いた行為である上、(内府こと徳川家康は)種々様々に、それを諭(さと)されいるのにもかかわらず、(内府こと徳川家康が、豊臣家による)許可も無く(上杉討伐へ)出馬して終(しま)い、今度は(内府こと徳川家康により、上杉家が)まさに討ち果たされんとし、誠に歎(なげ)かわしき事態となっている事。・・・・・・・・・

       一、知行方(ちぎょうがた)之儀、自分二被召置候事ハ不及申、取次をも有るましく由是又上巻誓紙之筈をちか(=違)へ、忠節も無之者共ニ被出置候事
      ・・・《現代語訳》一、知行方の事では、自分に(対して諸大名などから、知行を)召し置くことは申すに及ばず、(他の知行の)取次ぎをも関与してはならないと、上巻にて誓い合った筈であるにもかかわらず、(内府こと徳川家康は)これを違(たが)えて、忠節も無き者どもに(対して、自分本位で)知行を与えている事。・・・・・・・・・・・・

       一、伏見之城、太閤様被仰出候留主居共を被追出、私ニ人数被入置候事
      ・・・《現代語訳》一、伏見之城においては、太閤様により仰せ付けられていた、その留守居役の者らまで、(内府こと徳川家康が)追い出して、私(わたくし:=徳川家康)のみの人数を(伏見城に)入れて占拠した事。・・・尚、この頃の伏見城を、徳川家康の家来衆によってのみ占拠して、この直後の「伏見城の戦い」に参戦したのは、後世で「三河武士の鑑(かがみ)」と称される鳥居元忠や、同西暦1600年(慶長5年)7月17日まで大坂城西の丸・留守居役とされていた佐野綱正・・・この他には、内藤家長(ないとういえなが)や、松平家忠(まつだいらいえただ)、松平近正(まつだいらちかまさ)、安藤定次(あんどうさだつぐ)などがあり。

       一、拾人(じゅうにん:※五大老及び五奉行のこと)之外、誓紙取やりあるましき由上巻誓紙ニ載せられ、数多取やり候事
      ・・・《現代語訳》一、五大老及び五奉行の外(ほか)における誓紙の遣り取りは、上巻の誓紙に載せられており、これを禁じられているにもかかわらず、(内府こと徳川家康は、自分本位で、これらを)数多く取り交わしている事。・・・

       一、政所(※故豊臣秀吉の正室だった北政所のこと、後の高台院のこと)様御座所ニ居住之事
      ・・・《現代語訳》一、北政所の御座所である大坂城西の丸に、(内府こと徳川家康が、北政所を追い出す格好で)自ら居住した事。・・・・・・

       一、御本丸のこと(=如)く殿守(でんしゅ:※天守のこと)を被上候事
      ・・・《現代語訳》一、御本丸の如くに、(内府こと徳川家康が、乗っ取った)大坂城西の丸へ、天守を築き上げた事。・・・・・・・・・

       一、諸侍(もろざむらい:※諸将のこと)の妻子、ひいきひいきニ候て、国元へ被返候事
      ・・・《現代語訳》一、(内府こと徳川家康により)諸将の妻子が、(内府こと徳川家康の)贔屓(ひいき)ひいきとされて、(大坂城及び、その城下などから、それぞれの)国許へ帰されている事。・・・・・・・・・・・・

       一、縁篇(えんぺん:※縁組みを纏めること)之事、被背御法度(ごはっと)ニ付て、各其理申、合点候て、重而縁辺不知其数候事
      ・・・《現代語訳》一、縁組み成立の事では、(内府こと徳川家康は)御法度にも背かれたため、その都度各々(おのおの)から諭され、(それらにより、内府こと徳川家康が)合点したにもかかわらず、(内府こと徳川家康は)重ねて縁組みを行ない、その数は知れずという実態である事。・・・・・・・・・・・・・・・

       一、若き衆ニ、ろくろ(※焼物を作るための回転台のこと)をか(≒買≒飼)い、徒党を立させられ候事
      ・・・《現代語訳》一、(内府こと徳川家康が)若い衆(・・・※少なくとも、この「内府ちかひ(=違い)の条々」、または「家康違いの条々」を発した増田長盛や、長束正家、前田玄以らの念頭には、前ページにもある・・・加藤清正や、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、池田照政(※後に輝政と改名)ら七将、或いは加藤清正や、福島正則、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、蜂須賀家政、藤堂高虎ら七名・・・の、かつての石田三成襲撃事件の関係者のことがあった模様です。・・・)に、轆轤(ろくろ)を買ってやることで(≒轆轤のような者達を飼うことによって)、(また、それらを回転させるように、若い衆を)扇動して、徒党を組ませた事。

       一、御奉行五人一行ニ、一人として判形之事
      ・・・《現代語訳》一、五大老が連署すべき書類に、(内府こと徳川家康が)一人で以って署名押印している事。・・・

       一、内縁之馳走(ちそう)を以、八幡(はちまん)之検地被免候事
      ・・・《現代語訳》一、内縁の者に(対して)は馳走を以って(結果として有利なように)、(内府こと徳川家康が)八幡の検地を免除した事。・・・ここにある「八幡」とは、現在の京都府八幡市八幡高坊にある石清水八幡宮のことであり・・・そこでは、“西暦1584年(天正12年)から故豊臣秀吉よって、最初となる八幡宮領の検地を行なった”とのこと。・・・少なくとも、当時の豊臣政権下の増田長盛や、長束正家、前田玄以らにとっては、“かつての豊臣秀吉によって確定されていた沙汰(≒行政権)をも蔑(ないがし)ろとする行為である”と捉えられた訳です。

       右、誓紙之筈ハ少も不被相立太閤様被背御置目候ヘハ、何を以たの(=頼)ミ可在之候哉。如此一人宛、被果候て之上秀頼(※豊臣秀頼のこと)様御一人被取立候はん事まことしからす候也。」
      ・・・《現代語訳》一、右(=上記)のように、(内府こと徳川家康は)太閤様の遺命に背いて、誓紙の内容に(対して)も少しも従おうとはせず、何を以って(政〈まつりごと〉の)頼みとし、また、いったい(内府こと徳川家康本人は)どのように在(あ)ろうとしているのか。この(我らの)上には、ただ豊臣秀頼様お一人を主(あるじ)として戴いており、(我らとしては、各自の)覚悟を以って成果(≒戦果)とし、(その結果として)取り立てられるという事こそが、(天下に対する忠)誠と云うべきと心得る。」


      ・・・上記の「内府ちかひ(=違い)の条々」、または「家康違いの条々」とも呼ばれる弾劾状によれば、計13カ条で以って・・・増田長盛や、長束正家、前田玄以ら豊臣政権三奉行は、“当時の徳川家康による身勝手な行動などを咎めた上”で、最後に・・・“当時、故豊臣秀吉の遺児だった秀頼を、御輿(みこし)に担ぎ出して、各地にあった諸大名へ向けて、この弾劾状を送って、自己勢力への諸大名参集に勤めていたこと”が分かります・・・が、そもそもとして、いわゆる西軍の総大将とされる毛利輝元の名が、この弾劾状の13カ条の中には、どこにも見当たらないのです。1条目には・・・「上巻誓紙連判候て」・・・とありますので、この「上巻の誓紙」には、毛利輝元の名があったのでしょうが。・・・これでは、この弾劾状を受け取ることになる諸大名へ与えるインパクトなどは、多少欠ける書簡となってしまったのではないでしょうか?・・・何せ・・・これから、かつてない程の大戦(おおいく)さが始められるという矢先に、片(かた)や総大将とされる人物の署名や押印(※もちろん花押のこと)が無い書簡を届けられても・・・という具合いです。きっと。・・・もしかすると、この弾劾状などに、不足や不備などが無かったら、後の「関ヶ原合戦」などの諸戦における趨勢(すうせい)や、それらの結果についてが、大きく変わっていたのかも知れません。・・・いずれにしても、上記の弾劾状が発せられた目的は、「会津征伐(=上杉討伐)」が豊臣政権による公戦ではなく、“徳川家康による私戦である”ということを示すと同時に、“徳川家康を政権中枢から排除すること”にあり、そして・・・今回、内府こと徳川家康が起こした「会津征伐(=上杉討伐)」については・・・“数々の誓約に違背し、今は亡き太閤様のご遺命にも背き、その遺児である豊臣秀頼様を、大坂城に置いたまま出馬して蔑(ないがし)ろとしたのであるから、豊臣政権三奉行の我々としては、しかるべき合議による結果として、武力を以ってしても、内府こと徳川家康を制裁することにしたため、これに同意する諸大名や諸将は、秀頼様に忠節を尽くして、しかるべき処へ馳せ参じるべきである”・・・というニュアンスが、多分に含まれているかと。・・・そして、このように・・・当時の諸大名や諸将達が懐いていた感覚としても・・・あくまでも、徳川家 Vs 上杉家 という対立軸の私戦であるとの認識が強かった様子であり、現実としても私戦とされましたが。
      ・・・このことは、そもそもとして・・・故豊臣秀吉が遺した法令とされる「惣無事令(そうぶじれい:※豊臣秀吉が大名間の私戦や私闘を禁じたものであり、秀吉が関白という立場を明確に示す格好で以って、あくまでも天皇の命令〈=勅定〉により私戦や私闘を禁止を指令し、結果として天下を静謐にするという立場を掲げたもの)」が、ほぼ定着していたことから来る矛盾点でもあった訳です。・・・ちなみに、この「惣無事令」は、“西暦1585年(天正13年)10月に九州地方へ、西暦1587年(天正15年)12月には関東及び奥羽地方へ向けて制定された”とされます。・・・したがって、当時の諸大名からすれば、この時の「会津征伐(=上杉討伐)」は、“まさしく私戦としか云いようが無い戦さ”となる訳ですが・・・このような事態についてを本来的に収拾しなければならない役目があった関白・豊臣秀次は、既にこの世には無く・・・また、“豊臣秀吉の遺児だった秀頼が成人(※元服のこと)するまでは、新たな関白を置かないという秀吉の遺命があったため”・・・結局のところ、関白不在の空白期にあったのです。・・・
      ・・・そんな雰囲気が漂っている最中に、上記の弾劾状によって・・・後の西軍方(≒石田方)から参集を促されたり・・・後の東軍方(≒徳川方)総大将たる徳川家康や、この家康から扇動されていたり、豊臣政権の能吏達に対する私怨などによって積極的に東軍方(≒徳川方)として働こうとした諸将ら以外の・・・例えば、戦さの現場で以って、徳川家康から鉄砲玉を自陣目掛けて撃ち込まれたなどと、後世で云われる〇〇〇〇や・・・戦によって被害を受ける人々の心境を察するに・・・一言で云えば、たまったもんじゃ無かったかと。・・・
      ・・・それでも・・・かつての戦さでは、〇〇〇に対する討伐令とか、〇〇王による〇〇〇に対する討伐の令旨(りんじ)、錦の御旗・・・などが、あらかじめ日本各地を飛び交っていたとされますので・・・かつての事情と比較すれば・・・豊臣秀吉が、この「惣無事令」を発令した後の方が、“はるかに、戦さそのものを起こし難(にく)い環境にされていたことは、確実だった”と云えるかも知れません。・・・但し、当時の誓約を数々背きながらも、「会津征伐(=上杉討伐)」へ向かう徳川家康にしても・・・“これを受けて立つ構えだった”とされる上杉景勝などにしても・・・どちらも、戦さ自体を始める大義についてを無視出来ない環境下であり・・・特に上杉家は、そもそもとして東国武士の気風が色濃く、また先代の謙信による影響があって、「義」という精神を第一としておりましたので・・・当時の徳川家康にすれば・・・上杉家は、理屈ばかりを並び立てて、自分にいつまでも従わない面倒な相手であり、何が何でも潰しておきたい、「義」などについては、後付けでも構わない・・・という一種の焦りのようなものが、感じ取れる訳です。・・・
      ・・・尚、上記の「内府ちかひ(=違い)の条々」、または「家康違いの条々」とも呼ばれる弾劾状による効果については・・・本ページ以下でも、ふれますが・・・大義名分を失なうこととなった上杉征伐軍は、徳川家康が直接率いる軍勢(=いわゆる東軍の主力)以外が、瓦解してしまいます。・・・そして、結局は東軍に与することになった秋田実季による覚え書きなどによれば・・・上杉家執政の直江兼続が、最上領内に集まっていた東北大名達で構成する討伐軍に対して、この弾劾状を添えた書状を、バラ撒いて、混乱させたようです。・・・すると、このバラ撒き作戦によって、勝手に帰国する東北大名達が相次いで、遂には大将とされていた最上義光までもが、豊臣秀頼への臣従を誓うことになります。・・・そして、“旧領主の上杉家の謀(はかりごと)による一揆に悩まされていた”という越後の大名達も、大坂や会津へ使者を送り、豊臣秀頼や上杉家に対する敵意が無いことを示します。・・・更には、かの伊達政宗も・・・徳川家康が西上してしまうと、討伐対象だった筈の上杉家と和睦してしまうのです。・・・これらのことから・・・もしも、上方の情勢が、西軍有利という状況のままであれば・・・彼ら東北・越後地方の諸大名は、“そのまま反徳川家康側に与していた可能性が高かった”と考えられます。・・・また・・・後の西軍は、豊臣秀頼の御為(おんため)と強調し公儀(こうぎ)と称しながら、大名の改易や移封までも実施しますが・・・いわゆる東軍は、それが出来る状況にはありませんでした。・・・当時の貴族の日記にも・・・「秀頼様方と内府方の戦い」・・・と記されるなど、“徳川家康が豊臣政権から外された”との認識が出現しておりましたので。・・・ちなみに、貴族の日記に・・・「秀頼様」・・・とあるのは、当時の公家社会においては、故豊臣秀吉が近衛前久(このえさきひさ)の猶子(ゆうし)となって関白に就任していたため、“その遺児である豊臣秀頼が当然に関白に就任する継承者と認識されていたから”に他なりません・・・が、それでも・・・いわゆる上杉征伐軍を編成した後に、東軍の主力が保持する強大な軍事力を、ほぼ維持することが出来た徳川家康は・・・福島正則などの本来的には豊臣恩顧とする武将達が、岐阜城を落とすことで以って、戦局の勢いを掴み取り、大逆転的な勝利を収めることになりますが。・・・
      ・・・「関ヶ原合戦」などにおける戦後処理に対して、この「内府ちかひ(=違い)の条々」が与えた影響については・・・当時の豊臣秀頼が、西軍へ加担する格好とされたために・・・能吏達・・・つまりは、貴族的で優秀な官僚達には恵まれていたものの・・・一方では・・・いわゆる戦さ上手で武張っていた者達の多くを、徳川家康に包み込まれてしまったことで・・・結果的には、軍事力で劣った豊臣秀頼が、かなり不利な条件によって、後の徳川家康と和睦せざるを得なくなったということでしょうか?・・・これについても、この「関ヶ原合戦」に限れば・・・“表向きには、豊臣政権内の逆賊として、石田三成を討ったということになる”のでしょうが・・・いずれにしても・・・そもそもとしては、この弾劾状が・・・西軍の総大将とされた毛利輝元や・・・時の淀殿(よどどの:※豊臣秀吉の側室、秀頼の生母、北近江の戦国大名だった浅井長政の娘)、そして・・・この弾劾状が発せられた時には、“僅か8歳だった”とはされますが、御輿に担がれた当の豊臣秀頼・・・などから、“何らの了承も無く、この弾劾状が発せられたとは考え難い”とは想います。・・・


      ※ 同西暦1600年(慶長5年)7月17日の事として:“それまで謹慎中だった石田三成”が、「佐和山城」を出て、「大坂城」に入る・・・と、“会津征伐(=上杉討伐)に従軍した諸大名の妻子らを、人質に取るという作戦”を、「発動」するも(・・・※但し、この時の人質要求作戦の主体が、石田三成だったのか? いわゆる豊臣政権の三奉行だったのか? 単に石田三成が豊臣政権三奉行を主導して実施された事だったのか? については諸説あり。・・・)、“加藤清正や黒田長政(※黒田孝高〈官兵衛・如水〉の嫡男)の妻子について”は、その「逃亡」を、許し・・・“細川忠興の正室だった細川ガラシャ(※明智珠、明智玉とも、明智光秀の三女)にも、人質に取られまいと抵抗する細川ガラシャによって、自邸へ火を掛けられる”ことになって、結果的に死なれてしまう(・・・※この時、“細川家家臣だった小笠原秀清(おがさわらひできよ)が、当時の「奉行衆」からの人質要求を拒否して、細川ガラシャらとともに、大坂の忠興邸で自刃した”とされているように・・・この時期の一次史料にて「奉行衆」と記されるのは、豊臣三奉行のことになりますが・・・“後世の西暦1648年(正保5年)成立した”とされる『霜女覚書〈しもじょおぼえがき〉』等の二次史料では、この人質要求作戦の主体を、石田三成としているのです。・・・ちなみに、「霜女」とは、細川ガラシャの侍女の名です。・・・いずれにしても、細川ガラシャが自害だったのか? 自害ではなかったのか? についても諸説あり。・・・)など・・・“石田三成による一連の(東軍方〈(≒徳川方)〉諸大名らの)人質獲得作戦が、失敗に終わった”とされる。・・・“この時の細川ガラシャの死の壮絶さに、当時の石田三成などが驚いて、大坂城天守に諸大名の妻子らを集めるという処置を、それ以上に拡大することは無かった”と云います。・・・そして、この時の細川ガラシャ(※明智珠、明智玉とも、明智光秀の三女)は、“関ヶ原合戦における第一の犠牲者だった”と云うことが出来るのかも知れません。・・・尚、“およそ10万の兵力を集めた”という西軍ですが、その内情についてを云えば、必ずしも一枚岩といった状態ではなく・・・吉川広家や、鍋島直茂(なべしまなおしげ)などのように、“早くも東軍への内応を画策する諸大名や諸将も居たとされます”。・・・
      ※ 同年7月17日頃:“会津征伐(=上杉討伐)を称して、江戸城に居た徳川家康の元”へ、“石田三成らが家康打倒の謀議を行なっているという内容の書状”が、“豊臣政権・奉行の増田長盛”から届き・・・また、“豊臣秀頼の生母・淀殿”から、“この時の石田三成や、大谷吉継の動きについてを、鎮圧するようにとの要請”が、届けられる。・・・?!?・・・何と、“西軍首脳の一人”とされ、「内府ちかひ(=違い)の条々」では、“他の二奉行とともに連署をしていた増田長盛が、この書状の差出人だった”と。・・・しかも、“この日から、連続的に、増田長盛から徳川家康へ、書状が届いていた”とのこと。・・・いずれにしても、“これらの書状が送られた時点の増田長盛としては、西軍方(≒石田方)へは完全には与しておらず”との言い訳的なことだったと考えられ・・・幼少の豊臣秀頼を、西軍方(≒石田方)の神輿に担がれていた格好の淀殿としても、“単に、石田三成や大谷吉継により政治利用されているだけのこととして、ボヤ騒ぎの類いと処理したかった風ではあります”が。・・・そもそもとして、内府こと徳川家康が、「会津征伐(=上杉討伐)」を称して、自らが出馬することを明らかにした後のことであり・・・この時の戦さの大義名分については・・・討伐対象とされた上杉家、または徳川家康が率いる東軍方(≒徳川方)にあるのか? ⇒ 或いは、徳川家康が大坂を留守にした後に挙兵した西軍方(≒石田方)に、大義名分があるのか?・・・という情勢に変化しており・・・これらの書状を、この日以降に受け取った徳川家康としては・・・これらの連絡や要請についてを、いちいち聞いている暇など無く・・・“全国各地の諸大名達の動静を掴み、それらに対応する手段を矢継ぎ早(やつぎばや)に繰り出す他無いという状況だった”とは考えられますが・・・もはや、後の「関ヶ原合戦」の戦後処理における参考事項に成り得るだけだったかと。
      ※ 同年7月18日:「石田三成」が、「豊国神社(※神号を豊国大明神とされた故豊臣秀吉を祀るお社)」に、「参詣」する。・・・この時、石田三成の胸に去来したものは・・・きっと、戦勝祈願ということよりも、“どうしても大戦さが避けられない状況になってしまった”という、故豊臣秀吉への報告という色合いが濃かったのではないでしょうか?・・・あくまでも、私(筆者)個人の感想ですが。
      ※ 同年同日:“伏見城留守居役とされていた木下勝俊(きのしたかつとし:※故豊臣秀吉から伏見城を預かっていた城将の一人、歌人としても高名であり、故豊臣秀吉の正室だった北政所の甥)”が、“徳川家康の家臣であり伏見城に居座る鳥居元忠など”に対して・・・“西軍の総大将とされた毛利輝元の名”を以って、「退去勧告」する・・・も、“鳥居元忠らは、断固拒否の姿勢”を、貫く。・・・鳥居元忠らは、頑として伏見城を退去しようとはしなかった訳です・・・が・・・それだけ、“故豊臣秀吉が政庁として使用していた伏見城という拠点を押さえることが、東軍方(≒徳川方)の第一優先事項だったこと”が分かります。
      ※ 同年同日:“当初は、西軍方(≒石田方)に属した稲葉通孝(いなばみちたか:※郡上八幡城〈現岐阜県郡上市八幡町柳町〉主だった稲葉貞通の三男)”が、“関東の陣沙汰が延期になった”として・・・“国許の郡上八幡”へと、引き返す。・・・?!?・・・西軍方(≒石田方)優勢と観る、或いは東軍方(≒徳川方)優勢と観た父・稲葉貞通(いなばさだみち)から、何らかの連絡があったのでしょうか?・・・いずれにしても・・・当時の中小勢力は、このような時期から既に、自己勢力の今後に関する態度についてを、西軍方(≒石田方)と東軍方(≒徳川方)双方から迫られた模様です。・・・結局のところ・・・“東軍方(≒徳川方)に与する格好となった稲葉家”は、「関ヶ原合戦」の後の論功行賞において、“この時の行動が評価され、豊後国臼杵(現大分県臼杵市)への加増転封とされます”・・・が、西暦1607年(慶長12年)、伏見において稲葉通孝が死去する・・・と、通孝の長男・通照(みちてる)の存在についてを、通孝の生前中に時の江戸幕府(=徳川幕府)へ届け出ていなかったために、無嗣改易処分となり・・・その所領については、長兄の稲葉典通(いなばのりみち)へ還付されてしまいました。・・・しかし、西暦1614年(寛永元年)には、稲葉通孝の長男・通照が江戸幕府(=徳川幕府)に召し出された後に・・・いわゆる幕府旗本(ばくふはたもと)に取り立てられて・・・“紆余曲折ありながらも、明治維新を迎えた”とのこと。・・・
      ※ 同年7月19日:「毛利輝元」が、「大坂城」に「入城」し、「西軍総大将」に「就任」する。・・・そして、“西軍方(≒石田方)の小野木重勝(おのぎしげかつ:※当時の丹波福知山城〈現京都府福知山市字内記内記一丁目周辺〉主)を、丹後方面の総大将とし、丹波や但馬の諸大名を中心とする軍勢約1万5千ととも”に、「出陣」させる・・・と、“東軍方(≒徳川方)の丹後田辺城(※別名は舞鶴城〈ぶがくじょう〉とも、現京都府舞鶴市の舞鶴公園)”において、「攻城戦」が、始められる。(=田辺城の戦い)・・・当時の毛利輝元が大坂城へ入城したことによって、主に中国地方や、四国地方、九州地方の諸大名が、いわゆる西軍方(≒石田方)に従がうこととなり・・・“少なくとも、およそ18万以上の兵力を形勢した”と云われます。・・・


      ・・・ちなみに、同年8月5日付の真田昌幸他二名宛石田三成書状中の「備えの人数書(そなえのにんずうがき)」には・・・西軍方(≒石田方)の総大将とされた毛利輝元は・・・「伊勢口 一 四万千五百人、安芸中納言殿。」・・・と、伊勢口を担当する武将の一人に数えられており、これに加え・・・毛利輝元の長男であって、当時は幼少のために豊臣秀頼の近侍とされていた「藤七(とうしち)殿」、或いは「藤七郎(とうしちろう)」などと呼ばれた、後の毛利秀就(もうりひでなり:※後の長州藩初代藩主)については・・・「右のうち一万人息(子の)藤七殿付けこれあり。」・・・と、つまりは・・・「毛利輝元勢が三万千五百人、藤七殿こと毛利秀就勢が一万人。」・・・としており、更に西軍方(≒石田方)の全体像については・・・「伊勢口、城加番衆、美濃口、北国口、勢田橋東番衆、大坂御留守居、御小姓衆、御弓鉄砲衆、前備後備、(毛利)輝元衆、徳善院こと前田玄以衆、増田右衛門尉こと増田長盛衆、この他に伊賀在番衆」を・・・「都合 十八万四千九百七十人なり。」・・・としています。・・・当時の石田三成による目算となりますので、あくまでも人数等については諸説ありますが。

      ・・・尚、丹後方面に当時あったのは、細川家。・・・ということは、当時の細川家は、“当然に東軍方(≒徳川方)であると、西軍方(≒石田方)から認識されていた訳”です。・・・西軍方(≒石田方)からすれば・・・事の経緯(いきさつ)は、どうあれ・・・この二日前に、細川ガラシャ(※明智珠、明智玉とも、明智光秀の三女)などを死なせてしまいましたので。・・・そのため、“細川家には西軍方(≒石田方)に対する遺恨があって当然”とでも考えたのでしょうが・・・この時、丹後田辺城(※別名は舞鶴城とも)にあったのは・・・当時の細川忠興が、ほとんどの丹後兵を連れて、「会津征伐(=上杉討伐)」へ出兵していたため・・・“忠興実弟の細川幸隆(ほそかわゆきたか)や、父の幽斎(ゆうさい)、従兄弟の三淵光行(みつぶちみつゆき)らが率いる兵が約5百のみ”であって・・・“西軍方(≒石田方)による約1万5千の軍勢を以ってすれば、容易に攻略出来る”と考えていたのでしょう。・・・しかし、西軍方(≒石田方)の中には、当代一の文化教養人とされていた幽斎を、歌道の師などとして仰いでいた諸将も少なくなく・・・この「田辺城の戦い」は、“結果としても、積極性を欠くものだった”とされ・・・そして、“当時の幽斎は、歌人や古典学者として知られる三条西実枝(さんじょうにしさねき:※公家)から歌道の奥義を伝える古今伝授(こきんでんじゅ)を相伝されていたため、幽斎の弟子の一人だった八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)や、その兄の後陽成天皇も、幽斎が討死する事や古今伝授の断絶を現実に恐れていた”と云われ・・・この日から始められたという「田辺城の戦い」の最中に、“八条宮智仁親王が幽斎へ使者を遣わして、田辺城の開城を勧めるも、幽斎は「古今集証明状(こきんしゅうしょうめいじょう)」を、八条宮智仁親王へと贈り、『源氏抄(げんじしょう)』及び『二十一代和歌集(にじゅういちだいわかしゅう)』を朝廷へ献上しつつ、これを謝絶し、自らの討死の覚悟を伝えて、籠城戦を継続する”ことになりますが・・・後に、攻め手の軍勢が続々と押し寄せて、約1万5千の規模にまで膨れ上がるとすれば・・・これに対する兵約5百では、彼我の兵力差は歴然としています。・・・しかも、“当分の間は、東軍方(≒徳川方)から自軍への援軍も期待出来なかった筈であり、心理的にも徐々に追い込まれる”ことになって・・・“同年7月末頃には、落城寸前の状況だった”と云われます。・・・しかしながら、“関ヶ原合戦以前の前哨戦とも云える、この初戦において、当時の幽斎らに西軍方(≒石田方)には断固として与しないとの姿勢を貫かれたこと”は、西軍方(≒石田方)にしてみれば・・・“作戦の遂行上も、政治的な意味合いにおいても、事後における大きな影響を齎(もたら)したよう”であります。・・・そして・・・“まるで、かつての「山崎の戦い(※西暦1582年〈天正10年〉6月13日のこと)」の直前時期における細川藤孝(ほそかわふじたか:※後の細川幽斎のこと)及び忠興親子が、細川ガラシャ(※明智珠、明智玉とも、明智光秀の三女)を介して縁戚関係にありながら、当時の父・細川藤孝が剃髪し、明智光秀と豊臣秀吉との間で以って中立的な方針を表明することにより、婉曲的に明智勢への加担を拒んだ”という局面と、さほど変わらない状況だったかと。・・・いずれにしても、このような局面では・・・中世以来の武家社会や、これを受継ぐ武門家系の人々は、“自らの家名や氏族名を、次代や子孫達へ受け継がせる”という責任意識が、極めて強く・・・“当時の細川家だけが、情(なさ)けが深くなかった”という訳ではありません。・・・むしろ、かつての松永久秀(まつながひさひで)や、織田信長、それに豊臣秀吉などは、“新しい秩序を構築しよう”と・・・“時には、これらを無視し、時には利用し尽くす”といった方針によって、世の中に関わっていた訳ですので。・・・“当時の細川家が、このような極めて難しい局面に立たされるという環境下に偶々(たまたま)あったということであり、この細川氏そのものも室町幕府(=足利幕府)の旧幕臣の家系であって、それらの伝統的な意識を受け継いでいただけ”なのです。・・・そして、このことは・・・後に「外様(とざま)」と呼ばれる諸大名達に共通する事柄であり・・・特に、関東以北にあった諸大名には、色濃く受け継がれておりました。・・・「会津征伐(=上杉討伐)」と称されて、その討伐対象とされた上杉氏も然(しか)り。・・・常陸佐竹氏も然り。この一門衆に復帰していた美濃佐竹(長山)氏も然り。・・・当時の東軍方(≒徳川方)にあった伊達氏や、最上氏、秋田氏なども然り。・・・主家が滅亡して、徳川家に吸収された武田氏なども然り。・・・そして、この武田氏の概ねを吸収するなどしてから、関東へ転封された徳川氏も然り。・・・etc。


      ※ 同西暦1600年(慶長5年)7月19日:「徳川家康」が、“自身の三男であり嫡男とされる徳川秀忠を総大将とする軍勢”を、「江戸城」から「会津」に向けて、「派遣」する。・・・徳川家康による、当初の計画通りの徳川秀忠出陣でした。
      ※ 同年同日:いわゆる「東軍方(≒徳川方)」と、「西軍方(≒石田方)」との間において、「伏見城の戦い」が、本格的に「開始」される。・・・同年8月10日付の石田三成から佐竹義宣宛の書状によれば・・・“東軍方(≒徳川方)が守る伏見城側の兵力は、城兵の1千8百人に、大坂城西の丸から移動して来た5百人が合流して、計2千3百人だった”とか。
      ※ 同年7月21日:「徳川家康」が、“会津征伐(=上杉討伐)のためとして、当初の予定通り”に、「江戸城」を、発つ。・・・“この時点では、会津征伐(=上杉討伐)そのものが、表面上は中止されていないこと”が分かりますが・・・。・・・そもそもとして・・・徳川秀忠と徳川家康の予定通りの出陣自体が・・・“東軍方(≒徳川方)と西軍方(≒石田方)を色分けするための、云わば炙(あぶ)り出し作戦の一部だった可能性もある”かと。
      ※ 同年同日:「細川忠興」が、“自身の重臣であり、豊後杵築城(ぶんごきつきじょう:※現大分県杵築市杵築)に居た松井康之(まついやすゆき)など”へ宛てて・・・“毛利輝元や石田三成が決起したことを伝える書状”を、この日に送る。・・・?・・・
      ※ 同年同日:“水戸に居た佐竹義宣”が、「石那坂(いしなざか:※石名坂とも、現茨城県日立市石名坂町)」を越えて、この日、> “常陸国多賀郡にて陣を構える”・・・と、“佐竹勢全軍の集結を図りながらも、情勢についての偵察”を、行なう。・・・この時の佐竹義宣の行動については、“当然に徳川家康の江戸城出立に同期した軍事作戦の一環だった”と考えられます。
      ※ 同年同日:“徳川家康により信夫口を任されていた伊達政宗”が、この日に、「北目城(きためじょう:※現宮城県仙台市太白区郡山)」を、「出陣」する。
      ※ 同年7月22日:「宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)」が、“この三日前から、西軍方(≒石田方)が攻める「伏見城の戦い」に、その総大将として”、「参陣」する。
      ※ 同年同日頃:“徳川家康によって討伐対象とされた上杉家”が、“神指城(こうざしじょう)の築城や、諸城の補強工事を急ぎ、また会津領内にて牢人(※浪人のこと)を雇うなどして、攻め寄せる討伐軍への迎撃体制を着々と整える”・・・と、“上杉景勝自ら”も、「若松城(※別名は会津若松城、会津城、黒川城、鶴ヶ城とも、現福島県会津若松市追手町)」を、発ち・・・この日、「長沼城(ながぬまじょう:※現福島県須賀川市長沼)」に、「着陣」する。
      ※ 同年7月23日:“西軍方(≒石田方)が攻める「伏見城の戦い」”に、“小早川秀秋(こばやかわひであき:※故豊臣秀吉の正室だった北政所の甥)の軍勢”が、「参戦」する。
・・・尚、上記の同年7月15日の記述にある島津義弘と同様に・・・“ここにある小早川秀秋(※故豊臣秀吉の正室だった北政所の甥)も、当初は徳川家康へ味方するため、伏見城側に入城の意思を示したが、これが拒否されてしまい、已む無く西軍方(≒石田方)に属して、伏見城攻めに加わった”・・・とする説がありますが、これは・・・「関ヶ原合戦」の後の江戸時代に成立した「光録物語」などの二次史料の記述を典拠としているため、“史実である確証は無い”とされております。・・・
      ※ 同年同日:“江戸城を発ち、下総国古河(現茨城県古河市)まで来ていた徳川家康”が、“東北の山形にあった最上義光”に向けて・・・“石田三成と大谷吉継が各地に書状を触れ回しているという雑説があるため、会津侵入は御無用とする旨を指示した書状”を、送る。・・・!・・・この書状によって、結果としても会津へ侵攻しなかったのは、宛先の最上義光だけではありませんでした。・・・“その他の奥州・越後の諸大名も、当初の予定では会津の四方から攻めることを指示されていた上杉討伐軍の筈でした”が・・・“当の上杉勢には、一向に接近しようともせず、静観の構えを採った”のです。ただ、一大名家を除いては。・・・“この一大名家”とは、伊達家です。・・・いずれにしても、当時の徳川家康としては・・・上方における西軍方(≒石田方)の動向を重視せざるを得なかった情勢だったため・・・“不確定要素が、大きい会津征伐(=上杉討伐)を後回しに考え、奥州における軍略に関しては、比較的に信頼が置ける伊達政宗には、多少の主導権を執らせても構わなかった”のかも知れません。・・・北関東の地には、徳川秀忠勢などの大軍が、会津方面へ向かっていた訳ですし。
      ※ 同年7月24日:“下野国小山(おやま)に到着した徳川家康”が、直ぐに、“常陸国多賀郡に陣取る佐竹義宣へ向ける使者として、古田重勝(ふるたしげかつ)及び島田(次兵衛)利正(しまだ〈じへえ〉としまさ)”を、「派遣」し・・・“改めて会津の上杉景勝討伐を命じるとともに、佐竹家に対して(徳川家康への)人質として、蘆名盛重(あしなもりしげ:※改名前は義広、佐竹義重の次男であり、義宣の次弟)や、岩城貞隆(いわきさだたか:※佐竹義重の三男であり、義宣や蘆名盛重の弟)、若しくは佐竹義宣の妹(※後に公家だった高倉永慶〈たかくらながよし〉の室となった自称院〈じしょういん〉のこと)を上洛させるよう要求する”・・・も、「佐竹義宣」は・・・“会津征伐(=上杉討伐)は、幼少の豊臣秀頼に代わり実施されるものであり、また佐竹家としては故太閤の頃から義宣の母や妻子を伏見へ証人(※人質のこと)として出しており、しかも豊臣秀頼へ逆らう意志は毛頭無いため、新たに(京都伏見などの徳川家康勢力下へ)人質を出す必要も無く、内府殿に対する敵対心などは更に無い”として・・・この「要求」を、断る。・・・すると、「徳川家康」が、“この佐竹家に、かつて預けられていた花房(助兵衛)道兼(はなぶさ〈すけべえ〉みちかね:※別名は職秀とも)”を呼び出して、“佐竹義宣の意向や、佐竹家の今後の動向について”を、「確認」する。・・・おそらくは・・・“この日に徳川家康からの使者が来訪して、その要求を佐竹義宣へ伝えた直後から、常陸国多賀郡の陣中では、喧々諤々(けんけんがくがく)の議論が行なわれていた”のでしょう。・・・尚、ここにある「花房(助兵衛)道兼」とは・・・宇喜多家名うての足軽大将であり、武勇に優れた剛直の士として知られる人物です。・・・故豊臣秀吉から、「秀」の字を賜り、「職秀(もとひで)」と名乗っていた時期もありました。・・・しかし、「唐入り」と呼ばれる「文禄・慶長の役」において、主君の宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)に諫言をするなどしたため、結果的に主従関係が不和となります・・・が、故豊臣秀吉の仲介によって、その一命が助けられ・・・また、“徳川家康の斡旋もあって、この日の直前頃まで佐竹家に預けられていた”と云います。・・・そして、この頃の徳川家康は、一説には・・・“この時から花房(助兵衛)道兼のことを、徳川家に対する動向についてが定かでない佐竹家の内情を探らせるべく、佐竹家に世話になっていた花房(助兵衛)道兼を味方とし、その内情を語らせようとしていた”と考えられます。・・・この局面における佐竹家としては、“この時まで、花房(助兵衛)道兼のことを、あくまでも徳川家康からの預かり客将として扱い”・・・また、“花房の恩人たる徳川家康からの呼び出しについては、当然の如くに応じた”と考えられます。・・・しかしながら・・・この日、当の花房(助兵衛)道兼は・・・「自分は、佐竹家当主の義宣とは特段に懇意だった訳ではないので、佐竹家の動向については知らないし、また徳川家康の間者でもない。」・・・と、“突っぱねた”と云われます。・・・また、“こうした後には、徳川家康から自らが大名に取り立てられる”という機会を逸しながらも、「関ヶ原合戦」では東軍方(≒徳川方)に与して活躍し・・・備中高松に8千石の所領を得て、旗本寄合に列せられ・・・西暦1614年(慶長19年)からの「大坂の陣」にも参加して、“老骨に鞭打って、輿に乗りながら采配を執った”と云われますが・・・・結局のところ、徳川家からは、新たな加増は無く・・・。・・・一方では、「関ヶ原合戦」の後に、“八丈島へ流罪となった旧主の宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)に向けて、毎年20俵の米を送っていた”とも云われます。・・・この花房(助兵衛)道兼は・・・云ってみれば・・・このように、愚直で不器用な武将とされますが、“それ故に徳川家と佐竹家の両家から信用されていた”のでしょう。・・・尚、この花房(助兵衛)道兼は、徳川家と佐竹家との間の使者として、この後にも幾度か登場致します。

      ・・・ちなみに・・・“当時の佐竹家中や、その陣中でも喧々諤々の議論が行なわれた”という要因は・・・“その家臣団に、多くの分家や庶流氏族を抱えながら、各地の諸豪族達と婚姻関係などを結び、これらとの緒戦の戦後においては養子縁組などを駆使するなど、長きに亘って自己勢力を常陸を中心にして維持し続けて来たという、佐竹家ならではの悩み”とも、云えるのですが・・・
      ・・・“或る方向性を以って、佐竹氏全体としての意見を集約したり、佐竹氏全体の意思統一などを図ろう”とすれば・・・当然に、相当な根回しや、相当の期間を必要とする状況にあり・・・特に、この時には・・・会津征伐(=上杉討伐)という戦さの大義名分そのものに欠陥があるのではないか? という疑いを払拭し切れない事案だった訳ですし、戦乱が続く混乱期において・・・『まさに危急の折には、当然に協力し合おう!』・・・とする前提を置いて、互いに親戚筋となっていた上杉家が、突如として討伐対象とされてしまったのですから。・・・そして、これらが・・・佐竹宗家や(佐竹)分家庶流氏族を多く含む(佐竹氏一門衆)などへ与えた現実の影響として現れることとなり・・・“特に、当時の人々の深層心理へ与えた衝撃は相当なものだった”とも想います。

      ※ 同西暦1600年(慶長5年)7月24日:この日、“同年7月21日に北目城を発っていた伊達政宗勢”が、“上杉家の白石城(※別名は益岡城、桝岡城とも)に対する攻撃”を、「開始」する。・・・これを、「白石城の戦い」と呼びますが・・・。
      ※ 同年同日:“同年7月13日に江戸を出立していた会津征伐(=上杉討伐)先鋒部隊(≒東軍方〈≒徳川方〉の一部)”が、“下野国佐久山や、太田原付近(現栃木県大田原市佐久山付近)の辺りまで”、「進出」する。・・・ちなみに、同年7月19日に江戸を出陣していた徳川秀忠は・・・ちょうど、この頃には・・・“宇都宮周辺地域に陣取っていた”とは考えられますが・・・
      ※ 同年同日夜:“上方において石田三成らが挙兵したことや、もしも伏見城攻撃が開始されれば、鳥居元忠らが応じて伏見城を死守する決意を述べる書状”が、“鳥居元忠からの使者”によって、“小山に居た徳川家康の元”へ、齎(もたら)される。・・・この時に、徳川家康に齎されたのは、風説や雑説の類いなどではなく、確実な情報とされた訳です。
      ※ 同年同日夜:“自領の陸奥南郷(※現福島県南西部のこと)まで軍勢を進めていた佐竹義宣の元”に・・・“いわゆる「内府ちかひ(=違い)の条々」、または「家康違いの条々」とも呼ばれる弾劾状”が、「連歌師・兼如(けんにょ)」によって、届けられる。(※『義宣家譜』より)・・・ここにある「兼如」とは、同じく連歌師だった猪苗代兼裁(いなわしろけんさい)の子であり、号は是斎とも。“当時、高名な里村紹巴(さとむらじょうは)から連歌を学んだ”とされる人物です。・・・また、父の「姓」からも分かるように・・・この「兼如」は、陸奥の猪苗代氏出身者であって、会津蘆名氏一族の一人でもあります。・・・つまりは、会津蘆名氏を継ぐことになった蘆名盛重(※改名前は義広、佐竹義重の次男であり、義宣の次弟)の親戚筋でもあった訳です。・・・したがって、この情報そのものの信憑性は、比較的に高いかと。
      ※ 同年同日子刻(ねのこく:※深夜24時頃のこと):“自領の陸奥南郷(※現福島県南西部のこと)付近まで軍勢を進めていた佐竹義宣”が、“自軍の後続部隊”に対して・・・“赤館(あかだて:※現福島県東白川郡棚倉町棚倉字風呂ケ沢)以北への進軍を差し止めること”を、「指令」する。・・・ちなみに、“この日の子刻(※深夜24時頃のこと)に出された”という指令は、『秋田藩家蔵文書及び奥州文書』によれば・・・“須田(美濃守)盛秀(すだ〈みののかみ〉もりひで)に指図したもの”とされますが、これは・・・この「須田(美濃守)盛秀」が、“当時の佐竹勢先遣部隊の主将とされていたため”と考えられます。・・・そして、この西暦1600年(慶長5年)7月24日の子刻(※深夜24時頃のこと)に、佐竹義宣の指令が発せられた理由については・・・上方にあった豊臣政権三奉行から、いわゆる「内府ちかひ(=違い)の条々」、または「家康違いの条々」と呼ばれる書状が、佐竹義宣の手元に届けられたためであり・・・“当時の佐竹義宣が、大急ぎで、新たな指令を認(したた)めて、先遣部隊主将の須田(美濃守)盛秀へ送った様子など”も分かります。
      ・・・この「須田(美濃守)盛秀」とは・・・かつては陸奥須賀川城(現福島県須賀川市諏訪町の二階堂神社)主だった二階堂盛義(にかいどうもりよし)の重臣でした・・・が、西暦1589年(天正17年)6月の「摺上原(すりあげはら:※現福島県耶麻郡磐梯町及び猪苗代町付近)の戦い」において、蘆名義広(あしなよしひろ:※改名後は盛重、佐竹義重の次男であり、義宣の次弟)が伊達政宗に大敗して・・・奥州の戦国大名としての蘆名氏が滅亡することになります・・・が、この戦いによって、伊達政宗が得られた所領は、時の豊臣秀吉による“惣無事令発令後における所業と認定される”こととなり・・・その全てが、豊臣政権によって没収されることとなりました。これらを「宇都宮仕置」や、「奥州仕置」と呼びます。・・・それでも、旧蘆名領については、豊臣政権から蘆名義広(※改名後は盛重、佐竹義重の次男であり、佐竹義宣の次弟)へ返還されることはなく・・・新たに、常陸佐竹氏所領の周辺にあった龍ケ崎や、江戸崎に、計8万5千石を与えられて・・・結果としては、佐竹家の「与力大名」とされて・・・「蘆名氏」としては、一応の再興を果たします。・・・尚、この頃の蘆名義広(※佐竹義重の次男であり、義宣の次弟)は、自身の名を、「盛重(もりしげ)」と改名しますが・・・これは・・・「盛」は、蘆名氏の通字から、「重」は、実父の義重からの偏諱だったと云われ・・・この後の蘆名盛重も、佐竹家の出羽転封に従がうこととなって、自身の名を、再び「義勝(よしかつ)」へと改めております。・・・
      ・・・この「須田(美濃守)盛秀」は・・・西暦1595年(文禄4年)には、佐竹義宣から茂木城(もてぎじょう:※別名は桔梗城とも、現栃木県芳賀郡茂木町小井戸の城山公園)の城代とされ・・・当時、「須賀川衆」と呼ばれた二階堂旧臣などの約百騎(=茂木百騎)を預けられているため・・・“当時から、佐竹義宣からの信頼が厚かった人物だったよう”であり・・・後の佐竹家出羽転封の際には、角館城(かくのだてじょう:※別名は小松山城、古城山城とも、現秋田県仙北市角館町岩瀬字古城山)の城代に・・・その翌年には、横手城(よこてじょう:※別名は朝倉城、阿櫻城、韮城、龍ヶ崎城、衝城とも、現秋田県横手市城山町)の城代を、任されております。・・・そして、何よりも・・・この「須田(美濃守)盛秀」とは、“後の西暦1622年(元和8年)に起こった”とされる「宇都宮城釣天井事件」と呼ばれる当時の政争において・・・これに敗北した本多正純(ほんだまさずみ:※本多正信の長男)が失脚して、西暦1624年(寛永元年)に改易させられる・・・と、正純本人及び息子の正勝(まつかつ)の監視役とされて、両者の身柄を預かった人物でもあります。・・・

      ・・・また、上記からは・・・あたかも・・・“常陸の佐竹義宣が、会津の上杉景勝との間で、会津征伐(=上杉討伐)の際には上杉方に与する旨”の密約を、事前に交わしていたか? のように思えてしまいます・・・が、“肝心の佐竹家中では、遥か上方に居る西軍方(≒石田方)にも積極的に与しようとまでは、未だに家中の意思統一が醸成されておらず”・・・当時の佐竹義宣が、家中の意志統一が図られていない状況の中で、この密約を結果的に交わしてしまったのではないか? との指摘も、あるにはありますが・・・
      ・・・このような説に関しては、その背景として・・そもそも・・・“当時の佐竹氏と、この際に討伐対象とされてしまった上杉氏との間における、深い繋がりや、関わりといった事情が、その根底にある”と考えられます。・・・かつて「越後の虎」と呼ばれた上杉謙信や、当時の当主だった上杉景勝は、実際には長尾(ながお)氏の出身者であり、その長尾氏は、元々越後の守護代ではあったものの・・・“この当時は、あくまでも「関東管領職(かんとうかんれいしょく)」を受け継ぐ正統な後継者としての上杉氏である”と認知されており・・・この上杉氏から、何代か前に養子を迎えて、その名跡を保ち続けていた佐竹宗家は、血統的には上杉氏と、ほぼ同族と云っても良い程の間柄だった訳です。・・・更には、この上杉氏、または上杉家は・・・故豊臣秀吉によって、常陸の佐竹氏、または佐竹家と協力しながら・・・奥州にあった伊達政宗による南進についてを抑え込むとともに、関東において力を蓄え続ける徳川家康を牽制するためとして・・・越後から会津へと転封されていたのです。・・・したがって、“佐竹家と上杉家とは、歴史的、或いは地域間的に云っても、必然的に深い関係を、お互いに構築し続けていたこと”になります。・・・これらについては、前ページにある車斯忠などの武将の存在や、その動向などからも、分かりますが・・・“それより以前に起きた「石田三成襲撃事件」における佐竹義宣の行動や義宣個人の性格なども遠因となり、結果的に影響していた”とも、云えるかと。

      ・・・いずれにしても、このような情勢下にあった上杉家は・・・現在も、直江状の真偽そのものについての論争はあるものの・・・結局は、“難癖を付けられて、徳川家康から討伐対象とされてしまった訳”です。・・・このことは、過去に約百年も続いた「山入一揆(=山入の乱)」や、同じく親戚筋の「宇都宮国綱改易事件」などを経験していた、この当時の佐竹家としては・・・正直なところ・・・徳川家康が、まず幼少の豊臣秀頼を政治的な御輿に担ぎ出して、上杉家を討伐する軍勢を率いていた訳であり・・・それまでの上杉家中との良好な関係や、自家の豊臣政権下における政治的な立場、そして・・・何よりも、「会津征伐(=上杉討伐)」における大義名分などの狭間に置かれることとなって・・・“佐竹家中の意思統一が、極めて困難な状況に陥っていた”と考えられるのです。

・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】