街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・江戸時代中期頃については、大幅に割愛させて頂きまして・・・・・・・・・・



      【近世Ⅲ】《幕末期の混乱》

      そもそも太平洋の海岸線に接する水戸藩では・・・西暦1824年(文政7年)に、常陸大津浜沖(現茨城県北茨城市大津町)からイギリス捕鯨船乗組員が無断上陸してしまうという事件(=大津浜事件)が起こったことなどから、対外問題そのものや西洋の技術力などに対する深い関心とともに、国防・・・特に沿岸防衛についてを強く意識付けられることになったのですが・・・
      ・・・西暦1829年(文政12年)に水戸藩9代藩主に就いた徳川斉昭(とくがわなりあき:※後の烈公)は、それまでの藩内の門閥にかかわらず、自分の擁立に功があった藤田彪(ふじたたけき:※号は東湖、藤田幽谷の次男)や、武田正生(たけだまさなり:※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)らの人材を多く登用し、藩政改革に着手することとなり・・・“この藩政改革と深く関わりがあった”とされるのが、藩校・弘道館(こうどうかん:現茨城県水戸市三の丸1丁目)や、各郷で開かれた15の郷校(ごうこう)なのです。

      ・・・このうち弘道館には、主に漢学(※四書五経を中心とする儒学)や、『古事記』、『日本書紀』などの国典を学ぶ学問所としての「文館」、武術などの稽古を行なう「武館」、その他にも「医学館」や「天文館」などがあり、藩士やその子弟らの教育及び研究機関として利用されました。・・・『弘道館記』によれば、その教育方針には「神儒一致」や「忠孝一致」、「文武一致」、「学問事業一致」、「治教一致」の5つが掲げられることとなり・・・水戸以外にあった15箇所の郷校では・・・開校初期頃には、郷医の育成や研修などを目的に、対象者を郷士や郷医、神官、村役人らに限定されておりましたが・・・時代の流れとともに・・・対象者が次第に領民層へも拡大され、農民有志や猟師、農兵らが参加するようになり・・・その教育目的に、武術訓練や尊皇攘夷(そんのうじょうい)主義教育などが加えられるようになります。
      ・・・尚、「藤田幽谷(ふじたゆうこく:※名は一正、通称は次郎左衛門)」とは・・・2代藩主・徳川光圀(※義公)が水戸藩の事業として創始した『大日本史』の校訂に努め、それを編纂する専門部署たる彰考館(しょうこうかん)の総裁や郡奉行を勤めた人物であり・・・その著書には、『正名論(せいめいろん)』、『勧農或問(かんのうわくもん)』などがあります。
      ・・・ちなみに、当初期の彰考館は、水戸藩の江戸上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも、現東京都文京区後楽1丁目付近)内にありましたが・・・西暦1697年(元禄10年)2月に現在の茨城県水戸市三の丸付近となる水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)内へと移転されて、「水戸彰考館(※水館、水戸史館とも)」として発足致します。・・・そもそもとして・・・「彰考」とは、2代藩主・徳川光圀(※義公)により命名された名称であり、『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』の杜預(とよ:※古代中国の三国時代から西晋時代にかけての政治家、武将、学者)序の語とされる「彰往考来(※往事を彰らかにし、来時を考察すること)」・・・つまりは、「古き事を彰らかにし、将来や未来を考察する」という言葉に由来しております。
      ・・・ここで以下に、水戸藩領内各地へ設置された15の郷校について示します。・・・ちなみに、藩校である弘道館が開校される以前に設置された郷校が5校程あります。・・・弘道館が開校されるのは、西暦1841年(天保12年)8月1日のことです。

            《校名》       /       《所在》       /       《開校年》       

     ・稽医館(けいいかん:※小川郷校とも) / 常陸国茨城郡小川村(現茨城県東茨城郡小川町小川) / 西暦1804年(文化元年)
     ・延方学校(のぶかたがっこう:※延方郷校とも) / 常陸国行方郡延方村(現茨城県潮来市曲松) / 西暦1807年(文化4年)
     ・敬業館(けいぎょうかん:※湊郷校とも) / 常陸国那珂郡湊村(現茨城県ひたちなか市山ノ上町) / 西暦1835年(天保6年)
     ・益習館(えきしゅうかん:※太田郷校とも) / 常陸国久慈郡太田村(現茨城県常陸太田市中城町) / 西暦1837年(天保8年)
     ・暇修館(かしゅうかん:※大久保郷校とも) / 常陸国多賀郡大久保村(現茨城県日立市大久保町) / 西暦1839年(天保10年)
     ・時雍館(じようかん:※野口郷校とも) / 常陸国那珂郡野口村(現茨城県常陸大宮市野口) / 西暦1850年(嘉永3年)
     ・大子郷校(だいごごうこう) / 常陸国久慈郡大子村(現茨城県久慈郡大子町大子) / 西暦1856年(安政3年)
     ・大宮郷校(おおみやごうこう) / 常陸国那珂郡大宮村(現茨城県常陸大宮市北町) / 同上
     ・潮来郷校(いたこごうこう) / 常陸国行方郡潮来村(現茨城県潮来市潮来) / 同上
     ・町田郷校(まちだごうこう) / 常陸国久慈郡町田村(現茨城県常陸太田市町田町) / 西暦1857年(安政4年)
     ・小菅郷校(こすげごうこう) / 常陸国久慈郡小菅村(現茨城県常陸太田市小菅町) / 同上
     ・馬頭郷校(ばとうごうこう) / 下野国那須郡馬頭村(現栃木県那須郡那珂川町馬頭) / 同上
     ・秋葉郷校(あきばごうこう) / 常陸国茨城郡秋葉村(現茨城県東茨城郡茨城町秋葉) / 西暦1855~1857年(安政2~4年)
     ・鳥羽田郷校(とりはたごうこう) / 常陸国茨城郡鳥羽田村(現茨城県東茨城郡茨城町鳥羽田) / 同上
     ・玉造郷校(たまつくりごうこう) / 常陸国行方郡玉造村(現茨城県行方市玉造甲) / 西暦1858年(安政5年)

      上記の「郷校」には・・・それぞれ、「館長」や「舎長」が置かれ、「水戸学」を主軸とする教育が実践されました。
      ・・・この「水戸学」の一面とされるのが・・・“当時、異国や南蛮などと呼ばれた西欧列強諸国からの開国圧力や、それに対する脅威論が高まる情勢にあって、時の天皇や朝廷権威などを背景として国家体制の強化を図ることにより、日本国としての独立や安全などを確保すべきという思想に基づいていた”とされることです。
・・・そして・・・“この水戸学を確立した”と云われるのが、「会沢安(あいざわやすし:※通称は恒蔵、号は正志斎、欣賞斎、憩斎とも)」であり、水戸藩郡奉行や通詞(つうじ:※公式の通訳者のこと)を経て、藩政改革を推進し彰考館の総裁となった人物であり、「尊皇攘夷(※正統な統治者たる天皇を尊崇し異民族などを打ち払うこと)運動」の“理念的指導者”とされます。
      ・・・著書には、『千島異聞(ちしまいぶん)』、『暗夷問答(あんいもんどう)』、『新論(しんろん)』、『迪彝篇(てきいへん)』、『退食間話(たいしょくかんわ)』、『下学邇言(かがくじげん)』、『及門遺範(きゅうもんいはん)』、『時務策(じむさく)』などがあり・・・『新論』は、尊皇攘夷派の志士達や運動家の「座右の書」として、「水戸藩」のみならず日本各地で広く読まれ・・・特に『迪彝篇』は、彼が時雍館(※野口郷校とも)の教科書として著わしたものとされ、「時雍館蔵版」との銘があり・・・また、“彼が時雍館(※野口郷校とも)に傾けた教育熱が窺える”とも云われます。

      ・・・尚、“これら多くの郷校では、尊皇攘夷派志士や運動家達が、それぞれの館長や舎長となり、リーダー的な役割を担った”とされます。
      ・・・例えば・・・“尊皇攘夷派志士や運動家達”の中でも、特に「激派」と呼ばれる人物としては・・・「稽医館(※小川郷校とも)館長」として、後の西暦1864年(元治元年)3月27日に、筑波山で挙兵することとなる「藤田信(ふじたまこと:※通称は小四郎、藤田彪の四男)」や、その幹部とされる「竹内延秀(たけうちのぶひで:※通称は百太郎、変名は竹中万次郎)」・・・「時雍館(※野口郷校とも)」の「館長」としては、「藤田信」らとともに筑波山で挙兵するも、この筑波勢を後に除名されることとなる「田中愿蔵(たなかげんぞう)」・・・「玉造郷校館長」としては、「竹内延秀(※通称は百太郎、変名は竹中万次郎)」・・・藩校の「弘道館舎長」や「潮来郷校館長」としては、「林正徳(はやしまさのり:※通称は五郎三郎)」・・・「潮来郷校」や「玉造郷校」の「館長」としては、「岩谷敬一郎(いわやけいいちろう)」・・・などがおります。
      ・・・“彼ら尊皇攘夷派志士や運動家達は、それぞれ尊皇攘夷主義を信奉する書生達を同志として募る”こととなり・・・筑波山挙兵の後には、藤田信(※通称は小四郎、藤田彪の四男)らが稽医館(※小川郷校とも)に暫らくの期間、本陣を置いたり・・・田中愿蔵は時雍館(※野口郷校とも)に陣を構えたり・・・と、これら郷校の多くが、“尊皇攘夷派志士や運動家達の重要な戦略拠点とされる”ことになるのです。

      ・・・また、“水戸藩9代藩主・徳川斉昭(※後の烈公)時代における水戸藩の藩政改革”は・・・“貨幣経済への変化に伴なうなどして逼迫していた幕府財政の再建を目指し、後の天保年間(西暦1830~1845年)に実施されることになる老中・水野忠邦(みずのただくに:※肥前唐津藩主、後に遠江浜松藩主)らによる天保の改革(てんぽうのかいかく)に対しても、一定の示唆を与えた”とも云われます。

      ※ 西暦1837年(天保8年)7月:「水戸藩主」だった「徳川斉昭(※後の烈公)」は・・・

      ① 「経界の義」(※水戸藩の全領地において検地を実施すること)
      ② 「土着の義」(※水戸藩士らを水戸城下より移して領内各地への土着を促進すること)
      ③ 「学校の義」(※藩校・弘道館の創設や各郷校を増設すること)
      ④ 「総交代の義」(※水戸藩が江戸定府とされていたため、それまで江戸詰めとされていた水戸藩士らを、水戸の自領内へ帰任させること)
      ・・・を掲げ、その他にも・・・「追鳥狩(おいとりがり)」と称する大規模軍事訓練を実施したり・・・飢饉発生などの非常事態に備える目的で、農村救済のために、藩内各地に「稗倉(ひえぐら)」を設置します。・・・そして、“国民皆兵路線を唱えつつ、西洋近代兵器の国産化を推進した”のです・・・が、これに伴なって、各寺院の釣鐘や仏像を強制的に没収し、それらを融解して青銅製大砲などの材料とすると・・・藩内各地の寺院を廃寺として、領内の寺院数を適正な数に制限し、道端にあった地蔵尊などの撤去をも行なって、村毎に神社を設置すること(=一村一社)を義務付けたり・・・従来は僧侶が行なっていた人別改(にんべつあらため:※現在の戸籍原簿や租税台帳に当たります)などの民衆管理制度を、神官による管理へと移行させています。
      ・・・更には、幕府の海防掛参与という役職に就任すると・・・幕府に対して、蝦夷地開拓や大船建造の解禁などを提言する・・・など、その急進的な改革力を伴なう水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)の政治的な影響力は、幕府のみならず全国各地へと及ぶことになり・・・この余波によって・・・当時、喫緊の政治課題に持ち上がっていた徳川御三家の尾張家、紀伊家、水戸家それぞれの藩に対する附家老(つけがろう:※特に将軍から直接の命令を受け、その者の家老に附属された家臣のこと)衆五家の大名昇格運動が停滞することになりました。

      ・・・つまりは、“外国勢力が迫って諸々と困難な状況が予想される時期に、内輪(=日本国内)において、その経済力や軍事力を、わざわざ低減させている場合ではない”という訳です。
      ・・・尚、徳川斉昭(※後の烈公)が行なった仏教抑制政策及び、これに替わる神道を重視する政策は・・・一見すると、明治初期頃の神仏分離や廃仏毀釈などの先駆け的な政策にも感じられます・・・が、徳川斉昭(※後の烈公)による実際の政策は、“藩政を牛耳る家老達(≒門閥保守派)と、藩政改革を進めようとする中級藩士や下級藩士達(≒尊皇攘夷派)との間で激しい派閥権力抗争が繰り広げられる中にあって、藩を一つに纏める必要性に迫られて実施したこと”とされます。・・・ちなみに、これら徳川斉昭の藩政改革に反発し、門閥を中心とした人材を重用する保守的な勢力が、後に「諸生党(しょせいとう)」と呼ばれることとなる一派です。
      ・・・また、“当時の水戸藩にて保有していた大砲の総数は、後に凡そ300門だった”とも云われます。・・・但し、これらの大部分とされる青銅製の大砲は、別名を「臼砲(うすほう)」と呼ばれるものであって、餅つきのために使用する臼のような形状をした砲身が短い大砲だったため、当時の日本近海を航行する異国船が装備していた大砲と比べると、明らかに性能的に劣っていて、射程距離が短く威力に乏しいものでした。・・・そのため、水戸藩主・徳川斉昭は当時、オランダの先進的技術を導入し、また既に事業化を達成していた肥前佐賀藩など諸藩からも学んで、那珂湊(現茨城県ひたちなか市湊本町付近)へ「水戸藩営大砲鋳造所」を建設する訳ですが・・・。
      ・・・更に、当時の徳川斉昭(※後の烈公)は・・・外国兵との実際の戦闘を想定して、「安神車(あんじんしゃ)」という、今に云う装甲車的なものまで、自らが設計し、実際に製作させております。・・・これは、中に入る鉄砲兵を装甲板で覆い隠せる構造を持った容れ物を造り、それを引き車の上に載せたものです。・・・この引き車を、いったい誰が? 或いはいったい何が引くのだろう? と考えると・・・おそらくは・・・当時の徳川斉昭は、異国船からの艦砲射撃や、敵の揚陸作戦を想定していたのでしょう。・・・したがって、実際に車を引くのは、人間でも牛馬でも構わなかったと考えられます。・・・そして、予め想定した複数の防御ポイントに、この「安神車」に鉄砲兵を乗せて、実際に何処かへ配置すれば、ある程度の時間を稼ぐことが出来ますし、且つ周囲に忍ばせておいた伏兵集団で以って、敵兵を捕縛または殲滅することが出来ると考えたのでしょう。
      ・・・また政治的にも、そのような局地戦を幾度か繰り返すうちに敵方の異国との間で和平を模索するなど、“日本との不平等な修好通商条約の締結を、まずは回避しよう”との意図が感じられるのです。
      ・・・これらのことから、表向きは声高に国民皆兵路線や攘夷運動を叫んだとしても・・・現実の国際政治の舞台では、異国捕鯨船のための寄港地とするだけの和親条約程度ならば、結果としても黙認し得るものの・・・“日本の国内経済が大混乱することが明らかであり、不平等な対外貿易を含む修好通商条約の締結には、断固として反対する立場を採る”という意思を表明していたように想えてなりません。


      ※ 同西暦1837年(天保8年)9月29日:「水戸藩江戸上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも)」において、「七郎麿(しちろうまろ:※徳川斉昭の七男、後の松平昭致)」が「誕生」する。・・・ちなみに、この年のイギリスでは、ビクトリア女王が王位に就いています。(※当時18歳)

      ・・・西暦1838年(天保9年)になると・・・
      ※ 西暦1838年(天保9年)4月28日:“数え年で2歳となる七郎麿(※徳川斉昭の七男、後の松平昭致)”が、「水戸藩江戸上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも)」から「水戸」へ移される。

      ※ 西暦1838年9月4日~1842年8月29日:“隣国の清(しん)王朝とイギリスとの間”で、「阿片戦争(あへんせんそう)」が起こる。
・・・この戦争で敗戦した清王朝は、イギリスと南京条約を締結することになりましたが、“イギリスに対して香港を割譲するなど、清王朝にとって極めて不平等な条約であった”とされます。

      ・・・西暦1840年(天保11年)になると・・・
      ※ 西暦1840年(天保11年)1月13日:「水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」が、「幕府」から“自身の水戸在国一年間の許し”を得る。・・・尚、“これよりは(斉昭)子弟への訓育を特に心掛けた”とされる。

      ・・・西暦1841年(天保12年)になると・・・
      ※ 西暦1841年(天保12年)8月1日:「水戸藩校・弘道館」が「開校」される。
      ・・・この西暦1841年(天保12年)には、この他にも・・・江戸幕府(=徳川幕府)の第11代征夷大将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)が没しています。・・・そして・・・水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)には、“幕府から水戸在国延年の許しが出される”ことになり、“自身が尊敬する2代藩主・徳川光圀(※義公)が貞享年間(西暦1684~1687年)に建造した”という「快風丸(かいふうまる)」を、“再び建造するとの名目で以って、半洋式の大型船の建造を企画しました”が・・・この企画自体が、時の幕府から一向に許可されません。・・・それでも、この時の徳川斉昭(※後の烈公)は
・・・かつての快風丸に代わる手段だったのか? は定かではありませんが・・・当時の那珂湊において、“秘か”に「バッテラ」と呼ばれる小型洋式船を、2隻も建造してしまいます。・・・小型洋式船2隻と謂えども、幕府に隠れて、云わば“密造してしまう”のですから、いくら徳川御三家たる水戸家であろうとも、非常に大胆な行動を採っていた訳です。
      ・・・このような出来事からも、当時の水戸藩が、藩主・徳川斉昭自らが主導して、西洋式の近代軍備の導入においても先進的な藩だったことがお分かり頂けるかと思いますが・・・
      そもそもとして・・・かつての「快風丸」とは・・・“江戸時代における三大船舶の一つにも数えられるほど大きな巨船であり、当然に和船構造を持つ船だった”とされており・・・専門的には、“安宅船(あたけぶね)などの大型商船と同様に、伊勢船(いせぶね)と呼ばれる四角い船首を持つ様式だった”と考えられており・・・“尖った船首を持つ弁才船(べざいせん)に比べると航行性能では劣るものの、激しい暴風雨にも耐え得るように強固な構造を持っていたよう”です。・・・“その推進機構(=推進設備)は、帆と艪を併用し、そのうち艪については60丁の設計とされるも、実際には乗員不足より40丁で運用された”と。
      ・・・その威容については、『快風丸渉海記事(かいふうまるしょうかいきじ)』などで、世間一般に伝わるところによれば・・・“全長37間、全幅9間、帆柱長さ18間(柱基太さ3尺角)、木綿製の帆500反、御紋付き紫色の天幕、総小旗、下幕(丸の内水の字)、提灯16、大ぼんぼり12、黒鳥毛九尺槍2本、船中には伝馬用船2艘(※大船は長さ9間、艪8挺。小船は長さ6間で艪6挺)を搭載し、特徴としては、屋形の上に按人箱(あんじんばこ)という方形の矢倉のようなものを造り付け、その中に遠洋航海のための磁石や海図を備え、船内には東皐心越(とうこうしんえつ:※中国清王朝から亡命渡来した禅僧、2代水戸藩主・徳川光圀との縁で水戸天徳寺に暮らした人物)の筆による「快風丸」という1間余りの大額を掲げた”・・・と。・・・もしも、これが事実とすれば、1万2,000石積み相当(実搭載量7,600石)となり、江戸幕府(=徳川幕府)が以前に保有していたとされる超大型軍船の「安宅丸(あたけまる:※別名は天下丸とも)」をも凌駕する大きさとなるため、もちろん異説もありますが。
      ・・・いずれにしても、かつての「快風丸」は、“当時現役の日本艦船としては最大級のものだった”と考えられております。・・・但し、これだけの巨船であったなら、当時の江戸幕府(=徳川幕府)による「大船建造の禁」に、当然として抵触する筈なのです・・・が、水戸藩が徳川御三家の一つであったことや、その当時の建造目的が特例的に認められたのではないか? と考えられています。・・・“かつての快風丸の建造目的”は、あくまでも“蝦夷地への探検航海”であり・・・この「快風丸」の竣工までには、“それまで2回の失敗経験が影響していた”と云われ・・・それら過去2回の失敗経験の後に・・・第3船目として、竣工されたのが「快風丸」なのです。・・・そして、「快風丸」の運用に際しては、“当時国内海運の先進地だった大坂から、船大工や船頭が招聘されていた”とされ・・・また、“その建造のために7千両余りが費やされた”と伝わります・・・が、残念ながら、“2代水戸藩主・徳川光圀(※義公)の死後、西暦1693年(元禄6年)に廃船とされた”とのこと。
      ・・・その廃船理由は、この「快風丸」が“巨船であるが故に維持費が膨大となり、当時の水戸藩の財政状況では維持出来なかったため”と考えられているのです。

      ・・・西暦1842年(天保13年)になると・・・
      ※ 西暦1842年(天保13年)7月1日:「水戸」において「偕楽園(かいらくえん:現茨城県水戸市見川)」が「完成」し、この日に「開園」される。

      ・・・西暦1843年(天保14年)になると・・・
      ※ 西暦1843年(天保14年)3月15日:「水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」が、この日に「水戸」を発つと、江戸へと至る途中で「日光廟(にっこうびょう:※徳川家康を祀る日光東照宮と、徳川家光を祀る大猷院〈だいゆういん〉のこと)」を「参拝」する。・・・
      ※ 同年4月4日:“数え年で7歳となる七郎麿(※徳川斉昭の七男、後の松平昭致)”が、この日に「水戸」を発ち、“暫らく江戸に滞在する”・・・と、同年5月17日には「水戸」へ戻る。・・・・・・

      ・・・西暦1844年(天保15年)になると・・・
      ※ 西暦1844年(天保15年)12月2日:“江戸城火災などの災異のため”として、「天保」から「弘化」に「改元」される。・・・この時の改元は・・・天保15年5月の江戸城火災が、本丸で起きた大火災であって、しかも西暦1838年(天保9年)の江戸城西ノ丸火災などから続いていたこと・・・そして、“先に崩じた光格上皇(こうかくてんのう)に対する諡号復活の際において、時の幕府による協力を背景としたため、幕府の意向に配慮していた改元であった”とされています。・・・尚、改元が行なわれたのは、“グレゴリオ暦の1845年1月9日”であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間でした。・・・また弘化元年は、西暦1845年1月9日から同2月6日までの短い期間だったため、和暦と西暦とを一対で表記する場合には・・・天保15年=弘化元年=西暦1844年、弘化2年=西暦1845年・・・となって実際とはズレが生じます。

      ・・・しかし、同西暦1844年(弘化元年)になると・・・
      ※ 同西暦1844年(弘化元年)3月22日:「水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」が、「水戸・千波原(せんばはら:現茨城県水戸市千波町字千波原)」において「追鳥狩」を行なう。・・・尚、これに「七郎麿(※徳川斉昭の七男、後の松平昭致)」が従う。・・・この時の七郎麿は、数え年で8歳。・・・いずれにしても、多感な少年期にあった七郎麿の目には、実際に大砲や鉄砲を用いた大規模軍事訓練が、どのように映ったのでしょうか?・・・但し、“このような大規模軍事訓練の現場を見せる”という行為自体が、父たる斉昭による訓育の一つであったことは、ほぼ間違いありません。

      ※ 同年5月5日:「水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」が、「幕命」によって「江戸」へ「出府」する。・・・何やら雲行きが怪しくなってまいりました。・・・と云うか、徳川斉昭が行なった「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練などの藩内政策が、時の幕府によって問題視されるようになっていたのです。・・・と云うのも・・・この「追鳥狩」が、多数の青銅製大砲や鉄砲を用いた威嚇性の高い軍事訓練であったため、長らく続けていた鎖国政策の限界点に達し始めていた当時の幕府にしてみれば・・・“幕府の権威を貶(おとし)める行為として捉えられる”こととなり・・・或いは、“その矛先が自らに向かうのでは? という警戒心に繋がっていた”と考えられます。・・・たとえ徳川御三家の水戸家であったとしても、当時の幕藩体制や国内政治そのものを揺るがしかねない大問題と認識されるようになってしまった訳です。
      ・・・しかしながら、当時の徳川斉昭が意図し実行した「追鳥狩」とは、“意思決定などが遅れて軟弱的に感じられる当時の幕府に対して、自らが発奮材料を提供して、世間へ知らしめることで、幕府政策の目を覚醒させようとする大デモンストレーションだった”と考えられます・・・が、あいにくと・・・“自藩内における寺院にあった釣鐘や仏像を強制的に没収し、その後に青銅製大砲の材料とする目的をも懐く徳川斉昭の藩内政策が、結果的には自藩内を不穏な情勢に至らしめる仏教弾圧として、時の幕府から政治的に取り扱われる”こととなり・・・この翌日には・・・
      ※ 同年5月6日:「水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」が、「幕府」から、“江戸中屋敷(※駒込邸とも、現東京都文京区本郷7丁目付近)における隠居謹慎”を命じられる。・・・結局のところ・・・徳川御三家だったが故か? 或いは全国諸藩への幕府権威を強く印象付けるためだったのか?・・・徳川斉昭が推し進めた追鳥狩を含む藩内政策が、当時の幕府からは看過されることはなく、水戸藩主としての結果責任が追及されてしまいます。・・・そして、この幕命によって、水戸家の家督を嫡男の徳川慶篤(とくがわよしあつ:※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)へ譲る格好となって、強制的な隠居謹慎処分が徳川斉昭に命じられることになったのです。
      ・・・尚、徳川斉昭に対して強制的な隠居謹慎処分が実際に下されると・・・それまでは、中級藩士や下級藩士達から成る藩政改革派から権力奪還の機会を窺っていた門閥保守派が・・・当時年少の藩主とされた徳川慶篤を補佐して、藩政の中心勢力に返り咲くこととなり、家老・結城朝道(ゆうきともみち:※別名は寅寿)らが中心となって、水戸藩主流に躍り出ることになったのです。

      ・・・西暦1846年(弘化3年)になると・・・
      ※ 西暦1846年(弘化3年)1月26日:「仁孝天皇(にんこうてんのう)」が「崩御」する。
      ※ 同年2月13日:「孝明天皇(こうめいてんのう)」が「践祚(せんそ)」する。
・・・「踐祚」とは、天皇の位を受け継ぐことであり、先帝の崩御または譲位によって行なわれます。・・・尚、“桓武(かんむ)天皇以降は、皇位の象徴である三種の神器を受継ぐこと”を「践祚」と呼び・・・“皇位に就いて、それを天下に布告すること”を「即位」と云いました。・・・但し、現行の『皇室典範(こうしつてんぱん)』では、“天皇が崩御された後に、即位の礼を行なう”と改められていて、「践祚」という言葉は使用しなくなっております。・・・しかし、これについても、昨今の皇室や日本国民が暮らす社会状況の変化に伴なう格好で、天皇の生前退位(=譲位)によって「平成」から「令和」という時代が到来した訳ですね。・・・これによって、“天皇位を生前退位(=譲位)された元の天皇陛下のこと”を「上皇様」と呼ぶことととなって、“天皇位を承継した元の皇太子様のこと”を「天皇陛下」、若しくは「今上(きんじょう)天皇」とお呼びするのです。

      ・・・尚、この西暦1846年(弘化3年)には・・・
      ・・・“幕命により強制的に隠居謹慎処分にされていた前水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)でした”・・・が、今度はまた・・・“自らを支持する藩内の中級藩士や下級藩士達から成る藩政改革派による復権運動などが功を奏して、自身の謹慎処分については解除される”ことになります。
・・・これにより、“徳川斉昭の身分は、あくまでも前藩主且つ御隠居様になった訳です”が・・・“徳川斉昭による政治的な影響力が、どうしても当時必要とされたため、幕府による謹慎処分についてのみ解かれた”という解釈も出来るかと。

      ・・・西暦1847年(弘化4年)になると・・・
      ※ 西暦1847年(弘化4年)8月1日:「第12代征夷大将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)」が、“水戸家出身者の七郎麿(※徳川斉昭の七男、後の松平昭致)を、御三卿(ごさんきょう)・一橋(ひとつばし)家の世嗣としたいとの思召(おぼしめし:※内意のこと)”を「水戸家」へ伝えるとともに・・・“七郎麿(※徳川斉昭の七男、後の松平昭致)による江戸出府”を命じる。・・・尚、この時の「思召」を伝えたのは、「幕府老中・阿部正弘(あべまさひろ:※備後福山藩主)」。・・・しかし・・・この日、将軍・家慶から思召を受けることになった水戸藩側の事情としては・・・徳川御三家の一つではあるものの、そもそもとして・・・“その立藩以来、将軍候補を自家からは出さずに、江戸に定府して将軍補佐を宿命付けられていた家柄”とされており・・・その上、後に徳川慶喜(とくがわよしのぶ)と呼ばれることになる当の七郎麿に対しては、父・徳川斉昭が自身が尊敬する2代藩主・徳川光圀(※義公)の教育方針を踏襲して
      ・・・「子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬよう、国許(※水戸のこと)で教育する」・・・
      という姿勢で臨んで、“七郎麿が江戸で誕生して約7カ月後から教育環境を整えていた”とも云われており・・・更には、この七郎麿自身も、会沢安(※通称は恒蔵、号は正志斎、欣賞斎、憩斎とも)らから、藩校・弘道館において学問や武術を教授され、約9年間を水戸で過ごしておりますが・・・その英邁さが幼少の頃より注目されていたため・・・そもそも、父・斉昭としては・・・“七郎麿を、水戸家嫡男の慶篤(※七郎麿の同母兄)の控えとし、他家などへの養子には出さずに、暫時手許に置こう”と考えていたようです。
      ・・・“それでも、この西暦1847年(弘化4年)8月1日に、水戸徳川家が将軍・家慶の思召を受ける”に至った理由としては・・・幾度の災害発生や対外国政策などで大きく揺れる幕末期において、徳川光圀(※義公)から始まったとされる「水戸学」を主軸とする思想や哲学が全国の志士達にも相当に浸透して、日本という国家の存亡に関わる事象に対しては、まず以って将軍を頂点とする幕府機構による毅然とした対応が求められるとの機運が急速に高まることとなって・・・当時の水戸徳川家と云うより、水戸藩の喫緊課題としては、もはや自家や自藩の存続などについては、あまり問題視されず、かつてからの家柄などを超越した非常事態に対応するためという認識に変化していったと考えられる訳です。
      ・・・そして、このような社会情勢になると、当時の水戸家としては・・・「神君(しんくん)」とも仰ぐ故徳川家康から当初より期待されていた水戸藩の立藩精神に沿う格好で、実現可能な方法を考えるようになる訳であり・・・そこで捻(ひね)り出されたのが・・・“その徳川将軍家に後嗣が無い場合に、次期将軍後継者を提供する役割を担う御三卿という政治システム(※第8代征夷大将軍・徳川吉宗時代から)を活用することだった”と考えられるのです。・・・尚、この御三卿には・・・「田安(たやす)」、「一橋」、「清水(しみず)」・・・という三家がありますが・・・“この時の七郎麿は、あくまでも一橋家存続のための後継者に指名された”のであり・・・御三卿の内での話を確率論で云えば、次期将軍後継者や候補者としての資格保有については、数学的には「1/3」と云えますが・・・徳川御三家の内の尾張家や紀伊家から、適任者を将軍家に迎え入れることもできる訳でして・・・水戸徳川家、若しくは水戸藩による将来予測や、これに伴なう対処方法や目論み的な事案については、実態をどのように把握していたのでしょうか?
      ・・・これらについてを、いくら考えても、全く想像の域を出ません。・・・しかし、七郎麿本人の意思はともかく・・・当時の水戸徳川家、若しくは水戸藩の総意として、この時の七郎麿という若君について云えるのは・・・“七郎麿様は、どんな困難な局面に遭っても、きっと乗り越えられる資質を兼ね揃えていらっしゃるので、たとえ御三卿の一橋家へ養子へ出したとしても、全く以って恥ずかしくない若君だから大丈夫な筈”・・・という複雑な認識だったかと。
      ※ 同年8月15日:“将軍・徳川家慶の思召を受けた七郎麿(※徳川斉昭の七男、後の松平昭致)”が、「水戸」を発ち、「江戸城」へ向かう。

      ※ 同年9月1日:「七郎麿(※徳川斉昭の七男、後の松平昭致)」が、“御三卿の一橋家”へ「養子」に入り、正式に「一橋家」を「相続」する。・・・尚、“この一橋家相続により、七郎麿の名”が、「一橋(徳川)昭致(ひとつばし〈とくがわ〉あきむね)」に改められる。

      ※ 同年12月1日:「一橋(徳川)昭致」が、“江戸城に登城して元服の儀を済ませる”と、「将軍・徳川家慶」から「偏諱」を賜わって、「一橋(徳川)慶喜(ひとつばし〈とくがわ〉よしのぶ:※徳川斉昭の七男、尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)」と名乗り始める。・・・尚、この時より「従三位左近衛中将」に任じられて「刑部卿」を称することに。


      ・・・西暦1848年(弘化5年)になると・・・
      ※ 1848年(弘化5年)2月28日:“孝明天皇が代始された”ため、「弘化」から「嘉永」に「改元」される。・・・この時の改元では・・・朝廷が「万延」や「明治」などの七案のうち、最終的に「天久」と「嘉永」の二案に絞った後に、朝廷の内意は「天久」であると幕府に伝えたものの、幕府が「嘉永」を推して譲らなかったため、“最終的には朝廷がこれに従った”とされます。・・・尚、この時点で既に・・・後の「明治」という元号が、“案として浮上していた”とのこと。

      ・・・そして、同西暦1848年(嘉永元年)に・・・
      ※ 西暦1848年(嘉永元年)12月4日:「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、“公卿・一条忠香(いちじょうただか:※法号は後大勝寺とも、一条忠良の四男)の養女とされる千代(ちよ:※醍醐忠順の女であった輝姫)”と「婚約」する。・・・
      ・・・尚、この西暦1848年に、“フランスやドイツなどで連続的な革命(=1848年革命)”が起こる。・・・ちなみに、『日本写真史年表』によれば・・・“この頃、前水戸藩主・徳川斉昭が、家臣の菊池忠(きくちただし)を長崎へと派遣して、写真術を研究させた”という説あり。

      ・・・そして、西暦1849年(嘉永2年)になると・・・
      ※ 西暦1849年(嘉永2年)5月6日:「薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)」が、“印影鏡(いんえいきょう)についての書(簡)”を、「前水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」に送る。(※『日本写真史年表』より)・・・「印影鏡」とは、当時の銀板写真のことですが・・・。

      ※ 同年6月7日:「薩摩藩主・島津斉彬」が、“印影鏡についての書(簡)”を、再び「前水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」に送る。(※『日本写真史年表』より)・・・もしかすると、銀板写真の話にかこつけて?・・・。

      ・・・尚、この西暦1849年(嘉永2年)には、「前水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」が・・・ご隠居の身だったにもかかわらず・・・ “更に、水戸藩政への関与を正式に許されることになり、自身の嫡男であり、藩主とされていた慶篤(※最後の征夷大将軍となる徳川慶喜の同母兄)の後見役”となる。・・・しかし、これに伴なって、水戸藩の門閥保守派が、再びその勢力を衰退させる方向に・・・。

      ・・・西暦1850年(嘉永3年)になると・・・
      ※ 西暦1850年(嘉永3年)7月27日:「薩摩藩主・島津斉彬」が、“印影鏡に関する訳術書(簡)”を、「前水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」に送る。(※『日本写真史年表』より)・・・やはり、“写真術などについての話題のみだった”と決め付けるのは早計かと。・・・もっと重要な政治課題に関わるような添え状などの有無についてが、気になるところです。・・・そして、“これらの書簡を徳川斉昭へ届けていた薩摩藩側の使者”とは、いったい誰だったのか?・・・西郷???・・・

      ・・・西暦1851年(嘉永4年)になると・・・
      ※ 西暦1851年(嘉永4年)2月28日:「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」の「袖留(そでとめ)の儀」が行なわれる。・・・「袖留」とは、男子の成年式に当たる元服の際に、それまで着ていた振袖の脇を塞ぐことであり、別名は「腋(わき)塞ぎ」とも。・・・“江戸時代頃の一般的な成年式は、服飾の変化が伴なうことを特色としますが、袖留の儀はその一例だった”とされ・・・また・・・「元服」は、13歳頃の「半元服」と15歳頃の「本元服」との二段階に分けられるのが、当時は一般的であり・・・“その場合における袖留の儀は、半元服のうちの一行事だった”とか。・・・ちなみに、この時の一橋慶喜は、数え年で、ちょうど15歳。“この約三年前には、婚約も済ませております”ので・・・つまりは・・・「半元服」の際に、「額(ひたい)直し」などと称して、“額の隅にある髪を剃りつつ袖留を行ない始め・・・“この西暦1851年(嘉永4年)2月28日に袖留の儀を完了させて、本元服に至った”ということになります。
      ・・・尚、この時の容姿については、“前髪を剃って烏帽子(えぼし)を被った”と考えられます。

      ※ 同年3月16日:「前水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」が、この日に初めて、「一橋邸(※江戸城の一橋門内、現東京都千代田区大手町1丁目4番地付近)」を訪れる。・・・この日、新たに実父から訓育的なものがあったのか否か?・・・或いは、今後のミッションについて?・・・いずれにしても、くどい話は無かったと考えられますが、互いの意思についての確認的作業はあったのではないでしょうか?・・・ちなみに、一橋慶喜が一橋家を相続するに当たっては、水戸家(=水戸藩)からは極々少数の家臣しか連れ立っては行けなかったと考えられますので・・・もしかすると、今後のパイプ役となり得る人材についての協議が為されたのかも知れません。

      ・・・そして、西暦1853年(嘉永6年)になると・・・
      ※ 西暦1853年(嘉永6年)2月2日: 「小田原」にて、「大地震」が「発生」する。・・・“小田原城(※別名は小峯城、小峰城、小早川城、小早川館とも、現神奈川県小田原市城内6)が大破する”など大きな被害あり。
      ※ 同年2月6日:“一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)と一条忠香(※法号は後大勝寺、一条忠良の四男)の養女とされる千代との婚約”が「解消」される。
・・・“この時の婚約解消の要因は、千代が疱瘡(ほうそう)を発症したためだった”とのことです・・・が、この四日前に起きた大地震による影響も少なからずあったかと。・・・いずれにしても、この時の一橋慶喜は、数えで17歳。

      ※ 同年5月内:「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、“一条忠香(※法号は後大勝寺、一条忠良の四男)の養女とされる美賀子(みかこ:※今出川公久の女)”と「婚約」する。・・・後に一橋慶喜の義父となる一条忠香は、従一位左大臣でした。・・・この一条忠香は、“後に起きた14代将軍継嗣問題では、いわゆる一橋派(ひとつばしは)を支持しますが、そもそもは公武合体派(こうぶがったいは)の人物であり、やがては・・・“尊皇攘夷派の公家達と対立してしまう”ことになります。・・・

      ※ 同年6月3日:「アメリカ・東インド艦隊のペリー提督」が、“4隻の黒船”を率いて、「浦賀沖」に「到着」する。・・・このペリー提督来航の前後より、幕府政治の弱体化とともに、武士層の人々を中心に、当時の社会的な矛盾や危機意識などが顕在化し始めていました。・・・この頃既に、全国諸藩のほとんどが、経済的には破綻寸前の困窮状態に陥っていたため、その多くは時勢を静観するに止まりました・・・が、そんな幕末期において・・・水戸藩は、薩摩藩や長州藩、土佐藩、肥前佐賀藩などの西南諸藩とともに、思想面や政治面で多くの足跡を遺すのです。・・・しかし・・・
      ※ 同年6月22日:「第12代征夷大将軍・徳川家慶」が、「病没」する。・・・この徳川家慶は、“暑気当たりで倒れ、熱中症による心不全を起こして亡くなった”と云われます・・・が、アメリカ・ペリー提督が率いた黒船来航直後の出来事でもあります。・・・ちなみに・・・この家慶は、“自身の実子で唯一成人することが出来た徳川家定(とくがわいえさだ:※後の第13代征夷大将軍)が、幼少の頃から病弱であり人前に出ることを極端に嫌う性格であったため、将軍継嗣としての器量を心配していたため”・・・“一時は、水戸家から一橋家へ養子に入った一橋慶喜を、将軍継嗣の有力候補として考え、実際に一橋邸を度々訪問するほどだった”ともされます。・・・しかしながら、現実には・・・“老中・阿部正弘ら幕閣から、これに反対されたため、結局は実子の家定を将軍継嗣にした”とのこと。・・・

      ※ 同年7月3日:「幕府」が、“ペリー提督の浦賀来航後、西欧列強の日本接近の危機に備えるため”として・・・「前水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」を「海防参与(かいぼうさんよ)」に、「水戸藩家老・戸田忠敞(とだただたか:※通称は忠太夫、号は蓬軒)」及び「藤田彪(※号は東湖、藤田幽谷の次男)」を「海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)」に、“戸田忠敞の実弟”でもある「水戸藩士・安島信立(あじまのぶたつ:※後の通称は帯刀)」を「海防参与秘書掛(かいぼうさんよひしょがかり)」に任じる。・・・ここにある「海防参与」とは、文字通りに“西欧列強などの異国船から日本の海岸線を防御するために幕府政策のあり方を検討する部署”とされます・・・が、実際には、政策決定権などが付与されない、“云わば相談役のような立場だった”と考えられます。・・・また、「海岸防禦御用掛」のことを、単に「海防掛」とも云います。
      ※ 同年7月18日:「ロシア大使・プチャーチン」が、“日本の開国と通商を求めるため”として、「国書」を持って、「長崎」に「来航」する。
      ※ 同年7月頃のこととして:「幕府・老中首座の阿部正弘(※備後福山藩主)」が、“朝廷や外様雄藩、市井(しせい)の人を含む諸侯有司”に向けて・・・“アメリカの開国通商要求への対応策を下問する”とともに・・・“英語や米国情報、造船技術、操船技術、測量技術などの西洋知識を得るため”として・・・「中濱萬次郎(※ジョン万次郎のこと)」を「招聘」する。
・・・尚、“この時の阿部正弘は、中濱萬次郎に直参旗本の身分を与えて、幕臣の江川英龍(えがわひでたつ)配下とし、軍艦教授所の教授に任命した”とのこと。・・・また、ペリー浦賀来航を期に、品川で砲台を築造工事を開始して、これが翌年に完成すると、これを「お台場」と呼んだとされます。

      ※ 同年9月24日:「江戸駒込・水戸藩中屋敷(※駒込邸とも)」において、“前水戸藩主であり幕府海防参与を拝命していた徳川斉昭(※後の烈公)の十八男”として、「余八麿(よはちまろ:※後の松平昭徳、後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物)」が「誕生」する。

      ※ 同年10月30日:“水戸藩によって進められていた洋式軍艦建造のための雛型(ひながた:※縮小模型のこと)が、次期将軍内定者・徳川家定以下の者達”に「供覧」される。
・・・かねてから、水戸藩江戸上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも)では、“藩お抱えの蘭学者達が中心となり、オランダの造船書などの翻訳や、それに基づく雛型製造が進められていた”とされます。・・・尚、当然のこととして・・・この雛型製造に、前水戸藩主であり幕府海防参与を拝命していた徳川斉昭や、水戸藩家老で海岸防禦御用掛・戸田忠敞及び藤田彪、海防参与秘書掛・安島信立などが主導して推し進めていたことは、ほぼ間違いありません。

      ※ 同年11月12日:「幕府」が、「水戸藩」に対して、“正式に日本最初期となる洋式軍艦”の「建造」を命じる。
      ※ 同年11月23日:“幾多の行事”を経て、「徳川家定」が正式に「第13代征夷大将軍」となる。

      ・・・尚、この頃の水戸藩は・・・幕府や諸藩に先駆けて「天保の改革」を実践するなど、自らの経済基盤の再建を目指し、それらが一定の成功をみせており
・・・また、これらとほぼ同じくして・・・「(後期)水戸学」が、その開花期を迎えることとなり・・・9代藩主の徳川斉昭(※後の烈公)や藤田彪(※号は東湖、藤田幽谷の次男)、会沢安(※通称は恒蔵、号は正志斎、欣賞斎、憩斎とも)らによる著書や言行が、いわゆる尊皇攘夷論の思想的な背骨とされて、広く天下の志士達の注目の的になっていたのです。

      ・・・西暦1854年(嘉永7年)になると・・・
      ※ 西暦1854年(嘉永7年)1月2日:「水戸藩」が整備した「石川島造船所」において、“日本最初期となる洋式軍艦建造のための起工式”が行なわれる。・・・「石川島造船所」の所在は、隅田川河口付近の石川島(現東京都中央区佃2丁目)であり、幕府の直轄地とされていました。・・・尚、そこが“現在のIHI(※旧社名は石川島播磨重工業株式会社)の起源の地”とされます。
      ※ 同年1月16日:「アメリカ・ペリー提督」が、前年に続いて、「江戸湾」に「再来」する。
      ※ 同年1月24日:「幕府」が、「一朱銀(いっしゅぎん)」の「通用」を「開始」する。
・・・尚、この「一朱銀」は、当時から「お台場銀」と呼ばれていたとのこと。・・・これは・・・異国船が再び現れて開国要求したことなどにより、先行き不安が拡がって、大江戸の問屋などの流通機能が麻痺し始め・・・結果として、品薄状態に陥り、物価上昇(=インフレーション)が発生したためであり・・・そして、この物流停滞が地方の商圏へも次第に波及することにも繋がり・・・全国諸藩の財政だけではなく、実際に庶民の暮らしにまで大打撃を与えていたことが分かります。

      ※ 同年3月3日:「幕府」が、“アメリカから全権委任されていた東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリー”と、「日米和親条約」を「締結」する。・・・この条約により・・・日本は下田(現静岡県下田市)と箱館(現北海道函館市)を開港し、事実上且つ長らく続けていた鎖国体制が終焉を迎えることとなりました。・・・但し、“終焉を迎えたのは、幕府による完全な鎖港政策ではなく、長崎の出島を活用した限定的な開港政策とも云うべき実態だった”とされますが。

      ※ 同年4月6日: 「京都」で「大火」が「発生」し、「内裏」が「焼失」する。

      ※ 同年6月15日:「伊賀上野」にて、「地震」が「発生」する。(=安政伊賀地震)

      ※ 同年9月18日:“ロシア大使・プチャーチンが、大坂に寄港する”・・・と、「京畿地方」が「騒然」となる。
・・・京都では内裏が焼失し、伊賀上野でも地震が発生していましたので・・・その上に、“通商関係さえも無かった異国人のプチャーチンが大坂までやって来たとなる”と・・・当時の京畿地方の人々にとってみれば・・・災いを齎(もたら)す怨霊か? 鬼や天狗など妖怪の類いに捉えられていたのでしょう。・・・しかしながら、当時の瓦版などを見ると、確かにセンセーショナルには報じておりますが・・・一方で茶化していたり、怖がりつつも楽しんでいた様子なども窺えますね。・・・何かと右往左往していたのは、武家や公家の人々だけだったのかも知れませんが・・・。

      ※ 同年11月4日:「安政東海地震」が「発生」する。(※東南海地震を含む)・・・この地震では、大津波が発生して、この前年に建造されたばかりのロシア軍艦ディアナ号が大破遭難してしまいます。・・・このディアナ号は、“日露和親条約締結交渉のため、ロシア大使のエフィム・プチャーチンの乗艦とされ、箱館と大坂を経由して下田に訪れた際に、大津波に遭遇して宮島村(現静岡県富士市)の沖で沈没した”とのこと。・・・
      ※ 同年11月5日:「安政南海地震」が「発生」する。・・・前日の「安政東海地震」から、約32時間後の出来事でした。
      ※ 同年11月7日:「豊予海峡」にて「地震」が「発生」する。・・・「豊予海峡」とは、現在の大分県と愛媛県との間にある海峡のこと。・・・いずれにしても、この頃の地球と云うか、日本列島周辺が・・・物理的にも揺れに揺れております。
      ※ 同年11月27日(※現在の暦では西暦1855年1月15日):“内裏の炎上や度重なる大地震の発生、黒船来航などの災異”のため、「嘉永」から「安政」に「改元」される。

      ※ 同1854年(安政元年)12月21日(※現在の暦では1855年2月7日):「幕府」と「ロシア」の間で、「日露和親条約」が「締結」される。
・・・

      ・・・尚、この頃の水戸藩は・・・“日米和親条約締結後に改元が行なわれたちょうど、この頃”に・・・那珂湊において、洋式大型金属溶解炉「反射炉(はんしゃろ)」とされる「水戸藩営大砲鋳造所建設」に「着手」するとともに・・・『日本写真史年表』によれば・・・“徳川斉昭(※後の烈公)が、藩士の菊池富太郎(きくちとみたろう)を長崎へ留学させ、写真術を研究させた”・・・とされます。・・・ちなみに、この菊池富太郎とは・・・“同じく写真術研究のために西暦1848年(嘉永元年)へ派遣されたという菊池忠”と「同姓」であるため・・・この二人に何らかの一族関係があったのか? 或いは、当時の政治的な事情により、「菊池忠」という人物が「菊池富太郎」へ、その名を変じたのか?(※つまりは、この二人が同一人物ということ)・・・こればっかりは、当の菊池家の家系図や伝承などによらない限り、残念ながら断定出来ません。
      ・・・しかし、ここからは私見となりますが・・・この二人には、実の兄弟関係や養子縁組を含む親子関係などが成り立つのではないか? とも考えております。その理由としては・・・一つ目に、当時の最先端の西洋技術の一つとして研究対象とされた写真術を学ぶという重要な役目を、“当時の徳川斉昭から託されていたということ”は・・・すなわち、“これらの技術を修得することが見込まれた人物だった”ということ。・・・二つ目に、常陸の「菊池氏」は・・・一文字違いの「菊地氏」も同族ですが・・・いずれにしても、元佐竹遺臣の一族であり、水戸藩から郷士格を与えられて藩士とされた家系のため、“この時に必要とされた科学或いは化学分野についても個人的な素養を兼ね備えていた人物であった筈”・・・と考えるのであります。これらは、あくまでも私見です。

      ・・・西暦1855年(安政2年)になると・・・
      ※ 西暦1855年(安政2年)2月1日:「飛騨地震」が「発生」する。

      ※ 西暦1855年(安政2年)4月5日:「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、“鎌倉への遠馬(えんば:※馬に乗って遠方まで走ること、遠乗りとも)”を試みる。
・・・自らの気を静めるとともに、日本という国家の今後についてを思索するための遠乗りだったのでしょうか?・・・いずれにしても、この時の一橋慶喜は、数えで19歳。

      ※ 同年10月2日:「安政江戸地震」が「発生」し、「水戸藩・江戸上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも)」において、「家老」の「戸田忠敞(※通称は忠太夫、号は蓬軒)」や「藤田彪(※号は東湖、藤田幽谷の次男)」が「圧死」する。・・・・・・・・・


      ※ 同年12月3日:「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、“公卿の一条忠香(※法号は後大勝寺、一条忠良の四男)養女の美賀子(※今出川公久の女)”と「結婚」する。
      ※ 同年12月15日:「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、「参議」に任じられる。

      ※ 同年内:「京都」において、“平安様式に倣った安政内裏”が「再建」される。
            「前水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」が、「幕府」から「軍制改革参与」に任じられる。・・・尚、「那珂湊」において「水戸藩営大砲鋳造所」の「第1炉(西炉)」が「完成」する。


      ・・・西暦1856年(安政3年)になると・・・
      ※ 西暦1856年(安政3年)3月15日:「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」へ、“幕府・勘定奉行であった川路聖謨(かわじとしあきら:※号は敬斎)からの諸件に関する進言書”が届き・・・これ以降両者が親交を持つ。・・・「川路聖謨」とは、豊後日田代官所の役人の息子に生まれた御家人出身者ながら、勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)や佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、勘定奉行など幕府の要職を歴任し、和歌にも造詣が深く『島根乃言能葉(しまねのことのは)』などの歌集も遺しておりますが・・・何よりも、この前々年の西暦1854年(安政元年)12月21日に、下田にて日露和親条約に調印した人物です。
      ・・・その翌年の西暦1855年(安政2年)には、「禁裏御造営御用掛」を兼務して、“上記の安政内裏再建”にも関わり・・・西暦1857年(安政4年)には、「朝鮮使節来聘御用」をも兼務し・・・西暦1858年(安政5年)1月には、老中・堀田正睦(ほったまさよし:※下総佐倉藩主)の副役として上洛しました・・・が、ここで将軍継嗣問題が発生して、井伊直弼(いいなおすけ:※近江彦根藩主)が大老に就任すると、いわゆる一橋派に対する粛清が始められることとなり・・・この川路聖謨は、同年5月6日に「(江戸城)西丸留守居(役)」に「左遷」され・・・翌年の西暦1859年(安政6年)には、この役職も「罷免」されて、「隠居差控」を命じられてしまいます。・・・しかし、その後の西暦1863年(文久3年)には、勘定奉行格とされる「外国奉行」に復帰するのですが、当の川路聖謨が“外国奉行とは名ばかりの一橋慶喜関係の御用聞きのような役回りに不満があったよう”でして、病気を理由に僅か4カ月で「辞職」してしまいます。
      ・・・その後には、中風(※脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随となる状態)による半身不随などの不幸が続き・・・西暦1868年(慶応4年)3月15日に、割腹の後に、拳銃で喉を撃ち抜き自決。享年68。辞世の句を・・・「天津神に 背くもよかり 蕨つみ 飢えにし人の 昔思へは」・・・とし、その横に・・・「徳川家譜代之陪臣 頑民斎川路聖謨」・・・と自署していたとのこと。・・・ちなみに、川路聖謨が亡くなった日は、時の新政府軍による江戸総攻撃予定日とされていたものの・・・旧幕府側の代表とされた勝義邦(かつよしくに:※後に安芳と改名、通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟)や新政府側の西郷吉之助(※後の隆盛)らの会談によって、江戸城無血開城が決定したことを知らず・・・“病躯が戦の足手纏(まと)いになることを恐れて自決した”とも・・・または“江戸開城の報を聞き、滅びゆく幕府に殉じた”とも云われます。
      ・・・尚、自害に拳銃を用いたのは、半身不随であったために、刀では上手く死ねないと判断したからではないか? と考えられており、日本における拳銃自殺者第1号とも云われます。・・・
      ※ 同年3月24日:「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、“幕府秘蔵”の「ライフル銃」を借り受けて、これを「拝見」する。(※『新稿一橋徳川家記』より)・・・この時の一橋慶喜は、数えで20歳。

      ※ 同年5月頃:「水戸藩」が、“西洋式帆船型軍艦の旭日丸(あさひまる)を竣工させる”・・・と、この「旭日丸」が、「水戸藩」から「幕府」へ「献上」され・・・“後の幕府海軍において運用される”こととなる。・・・このように、日本最初期の西洋式軍艦として建造された旭日丸でした・・・が、竣工された時には、既に軍艦の主流が蒸気船へと遷っており・・・旭日丸のような純粋な帆船は、時代遅れとなってしまい・・・“当初から軍艦としてよりも輸送船として使用されることが多かった”と云われます。・・・ちなみに・・・旭日丸は、これより約10年後のこととなる西暦1866年(慶應2年)の(第2次)長州征討の際には、この旭日丸が、幕府艦隊の一隻として周防大島における上陸作戦に使用されています。・・・尚、その後の明治維新後には、やはり輸送船として引き続き使用され、“沿岸における海運事業に使用された”とのこと。
      ※ 同年5月26日(※現在の暦では1856年6月28日):“隣国の清(しん)王朝とイギリス・フランス連合軍”との間で、「アロー戦争(※第2次阿片戦争とも)」が起こる。・・・この戦争は、西暦1860年8月まで続き、最終的には「北京条約」の締結によって終結しますが・・・この後の7月21日に、日米和親条約の規定に基づいて、アメリカのタウンゼント・ハリスが伊豆の下田に着任すると・・・ハリスが、日米修好通商条約の締結に当たって、“このアロー戦争などを引き合いにしつつ、イギリスが日本に出兵する可能性を仄(ほの)めかして、江戸幕府(=徳川幕府)に圧力を加えた”とされており・・・当時の日本にとっては、かなりのインパクトがあったかと。

      ※ 同年7月21日:「アメリカ」の「外交官」として「タウンゼント・ハリス」が「下田」に「着任」し、“通貨の交換率など幕府との交渉”に当たる。・・・
      ※ 同年7月23日:「安政八戸沖地震」が「発生」し、“強震と津波による被害”が出る。・・・またしても・・・
      ※ 同年7月28日:「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、実母の「吉子女王(よしこじょうおう:※名は芳子とも、有栖川宮織仁親王の第12王女であり、落飾後の貞芳院、没後は文明夫人とも)」へ「書(状)」を呈して、“実父である徳川斉昭の幕議における海防参与役の辞退について”を勧める。・・・?・・・?・・・やはり、“当時のアメリカの要求内容が、ハリスから幕府へ、幕府から一橋慶喜へと伝わっていた”と考えられます。

      ※ 同年8月25日:「江戸」に「台風」が「襲来」し、“猛烈な暴風と高潮”が「発生」する。・・・“この時の災害による死者は、約10万人に上った”とされる。

      ・・・西暦1857年(安政4年)になると・・・
      ※ 西暦1857年(安政4年)3月11日:「薩摩藩主・島津斉彬」が、「一橋邸」を来訪し、「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」に「拝謁」する。・・・
      ※ 同年3月27日:「薩摩藩主・島津斉彬」が、この日に再び「一橋邸」を「来訪」するとともに・・・“一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)のことを、早く西城で仰ぎたい”という「書(簡)」を、「越前福井藩主・松平慶永(まつだいらよしなが:※号は春嶽)」へ送る。・・・この時の書(簡)にある「西城」とは、“江戸城の西の丸及び山里曲輪(くるわ)のこと”であり・・・この「西の丸」とは、“前将軍の隠居所や、次期将軍の居所として用いられていた場所”です。・・・したがって、“早く西城で仰ぎたい”とは、“一橋慶喜のことを、早い段階で次期将軍として仰ぎたい”という意味となります。

      ※ 同年4月17日(※現在の暦では西暦1857年5月10日):「インド」において、“イギリスの植民地支配に対する民族的な抵抗運動・反乱”が起きる。(=インド大反乱、第1次インド独立戦争とも)。・・・しかし、反乱を起こされたイギリス軍は、当時最新式となるエンフィールド銃を大量に配備しており、命中精度が低く短い射程でしか射撃出来ない旧式銃を用いる反乱軍を、射程外の距離から正確に射撃する事で圧倒することで、西暦1859年中頃にはインド全土を完全に掌握することになりました・・・が、“当時のイギリス政府は、もはや一つの会社に広大なインド領を託すことに限界がある”として・・・この動乱の全責任を負わせる格好で「イギリス東インド会社」を解散させて、インド全土の直接統治に乗り出すこととなり・・・ムガル王朝の皇帝を、“ビルマへの流刑とする”のです。・・・

      ※ 同年5月5日:「前水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」が、「水戸藩江戸上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも)」において、「茶会」を催す。・・・この茶会の主客は、「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」。相客は、「吉子女王(※名は芳子とも、有栖川宮織仁親王の第12王女であり、落飾後の貞芳院、没後は文明夫人とも)」と、徳川斉昭の六女であった「松姫(※名は明子とも、盛岡藩主・南部利剛〈なんぶとしひさ〉の正室)」。・・・尚、この日に、「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、実母の「吉子女王(※名は芳子とも、有栖川宮織仁親王の第12王女であり、落飾後の貞芳院、没後は文明夫人とも)」へ「書(状)」を呈して、“実父である徳川斉昭の幕議参与役辞退”についてを、再び促した。

      ※ 同年7月23日:「前水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」が、“海防参与などの幕議参与役の辞退”を、「幕府」から許される。
・・・これにより、“海岸防禦御用掛とされていた戸田忠敞と藤田彪や、海防参与秘書掛とされていた安島信立ら水戸藩の者達も当然に、主君に同調して役目を辞退した”と考えられます。

      ※ 同年10月16日:「越前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)」と「阿波徳島藩主・蜂須賀斉裕(はちすかなりひろ:※11代将軍・徳川家斉の二十二男で12代将軍・徳川家慶の異母弟に当たるが、外様大名・蜂須賀斉昌〈はちすかなりまさ〉の養嗣子となる)」が・・・“一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)を将軍・徳川家定の継嗣に”・・・と、「幕府」へ「建議」する。
      ※ 同年10月25日:「薩摩藩主・島津斉彬」が・・・“一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)を将軍・徳川家定の継嗣に”・・・と、「幕府」へ「建議」する。
・・・同年10月16日についても同様ですが、いわゆる一橋派による政治活動です。・・・しかし、“時の幕府への建議”ですから、むしろ「直談判」と云う方が適切な表現かと。

      ※ 同年内:「水戸藩・那珂湊」において、「反射炉・第1炉(西炉)」に続いて「第2炉(東炉)」が「完成」し・・・“水戸藩営大砲鋳造所として、鉄製大砲を鋳造する体制が整う”・・・と、“太平洋沿岸部の台地上に海防砲台となる台場”を、幾つか「築造」する。・・・そして、“これら台場の近くに、異国船を監視するための番所と、水戸藩営大砲鋳造所が製造した鉄製大砲”を「設置」するとともに・・・“江戸の防備のためとして、青銅製大砲74門及び弾薬”を、「幕府」へ「献上」した。

      ・・・年が明けて西暦1858年(安政5年)になると・・・
      ※ 西暦1858年(安政5年)2月26日:「飛越地震」が「発生」し、「北陸地方」に“大きな被害”を齎(もたら)す。・・・この地震は、“越中と飛騨の国境(現富山県と岐阜県の境い付近)の断層を震源として発生した地震であった”と推定されています。

      ※ 同年3月12日:「朝廷」において、“日米修好通商条約締結へ反対するため”として、「廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょうれっさんじけん)」が起こる。・・・この事件は、岩倉具視(いわくらともみ)や中山忠能(なかやまただやす)ら合計88名の堂上公家(≒上級貴族)が、孝明天皇の勅許打診を巡って起こした幕府への抗議行動とされ、“(日米修好通商)条約案の撤回を求めるためとして、実際に座り込みを行なったのです”が・・・。

      ※ 同年4月23日:「井伊直弼(※近江彦根藩主)」が、「幕府・大老職」に「就任」する。・・・

      ※ 同年6月19日:「幕府」が、“孝明天皇の勅許を得ぬまま”に、「アメリカ」と「日米修好通商条約」を「締結」する。・・・このことが、それまでの幕府政策に対して、弱腰であるとの批判の念を懐く全国志士達の心を、更に燃え上がらせてしまうことになります。・・・
      ※ 同年6月23日:「前水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」が、“越前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)や尾張藩主・徳川慶恕(とくがわよしくみ:※後の慶勝)、一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)ら”とともに、「江戸城」へ「無断登城」し・・・“時の将軍継嗣問題や天皇による勅許無しのアメリカとの条約調印を巡り、条約調印で宿継奉書(やどつぎほうしょ:※今に云う、速達扱いの奉書のこと)にて朝廷へ上奏したことなどについて”・・・“将軍・徳川家定から大老職に任じられていた井伊直弼(※近江彦根藩主)”を「詰責」する。・・・この無断登城&詰責が、長らく続く江戸幕府(=徳川幕府)からすれば、“たとえ徳川御三家や親藩、御三卿と謂えども、まさに掟破りの行為”として目に映る訳です。・・・

      ※ 同年7月5日:「幕府大老・井伊直弼(※近江彦根藩主)」が、“一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)の(江戸城)登城について”を「停止」する。・・・
      ※ 同年同日:「幕府大老・井伊直弼(※近江彦根藩主)」が、「前水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)」を、“江戸駒込・水戸藩中屋敷(※駒込邸とも)における謹慎処分”とし・・・“徳川斉昭(※後の烈公)が幕府中枢から事実上排除”される。・・・・・・
      ※ 同年同日:「幕府大老・井伊直弼(※近江彦根藩主)」が、“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の(江戸城)登城について”を「差止」とし・・・「尾張藩主・徳川慶恕(※後の慶勝)」と「越前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)」にも、「隠居謹慎」を命じる。・・・・・・・・・
      ※ 同年7月6日:「第13代征夷大将軍・徳川家定」が没す。・・・“徳川家定の死の直前には、大老・井伊直弼と母の本寿院(ほんじゅいん)の判断”によって・・・「漢方医」の「青木春岱(あおきしゅんたい)」と「遠田澄庵(とおだちょうあん)」・・・そして、「蘭方医」の「伊東玄朴(いとうげんぼく)」と「戸塚静海(とつかせいかい)」が・・・“江戸城への登城を許され、家定を診察した”とされます・・・が、いずれにしても・・・“これ以降の江戸城では、蘭方医達による西洋医学が幅を利かせた”と云われます。・・・尚、“家定の死因については、通説では持病の脚気(かっけ)が悪化したためとも、その頃流行していたコレラによるもの”とも云われておりますが・・・“当時の家定の死が、前水戸藩主・徳川斉昭を始めとする一橋派と目されていた諸大名への処分の翌日だったため、一橋派の者が奥医師の岡櫟仙院(おかれきせんいん)という人物を使って、報復のため家定を毒殺したのではないか? という噂が流布されたことがあった”ようです。・・・?・・・でも、そもそも利するのはどっち?
      ※ 同年7月8日:「薩摩藩主・島津斉彬」が、「鹿児島城(※別名は鶴丸城とも、現鹿児島県鹿児島市城山町)下」にて「病い」を発し、倒れる。・・・この時の島津斉彬は、“鹿児島城下で上洛出兵のための練兵状況を観覧していた”とされます。・・・しかも・・・“将軍継嗣問題で一橋派が敗れてしまったため、その政治的な劣勢状況を巻き返しを図る目的で、薩摩藩兵5千人規模による抗議上洛を果たすという計画であった”とか。・・・
      ※ 同年7月10日:「幕府」が、「オランダ」と「日蘭修好通商条約」を「締結」する。・・・
      ※ 同年7月11日:「幕府」が、「ロシア」と「日露修好通商条約」を「締結」する。・・・・・・
      ※ 同年7月16日:「薩摩藩主・島津斉彬」が没す。・・・享年50。・・・島津斉彬の死因については・・・“当時の日本で流行したコレラを患った”という説が有力です・・・が、突然の急死であったが故に、斉彬の嫡子達がいずれも夭折(ようせつ)していることと併せて、当時は・・・父の斉興(なりおき)や、異母弟の久光(ひさみつ)、或いは彼らを支持する者達の陰謀であるとの噂もあったとか。・・・また・・・南九州の薩摩ではコレラの流行が既に終わっていたことや、症状が悪化するスピードがコレラによる症状に該当しないこと、もしも異常なまでの心臓の衰弱が、当時の斉彬にあったとしても、赤痢や腸チフスなどのコレラ以外の病気を死因とする他の病死説にも当てはまらないことを指摘して、暗に毒殺説を支持する人もおりますね。
      ・・・いずれにしても、斉彬の遺言によって、久光の長男である忠義(ただよし)が後継者とされる訳ですが・・・“斉彬の遺言では、忠義に斉彬の長女を嫁がす条件で仮養子として、斉彬の四男だった哲丸(てつまる)を忠義の後継者に指名しており、哲丸と忠義との相続争いを未然に防止する内容になっていた”とのこと。
      ※ 同年7月18日:「幕府」が、「イギリス」と「日英修好通商条約」を「締結」する。・・・これらのように、大老・井伊直弼が主導する幕府が、立て続けに西欧諸国と修好通商条約を締結すると・・・

      同年8月8日:“幕府の横暴な行為に対して業を煮やされた”という「孝明天皇」が、「幕府」と「水戸藩」に対して「勅書(=勅諚)」を「下賜」する。・・・ちなみに、この勅書(=勅諚)のことを、「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と云います。“時の幕府を飛び越えて、水戸藩へも下賜されたが故の密勅”です。・・・いずれにしても、この時の密勅内容を要約すると・・・

      ① “幕府が勅許も無く日米修好通商条約などに調印したことに対する呵責(かしゃく:※厳しく咎めて叱ること)と、詳細説明すべき”との「要求」
      ② “徳川御三家及び諸藩が、幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよ”との「命令」
      ③ “①と②の二つの内容を諸藩に廻達せよ”との「副書」


      ・・・この「戊午の密勅」に関して云えば・・・当時の幕府からすれば・・・たとえ徳川御三家の一家と謂えども、将軍の臣下である筈の水戸藩へ、朝廷から直接勅書が渡されたということが・・・幕府をないがしろにした行為であり、結果としても幕府の威信そのものが失墜させられたことに他なりません。・・・更には・・・この頃ちょうど重なって問題となっていたことは・・・この前月に将軍の家定が亡くなって、後に表面化し喫緊の課題とされた将軍継嗣問題でした。・・・幕府大老・井伊直弼を筆頭とする南紀派(なんきは)が、新将軍に紀州徳川家の徳川慶福(とくがわよしとみ:※後の家茂)を擁立しようと、水戸徳川家出身者の一橋慶喜を後継将軍に推す一橋派との間で激しい政争の真っ只中でしたので。

      ・・・このような情勢下・・・“当時の幕府は、まるで止まることを知らぬかのように、諸外国との修好通商条約締結へ突き進んでしまう”のです。

      ※ 同西暦1858年(安政5年)9月3日:「幕府」が、「フランス」と「日仏修好通商条約」を「締結」する。
・・・これらのアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランス五カ国との修好通商条約締結を「安政五カ国条約(あんせいのごかこくじょうやく)」と呼びますが・・・日米修好通商条約締結後、幕府は西欧列強の軍事力を背景とした外交圧力により、順次同様の条約を各国との間で、既成事実化させるかのように連続して締結していたのです。・・・これらの条約は、先例に倣って、幕府大老・井伊直弼がその職責のもとに調印しました・・・が、時の孝明天皇はあくまでも、これらの条約を認めずに、幕府が締結してしまった条約を追認するような勅令を下しておりません。
      ※ 同年9月5日:“幕府大老・井伊直弼(※近江彦根藩主)が主導して、いわゆる反対派勢力への弾圧”が始められる。(=安政の大獄)・・・尚、この「安政の大獄」では、井伊直弼による粛清対象が日を追うごとに増加して・・・皇族や公家、大臣、僧侶、藩主、幕臣、浪人、学者、名主、町人等々に及ぶこととなり・・・最終的には、“これに関係して直接的に罪を得た者、或いは社会的な失脚や迫害などを直接的に被った者だけでも100名以上にのぼった”とされておりますが・・・
      ※ 同年同日:「幕府」が、“信濃国松本(現長野県松本市)出身の尊皇攘夷派志士・近藤茂左衛門(こんどうもざえもん:※諱は弘方、号は楽平斎、道林とも)”を、「中山道・大津宿(現滋賀県大津市浜大津)」にて「捕縛」する。・・・この「近藤茂左衛門」という人物が、いわゆる「安政の大獄」における“逮捕者の一人目に当たる”のです・・・が、この人の生家は、そもそもとして・・・信濃国松本城下の名主の家系です。そして、この生家が、旧藩主である水野氏の松本入封に従がった西暦1642年(寛永19年)以来、同地で飛脚問屋や麻問屋、醸造・薬舗を生業としており、“江戸では祖父の代から水戸藩邸の用達(ようたし)も務めていた”とされます。
      ・・・また、この人自身は・・・幼い頃から学問に励み、実弟とともに出雲の神官や、その師匠に当たる人物からも国学や和歌を学んだ後、時の幕府の専横を憂(うれ)いて尊皇(≒勤王)に傾いて・・・“この西暦1858年(安政5年)には、弟とともに江戸・向島にて私塾を開いて、兵法学や筆道を教授していた”とされます・・・が、“近藤茂左衛門が捕縛される直前頃には、前水戸藩主・徳川斉昭の内意を受けて上洛し、当時の堂上公家(≒上級貴族)達に対して、幕府大老・井伊直弼による徳川御三家への謹慎を解除させるという周旋を依頼していた”とのこと。特に、“正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)家とは、信濃松本藩主・戸田松平家と由緒を同じくする親戚に当たるため、度々松本藩士が派遣されていたよう”です。・・・しかし、尊皇攘夷派志士達と盛んに交流して、「戊午の密勅」の仲介をも果たしていたことから、結果的にも幕府から追われる立場となって・・・一旦は京都を逃れるも、弟は間もなく病没し、自身も大津宿で捕えられたのです。
      ・・・捕縛後の近藤茂左衛門は、幕府から京都・六角獄舎(ろっかくごくしゃ:※平安時代に建設された左獄と右獄を前身とする牢獄のこと。正式名将は三条新地牢屋敷。所在は現京都府京都市中京区因幡町)において吟味を受けた後、江戸・北町奉行所に送致され・・・翌西暦1859年(安政6年)には、中追放刑(≒江戸の10里四方及び山城国からの所払い)を受けて、家財没収の上、越後国頚城(くびき)郡山寺村(現上越市板倉区東山寺及び上越市西山寺付近)に移され、家族らも連座して幽閉されてしまいます。・・・しかし、西暦1862年(文久2年)には、時局が公武合体路線へ転換されることになり、赦免されると帰郷を果たしました。・・・明治維新後の西暦1869年(明治2年)には、新政府から家屋及び田畑を賜わり・・・西暦1879年(明治12年)に亡くなります。享年80。
      ・・・ちなみに、近藤茂左衛門が捕縛される以前に周旋の依頼をしていたという「正親町三条実愛」も・・・この西暦1858年(安政5年)3月12日の「廷臣八十八卿列参事件」における“廷臣の一人”として、時の幕府に対して反対論を展開し・・・やはり、「安政の大獄」の連座責任を負わされました・・・が、近藤茂左衛門らと同じ理由で、西暦1862年(文久2年)には国事御用掛(こくじごようがかり:※国事を議するため、朝廷に設けられた役職)に就任しています。・・・しかし、当時の薩摩藩が主導する公武合体運動を支持して「航海遠略策」に賛同したため、他の尊皇攘夷派志士達から敵視されることになり、その結果・・・翌西暦1863年(文久3年)には、またもや失脚してしまいます。・・・すると今度は・・・同年の「八月十八日の政変」によって朝廷へ復帰して、その後には薩摩藩と接触を図り、“討幕派公卿の一人”として活動しました。いずれにしても、時の朝廷を、或る意味でリードしていた人物です。
      ・・・尚、「航海遠略策」とは・・・簡潔に云うと、“異人斬りに象徴される単純な外国人排斥”となる「小攘夷」や、“幕府が諸外国と締結した不平等条約を破棄させる”という「破約攘夷」ではなく・・・“むしろ、広い世界で積極的に航海や通商をして、国力を養成し、その上で諸外国に対抗していこう”とする「大攘夷思想」に通じる考えのことです。
      ※ 同年9月7日:「幕府」が、“儒学者・梅田雲浜(うめだうんぴん:※名は義質、定明とも、通称は源次郎、号は雲浜のほかに、湖南とも、元若狭小浜藩士)”を、「京都」にて「捕縛」する。・・・この「梅田雲浜」が、いわゆる「安政の大獄」における“逮捕者の二人目に当たる”訳です。・・・当時の梅田雲浜が捕縛されてしまったのは、ペリー提督の浦賀来航の際に、異国との条約締結への反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて、尊皇攘夷を求める志士達の先鋒役となって、幕政を激しく批判していたためです。・・・捕縛後には、京都から江戸に送られ・・・“吟味中に箒尻(ほうきじり)を用いて何度も身体を打たれる”という拷問をされても、何一つとして口を割ることは無く・・・“この七日後の同年9月14日に、獄中にて病死した”とされます。・・・彼の死因については、“流行のコレラを罹った”とも・・・または、“拷問における負傷が悪化して亡くなった”とする説がありますが・・・いずれにしても、享年45。・・・辞世の句は・・・「君が代を 想ふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり」
      ※ 同年9月18日:“安嶋宛へ問題の書簡を送った”とされる「鵜飼知信(うがいとものぶ:※通称は吉左衛門、号は拙斎、水戸藩京都留守居役)」と、その子の「知明(ともあき:※通称は幸吉、菊次郎とも、変名は小瀬伝左衛門、水戸藩京都留守居役助役)」が、“当時上洛していた幕府老中・間部詮勝(まなべあきかつ:※越前鯖江藩主)”によって「捕縛」され、「京都・六角獄舎」に「投獄」される。
・・・いわゆる「安政の大獄」が始められると・・・“水戸藩では、藩を揺るがす一大事に発展してしまう”ことになります。・・・“この日の水戸藩士・鵜飼親子捕縛を発端”として・・・“かつては幕府の海防参与秘書掛とされ、この時には既に水戸藩の家老となっていた安島信立(※通称は帯刀、戸田忠敞の実弟)と、水戸藩奥右筆とされていた茅根為宜(ちのねためのぶ:※名は泰とも、通称は伊予之介、号は寒緑)という重臣二人も、「戊午の密勅事件」への関与を疑われて、幕府により囚われてしまう”のです。

      ・・・問題の書簡にあるという“安嶋こと”、「安島信立」とは、そもそも
・・・黒船来航など西欧列強の脅威が降り掛かる国難に対処し得る将軍として、主君の徳川斉昭の実子である一橋慶喜に期待し、慶喜のことを・・・「徳川の流れを清ましめん御仁」・・・と評すなど、“実際に後継将軍とすべく、茅根為宜らとともに、あちこちの要人との間で奔走していた”とされる人物ですが・・・

      ・・・この安島信立と茅根為宜が幕府によって囚われることとなった直接的な原因については・・・“水戸藩士の鵜飼知信(※通称は吉左衛門、号は拙斎、水戸藩京都留守居役)から安(あじま)宛への書簡であった”と云われ・・・また、“その書簡内容に、幕府大老・井伊直弼を失脚させるという秘事が含まれており、その内容が幕府に漏洩してしまった”と。・・・しかしながら、この書簡の原書や、いわゆる密書などは、今も発見されておりません。・・・つまりは、“あくまでも当時の風聞の類いや、この書簡の原書とされるものが偽書だった”という可能性もあるのですが・・・。

      ・・・それでも、“その書簡内容”には、“幕府大老・井伊直弼を失脚させるという秘事が記されていた”とされ、この書簡を送られたとされる安島信立と茅根為宜の二人が、幕府評定所から召還されることとなり、現実として・・・それぞれ江戸・摂津三田(さんだ)藩邸への軟禁状態及び拘禁状態にされてしまったのです。・・・このように徳川御三家の現職の家老などが幕府に囚われるという前代未聞の事態となったため・・・“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)自らが、直ぐに安島信立らを解放するように”と幕府へ要請したものの、“結果としては適わなかった”と云います。

      ・・・さて、上記にもある“幕府大老・井伊直弼を失脚させるという秘事が、当の井伊直弼に齎(もたら)される経緯(いきさつ)について”なのですが・・・何となく不自然に感じてしまうのですが。・・・いずれにしても・・・“当時、薩摩藩士・伊地知正治(いじちまさはる)から、幕府大老・井伊直弼の家臣であり国学者でもあった長野主膳(ながのしゅぜん)へ伝えられた”という・・・“あくまでも伝聞とされる情報が、至極当然に主君の井伊直弼へと届けられることとなって、その書簡の内容によって、(※以下のような)大それた秘事が発覚したとしている”のです。・・・ちなみに、この時の井伊直弼は幕府大老として、当然に江戸に定府していた訳でありますが・・・井伊直弼の藩地は、近江彦根であり、藩庁とされていたのは、言わずもがなの彦根城(※別名は金亀城とも、現滋賀県彦根市金亀町)。

      ・・・そして、その彦根城を拠点として、直弼の命により京都へ赴き、時の将軍継嗣に関して公家の人々への政治的な工作を行なうことで南紀派が推薦する徳川慶福を擁立するために奔走したとされる人物が、ここに登場する長野主膳なのです。・・・しかも、“井伊直弼へ齎(もたら)されたという書簡の内容について”を簡潔に云えば・・・“当時の彦根城に対して、薩摩藩が200~300名の兵を武装上京させた後に、譜代大名筆頭格とされる井伊家の彦根城を落城させるとともに、藩主や幕府の威信を貶(おとし)めて、大老を失脚させようとする内容であった”・・・とのこと。・・・

      ・・・皆さんは、この書簡の内容に関して、どう感じられるでしょうか?
      ・・・私(筆者)は、この作戦計画自体が絵に描いた餅であり、これが実現する可能性は、かなり低いと感じざるを得ません。たとえ当時屈強とされる薩摩軍が、大砲などの優れた西洋技術を用いた近代兵器を多数装備していたとしても、一国の城を落城させるのに、“200~300名の兵”というのが、少なすぎると想うのです。“この作戦計画によって、彦根攻城戦”が実際に行なわれた”としても、それなりの長期戦を強いられるでしょうし・・・もしも、この少ない兵員で彦根城を陥落或いは降参させても、薩摩などから断続的に追加派兵しなければ、せっかく陥落させた城を守備することは出来ません。仮に、彦根周辺の諸藩が薩摩藩に同調或いは協力する密約があったとしても、時の幕府に迎合する近隣諸藩から同時且つ多方面から攻め掛けられれば、戦略的に重要な軍事拠点を失うだけでなく、被る政治的なダメージは尚更に拡大してしまいますので。
      ・・・そして、この状況に至る根本情報の出元とされた伊地知正治が属す薩摩藩や、薩摩藩尊皇攘夷派による藩内組織とされる精忠組(せいちゅうぐみ:※誠忠組とも、伊地知正治も結成メンバーの一人)に対しては、“この時も、またこの後にも、幕府から一切のお咎めが無かったこと”も解せません。
      ・・・もしも・・・“この彦根城陥落作戦が事実だった”とするならば・・・何故に、彦根城を攻める主体であったとされる薩摩藩には、何らのお咎めも無く・・・何故に、“この計画についてを知らされる側の水戸藩がお咎めを受ける”のでしょうか?・・・それとも、“この一昔前まで江戸定府していた水戸藩の者達が、たとえば薩摩藩による上洛出兵に同期して、井伊直弼が政務を行なう江戸城に対して軍事行動を起こすなどという、過激な計画の実行を示唆する記述が、この書簡の内容に含まれていた”のでしょうか?・・・或いは、故島津斉彬の政略によって当時の江戸城にあった天璋院(てんしょういん:※落飾前の篤姫)の存在や、彼女の政治的影響力が大きかったということなのでしょうか?
      ・・・これらの事象を総合的に判断すれば、おそらく・・・当時、尊皇攘夷派の薩摩藩士らで結成された精忠組(※誠忠組とも)の伊地知正治などが構想していたという、薩摩藩による「京都突出計画」に関する事柄が、何らかの理由により、彦根藩士の長野主膳へ漏洩したと考えるのが自然だと想います。・・・確かに、当時の水戸藩と薩摩藩は、攘夷決行や将軍継嗣問題など当時の社会問題を解決する上で連携関係にあったのは事実でしょう。更に、この頃の薩摩藩では、名君との評判が高かった島津斉彬が同年7月16日に死去し、“自藩の行く末や日本全体が内包していた課題についてなどを案じる藩士達に拡がる動揺など”を併せて考えれば、そう単純に割り切れる事ではなかったことも推察出来ます。
      ・・・すると・・・“水戸藩の現職家老だった安島信立(※通称は帯刀、戸田忠敞の実弟)や、茅根為宜(※名は泰とも、通称は伊予之介、号は寒緑)が監禁されるに至った元情報”、すなわち・・・“あくまでも当時の伝聞扱いとされた元情報が漏洩した理由について”を考えると・・・“それまでの伊地知正治らによる密議を知り得る人物で、且つ伊地知らとは何らかの理由によって、密議の内容自体に反対であったか? 或いは密議の細部において意見が合わなかった人物からだった”という可能性が高くなりますが・・・久光???・・・。・・・いずれにしても、“この情報の出処にいた人物”は・・・当時の薩摩藩において相当な立場、且つ相当な政治力を兼ね揃えていた重要な人物であったことは確かかと。
      ・・・また、“当時の薩摩藩が幕府から、何らのお咎めも無かった理由”としては・・・京都突出計画に斉彬時代の薩摩藩が積極的に関与した嫌疑については多大ではあったものの・・・“この京都突出計画が、幕府大老・井伊直弼へと伝えられ、未遂事件に終わったことにより、結果的には証拠不十分として政治的に処理された”のかも知れません。今に云う「司法取引」に近かったかと。

      ・・・いずれにしても、水戸藩の現職家老だった安島信立(※通称は帯刀、戸田忠敞の実弟)や、奥右筆の茅根為宜(※名は泰とも、通称は伊予之介、号は寒緑)という重臣二人が監禁されるに至った背景には・・・上記のような事情が複雑に絡んでおり・・・そして、これらの出来事が、悪名高き「安政の大獄」の発端であったとも云われます・・・が、当時の幕府大老・井伊直弼を筆頭とする幕閣の者達からすれば・・・当時の将軍継嗣問題などで対立していた勢力への粛清であり・・・“その対立軸の中に、徳川御三家の水戸家が存在していた”という事実が、幕府による強引且つ乱暴な措置を誘引してしまったことは否めません。
      ・・・それでも、大老・井伊直弼が強行に「安政の大獄」を押し進めた理由については・・・朝廷内部の動向に関する情報収集や政治活動を担当する長野主膳が、「戊午の密勅」が水戸藩へ下されることを察知することに失敗したため、“水戸藩士らによる悪謀を過度に誇張して、主君の井伊直弼へ進言したことが要因になった”という説もありますが・・・。

      ・・・上記のような情勢下にあった幕府は・・・「戊午の密勅」に関しては、その存在についてを世間に秘匿しつつも、その返納を、当然の如く水戸藩に要求します。


      ・・・そして、“「戊午の密勅」を返納せよ”と迫られていた水戸藩では・・・

      水戸藩へ下された密勅への対応を巡り、藩論は当然の如くに紛糾します。・・・いずれにしても、返納を主張する門閥保守派が、藩内で活力を再び取り戻し・・・その一方で、それまで藩政改革を押し進めていた尊皇攘夷派そのものが、勅を朝廷へ返納することに反対する返納反対派(=激派)と、朝廷へ返納すべきという朝廷返納派(=鎮派)の二派に分裂。特に、それまで尊皇攘夷思想を重んじることなどを共有して、ともに門閥保守派を相手としていた筈の両派閥内における対立構造が表面化し、これが激化してしまうこととなり・・・

      ※ 同西暦1858年(安政5年)9月初旬:“密勅返納を阻止しようとする返納反対派(=激派)水戸藩士らが、水戸街道(≒東海道の東端部分です)の武蔵国小金宿(現千葉県松戸市小金)の本陣中に結集し、武装した農民集団まで加わる”という「騒動」に発展する。(=第一次小金屯集)
・・・しかし・・・“当時、密勅返納の反対を叫ぶ者達(=激派)のような急進的且つ過激な手法論に対しては、多くの水戸藩士達は懐疑的であった”とも云われておりますが・・・いずれにしても、、この翌年の西暦1859年(安政6年)に起こる大事件を未然に防ぐことが出来なかった訳です・・・。

      ※ 同年10月11日:“この日以前から、水戸藩士の高橋愛諸(たかはしちかゆき:※通称は多一郎、字〈あざな〉は敬卿、号は柚門、変名は磯辺三郎兵衛)や、金子教孝(かねこのりたか:※仮名は孫二郎、孫三郎とも、号は錦村、本姓は川瀬、変名は西村東右衛門)ら尊皇攘夷・密勅返納反対派(=激派)の者達が、奉勅義挙の義盟を西南諸藩へ求めんこと”を議しており・・・この日、“これより先には、水戸藩馬廻(うままわり)組列及び軍用掛見習いであった住谷信順(すみやのぶより:※通称は寅之介、変名は小場源介、加藤於菟之介とも)や、大胡資敬(だいごすけたか:※通称は聿蔵、変名は菊地清兵衛)、矢野長九郎(やのちょうくろう:※本姓は豊島、名は長邦、後に長道とも、変名は弓削三之允、長九郎とは代々の世襲名か?)、水戸藩北郡務方であった關遠(せきとおし:※通称は鐡之介、号は錦堆、丹楓、蘭室、桜園、楓巷とも、変名は三好貫太郎、三好貫一郎、三好貫之助とも)ら四名をして遊説せしむる事を決し・・・
      ・・・これら4名を即日に江戸へと発して、住谷信順と大胡資敬両名を南海道(※土佐などの四国地方や紀州のこと)へ、矢野長九郎を西海二道(※九州地方のこと)、關遠を北陸・山陰・山陽の三道へと向かわせた”とされる。
・・・
      ※ 同年10月25日:“大老・井伊直弼(※近江彦根藩主)ら南紀派”と呼ばれる勢力から推される「徳川家茂(とくがわいえもち:※改名前の慶福)」が、「第14代征夷大将軍」に「就任」する。・・・

      ※ 同年12月5日:“京都・六角獄舎に投獄されていた鵜飼知信(※通称は吉左衛門、号は拙斎、水戸藩京都留守居役)及び知明(※通称は幸吉、菊次郎とも、変名は小瀬伝左衛門、水戸藩京都留守居役助役)親子”が、「江戸」へ「檻送(かんそう)」される・・・と、「摂津三田藩九鬼家預かり」となって、再び「拘禁」される。・・・「檻送」とは、罪人や囚人などを檻に入れて送ること。
      ※ 同年同日:「長州藩」が、“幕府老中・間部詮勝(※越前鯖江藩主)の襲撃を計画した”として、「吉田松陰」を「投獄」する。・・・吉田松陰は、この後に江戸へ檻送されて、伝馬町牢屋敷(現東京都中央区立十思公園)に投獄されてしまいます。

      ・・・尚、この西暦1858年(安政5年)には・・・
      ・・・かの福沢諭吉が、蘭学塾(※慶應義塾の前身)を創立しており・・・そして、この年から西暦1860年(安政7年)頃に掛けて、感染症とされるコレラが大流行してしまいます。
・・・この時期のコレラ菌拡散については・・・“九州から始まり東海道方面まで及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった”とする文献が多い一方で、“江戸だけでも10万人が死亡した”という文献もあります・・・が、“後者の死者数については、過大で信憑性を欠く”とする説もあります。・・・それでも、“当時の日本人の多くが、相次ぐ異国船来航を、この病から連想し、コレラが異国人が齎(もたら)した悪病と信じたこと”も確かなことであり・・・実際に、中部地方や関東地方では・・・秩父の三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを眷属(けんぞく)とし憑き物(つきもの)落としの霊験を持つ眷属信仰(※神に代わって神の意志を伝えるなどする神の使いとして信仰の対象とすること)が興隆しています。
      ・・・また、“この眷属信仰の高まりが、憑き物落としの呪具として用いられる狼遺骸の需要を高めることに繋がって、ニホンオオカミ絶滅の一因になった”とも考えられております。・・・そして、海外では・・・西暦1858年8月に、フランス・ナポレオン3世が、現地の宣教師殺害に対する賠償を口実として、スペインと共同でベトナムへ出兵し、後の西暦1862年にはベトナムを開国させ・・・その翌年の西暦1863年には、ベトナムの隣国であるカンボジアを保護国化しています。


・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】