街並と天空   

『 夢と夢をつなぐこと・・・ 』

 それが私達のモットーです。 ~トータルプラン長山の仲介~ 

    

ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】



・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



     “750年間前後、或いは1350年間程続いた”と考えられる「弥生時代」を経て・・・「時代」は、“3世紀中頃から7世紀頃”に亘る「古墳時代」に移ります。
     “3世紀中頃”には、「畿内」に出現した「前方後円墳」と、それに伴う「墓制」が、急速に“日本列島各地”に広まります。
     ・・・このことは、それまで「畿内(※大和、ヤマトなど)」や、「北九州(※筑紫など)」、「北関東(※毛野など)」、「山陽(※吉備など)」、「山陰(※出雲など)」などに並立していた「大型地域集団」が糾合され始めて・・・結果としても、「倭国(ヤマト王権)」が“形成されたことを裏付ける”と考えられていますが・・・この頃の「倭国(ヤマト王権)」は、未だ「初期国家」と呼べる段階ではなく、「王権連合」と考えるのが適切ではないか? ともされております。

     この「王権連合」が、後に「国家」としての体制(※律令制など)を整え始めて、更に「大和朝廷」と称される「政権」に発展していくこととなりますが、“どの時期以降を以って朝廷と呼ぶべき”か? に関しては、尚も議論があるところです。

     ・・・ちなみに、“上記下線部”の「毛野」ですが・・・読みは「ケヌ」、または「ケノ」となりまして・・・まだ記憶に新しい・・・先般(※平成27年9月)の氾濫と堤防決壊のために水害を引き起こした「鬼怒(きぬ)川」の「語源」となります。・・・「大昔」は、“この辺り”を「毛野國」とし、その傍に流れる河川を「毛野川(河)」(※奈良時代初期頃編纂の『常陸風土記』より)としておりました。・・・いつしか、読みが「ケヌ」または「ケノ」から「キヌ」へと転じ・・・中世から近世に掛けては、「衣川(河)」や「絹川(河)」などと表記するように。・・・また、長い日本の歴史から視ると、“ごく最近とも云える頃(※近代=明治初頭以降)”に、「漢字」で「鬼怒」と“当てられた名称”なのです。・・・尚、「鬼怒」という「字義(意味)」についても、多くの説があります。
     ・・・また、“茨城県外”の「地名」で、もう一つ例を挙げるとすると・・・「埼玉県」の「埼玉」の由来も、“この周辺”に「古墳時代」の形跡である「さきたま古墳群」があるように、「埼玉≒さきたま」とされています。・・・一説には、「武蔵國多摩郡」の「奥地」という意味で、「さきたま(≒前多摩、先多摩)」が「埼玉(さいたま)」に転じたものであると。・・・または、“古代”の「埼玉郷」が、現在の行田市付近に当たるため、「さき(=前)」と「たま(=湿地の意味)」の意味を合わせて、「埼玉(さいたま)」に転じたものであると。・・・或いは、「さちたま(=幸魂)」が「埼玉(さいたま)」に転じたものであると。・・・など、確定的な根拠がある訳ではないのですが・・・いずれにしても、“奈良時代末期頃に編纂された”と考えられる『萬葉集(まんようしゅう)』では、「前玉(さきたま)」や「佐吉多萬(さきたま)」という「記述」があるので、「発音」としての「さきたま」が転じて、「さいたま」になったことは、ほぼ間違いないようです。
     ここで二つの例を挙げたのは・・・少なくとも、この「古墳時代」当たりから「現代」に至るまで、“我々の祖先達”が、「文字」を、どう使用するのか?に関わらず・・・確かに、「発音」として、後世に「伝承」しているからです。
     ・・・つまりは、“古墳時代以前の時代”・・・要するに、“古代中国の秦王朝時代には、奇書扱いとされてはいる”ものの・・・少なくとも、『山海經(せんがいきょう)』という“中国最古の地理書(≒地誌)”の中で、具体的に「倭」という“古代日本の一部”を示すとされる記述が遺されており・・・“紀元前200年頃の国際情勢”と云うか・・・“古代中国人の認識が垣間見えている”のです。・・・いずれにせよ、“古代中国の人々”は、「倭」という「地域」、或いは「国」を、認識していました。・・・ということは、或る意味「情報」が遠く、間接的ではあっても、「倭人」との具体的な「交易」や、勢力的な「小競合い」などを別にしても・・・“交流なり、何らかの接触があった”・・・という“基(もと)となる情報”があって、それが・・・結果的に、内容が縮められ、“古代中国の人々へと伝わった筈”なのです。
     ・・・“裏読み”すれば・・・“当時の倭国の一部の人々”からしてみれば・・・他の「大型地域集団」とは競い合いながらでも、当時の「国際情勢」や、「文字」、「言語」、“文化そのものなどの、有益な情報を得ようとしていた”ことも分かります。・・・当然に「情報」とは、“一方通行ではありません”ので。
     ・・・したがって、この“古墳時代以前の時代には、まだ”・・・“日本列島中”で共用出来る「文字」や「言語」などの“コミュニケーション・ツールの必要性には、それほど迫られていなかった”・・・とも考えられる訳です。
・・・おそらくは、三つ以上の“大型地域集団間”における“詳細な会議や打合せ”には、全体として一人ないし三人程度の・・・今で云う、「バイリンガル」、つまりは、“各部族語の通訳者を、立てれば事足りる状況だった”のではないでしょうか?

     “4世紀後半頃から”の「倭国(ヤマト王権)」は、“日本列島内の主要地域への支配を強める”とともに、「武器」や「農具」の原材料となる「鉄資源」の確保や、それらの「技術者集団」などを求めて・・・「朝鮮半島」へ進出を開始し、“朝鮮半島諸国”の「国際関係」にも介入し始めます。・・・これを契機として、「大陸」から、「技術」や「文物」が、更に日本列島へ流入して来ることになります。・・・いずれにしても、“この頃の日本列島人は、自分達が暮らす地域(≒国家)観や、それに伴う対外意識、自分達から観た国際情勢というものを意識せざるを得ない時代だった”と考えられるのです。
     “この頃のこと”を伝える、『記紀』と呼ばれる『古事記』や『日本書紀』では・・・“自らの勢力範囲”を、「倭」や「日本」として表記し・・・そして、『日本書紀』のみで記述しているものとしては、「夜摩苔(やまたい?)」という表記もあります。・・・これは“、或る種”の「当て字」、或いは「別名」なのでしょうか?

     また、『日本書紀』によると・・・“倭国(ヤマト王権)の勢力を中心にして、倭を統一していったとされる古代日本”への「漢字」の流入とともに・・・「倭」を「借字」として、「ヤマト」と読むようになり・・・それが時間の経過とともに、「倭」が「大倭」となり・・・「大和」へと“変遷していく様(さま)を窺い知る”ことが出来ます。
     “その後”には、更に「大和」を「日本」へと、表記を変更させて、これを「ヤマト」と読んだとされておりますが・・・

     ・・・後世の『旧唐書(くとうじょ)』倭国日本國伝 では・・・

     《訳》『・・・両國とも倭人の國だが、倭国と日本國は成り立ちなどが異なる別種の國である。』・・・
     ・・・といった、“ほぼ断定的な表現方法になっている”ことを根拠に、これを疑う立場もあります。・・・これが、いわゆる「邪馬台國(=邪馬壹國)」はどこにあったのか? ということに関連させて・・・「近畿地方説」や「九州地方説」など、複数の論争へと発展し、“更に拍車を掛けているような状況”なのですが・・・

     ・・・同じく、『旧唐書』倭国日本國伝 にて続く記述では・・・
     《訳》『・・・その國は日の出の場所に在るを以って、故に日本と名付けた。或いは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。或いは日本は昔、小國だったが倭国の地を併せたという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れ(うぬぼれ)が大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。』・・・
     ・・・といった具合であり・・・或る意味で、“最終的且つ決定的な判断を、避けた節(ふし)があるとも読めなくもない、微妙な表現方法を採用している”のです。
     ・・・この『旧唐書』倭国日本國伝の記述については・・・“そもそも、この書物を編纂していた当時の政治的状況や、時間的制約などにも問題が無かった訳でもないので、この記述内容に正確性を求めても仕方ないし、あまり取り合わなくても良い”のではないか? という意見も、“あるにはある”のですが・・・。


     ・・・いずれにしても、“古代日本や、古代中国における文献上のこと”ではありますが・・・“日本列島の何処か?”を推察出来る・・・それぞれの「地域」や、「国」などの「地名」について・・・“或る種”の「当て字」か「別名」ではないか? とされる・・・多様な表記がありますので、それらについてを、少し観てみることにしましょう。

     【 “古代日本”における文献上の「和語」として 】

      「あしはら」・・・「葦原」は、豊穣な「地」を表すとも、かつての“一地名”とも云われています。

        ・「葦原中國」(あしはらのなかつくに)(※『古事記』、『日本書紀』神代紀より)
        ・「豊葦原(とよあしはら)」
        ・「豊葦原之千秋長五百秋之水穂國(とよあしはらのちあきながいおあきのみずほのくに)」(※『古事記』より)
        ・「豊葦原千五百秋瑞穂國(とよあしはらのちいおあきのみずほのくに)」(※『日本書紀』神代紀より)
      「あきつしま」・・・「秋津(あきつ)」は、「とんぼ」の意。「孝安(こうあん)天皇」の「宮」の名「室秋津(あきつ)島宮」に由来するとされます。
        ・「秋津島」
        ・「大倭豊秋津島」(※『古事記』より、本州の「別名」として)
        ・「大日本豊秋津洲」(※『日本書紀』神代紀より)
      「しきしま」・・・「欽明(きんめい)天皇」の「宮」の名「磯城島(しきしま)金刺宮」に由来するとされます。
        ・「師木島」(※『古事記』より)
        ・「磯城島」、「志貴島」(※『萬葉集』より)
        ・「敷島」
      「おおやしま」・・・「日本神話」の「国生み神話(伝説)」で、“最初に創造された”という「八つの島」で構成された「國々」を表す。『古事記』に記述された順に・・・「淡路島」、「四國」、「隠岐」、「九州」、「壱岐」、「対馬」、「佐渡」、「本州」・・・の「八つの島」ではないか? と推察されています。
        ・「大八島」、「太八島」
        ・「大八洲」(※『養老令』より)
        ・「大八洲國」(※『日本書紀』神代紀より)
      「ほつまのくに」
        ・「磯輪上秀真國(しわかみのほつまのくに)」(※『日本書紀』神武〈じんむ〉天皇紀より)
      「くわしほこちたるくに」・・・精巧な「武器」が備わっている「國」を表す。
        ・「細矛千足國」(※『日本書紀』神武天皇紀) より
      「たまかきうちのくに」
        ・「玉牆内國」(※『日本書紀』神武天皇紀より)
        ・「玉垣内國」(※『神皇正統記』より)
      「やまと」・・・特に「大和國(=現奈良県)」のことを指すとともに、“日本全体を表す意味”でも使われました。
        ・「大和」、「大和國」
        ・「邪馬臺(やまたい?)國」、「邪馬壹國」(※『三國志』魏書巻30東夷伝倭人〈通称:魏志倭人伝〉より)
      「みづほのくに」・・・みずみずしい「稲穂」の実る「國」を表す。
        ・「瑞穂國」
      「うらやすのくに」・・・心安(うらやす)なる「國」を表す。
        ・「浦安國」(※『日本書紀』神武天皇紀より)
      「ひのいづるところ」・・・ 「遣隋使(けんずいし)」が、隋王朝の皇帝「煬帝(ようだい、ようてい:※後述します)」へ届けたとされる「國書(≒親書)」にある「日出處」を「訓読み」したもの。
        ・「日出処」(※『隋(ずい)書』より)

     【 “古代中国”における文献上の「漢語」として 】
       「倭」、「倭國」、「大倭國(≒大和國)」、「倭奴国(≒委奴國)」、「倭人國」のほかにも・・・“古代中国”の「扶桑蓬莱伝説」になぞらえた「扶桑(ふそう)」や、「蓬莱(ほうらい)」などの「雅称(がしょう:※風雅な名前や呼び方のこと)」もありますが・・・「雅称」としては、特に「瀛州(えいしゅう)」や「東瀛(とうえい)」と記されます。・・・この他にも、「東海姫氏國」、「東海女國」、「女子國」、「君子國」、「若木國」、「日域」、「日東」、「日下」、「烏卯國」や、「阿母郷」として「阿母山」、「波母郷」、「波母山」などがあります。

     【 ちなみに、“古代”における“倭漢通用”の「文字」として 】
      「江戸初期」の「神道家」が著した『日本書紀神代講述鈔』に、“倭漢通用”の「国称」が以下のように掲載されています。
       「倭國」、「和面國」、「和人國」、「野馬台國」、「耶摩堆」、「姫氏國」、「女王國」、「扶桑國」、「君子國」、「日本國」

     ・・・尚、「陳寿(ちんじゅ:※三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚のこと、生年 西暦233~没年 297年)」が編纂した・・・『三國志』魏書巻30東夷伝倭人〈通称:魏志倭人伝〉では・・・《訳》『倭人は鉄の鏃(やじり)を使う。』・・・との記述があり、“この他の中国側史書”でも、“古代日本(≒ヤマト)の一部のこと”を、「邪馬臺(やまたい?)國」や「邪馬壹國」と、「借音」で表記しています。


     5世紀に入ると・・・「倭国(ヤマト王権)」は、その本拠地を「河内平野」へと遷し・・・そして、“朝鮮半島諸国との政治的関係を優位にするため”として、“古代中国の南朝へ朝貢”し、その目的に相応しい「官爵」を求めて「通交」を活発に行ないました。・・・尚、“この頃の出来事を記述する中国側史書”では・・・当時の「倭国(ヤマト王権)」の“首長達のこと”を、「倭の五王」としています。

     「倭の五王」について・・・“最後の代、つまりは五代目”に当たる「武王」として・・・“現時点で、比定されている”のは・・・「和風諡号」で云うところの、「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」であり・・・後世における「漢風諡号」で云うところの、「雄略(ゆうりゃく)天皇(※治世は西暦470年頃)」です。
     “この頃”から、「倭国(ヤマト王権)」では、“自らの首長のこと”を、「大王(おおきみ)」や、「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」と称するようになっていました・・・が、“朝鮮半島における勢力拡大が思惑通りにならなくなったため”なのか?・・・中国王朝への朝貢も、次第に行なわれなくなります。
     そして・・・“こういった背景があったため”なのか?・・・つまりは、“倭国(ヤマト王権)が、内向き志向となったよう”でして・・・この時期に造られる「前方後円墳」が、特に“その規模を巨大化”させており・・・このことが、“日本列島内における強力な王権国家群の存在”を示しています。

     ・・・また、『日本書紀』欽明(きんめい)天皇元年(西暦540年)八月の条によると・・・

     《現代語訳》「秦人(はたひと)と漢人(あやひと)らの諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集し、國郡に安置して、戸籍に編貫す。秦人の戸数(いえのかず)七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以って、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす。」・・・とあり、“6世紀中頃の、欽明朝頃”の「倭国(ヤマト王権)」は・・・まず、“渡来系の大集団”に対して「戸籍」に用い・・・“漢人らの諸蕃より投化せる者達”と「秦(はた)氏族」とを区別して、統制支配していたことが窺われます。纏まりのある集団としては、秦氏族の集団が一番多かったのでしょう。・・・ちなみに、この「秦氏」は・・・“古代日本史における謎多き氏族”とも云われております。

     【 この頃の東アジア情勢 】

     “この頃”の「朝鮮半島」及び「中国東北部」に存在した勢力としては・・・概ねのところ・・・“三つの主要国”、すなわち「高句麗(こうくり)」、「百濟(くだら)」、「新羅(しらぎ)」の三カ国があり、“また、それぞれが対立関係”にありました。

     ちなみに、当時の「倭国(ヤマト王権)」が、「朝鮮半島南部」に領有していた「任那(みまな)地方」を通じて、“この地方に影響力を保っていたこと”が、『日本書紀』の記述からも知られており・・・“この地域に、倭国人系の有力者が在地していた形跡と考えられる、古代日本固有の前方後円墳”が、幾つか発見されてもおります。
     ・・・また、「中国東北部」で発見された「石碑」・・・「広開土王碑(こうかいどおうひ:※高句麗の第19代好太王(=広開土王)の業績を称えた石碑であり、好太王碑とも呼ばれます)」西暦400年の「条」においても、「任那」という名称が確認出来ます。
     ・・・更には、5世紀に編纂された『宋書(そうしょ)』でも・・・それまでの「弁辰(べんしん:※弁韓とも)」という国の名称が消え去ると、西暦438年の「条」に、「任那」の名称が見られ・・・
     ・・・そして、同じく『宋書』451年の条でも、「任那」と「加羅(から:※伽耶とも)」と云う二カ国を併記しており・・・“その後”の『南斉書(なんせいしょ)』などでも、“これらの名称を同様に踏襲している”ことから・・・当時の「倭国(ヤマト王権)」と、「任那」や「加羅」との関係性を窺い知ることが出来ます。
     ・・・しかし、これら「任那」と「加羅」の二カ国は・・・「倭国(ヤマト王権)」から「百濟(くだら)」へ「割譲」されたり・・・国力を向上させて、朝鮮半島内で台頭しつつあった「新羅」から「侵略」されることとなり・・・次第に、「蚕食(さんしょく)」されてゆきました。
     ・・・後の西暦475年には、「百濟」が「高句麗」から攻撃を受け、「王都」が陥落。
     ・・・“王都陥落後”の「百濟」は、「熊津(くまなり)」への「遷都」によって、一旦は「復興」しましたが・・・西暦538年には、“またしても、劣勢に追い込まれる格好”となって、「泗ビ(しび:※ビの字は、さんずい+比)」へと再度「遷都」することに。
     ・・・“この頃”の「百濟」は、「倭国(ヤマト王権)」との関係も深く(※倭国〈ヤマト王権〉から派遣された重臣らが駐在)、また・・・「百濟」による“対高句麗戦争”では、度々「倭国(ヤマト王権)」から「援軍」が送られていました。

     【 この頃の鉄生産 】

     この4世紀から5世紀頃に掛けては・・・“日本各地”の「遺跡」から、「鉄製」の「刀」や「斧」などが出土しておりますが、・・・その中”の「斧」の成分分析によって、「炭素」や「珪(けい)素」を含んだ「鋳鉄製」だったことが判明しています。・・・この「斧」が、“日本列島内において作製された、最初期の鋳鉄製品ではないか?” と云われており・・・“この頃”には、大陸方面から「原材料」となる「地金(じがね)」を輸入して、「溶解鋳造(ようかいちゅうぞう)」が始まっていたのではないか? と考えられています。

     「鉱石」からの「精錬」については・・・「福岡大宰府」において、“約1,600年前頃(古墳時代中期頃)”の「製鉄炉跡」が発見されています。
     この「製鉄炉跡」は・・・「山の斜面」に「横穴」を掘り、その「内底」に「木炭の粉」と「石英(せきえい)」を練り合わせたものを詰めて、その上に「木炭」と「砂鉄」を積み重ね、「土」を被せて「点火」し、「自然通風」にて「精錬」した・・・と推定されています。
     ・・・また、“同時期”の、他の「遺跡」からも、「製鉄炉跡」や、「鉄製武器」などの「副葬品」が出土する傾向が高くなっており・・・当時の状況を窺い知ることが出来ます。
     ちなみに、「古墳時代」の“後期頃になる”と・・・『日本書紀』や、『古今和歌集(こきんわかしゅう)』などからも分かりますが・・・“鉄生産時の送風方法”が、それまでの「自然通風」から、「鞴(ふいご)」のような人工的な「送風技術」へと進歩しました。
     尚、現在は・・・「鉄製品」の「原材料」となる「地金(じがね)」=「鉄資源(=資材)」が・・・“朝鮮半島から輸入していた”という説と、“国内の山陽(吉備)・山陰(出雲)地方からの産出物を、運んで来た”とする説とに、大別されているようです・・・が、実際のところ・・・「鉄生産技術」と「鉄加工技術」を持った「技術者集団」が、「日本列島」に渡来さえ出来れば・・・“事足りる”と申しますか・・・「原材料」を、日本海を介してまで、“わざわざ運んで来る”という、大きなリスクを背負うより(・・・※それでも、戦果として鉄製武器や鉄製農具などを持ち帰ったということはあったのでしょうが・・・)、“列島内で調達するほうが、遥かに小さいリスクで済んだ”と云える訳ですし・・・「鉄加工」については、“いずれ時間的な問題だけ”となる訳でして・・・そもそも、『三國志』魏書巻30東夷伝倭人〈通称:魏志倭人伝〉において、『倭人は鉄の鏃(やじり)を使う。』との記述があるため・・・“これが編纂された、遅くとも3世紀後期頃”には・・・「倭国(ヤマト王権)人」は、「鉄製品」の有用性を、充分に理解し、現実に利用していた筈なのです。・・・そして・・・“これらを採用して初めて”・・・「應神(おうじん)天皇陵古墳」や「仁徳(にんとく)天皇陵古墳」などのような、“巨大古墳の築造のために必要とされる大規模土木工事を可能とした筈”なのです。・・・したがって、前述の【 この頃の東アジア情勢 】という“時代的な背景”にもありますが・・・“この4世紀から5世紀頃に掛けての倭国(ヤマト王権)では、列島内の主要拠点における鉄生産や鉄加工が急速に広まっていた”・・・と、“理解して、ほぼ間違いない”と云えるのではないでしょうか?

     「倭の五王時代」の後には・・・5世紀後半から6世紀前半に掛けては・・・“倭国(ヤマト王権)内において、様々な混乱状況が見られる”ようになります・・・が、“北陸地方や近江地方を根拠地とする傍系王族より即位した”とされる「繼體(けいたい:=継体)天皇」の登場と“その統治”によって、「倭国(ヤマト王権)」による“日本列島各地への支配が更に強まる”こととなり・・・“近代の天皇家に繋がる体制が、ゆっくりと容(かたち)作られる”こととなります。
     尚、この“繼體(=継体)天皇期”には・・・「北九州地方」において、「磐井(いわい)の乱」が起こった・・・とされておりますが、「倭国(ヤマト王権)」と「地方豪族・磐井」との関係については・・・“そのほとんど”は、『日本書紀』に・・・簡潔な記録としては、『筑後風土記(ちくごふどき)』逸文(※「釈日本紀」巻13所引)や、『古事記』(※繼體天皇段)、『國造本紀(こくぞうほんぎ)』(※「先代旧事本紀」巻10)にあるのみでして・・・“真偽の程は、定かではない”のですが・・・これら『日本書紀』などによれば、概ねのところ・・・



     「磐井の乱」では・・・西暦527年(繼體天皇21年)6月3日:「近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)」が、“約6万人の倭国(ヤマト王権)軍”を率いて、「新羅」に奪われた「南加羅」及び「喙己呑(とくことん:※朝鮮半島南部にあった小国) 」の「地」を回復するため、「朝鮮半島南部・任那」へ向かって「出兵」する。
          ・・・“事前”に、この出兵計画を知った「新羅」が、「筑紫」の「有力豪族・筑紫國造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)」を「贈賄」し、「倭国(ヤマト王権)軍」への「妨害」を「要請」した。
          ・・・「筑紫國造磐井」が、“新羅の要請”に応じて「挙兵」する・・・と、「火の國(※肥前国及び肥後国のこと)」と「豊の國(※豊前国及び豊後国のこと)」を「制圧」するとともに、「倭国(ヤマト王権)」と「朝鮮半島」の間の「海路」を「封鎖」して、“朝鮮半島諸国”からの「朝貢船」を誘い込み、“近江毛野臣が率いる倭国(ヤマト王権)軍”の「進軍」を阻んで「交戦」。・・・“この時”の「筑紫國造磐井」は、「近江毛野臣」に対して・・・「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」・・・と言ったとされ・・・
          ・・・「倭国(ヤマト王権)」では、“乱を鎮圧する平定軍の派遣”についてが協議され・・・「繼體(=継体)天皇」が、「大伴金村(おおとものかなむら」や、「物部麁鹿火(もののべのあらかい)」、「許勢男人(こせのおびと)」らに対して、「派遣将軍の人選」を「諮問」すると・・・結局は、「物部麁鹿火」が推挙されることに。
          ・・・同年8月1日:「物部麁鹿火」が、正式に「鎮圧平定軍の将軍」に任じられる。

          ・・・翌西暦528年(繼體天皇22年)11月11日:「磐井軍」と、“物部麁鹿火が率いる「倭国(ヤマト王権)鎮圧平定軍”とが、「筑紫三井郡(現福岡県小郡市及び三井郡付近)」にて「交戦」し、激しい「戦闘」となる。・・・その結果、「磐井軍」が「敗北」する。・・・『日本書紀』によれば、“この時の磐井は、物部麁鹿火によって斬られた”とされます・・・が、『筑後風土記』逸文では、“磐井が負傷して豊前國上膳県(現福岡県筑上郡の南部付近)へと逃亡したが、倭国(ヤマト王権)鎮圧平定軍が磐井を見失なっている間に、その山中で亡くなった”との記述になっています。
          ・・・同年12月:「磐井」の子「筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)」は、連座責任から間逃(まのが)れるため、「糟屋(現福岡県糟屋郡付近)」の「屯倉(みやけ)」を、「倭国(ヤマト王権)」へ「献上」して、「死罪」を免ぜられる。

          ・・・翌西暦529年(繼體天皇23年)3月:「磐井の乱」が終息した後・・・「倭国(ヤマト王権)」が、再び「近江毛野臣」を「任那・安羅(あら)」へと「派遣」し・・・「新羅」との“領土交渉”を行なわせる。

          ※上記のほか、『筑後風土記』逸文では・・・「官軍が急に攻めて来た」・・・と、極めて簡潔な記述となっていますが、これとともに「磐井の墓」に関する記述もあります。
          ※『古事記』では、「筑紫君石井(つくしのきみいわい:※筑紫君磐井とも)」が・・・「繼體(=継体)天皇の命(令)に従わず、無礼が多かったため、物部荒甲(=麁鹿火)と大伴金村を派遣して石井(=磐井)を殺害させた。」・・・と簡潔に記述され、“反乱”を思わせる記述はありません。
          ※『國造本紀』には、「磐井」と「新羅」との関係を示唆する記述あり。

     ・・・いずれにしても、この「磐井の乱」については、“尚も不明な点が多い”とされています。・・・そもそもとして、『日本書紀』では・・・“反乱”などではなく、「磐井」を「筑紫國造」として、“元々倭国(ヤマト王権)傘下だったように”・・・記述しておりますが、実のところは・・・“王権間の戦争だった”のではないか? とも考えられています。・・・また、『日本書紀』の“記述自体が、かなり潤色されている”として・・・“その全てについて”を、「史実」と見るのを疑問視する意見もあります。
     ・・・とにもかくにも、この「反乱」、若しくは「戦争」は・・・“朝鮮半島南部における利権”を巡って、「倭国(ヤマト王権)」と“親新羅派とされる九州豪族との主導権争いだった”のではないか? と見られております。

     “この後の倭国(ヤマト王権)の外交方針”は・・・“朝鮮半島諸国などへの介入政策を、敢えて控えていた”ようです。・・・やはり、「反乱」だったのか否か? は別にしても・・・上記の「磐井の乱」のような情勢が影響していたのかも知れません。・・・いずれにしても、“こうした内向的な時期を経る”ことによって、“倭国(ヤマト王権)による列島支配は一層強化される”ことになりました。・・・尚、“この頃”には、「輸入文化」や「移民」などによる「文化の融合」や「文化摩擦」が、“ともに起こる”こととなり・・・“当時の日本列島人の宗教観などに対しても、様々な影響を及ぼしていた”と考えられます。・・・このことは、「近畿地方」に限らず、「九州地方」や「関東地方」などでも“同様”であり・・・“それ以前には、大型の前方後円墳を、競いながら造っていた地方豪族達”が・・・云ってみれば、“伝統的な墓制を、アッサリと捨て去っている”ことからも分かります。・・・“彼ら有力豪族”を「大別」すると・・・“列島各地の民間信仰を含む在来の信仰”、すなわち「古神道」と・・・“大陸経由で日本列島へ齎(もたら)された渡来宗教”たる「仏教」とを・・・“それぞれ信仰する二派”に別れてゆきます。
・・・つまりは、“この二派とも”、それまでの慣習とも云える「古墳群」を造るのではなく・・・一方は、「祖先神」などを祀り、“その(氏)神と出会うための空間として”の「氏神社(うじがみしゃ)」を・・・もう一方は、“その教えに帰依(きえ)するための道場(≒堂場)として”の「寺院」、つまりは「氏寺(うじでら)」を。・・・“それぞれが信仰するまま”に・・・それぞれを「造営」したり、「建立」することに、“自己勢力の力を注いでいった訳”です。
     ・・・尚、“この頃”の「オホーツク海沿岸地域」では・・・“独自”の「オホーツク文化」が成立しており、“およそ13世紀(平安時代末期)頃まで続いていた”と考えられています。

     「朝鮮半島」では・・・“倭国(ヤマト王権)」との関係が深かった”とされる「任那」と「加羅」の二カ国が・・・最終的に、「新羅」により滅ぼされてしまいます。おそらくは・・・“西暦562年以前には、ほとんど国としての体(てい)は失われていた”と考えられています。

     ・・・“6世紀後半頃”には、“倭国(ヤマト王権)によって、勢力圏内への支配が安定化”されます・・・が、むしろ“王権内部における王位継承抗争が目立ち始める”こととなります。
     ・・・“この頃”の「倭国(ヤマト王権)」では・・・『日本書紀』によると、西暦569年(欽明天皇30年)春正月に・・・「欽明天皇」が・・・《現代語訳》「吉備の「猪屯倉(しらいのみやけ)では、年齢が十歳余りに達しているのに、籍に漏れているために賦課を免ぜられている者が多い。膽津(いつ)を遣わして田部(たべ)の丁籍を検定せよ」・・・と、「戸籍」に関して「詔(みことのり)」しています。・・・同年4月になると、「膽津」が、“詔で述べられている通り”に、良く「丁(よほろ)」を「調査」し「籍」を定めて、「田戸(でんこ)」を「編成」したため、“その功が褒められる”こととなって・・・「白猪史(しらいのふひと)」の「姓」を賜わり、「田令(たづかい)」に任じられます。
・・・“この時”の「丁籍」は、“課役を負担する成年男子のみを記載していた”ようです。・・・「田戸」とは、「田部」を「編成」した後に「丁籍」よりも正確な「戸籍」を造ったものだったのか?・・・いずれにしても、始めに「籍」を造っただけで、後には定期的な「籍」を作成することも無かったようでありまして・・・「戸籍」としては、“まだ初歩的な段階”と云えました。
     ・・・更に・・・『日本書紀』によれば、西暦574年(敏達〈びだつ〉天皇3年)十月の「条」に・・・《現代語訳》「大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)を吉備(きび)に遣わし、白猪屯倉と田部を増益させて、その田部の名籍(みょうせき、めいせき)を膽津に授けた。」・・・とあります。・・・ここにある「名籍」とは、“胆津が、新しく造ったもので、後の戸籍や計帳に類似するものだった”のか?・・・いずれにしても、これらは・・・“渡来系集団の屯倉の田部などに対する造籍”であり・・・“全ての人民を対象とする、後の律令制における戸籍制度”とは、やはり大きく異なっていました。

     “6世紀末期に入る”と、“古代中国”では・・・“それまで、中国全土が乱れていた六朝(りくちょう)とも呼ばれる南北朝時代が終息し始め”・・・西暦581年には、“南北朝時代の約400年間に終止符を打つ”こととなる「隋(ずい)」が「建国」され、“東アジア諸国の諸勢力”からの「関心」を、更に集め始めます。

     「隋の建国」より“三年後の西暦592年から、8世紀初頭の西暦710年”に掛けては・・・「倭国(ヤマト王権)」が、その本拠地を、主に「飛鳥地方」へ置いたことなどから・・・この「時代」を「飛鳥時代」と呼びます。・・・“この時代”には、「朝鮮半島」の「百濟」を経由し、「仏教」が本格的に伝来し始めて、後の「飛鳥文化」や「白鳳(はくほう)文化」に代表される「仏教文化」へと発展していくこととなります。

     “7世紀前半頃”には、「推古(すいこ)天皇(※日本初の女帝であると同時に、東アジア初の女性君主のこと)」と、その甥である「厩戸(うまやど、うまやと)皇子(※後の聖徳太子)」や、「大臣・蘇我馬子」が中心となって、“倭国(ヤマト王権)の権力集中が、更に図られる”ことに。
     ・・・西暦600年(推古天皇8年)には、“中国統一”を果たした隋王朝に向けて、「第1次遣隋使(≒朝貢団)」が派遣されることとなります。・・・“その時の模様”は、『日本書紀』には記述されておりません・・・が、“中国側史料”の『隋書』東夷傳ワ國傳には、あるのです。・・・ちなみに、この「ワ國傳」の「ワ」という「文字」ですが・・・「読み」で云うと、「タイ」という「字」でありまして・・・“より侮蔑的”な「字」を当てられています。・・・「歴史書の作成」からして、“こう”ですから、隋王朝の“当時の外交戦略”と云うか・・・“中国統一をしてから間もなくのこと”で、或る意味での“自信満々ぶり”や“増長ぶり”も垣間見えて来ますが・・・一方で、「第1次遣隋使(≒朝貢団)」を派遣した“古代日本側の当時の外交戦略もあったと云えます”ので・・・結局のところは、“お互い様的な事”とも云えるかも知れません。


     ・・・が、それはさて置き・・・“6世紀末期の西暦581年(敏達〈びだつ〉天皇10年)から619年(推古天皇27年)に掛けての38年間”については・・・“古代の日中間における外交交流が幾度かありました”ので・・・まずは、“下記の略年表から、その前後関係など”を確認してみましょう。


      西暦581年(敏達天皇10年): 「隋」が建国される。隋王朝の初代皇帝は「文帝(ぶんてい:※楊堅のこと)」。
      西暦593年(推古天皇元年): 「倭国(ヤマト王権)」において「推古」が「天皇」に「即位」する。・・・但し、“この頃”はまだ、「天皇号」は使用されておらず、「諱(いみな:※呼称のこと。忌み名(いみな)、真名(まな)とも)」を「額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)」とし、「和風諡号(わふうしごう:※和風の贈り名のこと)」を、『日本書紀』によれば「豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)」と。・・・『古事記』では、「豊御食炊屋比売命」と表記し・・・尚、この『古事記』では、“この推古天皇まで”を記述しています。・・・いずれにしても、「推古天皇」は、「欽明天皇」の「皇女」であり、「母」は「蘇我稲目(そがのいなめ)」の娘「蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)」。
      西暦598年(推古天皇6年): 隋王朝の高祖「文帝(※楊堅のこと)」により、“中国統一”がなされ・・・“中国史上約1,300年間続けられることとなる官僚登用試験「科挙制度」などを開始する。
      西暦600年(推古天皇8年): 「倭国(ヤマト王権)」が、「第1次遣隋使(≒朝貢団)」を「派遣」する。“この時”は・・・《訳》「まだ、ワ國が、外交儀礼に疎く、國書も持たずに遣使した。」・・・とされる。(※『隋書』東夷傳ワ國傳より)
      西暦604年(推古天皇12年): 隋王朝の高祖「文帝(※楊堅のこと)」が「死去」し、第2代皇帝「煬帝(※楊広のこと)」が「即位」する。
      西暦607年(推古天皇15年)~608年(推古天皇16年): 「倭国(ヤマト王権)」が、「第2次遣隋使(≒朝貢団)」として、「小野妹子(おののいもこ)」らを「派遣」する。ここで・・・《訳》『日出処の天子・・・』・・・という“隋王朝側(≒煬帝)において問題視される國書(≒親書)を持参する”も・・・「小野妹子」が、隋王朝側・使者の官人「裴世清(はいせいせい)」らとともに「住吉津(すみのえのつ)」に帰国する。・・・しかし、“持ち帰るべき返書が百濟において盗まれ、紛失してしまった”と「報告」する。(※『日本書紀』及び『隋書』東夷傳ワ國傳から)・・・それでも、“煬帝(※楊広のこと)が憤慨し問題視されるような、倭国(ヤマト王権)側の國書(≒親書)だった”にもかかわらず、隋使・裴世清が倭国(ヤマト王権)へ派遣された理由としては・・・隋が西暦598年から「第1次高句麗遠征」と称して「高句麗」と“交戦中だったために、当時の倭国(ヤマト王権)が高句麗勢力と結び付くのを恐れたためだった”・・・と考えられます。
      西暦608年(推古天皇16年)~609年(推古天皇17年): 「第3次遣隋使(≒朝貢団)」として、「小野妹子」や「吉士雄成(きしのおなり)」などが「隋」へ「派遣」される。・・・“この時”の「学生」としては・・・「倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)」や、「奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)」、「高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)」、「新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)」。「学問僧」としては・・・「新漢人日文(いまきのあやひとにちもん、後の僧旻)」、「南淵請安(みなぶちのしょうあん)」。・・・“学生・学問僧としては6名”が、「隋」へ「留学」する。・・・そして、この「第3次遣隋使(≒朝貢団)」とともに、隋使「裴世清」が「帰国」する。(※『日本書紀』及び『隋書』東夷傳ワ國傳より)
      西暦610年(推古天皇18年)~?: ? “(第4次)遣隋使(≒朝貢団)を派遣した”と云う。(※『隋書』煬帝紀より)・・・この西暦610年の「遣隋使(≒朝貢団)」については、『隋書』煬帝紀 には「記載」があるものの・・・『日本書紀』には「記載」されていないことから、“ヤマト王権とは異なる倭国勢力が送った”という説もありますが・・・詳細は不明。
      西暦614年(推古天皇22年)~615年(推古天皇23年): 「第5次(※或いは第4次とも)遣隋使(≒朝貢団)」として、「犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)」や「矢田部造(やたべのみやつこ:※矢田部の集団長の意であるとも)」らを「隋」に「派遣」する。西暦615年には、「百濟使」が「犬上御田鍬」に従って来る。(※『日本書紀』より)
      西暦618年(推古天皇26年): 隋王朝が、“滅びの道”を辿る。大規模な反乱や謀反により「煬帝(※楊広のこと)」が「死去」。これにより、「唐(とう)」が「建国」される。唐王朝の初代皇帝は、「高祖(こうそ:※李淵のこと)」。
      西暦619年(推古天皇27年): “隋の第4代皇帝が皇位を剥奪されて、王朝が完全に滅ぶ”と・・・“唐王朝の時代へ移行”する。


         (注1)「遣使」に関して、『日本書紀』と『隋書』における“主な違い”としては・・・「第1次遣隋使(≒朝貢団)」については、『日本書紀』には“その記述”がなく、『隋書』にあるのみ。・・・“上記の略年表”では、「中国史」に合わせて「遣隋使(≒朝貢団)」として紹介しておりますが・・・そもそもとして、『日本書紀』では「隋」ではなく“大唐國へ遣使を派遣した”とあるのです。・・・これは、おそらく・・・『日本書紀』の「編纂時期」が「奈良時代」だったと視られるので・・・“隋王朝が、およそ37年で滅亡してしまったため”の・・・いわゆる・・・“新生唐王朝への社交(外交)辞令だったか”と。
         (注2)隋王朝の初代皇帝「文帝(※楊堅のこと)」とは・・・「中国史」では、比較的評価の高い人物とされています。“中国統一直後の(西暦598年)”に「第1次高句麗(こうくり)遠征」なども行ないましたが・・・“彼の功績”は、むしろ「内政面」において評価されることが多いです。・・・「文帝(※楊堅のこと)」は、まず「開皇律令(かいこうりつれい)」を「公布」し、「中央官制」を「三省六部」に整え、更に「地方」に対しては、「郡」を廃して「州」と「県」を「設置」しました。そして、「官僚の登用」でも、それまでの「九品中正法」を「廃止」して、新たな「科挙制度」を設けています。更には、「流通貨幣の統一」や「府兵制」、「均田制」などの“新制度を設ける”など、“王朝による中央集権体制を磐石なもの”としました。また、「仏教の興隆」にも尽力し、“それらを重視した政策”は「仏教治国策」とまで称せられております。・・・ただ、“お妃(きさき)”の「独孤(どっこ)皇后」に・・・結局のところは・・・“恵まれなかった”と云うべきか?・・・“この当たりの事情について”は、唐王朝の初め頃に成立した『隋書』において、「本紀」ではなく、「列伝第一」后妃伝 に記述されております。
         (注3)隋王朝の第2代皇帝「煬帝(※楊広のこと)」とは・・・初代皇帝「文帝(※楊堅のこと)」の「次男」であり・・・そもそもは、隋王朝の「皇太子」は、「長男」の「楊勇(ようゆう)」とされていたのを・・・“煬帝(※楊広のこと)が策謀によって兄を廃嫡させた”と云われております。・・・詳しくは・・・“煬帝(※楊広のこと)が帝位に就いた後に、父の文帝(※楊堅のこと)がやり残した大規模な土木事業や、計3回もの高句麗遠征を行なうなどして、結果的に民衆を苦しめた”とされ、更には・・・“文帝(※楊堅のこと)の遺詔(ゆいしょう、いしょう、ゆいじょう、いじょう:※天子による遺言のこと)と称して、兄の楊勇を自殺せしめ、楊勇の子ら10人も殺害し、その血筋を断絶させた”と伝わりますので・・・この「煬帝(※楊広のこと)」は、“中国史上における暴君の代表人物”との「評価」です。・・・ちなみに、“崩御直前の文帝(※楊堅のこと)が、次男の楊広を廃嫡しようとしたため、逆に暗殺されてしまった”とする話が、当初から根強くあったようでして、“そのことを広く流布された人物”でもあります。(・・・※この当たりについても、『隋書』の列伝第一后妃伝 に記述されています・・・)・・・尚、「煬(よう)」という「字」にも、「侮蔑」の意味があり・・・後の唐王朝から「追謚(ついし:※死後におくり名をおくること)」されてしまったものです。
         (注4)『日本書紀』及び“上記の略年表”では、「隋」から派遣された「使者」についてを、「裴世清」としておりますが・・・これを伝える『隋書』が編纂されたという時期が、唐王朝の第2代皇帝「太宗(たいそう:※李世民(りせいみん)のこと」の時期に当たっていたため、「太宗の諱(いみな)」である「世民」の「世」の部分を「避諱(ひき:※目上の者の諱を用いることを忌避する、中国など東アジアの漢字文化圏にみられる慣習のこと)」されておりまして・・・『隋書』では、「裴清(はいせい)」としています。・・・尚、“そもそも”の唐王朝・第2代皇帝「太宗(※李世民のこと)」とは・・・初代皇帝「高祖(※李淵のこと)」の「次男」です。・・・しかし、西暦626年には、「兄」であり「皇太子」とされていた「李建成(りけんせい)」を殺害し、“クーデター”と云われる「玄武門の変(げんぶもんのへん)」を起こした人物でもあります。
         (注5)「小野妹子」の「國書(≒親書)への返書紛失事件」については・・・そもそも『日本書紀』には記述されておりますが、一方の『隋書』にはありません。(・・・※この時の事件についてが、『隋書』に記述されていないのは至極当然としても・・・この『隋書』には、小野妹子の名前自体が登場しません。・・・《訳》「その王(ワ王)の多利思比孤が遣使を以って朝貢。」・・・と、あるだけです。・・・)
         (注6)「住吉津」とは・・・“古代日本”に存在した「港」であり、“上町台地の南西端辺り”。・・・“現在の大阪府大阪市住吉区を西流する細江川(※通称は細井川)の河口付近に形成され、住吉の細江と呼ばれる入江にあった”とのこと。・・・「住吉」は、“平安時代頃”まで「すみのえ」と呼ばれており、「墨江」、「清江」とも表記されております。・・・「住吉」という表記の初見は、『日本書紀』神功皇后摂政元年の「条」であり・・・『風土記』逸文によれば、「神功皇后」による「住吉大神(すみよしのおおかみ)」の「鎮座地選定」の際の・・・「真住み吉し、住吉の國」・・・との「逸話」が、「住吉」という表記の由来と云われております。・・・尚、「住吉津」の初見は、同じく『日本書紀』雄略(ゆうりゃく)天皇14年正月春の「条」にありまして・・・「呉(ご)」に派遣されていた「身狭村主青(むさのすぐりあお)」が、「住吉津」へ「呉の使者」を連れて、帰国しているのです。・・・また、“上町台地の北西部”にあった「難波津(なにわつ)」に対して・・・この「住吉津」は、“河内大和方面へのアクセスの良さでは優位にあった”と考えられており・・・「遣隋使(≒朝貢団)」や、後の「遣唐使(≒朝貢団)」は・・・ここにある「住吉大社(すみよしたいしゃ)」で、「住吉大神」へ「祈り」を捧げた後、「住吉津」から出発し、「難波津」を経由して、現在で云うところの「瀬戸内海」(※瀬戸内海との概念が発生したのは明治期のことです)を、更に「九州方面」へ向かったと考えられています。
         (注7)『隋書』では、「竹斯(ちくし?)國」や「秦(はた、しん)王國」などの「国名」が登場しますが・・・「大和國」や「ヤマト」などに当たる「国名」は記述されておりません。
         (注8)ちなみに、「第3次遣隋使(≒朝貢団)」で派遣された“小野妹子以外の7名”について・・・その「文字」からも“察し”が付くように・・・“留学生(るがくしょう)や留学僧とされた6名全員が、渡来系の先祖を持つ氏族出身者”です。・・・また、「副使」とされた「吉士雄成」も、“ご先祖は、新羅からの渡来系帰化人でだった”と考えられます。・・・“彼らのご先祖様”が、「日本列島」に渡来した時期は、それぞれ異なっておりましたが。


     『隋書』東夷傳ワ國傳 では、隋王朝の高祖「文帝(※楊堅のこと)」の「問い掛け」に対して、“倭国(ヤマト王権)側遣使が答えた様子(※西暦600年:開皇20年:推古天皇8年のこと)”を載せておりまして・・・とにかく、これが“興味深い内容”なので、まず視てみましょう。

     【 第1次遣隋使(朝貢団) 】

     「開皇二十年 ワ王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩ワ彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言ワ王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」
     《訳》『開皇二十年、ワ王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩ワ弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、ワ王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でては政(まつりごと)を聴き、跏趺坐(かふざ)して、日の昇っている時には理務を停(とど)めて便り(たより)を出し、我が弟に委(ゆだね)ると云う。高祖曰く、此れ大いに義理無し。是に於て令(れい)を訓(おし)えて之を改めしむ。』

     ※「ワ王」・・・「通説」ではあくまでも、「ワ」は「倭」の「誤り」とされております。・・・ちなみに「ワ王」の「姓」の「阿毎」は「アメ」と読みます。
     ※「多利思北孤」・・・「通説」では、「北」は「比」の「誤り」で、つまりは「多利思比孤」としています。・・ちなみに、「多利思比孤」は「タラシヒコ」と読み、つまりは「アメ(ノ)タラシヒコ」として、“天より垂下した彦(=天に出自をもつ尊い男)”の意とされています。・・・尚、『新唐書』では、「用明(ようめい)天皇」が「多利思比孤」であるとしています。
     ※「阿輩ワ弥」は、「オオキミ」のことであり、「大王」とされる。
     ※「開皇20年」は、推古天皇8年に当たります。

     “この時”に派遣された「使者」はまず、「ワ王」を「姓阿毎 字多利思北孤」、「号」を「阿輩ワ彌」と云うと、“事前に名乗った上”で・・・『闕(けつ)に詣(いた)る』と。・・・つまり、《現代語訳》『こうやって、隋の宮城まで、まかり越したのです。』・・・と述べています。
     ・・・すると、「上(かみ:※文帝のこと)」は、“配下”の「所司」に対して・・・《現代語訳》『まずは、派遣されて来たという、そのワ國の風俗を、聴取するなり、調べて報告しなさい。』・・・と命令しました。
     ・・・そのため、“文帝(※楊堅のこと)配下”の「所司」の“誰かが選抜”され・・・この「使者」に・・・おそらく、直に会って面談したのでしょう。・・・しかるべき「通訳者」を用意したのか? 用意されたのか? 或いは、そもそも「隋」の「言語」を使いこなす“渡来系ワ国人を派遣した”のか? などは分かりませんが・・・
     ・・・そして、この「所司」の“誰か”が「上司」へ報告し・・・やがて、「上司」から、「文帝(※楊堅のこと)」に伝達されたのでしょう。・・・「ワ國からの使い」と“主張している者”が・・・《訳》『ワ王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でては政(まつりごと)を聴き、跏趺坐(かふざ:※座禅などの仏教やヨーガにある瞑想する際の座法か? おそらくは、“物事の真実を見極める”という意)して、日の昇っている時には理務を停(とど)めて便り(たより)を出し、我が弟に委(ゆだね)ると云う。』・・・と、言っておりますと。
     ・・・この「報告」に対して、高祖「文帝(※楊堅のこと)」は・・・「此太無義理 於是訓令改之」・・・《訳》『此れ大いに義理無し。是に於て令(れい)を訓(おし)えて之を改めしむ。』・・・要するに・・・《現代語訳》『・・・此(こ)のようなことでは、義理や道理が立たんではないか!・・・よーし、それならば、これを改めさせるように令(れい)というものを訓(おし)えてやりましょう!』・・・というような状況となった訳でして・・・。
     ・・・まさか? 「ワ王の遣使」を名乗った・・・この「使者」が、“相当とされる献上品を、当時持参しなかった”ということは、考え難いのですが・・・この『隋書』東夷傳ワ國傳 には、「隋に対して○○を献ず」とか「○○を貢ぐ」といった記述がありません。・・・“ただ、ひたすら”に、「ワ國」の「社会」や「風俗」についてのみの「記述」となります。・・・要するに、「開皇律令」を「公布」するなど「国家」として“意気揚々”の隋王朝からしてみると・・・「ワ国」は、単に・・・“ワ人が暮らす一地方であって、国家として成り立ってはいない、あくまでも発展途上地方”と認識された可能性があるのです。・・・ですから、『隋書』東夷傳ワ國傳 では、「開皇二十年 ~」から始まる「文章」が「一行」で終わり、結果的に隋王朝側から観えた事実のみの記述となって・・・“倭国(ヤマト王権)側”の『日本書紀』では、「第1次遣隋使(≒朝貢団)」については“記述することさえ、しない(≒出来ない)という状況だった”と考えられるのです。・・・それにしても・・・

     「開皇二十年 ~」から書き出される「文章」・・・特に、《訳》『ワ王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でては政(まつりごと)を聴き、跏趺坐(※座禅などの仏教やヨーガにある瞑想する際の座法か? おそらくは、“物事の真実を見極める”という意)して、日の昇っている時には理務を停(とど)めて便り(たより)を出し、我が弟に委(ゆだね)ると云う。』・・・の部分・・・これは、これで「一つの文章」であり、「倭国の大王(※推古天皇のこと)」からの、「隋の皇帝」に対する“一種の謎掛けであった”と考えられるのです。
     ・・・おそらくは・・・“3世紀中頃の邪馬台國(=邪馬壹國)や卑弥呼が行なった”とされる“古代中国王朝”との、“苦(にが)~い交流史”の「伝承」や「記憶」が、“倭国(ヤマト王権)側の意識に残っていたため”か?・・・“倭国(ヤマト王権)側の誰か”が・・・“自国側の首長”が「女性」であること、つまり女帝「推古天皇」の「存在」を伏せて、現実の「外交交渉」を図った方が「有利」となるに違いないのでは!? と判断したか?・・・或いは、正直に「隋」王朝側に伝えたにもかかわらず、“どうにもこうにも”理解して貰えず・・・結局受け入れて貰えなかったのか?・・・
     いずれにしましても・・・“倭国(ヤマト王権)側”の、文帝(※楊堅のこと)の「問い」に対する「答え」は・・・ズバリ「明けの明星」であったと考えられます。・・・すなわち、「天」は常にあるから“一番目”の「長男」であり、夜明け前に輝く「金星(=明けの明星)」は“二番目”の「次男」であり、日中に地を照らす「太陽」は“三番目”の「三男」ではあるが、これが昇っていると、「金星(=明けの明星)」は見えなくなってしまうという“自然の現象(=摂理)”を「引用」し・・・しかも、「自国」が、「三男(※当然ですが男性)」であると、“例えて観せて”・・・。
     ・・・要するに・・・『・・・我々は、国を統治するために重要な暦(※当時は、当然に陰暦でした)や、天文学を理解し、政(まつりごと)に活かしているのですよ。だから、あまり下に観ないでね。』・・・とか・・・『・・・“隋兄さん(=次男)の隆盛ぶり”は知ってるけど、我々の国(※三男のこと)は“ここより遥か”に遠く、国力や国政もしっかりとした強い国に育ったので、“手出し無用”ですよ。今回は、祝賀の挨拶のために、遥々やって来たんですよ。だから、これからも仲良くいろいろと協力して下さいね・・・と云うか、“兄さんなんだから、弟の面倒を観るのは当たり前か”・・・むしろ、もし自分(※=隋王朝=次男のこと)を超えることが出来たなら、喜んでくれるんでしょう?』・・・という“或る種の自己主張”や“したたかな外交戦略を、含ませていた”のではないでしょうか?
     ・・・さすが「遣隋使(≒朝貢団)」として「選抜」され、“命懸けで海を渡った人達”です。一言で云うと「賢かった」。・・・“使節団の人々”が、当時の「古代中国式の礼節」を理解する、かなりの「教養人」であって、“臨機応変に諸事に対応出来る政治的センスを持ち合わせていた”ことが良く判るのではないでしょうか?・・・いずれにしても、“古代中国”の「国家システム」や「文化」など、“様々な事柄を吸収して帰国した”と考えられます。
     ・・・しかし、結局のところ・・・この外交的にも重要だった“一種の謎掛け”は・・・「隋の皇帝」にとっては、“ただ単に生意気な態度として映ったのか” 結果的にも理解されず・・・下記の「第2次遣隋使(≒朝貢団)」における“直接的な表現へと繋がる”こととなるのです。

     ・・・このように、“西暦600年(推古天皇8年)の第1次遣隋使(≒朝貢団)派遣の結果に対する反省”からか?・・・「倭国(ヤマト王権)」の「中枢」を担う「推古天皇」や、「厩戸皇子(※後の聖徳太子)」、「蘇我馬子」などは、有名な「冠位十二階の制定」や「十七条憲法導入」など、「国政改革」を推し進めます。
     ・・・しかし、“これらの政策に対しては、周囲の豪族達からの抵抗もあったよう”でして・・・その抵抗に対する手段として、更なる「権力の集中化」を企図したものの、なかなか“思惑通り”とはならなかった模様。・・・



     ・・・西暦607年(推古天皇15年)~608年(推古天皇16年)に行なわれた「第2次遣隋使(≒朝貢団)」のことは、『日本書紀』にも記述されており、『隋書』東夷傳ワ國傳 でも、“隋王朝の煬帝(※楊広のこと)の反応など”の様子(※西暦607年=推古天皇15年のこと)を載せておりますし、これもまた“興味深い内容”なので視てみましょう。

     【 第2次遣隋使(≒朝貢団) 】

     『日本書紀』では、西暦607年(推古天皇15年)に、「小野妹子」が「大唐國(※当時の「隋」王朝のこと)」に「國書(≒親書)」を持たされて、派遣されたとしております。
     「倭王」から「隋皇帝・煬帝」へ宛てた「國書(≒親書)」には・・・『隋書』東夷傳ワ國傳 では、以下のように書き出されております。
     「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
     《訳》『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云々』

     ・・・これを見た「煬帝(※楊広のこと)」は立腹し、“外交担当官”である「鴻臚卿(こうろけい:※鴻臚寺の長官のこと、鴻臚寺とは外国使節の接待や朝貢などを司った役所のこと)」に・・・
     《訳》『蕃夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ。』・・・
     《現代語訳》『無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな!』 と、命じたと云います。

     尚、「煬帝(※楊広のこと)」が立腹したのは、「ワ王」が「天子」を“名乗ったことに対して”であり、「日出處」とか「日沒處」との“記述に対するものではない”とされています。
     ・・・これらの・・・「日出處」と「日沒處」とは・・・『大摩訶般若波羅蜜多経(だいまかはんにゃはらみったきょう:※唐代の玄奘三蔵が大乗仏教の基礎的教義が書かれている長短様々な「般若経典」を集大成した経典のこと。通称は『大般若経』とも)』の注釈書『大智度論(だいちどろん)』に・・・「日出処是東方 日没処是西方」・・・とあるなど、つまりは、単に東西の「方角」を表す「仏教用語」を“儀礼的に使用したに過ぎない”のです・・・が、この「仏教用語」を用いたことが、また「中華的冊封体制(さくほうたいせい:※簡単に云うと、名目的な君臣関係を示すもの。朝貢している国にとっては、相手国〈=宗主国〉の従属国となるのか否かに関係する)」からの、“或る意味で、離脱を表明する”という表現に捉えられ、“返って、相手国の感情を逆なでした”のでは?・・・或いは・・・むしろ、その反対であって・・・何らかの「取引」や「交渉」のために、“この反応”を予(あらかじ)め意図していた? とも考えられます。・・・うーむ、「外交」って難解ですね。・・・キッカケは、“倭国(ヤマト王権)側”が、「推古天皇」が「女帝」であることを、“或る意味でひた隠し”にして・・・「天子」・・・と“表現するしかなかった”ことも、一因だったと想いますけど。・・・“当時の中国”では、既に「儒教」が広まっておりましたから。
     ・・・この後の「小野妹子(※中国名として蘇因高〈そいんこう〉)」は・・・(・・・※『日本書紀』巻第22推古天皇十六年には、「唐國号妹子臣曰蘇因高」とあります。・・・)・・・いずれにしても、「返書」を持たされて帰されてしまいます。・・・そして、「煬帝(※楊広のこと)」によって派遣された官人「裴世清」を連れ・・・帰国した「小野妹子(※中国名として蘇因高)」は・・・“大切な返書が、百濟において、盗まれ無くしてしまった”と、言明するのです。・・・
     ・・・「百濟」は、“古代日本”≒「倭国(ヤマト王権)」と同じように、「南朝:※陳(ちん)王朝」への「朝貢国」だったため、“古代日本≒倭国(ヤマト王権)が、北朝である隋王朝と国交関係を結ぶ事を、妨害するという動機は存在する”のですが・・・一方では、“煬帝(※楊広のこと)からの返書内容自体が、倭国(ヤマト王権)を臣下扱いするものであって、到底受け入れ難い内容だった”ため・・・これを見せて、“怒りを買う”ことを恐れた「小野妹子」が、この返書を破棄してしまったのではないか? とも推察されています。

     ・・・ところが、“小野妹子(※中国名として蘇因高)に同行したという、隋使・裴世清が持参した”とされる「返書」の「内容」が、何故か?『日本書紀』の中に存在するのです。・・・まずは下記をご覧下さい。・・・


     「皇帝問倭(皇) 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境内安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」 (※『日本書紀』より)
     《現代語訳》『大禮という官職を授かった蘇因高らが、その思いを具(そな)えて使わされて来たので、皇帝は倭(皇)に問うた。朕は天命を、欽(つつし)んで承(うけた)まわっているのである。(すなわち)宇(いえ)を区(分け)して、(それぞれを)養うということに臨む統治力を。霊力を以って徳化させ、愛育の情を持つことを森羅万象全てのものに広めたいと思っている。(それには)遠い近いの隔たりは無いのである。(朕は)海のかなたに、寧(むし)ろ庶民を撫でるように、安楽で風俗が融け合っているという境(領)内に皇(≒あなた、“貴皇”)が居るということを知った。(その)誠(まこと)に至る深い気持ちを持って、遠くから朝貢し脩(おさめ)にやって来たという、その懇(ねんご)ろな心を、朕はうれしく思う。故に、鴻臚寺(こうろじ)の掌客(しょうきゃく:※賓客の接待に当たる官人のこと)である裴世清らを遣わして(我が)意を宣(のべ)させるとともに、別の如く(これらの)物を、并(あわせ)て送るものである。』

     ・・・そもそも、この文章からは・・・“隋皇帝・煬帝(※楊広のこと)が、憤慨したと云われるほどの様子”が全く感じられません。・・・しかも、「倭皇」と表記されており、「倭王」としていて、“臣下扱いするものでもないよう”に読めます。・・・『日本書紀』による、これに対する「返書」の「書き出し」にも・・・『東の天皇が敬いて西の皇帝に白す』(※原文は、「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』より)・・・と、あるため、これを以って「日本」の「天皇号」の“始まり”とする説もあります。・・・また、少なくとも・・・「倭皇」の「皇」の「字」は、“古代日本”≒“倭国(ヤマト王権)側による改竄(かいざん)”なのではないか? とする見解もあります。
     尚、「裴世清」が持参していた「返書」は、“正式”な「國書(≒親書)」であり・・・「小野妹子」が持たされた「返書」が、“非公式な別の訓令書(=命令書の類い)だった”のではないか? ということも考えられますし・・・“そもそもとして、難破や遭難などの非常事態に備える目的で、正式な國書(≒親書)の内容を控えた謄本的な、或いは副本的な文書を、裴世清など複数の主要人物に持たせていた”という可能性もあります。
     ・・・「小野妹子」が、“返書を掠取されるという、云わば大失態だった”にもかかわらず・・・その後、一時は流刑に処されるも、直後の時期に恩赦され、「大禮(=大礼:※冠位十二階の第五階)」から「大徳(※冠位十二階の最上階)」へと“大昇進”し・・・またもや、「第3次遣隋使(≒朝貢団)」に任命されたこと。・・・そして、“返書を掠取した”という「百濟」に対しては、“古代日本≒倭国(ヤマト王権)としても、何らの行動を起こしていない”という史実を、総合的に判断すれば・・・当時の「推古天皇」 や「厩戸皇子(※後の聖徳太子)」など、“倭国(ヤマト王権)の中枢にあった人達との合意の上で・・・「掠取されたことにした」・・・ということも推察出来る訳です。・・・本当のところ・・・“この当たりの真実”は、「小野妹子」さんと“その他の〇〇〇さんなど、ごく限られた人物”にしか解りません。・・・謎のままです。


     そして・・・以下が、「開皇二十年 ~」から始まる・・・『隋書』東夷傳ワ國傳 中の、“隋王朝が遺した”とされる記述です。・・・この「書」が成立したのが、唐王朝の時代とされますので、“何らか”の「改竄」や「歪曲」、「演出」、「調整」などが“あってもおかしくはない”とは、考えられますが・・・当時の「倭国(ヤマト王権)」を、隋王朝側(≒古代中国王朝側)が、どのように認識していたのか? を窺い知ることが出来る“興味深い内容”なので・・・文量節減のため、概ねのところを、現代語訳とさせて頂き・・・“こちらの制約上、どうしても文字変換出来ない箇所”には、 (□)などと。・・・更に一文一文には、ナンバーを付け(※①、②、③と)させて頂き・・・ところどころ、私(筆者)の感想(・・・“感想”として・・・)や蛇足的な話も加えておりますが・・・まずは、ご覧下さい。


     【 「開皇二十年 ~」の文章の“次” 】

     ① 王の妻は「(□)彌」と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を「利歌彌多弗利」と呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。(・・・いきなり、「王の妻」とされていますが、少なくとも「推古天皇」や「皇極(こうぎょく)天皇=斉明(さいめい)天皇(※同一人物です)」などの“女帝の御代(みよ)では、なさそう”に読めますし、“倭国(ヤマト王権)側が、上手く、かわして(≒隠し通して)いた感じ”も受けますね。また、「冠位十二階の制定」の“後”を窺わせる記述となっています。・・・)
     ② 軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(國守)のごとし。八十戸に一人の伊尼翼(いなぎ)を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。(・・・「軍尼(くに)」とは、「国造(くにのみやつこ、こくぞう、こくそう:※“古代日本”の行政機構において、地方を治めた官職のこと。または、この官職に就いた人のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者でしたが、“大化の改新以降”は、主に祭祀を司る世襲制の名誉職。)」のことではないか? とされています。尚、「訓読み」における「みやつこ」とは、「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の「意味」とされます。そして、「伊尼翼」は「稲置(いなぎ)」のことと考えられています。・・・)
     ③ その服飾は、男子の衣は裙襦、その袖は微小、履(靴)は草鞋(わらじ)のような形で、漆(うるし)をその上に塗り、頻繁にこれを足に履く。庶民は多くが裸足である。金銀を用いて装飾することを得ず。故時、衣は幅広で、互いを連ねて結束し、縫製はしない。頭にも冠はなく、ただ髮を両耳の上に垂らしている。
     ④ 隋に至り、その王は初めて冠を造り、錦の紗(薄絹)を以って冠と為し、模様を彫った金銀で装飾した。婦人は髮を後で束ね、また衣は裙と襦、裳には皆(ちんせん:※古代の「ひだ飾り」のこと)がある。(□)竹を櫛と為し、草を編んで薦(ムシロ)にする。雑皮を表面とし、文様のある毛皮で縁取る。(・・・③及び④は、“古代日本人”の「ファッション」と「インテリア」・・・)
     ⑤ 弓、矢、刀、(□)、弩(ど)、(□)、斧があり、皮を漆で塗って甲(かぶと)とし、骨を矢鏑(やかぶら:※鏑矢のこと)とする。兵はいるが、征服戦はない。その王の朝会では、必ず儀仗を陳設し、その国の音楽を演奏する。戸数は十萬ほどか?(・・・“古代日本”の「兵器事情」や「統治体制」などについて・・・)
     ⑥ そこの俗では殺人、強盜および姦通はいずれも死罪、盜者は盗品の価値を計り、財物で弁償させ、財産のない者は身を没収して奴隷となす。その余は軽重によって、或いは流刑、或いは杖刑。犯罪事件の取調べでは毎回、承引せざる者は、木で膝を圧迫、或いは強弓を張り、弦でその項を撃つ。或いは沸騰した湯の中に小石を置き、競いあう者もこれを探させる、理由は正直ではない者は手が爛れるのだという。或いは蛇を甕の中に置き、これを取り出させる、正直ではない者は手を刺されるのだという。(・・・“古代日本”の「社会の掟(おきて)」・・・)
     ⑦ 人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜賊も少ない。楽器には五弦、琴、笛がある。男女の多くが臂(ひじ:※肩から手首までのこと)、顔、全身に刺青(いれずみ)をし、水に潜って魚を捕る。文字は無く、ただ木に刻みをいれ、繩(なわ)を結んで(通信)する。仏法を敬い、百濟で仏教の経典を求めて得、初めて文字を有した。卜筮を知り、最も巫覡(ふげき:※男女の巫者のこと)を信じている。(・・・“古代日本”の当時の「世相」や、「文字」や「仏教伝来」に関する「経緯(いきさつ)」と「国民性」など・・・)
     ⑧ 毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技(・・・当然に「弓矢競技」のこと。流鏑馬〈やぶさめ〉的な?・・・)や飲酒をする、その他の節句はほぼ中華と同じである。囲碁、握槊(あくさく:※双六〈すごろく〉のこと)、樗蒲(さいころ)の競技を好む。気候は温暖、草木は冬も青く、土地は柔らかくて肥えており、水辺が多く陸地は少ない。小さな輪を河鵜(かわう)の首に掛けて、水中で魚を捕らせ、日に百匹は得る。(・・・“古代日本”の「風習」と「風土」・・・最後は、「伝統文化」すなわち「伝統漁法」の一つ「鵜飼い」のことですね。・・・)
     ⑨ 俗では盆や膳はなく、(□)葉を利用し、食べるときは手を用いて匙(さじ)のように使う。性質は素直、雅風である。女が多く、男は少ない。婚姻は同姓を取らず、男女が愛し合えば、すなわち結婚である。妻は夫の家に入り、必ず先に犬を跨(また)いで、夫と相見える。婦人は淫行や嫉妬をしない。(・・・まずは、“古代日本における食卓の光景”、(□)葉とは?・・・文章からすると、今に云う「皿」の代わりと想像出来ますので、大きめの葉を持つ植物であったことは間違いないのでしょうが・・・まさか「バナナの葉」では無かったと想いますし・・・しかし、そもそもとして、①から⑧までの「内容」と比べて、“何やら、アンバランス”に感じてしまうのは、私(筆者)だけでしょうか?・・・特に、⑤の“兵器類”と比べると、まるで「旧石器時代」に想えます。・・・しかしながら、“(超)古代日本と云える頃”より、すなわち「縄文時代」から「弥生時代」を通じても、“かなりの土器普及地方であった筈”であり、さすがに「土器皿(※かわらけ)」ぐらいは、使用していたと想いますし。・・・また、“手を用いて匙のように使う”って、これでは・・・まるで「インド」や「東南アジア」における“食卓の光景”といった具合です。・・・本当に、「裴世清」が見た光景なのでしょうか? “かなり疑わしい”と云わざるを得ません。それこそ、「東南アジア」など、“他の地方の話をテキトーに繋げているだけ”ではないのか? とさえ、想います。・・・いずれにしても「弓矢」だけでなく、「刀」や、「弩」、「斧」まで“装備していた”という「民族」が、“木製や竹製の匙さえ作れなかった”とは、考え難いと想いますが。・・・これらは、いったい何を物語っているのか?・・・もしかすると、「小野妹子」や“倭国(ヤマト王権)の中枢に近い人物”が、「裴世清」らの“隋側の使節団員達を、上手く丸め込んだ”、すなわち“名を捨て実を取った”という可能性もあるのではないかと。・・・・・・それはそうと、ここの「一文」の“後半部分”では、“古代中国の人々の、大きな誤解”と云うか、「古代中国史観」に“ドップリ浸かっている”ように感じられますね。“この頃”と云うか・・・後世の「日本」において「侍(さむらい)」や、「武士(ぶし、もののふ)」という「人々」が“現れてくる頃(平安時代中頃)まで”は、「通い婚」や「妻問婚(つまどいこん)」などと云われるものが一般的でした。つまり、「男性」が「女性」のいる「処」へと通って行く訳ですが、そもそもとして「男性」は、“どうしたって、女性のように、自ら出産することなど出来ない”訳でして・・・“古代日本の女性は強く、そして神聖な者であり、母系社会や女系社会における主軸と云える存在だった”のです。・・・このことは、“歴史上”の「卑弥呼(ひみこ)」や、「壹與(いよ)」、“この時代以降”の「推古」や、「皇極=斉明」、「持統(じとう)」、「元明(げんめい)」、「元正(げんしょう)」、「孝謙(こうけん)=称徳(しょうとく)」、「明正(めいしょう)」、「後桜町(ごさくらまち)」などの「天皇」がいたように、“日本の行く末を左右するような時代”には、多くの場合「女帝」がおりました。・・・“この当たりの社会的な事情について”は、「推古天皇」や「厩戸皇子(※後の聖徳太子)」などによる「十七条憲法」に、“良く盛り込まれている”と感じます。すなわち、有名な「一文」となりますが・・・第一条『一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。』・・・《訳》『一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、或いは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。』・・・《現代語訳》『一にいう。和を何よりも大切なものとし、諍(いさか)いを起こさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親の云うことに従わなかったり、近隣の人達ともうまくいかない。しかし、上の者も下の者も協調や親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、自(おの)ずから物事の道理に適い、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。』・・・ここでは、「党(≒グループ)」と表現していますが・・・要するに「バックボーン」や「ルーツ」が異なった、それぞれの「部族」や「氏族」、「一族」の間などに限らず、「女性」や「男性」の「性別」なども“該当している”と想いますので。・・・いずれにしても、“古代中国”の「裴世清」としては、“到底理解出来ないか?、受け入れられず、見たままを本国に報告出来なかった”のでしょうね。・・・まぁ、“辛うじて”と云うか・・・上記②の文章で「尼」という「文字」を使用し“女性的なニュアンスを漂わせております”が。・・・これが、“当時の許容限界だった”のでしょう。・・・また③の文章でも、「男性」の「ファッション」を先に記述しており、「男尊女卑の傾向」が視られます。・・・さて、“これはこれ”として・・・“ここの文章の次にある部分”なのですが・・・「必ず先に犬を跨いで」・・・と、“何やら、強調して表現している模様”です。・・・かなり「番犬」や、「猟犬」を飼っていたように記述されていますね。・・・これに関連して、思い浮かべられるのは・・・“現代日本”の「在来犬種」。・・・これらは・・・「天然記念物」にも指定されておりますが・・・北から「北海道犬(※アイヌ犬とも)」、「秋田犬」、「柴犬」、「甲斐犬」、「紀州犬」、「四国犬」の“六犬種”があります。・・・そもそも、これらの「犬の祖先」と、「我々の祖先」との“付き合いは、約1.5万年前の縄文時代頃から続いている”と云います。「犬」は古来より、「縄文人」にとって“猟のパートナー”であるとともに、貴重な「財産」でもありました。また、「自然界」から遣わされた“神の使い”ともされ、云わば「神聖視」されてもおりました。・・・“これらの関係”は、「人類」と「オオカミ(=狼)」が、“長く続いた氷(河)期の環境下において、互いに接し始めた頃から始まった”と云われます。・・・「オオカミ(=狼)」も「人類」と“同様に、元々群れを成して狩り”をする「獣」であったため、“その群れの中”には確固たる「序列(社会)」が存在していました。「氷(河)期」においては、「エサ」となる別の「獣」が激減してしまったため、“その群れの中”の“若いメスのオオカミ(=狼)”や、「性格」がおとなしく「狩り」に不向きな「個体」は、“なかなかエサにありつくことも出来なくなっていた”のです。すなわち「人類」が「火」を使い始めて“自分の身の安全を図りながら、効率よく栄養を摂取出来る”ようになってから、“若いメスのオオカミ(=狼)”や、「性格」がおとなしく「狩り」に不向きな「個体」に、“エサを与えることが出来るようになった”のでした。つまり、「オオカミ(=狼)」によって「捕食される側」から、“或る意味で、立場が逆転した”訳です。ですから「オオカミ(=狼)」は、「人類」によって、次第に“手なずけ”られ、すなわち「家畜化」されて「犬」となった訳です。・・・ちなみに、「日本語」の「オオカミ」の「語源」を「大神(おおかみ)」とするように、古来から「狼信仰」も存在しており、『日本書紀』では、「狼」のことを・・・「かしこき神(=貴神)にして荒業を好む」・・・と、記述しています。そして、「山の神」として、古来からの「山岳信仰」とも結び付いており、近世において、“狼信仰の中心”となった「奥多摩・武蔵御嶽神社」や、「秩父・三峯神社」の「狛犬(こまいぬ)」は、「オオカミ(=狼)」のことです。・・・“かつて大勢の渡来系集団が、日本列島にやって来た時”に、おそらくは“自ら山間部や奥地などへ移住した”と考えられる“縄文時代人達とオオカミ(=狼)達との長~い付き合い”を考えてしまうのです。・・・尚・・・「アイヌの人々」は、「エゾオオカミ」のことを、「大きな口の神(ホロケウカムイ)」、「狩りをする神(オンルプシカムイ)」、「ウォーと吠える神(ウォーセカムイ)」などと“呼んでいた”そうです。・・・今でも、よく「ウォー」と「遠吠え」する「犬」には、“祖先であるオオカミ(=狼)の血が色濃く出ている(=名残りとしての遺伝情報が伝わっている)”とも云われます。・・・)
     ⑩ 死者は棺槨(かんかく:※棺のこと)に納め、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。貴人の場合、三年間は外で殯(かりもがり:※埋葬前に棺桶に安置すること)し、庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、或いは小さな御輿(みこし:※≒神輿)を以って行なう。(・・・“古代日本人”の「埋葬」における「慣習」ですが・・・貴人の場合はともかく、“庶人であっても、日を占って埋葬”し、何やら、現代の「お盆」の時に見られる“灯籠流しの原風景”ではないか? とも想える光景なのです。・・・「インド」の「ヒンドゥー教」では、“死者をガンジス川の岸で火葬とし、灰をこの川に流すことは死者に対する最大の敬意とされ、子供や、妊婦、事故死、疫病死の場合は、そのまま水葬される”と聞きますが・・・“古代日本人は、わざわざ遺体を船に乗せ、陸地へ牽引した”と。・・・現代の「灯籠流し」は、“亡くなった故人の魂を弔うために、灯籠や、供物を海や川に流す行為”であり、ここにある“古代日本人の埋葬における慣習”とは、“物理的には全く逆の行為であるよう”にも思えますが、“むしろ本質的には、何ら変わらない”とも考えられます。これについては、 前ページ でもふれておりますが、兵庫県西宮市の「西宮神社」の祭神とされる「蛭子様(※『古事記』においては、ヒルコ〈=蛭子〉)」に纏わる「民俗信仰」とも一致しておりますので。・・・“故人の生前中の行為などに関係なく、故人の魂や、故人が使用していた物、故人の遺体までをも、弔いの対象とし、更には神様としても祀(=祭)る”という、云わば“古代日本人達の死生観や信仰心”を、まさに見る思いであり、これもまた・・・「・・・或いは小さな御輿(≒神輿)を以って行なう・・・」・・・としているのです。・・・ここの一文については、「裴世清」も、“良く観察していたんだなぁ”と、感心させられます。・・・)阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し(・・・「火山噴火」を「描写」する「表現」があり、「阿蘇山」との「地(山)名」もありますので・・・この「山」のことを、“倭国(ヤマト王権)の人々”が、実際に「アソ」とか、「アソ」に近い「発音」で呼んでいて、「裴世清」が「阿蘇」という「漢字」を当てたことは、“ほぼ間違いない”でしょう。・・・『古事記』や『日本書紀』にも、「阿蘇」という「漢字」はありますが・・・そもそも、“これら編纂成立時期が、“8世紀初頭の奈良時代初め”と考えられておりますので。・・・)、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。如意宝珠があり、その色は青く、(□)卵のような大きさで、夜には光り、魚の眼の精霊だという。(・・・“古代日本”の「祈祷(きとう:≒祈願)文化」・・・)新羅や百濟は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して、常に通使が往来している。(・・・“古代日本と朝鮮半島諸国”との「交易」や「交流」についてと、“朝鮮半島諸国”の“古代日本”に対する「接し方」。これは、“当時の外交上においては、極めて重要な情報”となります。今で云う「インテリジェンス」。但し「裴世清」にしてみれば、“自分自身の成果を誇りたい”という「気持ち」も分かりますので、“多少割り引いて読まねばならない”のかも知れません。・・・)
     ⑪ 大業三年(西暦607年)、その王の「多利思比孤」が遣使を以って朝貢す。(・・・「王」の「名」だけで「小野妹子」や中国名「蘇因高」の記述は無し。・・・)
     ⑫ 使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。(・・・「海西の菩薩天子」とは、おそらく「第1次遣隋使(≒朝貢団)」の隋王朝の高祖「文帝(※楊堅のこと)」のこと。そして、“倭国(ヤマト王権)側”の「仏教留学生」を派遣させる「理由説明」。・・・しかし、“倭国(ヤマト王権)側の不運”とも云うべきことなのですが・・・この「國書(≒親書)」が渡った相手が、「仏教」の「興隆」に尽くした「文帝(※楊堅のこと)」ではなく、“元来、派手好きで、父殺しや兄殺しなどを疑われる”ような「煬帝(※楊広のこと)」だったこと。「海西の菩薩天子」と、“正統性を認めていますよ”と、“いくら持ち上げてはいても”・・・つまりは、何らの効果も無く、“皮肉たっぷりの表現”に捉えられるだけであって、“むしろ逆効果だった”と考えられます。・・・)
     ⑬ その國書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや、云々。」帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。(・・・“隋王朝側”で「問題」となる「國書≒親書」の“書き出し部分”と、それを受け取った“煬帝(※楊広のこと)の反応”・・・)
     ⑭ 翌年、上(※=天子、煬帝〈※楊広のこと〉)は文林郎(ぶんりんろう:※隋王朝における秘書官の官職名)の裴世清を使者として倭国に派遣した。百濟を渡り、竹島(たけしま)に行き着き、南に耽羅(たんら、ちんら:※朝鮮半島西南にある済州島〈さいしゅうとう〉にあった独立王国と見られております)國を望み、都斯麻(・・・つしま?・・・)國を経て、遙か大海中に在り。また東に一支(いき)國に至り、また竹斯(・・・ちくし?、つくし?・・・)國に至り、また東に秦(はた、しん)王國(・・・「秦氏」による「王国」?・・・「秦氏」については・・・『日本書紀』應神天皇14年(西暦283年)の条において・・・「天皇に仕えた弓月君(ゆづきのきみ、ユツキ:※融通王とも)を祖とし、百濟を経由し“百二十県もの人々”を率いて渡来すると、“古代日本”に帰化した。」・・・と、記述しています。・・・“かなりの大規模集団だった”と云えます。・・・また、「平安時代初期」の弘仁6年〈西暦815年〉には、「嵯峨(さが)天皇」の「命」によって編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』によれば・・・“この弓月君は、秦の始皇帝の末裔”とされています。・・・そもそも、“始皇帝本人が、金髪・碧眼であった”という「伝説」もあるようでして、「景教(※キリスト教ネストリウス派とも)徒」の“ユダヤ人をルーツに持つ人々だった”のではないか? という可能性についてを、“以前から囁(ささや)かれている謎多き大氏族”ですね。・・・)に至る。そこの人は華夏(=中華の人)と同じ、以って夷洲となす。疑いを明らかにすることは不能である。(・・・ここで“わざわざ、秦王國の人々に関する説明をしています”ので。しかも“夷洲”という評価。・・・しかしながら・・・少なくとも「裴世清」としては、“無視出来ないほどの情報、すなわち国と錯覚してしまう程の大勢力が存在する”と認識して報告したのでしょう。・・・)また、十余國を経て、海岸に達した。竹斯國より以東は、いずれも倭に附庸している。(・・・“古代日本”≒「倭国(ヤマト王権)」への「旅路の経路」に関する「説明」と、“倭国(ヤマト王権)内の構成勢力”に関する「説明」・・・ちなみに、「附庸」の「庸(よう)」とは、「租(そ)」、「庸(よう)」、「調(つき、ちょう)」からなる“古代日本の租税方法の一つ”を指しておりますが、詳しくは次のページでふれたいと思います。・・・)
     ⑮ 倭王は小德の阿輩臺(あわたい?、あふたい?)を遣わし、従者数百人、儀仗を設け、鼓角(こかく:※鼓と角笛りこと)を鳴らして来迎した。十日後にまた、大禮の哥多(□)(かた?〈□〉?)を遣わし、二百余騎を従えて郊外で慰労した。(・・“・隋王朝側”の國使「裴世清」に対する“古代日本”≒「倭国(ヤマト王権)」の“おもてなしの際”における「状況説明」・・・)
     ⑯ 既に彼の都に至り、その王、「裴世清」と相見え、大いに悦び、曰く「我、海西に大隋、礼儀の國ありと聞く故に遣わして朝貢した。我は夷人にして、海隅の辺境では礼儀を聞くことがない。これを以って境内に留まり、すぐに相見えなかった。今、こと更に道を清め、館を飾り、以って大使を待ち、願わくは大國惟新の化を聞かせて欲しい」。(・・・「裴世清」と会談して“王を演じた人物”は・・・おそらくは、「厩戸皇子(※後の聖徳太子)」だったか? 或いは「蘇我馬子」?・・・いずれにしても、隋王朝の國使・裴世清を、当時の「倭国(ヤマト王権)」の「都」へと案内し、自らを“夷人(えびすびと)と謙(へりくだ)って、教えを請うた”とされる。・・・尚、“倭国(ヤマト王権)の政権中枢内”において、意見統一のために必要とされる時間を稼ぐためだったのか?・・・いずれにしても、“暫くの間は、謁見そのものを先送りにしていた”ようですね。・・・)
     ⑰ 「裴世清」が答えて曰く「皇帝の德は併せて二儀、恩恵は四海に流れ、王を慕うを以って化し、故に使者を来たらしめ、ここに諭を宣す」。(・・・“隋王朝側”の國使「裴世清」としては、“当然の言い分パートⅠ”・・・)
     ⑱ 既に「裴世清」は引き上げて館に就く。その後、「裴世清」が人を遣わして、その王に曰く「朝命は既に伝達したので、すぐに道を戒めることを請う」。(・・・“隋王朝側”の國使・裴世清としては、“当然の言い分パートⅡ”・・・“この時”の「裴世清」としても、“古代日本”≒「倭国(ヤマト王権)」の“真意”を見極めるため、“即答を避けた感あり” 故に、改めて「人を遣わした」と。・・・)
     ⑲ ここに於いて宴を設け、「裴世清」を遣わして享受させ、再び使者を「裴世清」に随伴させて方物を貢献させに来たる。(・・・「裴世清」が帰国したのは、“西暦608年~609年のこと”です。「宴(うたげ)」及び「裴世清」の“帰国の途の説明”・・・) この後、遂に途絶えた。(・・・“この直前の文字”、つまりは「遂」という表現が気になりますが〈・・・『日本書紀』で云うところの「第4次遣隋使(≒朝貢団)」や、『隋書』煬帝紀を信じると「第5次遣隋使(≒朝貢団)」となるので〉、“隋王朝終末期の混乱状況”を想像するに・・・「あまり矛盾は無い」と云えるのかも知れません。それに・・・「犬上御田鍬」らの「渡航目的」が、“東アジア情勢の視察に重点を置かれていた”としたら?・・・)


     ・・・このように、「第2次遣隋使(≒朝貢団)」では、「小野妹子」らが派遣されて、“隋皇帝・煬帝(※楊広のこと)に宛てた正式な國書”として、「親書」が渡りました・・・が、『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云々』という“内容”だったため・・・辛うじて、当時の朝貢外交における許容範囲内に収まってはいたものの・・・“古代中国による冊封(さくほう)を受け入れず”に・・・“倭国(ヤマト王権)側”が、それなりに自立した国家であり、「天皇」という「名」に象徴されるような「王権君主」を持っているという事実を認めさせる(・・・※あくまでも、結果的に推古天皇が女帝であることを悟られずに・・・)ことで、“朝鮮半島諸国に対する優位性を示す意図があった”・・・と考えられます。

     ・・・やがて、“7世紀の初め頃(西暦619年:推古天皇27年)の古代中国”では、隋王朝が終焉を迎えることとなり・・・唐王朝の時代へと移り変わります。
     そして、『日本書紀』によれば、西暦621年(推古天皇29年)2月5日に、“国内外の政策”において「推古天皇」を支え続けた「厩戸皇子(※後の聖徳太子)」が亡くなってしまいます。・・・“この厩戸皇子(※後の聖徳太子)の死が、謎に包まれた死であった”ため・・・「厩戸皇子(※後の聖徳太子)暗殺説」があったり・・・そもそも、“厩戸皇子(※後の聖徳太子)とは、史料としてのお話を繋げるための、実在しない架空の人物だった”のではないか?” という「説」まであるのです・・・が、
“このことを追究している”と、“なかなか、次の時代への話に進まなくなります”ので、本ページでは「スルー」することに致します。ご了承下さい。・・・それに、“過去の旧一萬円札紙幣の価値に何らかの影響を与えてしまうようで、それこそ気も引けます”し。

     ・・・“7世紀中頃の西暦646年(大化2年)の古代日本”では、「孝德(こうとく)天皇」によって「発布」された「改新之詔(かいしんのみことのり)」に基づいて、「政治的改革」が進められ、有名な「大化の改新」が行なわれることとなります。・・・要するに、「倭国(ヤマト王権)」は、“より中央集権的で専制君主的な律令制(りつりょうせい)国家を目指し始めた”のです。・・・これは、「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:※後の天智天皇)」や「中臣鎌足(なかとみのかまたり:※後の藤原鎌足)」らが・・・“蘇我入鹿(そがのいるか)を、まず暗殺し、蘇我氏本宗家を滅ぼした上”で、「乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)」については、これらの後に行なわれた”という説と・・・「乙巳の変」が、“蘇我蝦夷(そがのえみし)と蘇我入鹿に限定した暗殺事件だった”とする説もあります。
     ・・・ちなみに、「中臣鎌足(※後の藤原鎌足)」の「出自」となる「中臣氏(なかとみうじ)」は、“古代日本”において・・・「忌部氏(いんべうじ:※後の斎部氏のこと。読みも同音)」とともに、「神事」や「祭祀」を司った「中央」及び「地方」の「豪族」であり、古くから現京都市山科区中臣町付近の「山階(やましな)」を拠点としました。・・・『古事記』によれば、「天児屋命(あめのこやねのみこと)」を「祖」としています。・・・尚、「天児屋命」は、「春日権現(かすがごんげん)」や「春日大明神(かすがだいみょうじん)」とも呼ばれております。・・・“この頃”の「姓(かばね)」は、「連(むらじ)」とされ・・・『日本書紀』によれば・・・いわゆる“八色の姓(やくさのかばね)制定後”の「姓(かばね)」では、「朝臣(あそみ、あそん)」とされました。・・・また、そもそもの「中臣」の「意味」は・・・或る意味で、“読んで字の如く”なのですが・・・「神様」と「為政者(≒天皇などの君主)」の間(あいだ)、つまり「中(なか:※≒仲)」を取持つ(=仲介する)という「役目」を帯びた「臣(おみ、しん:※≒民、氏族)」とされます。・・・“その本系”は、依然として「中臣」を称しながら、代々「神(祇)官」や「伊勢神官」などの「神事」や「祭祀職」を世襲します。
     ・・・いずれにしても、「中臣鎌足」は、「物部(もののべ)氏」とともに“古代日本”の「仏教受容問題」などで「蘇我氏」と対立。・・・西暦645年の「大化の改新」で活躍し・・・西暦669年の“自らの死に臨む”と、「藤原姓」を賜わることとなり・・・“それ以降、鎌足の直系子孫達”は、「藤原氏」を名乗ることとなります。・・・「藤原」を「氏(うじ)」としたのは・・・『藤氏家傳(とうしかでん:※古代から藤原氏に代々伝えられる藤原氏初期頃の歴史が記された伝記であり、上巻と下巻あり。西暦760年に成立したと見られ、『日本書紀』や『続日本紀(しょくにほんぎ)』には無い歴史も記述される)』によると・・・“鎌足の出生地”は、「大和国高市郡藤原(現奈良県橿原市内)」に因(ちな)むと云います・・・が、『大鏡(おおかがみ:※平安時代後期(白河院政期)に成立した紀伝体の歴史物語)』によれば・・・「大和国高市郡大原(現奈良県高市郡明日香村)」や、「常陸国鹿島(現茨城県鹿嶋市)」とする説(・・・※これについては、別ページを用意致します。・・・)もあります。
     ・・・“これらのことを補完する意味がある”のでしょうか?・・・本来、「氏神」は、“主にその氏人達”が祀(まつ)った「神」であり、“祖先神であることが、ほとんどと云っても好い程多い”のです。・・・一、二例を挙げるとすると・・・「中臣氏」は、「天児屋命」を・・・「忌部氏(※後の斎部氏のこと)」は「天太玉命(あめのふとだまのみこと)」を・・・それぞれ、“お祀り”しています。・・・“両氏族の祖先神”ともに、『古事記』や『日本書紀』、『常陸風土記』などに記述されている「日本神話上の神様」でもあります。
     ・・・そして・・・「中臣氏」と深い関係がある「武甕槌命(たけみかづちのみこと:※鹿島神宮の主祭神、現茨城県鹿嶋市宮中)」、「経津主命(ふつぬしのみこと:※香取神宮の主祭神、現千葉県香取市香取)」、「藤原氏の祖神」として「天児屋命」、「天児屋命の妻」として「天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)」という・・・「神様四柱」をともに、「藤原氏」が「春日大社(現奈良県奈良市春日野町)」へ“お祀りする”というような、特殊な場合もあります・・・が、“これらのことよりも”・・・現在でも、「鹿」を「神の使い(=神鹿)」として“大切にしている”ことなどの共通点の方が、“むしろ分かり易い”でしょうか?・・・現在の「春日大社」の“周辺”において、野生の鹿? が「天然記念物」として保護され、観光客に鹿せんべいをねだる光景は、“大変微笑ましいもの”ですが・・・元はと云えば、「武甕槌命」が「鹿島神宮」の“辺り”から「大和国」へと向かうために、「吉兆」を示す「白鹿」に乗って行き、それが現地で放たれると、それが繁殖して、次第に個体数を増やしたとする「伝承」もあります。・・・ちなみに・・・“世界中の、どこを探して”も・・・“現在の奈良の鹿達”のように、人間社会の間近で共生している例は、他にはありません。

     ・・・いずれにしても、「乙巳の変」が“起こった後”・・・「天皇の宮」を、「飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや:現奈良県高市郡明日香村岡)」から「難波宮長柄豊碕(なにわのながらのとよさき:現大阪市中央区法円坂1丁目付近)」へと遷して・・・“蘇我氏など飛鳥地方豪族を中心としていた政治体制から、天皇を中心とする政治体制へと移り変わった”とされています。・・・また、『日本書紀』によると・・・“この頃”に「大化(たいか:※文字通り、大きく変化したという意)」という、“日本最初の元号が使用され始めた”とされます。・・・このことは、“日本史上、大変重要な意味”を持ちます。
     ・・・この「元号」とは・・・そもそも、“古代中国の漢代”・・・「前漢の時代(紀元前140年頃)」より始められた「統治システム」です。
     ・・・これは・・・詳しくは、「特定の時代」に対して「名」を付けるという“行為そのもの”を、「当代君主」が持ち、且つ“その君主”が「領土」や「領域」などの「空間」とともに「時間」までをも「支配」する(=暦をも支配する)”という「思想」に基づいており・・・“正朔(せいさく)を奉ずる(=天子の定めた元号と暦法を用いる)こと”が、その「王権」に対する“民衆の服従要件とされた”ために成立した「社会システムの一つ」と云えます。・・・やはり、これも・・・「農耕文明」や「農耕社会」の「出現」が“その契機だった”と考えられております。
     “古代中国王朝の政治制度を受容した周辺の王権国家は、いずれも、この元号制度を取り入れております”が・・・これも、“同様の発想”に由来しています。・・・“古代中国王朝側”から観れば・・・“自ら”を真似て、しかも“自らと対等であることなどを示すため”に利用された、周辺諸国の「元号」は、やはり、“私的な年号に他ならず、その利用そのものが、本来許されないこと”としておりました・・・が、一方の・・・周辺の王権国家側からすれば、“古代中国王朝からの冊封を受けることで、周辺で競争する他勢力に対する、自らの正統性の保証にしよう”とした訳です。・・・しかし・・・そもそも・・・“冊封の条件の一つ”として、「正朔を奉ずること」があったため、「独自元号の利用」と「冊封」とは、“本来両立し得ない要素”でもありました。
     ・・・現実のところ・・・“この矛盾に当たるか否か? の均衡点”は・・・“古代中国王朝側と冊封国側との力関係”によって、決まっており・・・地理的にも近く、何度も自国領土を占領されていた朝鮮半島諸国では、「独自元号」が少ないのに対し・・・地理的にも遠く、“古代中国王朝”との戦争にも勝ったことがある南蛮(≒ベトナム)や・・・“海を隔てられているためだった”のか? “後に、冊封すら受けなくなった日本など”は、この「独自元号」を、長期間利用することになるのです。・・・現在は「平成」。・・・西暦2019年5月1日からは「○○」と。
     「大化の改新」は、“中央に権力集中させるという政治的な動きの一つであり、一定の進展を見せました”が・・・この「権力集中化」を強く押し進めることとなった最も大きな要因としては・・・“7世紀後半に起きたとされる、朝鮮半島の旧任那(みまな)地方を含む百濟復興戦争(≒白村江の戦いなど:※ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九 にて後述します)における敗戦”が挙げられます。・・・“この時の敗戦”があって、ようやく・・・“倭国(ヤマト王権)内の諸勢力”が、当時の「国家観」や「世界観」を明確に持ち始めることとなり、“主要豪族ら”が「国内整備」を進めることで一致し・・・結果的としても、「権力の集中化」が“急速に進められる”こととなるのです。

     尚、こちらの関連ページでは、“それまでの古代日本を大きく変える契機”となった・・・いわゆる「白村江の戦い」での“敗戦以降”、すなわち“西暦665年当たりからの倭国(ヤマト王権)”についてを、「大和朝廷」、或いは「近江朝廷」、「日本(やまと)」、「朝廷」などと表記することに致します。



・・・・・・・・・・次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】