街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 同西暦1864年(元治元年)11月1日:“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)や、田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)、藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)らの同勢(=天狗党勢)800名余り”が、「常陸国大子村」を発って、「野州路(=下野国の路)」へ「出立」する・・・と、この夜には「下野国川上(現栃木県大田原市川上)」へ泊まる。【綱要】・・・
      ※ 同年11月2日:“幕府により下総佐倉藩へ預けられることになった466名(=大発勢)”が、「下総佐原(現千葉県香取市佐原付近)」に移される。【綱要】・・・当時の佐倉藩主は、堀田正倫(※相模守とも)。・・・時の幕府は・・・筑波山で自称天狗党が挙兵したため、混乱状況に陥り始めていた水戸藩を、“当初から応援すべし”・・・と、既に命令(同年6月16日付)していた佐倉藩主に対して、更に・・・投降していた大発勢466名を預けた訳です。・・・尚、この466名は・・・“堀田正倫(※相模守とも)の佐原陣屋へ収監された”・・・とのこと。・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、「下野国河原(現栃木県大田原市河原)」に至る・・・と、「黒羽藩兵」が、“その路を遮ったため”・・・“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)らが、此(ここ)に邀(むか:※準備をして訪ねて来る人を待ち受けること)えて、西上の趣旨を述べながら路の通過”・・・を請うものの、許されず。・・・依って、「天狗党勢」は・・・“道を北に転じて”・・・「奥州路」へと向かう。・・・
      ※ 同年11月3日:“総勢1,000名余りの天狗党勢”が、「下野国伊王野村(現栃木県那須郡那須町伊王野)」及び「芦野宿(同那須町芦野)」を経て、“越堀(現栃木県那須塩原市越堀)及び鍋掛(同那須塩原市鍋掛)の両宿”に至る。・・・この二日前の記事では、天狗党勢の規模を「800名余り」としておりましたが、今回は「1,000名余り」とされております。・・・どうやら・・・これまでの二日間に、常陸や下野の各地から・・・“200名程の合流組”・・・があった模様です。・・・きっと・・・那珂湊や常陸国各地で負傷した後に、天狗党勢へ追い付いた者達や・・・新たに志を同じくして、親類縁者を追った者達など、様々考えられるかと。・・・
      ※ 同年同日夜:「下野大田原藩主・大田原一清(おおたわらかずきよ:※名は勝清とも)が、“天狗党勢に対しては使者を以って城下の通過を拒みながら”・・・も、「間道(かんどう:※脇道や抜け道のこと)」を「指示」する。【綱要】・・・当時の大田原藩主は・・・果たして・・・天狗党勢に対して、同情的且つ協力的だったのか?・・・ただ単に、天狗党勢を生んだ水戸藩(水戸徳川家)と、当時の幕府との狭間にあって、どっちつかずの中庸策に徹しただけなのか?・・・或いは、天狗党勢を中山道方面へ誘い出す意図があったのか?・・・などについては、定かではありません。・・・しかし、いずれにしても・・・“間道を指示した”と。・・・
      ※ 同年11月4日:“下野大田原藩主・大田原一清(※名は勝清とも)による指示によって”・・・「天狗党勢」が、「下野国高久村(現栃木県那須郡那須町高久付近)」に至る。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“浪士の塙重義(※通称は又三郎、元水戸藩士)ら12名”が、「下総国岩井(現茨城県坂東市岩井)」に於いて、「斬刑」に処される。【綱要】・・・塙重義個人は、筑波山挙兵そのものには賛同していたものの、筑波勢挙兵の後には・・・攘夷の実行方法で意見の不一致があり、まずは外国人を襲撃するためとして、横浜へと向かう途中・・・追討幕府軍と戦った後に捕らえられておりました。・・・ちなみに・・・この時の塙重義は、19歳だったとも。・・・
      ※ 同年11月5日:“幕府によって上野高崎藩及び下総関宿藩に預けられることとなった総勢690名(=大発勢)”が、“それぞれ下総銚子(現千葉県銚子市飯沼町付近)及び同国関宿(現千葉県野田市関宿三軒家付近)”へ移される。【綱要】・・・当時の高崎藩主は、大河内輝照(※輝声、松平右京亮とも)であり、上記の佐倉藩とともに・・・幕府から、筑波山で自称天狗党が挙兵して混乱状況に陥り始めていた水戸藩を・・・“当初から応援すべし”・・・との命令(同年6月16日付)を受けていました。・・・そこで、詳しくは・・・大発勢690名の内の436名を預けられることとなった訳です。・・・尚、当時の高崎藩には、本国から離れた銚子領があり(※いわゆる飛び領地のこと)・・・そこには、寺社領分があったため、“その寺々に分散して、この436名を預かった”・・・とのこと。
      ・・・また・・・当時の下総関宿藩主は・・・井伊直弼の開国路線を継承して幕府老中まで務めた久世広周が、同年6月25日に亡くなり・・・その藩主死去という混乱の中で家督を相続した、子の広文(ひろふみ:※幼名は鎌吉、謙吉とも)でした・・・が、この頃幼年だったため、実際の藩政については、その家臣団によって行なわれていました。・・・そして、この関宿藩は・・・同年6月9日には、幕府から、いわゆる筑波勢追討令を発せられて、“幕府代官支配地へ戒厳令を布くように”と命じられ・・・その後にも幾度となく、筑波勢などの討伐命令を受けています。・・・そして、この日また・・・大発勢690名の内の254名を預けられた訳です。・・・これらの命令は、まるで・・・“先代藩主の遺業を、完結して見せよ!”・・・と幕府から命じられているようでもあります。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩士の原忠敬(※名は忠成とも、通称は市之進、号は伍軒、藤田彪の従兄弟、水戸藩から一橋家へ出向中)や、長谷川允迪(※名は後に清とも、通称は作十郎、号は艮山、青水とも、藩校・弘道館の元舎長)、梅澤守義(※名は亮とも、通称は孫太郎、一橋家へ出向中)、野村鼎実(※通称は彝之介、号は清籟舎、箕水とも、水戸藩奥右筆頭)ら”が、「書(簡)」を、「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、一橋慶喜の異母兄)」に呈(※差し出すこと)して・・・“藩地(=水戸領)の争乱を述べ、且つ(水戸藩〈水戸徳川家〉を)救済すること”・・・を請う。【綱要】・・・同年10月29日に続いて、同様の書(簡)を送った模様。・・・
      ※ 同年同日:“総勢1,000名余りの天狗党勢”が、「下野国高久村」を発ち、“同国那須野原(※那珂川や箒川などによる複合扇状地のこと)を過ぎて、同国石上(現栃木県大田原市上石上と下石上付近)を経る”・・・と、夜を徹して、「同国矢板村(現栃木県矢板市矢板もしくは本町付近)」及び「同国川崎村(同矢板市川崎反町付近)」へ至る。【綱要】・・・
      ※ 同年11月6日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)や、田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)、藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)ら(=天狗党勢)を追討するため”として、「水戸」を発つ。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“総勢1,000名余りの天狗党勢”が、「鬼怒川」を「渡河」して、「下野国小林村(現栃木県日光市小林)」に至る。【綱要】・・・ちなみに・・・天狗党勢が下野国小林村に至った時の状況は、概ね以下の通り。(↓↓↓)・・・



      『小林村上郷組記録』によれば・・・
      ・・・この西暦1864年(元治元年)11月6日・・・村人達による板蔵(※板張りや板造りの蔵である郷蔵のことか?)の築造が、ほぼ完成したため、近隣の者達が集まって、明日の上棟式に供える餅を搗(つ)き終えた頃・・・突如として、鬼怒川の対岸に浮浪人(=西上する天狗党勢)が現れたので・・・集まっていた近隣の者達が皆逃げ去った・・・と。

      また、『小林村下郷組記録』によれば・・・
      ・・・同年同日・・・水府浪人達(※水戸の浪人達のこと、すなわち天狗党勢参加者)が、多人数で小林村下郷を通り掛かり・・・百姓の家々ばかりでなく、隠居所や雨小屋などにも、半ば強引に泊まり込んだ・・・と。更には・・・この日の下野国小林村に宿泊した天狗党勢の総数についてを・・・“1,076名と馬169頭に達していた”として・・・この人馬を賄うために・・・“現地の小林村では、白米や籾、味噌、酒、大豆、刈豆などを提供させられた”・・・と。しかも・・・この賄いに対する代価の支払いは、個々の浪士集団による判断に任されていたらしく、泊まった家毎で異なっており、“心持ち程度や未払いの場合も多かった”・・・とか。尚、西上途中の天狗党勢が立ち去った後に行なわれた調査によれば・・・宿泊した家々から、物品が多数紛失したり・・・逆に、“破損した武器類や着古した衣類などのほかに老馬二頭が捨て置かれていた”・・・とも。

      いずれにしても、江戸時代天保期における小林村の総石高は、1,476石とのことであり、戸数にして93戸。・・・後の西暦1875年(明治8年)時点でも、戸口にして121戸、住民数823人であった当時の小林村の人々にとっては・・・“たかが一泊とは云え、1,000名を越える武装集団を迎えたことは、災難的な出来事だった”に違いありません。・・・当時、天狗党勢を率いる武田正生が、如何に厳しい軍規を定めていたとは云え・・・これも、現実には大騒動を避けるためとして・・・結果的にも、物資を現地調達するほかない旅路を続けた天狗党勢の実態だったとも云えます。・・・

      ・・・尚・・・当時の小林村下郷組頭・粂蔵(くめぞう)宅には・・・西上する天狗党勢のうち30名と馬3頭が泊まり、この30名には、6人の女性達が含まれていたとも。・・・更には、天狗党勢が西上し、越前国新保(現福井県敦賀市新保)に到着した際には、女性が2人ほど脱落せずに加わっていた・・・とされ・・・そのうち一人は50~60歳位で、もう一人は30歳位で3歳位の子連れだった・・・とか。・・・つまりは、小林村下郷・粂蔵宅に宿泊した6人の女性達の中に、この2人が含まれていたと考えられるのです。・・・これらの女性達については、挙兵に参加した水戸浪士の家族だったのか? 或いは、尊皇攘夷運動に共鳴した農村出身の郷士や義民の家族だったのか? などについては明らかではありません・・・が、50~60歳位の年配者については、常陸国川又村(現茨城県水戸市川又町)の市毛荘七(いちげそうしち)の妻・美与(みよ:※一説に美恵とも)とする記録があります。・・・彼女は、天狗党勢西上の後に、夫・荘七と倅(せがれ)・源七(げんしち)と共に、水戸へと護送されました。
      ・・・そこで夫と倅が獄死し・・・彼女は、獄中で病気を患ったため、家に戻されることとなり・・・“西暦1865年(慶應元年)9月に、62歳(※一説には60歳)で亡くなった”とされています。・・・また、このことに関連するのか? 定かではありませんが・・・吉井郷土資料館(群馬県高崎市吉井町)所蔵の「天狗勢西上行列絵図」には、かつての潮来勢から分隊し結成された「義勇隊」の旗印に続いて、“4人の女性達の姿”が描かれており・・・“そのうちの3人”は、丸笠と杖を持った比較的若い女性であり・・・“もう一人”については、明らかに尼僧姿であって、且つ馬に乗った年配風の女性として描かれております。・・・もしかすると、この尼僧姿の年配風の女性は、美与(※一説に美恵とも)の事を描いているのかも知れません。・・・いずれにしても・・・やがて、各地の峠で行なわれた死闘や、雪中行軍、更には壮絶な局面に直面することとなる天狗党勢に・・・こうした女性達が、少数ながらも参加していたことは、かなり印象的に感じるのではないでしょうか?・・・



      ※ 同西暦1864年(元治元年)11月7日:「水戸藩」が、“幕命によって、元家老・山野邊義芸(※主水とも)や、岡田徳至(※通称は徳之介、新太郎、兵部、信濃守とも、号は確翁)、白井久胤(※通称は忠左衛門、伊豆守とも)、武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)の官位”を、「剥奪」する。【綱要】・・・この頃の水戸藩を仕切っていたのは、当然に諸生党であります。・・・文中にもあるように、当時の幕命を後ろ盾としていた訳です。
      ※ 同年同日:“総勢1,000名余りの天狗党勢が、下野国小林を発つ”・・・と、“日光街道・徳次郎宿を避けて、その北側にあった徳次郎駅(※現栃木県宇都宮市徳次郎町)”に出る。・・・その後、「同国大谷村(同塩谷郡高根沢町大谷)」や、「同国新里村(現栃木県宇都宮市新里町)」、「多気村(現栃木県宇都宮市田下町付近)」などを経由し、「鹿沼宿」へと至る。【綱要】・・・尚・・・日光街道・徳次郎宿から例幣使街道・鹿沼宿の辺りに掛けては、“天狗党勢によって、かなりの人馬が徴発されていた”・・・とのこと。
      ※ 同年11月8日:“総勢1,000名余りの天狗党勢”が、「下野国大柿村(現栃木県栃木市都賀町大柿)」に至る。【綱要】・・・
      ※ 同年11月9日:「幕府」が、“常陸と下野における浮浪の徒が、下野国日光附近を徘徊したため”として・・・「老中・本荘宗秀(ほんじょうむねひで:※松平宗秀とも、丹後宮津藩主)」及び「若年寄・土岐頼之(ときよりゆき:※上野沼田藩主)」を“現地”へ「派遣」し・・・“そこの警備状況”を「視察」させる。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“総勢1,000名余りの天狗党勢”が、「下野国葛生村(現栃木県佐野市葛生付近)」に至る。【綱要】・・・
      ※ 同年11月10日:“総勢1,000名余りの天狗党勢”が、「渡良瀬川」を「渡河」して、「下野国・梁田宿(現栃木県足利市梁田町)」に至る。【綱要】・・・ちなみに・・・同月2日から、ここまでの期間において、黒羽藩兵らと小競り合いはあったものの、戦闘らしい戦闘は無かった模様です。・・・また・・・天狗党勢も、現栃木県塩谷郡高根沢町付近を通過することはありませんでした・・・が、“当時の上高根沢村(現栃木県塩谷郡高根沢町上高根沢)では、天狗党勢の侵入に備えて、給部村(現栃木県芳賀郡芳賀町給部)に見張所を設置するとともに、街道や山野の警戒に努めていた”・・・とのこと。
      ※ 同年同日:「幕府」が、「フランス公使レオン・ロッシュ」に対して、“製鉄所と造船所の建設斡旋”を「依頼」する。・・・いずれにしても・・・“このことが、キッカケとなった”のでしょう。・・・“後のレオン・ロッシュは、幕府に傾倒した立場を採るよう”になります。・・・その背景には・・・“イギリスの新任公使ハリー・パークスへの対抗意識もあった”ともされています・・・が、“内政不干渉を建前とするイギリス”とは違い・・・当時のフランスは、幕府を積極的に支援してゆくのです。・・・
      ※ 同年11月11日:“総勢1,000名余りの天狗党勢”が、「上野国・太田宿(現群馬県太田市)」に至る。【綱要】・・・
      ※ 同年11月12日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、“上野国伊勢崎や、同国前橋、同国矢田(※吉井藩とも)、同国高崎、同国館林、同国安中、同国小幡、同国七日市、常陸国麻生、武蔵国忍の諸藩”に令して・・・“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)や、田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)、藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)らの徒(=天狗党勢)が、上野と武蔵両国へ侵入した場合には、これを討つべし”・・・と命ずる。【綱要】・・・
      ※ 同年11月13日:「幕府」が、“尾張国や、三河国、伊勢国、遠江国、若狭国、飛騨国、伊賀国、越後国、下総国に領邑を有す諸候ら”に令して・・・“常陸や下野国において逃亡する浪士らを、捕縛した後に斬らせる”こととし・・・また、“越前国や、美濃国、甲斐国、信濃国、遠江国、駿河国、相模国、武蔵国、上野国、下野国に所領を有す者達”には・・・“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら(=天狗党勢)を追討すること”・・・を命じる。【綱要】・・・この前日の追討幕府軍総括・田沼意尊による命令事項の追認、或いは後押し的な命令ではあります・・・が、当時の幕府関係者の緊迫感や・・・“不届き千万な浪士の輩は、絶対に討ち漏らすな!”・・・という、当時の厳しさも、伝わってまいります。・・・
      ※ 同年同日:“総勢1,000名余りの天狗党勢”が、「上野国・太田宿」を発ち、「同国木崎(現群馬県太田市新田木崎町付近)」及び「同国平塚(現群馬県伊勢崎市境平塚付近)」を経由し、「利根川」に至る。・・・すると・・・「武蔵岡部藩主・安部信發(あんべのぶおき)」が、“自藩兵を出して”、「拒戦」に及ぶ・・・しかし、これに、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら(=天狗党勢)が、利根川を渡河して、岡部藩兵らを撃破した後、武蔵国中瀬(現埼玉県深谷市中瀬)へ出でて、岡部城下(現埼玉県深谷市岡部)に迫る勢いであった”・・・が、“道を変えて”・・・「同国本庄(現埼玉県本庄市本庄付近)」へ至る。【綱要】・・・
      ※ 同年11月14日:「長州藩」が、「征長総督」へ、“家老3名の首級”を、呈(※差し出すこと)す。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“総勢1,000名余りの天狗党勢”が、「武蔵国本庄」を発つと、「上野国藤岡(現群馬県藤岡市藤岡)」を経由して、「同国吉井(現群馬県高崎市吉井町付近)」に泊まる。【綱要】・・・
      ※ 同年11月15日:「幕府」が・・・“那珂湊において投降した大発勢について”を・・・“下総佐倉・上野高崎・下総関宿の三藩のほかに、下総古河、武蔵忍、陸奥福島、上総大多喜、上総一(之)宮、安房勝山、上総鶴牧、出羽長瀞、武蔵川越、上総久留里、安房館山、上総佐貫、下総高岡、三河西大平、上総飯野、上総請西、下総結城、武蔵岩槻、下総生実の19藩へ分け預けること”を決して、これを「発令」する。(=22藩発令)・・・また・・・「幕府」は、“越前丸岡藩主・有馬道純(ありまみちずみ)の邸地”を「上地」させる・・・と、“宍戸藩主であった故松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、慶篤の補佐役)の上地”を・・・“越前丸岡藩主・有馬道純への代地”として賜う。・・・尚、大発勢を分け預けることは、その後預かるべき藩に多少の異同あれど、其々の訊問終了後において実施されたため、其の際の藩名を掲げた。【綱要】
      ・・・後半部分については・・・要するに・・・那珂湊まで大発勢を率いたため、切腹を賜うこととなり、その上で責任を取らされた松平頼徳の邸地を・・・当時の幕府は、丸岡藩主・有馬道純への代替地としたのです。・・・
      ※ 同年同日:“追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)が、武蔵川越藩主・松平直克に対して、浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)らを討伐させるため、これより9日先の出兵を命じていた”・・・ものの、「川越藩」は、“この日に、武蔵国越生(現埼玉県入間郡越生町越生付近)や、同国八王子(現東京都八王子市元八王子町付近)、下野国今市(現栃木県日光市今市付近)”へ向けて「出兵」する。【綱要】・・・「川越藩主・松平直克」とは・・・以前に、筑波勢への武力討伐に反対したため、幕府によって政事総裁職を罷免されていた御仁です。
      ・・・当初から、一橋慶喜公や尊皇攘夷を唱えていた水戸藩に近い存在として、幕閣から認識されていた筈であり・・・奇しくも・・・この同日・・・幕府からは、那珂湊にて投降した大発勢についての処分(=22藩発令)と・・・これに加えて・・・派遣された現地総司令官の追討幕府軍総括・田沼意尊からも、天狗党勢討伐を命じられることとなり・・・つまりは・・・“こうなった責任の一端は、松平直克にもあるのだから、きっちりと後始末せよ!”・・・との幕府からの御達しに等しかった訳です。・・・そのため、当時の松平直克としては、“9日先であった筈の出兵を、敢えて前倒ししてまで、慌てて出兵させた”と考えられます。・・・
      ※ 同年11月16日早朝:「上野高崎藩兵」が、“同国下仁田(現群馬県甘楽郡下仁田町下仁田付近)の東北に当たる小坂坂峠(※同下仁田町の上小坂、中小坂、下小坂付近)に陣する浪士・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢”を「襲撃」する・・・も、“反対に、天狗党勢に各個撃破”されて、「敗退」する。(=下仁田戦争)・・・“この後の天狗党勢”は、「同国本宿(同下仁田町本宿)」へ至る。【綱要】・・・この「下仁田戦争」については、概ね以下の通り。(↓↓↓)・・・



      この前日の天狗党勢は、総勢920名余りであった・・・と云われ・・・現地にあった桜井家を本陣として、各隊それぞれを分散させて、各所へ宿営。・・・更には、追討幕府軍に従う勢力からの襲撃に備えるためとして、街を取り巻く各要所に見張りを就けて警備していた模様。・・・・・・当然と云えば当然の対応だったかと。周囲の警戒を怠れば、先々の行き場を失ないますので。・・・

      ・・・その一方で・・・天狗党勢に対峙した上野高崎藩は・・・城代家老の命を受け、天狗党勢を追撃すべく・・・同日夜半(※同年11月15日のこと)、一之宮貫前神社(現群馬県富岡市一ノ宮)において、同国の小幡藩及び七日市藩の兵達と落ち合い、三藩による合同作戦会議を開きます。・・・しかし、この作戦会議の際・・・小幡藩と七日市藩は、兵の数や武器弾薬が少ないことを理由に、天狗党勢への合同軍事作戦実施についてを拒否。・・・そのため、結果としても・・・高崎藩は、単独での軍事行動に踏み切りざるを得なくなってしまいます。・・・実は・・・この時、高崎藩兵の本隊(主力部隊?)は、常陸国那珂湊に出兵中であったため・・・藩庁の高崎城(現群馬県高崎市高松町)に残留していた部隊を、4隊に分けて、天狗党勢との戦闘に備えていたのです。・・・

      そして、この当日(※同年11月16日のこと)の早朝4時頃であった・・・と伝えられますが・・・天狗党勢側の見張り役より・・・“現地の梅沢峠方面から、高崎藩兵が押し寄せて来る!”・・・との一報が、天狗党勢本陣に齎(もたら)されます。・・・

      ・・・これに際しては・・・武田正生ら天狗党勢の本陣部隊は、各隊に向けて出撃指示を発令し・・・一隊には・・・正面方向から、大砲による砲撃で以って、高崎藩の本陣地(※現地の里見家前の畑であったとも)を攻撃させて、一地点に高崎藩兵達を誘導するという作戦を実行します。・・・天狗党勢は、更に・・・東側からは、伊勢山より熊野山の下(※現在の下仁田町歴史館辺り)にある崖上から襲撃し・・・西側からは、鏑川を挟んだ森沢より鉄砲隊が攻撃を始めて・・・都合、三方面から高崎藩兵を挟撃したのです。
・・・尚、この時の天狗党勢は、総勢920名余りとのことですので・・・仮に、これを等しく3隊に分けたとしても一隊当たり300名強。・・・更には、本陣部隊や大砲隊、鉄砲隊として割く兵員は、さほど必要では無かったと考えられるため・・・準じて、白兵戦闘用員を補強するなどの対応策を採ったとすれば、白兵戦に投入出来た兵員の数は、600を超えていた可能性もあります。・・・

      ・・・しかし・・・これらの天狗党勢と交戦したとされる高崎藩兵の1番隊でも、その数は109名。・・・2番隊は、更に少ない92名であり、この2番隊は、梅沢峠を抜けて同下仁田町安導寺から追撃して来た天狗党勢と交戦し、民家数件が焼失したとのこと。・・・3番隊に至っては、この「下仁田戦争」に間に合わなかったようであり・・・ちなみに、4番隊と呼んで構わないのか? 悩むところではありますが・・・“この4番隊”は、藩庁たる高崎城の守衛部隊だったかと。・・・もしも、藩庁を空城(からじろ)として、そこに天狗党勢の一派に籠られたら、元も子もありませんので。・・・当時の感覚としては、“正規軍たる武士集団の面目丸潰れという最悪の事態”となりますし。・・・

      ・・・そんなこんなで・・・当日の午前10時頃には、天狗党勢 VS 高崎藩兵で繰り広げられた激戦は、終結した模様です・・・が、それでも・・・この際の戦死者数は、天狗党勢側が4名、高崎藩兵側が36名とされております。・・・

      ・・・そして・・・この頃ちょうど、東海道を西進していた追討幕府軍・田沼意尊は? と云うと・・・天狗党勢が太平洋側へ侵入することを阻止するためとして、天狗党勢の想定進路上に位置する諸藩に対して天狗党勢追討令を発していた訳ですが・・・この命令を受ける側の諸藩は? と云えば・・・そのほとんどが小藩であったこともあって、天狗党勢が通過するのを傍観するばかりか・・・密かに天狗党勢と下交渉し、城下の通行を避けて貰う代わりに、軍用金を差し入れする藩なども出る有様だったとか。・・・
結局のところ・・・追討令に従って天狗党勢を実際に攻撃したのは、この「下仁田戦争」における高崎藩など・・・ごく一部の藩だった・・・とされるのです。



      ※ 同西暦1864年(元治元年)11月16日:「上野高崎藩主・大河内輝照(※輝声、松平右京亮とも)」が、「書(簡)」を、「幕府」へ「上呈」し・・・“那珂湊における降伏人を監守するために失なう費用が多く、且つ警守人数が少ないことを不安視し、これらに対して(幕府が)速やかに処置されること”・・・を請う。【綱要】・・・高崎藩主・大河内輝照は、浪士追討やら、投降した大発勢の御預(=幽閉)やら、重ねて幕府から命じられていたため、このように幾度となく幕府へ陳情していた模様です。・・・国許周辺では、「下仁田戦争」が起こり、また・・・“その勝敗が決した同日の事”でもあります。・・・
      ※ 同年同日:“追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)から天狗党勢追討のための出兵命令を受けていた武蔵川越藩主・松平直克”が、“天狗党勢が既に上野国藤岡方面に至ったこと”を知り・・・“自藩兵を、上野国との国境いにある武蔵国小川(現東京都あきる野市小川付近か?)方面”へ「派兵」する。【綱要】・・・
      ※ 同年11月17日:“この前日に上野国下仁田において高崎藩兵を敗走させた天狗党勢”が、“上野と信濃の国境いの内山峠(※群馬県甘楽郡下仁田町と長野県佐久市の境にある峠のこと)の嶮”を越えて、「信濃国」に入る。・・・その後、「同国平賀(現長野県佐久市平賀)」に泊まる。【綱要】・・・
      ※ 同年11月18日:「武蔵川越藩主・松平直克」が、“天狗党勢が上野国下仁田附近に屯集しているとの情報”により・・・「前橋城(現群馬県前橋市大手町)」からも、「下仁田方面」へ、「追加派兵」する。【綱要】・・・当時の前橋城は、それまで長らく廃城状態とされておりました・・・が、列記とした武蔵川越藩の藩地でもありました。・・・藩主・松平直克は、西暦1863年(文久3年)12月に幕府へ前橋城の再築を願い出る・・・と、これが了承され、領民による出資や労働奉仕を受ける格好で以って、この時既に着工されており・・・云わば、再建工事途中といった状態だったかと。・・・“そんな最中の派兵騒ぎでした”から・・・如何に、一連の天狗党勢追討令というものが・・・当時の川越藩の負担になっていたかが分かります。・・・
      ※ 同年同日:“信濃に入国した天狗党勢”が、「同国望月(現長野県佐久市望月)」に泊まる。【綱要】・・・そう、あの「望月(もちづき)」です。・・・別ページでも、若干触れております。少し時代は異なりますが。
      ※ 同年11月19日:「朝廷」が、“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟である松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”に対し・・・“京都警衛の功”を賞して、「従五位下侍従」に叙す。【綱要】・・・何故に、このタイミングで、この人物へ? と、どうしても当時の政治的な意味合いを考えてしまいますね。・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、「信濃国長久保(現長野県小県郡長和町長久保)」から「同国和田(同長和町和田)」に至る。【綱要】・・・
      ※ 同年11月20日:「天狗党勢」が、「信濃国和田」を発ち、「同国小県郡(現長野県小県郡の長和町及び青木村)」と“同国諏訪郡境いの和田峠(※長野県小県郡長和町と同県諏訪郡下諏訪町の境にある峠のこと)”を越えて、「同国樋橋(現長野県諏訪郡下諏訪町樋橋)」に至る・・・と、“そこで道を防備する信濃高島藩と同国松本藩の兵と遭遇する(=和田峠の戦い)”・・・も、“これらを撃退”して、「同国下諏訪(同諏訪郡下諏訪町の中心部付近)」に至る。【綱要】・・・この時の戦いでは、天狗党勢と高島・松本両藩兵ともに、10名前後の死者を出したものの・・・結果的には、天狗党勢の圧倒的な勝利でした。・・・
      ※ 同年11月21日:「幕府」は、「京都所司代・松平定敬(※伊勢桑名藩主、京都守護職である松平容保弟)」に対して、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が西上していることを報じて、京地警守に備えさせる”・・・とともに、「美濃大垣藩主・戸田氏彬(とだうじあきら)」にも、“天狗党勢の西上”に備えさせる。・・・「幕府」はまた、“天狗党勢甲斐入国の聞があったため”として・・・「講武所奉行・堀親義(ほりちかよし:※信濃飯田藩主)」及び「若年寄・本多忠紀(ほんだただとし:※陸奥泉藩主)」に対しても、“甲斐国への赴任及び現地警備に当たらせる旨”を命じる。【綱要】・・・ちなみに・・・“ここにある幕府講武所の教授”には・・・幕末期の長州藩医師や、西洋学者、兵学者としても有名な「大村永敏(おおむらながとし:※元の名字は村田、通称は蔵六、良庵、亮庵、後に益次郎、号は良庵、良安、亮安)」が迎えられていたことがあり・・・
      ・・・この大村永敏は、故郷の長州藩で新たな軍制を採用し、武士階級以外の出身者達を精鋭兵に育て上げ、後の第2次長州征討や戊辰戦争における長州藩や新政府側が勝利した際の立役者とされます。・・・また、明治維新後には、太政官制における軍務を統括した兵部省における初代の大輔(=次官)を務めたため、事実上の日本陸軍創始者とか、陸軍建設の祖と見做されることも多い人物です。・・・しかし、その急進的な西洋式兵制変革そのものに対する根強い反感を買うこととなり・・・皮肉なことに、同郷の元長州藩士ら8名の刺客によって、西暦1869年(明治2年)9月4日夕刻に襲撃され・・・その時の重傷がもとで、同年11月5日に死去しました。享年46。・・・
      ※ 同年同日:「上野矢田藩(※吉井藩とも)主・吉井信發(よしいのぶおき:※松平信發とも)」が、「幕府」に対して・・・“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が領内を通過することを阻止し、且つ捕縛し難い事情を述べる”・・・とともに、“自身の進退について”を伺う。【綱要】・・・矢田藩(※吉井藩とも)は、親藩大名とは云え、1万石の小藩でしたので・・・1,000名規模の天狗党勢を、どうすることも出来ないと訴えていたのでしょう。自身の進退を伺いながら。・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、「信濃国下諏訪」を発つ・・・と、「同国平賀」を経て、「伊那谷(※長野県南部、天竜川に沿って南北に伸びる盆地。伊那盆地や伊那平とも)」に入る。この日は「同国松島(現長野県上伊那郡箕輪町中箕輪字松島)」に泊まる。【綱要】・・・
      ※ 同年11月22日:「天狗党勢」が、「信濃国松島」を発ち、「同国上穂(現長野県駒ヶ根市上穂付近)」に宿す。【綱要】・・・
      ※ 同年11月23日:「天狗党勢」が、「信濃国上穂宿」を発ち、「同国片桐(現長野県上伊那郡中川村片桐)」を「通過」する。【綱要】・・・
      ※ 同年11月24日:「幕府」が、“中山道の信濃国馬籠(現岐阜県中津川市馬籠)から美濃国太田(現岐阜県美濃加茂市太田本町)の間の各駅(かくうまや)”に対して・・・“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が通行する際に、食糧を給することを禁じる旨”を令する・・・とともに、“同月21日に信濃飯田藩主・堀親義(※幕府講武所奉行)への甲斐国赴任及び現地警備命令”を「中止」して、“其の藩地(=信濃飯田藩の領地)の取締り”に「従事」させる。【綱要】・・・ちなみに、中山道の馬籠宿傍には、この馬籠宿を舞台とする歴史小説『夜明け前』を著した島崎藤村の生家跡(※旧本陣跡、現在の藤村記念館)があります。・・・当時の飯田藩領地は、信濃国伊那郡のうち25村でしたので、まさしく天狗党勢が出没した地域でした。・・・“この当時は、治安悪化が著しかった”と考えられます。・・・それに対応するための、飯田藩主・堀親義への命令変更でした。・・・
      ※ 同年同日:“信濃国片桐を通過した天狗党勢”が、「同国駒場(現長野県下伊那郡阿智村駒場)」に至る。【綱要】・・・
      ※ 同年11月25日:「幕府」が、「京都守護職・松平容保(※陸奥会津藩主)」に対しても、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が西上していること”を報じて、「京地警守」に備えさせる。【綱要】・・・時の幕府は、京都所司代・松平定敬(※伊勢桑名藩主、京都守護職である松平容保弟)などに加えて・・・兄の京都守護職・松平容保(※陸奥会津藩主)に対しても・・・“天狗党勢が目指していた京地の警守を厳重にと命じた”のです。・・・
      ※ 同年同日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、「武蔵川越藩主・松平直克」に対して・・・“浪士追討のために出兵していた川越藩兵の撤退”・・・を命じる。【綱要】・・・???・・・ここに至って、川越藩主・松平直克の幕府への猛烈アピールが功を奏したのか?・・・或いは・・・川越藩の大規模な軍勢が他藩領内を活発に移動していたため、これが天狗党勢に加勢するのではないか? との社会不安や憶測、それらに伴なう治安悪化が生じることとなって、云わば逆効果が齎(もたら)されてしまったのか? ・・・いずれにしても、この時の追討幕府軍総括・田沼意尊の脳裏には・・・ごく最近の出来事として・・・武蔵国小金付近や常陸国内の各所において、地元領民らの多くが取り込まれて義民化し、「大発勢」と呼ばれる想定外の武装集団に膨れ上がってしまった光景を想い出したに違いありません。・・・
      ※ 同年同日:「幕府老中・阿部正外(※陸奥白河藩主)」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢追討のため”として・・・“自藩兵”を「信濃方面」へ「派遣」する。【綱要】・・・各地の小藩の多くが、天狗党勢を成り行き上も追討出来ない状況に対し・・・云わば、業を煮やす状況に至って、幕閣自らが出兵させたのでしょうか?・・・
      ※ 同年同日:「尾張藩」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が西上しているとの聞があったため”として・・・“自領内への侵入に備えるべしとの旨”・・・を令す。【綱要】・・・当時の尾張藩が・・・天狗党勢に対して備えるべしとの旨を令したものの、“討伐せよ”とか“追討せよ”などといった強い文言でないことに注目致します。・・・水戸藩と同じ徳川御三家ということで、一定の配慮があったようにも想えますし・・・また、これには・・・藩主・徳川徳成(※後の義宜、徳川慶勝の三男)を後見する元尾張藩主・徳川慶勝(※改名前は慶恕)が、“かつての将軍継嗣問題や、異国との天皇による勅許無しでの修好通商条約調印問題において、水戸徳川家(=水戸藩)と共同歩調を採っていたことなど”が・・・当然に影響していると考えられます。尾張藩内にも尊皇攘夷派の志士らが多くおりましたし。
      ・・・いずれにしても、その一方で・・・西上していた天狗党勢としては、同じく徳川御三家の尾張藩に迷惑を掛ければ、自らが頼りとする一橋慶喜公へも、良からぬ影響が及ぶとの判断があったのでしょうか?・・・現実として・・・この同日、尾張藩領内を通過するルートを大きく外れて、京都を目指すのです。・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、「信濃国駒場」を発つ・・・と、“道を転じて”・・・“信濃国那須野の嶺(※現長野県下伊那郡阿智村梨子野山か?)”を越え、「同国清内路(現長野県下伊那郡阿智村清内路)」に至る。【綱要】・・・天狗党勢が信濃国駒場を発った後に道を転じた理由としては・・・“同日に発せられた尾張藩からの藩令が、早馬や飛脚など何らかのかたちで以って、天狗党勢の偵察兼先発部隊の手元に届いた”と見るほうが自然かと。・・・また、「那須野」という文献上の表記についてですが・・・当ページ筆者は・・・天狗党勢の辿ったルート及び現地の地勢から判断して、「なすの」の音が転じて「なしの」と呼ばれるようになったか?・・・或いは、元々「梨子野」であったのを、江戸末期若しくは明治期の役人が「那須野」と表記したのか? ・・・の、どちらかと考えます。・・・いずれにしても・・・現代では、「梨子野山」と表記して、「なしのやま」と呼ぶとのことです。
      ・・・尚、当時の関東地方・・・特に、江戸で生まれ育ったり、長らく“江戸住まい”をしていた「江戸っ子」(※話し言葉は、身分の違いなどとは当時無関係でしたから)にすれば・・・「す」も「し」も、同じ様に聴こえた筈であり・・・更に、「す」も「し」も、同じ様に表記してしまう可能性も「大」ですので。・・・
      ※ 同年11月26日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、「壬生藩主・鳥居忠宝(※丹波守とも)」に対して・・・“下野国の太平山野警守の徹底”・・・を命じる。【綱要】・・・この時の追討幕府軍総括・田沼意尊としては・・・下野国の太平山周辺における尊皇攘夷運動の再燃と、これらが各地へ飛び火してしまうことを、最も警戒していた訳です。・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、再び「中山道」に出て、「信濃国妻籠(現長野県木曽郡南木曽町吾妻字妻籠)」と「同国馬籠」を経由し・・・「美濃国」に入り、「同国落合(現岐阜県中津川市落合)」と「同国中津川(同中津川市中津川)」を「通過」する。【綱要】・・・天狗党勢が、この前日に中山道を外れて信濃国清内路に入った理由については・・・追手を撹乱させるためであったのか?・・・または・・・追手の情報が入り、一旦身を隠す意図があったのか?・・・或いは・・・尾張藩の領地に近づいた天狗党勢が、その尾張藩から・・・何らかの手段による、以後についての現実的且つ具体的な指示や助言があったのか?・・・などは別として・・・“いずれにしても、大所帯の軍勢を再編する必要性に迫られていたから”・・・という解釈で良いのではないでしょうか?・・・
      ※ 同年11月27日:「京都所司代・松平定敬(※伊勢桑名藩主、京都守護職である松平容保弟)」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が西上しているとの聞があったため”として・・・“山崎(※現大阪府三島郡島本町と京都府乙訓郡大山崎町の境辺り)を警守する美濃大垣藩主・戸田氏彬及び相模小田原藩主・大久保忠礼(おおくぼただのり:※徳川斉昭の甥、一橋慶喜の従兄弟)”に対して・・・“そこを厳重に警備する”・・・よう令したものの、「戸田氏彬」は・・・“自領内警備の命令があったことを理由に、山崎警守の任を免じられること”・・・を請い、これを許される。【綱要】・・・京都所司代・松平定敬としては、“天狗党勢が京都に入れぬように”と先んじた訳です・・・が、美濃大垣藩主・戸田氏彬については、さて置きまして・・・
      ・・・後者の相模小田原藩主・大久保忠礼は・・・大久保忠礼が、前水戸藩主・徳川斉昭の甥であり・・・大久保自身とも関係浅からぬ水戸藩(水戸徳川家)から発生した浪士達を多く含む天狗党勢に対する厳しい命令が下されたということは・・・すなわち、“時局を読ませる”といった具合だったのかも知れません。・・・
      ※ 同年同日:「尾張藩」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢に対する警備のため”として・・・“美濃大垣藩に応援を求める”・・・と、「大垣藩」は、“この求め”に応じて、「美濃国河渡(現岐阜県岐阜市河渡)方面」へ「出兵」する。【綱要】・・・幕府から、同月21日に自領内警守を命じられ・・・この前日には山崎警守の任を、京都所司代・松平定敬を通じて免じられていた当時の大垣藩は・・・何やら・・・隣国の大藩である尾張藩によって、上手く利用されているようにも感じられますが・・・。まるで顔色を窺っているかのようです。・・・しかし、これも致し方ない反応だったのかも知れません。・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、「美濃国大井(現岐阜県恵那市大井町)」に泊まる。【綱要】・・・
      ※ 同年11月28日:「幕府」が、“常野浪士追討軍(=追討幕府軍)の戦死者のため”として・・・“江戸の芝増上寺(現東京都港区芝公園四丁目)に於いて仏事を営むべき”・・・と令す。【綱要】・・・この時の方針発表については・・・当時の幕府による社会政策や、諸藩を含む民心掌握のための施策としか言いようがありません。・・・つまりは・・・未だに京都を目指す天狗党勢や、既に常陸国内で投降していた「大発勢」などは、あくまでも賊軍側であり・・・“彼らの死後については、自ずと知れていて、幕府としては追善供養などをしてやるつもりは無い!”・・・と。・・・
      ※ 同年同日:「朝廷」が、“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟である松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”に対し・・・「民部大輔」を「兼任」させる。・・・同月19日から数えても、“たったの9日後の出来事”でした。・・・この時の松平昭徳は、数えで12歳。・・・当時の朝廷は、松平昭徳が若年であることを案じて、この官位を授けたのでしょうか?・・・いずれにしても、期待するが故だったかと。・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、「美濃国御嶽(現岐阜県可児郡御嵩町御嵩)」に至る。【綱要】・・・
      ※ 同年11月29日:「京都所司代・松平定敬(※伊勢桑名藩主、京都守護職である松平容保弟)」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が西上するのを阻止するため”として・・・「伊勢津藩主・藤堂高猷」に対して、“東海道方面への出兵”・・・を命じる。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:「信濃飯田藩主・堀親義(※講武所奉行)」が・・・“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が信濃国清内路を通過したという状況”・・・を「幕府」へ報じる。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、「美濃国御嶽」を発ち、「木曽川」を「渡河」して、「同国太田(現岐阜県美濃加茂市太田本町)」を経由し、「同国鵜沼(現岐阜県各務原市鵜沼付近)」に至る。・・・しかし、“そこで近江彦根藩及び美濃大垣藩の兵らによって、前路を遮断”された。【綱要】・・・これまでの天狗党勢は、伊那谷から木曾谷へ抜ける東山道を進んで、この美濃国鵜沼宿辺りまで到達しました・・・が、近江彦根や、美濃大垣、伊勢桑名、尾張犬山などの諸藩兵が、この日のように街道封鎖を各地で開始していたため・・・この日以後は、中山道を外れて、北方へ迂回し、京都へ向かい続けたのです。・・・したがって、結果としても東海道方面へは進軍しませんでした。・・・
      ※ 同年11月30日:「幕府」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が西上しているとの聞があったため”として・・・“近江膳所藩主・本多康穣(ほんだやすしげ)と豊後岡藩主・中川久昭(なかがわひさあき)の猿ヶ辻警守を免じる”・・・とともに、「本多康穣」には、“専ら自領(=近江膳所)の警戒”に当たらせ・・・「中川久昭」には、“稲荷山宝塔寺(現京都府京都市伏見区深草宝塔寺山町)の門前”を「警戒」させる。【綱要】・・・ここにある「猿ヶ辻」とは、京都御所の北東方向、すなわち鬼門方面の外周部のこと。・・・尚、幕府による命令が、より具体的に表現されており、“当時の洛中洛外が緊迫した様子”を伝えています。・・・
      ※ 同年同日:“これより先の禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)”は、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が西上し、京都に迫ろうとする聞があったため”として・・・“自らが出でて鎮定に当たろう”・・・と請う「書(簡)」を「朝廷」に上げる。・・・すると、これにより、「朝議」が行なわれ、「一橋慶喜」並びに“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟である松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”に対して・・・“この度の出征”を許す。【綱要】・・・果たして・・・京都に居られた一橋慶喜公や、朝議に参加した人々には、天狗党勢の真意や本意というものが、他者によって屈折させられることなく正しく伝わっていたのでしょうか?
      ・・・天狗党勢の真意や本意は、京都などで暴れ回ることではなく・・・むしろ禁裏や朝廷を守護し、禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務とされていた一橋慶喜公を補佐し、且つその盾となる覚悟であった筈なのに・・・。・・・この日の一橋慶喜公による決断と行動を、後に知ることとなる彼ら天狗党勢の心中を察するに、誠に残念無念の極みだったでしょう。・・・
      ※ 同年同日:“前路を遮断されていた天狗党勢”が・・・“已む無く、間道を北へ転じて、美濃国芥見(現岐阜県岐阜市芥見付近)へ抜ける”・・・と、「同国天王(現岐阜県山県市高富字天王付近)」に泊まる。【綱要】・・・
      ※ 同年11月内:「常野浪士追討軍(=追討幕府軍)」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)と田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)の首級を求める榜示(※札を立て表示すること)”をする。・・・“すなわち、その首級の持参者は、同類であったとしても、これを赦(ゆる)す”・・・と。【綱要】・・・追討幕府軍が、天狗党勢を率いていたことが明らかだった幹部らの首級について、この騒乱の早期決着を図り、且つ一定の終結状態を創り上げるためとして、何が何でも・・・それらを必要としていたことが分かります。・・・

      ※ 同年12月1日:「京都守護職・松平容保(※陸奥会津藩主)」は、“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)が、天狗党勢を鎮撫するために出陣すべきと主張したため”・・・「京都所司代・松平定敬(※伊勢桑名藩主、京都守護職である松平容保弟)」に対して・・・“その際の留守中には、京都を戒厳し、且つ少数の桑名藩兵を一橋慶喜公に随従させる”・・・とともに、“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟である松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)を、一橋慶喜公とともに出陣させ、慶喜の指揮下に置くこと”・・・とする。【綱要】・・・“前日の朝議結果”は、直ぐに京都守護職・松平容保に伝えられ・・・松平容保は、幕府名代として即断したのでしょう。
      ・・・しかし、当の天狗党勢や、天狗党勢を追討する側の幕府から云えば・・・尊皇攘夷派や開国派双方の不逞浪士などが徘徊するなどして、逼迫していた京阪地域の情勢下にあって・・・水面下では、松平容保らと一橋慶喜公らとが、重ねて協議していたのかも知れません。・・・“むしろ、そう考えるほうが、自然の成り行きだった”と云えます。・・・そして、“現に天狗党勢から頼みの綱とされていた一橋慶喜公でした”・・・が、自ら朝廷に願い出て、天狗党勢鎮定するための出征許可を得た後には、加賀金沢藩や、陸奥会津藩、伊勢桑名藩から約4,000名の諸藩兵を従えて、天狗党勢鎮定へ向かうことになるのです。・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、「美濃国高木(現岐阜県山県市高木)」へ出る・・・と、小さな林(※小林という地名か?)を経て、「糸貫川」を「渡河」する。・・・そして、「同国揖斐(現岐阜県揖斐郡揖斐町付近)」に至る。【綱要】・・・
      ※ 同年12月2日:「京都所司代・松平定敬(※伊勢桑名藩主、京都守護職である松平容保弟)」が・・・“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢の入京に備えるため”として・・・“諸藩に対し京都への出兵を命じる”・・・とともに、“在京の諸藩兵ら”にも、“洛中洛外”を「警戒」させる。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:「武蔵川越藩主・松平直克」が、“武蔵国八王子附近へ派遣していた自藩兵”を「撤退」させる。【綱要】・・・武蔵川越藩主・松平直克としては・・・“この頃の天狗党勢は、ほぼ一団となって美濃国に出現していましたし、八王子付近の治安については安定した”との判断があったのでしょう。・・・また、川越藩としても、天狗党勢追討のために出兵した事実に変わりはなく・・・“幕府に対するデモンストレーションとしては、これで充分だった”のかも知れません。・・・いずれにしても、同年11月25日の追討幕府軍総括・田沼意尊からの撤退命令から数えて、8日後の出来事となります。・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、「美濃国揖斐」を発つ。・・・すると、“道を谷汲街道(たにぐみかいどう)へ転じて、美濃路より越前へ赴こう”・・・と、「同国金原(現岐阜県本巣市金原)」へ出る。【綱要】・・・当時の天狗党勢としては、幕府方による街道封鎖や警戒が厳しかったためなのか?・・・或いは、“尾張藩の内意を酌み取ったのか?”・・・については、定かではありません・・・が、いずれにしても・・・琵琶湖畔を通過して京都に入ることは困難と判断し、また各地における戦闘を最小限度に抑えるためとして・・・“険しい冬山が待ち構える超難関迂回ルートを選択せざるを得なかった”と考えられます。・・・
      ※ 同年12月3日:「幕府」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が甲斐や信濃より東海道へ向かうとの風聞があったため”として・・・「駿河沼津藩主・水野忠誠(みずのただのぶ)」や、「相模小田原藩主・大久保忠礼」、「遠江浜松藩主・井上正直」、「遠江掛川藩主・太田資美(おおたすけよし:※元老中の太田資始の七男とも)」らに対して・・・“各領邑の警守”を命じる。【綱要】・・・もはや情報心理戦も、ここまで来ると・・・浪士の武田正生ら天狗党勢が、わざわざ風聞を流す冠者(※いわゆる忍者の如くの仕業のようにも?)を放っていた?・・・或いは、全国各地で暗躍する尊皇攘夷派志士達と連携作戦を採っていた感さえあります。・・・越前方面と東海道方面では、真逆方向となりますから。・・・どうしても・・・実際の天狗党勢進路を知る後世の人間としては。
      ・・・しかし、結果として、このような警戒命令を出していた幕府の措置は、間違いという訳ではなく、当時としては適切な判断でもあったかと。あくまでも、「風聞」を基とする警戒命令でしたので。・・・
      ※ 同年同日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)”が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢を鎮定するため”として・・・「兵」を率いて、「京都」を発ち、「近江国大津」に「滞陣」する。【綱要】・・・「滞陣」とは、ある場所に一定期間陣を置くことであり・・・この時の一橋慶喜公としては・・・天狗党勢の詳細な情報を掴むことを急務とし・・・且つ武田正生らを説得するための、幕府に対する・・・云わば、“時間稼ぎだった”のかも知れません。・・・と云うか、そう想いたい・・・。
      ※ 同年同日:「近江彦根藩主・井伊直憲(いいなおのり:※元大老・井伊直弼の次男)」は、「美濃国美江寺(現岐阜県瑞穂市美江寺)」及び「同国垂井(現岐阜県不破郡垂井町)」へ・・・「美濃大垣藩主・戸田氏彬」は、「同国本田(現岐阜県瑞穂市本田)」へ・・・“それぞれ自藩兵を出して、浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢に備えたこと”・・・を、「幕府」に対して「上申」する。【綱要】・・・ここでまた、水戸藩との因縁浅からぬ近江彦根藩と美濃大垣藩が・・・。・・・当時の感覚からすれば・・・かつての「安政の大獄」や、この直前時期における・・・事件としての「桜田門外の変」などは・・・政治的に一定の決着が付けられていた格好でした・・・が、当時生き残っていた人々の、生々しい記憶などを想えば・・・そう易々と割り切れる筈も無く・・・。・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、「美濃国金原」より山道を登って、「同国長嶺(現岐阜県本巣市根尾長嶺)」に至る。【綱要】・・・
      ※ 同年12月4日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟である松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が・・・“在京の水戸藩兵”を従えて、「本圀寺」を発つ・・・と、「近江国大津」に「宿営」する。・・・また、“これと前後して”・・・“加賀金沢や、同大聖寺、筑前福岡、相模小田原、尾張、美濃大垣、同加納、近江彦根、同膳所、同大溝、同仁正寺、若狭小浜、越前大野、同鯖江、同敦賀、同丸岡、伊勢津、大和郡山、陸奥白河、大和小泉、丹後宮津などの諸藩”も、「出兵」に備えし所あり。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、「美濃国長嶺」を発ち、「同国大河原(現岐阜県本巣市根尾大河原)」に泊まる。【綱要】・・・
      ※ 同年12月5日:「幕府」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が越前路へ向かったため”として・・・「越前福井藩主・松平茂昭(※慶永の養子)」に対して、“領内の警戒”を令す。【綱要】・・・ようやく・・・この日の時点で、幕府は天狗党勢の実際の進路を捕捉した模様。・・・
      ※ 同年同日:「前越前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)」が・・・“自ら兵を率いて”・・・「同国福井(現福井県福井市大手3丁目の福井城址、現県庁所在地)」を発つ。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、“美濃と越前の国境い・蠅帽子峠(※現岐阜県本巣市根尾大河原と福井県大野市下秋生の間にある峠のこと)”に至る・・・も、“積雪が道を覆っていた”ため、「越前国黒当戸(現福井県大野市黒当戸)」に於いて、「雪中露営」する。【綱要】・・・厳しい自然環境が、幾重にも立ちはだかる雪中行軍だったのでした。・・・
      ※ 同年12月6日:「天狗党勢」が、「越前国黒当戸」を発つ・・・と、「同国笹俣峠(※現福井県大野市の上笹又、下笹又付近)」を越えて、「同国大本村(現福井県今立郡池田町大本)」に達する。【綱要】・・・
      ※ 同年12月7日:「越前鯖江藩主・間部詮道(まなべあきみち:※間部詮勝の八男)」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢に対する警備のため”として・・・“山城国伏見(現京都府京都市伏見区桃山町付近)及び同国の宇治橋警守を免じられるように”・・・と、「幕府」へ請う。【綱要】・・・越前国にあった諸藩のうち・・・藩主が国許不在であった大野藩は、関東諸藩と同様に天狗党勢を遣り過ごす方針を採っていました・・・が、この鯖江藩主・間部詮道は、天狗党勢殲滅の方針を固め、兵を発して自領に通じる峠を厳重に封鎖し、天狗党勢が敦賀方面へ進路を変更すると、そのまま追撃行動に入るのです。・・・
      ※ 同年同日:「美濃加納藩主・長井尚服(ながいなおこと)」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢に対する警備のために出兵”し・・・また、“同国の大垣藩へ援兵を求める事情等”・・・を「幕府」へ「上申」する。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、「越前国法慶寺(現福井県大野市寶慶寺)」に泊まる。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“加賀金沢藩士の永原甚七郎(ながはらじんしちろう)や、赤井伝右衛門(あかいでんうえもん)、不破亮三郎(ふわりょうざぶろう)”が・・・“在京の自藩兵を率いて”・・・「京都」を発つ。【綱要】・・・
      ※ 同年12月8日:「幕府」が・・・“武蔵忍藩主・松平忠誠や、上総一(之)宮藩主・加納久垣(かのうひさつね)、下総古河藩主・土井利則(どいとしのり:※官職名により大炊頭とも)、安房勝山藩主・酒井忠美(さかいただよし)、陸奥福島藩主・板倉勝顕、出羽長瀞藩主・米津政明(よねきつまさあき)、上総大多喜藩主・大河内正質(おおこうちまさただ:※松平正質とも)、上総鶴牧藩主・水野忠順(みずのただより)”に対して・・・“那珂湊における降伏者(=大発勢)の御預替(おんあずけがえ)”・・・を命じる。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“近江大津に在陣していた禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)”が、「美濃大垣藩主・戸田氏彬」に対して・・・“琵琶湖東岸より越前路への出兵”・・・を命じる。【綱要】・・・一橋慶喜公は、同月3日より都合5日間以上を費やしておりました。・・・やはり・・・“天狗党勢との真っ向からの軍事衝突は避けるべき”・・・と考えていたのでしょう。・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「幕府」に対して、“藩内取締りの不行届きについての罪”を謝り・・・また、“自らの進退についてを、江戸附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)に伺わせる”・・・とともに、“自藩内の各々が謹慎すること”・・・を令す。【綱要】・・・この頃には・・・水戸藩の藩政回復のためとして送り出した「大発勢」と合流し新生天狗党勢となって京都を目指していた元家中の面々に対する厳しい幕府方針や、その元家中の面々の先行きについてを・・・或る意味で、“お覚悟召された”のでしょう。・・・江戸に居た水戸藩主・徳川慶篤公には・・・“江戸城を含む市中のあちこち”より・・・または、“その周辺地”より・・・或いは、“東海・北陸・近畿方面”より・・・“もしかすると、一橋慶喜公への奉仕を願う天狗党勢幹部からでさえ”・・・“断片的な情報であっても、様々な勢力から刻々と伝えられていた”でしょうから。・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、「越前国谷口(現福井県今立郡池田町谷口)」を経由し、「同国東俣(同今立郡池田町東俣)」を越える。【綱要】・・・
      ※ 同年12月9日:「幕府」が、“山城国・宇治橋警守を任じていた越前鯖江藩主・間部詮道(※間部詮勝の八男)”に対して・・・“この警守の任について”・・・を免じる。【綱要】・・・ということは、“山城国伏見の警守の任については継続させられていた”・・・ということ。・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、「越前国小倉谷(現福井県南条郡南越前町小倉谷)」に出でる。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“在京藩兵を率いて京都を発っていた加賀金沢藩士の永原甚七郎や、赤井伝右衛門、不破亮三郎”が、「越前国敦賀(現福井県敦賀市中央町付近)」を「通過」する。【綱要】・・・
      ※ 同年12月10日:「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、一橋慶喜の異母兄)」が、“同族水戸藩の紛擾(ふんじょう:※揉め事、、紛争、紛糾のこと)による自身の進退について”を、「幕府」へ伺う。・・・しかし、「幕府」は、“(鳥取藩主・池田慶徳が)長州藩征討へ出陣の最中を理由として”・・・“これを不問”とする。【綱要】・・・何やら・・・同年12月8日における水戸藩主・徳川慶篤の行動を発端として・・・連鎖的且つ確認作業らしき・・・遣り取りが目立ってまいります。・・・
      ※ 同年同日:「美濃大垣藩主・戸田氏彬」が、「幕府」に対して、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢追討のため出兵中であることを理由に、明くる年に予定されていた京都三箇月警守の任務期間についての変更”・・・を請うも、許されず。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:「武蔵川越藩」が、“那珂湊で降伏し下総国銚子にて禁囚されていた元水戸藩士の岡崎太左衛門(おかざきたざえもん)以下230名”を、「上野高崎藩」より預かる。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、“越前国北陸道の今庄駅(いまじょうのうまや:現福井県南条郡南越前町今庄)に至る”・・・も、そこには、附近の諸藩兵が各々警備に就いていた。【綱要】・・・まさに・・・“天狗党勢の往く手を阻む”といった状況ですね。・・・
      ※ 同年同日:“加賀金沢藩士の永原甚七郎や、赤井伝右衛門、不破亮三郎らの軍勢”が、「越前国葉原(現福井県敦賀市葉原)」に至る・・・と、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら”が、「書状」を、“金沢藩兵の陣営”に致して・・・“通路を開くように”・・・と請う。【綱要】・・・この場面は、“いわゆる武士の情け的配慮の要求だったのでしょうか?・・・いずれにしても、忘れてはなりません。・・・尾張藩に続いた格好の金沢藩も・・・“同年3月18日の京都東山・曙亭(※明保野亭とも)において、攘夷実行の件を議した参加藩であります。そもそもは。・・・
      ※ 同年12月11日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)”が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が越前国今庄附近に屯集しているとの聞がある”として、“追討する諸藩兵”に対して・・・“進撃し奮戦すること”・・・を令す。【綱要】・・・きっと・・・“苦渋の末の決断だった”のでしょう。・・・と云うか、そう思いたい・・・。
      ※ 同年同日:“那珂湊にて投降した大発勢のうち榊原照煦(※通称は新左衛門、元水戸藩家老)ら100名への訊問が終了した”ため・・・“彼らの身柄”が、「下総古河藩」へ引渡される。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“討伐対象とされた天狗党勢”は、「越前国今庄」を発つ・・・と、「同国木ノ芽峠(※現福井県南条郡南越前町上板取と同県敦賀市新保間の峠のこと)」を越えて、「同国新保(現福井県敦賀市新保)」に至る。【綱要】・・・このように、刻々と・・・“天狗党勢包囲網が狭められる最中”・・・彼らは、「木ノ芽峠」を越えるのでした。・・・“何としても、一橋慶喜公に直談判したいという一心だった”のでしょう。・・・
      ※ 同年12月12日:“これより先に、水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)に対しては、藩内の紛擾(※揉め事、紛争、紛糾のこと)を責めて、弟の松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)へ後を承らせ、これを致仕せしめん”とする・・・「議」が行なわれる。・・・そのため、“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)”は、「関白・二条斉敬(※徳川慶篤や一橋慶喜らの従兄弟)」へ・・・“暫らくの猶予を賜りたい”・・・と請う。【綱要】・・・当時の幕府からすれば・・・“そういう事は、勝手に朝廷内で決めないで下さい!!!”・・・という一言に尽きますし・・・また、“当時の朝廷にも、いち早く天狗党勢の動向が伝えられていたこと”が分かります。・・・
      ※ 同年同日:“自藩兵を率いて越前国福井を発った前藩主・松平慶永(※号は春嶽)”が、「同国府中(現福井県越前市府中1丁目付近)」に至る。【綱要】・・・鯖江藩と同様に・・・この福井藩も、天狗党勢殲滅の方針を固めて、進軍していたのです。・・・ちなみに・・・この時に、前藩主を迎えることになった府中城主は、「本多副元(ほんだすけもと)」でした。・・・この「本多副元」とは、常陸府中藩主・松平頼縄の弟に当たります。・・・前年の西暦1863年(文久3年)に、越前福井藩の筆頭家老であった本多富恭(ほんだとみやす)の養嗣子となっていたのです。・・・こんなところにも・・・水戸周辺の地域と、当時の人脈や縁戚関係などとの間に、そもそもとして密接な関係があったことが表れております。・・・
      ※ 同年同日:“加賀金沢藩士の永原甚七郎ら”が、「書状」を、「天狗党勢」へ復して・・・“通路を開けて欲しいとの要請”・・・を拒む。【綱要】・・・奇しくも・・・この前日に、一橋慶喜公による正式命令が通知されておりましたので・・・要請拒否という内容については、致し方ないことかと。・・・しかし、上記のように天狗党勢幹部らと金沢藩士らとの間で書状の遣り取りをしていたことから察しても・・・少なくとも、武田正生らと永原甚七郎らとの間においては、あくまでも・・・個人的な思想・哲学上の差異は、さほど無く・・・お互いに、一定の信頼感を寄せていたこと・・・などが分かります。・・・
      ※ 同年同日:“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢”が、“同志である元水戸藩士の滝平佳幹(たきひらよしもと:※通称は主殿、行方郡玉造村大神宮の元神官)及び根本義信(※通称は新平、変名は岸新蔵)”を、“金沢藩隊長・永原甚七郎らの陣”へ遣わして・・・“天狗党勢としての嘆願書と始末書を、禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)に対して伝達すること”・・・を請う。【綱要】・・・永原甚七郎らによる要請拒否通知と同日のことであり、天狗党勢による素早い判断及び対応です。・・・このことからも分かるように、同日に復された書状は要請拒否の通知だけではなく・・・“或る種の助言や、何か重要な事柄を仄(ほの)めかす内容が含まれていた”と推察出来ます。・・・
      ※ 同年12月13日:「朝廷」において・・・“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)”によって、“水戸藩についての朝議”が行なわれ・・・これが受け容れられる。【綱要】・・・“水戸藩についての朝議”とは、この前日の朝議のこと。・・・すなわち、水戸藩主・徳川慶篤の責任問題と後継する新藩主選定の件となります。・・・
      ※ 同年同日:「幕府」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が若狭路へ入ったとの聞があったため”として・・・「若狭小浜藩主・酒井忠氏(さかいただうじ)」に対し、“山崎警守を止めさせて、(自)領内警備に当たらせる”・・・とともに、“江戸留守居役とされていた播磨姫路藩主・酒井忠績”に、“山崎の警守”を任せる。【綱要】・・・ここに登場する小浜藩は・・・酒井忠氏の養父でもある先代藩主・酒井忠義(さかいただよし)が・・・かつての「安政の大獄」において、“当時の大老・井伊直弼と共に尊皇攘夷派や一橋派を弾圧したことを、その後に咎められて強制隠居処分に処せられた”・・・という経歴を持つ藩です。・・・この経歴が、後の場面場面において、波紋を拡げることとなるのですが・・・。
      ※ 同年同日:「イギリス代理公使・ウィンチェスター」が、「書(簡)」を、「幕府」へ致して・・・“陸奥盛岡藩(※南部藩とも)領の海岸及び常陸国・波崎浦海岸に於けるイギリス難破船の救助に対する盛岡藩主・南部利剛及び(幕府)勤士並寄合・松下大学(まつしただいがく:※幕府旗本)への謝意”・・・を表する。【綱要】・・・どうして、このような戦闘海域に、そもそもイギリス艦船が運航していたのか?・・・とも想います・・・が、当時の太平洋側は、既に開港されていた箱館港と横浜港とを結ぶ商船ルートであったことには違いなく・・・よって、決め付けることは出来ません・・・が、可能性を考えれば・・・主に陸上で繰り広げられ、終息に向かっていた「那珂湊の戦い」を・・・“当然の如くに、海上から偵察したり”・・・或いは、“幕府艦船への断薬補給などを担って、後方支援していた可能性など”も考えられます。・・・だとすると、相当に抜け目のない・・・当時の日本からすれば、外交上も手強く、且つ厄介な相手国であり・・・まさに、虎視眈々(こしたんたん)という表現がピッタリかと。
      ・・・しかも、この情報は・・・当時の一橋慶喜公へも即座に伝えられていた筈であり・・・後の徳川慶喜公による判断に与えた影響も大きかったのではないか?・・・と推察出来ます。・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩」が・・・「元家老・山野邊義芸(※主水とも)」を、「家名断絶及び永預(えいあずけ、ながあずけ)」に・・・「元家老・白井久胤(※通称は忠左衛門、伊豆守とも)」を、「隠居及び謹慎」に・・・“白井久胤の倅(せがれ)である錫胤(すずたね:※通称は左太郎、忠左衛門とも)”を、「揚屋入(あげやいり)」に・・・「藩士・鈴木四郎太夫(すずきしろうだゆう)」を、「閉門(へいもん)」に・・・「藩士・河合伝次(かわいでんじ)」を、「逼塞(ひっそく)」・・・に処する。【綱要】・・・「永預」とは、他大名家への預け処分のことであり、終身赦免が無いことを前提としていた刑罰です。・・・「閉門」とは、武士や僧侶などに科せられた刑罰であって、“逼塞よりは重く、門扉や窓を閉ざして、昼夜ともに人の出入りを禁じられましたが、蟄居よりは軽いものであった”とされています。
      ・・・いずれにしても、諸生党が水戸藩政の実権を掌握しつつ、水戸藩主・徳川慶篤の進退問題についての朝議が行なわれていた時期の処分決定であり・・・更には、一橋慶喜公による朝廷への要請によって、暫らくの猶予期間の了承を頂いた同日の事でした。・・・ちなみに・・・元家老・山野邊義芸(※主水とも)は、この日を以って、家名を断絶させられ・・・当然として、“その知行地及び館を没収された後に、中山邸に永預(≒禁錮)された”・・・との事なのですが・・・。
      ※ 同年同日:“山城国・伏見警守の任じられていた越前鯖江藩主・間部詮道(※間部詮勝の八男)”が、「幕府」に対して・・・“伏見城の西ノ丸及び大手門警備を免じられること”・・・を請い、更には・・・“伏見警守の任そのものについても、免じられよう”・・・と、再び「上申」する。【綱要】・・・当時の鯖江藩の台所事情については・・・他藩同様、若しくは・・・“それ以上に、火の車状態だった”模様。・・・その背景として考えられるのは・・・この時の藩主・間部詮道の父である詮勝(あきかつ)の代には、実際に大坂城代や、京都所司代、老中を歴任し、日米修好通商条約締結処理や公武合体運動などでは功績を挙げてはいたものの・・・この頃の若狭小浜藩などと同じく・・・時の大老・井伊直弼と共に、当時の尊皇攘夷派や一橋派を徹底して弾圧したため・・・「桜田門外の変」が起こって、以後の時局が変わる・・・と、反対に・・・一橋慶喜公本人や松平慶永(※号は春嶽)などの一橋派が政治の表舞台に復帰することとなって・・・“前体制下で故井伊直弼に与していた”という理由により・・・
      ・・・西暦1862年(文久2年)には藩主・間部詮勝が隠居謹慎を命じられ・・・その上更に、1万石を減封され、総石高4万石とされていたのです。・・・したがって、この頃の天狗党勢や、幕府が云う不逞浪士達への対処をしていた当時も、他藩の財政事情と比べれば、より過酷な状況下で伏見警守などの任を担わされていた・・・という事情が浮かび上がって来るのです。・・・
      ※ 同年同日:「加賀金沢藩隊長・永原甚七郎」が、“元水戸藩士の滝平佳幹(※通称は主殿、行方郡玉造村大神宮の元神官)と根本義信(※通称は新平、変名は岸新蔵)両名によって齎(もたら)された(天狗党勢の)嘆願書及び始末書”を・・・“天狗党勢鎮定のため出陣していた一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)”へ届け出る。【綱要】・・・当時の金沢藩としては・・・あくまでも・・・天狗党勢を入京させる訳にもゆかず、武田正生らの嘆願書・始末書を一橋慶喜公へ届けたのです。・・・これこそ・・・“まさしく、武士の情け的行為だった”・・・のですが・・・
      ※ 同年同日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)が、浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢の嘆願書及び始末書を却(しりぞ)ける”・・・とともに、“出征していた諸藩”に対して、“同月17日を期して進撃させること”を令して・・・“自らの軍勢”にも、「近江国大津」を発たせる。【綱要】・・・このように・・・当時の一橋慶喜公は・・・“もはや聞く耳持たず! との態度を、わざわざ周囲に示して、進軍を命令した”のでした・・・。・・・実際には、天狗党勢による嘆願書や始末書など、いちいち読まなくとも、その内容については、一橋慶喜公は十二分に承知していた筈です。
      ・・・何せ、相対することになった天狗党勢を、現実に率いたのが、自身の師とも云える武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)その人でしたから。・・・一方で・・・天狗党勢を率いることになった武田正生、若しくは武田正生以外の者達の多くは・・・“一橋慶喜公こそが、自分達の意見や声に耳を傾けてくれる筈”・・・と期待していました。・・・しかし、その一橋慶喜公自らが天狗党勢鎮定軍を率いていることを知り、また・・・尚も関東方面から、追討幕府軍や諸藩兵らが徐々に(天狗党勢)包囲網を狭められつつある状況下にあって・・・“これ以上、(天狗党勢が)進軍しても、戦いによる犠牲者が増える一方であり”・・・そして、何よりも・・・“自分達の遺志(≒意思)を受け継ぎ”・・・また、“自分達の代わりに、それを実現出来る人物は、一橋慶喜公のほかには居られない!”・・・との、武士たる者達の覚悟や総意を以って、この後の行動を決したのではないでしょうか?
      ・・・当時の水戸藩出身者以外の人達の評価で云えば・・・特に、最後の将軍就任時期前後の一橋慶喜公の評価については、「二心公(にしんこう)」との呼び名も伝えられてもおります・・・が、これについては・・・慶喜公が、単にコロコロと考えが変わってしまうのではなく・・・「超」が付く程の・・・現実、若しくは理想主義者であり、且つ常人では量れぬ程の器量の広さと見識や即決能力を持ち合わせていたため、なかなか周囲の人々などから理解され難(にく)かっただけのことであり、それに輪を掛けて・・・慶喜公自身も、話の相手方が充分に理解出来る程に、クドク説明しなかった性格が起因しているのではないか?・・・また・・・その幼少時代から、実父・斉昭公(※烈公)以上に、その気質や性格をも知り抜いていたのが、慶喜公の師でもあった武田正生だったのではないか?・・・と、私(筆者)は勝手に想像しております・・・が、これを信じるなら、当然に・・・天狗党勢結成時期直前の頃、すなわち那珂湊辺りでの戦さの最中にあった武田正生や藤田信などの幹部達、或いは天狗党勢に参加した者達の脳裏には・・・
      ・・・“最後の手段として、自らの死と引き換えにしても、自分達が成し遂げようとする志を、一橋慶喜公に受け継いで頂きたい!”・・・との強い結束力があったことが大前提となります。・・・それ故に、大した脱落者も無く、越前国新保まで至ることが出来たのではないでしょうか?・・・
      ※ 同年12月14日:「三河岡崎藩主・本多忠民(ほんだただもと)」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢に対する警備のための出兵状況について”を、「幕府」へ「上申」する。【綱要】・・・
      ※ 同年12月15日:「幕府」が、「使番・建部徳次郎(たけべとくじろう:※幕府旗本)」を「目付助(めつけのすけ)」に任じて・・・“越前国へ赴かせ、浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢追討の事”・・・に従わせる。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:「信濃松代藩」が・・・“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)らの徒(=天狗党勢)が城下入りすることなどについて警戒するように”・・・と「藩内」に令す。【綱要】・・・もしも天狗党勢が、現在地点(※越前国新保付近のこと)から撤退や解散などした場合には・・・“越前方面と信濃方面から挟み込む”・・・という作戦の一環だった訳です。・・・
      ※ 同年12月16日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)率いる天狗党勢鎮定軍”が・・・「近江国堅田(現滋賀県大津市堅田付近)」や、「同国大溝(現滋賀県高島市勝野付近)」、「同国今津(同高島市今津町付近)」を経由し・・・この日、「同国海津(同高島市マキノ町海津やマキノ町西浜付近)」に至りて、“其処”に「滞陣」する。【綱要】・・・一橋慶喜公は、自ら軍勢を進めて・・・“当の天狗党勢のみならず、幕府や、諸藩などに対しても、戦略的且つ政治的なメッセージを発信した”・・・訳です。・・・
      ※ 同年同日:「加賀金沢藩隊長・永原甚七郎」が、“越前国の新保駅(しんぼのうまや:現福井県敦賀市新保付近)に滞在していた浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢”に、「使い」を遣わし・・・“明日17日を以って(天狗党勢を)討伐すべしと相成ったこと”・・・を告げる。【綱要】・・・このことは・・・もはや・・・“最後通牒時の武士の情け的行為パートⅡ”・・・としか、言いようがありません。・・・討伐対象である当事者に対して、一方では・・・“御覚悟召されい!”・・・と云いながらも、軍事的にも最重要機密事項である筈の討伐側による作戦遂行日を知らせている訳ですから。・・・さすがに、ここまで来ると・・・“或る疑い”を持ってしまいます。・・・討伐側総大将である一橋慶喜公及び討伐対象である天狗党勢による・・・水戸藩(水戸徳川家)出身者達による大々的、且つデモンストレーション的な政治活劇の一幕を観せられているのではないか?・・・と。
      ・・・つまりは、この文中の加賀金沢藩隊長・永原甚七郎などは、両者の橋渡し役や仲介役に過ぎず・・・当時の状況に至った時点で既に、この当事者間によって、或る統一目標へ向かっているのではないか?・・・と。
      ・・・いずれにしても・・・前述の下仁田戦争以後は総勢916名前後の規模であった武田正生を中心とする天狗党勢としては・・・自分達が信じる御仁である一橋慶喜公に対しては、自分達の身命などのほとんどを委(ゆだ)ね、更には・・・“後々の一橋慶喜公が採るであろう政治活動の最大限の後押しとなるような政治局面を創り出す契機としなければならず、誰が見ても納得出来る環境を整えなければならない!!!”・・・との、“一種の気迫が感じ取れる”のです。・・・この当たり、現実としても意味深く・・・“(後期)水戸学の難解さにも通じている”とも想います。
      ・・・一例として適当であるのか? 多少不安ではありますが・・・かの司馬遼太郎先生でさえ、かつての某公共放送の番組中・・・“(後期)水戸学については、相当に分かり難い”・・・との発言をされていた映像の記憶が、私(筆者)には微(かす)かではありますが御座います。・・・あくまでも、“一般論で云えば、その通りだ”と想います。・・・しかし、その番組中の発言に対して・・・“この若輩者(=本ページ筆者)が敢えて付け加えさせて頂く”と・・・「(後期)水戸学については・・・当時の武士特有とも云える主張の通し方や、江戸期封建社会下の人々の生き様と死に様などが、現に存在していた頃に培われた思想や哲学であって・・・(不幸なことに)・・・明治維新後の日本社会では、その一部が都合良く抜粋・潤色・美談化され、それらが一般大衆や旧帝国陸軍の一部将校などに浸透してしまった経緯があり・・・自分(※司馬遼太郎先生のこと)を含む現代の日本人(※特に、太平洋戦争を実体験として知っている世代の人々)には、なかなか受け容れ難(がた)く、相当に理解され難(にく)いし、更には・・・真の意味での説明も難しい。・・・」・・・と、なりますでしょうか?
      ・・・尚、「」内下線部分の追加内容は・・・あくまでも、私(筆者)の想像による挿入部分です。しかも、当時の番組中では、これと同様の事を司馬遼太郎先生自身も発言されていたのかも知れません。ただ、それが・・・何らかの理由により、放送の都合上カットされてしまっただけなのかも知れませんので、その当たりの事情については、何卒ご了承下さい。・・・と云うか、一個人の定かでもない記憶を基に、司馬遼太郎先生の発言を引用したり、関連した記述をするな! との、お叱りを頂く可能性もありますが・・・あくまでも、筆者の私見として、重ねてお許し頂けると幸いです。・・・
      ※ 同年同日:“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)”が、“加賀金沢藩隊長・永原甚七郎が派遣した使者”に対して・・・“天狗党勢としては、一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)率いる天狗党勢鎮定軍に反抗する趣旨が無いことを述べる”・・・とともに、「天狗党勢鎮定軍」へ「降伏書」を贈る。【綱要】・・・同年10月23日夜以降、遥か常陸国より一橋慶喜公が居た京都を目指して越前国新保までやって来た総勢916名前後の天狗党勢が、とうとう・・・この日に、降伏するという意思表示をしたのでした。・・・天狗党勢幹部のうち山国共昌らは・・・「降伏」では、“対面を損なうとして反対した”ようですが。
      ・・・それにしても、数々の峠越えや雪中行軍をしていた天狗党勢の実態としては・・・既に精根尽き果てていたでしょうし、何よりも・・・“天狗党勢鎮定軍を率いていたのが、一橋慶喜公その人であったこと”・・・これは、天狗党勢に参加した一人一人にとってみれば・・・当然として、或る種の驚きを以って受け止められるとともに・・・また、まさしく・・・“一橋慶喜公その人が、自分達の身命を委ねる総大将であったことこそ、最期の武士の情け的配慮との認識をした”に違いありません。・・・尚、“天狗党勢鎮定軍によって、実際の攻撃が始められる前日のこと”となりました。・・・
      ※ 同年12月17日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟で、在京する水戸藩兵を従えていた松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)率いる天狗党勢鎮定軍が滞陣する近江国海津”に「到着」する。・・・また、“近旁の諸藩”も、これに前後し「出兵」して、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢”に対して備える。・・・すなわち、「越前国木ノ芽峠方面」には、“越前福井や、同丸岡、同鯖江、近江彦根の諸藩”を・・・「越前国中河内(現福井県福井市中河内町)方面」には、“近江彦根、同柳ケ瀬の二藩”を・・・
      ・・・「加賀国栄谷(現石川県加賀市栄谷町)方面」には、“美濃大垣、近江彦根の二藩”を・・・「近江国海津方面」には、「近江彦根藩」を・・・「橡ノ木峠(とちのきとうげ:栃ノ木峠とも、現福井県南条郡南越前町と滋賀県長浜市との県境いにある峠のこと)方面」には、「近江彦根藩」を・・・「越前国葉原方面」には、「加賀金沢藩」を・・・「越前国八俣(現福井県福井市八ツ俣町)方面」には、「相模小田原藩」を・・・「越前国疋田(現福井県敦賀市疋田)」と「同国山中(現福井県敦賀市山中)」には、「美濃大垣藩」を・・・“それぞれ出兵させて、それらを守らせ”・・・“幕府別手組や、水戸、筑前福岡、陸奥会津、同津軽(=弘前藩)、丹波篠山、同福知山、伊勢津、同桑名、若狭小浜、加賀金沢、美濃大垣、近江彦根、越前福井、同大野の諸藩兵ら”は、「越前国敦賀」へ「屯集」する。【綱要】
・・・ここにあるように、天狗党勢鎮定軍の布陣が敷かれて・・・総攻撃開始当日の早朝に、鯖江藩兵や越前福井藩の府中城兵が、天狗党勢の後方から殺到することになると・・・
      ・・・討伐対象とされた天狗党勢は、結局のところ・・・加賀金沢藩に対して、自らの武装を解除して・・・遂に、投降することとなり・・・天狗党勢を巡る一連の争乱は、ここに鎮圧される訳です・・・が、一橋慶喜公率いる天狗党勢鎮定軍と在京水戸藩兵を従えた松平昭徳が、共に滞陣した近江国海津には・・・“同国彦根藩を配置させていた”・・・とのこと。・・・いったい大丈夫だったのでしょうか?・・・“海津という近江国内の地であった”とは云え、「桜田門外の変」に関連する“ワダカマリ”という感情が解消されていて、現地に布陣した水戸藩士と彦根藩士の両者間で、小競合いなどの摩擦的な事故的現象は生じなかったのでしょうか?
      ・・・もしかすると・・・過去に起きた「桜田門外の変」に対しては、当時の幕府からすれば・・・徳川御三家の水戸藩も、譜代大名の筆頭格であった彦根藩ですら・・・譜代大名が幕府中枢機能を担い続けた政治機構としての幕藩体制を、根底から揺るがす重大事件を引き起こした当事者だった訳です。
      ・・・一方で・・・事件当事者である水戸藩や彦根藩にすれば・・・“政治的に目指していた到達目標は、それぞれ異なるものの、当時の幕藩体制を改善、若しくは維持継続してゆくために関与した事件だった”とも云えるかと。・・・それに・・・当時の両藩に対しては、最悪の場合・・・「お家取り潰し」などの、“最も厳しい処罰が課せられる可能性があった”のも事実でしょう。・・・つまりは・・・天狗党勢鎮定軍を現に率い、この日の布陣を最終決断した一橋慶喜公としては・・・“現に、水戸藩士と彦根藩士の間では、摩擦など生じておりません。また、彼らは互いに、過去の些細な事件に対して、ワダカマリなどを懐いてはおらぬ筈”・・・と、“朝廷や幕府、諸藩などの天下に対し知らしめるため”の・・・云わば、“アピールだった”のかも知れません。
      ・・・水戸藩としては、“自藩政だけでなく、時の幕府に対しても、「ご意見番」として振る舞い、「モノ申す武士集団」として行動した筑波山勢や天狗党勢などの諸勢が発生するに至ったが、結果として内乱状態に陥り”・・・結果としては、“多大な人材的損失や経済的な損失を被っていた”・・・彦根藩としても、“現職の藩主を、ムザムザと水戸や薩摩の浪士集団に暗殺され、当時絶頂期にあった譜代大名家としての名声や面目が、一気に地に落とされる結果と相成り”・・・更には・・・“双方共に、このように天狗党勢鎮定と称されて、藩外各地への出兵を課せられている。また、これも然りと。よって、「喧嘩両成敗」という一定の成果は、既に相対的に達せられているのではないか?”・・・と。・・・ここに・・・一橋慶喜公については・・・後に江戸幕府(=徳川幕府)15代征夷大将軍に就任した人物と云うべきなのか?・・・それとも、新生徳川政権の初代征夷大将軍と云うべきなのか?・・・かなり迷う人物でもありますが・・・後に徳川慶喜と呼ばれることとなる御仁の政治感覚と申しますか・・・指導者としての或る種の才智を、垣間見ているような気がするのです。・・・
      ※ 同年12月18日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)”が、「書状」を、“肥後熊本藩主・細川慶順(※後の韶邦)の弟である長岡良之助(※後の護美)”へ寄せて・・・浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢追討のために自らが出陣したこと”を告げる・・・とともに、“征長総督・徳川慶勝(※改名前は慶恕、元尾張藩主)による長州藩への処分が、寛典(かんてん:※寛大な恩典や寛大な処分のこと)に失していること”・・・を「非難」する。【綱要】・・・ここは、多少なりの説明が必要かと思います。・・・ここにある第1次長州征討では、徳川慶勝が「征長総督」として・・・薩摩藩士・西郷吉之助(※後の隆盛)が「大参謀」として出征しておりました。そして、この「大参謀・西郷吉之助(※後の隆盛)」が、“この第1次長州征討時の寛典に、そもそもとして深く関与していた”とされています。
      ・・・まずは、“書状差出人・一橋慶喜公”としては・・・“京都周辺地域では、天狗党勢が迫っていたため、これを鎮定するために忙(せわ)しない状況があり、同時に中国地方では、長州征討が発動されて、一定の政治決着を図るにしても、政治的にも重要な局面に来ていた”という認識です。
      ・・・とかく・・・私(筆者)を含む後世の人間は、歴史的な出来事を、「○○○の変」とか、「○○事件」などと、それぞれ範囲を絞って物事を理解しようとします・・・が、当時・・・別の場所では、何が起こって、何がどのように動いていたか? を知ろうとしなければ、なかなか当時を生きた人々の心理が読めません。・・・要するに、この時の一橋慶喜公としては・・・“肥後熊本藩主・細川慶順の弟である長岡良之助へ書状を送ってはおります”・・・が、ズバリ・・・“兄の細川慶順に対して、弟である長岡良之助から働き掛けをして、九州地方の大藩である肥後熊本藩としての方針を見定めた上で、重要な第1次長州征討の政治的な決着についても、ならば熊本藩が深く関与して欲しい”・・・更には・・・“一橋慶喜公の実家・水戸藩(水戸徳川家)とも、かつては同様の尊皇攘夷思想や水戸学などを学んだ薩摩武士であったとしても、「桜田門外の変」の後に時局が変わってしまい、互いに多少なりとも違和感を感じ始めていた薩摩藩や西郷吉之助(※後の隆盛)などを政治的に突出させてはならない”という警戒心もあったかと。
      ・・・一橋慶喜公本人の立場を考えれば・・・“水戸藩(水戸徳川家)が、この頃内乱の憂き目に遭って、天狗党勢鎮定のような事態に陥り、自身は実家の始末に奔走させられているのだから、寛典という政治的、且つ中途半端な決着手段では、同時期の討伐対象であった長州藩士らの不満や鬱憤などは解消し切れないであろう”・・・と。そして・・・“彼らの尊皇攘夷思想が、尚更に再燃しかねず、現地において妥協点を探る上では、決して重要な判断を誤ってはならない。かく考える自分は、自分の実家である水戸藩(水戸徳川家)の不始末に臨んでは、寛典など中途半端な決着をするつもりはなく、殊更(ことさら)厳しい処分を申渡す所存である。・・・そもそもとして、「禁門の変」を起こして討伐対象とされた長州藩への処分と・・・自分達の身命を掛けて京都を目指し、自ら(※一橋慶喜本人)にモノ申したいとする武装集団・天狗党勢への処分とが、不釣り合い極まりないのではないか!!!”・・・などと、考えていたことが分かるのです。
      ・・・尚、それまでの西郷吉之助(※後の隆盛)個人に対する期待感も大きかったのでしょう。・・・“それが、結果的に裏切られた”との失望感も滲(にじ)んでいるかと。・・・結局のところ・・・このような一橋慶喜公の意思表明が一定の効果を上げたのでしょうか?・・・この際の長州藩は、長州征討幕府軍に対し恭順の意を示したためとして・・・“征長総督・徳川慶勝が、寛大な措置を採った後に、京都へ凱旋した”・・・と、一般的に考えられております・・・が、結果からすれば・・・この後の長州藩は、再び尊皇攘夷派が藩政の主導権を握ることとなり、第2次長州征討の必要性が叫ばれる時勢となっていった模様であり、当時の一橋慶喜公が危惧していた様相となってしまいます。
      ・・・一方で・・・“天下を騒がせた”という罪で云えば、長州藩と同罪と考えられる天狗党勢に対しては、幕府から極刑とも云える処分が下されることになるのです。・・・



      ・・・どうして、上記のような結末に別れるのだろう?・・・と、私(筆者)個人は、つくづく考えてしまいます。・・・いったい両藩の何が共通し、そして両藩の何が異なるのか?・・・と。

      ・・・まず、前者に共通する事柄として思い当たるのは・・・
当時の藩財政、つまりは領国運営や地方経済の逼迫状況が慢性化していたという事情があったかと。・・・これには、そもそもの両藩の成り立ちの違いや、それぞれが西国と東国に位置することに起因する自然風土の違い、それぞれ異なる場所に暮らす人々の気質や気風に与える影響などもあったでしょう。・・・このことは、薩摩藩(島津家)にも云えることですが、長州藩(毛利家)も、言わずもがなの外様大名家です。要するに、江戸幕藩体制草創期に、それまで勢力下に治めていた多くの領地を徳川家によって召し上げられ、結果としても減封させられた武門家系です。・・・ですから、各大名家に代々連なって家臣団に属したのは、それぞれの一門衆や・・・江戸時代末期頃には、長年に亘り、且つ複数重ねられた婚姻関係などによって・・・それぞれの家名(苗字、名字)は違えども、血統的には・・・ほぼ同族化していたであろう・・・と考えられる家臣家系の集団となります。
      ・・・そして・・・これらは、ほぼ共通して・・・いわゆる「苗字帯刀」を許され、それぞれが一定の身分を保証されながら、武家としての忠義心や恥の概念などの教育を義務的に磨り込まれてはいるものの・・・藩主の一門衆や各家臣家系の子孫達が増えども・・・どうにも、こうにも・・・領国そのものが拡げられる訳は無く・・・幕府による許可のもとで、当時の養子縁組制度などを駆使して分家(支藩)を興し、そこで以って一門衆や各家臣家系の者達の雇用を創出するのが“ヤット”という状態であり・・・基本的には・・・それぞれの家禄、つまりは給金や扶持については、少禄に抑える他なく・・・総じて、江戸時代末期頃の各家系における経済事情は、かなり苦しかった筈です。・・・尚、外様大名家特有の事情としては・・・それぞれが、国学(≒歴史学)を学んで、かつての有力大名家であった自家が・・・何故に、当時の江戸幕藩体制下に組み込まれ、そして・・・二百数十年もの間、数々の紆余曲折やお家騒動的な局面を乗り越えて継続出来たのか?・・・についてを、探究し続けていたことでしょうか?
      ・・・長州出身の吉田松陰や、薩摩出身の西郷吉之助(※後の隆盛)などの幕末の英傑とされる志士達が、彼らが多感な時期に・・・水戸藩(水戸徳川家)で培われた「(前期及び後期の)水戸学」や、当時の国学者・漢学者・儒学者などの思想家達に出会った影響も大きかったかと。
      ・・・いずれにしても・・・これらのように、江戸時代末期頃の武士達の暮らしの実態については・・・水戸藩(水戸徳川家)の場合も、ほとんど同様でした。・・・と云うか・・・水戸藩(水戸徳川家)の方が、むしろ・・・徳川御三家などと格式的に持ち上げられてはいても、長らく江戸定府制を強いられ・・・つまりは、何をするにも物価が高い大消費地・江戸で常に暮らすことや、それに伴なう格式や対面を強いられることとなり、経済的な支出も多かった筈であり・・・事実上も琉球貿易を黙認され、参勤交代を課されていた薩摩藩(島津家)などと、その実態経済を比較すれば・・・“より貧しかった”・・・と考えられます。「清貧(せいひん)」が尊ばれ、まさしく「武士は喰わねど高楊枝」の世界だったでしょうから。
      ・・・尚、肥前平戸藩の第9代藩主・松浦清(まつらきよし:※号は静山)による随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』によれば・・・“水戸藩(水戸徳川家)は、徳川斉昭(※後の烈公)が藩主に就任した頃まで、幕府から、江戸定府のための必要経費(援助金)として、毎年一万両を受け取っていた”とのことです・・・が、藩主となった徳川斉昭(※後の烈公)は・・・「祖公(※水戸徳川家の祖・初代水戸藩主である徳川頼房のこと)以来、三十五万石で暮らすことが(水戸藩の)本意であり、(日々)倹約するのは、この(応分の)石高で暮らす為である。以後は、奢侈を固く禁止し、(常に)節約を心掛けて、拝領した石高で暮らすべきである。その事始めとして、(援助金の)一万両は幕府へ返上し、(水戸藩に属する者全ては)持高に応じた忠勤に励むように。諸役人は、この趣旨に沿って生計を立てよ。」・・・と述べたとか。
      ・・・「毎年一万両の必要経費」が有るのと、無いのとでは大違いなので・・・現代人の私(筆者)でさえ、“もったいない、貰っておけば良いのに・・・。”・・・と考えてしまいます・・・が、然(さ)にあらず。・・・当時の徳川斉昭公としては・・・“既に恒常化していた必要経費(援助金)の受渡しまで、毎年掛かる・・・(※これまた恒例だった)・・・無駄な時間や必要経費(※今で云う、交際接待費など)が掛かり過ぎている!・・・そんなところに金子(きんす)を使うなら、もっと優先すべきところがあるだろう!!!”・・・との認識だったかと。・・・しかし、これはこれで・・・劇薬的な副作用といったものを誘引してしまうことになってしまうのですが・・・。
      ・・・要するに・・・長年に亘り幕府(徳川将軍家)と水戸藩(水戸徳川家)との間を取り持つ役目を担っていた附家老や門閥保守派など、時の幕府を後ろ盾としていた人々の職務そのものが・・・一部とは云え・・・失なわれることになり・・・仮に忠勤に励んでも、成果を認めてもらう機会そのものが奪われてしまう訳ですから。・・・幕末期の水戸藩(水戸徳川家)は、そんな裏事情も抱えていたのです。そして、この当たりの事情が・・・門閥保守派(※諸生党勢) Vs 鎮派と呼ばれる中間派(※大発勢や本圀寺党など) Vs 激派を含む尊皇攘夷改革派(※筑波勢や天狗党勢など)の三者間で繰り返されていた藩内における政治的な主導権争いに対して・・・大きな影響を与えていた・・・と考えられるかと。・・・

      ・・・そして、何よりも・・・幕末期における水戸藩(水戸徳川家)の家臣団構成を考えれば・・・
      ・・・水戸藩(水戸徳川家)は、立藩当初から、特有の事情を抱えており、それが故に育(はぐく)まれた「(前期及び後期の)水戸学」でしたから。・・・
      ・・・幕末期における水戸藩(水戸徳川家)家臣団の実態としては・・・正確には、「郷士」と呼ばれて・・・少禄、或いは無給であり、且つ武士としての身分保証を与えられ、水戸や水戸周辺の郷村で暮らしを立てていた者達(※中級・下級武士とも)が、“圧倒的多数”を占めておりました。・・・その中でも、特に「佐竹遺臣」などと呼ばれ、江戸時代に入る以前から常陸国内に土着していた者の子孫達が、“ほとんど”という状態でした。・・・ということは、それぞれの家系に伝わるマインドや、武士道精神というものは、長州藩(毛利家)や薩摩藩(島津家)の人々とも、さほど変わらずに、“外様雄藩的”・・・もっと云えば、“江戸幕藩体制草創期に出羽国へ転封された佐竹家的な気質や気風を持つ人々の武士集団だった”かと。・・・しかも、「一族」とか「氏族」などの勢力単位で考えれば・・・長州藩(毛利家)や薩摩藩(島津家)の武士達と比べても、より複雑な事情や心境を抱えております。・・・転封当時の政治・社会的な事情によって、出羽と常陸の二国に、それぞれの勢力を弱められ、ほとんどの家系が分家せざるを得なかった訳ですから。
      ・・・それでも、江戸幕藩体制草創期から幕末期頃に掛けては・・・そんな水戸藩(水戸徳川家)の中でも、様々な紆余曲折がありつつも、なんとか維持や発展が成されていた訳です。・・・しかし、幕末期の太平洋に面する水戸藩領内では・・・特に、自然災害などによる不作状況や飢饉の発生などと地域経済の衰退・・・更には、太平洋に度々出没する異国船や(後期)水戸学の隆盛などが相まって・・・結果的にも・・・当時の水戸藩の中で大多数を占めていた中級・下級武士などの意見が、当時の藩論というものに対して大きな影響を与えることとなったことは、“単なる偶然”とは言い切れないかと。・・・
      ・・・これとは反対に、そもそもとして・・・元来、三河国を拠点としていた徳川家との所縁が深く、代々も「譜代家臣」と呼ばれる者の子孫達(※水戸藩で云えば、幕府からの附家老など)は、“極僅か”であって・・・
      ・・・“前述二者の中間的な立場”と云えるのか?・・・多少不安な気も致しますが・・・いわゆる戦国時代に、それまでは他の大名家に属したものの、それぞれ個別の事情と水戸藩(水戸徳川家)の立藩によって・・・当時の水戸藩基準の高禄で以って召し抱えられた・・・つまりは、正式に中途雇用された者の子孫達も(※いずれにしても、狭き門であったことに違いはありませんが)・・・水戸藩(水戸徳川家)家臣団の一翼を実際に担いましたが、その家系の数は?・・・と問われれば、“あまり多くはありません”でした。・・・このページに登場し、天狗党勢を率いた浪士・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)も・・・元はと言えば、「跡部家」に生まれ、後に「武田」へ「復姓」している人であり・・・そもそもとして、一橋慶喜公の父・徳川斉昭(※後の烈公)が水戸藩主となる際に、斉昭公の藩主擁立に尽力し、重臣とされた人物でもあります。・・・しかも・・・「跡部氏」、「武田氏」ともに、いわゆる「甲斐源氏」とも呼ばれますが・・・そもそもを遡れば、“常陸国出身氏族”であります。(※詳細は別ページに記載)
      ・・・当時のキーワードである「尊皇攘夷思想」の中から、「尊皇」の部分だけを切り抜いただけでも、そんな事柄が浮かび上がってまいります。・・・
      ・・・この後に倒幕(倒幕)思想に傾くこととなる長州藩(毛利家)と、天狗党勢を発生させた水戸藩(水戸徳川家)が・・・多少なりとも異なっていた点について思い当たるのは、以上のようなことだったかと。・・・



      ※ 同西暦1864年(元治元年)12月20日:「朝廷」が、“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)”に対して・・・“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢への処置を速やかに終了させて、京都へ帰るように”・・・と命じる。【綱要】・・・一橋慶喜公に対する朝廷からの厚い信頼感を物語る命令だったかと。・・・
      ※ 同年同日:「前越前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)」が、「書(簡)」を、“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)”に致して・・・“(福井)藩主・松平茂昭(※慶永の養子)が、長州藩征討のために出陣中であり、浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢への警護のための出兵については難しいこと”・・・を伝える。【綱要】・・・
      ※ 同年12月21日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)が、浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢の降伏を受け容れる”・・・とともに、「加賀金沢藩」に対して・・・“天狗党勢を収容させること”・・・を令す。【綱要】・・・“この前日に、早々と前越前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)から、ヤンワリと断りの意向を示されていたため、加賀金沢藩へお鉢が回されてしまったよう”・・・にも読めますね。・・・
      ※ 同年12月23日:“幕府目付・由比図書(ゆいずしょ:※幕府旗本、歩兵頭並)や、織田市蔵(おだいちぞう:※幕府旗本)ら”が・・・“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢が投降したこと”を以って、“諸藩”に対し・・・“撤兵するように”・・・と令す。【綱要】・・・しかしながら、この時の撤兵命令が、“天狗党勢が降伏したとの情報とともに、水戸へと伝わったため”・・・水戸藩では、市川弘美ら諸生党が中心となって、天狗党勢の家族ら悉(ことごと)くを処刑してしまいます。・・・粛清の如く・・・
      ※ 同年同日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)”が、兵を率いて、「近江国海津」を発ち、「京都」へ向かう。【綱要】・・・
      ※ 同年12月24日:「加賀金沢藩隊長・永原甚七郎」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら823名”を、「越前国新保」から「同国敦賀」へ「監護」して・・・“武田正生、田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)や、藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)ら”は、「本勝寺(現福井県敦賀市元町)」に・・・“他の者らの身柄について”は、「本妙寺(同敦賀市元町)」及び「長遠寺(同敦賀市元町)」へ・・・それぞれ「収容」し、自藩兵(※金沢藩兵のこと)を以って、これらを「警護」する。【綱要】・・・お気付きでしょうか?・・・同年11月16日に起こって、同日中に終結した下仁田戦争以後における天狗党勢は、総勢916名前後の規模だった・・・と考えられるのですが、その人数が・・・“-93±α人”となっております。
      ・・・“この93±α人が、加賀金沢藩によって監護されずに、それぞれの適地にも収容されなかった”という理由を考えれば・・・“金沢藩隊長・永原甚七郎らと、浪士・武田正生など天狗党勢の当事者間で以って、身柄引渡しに関する事前交渉と云うべき話し合いが、既に成立していた”と考えるのが自然であるかと。・・・天狗党勢の身命についての責任(義務)を負っていた金沢藩にしてみれば・・・たとえ、“それが93±α人だった”としても、第一・・・手間など応分のコスト(経費)を抑えることに繋がりますし・・・自身の親や兄弟達に、ただ付き従っていた若年者や、既に深手を負って延命出来る確証の無い者達(※収容所までも命が危うい者達など)、逃亡の恐れが無いことが明らかな者達(※武士身分以外の者達で、いわゆる義民として参加していた人や、常陸・下野以外の地で徴用されていた者達など)・・・etc考えられます。
      ・・・一方で、降伏する天狗党勢にしてみれば、“この93±α人”は、ただの脱落者ではなく・・・本来的に衆を率いる責任を持っていた幹部など武士身分の人々にしてみても・・・自分達が、死地に向かうことが最早明らかだったため、“個人としての責任が軽かったと考えられる者達には、それぞれの国へと帰郷させたり”・・・“何があっても直接伝えねばならない人物へ向けては、臨機応変な対応を求められる役目上、それを果たす能力や資質を持っていた少数の者達に対して、それぞれに別行動を採らせた”・・・という側面もあったかと・・・いずれにしても、金沢藩の永原甚七郎らは、投降した天狗党勢を諸寺院へ収容した後には・・・“出来得る限りの厚遇を以って処した”・・・と伝えられておりますし・・・また、この行間からも、その通りだったと感じます。・・・
      ※ 同年12月26日:“同月23日に兵を率いて近江国海津を発っていた禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)”が、「京都」に「到着」する。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:「幕府若年寄・立花種恭(たちばなたねゆき:※陸奥下手渡藩主)」が、「関白・二条斉敬(※徳川慶篤や一橋慶喜らの従兄弟)」に「拝謁」し・・・“幕府の内旨を含みつつ、常陸と下野の動乱のため、関東における心の動揺が甚だしい情勢を述べる”とともに・・・“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)が東下(とうか:※都から東の地方へ行くこと、京都から関東に下ること、あずまくだりのこと)する許可”を請う・・・も、「二条斉敬」は、“これ”を却ける。【綱要】・・・当時の関白・二条斉敬としては・・・従兄弟でもあった一橋慶喜公の身柄が、江戸へと移される・・・と、“幕府が、慶喜公や水戸藩(水戸徳川家)に対して、どんな措置を講じるのか分かったものではない”・・・などと認識していたのでしょうか?・・・
      ※ 同年12月27日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」は、“天狗党勢追討のためとして、同月6日以降は、常陸笠間や、下野宇都宮、同国小山、上野国坂本、武蔵国熊谷、同国大宮、同国八王子、甲斐国甲府、信濃国下諏訪、美濃国中津川等”を「経由」して・・・この日、「同国関ヶ原」に泊まる。【綱要】・・・追討幕府軍本隊(主力部隊?)としては・・・越前方面に向かう天狗党勢を追って、“遅れ馳せながらも、美濃国・関ヶ原に到着した”・・・とのこと。・・・それでも、天狗党勢にしてみれば・・・“もしも、田沼意尊率いる追討幕府軍の主力部隊に追い付かれたら、必ずや殲滅戦を挑まれて、結果としても血で血を洗うような大規模戦闘に突入してしまうだろう”・・・との想定や、この想定に至るまでの心理的効果と云うものも相当あったに違いありません。・・・
      ※ 同年同日:「征長総督・徳川慶勝(※改名前は慶恕、元尾張藩主)」が、「追討(=長州征討)諸軍」に対して、「撤兵」を令す。【綱要】・・・ただ、ここに至るまでの決着方法や戦後処理の仕方についてが・・・前述の通り・・・一橋慶喜公が危惧していた様相になってしまいます。・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢による騒乱時の処置不行届きを理由として”・・・“藩士の尾崎為貴(※通称は豊後、元国家老)や、石河幹孝(いしかわみきたか:※通称は竹之介)、藤田健次郎(※健二郎、建二郎とも、藤田彪の次男、信の兄、水戸藩側用人)、猿田碩之介(さるたせきのすけ)”・・・を「処罰」する。【綱要】・・・これも、やはり・・・諸生党が水戸藩の実権を掌握していた最中のことであり・・・“徳川慶篤から、新たな藩主が決定される以前の期間中に行なわれてしまった処罰”です。・・・
      ※ 同年同日:「フランス公使・レオン・ロッシュ」が、「幕府」に対して・・・“横須賀製鉄所の建設に関する約定書”・・・を「提出」する。・・・尚・・・幕府は、この日以後も、造船所にするためためとして、現地・横須賀の施設拡張に着手しましたが・・・。ちなみに・・・ここは、後に明治新政府が引き継いだ後に、旧帝国海軍省管轄を経て・・・現在は、在日米軍横須賀海軍施設となっています。・・・
      ※ 同年12月28日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟である松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「近江国海津」を発ち、「京都」へと向かう。【綱要】・・・尚・・・兄の一橋慶喜公が京都へ向かった同年12月23日からの四日間については・・・弟であった松平昭徳に対しては、“兄達の名代としての役割”・・・つまりは、“その多くが水戸藩出身者だった天狗党勢の一切合切を見届けよ!”・・・という暗黙の役割が課されていたに違いありません。・・・何度も繰り返して恐縮ですが・・・この時の松平昭徳は、数えで12歳です。満年齢で云えば、11歳の少年でした。・・・とは云っても、“武家の子として生まれたからには、四の五の言っては居られない事態だった”・・・とも想えますし、一方で・・・“立場が人格や能力を形成する”とも云いますので、これを「水戸流」と一言で云ってしまえば、その通りなのですが・・・現代人からすると、複雑なところかと。・・・
      ※ 同年12月29日:「美濃大垣藩主・戸田氏彬」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢の騒擾(そうじょう:=騒乱)が鎮定されたためとして”・・・“京都を警戒するための自藩兵(大垣藩兵)を先発させて”、「京都」へ登らせる。・・・また、「下野宇都宮藩主・戸田忠恕」も・・・“同様の理由”により・・・「江戸」へ「着府」する。【綱要】・・・
      ※ 同年12月内:“幕府大目付・田沢政路と目付・小俣景行により行われていた大発勢への訊問”が、この月に亘る。【綱要】・・・幕府の田沢政路や小俣景行による大発勢への訊問は、同年10月29日から始められており・・・約2カ月弱の訊問期間を要していたことや・・・大発勢を構成していた者達が、如何に多かったのか? についても、お分かり頂けるかと。・・・個人的には、「大発勢」に参加して、“この頃訊問されていた人々”が・・・適切な環境下で以って、実際に訊問されていたのか? や、彼らから聞き出した内容が、屈折されること無く、当時の幕閣達へ報告されたのか? についてなのですが・・・。当時の世相や、後の大発勢参加者達への処分を知る後世の人間としては、あまり幕府に期待出来る筈も無く・・・。
      ・・・と云うか、水戸藩(水戸徳川家)の自力によっては内乱状態を鎮められず、幕府からの介入を受けている時点で、“天下を騒がせた罪というものが、或る意味で成立している”・・・訳でして・・・。更には、“徳川家の分家である水戸藩だからこそ、幕府としては厳しい対応を諸藩へ示す必要があった”・・・と考えられるのです・・・。


・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】