街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 西暦1868年(慶應4年)1月1日(元旦):「徳川宗家当主・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「朝廷」へ・・・“薩摩藩の罪状を訴え、止むを得ず、これを討つ”・・・と「上表」する。(=討薩の上表、討薩表とも)・・・そもそもとして、徳川慶喜は、“薩摩藩などとの開戦については、積極的ではなかった”と云われます・・・が、結局のところ・・・徳川宗家や旧幕府勢力に降り懸かる火の粉というものを掃わずには居られない情勢となった模様です。・・・『続徳川実記(ぞくとくがわじっき)』にある「討薩表」を、以下に示します。・・・

      《「討薩表」と呼ばれる上表文》
      「 臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(※薩摩藩主・島津茂久〈※後の忠義〉のこと)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸、長崎、野州、相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。

      罪状書
      一、大事件は衆議を尽すと仰出され候処、九日突然に非常の御改革を口実に致し、幼帝を侮り奉り、諸般の御所置私論を主張候事。
      一、主上御幼冲の折柄、先帝御依託あらせられ候摂政殿下を廃し参内を止め候事。
      一、私意を以って、宮、堂上方を恣に黜陟せしむる事。
      一、九門其の外御警衛と唱へ、他藩の者を煽動し、兵仗を以って宮闕に迫り候条、朝廷を憚からざる大不敬の事。
      一、家来共、浮浪の徒を語合い、屋敷へ屯集し、江戸市中押込み強盗いたし、酒井左衛門尉(※出羽庄内藩主・酒井忠篤〈さかいただずみ〉のこと)人数屯所え発砲、乱妨し、其の他野州、相州処々焼討却盗に及び候は証跡分明にこれ有り候事 」


      ※ 同年1月2日:「旧幕府軍」が、“前日発せられた上表文と徳川慶喜公上京による御先供という名目を掲げ、また翌日に掛けて大坂を発ち”・・・“事実上の京都封鎖を目的とする出兵”・・・を「開始」する。・・・旧幕府軍の主力は、総督・大河内正質(※松平正質とも、上総大多喜藩主)が率いる幕府歩兵隊及び伊勢桑名藩兵、見廻組(みまわりぐみ)などが、鳥羽街道を進み・・・陸奥会津及び桑名藩兵や新撰組(※新選組とも)などの別働隊が、伏見市街地へと進んだのです。・・・ここにある「見廻組」とは、幕臣達によって結成された京都の治安維持組織であり・・・いわゆる「近江屋事件」では、土佐脱藩郷士の坂本直柔(※通称は龍馬)と中岡道正(※通称は慎太郎)を斬殺したのも見廻組ではないか? ともされておりますが・・・元々は、新撰組(※新選組とも)と同様に、反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事しており・・・この「見廻組」が、主に御所や二条城周辺の官庁街を管轄し・・・新撰組(※新選組とも)は祇園や三条などの町人街と歓楽街を管轄としていました。・・・
      ※ 同年同日:“旧幕府軍出兵の報告を受けた朝廷”が、“この日、旧幕府軍の援軍が東側から京都に進軍する事態を想定して”・・・“総督として公家・橋本実梁(はしもとさねやな)を、その補佐として公家・柳原前光(やなぎわらさきみつ)を、京都東側の要所である近江国大津へ派遣することを決める”・・・とともに、“在京諸藩と近江彦根藩”に対しては、「大津出兵」を命じる。・・・この日、朝廷から大津出兵を命じられた在京諸藩と近江彦根藩でした・・・が、どの藩も出兵には躊躇してしまい・・・実際に、この命令に応えたのは肥前大村藩のみでした。・・・それも、“大村藩士・渡辺武勝(わたなべたけかつ:※通称は清左衛門、号は東山、後の清)が率いた大村藩兵は、総勢僅か50名”であって、“この小部隊”が翌日未明に大津に到着しますが・・・。
      ※ 同年同日:“パリ留学中の水戸藩主・徳川慶篤(※徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の元に”・・・“日本から、大政奉還に関する御用状”・・・が届く。・・・これまで幕府代表・遣欧使節団代表として振る舞っていた徳川昭武にしてみれば、相当大きな衝撃を受けた筈です・・・が、この時の御用状には、“兄の徳川慶喜から、今後に関して指図的な内容も添えられていた”のではないでしょうか?・・・ちなみに、この時の徳川昭武は、数えで16歳。
      ※ 同年1月3日:「朝廷」において、「緊急会議」が「召集」され・・・ここで・・・「薩摩藩士・大久保利通(※通称は一蔵、正助とも、改名前は利済)」が、“旧幕府軍の入京は新政権の崩壊を意味するため、錦旗(きんき)と徳川家征討の布告が必要”と「主張」する・・・も、「前越前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)」は、“薩摩藩と旧幕府勢力による勝手な私闘であり、新政権は無関係を決め込むべきと、反対する立場”を「主張」した。・・・このように、この会議は当初から紛糾したものの・・・結局は、「議定・岩倉具視」が、“徳川家征討に賛成した”ことにより・・・“会議の大勢”が決する。・・・「錦旗」とは、「錦の御旗(にしきのみはた)」の略称。別名は、「菊章旗」、「日月旗」とも。
      ・・・そもそもは・・・西暦1221年(承久3年)の「承久の乱」において、“時の後鳥羽上皇が配下の大将に初めて与えた”とされる物であり・・・それが、云わば慣習化されて、“天皇から、朝敵討伐の証として官軍大将へ授けられるようになった”という、天皇(=朝廷)の軍旗(=官軍旗)なのです・・・が、この時の朝廷には、過去の錦旗についての資料などが現存しておらず・・・要するに、この後に官軍すなわち新政府軍が掲げることとなる錦旗自体が、新しくデザインされたものであり・・・云わば、“勝手に拵(こしら)えた物”なのでした。・・・しかし、御旗のデザインは兎も角・・・この後の「戊辰戦争」における各地の戦いで官軍を称する薩長両軍を中心に使用される・・・と、官軍(=新政府軍)の証とされる錦旗の存在は、味方の士気を大いに鼓舞すると同時に・・・反対に賊軍の立場とされた旧幕府軍側の心理面へは、大きな衝撃を齎(もたら)したとのこと。
      ・・・当時、土佐藩士として各地の戦いに実際に参加し、後に宮内大臣や内閣書記官長などを歴任する田中光顕(たなかみつあき:※通称を顕助、号は青山)は・・・“錦の御旗を知らしめただけで、前線の旧幕府兵らが、このままでは朝敵になってしまうのでは? と青ざめながら、退却する場面を目撃した”とか。・・・したがって、既に尊皇開国思想が強かった徳川慶喜公にしてみたら、その比では無かったように感じますが・・・。
      ※ 同年同日午後5時頃:“旧幕府軍が大坂より北上し、鳥羽・伏見に至る”・・・と、“薩摩藩を中心とする新体制(≒新政府、明治政府?)側の兵”に「迎撃」されて、「鳥羽伏見の戦い」が起こることとなり・・・“同月6日まで、京都南郊の上鳥羽(現京都府京都市南区)や、下鳥羽、竹田、伏見(いずれも現京都府京都市伏見区)”が「戦場」となる。(=鳥羽伏見の戦い)・・・まずは、旧幕府大目付・滝川具挙(※通称は三郎四郎、播磨守とも、旧幕府旗本)が、徳川慶喜の無罪を主張し且つ薩摩藩を訴える「討薩表」を持ちつつ、自軍先鋒部隊を率いて京都に向かう途中・・・鳥羽の関所を守衛する薩摩藩士・椎原国寧(しいはらくにやす:※通称は小弥太)と通行を巡っての問答の末に・・・旧幕府軍は、薩摩藩の陣地から発砲され・・・“この発砲の瞬間から、「鳥羽伏見の戦い」が始まった”と云われます。
      ・・・ちなみに、両軍の兵力が、“旧幕府軍は約1万5千人、新政府軍は約5千人だった”と云われているためか? “両者間の問答に業を煮やした旧幕府軍が、隊列を組んで前進を開始し、強引に押し通る旨を薩摩藩へ通告しました”・・・が、“薩摩藩側が通行不許可の旨を返答すると、その直後に銃兵や大砲が一斉に発砲した”とのこと。・・・これにより、旧幕府軍の先鋒部隊は、大混乱に陥ります。・・・“この時の旧幕府軍歩兵隊は、装備していた銃に弾丸を込めておらず、不意の攻撃に狼狽するのみで、滝川具挙が乗る馬は砲撃に驚き、滝川を乗せたまま暴走し、前線から走り去ってしまった”と。・・・結局のところ、“奇襲的な迎撃を受ける格好となった旧幕府軍先鋒部隊は潰走し、見廻組など一部が踏み止まって抗戦していたところを、後方を進行して来た桑名藩の砲兵隊等が到着し反撃を開始した”のです。・・・日没を迎えても、この戦闘は継続し、旧幕府軍も再三に亘って攻勢を仕掛けました・・・が、薩摩藩兵の銃撃の前に死傷者を増やし、遂に下鳥羽方面へ退却することに。
      ・・・この後の滝川具挙は、敗走して、淀城(現京都府京都市伏見区淀本町)へ逃げ込み、旧幕府軍の指揮を再度執りました・・・が、そこでも敗れ、その後は大坂を経て江戸に帰還してしまいます。・・・
      ※ 同年1月4日:「近江方面」では、“朝廷から改めて出兵命令を受けた日向佐土原や、備前岡山、阿波淡路徳島の三藩の兵ら”が、「大津」に入り・・・「近江彦根藩」も、“これら”に「合流」し、“また新政権(≒新政府、明治政府?)側と云うより、既に朝廷側に与していた大村藩を含めた、これら五藩兵の総勢が700名となるも、結果として、軍事的な衝突には至らず”・・・「鳥羽方面」では、“旧幕府軍が一時勢いを盛り返すも、指揮官・佐久間信久(さくまのぶひさ:※通称は小左衛門、近江守、旧幕府旗本)らの相次ぐ戦死など”があり、“また新政権軍(≒新政府、明治政府?)の反撃”を受け、「富ノ森(現京都府京都市伏見区横大路富ノ森町)」へ「後退」する。・・・「伏見方面」では、「土佐藩兵」が新政権(≒新政府、明治政府?)側に加わって、「旧幕府軍」が「敗走」する。・・・いくら藩主が、徳川慶喜公の異母弟であった備前岡山藩だったとしても、朝廷から直接的に出兵命令を受ければ、これを拒否する訳にもゆかず、「大津出兵」については応じた模様ですが・・・。
      ・・・“尊皇という点では、互いに一致点のほうが多い”と云え・・・ただ新体制をどうするのか? 何を中心に据えて考えるか? という位の違いに因るものなのですが・・・。・・・それに、伏見方面では土佐藩兵までもが、新政権(≒新政府、明治政府?)側に加わってしまうとは?・・・“朝敵にされるのではないか?”という疑念は、然も恐ろしき事哉・・・。
      ※ 同年同日:「朝廷」が、「仁和寺宮嘉彰親王(※後の小松宮彰仁親王)」を、「征討大将軍(せいとうたいしょうぐん)」に「任命」するとともに、“錦の御旗及び節刀を授けて”・・・「新政権(≒新政府、明治政府?)軍」が、いわゆる「官軍」とされる。・・・「征討大将軍」とは、「鳥羽伏見の戦い」において、新政権(≒新政府、明治政府?)側が設置した臨時の官職のこと。・・・仁和寺宮嘉彰親王は、東寺(現京都府京都市南区九条町)に陣を敷くと・・・次いで大坂に進んで、京阪地域の軍事を指揮し、対外的にも旧幕府の外国事務総裁を兼ねて、外交交渉をも担当しました。・・・しかし、同月28日に、この仁和寺宮嘉彰親王が凱旋帰京する・・・と、仁和寺宮嘉彰親王は、その任を解かれることとなり、「征討大将軍」という官職そのものが、一旦は廃官となってしまいます。・・・それでも、官軍とされた新政府軍が江戸へ進軍を開始した頃には・・・この「征討大将軍」という官職に、「東征大総督(とうせいだいそうとく)」と呼ばれる役職が兼帯される格好となるのです。
      ・・・いずれにしても、岩倉具視らによって、勝手に拵(こしら)えられた旗が、「錦の御旗」とされ・・・つまりは、“後付けで正当化された訳”です。・・・
      ※ 同年同日:“パリ留学中の水戸藩主・徳川慶篤(※徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の元”に、「スイス」から「時計」が届く。・・・きっと、“機械仕掛けの時計”を、購入したか、贈られたのでしょう。・・・しかし、同日に日本で起きていることを考えれば、何と云えば良いのやら?・・・
      ※ 同年1月5日:“伏見方面の旧幕府軍”が、「淀堤千両松(現京都府京都市伏見区納所下野付近)」に「布陣」して、「新政府軍」を「迎撃」する・・・と、“一進一退の乱戦となる”も、「旧幕府軍」が「敗退」し・・・“鳥羽方面の旧幕府軍”も、「富ノ森」を失なう。・・・また、“対岸の大山崎や高浜台場を守衛していた伊勢津藩”が、「朝廷」に従がって、「旧幕府軍」へ「砲撃」を加えた。・・・この時の旧幕府軍は、元老中・稲葉正邦を藩主とする山城淀藩を頼って、この淀城に入り態勢の立直しを図ろうとする・・・も、藩主不在の淀藩は、朝廷及び官軍となった新政府軍とは交戦する意思がなく・・・城門を閉じて、旧幕府軍の入城を拒絶するに至ります。・・・あくまでも、薩摩藩と旧幕府勢力による勝手な私闘という判断であり・・・つまりは、どちらに対しても加担をしなかった訳です。・・・
      ※ 同年1月6日:“朝廷が派遣した因幡鳥取藩兵及び作戦参謀役・木梨精一郎(きなしせいいちろう:※別名を恒準、号は宮圃、長州藩士)”が、この日「近江国大津」に「到着」する。・・・長州藩からの作戦参謀は兎も角として・・・徳川慶喜公にすれば、“またもや異母兄の居る鳥取藩の兵らが出兵させられた”とのことであり・・・その心中は、察するに余りあるのですが・・・。
      ※ 同年同日:「旧幕府軍」が、“石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊)が鎮座する男山”の東西に分かれて、「布陣」した。・・・“その西側には、土方義豊(※通称は歳三、号は豊玉、変名は内藤隼人)率いる新撰組(※新選組とも)主力などを擁する旧幕府軍の本隊が陣を張り”・・・“その東には、男山があり、西に淀川が流れ、南には若狭小浜藩が守備する台場が控えており、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった”とされる・・・も、“対岸の台場を守衛していた伊勢津藩が、朝廷に従がって、旧幕府軍へ砲撃を加える”・・・と、“思いもよらぬ方角から砲撃を受けた旧幕府軍”は、戦意を失なって、「総崩れ」となり・・・「淀川」を下って、「大坂」へと逃れた。・・・尚、“見廻組隊長である与頭・佐々木泰昌(ささきやすまさ:※通称は只三郎、唯三郎とも、旧幕府講武所の元剣術方師範役)”が、この戦いによる敗走中、腰に銃弾を受けて重傷を負う。・・・“この戦いで重傷を負った佐々木泰昌”は、後に紀三井寺(きみいでら:現和歌山県和歌山市紀三井寺)まで搬送されましたが、そこで没しています。享年36。
      ・・・尚、元見廻組隊士・今井信郎(いまいのぶお:※旧幕臣)による後年の証言によれば・・・“この佐々木泰昌が、坂本直柔(※通称は龍馬、土佐脱藩郷士)と中岡道正(※通称は慎太郎、土佐脱藩郷士)を斬殺した近江屋事件の実行犯だった”と云います。・・・
      ※ 同年同日:“大坂城に居た徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の元”に、“京都方面における敗報”が伝えられる・・・と、「徳川慶喜」は、“大坂城における籠城戦を当初主張し、徹底抗戦を説いた”・・・ものの、“その夜には、僅かな側近達と老中・板倉勝静(※備中松山藩主)や、酒井忠惇(さかいただとし、さかいただとう:※播磨姫路藩主)、松平容保(※陸奥会津藩主)、松平定敬(※伊勢桑名藩主、京都守護職である松平容保弟)らと共”に、密かに城を脱して、大坂湾に停泊中の「アメリカ軍艦・イロコイ号」へ「一旦避難」する。・・・その後、同じく大坂湾に停泊中だった「旧幕府軍艦・開陽丸(かいようまる)」に「乗船」して、「江戸」へと「退却」する。・・・このように、総大将たる徳川慶喜が退却してしまったため、旧幕府軍は継続して戦う意欲を失ない、大坂城を放棄して、各自で以って江戸や自領等へ帰還してしまいました。
      ・・・但し、会津藩の軍事総督とされていた神保長輝(じんぼながてる:※通称は修理)は、“このような戦況の不利を予見しており、遂に錦の御旗が翻るのを目の当たりにすると、元将軍・徳川慶喜と主君の松平容保へ、新政府軍への恭順策を進言した”とされており・・・“これが、徳川慶喜らの退却劇の最大要因だった”とも云われます。・・・しかしなから・・・恭順策を進言した神保長輝にしても、“よもや総大将達が、軍艦を用いて早々と江戸へ帰ってしまうなどとは、思いもよらなかっただろう”と、考える向きもあります。・・・いずれにしても、当の徳川慶喜などにしてみれば・・・薩摩や、長州、土佐などの諸藩兵に対して約3倍の兵数で臨んでいた筈が、その指揮能力や、教練効果、銃剣や大砲など近代装備品における優劣などの悉(ことごと)くにおいて、概ね薩長土の三藩に大敗し、且つ錦の御旗が翻った時点で・・・“政治的にも自身らが朝敵とされつつあること”を悟ることとなり、朝廷に対して恭順の意を示す最善策は何か? と考える筈です。
      ・・・それらから導き出されたのが、“早々と江戸へ退却し、そこで謹慎しつつ、情勢を見極め、今後の対応策を練るべきという答えに至った”のではないでしょうか?・・・徳川慶喜公は、“とことん尊皇敬朝”でしたから。また、薩摩藩による挑発行為に堪え切れなかった多くの幕臣や旧幕府側の将兵達が受ける被害を、極力最小限化しようと意図したのではないか? と。ある意味で、慶喜公なりの「引き際の美学」だったかと。・・・この当たりの事情については、後年の慶喜公本人が著した『昔夢会筆記(せきむかいひっき:※編者は渋沢栄一氏)』が詳しいかと。
      ・・・「烈公(※元水戸藩主・徳川斉昭のこと)尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先立ち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝し給いしは、今なお知る人多かるべし。予(※徳川慶喜本人のこと)が二十歳ばかりの時なりけん。烈公一日予を招きて「おおやけに言い出すべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は(御)三家・(御)三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(元水戸藩2代目藩主・徳川光圀のこと)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ」と宣えり。」・・・と。
      ・・・ちなみに、この日の大坂城には、会津藩軍事総督・神保長輝が、居残って作戦指揮を執りました・・・が、元々討薩の主戦派ではなかったため、自藩内の強硬抗戦派から睨まれる格好となり、この時の敗戦責任を一身に受けて、後に自刃することになります。・・・
      ※ 同年1月7日:「朝廷」が、“徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)追討の勅命”を下して、「旧幕府」を「朝敵」とする。(=征討大号令宣布)・・・とうとう、この日・・・徳川慶喜ら旧幕府軍が、明治天皇や朝廷と直接交戦をしていた訳でもないのに・・・“朝敵指定”されてしまいました。・・・この当たりが、“政治の怖さ”ということなのでしょうか?・・・
      ※ 同年1月9日:“新政府軍の長州軍”が、“空となった大坂城”を「接収」し・・・“京坂一帯”が、“新政府軍の支配下”に入る。・・・結局のところ・・・軍事的には、旧幕府軍が、約1万5千人の兵力を擁しながら、緒戦にして約5千人の新政府軍に敗れましたが・・・“特に、新政府軍の火力の充実と、旧幕府軍指揮官の火力に関する知識の低さ及び兵士の技量の低さが、最大の敗因だった”・・・つまりは、“新政府軍が圧倒的な重火器を擁していたことが大きいとされる”・・・とともに、“旧幕府陸軍を除く旧幕府方諸藩の兵が用いる火器が、旧式劣悪であったこと”・・・
      ・・・“旧幕府軍や大方の新政府軍も、依然として身分制の軍隊だったが、後者の方が軍制改革が、より進んでいたこと”・・・“旧幕府兵には、農民からの強制徴集者や江戸の失業者などの貧困層出身者が多く、士気が低かったこと”・・・“新政府軍が、早い段階で江戸など東日本との交通や物流の要所である近江国大津を掌握して、京都に向かう旧幕府軍への援軍や軍需物資の動きを阻害しただけでなく、新政府軍の兵站を確保出来たこと”・・・などが考えられる訳です。
      ・・・尚、この「鳥羽伏見の戦い」における両軍の損害は・・・明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑』によれば・・・“新政府軍約110名に対し、旧幕府軍が約280名”と云われております。
      ・・・これ以後、幕末史の舞台は・・・江戸市街における「上野戦争」や、北陸地方や東北地方などにおける「北越戦争」や、「会津戦争」、「箱館戦争」として、続けられることになるのです。・・・
      ※ 同年1月10日:「朝廷」が、“徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の官位(※従三位・右近衛大将のこと)を停止する”・・・とともに、“旧幕府方諸藩の藩主ら27名を討伐すべく朝敵とする勅許”・・・を下す。・・・この日、一斉に・・・。“27名もの藩主達が、ロック・オンされた”とのこと。・・・
      ※ 同年1月11日:「朝廷」が、“新政府軍に与した土佐藩”に対して・・・“旧幕府方に与する奸賊として、讃岐高松及び伊予松山の二藩を征討する勅”・・・を下すとともに、「錦の御旗」を「下賜」する。・・・当然のことながら、ここにある「錦の御旗」が、“正式な物と認定されたのは、同年1月4日以降のこと”ですが・・・これが後に、ある事件に繋がってしまうことになります。・・・
      ※ 同年同日午後1時過ぎ:“備前岡山藩兵”が、“備前国・三宮神社前(現兵庫県神戸市中央区三宮町付近)にて、隊列を横切るフランス人水兵ら”を「負傷」させて、これが「銃撃戦」に「発展」し・・・“神戸居留予定地を検分中だった欧米諸国公使らに水平射撃を加えるという事件”が「発生」する。(=神戸事件、備前事件とも)・・・この事件が発生する以前の新政府は、旧幕府方・摂津尼崎藩を牽制するためとして、岡山藩に摂津国西宮方面の警備を命じていました。・・・これにより、“岡山藩では、同年1月5日までに約2千人の兵達を出立させると、このうち岡山藩家老・日置忠尚(へきただひさ、ひきただなお:※通称は帯刀)率いる500~800人は大砲を引いて、西宮方面へ陸路を進んでいた”とのこと。
      ・・・しかし、この時の岡山藩兵達は、前年の西暦1867年(慶應3年)12月7日(=西暦の元旦)の兵庫開港に伴なって、大名行列などと外国人の衝突を避けるためとして旧幕府により予め整備されていた「徳川道」を通らずに、「西国街道」を進んでいたとか。・・・この選択が、この事件の引き金の一つとなったようです。・・・この時の岡山藩兵が隊列を組んで、神戸・三宮神社近くに差し掛かる・・・と、付近の建物から出て来たフランス人水兵2名が、この隊列を横切ろうとしたのです。・・・これは、日本側から見れば、「武家諸法度」に定められた「供割(ともわり)」と呼ばれる、“非常に無礼な行為”に当たります。
      ・・・この「供割」を目撃した第三砲兵隊長・滝正信(たきまさのぶ:※通称は善三郎、備前岡山藩士)が、槍を持って、早速フランス人水兵2名を制止しようとした・・・ものの、相手に言葉が通じず、尚も強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し・・・結果として、滝正信が槍で突き掛かって軽傷を負わせてしまったのですが・・・更に、滝正信が軽傷を負わせてしまったことに対して、一旦民家に退いたフランス人水兵数名が、それぞれ拳銃を持ち出し・・・それを見た滝正信が、咄嗟に「鉄砲、鉄砲」と叫んだ言葉を、発砲命令の合図と受け取ってしまった他の藩兵らが発砲して・・・銃撃戦に発展してしまったのです。・・・加えて、“この西国街道沿いにおける小競り合いが、隣接する神戸居留予定地を実況検分していた欧米諸国公使達にも銃口を向けて、幾度か一斉射撃を加えてしまう”ことに。・・・それでも、“発射された弾は、ほとんど当たらずに、公使達の頭上を飛び越して、居留地の反対側にある旧幕府・兵庫運上所(≒神戸税関)の屋上に翻る列国の国旗を穴だらけにした”とのこと。
      ・・・尚、この時の一斉射撃については、銃口を上に向けた威嚇射撃であったのか? 或いは、殺意はあったが訓練不足によって命中しなかったのか? などについては、欧米人達による後の証言では、どれも一致しなかった模様。・・・しかし、自らも、この現場に居合わせた英国公使のハリー・パークスは激怒して・・・“折しも兵庫開港を祝って集結していた西欧列強諸国の艦船へ、緊急事態を通達し”・・・“米国海兵隊や、英国警備隊、仏国水兵達が、一斉に岡山藩兵を居留地外へ追撃し、再び生田川の河原付近で撃ち合いとなる”・・・も、結局のところ・・・“岡山藩側が、家老・日置忠尚(※通称は帯刀)による射撃中止と撤退を命令して、両者に死者や負傷者は、ほとんど出なかった”とされます・・・が、“神戸に領事館を持つ西欧列強諸国は、外国人居留地防衛の名目を以って、同日中に神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港(=神戸港)に停泊していた日本側船舶をも拿捕してしまった”のです。・・・
      ・・・この事件は・・・“朝廷が、未だに諸外国に対して旧幕府から明治新政府への政権移譲を宣言していなかったために起きてしまった事件だった”とも云え・・・また、この事件直後から、長州藩士・伊藤俊輔(いとうしゅんすけ:※後の初代内閣総理大臣・伊藤博文のこと)を諸外国との実務折衝に当たらせるも、結局は決裂してしまい・・・これが、明治新政府初の外交問題となってしまった訳です。・・・あちこちで騒動が起きていたのですね。・・・
      ※ 同年1月14日未明:“土佐藩士の本山茂任(もとやましげとう:※通称は左近兵衛、後に只一郎、号は竜沢、春日大社や下賀茂神社の神職、板垣退助の親族)ら7名”が、“土佐藩へ下された讃岐高松及び伊予松山二藩征討の勅許と錦旗を運ぶ途中において”・・・“このうちの錦旗”を、「フランス兵」によって奪われる。(=錦旗紛失事件)・・・?!・・・同月11日に、朝廷が下した「勅許」と「錦の御旗」が、同日午後1時過ぎに起きた「神戸事件(※備前事件とも)」の影響を受ける格好となり・・・前代未聞の事件へと発展してしまいました。・・・本山茂任ら7名は、備前国兵庫港(=神戸港)で起きた事件発生を知らぬまま・・・“事件現場”の三宮神社門前を通り掛かる・・・と、そこを占領していた武装フランス兵から誰何(すいか:※相手が何者か判らない時に、呼び止めて問い質すこと)されたのです。・・・すると、相手方の言語が分からずに意思疎通が出来ぬまま、フランス兵に「錦旗」を櫃(ひつ)ごと奪われるという大失態に繋がってしまったのです。・・・つまりは、フランス兵によって差押えられてしまった訳です。
      ・・・それでも、本山茂任らは、ことの一大事に、同じく土佐藩士・中島信行(なかじまのぶゆき:※通称は作太郎)や、長州藩士・伊藤俊輔(※後の初代内閣総理大臣・伊藤博文のこと)らが仲介してもらい・・・ようやく、フランス公使のレオン・ロッシュに陳情する・・・と、新政府側とすれば、かなり貴重だった「錦旗」を取り戻すことが出来て・・・この直後には、土佐の「迅衝隊(じんしょうたい)」へ、これを無事に届けています。・・・ちなみに、この「迅衝隊」は、「戊辰戦争」における土佐藩の主力部隊とされております。・・・
      ※ 同年1月15日:「朝廷」が、“同月11日の神戸事件(※備前事件とも)発生”を受けて、「開国和親」を“諸外国”に「宣言」する・・・と、“旧幕府から明治新政府への政権移譲について”も「表明」し・・・「東久世通禧(ひがしくぜみちとみ:※号は竹亭、古帆軒とも)」を、その「代表」とさせて、“諸外国との交渉”を「開始」させる。・・・「東久世通禧」とは、かつての「七卿落ち」において長州へ逃れた尊皇攘夷派公卿の一人です。・・・そんな思想の持ち主に、諸外国との交渉を?・・・いずれにしても、この交渉役代表・東久世通禧の下には・・・自身もイギリス留学経験があった長州藩士・伊藤俊輔(※後の初代内閣総理大臣・伊藤博文のこと)らが交渉実務を担当している訳でして・・・。・・・何とも、“著しく不平等な結末には、決して、してくれるなよ!” との思惑が、見え隠れしているような?・・・明治新政府にとって、これは大きな試練だったかと。・・・どうしたって、長年に亘り諸外国と交渉していた旧幕府勢力の実務担当者の能力や経験値が、上回っていたでしょうから・・・。
      ※ 同年同日:この頃、“西日本の諸藩”や、「尾張」、「伊勢桑名藩」も、「新政府」に「恭順姿勢」を採ることとなり・・・「関東」では、「旧幕府関東取締出役・渋谷鷲郎」が、“関東一帯の村々から、農民を公私領を問わずに徴兵するという決定を下したため”・・・“上野や、下野、武蔵の三国”において、「大規模な一揆」が、この日、「発生」する。・・・このように、“討幕ムードの波が、徐々に関東地方へ押し寄せていた”訳です・・・が、その背後には、当然に・・・関東各地で討幕を扇動する者達が複数居た筈であり・・・それは誰か? と考えれば・・・“「鳥羽伏見の戦い」が引き起こされる以前の用意周到さなど”が、自ずと想い浮かびます。・・・そう考えると、旧幕府方や佐幕派と云われる諸藩が、新政府側が繰り出していた諜報戦の緒戦においては、どうしても旧幕府勢力は受け身側に徹しざるを得なくなり、後手を踏んでいたようにも想えますね。
      ・・・ちなみに、ここにある「大規模な一揆」には、旧幕府勢力に味方する一揆勢・・・反対に、旧幕府勢力に自らが組み込まれることを拒否し、新政府側に靡く一揆勢・・・旧幕府勢力や新政府側のどちらにも与しない、中立的な一揆勢・・・などの勢力が混在していたとは想いますが。・・・
      ※ 同年1月19日:「水戸藩主・徳川慶篤(※徳川慶喜の同母兄)」が、“既に江戸城に入って謹慎直前の徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)”から・・・“朝廷より、在京の水戸藩士や本圀寺党へ下される「除奸反正(じょかんはんせい)」の勅書を速やかに受諾し、その通りに藩政刷新を図るように”・・・と「助言」される。・・・ここにある「除奸反正の勅書」の内容は・・・「速に鈴木石見、市川三左衛門始め奸人共厳罰を加へ忠邪の弁を明し藩屏の任を失わざる様処置致すべき」・・・というもの。つまりは、“佐幕派の鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)や市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らの諸生党を討伐し、(水戸)藩政を正常化せよ!”と。・・・尚、この「除奸反正の勅書」を、そもそも朝廷へ奏請していたのは、「本圀寺党」でした。・・・このことからも、“「鳥羽伏見の戦い」が起こる以前から、徳川慶喜が実家である水戸藩(=水戸徳川家)の在京藩士らとの情報交換や奏請斡旋など、密接な関係を互いに保ち続けていたこと”が分かります。
      ・・・要するに、朝敵指定されつつあった旧幕府の筆頭者たる徳川慶喜が、それまで持ち得ていた朝廷への影響力さえも、岩倉具視らの公家衆や、薩摩藩、長州藩などによって朝廷が完全に掌握されてしまうと、必然的に失なわれてしまうからです。・・・更に云えば、この頃の徳川慶喜公は、同月7日に自身が追討対象とされ、且つ旧幕府も朝敵とされていたことを承知していた筈ですから・・・当然に、“旧幕府の幕臣達や、徳川家一門、佐幕派諸藩などの行く末を案じ、出来得る限りの助言や諸手配をしつつ、自身の身辺整理を行なっていたのでしょう。・・・すると、実家の水戸藩(=水戸徳川家)が内乱を経てもなお、京都・本圀寺や、水戸藩庁(=水戸城)、江戸・水戸藩邸との間において、云わば二頭政治”が行なわれ・・・“その江戸には、同母兄が現実として幽閉状態に近い自発的な謹慎を続けており、藩論というべきものが統一されていない”・・・という事自体が、この時の徳川慶喜公に残された最大の懸案事項、つまりは“心配の種”だった筈。・・・また、徳川慶喜公の真意が、“究極として敬幕思想なのか? 尊皇思想であったのか? ”についても、一目瞭然です。
      ・・・もしも、徳川慶喜公が、何が何でも「朝敵の謗(そし)り」に甘んじることが出来なければ・・・当然に、“佐幕派の水戸藩諸生党に対して、何らかのお墨付きを与え、自分自身を支援するであろう筈の勢力へ肩入れする”でしょうから。・・・
      ※ 同年同日:“フランス公使のレオン・ロッシュ”が、「江戸」に戻る・・・と、「江戸城」へ「登城」する。・・・“旧幕府に対して並々ならぬ肩入れをしていたロッシュは、旧幕府軍が「鳥羽伏見の戦い」に敗北したことによって、西欧列強諸国外交団の中で一人孤立していた”とのこと。・・・尚、この時のロッシュが江戸城へ登城したとしても、果たして徳川慶喜公に謁見出来たのか? については、史料上は残念ながら分かりません。・・・旧幕府側としては、フランス公使・ロッシュが、どういう主旨で以って登城したのか? についてを確かめるぐらいは、していたのでしょうが。・・・この時のロッシュが登城した主旨は・・・神戸事件(※備前事件とも)問題に関することだったのか? それとも、日本の新政体に関することだったのか?・・・
      ※ 同年1月25日:“西欧列強諸国”が、「局外中立」を「宣言」し・・・“旧幕府が国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失なう”・・・しかし、仏国公使のレオン・ロッシュだけは・・・この暫らく後まで、個人的な肩入れによる外交努力をしていた模様ですが・・・。
      ※ 同年1月内:「朝廷」が、“若狭小浜藩に付預となっていた元水戸藩士ら110名”を「放免」し・・・“武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)ら若き尊皇攘夷派志士達”に対して・・・「水戸浪士隊の生残りの者らを引き連れて上京すべし」・・・と命じる。・・・武田蓋らの若き尊皇攘夷派志士達は、「王政復古の大号令」が布告されたことによって、約四年ぶりに水戸藩士としての復帰が許されることとなり・・・そして、この後の武田蓋は、越前国敦賀から同志57名を引き連れて、京都本圀寺の水戸陣所へ向かうのですが・・・。

      ※ 同年2月2日:“長州藩士・伊藤俊輔(※後の初代内閣総理大臣・伊藤博文のこと)が再度折衝に当たった神戸事件(※備前事件とも)問題において”・・・「備前岡山藩」が、“西欧諸国側の要求”を受け容れる。・・・“この時の西欧列強諸側の要求は、日本在留外国人達の身柄の安全保証及び当該事件における日本側責任者の厳重処罰、つまりは滝正信(※通称は善三郎、備前岡山藩士)の処刑だった”のです。・・・しかし、日本側としては・・・滝正信の行為は、“供割に対する武士たる者の対処方法としては、当然のこと”であり・・・また、この事件における外国人側の被害に比較すれば、処罰程度が重過ぎるのではないか? との声も上がっていたため・・・伊達宗城(※前伊予宇和島藩主)が、伊藤俊輔(後の初代内閣総理大臣・伊藤博文のこと)や五代友厚(ごだいともあつ:※薩摩藩士)らと協力して、交渉期限ギリギリまで、滝正信の助命嘆願を行なうも・・・結局は、フランス公使のレオン・ロッシュを始めとする各国公使らによる投票によって否決されてしまうのです。・・・
      ※ 同年2月3日:「明治天皇」が、「親征の詔(しんせいのみことのり)」を「発布」する。・・・「親征」とは、本来は漢語で「親(みづか)ら 征(ゆ)く」こと。つまりは、“天皇などの君主が、自ら軍の指揮を執って戦争へ出ること”を広く指します。・・・したがって、“この場合に征伐される対象とは、新政府側に対して速やかに恭順姿勢を採らない勢力全て”となります。・・・
      ※ 同年2月9日:「明治天皇」が、「有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王」を「東征大総督」と為す。・・・この時の有栖川宮熾仁親王は、“自ら東征大総督の役職を志願して勅許を得た”とか。・・・
      ※ 同年同日:「備前岡山藩」が、「永福寺(えいふくじ:※太平洋戦争の神戸大空襲で焼失するまで現兵庫県神戸市兵庫区南仲町にあった寺院のこと)」において、“西欧列強諸国の検視役7名が見守る中”・・・「滝正信(※通称は善三郎、備前岡山藩士)」を「切腹」させる・・・とともに、“神戸事件(※備前事件とも)問題にて岡山藩兵部隊を率いた家老・日置忠尚(※通称は帯刀)”に対して、「謹慎」を課す。・・・こうして、“西欧列強による強い要求の前に抗うことが出来ず、この神戸事件(※備前事件とも)問題は、一応決着した”のです・・・が、“その行方によっては、薩英戦争同様の事態に進展する可能性があり、更には神戸が香港・九龍などの様に植民地支配される事態も起こり得たことから、滝正信の犠牲によって危機回避が為されたことは、重大な出来事だった”と云え・・・そして、“これ以降は、新政府が対外政策に当たる正当な政府であるということ”を、諸外国へ示すことに繋がり・・・また、朝廷がそれまで唱えていた「攘夷政策」を「開国和親政策」へと、一気に方針転換させた契機になった訳です。
      ・・・但し、この開国和親の表明は、あくまでも諸外国に対するものであり、新政府内には未だ攘夷を支持する者達が多く居たことから・・・国内に対しては、“尚も、この事実”を、明確にしませんでした。このことが、国内に対して正式に方針表明されるのは、翌西暦1869年(明治2年)5月28日の新政府・上局会議決定に依るのです。・・・ちなみに、滝正信切腹の後は、息子の成太郎(しげたろう)が備前岡山藩主の直参に引き立てられ、500石を賜ることとなり・・・滝正信の跡目も、娘が婿を取って家督相続し、こちらも“100石を賜った”とのこと。・・・
      ※ 同年2月10日:「水戸藩主・徳川慶篤(※徳川慶喜の同母兄)」が、“徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の助言通り”に、「朝廷」による「除奸反正の勅書」を「受諾」する・・・と、“在京する水戸藩家老・鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)”が、「本圀寺党」を率いて、「江戸」へと向かう。・・・
      ※ 同年2月12日:“フランス公使のレオン・ロッシュ”が、「江戸城」に「登城」する。・・・この時も、ロッシュが、果たして徳川慶喜公に謁見出来たのか? については分かりません。・・・
      ※ 同年同日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「江戸城」を出る・・・と、「上野・寛永寺大慈院」に移って「謹慎」する。・・・この時、徳川慶喜は、数えで32歳。・・・
      ※ 同年同日:“武蔵国や上野国の農民達”が、“旧幕府関東取締出役・渋谷鷲郎が前月15日に発した徴兵令”に「反発」し・・・“渋谷鷲郎が居る上野国・岩鼻陣屋(現群馬県高崎市)”に向かって、「進撃」を「開始」する。・・・これが“幕末混乱期特有の勢い”と云うものなのでしょうか? ・・・この頃は既に、瞬く間に東征軍出兵の報せが関東地方へと伝えられ・・・それが、更に流布されていたようでして・・・このような事態に繋がったかと。・・・
      ※ 同年2月13日:“フランス公使のレオン・ロッシュ”が、“日本に着任したばかりの(フランス)極東艦隊司令官・オイエ提督”を伴なって、“上野・寛永寺大慈院にて謹慎中の徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)”に「謁見」し・・・“徳川慶喜に対して再起を促す”も・・・「徳川慶喜」は、“これ”を「拒否」する。・・・フランス公使・ロッシュは、徳川慶喜の謹慎先まで出向いて、この日ようやく謁見出来た模様です。・・・“彼の気持ちや思惑について”は、分からなくもないのです・・・が、一方の徳川慶喜公は、既に・・・少なくとも、明治天皇を筆頭とする朝廷に対しては、自身の進退についてを一任し、恭順の意を示していた訳ですし・・・。・・・いずれにしても、その後のロッシュは、兵庫へ戻って・・・他国の外交団と共同歩調を採るようになり、新政府に向き合うことになります。・・・神戸事件(※備前事件とも)問題や、キリスト教徒の保護問題など、早々に解決すべき事件が多かったためだったかと。・・・
      ※ 同年2月14日:“パリ留学中の水戸藩主・徳川慶篤(※徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“自身の画学教師とされるジェームス・ティソ”と、初めて「対面」し・・・「絵画」を教わる。・・・「ジェームス・ティソ」とは、正式名を「ジェームズ=ジョセフ=ジャック・ティソ」と云う、仏国ナント出身の画家・版画家です。・・・いずれにしても、この頃の徳川昭武が、絵画という分野を入口として、フランス文化を学ぼうとしていたことが分かります。・・・まさに、ビジュアルの世界とも云える「絵画」という分野であれば、フランス語があまり理解出来なくとも、西欧世界の人間の考え方や思想を理解するには最適だったでしょうから。・・・
      ※ 同年2月15日:「東征大総督・有栖川宮熾仁親王」が、“御所内の御学問所”にて、「明治天皇」に「謁見」し・・・そこで、“錦の御旗及び節刀を授かる(=征討大将軍を拝命する)”・・・と、「東征」に「出発」する。・・・このことにより、有栖川宮熾仁親王の肩書きは、「征討大将軍兼東征大総督」となります。・・・そして、この「征討大将軍兼東征大総督」が決定された直後には、「東征軍(とうせいぐん)」と呼ばれる軍隊が、“実際に江戸方面へ向かった”とされます。・・・
      ※ 同年同日:“武蔵国や上野国の農民達が武装進軍しているとの報を受けた旧幕府関東取締出役・渋谷鷲郎”が、“これに驚き、前月15日に発した徴兵令”を、慌てて「撤回」する・・・も、“これ以降に、一部の村役人が徴兵選定に際して不正を行なったとして、上野や、下野、武蔵の三国の村々”では・・・“村役人の追放などを訴える、更に大規模な一揆”へと「発展」する・・・“もう、何をどうやっても無駄となる公算高し!!!” と云った状況です。・・・炎上を更に煽(あお)り立てる人々が居たのでしょうね。・・・この策略についてを、西○さん一人の冴え渡る妙技と断定してしまって良いのやら? 悪いのやら?・・・
      ※ 同年2月20日:「征討大将軍兼東征大総督・有栖川宮熾仁親王」が、「新政府・神祇事務局督(じんぎじむきょくのかみ?)」を、更に「兼帯」する・・・も、同月27日には、“これ”を止め置く。・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩家老・鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)」が、“除奸反正の勅書を奉じた本圀寺党”を率いて「江戸・水戸藩邸」に入る。・・・次いで、“鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)ら本圀寺党”が、「水戸」へと向かう。・・・これにより、それまで在京していた本圀寺党が、水戸藩政の一部と云える江戸藩邸の実権を再度掌握するとともに、時の朝廷、つまりは新政府側からの朝敵指定をされることは免れるのです・・・が、これによって、水戸藩領内では・・・特に領民や農民層へ動揺が拡がり、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら門閥保守派の諸生党側に付くべきか? 江戸藩邸を掌握する本圀寺党などの尊皇攘夷派側に付くべきか? という選択肢の狭間で、再び大きな混乱が生じる訳です。・・・一方で、それまで水戸藩庁(=水戸城)を牛耳っていた市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら門閥保守派の諸生党は・・・佐幕派、つまりは朝敵とされ・・・ここに、水戸藩における尊皇攘夷派と門閥保守派の立場が、再び逆転することとなるのです。
      ・・・尚、“この頃の諸生党の中には、暗殺される者が出た”と云い・・・また、“この後には、身の危険を感じて、次々と江戸を離れて水戸へ向かう者が多かった”とも。・・・
      ※ 同年2月22日:“上野国の農民達が同国多胡郡で起こした一揆が、周辺地域を巻き込みながら、更に拡大する”・・・と、「同国矢田藩(※吉井藩とも)」や、「同七日市藩」、「同小幡藩」が、次々と「一揆勢」に対して「降伏」してしまう。・・・“もはや、民衆達を相手に交戦したところで、何ら得るものはなく、賢明な判断であった”とは想いますが・・・。・・・「多勢に無勢」とは、このようなことかと。・・・
      ※ 同年2月30日:“フランス公使のレオン・ロッシュ”が、「明治天皇」に「謁見」する。・・・しかし、ロッシュは、それまでも個人的に旧幕府側へ肩入れした外交を行なっていたため、これより間もなく公使を罷免されることに。・・・

      ※ 同年3月1日:“パリ留学中の水戸藩主・徳川慶篤(※徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「飼犬・リヨン」を、「アレクサンダー・シーボルト」へ差し遣わす。・・・「アレクサンダー・シーボルト」とは、正式名を「アレクサンダー・ゲオルク・グスタフ・フォン・シーボルト」と云い・・・“ドイツ出身で日本国内でも活動し、医師や博物学者としても有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男”です。・・・そして、この「アレクサンダー・シーボルト」が、“徳川昭武の遣欧使節団に通訳として同行していた”のです。・・・この時の徳川昭武は、“これまでの通訳としての働きを評価し、且つ感謝の念を込めて、愛犬のリヨンを、彼に託した”と考えられます。・・・この後の「アレクサンダー・シーボルト」は、徳川昭武の遣欧使節団が帰国した後にも、暫らく欧州に留まり・・・西暦1869年(明治2年)の初め頃、弟のハインリヒを伴なって再来日することになります。・・・
      ※ 同年3月7日:「征討大将軍兼東征大総督・有栖川宮熾仁親王」が、「駿府城(現静岡市葵区駿府城公園)」において、“旧幕府の要請を受けた輪王寺宮公現入道親王(りんのうじのみやこうげんにゅうどうしんのう:※北白川宮能久親王とも、最後の輪王寺宮)”と「会見」し・・・“徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の助命嘆願及び東征中止要請”を受ける・・・も、「有栖川宮熾仁親王」は、“徳川慶喜の助命嘆願について”は、「条件」を示しながらも、“東征中止要請について”は、「一蹴」する。・・・ここにある「輪王寺宮公現入道親王(※北白川宮能久親王とも、最後の輪王寺宮)」とは、有栖川宮韶仁(ありすがわのみやつなひと)親王の第2王子であった慈性入道親王(じしょうにゅうどうしんのう)の附弟(ふてい:※法統を受け継ぐ弟子や、法脈を伝えるように託された弟子のこと)に当たります。
      ・・・そして、兄の慈性入道親王は、有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみやたかひとしんのう)の弟であり・・・「征討大将軍兼東征大総督・有栖川宮熾仁親王」は? と云えば、有栖川宮幟仁親王の第1王子でしたし・・・助命嘆願された徳川慶喜の実母は? と云えば、故徳川斉昭(※烈公)の正室・貞芳院(※名は吉子、芳子とも、慶篤や慶喜の実母)であって、有栖川宮織仁親王の第12王女(末娘)に当たるのです。・・・したがって、何の因果か? “敵味方として相対峙していた当事者達が、概ね有栖川宮家の血統で以って繋がっていた”のでした。・・・また、この当たりに・・・前述した『昔夢会筆記(※著者は徳川慶喜、編者は渋沢栄一氏)』において語られている「水戸徳川家の家訓」というものが、大きく影響していることは、ほぼ明らかかと。・・・
      ※ 同年3月8~9日:“諸生党により水戸藩庁(=水戸城)にて蟄居させられていた尾崎為貴(※通称は豊後、元水戸藩家老)や、同様に禁獄させられていた尊皇攘夷・鎮派の者達約70~80名”が、「藩庁」を「脱出」する。・・・尾崎為貴ら約70~80名は、夜陰に紛れて脱走出来た模様です。・・・尚、この水戸藩庁(=水戸城)の脱出作戦以後には・・・かつて、諸生党・鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)らから疎まれて、官邸における禁錮刑とされていた内藤正直(※通称は弥大夫、号は耻叟、碧海とも、藩校・弘道館の教授頭取)も、赦される格好となって藩政へ復帰します・・・が、彼が抱えていた事情が、また複雑なのであります。
      ・・・それは・・・これまで水戸藩政を掌握していた門閥保守派の諸生党に代わって、「除奸反正の勅書」を奉じた本圀寺党や、尊皇攘夷思想の鎮派勢力へという、藩論そのものが大転換していたために・・・彼自身は、中立性を意識しつつ、態度については当初から保留していたものの・・・これ以前のこととして、内藤正直が反天狗党勢として、実際の戦いに参加していたことなどにより、市川弘美ら諸生党に近い思想の持ち主と判断され・・・結局は・・・この時期に至っても、彼を受け容れられる素地というものが醸成される気配は、ほど遠かった模様なのです。・・・
      ※ 同年3月10日:「旧幕府関東取締出役・渋谷鷲郎」が、「上野国・岩鼻陣屋」を「放棄」する。・・・?・・・武蔵国や上野国で蜂起した一揆勢が、多勢で以って岩鼻陣屋を取り囲んで居たからなのでしょうか?・・・それにしても、一揆勢が岩鼻陣屋へ向かったのは、これより約一月前の事となりますので・・・やはり、ここまでの約一ケ月間は、両者が陣屋において籠城戦的な対戦関係にあったかと。・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩」では・・・“それまで息を潜めていた尊皇攘夷・鎮派の尾崎為貴(※通称は豊後、元水戸藩家老)や、松平頼遵(※通称は万次郎、安房守とも)を中心とする数百名”が、「水戸藩庁(=水戸城)」へ押入り、「藩政」を奪う・・・と、反対に、“藩庁を追い出される格好となった諸生党”が、“家老・鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)の屋敷”に集まって、「善後策」を「検討」する・・・も、結局は、「天下の趨勢からは利有らず、ここは一旦水戸を出て、水戸を離れて他日に期すべき」と決まる。・・・この日の夜、“鈴木重棟や、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)、朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)、佐藤信近(※通称は図書)、大森信任(おおもりのぶとう:※通称は弥三左衛門、弥惣左衛門とも)以下の諸生党勢五百名余り”が、「常陸太田」を「経由」し、「会津」を目指して「脱出」する・・・も、“鈴木重棟父子”は、この「常陸太田」で、“その他の諸生党勢”と別れて、「江戸」へと向かう。
      ・・・この前日まで獄にあった尊皇攘夷派志士達と、かねてより水戸城外に潜伏していた同志達とが、この日呼応して立ち上がった訳です。・・・これに対して、市川ら諸生党勢は、水戸藩庁(=水戸城)を防衛することは無く、会津を目指し・・・鈴木重棟父子は、江戸を目指すのですが・・・。・・・《※この日以降の「諸生党」及び「諸生党勢」のことを、本ページでは「水戸諸生党」及び「水戸諸生党勢」などと表記致します》・・・
      ※ 同年3月11日:「新政府・東山道軍」が「北関東」に「進出」する・・・と、「新政府・東山道軍」は、“諸藩が共同して、拡大していた農民一揆を取締ること”を命じ・・・且つ「新政府軍」も、“これを支援する方針”を採る。・・・この頃、新政府軍によって、羽生陣屋(現埼玉県羽生市東付近)が陥落される・・・と、上野国や北武蔵地域の一揆の勢いが最高潮に達することとなり・・・“上野国において一揆勢の制圧下に置かれなかったのは、高崎や、前橋、伊勢崎の三藩のみであった”とされています。・・・“下野国では、この日以後の同月3月末頃に、同国安塚村(現栃木県下都賀郡壬生町安塚)や、日光街道・石橋宿で一揆が発生した”と云われ・・・瞬く間に、下野中央部全域に拡大していました。
      ・・・いずれにしても、新政府の方針に従った諸藩によって鎮圧された結果、同年3月末から4月に掛けて、大規模一揆が沈静化する方向に向かった模様。・・・そして、一揆勢鎮圧のために、新政府軍の支援を受ける格好となった北関東の諸藩は、それぞれの藩論を、朝廷つまりは新政府に対して恭順の意を示すようになった訳です。・・・
      ※ 同年3月12日:「征討大将軍兼東征大総督・有栖川宮熾仁親王」が、「駿府城」において、「輪王寺宮公現入道親王(りなのうじのみやこうげんにゅうどうしんのう:※北白川宮能久親王とも、最後の輪王寺宮)」と、再び「会見」し・・・“徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)に対する説諭の必要性”・・・を説く。・・・
      ※ 同年同日:「本圀寺党の家老・鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)」が、“除奸反正の勅書を奉じて、水戸藩庁(=水戸城)へ入る”・・・と、“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢を討たなければ、水戸藩の勤皇意志を天下に示すことにはならないとして”・・・“後日に水戸諸生党勢追討軍を組織し、会津へ出兵すること”・・・に決する。・・・
      ※ 同年3月13日:「江戸高輪・薩摩藩下屋敷」において、「新政府側代表団・東征大総督府下参謀」とされていた、“西郷吉之助(※後の隆盛、薩摩藩士)や、村田新八(むらたしんぱち:※薩摩藩士)、桐野利秋(きりのとしあき:※通称は半次郎、薩摩藩士)ら”が、「旧幕府・徳川宗家側代表団」の“元陸軍総裁で軍事取扱・勝義邦(※後に安芳と改名、通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟、旧幕府旗本)や、元会計総裁で若年寄の大久保一翁(おおくぼいちおう:※隠居以前は忠寛、旧幕府旗本)、旧幕臣・山岡高歩(※通称は鐵太郎、号は一楽斎、居士号は鉄舟、一刀正伝無刀流の開祖であり禅や書の達人)”との間で・・・“徳川家茂没後に落飾し静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗っていた和宮親子内親王(※仁孝天皇の第8皇女、孝明天皇の異母妹、明治天皇は甥に当たる)の処遇問題と、以前に山岡高歩から西郷吉之助(※後の隆盛、薩摩藩士)へ提示された徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の降伏条件について”・・・の「確認」が行なわれる。
      ・・・この日行なわれた、新政府側と旧幕府・徳川宗家側との第一回交渉では、踏み込んだ交渉とはならずに、若干の質問や応答のみで終了となった模様。・・・
      ※ 同年同日:「輪王寺宮公現入道親王」が、「駿府」を発ち、「上野・寛永寺」へ戻る。・・・“この公現入道親王が、これまで征討大将軍兼東征大総督・有栖川宮熾仁親王に行なっていた、徳川慶喜の助命嘆願や東征中止要請”は・・・当然に、“勝義邦(※後に安芳と改名、通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟、旧幕府旗本)や、大久保一翁(※隠居以前は忠寛、旧幕府旗本)、山岡高歩(※通称は鐵太郎、号は一楽斎、居士号は鉄舟、旧幕臣、一刀正伝無刀流の開祖であり禅や書の達人)らとの共同歩調で以って進められていたこと”かと。・・・
      ※ 同年同日:“既に水戸を脱出し常陸太田を発っていた諸生党勢”が、この日、「常陸国大子(だいご)村」を発ち・・・「陸奥国棚倉(現福島県東白川郡棚倉町大字棚倉)」と「同矢吹(現福島県西白河郡矢吹町)」を経て、「会津」を目指す。・・・
      ※ 同年3月14日:「明治天皇」が、“諸臣を従え、且つ天神地祇の前で誓う形式”によって、「五箇条の御誓文」を「発布」し・・・“明治国家の基本方針”を「公卿」や「諸侯」などへ示す。・・・この「五箇条の御誓文」については、概ね以下の通り。(↓↓↓)・・・

      《五箇条の御誓文》
      「
(原文)一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」 (現代表記)広く会議を興し、万機公論に決すべし。
       (原文)一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ」 (現代表記)上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし。
       (原文)一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス」 (現代表記)官武一途庶民に至るまで、各の其志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめん事を要す。
       (原文)一、舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ」 (現代表記)旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基づくべし。
       (原文)一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ」 (現代表記)智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。

      (勅語部分・原文は省略し現代表記)我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの旨趣に基き協心努力せよ。(年号月日 御諱)」(現代語訳)我が国は未曾有の変革を為そうとし、私(※明治天皇のこと)は、自ら臣民に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てようとす。臣民もまた、この趣旨に基づき、ともに心を合わせて努力せよ。
      (奉答書部分・原文は省略し現代表記)勅意宏遠、誠に以て感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出べからず。臣等謹んで叡旨を奉戴し、死を誓い、黽勉従事、冀くは以て宸襟を安じ奉らん。(慶応四年戊辰三月 総裁名印 公卿諸侯各名印)」(現代語訳)(今上)天皇のご意志は遠大であり、誠に感銘に堪えません。今日の急務と永世の基礎は、これに他なりません。我ら臣下は、謹んで(今上)天皇の御意向を承り、死を誓い、また勤勉に従事致し、願わくば、これらを以って(今上)天皇には、ご安心召されたく存じます。

      ※ 同年同日:「江戸田町・薩摩藩蔵屋敷」において、“新政府側代表団と旧幕府・徳川宗家側代表団との間”で、「第二回交渉」が行なわれ・・・「旧幕府陸軍総裁・勝義邦(※後に安芳と改名、通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟、旧幕府旗本)」から、“徳川宗家当主・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)に関する降伏条件についての回答”が「提示」される・・・と、“江戸城の無血開城が事実上決定”する。(=江戸無血開城の決定)
      ・・・この「江戸無血開城」には、旧幕府側代表の勝義邦(※後に安芳と改名、通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟、旧幕府旗本)が、新政府側代表側の西郷吉之助(※後の隆盛、薩摩藩士)と直接面談する以前に、旧幕臣の山岡高歩(※通称は鐵太郎、号は一楽斎、居士号は鉄舟、一刀正伝無刀流の開祖であり禅や書の達人)や、この前年に上野寛永寺の輪王寺門跡を継承した公現入道親王(※北白川宮能久親王とも、最後の輪王寺宮)、かつて薩摩藩から輿入れした天璋院(※落飾前の篤姫)、徳川家茂没後に落飾し静寛院宮と名乗っていた和宮親子内親王(※仁孝天皇の第8皇女、孝明天皇の異母妹、後の明治天皇は甥に当たる)、英国公使のハリー・パークスなど各方面から、徳川宗家を温存しようとする働き掛けや外交的な圧力がありました。
      ・・・そして、“西郷吉之助(※後の隆盛、薩摩藩士)と向き合う勝義邦自身が、あらかじめ町火消各組などの力を借りて江戸城や町場を焼き尽くし、これによる避難民については、江戸湾の船舶により出来る限り救出しようするという作戦、つまりは「江戸焦土作戦」を計画した上で、西郷との交渉に当たり・・・もしも、これを実行されると、当時財政難にあった新政府側としては大打撃を受けることとなり、それ以後の国内政策や外交政策に多大な影響を及ぼしかねないことなどがあったのではないか?” という説もありますね。
      ・・・いずれにしても、時の新政府側が、旧幕府・徳川宗家側に対する、それまでの強硬論を、寛典論へと180度転じたのは確かだったかと。・・・以下に、“この第二回交渉における徳川慶喜の降伏条件について、勝義邦が西郷吉之助(※後の隆盛、薩摩藩士)へ回答した”という、そもそもの内容を示します。(↓↓↓)・・・

      《徳川宗家当主たる徳川慶喜の降伏条件に関して》
      「一、徳川慶喜は、故郷の水戸において、謹慎とすること。
       一、徳川慶喜を助けた諸侯・諸藩については、新政府が寛典に処すとともに、命に関わるような処分者を出さないこと。
       一、武器や軍艦については、新政府が纏めておくとともに、新政府側により寛典の処分が下された後には、これらを徳川宗家側へ差し渡すこと。
       一、江戸城内に居住している者は、城外へ移った後に、それぞれが謹慎すること。
       一、江戸城明渡しの手続きを完了した後には、新政府が即刻に田安(徳川)家へ徳川宗家の家督を返却すること。
       一、もしも暴発した士民達を鎮定する際には、新政府は可能な限りの努力を惜しまぬこと。」


      上記の回答は、“以前に西郷吉之助(※後の隆盛、薩摩藩士)が山岡高歩へ提示した降伏条件に対する骨抜き回答”であり・・・事実として、新政府側が提示していた条件を拒否するに等しかったのです・・・が、西郷は勝や大久保を信頼して、翌日予定されていた江戸城総攻撃を中止するとともに・・・自らの責任において、これらの回答を京都へ持ち帰り検討することを約束したのです。・・・

      ※ 同年3月16日:「征討大将軍兼東征大総督・有栖川宮熾仁親王」が、“諸外国の公使達”に対して・・・“自身が(東征)大総督に就任した旨”・・・を「通告」する。・・・同年2月9日から数えて、一ケ月以上も掛かってしまったようです。「通告」とは、当然に「公式文書」としてですが。・・・この二日前に、ようやく「江戸無血開城」が決められた訳ですから、致し方無かったかと。・・・きっと、“江戸では何が起こるのか?” と、西欧列強諸国は、虎視眈々(こしたんたん)と観ていたのでしょうし。・・・
      ※ 同年3月17日:「水戸藩主・徳川慶篤(※徳川慶喜の同母兄)」が、“除奸反正を達成するためとして”・・・・“同月11日に江戸藩邸を発ち同月14日に水戸藩庁(=水戸城)着の予定”を「計画」する・・・も、“自身の病により同月13日の江戸藩邸出発予定”を「変更」し、この日ようやく「江戸藩邸」を発って、「水戸藩庁(=水戸城)」を目指した。・・・この頃既に、徳川慶篤の健康状態は、かなり悪化していた模様です。・・・それまでの心労が、幾重にも重なっていたことは、容易に想像出来ますが・・・。
      ※ 同年同日:“パリ留学中の水戸藩主・徳川慶篤(※最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の元に”・・・“日本から御用状”・・・が届く。・・・この記述だけでは、差出人が判りませんが、おそらくは・・・異母兄である“謹慎前の徳川慶喜本人”か、“その代理人当たり”かと。・・・
      ※ 同年同日:「水戸諸生党勢」が、“陸奥会津藩境の勢至堂峠(せいしどうとうげ:※現福島県郡山市と須賀川市の境界にある峠のこと)”に「到着」し・・・“会津藩に対して助力するとの申入れ”・・・を行なう。・・・この時、水戸諸生党勢が宿泊したのは、藩境にある「長沼陣屋」です。・・・そこを領していたのは、常陸府中藩主・松平頼縄であり、本家たる水戸藩とは云わば兄弟関係にあって、「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」の以前の頃には、“水戸藩と行動を共にしていた”という事から・・・この時の対応については、“かなり難しいものだっただろう”と予想出来ます。・・・一方の会津藩側の関門役人は、“水戸諸生党勢が会津藩庁(=若松城:現福島県会津若松市追手町)に入りたい”との申し出を受ける・・・と、藩庁へ早馬を飛ばし、回答を求めるのですが・・・。
      ※ 同年3月19日:「水戸諸生党勢」が、「勢至堂峠」を発ち、“陸奥会津藩領内”に入る・・・と、「会津藩家老・西郷近悳(さいごうちかのり:※通称は頼母、明治維新後は保科頼母と改名、号を栖雲、酔月、晩年は八握髯翁とも)」によって、“会津藩に対する助力について”は断られるも・・・代りに、“武器弾薬の調達拠点であった新潟方面の治安維持”を「依頼」される。・・・結局のところ、この頃の会津藩が新政府軍に恭順するか否かで以って、現に折衝中だったため、佐幕派の水戸諸生党勢による会津藩への直接的な助力については、断られてしまった格好となりますが・・・。・・・
      ※ 同年3月20日:「水戸諸生党勢」が、「越後街道」を西へと進み、“陸奥会津藩領の越後国津川町(現新潟県東蒲原郡阿賀町津川)へ向かう”・・・と、そこへ「会津藩重臣・佐川勝(さがわまさる:※名は清直とも、通称は官兵衛)」と「鈴木丹下(すずきたんげ)」が後追いして来て・・・“会津藩庁(=若松城)入城拒否についての謝罪をする”とともに、“水戸諸生党員の今後については、それぞれの変名使用”を請う。・・・“この後の水戸諸生党勢には、会津藩士・鈴木丹下が同行す”・・・結局のところ、この頃の水戸諸生党勢は、勢至堂峠付近で約2日間足止めされる格好となっておりました。・・・当時の会津藩が、奥羽鎮撫使や東北諸藩との間で和平交渉を行なおうとしていたため、“水戸諸生党勢の受け入れ自体が、それらの交渉先に対して、要らぬ誤解を与える懸念がある”と判断したようです。・・・また、“水戸藩の内部抗争を重々承知していたので、極力関わりたくない”との想いもあったかと。
      ・・・いずれにしても、会津藩の正式回答は、ここにあるように、“会津藩庁(=若松城)への入城については認めず、水戸諸生党員が変名を称しながらの領内通過については認める”という主旨となるのですが・・・。・・・この時の佐川勝(※名は清直とも、通称は官兵衛)らは、会津藩庁(=若松城)に迎えられないことを詫びた上で、「今後は全員の名前を変えて欲しい。そうでないと扱いに困る」と訴えるも・・・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党は、「会津藩へは迷惑を掛けられないので承知するが、変名使用については全員に行なう事は難しいので、幹部だけの変名としたい」として・・・佐川らの了承を得ることとなり・・・これによって、市川弘美を「芳賀三左衛門」、佐藤信近(※通称は図書)を「信夫伝衛」、朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)を「堤守衛」、筧政布(※通称は助太夫)を「田村兵衛」と、それぞれ変名し・・・当の会津藩へ届け出た訳です。・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩」が、“本圀寺党の家老・鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)が率いる水戸諸生党勢追討軍約1,000名”を「組織」する・・・と、この日、「水戸」を「出発」させる。・・・非常に分かり難いですが、この時の「水戸藩」は既にもう、除奸反正の勅書を得た本圀寺党など、どちらかと云うと尊皇攘夷思想傾向が強い志士達の集団が、藩政を取り戻した格好となっています。・・・
      ※ 同年3月21日:“江戸・水戸藩邸を発っていた藩主・徳川慶篤(※徳川慶喜の同母兄)”が、「水戸藩庁(=水戸城)」に入る。・・・徳川慶篤の水戸帰藩への旅路は、通常は3泊4日の行程を・・・藩主の容態を考慮したのでしょう。結果としても、4泊5日を費やすことになりました。しかし・・・。
      ※ 同年3月23日:“本圀寺党の家老・鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)が率いる水戸諸生党勢追討軍約1,000名”が、「小中宿(こなかじゅく:現茨城県常陸太田市小中町)」を「通過」する。・・・
      ※ 同年3月26日:“本圀寺党の家老・鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)が率いる水戸諸生党勢追討軍約1,000名”が、「陸奥国白河」に至る。・・・これより以前に、“水戸諸生党勢追討軍・先発隊の長谷川允迪(※名は後に清とも、通称は作十郎、号は艮山、青水とも、藩校・弘道館の元舎長)や、野村鼎実(※通称は彝之介、号は清籟舎、箕水とも)、久木直次郎”が、「陸奥会津藩庁(=若松城)」に「入城」し・・・“会津藩の幹部達と水戸諸生党勢の扱いについて”を「協議」する。・・・この頃、水戸諸生党勢の扱いについての協議に参加したのは、“これらの水戸諸生党勢追討軍・参謀格の水戸藩士3名”と・・・会津藩側としては、“長谷川允迪の知人であり、元京都守護職・会津藩主・松平容保に仕える手代木勝任(てしろぎかつとう:※通称は斎宮、直右衛門〈すぐえもん〉とも)らの幹部達だった”とのこと。
      ・・・そして、この協議内容については・・・『水戸藩史料』によれば・・・まず水戸側の長谷川允迪が、「会津藩が諸生党勢を処分の上にて水戸藩へ引き渡してくれるか、或いは諸生党勢追討軍に会津領内における追撃を許可するか」と問うと・・・これに、会津側は、「水戸の事情は、予てより承知しているため、市川ら諸生党勢を匿うなどという考えは全く無し。市川らが会津領内に 足を留める筈も無い」と答え・・・新政府軍に対する主戦派であった手代木勝任も、「我が藩の危急存亡の情勢はお察しの通りであり、世に疑義を齎(もたら)し、不慮の変を招くのは最も憂慮する所であるから、市川ら諸生党勢を隠蔽してはならぬという一念については、神明に誓う」と答え・・・これに対し水戸側は、「今後奸徒追討のためには、御領分の内外を問わずに追討の兵を向けるから、事と次第によっては貴藩(=会津藩)と戦う不幸に遭うかも計り難い、その時はそれまでの時運と思われよ」と、“話を収めて、長谷川ら3名は会津藩庁(=若松城)を辞去した”とのこと。
      ・・・そして、この時の手代木勝任は、長谷川ら3名との別れに際して、“涙を流し、何かを語りたい様子ではあったものの、結局は何も言わずに、長谷川らを五、六里程(※約19.6~23.5㎞)も見送っていた”とのこと。・・・また、“長谷川らも、手代木が見送る中、陣将・鈴木重義らが待つ白河へと足を速めて行った”と。・・・“隠れた幕末維新史の一コマ”と云えるかと。・・・しかし、水戸諸生党勢追討について、会津藩の協力を何ら得られなかった長谷川ら3名が、白河の陣へ戻る・・・と、直ちに、鈴木重義ら幹部達と対応を協議して、“市川ら水戸諸生党勢の行方を掴んでから、改めて追討することに決する”のですが・・・。・・・
      ※ 同年3月27日:“本圀寺党の家老・鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)が率いる水戸諸生党勢追討軍約1,000名”が、“陸奥国釜子(現福島県白河市東釜子付近)への移動中”に・・・“水戸から藩主・徳川慶篤(※徳川慶喜の同母兄)が危篤との報せ”・・・が届く。・・・これにより、「水戸諸生党勢追討軍」は、急遽「水戸」へと向かう。・・・藩主様が危篤?!・・・
      ※ 同年3月28日:「水戸諸生党勢」が、「越後国笹岡村(現新潟県阿賀野市笹岡)」に宿す。・・・
      ※ 同年3月29日:「水戸諸生党勢」が、“陸奥会津藩預かりの水原陣屋(現新潟県阿賀野市外城町)”に「到着」する・・・と、ここで戦いの準備を進め、「奥羽列藩同盟軍」に加わる。・・・「水原陣屋」とは、旧幕府の代官所であり、10万石を管轄する奥羽列藩同盟諸藩の根拠地の一つとされ、この「戊辰戦争」が起きる直前の時期には、「会津藩預かり」となっていました。・・・また、当初は500名余りとされる水戸諸生党勢でしたが・・・諸生党が水戸藩庁(=水戸城)を拠点としていた時期に、反対勢力の尊皇攘夷派の激派や鎮派を粛清をしていたため・・・彼らによる報復を恐れるあまり、水原陣屋へ辿り着いた水戸諸生党勢に追従し、また頼ろうとする動きもあって・・・一時には、“総勢が1,000名以上に膨れ上がっていた”と云われます。・・・
      ※ 同年3月内:「朝廷」が、“京都・本圀寺の水戸陣所へ入っていた武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)らの若き尊皇攘夷派の水戸藩士達に対して”・・・「速やかに反正の実効相立て候様」・・・と命じる。・・・朝廷は、本圀寺勢に宛てたのと同様に、「除奸反正の勅書」を、かつての天狗党勢を率いた故武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)の孫たる蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹)に対しても与え・・・要するに、仇討ち行為を容認し、また後押しした訳です。・・・

      ※ 同年4月5日:「旧幕臣・中島鍬次郎(なかじまくわじろう:※養子縁組前の船橋鍬次郎のこと、後の中島仰山のこと)」が・・・“数日後、主君の徳川慶喜とともに水戸へ行くように”・・・と命ぜられる。『続徳川実紀』より ・・・この時の徳川慶喜公は、未だに上野・寛永寺大慈院にて謹慎中であり、当然に付き人の中島鍬次郎に対しても、このような指示がある訳です。江戸無血開城は既に決定事項でしたから。・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩主・徳川慶篤(※徳川慶喜の同母兄)」が、「水戸藩庁(=水戸城)」にて「死去」する。・・・尚、“暫らく徳川慶篤の喪を秘す”・・・・・・この時、徳川慶篤は、数えで37歳。・・・想えば、藩内における尊皇攘夷派と門閥保守派の諸生党との対立にあって、裁定する藩主としての立場は困難を極め・・・家臣達の献策に対しては、全て「よかろう」と裁定したことから、実際に「よかろう様」などと呼ばれていた徳川慶篤でした・・・が、同母弟の徳川慶喜が行なった「大政奉還」から数えて半年足らずの死去でした。そして、江戸から水戸へ下向してからは、僅か約2週間。・・・“その最期まで同母弟・徳川慶喜を案じ続けていた”と云われ・・・弟の徳川慶喜公も、“自身の謹慎直前まで同母兄に対する説得を行ない、旗本を水戸藩邸へ派遣するなど、実家の行く末を案じていた様子”が伝えられております。・・・尚、徳川慶篤の諡号は「順公」とされました。・・・いずれにしても、これにより水戸藩は、“藩主不在の状態”が、暫らくの間続くこととなります。・・・
      ※ 同年4月8日:“水原陣屋で戦闘準備を進めていた奥羽列藩同盟軍の水戸諸生党勢”が、「越後国弥彦村(現新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦)」に入る。・・・この「弥彦村」には、越後国の一ノ宮として知られる「弥彦神社」があり・・・水戸諸生党勢は、そこの広大な境内で、一時の休憩をとっていた模様。・・・
      ※ 同年同日:“パリ留学中の徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「ベルギー・ブリュッセル」において、“新発明とされる連発銃”を「注文」する。・・・ベルギー国王・レオポルド2世は、前年の9月には徳川昭武を狩猟に誘い・・・同じく前年の12月には、昭武へ二連式銃を贈っており・・・これらのことが、“今回の取引に繋がっている”と考えられます。・・・
      ※ 同年4月9日:「新潟奉行所」が、「越後長岡藩」に対して、“治安維持の協力”を求める・・・と、「長岡藩」は「家老・河井秋義(かわいあきよし:※通称は繼之助、号は蒼龍窟)」を「派遣」して・・・「旧幕府軍・衝鋒隊(しょうほうたい)」を「新潟」より立ち退かせる。・・・幾らかの治安維持効果はあったのでしょうが・・・奥羽列藩同盟軍と新政府軍との戦いが、刻々と迫って来ておりました。・・・ここにある「衝鋒隊」とは、旧幕府陸軍・歩兵指図役頭取の古屋佐久左衛門(ふるやさくざえもん:※旧姓は高松、通称は勝太郎、実弟に医師・高松凌雲)が、西暦1868年(慶應4年)2月に旧幕府陸軍を再編成した組織であり・・・これら「戊辰戦争」では、関東や、越後、箱館などを転戦する部隊です。・・・そして、その副隊長には・・・京都見廻組への入隊を拝命した後に、この衝鋒隊として佐幕活動をした剣客・今井信郎(いまいのぶお:※別名は為忠とも)がおりました。・・・
      ※ 同年同日:“陸奥会津藩預かりの水原陣屋に居た水戸諸生党勢”が、「越後国新潟町(現新潟県新潟市中央区付近)」に入る。・・・当時の新潟港は、東北地方屈指の物流基地とされ、軍事的にも重要な場所でした。・・・そして、その港を管理するのが、前条にある「新潟奉行所」でした・・・が、旧幕府と新政府との間で、対応には苦慮していた模様です。・・・尚、この日に水戸諸生党勢が新潟へ入る一週間前には・・・旧幕府歩兵隊から脱走した衝鋒隊約700名が既に乗り込んでおり・・・“この衝鋒隊は、資金不足を補うためとして、新潟奉行所へ越後諸藩の代表を集めては、資金提供を強要し、隊員各自も町内で武器を持ち町民らを脅していた”とのこと。・・・いずれにしても、このような状況下で、水戸諸生党勢約600名が新潟へ乗り込んだため・・・町民達の恐怖心は更に募り、結果として治安が乱されることとなってしまい、“もはや新潟奉行所には、制御不能な状況に陥っていた”と考えられるのです。・・・
      ※ 同年同日:“京都本圀寺の武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)ら尊皇攘夷派の水戸藩士130名余り”が、「除奸反正の勅書」を奉じて、「京都」を発ち・・・「江戸・水戸藩邸」を目指す。・・・ちなみに、“江戸へと向かう武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)らの姿は、甚だ華美であった”と伝えられております。・・・或る意味で、凱旋的な帰国とも云えますので。・・・
      ※ 同年同日:“パリ留学中の徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が・・・「この月より水泳を習い始める」・・・と“自筆の日記”に記す。・・・ここにある「水泳」とは、西洋式泳法のことであり・・・古来から水戸藩で受け継がれ、且つ実戦に則す水府流泳法ではありません。・・・
      ※ 同年4月10日:「徳川宗家当主・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、“軍事取扱・勝義邦(※後に安芳と改名、通称は麟太郎、安房守とも、号は海舟、旧幕府旗本)の労を賞して”・・・「刀」を与える。・・・
      ※ 同年4月11日:「新政府」に対して、「江戸城」が明渡される。(=江戸無血開城)・・・“まさに筆舌にし難い状況だった”かと。・・・単に、“徳川宗家当主・徳川慶喜公一人が江戸から引越せば良い”ということではありませんので。・・・いずれにしても、江戸幕府(=徳川幕府)が開府されてより、約260年後の出来事となります。・・・
      ※ 同年同日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「上野・寛永寺大慈院」を出て・・・「水戸」へと向かう。・・・この時の徳川慶喜は、数えで32歳。・・・徳川慶喜公の水戸下向については・・・水戸藩家中へ事前に公表され、もしも動揺があっては、朝廷から要らぬ嫌疑を受ける恐れがあったため・・・「家中一統別して相慎むように」・・・との命令が、あらかじめ下されていました。・・・また、“徳川慶喜の水戸退隠暮らし”は、そもそもとして朝廷からの示唆に依るものであり・・・当初の江戸出立日も、同年4月10日と指定されていました・・・が、実際には、“一日遅れの11日出立”となっています。・・・“一日遅れ”となった表向きの理由としては、“あくまでも慶喜自身の病気のため”と申し立てられています・・・が、現実には、“旧幕府の最高責任者として、江戸城明渡しを、慶喜自身が見届けた上で、郷里に帰りたい”という想いが、第一にあったのでは? と云われています。・・・後年の慶喜は、この理由についてを・・・「今確かに覚えおらず」・・・と、明言を避けておりますが。
      ・・・また、江戸を出立した際の慶喜公は、“「積日の憂苦に顔色憔悴して、髭は蝟毛(いもう:※ハリネズミの毛のこと)の如く、黒木綿の羽織に小倉の袴を着け、麻裏の草履を召さりたり」という風貌だった”と云います。・・・周囲の者達には、まさに幕府の落日を象徴するかのような姿に見えたのかも知れません。それまで暫くの間、謹慎暮らしをされていた訳ですので。・・・しかし、“江戸城が現実に新政府軍に明渡され、慶喜が水戸へ向かった”とは云え・・・江戸や、常陸、下総、房総の地では、佐幕勢力が尚も新政府軍への抵抗を続けており・・・新政府の大久保利通(※通称は一蔵、正助とも、改名前は利済、薩摩藩士)が、慶喜を水戸へ追い遣る事を・・・“虎ヲ山ニ放ツという恐れが、無い訳ではない”との不安を洩らすほど・・・当時の情勢は、緊迫の度合いを一層深めていたのです。・・・
      ※ 同年同日:この日、“陸奥国に入っていた水戸諸生党勢追討軍約1,000名”が、「水戸藩庁(=水戸城)」へ「帰陣」する。・・・奇しくも、“藩主の徳川慶篤が亡くなってから5日目のことであり、そして藩主の異母弟・徳川慶喜が水戸へ出立した日”なのでした。・・・
      ※ 同年4月14日:「征討大将軍兼東征大総督・有栖川宮熾仁親王」が、「江戸城」に入る。・・・
      ※ 同年4月15日:「徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)」が、「水戸」に「到着」し・・・“藩校・弘道館の至善堂(しぜんどう)”にて「謹慎」する。・・・徳川慶喜は、朝廷や新政府に対しては、ひたすら恭順の意を、この後も貫き通すこととなり・・・慶喜を迎え入れた水戸藩としても、家中へ軽挙妄動を戒め、慶喜を擁立して事を構える意志などは毛頭ありませんでしたが・・・。・・・
      ※ 同年4月16日:“奥羽列藩同盟軍の水戸諸生党勢”が、「越後国寺泊町(現新潟県長岡市寺泊付近)」に「到着」する・・・と、幾つかに「分隊」し・・・“その内の筧政布(※通称は助太夫、変名は田村兵衛)率いる一隊100名余り”が、「佐渡ヶ島」へと向かう。・・・当時の寺泊町は、小さな港町であり、各寺院が集中する地域でした。・・・筧政布が率いる一隊が、佐渡ヶ島へと向かった目的は、“会津藩の依頼に拠る軍資金の確保”でした。・・・しかし、会津藩自らも、この日より約1カ月前に、同じ目的で佐渡へと渡ったのですが、成果と云えるものは何ら得ることが出来ずに、水戸諸生党勢へ渡航依頼する格好となったようです。・・・それでも、結局のところは・・・筧政布ら水戸諸生党勢が、佐渡奉行所を調べても、既に佐渡金山は掘り尽くされ、貯蔵していた金塊なども全て江戸へと送り済みであったため・・・“多数の天保銭が蔵に残るだけであり、会津藩同様に成果が得られなかった”と云われます。・・・
      ※ 同年4月21日:「江戸城」が、“無血開城によって”・・・「大総督府」とされる。・・・
      ※ 同年4月23日:“江戸に潜伏していた水戸諸生党・鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも、元水戸藩家老)父子”が、「水戸藩」によって「捕縛」され・・・この日、「斬刑」に処される。・・・鈴木重棟は、享年30。幼少の息子達は・・・長男の銛太郎(ぜつたろう)と次男の甚次郎(じんじろう)も父と同じく斬刑。この時の銛太郎は、僅かに8歳だったとか。・・・尚、既に隠居していた重棟の父・重矩(しげのり)も、“捕えられた後に食を絶ち獄死した”と伝わります。・・・ちなみに、水戸を脱出した諸生党の内部組織的には、“筧政布(※通称は助太夫、元水戸藩大寄合頭)が、鈴木重棟に代わった”とのこと。・・・しかし、そもそもとして、鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも、元水戸藩家老)父子が、どうして江戸に潜伏していたのか? を考えれば・・・やはり、“水戸諸生党の主張を旧幕府勢力に働き掛け、また少しでも復権の道筋を開く”という期待があったかと。・・・
      ※ 同年4月28日:“武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)ら130名の水戸藩士”が、「京都」から「江戸・水戸藩邸」に「到着」する。・・・武田蓋が江戸に到着する・・・と、蓋自身が若狭小浜藩において御預(=幽閉)されていた期間中に、彼の祖父である武田正生や、父の彦衛門、叔父の魁介など天狗党勢に実際に参加していた者達だけではなく・・・“当時の水戸に残していた家族達のほとんどを殺害されていた”という事実を知ることとなり・・・彼は・・・「奸人(=門閥保守派の諸生党)の毒刃に掛かりて、悉(ことごと)くが非命に斃れた一族の仇、恨み重なる奸物共を、どうしてそのまま差し置くことが出来ようか」・・・と、“部下に向かって、実際に下知した”と云います・・・。・・・

・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】