・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・
※ 同西暦1602年(慶長7年)5月17日或いは翌18日:“常陸佐竹家の転封先”が、「出羽国秋田郡」に「決定」される・・・も、“その石高については不明”とされる。・・・当の佐竹義宣にも、“自家の転封先が出羽国久保田(=秋田)という地であることが、ようやく伝えられたよう”です。・・・もしかすると、佐竹義宣へ間接的に伝えたのは、佐竹家の取り成しに動いていた伊達政宗だったのかも知れません。・・・佐竹氏族全体からすれば、約5百年に亘って根拠地としていた常陸国54万石から、出羽国久保田(=秋田)20万石格への減転封となります。・・・しかしながら、転封先である出羽の正式な石高が確定されるのは、佐竹義宣の弟・岩城貞隆(※佐竹義重の三男であり、義宣や蘆名盛重の弟)が、「佐竹」に復姓して「佐竹義隆(さたけよしたか:※佐竹家20代目当主、久保田藩2代藩主)」と呼ばれる頃になってからです。・・・いずれにしても、“同年5月17日或いは翌18日以降の佐竹義宣は、ほぼ確実となった久保田(=秋田)という地へ移るべく、様々な手筈についての策定作業に執り掛かった”と考えられます。
※ 同年5月21日:“佐竹家の出羽転封を報せる飛脚”が、「水戸」に「参着」する。(※『義宣家譜』より)・・・当時の京都~水戸間における急飛脚に要する日数は7~8日間と云われますので、この同年5月21日という期日は順当ではありますが・・・佐竹家出羽転封の第一報については、“水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)に当時あった佐竹家の重臣達(=国許衆)には、同年5月15日か翌16日頃には届けられていた”と考えられます。・・・いずれにしても、“水戸では上方からの飛報を聞くなり、動揺や将来への不安が、たちまち拡がった”とは想いますが。
※ 同年5月23日:“佐竹家の出羽転封を報せる飛脚”が、「赤館」に「到着」する。(※『義宣家譜』より)・・・
※ 同年6月9日:“水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)受取りの正使”として、「花房(助兵衛)道兼(※別名は職秀とも)」及び「島田(次兵衛)利正」が、「水戸」に「到着」する。(※『義宣家譜』、『慶長見聞書』、『家忠日記追加』、『寛永諸家系図伝』などより)・・・
※ 同年同日:“佐竹義重付きの家老・田中(越中守)隆定”が、“伏見に暮らす義重夫人付き・石井修理亮(いしいしゅりのすけ:※通称は弥七郎とも、石井和泉守の子であり、佐竹家の金掘衆や鋳物師を纏める棟梁役を務めた人物)”に向けて・・・「(佐竹家の)女房衆は、陸奥南郷(※現福島県南西部のこと)へ移っている。和田(安房守)昭為が出羽秋田へ行き、(新たな)領地を受取って水戸へ戻るまで、殿様(※佐竹義重のこと)は八槻(はつき:※現福島県東白川郡棚倉町八槻字大宮)に御在留の予定である。しかし、和田(安房守)昭為が未だに(出羽秋田へ)出立しておらず、今後については、どうなることやら分からない。(中略)御台様(※佐竹義重の正室・宝寿院のこと)が(出羽)秋田へ御下向の由にて、(こちらから)旅費を送りたいが、此方俄かに御取乱しであり(≒ご散財されており)、(また)夏の年貢も参らない(=届かない)ため、万事が(自分の)手が廻りかねる状態である。先日差し上げた家屋普請(※佐竹家伏見屋敷の普請のこと)の費用(の内)で、何とか工夫し、(御台様の)御供をして欲しい。」・・・と「依頼」する「書状」を送る。
(※『秋田藩採集文書』所収・同年6月9日付石井修理亮宛田中隆定書状より)・・・“どこの大名家でも同じだった”と考えられますが・・・当時の佐竹家でも、その経済事情は・・・正直言って、“かなり苦しい台所事情だった”のです。・・・この後の江戸幕府(=徳川幕府)によって貨幣経済が普及する以前の頃の話ですから、物の価値に対する貨幣への交換に流通性が伴なっておらず。・・・国許の常陸において、突然に多量の処分品が出回ったところで、それらを換金する商人達は、当然に利益を得るためとして、少しでも安く仕入れるのですから。・・・尚、和田(安房守)昭為がこの日まで水戸を離れなかった理由は、“同日の徳川家からの諸城受取りの使者到着を待ち、手続き等の詳細についてを打ち合わせたり、確認したかったから”と考えられます。
※ 同年6月11日:“水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)受取りの正使とされた花房(助兵衛)道兼(※別名は職秀とも)及び島田(次兵衛)利正”が、「佐竹家中」の「中村又兵衛(なかむらまたべえ:※未詳)」に対して・・・“佐竹家中の妻子達や、その荷物などを(常陸国那珂郡)大加村へ、一旦置くこと”・・・を「保証」する。(※『鹿島神社文書』より)・・・「常陸国那珂郡大加村」という地名について・・・当時は、「大加村」の中の「加」という字が当てられていましたが、後に「賀」という字へ置き変えられたようです。・・・所在地は、「茨城県常陸大宮市小祝」のこと。現地には、「大賀小学校」や「上大賀鹿島神社」などの名称の中に、その名残りが見られます。
※ 同年同日:“佐竹義重付きの家老・田中(越中守)隆定”が、“伏見に暮らす義重夫人付きの石井修理亮(※通称は弥七郎とも、石井和泉守の子であり、佐竹家の金掘衆や鋳物師を纏める棟梁役を務めた人物)”に向けて・・・「江戸からの使者として、花房殿(※花房〈助兵衛〉道兼〈※別名は職秀とも〉のこと)と島田殿(※島田〈次兵衛〉利正のこと)が水戸へ来られ、殿様(※佐竹義重のこと)に対して、御子供衆(※佐竹義宣、蘆名盛重、岩城貞隆らのこと)の為に、(佐竹義重が)江戸へ出て佗言(わびごと:≒嘆願すること)するようにと勧められた。殿様(※佐竹義重のこと)は僅か五、六人の供連れで行かれる御所存ではあるが、(自分が居る)ここでは仕方の無いことであって、何とも迷惑なことでもある。」・・・という「書状」を送る。(※『秋田藩採集文書』所収・同年6月11日付石井修理亮宛田中隆定書状より)
・・・『義宣家譜』では、“この前年の西暦1601年(慶長6年)4月15日に、隠居の佐竹義重が上洛して、伏見城に滞在中の徳川家康に謁見し、佐竹家の不戦についてを謝罪した”としておりますので・・・この頃の佐竹義重が、僅か5、6人の供連れで江戸へ出ること自体には、さほど驚くべきことでも無いのですが、“佐竹義重の金庫番とされる田中(越中守)隆定”が・・・「何とも迷惑なことでもある」・・・と、殿様(※佐竹義重のこと)が江戸に長逗留しなければならなくなり、更にそれらの活動にも費用が掛かるとの見込みについてを、滲ませて述べております。・・・また、この時の佐竹義重としても、自らが江戸に長逗留することによって、徳川家の人質的な証人となる覚悟もあったかと。
※ 同年6月13日:“常陸の国政を執り行なうため”として、「徳川家重臣・大久保忠隣」及び「本多正信」が、「笠間」に「到着」する。(※『義宣家譜』、『慶長見聞書』、『家忠日記追加』、『寛永諸家系図伝』などより)・・・いずれにしても、同年6月9日から始められたとされる佐竹家所領の受取り手続きは、佐竹家臣団が立ち退いた諸城を守りながら、現地の治安を維持するためとして、徳川家譜代の大名や旗本勢が続々と諸城へ乗り込み、佐竹家の本城とされていた水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)や、その他の支城を受け取った訳です。
・・・その際の徳川家による常陸諸城に関わった諸将達については、以下の通り。・・・ちなみに、水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)接収は、この翌日の同年6月14日の出来事となります。
《水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)》松平(周防守)康重(まつだいら〈すおうのかみ〉やすしげ)[在番]、松平(五郎左衛門)一生(まつだいら〈ごろうざえもん〉かずなり)、由良(信濃守)貞繁(ゆら〈しなののかみ〉さだしげ)、藤田(能登守)信吉(ふじた〈のとのかみ〉のぶよし)、土岐(山城守)定義(とき〈やましろのかみ〉さだよし)、菅沼与五郎(すがぬまよごろう)
・・・ちなみに、ここにある藤田(能登守)信吉は、いわゆる直江状にもあるように、上杉景勝から徳川家康や徳川秀忠へと主君を変えた人です。・・・この藤田(能登守)信吉なる人物が・・・佐竹家の出羽秋田転封つまりは、佐竹家の処遇問題に当初から関わり、“当時の上杉家と佐竹家の間に密約的な決め事がある筈”などと、徳川家康などへ伝えていた可能性もあったのでは?
・・・藤田(能登守)信吉については・・・この後の「大坂の陣」にも従軍しましたが、“西暦1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の後”に改易されてしまい・・・“西暦1616年(元和2年)7月14日に、信濃国奈良井(現長野県塩尻市奈良井)にて、享年58で死去した”とされており・・・その死因については、“病死説の他に、近年では自殺説が有力となっている”とのことですが・・・その理由については、“榊原康勝(さかきばらやすかつ:※榊原康政の三男)勢の軍監を務めた際の失態や、戦功に対する不満から生じた失言などの理由”が挙げられておりますので・・・これに、口封じ的、或いは遺恨による他殺説が加わるとすると???・・・これらについては、あまり詮索しない方が良いのかも知れません。・・・
《笠間城(※別名は桂城とも、現茨城県笠間市笠間の佐白山)》 松平(周防守)康重[居城]
・・・松平(周防守)康重については、徳川家康の御落胤とする説もあり。
《(常陸)府中城(現茨城県石岡市石岡市総社)》 松平(安房守)信吉(まつだいら〈あわのかみ〉のぶよし)
《江戸崎城(現茨城県稲敷市江戸崎)》 松平(伊豆守)信一
《舞鶴城(※別名は太田城、佐竹城、青龍城とも)》 戸田(丹波守)康長(とだ〈たんばのかみ〉やすなが:※別名は松平康長とも)
《磐城平城(※別名は龍ヶ城とも、現福島県いわき市平)》 皆川(山城守)広照(みながわ〈やましろのかみ〉ひろてる)
《同房の岡(※磐城平にあった館などのこと)》 岡本(宮内少輔)義保(おかもと〈くないしょうゆう〉よしやす)、駒木根(右近)利政(こまきね〈うこん〉としまさ)
《相馬牛越城(現福島県南相馬市原町区牛越)》 太田原(備前守)晴清(おおたわら〈びぜんのかみ〉はるきよ)、太田原(出雲守)増清(おおたわら〈いずものかみ〉ますきよ)
※ 同西暦1602年(慶長7年)6月14日:“徳川家重臣の大久保忠隣と本多正信”が、共に連名した「定書(さだめがき)三カ条」を発する。(※『続常陸遺文』所収及び『賜蘆文庫文書』所収・「鹿島文書」より)・・・この定書三カ条の概ねは、以下の通り。
「一、在々(※村々のこと)の百姓(※農民などのこと)は、前々の如くに村へ居付いて、作物などを油断なくすべし。非分(※分不相応なことや、過分であること)を行なう者は、直ぐに届けるべし。
一、去年の年貢における未進(※年貢を納入しないこと)については、借銭の取沙汰をしてはならない。人身の売買については停止する。
一、諸の給人衆(※佐竹家家臣や国人衆達のこと)の荷物などは、陸奥南郷(※現福島県南西部のこと)の赤館(現福島県東白川郡棚倉町棚倉字風呂ケ沢)まで、前々の百姓(※農民などのこと)が運送すべし。
右の条令に違背する者あらば、水戸駐在の花房助兵衛(※花房〈助兵衛〉道兼のこと)や島田次兵衛(※島田(次兵衛)利正のこと)へ訴え出るべし。」
・・・“上記のうち、第一条と第ニ条については、当時の農民などによる離散を防止し、農業などによって暮らしの安定を図ったものだった”と考えられます・・・が、第三条によれば、当時の農民などは佐竹家家臣や国人衆達の荷物などを赤館まで運ばなければならず・・・“その辛労については、かなり多大であった”かと。・・・その上、治安維持上も問題があったのか? “徳川家により禁令が出された後にも、未進年貢の催促など様々な難儀が領民に掛けられて、刃傷沙汰も発生してしまった”とか。・・・また在郷の村々では、この混乱に乗じたのか? “監視の目が届かない山林地帯にあった立木を、勝手に伐採する者達も現れた”とか。・・・いずれにしても、この日の定書に続けて、再び次のものが発布されることになります。・・・そして・・・
※ 同年同日:“伏見滞在中の佐竹義宣”が、“国許の水戸に居た家老・和田(安房守)昭為ら”に・・・“出羽国秋田郡へ行って現地の所領を受け取るように”・・・と命じる。(※『秋田藩家蔵文書』所収・佐竹義宣文書より)・・・この時、佐竹義宣が和田(安房守)昭為に与えた命令の概要については、以下の通り。
「一、秋田では領民が慮外(りょがい:※不心得のこと)無きよう堅く申付け、在々(※村々のこと)へ置目(おきめ:※掟のこと)の制札を立てること。
一、秋田へ先に引越した者は、給人屋敷(※侍屋敷のこと)には入らず、当分の間は町宿に居ること。追って、屋敷割を致すべきこと。
一、秋田へ先に引越した者が、町方や在々(※村々のこと)から酒樽や肴、その他の礼物や贈物を受け取ってはならない。
一、仙北へは美濃(※須田〈美濃守〉盛秀のこと)及び伊勢(※河井〈伊勢守〉忠遠のことであり、また河合や川井などと表記されることもある人物。河井堅忠の子だったとも)を派遣するので、この地方においても前記の通りに堅く申付けること。
一、北城御事(=父の佐竹義重について)は、自分(※佐竹義宣のこと)に構わず引越し為されれば、当分の間は秋田の中城(なかじょう:※大館城のこと、現秋田県大館市中城)より二、三里離れた町場に宿を取られるように計らい、その間に(父の佐竹義重の)御座所設定を致すこと。
一、秋田における村々所務(=村々からの租税についてを)申付けること無く、自分(※佐竹義宣のこと)が下向するまでは、下々(※庶民のこと)も別儀無き由との制札を立てること。
一、(佐竹家中の者が)到着次第に、兵子(※兵糧のこと)の用意をすること。御蔵入の兵子(※兵糧のこと)を渡されれば、それらを受取り、また御渡しが無ければ、それらを所望すること。
一、秋田及び仙北両所の知行物成(※土地からの収獲物や生産物のこと)などは、(佐竹家中の者が)到着次第に調べて帳簿を作り置くこと。
一、秋田及び仙北両所に検地が必要であるから、検地役人を水戸から引越させること。
一、秋田へ一刻も早く赴くべきこと。」
※ 同西暦1602年(慶長7年)6月15日:“舞鶴城(※別名は太田城、佐竹城、青龍城とも)に暮らしていた隠居の佐竹義重”が、この日に「常陸太田」を発って、「陸奥南郷(※現福島県南西部のこと)」へ向かい、「八槻」を「仮の宿」とする。・・・当時の佐竹義重としては・・・自らは既に隠居していましたので、“同年5月15日に佐竹義宣が指令した内容に、同調していた”と考えられます。八槻を仮の宿として、江戸行きの機会を待っていた訳です。・・・このことについては・・・“僅か5、6人の供連れと云っても、むやみやたらに江戸へ上れば、返って混乱や誤解が生じるだけ”と考えたのでしょう。
・・・ちなみに、この八槻の地には、宿や駅(うまや)が古来より設置されていたため、近津明神(ちかつみょうじん)が祀られて、奥州一之宮とされる都々古別神社(つつこわけじんじゃ)が現在もあります。・・・そして、この近津明神とは・・・佐竹義重や義宣達の直系祖先である源義光(※通称は新羅三郎)の兄に当たる源義家(※通称は八幡太郎)が、奥州征伐に訪れた際に「千勝(ちかつ)大明神」へ改称したと伝えられており・・・当時の都々古別神社は、佐竹氏族などの源氏家系の人々だけではなく、常陸に暮らし陸奥国へと入る人々からも崇敬されていたため・・・この頃の陸奥南郷(※現福島県南西部のこと)における街道筋の光景は、きっと・・・“実際には、郷里を追い立てられるように常陸を退く人々の集団が続きながらも、この故地で旅路の安全や佐竹家出羽転封に伴なう人々の行く末を祈願していた”のではないでしょうか?
※ 同年6月22日:“徳川家重臣の大久保忠隣と本多正信”が、共に連名した「定書三カ条」を、再び発する。(※『続常陸遺文』所収及び『賜蘆文庫文書』所収・「鹿島文書」より)・・・この時に再び出された定書三カ条の概ねは、以下の通り。
「一、在々(※村々のこと)において理不尽にも人を斬るとの噂があるが、もしも成敗しなければならない者が居た場合には、水戸奉行中(※花房〈助兵衛〉道兼と島田〈次兵衛〉利正のこと)へ断るべし。たとえ理を以って(自ら成敗を)致したとしても、公儀(※徳川家のこと)の許可なく我がままをする者は、従類共々(※一族の者ら全て)を成敗する。
一、所々にて狼藉を致す者については、直ぐに召し捕って、水戸奉行衆(※花房〈助兵衛〉道兼と島田〈次兵衛〉利正の配下衆こと)へ申し上げるべし。
一、以前からの立山(たてやま:※領主所有の材木を生育させる山々のこと)については、紊(みだ)りに伐採してはならない。」
・・・この時に定書三カ条が再び出された背景については、想像に容易いことであるかと。・・・当時、常陸領国の引渡しを佐竹家側として担当したのは、重臣の小貫(大蔵)頼久でありました・・・が、名目上も常陸領国に対する領主権力というものを、公儀こと徳川家によって剥奪された格好となってしまい、もはや治安を維持するために警備に当たることが出来る手勢も、出羽への旅路に追いやられ、結果的としても居なかった訳です。・・・そのため、常陸の治安を維持するためとする警備に当たったのは、水戸奉行衆なのでした。・・・いずれにしても、公儀こと徳川家の武力による監視下に置かれた常陸の各所では、佐竹家臣団の退去と領地の引渡しが着々と進められることとなり・・・“同年7月中旬頃には、概ねの手続きや諸々の措置が済まされた”と考えられます。
※ 同西暦1602年(慶長7年)6月26日:“伏見滞在中の佐竹義宣から、出羽秋田郡受取りの主命を帯びた和田(安房守)昭為及び河井(伊勢守)忠遠(※河合や川井などと表記されることも、また河井堅忠の子だったとも)の両使”が、「水戸」を「出立」する。(※『佐竹国替記』及び『佐竹家旧記』所収・『古先御戦聞書』より)・・・そして、佐竹家から水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)を受取り・・・水戸奉行衆とされていた花房(助兵衛)道兼(※別名は職秀とも)も、“この翌月初旬には水戸を発って伏見へ向かった”と考えられます。
※ 同年7月5日:“佐竹義重付きの家老・田中(越中守)隆定が、伏見に暮らす義重夫人付きの石井修理亮(※通称は弥七郎とも、石井和泉守の子であり、佐竹家の金掘衆や鋳物師を纏める棟梁役を務めた人物)”に向け・・・“佐竹義重の娘達を守り、出羽秋田へ向かうこと”を伝えるとともに・・・「扨々(さてさて)御国替爰元(ここもと)之御取乱不及是非候。」・・・と。・・・そして、この混乱の最中に、田中(越中守)隆定自身の女房が病死してしまったため・・・「拙者(せっしゃ)之取乱御察候べく候。」・・・と嘆きつつも、“路銭(みちせん)が足らず、秋田へは皆を連れて行くことが出来ない。しかし、京都で不慮の事故が起こって、そのためか徳川家の本多正信や花房(助兵衛)道兼(※別名は職秀とも)、島田(次兵衛)利正などが、急ぎ江戸へ戻り、水戸や太田などを守備する徳川勢が、俄かに引き上げ始めたとする噂がある”・・・という「書状」を送る。(※『秋田藩採集文書』所収・同年7月5日付石井修理亮宛田中隆定書状より)・・・この書状は、当時の混乱状況をリアルに伝えております。
・・・佐竹義重御一行の金庫番だった田中(越中守)隆定が、八槻に滞在した約二十日間の中で・・・“関係者のうち、いったい誰を秋田への供連れとし、誰を常陸へ残して置くのか? という現実的な判断を迫られていた状況”が伝わって来るからです。・・・これは、“当時の佐竹家に属していた各家系の人々も同様であった”と考えられますが・・・この時の田中(越中守)隆定としては、この後の佐竹家を支え続けなければならない肝心な時期に・・・・自らを支えるべき女房殿に亡くなられてしまったことで、途方に暮れる光景が目に浮かぶようです。・・・上記の下線部分については、(↓↓↓)にて。
※同年7月上旬頃の事として:「常陸国」において、“京都で徳川家康が急死するなど不慮の事故が起こった”とする「噂」が流れる。(※『義宣家譜』より)・・・このような噂が流れる事自体が、常陸付近の混乱状況を物語っております・・・が、前のページでも触れた車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)、その娘婿(※一説には妹婿)の大窪久光(※通称は兵蔵)、馬場政直らによる水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画が、“この前月末頃から実際に策動し始めていた”という客観的事実と云えるのではないか? と想います。・・・いずれにしても、“何の前触れも無く、水戸や(常陸)太田などを守備する徳川勢が、俄かに引き上げ始めた”という噂は・・・“当時の佐竹家に関連する人々だけでなく、常陸に留め置かれる領民層の人々の民心をも、激しく動揺させる”こととなり・・・そもそもとして、“徳川家による国替え政策に対して、不信感や不満を募らせていた佐竹遺臣達の反抗心を誘引する状況にあったこと”は、確かだったかと。
・・・ちなみに、車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らによる水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画事件については、「車丹波一揆」とも呼ばれますが・・・このことが江戸時代に語り伝えられ、それが書き継がれていく中で、この事件が潤色され誇張されてしまったこともあり、その真相については謎が多く、また諸説がありますが・・・ここで、改めて考証してみたいと思います。
《①『開見集』の説》・・・この『開見集』とは・・・この当時、新たに笠間城(※別名は桂城とも)主となった松平(周防守)康重の事を記録したものです。
・・・これによれば、概ねのところ・・・
「松平(周防守)康重は、自身の娘を竹中(采女正)重義(たけなか〈うねめのしょう〉しげよし:※竹中〈伊豆守〉重利の長男)へ嫁入りさせるために番士を残して水戸から笠間へ帰ることとなり、本多正信もまた用事があったため江戸へと戻ったが、これは上方で大事件が起こった故であるとの風説が広まって、佐竹家臣の中には出羽秋田への引越しを躊躇(ためら)う者達も居た。丹波(※車斯忠のこと)や和泉(※馬場政直のこと)らは、この機に乗じて七月の大雨の夜に、牢人(※浪人のこと)や町人などを引き連れて、松平(五郎左衛門)一生が在番した(水戸城)三之丸町口の大門まで押し寄せ開門を迫った。那珂川の向こう岸にも、一味の者らが集まったが、大雨により増水した河に流されて、何事も為し得なかった。城方では、番士が暫らく持ち堪える最中に、急使を夜通し笠間へ走らせたため、松平(周防守)康重は直ちに水戸へ馳せ付けた。そして、丹波(※車斯忠のこと)や和泉(※馬場政直のこと)らの申分(もうしぶん)を聞き取った後に、座敷牢へ入れて置き、江戸からの指図を請うた。
その結果、車(※車斯忠のこと)らは江戸へと送られて取調べを受けた上で、再び水戸に連れ戻されて、丹波(※車斯忠のこと)親子と和泉(※馬場政直のこと)夫婦が斬首の刑に処せられた。」・・・としています。
《②『慶長見聞書』の説》・・・これによれば・・・
「兵蔵(※大窪久光のこと)や和泉(※馬場政直のこと)らは生け捕りとし、丹波(※車斯忠のこと)については田舎において潜伏中を捕らえた。」・・・としています。
《③『家忠日記』増補・『寛永諸家系図伝』松平(五郎左衛門)一生伝などの説》・・・これらによれば・・・
「和泉(※馬場政直のこと)は太田において後日捕えられた。兵蔵(※大窪久光のこと)は自害した。」・・・としています。
《④『常陸三家譜』の説》・・・これによれば・・・
「水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画は、丹波(※車斯忠のこと)ら一味の忍びの者が西暦1602年(慶長7年)7月17日に、番士によって捕らえられて露顕(=露見)することとなり、直ちに丹波(※車斯忠のこと)や和泉(※馬場政直のこと)、兵蔵(※大窪久光のこと)らが捕らえられて、江戸で取調べを受けた後に、水戸の吉田(現茨城県水戸市吉田)において首を斬られ、同年10月10日に同じく水戸の青柳(現茨城県水戸市青柳町)の辺りで梟首(さらしくび)とされた。兵蔵(※大窪久光のこと)の首は、密かに盗み出されて、郷里の大窪村(現茨城県日立市多賀町)へ葬られたと云われ、その法号は哲勝常嘉居士であり、同村の哲勝山正伝寺(現茨城県日立市大久保町)が、その開基である。丹波(※車斯忠のこと)の首は、水戸吉田の台町(現茨城県水戸市元台町)に密葬とされ、和泉(※馬場政直のこと)の首は、一本榎(現茨城県水戸市緑町2丁目)の下に葬られたと云う。」・・・としています。
・・・車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らによる水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画事件については、上記のように諸説ありますが・・・“同年7月中旬に事が露見し、同年10月上旬に処刑が行なわれて、その刑死者は少なくとも、車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)親子、車斯忠の娘婿(※一説には妹婿)の大窪久光(※通称は兵蔵)、そして馬場政直夫婦の5人だった”かと。・・・もしかすると、これらの家族で連座させられた人も居たかも知れません。・・・尚、“車丹波一揆の総勢を三百人余りの規模”とする中山信名(なかやまのぶな:※江戸時代後期の国学者であり、常陸国久慈郡石名坂村の医者・坂本玄卜〈さかもとげんぼく〉の子、通称は平四郎、後に甚四郎、号は柳洲〈りゅうしゅう〉とも)が著した『新編常陸国誌』などの説もありますが・・・これらについては、いささか辻褄が合わない点があるのです。
・・・仮に、“総勢を三百人余りの一揆勢との間で激戦が繰り広げられた”とするならば・・・その一揆を主導、或いは首謀した者達が、激戦の最中に討死せずに、皆が捕らえられて、江戸へと送られ取調べを受け、同年10月頃まで約3カ月間も処刑されなかった事自体が、この騒動の顛末や首謀者達の行動、そして徳川家による処置や処刑者の人数などからすると、どうしても矛盾が生じてしまいます。・・・つまりは、当時の車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らは、実際に約三百人規模による水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画を画策していたものの・・・“現実には、そこまで至らなかった”と考えるべきかと想います。
・・・当然のこととして、当時の徳川家も佐竹家の出羽秋田転封に伴なって、佐竹遺臣達や地侍、国人衆からの不平や反抗的な行動を予想し、また・・・それらの発生を警戒しつつも・・・むしろ、ある意味では騒動の発生を歓迎する気運もあった筈ですから。もしも、騒動が起きたとしても、時の徳川家康としては、佐竹家全体を改易してしまうという絶好の好機でもあった訳ですし。・・・それらの事情を多分に含んでいたためだったのか? この車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らによる水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画事件については、“僅かな嫌疑で以って厳しく追及した後に、云わば見せしめ的効果を持たせるため、梟首などの極刑に処したのではないか? とも考えられるのです。
・・・“車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らの首謀者達以外には、処刑された者があった”と、伝えられていないのも・・・事実として、“この一揆勢に加わった人が、極めて少数であったため”と考えられますし・・・上記④の『常陸三家譜』の説にもあるように・・・“梟首の後に、それぞれの首が、彼らの故地に葬られた”という伝承がある事からも、これらの背景にあるものが、感じ取れるのではないかと。・・・いずれにしても、“佐竹家の出羽秋田への国替えの際に常陸など佐竹氏族全体の故地に充満していた不安や動揺などが、この水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画事件の背景にある”と、当時の人々が一般的に認識していたからこそ、それに関連する記憶や伝承があるとも云えるため、車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らが起こそうとしたという奪還計画自体の善悪は、ともかくとしても・・・“その歴史的な意義などについては、かなり大きな影響を与えていた”と想います。
※ 同西暦1602年(慶長7年)7月25日或いは26日以前の事として:“水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)受取り正使及び水戸奉行衆とされた花房(助兵衛)道兼(※別名は職秀とも)”が「伏見」に「到着」し・・・“佐竹家からの諸城接収を完了したこと”・・・が、「徳川家康」に「報告」される。・・・“報せを受けた徳川家康は、これに満足した”と伝えられます。・・・そして・・・
※ 同年7月27日:「徳川家康」から、“伏見滞在中の佐竹義宣”に向けて・・・“正式な領地判物(※花押のある領地の証状のこと)が与えられる”・・・と、「佐竹義宣」が、“出羽国秋田への即日下向”を命じられる。(※『佐竹家譜』より)・・・この時の領地判物は、以下の通り。
「出羽国之内秋田、仙北両所進置候、全可有御知行候也、
慶長七年七月廿七日 花 押
佐 竹 侍 従 殿」
・・・いずれにしても・・・たった、これだけの文書によって佐竹義宣への転封命令が伝えられることとなり、同年5月8日から数えて80日間もの、佐竹義宣の伏見滞在は終了することになりました。・・・これは、“常陸の諸城や館などの接収や佐竹家臣団の移転が支障無く完了されるまで、佐竹義宣を伏見に人質同様に留め置いていたため”とされます。・・・そして、“当時の徳川家康としては、佐竹家所領の常陸受取り使者とされた花房(助兵衛)道兼(※別名は職秀とも)が無事に上洛して、その完了報告がなされたため、佐竹義宣へ出羽国秋田下向を命じた”のです。
※ 同西暦1602年(慶長7年)7月27日:“伏見滞在中の佐竹義宣”が、“出羽国秋田郡へ派遣していた和田(安房守)昭為、須田(美濃守)盛秀、河井(伊勢守)忠遠(※河合や川井などと表記されることもあり、河井堅忠の子だったとも)、向(右近大夫)宣政(むかい〈うこんのたいふ〉のぶまさ)”に向けて・・・“徳川家康より正式な領地判物が与えられたこと、及び同年6月14日付の和田(安房守)昭為宛書状と同様に、現地の民政心得などを指図する”とともに・・・「五十三日以前に花房助兵衛殿(※花房〈助兵衛〉道兼〈※別名は職秀とも〉のこと)が常陸から上って来られ、内府様(※徳川家康のこと)へ詳しく申し上げたため、(徳川家康から)早々に出羽へ下向するように仰出(おおせいで)された。
(よって自分は)明後の二十九日には伏見を出立し、まずは江戸へ下向した後に秋田へ向かうつもりであるので、(秋田)到着は九月中旬となるであろう。仙北については、(徳川家康が)最上義光の代官所まで残さずに下されたから、その事を(最上家へ)申し理(こと)わった後に請(うけ)取るべし。(中略)北城御事(=父の佐竹義重について)は、当座は江戸への居住とされたが、平四郎(※蘆名盛重のこと)、忠二郎(※岩城貞隆のこと)、相馬殿(※相馬義胤のこと)へは替地下賜の沙汰が未だに無いので、(自分としては)江戸へ詰めて、大納言様(※徳川秀忠のこと)へ訴願するようにと弟達へ意見したが、事が済まされる様子ではない。」・・・という「内容」を含む「書状」を送る。(※『秋田藩家蔵文書』所収・佐竹義宣文書より)・・・この書状の中で、“当時の佐竹義宣は自身の弟達及びそれまで自家の与力大名とされていた相馬義胤へは替地下賜がなされていないことを心配し、江戸に居る徳川秀忠へ強く願い出るようにと助言はしたものの、その一方で未だに沙汰が無いということは? と悲観的に考えていた様子など”も分かります。
・・・そして、“蘆名や岩城、相馬、それに多賀谷など佐竹家の与力大名扱いとされていた各家”は・・・時期については、それぞれ異なるものの・・・“結局は、改易処分とされてしまう”ことになります・・・が、これらについては、後述致します。
※ 同年7月29日:「佐竹義宣」が・・・“最終目的地を出羽国秋田郡”として・・・「佐竹家伏見屋敷」を「出立」する。(※『秋田藩家蔵文書』所収・佐竹義宣文書より)・・・当時の佐竹義宣は、佐竹氏族全体が長らく盤踞していた故郷たる舞鶴城(※別名は太田城、佐竹城、青龍城とも)や、自らの居城としていた水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)など常陸国へ近寄ることも、事実上許されずに。・・・いずれにしても、この時の佐竹義宣にしてみれば・・・“自命については許されることが保証される体裁となったものの、平安時代後期以来の約5百年に亘り土着し続けた常陸の地を、自分の代で去らねばならないという状況にあって、これらが中世的な武門家系や、坂東武者の変革を迫られているかのようで、その心境については我々現代人からは量り知れないものがあった”かと。
※ 尚、佐竹義宣の出羽秋田への下向ルートについては、江戸時代の歴史書上は、「北国経由説」と「江戸経由説」の二説がありますが、そもそもとして・・・同年7月27日付の書状にもあるように、佐竹義宣の出羽秋田への行程は、当時の徳川家康による影響下で決められたものであるため、よっぽどの事情が無い限り、当初予定していたルートを変更したとは考え難く、ここでは「江戸経由説」を採用致します。・・・すると、当時の佐竹義宣一行は、この同年7月29日に伏見を出立し・・・同年8月上旬に江戸へ到着・・・その江戸を、同年9月初旬頃に出立して・・・後述の同年9月17日に、秋田到着という全行程だった・・・と推測出来ます。
・・・ちなみに・・・花房(助兵衛)道兼(※別名は職秀とも)と島田(次兵衛)利正から、佐竹義宣や蘆名盛重、岩城貞隆らの子息達のためとして、江戸の徳川秀忠へ嘆願すべきと勧められてはいたものの・・・陸奥南郷(※現福島県南西部のこと)の八槻に留まって、事態を見つめていた父・佐竹義重は、結局のところ・・・江戸へは向かわず、この佐竹義宣よりも先に秋田へ入り、六郷城(ろくごうじょう:※現秋田県仙北郡美郷町)に落ち着いて、現地で相次ぐ反佐竹一揆への鎮圧に対応するため、現地の町割り(≒都市計画)を行なったり、所領南部(仙北、平鹿、雄勝の三郡)の見張りをするなど、さすが鬼義重や坂東太郎などと、かつて恐れられていた武将たる働きを見せることになります。・・・しかし、暫く後には・・・領内視察と称する狩猟中だったのでしょうか? この佐竹義重は落馬して、西暦1612年(慶長17年)4月19日に亡くなるのです。享年66。
・・・この出羽秋田への下向時の佐竹義重が採った選択については、様々な解釈が出来るかと想いますが・・・もしかすると、“車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らによる水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画が露見したという事件の影響があった”のかも知れません。・・・
※ ちなみに、この“秋田下向の際には、佐竹家が所有していた諸道具の運送や処分に商人達の働きがあった”とされ・・・佐竹家伏見屋敷に収められていた武器類や諸道具などは、近江大津や越前敦賀を経由し、日本海を船便を用いて出羽の土崎湊(つちざきみなと:※現秋田県秋田市土崎港)へ送られることとなり・・・“これらに、大津商人の米宿兵太郎(よねやどへいたろう?)や敦賀及び越中の船宿などが働いた”と云われます。・・・中でも「敦賀」では、“江戸時代を通じて久保田(=秋田)藩御用達を勤めた組屋(くみや)の手舟を用いた”と考えられ・・・江戸時代前期の久保田(=秋田)藩家老・梅津政景の日記とされる『梅津政景日記』によれば・・・“佐竹義宣夫人の下向の際に、衣服や茶壺などの持参を斡旋したのは、京都の豪商・大嶋宗喜(おおしまそうき?、おおしまむねよし?)や大嶋宗意(おおしまそうい?、おおしまむねおき?)”とされ・・・彼らもまた、長い期間に亘り久保田(=秋田)藩御用達を勤めています。
・・・尚、国許の常陸では・・・概ねのところ、“同年5月15日付和田(安房守)昭為宛佐竹義宣書状による指令内容の通りに、武器類や諸道具の処分、米の払下げなどが行なわれていた”と考えられます。・・・『秋田藩採集文書』所収・田中(越中守)隆定が遺した「御道具売日記」によれば、“長持に入れた諸道具や槌、弓などを売った様子”であり、その代金として銀子の数を記しております。・・・この他にも、“佐竹家家臣達の家財道具類などの売却処分も少なくなかった”と考えられ・・・これらについては、“かつての豊臣秀吉によって西暦1598年(慶長3年)に行なわれた上杉家の会津転封の際に、商人達が入り乱れて諸侍達の家財道具を安く仕入れていた状況と同様であった”かと。“緊急時ということで、かなり安値で取引きされていたよう”です。
※ また、その一方で・・・当時、百姓と呼ばれていた常陸国の領民にとっては・・・“佐竹家の出羽秋田転封に関連する混乱は、限り無く迷惑なことだった”と考えられます。前述の徳川家重臣・大久保忠隣及び本多正信両人から、少なくとも定書三カ条が二度も発せられていたにもかかわらず・・・“未進年貢や夏年貢、その他借物の催促及び取立てが厳しく行なわれた様子”であり、“これらに加えて秋田へ下向する佐竹家家臣達の荷物運搬まで駆り出されていた”訳ですから。・・・これについても、“上杉家の国替えの際には、給人達の荷物を運搬するためとして、何度でも往復させて、もしも怠る者が居た場合には、斬り捨て御免の命令が出されておりました”ので・・・“当時の佐竹家としても、これに倣っていた”とも考えられます。
※ この当時は・・・諸大名や諸豪族を「国替え」させるために・・・“対象となる家臣や、それに奉公していた給人達全てが国許に居残ること”を禁じており・・・領民については、“連れ出すこと自体を許さず”という基本方針が、豊臣秀吉の時代から採用されておりました。・・・この方針は、“中世的且つ土着性が高かった地方豪族や、地侍、国人衆達を、その土地から切り離して、いわゆる兵農分離政策を大いに促進させるという狙いがあったため”です。・・・したがって、この基本方針で以って、「国替え」が実施されると・・・当然の如くに、“父祖伝来の土地に根付き続けることに拘(こだわ)る家系の者や、当時に小給人と呼ばれた者達は、主君とともに新領地へは移らず、残留する”という選択を迫られた訳です。
・・・特に、この時の佐竹家の場合は・・・“上杉家の米沢移封の場合とは異なり、徳川家との下交渉などが無いまま突如として申し渡され、更には出羽秋田という実質的石高が不明とされていた土地への転封とされたため”・・・“佐竹家だけではなく、佐竹義宣の弟達が継承していた各家や、佐竹家の与力大名達、これら全ての家臣達を含む佐竹家全体としての石高については、大きく削減されるという見通ししか立てられない”という過酷な状況にありました。・・・そのため、佐竹家としては、“当初から客将や新参者、五十石・百石取りの小給人、また在郷において新開地を持つ給人達の扶持を放すという方針を採った”のです。・・・但し、この当初からの方針は、後に幾らかは緩和されたようですが、いわゆる成上り大名の家臣と違って、“旧族大名の佐竹家に属した家臣達には、土着性が高い諸族が多かったため、移住そのものが容易なことではなかった”と考えられます。
・・・ちなみに、この時の佐竹義宣が、石高不明という先行き不安を懐きつつも、“最小限の一門譜代の家臣団として、伏見からの供連れとしたのは、僅かに93騎、総勢2千人未満であった”とされ・・・“この他に、常陸からの別旅団とされた重臣や近臣達は、それぞれの家族や家来をも選抜して、彼らとともに秋田へ下向しました”・・・が、一方で・・・“当時雇用されていた側の一般の給人達は、思い思いに去就を決めることになった”訳です。・・・そして、“主家の後を追って秋田へと向かう人々は、同西暦1602年(慶長7年)以降も数年に亘った”とされております。・・・しかし、その中には、“主家への奉仕と郷里の実家存続のためとして、兄が秋田へ下向し弟が常陸に居残ったり、父が下向し子が居残るなどの方法によって、一家を両分する場合が多く”・・・この時の「国替え」では、一家離散の話を数多く残します。
・・・この時の佐竹家転封に関連し、佐竹家から扶持を放されたり、結果的に一旦は牢人(※浪人のこと)となって他国へ流れた人々もあった訳ですが・・・これらの事例については、以下の通り。(※いずれも、『佐竹氏総系図』、『陪臣系図』などより)
《結果として出羽秋田への遅参扱いとされた人々》
・河合愛恒(かわいまなつね?:※佐竹氏族の北酒出氏庶流)・・・西暦1604年(慶長9年)に下向す。
・高久景基(たかくかげもと:※佐竹氏族)・・・西暦1606年(慶長11年)に下向す。
・藤井義貫(ふじいよしつら:※佐竹氏族である石塚義慶の弟)・・・西暦1602年(慶長7年)より数年後に下向す。
・船尾勝直(ふなおかつなお:※船尾義綱の弟)・・・兄の義綱(よしつな)が、秋田への下向途中に勘気を蒙って牢人(※浪人のこと)となり、弟の勝直もこれに従うが、兄が最上において没した後に、兄の妻子を同伴して下向す。
・国安師行(くにやすもろゆき:※佐竹東家の家臣)・・・兄の師武(もろたけ)は西暦1602年(慶長7年)に下向するも、弟の師行は常陸に居残って戸沢家に仕えるが、その後に下向す。
《結果として、分家したり牢人(※浪人のこと)となった人々》
・大沢氏(※佐竹氏族の長倉氏庶流)・・・兄の大沢当家(おおさわまさいえ?)は西暦1602年(慶長7年)に秋田へ下向するも、弟の当春(まさはる?)は常陸野口(現茨城県常陸大宮市野口)に残留す。
・大山氏(※佐竹氏族)・・・兄の大山重光(おおやましげみつ)は秋田へ下向するも、弟の重有(しげあり)は牢人(※浪人のこと)し、その子孫は仙台に住す。
・山方氏(※佐竹北家の家臣)・・・山方憲泰(やまがたのりやす)は秋田へ下向するも、父の斯泰(これやす)と弟の太郎右衛門(たろううえもん)は相馬家へ身を寄せる。その後に弟の太郎右衛門は秋田へ来て(佐竹家に)仕える。
・高部氏(※佐竹東家の家臣)・・・兄の高部景通(たかぶかげみち)は秋田へ下向するも、弟の半左衛門(はんざえもん)は里見家に仕える。同じく弟の金兵衛(きんべえ)は常陸檜沢(現茨城県常陸大宮市上檜沢及び下檜沢)に住し、同じく弟の作左衛門(さくざえもん)は武蔵へ流離(さすら)う。
・赤垣氏(※佐竹東家の家臣)・・・弟の赤垣倫高(あかがきつねたか)は秋田へ下向するも、兄の倫弘(つねひろ)や倫忠(つねただ)らは他国へ流離(さすら)う。
・・・上記の他にも、“一旦は秋田へ下向したものの、現地における待遇などに耐えられず、常陸へと帰郷したり、他国へ去った人々もあった”とか。・・・更には、“領地を大削減された佐竹義宣としても、可能な限り家臣団の整理を行なおうとしたため、結果として帰農したり、牢人(※浪人のこと)する者達が多く出た”という側面もあったかと。
※ しかし、佐竹家の出羽秋田転封に際して、常陸に残留するという決断をした武門家系の多くは、それぞれの郷土において帰農するに至ります。それら各家の郷里に、引き続き土着せざるを得なかった佐竹遺臣達の中には・・・後に徳川時代と呼ばれる頃に商家を興す家系や・・・特に徳川光圀(※義公)の代になってからは、当時の水戸藩より郷士格(ごうしかく)を与えられて出仕し、つまりは水戸藩士として武士に復帰する者達もおりましたが、その多くは・・・豪農として旧家の誇りを持ち、または村役人になるなど、在郷しながら各村落において中心的な役割を果たしてゆくことになるのです。・・・いずれにしても・・・個人的には、この当たりの事情が、後の水戸学形成過程の根幹部分などに、大きく影響しているのではないか? とも考えておりますが、佐竹氏に関連した古文書を所持する旧家が、徳川時代の郷土誌とも云える『水府史料』などに多く見られるのは、そのためでもあるかと。
・・・尚、常陸に残留せざるを得なかった佐竹遺臣達の多くが、主家とともに出羽へ移った久保田(=秋田)藩の家中と、何らかの体裁で分家した親戚同士だった訳です・・・が、その関係性を物語り、また久保田(=秋田)藩と水戸藩との間接的な関係性が垣間見える史料がありますので、その一部を抜粋してご紹介したいと思います。
・・・この史料は、『常陸御用日記』と呼ばれるもので、佐竹家が出羽秋田へ転封された後、約120年を経た西暦1715年(正徳5年)当時の久保田(=秋田)藩において大館城代とされていた小場(おば)氏により常陸国那珂郡小場地方へ出張して来た、家臣の前小屋(民部)(まえごや〈みんぶ〉)及び平山(半左衛門)(ひらやま〈はんざえもん〉)が遺した記事とされるものです。・・・ちなみに、小場氏は、佐竹西家を受継ぐ家系ですので、当然に佐竹氏一門の家系であり・・・家臣とされる前小屋氏も、小場氏の庶流に当たりますので、これも佐竹氏族ということになります。・・・尚、この時の前小屋(民部)と平山(半左衛門)が、当時の久保田(=秋田)藩による藩命によって、水戸徳川家の所領となっていた、かつての故地を出張調査させたのには、“出羽における佐竹家中の系図類や家系伝承などが乱れて来たため、これを是正する目的があった”とされます。
・・・そして、この出張調査が領内で行なわれる側の水戸藩としても、自家の家中に佐竹遺臣家系の者達を既に多く含んでいましたから、“現地の治政を乱さぬ限りという条件付き調査という事で、現実には黙認せざるを得なかった”と考えられるのです・・・が、これらの事を、もっと端的に云ってしまえば、“分家した者達同士による約120年ぶりの再会事業であった”のかも知れません。・・・また、ここで紹介する小場氏関連の出張調査だけではなく、ほぼ久保田(=秋田)藩の家中全てが、それぞれの系図類や家系伝承などを間違えずに後世に伝えるためとして、幾度か調査の対象とされていたため、“結果としても、各家系の系図類が出羽秋田に伝存している可能性が高い”とも云えるのですが・・・あくまでも、佐竹家の出羽秋田転封に際して分流した一家系として、以下に小場氏に関連した当時の調査報告を示します。
《小場村(現茨城県常陸大宮市小場)》
・庄屋 安藤佐次右衛門(あんどうさじえもん)・・・先祖は大山家臣の川上石見(かわかみいわみ)。
・横倉助左衛門(よこくらすけざえもん)・・・小場家臣であった横倉氏の子孫であり、水戸藩へ出仕す。
・小村小左衛門(おむらしょうざえもん)・・・小場家の譜代であり、この惣領家は秋田へ下向す。
《部垂(へたれ)村(現茨城県常陸大宮市下町及び北町付近)》
・庄屋 立花作左衛門(たちばなさくざえもん)・・・小場家臣であった立原筑後(たちはらちくご)の子孫。
・山伏 正覚院(しょうかくいん:※現茨城県常陸太田市芦間町)・・・平沢姓。小場家譜代の子孫であり、この惣領家は秋田へ下向す。
・茅根久右衛門(ちのねきゅうえもん)・・・先祖は小場家の譜代であり、同苗(=同姓)の伊左衛門(いざえもん)は、水戸藩へ出仕す。
《下根本村(現茨城県常陸大宮市根本)》
・斎藤重右衛門(さいとうしげえもん)・・・高祖父が、小場家の供として出羽秋田へ一旦行くも、妻子を迎えるために常陸へと戻り、そのまま残留す。
・小場家の譜代であった関石見(せきいわみ)の子孫あり。
・前小屋家の譜代であった青山讃岐(あおやまさぬき)の子孫あり。
《前小屋村(現茨城県常陸大宮市泉字前小屋)》
・前小屋家の譜代であった蓮田(はすだ)氏の子孫あり。
・旧家として、平山次郎左衛門(ひらやまじろうざえもん)あり。親の従弟である吉太夫(よしだゆう)は、水戸藩へ出仕す。
《下江戸村(現茨城県那珂市下江戸)》
・江戸氏旧臣の子孫である斎藤権兵衛(さいとうごんべえ)あり。
《向山村(現茨城県那珂市向山)》
・綿引藤左衛門(わたひきとうざえもん)・・・小場家の譜代であった綿引出雲(わたひきいずも)の子孫。
・中川豊後(なかがわぶんご)の子孫あり。豊後の兄であった淡路(あわじ)は秋田へ下向す。
・宇留野(うるの)氏や高瀬(たかせ)氏、皆川(みなかわ)氏など諸氏の子孫あり。
《石塚村(現茨城県東茨城郡城里町石塚)》
・石塚家譜代の子孫として、大鷹(おおたか)氏や川野辺(かわのべ)氏、服部(はっとり)氏、綿引氏、高村(たかむら)氏、瀬谷(せや)氏、篠原(しのはら)氏、館(たち、たて)氏、山田氏、大畠(おおはた)氏、小林氏などあり。
《粟野村(現茨城県北茨城市中郷町粟野)》
・庄屋 所吉兵衛(ところきちべえ)・・・曾祖父が小場家臣であり、その三男は秋田へ下向す。
《太田村(現茨城県常陸太田市中城町付近)》
・車を苗字とする者が、古証文や系図を所持す。
この他にも、『常陸御用日記』では・・・“当時の調査結果を整理して、佐竹家の出羽秋田転封に際して小場家と共に移った者を13人、後に秋田へ下向した者を16人、この小場家が秋田転封以前に城を任されていた小田(現茨城県つくば市小田)に残留した者を16人”と記録しています。尚、“水戸藩のお膝元だった水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)の城下町付近については、当時の調査対象外とされたよう”であり・・・結果としても、“水戸城下で調査が行なわれた”という記載はありません。・・・しかしながら、“佐竹家の出羽秋田転封から約120年を経た後に、かつて水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画事件に関わって処刑された”という車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)についてを調査したことは、大変興味深い事実かと。・・・この時の調査については、様々な解釈も可能となりますが・・・約120年を経た後でないと、佐竹家による調査すら憚(はばか)れられる政治的な状況にあったか? 或いは、小場家などのルーツ調査という名目とされてはいても、その真の狙いとは???
・・・ちなみに、水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)の周辺地域は、“かつての佐竹義宣の近臣者達の知行地が多かったため、その大多数は早期に秋田へ下向しており、調査対象としなかった”とも考えられますが・・・。・・・いずれにしても、現代の茨城県と秋田県における在住者の同姓を数えれば、200例近くを挙げることが出来るため、今(※2018年)から416年も前の出来事ですが、坂東武者たる常陸武士達が出羽秋田と郷土の常陸とに、それぞれの家名を分けた事情が偲ばれる訳です。
※ この時の佐竹義宣は、長らく佐竹氏の氏寺(うじでら)として機能していた寺院に対しても、秋田への移転を制限する方針で臨んでおり・・・歴代祈願所の杉山にあった宝鏡院(ほうきょういん)に対しては、『義宣家譜』所収・西暦1602年(慶長7年)6月20日付宝鏡院宛佐竹義宣書状によれば・・・「秋田御越之儀、堅御無用に而候、遠境と云、其上少分之身上と云、一通り之御届も御無用にて候、畢竟(ひっきょう:※=つまるところ=結局は)我等迷惑之儀に候、其儘(そのまま)常陸御残最候。」・・・と、“常陸残留を勧めました・・・が、“この時に残留を勧められていた宝鏡院のみならず、この他にも一乗院や、佐竹宗家菩提寺の天徳寺など佐竹氏族と縁故の深い寺院及び氏神の八幡宮なども、佐竹義宣による制止があったにもかかわらず、秋田へ移転した”のです。
・・・ちなみに、中世における歴代の佐竹氏当主達が数々の窮地を逃れた地として知られる常陸国久慈郡の金砂山にあった金砂神社も、義宣の父・佐竹義重が入った六郷の地へと移り・・・西暦1604年(慶長9年)には、久保田城(※別名は窪田城、矢留城、葛根城、秋田城とも、現秋田県秋田市千秋公園1)の城下に再移転しています。・・・いずれにしても、“これら寺社移転の際には、住持や神主なとが、その御本尊や御神体、その他宝物などを、思い思いに奉持して、秋田へ下向した光景”が、想像出来ます。
※ 町人達の秋田下向については、“城下などで商いをする御用達商人達が領主と共に移るのが一般的”とされる当時でさえ・・・佐竹家の転封では、全く不意を突かれた格好の国替え処分であって・・・その上、常陸からは遠方の地であり且つ、産物や土地柄なども良く分からない秋田だったためなのか? “当時の町人移転は、さほどに多くはなかったよう”です。・・・しかし、大工や鋳物師、刀劔師などは、当時の大名家や武門家系の人々にとっては無くてはならない職業とされていたため、共に秋田へ下向しています。・・・『梅津政景日記』の西暦1618年(元和4年)9月8日の記述には、常陸の大工衆として「七人」、その棟梁として「外記(げき)」の名が見えます。・・・鋳物師としては・・・岡崎主水(おかざきもんど)という人が、当初は常陸に留まっていたものの、当時の久保田(=秋田)藩から、再三の催促を受けて西暦1604年(慶長9年)に下向することとなり・・・
・・・西暦1649年(慶安2年)正月7日に提出された「岡崎市左衛門(おかざきいちざえもん)書上」によれば、「分国中鍛冶惣頭」という肩書を、久保田(=秋田)藩より命じられています。
・・・尚、佐竹家が秋田へ下向した後に、「刀劔師司」とされた吉田家も、“常陸から移った家系”とされます。
ちなみに、江戸期における久保田(=秋田)藩の財政を支えた収入源としては・・・
立藩当初から、山間部が多かったり、転封先の実質石高などが不明とされて、あまり稲作による収穫が望めなかった久保田(=秋田)藩領内では・・・
佐竹義宣は、当初から家中の者達に対して、“自ら開墾した土地全てを、それぞれの知行地に加えて良い”とする方針で臨んだ結果・・・“新たに、実質石高にして1万5千石が開墾された”と云います。
そして、佐竹義宣は・・・自藩の領内が、「秋田杉」の産地として既に有名だったため・・・1604年(慶長9年)から、これらの伐採を開始し、良質な「秋田杉」が多かった米代川(よねしろがわ)付近を、佐竹宗家の直轄地としています。・・・この「秋田杉」から切り出された「材木」が、河川を通じて日本海へと運ばれ、江戸などの大消費地へ輸出されることとなり・・・また、秋田杉関連製品による収入は・・・“年間にして、実質二万石から三万石に相当した”と云います。
また・・・西暦1606年(慶長11年)には、当時の村山宗兵衛(むらやまそうべえ)らの山師(やまし)によって、待望の「院内銀山(いんないぎんざん)」が発見されております。所在は、現在の秋田県湯沢市院内銀山町。・・・ちなみに、そこには「金山神社」が鎮座しておりますが・・・
いずれにしても、この院内銀山の発見及び金銀の採掘によって、久保田(=秋田)藩は全国有数の銀産出藩となり・・・“当時の鉱夫達は身分を問わず、久保田(=秋田)藩に雇われ、銀山周辺は活気に溢れた”と云われ・・・1617年にローマで作成された地図にも、“その名が記されるほど”であり・・・一説には、“この「院内銀山」から産出される一日当たりの銀の量は、当時の銀貨千枚分に相当した”と云います。
・・・尚、佐竹家が出羽秋田へ転封される以前の旧領地とされる常陸北部の鉱山を含めた全国各地の主要鉱山は、当然の如くに・・・“江戸幕府(=徳川幕府)の直轄地とされた”のに対し・・・この「院内銀山」などを藩営とした久保田(=秋田)藩は、森林から産出される資源を「木山(きやま)」、鉱山からの産出資源を「金山(かなやま)」と呼んでいたことなどから・・・“年転封以前と比べ、返って財政的には潤っていた時期もある”のではないか? とする説もありますし・・・
伝統工芸の「秋田銀線細工」などは、“特に埋蔵量が豊富な院内銀山による”とされております。
・・・更に興味深い話としては・・・
・・・“常陸の地”には、「粟野春慶塗(あわのしゅんけいぬり)」・・・“出羽の地”には、「能代春慶塗(のしろしゅんけいぬり)」という伝統工芸による漆器が現代に受け継がれ・・・これに岐阜の「飛騨春慶塗(ひだしゅんけいぬり)」を加えて・・・「日本三大春慶」にも数えられております。
・・・「粟野春慶塗」については、伝承によれば・・・“室町時代の西暦1489年(延徳元年)に稲川(山城守)義明(いながわ〈やましろのかみ〉よしあき)が、常陸那珂川水系の桂川沿いに当時群生していた漆や桧、梅などを利用する塗物を考案し、子の(太郎左衛門)昌忠(〈たろうざえもん〉まさただ)に伝え、孫で3代目に当たる義忠(よしただ)が常陸国東茨城郡圷村粟野(現茨城県東茨城郡城里町粟)における代々の家業にした”とされます。・・・そして、“佐竹家出羽転封時には、その義忠が常陸に残留することとなり、義忠の弟・義次(よしつぐ)が出羽の能代へと移住し、現地で能代春慶塗を始めた”と、「粟野塗の由来」では伝えております。
・・・しかしながら、一方の出羽能代では、「能代市史・秋田県民俗工芸編」によると、“延宝年間(1673~1681年)から天和年間(1681~1684年)にかけて、つまりは1673年から1684年の11年間のうちに、飛騨の塗師だった山打三九郎(やまうちさんくろう)という人が春慶塗の技法を現地に伝えた”としているのです。・・・このような矛盾については、どのように理解したら良いのでしょうか?・・・おそらくは、春慶塗そのものの技法については、飛騨の地で一定の発展を見せた後に、常陸の地に齎(もたら)されて、現地の植生など自然環境や、当時のニーズに適った方法に改良されたということではないでしょうか?・・・と云うのも、「粟野春慶塗」は器に透明な漆を塗り、木目が透けて見えるように仕上げる春慶塗の技法で製造されますが・・・その木地には、桧の中でも特に堅い石桧(いしっぴ、いひっぴ)を用いるものてあり、当然として漆とともに常陸国内から採集しました。
・・・そして、“当の常陸国内産の桧は、粘りが強く加工が難しい”とされる一方で・・・“光沢があって漆塗に適しており、また下地に膠(にかわ)や砥の粉などを用いないため、漆が剥がれ難く木地の木目が透けて見えますし、透明度を高めてムラなく美しい色を出すために、漆に梅酢を加えた薄紅色の塗りを施す”のが特徴とされます。・・・完成した茶褐色の漆器は、使えば使うほど黄金色に変化して味わいを増しますし、通常は蒔絵などの加飾を行わないため、他の漆器に比べても工程が少なく安価に出来ます。しかも、これらは軽量で実用性が高かったため、昔から重箱やお盆、弁当箱、硯箱などの日用漆器とされていた訳です。・・・そして、現代の岐阜県飛騨地方は、かつての美濃国の隣国に当たりますので、“当時の源氏勢力が基盤とした常陸など関東以北の人々や物品の移動などが、当時の武士層の人々を中心として鎌倉時代以降に活発化したため、彼らの氏寺や氏社(≒氏神)の移転などに伴なって、結果として源氏勢力圏内、或いは源氏勢力同士間では、技術的な交流を含む歴史的関係が非常に強かった”と考えられるのです。
・・・この「粟野春慶塗」を考案したという稲川(山城守)義明なる人物の「稲川」という名字(=苗字)を辿れば、“陸奥国の稲河荘(いながわしょう)に繋がる可能性が最も高い”と考えられ・・・この「稲川」という地名を辿れば、“鎌倉時代には「蜷河(にながわ:※発音は〈みながわ〉とも)」との表記で伝えられ、別に「稲河」とも表記していたこと”も分かります。
・・・ちなみに、この「粟野春慶塗」は、徳川時代と呼ばれる江戸時代においては・・・“稲川(山城守)義明から数えて8代目に当たる稲川興兵衛(いながわこうへい)が、当時の水戸藩主・徳川光圀(※義公)によって、神崎寺(かみさきじ:※現茨城県水戸市天王町8)において、紀州徳川家お抱えの漆工職人との技比べを催され、その勝負に勝ったため、「粟野春慶塗」が水戸藩の御用達となり、後も奨励された”とのこと。これが、「粟野春慶塗」のことを「水戸春慶塗」とも呼ぶ由縁です。・・・尚、“幕末期の水戸藩主・徳川斉昭(※烈公)も、この「粟野春慶塗」の保護や奨励に努めた”と云います。
・・・しかし、残念なことに、2018年(平成30年)2月現在では、この「粟野春慶塗」を継承されているのは、“この稲川(山城守)義明のご子孫に当たる稲川家のみ”とのことであります。
※ 同西暦1602年(慶長7年)9月17日:“伏見屋敷を出立した佐竹義宣一行”が、「安東秋田氏」の城だった「湊城(現秋田県秋田市土崎湊中央3丁目)」に「到着」する。・・・いろいろと諸説ある佐竹家ですが・・・いずれにしても、“この日以降に、出羽秋田における新たな国造りが開始される”こととなります。・・・つまりは、久保田城(※別名は窪田城、矢留城、葛根城、秋田城とも)の築城や、家臣団の刷新及び城下の町造り、農鉱一帯とする国政方針を策定し、そして江戸幕府(=徳川幕府)の命による全国一貫の街道造りなどが実施され・・・今日の秋田市域や由利及び鹿角の一部を除く秋田県の基礎が築かれていった訳です。
・・・ちなみに、常陸佐竹氏の出羽転封と同じくして、それまで出羽にあった安東秋田氏は・・・徳川家康の命により、佐竹家の旧領地との一部交換という格好で、名目上は加増転封(※太閤蔵入地であった旧領の代替が行なわれなかったため、実質的には減封)されて、常陸国宍戸(※現茨城県笠間市平町)5万石に移され・・・出羽角館からは、戸沢政盛(とざわまさもり)が常陸手綱(たづな:※現茨城県高萩市下手綱)4万石に移され・・・出羽六郷からは、六郷政乗(ろくごうまさのり)が常陸府中(現茨城県石岡市)1万石に移され・・・出羽本堂からは、本堂茂親(ほんどうしげちか)が常陸志筑(現茨城県かすみがうら市上筑及び下志筑)8千5百石に移され・・・出羽仁賀保からは、仁賀保挙誠(にかほきよしげ、にかほたかのぶ)が常陸武田(現茨城県ひたちなか市武田)に移されます。・・・そして、水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)については・・・
※ 同年11月26日:“松平(周防守)康重ら水戸在番衆の管理下にあった水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)”が、「松平(武田)信吉(※徳川家康の五男)」に与えられる。・・・しかし、この松平(武田)信吉は、生来病弱であったらしく、この翌年の西暦1603年(慶長8年)9月11日に僅か21歳で亡くなるのです・・・が、当の松平(武田)信吉(※徳川家康の五男)に子女が無かったため、結局は甲斐武田氏が再び断絶してしまうことになりました。・・・尚、『常陸三家譜』の説によれば・・・“水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画を企てたとして、車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らが水戸の青柳(現茨城県水戸市青柳町)において梟首とされたのは、この前月に当たる同西暦1602年(慶長7年)10月10日の出来事だった”と伝えられています。
・・・にもかかわらず、当時の徳川家康が・・・車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らの処刑のことについてを
・・・「我としては謀反は憎いが、豪勇忠良の武将を斬り取り、強盗や人殺しの罪因と同じ磔に処するとは、名に相応しい武将の扱いを知らぬ所業だ。」・・・と発言し、“自身の五男による管理下で執行された処刑についてを、徳川家康が厳しく叱責していた”という逸話が伝承されているのです。・・・“この同西暦1602年(慶長7年)11月26日に、初めて松平(武田)信吉(※徳川家康の五男)に対して水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)が与えられた”という期日自体に間違いなければ、時系列的に矛盾が生じてしまいます。・・・このようなタイムラグ的な事象を、我々後世の人間は、どのように解釈したら良いのでしょうか?
・・・これについてを私(筆者)なりに解釈すれば・・・おそらくは・・・西暦1602年(慶長7年)11月26日の前日までの期間は、当の水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)は、松平(周防守)康重や松平(五郎左衛門)一生、由良(信濃守)貞繁、藤田(能登守)信吉、土岐(山城守)定義、菅沼与五郎ら水戸城在番衆の預かる所だった訳ですので、江戸で取調べを受けて水戸へと戻されていた車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らの処刑を実際に執行した者は、彼ら水戸城在番衆の関係者の筈です。・・・しかし、たとえ“そうだとしても”・・・当時の徳川家康にしてみれば・・・下総に居た松平(武田)信吉に対しても水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)へ移らせることを前以って打診していた筈であり、また現地の水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)で在番する者達へも松平(武田)信吉が水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)を居城とする予定が伝えられていた筈ですから・・・結局は、処刑や梟首としてしまった責任の所在については、大差は無くほぼ同罪といったところだったのではないでしょうか?
・・・不運と云えば、“この時に水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)に入った松平(武田)信吉本人が、居城としてから一年も経たずに亡くなってしまった”こと。・・・そして、この松平(武田)信吉の死が、当時の徳川家としては、“軽視出来ない凶兆として捉えられることとなり、水戸という地が江戸から見て鬼門方角に当たるという印象を強く与えていた”訳です。・・・それにしても、どうしても気になります。・・・水戸城在番衆の中に藤田(能登守)信吉の名があって、水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)を与えられたのが松平(武田)信吉であったという、奇妙な名の一致。・・・そして、何よりも・・・ここから想起してしまうのは・・・ともに上杉家とかなりの接点を持つ藤田(能登守)信吉と車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)という二人の武将の関係。・・・もしかすると??? という想像が、幾つか頭の中に浮かんでしまうのです。
・・・何やら・・・藤田(能登守)信吉という人物の真の姿が、真正面から評価されるような時代にならないといけないのかも知れません。・・・どうしても現代では、藤田(能登守)信吉のことを、自身の保身に走った奸物とする評価が多いですから。
・・・ちなみに、“常陸国久慈郡(現茨城県那珂市静)にある静(しず)神社の祠官を世襲した”という一族に「藤田氏」がありますし・・・後の水戸藩にも、“水戸学中興の祖”として活躍した「藤田幽谷(ふじたゆうこく:※本名は一正、通称は熊之介、後に与介、また次郎左衛門とも)」などに始まるとされる「藤田氏」もありますので。
さて、徳川家康による佐竹家の処遇決定が、他の大名家と比べて大幅に遅れた理由などについては、そもそもとして諸説あります。
・・・これらについてを、敢えて区別すれば・・・
① “西暦1602年(慶長7年)3月或いは4月頃に至ってから、会津征伐(=上杉討伐)の際の東軍方(≒徳川方)、つまりは徳川家康が率いた軍勢を、佐竹及び上杉の軍勢が挟撃、若しくは追撃するという上杉家との密約が発覚した”という説。
② “南九州の大大名で西軍方(≒石田方)に与した島津家に対する処分を、徳川家康が先行させることで、結果的にも島津家による反乱などを抑える狙いがあった”とする説。
また、佐竹家が、出羽秋田に減転封処分とされた理由としては・・・
③ 徳川家の本拠地とされた江戸にも近かった常陸の佐竹家が、その傘下に岩城領や相馬領、多賀谷領などを含んで、実質的には80万石以上と目されていた上、関ヶ原合戦には直接的に参戦し得なかったため、佐竹勢と呼ばれていた軍事組織が、ほぼ無傷状態で北関東に居残っていたため、これが当時の徳川家康の目には障害として映ることとなり・・・結果としても、佐竹家を江戸から遠ざける狙いがあったとする説。・・・この説の背景にあることについて、誤解を恐れずにザックリと云ってしまえば・・・徳川家康という、新たな天下人 ≒ ポスト太閤にしてみれば・・・何かと筋目筋目と叫ぶ佐竹氏族全体が持つ気質や精神性などを鬱陶(うっとお)しいと感じる筈であり・・・結局のところ、遠隔地へ行ってもらうことに。・・・
尚、上記③の説を補完している事柄としては・・・“当時の佐竹家が、鬼義重や坂東太郎と恐れられていた佐竹義宣の実父・義重の頃から、領内の金山へ当時最新とされる冶金技術を導入することなどによって、関東一の鉄砲隊を備えていた”と云われていることが、まず挙げられるのではないでしょうか?・・・“西暦1584年(天正12年)5月から8月頃に掛けて行なわれた”という「後北条氏」Vs「佐竹・宇都宮連合軍」との戦い(=沼尻の戦い)において、“当時の佐竹・宇都宮連合軍が「鉄砲八千六百梃」を備えていた”と伝わっているのです。・・・“伝えられている”という鉄砲の数は・・・“西暦1575年(天正3年)5月21日に、3千梃が用意されて交戦した”と云われる「織田・徳川連合軍」Vs「武田(騎馬)軍」との戦い(=長篠の戦い)を、大きく上回っております。
・・・もしも、“鉄砲八千六百という、この時の鉄砲数に史料的な誇張が加えられていた”としても、当時の最終兵器たる鉄砲を数多く持つとされていた佐竹家全体の軍事力を、徳川家康は当然に脅威、或いは障害として感じていた筈であり・・・もしかすると、佐竹義宣の従兄弟でもあった宇都宮国綱が改易されてしまった遠因には・・・当時の佐竹家を支えた宇都宮家を改易することによって、近い将来に敵対勢力となるであろう佐竹家全体の軍事力を、前以って減じておこうとする布石的な意味があったのかも知れません。・・・いずれにしても・・・“当時の佐竹義重は、本能寺で斃(たお)れる織田信長とは早々と親交を深めていたため、その信長が重用した戦略兵器の重要性にも気付いていた筈であり、着々と自家勢力における鉄砲保有率や運用性などの向上を図っていた”とは考えられます。
・・・しかしながら、その当時の佐竹家にしてみれば・・・豊臣秀吉が現れ、関東や奥羽地方に向けられた「惣無事令(そうぶじれい:※豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令であり、1587年〈天正15年〉12月に制定されたとする通説)」が発せられるまでの間については・・・ただ単に自己勢力の生き残りを懸けて、時の後北条氏や伊達氏に対抗する手段として、“コツコツと鉄砲を蓄え、万一の際に備えていただけ”とも云えますし・・・また、“そのような過去の事情についてを充分含んだ上で、豊臣秀吉や時の豊臣政権から重用されていた”とも考えられるのです。・・・更には、この事こそ・・・“当時の徳川家康が、ほぼ無傷の大兵力を温存し続けていた佐竹家を、大戦後においては、特に見逃す筈が無かった”という背景に当たるのではないでしょうか?
そして、これも『梅津政景日記』によりますが・・・
“石田三成屋敷襲撃事件直後に、石田三成を助けた佐竹義宣のことを、当時の徳川家康へ取り成したとされる細川忠興”が、この関ヶ原合戦後における佐竹家の処遇決定時にも・・・「大大名の佐竹氏には、出羽一国でなければ家臣を賄いきれず変事が起きるかもしれない。」・・・と、“徳川家康へ進言した”とされますが・・・この当時、徳川家康の懐刀とされていた本多正信及び正純親子から・・・「出羽一国を与えるのでは、常陸を治めるのと変わらないから、半国で良し。」・・・と、“細川忠興の進言が退けられてしまった”とのこと。・・・
しかし、上記の本多正純については、“後日談”があります。
後の西暦1622年(元和8年)、「宇都宮城釣天井事件」と呼ばれる政争に負けた本多正純が立場を失なうと・・・“時の江戸幕府(=徳川幕府)は、正純の身柄を出羽の佐竹家に預けて、出羽横手への流罪とした”のです。・・・これは、当時の佐竹家からすれば・・・かつての本多正純の発言による影響が、結果として出羽半国とされてしまった因縁的事実であり・・・この正純のことを、まるで仇のような存在と認識していたため・・・“万が一にも、正純に対しては無用な恩情を掛けることはないだろう”という、露骨な幕府方針のもとに実施された訳です。・・・“それでも、佐竹家による好意もあって、当初の本多正純は手厚くもてなされていた”とされます。・・・佐竹家としては、対応が難しい御仁を預けられて、困惑していた節もありますが。もしも、幕府の意に沿わない対応をすれば、当然に佐竹家の責任問題となりますので。
・・・しかし、その後には、この好待遇が幕府に知れることとなり・・・本多正純の晩年は、厳しい監視を受けるようになって、まさに釘付け状態とされ、幽閉状態で屋敷に置かれることとなり・・・結局は、“横手城(※別名は朝倉城、阿櫻城、韮城、龍ヶ崎城、衝城とも)の片隅で、寂しく生涯を終えた”と伝えられております。・・・尚、“佐竹家お預けの身”となった本多正純及び正勝(まさかつ)親子の監視役とされたのは、上記にもある須田(美濃守)盛秀です。
ちなみに、“「関ヶ原合戦」の後においても、それぞれの大義名分や思惑によって、当時の上杉家と気脈を通じ内通していた”とされる・・・
・・・多賀谷重経は・・・関ヶ原合戦の翌年に当たる西暦1601年(慶長6年)2月に改易処分とされ・・・その後の流浪の末、末子の茂光(しげみつ)が仕えていた彦根藩を頼ることとなり、そこで病死しましたが・・・重経の養子とされていた佐竹義重の四男、すなわち義宣の実弟に当たる(多賀谷)宣家(のぶいえ)が、実家の佐竹家に戻った後に、今度は岩城氏を相続して出羽亀田藩の2代目藩主として、「岩城宣隆(いわきのぶたか)」を名乗ります。・・・尚、“(佐竹)宣家の多賀谷家養子入りに伴ない、事実上追放されていた”という多賀谷重経の長男・三経(みつつね)は、結城秀康(※徳川家康の次男)に仕えて、越前藩の重臣となっています。
・・・また、下野国山川の領主だった山川朝信も・・・関ヶ原合戦後も上杉氏と内通していたことが、西暦1601年(慶長6年)8月に発覚したため、改易されてしまいました・・・が、後には・・・多賀谷三経と同様に、結城秀康(※徳川家康の次男)に仕えたと伝わります。
・・・佐竹家の与力大名とされていた相馬義胤は・・・西暦1602年(慶長7年)5月における佐竹家の出羽秋田への転封(減封)に連座する格好で、一旦改易処分とされました・・・が、同年10月には、この処分が撤回されることとなり・・・結果としては、所領を安堵されております。
・・・佐竹義重の三男であり、義宣や蘆名盛重の弟・岩城貞隆は・・・佐竹家の出羽秋田への減転封に伴なって、それまでの所領全てを没収されてしまいました・・・が、後に徳川家康へ岩城家のお家再興を嘆願した結果・・・“本多正信の組下3百人扶持”となります。・・・そして、その後の西暦1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」では、正信に従軍し戦功を挙げたことにより・・・西暦1616年(元和2年)に、信濃国中村(現長野県下高井郡木島平村中村)に「1万石」を与えられて、小さな大名家として復帰した後の西暦1620年(元和6年)10月に亡くなります。この岩城貞隆の享年は「38」だったと伝えられているため・・・“当時の佐竹氏族の一人としては、かなりの事情を含む本多正信の組下で、現実として戦さ働きを見せねばならないという過酷な環境下にあった”と考えられます。
・・・しかし、この二年後に当たる西暦1622年(元和8年)には、貞隆の長男・吉隆(よしたか)が、出羽国の由利郡内へ「1万石」を加増されて「2万石」となり・・・翌年の西暦1623年(元和9年)11月には、この岩城吉隆が出羽亀田藩へ藩庁を移し、信濃国中村の采地も出羽国へと替地されたため、信濃中村藩は廃藩となります・・・が、岩城氏そのものは、「亀田藩2万石」として明治初期頃まで存続します。・・・尚、佐竹家宗家の家督を継ぐ予定であった叔父・義直(よしなお)が、義直の養父であり実兄でもあった佐竹義宣から廃嫡とされたため、この岩城吉隆が・・・自らの伯父であり、出羽久保田(=秋田)藩主の佐竹義宣の養子となって、その名を「佐竹義隆(さたけよしたか)」と改め、西暦1626年(寛永3年)4月2日に、久保田(=秋田)藩の2代目藩主となるのです。
・・・佐竹義重の次男であり、義宣の次弟に当たる蘆名義広は・・・紆余曲折の後に蘆名氏を継いだ後に、豊臣秀吉から佐竹家の与力とされ、佐竹家の領国にも近い龍ケ崎に「4万石」、次いで江戸崎に「4万5千石」を与えられ、蘆名家は大名として一応復興しており、この義広が「盛重(もりしげ:※盛は蘆名氏の通字であり、重は実父の義重の名からの偏諱)」と改名したのは、“この時期だった”と云われます。・・・しかし、長兄の佐竹義宣が、“「会津征伐(=上杉討伐)」から関ヶ原合戦頃に東軍方(≒徳川方)へ積極的な参加姿勢を見せなかったこと”が、その理由とされたのか? いずれにしても、佐竹家に連座する格好で、所領全てを没収されてしまいます。・・・西暦1602年(慶長7年)に兄・義宣や父・義重らとともに出羽秋田に入り、名を「義勝(よしかつ)」と改めて・・・この翌年には、義宣の「所預(ところあずかり)」として出羽国仙北郡角館(現秋田県仙北市角館町)に「1万6千石」を与えられ・・・そこで、今日に「みちのくの小京都」とも呼ばれる「角館城下町」を造り始めることになるのです。
・・・尚、佐竹義宣は・・・那須資胤の娘であり自身の正室としていた正洞院(せいどういん)の墓所を、出羽秋田への減転封に際して、常陸太田(現茨城県常陸太田市瑞龍町)にある耕山寺から出羽秋田(現秋田県秋田市手形字大沢)へと遷して、「廣澤山正洞院」として菩提寺を建立するとともに、江戸(現東京都台東区下谷2丁目)にも同じく「廣澤山正洞院」を建立し、“亡くなった夫人の霊を丁重に弔って追悼供養をした”と伝えられています。・・・これらについては、文化から文政期(※1804~1829年)に編纂された武蔵国の地誌とされる『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)豊島郡之七・峡田領坂本村』に、以下のように記載されております。・・・※読み易くするため、当ページ筆者により所々注釈などを加えます。
『○正洞院 同宗(※曹洞宗のこと)常陸國久慈郡澤山耕山寺末(の)廣澤山と號す。前に云(う)る(が)如く(※坂本村の旧地名である廣澤についての説明の如くという意)廣澤は此邊の古名なれば山號とせしこと知ら(れ)る。本尊釈迦の三尊を安(置)す。共に運慶の作と云(う)。開山(した)天州呑虎(は)元和元年五月廿七日(に)寂す。開基は佐竹右太夫義宣(の)室(であった)那須壱岐守政資(の)子の女なり。法名は正洞院明室珠光尼。天正十九年四月(に)卒すと。されど佐竹家譜(では)右京太夫義宣(の)室(は)常州館林城主多賀谷修理亮(の)女と見え、那須家譜には、那須壱岐守政資(の)子那須次郎資胤(の)女佐竹義宣室と見ゆ。又家譜(では)義宣が寛永十年正月廿五日(に)卒すと記す。寺傳(では)義宣の室(は)天正に卒すと云ひ、加之(=かの)法謚(に)尼の字を加ふること皆年代齟齬するに似たり。又當寺(では)寛文八年の由緒書を里正傳次郎か家に傳へり。當寺は元出羽國秋田に於て佐竹修理太夫建立、寺領百五十石を寄附ありしに、後故ありて彼(=かの)地に居(る)こと能はず當村に来(た)り、小庵を結び、同宗の林泉寺の地を買得して別に正洞院とす。
林泉寺も元は同宗正覺寺といへる寺地なりしと傳へりと記す。これに依(ら)ば當寺元は秋田に草創し、後當所に来れるにて廣澤山と稱(しょう:=称)するは、直ちに林泉寺の山號を用ひしなるへし。堂内に正観音を安す、坂東二十八番の写にて、元は境内に別堂ありしか、安永年中(に)焼失して未(だ)再建に及ばず。鐘楼(には)貞享二年八月(に)鋳造の鐘をかく(と)。』
・・・ちなみに、出羽秋田(現秋田県秋田市手形字大沢)の「廣澤山正洞院」については、後の明治期に入ってから廃寺となり・・・現在は、その跡及び正洞院墓があります。ちょうど、秋田大学の東側辺りです。・・・尚、江戸(現東京都台東区下谷2丁目)の「廣澤山正洞院」は、現在も存続しておりますが・・・また、上記の下線部分にもあるように、西暦1668年(寛文8年)の傳次郎(でんじろう)による由緒書なるもの及び江戸廣澤山正洞院の寺伝を信頼すれば・・・江戸の正洞院は、「天州呑虎(てんすどんこ?)」によって開山されているとのこと。・・・そして、その天州呑虎が
・・・『故あって彼地(=出羽秋田)に居(る)こと能はずに、當村(※旧豊島郡坂本村のこと)に来たりて小庵を結び、同宗の林泉寺の地を買得し、別に正洞院を建立した後の西暦1615年(元和元年)5月27日に亡くなった』・・・云々と読めるのです。
・・・尚、ここにこそ、“江戸時代前期の出羽秋田と江戸という二カ所において、亡き正室の正洞院のことを、佐竹義宣が同時に供養したという史実”が確認できる訳ではあります・・・が、当時の出羽秋田の佐竹領における藩経営は、民政及び財政的にも困難を極める時期にあったことは、ほぼ確実視されているのです。・・・きっと、“当時の天州呑虎は、佐竹義宣からの寺領150石という寄附を元手にした”のでしょう。・・・また、同じ宗派ではあったものの、わざわざ・・・江戸林泉寺の地を買得してまで、別の正洞院を建立する理由や背景については・・・それこそ様々な可能性が考えられ、尚更に幾つもの謎が深くなってゆく気が致します。・・・
いずれにしても、佐竹家の減転封が実施されたことで、関ヶ原合戦後における一連の論功行賞及び西軍方(≒石田方)に与した、或いは東軍方(≒徳川方)への積極的な参加姿勢を見せなかった勢力への処罰は一応終了致します。・・・こうして、常陸国及び下総国から構成されていた、後の茨城県においては、敵味方の別なく、中世以来の有力豪族達が全て姿を消す結果となった”のですが・・・。・・・佐竹家の出羽転封に伴ない・・・あくまでも伝説的な話とされますが・・・秋田名物とされる魚の「ハタハタ」が、“元は常陸の海で獲れていたのが、佐竹家とともに出羽の海へと移ってしまい、それ以来常陸では獲れなくなってしまった”・・・とか・・・“常陸の鉱山では佐竹家が去ってから金銀が産出しなくなり、産出するのが火打石に変わってしまった”・・・などと云われます。・・・また、これらの伝承は・・・“徳川の治世に入っても、佐竹氏時代の昔を懐かしむ、当時の常陸人の心を表わしている”とも云われます。
西暦1603年(慶長8年)に、徳川家康が「征夷大将軍」に任命されて、江戸幕府(=徳川幕府)を開くと・・・西軍方(≒石田方)に加担したために改易していた立花宗茂や、丹羽長重(※丹羽長秀の長男)、滝川雄利(たきがわかつとし)らの3名を、大名家として復帰させております。
・・・立花宗茂は・・・徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)の「御伽衆(おとぎしゅう:※主君に召し出されて側近として仕え、政治や軍事の相談役となり、また武辺話や諸国の動静を伝えたり、世間話の相手も務める職掌のこと)」に任じられ、それまで常陸佐竹氏の支配下にあった赤館城を拠点とする「天領(てんりょう:※江戸幕府〈=徳川幕府〉の直轄領のこと)」を継承することとなり、陸奥国棚倉に「1万石」で入って、棚倉藩を立藩します。
・・・丹羽長重(※丹羽長秀の長男)は・・・かの織田信長に仕えた丹羽長秀(にわながひで)の嫡男です。この長重も、徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)の「御伽衆」となり、無嗣改易となった山岡道阿弥(※剃髪前の山岡景友)が領した「常陸古渡藩1万石」を引き継ぐこととなり・・・後の「大坂の陣」において、丹羽長重(※丹羽長秀の長男)が軍功を挙げると、西暦1619年(元和5年)には「江戸崎藩2万石」へ加増移封されます。・・・また、上記の立花宗茂が、“旧領地”の「筑後柳川藩10万9千2百石」を与えられることになると・・・この丹羽長重(※丹羽長秀の長男)が、「陸奥国棚倉藩5万石」として、西暦1622年(元和8年)に加増移封されることになるのです。
・・・滝川雄利も・・・関ヶ原合戦後には改易されていましたが、後に徳川家康に召し出されて、秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)の「御伽衆」とされ、常陸国新治郡(現茨城県石岡市片野)に「片野藩2万石」を与えられました。・・・しかし、この雄利が亡くなると・・・滝川家の家督そのものは、嫡男の「正利(まさとし)」が継ぎますが、この正利には嗣子が無く、また生来から病弱であったため、西暦1625年(寛永2年)に「領地2万石」のうちの「1万8千石」を江戸幕府(=徳川幕府)へ返上することとなり・・・結果としては、「幕府旗本2千石」となります。・・・これにより、「片野藩」は、廃藩とされるのです。
西暦1603年(慶長8年)以降も、相馬義胤など数名が大名として復帰しますが、西軍方(≒石田方)に加担した諸大名には、明治維新頃まで存続した家も多く、また島津家の薩摩藩や、毛利家の長州藩などは、幕末期になると「倒幕派」として活躍することになるのです。・・・しかしながら、江戸幕府(=徳川幕府)の草創期には、西軍方(≒石田方)に加担するなどして、徳川家から領地を没収された勢力に属していた人々の多くは、牢人(※浪人のこと)となっていた訳です。
・・・その中には、僅かながらも「幕府旗本」や“諸藩の藩士”として、武士としての天寿を全う出来る人々もいましたが・・・当時の風潮としては、“東軍方(≒徳川方)の諸大名が、西軍方(≒石田方)に与した牢人(※浪人のこと)達を積極的に雇う事自体が憚(はばか)れられる”のが一般的であり・・・長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)や、毛利勝永(もうりかつなが:※毛利勝信の嫡男)、真田信繁(さなだのぶしげ:※真田昌幸の次男)、大谷吉治(おおたによしはる:※大谷吉継の嫡男或いは弟)などは、“10数年も後”の「大坂の陣」において、豊臣秀頼方の浪人衆として、徳川家康が率いた幕府軍と戦い、ともに戦死することになるのです。・・・
尚、上記にある真田信繁(※真田昌幸の次男)が亡くなった後のこととなります・・・が、佐竹義宣と真田信繁(※真田昌幸の次男)の間、つまりは佐竹氏と真田氏が、「姻族」という形態で繋がっているとされます。・・・これらについて、まずは・・・「たか(※後の隆清院)」という“一人の女性”を中心にして説明することに致します。
・・・“たか(※後の隆清院)の母は、菊亭晴季(きくていはるすえ)の名でも知られ、戦国時代から江戸時代前期に掛けての公卿とされる今出川晴季(いまでがわはるすえ)の娘の「一の台」であった”と・・・現在の秋田県由利本荘市岩城亀田最上町にある『妙慶寺(みょうけいじ)縁起』が伝えております。
・・・そして、たか(※後の隆清院)の父は、豊臣秀吉の甥として生まれ、秀吉の養子となって「関白」にも就任した豊臣秀次です。・・・父の秀次は、たか(※後の隆清院)の母とされる「一の台」のほかにも、池田氏の女性を「正室」としていたようであり・・・どうやら・・・「一の台」とは、「一の御台所(いちのみだいどころ)」という意味における「正室」を指していて・・・池田氏の女性を、「若政所(わかまんどころ)」と呼んで、“若い方の正室”という意味を含んでいるようです。・・・いずれにしても・・・豊臣秀次は、“この二人以外”にも多くの「側室」を持ちました・・・が、西暦1595年(文禄4年)に「豊臣秀吉」から“謀反の疑い”を掛けられ・・・“同年7月15日、高野山において切腹による自害に追い込まれた”とされます。
・・・すると、“豊臣秀次からの寵愛を最も受けていた”とされる「一の台」は、以前に「大納言」とされていた今出川(菊亭)晴季の娘だったこともあって、豊臣秀吉の正室である北政所(※後の高台院)が「一の台」の助命を嘆願したにもかかわらず・・・“秀吉の怒り”は収まることはなく、「豊臣秀次切腹事件」に連座させられ・・・同年8月2日早朝に、たか(※後の隆清院)の母である「一の台」が、京都の三条河原において、真っ先に「斬首」されてしまいます。・・・享年は34。法号は「徳法院殿誓威大姉」。「一の台」の「辞世の句」は・・・「ながらへて ありつるほどの 浮世とぞ 思へばなかる 言葉もなし」・・・と。・・・尚、「豊臣秀次切腹事件」に連座して斬首されたのは、この他にも・・・豊臣秀次の、幼なかった若君4名、姫君1名、側室、侍女、乳母らの34名とされます。
・・・しかし、何故か? 「たか(※後の隆清院)」は、“この一連の処刑から逃れることが出来た”のです。・・・但し、西暦1595年(文禄4年)8月2日早朝前後の時点における、たか(※後の隆清院)の所在や行動については、今以って不明とされますが。・・・もしかすると、何らかの理由があって、且つ当時に影響力を持っていた人々の協力があって、豊臣秀吉による捕吏が向けられる気配を事前に察知し、高野山方面へ逃されていた、或いは山間部へ紛れ込んだ方が良いとの助言があったのかも知れません。
・・・これは、あくまでも私(筆者)の私見となりますが・・・高野山そのものが、“当時の人々からすれば、人間の黄泉(よみ)がえり信仰が望める掛け込み寺院との認識が強かった”と考えられますし、は現に畿内周辺で領地を追われた武者達が落ち延びる地でもあったから”です。・・・そして、結局は・・・高野山の青巌寺(※現在の金剛峯寺のこと)において自刃することになる豊臣秀次本人も、“軍勢を向けられて高野山へ向かった訳ではなく、自らの意思で高野山へ向かい豊臣秀吉の怒りを静めようとした”と考えられますし・・・また、その一方では・・・この約四年後の西暦1599年(慶長4年)に豊臣秀吉が亡くなると、「豊国神社」が創建され、故豊臣秀吉を神とする神格化政策が時の豊臣政権によって進められていますので、西暦1595年(文禄4年)の「豊臣秀次切腹事件」が、“その発端とされる時期だった”と捉えることも出来る訳です。
・・・いずれにしても、西暦1595年(文禄4年)の「豊臣秀次切腹事件」を生き延びた「たか(※後の隆清院)」は、「関ヶ原合戦」の後に、高野山の入口に当たる九度山(現和歌山県伊都郡九度山町九度山)に蟄居させられていた真田信繁(※真田昌幸の次男)の側室となります。・・・これについても、どうして真田信繁の側室となったのか? などの経緯(いきさつ)については不明とされます。2016年(平成28年)のNHK大河ドラマでは、上手く繋げておりましたが。
・・・やがて、この「たか(※後の隆清院)」が、真田信繁(※真田昌幸の次男)との間に、五女となる「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院のこと)」を、西暦1604年(慶長9年)に出産します。
・・・そして・・・「妙慶寺」の伝承によれば・・・
・・・西暦1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」における「たか(※後の隆清院)」は、真田信繁の大坂城への入城に伴ない、娘の「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院のこと)」と共に、「大坂城下」へ移ります。・・・後の「大坂夏の陣」の“2カ月程前”には、“妊娠中”の「たか(※後の隆清院)」と共に、当時10歳とされる「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院のこと)」が京都の嵯峨野に逃れます。母娘はまず、“そこに居た故豊臣秀次の実母である瑞龍院日秀(ずいりゅういんにっしゅう:※豊臣秀吉の同父姉)のもとに、一旦身を寄せて難を逃れた”と云います。
・・・しかし、夫の真田信繁や嫡男・幸昌(ゆきまさ:※通称は大助)が亡くなって、大坂城が落城する・・・と、徳川方による残党狩りが次第に厳しくなり・・・母の「たか(※後の隆清院)」は、姉の嫁ぎ先であった公家の梅小路(うめがこうじ)家へと逃れ・・・そこで、真田信繁(※真田昌幸の次男)の三男となる「(幼名)左次郎(※後の三好幸信のこと)」を、西暦1615年(慶長20年)に出産します。・・・この(幼名)左次郎(※後の三好幸信のこと)を出産した「たか(※後の隆清院)」は、後に「米屋次郎兵衛(よねやじろうべえ?)」という町屋に移り、“(幼名)左次郎(※後の三好幸信のこと)と共に暮らしていた”とされます。
・・・この頃、真田信繁(※真田昌幸の次男)の血を引くことが明らかだった「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院のこと)」は・・・僅か10~11歳でしたので、当然に従者が随伴していた筈ですが・・・
“徳川方による追っ手から逃れるために、各地を転々としていた”との事。・・・しかし、結局のところは・・・徳川方に捕えられることとなり、江戸へと送られてしまいます。
・・・江戸に身柄を送られた「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院のこと)」でしたが、実父の兄である伯父・真田信之(さなだのぶゆき:※信濃松代藩初代藩主)による助命嘆願が功を奏して、結果としても処分が軽減されることとなり・・・結局は、江戸城の大奥に奉公することで、一件落着とされました。
・・・そして、「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院のこと)」が、“奥女中として江戸城大奥を3年間を勤め上げる”と、京都に帰ることを許されます。・・・この時の「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院のこと)」は、13~14歳。
・・・時を経て、「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院のこと)」が“22歳位頃の話”となりますが・・・
・・・江戸幕府(=徳川幕府)3代将軍の「徳川家光(とくがわいえみつ)」及び大御所(おおごしょ)と当時呼ばれていた「徳川秀忠」が、西暦1626年(寛永3年)6月に上洛することになります。・・・そして、この上洛を供奉するためとして、“出羽秋田に転封後の佐竹義宣が京の二条城に入った”のです。・・・必然だったのか? 偶然だったのか? については定かではありませんが・・・この時・・・
“なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院のこと)が、佐竹義宣付きの給仕女とされた”のです。
・・・そして、この二条城滞在中のある早朝・・・これも必然だったのか? 偶然だったのか? については定かではありませんが・・・
「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院のこと)」が、二条城の裏庭において、他の下女達へ薙刀の稽古をつけていたことから・・・
・・・この様子を見て、何かしらを感じ取った佐竹義宣よって、「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院のこと)」は、その由縁や出自についてを問われることとなり・・・彼女が真田信繁の遺児であることが明らかになります。
・・・そのため、佐竹義宣の仲介によって・・・義宣の弟であり、当時は多賀谷家を継いでいた(多賀谷)宣家(※後の岩城宣隆)の側室(※後に継室)となるのです。・・・ちなみに、この時の「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院)」は、“既に22~23歳に達していた”と考えられ、当時の武家の娘としては、やや遅めの結婚となります。
・・・やがて、この「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院)」が、(多賀谷)宣家の嫡男として「庄次郎(※後の岩城重隆)」を、西暦1628年(寛永5年)1月17日に出羽檜山にて出産し・・・同年8月に、甥の岩城吉隆(※後の佐竹義隆)が、佐竹義宣の養嗣子となったため、(多賀谷)宣家が甥・岩城吉隆(※後の佐竹義隆)の跡を継いで、出羽亀田藩の2代目藩主となり、その名を「岩城宣隆」と改めた訳です。・・・但し、これは・・・形式上は、“嫡男の庄次郎(※後の岩城重隆)を藩主とすることで、その実父である岩城宣隆が番代(※後見役のこと)を担った”とも云われますが。
・・・いずれにしても・・・この頃に、なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院)の立場が、「側室」から「継室」へと代わり、檜山から“久保田(=秋田)城下の亀田藩邸に入った”とされています。
・・・ちなみに、岩城宣隆の初めの正室とされていた、つまりは婿取りの「珪台院(けいだいいん:※多賀谷重経の娘)」は、この頃既に・・・“表向きには離縁状態にされていた”とは考えられますが・・・どうやら、“当時の多賀谷家が改易されていたこと”もあって、実家へ帰されるなどということは無く、元夫の岩城宣隆らとともに亀田へと移り、「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院)」よりも長く生きて、西暦1649年(慶安2年)に没しております。
・・・そして、出羽亀田藩主となる岩城重隆の生母・「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院)」が、実父の真田信繁(※真田昌幸の次男)及び真田家累代の祖先や、危急の際に自身を匿って助けた曾祖母の瑞龍院日秀の菩提を弔うためとして、西暦1629年(寛永6年)に久保田(=秋田)城下に、日蓮宗の「妙慶寺」を建立し・・・その後に、久保田(=秋田)城下にあった「妙慶寺」を、亀田城(※別名は天鷺〈あまさぎ〉城、亀田陣屋とも、現秋田県由利本荘市岩城下蛇田)下へと移して、「寺領80石」を寄進しています。
・・・ちなみに、この「妙慶寺」には、真田信繁(※真田昌幸の次男)の供養塔や、真田家の家紋である「六文銭」が“あちらこちら”に見られ・・・「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院)」が、“日砌和尚(にっさいおしょう)を亀田から京都の今出川(菊亭)邸へ派遣した際に、遠路訪れた日砌和尚に対して、当時の今出川(菊亭)家から贈られた”という「袈裟(けさ)」もありますし・・・“女性ながらも、武芸に優れていたという、なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院)が、実際に着用した”と伝わる「甲冑(かっちゅう)」も「宝物殿」に遺されています。
・・・尚、「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院)」の母「たか(※後の隆清院)」は、“なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院)の祖母”に当たる「一の台」の実家であった京都の今出川(菊亭)邸において、“西暦1633年(寛永10年)5月8日に没した”とのこと。・・・法号は「隆清院殿妙詔日昌大姉」。この「隆清院」の位牌も「妙慶寺」にあります。
・・・「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院)」は、「庄次郎(※後の岩城重隆)」の他にも、「隆家(たかいえ)」や「女子(※後の寂寥院〈せきりょういん〉のこと)」を出産し・・・“嫡男の重隆については、自らが養育した”とも伝えられ・・・“出羽亀田では良妻賢母として有名だった”とされます。
・・・そして・・・“まさに波乱万丈の生涯を送った、なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院)本人”は、西暦1635年(寛永12年)6月11日、江戸柳原の亀田藩邸で没するのです。・・・享年は32。法号は「顕性院殿妙光日信大姉」。墓は「江戸(現東京都台東区元浅草)」の「善慶寺」と、現在の秋田県由利本荘市岩城亀田最上町にある「妙慶寺」の二カ所です。
・・・また、「なほ(※直、田、御田姫、御田の方とも、後の顕性院)」の同母弟は、それまで幼名を「左次郎」としていましたが、後に岩城宣隆のもとに引き取られる・・・と、宣隆の猶子(※猶子とは、兄弟や親類、他人の子と親子関係を結んだ子のこと)となり・・・この「左次郎」が元服すると・・・「真田姓」を名乗ることを憚(はばか)って、外祖父に当たる故豊臣秀次の旧姓である「三好姓」及び通称の「左馬之介」を用いて、「三好(左馬之介)幸信(みよし〈さまのすけ〉ゆきのぶ)」と称した後・・・“出羽亀田藩(岩城家)から「扶持380石」を与えられて仕官した”とのこと。
《江戸幕府(=徳川幕府)の大名配置施策と仙台伊達藩・飛び領地の様相についてなど》
上記のように、江戸幕府(=徳川幕府)の草創期における諸大名の改易や配置替えは、徳川家康によって全国的且つ巧妙さを極めながら始められた訳ですが・・・
常陸国や下総国においては、「関ヶ原合戦」の後、佐竹氏や結城氏という二大氏族をはじめとして、下館にあった水谷氏や、守谷にあった土岐氏も、やがては他国へと封ぜられることとなり・・・ここに、旧領主と領民という関係が、凡そ解消される格好となりました。
そして・・・それまでの旧勢力であった在郷の大名達を、ほぼ思いのままに処分した徳川家康は、武家政権たる江戸幕府(=徳川幕府)による政治的中枢機能や大都市としての機能を持つ「大江戸」を築いて、これにアクセスする各街道を整備しつつ・・・結局は、自身の十一男となる「徳川頼房(とくがわよりふさ:※諡号は威公)」に江戸城の鬼門方位にある「水戸藩」を任せるとともに、外様大名として存続した仙台伊達藩や佐竹家の出羽久保田(=秋田)藩など東北列藩に対する・・・云わば、“目付役や抑止力”とし・・・同じく、“江戸周辺の各重要拠点や宿場町を、徳川家の直轄領にしたり、譜代の家臣達を新たに大名≒新藩主に任命するなどの政策を採った”のです。
・・・現在の茨城県内に存した大名家の数は・・・享保年間(1716~1735年)においては11藩であり・・・幕末期の西暦1868年(慶應4年)には、14藩が配置されました・・・が、これら大名家の領地のほかにも、江戸幕府(=徳川幕府)の天領(=直轄地)や幕府旗本と呼ばれる采領地が多くあり・・・また県外の大名家の飛び領地もありました。・・・しかし、後の明治維新期まで茨城県内に存続出来た外様大名は、「麻生藩(※1万石)」と「谷田部藩(※1.6万石)」のみであり、いずれも小大名と呼ばれる規模となっています。
・・・特に出羽秋田へと転封された佐竹家以降の水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)には・・・松平(武田)信吉(※徳川家康の五男)・・・当時2歳の長福丸(ちょうふくまる)こと、後の徳川頼宣(とくがわよりのぶ:※徳川家康の十男であり、紀州徳川家の祖)・・・そして、水戸徳川家の祖とされる徳川頼房(※諡号は威公)・・・と、いずれも徳川家康の実子を配置することとなり・・・
・・・徳川頼房(※諡号は威公)以降の水戸藩は、徳川御三家の一家とされ・・・江戸幕府(=徳川幕府)による政策においても、重要且つ特殊な立場を、幕末期と呼ばれる頃まで保ち続けます。・・・これらのことからも、未だに安定期とは云えなかった草創期の徳川政権が、江戸に近い常陸国や下総国などを、如何に重要視していたかが分かりますが・・・これは上記のように、“仙台伊達藩や佐竹家の出羽久保田(=秋田)藩などの東北列藩を、強く意識した上での施策であった”とも云えるのです。
・・・更には、寛永年間(1624~1645年)に、いわゆる「参勤交代制」が成立すると・・・水戸藩は、例外的に藩主が江戸藩邸に常住し、必要な際のみ幕府の許可を得て帰藩する定めとなります。(=江戸定府)
・・・ちなみに、西暦1606年(慶長11年)には・・・伊達政宗が、徳川家康から常陸国内の河内郡及び信太郡26カ村(1万石余り)を与えられており・・・現在の茨城県龍ケ崎市の一部地域が、“仙台伊達藩の飛び領地とされていたこと”も分かります。
・・・そして、この“仙台伊達藩の飛び領地”は当時、常陸利根川(・・・※この常陸利根川そのものも、主に大江戸の水害及び水事情を改善する対策として、銚子へと誘導した巨大土木事業でしたが・・・)
を介して、“主に「米」などの食糧や物資及び労働力を、人口が増加し続けて急成長を遂げる「大江戸」へ供給するという役目を担っていた”のです。・・・“当時の伊達政宗は、旧龍ケ崎村に「陣屋」を構えて「代官」を置き、常陸国における仙台領支配の中心地としたため、この龍ケ崎は「水運」などが発達した「宿場町」として繁栄し、街道の出入り口付近には「仙臺領」と刻んだ石柱を建てて、治安維持などのために「番屋」を置いた”と云われております。
・・・尚、現在の茨城県龍ケ崎市根町にある「天台宗般若院(金剛山観仏寺)」は・・・そもそもは・・・“西暦978年(天元元年)に、「道珍法師(どうちんほうし)」によって、現在の龍ケ崎市貝原塚町に創建され”・・・“後の西暦1525年(大永4年)に、現在の同市根町に移され、この際に諸堂が建てられた”とされます。・・・そして、“当時の領主とされる「土岐山城守(ときやましろのかみ)」が、天正年間(1573~1592年)に、山内(現茨城県稲敷郡美浦村山内)に、顕密両界(けんみつりょうかい:※顕教と密教という仏教上の二つの教えのこと)の「阿弥陀堂」や「観音堂」を建立して、地元村人達の信仰を集めた”と云われており・・・この「般若院」は、それ以降も「祈願寺」とされ・・・また、大永から天正年間中に造営した諸堂の改築と、「別当(べっとう)」を当時務めた「愛宕山社殿」を、約12年間の月日を費やして建立しております。
・・・ちなみに、この龍ケ崎地域は・・・“この「般若院」を中心として、京都の地形や地勢に倣って、現地の地名が名付けられている”と考えられます。・・・つまりは、東に「大文字山(※竜ケ崎二高のある高台のこと)」、西に「愛宕山」、その間に「白幡台(※竜ケ崎一高のある高台のこと)」などと。・・・更には、この龍ケ崎地域が、“古くから「寺領地」とされるとともに、実際に「修験道場」として使用されていた”と考えられ、“この地方の信仰の中心地だった”と云われており・・・この「般若院」も、西暦1606年(慶長11年)には、仙台伊達藩の所領に編入され、後の西暦1628年(寛永5年)には、伊達家代々の位牌所とする御朱印として、「3石」を受けています。・・・また、中興開山から5代目に当たる「晃順法印(こうじゅんほういん)」が、寛永年間(1624~1644年)に、時の「後水尾(ごみずのお)天皇」の「勅命」により「法談」を命ぜられた後に、「般若院」は“別格寺の待遇となり、常陸国河内郡小野村(現茨城県稲敷市小野)の逢善寺(ほうぜんじ)の末寺二百余カ寺の筆頭寺院”とされます。
・・・尚、この「晃順法印」は、江戸幕府(=徳川幕府)3代将軍の徳川家光の治世時、“雨乞いによって、江戸に起こった大干ばつを救った”として、「虎の尾」を拝領しています。・・・更に・・・晃順法印自らが、「農地開発」に取り組んで貯水池などを造った人物としても知られ・・・現在でも、龍ケ崎市内には「光順田(こうじゅんた)」という地名があります。
・・・上記のように、栄華を極めていた「般若院」も・・・後の西暦1856年(安政3年)に起こった大暴風により、「阿弥陀堂」や、「鐘楼堂」、「本堂」を残して、倒壊してしまいました・・・が、“凡そ100年後”の1963年(昭和38年)に再建されております。
・・・現在の「般若院大師堂」には、「伝教大師(でんきょうだいし:=最澄)」と「弘法大師(こうぼうだいし:=空海)」が安置され、「観音堂」には「霞ケ浦」から引き上げられたとされる「聖観音像」も安置されており・・・この「聖観音像」は、“胴が細く、古代インド様式の仏像に似ている”とのことでして、今も「子育て観音」として信仰を集めます。・・・尚、「本堂」の裏手にある「シダレザクラ」は、「園芸品種」の「エドヒガン(=江戸彼岸)」であり、花見の名所としても知られ・・・樹齢は推定400年、樹高約10m、目通り幹囲約5m、枝張り東西約15m×南北約22mの巨木であり、県の「天然記念物」に指定されております。
・・・現在の茨城県龍ケ崎市上町に鎮座する「八坂神社」も・・・そもそもは・・・この「般若院」の寺領地内(現茨城県龍ケ崎市貝原塚町)”にあり、その「別当職」を「般若院」が務めました・・・が、やがて同市根町における「干拓」を経た後の西暦1577年(天正5年)には、同市上町へ遷されることとなり、現在に至ります。・・・また「関東三奇祭の一つ」とも云われる「八坂神社祇園祭」の最終日には、この「般若院」の前に「御仮屋」が建ち・・・1999年(平成11年)に「選択無形民俗文化財」に選ばれて・・・2010年(平成22年)には、茨城県の「無形民俗文化財」にも指定された「撞舞(つくまい)」という伝統芸能が、“般若院の傍”で行なわれます。
・・・現在の龍ケ崎市役所近くにある「愛宕神社」は・・・西暦1641年(寛永18年)の領主とされる「伊達(陸奥守)忠宗(だて〈むつのかみ〉ただむね:※政宗の次男であり嫡男)」による創建です。「伊達家」は、代々「愛宕神社」を崇拝していたため、本領の「仙台」には「京都」から勧請した「愛宕社」が祀られており・・・幕末期には、現在の「北海道」へ移住する元仙台藩に所縁のある人々が数多くありましたが、“移住先のいずれの村”にも、必ず「愛宕神社」があったそうです。・・・おそらくは・・・「龍ケ崎」に「愛宕神社」を祀ったのも、“同じ理由であった”と考えられ・・・“当時の領民達を火災などの災難から守るとともに、身近な行楽地とする意図があった”のではないでしょうか?
・・・・・※次ページからは、折角の機会なので、それでなくても登場人物の多さや思想やら学問やらで分かりずらい江戸幕末期を、少しでも理解し易くするため・・・
水戸藩内の動きなどについてを・・・敢えて・・・少々小難しい「水戸学」などを採り上げながら記述したいと思います。・・・・・
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】