街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 西暦662年正月27日:「倭国(ヤマト王権)」が、「百濟」の「佐平・鬼室福信」に、「矢100,000隻」や、「絲(いと)500斤」、「綿1,000斤」、「布1,000端」、「韋(なめし)1,000張」、「稻種3,000斛(ごく)」を賜(し)す。・・・矢100,000とは? と、思われるかも知れませんが・・・「隻」とは、船だけの数の単位とする訳ではなく、弓矢のように「弓+矢」で一つの機能を持つ道具などの片方のみを数える際にも使う単位です。したがって、今で云うと「矢100,000」となります。・・・「韋」とは、今に云う鞣革(なめしがわ)のこと。・・・「稻種」とは、今に云う種籾のことだと考えられます。・・・百濟が幾度となく干ばつに悩まされていたことを、当時の倭国(ヤマト王権)は承知していましたから。・・・ちなみに、「斛」とは、江戸時代当たりまで使用していた単位の石(こく、ごく)と同じです。
      ・・・この文章からは・・・“前年の8月内に倭国(ヤマト王権)が遣わしたという、将軍の大花下・曇比邏夫連や、小花下・河邊百枝臣、同じく将軍の大花下・倍引田比邏夫臣や、大山上・物部連熊、大山上・守君大石らの第一派遣軍が、鬼室福信が当時拠点としていた地に、無事に送り届けた”と、そのまま読んでも良さそうです。・・・そして、鬼室福信らの百濟遺民達が、旧百濟各地において、今に云うゲリラ戦を行なっていたことなどから察するに・・・“周留(する)城については、防衛拠点として確保していた”と考えられ・・・“周留城の所在については、現在の錦江下流沿岸の山城だった”のではないか? とされておりまして・・・“この地は、唐王朝軍や新羅軍でも、陸上からは迂闊には手を出せないような天然の要害、すなわち軍事上の重要拠点だった”と云われております。

      ※ 同年3月4日:「倭国(ヤマト王権)」が、「百濟王」に、「布300端」を賜(し)す。・・・この『日本書紀』で云う「百濟王」とは・・・前年の、つまりは、“西暦661年9月に、倭国(ヤマト王権)が送り出した豊璋のこと”としているのでしょう。・・・また、“布300端を実際に届けたのは、倭国(ヤマト王権)第一派遣軍の一部だったかも知れませんし、追加派遣された別の部隊だった”のかも知れません。
      ※ 同年3月内:「唐人」と「新羅人」が、「高麗(※高句麗人のこと)」を伐(き)る・・・と「高麗」は、「軍将」を遣わして、「ス(※スの字は、足偏+サンズイの無い流)留城」に據(よ)りて、“救い”を、「國家(※倭国〈ヤマト王権〉のこと)」に乞う。是に由りて「唐人」は、其の南の堺を、略することを得ず、「新羅」も、其の西の壘へ輸し獲ず。・・・ここについては、何となく“トーン・ダウン”している表現に感じませんでしょうか?・・・『日本書紀』では、これまで・・・それぞれ「或る本は云う、・・・(大)唐國・・・」・・・と、記述しておきながら、ここでは、「唐人」とか「新羅人」などと表記して、「國家」としてでは無く、あくまでも「人格」として表現しているのです。・・・これは、「白村江の戦い」の結果を知る『日本書紀』の編纂者達に対して、“実際に与えられていた編纂方針そのものと、唐王朝との戦後処理よる影響が反映されている”のではないか? と考えられます。
      ・・・つまりは、「白村江の戦い」において、“散々な結果で敗れた倭国(ヤマト王権)を後継した大和朝廷”としては・・・“当時としては、百濟を救援せざるを得なかった、やむを得ない仕儀だったのだ”と。・・・更に云えば、“唐王朝に対応する大和朝廷としては、今後も敵対する意志は毛頭無く、むしろ友好関係を保っていきたいという格好で決着させたこと”を物語っているのでしょう。・・・要するに、唐王朝に対し遠慮している表現なのです。・・・文章に含まれるニュアンスについて話は、ここまでとして・・・“略することを得ず”とは、攻略出来なかったという意であり・・・“壘へ輸し獲ず”とは、土塁に輸送出来なかったという意になります。・・・戦略的な話をすると・・・この時期には、唐王朝が百濟を一応滅ぼして、唐風の都督や州、県の制度を布(し)き、「熊津」や、「馬韓」、「東明」、「金連」、「徳安」の“五都督府”を定めていました。・・・そして、「熊津都督」には、“唐より派遣された王文度(おうぶんたく)を任じました”が・・・“他の都督”や、「州刺史」、「県令」には、“現地登用の百濟人達を任命していた”のです。
      ・・・こういった情勢下、“百濟王として、新たに豊璋が周留に帰還した”と考えられます。・・・そうなると、旧百濟北部地方や西部地方では、百濟遺民達による百濟復興運動が、その勢いを盛り返すこととなり・・・火種(ひだね)の中心地となる南部地方では、相当な歓喜を以って受け止められたのでしょう。・・・ここで更に、“日本(やまと)軍が周留に入って、兵器や軍需物資、食糧、新百濟王・豊璋を守護する部隊5千人余りをも供給した”ことによって・・・唐王朝軍による錦江河口付近からの旧王都・泗ビ城への補給の妨げとなり・・・新羅軍が、これを救援する格好となって・・・“そもそもとして、高句麗へ追加出兵するところでは無くなっていた”と考えられるのです。・・・高句麗の平壌城に冬が訪れる度に、唐王朝軍は凍え、なかなか攻め切れずに、次第に兵糧も枯渇し・・・結果として、“危険な撤退戦を余儀なくされていた”のです。・・・そんな状況下、日本(やまと)軍が、再度朝鮮半島に追加派兵して来たため・・・“唐王朝の南部地方から平壌方面への兵糧や兵員達の兵站分野では、尚更に支障を期たし始めていた”と考えられます。

      ※ 同年4月内:“鼠が、馬の尾に産んだため”として、「釈道顕」が「占い」をして、曰く・・・「北國の人が、まさに南國に附かんとす。蓋(がい:=慨)して高麗が破れ、日本(やまと)に属さんとするか」・・・と。・・・“鼠が、馬の尾に産んだため”・・・何のこと? かと想われるでしょうが、これは一種の比喩でして・・・鼠は、子(ね:=北)を示し・・・馬は、午(うま:=南)を示しております。・・・“鼠が馬の尾に産んだため”とは・・・つまり、“北(=子≒唐支配下の高句麗)が、南(=午≒百濟)の尾(=端っこ)で、子鼠をたくさん産むように、蠢(うごめ)いている様子を語っている”と考えられます。・・・そして、“このような現象を感じ取った釈道顕による占いの結果”・・・「・・・高麗(=駒≒高句麗)が破れ・・・」・・・と続く訳です。・・・要するに、高(句)麗帰化人の釈道顕からすると・・・“自らの占卜(せんぼく)結果による予言めいたものによって、本来は南(=午=馬=駒)側だった高句麗が、北(=唐)側の傘下に組み込まれて、南(=百濟≒日本(やまと)側を攻め入る兆候と捉えて、それを表現している”のです。
      ・・・“この予言めいたもの”とは、「北國の人が、まさに南國に附かんとす。蓋(がい:=慨)して高麗が破れ日本(やまと)に属さんとするか」という部分に当たり・・・“唐王朝の第1次高句麗出兵による結果、朝鮮半島各地に流れ込み、いずれは日本(やまと)に渡来して、国家としての日本(やまと)による後押しを得ながら、高句麗復興をも目指すと予想される高句麗遺臣や高句麗難民を示しているのだ”と想います。・・・そしてまた、高(句)麗帰化人である釈道顕一個人としては・・・“日本(やまと)が、百濟復興さえ出来ずに、グズグズしていたら、唐と新羅により各方面から日本(やまと)軍そのものが攻められることとなり、高句麗復興どころではなくなってしまうと感じていたこと”でしょう。・・・しかしながら・・・史実としては、この後も暫くの期間は、完全制圧されずに、高句麗は持ち堪えておりましたが。

      ※ 同年5月内:“大将軍・大錦中曇比邏夫連ら”が、「百濟國」において、「船師170艘」を率いて、“豊璋ら”を送る。“宣勅した豊璋らへ其の位を使い継がしむのを以って、又(また)(鬼室)福信へ金策を予(あらか)いて其の背を撫で褒めて爵禄を賜した”と。・・・“(この)時に、豊璋らが勅を受けて、鬼室)福信に稽首(おが:=拝)み與(あたえ)る”・・・と「衆」が涕(なみだ:=涙)を流す。・・・前年の9月には、“(鬼室)福信が、豊璋らを本郷(もとつくに:≒本國)に迎えて国政を委ねた”とありますので・・・何やら・・・“(大将軍とされた大錦中曇比邏夫連らにより、日本(やまと)の称制の勅を伝えさせて、正式な百濟王即位のための示威的パレードを行なったように”、読めますね。
      ・・・(鬼室)福信としては、“唐の支配下にある旧百濟の都督や州、県に対しても、新王の即位を広く明らかにして、百濟の民による唐王朝や新羅に対する反乱を更に呼び起こそうとした”のかも知れません。そのため、“そのことを、わざわざ知らしめようと、周留城から見下ろせる水上に、倭国(ヤマト王権)の第一派遣軍の船師170艘を展開させて、力強く演出した”のでしょう。・・・ただ、ここで少し気になる箇所があるのです。・・・それは、大将軍とされた大錦中曇比邏夫連の表記です。・・・以前は将軍だったところが、大将軍となっていることについては、さて置き・・・曇比邏夫連の、“冠位のほう”なのです。前年の9月の記述では・・・つまり、第一派遣軍が倭国(ヤマト王権)から出航した時には、「大花下(だいかげ)」だったのが・・・いつの間にやら、「大錦中(だいきんちゅう)」となっているのです。・・・「大花下」とは、冠位十九階の冠位であり、「大錦中」とは冠位二十六階における冠位なのです。
      ・・・結局のところ、“冠位二十六階は、この後の2年後に制定されるものであって、この時点では冠位二十六階制度そのものが存在すらしていない”のです。・・・この『日本書紀』では、“後に曇比邏夫連へ授けられた冠位を、遡らせて記述している”と考えられます。・・・次に・・・ここにある「金策」とは、今に云う「○○のために、金策(きんさく)に走る」という場合の意味ではなく・・・「金泥(きんでい:※純金または、それに近い金を粉末状にして、膠〈にかわ〉が入った水で溶かした絵具のこと)」を用いて書いた冊書のことです・・・が、その内容は・・・いったい何と記されていたのでしょうか?・・・軍事作戦計画書だったのか?・・・外交や内政に関する政策指南書だったのか?・・・それとも、単なる倭国(ヤマト王権)と百濟國の間で交わされる各種の契約書の類いだったのか?・・・これも謎となります。・・・いずれにしても・・・豊璋が、正式に倭国(ヤマト王権)から百濟・豊璋王とされたことに、(鬼室)福信が内心では、どう思っていたのか? などについては記述されておりません。
      ・・・きっと、ここで問題となっていたのは、むしろ・・・倭国(ヤマト王権)から新百濟王とされ、比較的に平和だった倭国(ヤマト王権)に長期間暮らした豊璋が、混乱極まる戦時下の百濟にあって、真の百濟王たり得るのか? または、百濟の民心を追い風とすることが出来るのか? ということだったのでしょう。・・・(鬼室)福信としては・・・豊璋のことを、百濟の民心に対しても求心力を持つ象徴として、帰国させた張本人でもあり、多少の事ならば、目を瞑り、結果的に受け容れていたのでしょう・・・が、この後の同年12月には、新百濟王の豊璋についてが、大きな問題として表面化してまいります。・・・

      ※ 同年6月28日:「百濟」が、“達率・萬智(まち)ら”を、「倭国(ヤマト王権)」に遣わして、「調」を進め、「物」を献じる。・・・ここにあるように、『日本書紀』では、百濟・豊璋王と(鬼室)福信らの勢力が、朝鮮半島南部において、或る程度盛り返していた情勢を暗に仄(ほの)めかしております・・・が、いずれにしても、この『日本書紀』では、“約5カ月という、この後の空白期間”・・・つまりは、“何らかの理由により記述出来ない、不自然な期間を置くこと”になります。・・・

      ※ 同年12月1日:“百濟王・豊璋及び其の臣の佐平・(鬼室)福信らと、(倭国〈ヤマト王権〉の)狭井連(さいのむらじ:※名を洩らせり)及び朴市田来津(えちのたくつ)”が、「議」を與(くみ)して、曰く・・・「此の州柔(つぬ)の者は、田畝に遠く隔たり、土地は磽カク(きょうかく:※カクの字は、石偏+角)にて、農桑の地に非(あら)ず、是れ戦の場を拒(こば)み、此に久しく處(ところ)すれば、民は飢饉(うえる)べしと。避城(へさしじょう?)の者は、古連旦涇の水を以って西北に帯び、東南が深泥巨堰の防に據(よ)りて、周りを田を以って繚(めぐ)らし、雨が降れば渠(きょ)が決まり、華實(かじつ)の毛は三韓の上腴(じょうそう)に則(のっと)り、衣食の源は二儀のオウ區(おうく:※オウの字は、こざと偏+奥)になりて、今、避城へと遷るべしと。地が卑(いや)しきと曰(い)うと雖(いえど)も、豈(あに:=どうして)遷らざる歟(か)」・・・と。
      是に於いて、「朴市田来津」が、獨(ひとり)進みて諫めて、曰く・・・「避城は、敵所在の間が一夜にして行ける(程に)與(くみ)していて、相(手)は茲(ここに)甚だ近し。若(も)し不虞有らば、其れ難が及ぶ者は悔むかな。夫(そ)れ飢える者の後になりて、亡者は先なり。今、敵が妄(みだ)りに来らざる者たる所以(ゆえん)は、州柔が防禦(ぼうぎょ:=防御)の為に盡(つ:=尽)くして、山を険しく設け置き、山峻高く谿(たに:=谷)も隘(せま:=狭)き、守り易くて攻め難きの故なり。若し卑しき地に處して、何を以ってか固く居し搖(ゆ)れ動かずして今日に及ぶのか」・・・と。(しかし、百濟王・豊璋らは)遂に、諫(いさめ)を聽(き:=聴)かずして、「避城」を「都」とす。
・・・狭井連は、“前年8月の条において、百濟を守護させた”という「狹井連檳榔」ならば、“名を洩らす”とは、わざわざしない筈です。・・・いったい、どういうことなのでしょうか?・・・おそらくは・・・何らかの理由によって、狹井連檳榔が、この軍議には出席出来なかったか? 或いは、わざわざ欠席した?
      ・・・いずれにしても・・・“その代理人として、狹井連一族の片腕的人物が、出席したという可能性があった”のでしょう。・・・尚、「朴市田来津」とは、“朴市秦造田来津(えちのはたのみやつこたくつ)のこと”です。「秦造」の部分を、省略して記述しています。・・・要するに、後世の『日本書紀』の編纂当時においては、“この軍議に出席した狭井連が、狹井連檳榔だったと云えるほどの、断定的な確証を得ていなかった”か?・・・或いは、“倭国(ヤマト王権)の現地出向重臣による助言や、倭国(ヤマト王権)の戦況判断や意向などが、結果として百濟により受け容れられなかったために、狹井連檳榔の名についてを、具体的に記述することを憚(はばか)ったため”とも考えられるのです。・・・さて、ここにある文章の話に戻しまして・・・「州柔」とは、都々岐留山(つつきるのむれ)のこと。・・・「磽カク」とは、石などから成る痩せた土地の意。・・・“農桑の地”とは、読んで字の如く農地と、桑の地つまりは、養蚕の地の意。・・・「避城」とは、州柔より南方にあった現在の大韓民国全羅北道金堤。・・・「古連旦涇」とは、新坪川。
      ・・・「巨堰」とは、貯水池のための堤(つつみ)のことで、「金堤」と呼ばれる構造物のことであり、“現地の地名”にもなっています。・・・“華實の毛”とは、華も実もある樹が茂る肥えた土地の産物の意。・・・“三韓の上腴”とは、高句麗や百濟、新羅のなかでも、特に土地が肥えた良い地方という意。・・・「二儀」とは、天と地の意。・・・「オウ區」とは、深く籠もった処の意。・・・“地が卑しきとか、卑しき地”とは、低地などの平らな土地のこと。・・・そして、ここにある文脈全体を読み解くと・・・“百濟王の豊璋が、唐王朝や新羅との戦さの真っ最中に、考えられないような判断を下した”と云うのです。・・・それまで、(鬼室)福信らは、山間部などに拠点を置いて、ゲリラ戦を行なっていたため、かろうじて唐王朝や新羅に対する抵抗勢力を保っていた訳です・・・が、あろうことか? “低地などの平地に出て、農業を行ない、更に百濟の都を、そこに遷す”と云うのです。・・・“この時の百濟王・豊璋は、百濟の民の飢餓対策についてを、まず第一に改善させることを最優先とし、農業や養蚕が可能な土地に拠点を移すべきと主張した”とのこと。
      ・・・このことは、“孔子や、孟子風の、民の安寧を図る”という「王道政治」であり、“国家の長計としては、或る意味で正しいこと”なのですが・・・ゲリラ戦の真っ最中であるという現状認識と、全体の戦況分析の上では・・・“特に、倭国(ヤマト王権)派遣軍の現地出向重臣だった朴市田来津”からすれば・・・“ほぼ自殺行為に等しい”と、目に映ったでしょう。・・・もしかすると・・・“倭国(ヤマト王権)派遣軍の現地駐留によって、避城方面においても唐王朝の束縛から解き放たれて、避城がこの際に唐と決別し、豊璋を改めて王として迎えたいとでも申し出て来たかのよう”にも読めます。・・・いずれにしても・・・“新たな百濟・豊璋王と、その取り巻きの臣達が、唐王朝及び新羅連合軍との長期戦を覚悟して、周留城などの山間部を離れ、避城のある平野部に移り住み、そこを新たな都とすることが出来ると判断したよう”ですね。
      ・・・しかしながら・・・“この約1年前には、百濟先代王の義慈王以下の旧王族らでさえ、唐王朝へと降り、戦地の先方部隊に加わる者達もおり”・・・“たとえ同邦の人であっても、敵方と通じる者達が居るという、いつ何時に裏切り行為が発生しても、おかしくない朝鮮半島情勢だった”のでした。・・・“この年の正月に、倭国(ヤマト王権)から軍需物資や兵糧が送られていたとは云え、敵の武器等を奪い取りつつ、ゲリラ戦を継続していた”という現実を・・・“豊璋らは、どのように見ていた”のでしょうか?・・・“この軍議中、あまりのことに驚いて、暴走する豊璋を諌めたのは、狭井連(※名を洩らせり)ではなく”・・・「朴市田来津」なのでした。・・・「敵は避城なら一夜にして攻め込める間合いとなり、近過ぎる。不測の事態を招いてからでは、悔やんでも遅い。飢えることより、亡びないことが、まず先である。今、近くの敵が攻めて来ないのは、州柔が山間で険しく、谷が狭く、大軍を以ってしても攻め難い土地だからである。もしも、平坦で低い土地に居れば、何を頼りにして防衛し、生き延びることが出来ようか?」・・・と。
      ・・・このことは、“当然の危惧”であって・・・“本来ならば、狭井連(※名を洩らせり)や、豊璋王の取り巻きの臣らが、これに呼応しなければならない場面と云えます”・・・が、現実としては・・・“朴市田来津の助言”・・・つまりは、“当時の倭国(ヤマト王権)派遣軍の意向が、完全否定された”のです。・・・“豊璋を、自らが求め、新王に即位させ、それまでの戦況にまで持ち込んで来た立役者”とされる(鬼室)福信は・・・このように、如何ともし難い状況となった時、いったい何を思ったのか?・・・後ろ盾となっていた筈の倭国(ヤマト王権)による諫言も聴かずに。・・・それが、当時の王の権力と云ってしまえば、単純な話で終わりますが・・・何という誤算か? と、想像するに余りあります。
      ・・・この時の(鬼室)福信にしてみれば・・・“周留城を拠点とし、錦江河口付近からの唐王朝軍の補給線を遮断し続け、旧王都・泗ビ城への兵站をも妨げ、任存城に拠っては北からの新羅軍の補給線を脅かし、尚も高句麗勢力と連携し、新羅を背後から牽制するなど唐王朝軍と新羅軍とを分断し続けて、倭国(ヤマト王権)追加派遣軍の更なる到着を待ちたかった”と考えられ・・・そのためには、“周留城に、百濟の新王たる旗印を高らかに掲げて、更に反乱軍を結集させる百濟王・豊璋であって欲しかった筈”なのです。・・・

      ※ 同年内:「倭国(ヤマト王権)」が、“百濟を救う爲”として・・・「兵甲」を、「修繕」し・・・「船舶」を、「具備」し・・・「軍粮」を、儲(もうけ)設く。・・・是の年は、「太歳壬戌」なり。・・・この『日本書紀』では、この年、西暦662年に、当時の倭国(ヤマト王権)が、“百濟救済のためとして、尚も活動していた”と伝えているのです・・・が、実際には・・・“倭国(ヤマト王権)内では、斉明天皇が崩御してしまい、中大兄皇子(※後の天智天皇)が皇太子のまま称制中という混乱した政治状況だったため”・・・斉明天皇崩御の翌年、つまりは、この西暦662年を天智(てんじ)天皇元年に相当させています。
      ・・・称制中の皇太子・中大兄皇子にすれば・・・“倭国(ヤマト王権)内の政治基盤を、尚更に固めて実母たる故斉明天皇の遺志を継ぎ、百濟救済に向かいたい”という気持ちがあったかのも知れませんが・・・もしかすると、内心では・・・“百濟救済が叶うとは信じずに”・・・“不測の事態、すなわち唐王朝軍と新羅軍による倭国(ヤマト王権)侵攻をも想定し、現実的に対応する施策を考えて、その施策実行に着手し始めていた頃だった”と考えることも出来るのかも知れません。・・・


      ※ 西暦663年2月2日:「百濟」が、“達率・金受(こんじゅ)ら”を遣わして、「調」を進める。「新羅人」が、“百濟南畔の四州”を「燒燔(しょうぼん)」し、あわせて“安徳(あんとく)等の要地”を取る。是に於いて、「避城」は「賊」が去っては近しにて、故に勢いを居すること能わず。乃(すなわ)ち「田来津」の計る所の如しにて、「州柔」に於いて還り居しむ。是の月、「佐平・(鬼室)福信」が、“唐の俘・続守言ら”を「上送」す。・・・倭国(ヤマト王権)へ調を進めたのは、百濟王・豊璋ということになるのでしょうが、“百濟南畔の四州”というのは、いったいどの四州についてなのか? が分かりません。・・・しかし、“安徳等”の「安徳」については、現在の大韓民国済州島に、「安徳渓谷」という地名が遺っております。そして、この済州島が、当時の耽羅(たんら)に当たりますので・・・倭国(ヤマト王権)に朝貢するまでは、百濟に属していた地域となるため、矛盾しないのかも知れません。(※百濟が一旦、唐と新羅に滅ぼされてから、耽羅は倭国(ヤマト王権)と交流を持ちましたので。前ページの西暦661年5月23日の条をご覧下さい。)・・・しかし、“新羅人によって、安徳等の要地を取られた”とすれば、百濟と倭国(ヤマト王権)にとっては、多大な損失だったかと。唐に対する抵抗活動の中心拠点だった“百濟南畔の四州”とは、当然に倭国(ヤマト王権)を結ぶ重要な海路の中継地であり、すなわち重要な軍事兵站拠点だったでしょうから。・・・尚・・・「焼燔」という言葉の中の「燔」という文字には、肉を祭りに供えるという意味もありますので・・・新羅人が、百濟四州の人々を、火炙(ひあぶ)りにしたということなのでしょうか?・・・いずれにしても、百濟四州の人々が、一旦は唐王朝支配下に組み込まれたものの、後には従わずに抵抗していたことを意味するのでしょう。
      ・・・それにしても、このような敵方の重要な軍事兵站拠点において、新羅人が焼き討ちをするような様を想像するに・・・新羅が、完全に唐王朝の配下国家となり、その恭順の意思を示すためだったのか? 新羅軍が最前線の戦地に送られていたことが分かりますし・・・後世の『日本書紀』の編纂時点においても、“唐王朝配下国家の新羅人であると見做していたこと”も分かります。・・・当初、百濟王・豊璋らは、避城に倭国(ヤマト王権)追加派遣軍が合流することによって、そこを新たな百濟の都とすることが可能となると考えたのかも知れませんが、結局のところは・・・朴市田来津の諫も聴かずに、強行的に避城へ遷ったことにより、唐と新羅は、北と東方面から総攻撃を受けて避城に迫られるという事態を招き・・・結果として、豊璋らは州柔(周留)に戻ることとなった訳です。・・・続守言については、西暦661年11月の条にも、記述がありました。・・・おそらく、その当時は伝聞だった情報を、そのまま記述し・・・今回は、『日本書紀』の編纂時点で、基とした記録情報のままに記述したのではないか? と考えられます。

      ※ 同年3月内:「前将軍・上毛野君稚子(かみつけののきみわかこ)」と「間人連大蓋(はしうどのむらじおおふた)」、「中将軍・巨勢神前臣譯語(こせのかんさきのおみをさ)」と「三輪君根麻呂(みわのきみねまろ)」、「後将軍・倍引田臣比邏夫(あべのひけたのおみひらふ)」、「大宅臣鎌柄(おおやけのおみかまつか)」に、27,000人を率いさせ、これらを遣わして、「新羅」を打たしむ。・・・ようやく、倭国(ヤマト王権)が、追加派兵準備を整えたのでしょう。あくまでも新羅軍を打つためでした。・・・しかも、“27,000人”。「前・中・後」の3派に軍団編成した模様。・・・

      ※ 同年5月1日:「犬上君(いぬかみのきみ:※名を洩らせり)」が、「兵事」を、「高麗」に馳せ告げ還り・・・「石城(いわき)」に於いて、「糺解(くげ:※一般的には豊璋のこととされていますが、下記も御参照下さい)」を見る。「糺解」は、仍(しきり)に“(鬼室)福信の罪”を語る。・・・「石城」とは、地名ではなく、石で築造された城のこと。当然に百濟側の防御拠点。・・・そして、おそらくは・・・犬上君(※名を洩らせり)は、任存を経由して、百濟同様に唐王朝へ抵抗していた旧高(句)麗勢力と接触を図り、倭国(ヤマト王権)軍と百濟復興軍の兵事についてを告げ、急ぎ石城に入ったようであります。もしかすると、旧高(句)麗勢力に対して、折を見て新羅を、北から脅かすことを要請していたのかも知れません。・・・とにかく、帰還した後に石城に入ると、“ここで犬上君(※名を洩らせり)が、糺解から(鬼室)福信の罪を聞かされることとなった”ようです。・・・と、ここで何やら不自然に感じませんでしょうか?
      ・・・そもそもとして、この『日本書紀』では、百濟の新王とされた豊璋についてを、どうして幾つもの呼称を用いて、使い別ける必要があるのでしょうか?・・・もしかすると・・・豊章については、余豊や扶余豊、扶余豊章と記述されており・・・私(筆者)も、これらに共通する文字の「豊」があるため、同一人物視しても問題は無いと想います・・・が、糺解と翹岐については、“一般的には豊章のこと”とされてはいても・・・ここで、少しこちら側の読み手としての、その考え方を改めないといけないのかも知れません。・・・それは、“石城が当時の最前線拠点であり、ここに新王の豊璋が居た”とは、なかなか考え難いからです。もしも、事実として、石城に豊璋が居たとしたら、百濟復興軍や百濟救済のために派遣された倭国(ヤマト王権)軍にとっても、かなりの危機的状況に追い込まれていることとなりますので。
      ・・・したがって、こちら側の読み手としての考え方についてを、整理するためにも、“こんな仮説も成り立つ”と想うのですが・・・

      ・倭国(ヤマト王権)に、約30年間も人質とされ、大和國三輪山において養蜂にもチャレンジなどしていて・・・西暦661年9月には、『古事記』の編纂者であり『日本書紀』の編纂にも関わっていたかも知れないという太朝臣安萬侶の祖父である多臣蒋敷の妹を娶らされ・・・後に百濟復興運動の旗頭とされた人物が、倭国(ヤマト王権)によって、本郷(もとつくに:≒本國)へと送られた・・・「豊璋」。

      ・倭国(ヤマト王権)内において豊璋が、おそらくは 倭国(ヤマト王権)人≒百濟系渡来帰化人 と儲けた男子であり、且つ百濟の王位継承権を持つ豊璋の息子だった王子の・・・「糺解」。

      ・・・このように考えると、(鬼室)福信が、豊璋よりも先に、この糺解の帰国を願った事にも頷けます。・・・また、豊璋の王子だった糺解は、当然に豊璋よりも若く、まずは百濟復興軍の師の一人として、百濟復興軍の即戦力として期待されたでしょうし・・・自らも旧王族だった(鬼室)福信(・・・※(鬼室)福信と豊璋の父の義慈王とは、従兄弟に当たります・・・)にしてみれば、倭国(ヤマト王権)に長年人質となっていた豊璋についてや、倭国(ヤマト王権)の様々な情報も入手し易くなりますし・・・王子である糺解の年齢が、若ければ若いほど、政治的にも扱い易くなりますので。・・・それに、(鬼室)福信としては、倭国(ヤマト王権)としても、王子の糺解ならば、早急に手放し易い筈であると考えるとともに、倭国(ヤマト王権)に対する外交上の礼をも尽くした格好となるため・・・云わば、一石五鳥、或いは一石六鳥? となるからです。

      ・・・以上のことから、西暦642年4月8日に、百濟から島流し(=追放)とされ、倭国(ヤマト王権)に招かれて来たという人物については、豊璋とは別人の百濟王族・翹岐と、本ページでは断定してしまいます。・・・実は・・・その正解が、『日本書紀』そのものの中に記述されているからです。・・・その理由は、『日本書紀』皇極天皇(※重祚する以前の斉明天皇のこと)紀の元年、すなわち西暦642年2月2日の条において・・・百濟からの故舒明天皇に対する弔使の傔人(ともびと)らの言によって、間接的ではありますが、かなり詳細に語られているためです。・・・その内容は? と云うと・・・「去年十一月、大佐平・智積(ちしゃく)が卒せり。又(また)百濟の使人は、コン崘(こんろん:※コンの字は、山偏+昆と表記:林邑=ベトナム中南部以南地方のこと)の使いを海裏に擲(なげいれ)たる。今年の正月、國主の母が薨(みまか)る。又弟王子の兒(こ:=児)・翹岐及び其の母妹女子4人、内佐平・岐味(きみ)、高き名が有る人40余りが、嶋(しま:=島)に放たれた」と。
      ・・・“ここにある弔使の傔人らの言”の前半部分については・・・旧百濟において、かなりの権力闘争があったことを窺い知ることが出来ますが、ここでは読み飛ばしても構いません。・・・しかし、“今年の正月”という下線部分からジックリ読みますと・・・“弟王子”とありますので、すなわち百濟王の義慈から見て弟、つまり翹岐は弟王子の児(こ)であり、百濟王の義慈の甥に当たります。・・・そして、翹岐の母は、百濟王義慈の父だった武の側室に当たり、百濟王の義慈の実母ではありません。・・・したがって、豊璋と翹岐は従兄弟同士となり、結果的にも別人だったことが判るのです。・・・このように、『日本書紀』をジックリ、素直に読むことで・・・確かに、後世の編纂時点における為政者視点で記述されているため、文化的に大きな影響を受けている儒教などの思想に偏重している部分もあるのですが・・・私(筆者)は、案外分かり易く理解出来ると考えております。
      ・・・それにしても、豊章の人物比定については、「豊」の通字を含まない「糺解」や「翹岐」という名が、中世日本における元服前の幼名のようなものや、倭国(ヤマト王権)国内で通用する日本名だったという可能性も多少は残ってはおりますが・・・皆さんは、どう考えられるでしょうか?
      ・・・さて、こちらにある文章そのものに話を戻しますと・・・“糺解が、仍(しきり)に(鬼室)福信の罪を語っていた”とのこと。・・・この『日本書紀』では、ここでは「罪」と記述し・・・次の条では、「謀反」へと発展させて・・・結果として、(鬼室)福信は「謀反罪」とされてしまいます。・・・そして、“倭国(ヤマト王権)による百濟救済のための戦いにおける大戦略に、誤りがあったことが徐々に明らかにされて来る”のです。・・・もしも、この頃に(鬼室)福信が豊璋を亡き者とすれば、倭国(ヤマト王権)の軍事及び内政支援どころか、(鬼室)福信自らが倭国(ヤマト王権)に追討される立場となって、それまでの彼らの苦労が水泡に帰すこととなってしまいます。・・・こうなっては、(鬼室)福信にとっては、最悪のシナリオとなります。・・・したがって、後に記述される・・・“(鬼室)福信が豊璋を亡き者とすると云う風説流布は、敵方による謀略だった可能性が極めて高かった”と考えられるのです。
      ・・・この同時期に進行されていた唐王朝の最大目標たる高句麗征伐における数十万もの大軍の弱点は、多くの兵站拠点を必要としていたことであって、特に厳しい冬期に至ると同時に、危険性が更に高まることとなって、幾度も撤退せざるを得なかった訳です。・・・また、百濟復興運動を抑えるため、唐王朝から事実上の任務を課せられていた新羅にとって、最も苦戦を強いられていたのが、(鬼室)福信らが行なった山城を拠点とするゲリラ戦なのでした。・・・もしかすると、このような中長期間に亘るゲリラ戦などを、ほとんど経験することが無かった倭国(ヤマト王権)軍は、この事態が見得ていなかったか?・・・巨大帝国・唐王朝傘下の新羅とは、積極的に対峙することを避けようとしていたのか?・・・いずれにしても、倭国(ヤマト王権)軍としては、粘り強く(鬼室)福信らに軍需物資を供給し続け、錦江付近から唐王朝軍の補給経路を脅かしながら、南方より新羅をも脅かし、泗ビ城などの唐王朝軍を孤立化させ、結果的に負けない長期持久戦に持ち込むべきだったのでしょう。
      ・・・後世の人間は、このように想像出来ますが、きっと・・・当時このことを理解していたのは、朴市秦造田来津ぐらいだったのでしょうね。・・・新百濟王・豊璋にしても、追加派遣されて来る倭国(ヤマト王権)軍を、あまりにも頼り過ぎていた感もあります。・・・そのような状況下においては・・・旧百濟王族や、その臣らが、事実上の分裂状態にあって、既に唐王朝の臣下となっていた豊璋兄弟の扶余隆(ふよりゅう)らによって、豊璋と(鬼室)福信、そして倭国(ヤマト王権)の間に対する分断工作を仕掛けられていても不思議ではなかったのですが・・・豊璋は、翌月・・・疑心暗鬼のなかにあったのか? 戦時において、一番頼りとすべき者を、斬殺してしまうこととなります。・・・

      ※ 同年6月内:“前將軍・上毛野君稚子ら”が、「新羅」の“沙鼻(さび)と岐奴江(きぬえ)の二城”を取る。「百濟王・豊璋」は、“(鬼室)福信に謀反心有り”と嫌い、「革」を以って「(鬼室福信の)掌(てのひら)」を、穿(うが)ち縛る。時に、所爲知らず、自らは決め難きにて、乃ち「諸臣」に問いて、曰く・・・「(鬼室)福信の罪は、既に此の如くにて、斬るべきか不可か」・・・と。是に於いて、「達率・徳執得(とくしゅうとく)」が曰く・・・「此の悪逆人をば、放し捨つべからず。福信が、すなわち(徳)執得に唾(つば)して曰く、『腐狗癡奴(くちいぬかたくなやつこ)』」と。・・・「王(豊璋)」は、“健(すこ)やかなる兒(じ:=児)(※鬼室福信のこと)”を斬りて、「勒(ろく)」とし・・・而(しか)も、「(鬼室福信の)首」を「醢(ししびしお)」とする。・・・新羅の旧城名及び地名と想われる、沙鼻と岐奴江についてですが・・・それぞれ、沙比(=現在の大韓民国慶尚北道尚州)、三岐(=現在の大韓民国慶尚南道三嘉)であると考えられております。
      ・・・しかし、この通りだったとすると・・・前將軍・上毛野君稚子らは、朝鮮半島の西と南方面から、新羅を攻めたことになります。・・・けれども、この時期における百濟復興軍や倭国(ヤマト王権)軍は、百濟南畔の四州にあった、それぞれの要地を新羅人によって取られてしまっており、この沙比や三岐を強襲する余裕があったとは考え難く・・・また、前將軍・上毛野君稚子らよってのみ実行されたとすれば、極めて危険が伴なう非現実的な強襲作戦だったと云わざるを得ません。・・・ところが、この『日本書紀』では、前將軍・上毛野君稚子らが、西暦664年6月中に、“二城を取った”としているのです。・・・これらから察するに、前月5月1日の条における・・・「犬上君(名を洩らせり)が、兵事を高麗に馳せ告げ還り・・・」という記述と関連があると考えられます。つまりは、西方面からは高句麗や靺鞨が攻め上がり、南方面からは敵方の不意を突く格好で前將軍・上毛野君稚子らが攻めるといった戦略。・・・これならば、新羅の沙鼻と岐奴江の二城を取ることが可能だったでしょう。
      ・・・いずれにしても、反攻作戦の一時の成功により、初期の作戦計画を見誤ってしまっていた百濟王・豊璋からすると、自らを強気にさせる要因となっていた筈です。・・・「穿」とは、貫き通すとか、突き通すことです。“この時の(鬼室)福信は、掌に穴を開けられ、革を通されて縛られた”とのこと。・・・謀反心があったとされただけでも、この仕打ちです。しかも、(鬼室)福信には、“まともな弁明の機会も与えられなかったよう”に読めます。・・・そして、この『日本書紀』では、百濟王・豊璋の取り巻きの一人として、達率・徳執得を登場させ、“(鬼室)福信との遣り取りの様子”を語っています。・・・ここに、読み手が読み進める上において、結果として受ける印象に対して、微妙なバランスを採らせるといった仕掛けがあるように感じます。・・・私(筆者)は、この徳執得なる人物名は、後世の『日本書紀』の編纂時点における意図的な挿入部分か? 単なる当て字の類いと考えております。だって、「徳+執得」ですよ。
      ・・・“せっかく倭国(ヤマト王権)が後押したのに、結果として旧百濟の地を束ねるどころか滅亡させ、且つ倭国(ヤマト王権)の存亡の危機をも招いてしまう当事者の一人とされる豊璋配下であり、取り巻き官人の一人”ではあっても・・・「徳+執得」・・・とは、いくら何でも出来過ぎであると感じられませんか?・・・今で云うと、クサイの一言です。・・・“その徳執得が、(鬼室)福信から「腐狗癡奴」と吐き捨てられたため、(鬼室)福信を悪逆の謀反人として断罪すべきと進言した”と、この『日本書紀』では、事細かに・・・そして・・・まるで、その場に倭国(ヤマト王権)の随行人の誰かが居合わせ、事の次第を見届けていたことを悟られ難くするか? のように。
      ・・・そもそも、(鬼室)福信が唾して発した「腐狗癡奴」とは・・・腐狗が、読んで字の如くの、腐りきった狗、すなわち、自分では状況判断すら出来ずに諂(へつら)う者によって振り回されるような軟弱者の意であり・・・「癡奴」とは、痴呆者や、敵を利することとなるにもかかわらず本気に喜んでいるような者の意となります。・・・「勒」とは、乗馬などのため馬を扱う際に、その口に噛ませる、くつわや、くつばみのような状態のことや、抑えつけられているような状態を指しております。・・・「醢」とは、人を殺して、塩漬けにする刑のことです。
      ・・・百濟王・豊璋にすれば、自らと同じ王室の血脈を持っていたが故に・・・敢えて、自らを乞い、新王として迎え入れた恩人とも云える(鬼室)福信に対して・・・余りと云えば余りの仕打ちなのでした。ましてや・・・(鬼室)福信とは、豊璋の倭国(ヤマト王権)滞在中における百濟事情や、困難極まる朝鮮半島情勢に精通し、敵方にはゲリラ戦によって脅威を与え続けて、云わば戦さの要(かなめ)となっており、もしも彼が戦闘中に死んだとしても、それを伏せ、生存しているかの如くに見せることが肝心要(かんじんかなめ)と云える存在だったのです・・・が、百濟王・豊璋は・・・敵に内通する勢力の謀略に、マンマと乗せられ・・・ご丁寧にも、その首を醢として、彼の死を広く知らしめてしまいました。
      ・・・ここにある文脈からは、全体的に・・・“当時の倭国(ヤマト王権)が、(鬼室)福信の罪を追認し、また王たる豊璋王自らが、優秀な臣下だった(鬼室)福信に対して起した愚行を、結果として黙認したという大失態に陥った様子”や・・・“倭国(ヤマト王権)軍の派遣によってのみでも混沌極まる状況下にあった、当時の朝鮮半島情勢の収束が図れると云った、驕(おご)りに満ちた当時の倭国(ヤマト王権)政権に対する批判など”が・・・“かなり込められている”ように読めるのです。・・・

      ※ 同年8月13日:「新羅」が、“百濟王が己(おのれ)の良将を斬る”を以って、直に「(百濟)國」に入りて・・・先(ま)づは、“州柔を取らん”と謀る。・・・是に於いて、「百濟」が、“(新羅などの)賊が計る所”を知りて、「(百濟)諸将」が謂(い:=言)いて、曰く・・・「今、大日本國(おおやまとのくに)の救将・廬原君臣(いおはらのきみおみ)が、健兒萬余を率いて、正に海を越え至らんと當(あ:=当)たると聞く。願わくば、諸将軍らは預(あらかじ:=予)め圖(はか:=図)るよう應(こたえ)よ。我の欲は自ら往きて白村に待ち饗(もてな)さん」・・・と。・・・ここで、『日本書紀』は・・・「百濟王が己の良将を斬るを以って・・・」・・・として、これを失策だったと明らかに批判しています。その考えを述べた主体については、あくまでも「新羅」としておりますが。・・・そして、これに続く発言の主体は、“間違いなく百濟王・豊璋のもの”。これも、「(百濟)諸将」とはしておりますが。
      ・・・いずれにしても・・・“豊璋王自らが、倭国(ヤマト王権)の救将の廬原君臣を、白村にて、饗応したいと願った”・・・訳ですが、この8月13日の時点で、豊璋王自らが州柔の周留城を出立したとしても・・・同月17日には、この城が敵方に包囲されることとなり・・・同月27日に、ようやく倭国(ヤマト王権)の派遣船団が到着することとなります。・・・これでは・・・何が、どうあっても・・・“百濟王・豊璋は、敵前逃亡に等しい行動を採っていた”・・・と、後世の『日本書紀』の編纂者達の目に映るのではないでしょうか?・・・
      ※ 同年8月17日:「賊将(※概ね新羅軍将のこと)」が、「州柔」に至りて、“其の王城(※百濟王・豊璋らの城のこと)”を繞(まと)う。・・・「大唐」は、“軍将が戦船(いくさぶね)170艘”を率い、「白村江」に於いて、烈(はげ:=激)しく陣する。・・・ここにある「大唐」とは、概ねのところ・・・唐王朝軍及びその傘下にあった新羅軍の連合軍のこととされます・・・が、戦船170艘を率いる水軍の主力部隊には、“当時靺鞨(まっかつ)と称される勢力が含まれていた”とも云われます。・・・いずれにしても、それまでのゲリラ戦における重要人物だった(鬼室)福信を失った百濟復興軍及び倭国(ヤマト王権)軍の連合軍側による抵抗活動さえも、ほとんど受けずに・・・大唐側としては、州柔(周留城)を容易に包囲出来た模様なのです。・・・そして、この城の主(あるじ)たるべき百濟王・豊璋らの姿は、そこには既に無かった訳です。
      ・・・百濟王・豊璋らは、“白村江で倭国(ヤマト王権)の派遣船団を出迎えるつもりだった”とされますが・・・主が不在の隙に、大唐の戦船170艘が熊津から下り、白村江に布陣してしまったのです。・・・周留城に帰ることもならず、豊璋らとしては、さぞ慌てふためいたことでしょう。
      ※ 同年8月27日:“日本(やまと)の船師”が、“大唐の船師に與(くみ)する者”と、「合戦」を初(はじ:=始)め・・・「日本(やまと)」は、利不(な)らずして、退きて・・・「大唐」は、「陣」を堅くし、守る。・・・ここで『日本書紀』は、倭国(ヤマト王権)軍と、新羅を含む大唐軍との間で、大規模な戦闘があったこと、その時の状況についてを記述しています。・・・しかし、倭国(ヤマト王権)の派遣船団が、どの程度の規模だったのか? などについては、残念ながら記述しておりません。

       ・・・そこで・・・良く引き合いに出される史料があるのですが・・・まずは、それについてを、簡単にご説明したいと思います。
       ・・・それは、『三國史記(さんごくしき)』という史料です。・・・このなかに、『百濟本紀(くだらほんき)』という部分が含まれております・・・が、この『三國史記』そのものについては・・・この『日本書紀』と同様に、後世に朝鮮半島を統一した王朝だった高麗(こうらい)17代王の仁宗(じんそう)の命を受けて、その官僚並びに儒学者だった金富軾(きんふしょく)らが作成したと云う、三國時代(※新羅、高句麗、百濟があった時代のこと)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書です。・・・ちなみに、これは朝鮮半島に現存する最古の歴史書とされており・・・西暦1143年に執筆が開始され・・・西暦1145年に完成したとされる、全50巻から成る書物です。

       ・・・さて、この『三國史記百濟本紀』によると・・・『日本書紀』で語られている、この「白村江の戦い」は、龍朔二年(西暦662年)七月のこととし、『日本書紀』と比較すると(※『三國史記新羅本紀』も同様)・・・約1年程前の出来事とされております。・・・これら時期の差異については、『三國史記』編纂者の金富軾らも・・・当時、諸説あったものを、どう組み込むのか?・・・と、かなり悩んだようでして・・・対比して視ると、苦しい割り振りとなっているのです・・・が、『三國史記百濟本紀』では・・・唐王朝は、熊津方面から孫仁師や、劉仁願、新羅・文武王に、その陸軍を率いさせるとともに・・・劉仁軌や、杜爽、扶余隆に、その水軍と兵糧船を率いさせて・・・“熊津から白江に向わせて、水陸双方から周留で合流させた”・・・としています。・・・そして、白村江で、倭軍(=倭国〈ヤマト王権〉軍)と遭遇し、計4回戦っては・・・“唐王朝側が、その4回全てにおいて優勢であって、舟400艘を焚(や:=焼)き、その時の炎は天に届いて海を朱に染めた程”・・・としています。
       ・・・いずれにしても、“扶余隆は、扶余豊(※百濟・豊璋王のこと)の兄”です。“この白村江の戦い以前に、唐王朝に降伏し、その臣下となっていた”のです。・・・“結果として、この兄の隆による謀略に弟の豊が踊らされていた”のかも知れません。・・・そして、“唐王朝が、州柔の峻険な加林城に対する攻撃を回避したのは、劉仁軌の智略によるところが大きかった”と考えられ・・・また、“水軍に扶余隆を加えたのは、この河口の水流や潮流、水深、中洲(≒島)などを熟知した旧百濟水軍の実力を利用した”と考えられます。・・・尚、『三國史記百濟本紀』では、“倭軍(=倭国〈ヤマト王権〉軍)と、たまたま偶然に遭遇したか? の如くに記述されております”が・・・“倭軍(=倭国〈ヤマト王権〉軍)の軍勢についてを、舟400艘”としているのです。
       ・・・“前述したように、一方の『日本書紀』では、船数等について”は記述しておりません・・・が、“この西暦663年8月27日以前の記述内容”によれば・・・“豊璋らの警護や軍需物資輸送のためとして、5,000人の軍士と船170艘を動員しています”し・・・・・・“同年3月には、新羅を打つためとして、既に朝鮮半島に派遣されていた前将軍・上毛野君稚子らの27,000人の軍勢を派遣した”としてもおります。・・・数字そのものの信憑性については、ともかくとして・・・いずれにしても、倭国(ヤマト王権)が派遣軍の全てを養ないながら、現実として戦闘に及ぶためには・・・“船170艘に対して、約5倍の数が必要”と考えられますので・・・『三國史記百濟本紀』で云うところの、“倭国(ヤマト王権)の派遣船団が、戦闘用の船として400艘”というのは・・・“それほど的外れな数字ではなかった”とも推測出来ます。

       ・・・この頃の唐王朝側からすると・・・“おそらくは、倭軍(=倭国〈ヤマト王権〉軍)が大船団で以って、旧百濟地方に追加派遣されて来ることは、既に察知出来ていて、劉仁軌や、杜爽、扶余隆らは、これらに対応する作戦を練っていた”のでしょう。・・・“実際に戦場となった白村江は、その河口付近では川幅が1㎞を超えてはいるものの、少し中に入れば中州が出現して、その川幅も狭くなっていた”と考えられます。・・・当然の如く・・・“ここに誘き寄せられる”と・・・“大船団は、山と山の谷間に、大軍を誘い込まれるが如くに、たちまち身動きが鈍くなって、そこを火計などを駆使されて、強襲されると、ひとたまりも無くなります”ので。・・・しかも、当時の倭国(ヤマト王権)としては、“戦闘用の船にもなる”とは云え・・・基本的には、朝鮮半島へ渡海し、自軍勢力の陸戦部隊を上陸させるための船だった筈であり・・・そもそもとして、水上戦闘を目的とした船とは、構造的にも、かなりの違いがあったのではないか? と考えられるのです。・・・
       ・・・「廬原君臣」とは、“廬原國造(いおはらのくにのみやつこ)の子孫とされる地方豪族であり、現在の静岡県清水市を、その本拠地”としておりまして・・・“故斉明天皇の命令により、駿河國と安芸國において、大型船を建造していたとされる人物”です。・・・また・・・「前・中・後」の、それぞれの倭国〈ヤマト王権〉軍の派遣将軍の中では・・・“倍引田臣比邏夫は、船戦(ふないくさ)、つまりは水上戦闘の経験があった”とは考えられます・・・が、“他の将軍について”は・・・残念ながら、“陸戦経験のみの将軍が、ほとんどだった”と考えられます。・・・それ故に、“廬原君臣が、船戦の指揮官とされた”のでしょう。・・・もしも、“瀬戸内海辺りの水軍を指揮した経験のある将軍が、数多く派遣されていた”ならば・・・“白村江付近の潮流や、島と岸の間の水流、水深、島影を利用した敵方の伏船などの状況の情報を集めずしては、不用意には自軍の大船団を動かすことは無かったのではないか?”・・・と想像出来ます。
       ・・・しかしながら、そもそもの話として・・・“廬原君臣が暮らした駿河湾では、そのような戦術自体が、歴史的にも必要とされていなかった”のです。“駿河湾がある太平洋沿岸部では、主に漁労や交易、物資輸送などの目的で船を利用しておりました”し・・・“せいぜい、蝦夷の人々を恭順させるために船を利用していた訳です”から。・・・いずれにしても、“当時の倭軍(=倭国〈ヤマト王権〉軍)としては、日本列島と旧百濟の兵站距離が海を介していて長かったために、何とかして水上戦闘については回避し、陸上戦闘においても、新羅軍との長期戦も可能な限り避けて、出来れば講和交渉に持ち込みたいという事情があった”とは、考えられます。・・・
      ※ 同年8月28日:“百濟王(豊璋)と與(くみ)した日本(やまとの)諸将は、氣象を観ずして、而(しか)も相謂い”て、曰く・・・「我らが先ず彼と争えば、自づから退くに應える」・・・と。更に「日本(やまと)」が、“伍(ご:=隊伍)を乱していた中軍の卒を率いては、大唐堅陣の軍へ打ち進む”・・・と「大唐」は、“便(すなわ)ち、自ら(※大唐軍のこと)の左右で、(日本の)船を夾(はさ)み、戦(いくさ)を繞(まと)う”と。・・・“須臾(しゅゆ)の際(きわ)に、官軍(※日本軍のこと)は、敗れ績(つむ)ぎて、水に赴(おもむ)き、溺れ死ぬ者が衆となりて(=溺れ死ぬ者が大勢続出し)、艫舳は旋(めぐ)らし廻すことを得ず”と。・・・「朴市田来津」は、“天を仰ぎ誓いて、齒(=歯)を切り、嗔(いか:=怒)りて、數十人を殺す”・・・も、焉(いずく)に於いて戦い死す。・・・是の時、「百濟王・豊璋」は、“數人と與(くみ)し船に乗りて、高(句)麗へと逃げ去る”と。・・・この『日本書紀』では・・・“たった一日で、いわゆる白村江の戦いが、決してしまったこと”を物語っています。
       ・・・倭軍(=倭国〈ヤマト王権〉軍)の派遣船団の先鋒部隊と、新羅や靺鞨を含む大唐軍との水上戦闘が、約一日間行なわれた訳です。・・・“この時、唐王朝と新羅の陸軍は、周留城を包囲し、倭軍(=倭国〈ヤマト王権〉軍)の派遣船団の上陸を阻止するため、白村江の両岸地域を防衛していた”ため・・・“一方の倭国(ヤマト王権)派遣軍としては、初戦の船戦さにおいて、第一に大唐軍船を叩いておかないと、上陸不可能と云う状況に立たされていた”のです。・・・この初戦では、陣形が整った大唐側が常に優勢であって、倭国(ヤマト王権)派遣軍側は一時撤退を余儀なくされることになりましたが・・・この初戦があったために、倭国(ヤマト王権)派遣軍側としても、この海域の総船数では、自軍が圧倒的優位にあることも理解していた筈なのですが。・・・そして、この『日本書紀』では、この日の攻撃についてを・・・「百濟王と與した日本諸将は、氣象を観ずして・・・」・・・と記述しています。
       ・・・“氣象の氣”とは、風や水の動きのこと。「象」とは、地形のことです。・・・後世の『日本書紀』の編纂者達は、“それらさえも、廬原君臣や豊璋らが考慮していなかった”としているのです。更には、“この白村江についてを熟知した敵の戦術に対する作戦などの考慮もなされなかった”と。・・・廬原君臣や豊璋らについては・・・「相謂いて曰く、我らが先ず彼と争えば、自づから退くに應える」・・・という認識であり、つまりは・・・“大船団によって一挙に攻め掛ければ、敵は恐れをなして逃げる筈である”と判断していたと。・・・その結果として・・・“一方的に不利な戦況の最中にあった朴市田来津は、自らの死を覚悟した”のかも知れません。・・・その後、倭国(ヤマト王権)派遣船団の先鋒部隊は、陣形を整えつつ大唐軍へと立ち向かいましたが・・・やがて、その陣形も乱れ始めることとなり・・・“中軍については、不充分な状態であっても、尚も守りを堅くする大唐軍に打ち進んだのだ”と。・・・そこで・・・“大唐軍は、倭国(ヤマト王権)派遣船団の先鋒部隊を、中洲のある狭隘部に誘い込み、戦闘を開始した”のでしょう。
       ・・・すると、“倭国(ヤマト王権)派遣船団の、中軍及び後軍の船団は、前軍たる先鋒部隊が動けない状態となっていたため、陣形を乱しながらも、我先にと突撃するように”なってしまいます。・・・これに対する大唐軍は、自らの船団を左右に展開させ・・・「艫舳は旋らし廻すことを得ず」・・・という状態となり、倭国(ヤマト王権)派遣軍の船団全体が、方向転換さえも出来ない程に、“云わば団子状態に陥っていた”のでした。・・・そして、操船しながら弓矢などで迎撃することすら叶わず、自船の左右から挟撃されてしまうこととなり・・・更に、『三國史記百濟本紀』によれば・・・火まで放たれてしまいます。・・・ここにある「須臾(しゅゆ)」とは、一種の比喩的な表現でして、「しばし」とか「一瞬」の両方の意として用いられ、「しばらく」と訓まれることもありますので・・・“その須臾の際に、この戦さの大勢が決して、朴市田来津は豊璋らを逃がすために奮戦の上、戦死する”こととなり・・・云わば、“朴市田来津の命と引き換えに、豊璋らが高句麗に逃れることが出来た”・・・と、『日本書紀』は記述しているのです。
       ・・・しかしながら、この『日本書紀』の編纂者達は、故斉明天皇や中大兄皇子(※後の天智天皇)の政権に対して、そもそも批判的であって、当時の不適切な事柄を強調し過ぎる嫌いがあるので・・・結局は、そこを割り引いて読まねばならないのかも知れませんが。・・・それにしても・・・“倭国(ヤマト王権)軍のなかでも、周留に戻ることによって、河口付近から避城に掛けては、その形勢を回復させていた筈の約5,000人規模から成る百濟王・豊璋の護衛部隊”や・・・“新羅の沙鼻と岐奴江の二城を落としたという上毛野君稚子らの軍勢など”は・・・この白村江の戦いに至る前後の時期には、いったい、どこで何をしていたのでしょうか?・・・このような疑問のほかにも、“他方面からの倭国(ヤマト王権)派遣軍の陸上兵力が駆け付けていた”という可能性や、“高句麗が大唐軍の背後を脅かしていた”という可能性なども考えられますが。・・・本当に・・・州柔・周留城は、大唐軍によって、既に包囲されていたのでしょうか?
       ・・・そして、熊津方面から南下する大唐軍の陸上兵力については、加林城を放置することは出来ますが・・・石城が南進途上の障害となるため、百濟の糺解なる人物は、この時、どうしていたのでしょうか?・・・“犬上君(※名を洩らせり)に(鬼室)福信の謀反を吹き込んだのは、扶余隆との連携による結果であって、この時既に糺解が唐王朝に降伏していた”という可能性もありますね。・・・“熊津から南下して来たという大唐軍170艘とは、既に錦江に入っていた船の筈”です。・・・『三國史記百濟本紀』によれば、“他方面に40万人をも動員した”という大唐軍の船数は、“2万7千人を動員した”という倭軍(=倭国〈ヤマト王権〉軍)の約15倍の規模となります。・・・“それが、この白村江の戦いに動員されていないとは、どうしても考え難い”のです。・・・170艘の兵員とは・・・一艘当たりを、少なく見積もっても100人位なので、合計1万7千人となります。・・・残りの38万人強の大唐軍は、熊津を越えて、白村江まで陸上を行軍して来たのでしょうか?
       ・・・もしかすると、大唐軍は相当規模の船団を用いて、倭国(ヤマト王権)派遣船団全体を、白村江付近に封じ込めた後に・・・云わば、陸上でも背後を突く格好で、挟撃していたのではないか? とも読めるのです。・・・尚、“この白村江の戦いに参戦した九州の地方豪族・筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)が、大唐軍によって捕らえられ、その後約8年間を、捕虜として唐に抑留させられ、その後帰国を許された”との記録もあります・・・が、倭国(ヤマト王権)が派遣した第一軍指揮官とされた安曇比羅夫も、この戦いにおいて戦死しています。・・・

      ※ 同年9月7日:「百濟」の“州柔の城”が、「唐」に降り始める。是の時、「國人」が相謂いて、曰く・・・「州柔は降った。事奈何と无(な)し。百濟の名は、今日絶え、丘墓の所は、豈(あに:=どうして)往き復すを能(あた)うや。但し、弖禮(てれい)城に往きて、日本(やまと)軍将らに会い、事が機する要所を相謀るのみ」・・・と。・・・遂には、「枕服岐(しんふくき)城」にて、“本(もと)より在(あ)る妻子らに教え、去國の心を知らしめる”と、「令」す。・・・州柔の城、特に周留城には、既に王の姿は無く・・・倭国(ヤマト王権)軍の派遣船団は、同年8月28日の「白村江の戦い」で壊滅的な打撃を被り・・・百濟・州柔の城が降伏し始めることとなって・・・次第に唐王朝軍の支配下に置かれてゆきました。・・・“國人は、百濟の名が絶え、唐王朝の支配下で生きることを望まないものは、もはや先祖からの墓所を維持することは不可能であると、一旦は倭国(ヤマト王権)に亡命し、事が機するのを待つほかにない”としたのです。
      ・・・尚、“この9月7日の時点では、弖禮城の倭国(ヤマト王権)軍は、未だ大唐軍による攻撃や降伏勧告を受けていなかったこと”が分かります。・・・「弖禮城」については、冬老県(=現在の大韓民国全羅南道宝城郡鳥城)に当てるという説もありますが、これも定かではなく未詳とされております。しかし、その城郭については、私(筆者)は・・・弓を用いる儀礼場として主に使用された城だったか? 或いは、弓による戦闘を強く意識して築造された城だったか? と想像しております。「弖+禮(=礼)」という文字を、わざわざ当てておりますので。・・・いずれにしても、“兵站中継基地の役割を担っていた、旧百濟地方内の城の一つ”と考えられます。
      ・・・また、ここにある「枕服岐城」も未詳とされておりまして・・・こちらについても、現在の大韓民国全羅南道長城郡森渓を当てる説がありますが、内陸部と云うよりは・・・むしろ、山間部と云える地域ですので、当時の状況を考えれば、一応の安全性が保たれていたことは想像出来ますし、文字通りに“枕に衣服を被せたか? のような山城だった”と推察しておりますが、“古代港などがあった沿岸部からは距離的にも、多少なりとも隔たりがあって、容易く行動出来るような場所ではなかった”とも考えられます。
      ※ 同年9月11日:「牟弖(むて)」に於いて、「途(みち)」を、発つ。・・・この文章における主語は、“同年9月7日の条にある國人の全て”となります。つまりは、“國を失なうことになった旧百濟人と、その妻子達、これらに加え、それまで州柔の城をそれぞれ防衛していた将や兵士達であり、当時の唐王朝に対して、降伏することを拒絶するという決断をした人々”です。・・・後世の『日本書紀』の編纂者達が、“旧百濟から渡来した人々を、自らの國人、つまりは後の大和朝廷による日本国に属して帰化した人々だったと認識していること”も、ハッキリと分かります。・・・文中の「牟弖」とは、弥弖(現在の大韓民国慶尚南道南海郡弥助)ではないか? とされています。そこの営山江流域や、蟾津江流域は・・・“従来から倭国(ヤマト王権)の影響力が強かった地域であり、この時の牟弖が重要な出港地とされて、ここから対馬に向けて、朝鮮半島から脱出するための帰還船を出港させた”と考えられています。
      ※ 同年9月13日:「弖禮」に至る。・・・この文章における主語も、基本的に同年9月11日の条と同じです・・・が、より正確に云えば、“倭国(ヤマト王権)軍の敗残兵達も、ここに合流していた”と考えられます。
      ※ 同年9月24日:“日本(やまと)の船師”が、「佐平・余自信(よじしん)」や、「達率・木素貴子(もくそくいし)」、「谷那晉首(こくなしんす)」、「憶禮福留(おくらいふくる)」を、及(きゅう:≒糾合)する。・・・(これに)あわせて、「弖禮城」には、“國の民ら”が至り・・・“明くる日には、日本(やまと)に向かいて、船が発ち始めん”とす。・・・ここまでの条が、「白村江の戦い」のことを、『日本書紀』が直接的に語っている部分です。・・・結果として、この『日本書紀』は・・・日本(やまと)≒大和朝廷が成立する以前の倭国(ヤマト王権)・・・が、“朝鮮半島において大敗北を喫したことや、その後の唐王朝と日本(やまと)≒大和朝廷との外交関係の修復があって、歴史上における一応の決着を観た”とし・・・新生日本(やまと)≒大和朝廷のスタート を強調しているのかも知れません。・・・



       ・・・そもそも、白村江の戦いにおける大敗北と百濟滅亡には、百濟王家の内紛が複雑に絡んでおりまして・・・かつての百濟王だった義慈の即位時まで遡ることが出来ます。

       西暦627年には、百濟王・武の時代に・・・唐王朝の皇帝・太宗が、百濟と新羅、高句麗の間(※すなわち三韓間)における争いの調停を行なった際・・・百濟の武王は、甥である(鬼室)福信を使者に立てていました。それ故、(鬼室)福信は、唐王朝や高句麗、新羅などの情勢について明るくなっており、武王が慎重に唐王朝と関係改善を図ることで、新羅に対して外交的に牽制し得ることを経験的に知っていたのです。・・・『三國史記百濟本紀』によれば、百濟王・義慈は、武王の嫡男であり、西暦631年には太子として、「海東の曾子(そうし:※孔子の弟子で孝に厚い人のこと)」とも称されていました。・・・「義慈」という当て字からも分かり易いかと思います。

       同西暦631年3月1日の時点の『日本書紀』では・・・「倭国(ヤマト王権)に対して、百濟・義慈王が、王子・豊璋を、人質として送る」・・・としており、「義慈」が、“既に百濟王だった”としているのです。

       西暦650年には・・・“倭国(ヤマト王権)による朝庭隊仗の際に、王子・豊璋のほかにも、其の弟の塞城や、忠勝らが参列していた”ともしています。

       ・・・しかし、『三國史記百濟本紀』によると・・・“百濟において武王が亡くなるのが、西暦641年のこと”とされ・・・武王逝去によって、義慈が王に即位することとなり・・・“西暦644年には、この義慈王が息子の隆を太子に指名した”とされます。

       そして、『日本書紀』西暦642年2月2日の条では・・・「今年の正月、國主の母が薨(みまか)る。又(また)弟王子の兒(こ:=児)・翹岐及び其の母妹女子4人、内佐平・岐味(きみ)、高き名が有る人40余りが、嶋(しま:=島)に放たれた」・・・と記述しています。・・・要するに、この頃は・・・親孝行で評判の高かった義慈王は、父の武王とは異なる道を歩み始めていた訳です。・・・やがて、この義慈王が、自国と唐王朝との外交関係を悪化させることを顧(かえり)みず、新羅攻撃を行ない始めます・・・が、これによって・・・当時の倭国(ヤマト王権)が、島流しとされていた百濟王族・翹岐を厚遇したり、倭国(ヤマト王権)が進めていた遣唐使派遣など唐王朝との交流に関して、新羅の影響力が相当程度あったために、高向玄理が新羅からの人質・金春秋(※後の武烈王)との関係を良好に保っていた・・・などという情勢となって、“倭国(ヤマト王権)と百濟との関係自体が、かなりギクシャクする状態だった”と考えられます。
       ・・・百濟王・義慈は、周囲の諌言などに対しても、耳を傾けることが少なくなり、次第に孤立してゆき・・・百濟王・義慈は、更に唐王朝との関係を悪化させてしまうことになって・・・結果としては、“唐王朝と新羅との結束を強めてしまうこととなった”のです。・・・やがて、唐王朝が、“高句麗侵攻以前に、百濟についてを優先して、その支配下に置く”という方針に変更します。・・・しかし・・・唐王朝及び新羅連合軍による侵攻作戦に備えるべき事態に対して、百濟王・義慈は、自らが決断することが出来ずに、唐軍と新羅軍による蹂躙(じゅうりん)を許すことになります。・・・義慈が王に即位した当時に発揮出来た、或る種の指導力は、どこに消えてしまったのか?・・・もしかすると・・・義慈が百濟王に即位する、ずっと以前から・・・敵方による・・・父の武王が亡くなり次第に発動する、大謀略(≒埋伏の計?:まいふくのけい?)に掛かってしまっていたのかも知れません・・・が、いずれにしても、分裂していた取り巻きの人々に引き摺られる格好となり・・・“義慈が王とされていた百濟は、西暦660年に、唐王朝へ降伏することになった”のです。
       ・・・この降伏時までの百濟の太子は、「孝(こう)」とされ、義慈王と太子・孝がともに、王都・泗ビを逃れてしまうと、義慈王の子であり孝の弟であった「泰(たい)」が、「百濟王」を自称します。・・・太子・孝の子だった「文思(ぶんし)」は、この時、叔父の「隆(※扶余隆のこと)」に相談します。・・・しかし、唐軍が仮に百濟を去ったとしても、百濟王を自称する叔父の泰に害されるのではないか?・・・と恐れ、“隆と文思の二人”が、ともに唐王朝へ投降。・・・すると、これを見ていたという、百濟王を自称していた泰も、遂には諦めて・・・泗ビ城を開城して、唐王朝へ投降することとなり・・・“その頃、北方へ逃げ生き延びていた父の義慈も、諸城とともに、唐王朝へ降伏した”のです。・・・結局のところ、刻一刻と状況が変化する戦乱期において、百濟王や百濟太子の椅子を巡って、孝や泰、隆の兄弟間と、それらの近臣同士間における内紛などを制御することが叶わず・・・“一旦、百濟王家は終焉した”のです。

       ちなみに、『三國史記百濟本紀』によれば・・・(扶余)隆は、白村江の戦い以後の一時期、唐王朝により熊津都督に任じられましたが・・・その後には、唐の長安に行くこととなり・・・そこで、改めて熊津都督の帯方郡王に任じられるのですが・・・旧地における民からの反発や抵抗、恨みの類いを恐れて、高句麗へ仮住まいしてしまいます・・・が、結局は、そこで没します。・・・それにしても・・・当時、徹底抗戦を続けていた高句麗と百濟を比較しては、何なのですが、意外な程粘りが無かったと云うか?・・・“あっけなく終わってしまった感じ”を受けます。

       ・・・唐王朝や、新羅の側からすれば・・・立て続けに起こる百濟の大干ばつや飢饉・・・そして、これら自然現象が影響する社会不安、つまりは民を安んじられなかった百濟王家に対する不満などを上手く利用する格好で以って、“当時の朝鮮半島全域を着火させた”ということなのでしょうが。・・・それにしても・・・“幾つかの謀略が、効き過ぎる程効いている感じ”が致します。・・・これは、やはり・・・“当時の朝鮮半島においても、古代国家の成り立ちが、未だ発展途上だったことを示しているのだろう”と想います。・・・そして、“先進的な巨大帝国・唐王朝と、不運にも陸続きであり、海からもチョッカイを出すことが可能な距離に在ったという側面もあっただろう”とも想います。

       ・・・もっと云うと、当時の倭国(ヤマト王権)でさえ・・・大化の改新以後における天皇を中心とする朝廷組織の成立までには、まだまだ発展途上という、云わば・・・脱皮している期間でしたので・・・この時期については、後世の鎌倉時代における元寇以上の、“国家及び民族としての存亡の危機にあった”とも云えるのですが。・・・もし仮に・・・この後の新生日本(やまと)≒大和朝廷 と唐王朝とが、外交的な関係修復が出来ずに、この頃の唐王朝によって長期間に亘ると考えられる日本(やまと)占領戦が、本気で行なわれたとしたら?・・・当然に、飛鳥という時代は寸断され・・・もしかすると、分断国家の格好とされて、独自の言語や文化、思想などを持たない、東アジアの突端で沈んでいるような、何の変哲もない一地方国家になっていたかも知れません。・・・ゾッとしますね。

       ・・・しかしながら、幸いにもと云うべきか?・・・唐王朝が狙い定めた次の目標は、倭国(ヤマト王権)ではなく、あくまでも唐から観て北東方向にあり、且つ陸続きだった高句麗なのでした。そして、この高句麗が、粘り強く、一筋縄では降伏しないような民族国家だった訳です。・・・唐王朝からすれば、このことが先の隋王朝時代から、ずっと目障りな存在だったとも云えるのですが。

       当時の倭国(ヤマト王権)からすれば・・・この頃の高句麗とは、交流を頻繁に行ない、各種情報においても共有出来る部分は共有し、東アジアの巨大帝国・唐王朝に対しては、交互、或いは同時に牽制する役目をも担い合う、今に云う同盟関係に近い存在として、互いの政権中枢にあった権力者達が認識していた筈なのです。・・・そして、この頃までは、唐王朝に対しては、或る種の牽制機能が有効に働いていましたが・・・後の西暦668年には、唐王朝が第3次高句麗出兵を実行し・・・高句麗が押し切られる格好で滅んでしまうこととなります。・・・そうなると、当時の新生日本(やまと)≒大和朝廷としても、“自国のみでは、必然的に採れる選択肢も唯一つとなって、もはや生き残りの道を模索するほか無し”という状況となり・・・やがては、“日本古代史上最大”とも云われる「壬申の乱(じんしんのらん)」へ繋がってゆくこととなります。・・・

       ・・・しかし、ここでは、再び話を、朝鮮半島情勢に戻します。・・・(扶余)隆は、唐王朝の庇護のもと、生き残りを図り、他の百濟王族達も唐王朝の捕虜となって・・・結局のところ、故武王の系統とされる(鬼室)福信が中心となり、旧百濟で徹底抗戦し続けることになっていた訳です。・・・そして、この百濟復興戦の序盤戦においては・・・『三國史記百濟本紀』によると・・・(鬼室)福信らに呼応する格好で、黒歯常之(こくしじょうし)が唐から二百余城を奪還し・・・“唐の大将軍・蘇定方も黒歯常之率いる精鋭部隊には、克(か:=勝)つことが出来なかった”としています。・・・このような状況にあって、しかも義慈王には子が数多く居たにもかかわらず(・・・※王子6人、庶子41人・・・)・・・“あくまでも徹底抗戦し続けよう!!!”・・・と、主張する者が現れませんでした。・・・すると、倭国(ヤマト王権)から百濟へ帰国した豊璋王も、“唐王朝の庇護下にあった(扶余)隆を通じた取り崩し工作に遭う”こととなり・・・次第に疑心暗鬼になってゆきます。
       ・・・結局は・・・“豊璋は、この白村江の戦いでは、高句麗へと逃亡しました”・・・が、『三國史記新羅本紀』によると・・・豊璋の弟である忠勝と、そのまた弟の忠志(ちゅうし)らも、唐王朝に降伏してしまいます。・・・しかし、“遲受信(ちじゅしん)という人物だけ、任存城に拠って、降伏せずに徹底抗戦していた”とも云います。“百濟遺臣や残党によるゲリラ戦は、(鬼室)福信らが中心となって、故武王系統の軍将や、その近臣らが、高句麗や倭国(ヤマト王権)と連携しながら実行されていた”のです。・・・これらの百濟復興戦は、当時の高句麗としても・・・百濟を先に制圧されてしまうと、西と南からの自国が挟み撃ちされるため、“唐が西から攻め入った後に、王都・平壌から撤退する”・・・と、“これに連動する格好で、南方にある新羅の背後を突くという手筈になっていた”のです。ですから、“高句麗としては、当時の倭国(ヤマト王権)に対しても、当然に新羅への軍事的圧力を強めることを要求していた筈”なのです。
       ・・・『日本書紀』の記述を素直に読むと・・・当時の倭国(ヤマト王権)が、豊璋を百濟の新王とし、この豊璋を介在させることで、百濟復興という大義名分と、神託や戦さ支度などに対して万全の準備を整えた後に、或る種の主導権を持ちながら、この戦いに臨んでいたか? のようにも読めます・・・が、“ここにまず、大誤算があった”のでした。・・・“豊璋が約30年間も平和的に暮らしていた倭国(ヤマト王権)とは、大きく事情が異なる祖国の地においては、ゲリラ戦に明け暮れる百濟遺臣や残党達から、泪を流される程に乞われて、新王に即位した”ともなれば・・・「変わるな!ぶれるな!!」・・・と、言うほうが、むしろ難しいのかも知れません・・・が、“豊璋の考え方や態度が一変する程に、敵方による謀略に引っ掛かってしまった模様”なのです。
       ・・・現地へ派遣されていた倭国(ヤマト王権)の軍将達にしてみれば、新百濟王の発する方針に対しては・・・それが仮に、“暗君によるものだった”としても、従わざるを得ません。それに・・・そもそも、倭国(ヤマト王権)の軍将達としては、豊璋の身柄を第一優先に保護せねばならず・・・結果としても、“この戦さの要だった(鬼室)福信に対して、謀反心の罪有り”と追認してしまいました。・・・『三國史記百濟本紀』によれば・・・47人も居た義慈王の子らや、近臣達のなかには・・・“(鬼室)福信ほど、個人の戦闘能力や、連携能力、統率力、外交力など、当時必要とされていた各種能力に秀でていた軍将は、ほとんどいなかった”と考えられます。・・・皮肉なことに、豊璋王や、新王を取り巻く王族達や近臣達にとっては・・・“故武王の血を引く(鬼室)福信の系譜や、現地で発揮されていたカリスマ性に対する、或る種のコンプレックスなどを、敵方に上手く利用された格好となった”のでしょう。
       ・・・本来ならば、百濟・豊璋王が、百濟と倭国(ヤマト王権)、高句麗を、互いに強く結び付ける要となり・・・新羅に対しては、北から高句麗と靺鞨が攻め入り・・・南からは、倭国(ヤマト王権)が軍事的圧力を強め続けて、旧王都だった泗ビに駐屯する唐王朝軍と新羅軍とを分断し、且つ倭国(ヤマト王権)軍派遣船団が、周留城を中心に白村江付近においては、唐王朝の補給を粘り強く脅かし続け・・・(鬼室)福信や黒歯常之らが、任存から熊津に向かう唐の援軍を、山間部において撹乱及び妨害工作をしていたならば・・・この戦いの趨勢は、大きく変わっていたのかも知れません。・・・“(鬼室)福信という要を失なっても、復興戦が継続可能であり、結果としても勝利へ導けると判断し、(鬼室)福信を斬り死にさせたことは、取り返しのつかない大失策だった”と云えます。

       ・・・それでも、“現地へ派遣されていた倭国(ヤマト王権)の軍将達が目撃した”であろう・・・百濟王・豊璋によって(鬼室)福信が斬られた場面を想像するに・・・些細なことかも知れませんが、“彼らを、少しばかり擁護すること”も出来ます。・・・それは、百濟の各地において、それぞれの唐王朝・新羅連合軍への反攻作戦やゲリラ戦が、進行している過程上の話となりますが・・・数の論理でも、圧倒的に多勢に無勢といった状況にあった唐王朝・新羅連合軍を、相手としなければならないという、作戦そのものが・・・必然的に詳細分野に亘ることとなり、且つ幾つもの作戦計画が同時に立てられて、それぞれが連動する作戦だった筈なのです。また、刻一刻と戦況そのものが変化するため、軍議そのものも、目まぐるしい程、早いテンポで行なわれていたのでしょう。
       ・・・そんな中にあっても、百濟人達と倭国(ヤマト王権)人達の間で、筆談している余裕があったとは考え難いのです。当然に・・・敵方は、味方の鋭気を養なえる程の時間的余裕などを与えてくれたりはしませんし・・・そもそも、圧倒的な兵力を維持する軍隊・・・もしかすると、当時の倭国(ヤマト王権)人が、それまで見たこともないような圧倒的な数の最新兵器などを携えながら、味方部隊を待ち構えていたり、砦などの防衛拠点を押し潰さんとしていた訳です。・・・更には、味方部隊からの離脱者数を最小限度とし、敵以上の調略を駆使して、反対に敵方からの離脱兵と兵器、糧食などの軍需物資を現地調達し、そして敵方には・・・『・・・いつまで経っても降伏しない・・・シブトイ相手だ。いつまで掛かるのか? 下手すると、我が身も危うい・・・寝返ったほうが良いか?』・・・と感じさせねばならないのです。・・・大局からすれば、数において圧倒的に優る相手に対しては、出来得る限り、こういった状況を保ちつつ、一挙に反攻作戦を仕掛けられるような時まで、緻密且つ粘り強い作戦行動が求められていた訳です。
       ・・・味方の軍勢がドミノ倒しのように大きく崩れてしまっては、決してお話になりません。・・・このような状況下の軍議では、いわゆる通訳者の出番は、ほとんど無く・・・せいぜいあっても、ジェスチャーの類いや、地図や木板上におけるコマや棒などを用いた互いの意思確認にて、進められていたでしょうから。“話し言葉や口伝に限ったとしても、古代の百濟地方の言語と倭国(ヤマト王権)人達が話す言語では、いわゆる御國言葉(≒方言)が強く出てしまい、その大半が即座には理解出来なかった”とも想像出来ます。それでも、倭国(ヤマト王権)に既に渡来していた人々とともに朝鮮半島から渡って来た舶来物の物品や植物など、それぞれに対する固有名詞等については、発音が近い単語があって、共通語的に利用されていたかも知れませんが。
       ・・・現実としては・・・(鬼室)福信が、豊璋王の面前に連行され、床に押さえ付けられていた場面にあって・・・“連行された(鬼室)福信の頭部ないし、顔を袋か何かで被らされていた”としたならば・・・“倭国(ヤマト王権)の軍将達にとっては、そこに打ち据えられている人物を、(鬼室)福信と認識出来る判断材料そのものが極めて少なかった”とも云えるのです。・・・もしも、“この豊璋王による斬殺事件の現場に居合わせて、その人の直感を以って、刀を手にする豊璋王を制止し得る倭国(ヤマト王権)の人物が居た”とするならば・・・これは、『日本書紀』の記述を、“そのまま信じるとすると”という条件付きになりますが・・・“犬上君(いぬかみのきみ:※名を洩らせり)だった”のでしょうか?
       ・・・「犬上君(※名を洩らせり)が、兵事を、高麗に馳せ告げ還り、石城に於いて、糺解を見る。糺解は、仍(しきり)に(鬼室)福信の罪を語る。」・・・と、斬殺事件以前に、(鬼室)福信に関する不穏な情報に接していたことになっていましたから・・・。・・・もし、仮に・・・これを、そのまま信じるとするという条件を外して考えてみると・・・そもそも、『日本書紀』の、この部分では、何故に(※名を洩らせり)と、個人名を敢えて隠しているかのように、読めてしまうのか?・・・後世の『日本書紀』の編纂時点(※〈鬼室〉福信斬殺事件から約57年後)においてまで、犬上君・某(なにがし)の家系そのものに、不名誉が降り懸からないよう配慮する必要性があったのか?
       ・・・それはそうと、百濟復興戦や新羅討伐戦の全体を通じて、批判的なトーンで記述している『日本書紀』の編纂者達が、何故この白村江の戦いの大敗北に繋がる重大事件についてを記述する段階において、犬上氏という姓(かばね)については、ハッキリと表記しているにもかかわらず、わざわざ個人名だけを隠す”のか?・・・むしろ個人名を表記し、姓を隠したほうが良かったのではないか? などなど・・・正直なところ・・・素直に読めば、単純に理解して、読み進められるのですが・・・何となく引っ掛かるので、少し掘り下げてみたいと思います。・・・


       ・・・さて、皆さんは、「犬上」という文字と、「いぬかみ」という発音から、どんなイメージを持たれるでしょうか?・・・私(筆者)は、どうしても・・・「犬上」 ⇒ 「犬神」 ⇒ 「狗神」・・・と、連想してしまいます。・・・そして、『日本書紀』斉明天皇紀・西暦659年内の条における日本書紀的とも云える表現方法を、同時に想い出してしまいました。・・・それを想起させる文章とは・・・

       ※西暦659年内:(斉明天皇が)「出雲國造(※名を洩らせり)に命じて、神の宮を厳かに修繕する。狐が、於友郡の役丁が手に執っていた葛の末を、噛み断ちて、去っていったと。・・・または、狗が、死人の手臂を、言屋社に噛み置いて行ったとも。【※(注釈)天子が崩御する兆なり。※】・・・また、高句麗の使人が、羆皮1枚を持って、其の價を、綿60斤と稱ていたが、市司は咲(わら)って去って云ったとか。・・・高麗畫師子麻呂がは、同姓の賓(客)を、私家に(招く)日を設けると、官の羆皮70枚を借りて、賓席のために使用したと。(その時の)客らは羞じるとともに、どうして、かくも見事に、用意されているか? と、怪しんで退席したと。」・・・というもの。

       ・・・如何でしょうか?・・・犬上君(※名を洩らせり)から始まる条と、出雲國造(※名を洩らせり)から始まる条・・・(※名を洩らせり)という部分からして、酷似しております。・・・更には、犬上君(※名を洩らせり)から始まる文章では・・・“犬上君に対して、石城に居た糺解が、(鬼室)福信の斬殺事件に繋がる重大情報、すなわち(鬼室)福信の罪を仍(しきり)に語った”とされています。そして、この『日本書紀』は、“この糺解による通報が、事の発端となって、この白村江の戦いの大敗北に繋がる重大事件が発生した”と、仄めかしている訳です。・・・比較している途中ですが、ここまで考えてしまうと、もう暗号コードの世界ですね。

       ・・・話を戻します。・・・そして、もう一方の出雲國造(※名を洩らせり)から始まる文章では、ここでは出雲國の三つのお社、すなわち出雲大社、熊野大社、言屋社において、それぞれに起こった現象についてを語っています。・・・ここでは、要するに・・・“出雲國造すなわち、その祭神の子孫と考えられる國造によって、修繕された出雲大社は一応無事だったが、(本来は関わるべきではなかった)役丁が携わった別のお社の修繕工事では、神の使いとされる狐や狗が現れて、不吉なことが起きてしまった”と記述しているのです。・・・これらの文章に共通する表現方法からしても、“わざわざ遠回しに匂わせておきながら、しかも根底では、同じ事であると主張しているよう”に想えます。・・・その一方で、わざわざ『日本書紀』の編纂者達が、直接的に【※(注釈)※】を挿入し、極め付けとなる・・・「天子(※この場合には斉明天皇のこと)が崩御する兆なり」・・・という記述をしているのです。・・・文章の構成と云いますか、“或るストーリーが、後に重大事件に発展してしまった”という兆しを表現しているため、これら二つの文章には、かなりの共通性があります。
       ・・・そう考えると、“わざわざ犬上君(※名を洩らせり)を登場させているよう”にも想え、これによって、妙に頷けてくるような気もします。・・・

       ・・・もしかすると、『日本書紀』の編纂者達は、“誰も疵付かない体裁(ていさい)に拘(こだわ)り、何とか苦心して表現しようとしていた”のかも知れません。・・・そのため、“読み手が、神の御業(みわざ)としか考えられないように表現した”のかと。・・・

       ・・・そこで・・・“わざわざ登場させられている犬上君(※名を洩らせり)の犬上氏についてを、少し調べてみた”のですが・・・
       ・・・「犬上氏」とは、『古事記』にも登場する“重要な氏族”でした。・・・そもそもとしては、『古事記』が語っている古~い時代・・・おそらくは、古墳時代と呼ばれる頃に、日本列島に渡来した百濟系渡来人を祖とする氏族なのです。・・・『古事記』では、倭建命(やまとたけるのみこと:※仲哀〈ちゅうあい〉天皇の父であり、日本書紀では日本武尊と表記される)の子だった稲依別王(いなよりわけのみこ)が、犬上君や、武(建)部君などの諸氏族の始祖としております。・・・このことは、古代の天皇系譜と百濟系渡来人との一定の関係性を示すものです・・・が、それは、さて置きまして・・・『日本書紀』の編纂者達は、その古~い時代からの神事と関係の深い犬上君(※名を洩らせり)を、わざわざ登場させて、読み手が納得し易いようにする効果を狙っていたのかも知れません。・・・そして、百濟系倭国人の犬上君(※名を洩らせり)ならば!!! と。
       ・・・“故斉明天皇や中大兄皇子(※後の天智天皇)らによる百濟復興戦や、新羅討伐戦、現地における臨機応変的な適応能力を求められる外交政策実務者などとして、その活躍を期待されて、百濟などの朝鮮半島へ、この頃に派遣されていた”・・・としても、大きな矛盾はありません。・・・いずれにしても、“糺解から(鬼室)福信の罪についてを、仍(しきり)に語られる人物としては、犬上君(※名を洩らせり)が最適なキャストだった”と云えるのです。

       ・・・さて、この『日本書紀』では、これまでにも・・・遣唐使(≒朝貢団)として、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)や、犬上君白麻呂(いぬかみのきみしろまろ)などが登場しておりました。・・・ちなみに・・・「犬上」という地名が、旧近江國である現在の滋賀県内において・・・豊郷町(とよさとちょう)、甲良町(こうらちょう)、多賀町(たがちょう)の三つの町(ちょう)を含む犬上郡として、現在も使用されております。・・・この豊郷町には、琵琶湖の畔、いわゆる湖東地域と呼ばれる犬上郡の中央部に、「犬上(いぬがみ)神社」という古いお社が御座います。その祭神は、犬上君の始祖とされる「稲依別王(いなよりわけのみこ)」です。・・・これは、つまり・・・“古代の近江國犬上郡は、百濟や古代中国などから入植した帰化人達が、それぞれの文化や技術などを背景に持ち、水稲稲作などのために開いた土地だった”とも云える訳です。
       ・・・尚、犬上郡の地名にもなっている犬上氏は、「天之日矛(あめのひぼこ:※古代朝鮮からの渡来人、渡来神、新羅王子ともされ、『日本書紀』では天日槍とも)」とともに、百濟から渡来し、現地に土着しました。・・・やがては、相当の実力を蓄えた地方豪族となって、“古代の犬上郡の県主(あがたぬし)だった”と伝わる氏族なのです。・・・更には、この「犬上神社」には、興味深い伝説がありまして・・・『日本書紀』の編纂者達も、“この事情について”を承知していて、参考としたかも知れないな? とも想いましたので、以下でご紹介したいと思います。

       《犬上神社の伝説》・・・犬上君は、大そうな犬好きだったため、多くの猟犬を飼っていました。犬上川の上流で犬上君が休んでいると、連れていた犬が、激しく吠え掛かります。それに怒った犬上君が、その犬の首を刎ねると、その首が宙を飛び・・・松の木の上で犬上君を襲おうと狙っていた大蛇の喉(のど)を喰い千切りました。・・・犬上君は、我が身を捨てて自らの命を救った、この犬を、哀れに思い、その胴体部分を、この松の木の根元に埋めた、と。・・・この塚は、犬胴松塚として、滋賀県犬上郡多賀町にある大滝神社の脇に遺っております。そして、胴体部分とは別にして、犬上君が、持ち帰った犬の頭部を祀ったとされるのが、通称として犬頭明神とも呼ばれる犬上神社です。・・・更には、これと似通った伝説が・・・滋賀県犬上郡甲良町の大滝神社にも伝わっているとのことですが、内容が微妙に異なるそうです。・・・いずれにしても、犬上君は、文字通り、猟犬を多く飼う犬飼いの氏族だったと考えられます。・・・このことは、古代社会を考える上においては、かなりの重要テーマだと想います。
       ・・・それは、このページ以前でもふれておりますが・・・古代の日本列島人と云うか、縄文人が暮らした頃(※約1.5万年前)から、我々の祖先達は、元々群れによって狩りをする狼(オオカミ)から・・・云わば、狼社会から飛び出し、結果として人間社会の一端に属し犬へと飼い馴らされた動物達を、狩りの重要なパートナーや財産の一部と認識し、やがては神格化して・・・云わば、 神の化身 = 狗 ⇒ 大神 と観ていたからです。・・・さて、犬上神社の話に戻しまして・・・このほかにも、犬上氏が関わったという妖怪退治の話もあるようでして、こうした伝説によって犬上神社は、厄除けや山における難除けの神様として信仰されているそうです。・・・尚、この伝説に登場する木が、何故に松の木だったのか? や、犬飼いについては、別ページにて記述したいと思います。

       ・・・ここまで長くなりましたが・・・本題の『日本書紀』の記述に戻します。・・・豊璋を、百濟復興計画における大義や、その象徴として新百濟王としたことは・・・結果として、(鬼室)福信らだけでなく、当時の倭国(ヤマト王権)にとっても、大きな誤算や挫折を齎(もたら)すことになりました・・・が、倭国(ヤマト王権)にとっては、百濟におけるゲリラ戦を支援し、負けない戦さ、すなわち 長期に亘る持久戦 ⇒ 和平 に持ち込むといった視点そのものが、“当初から欠如気味だった”と考えられます。・・・それにしても、“中大兄皇子(※後の天智天皇)や、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)ら当時の倭国(ヤマト王権)の中枢にいた人達が、総勢40万とも云われる唐王朝軍などの情報を知らずに、倭国(ヤマト王権)の約2万7千+α(アルファ)の派遣軍のみで、一挙に勝てる公算を立てる程、呑気な政治家だった”と考えられるのでしょうか?・・・実のところとして、そうは考え難いですね。・・・この当たりについても、果たして真実の歴史を語っているのか?
       ・・・後世から見ると、この『日本書紀』と謂えども、“大きな謎を抱えたまま”と云えるのです・・・が、それはそうと、“これだけの船や軍士、軍需物資などを調達出来たということは、まさしく大化の改新の成果だった”とも云えることでもあり・・・“古代国家の倭国(ヤマト王権)としてみれば、課役や税収などが、従前よりも飛躍的に効率化され、結果として増大していたことの現れだった”とも云えます。・・・いずれにしても、日本側の史料である『日本書紀』と、朝鮮半島側史料の『三國史記』とは、きちんと咬み合っておりませんし、それぞれも首尾一貫しているのか? と問われれば・・・残念ながらそうではありません。・・・『三國史記』の「百濟本紀」、「新羅本紀」、「高句麗本紀」のなかにおいても、幾つかの異説を取り込んでおり、結果として判然としない部分もあるのです。




      【・・・白村江の戦いの後日談として・・・】
      この『日本書紀』において、“高麗(※高句麗のこと)へ逃げ去る”とされた豊璋は・・・『新唐書(しんとうじょ)』によれば・・・「豐走不知所在」・・・と記述され、逃走先不明、或いは居所不明としています・・・が、『資治通鑑(しじつがん:※後世の中国北宋時代に編纂された編年体の歴史書)』では、この後のこととはなりますが・・・豊璋らの逃亡先となった高句麗そのものが、内紛に突け込まれる格好となり、そのタイミングで、唐王朝による第3次高句麗出兵が実行されると、結果的に滅亡してしまうことになります。すると、降伏していた高句麗旧王族や、そこに逃亡していた豊璋が、唐の長安に連行されることとなり・・・連行先の長安では、高句麗王・宝蔵(ほうぞう)王らは許されて、唐の官爵を授けられましたが・・・“豊璋については許されずに、嶺南(れいなん)地方へ流刑にされた”とも伝わります。・・・「以高藏政非己出、赦以爲司平太常伯、員外同正。(中略)扶餘豐流嶺南」・・・と。
      (鬼室)福信は・・・現在の大韓民国忠清南道扶餘郡恩山面(うんざんめん)にある恩山別神堂に祀られています・・・が、この(鬼室)福信の一族と考えられる鬼室集斯(きしつしゅうし)という人物が、西暦665年2月に(鬼室)福信の功績により、称制中の中大兄皇子(※後の天智天皇)から、小錦下の位階を与えられ、旧百濟の民ら男女四百余名とともに、近江國神前(かみざき:=神崎)郡に住居を与えられ・・・“西暦669年には、男女七百余名とともに、近江國蒲生(がもう)郡へ移住した”とされております。・・・ちなみに、この鬼室集斯の墓所は、現在の滋賀県日野町にある「鬼室神社」です。・・・旧百濟の民とともに、鬼室福信の一族も、日本(やまと)へ亡命渡来し、やがては帰化することとなって、日本人(やまとびと)の一翼を担うこととになった訳です。
      倭国(ヤマト王権)第一派遣軍指揮官及び将軍とされた大花下・曇比邏夫連(あずみのひらふのむらじ:=曇比羅夫)」・・・も、この「白村江の戦い」において、戦死しました・・・が、現在の長野県安曇野市にある「穂高(ほたか)神社」に、「安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふのみこと)」として祀られております。同神社の「お船祭り」は、(現行太陽暦のグレゴリオ暦)毎年9月27日に行なわれますが、これは“安曇比羅夫の命日に由来している”とのこと。


・・・・・・・・・・次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】