街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 西暦668年正月3日:「皇太子」が、「天皇位」に、即(つ)く。【※(注釈)或る本は云う、六年の歳次丁卯の三月に、位に即くと。※】・・・皇太子だった中大兄皇子が、天皇に即位し・・・漢風諡号は、「天智(てんじ)天皇」とされました・・・が、まだ天皇号を使用した時期ではなく・・・和風諡号は、「天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと、 あまつみことさきわけのみこと)」。
      ※ 同年正月7日:「内裏(だいり)」に於いて、「群臣」に、「宴(うたげ)」する。・・・皇太子時代の中大兄皇子による遷都にせよ、天皇即位にせよ・・・“戦時中の如くに、内裏での宴のみ、内輪の行事として淡々としております。”・・・いったい世のどこまで周知徹底がなされていたのか? 祝賀ムード的なものは、一切感じられません。
      ※ 同年正月23日:“送使・博德ら”が、「命(めい)」を、「服(ふく:=復)」す。・・・「命(めい)を服(ふく:=復)す」とは、“復命す”と同義。つまりは、命じられた事柄に対して報告するということ。・・・しかし、そこは、百戦錬磨の外交官とされる伊吉連博徳です。しっかりと、唐王朝や、朝鮮半島情勢について、可能な限り調べ上げていた筈です。・・・ちなみに、送唐客使(≒実質的な第6次遣唐使)として派遣されていた可能性もあります・・・が、前年11月13日~翌年正月23日までの期間を考える・・・と、“実際には、唐まで行かずに、百濟辺りから引き帰して来た”のかも知れません。・・・それとも、“唐王朝から帰国の圧力を加えられた”のか? 或いは、“近江朝廷へ、何か危急の知らせがあった”のか? については、定かではありません。

      ※ 同年2月23日:“古人大兄皇子(ふるひとおほえのみこ)の女(むすめ:=娘)・倭姫王(やまとのひめおおきみ)”を立てて、「皇后(きさき)」と爲す。遂に、“四嬪(よはしらのひめ)”を納むる。・・・“蘇我山田石川麻呂大臣の女・遠智娘”【※(注釈)或る本は、美濃津子娘(みのつこのいらつめ)と云う。※】が有りて、一男二女を生み、其の一を「大田皇女」と曰い・・・其の二を「鵜野皇女(うののひめみこ)」と曰いて、天下に有りては、「飛鳥淨御原宮(あすかのきよみはらのみや)」に居し、後に宮を、「藤原」へ移す・・・其の三を「建皇子」と曰いて、唖(おし)にて語ること能わず。【※(注釈)或る本は、遠智娘は一男二女を生み、其の一を建皇子と曰い・・・其の二を大田皇女と曰いて・・・其の三を鵜野皇女と云う。・・・或る本は、蘇我山田麻呂大臣の女を芽淳娘(ちぬのいらつめ)と曰いて・・・大田皇女と娑羅々皇女(きららのひめみこ)を生む・・・と云う。※】
      次に、遠智娘の弟(いろと:※同母から生まれた弟またはのこと)有りて、「姪娘(めいのいらつめ)」と曰うが、「御名部皇女(みなべのひめみこ)」と「阿陪皇女(あべのひめみこ)」とを生み、「阿陪皇女」は、天下に有りては、「藤原宮」に居した後に、「都」を「乃樂(なら:=奈良)」へ移す。【※(注釈)或る本は、櫻井娘(さくらいのいらつめ)と曰いて、姪娘と名づくと云う。※】次に、“阿倍倉梯麻呂大臣の女”が有りて、「橘娘(たちばなのいらつめ)」と曰いて、「飛鳥皇女(あすかのひめみこ)」と「新田部皇女(にいたべのひめみこ)」とを生む。・・・次に、“蘇我赤兄大臣の女”が有りて、「常陸娘(ひたちのいらつめ)」と曰いて、「山邊皇女(やまのべのひめみこ)」を生む。・・・又(また)、“宮人”が有りて、男女の者・4人を生む。・・・“忍海造小龍(おしぬみのみやつこおたつ)の女”が有りて、「色夫古娘(しこぶこのいらつめ)」と曰いて、一男二女を生み、其の一を「大江皇女(おおえのひめみこ)」と曰い、其の二を「川嶋皇子(かわしまのみこ)」と曰いて、其の三を「泉皇女(いずみのひめみこ)」と曰う。
      ・・・又(また)、“栗隈首德萬(くるくまのおびととくまろ)の女”が有りて、「黑媛娘(くろめのいらつめ)」と曰いて、「水主皇女(みぬしのひめみこ)」を生む。・・・又(また)、「越道君伊羅都賣(こしのみちのきみいらつめ)」が有りて、「施基皇子(しきのみこ)」を生む。・・・又(また)「伊賀采女宅子娘(いがのうねめのやかこのいらつめ)」が有りて、「伊賀皇子(いがのみこ)」を生む。後の「字(あざな)」を「大友皇子」と曰う。
・・・まずは、ここにある「飛鳥淨御原宮」という表記について、注意を要します。この部分は、後世の『日本書紀』による追記部分となっていますので。・・・実際に「飛鳥淨御原宮」と呼称されるのは、この条の時点より、暫らく後のこととなりますし、その建築的な形態や機能なども実際に変化しておりました。・・・したがって、ここは(飛鳥)嶋宮、或いは(飛鳥)岡本宮と読み替えて下さい。・・・さて・・・天皇に即位した天智天皇は、倭姫王を皇后としました。既にこの時点では、遠智娘や建皇子、大田皇女は亡くなっております。
      ・・・西暦645年9月12日、或いは同年11月30日とか11月内のこととも云われますが・・・“当時の中大兄皇子(※後の天智天皇)が、古人大兄皇子のことを、謀反を企んだと云う罪によって討った”とされておりますので・・・“当時の倭姫王が、男児ではなく女児だったために殺されずに済んだ”ということなのかも知れません。・・・いったいぜんたい、“この約23年前の出来事についての和解や、精算的なケジメなどは出来ていた”のでしょうか?・・・或いは、“贖罪の気持ちなどから、後添え的性格を帯びる皇后とした”のでしょうか?・・・いずれにしても、天智天皇と皇后である倭姫王の間には、子は出来ませんでした。・・・しかし、「遂に、四嬪を納むる」とは、どういうことでしょうか? しかも、「遂に」とあります。
      ・・・これは、おそらく・・・後の律令制が施行される時代になってから、ようやく・・・“嬪(ひめ、ひん)の身分と云うか、その地位が確立されていた”と考えられており・・・この嬪については・・・「律令制における天皇の後宮の一つとされ、皇后、妃、夫人に次ぐものであり、四~五位の位が授けられ、定員は4名。」・・・とされていることからしても・・・この天智天皇期頃から律令制の骨格が出来始め、天皇の皇后達や子らについては、云々と・・・『日本書紀』の編纂者達が、遠回しに主張している感じが致します。・・・それにしても、天智天皇には、皇女達が多く産まれてはおりますが、皇后と四嬪との間では、後継する皇子と云える者が無く・・・かろうじて、「川嶋皇子」や、「施基皇子」・・・後の「壬申の乱」において敗れてしまう、「伊賀皇子(※後の大友皇子)」の名があるだけです。・・・何やら、ここでも・・・『日本書紀』の編纂者達は、皇太子時代の天智天皇による強引な遷都や政策に対して、そもそも批判的であり・・・“その将来については、明るい材料があまりにも乏しく、先行きの見透しが効かなかったと云っているよう”ですね。
      ・・・ちなみに、皇后・倭姫王を除いて・・・「遠智娘」、「姪娘」、「橘娘」、「常陸娘」の4人についてを、「四嬪」としています。

      ※ 同年4月6日:「百濟」が、“末都師父(まつしぶ)ら”を遣わして、「調」を進める。・・・
      ※ 同年4月16日:“末都師父ら”が、罷り歸(=帰)る。・・・???・・・当時の朝鮮半島情勢は、唐王朝が熊津に都督を置いて、扶余隆を熊津都督に任命し、新羅ともども唐の藩屏とし、いずれは唐の郡県に組み込もうとしておりました。・・・しかし、『三國史記百濟本紀』によれば・・・「(劉)仁願らが還ると、(扶余)隆は衆が携(たずさ)えて散(=離散)るを畏れて、亦京師に歸る。」・・・と、扶余隆が長安に避難してしまい・・・“唐王朝の思惑通りには、百濟の統治が進んでいなかったこと”が分かります。・・・一方で、『三國史記新羅本紀』によれば・・・西暦666年4月には・・・「(文武)王は、既に百濟を平らげるを以って、高句麗を滅ぼさんとし、唐に兵を請う。」・・・とあり、つまりは、“百濟を新羅自らの統治下に置きたい”としていて・・・これもまた、唐王朝の思惑とは、だいぶ異なっておりました。・・・この時の新羅としては・・・要するに、高句麗との戦いが終わるまでは、唐王朝と協同歩調を採ってはいるが、その暁には○○○とも、一戦交えると。
      ・・・現実には、その後の話として、両者の思惑の違いが、クッキリと表面化してまいります。・・・このような状況下において、「百濟が、(近江朝廷に対して)調を進める」とは、いったい、どういうことなのか?・・・『日本書紀』の編纂者達が、いったい何を以って、「進調」と観たのか? については判然としません。・・・正式には、近江朝廷と百濟の間には、もはや進調関係は無い筈ですし・・・ましてや唐王朝が、そんなことを正式に許す筈も無いのです。・・・そして、“調の遣いとされた末都師父についても、如何なる官位や役職だった”のか? についても分かりませんし・・・他の史料にも、「末都師父」の名は見当たりませんので。
      ・・・天智天皇の即位に対する祝賀のための使者だった可能性もありますが・・・そもそも、“税としての調を届けに来た”とされていますし・・・この西暦668年4月16日の条限りのことではなく、後にも百濟からの進調記述があるので、結果的にも、これには当たらず・・・すると、残る可能性としては・・・百濟の中が、未だ政情不安の状況にあって、唐王朝や新羅に対して抵抗する勢力が残っており、局地戦、若しくはゲリラ戦が散発すると云った状況にあったのか? と考えられます。また、末都師父らが来日してから帰国までの滞在日数「10日間」を考えてみても、かなり慌ただしい状況であり・・・“現地百濟における親日勢力が、百濟旧臣を取り込んでいた近江朝廷へ、最新の朝鮮半島情勢を伝え、且つ近江朝廷の動向を確認するために放った連絡役だった”という可能性もありますし・・・反対に・・・“末都師父らが、近江朝廷の動向や、近江大津など日本列島各地の防衛拠点を見定めるために、敢えて百濟人として放たれた唐王朝側の情報工作員(=スパイ)だった”という可能性もあります。
      ・・・そして、祝賀の儀ともなれば、天智天皇お得意の倭京を使用する訳にもいかず、近江大津宮にて挙行されなければなりませんし、それなりの軍事機密的な情報をも入手されてしまう恐れもあります。・・・しかし、その一方では・・・“近江朝廷内においても、親唐派や親新羅派、それらの反対勢力、或いは中立路線勢力などの様々な勢力があった筈であり、決して一枚岩という状況に無かった訳”でして・・・結局は、真実は闇の中と云うことなのでしょうか?・・・実際のところ、当時の近江朝廷としては、末都師父らに対して、どう接するか? についてなど、“対応に苦慮していた”とも考えられますね。・・・しかし、『日本書紀』の編纂者達は、少なくともと云うか・・・“表向き(≒建前)のこととして、末都師父らのことを、百濟から調を進めに来た使者”として、記述したようであります。・・・尚、個人的には・・・「末都(すえのみやこ)」を、指導や先導するという意と考えられる「師父(しふ)」という当て字が、どうにも気になります。果たして本当に実在した人物だったのでしょうか?
      ・・・これらについての解釈も、多種多様な方法があろうかと想います・・・が、『日本書紀』の編纂者達が、いったい何に対して遠慮して記述しているのか? について、もう少しハッキリしても良いのではないか! とも、個人的には想いますが。

      ※ 同年5月5日:「(天智)天皇」が、「蒲生野(がもうの)」に於いて、「縱獵(かり)」をする。“時に、大皇弟(ひつぎのみこ)や、諸王、内臣及び群臣が皆”、悉(みなことごとく)に從う。・・・「縱獵」とは・・・かつての推古天皇が行なった薬獵(くすりがり)と同じく・・・「諸臣の服色は、皆冠の色に隨(したが)い、各(おの)の髻(もとどり)は花を著(あらわ)せり。」・・・などと、着飾った宮人達が、野において、薬草を摘むという、きらびやかな遊興のことです。・・・“その後には、酒宴があって、そこでは即興の歌会が行なわれて、歌を詠みつつ、また草を摘んだ”とされています。
      ・・・この『日本書紀』では・・・「(天皇に対して)皆が悉に從う。」・・・と、“何事も無かったかよう”に記述されておりますが・・・実は・・・“この酒宴における、まさに即興歌会の最中に、ちょっとした事件があった”のではないか? と考えられているのです。・・・それを、敢えて一言で云うと・・・“天智天皇と、大皇弟・大海人皇子(※後の天武天皇)との間に起こった、いわゆる兄弟喧嘩だったのですが・・・その喧嘩のキッカケと云いますか、その事情が、やや複雑でして・・・これについても、敢えて一言で云うと・・・“後世では謎多き女性”とされる「額田王(ぬかたのおおきみ)」を巡っての、“酒宴上における和歌の遣り取りが、発端だった”のではないか? とも視られているのです。
      ・・・そもそも、この『日本書紀』には・・・「額田王」が、鏡王(かがみのおおきみ)の娘として産まれ、やがては・・・「大海人皇子(※後の天武天皇)に嫁いで、十市皇女(とおちのひめみこ)を生む。」・・・と記述されているのです。・・・また、“額田王の出生地に関して”は、大和國平群郡額田郷や出雲國意宇郡に求める説があります。・・・尚、没年については、60歳代前後まで生存していたとか、80歳近くまで生存していたなど、諸説あります。・・・ちなみに、額田王の父だった「鏡王」は、その王称により、2世から5世の王族(≒皇族)と推定され・・・一説には、“宣化(せんか)天皇の曾孫”とも云われ、近江國野洲郡鏡里の豪族であり・・・後の「壬申の乱」で、“戦死した”とも。・・・さて、酒宴上での和歌の遣り取りが、この兄弟喧嘩の発端ではないか? と云われる要因については・・・有名な『萬葉集』と、“現存する最古の日本漢詩集”と云われる『懐風藻(かいふうそう)』・・・そして、“古代から藤原氏に代々伝えられて来た”、藤原氏初期頃の歴史が記された伝記『藤氏家傳(とうしかでん)』・・・によって、読み解くことが出来ます。(↓↓↓)
      ・・・但し、“額田王が、十市皇女を出産してから十数年の後、大海人皇子(※後の天武天皇)の兄である天智天皇から寵愛されて、嬬(つま)となっていた”という話については、一般的に根強いものがあります・・・が、本当に確かな事だったのか? と云うと、定かではありません。・・・しかし、あくまでも・・・状況証拠として、下記の『萬葉集』に収められた和歌が発端とされているのです。・・・表面的には、そもそもとして・・・“額田王による、単なる戯(たわむ)れや、戯(ざ)れ言だった”のかも知れませんが。・・・



      《※『萬葉集』より※》
      〈・・・詠んだとされる場面は・・・天智天皇らが蒲生野で縱獵した時・・・〉
      茜指す 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る (巻1・20・額田王)


      ・・・「茜指す」は、「紫」に掛かる枕詞(まくらことば)。“初夏の若葉”は、「緑」のみならず「茜指す」とされる。・・・「標野」は、民の立ち入りを禁じていた野のこと。今で云えば、プライベート・野(原)・・・「野守」は、直接的には標野の番人のことを指しますが、天智天皇のことを連想させていると云われます。
      ・・・このように読むと・・・“君(きみ:=○○○)は、(天智)天皇の嬬(つま)と知った途端、自分を袖にするようになってしまわれた~~~”・・・となる訳です。
      ・・・額田王が、大化の改新頃に、15歳位だったとすれば・・・この和歌を、詠んだとされる頃には、38歳位になっている筈です。当時では、決して若いとは云われない年齢です。“その自分に対して、大胆にも、わざわざ袖にしたお方がおられたのですよ~~~”と、いくら酒宴の上とは云え、皆悉(みなことごとく)に從がっていたなかでの、かなり刺激的な・・・今で云う“爆弾発言”でした。・・・すると当然に、“額田王のことを、袖にするような輩は、いったい誰だ?・・・!!!”となる訳です。・・・

      〈・・・詠んだとされる状況・・・天智天皇らが蒲生野で縱獵した時の“上記の和歌”に対する返歌として・・・〉
      紫草(むらさき)の 匂へる妹(いも)を 憎くあらば 人嬬(ひとづま)ゆゑに 我恋ひめやも (巻1・21・大海人皇子)


      ・・・「紫草」とは、解熱や解毒剤、火傷、凍傷、ひび、あかぎれ、切り傷などに効く薬草のこと。その根の部分は、草木染めなどの染料とされ「紫根(しこん)」と呼びます。また「紫草」は、小さく白い花を咲かせます。「紫」は、古来より日本では、特に高貴な色とされています。この返歌のなかでは、高貴なものの喩(たと)えとしています。・・・この時の額田王の装(よそお)いが、紫色を基調とし、小さく白い可憐な花を想わせていたのでしょう。・・・この和歌の最後の部分にある・・・「~めやも」とは、「~も」の部分により語気を強めて、「~めや」の部分で、“どうして~しようか? そんな訳ないでしょ!!!”という意味で使われます。
      ・・・したがって、この返歌を通しての意味は・・・“(貴女は)歳をとったと云うものの、こうして可憐に紫を纏い、香るほど健気に咲く白き花のような、妹のような存在なのですよ。もし人妻となったが故に(私が)貴女に憎しみを懐くならば、最初から恋する筈もないのですよ。それほどに、今でも恋焦がれているのです!!!”・・・という感じになるのでしょうか?
      ・・・酒宴における、いわゆる座興だった筈が・・・意外と直球(=ストレート)のような返歌でした。・・・この時、大海人皇子(※後の天武天皇)の偽らざる心情が、吐露されていたとも云えますが、兄の天智天皇から寵愛を受けるに至った額田王に対する断ち難い想いを、「妹のように」と表現したのかも知れません。・・・古代の日本では、一種の純血志向と云いますか、兄妹婚は珍しい事ではありませんでしたから。・・・しかしながら、一方の額田王は、権力に魅かれる性格だったようでして・・・まぁ、天智天皇と大海人皇子(※後の天武天皇)は、同父同母の兄弟でしたので、きっと風貌や性格も、それなりに似ていたでしょうし、比較して権力を持っていた側に、より魅かれるのも、分からなくもないですが。・・・

      〈・・・詠んだとされる状況・・・近江(=天智)天皇が崩御した後、額田王が故近江天皇を偲んで作ったとされています・・・〉
      君(きみ)待つと 我が恋(こ)ひをれば 我が屋戸(やと)の 簾(すだれ)動かし 秋の風吹く (巻4・488・額田王)


      ・・・この和歌の意味は・・・“君(=近江天皇のこと)に恋して待ち焦がれていますと、我が屋戸の簾が動いたので、(咄嗟に)君が来られたのかと思い、ときめいたのですが、秋の風が(私の心を)通り抜けただけなのでした”・・・となるのでしょうか?

      ・・・このように、『萬葉集』では、表面的に・・・額田王を巡って、兄の天智天皇と弟の大海人皇子(※後の天武天皇)との関係が悪化するキッカケがあったように感じられるのです・・・が、下記の『藤氏家傳』では・・・天智天皇らが蒲生野で縱獵した時、酒宴中の事として・・・或る事件が起きたと伝えています。・・・現実としては、真偽のほどについてを掴みようがありませんが。・・・大海人皇子(※後の天武天皇)が、「壬申の乱」を経て、朝廷の実権を掌握した後に、記述内容が都合良く修正されているという可能性もありますので。・・・


      《※『藤氏家傳』よりⅠ※》
      「帝(=天智天皇)が、群臣を召して濱楼(ひんろう)に置酒(ちしゅ)したまう。酒酣(さけたけなわ)にして歓を極むる。是に、大皇弟(=大海人皇子)は長き槍を以って、敷板を刺し貫きたまう。帝は、驚き大きに怒りて、執害(そこな)わんとしたまう。大臣(=中臣鎌足)は固く諫め、帝がすなわち止めたまう。大皇弟は、初め大臣の所遇の高きことを忌みたるを、茲(こ)れより以後、殊(こと)に親うることを重ねしたまう。」
・・・酒宴中において、突如・・・まず、酔いに酔っていたと考えられる大海人皇子(※後の天武天皇)が、長槍を持って暴れ、敷板を貫いたとのこと。・・・すると、天智天皇は、初めは驚き、やがて激しく怒って、大海人皇子(※後の天武天皇)を殺そうとするほどの兄弟喧嘩に発展した模様。・・・そして、暴れていた大海人皇子(※後の天武天皇)は、周囲によって取り押さえられたのか? 観念したのか? 開き直ったのか?・・・定かではありませんが・・・いずれにしても、兄の天智天皇に対峙していた様子であります。
      ・・・すると、大臣・中臣鎌足(※後の藤原鎌足)が、その場を取り為すべく・・・何と、暴れていた弟の大海人皇子(※後の天武天皇)ではなく、主人である筈の天智天皇に対して、強く諫めて、天智天皇の怒りを鎮めました。・・・そして・・・大海人皇子(※後の天武天皇)は、元々大臣(=中臣鎌足)に対する天智天皇による処遇に不満を募らせていたが、この時の大臣(=中臣鎌足)の振る舞いに対して、或る種の信頼感を懐いて、親しくなっていった・・・云々。・・・それにしても、兄弟とは云え、男同士。面と向かって、群臣らの前で、かなりズバズバと、主張し合ったのでしょう。・・・兄の天智天皇にしてみれば、弟から聞き捨てならぬほどの発言があったのかも知れません。・・・そんな危機的な状況を、大臣(=中臣鎌足)が諌めて、天智天皇を止めたと。
      ・・・大海人皇子(※後の天武天皇)が、「壬申の乱」を経て、朝廷の実権を掌握した後における施策などから察するに・・・そもそもとして、大海人皇子(※後の天武天皇)は、当時は皇太子だった中大兄皇子(※後の天智天皇)らの百濟寄りの姿勢とは、一定の距離を置き、唐や新羅との関係を保ち、近江遷都にも前向きではなかったように感じてしまいます。兄の中大兄皇子(※後の天智天皇)や中臣鎌足(※後の藤原鎌足)らが、筑紫にて百濟復興戦を指揮していた期間については、弟の大海人皇子(※後の天武天皇)が、飛鳥や奈良などの留守を守って、中大兄皇子(※後の天智天皇)の後継者的な役割を果たしていた訳です・・・が、当時の倭国(ヤマト王権)は、百濟復興に挫折し、新生近江朝廷として、脱皮したてという情勢でしたから。
      ・・・しかし、朝廷機構の頂点にある兄の天智天皇には、皇后や四嬪に後継皇子が無く、弟の大海人皇子(※後の天武天皇)を大皇弟、すなわち皇太子と見做して、後継(=跡継ぎ)としていたのです・・・が、やがては、兄の中大兄皇子(※後の天智天皇)と四嬪以下の宮人だった伊賀采女宅子娘との間に産まれた伊賀皇子(※後の大友皇子)が成人したことで、大皇弟とされていた大海人皇子(※後の天武天皇)の立場が、更に微妙になっていた訳です。・・・まさに、そんな時期に、近江遷都などが行なわれて、大皇弟とされていた大海人皇子(※後の天武天皇)が、常々懐いていた不満や不信感に、更に拍車を掛けてしまったと考えられます。

      『懐風藻』によれば・・・西暦665年9月23日に、時の新生大和朝廷により、唐王朝からの正式な使者とされた「劉徳高」が、「大友皇子」のことを・・・「風骨世間の人に似ず、実にこの國の分に非ず」・・・と、好評価しています。・・・更に、天智天皇は、百濟を亡命して来た貴族学者・紹明(じょうみょう)や春初(しゅんしょ)らを、“大友皇子の帝王学(ていおうがく)の師”として・・・「皇明日月と光(て)らい 帝徳天地を載せたまふ 三才並泰昌 萬國臣義を表わす」(※同じく『懐風藻』より)・・・と、当時の大友皇子に対して、かなり期待していたことも分かります。・・・この『藤氏家傳』では、いったい何が、キッカケとなって、大海人皇子(※後の天武天皇)が酒宴中に暴れたのか? についてを記述しておりませんが、おそらくは・・・“額田王疑惑(≒スキャンダル)などではなく、皇位継承問題そのものが根底にあった”と考えられるのです。
      ・・・いずれにしても、大臣・中臣鎌足(※後の藤原鎌足)が、大皇弟・大海人皇子(※後の天武天皇)を殺してはならない!と、“天智天皇を強く説得したことで、鎌足の真意や腹心と云ったものが、大海人皇子(※後の天武天皇)に伝わることとなり、結果として両者の信頼関係が醸成されていった”と読めます。・・・但し・・・そもそものこととして・・・天皇主催の酒宴中に、突如として長槍が登場し、そして・・・敷板を貫いたという状況を考えると・・・単独にて、天皇暗殺を図った・・・という可能性も、残ってしまいますが。・・・そういえば、その昔は・・・?!?



      ※ 西暦668年6月内:“伊勢王(いせのおうきみ)が薨(みまか)る日を接(つ:=継)いで、其の弟王(おとみこ)”に、(その王位を)與(あたえ:=与え)る。【※(注釈)未詳官位※】・・・この伊勢王についても、諱(いみな)や、忌み名(いみな)、真名(まな)などの個人名及び官位が不明とされております。・・・『日本書紀』西暦650年2月15日の条では、“伊勢王の生前中の姿”が語られ・・・西暦661年6月の条では・・・「伊勢王が薨る。」・・・と、されておりました。・・・となると、必然的に・・・“この西暦668年6月に亡くなったという人物は、西暦661年6月に亡くなった人物とは、別人ということ”になります。人は、二度死ねませんから。
      ・・・それにしても、そもそも何故に、この時点における伊勢王についてを、『日本書紀』が記述しているのか?・・・その意味についてを考えずにはいられません。・・・ちなみに、伊勢王についてを、西暦650年や西暦661年など以前の記述では、個人名不明とされ、具体的な業績なども不明としていました・・・が、実は・・・この後の天武(てんむ)天皇紀の記述にて、その業績が語られるという仕掛けとなっており・・・『日本書紀』の編纂者達にとしては、“伊勢王と呼ばれる人物が、後の天武天皇紀に、突如として登場することを避けたかった”のではないか? と考えられるのです。・・・つまりは、“一連の伊勢王という呼称を持つ王族を通して、大和朝廷が以前に倭国(ヤマト王権)と呼ばれていた頃より関係が深かったと思わせたい勢力として、わざわざ、この時点で登場させて、しかも、王の跡目(あとめ)を弟王が継いだ”と。・・・要するに、“天智天皇の跡目を、大皇弟・大海人皇子(※後の天武天皇)が継いだことに関して、或る種の正当性や説得力を持たせるためだったと云える”のではないでしょうか?
      ・・・きっと、『日本書紀』の編纂者達は、“この未来に起こる出来事を記述するために、過去の伝承や各種記録を探した”のでしょう。・・・そして、“西暦650年(白雉元年)の輿に関することと、伊勢王の死亡に関する二件についてを、幸いにも見い出すことが出来た”と考えられます。・・・また、個人的には・・・この当たりの事情と、伊勢神宮の発展過程や、いわゆる伊勢信仰などにも、密接な関係があるのではないか? と想っております。

      ※ 同年7月内:「高(句)麗」が、「越之路」に從がいて、「使い」を遣わし、「調」を進める。(しかし)風浪が高く、歸(かえ:=帰)ることを得ず。・・・「栗前王(くりくまのおおきみ)」を以って、「筑紫率」に、拜(はい:=配)す。・・・時に「近江國」は、「武」を講じ、又(また)多くの「牧」を置きて、「馬」を放つ。・・・又(また)「越國(こしのくに)」は、「燃土(ねんど)」と「燃水(ねんすい)」とを、献(たてまつ)る。・・・又(また)、“濵臺(はまだい:=浜台)の下”に於いては、「諸魚」が「水」を覆いて、而(しか)も至る。・・・又(また)は、「蝦夷」を饗し・・又(また)は、「舍人」らに命じて、“所々”に於いて、宴す。・・・「時の人」が曰く・・・「(天皇は)將(まさに)天命に及ぶか」・・・と。・・・この頃既に、西暦668年2月の時点において・・・高句麗では、唐王朝軍の李勣(りせき)らにより扶餘城が落とされ、扶餘川(第二松花江)流域の四十余城が降伏に至り、同年9月には、平壌を突破されていました。
      ・・・この条では、高句麗が、越之路すなわち、越ルート(・・・※瀬戸内海経由ではなく、越後方面より・・・)を辿って、近江大津宮への来訪した模様が、サラッと記述されております・・・が、当時の高句麗は、国家的に云っても、かなり危機的な状況だった筈であり・・・この時点における進調や、或いは天智天皇即位の祝賀のために使者を送ると云うような状況ではなかった筈なのです。・・・ということは、“調すなわち、貢物を持参しての救援依頼、または亡命受け入れ要請のためだった”のか? というのが、常識的な推察となりますが、既に視たように・・・一方の近江朝廷にとっては、もはや高句麗に対して、何かを出来得る状況でもなかった訳です。・・・そこで、当時の近江朝廷は、有力宮人の中から選抜された「栗前王」を、「筑紫率」に任じた訳です。・・・「率」とは、帥の意味があって、すなわち「筑紫帥」です。これは、外交と防衛などの軍事を担当する役職でありまして、唐王朝に置き換えるならば、「都督」に相当します。
      ・・・また、この「栗前王」は、「栗隈王」とも表記され、後に“橘(たちばな)氏の始祖”となります。・・・上記にある同年2月23日の条では・・・“栗隈首德萬の娘黑媛娘が、天智天皇との間に水主皇女を産んだ”・・・とされておりましたし、後の『新撰姓氏録』でも・・・「敏達(びだつ)天皇の皇子は、難波皇子の男なり。従二位栗隈王男を贈る。治部卿従四位下美努王(※栗隈王の子、橘諸兄の父のこと)」・・・とあります。・・・ここにある「難波皇子」とは、聖徳太子(厩戸皇子)と同世代の人物であり・・・蘇我軍として、物部軍と戦った後(※西暦587年以降のこと)に詳細不明となっており・・・ここにある「栗隈王」が、“その子だった”とすると、結果的に年代が合致しないため、“大俣王(おおまたのみこ)を経てからの世代の人物”とされています。・・・いずれにしても、“ここにある栗隈王を始祖とする氏族”は、古代日本が大和朝廷となる過程上において、「大化の改新」などの数々の政変を掻い潜ってきたベテラン王族とも云える一族でした。
      ・・・そのため、“当時の唐王朝や、新羅、旧百濟(≒新生百濟)、高句麗を相手とし、臨機応変さを要求される折衝や対応するための最前線拠点となる筑紫の地に、置くに相応しい人物とされた”のでしょう。・・・そして・・・「近江國では、武を講じ、多くの牧を置きて、馬を放つ。」・・・と記述されています。つまり、これは・・・“近江國に暮らした百濟系渡来帰化人から、武や牧についての技術を学んだ、或いは学ばせた”ということです。・・・古来より中国では、中原などの平原における戦いが基本にあったため、唐王朝も旧百濟遺臣らによる山城を拠点としたゲリラ戦に苦戦していました。・・・また、日本列島の地勢は、中国の大平原とは大きく異なり、元々急峻な山間部が多いものの、各地において干拓工事や灌漑工事などが着手され始め、河川沿いや平野部の耕地面積が拡がり、そこに暮らす人々により、次第に新たな賑わいが生じていました。・・・そんな処に、大陸方面から大唐国などの騎馬部隊がやって来たら堪らないと、多くの牧場(まきば)を設け、馬の増産(=繁殖)を試みた訳です。
      ・・・このことは、朝鮮半島で唐王朝軍の何万という軍馬を目撃し、それらを相手にした経験からの反省と同時に・・・“新生近江朝廷には、これほどの軍馬の数を、すぐには揃えられなかったことを物語っている”のでしょう。・・・しかし、“このことはまた、近江朝廷が日本列島防衛のために、あらゆる方策を講じるほどに、緊迫していた状況”を示唆しており・・・また一方では・・・足場の悪い、ぬかるんだ日本列島の河川沿いや平野部の特性、すなわち敵方の騎馬編成部隊による日本(やまと)侵攻の難しさを、どこまで考慮や想定をしていたのか? など、いささかの疑問点が残りますが。・・・このほかにも、当時の近江朝廷は、油などを使う敵方の火攻めに対抗する手段として、「燃土」と「燃水」の導入を図りました。・・・「燃土」とは、燃ゆる土のこと。これについては、しばらくは石炭や泥炭か? とも云われて来ました・・・が、近年では、“天然アスファルトのこと”とされています。・・・「燃水」とは、燃ゆる水のこと。すなわち原油のことです。
      ・・・「越國」とは、現在の新潟県であり・・・“特に、現在の胎内市(旧黒川村)で、燃水が採れた”・・・と云われます。・・・“旧黒川村では、その昔、川の流れが黒くなる程、この燃水が湧き出したために、黒川という地名が付けられた”と伝えられているのです。“現に昭和30年代までは、手掘り井戸で原油が採掘され、灯火などに利用されていた”とのこと。・・・尚、毎年7月1日には、新潟県胎内市黒川において、燃水祭が行なわれ、その折に採油された原油が、6日後の7日(※7日が土日の年は5日)に、近江大津宮旧跡に鎮座する「近江神宮」の「燃水祭」において、旧黒川村からの使者によって、「燃水献上の儀」が・・・さながら、『日本書紀』の記述を再現するが如くに・・・執り行なわれているのです。・・・次に、当時の近江朝廷が、勢力圏各地の人々に対して、古代日本人としての自覚を植え付けていったかのような表現となっております。
      ・・・“浜にある楼台の下に、様々な魚が水を覆うほどに集まって来た”という吉兆を示してはおりますが、これは一種の比喩でして、つまりは・・・“新生近江朝廷のもとに、諸々の民族や部族らが、それぞれの背景を持ち寄り集まって来た”と。・・・“蝦夷と呼ばれていた人々には、新しい国家像を認識させるため、近江大津に警護の名目で呼び寄せて、現実に宮を見せた”のでしょう。“これらの蝦夷達”に対しては、「宴席を設けた」と。また各地で宴席を設けることを、舎人らを通じて行なわせたとも。・・・そして、『藤氏家傳』では・・・「朝廷には事無く、遊覧是れ好む。人には菜色(※栄養不良な状態のこと)は無く、家に余蓄有り。民咸(みな)大平之代を称(たたえ)る。帝は群臣を召して濱楼に置酒す。」・・・と、“近江朝廷国内における生産力が向上し、民生面では、むしろ安定していたという認識があったよう”でもあります。
      ・・・新生近江朝廷としては、近江という新たな土地での門出であり・・・“しかも、高度な技術や文化を齎(もたら)す百濟系及び高句麗系亡命集団などを多く取り込んでいた”ため・・・それまで日本列島に暮らしていた人々から観ると、“海外からの技術や文化だけでなく、彼らの生活圏そのもの(=コミュニティ)が上陸して来たような状況だった”と考えられ・・・彼らが当時齎(もたら)したのは、異国風であって、然も高級なイメージがあったものの・・・一方では、“急激に流入して来たがために、或る種の文化摩擦が生じていた”のです。・・・“この文化摩擦を軽減するために、近江朝廷は頻繁に宴席や縱獵を催して、積極的に互いのコミュニケーションを図っていた”とも読める訳です。・・・しかし、この『日本書紀』の編纂者達は・・・最後に、時の人の言を借りて・・・「天命將及乎(=將に天命に及ぶか)」としました。
      ・・・この表現は、中国における王朝交代時に、良く使用される表現方法であり・・・「天命」には、(天子が)やるべきこと(=全ての役割)というニュアンスが含まれ・・・「及」という字義そのものには、「追いつく」とか、「及ぼす」、「行き渡らせる」という意味の他にも、「弟が兄の跡を継ぐ」という・・・この後に起こる出来事を、強く印象付けるような意味もあるのです。・・・したがって、『日本書紀』の編纂者達が、(天智天皇の)やるべきこと(=全ての役割)が、現実に実施された最盛期の頂点(≒ピーク期)は、この頃ではないか? と観ていることが分かるのです。

      ※ 同年9月12日:「新羅」が、“沙トク級サン・金東嚴(こんとうげん)ら”を遣わして、「調」を進める。・・・
      ※ 同年9月26日:「中臣内臣(※中臣鎌足のこと)」が、“沙門の法辨(ほうべん)と秦筆(じんひつ)”を使わして、「新羅上臣の大角干(だいかくかん)・ユ信(ゆしん)」へ「船1隻」を賜いて、“(金)東嚴ら”に付ける。・・・「船1隻」とは云っても、“まさか? 空っぽの船を付けてあげた訳ではない”と想いますので・・・当時の新羅からの調の使者に対しては、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)個人が、“新生近江朝廷”の「内臣」として・・・“船1隻分の何か? を積載させ”・・・“新羅の上級官僚・ユ信へ送り届けさせる”と?・・・積載していたのは、船師の人達?・・・それとも、軍糧などの物資や武具の類い?・・・いずれにしても、“当時の唐王朝には、極力知られたくない代物だったよう”ですね。・・・
      ※ 同年9月29日:「布勢臣耳麻呂(ふせのおみみみまろ)」を使わして、“新羅王に御調を輸(はこ:≒運)ぶ船1隻”を、賜いて、“(金)東嚴ら”に付ける。・・・「金東嚴」とは、“新羅の官位十七階で云うところの第9番目の官人”でした。つまりは、中級役人の一人。・・・それにしても・・・“この頃から、当時の東アジア情勢の潮目が、ハッキリ変わり始めていた”と感じられます。・・・いずれ唐王朝によって高句麗が滅ぼされてしまえば・・・唐王朝が朝鮮半島全域を郡県に編入することは必定となり・・・それは近江朝廷にとっても、かなりの脅威となる筈です。・・・当時の新羅にしてみれば、万一近江朝廷が唐王朝と友好関係を強めるなど連携し始めて、新生百濟における新羅の影響力の排除に乗り出されると、深刻な事態に追い込まれる訳でもあります。・・・むしろ、裏を返せば・・・新羅は、唐王朝による脅威を、いち早く新生近江朝廷と共有し、背後の安全を確保するためにも、両国の良好な関係を築いておかねばならい状況です。
      ・・・この時の新羅としては、“近江朝廷の真意を量るために、金東嚴らを使わした”と考えられます。・・・“中臣内臣、すなわち中臣鎌足(※後の藤原鎌足)当たりの人物が、当時の新羅に対しては、柔軟且つ大胆、そして率先して対処していた”とも読めるのです。・・・また、新生近江朝廷、或いは中臣内臣当たりの人物としては、金東嚴らの帰路に付けるという体裁で以って、新羅側の実力者だったユ信と、新羅王に対して、それぞれ船をまるごと一隻ずつプレゼントし・・・しかも、それぞれに対して、沙門の法辨と秦筆、布勢臣耳麻呂らの特使を、派遣するという絶好の機会を得た訳です。さすがは知恵者と呼ぶべきか、その政治的なセンスが、キラキラ光っております。・・・きっと・・・“この当たりの人物”の即決力と実行力は、金東嚴らや、沙門の法辨と秦筆、布勢臣耳麻呂らの特使によって、ユ信や新羅の文武王に伝えられた筈です。・・・尚、この条にある記述内容については、『藤氏家傳』でも、確認出来ます。
      ・・・「七年の秋九月に、新羅が、調を進める。太臣(=中臣鎌足)は、すなわち使いの金東嚴に付け、新羅の上卿ユ信に船一隻を賜う。或る人が、これを諫めると、太臣は、対して曰く、普(あまね)く天の下に王土に非ざる莫(なかれ)、率土(=地の続く限りの全ての土地)の賓は、王臣に非ざる莫(なかれ)」・・・と。この『日本書紀』では、肝心の主語を記述しておりませんが、『藤氏家傳』では、太臣(=中臣鎌足)としています。・・・これによって、この条にある主体が誰だったのか? については、一件落着ですね。・・・更に、この時の太臣(=中臣鎌足)は・・・中国最古の詩篇であり、孔子が編集したとされる、『詩経(しきょう)』から、次の文章を引用し・・・「溥天の下(=天の覆う限り)、王土に非ざる莫(なかれ)、率土の浜は王臣に非ざる莫(なかれ)」・・・として、“或る人を、諭していた”のです。・・・いずれにしても、太臣(=中臣鎌足)としては、“白村江の戦いで大敗北を喫したとはしても、彼の地は、伝統的にも率土の浜、すなわち天皇の王土である”との認識なのでした。
      ・・・これが、「新羅が調を進めた」という、当時の中臣内臣や、後世における『日本書紀』の編纂者達が、貫き徹していた共通認識なのです。・・・現代人の我々からすれば、“いわゆる外交上の建前(たてまえ)に映ります”が。

      ※ 同年10月内:「大唐大將軍・英公(えいこう)」が、「高(句)麗」を打ち滅ぼす。「高(句)麗・仲牟王(ちゅうむおう)」は、初めて國を建てる時、千歳治めんと欲し、「母夫人」は・・・「若し善く國を治めたならば、得むべからじなり。但し七百年之治が當に有るなり」・・・と云う。今、“此の國の亡者は、七百年之末に當に在るなり”と。【※(注釈)一に鄒牟(すうぼう)と云いて、一に衆解(しゅうかい)と云う※】・・・卒本(そつほん)川に至れば、其の土壤は肥美にして、山河の險固なるを觀て、遂に都にせんとす。而(しかし)、未だに宮室を作る遑(ひま)なし。但し、沸流(ふつりゅう)水(=渾江)の上に廬(いおり:=庵)を結びて、居す。國を、高句麗と號(なづ)け因り、以って氏を高と爲す。【※(注釈)一に云う、朱蒙が、卒本扶餘に至りて、王に子が無く、朱蒙を見て常の人に非らずと知りて、以って其の女に、これを妻(めあわ)す。王が薨ると、朱蒙位を嗣ぐ※】時に、朱蒙の年二十二歳。是れ漢の孝元帝建昭二年(※紀元前37年のこと)、新羅始祖赫居世の二十一年甲申の歳なり」と。
      ・・・まず、「大唐大將軍・英公」とは、李勣のこと。・・・「仲牟王」とは、『広開土王碑』では、“始祖の鄒牟王”とされます。・・・また、『三國史記高句麗本紀』始祖東明聖王では・・・「始祖東明聖王は、姓は高氏、諱は朱蒙(しゅもう)」・・・とされており、ここの文章では・・・更に高句麗の由来などが、いろいろと記述されております・・・が、これらは、あくまでも伝承とされており・・・史実において・・・「高句麗」という国号は、漢王朝時代の玄菟郡(げんとぐん)における「県名」とされ・・・後漢の建武八年(※後32年のこと)に、高句麗が朝貢したため、“初めて、王を称した”とされています。・・・「母夫人」とは、“朱蒙の母のこと”であり・・・“河伯(かはく)の娘・柳花(りゅうか)のこと”です・・・が、その言葉からの引用は、この『日本書紀』にはあっても、『三國史記』や、他の中国側の史書にはありません。
      ・・・ちなみに、『新唐書』と『唐会要(とうかいよう:※中国北宋時代に完成した現存最古の会要のこと。会要は一つの王朝の国家制度や歴史、地理、風俗、民情を収録した歴史書の一種)高句麗伝』には、「高麗秘記」が、次のように記述されており・・・「乾元三年(※西暦668年のこと) 李勣が扶餘城を攻め拔く。遂に諸軍と相會す。時に、侍御史の賈言忠(かげんちゅう)遼東軍の糧を充たす支度をして使わして還る。上は、以って軍事を問う。 (中略) 且つ臣(=賈言忠)は、高麗秘記を聞きて云う。千年に及ばず。當に八十(歳)の老將(李勣)有りて來てこれを滅す。前漢の高麗氏より、すなわち國土を有すること、今九百年に及ぶ。李勣は年八十に登り、亦(また)其の記と符同す」・・・とあります。・・・このように、高句麗の建国時期については・・・『新唐書』と『唐会要』の見解である「九百年」と、この『日本書紀』の見解である「七百年」が、結果としても異なる認識となっています。
      ・・・史実としては、朱蒙による高句麗建国 ⇒ 朱蒙の子とされる沸流と温祚による百濟建国 ⇒ それよりは、かなり遅れて新羅建国 の順序となるのですが、当事の認識としては、高句麗建国が「九百年前」とされ・・・『広開土王碑』では、“好太王自らを朱蒙の17世孫”とし・・・『三國史記高句麗本紀』では、“好太王自らを朱蒙の12世孫”とされていて・・・かなり大きな差異があるのです。・・・また、『三國史記』では、“新羅の建国を前57年のこととし、高句麗の建国が前37年のこととされている”ため・・・『三國史記』を作成した「金富軾」が、結果的に云っても、この『日本書紀』と同様に、“七百年説を採用したこと”になります。・・・おそらく、これは・・・“朝鮮半島を統一した時点における新羅の見解による影響であり、新羅の朝鮮半島における歴史こそが、最も古いと主張していた”のでしょう。・・・尚、この『日本書紀』の編纂者達が・・・“母夫人の言葉を、どこから引用した”のか? については、やはり不明なのですが・・・結局は、“高句麗建国七百年説を採用”しています。
      ・・・これらのことからも、当時の近江朝廷が・・・“滅亡してしまった高句麗よりも、存続していた新羅に対して、その重点を移していたこと”・・・が分かります。

      ※ 同年11月1日:“金東嚴ら”に付して、「新羅王」へ、「絹50匹」、「綿500斤」、「韋(なめし)100枚」を、賜う。・・・“東嚴らが賜う物”には、各(おのお)の差有り。・・・これらの物が、与えられていた船に載せる、初めての積載物だったのか?・・・それとも、第3回目の賜物だったのか?・・・いずれにしても、新羅王に対して厚遇を尽くしていたことに変わりはなく・・・。
      ※ 同年11月5日:「小山下・道守臣麻呂(みちもりのおみまろ)」と「吉士小鮪(きしのおしび)」を、「新羅」へと遣わす。是の日、“金東嚴ら”が、罷り歸(=帰)る。・・・同年9月12日に来日して以来の金東嚴らは、想像以上の成果に満足し・・・中臣内臣(=中臣鎌足)に対して、強い印象を持って、新羅に帰国したに違いありません。・・・いずれにしても、中臣内臣(=中臣鎌足)らの新生近江朝廷としては、沙門の法辨や秦筆、布勢臣耳麻呂に加え、道守臣麻呂と吉士小鮪を送使としました。・・・「道守臣麻呂」は、後に「朝臣(あそん、あそみ)」とされておりますので・・・「吉士小鮪」には、“船長としての役割が与えられていた”のでしょう。・・・彼らの名からも想像し易いかと。「道守」と「小鮪」ですから。

      ※ 同年内:是歳に、「沙門・道行(どうぎょう)」が、「草薙劒(くさなぎのつるぎ)」を盜みて、「新羅」に向かって逃げる。而(しかし)、中路にて風雨が荒れて、迷いて歸(=帰)る。・・・何と、“有名な草薙剣が、尾張國熱田社から盗まれた”との記述が挿入されています。しかも、沙門の道行によって。・・・この事件については、かなりの後日談がありますので、詳しくは、またの機会とさせて頂きますが・・・この『日本書紀』では、後の天武天皇が行なった・・・この草薙剣に纏わる処遇や、草薙剣に纏わる祟りが・・・“天武天皇が罹ってしまう病いの原因となっていた”というストーリー構成となっています。


      ・・・“上記のように西暦668年には、唐王朝が第3次高句麗出兵により、最終的に高句麗を征服”し・・・「安東都護府」を置きました。・・・そして、“百濟と高句麗の故地”には、「羈縻州(きびしゅう)」を置いて・・・“唐王朝配下の勢力として功績があった新羅に対しても、羈縻州を設置するという方針を、着実に示し始めていた”訳です。・・・また、“この高句麗滅亡”によって、“当時の東アジアにおいて、唐王朝に対して、表立って敵対しそうな国家は、新生近江朝廷のみという国際情勢となっていた”のです。・・・尚、この「羈縻州」を置いた理由についてですが・・・そもそも、「羈縻政策(きびせいさく)」と呼ばれる・・・“古くは漢の時代から、あったこと”なのですが・・・“この唐王朝時代に、最も巧みに利用された周辺異民族に対する統御政策”であり・・・歴代の中国王朝は、周辺の異民族や諸国家に対して、政治的、軍事的、文化的な従属関係を作り上げていました。・・・しかし、これらは具体的に、「領域化(≒内地化)」や、「冊封」、「覊縻」という別々の形態を用いて行なっていたのです。・・・

       ・・・まず、「領域化(≒内地化)」とは、支配地においても、内地と同じ州県を設置し、中央から官僚を送り込んで、そこの住民を中国の国法下に置いて、直接支配することでした。
       ・・・次にある「冊封」とは、周辺民族や国家の首長に対して、王や侯といった中国の爵号を与え、形式的な君臣関係の元に、中国の支配秩序に組み込むことでした。
       ・・・これらに対して、3番目の「覊縻」とは、中国に対して、特に友好的な国王や首長を選び、都督や刺史(しし)、県令などに任じて、彼らが元々有していた統治権についてを、中国の政治構造における官吏であるという名目で行使させたものと云えるのです。このように、羈縻政策が適用された地域を、「羈縻州」と云います。・・・したがって、羈縻州の長官とは・・・唐に対しては、一地方官吏であり・・・同時に、部族内部から見れば、王または首長となる訳です。・・・尚、覊縻政策は、一般的に冊封と対比されることが多いですが、現実には冊封と対立した格好によってのみ実施されていた訳ではありません。
       ・・・また、古代日本の場合は? と云うと・・・西暦607年の(第2次)遣隋使(≒朝貢団)として、小野妹子らを遣わして・・・『日出処の天子……』・・・と云う、隋王朝・煬帝が問題としたという國書(≒親書)を届けた時より・・・あくまでも朝貢外交の枠内にはある・・・ものの、古代中国による冊封すら受けずに・・・古代日本には、自立した君主(=日出処の天子)が在ることを認めさせることで・・・“当時の東アジア諸国、とりわけ朝鮮半島諸国に対する優位性を示す意図があった”とされています・・・ちなみに、「羈縻」の「羈」の字義は、“馬の手綱”であり・・・「縻」の字義は、“牛の鼻綱のこと”を指しております。


      ※ 西暦669年正月9日:“蘇我赤兄臣(そがのあかえのおみ)を以って”、「筑紫率」に、拜(はい:=配)す。・・・前年7月に、栗前王(=栗隈王)が筑紫率に任命されたばかりでしたが、蘇我赤兄臣への交代人事です・・・が、もしかすると・・・かつて、倭の五王の時代と呼ばれていた最後期頃と同様に・・・栗前王(=栗隈王)は、ごく少数の兵ら、例えば500人位を率いて、高句麗救援のために、朝鮮半島へ渡海し、現地において高句麗陣営の一員として、現実に唐王朝軍や新羅軍と戦い、行方不明、或いは戦死してしまったのかも知れません。これについては、全くの憶測となりますが。・・・いずれにしても、ここにある「蘇我赤兄臣」は、前任者の栗前王(=栗隈王)と、ほぼ同様と申しますか・・・“蘇我赤兄臣の娘・常陸娘”が四嬪の一人とされ、「天智天皇」に嫁ぐと、「山邊皇女」を儲けておりました。・・・前年7月の交代人事は、中臣内臣、すなわち中臣鎌足(※後の藤原鎌足)の主導によって行なわれており・・・この西暦669年正月時点における交代人事については、天智天皇の意向だったのかも知れません。
      ・・・そして、ここについてを深く勘繰れば、かつての「乙巳の変」の後に没落傾向にあった蘇我赤兄や、蘇我氏全体に対する・・・最後のチャンス的な意味合いを含んだ人事だったのかも知れません。・・・つまりは、『そもそも、朝鮮半島情勢に介入し、我々が引くに引けない状況に陥り、結果として白村江で大敗して、このような国際情勢と国内情勢になったのだから、どんなに困難な状況にあったとしても、何とかして見せ~い!!!』と。・・・しかし、この後のこととなる西暦669年内の記述には・・・「又(また)、大唐が郭務ソウら二千餘人を遣わす。」・・・とあるので、現実に新生近江朝廷内で筑紫率の人事が決定された時期については定かではありませんが、“これらに対応するための予備的な交代人事だった”のかも知れません。・・・いずれにしても・・・“この頃には、唐王朝との間に、或る程度の交流があって、何やら風向きが大きく変わっていた模様”なのです。“郭務ソウら二千餘人”とは、新生近江朝廷に対する唐王朝による軍事的圧力だったとは、早計に判断出来ませんが・・・それにしても、“郭務ソウら二千餘人には、いったい何の目的があった”のか?
      ・・・「郭務ソウ」とは、これまで視て来たように、交渉に当たる文官であり、武官や将軍ではありません。・・・もしも唐王朝による軍事的な行動に因るものならば、“それに相応しい人事が、この時に、為されねばならない筈”です。・・・ここの条では、新生近江朝廷に対する軍事的圧力のためだったとしても、“二千餘人”とは、如何にも少数規模ですし、また訪問目的も示されていないのです。・・・続く・・・

      ※ 同年3月11日:「耽羅」が、“王子・久麻伎(くまき)ら”を遣わし、「貢」を、献る。・・・
      ※ 同年3月18日:「耽羅王」に、“五穀の種”を、賜う。是の日、“王子・久麻伎ら”が、罷り歸(=帰)る。・・・この頃西暦679年までは・・・耽羅は、唐王朝や新生百濟、新羅の支配圏から外れ、一種の空白地帯、つまりは独立的な状態にあったのです。・・・それ故の「貢」でした。(・・・※調ではなく・・・)・・・王子・久麻伎は、この後にも、近江朝廷へ派遣されることになります。・・・当時の近江朝廷としても、“耽羅をしっかりと、自己勢力側に繋ぎ留めて置きたかった”と考えられます。

      ※ 同年5月5日:「(天智)天皇」が、「山科野(やましなのの)」に於いて、「縱獵」をす。“大皇弟や藤原内大臣(ふじわらのうちつまえつきみ)及び群臣らが皆”、悉に從う。・・・「山科野」は、古くから中臣氏の勢力地でした。・・・“鎌倉時代末期に編纂された”とされる『帝王編年記(ていおうへんねんき)』には、その斉明天皇3年に・・・「内臣(※後の藤原鎌足)は、山階陶原(すえはら)の家にて、精舎を始めん」・・・とあります。・・・ここにある「陶原」とは、“旧山城國宇治郡・山階寺の跡”です。現在の京都市山科区御陵大津畑町。・・・「精舎」とは、出家者が暮らす寺院のこと。・・・つまりは、“内臣(※後の藤原鎌足)が、山階の陶原という土地にあった家(=館)を、初期的な仏教寺院を建てた”ということかと。・・・この寺院については、現在の奈良県奈良市登大路町にある“興福寺(こうふくじ)の旧名”を、「山階寺(やましなてら)」と云いまして、“山階陶原に建てられた持仏堂が、その始まり”とされております。
      ・・・「中臣氏」とは、元々神祇を司る氏族ですが・・・“藤原内大臣の家系のみ”が、息子の定恵を、唐への留学僧とし・・・斎部氏(いんべうじ:=忌部氏)などとは異なり・・・“古神道と渡来仏教の双方を吸収しようとしていたこと”が分かります。・・・尚、内大臣こと中臣内臣、すなわち中臣鎌足(※後の藤原鎌足)が、正式に「藤原姓」を賜わるのは、是歳の10月のこととなります。

      ※ 同年8月3日:「(天智)天皇」が、「高安嶺(たかやすのたけ)」に登りて、“城を修めん”と欲して、議(はか)る・・・も、“仍(しきり)に民が疲れたるを、恤(あわれ)み”・・・止めて作らず。時の人が歎(なげ)き感じて、曰く・・・「寔(まこと)乃ち仁愛の徳が、亦(また)寛(ゆるや:=緩や)かざるかな、云々」・・・と。・・・是の秋、“藤原内大臣の家”に於いて、「霹礰(へきれき)」せり。・・・“天智天皇が、生駒と八尾の間にある高安山に登り、城の状態を視て、修繕の必要性を認め、周囲の者達と議論を尽くしたが、眼下を眺めると、民の苦しい暮らしぶりに気付いて、その考えを改めた”という記述です。・・・この『日本書紀』においては、“天智天皇の治世について”を・・・“時の人の言としながらも、仁愛の徳と好評価し、このように記述すること自体が、初めてのことだ”と想います。・・・しかし、直後の記述には、衝撃の表現が!!!
      ・・・「霹礰」とは、直接的には、雷鳴や激しく鳴り響く音のことを意味しますが・・・この時代では、“巨大で激しい落雷そのもの”を意味しており・・・“しかも、これに当たった者は、たちまち病いを罹って、直ぐに亡くなると信じられていました”ので・・・今で云えば、“金槌で以って、頭を殴られる程の衝撃だった”という感じになるのでしょうか?・・・とにかく、強烈な表現であり、間違いなく藤原内大臣への凶兆を記述していると考えられます。

      ※ 同年9月11日:「新羅」が、“沙サン・督儒(とくじゅ)ら”を遣わして、「調」を進める。・・・この頃の新羅国内の情勢は、『三國史記新羅本紀』によると・・・“西暦669年2月には、唐王朝と新羅による百濟及び高句麗平定が終わって、戦功があった者へ褒賞し、戦死者の冥福を祈っては追贈し、罪人を放免し、貧困に苦しむ人に対する元利返済についてを免除する”など、しており・・・そして、同年5月には、飢餓に苦しむ三郡においては、“倉庫を開いて、民に恵み与える”という政策を採っていました。・・・「沙サン・督儒」とは、新羅官位十七階の第8番目の位階となり・・・前年11月に帰国した新羅使者の金東嚴よりも、“一ランク上の位階を持った人物”とされています。・・・また、“前年11月に近江朝廷から遣わされた小山下・道守臣麻呂や、今回の沙サン・督儒らを対応した人物”は、新羅・文武王の戦勝を賀し、藤原内大臣らからの贈り物を提供した上で、何らかの話し合いを行なっていたのでしょう。
      ・・・当時の東アジアにおいて、束の間の平穏が訪れておりました・・・が、むしろ・・・“平定されたという新生百濟と新生高句麗に関連し、関係諸国それぞれの間で、水面下における諸々の交渉や駆け引きが始まっていた”と考えるべきでしょう。

      ※ 同年10月10日:「(天智)天皇」が、“藤原内大臣の家”へ、「(行)幸」し、“親しく所患(について)”を、問う。・・・而(しかし)、憂い悴(やつれ)たること、極めて甚だし。・・・乃ち詔(みことのり)して、曰く・・・「天道が仁を輔(たすけ)ること、何ぞ乃ち虚説ならん、善を積みて、慶を餘(あま)し、猶(なお)是(これ)でも徴(しるし)无(なし)。若し、須たる所有らば、聞を以って便(たより)せよ。」・・・と。・・・對(そろ)いて、曰く・・・「臣は既に不敏にて、何の言をも復(かえす)に當(あたら)ず。但し、其の葬事は、宜しく輕易なるを用いん。則(すなわ)ち、生きては軍國に於いて務(つとめ)無くして、則ち死して何ぞ敢えて難を重ねん。」・・・と云々。・・・時の賢は、聞き歎(なげ)きて、曰く・・・「此の一言は、竊(ひそか)に往哲の善言に於いて比べん。大樹將軍の賞(ほめる)辭(ことば)と、なんぞ(※なんぞの字は、言+巨)年を同じくして語る哉(かな)。」・・・と。
      ・・・「憂い悴(やつれ)たること極めて甚だし」とは、憂い憔悴(しょうすい)し切っている様子であり、死に近い状態。つまりは、危篤状態のことであり、危篤状態となって居たのは、内大臣こと中臣内臣、すなわち「中臣鎌足(※後の藤原鎌足)」。・・・文中の下線部分については、「易の坤卦(こんか)」に・・・「積善の家には必ず余慶有り」・・・とあり・・・また、“古代中国の唐代初期頃に成立した”とされる「類書」、つまりは参考図書とされる『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』儲宮部公主にも・・・「積善余慶・・・天道は賢を輔く」・・・とあるため、『日本書紀』の編纂者達が、これらの有名句の中で暗記していたものを、“体裁を変えて適宜用いた”のでは? とされています。・・・ここにある「徴」とは、天道が現す霊験や、その効能のこと。
      ・・・いずれにしても、当時の天智天皇は、“中臣鎌足(※後の藤原鎌足)のために詔して、天の道は仁を輔ける、これは虚説などではなく、善を積むと必ずや慶を余ます筈だとはした”ものの・・・“中臣鎌足(※後の藤原鎌足)が、天の上帝に祈って、病いの平癒を願ったが、回復の徴がなく、より重篤に”なってしまいます。・・・事実として、落雷により激しく感電していたら、“当然の症状だった”とは想います・・・が、“この時の落雷が、単なる比喩だった”なら?!?・・・。・・・話を戻します。・・・天智天皇は、“漏れたるところがあったり、出来ることがあるなら聞き届けよう”と、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)に語り掛けます。・・・すると、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)は、“自分(=臣)は、もはや不敏にて、何のお役にも立てなくなったので、申し上げるほどのことはないが、(自分の)葬儀については簡素にして欲しい。生きて軍國の務め無くして、死んでまで國に難(儀)をお掛けする訳には、まいりません。”・・・と応えます。
      ・・・「軍國に於いて務無く」とは、“中臣鎌足(※後の藤原鎌足)が、百濟復興とその救援失敗に対する責任を感じてのことだった”か? とされています。・・・尚、“時の賢(人)の言について”を訳すと・・・“中臣鎌足(※後の藤原鎌足)の言が、往(時)の哲(学)の善き言、すなわち、その昔の大樹將軍の言と比べられる程の想いが込められているが、(我のほかに)同世代に、このことを語り合う者が居るのだろうか?”・・・という感じになります。・・・ここに記述されている「大樹将軍」とは、『後漢書』憑異(ふうい)伝の中にある・・・「諸将並び坐して功を論ず、異(=憑異)は、常に独り樹下に屏(しりぞ)き、故に軍中号(なづ)けて大樹将軍と曰(い)う。」・・・という記述からの引用です。・・・つまり、『日本書紀』の編纂者達は、時の賢(人)の言を借りて・・・“新都の近江大津宮においては、百濟から渡来した知識人達が増えたものの、漢学などの素養や教養を備えているのか? これらについては、相当に疑わしく、話が通じない相手なのではないか? という雰囲気が、当時の世間に漂っていた”と云う訳です。要するに、根深い文化的な摩擦があったと。
      ・・・ちなみに、『藤氏家傳』では、“もう少し詳細に、この場面について”を記述しています。



      《※『藤氏家傳』よりⅡ※》
      「年冬十月、稍(やや、しばらくして)痾(やまい)が纏沈(まとわりつ)いて、遂に大漸(だいせん:=重病)に至る。帝が、私第(してい:=私邸)に臨みて、親ら所患を問いたまう。命を上帝に請いて効を求めたまう。翌日に誓願(ねがい)の徴(しるし)無く、病患弥(いよい)よ重し。すなわち詔して曰く・・・「若しも、思う所有らば、聞を以って便せよ。」・・・と。大臣が對(そろ)いて、曰く・・・「臣は、既に不敏にて、敢えて何をか言(もう)すべきや。但し其の葬事は、願わくば、輕易なるを用いん。生きては軍國に於いて益無く、死にては何ぞ百姓(おおみたから)を労(たしな)むること有らん。」・・・と。すなわち臥して復(また)言うこと無し。帝は、哽咽(むせ)びて、悲しみに自ら勝(た:=耐)えるにたまわず、即時、宮に還りたまう。東宮大皇弟(ひつぎのみこ:※大海人皇子のこと)を遣わして、其の家に就きて、詔して、曰く・・・「遙(はる)かに前(さき)の代(みよ:=御代、御世)を思うに、政(まつりごと)執る臣は、時々世々、一二(ひとりふたり)耳(のみ)には非ず。
      而(しか)るに、労(ねぎらい)を計りて能(よ)く校(かんが:=考)えるに、公(=鎌足)に比(くらべ)るに足らず。但(ただ)朕のみが汝の身を寵(めぐ:=望)むに非ず。後嗣の帝王も、実に子孫に恵まれん。忘るることなく遺わし、広く厚く酬(むく)いて答えん。頃、病(やまい)重しと聞きて、朕の意が弥(いよい)よ軫(いた)む。汝が得るべき任を作らさん。」・・・と。仍りて、織冠を授け、以って太政大臣に任じ、姓を改め、藤原朝臣(ふじわらのあそん)とす。・・・十六曰辛酉、淡海(あわうみ:=近江)の第(てい:=邸)にて、薨る。時に年五十有六なり。」
・・・このように、“大臣(=中臣鎌足)の邸宅に、帝(=天智天皇)が見舞いに来訪し、大臣と会話を交わしたものの、悲しみに耐えられずに、近江大津宮へと帰り、改めて弟の大海人皇子(※後の天武天皇)を遣わした”という記述となっています。・・・また、『藤氏家傳』における「生則無益於軍國」という表現を・・・この『日本書紀』では、「生則無務於軍國」としていました。
      ・・・そもそもとして、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)は・・・“中国古代の周王朝建国において、伝説的な軍師として、後の斉の始祖ともなった呂尚(りょしょう)、すなわち太公望(たいこうぼう)が登場することで有名な兵法書の『六韜(りくとう)』を暗記していた”とされておりますので・・・『六韜』龍韜では・・・「攻むべきを知りて攻め、攻むべからずして止む」・・・と。また、『六韜』虎韜では・・・「将は必ず上は天道を知り、下は地理を知り、中は人事を知り、高きに登りて下望し、以って敵の変動を観る」・・・と。・・・つまり・・・“中臣鎌足(※後の藤原鎌足)は、百濟復興戦や白村江の戦いにおいては、豊璋王を立てたものの、(鬼室)福信を失なってしまったことからも分かるように、地理や人事面における熟慮が足りず、敵の変動をも見通すことが出来ずに、結果として、攻むべからざるして、止むことも出来なかったと猛省し、死の淵に至っては、軍に関する国政においては益することが出来なかった”と。
      ・・・「務(つとめ)」には、“趣(おもむ)くこと疾(すみやか)なり”との字義があり・・・「無務」とは、“そうすることが無かったこと”を意味しているのです。・・・この西暦669年10月16日に亡くなり、中臣改め「藤原朝臣鎌足」とされた人物の・・・“無念の想いは、きっと、生前の国防政策などに注ぎ込まれていた”のでしょう。



      ※ 西暦669年10月15日:「(天智)天皇」が、「東宮大皇弟」を、“藤原内大臣の家”に遣わし・・・「大織冠」と「大臣位」を授け、“姓(うじ)を賜う”に仍(よ)りて、「藤原氏」とす。此(これ)より以後は、通して、曰く・・・「藤原内大臣」・・・と。・・・「東宮大皇弟」とは、上記の『藤氏家傳』にもあるように、「大海人皇子(※後の天武天皇)」のこと。・・・そして、「姓」についてを、「かばね」ではなく、「うじ」と訓じていて、“中国風の姓の意”とされています。後世では「賜姓(しせい)」とも。・・・“生前中の中臣鎌足(※後の藤原鎌足)の功績に対して、大織冠と大臣位を授けるとともに、藤原の姓(うじ)を賜いて、藤原氏とした”という記述。
      ・・・この因果関係については、我々現代人には分かり難いと思われますが、おそらくは・・・“当時の中臣氏そのものが、世間一般から、あまりにも強く祭祀神祇の家系、すなわち古神道の家系というイメージで認識されていたため、政治的な功績が目立っていた中臣鎌足(※後の藤原鎌足)ばかりでなく、特に長男の定恵や、次男の(藤原)不比等も、そのイメージ脱却を願っていた”のでしょう。このことは、“唐王朝や百濟、高句麗などの海外の制度や文化を、多く採り入れていた新生近江朝廷にとっても、かなり都合が良かった”のではないでしょうか?・・・しかし・・・それでも、“中臣氏と同じく祭祀神祇家系とされていた斎部氏(=忌部氏)などから、藤原氏が当時の政界で、突出していたためなのか? かなりの非難を浴びていたよう”です。・・・後世の平安時代における「神道史料」の『古語拾遺(こごしゅうい)』には、当時の官人だった「斎部(=忌部)広成(いんべのひろなり)」などが、“幾度となく中臣氏に対する朝廷による偏った任用と、中臣氏の祭祀家系からの逸脱とを、非難していたこと”が記述されております。
      ・・・いずれにしても、“中臣鎌足(※後の藤原鎌足)や次男・(藤原)不比等は、神祇官に限定されていた中臣氏という枠に捉われることなく、政治にも携わることが出来る氏族であることを明確にするため、大織冠と大臣位及び新たな姓(うじ)を求めた”のではないか? とも考えられます。・・・これらとともに、“天皇家の海外文化や、仏教への傾倒と、それらの導入などと歩調を合わせるという必要があった”のではないでしょうか?・・・やがて、鎌足次男の藤原不比等の代になると、“太政官を踏襲する藤原氏と、神祇官を領掌する中臣氏とに、役割分担が為されるよう”になります。
      ※ 同年10月16日:「藤原内大臣」が、薨る。【※(注釈)日本世記は、曰く「内大臣は、春秋五十にして、私第に薨りて、遷して山南に於いて殯す。天は、淑(しとや)からずして憖(なまじ)に耆(おいる)を遺(のこ)さざる何(か)。鳴呼(あぁ)哀しき哉(かな)」と。碑は、曰く「春秋五十有六にして薨る」と。※】・・・【※(注釈)※】にある『日本世記』を著したのは、“斉明天皇の頃から政策ブレーンとして活躍し、藤原氏との関係も深かった”とされる高句麗からの渡来系の沙門(=僧)・釈道賢(ほうしどうけん:=同顕)です。・・・この『日本世記』は、古代日本と百濟や高句麗との私的な外交記録とされますが、現存してはおりません。・・・この釈道賢こと釈同顕は、“倭国(ヤマト王権)や、後の近江(≒大和)朝廷の外交政策に関して少なからぬ影響を与えていた”という可能性があります。・・・尚、“藤原内大臣は、この時56歳とあり、西暦614年生まれだった”ことも分かります。・・・中大兄皇子(※後の天智天皇)の誕生が、西暦625年なので、藤原内大臣こと藤原鎌足は、天智天皇よりも11歳年上だった訳です。
      ※ 同年10月19日:「天皇」が、“藤原内大臣の家”へ、「(行)幸」し、「大錦上・蘇我赤兄臣」に命じて、「恩詔(おんしょう、おんじょう)」を「奉宣」し、“金に仍る香鑪(こうろ)”を賜う。・・・「恩詔」とは、情け深い詔(みことのり)や、慈しみの仰せ言のこと。・・・ちなみに、“藤原内大臣が亡くなったとされる邸宅”は、『藤氏家傳』によると、「近江」であって、「山科」ではありません・・・が、“故藤原鎌足が葬られたのは、山科(=山階)の精舎”であり、「仏式」によって行なわれました。・・・おそらくは、“同年5月5日の条にある持仏堂で行なわれた”のでしょう。・・・“金の香鑪”とは、重要な法具とされており・・・『藤氏家傳』では、天智天皇が藤原内大臣家に対して、この香鑪を賜う経緯についてを・・・「出家して仏に帰らば必ず法具有り。故に純金の香炉を賜わん。此の香炉を持ちて、汝の誓願の如く、観音菩薩の後に従いて兜率陀天の上に到り、日々夜々、弥勒の妙説を聴き、朝々暮々、真如の法輪を転せ。」・・・と記述しています。
      ・・・故藤原鎌足は、“祭祀神祇の家系の中臣氏出身者でしたが、その生前中には、渡来宗教の仏教へも既に帰依していたことになる”のです。・・・この『日本書紀』でも、“鎌足の長男・定恵が、学問僧としての長きに亘る唐滞在から帰国して、この頃生存していた”としていますので・・・もしかすると、息子自ら父の鎌足を弔うことが出来たのかも知れません。

      ※ 同年12月内:「大蔵(おおくら)」に、災(わざわ)いあり。・・・是の冬、「高安城」を修めて、“畿内(うちつくに)の田税(たちから)”を收むる。・・・時に、「斑鳩寺(いかるがでら)」にも、災いあり。・・・そもそも、「災」の字は、「巛」+「火」から成ります。・・・「巛」は、水に因るもの(※火に水を掛けている様から)であり、「災」の前に「火」を付け加えて「火災」としますが・・・原義では、“人による火”を「火」とし、“天による火(※落雷や自然発火など)”を「災」とします。・・・“この意味を念頭に置くと・・・ここの条の記述が、その出火原因を、落雷若しくは自然発火としているようですが・・・そのままに理解して良いのか? と判断に苦しみます。・・・その理由は、近江朝廷における出火に関する記事が、後の西暦671年11月の条にも・・・「近江(大津)宮の大蔵第三倉より出火」・・・との記述があるからです。
      ・・・常識的に考えても、人が暮らす場所での失火は、起こり易いと云えますが、生活の場などではなく、ただ物品を貯め置いて警備される対象だった大蔵から出火と云うのは、どう考えても不自然ですし・・・しかも、2年間に二度も記述されると・・・不穏な感じを受けざるを得ません。・・・いずれにしても、“藤原鎌足が亡くなった後の凶兆を示している”のでしょう。・・・高安城については、つい4カ月ほど前の同年8月3日の条にも・・・“天智天皇が、高安山に登り、城(=高安城のこと)の状態を視て、その修繕の必要性を認め、周囲の者と議論を尽くしたが、眼下を眺めると、民が苦しむ暮らしぶりに気付いて、考えを改めた”・・・と、この『日本書紀』においては、“珍しくも天智天皇の治世を仁愛の徳などと好評価していた”にもかかわらず・・・“天智天皇は、大蔵が焼けてしまったが故に、城修繕工事と課税に踏み切ってしまった”・・・そして、“斑鳩寺も焼けるに至った”と。
      ・・・このことは、おそらく・・・“近江朝廷、若しくは天智天皇が、大物実力者だった中臣鎌足(※後の藤原鎌足)を失ってしまったが故に、或る種の政治的且つ文化的な反動や、或る種の押さえが効かなくなってしまった様を、そのままに物語っているのだ”と想います。

      ※ 同西暦669年内:是歳に、“小錦中・河内直鯨(こうちのあたいくじら)ら”を遣わして、「大唐」に於いて使う。又(また)、“佐平・餘自信(よじしん)や、佐平・鬼室集斯(きしつしゅうし)ら男女700餘人”を以って、「近江國蒲生郡」へ、遷し居(お)く。又(また)、「大唐」が、“郭務ソウら2,000餘人”を遣わす。・・・西暦669年正月9日の条でも少しふれましたが、詳細は西暦670年の条に持ち越したいと思います。・・・ここの条は、“西暦670年の条にて語られる人々の大移動が、この歳にあった”という前触れ的な記述となっています。

      ・・・「新羅」は、この西暦669年に入る・・・と、突如として、“旧高句麗遺臣ら”を操って、唐王朝に対し「蜂起」させています。・・・すると、近江朝廷の天智天皇は、唐王朝との国交正常化を図るためだったのか? “河内直鯨(こうちのあたいくじら)ら”を、「遣唐使(≒朝貢団)」として、「派遣」しました。・・・また、これらの動きに呼応するが如く・・・かつて百濟の影響下にあった「耽羅」が、白村江の戦い以後初めて、唐王朝に対して「使節」を送っており・・・“近江朝廷や旧百濟側勢力の一員として、何らかの関与があった”のではないか? と考えられています。・・・これら唐王朝以外の諸国が、それぞれの動きを見せた理由は・・・この頃の唐王朝が・・・“本腰を入れて、日本(やまと)を討伐するとの風聞が広まっていたためだった”・・・と推察出来ます。
      ・・・それ故に、“近江朝廷や耽羅から遣唐使(≒朝貢団)や使節を送るとともに、唐王朝に対して新羅が反旗を翻すような行為に加担した真の目的や、日本(やまと)侵攻の風聞の実現性を量り、更には唐王朝内部や国内情勢を探ろうとする意図があった”かと。


      ※ 西暦670年正月7日:“士大夫(したいふ)ら”へ「詔(みことのり)」し、「宮門内」にて、「大射(たいしゃ)」す。・・・「大射」とは、宮中において毎年行なわれていた歩射(ぶしゃ、かちゆみ)の競技の一つであり、「射礼(じゃらい)」とも呼ばれます。・・・『日本書紀』によれば・・・古来より宮中において、弓競技が行なわれ・・・最古の例としては、“西暦483年(清寧〈せいねい〉天皇4年)9月1日に行なわれた”とされており・・・“射礼の原型が定まるのは、後の西暦675年(天武天皇4年)正月17日のこと”とされています。・・・また、後の「大宝律令・雑令(ぞうりょう)」には・・・“正月中旬に大的(おおまと)を射る大射(おおゆみ)の儀式”として規定されており、後に、節度を重んじるという意味で用いられた呼称が、「射礼」だったと云います。(・・・※「謝礼」の原義なのでしょうか? 言偏が付いているだけですし。・・・)いずれにしても、「雑令」大射の条では・・・「凡(およ)そ大射は、正月中旬に、親王以下初位以上(=官位のある者)の皆之を射る。その儀式及び禄は別式に従ふ。」・・・と。
      ・・・そして、「郷射」と呼ばれるものがあって・・・それは文字通りに、“郷における男子の武術の訓練、長幼の礼を実践する場とされ、その位が上がれば上がるほど、個々の教養と徳性が問われるもの、すなわち男性の嗜(たしな)みだった”のです。・・・また、古代中国においても・・・“射儀は、君臣の義や長幼序を明らかにする儀礼とされて、特に射は、個々の徳の有り様を見定めるもの”であり・・・「是故に、古者は、天子は射を以って、諸侯や、卿、大夫、士を選ぶ。」・・・とされておりました。
      ※ 同年正月14日:「朝庭の禮儀(みかどのれいぎ:=礼儀)」と“行路の相を避けること”を、宣(のたま)う。復(また)、「誣妄(ふぼう:≒たわごと、戯言)」や、「妖偽(ようぎ)」を、禁じ斷つ。・・・「朝庭(みかど)」・・・つまりは、“朝廷の庭においても、冠位の他にも、諸行事に至るまで、君臣たる礼儀作法を定めたこと”が分かります。唐王朝のように。・・・また、社会的なルール作りも行なわれ、これは路上における規制にも及びました。後の「大宝律令・儀制令(ぎせいりょう)」行路の条には・・・「凡(すべ)ての行路、巷(ちまた)術(=十字路)にて、賎は貴を避け、少は老を避け、軽は重を避けること」・・・と。要するに、“貴、老、重を優先して、秩序立てた”のです。・・・「誣妄」とは、ありもしないことを云って、人を陥れることであり・・・「妖偽」とは、人を惑わす噂や偽りのこと。今に云う「デマ」のことです。
      ・・・いずれにしても、“これらの社会的なルールを宣言した”ということは・・・とにもかくにも・・・“この頃、誣妄や妖偽が蔓延(はびこ)っていて、日本(やまと)の社会全体が、かなりの不安感に包まれていたこと”を物語っております。

      ※ 同年2月内:「戸籍」を造りて、「盗賊(ぬすびと)」と「浮浪(うかれびと)」を、斷つ。・・・時に、「(天智)天皇」は、「蒲生郡匱サ野(ひつさの:※サの字は、しんにゅう+乍)」へ、「(行)幸」し、「宮地」を觀る。又(また)、「高安城」を修めて、「穀(もみ:※籾などの穀物のこと)」と「鹽(しお:=塩)」を、積む。又(また)、“長門の城一つ”と、“筑紫の城二つ”を築く。・・・ここにある「戸籍」とは、「庚午年(※西暦670年のこと)籍」と称されるものであり、今に云う「課税台帳」に当たりますが・・・“その造籍が、一戸一戸についての人民の身分を確定する”という趣旨で行なわれたため、「氏族台帳」とも読まれます。・・・後に施行されることとなる「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)・戸令(こりょう)」においても、一般の戸籍については、五比(※30年間のこと)で廃棄することが出来ました・・・が、“近江大津宮が主導して造られた、この庚午年籍だけは、永久に保存すべきものとされていた”と云います。このことが、日本で最初となる全国的な戸籍として、庚午年籍が挙げられる所以です。
      ・・・当然に、かなりの期間を費やしてはいたのでしょうが。・・・ここにある『日本書紀』の記述は、“畿内地方はもちろん、西は九州から、東は常陸國や上野國まで、この造籍が実施されていたこと”を示しております・・・が、一方では・・・この「庚午年籍」が現存していないため・・・“本当に、全ての階層身分の民を対象にして全国的な造籍出来ていた”のか? と疑われてもいる訳です。・・・つまりは・・・“別々のルーツを持ちながら、それぞれ別々の氏や姓を持っていた有力豪族の首長や、それらの豪族配下の民までも、完全に把握することが出来ていた”のか? ということです。この『日本書紀』では、“伊勢王の例など”もありますし。
      ・・・それでも・・・その後の、いわゆる『六國史(りっこくし:※日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録の六書のこと)』の記載中に、“当時下層とされた人々に関する改姓訴訟や、或いは良賤訴訟の際にも、この庚午年籍が証拠として参照されております”し・・・西暦839年(承和6年)には、“左右の京職並びに五畿内七道諸國に対して、この庚午年籍を写し進めることが、当時の国家事業として命じられ、それらが中務省(なかつかさしょう)の庫に納められたことなど”から見ても・・・この「庚午年籍」を、“日本史上初めての全国的且つ全階層的な戸籍”として、理解しても良さそうです。・・・そして・・・この条にもあるように、“盗賊や浮浪を取り締まるためのものでもあった”ため・・・“前年12月の条において、焼けてしまったと云う斑鳩寺においても、寺に携わる者達の身分登録などが、急がれていた”とは考えられます。・・・「蒲生郡」は、古来より縱獵(かり)などを行なう野原があって、百濟系渡来人などを数多く居住させていた土地でもありました。
      ・・・“そこ”の「匱サ野」とは、日野の地のことであり、現在の滋賀県蒲生郡蒲生町日野町付近となります。・・・「近江大津宮」が琵琶湖西側地域の湖と山との間の狭い場所にあったために、“この時の天智天皇は、湖東に開けた平野部に、新たな宮地を求めたよう”ですね。・・・ここにある「高安城」は、西暦667年11月に築かれ、西暦669年12月には、畿内の田税を收めておりました。そして今回は、「穀物類や塩を積む」とあり、“この時の天智天皇が、海外勢力などとの中長期戦を想定し、食糧備蓄を急いでいたこと”が分かります。・・・しかし、このことが・・・後に起こることとなる「壬申の乱」においては、“何よりも先んじて、この高安城を押さえることが、軍略的な優先課題にされてしまった訳です”が。・・・それとも、この『日本書紀』の編纂者達としては、“当時の天智天皇による一連の政策が、弟の大海人皇子(※後の天武天皇)に対するものだったと云いたい”のでしょうか?
      ・・・いずれにしても、かつての倭国(ヤマト王権)が、百濟救援のために派兵した際には、長津に拠点を置き、「白村江の戦い」で大打撃を受ける・・・と、「新生近江朝廷」は、「水城(みずき)」を築いて、これを防衛する山城として、「大野城」と「椽城」とを築くこととなりました。・・・このように当初期には・・・筑紫 ⇒ 長門 ⇒ 生駒方面・・・へと、“進軍する仮想敵国軍に対して、それぞれ三段階の防御柵を想定していたよう”です・・・が、“高句麗が滅んだ後”には・・・“越ルート、つまりは日本海側などから、多方面より攻められる可能性が出て来ていたためだった”のか? さも、この「高安城」が、“備蓄倉庫を兼ねる軍事拠点のように利用されていたことなど”から察するに・・・“日本(やまと)防衛計画そのものや、拠点各地の用途などについての再考、再編の類いが、その都度為されていた”のかも知れません。

      ※ 同年3月9日:“山御井(やまのみい)の傍(かたわ)”に於いて、「中臣金連(なかとみのかねのむらじ)」が、「祝詞(のりと)」を宣(のたま)いて、“諸(もろの)神座”を敷き、「幣帛(へいはく)」を班(わける)。・・・ここにある「御井」とは、天智天皇や後の天武天皇、持統天皇の産湯の水となった井戸のこと。・・・「幣帛」とは、神道の祭祀において、神々に奉献する神饌(しんせん:※神社や神棚に供える供物のこと)以外のものの総称です。広義には、この神饌をも含み、「みてぐら」や「幣物(へいもつ)」とも云います。・・・ここでは・・・“中臣金連が、近江大津宮の南の霊泉がある山の傍らにて、諸の神座を敷き、それぞれに幣帛を分け供えて、祝詞を挙げた”・・・と。・・・それにしても、“諸の神とは、如何なる神々のことだった”のか?・・・“天照大神(アマテラスオオミカミ)などの大神を祭祀した”とは考え難いのです。・・・いずれにしても、“複数の神々を、並べて祀るという意図そのものについて”が、記述されておりません。
      ・・・このことを、強いて地理的に考えてみると・・・「山御井」が、琵琶湖西岸から船で東岸に渡る要衝の地となるため・・・“いわゆる土地の神々を祀っただけのこと”とも考えられますし、或いは・・・当時の近江大津宮にも、渡来系の官人達が多く採用されていたため・・・“それまでの日本の神々の神威のみならず、各渡来系の人々にも馴染みのある神々を、日本風にアレンジして祀っていた”という可能性も考えられます。・・・尚、「中臣金連」とは、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)の従兄弟とされており・・・天智天皇崩御の後も、大友皇子(≒弘文天皇)に重臣(※右大臣)として仕えて、後の「壬申の乱」とでは、これに敗れて処刑されてしまう人物です。・・・後世の斎部(=忌部)広成が、『古語拾遺』で批判したように・・・もしかすると、中臣金連としては・・・“天智天皇の意を受ける格好で以って、唐王朝風や朝鮮半島風の祭祀方法を盛り込み、更には外来の神々までお祀りして、暦の如くに、民に対する農事耕作の時期や、四季などを知らしめる目的があった”としたのかも知れません。・・・時は3月。春の訪れでしたので。

      ※ 同年4月30日:“夜半の後”に、「法隆寺」に災(わざわ)いありて、一屋も餘ること無し。・・・「大雨雷」が震(ふる)う。・・・“夜半の後”とは、暁(あかつき)のことであり、つまりは夜半から夜の明け方頃までの時間のこと。・・・「災い」は、天による火(※落雷や自然発火など)のこと。・・・この条では、“法隆寺が全焼して、跡形も無くなった模様”を伝えています。・・・しかし、前年12月の斑鳩寺における災いに続いて、“またしても仏教寺院が被災したことが、当時もかなり問題視されていたこと”が分かりますね。・・・当時の仏教信奉者が、因果応報を旨としていたため、当然に・・・“何の因縁があって、全焼してしまった”のか? ということとなる訳でして・・・一言で云うと、由々しき事態だった訳です。・・・そして、次の5月の童謠へと繋がります。・・・


      ※ 同年5月内:「童謠(わざうた)」曰く、
                于知波志能 都梅能阿素弭爾 伊提麻栖古 多麻提能伊ヘイ能 野ヘイ古能度珥 
※「ヘイ」の字は、「革」+「卑」。
                伊提麻志能 倶伊播阿羅珥茹 伊提麻西古 多麻提能ヘイ能 野ヘイ古能度珥  ※「ヘイ」の字は、上記と同様に、「革」+「卑」。

             《訳》内橋(うちはし)の 集楽(つめ)の遊(あそび)に 出(い)でませ子(こ) 玉手(たまで)の家(いえ)の 八重子(やえこ)の刀自(とじ)
                出(い)でましの 悔(くい)はあらじぞ 出(い)でませ子(こ) 玉手(たまで)の家(いえ)の 八重子(やえこ)の刀自(とじ)


       さて、この5月内の条のように、『日本書紀』が、わざわざ、ここで童謠を挿入しているのは・・・“直前の条の記述内容から受ける衝撃を和らげる効果を狙っている”とされます。・・・それは・・・『漢書』や『後漢書』においても、“その記述内容に、火災や、大水、日蝕などがあると、それらに関連する童謡が創られて、その歌を記載したことに因んでいる”と。・・・要するに、『日本書紀』は、『漢書』などからの影響を受けて、結果的にそれらを模倣する格好となっている訳です。・・・次に、この童謡そのものの内容についてですが・・・一言で云うと、“男性が女性を誘う歌”となっております。・・・場面は、橋の袂において、男女が集って遊ぶ様・・・内橋とあるので、宮人などの限られた人々が集う様であり・・・「子」とは、子供の意ではなく、親しい人のことを指しています。・・・「玉手」とは、大和川と石川の合流点東南部の地名、すなわち玉手丘陵(※現大阪府柏原市にある玉手山古墳群のこと)のことであると考えられます。
       ・・・「刀自」とは、戸主(とぬし)のことであり・・・古代日本においては、男性が女性のもとを訪れる妻問婚(つまどいこん)などが一般的でしたので、家事一般を取り仕切る主婦のことを、特に「家刀自(いえとじ)」などと呼んだそうです。・・・ちなみに、女性戸主を指す刀自の対義語として、男性戸主を指すという「刀禰(とね)」があります。こちらは、古代から中世に掛けては、公事に関与する者の総称として用いられ、やがて職名となりました。・・・

       ・・・いずれにしても、この童謠を思い切って現代語訳してしまえば・・・“親しい玉手の女戸主・八重子さん、一緒に内橋で遊びましょう! 親しい(親しい)玉手の女戸主・八重子さん、お出まし頂けたら決して後悔などさせませんよ!!!”・・・という感じとなります。

       ・・・このように『日本書紀』は、“当時流行った”と云う童謡を・・・“法隆寺が全焼してしまった”という記述と組み合わせて、結果として・・・“一種の儚(はかな)さを演出している”と考えられます。そもそもとして、この「法隆寺」は、かの聖徳太子(厩戸皇子)や推古天皇が創建した寺院でしたから。・・・この他にも、このように童謡を挿入した背景には・・・“時の近江朝廷内部において、天智天皇及び大友皇子(≒弘文天皇)側と、大皇弟とされていた大海人皇子(※後の天武天皇)側との狭間、つまりは中間的な立場にあった中臣鎌足(※後の藤原鎌足)が亡くなったことにより、一種の緩衝材の機能が失なわれて、次第に互いの緊張関係が増していたことがあったか”と考えられます。『日本書紀』の編纂者達からすれば、この法隆寺全焼の記事と、中央政権の将来の姿とを、結び付ければ、この政権の未来の姿を暗示することにも繋がりますし。・・・尚、この『日本書紀』では、以降も童謡と組み合わせる記述が頻繁に見られるため、本ホームページでは、その都度検討を加えつつ、進めることに致します。

      ※ 同年6月内:「邑中(むらのなか)」にて、“上が黄、下は玄(くろ:≒黒)の、長さ六寸を許す亀”を、獲たため、「(その)背」に、「申(さる)」の「字」を書く。・・・「邑中」の「邑」については、所在不明です。“その辺りの村の中で”という感じになります。・・・「亀」と記述されているため、いつもの吉兆を示す記述か? と思いきや、その真逆となっています。・・・これもまた、中国風の記述となりまして・・・『易経(えききょう)』繋辞伝(けいじでん)では・・・「河は、圖(はかり)を出し、洛は、書を出して、聖人は、之に則(のっと)る。」・・・とあります。・・・場所については、当然に、古代の中国大陸であり、この中の河は「黄河」、洛とは「洛水」という河川のことです。
      ・・・“このお話の舞台”は、日本の飛鳥時代より遠い昔のこととなる、紀元前2,070年頃まで遡ります。この時代は、中国史書に記される最古の王朝とされる夏(か)の時代に当たりまして・・・その伝説については・・・“洛水に、その背に或る文様を載せた(≒背負った)神亀が、或る時突如として出現”します。そして、その神亀の甲羅には、九つの数字が刻まれていた”と。・・・すると、これを知った夏王朝の創始者であり、伝説的な帝とされる「禹(う)」が、“その甲羅にある九つの数字に基づいて、九つの秩序を明らかにし、天下を治めて、故に亀を川亀とした”・・・という故事です。・・・この伝説的な故事を念頭に置いて、この『日本書紀』の条を読みますと、“或ることに気付く”と思います。・・・「長さ六寸」というのは、少し大きめにも感じますが、あり得ないことでも無いので問題無いのです・・・が、“上は黄色で、下が玄(≒黒)色とは、明らかに不自然であり、どうしても不気味な亀の出現”となってしまいます。
      ・・・それ故に、“その亀に、申(さる:=去る)の字を書いた”との記述なのです。・・・要するに、「上黄下玄」とは、“天地玄黄の逆であって、あべこべな様”を示しており・・・後に起こる「壬申の乱」の「申(さる)」をも示唆している訳です。・・・大凶兆として。

      ※ 同年9月1日:「曇連頬垂(あずみのむらじつらたり)」を、「新羅」に遣わす。・・・ここにある「曇連頬垂」は、西暦657年(斉明天皇3年)に、西海使として派遣された後、百濟を経由して帰国し、その翌年には・・・「当時の百濟・義慈王が新羅を攻めていた時に還るが、馬が寺の金堂を昼夜に関係なく、息をすることも忘れたかのように、勝手に走っていた。馬は、ただ草を食している時のみ止まっていた。」・・・と報告しています。・・・そして、「庚申年(※西暦660年のこと)に、百濟が敵の爲に滅せられる応(こたえ)なり」とされていました。・・・とすると、曇連頬垂が、新羅に今回派遣された目的としては・・・きっと、“東アジア情勢、特に朝鮮半島情勢の把握と、新羅との各方面における連携に関することだった”と考えるのが、順当なのでしょう。・・・“当時の曇連頬垂は、近江朝廷から、この方面や分野における第一人者として評価されていた”と考えられます。

      ※ 同西暦670年内:是歳に、「水碓(みずうす、すいたい)」を造りて、「冶鐵(やてつ)」す。・・・「碓」とは、臼のように粉末を作るものではなく、足踏みによって穀物を搗(つ)くタイプの踏み臼のこと。・・・よって、「水碓」とは、水車や水力を利用し、更に硬い物を砕く性能を持つ碓のこと。・・・また、“冶鐵の冶(や)”とは、溶かすという意。・・・したがって、この条は、“水碓という、従来のものと比べても、強力な碓を造って、鐵(=鉄)を溶かした”という記述となります。・・・尚、この場合に、砕かれる対象物とは、“鐵(=鉄)塊”や「鉄鉱石」となります。・・・日本各地で、比較的に多く産出する砂鉄であれば、そもそも砕く必要がありませんし、それまでの古代日本では、主に朝鮮半島南部地方から、鉄資材そのものを輸入することによって、国内需要の不足分を賄っていましたので。そして、これと同時に、渡来人らによって、新しい製鉄技術や加工技術の導入が図られていたのです。
      ・・・それに、百濟出兵の船舶や、武器、武具の調達のためとして、大量の鉄資材が必要とされていたでしょうし、“百濟復興”や「白村江の戦い」などにおける挫折経験にて失なわれた鉄資材の量も大量だったに違いありません。・・・いずれにしても、“この頃の近江朝廷が、それまで以上に本格的な冶鉄に取り組んでいたこと”が分かります。

      ・・・“この西暦670年になると、唐王朝は、大陸の西域において、吐蕃(とばん)を相手に戦争状態に突入する”こととなり・・・その隙を突く格好で・・・“新羅が、それまで傘下に入っていた筈の唐王朝を裏切り、百濟の熊津都督府を襲撃し、唐王朝の官吏を、多数殺害”します・・・が、その一方で・・・“唐王朝に対して、直ぐさま使節を送って、降伏を願い出るなど、唐王朝とは硬軟両方の策を用いて、対峙するように”なりました。・・・“この後にも、新羅と唐王朝は、何度かの小競合い的な衝突や戦いを重ねることになります”が・・・“新羅は、再び唐王朝による冊封を受ける格好”となって・・・“一方の唐王朝も、現在の清川江以南の土地についてを、新羅に管理させる(=任せる)という妥協案で以って、両者の和睦が一応成立する”に至ります。・・・


・・・・・・・・・・次ページに続く・・・・・・・・・・





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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】