街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ・・・“古代日本における最大の内戦”とされる「壬申の乱」が起こった背景については、前ページに記述しましたが・・・ここで改めて、乱に至った要因についてを、整理しておきたいと思います。

      ①皇位継承紛争説
・・・故天智天皇が、天皇として即位する以前に「中大兄皇子」と呼ばれていた頃・・・この中大兄皇子(※後の天智天皇)が、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)らと謀り、「乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)」と呼ばれるクーデターを起こす・・・と、実母の皇極天皇からの譲位を辞退すると同時に、叔父の軽皇子(かるのみこ:※後の文武天皇)を、後継天皇に推薦する。・・・すると、叔父の軽皇子が、孝德天皇として即位し、中大兄皇子(※後の天智天皇)は、その後継たる皇太子になる・・・も、叔父の孝德天皇以上に実権を握り続け・・・孝德天皇を難波宮に残したまま、他の皇族達や、臣下の者を引き連れて、倭京に入り・・・叔父の孝德天皇は、失意のままに、崩御する。・・・すると、中大兄皇子(※後の天智天皇)は、故孝德天皇の皇子(※中大兄皇子の従兄弟)であった有間皇子を、謀反の罪で処刑する。
              ・・・そして、自身が天智天皇として即位した後には、以前から続けられていた同母兄弟(=姉妹)間における皇位継承上の慣例に替え、当時の唐王朝に倣った男系の嫡子相続制(※すなわち大友皇子〈≒弘文天皇〉への継承)の導入を図る・・・など、かなり強引な手法によって、各種改革を進めた結果、同母弟である大海人皇子(※後の天武天皇)などからの不満を募らせてしまう。・・・更に、当時の皇位継承方法では、実母の血統や、后妃の位なども重視されていたため・・・長男ではありながらも、身分の低かった側室が産んだ子の大友皇子(≒弘文天皇)の皇位継承上の弱点とされる。・・・これらを背景として、大海人皇子(※後の天武天皇)の皇位継承を支持する勢力が、各地で形成されることとなり・・・やがて・・・それまで絶大な権力を誇っていた天智天皇の崩御とともに、それまでに蓄積されていた反動力として、乱の発生に繋がったと視る説。

      ②「白村江の戦い」における“大敗北説”・・・中大兄皇子(※後の天智天皇)や、大海人皇子(※後の天武天皇)らの実母・皇極天皇が、再び斉明天皇として重祚する・・・と、改めて皇太子とされた中大兄皇子(※後の天智天皇)は、西暦663年に百濟復興のためとして、朝鮮半島出兵の決定に関与し、唐王朝と新羅との連合軍を相手として戦う情勢となる・・・が、「白村江の戦い」が起こる直前時期に、斉明天皇が崩御してしまう。・・・しかし、倭国(ヤマト王権)の軍勢が、「白村江の戦い」にて大敗北を喫し・・・結果として、倭国(ヤマト王権)主導による百濟復興自体が水泡に帰すこととなって・・・唐王朝と新羅との連合軍による倭国(≒近江朝廷、日本〈やまと〉)侵攻の危機を招くこととなる。・・・斉明天皇崩御後、称制中だった中大兄皇子(※後の天智天皇)は、百濟遺民達が持つ土木建築技術などを用いて、玄界灘や、瀬戸内海の沿岸部など各地に、防衛拠点を築かせるとともに、百濟遺民達の大集団を東國(=近江國)などへと移住させ・・・都を、大和盆地の「飛鳥」から琵琶湖西岸地域の「近江大津宮」へと遷す。
              ・・・しかし、これらの動きは、各地の豪族や民衆に対して新たな負担を強いることとなり・・・近江遷都の際には、火災などが多発し、当時の童謡にも歌われた程であって、“遷都に対する各地の豪族達や民衆の不満の現れがあった”と。・・・そして、白村江における敗戦後、ようやく中大兄皇子(※後の天智天皇)が天智天皇に即位する・・・と、新生近江朝廷によって、行政構造改革などが急進的に行なわれることとなり・・・渡来系帰化人達の官人への登用などとともに、渡来宗教の仏教に対する傾倒化が更に進む。・・・また、何事も、唐風や異国風に急進的に改めようとする近江朝廷側と、それらに抵抗したり反発する保守派勢力との間で、政治的な摩擦や対立が激しくなっていた・・・が、それまで絶大な権力を誇っていた天智天皇が崩御する・・・と、それまで蓄積されていた社会的な反動によって、乱の発生に繋がったと視る説。
              ・・・この説は、白村江の敗戦後の天智天皇在位中には、幾度か遣唐使(≒朝貢団)派遣があったものの、大海人皇子が壬申の乱以降に天武天皇として即位してからは、大宝律令が制定された後の文武(もんむ)天皇期となる西暦702年まで、この遣唐使(≒朝貢団)派遣が行なわれていないことなどから推察されています。

      ③「額田王」を巡る“不和説”・・・兄の天智天皇と大皇弟とされていた大海人皇子(※後の天武天皇)の間で起こったとされる額田王を巡る不和関係に、要因を求める説もあります。・・・この説は、江戸時代の国学者だった伴信友(ばんのぶとも) が、『萬葉集』に収録されている「額田王」に関する和歌の内容から、額田王を巡る兄弟間の争いが、両者の不和の遠因ではないか? とも推察しています。


      ・・・上記①~③のように、諸説ありますが・・・いずれにしても、この「壬申の乱」は・・・それまで皇太弟とされていた大海人皇子が、各地の地方豪族達を、自らの陣営に多く参陣させ、時の近江朝廷に対して、反旗を翻(ひるがえ)す恰好となった戦乱です。・・・“当時の大勢(たいせい)側ではなく、反乱者の立場で挙兵した大海人皇子(※後の天武天皇)が、結果的に勝利するという、稀に見る内乱だった”とも云えます。・・・



      ※ 西暦673年2月27日:「飛鳥岡本宮」において、「大海人皇子」が「天皇」に「即位」する。・・・漢風諡号を、「天武天皇」とし・・・和風諡号は、「天渟中原瀛真人天皇(あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)」。
・・・古代の日本で、初めて「天皇号」を称したのは、“この天武天皇だった”とする説が、最も有力です。・・・一説には・・・「天皇」とは・・・元々は、“天武と云う、唯一人の偉大な君主のために用いられた尊称であり、彼のカリスマを継承するため、或いは神格化するために、天皇を君主の号とすることを、後に定めた”とも云います。・・・これについては、『日本書紀』持統天皇紀において、単に「天皇」と書いていても、天武天皇を後継した「持統天皇」のことではなく、“故天武天皇を指している箇所があること”を、その根拠の一つにしています。・・・尚、この天武天皇は、“鵜野讃良皇女(※後の持統天皇)を皇后に立てると、一人の大臣も置かずに、法官や兵政官などを直属させて、自ら政務を見ていた”とされますし・・・“皇族の諸王が、朝廷の要職を、分掌していた”とのこと。これを「皇親政治」と呼びます。
      ・・・また、この天武天皇は・・・この後に、「壬申の乱」における神々の御加護に対する報恩のためとして、娘の大伯皇女(おおくのひめみこ)を、伊勢神宮の斎王(さいおう、いつきのみこ:=斎皇女)としたり・・・実父だった故舒明(じょめい)天皇が、かつて創建した百濟大寺(くだらおおでら)を、同國(=大和國)高市郡へと移して、「高市大寺(たけちおおでら)」に改称するなど・・・古神道などの在来宗教と渡来宗教だった仏教とのバランスを採りつつ、それぞれの振興政策を打ち出してゆくこととなります。・・・

      ※ 同年5月1日:「天武天皇」が、“初めから宮廷に仕える者達”を、まず「大舎人(おおとねり)」とし・・・次に、“それぞれの才能により職に当たらせる”という「官人登用制度」を整備して・・・「婦女であっても、夫の有無に関わらず、望む者には宮仕えを許す。」・・・と、「詔」する。【※官人の登用制度】


      ※ 西暦675年正月元日:“大學寮(だいがくりょう)の諸(もろの)學生(がくしょう)”や、「陰陽寮(おんみょうりょう)」、「外薬寮(がいやくりょう)」、“舎衞(しゃえ)の女”、“堕羅(だら)の女”、「百濟王善光(くだらのこにしきのぜんこう)」、“新羅の仕丁(しちょう)ら”が、「天武天皇」に対して、「薬」や“珍品”を、捧げ奉りて、「新年」を、賀す。・・・「大學寮」とは、式部省(※現在の人事院に相当します)の直轄下にあった官僚育成機関のこと。・・・「陰陽寮」とは、中務省に属した機関の一つ。占いや天文、時、暦の研究や編纂を担当する部署のこと。「うらのつかさ」とも。・・・「外薬寮」とは、宮中内外の医事を担当する部署のこと。後に、典薬寮(てんやくりょう)となって、宮内省に属します。・・・“新羅の仕丁”とは、新羅の命令によって、古代日本の朝廷側の雑役に服した者のこと。今に云う、出向役人のこと。おそらくは、“新羅から届けられる調に関する仕事をしていた”と考えられます。「つかえのよぼろ」とも。
      ・・・ちなみに、「百濟王善光」とは、かつての百濟王・豊璋の弟であり、「禅広」とも表記されますが・・・ここにあるように、「百濟王善光」は、帰化した後に、新生大和朝廷に仕えることとなり・・・やがては、“彼の子孫”に当たる「百濟王敬福(くだらのこにしきのきょうふく)」という人物が、陸奥守在任時の西暦749年に、陸奥國小田郡において、黄金を発見し、奈良の東大寺における大仏建立に貢献することとなり・・・そして、「橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱」や、「藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱」における鎮圧時の功績などによって・・・官位としては、“従三位(じゅさんみ)の刑部卿(ぎょうぶきょう)を授けられる”ことになります。・・・しかしながら、当時の唐王朝や、新羅が奪い合っていた朝鮮半島に残る百濟人(=百濟遺民、百濟難民)達は、このように古代の日本(やまと)や、新羅、渤海(ぼっかい)、靺鞨(まっかつ)などへと四散することとなって・・・結局のところは、“百濟民族(≒百濟種族)が滅んでしまった”とも云えるのです。
      ※ 同年正月5日:「占星台(せんせいだい)」を、「設置」する。・・・「占星台」とは、天文を観察して、吉凶などの占いを行なう建物のこと。

      ※ 同年2月15日:「部曲(かきべ、ぶきょく)」を、「廃止」する。・・・「部曲」とは、古代における私有民や、私兵などの身分のこと。・・・その起源は古代中国にあり、元々は賤民(せんみん)や、隷属的な集団を指しておりましたが・・・

      ・・・この制度は、これ以前の倭国(ヤマト王権)の頃まで、特に「部民制(べみんせい)」と呼ばれていたものであり・・・“時の王権への従属と奉仕体制や、政権における仕事分掌の体制のこと”を云いました。また、“豪族達に私有される者”を、「部曲」と称することもありました。・・・しかし、このような制度も、やがては・・・“律令制の実施に伴なって、部については廃止傾向が強まり、次第に称号としての性格を持つように”なりますが・・・

      ・・・そもそもとして、大化の改新以前の倭国(ヤマト王権)では、「氏姓制度」とも称されて、“氏(≒豪族)達”に対しては、「姓(かばね)」を与えました。つまりは・・・
      中央の有力豪族や、軍事や祭祀を掌る豪族、渡来系帰化人を含む職能豪族達などを、「臣(おみ)」や、「連(むらじ)」、「伴造(とものみやつこ)」、「直(あたい)」、「公(きみ)」とし・・・
      地方の有力豪族達を、「國造(くにのみやつこ)」、「県主(あがたぬし)」とし・・・
      その他下位の氏族達を、「首(おびと)」、「史(ふびと)」、「村主(すぐり)」などとして・・・
      ・・・秩序立てていたのです。また、これらの他にも・・・
      「皇族部」としては、“王(宮)名を付けた部”があって・・・これを、「子代(こしろ)」や、「御名代(みなしろ)」とも呼び・・・“その人達”を、「舎人(とねり)」や、「靫負(ゆげい)」、「膳夫(かしわで)」、「采女(うねめ)」として、宮などへ出仕させました。
      「豪族部」としては、“その豪族名を付けた部”があって・・・一例としては、「蘇我部(そがべ)」等がありました。
      「職掌部」としては、“その職務名を付けた部”があって・・・一例としては、「土師部(はじべ)」等がありました。
      ・・・いずれにしても、推古天皇や聖徳太子(厩戸皇子)の時代を経て・・・“孝德天皇などが進めた”とされる「大化の改新」は、“公地公民を実現するものであり、新たに冠位制度を設け、中央集権的な秩序を導入し、戸籍をも造って公民化を図ったもの”でした・・・が、戸籍を造るということ自体が容易なことではなく、その頃の地方や、寺院などでも、登録されない場合などもあったようです。・・・
      ・・・しかし、天智天皇期の西暦664年になると、「氏上(うじのかみ:※古代における氏の首長のことであり、氏神の祭祀を司る者)」が、氏人達を統率して朝廷に仕え、政治的地位や職務を世襲し・・・平安時代以降には、「氏長者とも)」や、「民部(かきべ)」、「家部(やかべ)」が定められます。
      ・・・そして、西暦670年に行なわれた「庚午年籍(こうごのねんじゃく)」の後には・・・原則としては、全ての人民が戸籍に登録されるようになりました・・・が、これも次第に・・・「部称」が、「個人の姓」として遺され・・・“それ以後は、代々父系によって継承される”ことになった訳です。

      ・・・しかし、この西暦675年2月15日の条にもあるように、“部曲を廃止した”と云うことは・・・“制度的には、改変した”と云うことなのでしょうが・・・従前の秩序が、ほぼ破綻していたか? 若しくは、この頃の社会に対する阻害要因となることが多かったために・・・「壬申の乱」で近江朝廷が大敗して、勝利した天武天皇が、更なる中央集権的国家を築き上げるためとして、天智天皇期の西暦664年頃まで遡り、その当時から付与されていた各有力氏族長の既得権益などを、一旦ご破算にした(≒リセットした)という可能性があるのではないでしょうか?


      ・・・この西暦675年には、唐王朝軍が朝鮮半島から撤収する運びとなり・・・結果的には、新羅が朝鮮半島の統一(=現在の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国南部)を果たすことになります。


      ※ 西暦676年正月25日:「天武天皇」が、“畿内や、陸奥國、長門國以外の國司に対して、“大山位以下に任命すること”を定め・・・“畿外の臣や、連、伴造、國造の子らと、特に才能があった庶人”に対しても、“宮への出仕について”を、認める。
【※官位相当制度】・・・ここにある“特に才能があった庶人”には、当然として異国からの渡来系帰化人達も含まれております。


      ※ 西暦678年10月26日:「天武天皇」が、“官人勤務評定を毎年行なうことや、官位の昇進に関する考選法”を定める。【※官人に関する考選法】・・・これらによって、官人達の勤務評定を毎年行なって、それぞれの位階を進めることとし・・・その事務については、「法官(のりのつかさ)」が執ること・・・この法官を担当する官人については、「大弁官(おおともいのつかさ)」が執ることに定めたのです。・・・“これが、官人達に対する定期的且つ体系的な昇進機会を与える考選法の初めだった”とされます。・・・いずれにしても・・・当時の天武天皇や、鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)、各地の有力豪族など・・・つまりは、“大和朝廷の当初期を担っていた人々の間で、唐王朝のような官人登用制度に関する理解や、このように合理主義的な発想に対する一定程度の同意がなければ、到底決められなかったこと”と云えます。
      ・・・“天武天皇や鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)のカリスマ性や、政治的な求心力が、もの凄かっただけ”なのか?・・・それとも、“天皇及び皇后の傍にあって、西暦673年5月1日前後からの官人登用制度により宮に仕えていた者達による計画立案などが、素晴らしかっただけ”なのでしょうか?・・・おそらくは、“どちらも”と、云えるのかと。・・・・それこそ、西暦673年5月1日から数えて、約5年と半年が経過していた時期ですので。・・・“施行タイミングとしては、絶妙だった”と云えます。・・・どんな制度も、箍(たが)が緩むと、ロクなことは起きませんので。


      ※ 西暦679年5月5日:「天武天皇」が、「皇后・鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)」と“6人の皇子ら”を伴なって、「吉野宮」へ、「行幸」する。・・・
      ※ 同年5月6日:「天武天皇」が、「皇后・鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)」と、“その間に儲けた草壁皇子(くさかべのみこ)や、大津皇子(おおつのみこ)、高市皇子(たけちのみこ)、忍壁皇子(おさかべのみこ)、川嶋皇子(かわしまのみこ)、志貴皇子(しきのみこ)”に対して・・・“草壁皇子を、次期天皇とすること”を、「宣言」し・・・“お互いが助け合うことはあっても、決して皇位継承争いを起こさないように”と、誓わせる。【※吉野の盟約、吉野の誓い】・・・尚、この後の西暦681年2月25日に、草壁皇子が実父の天武天皇により、「皇太子」に指名されます・・・が、後に器量が優れていて、ライバル視される大津皇子が、政治参画することとなって・・・結局のところは、“この時の天武天皇らによる後継者指名そのものが、曖昧とされた格好になります”が。・・・ちなみに、ここにある「志貴皇子」とは、天武天皇の兄だった故天智天皇の第7皇子でしたが、この盟約の場面での登場が、初見とされております。
      ・・・それでも、皇后・鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)が、故天智天皇の娘でもありましたので、“血統的には皇位継承を持った男子だった”ということになります。・・・“少なくとも、天武天皇ご夫婦は、その可能性を持つ皇子であると、考えていたこと”が分かります。わざわざ、吉野宮へ連れて行った訳ですので。


      ※ 西暦680年11月12日:「天武天皇」が、“皇后・鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)の病気平癒のため”として・・・“薬師寺の建立”を、命じる。・・・“読んで字の如く”の「薬師寺」という名称です。


      ※ 西暦681年2月25日:「天武天皇」が、“飛鳥浄御原(律)令の制定”を、命じて・・・「草壁皇子」を、「皇太子」に立てる。・・・この時点では、まだ飛鳥浄御原)令)(あすかきよみはら)りょう)さえも、完成していませんので、ご注意を。・・・これがようやく出来上がるのは、後の西暦689年(持統天皇3年)のこととなります・・・が、ここにある「飛鳥浄御原(律)令」とは、飛鳥時代後期に制定される体系的な法典であって、「令」が22巻。“律令のうちの令のみが制定され、施行されたものだった”ため、「律」の字を抜いて、「飛鳥浄御原令」と呼びます。“日本史上初の体系的な(律)令法典だった”と考えられております・・・が、残念ながら現存しておらず、詳細については、尚も不明な部分が多いです。
      ・・・いずれにしても、この日の天武天皇は、皇子や諸臣達に対して、このように律令制定を命ずる詔を発した訳ですが・・・この(律)令が完成する以前の西暦686年に、天武天皇が崩御してしまうため、皇后・鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)と皇太子・草壁皇子が、この(律)令事業を継承しました。・・・しかし・・・故天武天皇の服喪が明けた後に、皇太子・草壁皇子が次期天皇として即位する筈でした・・・が、今度は、その皇太子が西暦689年4月に急死してしまいます。・・・これらの事情により、“飛鳥浄御原令が完成して諸官司へ頒布されたのは、その直後の同年6月のこと”となりました。・・・結局のところ、律が制定されずに、令のみが唐突に頒布されていることなどから・・・“皇太子の急死による政権内の動揺を抑え、故天武天皇の律令制定という遺志の継承を明らかにするために、当初の予定を前倒しにして、令のみが急遽公布された”と考えられています。
      ・・・このような事情により、急遽施行され、不完全だった飛鳥浄御原令ですが・・・それが故に・・・律令の編纂作業も、それ以後に継続されることとなり・・・最終的には、西暦701年の「大宝律令(たいほうりつりょう)」によって、“天武天皇が企図していた律令編纂事業が完成する”こととなるのです。

      ※ 同年3月17日:「天武天皇」が、「川嶋皇子」や、「忍壁皇子」、「廣瀨王(ひろせのおおきみ)」、「竹田王(たけだのおおきみ)」、「桑田王(くわたのおおきみ)」、「三野王(みののおおきみ)」、「大錦下・上毛野君三千(かみつけのきみみちち)」、「小錦中・忌部連首(いんべのむらじおびと)」、「小錦下・阿曇連稻敷(あずみのむらじいなしき)」、「難波連大形(なにわのむらじおおかた)」、「大山上・中臣連大嶋(なかとみのむらじおおしま)」、「大山下・平群臣子首(へぐりのおみこびと)」へ、「詔」して、“帝紀及び上古諸事の編纂”を、命じる。・・・“中臣連大嶋と平群臣子首の2人が、自ら筆を執りて”、これを「記録」す。・・・この記述が、“後に完成することとなる、この『日本書紀』の編纂事業開始時を表している”と云われております。
      ・・・そもそもとして、この『日本書紀』推古天皇紀・西暦620年の条には・・・「皇太子(=聖徳太子のこと)と嶋大臣が、臣と連、伴造、國造の180部と、公民らの本記(もとつふみ)とを、并(あわ)し、共に之(これ)を議(はか)りては、天皇記(すめらみことのふみ)及び國記(くにつふみ)を録(しる)す。」・・・とあります。・・・それでも、この条にある『天皇記』は、残念ながら現存しておりませんが・・・“天皇の世系や事績等を記したものであり、『帝皇日継(帝紀)』と呼ばれるものと同類だったろう”とされています。・・・また『國記』も、現存しておりませんが・・・“神代より推古朝に至るまでの國の歴史であり、諸豪族などの記録も含まれていただろう”とされているのです。
      ・・・更には、同じく『日本書紀』皇極天皇紀・西暦645年6月13日の条では・・・「蘇我臣蝦夷らが、誅せられしにて、天皇記と國記、珍宝など悉(ことごと)くを焼く。船史惠尺(ふねのふびとえさか)が、すなわち疾(はや)くに、焼かれし國記を取りて、中大兄に奉献りし。」・・・とあり、“それまで蘇我氏によって管理されていた『國記』だけは、火災の最中(さなか)から、船史惠尺の手によって救い出され、中大兄皇子(※後の天智天皇)に奉献されていたこと”が分かります。・・・しかしながら、“この火災時に焼け残った”と云う『國記』については、“中大兄皇子(※後の天智天皇)から、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)の中臣氏などに下賜され、その管理下に置かれていた可能性”があり・・・或いは、“船史惠尺の手によって救い出された『國記』が、当時の中臣鎌足(※後の藤原鎌足)などに渡った後に、これを写本してから、中大兄皇子(※後の天智天皇)へ奉献された”という可能性もあるのです。・・・とすれば、ここにある記述中に、中臣連大嶋が登場することにも頷ける訳ですが・・・

      ・・・これらのことについては、“中臣鎌足(※後の藤原鎌足)や中臣氏の事情が、深く関わっている”と考えられるのです。・・・そもそもとして・・・遡ること西暦645年当時の中臣鎌足(※後の藤原鎌足)が、自身の長男(※定恵のこと)を出家させて唐へ留学させるという意図を、既に持っていたのか?  については、憶測の域を出ませんが・・・いずれにしても、“当時の中臣鎌足(※後の藤原鎌足)は、娘の斗売娘(とめのいらつめ)の夫に、同族の中臣意美麻呂(なかとみのおみまろ)を迎えて、婿養子とし、一時は自身の後継者の一人としていたよう”なのです。
      ・・・しかし、後に次男の不比等(=史)が産まれた(・・・※このため、不比等が○○天皇の御落胤とする説もあるのですが・・・)ことで、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)を取り巻く状況や、事情が変化し・・・やがて、長男の定恵が僧として、唐から帰国する・・・と、間もなく中臣鎌足(※後の藤原鎌足)が亡くなり・・・この時の不比等(=史)が、若年だったためか? 結果的に、中央政権から距離を離されることとなって・・・その代わりとしてなのか? 今度は、中臣連金(なかとみのむらじかね:※藤原鎌足の従兄弟)が、近江朝廷によって重用され始めます・・・が、後には、この中臣連金も、近江朝廷の右大臣だったため、「壬申の乱」によって処刑されてしまいますが。・・・やがて・・・時を経て、この『日本書紀』天武天皇紀で語られる頃になると・・・こういった経緯(いきさつ)があったためなのか? この条にもあるように、中臣連金の甥でもある中臣連大嶋が、頭角を現して来た模様なのです。
      ・・・別ページでも、何度かふれておりますが・・・“中臣氏そのものは、これらのように政治の場で表立って関わる氏族と云うよりは、祭祀を司る氏族だった”と云うべきですので。但し、古代の日本(やまと)では、政治も祭祀も、同様に一括りとして、「政(まつりごと)」と、一言で云われてしまえば、そうであるとも云えるのですが。・・・いずれにしても、この当たりの事情については、別の『常陸風土記』関連ページでも、ふれておりますが・・・“帝紀及び上古諸事や、後の風土記の編纂事業において、これらの中臣氏が深く関わっていたという事実は、『記紀』などに与える影響としては、かなりのものがあった”と考えられるため、到底無視することは出来ません。何せ・・・ここの条にもあるように、“自ら筆を執って(≒我先にと率先して)、中臣連大嶋ら2人が記録していた訳です”から。・・・「記録役」とは、“史料として挙げられて来た、数々の事柄に対して、矛盾を極力避けようとする筈”なのです。

      ・・・“自ら筆を執って(≒我先にと率先して)記録した”と云う平群臣子首が、これら帝紀及び上古諸事の記録役に加わった詳しい経緯(いきさつ)までは分かりませんが・・・『古事記』上卷并序には・・・「『朕(われ)が聞きつるに、【諸家が持ちたる帝紀及び本辭は、既に正實(まこと:=真実)に違(たが)いて、多くが虚僞を加えし】と云えり。今の時に當(あ)たりて、其の失(あやまり)を改めずは、未だ幾年も經ずして其の旨(むね)滅びなんとす。これ、すなわち邦家の經緯、王化の鴻基(こうき)なり。故にこれ、帝紀を撰録し舊辭(ふるきことば)を討覈(とうかく)して、僞りを削り實(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)えんと欲す。』と、のりたまう」・・・とあります。“この内容が事実だった”とすれば・・・“各諸家においても、帝紀及び本辭が伝えられていた”こととなり・・・“平群氏においては、この子首が、この分野の第一人者だったと推察出来る訳”です。

      ・・・おそらくは・・・“上毛野君三千や、忌部連首、阿曇連稻敷、難波連大形については、中臣連大嶋や平群臣子首と同様に、このような史書編纂のために、その能力を買われた人材”であって・・・“川嶋皇子や、忍壁皇子、廣瀨王、竹田王、桑田王、三野王らは、それぞれの編纂担当者の相談役兼監督役だった”と考えられます。・・・ちょうど、6人対6人となりますので。

      ・・・ちなみに、「忌部連首」の「忌部(いんべ)氏」とは・・・後の「斎部(いんべ)氏」のことであり・・・この時の忌部連首の子孫に当たる斎部広成(いんべのひろなり)が、同様に祭祀を司る氏族であった中臣氏などに対して、なかなか批判的な『古語拾遺(こごじゅうい:※平安時代の神道資料)』を記すことになります。・・・

      ・・・いずれにしても、『古事記』や『日本書紀』、『古語拾遺』などのように、公(おおやけ)にされたもの以外は・・・やがては、“伝承禁止とされ、諸家に伝わっていたものについては、世の中から消え去る運命にあった”とも云えるのでしょう。・・・当時を想像するに・・・古来より中国では、今に伝わる漢字が発明される以前から、甲骨文字や金文などを用いる史官の伝統がありましたが・・・“古代の日本では、歴史的な事実や、それを含む神話として、これらが口伝によって各地において伝承され、祝詞のような格好で以って、当時の神官達が守り伝えていた”のでしょうから。・・・そして、その口伝により伝えられていた伝承の格好を変えてまで、文書化することに対しては・・・“当然の如くに、伝承者たる神官達の反発が当初は相当にあった”と考えられるとともに・・・時の天皇や、王権などが、現実として文書化を主導していたのか? については、疑問が残ります。
      ・・・おそらくは・・・古代の日本(やまと)に漢字が導入され始めた頃から・・・蘇我氏のように、“渡来文化を積極的に政治利用しようとする勢力が、渡来系帰化人の血を受け継ぐ者達を、史(ふびと)として採用し、従前の口伝伝承を文章化することが、試験的且つ徐々に始められる”こととなり・・・やがて、聖徳太子(厩戸皇子)の頃には・・・“公(おおやけ)が、それらを行なうべきものと、認識されていった”のでしょう。・・・それにしても・・・どの口伝伝承を、正式且つ公式のものとするのか? 或いは、それらの口伝伝承を、どのような文書とするのか?・・・“これだけでも、かなり困難な事業だった”と云える訳です。・・・更には・・・『古事記』に比べて、この『日本書紀』は、対外的に意味を持つ公式文書としての性質を持つため・・・“古代の日本人(やまとびと)以外にも理解される表現方法としなければならず、その困難度合いは非常に高かった”と考えられるのです。
      ・・・しかしながら、かつての推古天皇や皇極天皇などが後世に遺すことが叶わなかった帝紀及び上古諸事の編纂を・・・この西暦681年3月17日に、天武天皇が、改めて詔したことによって・・・逆説的ではありますが、『記紀』すなわち『古事記』と『日本書紀』が、“現在まで伝わった”とも云え・・・このことを発端に、天武天皇自らが『帝紀(=帝皇日継)』と『旧辭(=先代旧辭)』を定めたことにより・・・“史上初めて、天才舎人とも云われる稗田阿礼(ひえだのあれ)に詠み習わせることが出来た”のです。・・・“この稗田阿礼の記憶を基に、後に太安万侶が筆録したもの”が、やがて、『古事記』として完成されます。・・・『古事記』と『日本書紀』のいずれも、その完成時期は、天武天皇の没後となりましたが、“日本に現存する最古の史書とされている所以”です。・・・尚、『記紀』の二書を並立させた意図や理由については、確固たる定説はありません・・・が、それぞれの記述内容を読めば、“天皇系譜の統治支配を正当化している点については共通していること”が分かります。
      ・・・しかし、“長大な漢文体によって、或る意味で一貫性を犠牲にしてまでも、多数の説を併記するとともに、対外的な公式文書としての性質を持つ、この『日本書紀』が、云わば合議分担制により編纂されたこと”に対して・・・“短文体であり、ほぼ内容的に首尾一貫している『古事記』の方が、天武天皇個人の哲学や意志などの精神性が、より込められている可能性がある”との指摘もあります。・・・ちなみに、以前のページとも重複致しますが・・・2005年11月13日に、奈良県において、『日本書紀』の記述内容を裏付ける蘇我入鹿の邸宅跡が発見されており・・・これによって、今後の発掘成果次第では・・・もしかすると・・・『天皇記』や『國記』の一部に関連する遺物が発見される可能性があることを、念のため付け加えておきます。


      ※ 西暦682年9月2日:「跪礼(きれい、ひざまつくいや)」と「匍匐礼(ほふくれい、はういや)」を、廃し・・・“立礼(りつれい)とすること”を、命じる。・・・「跪礼」とは、“跪(ひざまつ)き、両手を地に付けて行なう礼とされ、日本には古来から伝わっていたものだったよう”でして・・・いわゆる『魏志倭人伝』にも・・・「下(しも)の戸(いえ)は、大人と道路にて相逢えば、逡巡(しゅんじゅん)しては草に入り、辭(ことば)を伝え事を説くには、或いは蹲(うずくま)り、或いは跪き、両手は地に拠りて、これが恭敬を爲す。」・・・とあります。・・・今風に云えば、“正座から始まるお辞儀の動作だった”のでしょうか?・・・「匍匐礼」とは、“宮門の出入りに際し、両手を地に付け、足を屈(かが)めて進む礼”とされています。・・・「立礼」とは、“起立して行なう礼であって、中国の唐の制に倣ったものであろう”とされています。


      ※ 西暦683年4月15日:「天武天皇」が・・・「今より以後は、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること莫(なか)れ。」・・・と、「詔」する。【※富本銭(ふほんせん)の発行】・・・富本銭は、“古代の日本(やまと)で鋳造された”と推定されている銭貨(銅貨)です。後の西暦708年(和銅元年)に発行される和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)と比べると・・・“年代としては、やや古いものの、実際にこの貨幣が流通していたのか? について”や・・・“厭勝銭(えんしょうせん:※まじない用に使われる銭のこと)として、限定的に使われていたのではないか? について”は・・・説が分かれております。

      ※ 同年12月17日:「天武天皇」が、「複都制の詔」によって・・・「飛鳥」とともに、「難波」を「陪都(ばいと)」とする。・・・この時、“宮の建物については、かつて孝德天皇により造営された難波宮を、そのまま受け継いだ”とされています。・・・ちなみに、この「複都制の詔」が行なわれた背景には・・・やはり、“当時の唐王朝を、強く意識していたことがあった”と考えられておりまして・・・後の西暦793年(延暦12年)の桓武(かんむ)天皇によって、それまで永らく陪都とされていた難波宮が、正式に廃されることになる・・・と、翌西暦794年(延暦13年)には、“従前の長岡京(ながおかきょう)に替わる新京”として、「平安京(へいあんきょう)」へと遷都されることとなります。・・・この時の「平安京」が、現在の京都に繋がっている訳です。


      ※ 西暦684年2月28日:「天武天皇」が、「淨広肆・廣瀨王(ひろせのおおきみ)」や、「小錦中・大伴連安麻呂(おおとものむらじやすまろ)」、“判官(ほうがん)、録事(ふびと:≒史)、陰陽師(おんみょうじ)、工匠(たくみ)ら”を、「畿内」に遣わして、“都を造るべき地”を、視占(み)しめたまう。・・・是の日、“三野王(みののおおきみ)や、小錦下・采女臣筑羅(うぬめのおみつくら)ら”を、「信濃」に遣わして、“地形”を、看(み)しめたまう。是の地を、將(まさ)に都とするか。・・・この時の天武天皇は、唐風の新都を造るためだったのか? 今に云う、“実施設計が出来る程の本格的な視察団を、畿内に派遣した模様”です。
      ・・・そして、これと同時に、これも唐王朝に倣って、東國に陪都を置こうとしたのか? “地形などの視察のためとして、信濃へ使いを派遣した模様”です。こちらは、今で云えば、“候補地探し”となります・・・が、最適地が見つからなかったのか? “実際には、計画着手までは至らず終いとなった模様”なのです。・・・但し、逆に考えれば・・・“この時の天武天皇が、大和朝廷の先行きを考えて、東國の重要性を認識していたこと”も分かりますし・・・“本州の背骨とも云える信濃へ派遣したことも、流石(さすが)だな”と感じます。この記述にある信濃の地とは、“軍事的に云えば、日本列島の奥地にあって、海外勢力からは攻略され難い処”ですから。・・・しかし、“防衛には適していても、攻勢のためには不向きな土地だった”とも云えますが。・・・この当たりの事情には・・・“当然に影響する”と考えられる東アジア情勢が刻々と変遷していたことがあったため・・・“陪都を、もう一つ信濃に造るという着想をしながらも、現実としては計画着手までには至らなかった”と云うことなのでしょう。

      ※ 同年10月1日:「八色の姓(やくさのかばね)」を、定める。・・・「八色の姓」とは、「真人(まひと)」や、「朝臣(あそん、あそみ)」、「宿禰(すくね)」、「忌寸(いみき)」、「道師(みちのし)」、「臣(おみ)」、「連(むらじ)」、「稲置(いなぎ)」・・・の、八つの姓のこと。・・・ちなみに、天武天皇自身の和風諡号は、天渟中原瀛真人天皇であり・・・ここに「真人」が使用されているため、“八色の姓の筆頭とされていること”が分かります。


      ※ 西暦686年正月14日:「難波」の「大藏省」より「失火」して、“宮室の悉(ことごとく)”が焚(た)ける。或いは、曰く・・・「阿斗連藥(あとのむらじくすり)の家より失火し、(火が)引けるも、宮室へ及ぶ。」・・・と。唯(ただ)、“兵庫職(つわもののつかさ)のみ”が、焚けず。・・・久々となりますが・・・“この年の正月早々に、難波の宮室が、焼かれたのではなく、焚かれた”という凶事として、ハッキリと表現されております。この火災の原因については、“大藏省からの失火であれ、阿斗連藥の家からの失火であれ、兵庫職以外を悉(ことごと)くに、燃やし尽した”と。・・・“たった2年程前に、難波の宮を陪都とした天武天皇の意図さえも、結果として打ち砕くような出来事だった”のでしょう。・・・もしも、これが失火ではなく、落雷などに依るものだったならば・・・当時の人々からは、“天から見放されたものだ”などと、受け止められかねませんし。・・・

      ※ 同年5月24日:「(天武)天皇」が、“(自身の)體(からだ)”を、不安(に思い)始めり。因って、“川原寺(かわらでら)に於いて、藥師經(やくしきょう)を説からしめる”を以って、「宮中」で「安居」する。・・・しかし・・・“仏教による効験によって、自身の快癒を祈願させた”・・・ものの、その効果が小さかったのか? この時の天武天皇は、宮中で安静にしていた模様・・・。

      ※ 同年7月15日:(天武天皇が)「勅」して、曰く・・・「天下の事、大小を問わず、悉(ことごとく)を、皇后及び皇太子に啓(もう)せ。」・・・と。是の日、「大赦」する。・・・この時の天武天皇は、一切合財(いっさいがっさい)悉(ことごとく)を、皇后・鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)と皇太子・草壁皇子に委ねて、大赦まで行ないましたが・・・。
      ※ 同年7月20日:(天武天皇が)「元(はじめのとし)」を改めて、「朱鳥元年」と曰う。【※(注釈)朱鳥、此を 阿訶美苔利 と云う※】仍(よ)って、「宮」を「飛鳥淨御原宮(あすかきよみはらのみや)」と、名(付)けしと曰う。・・・この日、“元号を改めて”と云うか・・・久しぶりに、「朱鳥(あかみとり)」と。・・・ちなみに・・・“古来より、白色を吉兆とする慣習がありました”・・・が、“この頃には、朱色などの赤系色も、吉兆とされるようになっていた”とのこと。・・・このことについては、この天武天皇が、まだ大海人皇子と呼ばれていた頃に遡ることが出来ますが・・・「壬申の乱」において、“この大海人皇子(※後の天武天皇)の旗印として、この朱色などの赤系色を採用していたこと”に依るそうです。・・・どうやら・・・これが、紅白両色を愛でる現代日本人の感性の起源のようであります。・・・我々現代人が、一般的にイメージしてしまうのは、どうしても・・・後世の「源平合戦」における光景を思い浮かべてしまいますが。
      ・・・尚、天武天皇は、このように「改元の詔」を行ない・・・更に、この後にも、神仏に対して、自らの快癒を、それぞれに祈らせましたが・・・。・・・いずれにしても・・・再び、このように元号を使用し始めるのは、“西暦654年(白雉5年)10月10日から数えて、約32年ぶりのこと”となります。

      ※ 同西暦686年(朱鳥元年)9月9日:“(天武)天皇の病い”が、遂に差(い:≒癒)えずして、“正宮にて、崩られし”ものなり。【※天武天皇の崩御※】(これにより)「皇后・鵜野讚良皇女」が、「稱制(しょうせい:=称制)」に臨む。(※持統天皇元年)・・・天武天皇の享年については・・・いずれも後世史料となりますが・・・『一代要記(いちだいようき)』紹運録では、「65歳」と・・・『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』などでは、「73歳」と・・・されています。・・・しかし、いずれにしても・・・“これらの年齢では、兄だった故天智天皇よりも年長となってしまうため、それはあり得ないこと”・・・と、今日では考えられております。
      ・・・したがって、前述の「65歳」を、“錯誤であったり、誤記だった”と捉え、「享年56歳」とする説が強く・・・これにより、“大海人皇子(※後の天武天皇)の誕生年を、西暦631年(舒明3年)とする説が最有力”となっています・・・が、逆に云えば・・・“この天武天皇は、年齢などをも超越した存在だったかの如く、その根拠となるものを遺さなかったよう”でもあります。

      ・・・ふり返れば・・・大海人皇子(※後の天武天皇)は、兄である天智天皇の死後の西暦672年に、「壬申の乱」において、天智天皇の皇子である大友皇子(≒弘文天皇)を倒し、その翌年に即位しました。・・・大海人皇子(※後の天武天皇)が、朝廷を主導していた期間は、「14年間」。天皇即位から数えれば、「13年」に亘ります・・・が、“飛鳥淨御原宮を造営したことなどに関わって、その治世後に続いた持統天皇期と合せて、天武持統朝などと一括りにして語られていることが多い”と云えます。・・・しかも、この時期は、“古代日本の統治機構や、宗教、歴史、文化などの原型が創られた重要な時代だった”とも云えますし・・・“持統天皇期については、天武天皇の路線を基本的に引き継いで完成させたものが、そのほとんどであり、その発端の多くは天武天皇期に遡ることが出来る”のです。・・・この時代についてを、「白鳳(はくほう)文化時代」とも云います。・・・ちなみに、『萬葉集』には・・・「大君(おおきみ)は神にしませば~」・・・で始まる、天武天皇を偲びつつも、神格化して詠まれる和歌が、幾首かありますね。

      ・・・人事面では・・・この天武天皇は、皇族を要職に就けて・・・他の氏族らを、皇族達の下位に置く「皇親政治」を執りました・・・が、“自らは皇族などからの束縛を受けずに、専制君主として君臨していた”と考えられています。・・・そして、「八色の姓」の発布では、従前の氏姓制度を再編するとともに、本格的な律令制導入に向けた制度改革を、推し進めました。・・・また、「飛鳥浄御原令」の制定や、新都とされる「藤原京(ふじわらきょう)」の造営、『記紀』の編纂などは・・・いずれも、天武天皇が始めて、その死後に完成した事業です。

      ・・・宗教面では・・・天武天皇は、道教に関心を寄せ、古神道を整備して国家神道を確立し、渡来した仏教を保護して国家仏教をも推進しました。・・・その他にも、古来からの民俗信仰や、土着的な伝統文化などの形成過程においても、“かなりの影響力があった”と考えられています。

      ・・・外交面では・・・天武天皇は、遣唐使(≒朝貢団)派遣を一切行なわずに、新羅から新羅使が来朝するようになる・・・と、大和朝廷から新羅へと向かう新羅使派遣が頻繁となって、その回数は天武天皇期だけでも、「14回」に上りました。・・・これらは、“当時の強大な唐王朝に対して、二カ国共同で対抗しようとする動きの一環だった”と考えられています。・・・しかし、天武天皇没後以降は、この二国間関係が、次第に悪化してゆくこととなりますが。・・・それでも、この天武天皇没後に、専制的だった統治路線を、ほぼそのままに持統天皇らが継承することとなり・・・以前には倭国(ヤマト王権)と呼ばれていた「大和朝廷」が・・・後の西暦701年における“大宝律令制定”によって、律令国家としての枠組みを、ほぼ完成させるとともに・・・自らの国号を、「日本」へと変えることとなって・・・“新国家建設事業についてを、ひとまず完了することが出来た”と考えられているのです。
              ・・・そして、新羅との関係が悪化していた西暦702年には、時の文武天皇によって遣唐使(≒朝貢団)が再開されることとなり・・・実際に、粟田真人(あわたのまひと)らを派遣(≒第8次遣唐使)して・・・唐王朝との外交関係が、回復されることになるのです。・・・いずれにしても、「天武天皇」とは、これらの事績などからも分かるように・・・“自ら天皇と云う称号を使用し、日本という国号をも対外的に使用し始めた最初の天皇だった”と云われます。


      ・・・尚、「天皇」という“称号そのものの由来について”は、複数の説があります。

      ① 古代中国において、北極星を意味して、また道教にも採り入れられた「天皇大帝(てんおうだいてい、てんのうたいてい)」から・・・或いは、「扶桑大帝東皇父(ふそうたいていとうこうふ)」から・・・“採用した”という説。
      ② 唐王朝皇帝の高宗が、道教由来(=上記①のこと)の「天皇」と称したことがあって・・・これが、“古代の日本(やまと)に移入された”という説。
      ③ 5世紀頃には、対外的に・・・「可畏天王」や、「貴國天王」・・・或いは、単に「天王」など・・・と称していたものが、推古朝(※西暦593年~628年)、または天武朝(※西暦672年~686年)の時代に、“天皇へと呼称統一された”とする説など。

      ・・・いずれにしても、「天皇」の「字音」を、「仮名遣い」では、「てんわう」としました・・・が、この「てんわう」は、中世の頃までに、連声(れんじょう:※前の音節の末尾の音が、後の音節の頭母音〈または半母音+母音〉に影響して、後の音節が変化すること)によって・・・次第に、「てんのう」へと“変化した”とされています。

      ・・・ちなみに、天武天皇崩御の際における「皇后・鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)」の和歌が、『萬葉集』に遺されております・・・が、この時の皇后の心中を察するに・・・“大津皇子の動向が、最も気懸りだったよう”にも想えます。・・・


      ※ 同西暦686年(朱鳥元年)10月2日:「大津皇子」が、“謀反の容疑”により、捕らえられる。・・・
      ※ 同年10月3日:「大津皇子」が、“譯語田(おさだ)の舍(いえ)”に於いて、「死」を、賜る。(=自害させられる)・・・時に、(大津皇子は)24歳なり。・・・


      ※ 西暦687年正月元旦:「皇太子(=草壁皇子)」が、“公卿と百寮人ら”を率いて、「殯宮(もがりのみや)」に適(もう)でて、「慟哭(どうこく)」する。・・・「納言(ものもうしつかさ)・布勢朝臣御主人(ふせのあそんのみぬし)」が、之(これ)の「誄(しのびごと)」をする。「禮(=礼)」なり。・・・「(この)誄」を畢(お:=終)える・・・と、「衆庶(もろもろ)」が、「發哀(はつあい)」し・・・次いで、「梵衆(ほうしども)」が、「發哀」する。・・・是に於いては、“奉膳(うちのかしわでのかみ)・紀朝臣眞人(きのあそんのまひと)ら”が、「奠(みけ:=御食)」を、奉る。・・・「(この)奠」を畢(お:=終)える・・・と、“膳部(かしわで)・采女(うねめ)ら”が、「發哀」する。・・・「樂官(うたまいのつかさ)」は、「樂(うた:=楽と舞いのこと)」を、奏(かな)でる。・・・正月元旦の儀式も行なわず、皇太子の草壁皇子が、故天武天皇の殯(もがり)を挙行しました。・・・故天武天皇の殯(もがり)の期間は、長く取られることとなり・・・この後にも、幾度か殯をすることとなります。したがって、これが第一回目の殯となります。
      ・・・ちなみに、この故天武天皇の殯には、草壁皇子が一人で企画したり、挙行を行なっていた訳では無く・・・当然に、母たる鵜野讚良皇女こと、後の持統天皇の大きな存在があり・・・“この日も、鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)は、殯宮に籠って居られた”のです。・・・そして、再び・・・この年から、「朱鳥」という元号が、使用されなくなった模様であり・・・元号使用そのものは、以後15年に亘って、一時途絶しました。それも、非正式に。・・・しかし、我々現代人が、この『日本書紀』を読む上においては、西暦の表記だけでは、時間についてを、どうしても把握し難く・・・これを是正するため、本ページの所々では、便宜的に「持統天皇〇〇年」とは致しますが。・・・
      ・・・そもそもとして、何故に・・・“故天武天皇の後継者たる草壁皇子、或いは鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)は、元号使用を15年もの間控えていた”のでしょうか? ・・・これについては、私(筆者)の私見となりますが・・・故天武天皇が、当時の朝鮮半島情勢を巡っては、唐王朝や新羅などと、硬軟織り交ぜて、日本(やまと)の立ち位置を模索したり・・・新生大和朝廷組織の基盤づくりや、国内勢力の支持地盤づくりを推し進めるなど・・・“数々の改革を指導した偉大な君主だったがため、その最中(さなか)における天武帝の崩御によって、再度の内乱の可能性の芽を摘みたかった”に相違なく・・・“併せて、異国による国内勢力への干渉を避ける狙いがあった”かと。・・・それに加えて、“皇太子・草壁皇子に、当時の政治権力を集中させるためとして、鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)が称制しているという実態について”を・・・国内の勢力は、別にしても・・・“特に、唐王朝からは、とやかく干渉されたくないという思いがあった”かと。“かつての女帝達のよう”に。
      ・・・いずれにしても、「朱鳥」という、目出度い元号のみならず・・・“元号使用そのものについても、日本(やまと)に暮らす全人民が、憚(はばか)らなければならない”という意味があったのかも知れません。
      ※ 同年正月5日:「皇太子(=草壁皇子)」が、“公卿と百寮人ら”を率いて、「殯宮」に適でて、「慟哭」する。「梵衆」が、隨いて、「發哀」する。・・・これが第二回目の殯。
      ※ 同年正月15日:“年(=歳)が80以上の者、病いが重篤な者、貧しく自ら存ることが能(かな)わぬといった京師(みやこ)の者”へ、“各(おの)に差(い:≒癒)が有るように”と・・・「絹綿(きぬわた:※目の粗い絹や綿のこと)」を、賜う。・・・ここでも、ハッキリとは主語を記述しておりませんが・・・これは、『日本書紀』持統天皇紀であるため・・・当然に主語は、“持統天皇朝”となります。・・・そして、「絹綿」とは、当時の租や、庸、調の制度においては、日本列島各地から、時の都へと送られる・・・云わば、“当時の貨幣的な役割をもった税の対象物”でした。
      ・・・したがって、この条の記述は・・・京師、すなわち飛鳥淨御原宮に於いて、と限定されますが、80歳以上の高齢者や、病気の重い者、生計の立たない貧者に対して、それぞれに格差を付けながらも、この「絹綿」を支給しており・・・鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)自らは、殯宮に籠りつつも・・・“政策実行者として、息子であった皇太子・草壁皇子を立てて、彼の慈悲と布施の功徳などをアピールするイベント”とした模様です。・・・これは、母としての親心ですね。きっと。
      ※ 同年正月19日:“直廣肆(じきくわうし)・田中朝臣法麻呂(たなかのあそんのりまろ)と、追大貳(ついだいに)・守君苅田(もりのきみのかりた)ら”を、「新羅」へ使わし・・・“(天武)天皇の喪を報せるため”に、(新羅へ)赴かせる。・・・故天武天皇の喪についてを、新羅に対して、正式な使者を立てたのでした。・・・しかし、実際には・・・新羅だけではなく、唐王朝に対しても・・・“その報せを伝える者が、既に日本(やまと)を出立していたということ”でしょう。・・・何せ、正月元旦には、盛大な殯を挙行し、宮中関係者達だけでなく、衆庶や梵衆も發哀し、その14日後には、京師(みやこ)の一部の者達に対して、絹綿を支給していた訳ですから。・・・新羅の仕丁(しちょう)やら、唐王朝に関係する者達が、日本(やまと)国内に居た筈であり・・・その日本(やまと)に君臨していた天武天皇の死という第一級の外交情報を、直ぐに伝えなかったなどという事は考えられませんし。

      ※ 同年3月15日:“自ら日本(やまと)へ渡来した高麗(こま)56人”を、「常陸國」に住まわせ・・・「田」を別け与えて、「(その)生業(なりわい)」を安んじる。・・・“高句麗系渡来帰化人達による常陸國への入植”でした。・・・旧高句麗地方での生活を諦めて、自ら亡命して来たのですね。・・・高句麗滅亡から暫らく経っていた頃ですから、一般の高(句)麗人達ではなく、それまで唐王朝によって軟禁、或いは監禁されていた旧高句麗王族だったかも知れません。・・・残念ながら、“彼ら(彼女ら)56人の名”は、この『日本書紀』には、具体的に記述されておりませんが。・・・いずれにしても、“彼ら(彼女ら)56人に与えられていた入植目的は、彼ら(彼女ら)の持つ技術などを利用し、東國にある常陸地方開発事業に生かすためだった”かと。
      ※ 同年3月20日:「花縵(はなかづら)」を以って、「殯宮」へ、進(たてまつ)る。此を、「御蔭(みかげ)」と曰(もう)す。是の日、「丹比真人麻呂(たじひのまひとまろ)」が、之(これ)の「誄(しのびごと)」をする。「禮(=礼)」なり。・・・「花縵」とは、薄い金属で、天女や花鳥を、透かし彫りにしたもの。或るいは、生花を編んだものとされています。・・・この時の「殯宮」では、丹比真人麻呂が禮(=礼)として、誄(しのびごと)を奉っており、密かに籠って斎戒する場と云うよりは・・・「誄」に、かこつけて・・・“皇太子・草壁皇子を頂点とする新たな秩序を印象付け、それを広く周知しようとする儀場の如き様相を呈していたよう”ですね。
      ※ 同年3月22日:“自ら日本(やまと)へ渡来した新羅人14人”を、「下毛野國」に住まわせ・・・「田」を別け与えて、「(その)生業」を安んじる。・・・ここでまた、新羅人の渡来・・・。・・・彼ら(彼女ら)14人もまた、政治的な立場が危うくなって、自ら日本(やまと)へ亡命して来たのでしょうか?

      ※ 同年4月10日:“自ら日本(やまと)へ渡来した、新羅の僧尼と(新羅の)百姓達・男女22人”を、「武藏國」へ住まわせ・・・「田」を別け与えて、「生業」を安んじる。・・・ 同年の3月15日の条から、“続けざま”の記述です。・・・これも、“東國に向けて、畿内の文化や渡来文化を伝搬させるための、いわゆる東國開発事業の一環だった”とは考えられます・・・が、“帰化したばかりの人々に、日本(やまと)の中心地域に、あまり長居されたくなかったから”なのでしょうか?・・・

      ※ 同年5月22日:「皇太子(=草壁皇子)」が、“公卿と百寮人ら”を率いて、「殯宮」に適でて、「慟哭」する。・・・是に於いては、“隼人(はやと、はやひと、はいと)の大隈(おおすみ)と、阿多(あた)の魁帥(ひとごのかみ)”が、“各(おの)の己(おのれ)の衆(ともがら)”を領(したが:=従)えて、互いに進みて、「誄」する。・・・皇太子・草壁皇子が、故天武天皇の三度目の殯を、盛大に挙行し・・・当時、「隼人(※南九州の薩摩地方や大隅地方に居住した人々のこと)」と呼ばれていた・・・部族長の「大隈」という人物と・・・同じく隼人の勢力と認識され、「阿多」と呼ばれていた地域の魁帥(※部族長のこと)が2人が・・・“それぞれの衆を率いて、皇太子(=草壁皇子)が催した誄の儀式に、参列した”との記述です。
      ・・・これは、つまり・・・“故天武天皇の御威光が、南九州の地まで届いて、隼人と呼ばれていた人々をも、大和朝廷に組み込んだということ”・・・・を表しており・・・また、“皇太子・草壁皇子が、この威光をも引き継ぐ正統な後継者であることを内外に示す”・・・という、もはや・・・「デモンストレーション」に他なりません。・・・尚、「大隈」という人名が、「大隈國」という“地名の語源”なのでしょうか?・・・ちなみに、古代の日本(やまと)で以って、「阿多」と呼ばれていた地域は・・・万之瀬川流域を中心とした薩摩半島西南部のことであり・・・“現在の鹿児島県南さつま市全域と、同県日置市吹上町に亘っていた”とのこと。

      ※ 同年6月28日:「罪人(つみびと)」を、赦す。・・・いわゆる恩赦です。

      ※ 同年7月2日:「詔」して、曰く・・・「凡(すべて:=全)の負債者(に対し)、自ずと乙酉年(※天武天皇14年=西暦685年)より以前の物からは、利を收(と)ること莫(なかれ)。若し、既に身を役(つか)える者あらば、利に役(つか)えること得ず。」・・・と。・・・?まず第一に、誰が詔したのか? がハッキリしません。・・・“ここまでの流れ”からすれば、皇太子であった草壁皇子ということになるのでしょうが、現実には・・・鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)ということになるのでしょう。・・・どちらにしても・・・本来は・・・“官が、春に種籾(たねもみ)を農民に貸し付けて、その収穫時に利子分を含めて返還させるという制度(※官稲出挙〈かんとうすいこ〉)でした”が・・・この頃は、未だに・・・“各地の豪族や富裕層が、私的に種籾の貸し付けなどを行なって、そして一旦は質に入れたものの、官によって再び没収されるような事態が繰り返されていた”と考えられます。もしも返済が為されない場合には、一定の労役義務が課されることが原則でしたので。
      ・・・ここの記述については、つまり・・・西暦685年(天武天皇14年)より以前の貸し付けに対しては、利子分の返済を免除したことになる訳でして・・・要するに、これも恩赦的な措置と云え・・・更に、前述の同年6月28日の条には・・・「罪人を赦す。」・・・とあります。・・・ということは、この場合の「罪人」とは・・・“概ねのところ、税務的な課役や労役する義務が不充分だった一般の民を指し示している”と考えられ・・・結局のところは、“借りた分のみの労役を提供すれば、利子分の労働提供の必要は無いとの詔が発せられたとのこと”なのです。・・・しかし、これらに伴なって・・・“実際には、各地の有力者や寺社などが、返済不能者を囲い込み、結果として奴婢などの身分へ落とすといったような社会現象が起きていた”とも考えられます。・・・いずれにしても、政策実行者としての草壁皇子を頂点とする新体制への支持を促す一環として、諸行事が意図されているかのように想われます。
      ※ 同年7月9日:“隼人の大隅と、阿多の魁帥337人ら”へ、“各(おの)に差(い:≒癒)が有るように”と・・・「賞」を、賜う。・・・ここで、同年5月22日の条にあった隼人の勢力の者達の規模が、明らかになっています。何と、その総勢が、“337人も居た”と。・・・“彼らは、それこそ南九州の地元に戻れば、各地域の代表者や顔役であり、宮に仕えては宮廷警備などに携わっていた”とも考えられ・・・このような集団が、独特な武具や衣装を整えて行動したならば、さぞかし目立っていたのではないか? と想われます。・・・これもまた・・・上記のように、新体制への支持を促すデモンストレーションの一環と考えられますね。

      ※ 同年8月5日:「殯宮」に、嘗(なうらいたてまつ)る。此(これ)を「御靑飯(あおきおもの)」と曰(い)う。・・・「嘗」とは、“新嘗祭(にいなめさい)などの嘗(なめ)”であり、新たに収穫された穀物を、神に捧げて、神がそれを嘗(なめ)るという意。・・・そして、ここでは「なうらい」と訓じて、直会(なうらい)を指しており・・・つまりは、神への供物を、降ろしお下げ頂いて、平常に直りて(=復して)会食するという意。・・・したがって、“ここでは殯の後の直会を語っている”のです。・・・「御靑飯(あおきおもの)」の「おもの」とは、“(故天武)天皇のお食事のこと”であり・・・「あおき」とは、“亡くなったことを形容している”と考えられ・・・総じて・・・“亡くなった(故天武)天皇のお食事”となるようです。・・・もしかすると・・・これと対極的な目出度い場で食す・・・「御赤飯」という料理があるのでしょうか? ・・・そう考えると、何となくイメージが掴み易いようにも想えますね。
      ※ 同年8月6日:“京城(みやこ)の耆老(おきなひと)の男女が皆”、“橋の西”に於いて、「慟哭」に臨む。・・・古代中国の「礼記」によれば・・・「耆」とは、60歳を・・・「老」とは、70歳を指します。・・・そして、古代日本の律令制施行後では・・・「老丁(ろうてい)」は、61~65歳の者を・・・「耆老(きろう)」は、66歳以上の者を指しています。・・・したがって、ここは・・・“およそ60歳以上の耆老”と読んで構わないかと想います。・・・ここに記述されている橋については、飛鳥川に架けられていた橋か? とされており・・・その橋の西側に、耆老の男女が集められたのか? 或いは、集まって来たのか? については判断出来ませんが・・・とにもかくにも、“慟哭に臨んだ”と。・・・おそらくは・・・次の条にある記述・・・“飛鳥寺に集結させられた、300人もの高僧の行列を見物するため(≒見物させるため)の、事前リハーサルだった”と考えられます。・・・ちなみに、『日本書紀』の編纂者達は、“飛鳥淨御原宮及びその周辺について”を、「京城(みやこ)」と表現しています。
      ・・・これについては・・・飛鳥淨御原宮が、既に天武天皇朝において改修されており、ひと昔前とは異なる様相であって・・・“文字通りに、城(しろ)の如くの軍事拠点としての機能を有していた筈である”・・・と、『日本書紀』の編纂者達が認識していたことを示唆しているのではないか? と想われます。
      ※ 同年8月28日:「天皇」が、「直大肆(じきだいし)・藤原朝臣大嶋(ふじわらのあそんのおおしま)」と「直大肆・黄書連大伴(きふみのむらじおおとも)」を使わして・・・“300もの龍象(おご)の大德(ほうし)ら”へ、「袈裟(けさ)を、“人別(ひとごと)に一領ずつ”、施(おく)り奉りて、「飛鳥寺」に集うことを、請う。曰く・・・「此(これ)は、天渟中原瀛真人天皇(※天武天皇のこと)の御服を以って、縫い作りたる所なり。」・・・と。・・・「詔(みことのり)の詞(ことば)」は、“酸(から)く割けて、具(つぶさ)に陳(の)ぶべからず。”と。・・・ここにある「天皇」とは、明らかに・・・称制中の鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)のことです。皇太子・草壁皇子は、天皇に即位しておりませんので。・・・「龍象」とは、水中を自在に動く龍や、陸を行く象の威力が大きいことなどから、変幻自在なことや、聖賢の威力が大きい様(さま)を譬(たと)えて、“仏教における高僧のことを指している”とされます。
      ・・・それにしても、300人もの高僧の一人一人に対して、故天武天皇の御服から作ったという袈裟を支給しており・・・しかも・・・詔の詞では、鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)が憔悴(しょうすい)し切った様子が語られておりますが・・・物理的に云って・・・本当に、300人分もの袈裟に充てる程の生地があったのか? 或いは、生糸に一旦戻して、それを袈裟に編み込んだのか? についてなどは、判断出来ません。・・・しかし、故天武天皇が偉大な人物だったとして、『故人を神格化していくの!!!』という意気込みは伝わってまいります。

      ※ 同年9月9日:「國忌(こくき、こっき)の斎(いつき)」を、“京師(みやこ)の諸寺(もろのてら)”に於いて、設く。・・・「國忌」とは、“先の天皇が崩御したとする公式な日のことであり、それまでの朝廷においては、朝務は休務とされて、斎を為していた”とされます・・・が、この当たりに・・・古代日本人の宗教観と云いますか、思想的なものが秘められているようでして・・・つまりは、肉体が滅びることと、魂が昇天することは、イコールではないといった感性が秘められているように感じます。・・・この國忌の斎は、京師の諸寺で挙行されており・・・しかも・・・この翌日には、殯宮にて設斎を行なっており・・・西暦686年(朱鳥元年)9月9日の天武天皇崩御から数えて、ピッタリと一年を経ていた・・・故天武天皇のご遺体の前で、仏式による供養が進行された訳です。・・・何故、かくも長きに亘る殯が為されていたのか?・・・むしろ、殯の行事というよりも、政治的な意図によるパフォーマンスの場との印象が拭えませんね。
      ・・・しかし・・・“何事に於いても、仏式を優先するという意思表示は、在来宗教の古神道などの伝統を重んじる人々にとっては、由々しき事態だっただろう”と考えられます。・・・“生前中の天武天皇本人ですら、在来宗教と渡来宗教のバランスを取ることに苦心していた訳です”し・・・それこそ、「壬申の乱」における神々の御加護に対する報恩のためとして、“娘の大伯皇女を、伊勢神宮の斎王にしていた”のですから・・・もう少し、配慮があっても良かったのではないか? とは感じてしまいます。・・・やはり・・・“何かを失っても、唐王朝のような律令制国家を目指すという方針を決断した時から、まっしぐらに突き進むしか道は無かった”のでしょうか?・・・“そもそもとして、聖徳太子(厩戸皇子)の時代頃からの既定路線だった“と云われれば、“そうである”とも云えますが・・・“故天智天皇の娘として生まれ、故天武天皇の皇后となった鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)ならば、一般の日本人(やまとびと)の感覚などを理解出来なかった筈も無い“のでは? と想うのですが・・・。
      ※ 同年9月10日:「殯宮」に於いて、「設斎」する。
      ※ 同年9月23日:「新羅」が、“王子・金霜林(こんそうりん)や、級サン・金薩慕(こんさちも)、級サン・金仁述(こんにんじゅつ)、大舍・蘇陽信(そようしん)ら”を遣わして・・・「國政」を「奏請」して、且つ「調賦」を、獻る。「學問僧・智隆(ちりゅう)」が、附(したが)いて至れり。・・・「筑紫大宰」が、“便(すなわ)ち、(天武)天皇が崩れませしこと”を、“(金)霜林ら”に、告ぐ。・・・即日(そのひ)、“(金)霜林らは皆、喪服を着て、東に向いて、三(たび)拜みて、三(たび)發哭する”と。
・・・“事実として、天武天皇崩御の報せは、既に新羅に届いていたため、新羅側が王子を筆頭とする使節団を派遣して来た”のです。・・・当時の新羅としては、“故天武天皇に対する弔問を機会とするため、學問僧だった智隆を伴なってまで、大和朝廷との間の外交関係の改善を求めていた”のでしょうが・・・一方の大和朝廷としては、“一旦は筑紫に留め置くこととし、あくまでも國政奏請と調賦獻上の使節団としたよう”であります。
      ・・・この時称制中の鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)は、“草壁皇子を何とかして天皇に即位させるために、頭が一杯であって、外交分野にまで踏み込む余裕が無かった”のか? 或いは、“依然として、新羅を警戒するという政策方針に変更が無かっただけ”なのか?・・・それにしても・・・同年正月19日には、大和朝廷側から、直廣肆・田中朝臣法麻呂や、追大貳・守君苅田らを、公式に新羅へ使わして、(天武)天皇の喪について赴かせている訳ですから・・・むしろ、このような対応方法が、既に決められていたのか?・・・いずれにしても、“当時の新羅側にしてみれば、不本意だった”でしょう。・・・ちなみに、「調賦」とあるので・・・“この時の大和朝廷が、新羅からの税収として、武具類を受け取っていたこと”も分かりますが・・・。

      ※ 同年10月22日:「皇太子(=草壁皇子)」が、“公卿と百寮人らや、諸の國司、國造及び百姓の男女”を率いて、「大内陵(おおうちのみささぎ)」を、築き始める。・・・“この日の時点で、皇太子を筆頭に、宮廷関係者のみならず、各地の國司や、國造、百姓の男女らを引き連れての視察(兼築造工事)を始めたよう”であり・・・尚も、パフォーマンス的な行事を、続行している模様ですね。・・・今で云うなら、“お披露目を目的とした地鎮祭(じちんさい)みたいな行事だった”のでしょうか?・・・故天武天皇の墓地予定地は、ずいぶん前から決まっていたでしょうに。

      ※ 同年12月10日:「直広參(じきくわうさん)の路眞人迹見(みちのまひとのとみ)」を以って、“新羅(しらぎびと)への饗の爲の勅使”とする。・・・是の年なり、「大歳丁亥」は。・・・この時の大和朝廷は、“新羅からの使節を、筑紫において饗応するために、路眞人迹見を派遣した”とのこと。・・・まず、ここにある「路眞人迹見」とは・・・『日本書紀』天武天皇紀によれば、西暦685年(※天武天皇14年のこと)9月の条にあるのですが(※本ページでは省略させて頂いております)・・・日本(やまと)国内の各街道に、朝廷から巡察の使者が派遣された際に、「南海道」を担当していた人物です。・・・次に、この条では・・・「新羅」を、「しらぎびと」・・・と訓じており、“新羅という土地についてを、国家とは見做さず、さも大和朝廷の一地方のように扱っているよう”にも想えます。・・・これは・・・“唐王朝から、何らかのお墨付きを与えられて、冊封的な理屈によって、当時の大和朝廷が外交的な意思表示をしたということ”なのでしょうか?
      ・・・確かに・・・これより約一年前の同年正月19日には、大和朝廷が直廣肆・田中朝臣法麻呂らを新羅へ向かわせた時の記述では・・・「新羅へ使わし」・・・となっており・・・「遣」などの、“大和朝廷側から朝貢的なニュアンスを含む字”は、当てておりませんでした。・・・とすれば、同年4月10日の条にあった、“自ら日本(やまと)へ渡来したので、大和朝廷が武藏國に田を与えて住まわせたとされる僧尼や、百姓の男女22人から成る新羅人達の集団は、当時の新羅が正式に派遣した使節団だった”という可能性が浮上してまいります。・・・そして、同年4月10日時点における大和朝廷は、何らかの理由によって、新羅が派遣して来たという集団を、正式な使節団として認めなかったという事かも知れません。・・・“だから、武藏國へ送ったのである”と。
      ・・・この頃の大和朝廷側からすれば、新羅という國家は認めず、朝鮮半島の一部の地方であるとの立場であって・・・『筑紫への勅使には、直広參・路眞人迹見ぐらいで充分であるし、しかも王子などの相当な位階を持つ官人らを派遣して来たのが、約一年も経過した今なのか!! 不遜にも程がある!!!』 との“外交的な意思表明もあったか“と。・・・しかしながら・・・相手方は、僧尼まで派遣してくれているのですから・・・うーん、どうなのでしょう?・・・もしも、これらが事実だったなら、そもそもとして・・・同年正月19日に、大和朝廷側が直廣肆・田中朝臣法麻呂らに託した外交的なメッセージとは、いったい、どんな内容だったのでしょうか?・・・いずれにしても、ここにある「大歳丁亥」とは、この西暦687年のこと。・・・これについてを、わざわざ記述したのは、“読み手のためだった”と考えられます。・・・きっと、“ハッキリさせておきたかった“のでしょうね。特に、唐王朝に対して。


      ※ 西暦688年正月元旦:「皇太子(=草壁皇子)」が、“公卿と百寮人ら”を率いて、「殯宮」に適でて、「慟哭」する。(※持統天皇2年)・・・故天武天皇の四度目の殯です。・・・この年も、「賀正の儀」は行なわれず、皇太子・草壁皇子が公卿と百寮人らを率いて、殯宮を適でることが、最優先とされた模様です。
      ※ 同年正月2日:「梵衆」が、「殯宮」に於いて、「發哀」する。・・・
      ※ 同年正月2日:「藥師寺」に於いて、「無遮大會(かぎりなきおがみ、むしゃだいえ)」を、設く。・・・「無遮大會」とは、天皇が施主となり、供養と布施を行なう法会(ほうえ)のこと。・・・それまでの無遮大會は、“天武天皇の崩御年、つまりは西暦686年(朱鳥元年)の12月に、大官寺や、飛鳥寺、川原寺、小墾田豊浦、坂田の寺などで営まれていたとのこと”です・・・が、これを今度は、「藥師寺」に絞り込んだようです。・・・いずれにしても、これらの法会の施主についてが、記述されておりません。・・・読み手としては、皇太子の草壁皇子、或いは鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)としか、見当がつきませんが・・・実際のところ、誰だったのでしょうか?・・・皇太子については、この前日に慟哭している訳ですから・・・『日本書紀』の編纂者達は、わざわざ主語を抜いて記述しているようですね。・・・遠慮せずに、ハッキリしても、良いのでは?
      ※ 同年正月23日:“(天武)天皇が崩れませしこと”を以って、“新羅の金霜林ら”へ、「奉宣」する。・・・“金霜林らは、乃(すなわ)ち三(たび)發哭”する。・・・前年の9月23日に、筑紫大宰が、新羅の王子・金霜林らに、天武天皇崩御を伝えていましたので・・・“称制中の鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)の使者が、ここで正式に、奉宣した”ということですね。・・・もはや、これは?・・・“新羅には、故天武天皇の正式な後継者は、あくまでも草壁皇子として、実際には称制中の鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)が代表者となっていることを、ひたすらに悟られないようにして、外交交渉に臨んでいたよう”にしか、想えませんね。かつての女帝時代のように。・・・もしかすると、前年の正月19日に、大和朝廷側が直廣肆・田中朝臣法麻呂らに託した外交的なメッセージは、かなり威圧的であって、且つ男性的な内容で以って必要以上に誇大化されていた可能性が高かったのかも知れません。・・・それだけ、当時の新羅が、隣接の女帝などを受け容れる文化や思想が希薄だったということなのでしょうか?

      ※ 同年2月2日:「(筑紫)大宰」が、“新羅の調賦(みつぎ)とされた、金(こがね)や、銀(しろがね)、絹、布、皮、銅(あかがね)、鐵(くろがね)の類(たぐ)いの十餘物を并(あわせ)て、獻ずる所を別け”・・・“佛像や、種々の彩絹(そめもの)、鳥、馬の類いの十餘種及び(金)霜林が獻ずる所には、金や、銀、彩色(そめのもの)、種々の珍異の物を并て、八十餘物”を、獻(ささげ)る。・・・この日に、新羅の王子・金霜林らが獻じた調賦を、筑紫大宰自らが飛鳥淨御原宮へ持参した?・・・この時の新羅側使節としては、おそらく・・・“これら財物の獻上を、新天皇(≒故天武天皇の正統な後継者)にと予定し、王子が直接に新天皇(≒故天武天皇の正統な後継者)と会見出来るような外交場面を想定していた”のでしょうが・・・一方の大和朝廷側としては、“新羅の使節団そのものを筑紫に留め置いて、そのようなことを避け、あくまでも調賦とした”のでしょう。
      ・・・その理由の一つとしては・・・既に城塞化が進められていた飛鳥淨御原宮と、その周辺状況などを、新羅(しらぎびと)から具(つぶさ)に目撃されることを嫌ったから。つまりは、軍事機密的な情報を知られたくないという、大和朝廷側の事情であり・・・もう一つには、“何らかの理由により、皇太子・草壁皇子を、即時に天武後継の天皇に即位させられなかった”という状況の最中にあって・・・(・・・※一代目が偉大な人物であるほど、二代目への世間からの目は厳しいものがあると云いますから・・・)当時の日本(やまと)も、似た様な状況があったのでしょうが・・・“中華的、そして儒教的な思想との葛藤の最中にあった新羅に対して、鵜野讚良皇女が称制し女帝として大和朝廷の頂点に立たなくてはならなかった状況が与える印象”や・・・また・・・仮に、飛鳥淨御原宮にて謁見などをする他ない状況に陥ったとしたならば、“新羅や唐王朝による政策判断が、大和朝廷へ不利益を齎(もたら)すという可能性が発生するため、これをも極力排除したかった”という都合もあったかと想います。
      ・・・いずれにしても、新羅の金霜林らからすれば、大和朝廷側の事情に翻弄される格好となり・・・不本意どころか、更に不快感を高めたのではないでしょうか?
      ※ 同年2月10日:“筑紫館に於いて(金)霜林らを饗じて、各(おの)に差(い:≒癒)が有るように”と、「賜物」する。・・・筑紫館にて新羅使節団をもてなしていた大和朝廷側担当外交官達の心境を察するに・・・“なかなか厳しい状況だったろう”とは想います。・・・何せ、現地高官のトップたる筑紫大宰は、自ら飛鳥淨御原宮へ行ってしまい不在でしたから。・・・そんな状況を、担当していた外交官達は、どのように潜り抜けたのか?・・・個人的な興味は尽きませんが・・・。
      ※ 同年2月16日:「詔」して、曰く・・・「今より以って後には、國忌の日に取(あ:=当)たる毎に、斎(いつき)とすることを要するものなり。」・・・と。・・・「斎」とは、斎戒沐浴(さいかいもくよく)のことであり・・・つまりは、神仏に祈ったり神聖な仕事に従事するため、先立って飲食や行動を慎み、水を浴びて心身を清めることですが・・・ここでは、“法要そのものを想定しているようであり、國忌などの命日(めいにち)には、仏教による供養に併せて、斎戒沐浴を行なうこととして定めた模様”なのです。
      ※ 同年2月29日:“(金)霜林ら”が、罷り帰る。・・・当然のように、新羅からの使節団が今回来日した反応そのものなどは語られず、簡潔な記述となっています・・・が、この『日本書紀』の記述を見ると・・・(金)霜林の「王子」という肩書きが省かれており、何となく伝わって来ることもありますが。

      ※ 同年3月21日:「花縵」を以って、「殯宮」へ、進(たてまつ)る。・・・「藤原朝臣大嶋」が、「誄(しのびごと)」をする。・・・ここにある「藤原朝臣大嶋」とは、西暦686年(朱鳥元年)9月の殯宮の誄の時点では、兵政官(ひょうせいかん)であり・・・翌西暦687年8月28日には、称制中の鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)からの使者とされ、飛鳥寺における故天武天皇の弔いのために、300人もの大德(ほうし)らに対して、袈裟を送り届けた人物でもあります。・・・尚・・・この頃の「藤原氏」では、中臣鎌足(※後の藤原鎌足)の死後、次男の不比等(=史)が幼少だったためか? 鎌足の娘・斗売娘の婿となった「意美麻呂(※中臣國足の子)」が「氏上」とされておりました・・・が、近江朝においては、中臣糠手子(なかとみのぬかてこ)の子である中臣連金が重用されて、右大臣の職にあって、この連金が「壬申の乱」により処刑されることとなって、連金の二子も配流される・・・と、“天武朝では、中臣糠手子の子や、中臣許米(なかとみのこめ)の子であった大嶋が、頭角を現していた”のです。
      ・・・やがて・・・“この中臣大嶋”が、「藤原朝臣」へ改姓したと考えられております。

      ※ 同年5月8日:“百濟の敬須德那利(けいすとくなり)”を以って、「甲斐(かいの)國」へと、移す。・・・ここにある「敬須德那利」についてですが・・・「敬須」が、官職名や、僧の位のことなのか?・・・或いは、「德那利」が、姓名なのか? 若しくは、名のみなのか?・・・そもそもとして、「敬須德の那利」なのではないか?・・・などの疑問については、いずれも未詳とされています。・・・しかしながら、後の孝謙天皇時代(※西暦757年)や、淳仁天皇時代(※西暦761年)、桓武天皇時代(※西暦799年)にも、“百濟系帰化人達が甲斐國に入植した”という文献上の記述があるために・・・“特に、甲斐國都留郡(つるのこおり)と、その周辺地域には、朝鮮語系の地名が現存していること”も指摘されています。・・・ちなみに、朝鮮語に起因する「音」としては・・・「フク(=土のこと)」や、「チ(=霊のこと)」、「ツル(=野のこと)」、「マル(=事実上の山のこと)」、「ムレ(≒モリ=山や頭の古音からの転音)」・・・などがあり、“これらの音が現存している地名に、百濟系帰化人の形跡”が考証されております。
      ・・・尚、この条にもあるように、甲斐國へ百濟系帰化人らが入植するに至った政治的な背景としては・・・“現地の治水や、開墾開拓、材木などの森林資源、金などの鉱物資源開発などとともに、仏教や織物生産の振興などがあった”・・・と推察出来ます。

      ※ 同年6月11日:「詔」する。・・・「天下へ令す。繋囚(とらえびと)の極刑は、本罪(もとのつみ)を一等減ぜよ。輕繋(かるきとらへびと)は、皆を赦(ゆる)し之(これ)を除(よ)けよ。其れ(を)天下に令して、皆今年の調賦の半(なかば)を入れさせよ。」・・・と。・・・今に云う、「特赦」と「減税」です。それも、全国的な規模で。・・・もう、皇太子の草壁皇子を、“何としてでも、早く天武後継とするためのお膳立て”としか想えません。

      ※ 同年7月11日:「旱(ひでり)」なりて、“大きな雨乞い”をする。・・・ここも、主語が見当たらないので、確かなこととは、到底云えませんが・・・もしも、この際に、“称制中の女帝・鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)自らが、雨乞いを行なった”とすれば・・・昔の「卑弥呼」などが、“そう考えられている”ように・・・シャーマン的な役割と云うか、伝統的な祈りの儀式が、この頃まで繋がっていたのかも知れません。・・・しかし、残念ながら・・・8日が経っても、雨が降らずに・・・
      ※ 同年7月20日:“百濟の沙門・道藏(どうぞう)”に命じて、「請雨(あまひき)」させる・・・と、不崇朝(あしたごろにもあらざる)に、天下は遍(あまねく)雨となり。・・・「請雨」を「あまひき」と訓じており、“雨を引き寄せる”というイメージでしょうか?・・・「不崇朝」の「崇」とは、「祟(たたり)」の字に、一見似ていますが、“そう”ではなく・・・「あが(め)」と読みます。その意味は、“終わり”です。・・・ですから、「不崇朝」とは、“朝(食)が終わるうちに”という意味となります。・・・と、すれば・・・古代は、通常一日二食でしたので・・・朝食、つまりは・・・“現代人の感覚では、昼食に当たる食事時まで、百濟の沙門・道藏が請雨をする”・・・と、結果として雨が降った”ということになります。・・・しかし、この部分の記述や、これより9日前の記述、そして前月の6月11日の記述を読めば・・・我々現代人の感覚からすると、“然も有りなん”と、想えてしまう訳です・・・が、肝心な旱の兆候は、既に6月の時点で判っていた事ではないのですか? と、ツッコミしたくなります。
      ・・・それでも、この『日本書紀』の編纂者達が、読み手に対して伝えたかったことは・・・日本古来の伝統ある雨乞いの方法では、旱に対する効果が無く・・・結局は、“渡来宗教である仏教による力が必要だったと思わせたかった”のでしょうね。・・・“おそらくは、編纂者達自身のルーツは、渡来系の人に辿り着く”と考えられている訳ですし・・・“あまり気にし過ぎても仕方ない”という意見も、あるのでしょうが。

      ※ 同年8月10日:「殯宮」へ、嘗(なうらいたてまつ)りて、「慟哭」する。・・・是に於いては、「大伴宿禰安麻呂(おおとものすくねのやすまろ)」が、「誄」する。・・・ここにある「大伴宿禰安麻呂」とは、「壬申の乱」において、大伴馬来田(おおとものまくた)や大伴吹負(おおとものふけい)とともに、大海人皇子(※後の天武天皇)に従い、不破宮(※仮の宮のこと≒本陣)に居た大海人皇子(※後の天武天皇)に戦況報告していた人物です。・・・西暦684年(天武天皇13年)の2月には、廣瀨王や、判官、録事、陰陽師、工匠らとともに、畿内において都を造営すべき土地を視察しており・・・同年12月に、「宿禰」を賜ることとなりました。・・・また、西暦686年(朱鳥元年)の正月には、新羅の金智祥を饗応するために、川内王らとともに、筑紫へ派遣されてもおります。(※本ページでは省略させて頂いております)・・・そして、今回の誄となった訳です。
      ・・・しかし・・・この大伴宿禰安麻呂が、後の政治的な表舞台に登場するのは・・・“氏上だった大伴御行(おおとものみゆき)が、西暦701年(大宝元年)に亡くなってからのこと”となります。
      ※ 同年8月11日:「淨大肆(じょうだいし)・伊勢王(いせのおおきみ)」に命じて、「(天武天皇の)葬儀」を、「奉宣」する。・・・ようやく、故天武天皇の本葬儀の準備となって・・・伊勢王が、その役に就いた訳ですが・・・ここには、「淨大肆」という、上から数えて11番目の位階が記述されております。・・・ちなみに、“淨(きよ:=清)め事を司る”から、「淨大肆」になると考えられます。・・・いずれにしても、“この伊勢王について”は、幾度か前述しておりますが・・・「壬申の乱」における伊勢王の存在や、生前の天武天皇が伊勢神宮に戦勝祈願をしたり、天武天皇が自身の娘である大来皇女(おおくのひめみこ)を、その斎宮(いつきのみや)としたことなど・・・伊勢王と故天武天皇との間に、深い関わりがあったことが・・・“当然の如く、この人選の背景にあった”と考えられます。
      ※ 同年8月25日:「耽羅(たんら)王」が、「佐平・加羅(から)」を遣わして・・・「方物(くにつもの)」を、獻りに來る。・・・この頃の耽羅が、百濟に属していたことが判ります。派遣されて来た加羅の官職名が、「佐平(さへい)」とされているからです。・・・それにしても、“当時の百濟は、唐王朝の支配下にあった”と考えられますので・・・当時の大和朝廷としては、“唐王朝とは、直接的には交流を持たずに、この耽羅を通じて、唐王朝の情報を得ていたよう”ですし・・・一方の唐王朝としても、“耽羅を新羅包囲網の一環として存続させ、且つ大和朝廷との中立地帯的な役割を担わせていたよう”です。・・・そして、“耽羅は耽羅で、小国ながらも、独自の外交方針を持って行動していたよう”にも感じます。

      ※ 同年9月23日:“筑紫館に於いて耽羅の佐平・加羅らを饗じて、各(おの)に差(い:≒癒)が有るように”と、「賜物」する。

      ※ 同年11月4日:「皇太子(=草壁皇子)」が、“公卿と百寮人ら、諸蕃(となりのくにぐに)の賓客(まろうど)”を率いて、「殯宮」に適でて、「慟哭」する。・・・是に於いては、「奠(みけ:=御食)」を奉りて、「楯節舞(ただふしのまい)」を、奏(かなで)る。「諸臣」は、“己(おのれ)の先祖らの仕えまつりし状(かたち)”を、各(おのお)の舉げて、遞(たがい)に進みては、「誄」する。
・・・皇太子・草壁皇子が、故天武天皇の五度目の殯をした模様です・・・が、「諸蕃の賓客」とは、いったい、どこの國々の人達だったのか?・・・新羅の王子・金霜林らや、耽羅の佐平・加羅らなどは、筑紫館にて饗応されていた筈です。・・・ということは、覩貨邏(とから:≒吐火羅)とか、舎衞(しゃゑ、しゃえ)、墮羅(だら、たら)などの小國のことを示しているのでしょうか?・・・それとも、なかなか名前が明らかにされない、伊勢王などの日本列島内に散在していた各勢力からの賓客達を示しているのでしょうか?・・・正直なところ、分かりません。
      ・・・「楯節舞」とは、鎧を着て、刀や楯を持って舞う舞踏のこと。・・・“当時の近江朝廷が、優勢”と考えられていた「壬申の乱」において、“劣勢である”と考えられていた故天武天皇が、生前に卓越した武人だったという事実から・・・“軍神的にお祀りするために、楯節舞を奏た後に、諸臣それぞれの作法に則って、誄を進行した”との記述です。・・・いずれにしても、皇太子・草壁皇子にとっては、かなり重要な場となった筈であり・・・“長らく続けられていた殯が、ようやく終ろうとしていたこと”を物語っているようです。
      ※ 同年11月5日:“蝦夷190餘人”が、「調賦」を負荷(おい)て、「誄」する。・・・前日からの行事が続いていた模様です。・・・二日目の殯には、ここにある蝦夷だけではなく、他にも各地の有力者達などが、多く参列していたのかも知れません。
      ※ 同年11月11日:「布勢朝臣御主人」と「大伴宿禰御行(おおとものすくねのみゆき)」が、遞(たがい)に進みて、「誄」する。「直廣肆・當麻眞人智德(たぎまのまひとのちとく)」が、“皇祖らの騰極(ひつぎ)”に次第(ついで)、「誄」を、奉る。「禮(=礼)」なり。・・・古(いにしえ)には、「日嗣(ひつぎ)」と云うものなり。・・・畢(おわ:=終)りて、「大内陵(おおうちのみささぎ)」へ、葬りまつる。・・・この11月11日には、六度目にして、最終の誄となり・・・このような行事を、皇祖らの騰極(ひつぎ)の次第にしたと。・・・ここにある「騰極」とは、天子の登極と同様に、即位のことを指しており・・・「次第」とは、順序のこと。・・・したがって、“皇祖からの順序に従がって、誄した”と。つまりは、皇位継承順。
      ・・・「禮なり」としているのは、“古代中国における宗廟での誄の礼を、念頭に置いたものだった”と考えられ・・・“日本(やまと)では、その昔から、日嗣(※後継者のこと)の儀と称していた”とも記述し・・・要するに、“皇太子・草壁皇子が、次期天皇に即位すると、事実上宣言したような行事だった”と。・・・そして、前日の蝦夷190餘人の参列は、“この式典を民衆達へ宣伝するという効果を狙っていたかのよう”ですね。・・・いずれにしても・・・かくして、この長きに亘る一大イベントは終わることとなり、故天武天皇は大内陵へと葬られた訳です。

      ※ 同年12月12日:“飛鳥寺の西の槻(つき)の下(もと)に於いて、蝦夷の男女213人を饗じて、冠位を授け、各(おの)に差(い:≒癒)が有るように”と、「賜物」する。・・・


      ※ 西暦689年4月13日:「皇太子・草壁皇子」が、「夭折(ようせつ:=若死、早世)」する。(※持統天皇3年)・・・何と、“前年の11月4日には、公卿や百寮人ら、諸蕃の賓客を率いて、殯宮に適でて、慟哭していた”という草壁皇子が・・・。・・・この草壁皇子が、故天武天皇の崩御後の間もなく頃に、天皇に即位しなかった理由としては・・・“皇子の若さと、かつての大津皇子処刑に対する宮廷内の反感が皇子の即位の障害となっていた”と考える説が、一般的です・・・が、少数説ではあるものの・・・“草壁皇子の立太子そのものを、軽皇子(※後の文武天皇)の即位を正当化するために、後世作為されたものであって、鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)が草壁皇子に故天武天皇の殯宮の喪主を務めさせることで、初めてその後継者であることを内外に明らかにした”とする説や・・・“文武天皇の即位後に、持統上皇と共に後見となった文武の生母である阿閇皇女(あへいこうじょ:※後の元明天皇)へ待遇と称号とを与えるために、夫の草壁皇子を皇太子として作為した”とする説などもありますが・・・。

      ※ 同年内:“称制中の皇后・鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)”が、「諸司(もろのつかさ)」に対して・・・“飛鳥浄御原令の一部22巻”を、分ける。・・・また、「戸籍の作成」を命じて、「浮浪人」を取り締まる。・・・


      ※ 西暦690年正月1日:“称制中の皇后・鵜野讚良皇女(※後の持統天皇)”が、正式に、「天皇」に「即位」する。・・・「漢風諡号」は、「持統天皇」と。(※持統天皇4年)・・・漢風諡号の「持統」とは、代々の天皇と同じく、淡海三船(おうみのみふね:※臣籍降下した奈良時代後期の皇族や、貴族、文人のこと)によって、熟語の「継体持統」から名付けられたと云います。・・・ちなみに、和風諡号は、二つあって・・・『続日本紀』の西暦703年(大宝3年)12月17日の条では、“火葬の際”の「大倭根子天之廣野日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)」としており・・・『日本書紀』の西暦720年(養老4年)の条にも、“代々の天皇とともに、諡(おくりな)”された「高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)」としています。・・・これらの、どちらにも共通するのは、「廣野日女(=廣野姫)」ですね。
      ・・・いずれにしても・・・“故天武天皇の皇后だった鵜野讚良皇女が、将来を期待視されていた後継者候補の高市皇子らを無視し、自らが正式に女帝として即位した”のです。・・・“かなりの資質や能力を持った自信家だったことは、間違いない”かと。

      ※ 同年6月内:(天智天皇期の)「庚午年籍(こうごねんじゃく)」に続き・・・「飛鳥浄御原令」の「戸令(こりょう)」に基づいて・・・“新たな全国的な戸籍”となる「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」が、「作成」される。・・・これにより、“民を各地域によって編成するという作業がほぼ完了に至った”と云えます。・・・後の西暦692年(持統天皇6年)には、この「庚寅年籍」に基づいて、“口分田の班給が、畿内で開始”されます。・・・そして、これと同時に、“全国的に、班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)が施行された”と推測されています。・・・これについては、“飛鳥浄御原令に則った戸籍を介して、個別に人身を把握することで、個別的な人身支配が始まった”とも云えます。・・・ちなみに、この「庚寅年籍」も、現存はしておりません・・・が、2012年に、太宰府から、“次の戸籍(※西暦696年版のこと)を作成するための、庚寅年籍以降の異動を記した木簡が出土”しています。

      ※ 同年12月内:「持統天皇」が、「藤原」へ、「(行)幸」して、「宮地」を観(み)る。“公卿百寮が皆”、従がう。・・・この宮地が、「藤原京」を造営していた土地でした。・・・この頃には、“或る程度の体裁を整えていた”と考えられます。・・・いずれにしても、この「藤原京」については・・・飛鳥の西北部、現在の奈良県橿原(かしはら)市にあった飛鳥時代の都城であり、日本史上最初の条坊制(じょうぼうせい)を敷いた本格的な唐風の都城であって、「大極殿」や「朝堂」を配置し・・・その規模は、南北に約4.8㎞、東西に約5.3㎞という・・・後の「平城京」や、「平安京」をも凌ぐ、“古代日本における最大の都”とされます。・・・尚、この『日本書紀』の“後の条”では、「新益京(しんやくのみやこ)」と著(あら)わされており、後に「平城京」へ遷都されるまで、日本(やまと)の首都とされました。
      ・・・ちなみに、「条坊制」とは・・・その南北中央には、朱雀大路(すざくおおじ)を配し、南北の大路(=坊)と東西の大路(=条)を、碁盤目状に組み合わせて左右対称となる方形型の都市プランであり・・・その根本思想には、風水(ふうすい)の四神相応(しじんそうおう)があります。・・・つまりは、東に青龍(せいりゅう)を配して、流水や、青色、春を著わし・・・西に白虎(びゃっこ)を配して、大道や、白色、秋を著わし・・・南に朱雀(すざく)を配して、湖沼や、朱色、夏を著わし・・・北に玄武(げんぶ)を配して、丘陵や、玄(くろ:≒黒)色、冬を著わしたのです。

      ※ 同年内:「持統天皇」が、「筑後國上陽咩郡(かみつやめこおり:※後の上妻郡)の住人・大伴部博麻(おおともべのはかま)」に対して・・・「百濟救援の役で、貴方は唐國の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼(はじのむらじほど)や、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)、弓削連元宝児(ゆげのむらじげんぽうじ)の4人が、唐國にて我が日本(やまと)に対する襲撃計画を聞き付けたため、大和朝廷に奏上したいが、現実として帰れないことを憂いていた。その時の貴方は、富杼(ほど)らに(対して)・・・『私を奴隷として売り、その金で帰朝し奏上して欲しい。』・・・と言った。そのため、筑紫君薩夜麻や、富杼(ほど)らは、日本へ帰国し、その事を奏上出来たが、貴方は一人、30年近くも唐國に留まった後、やっとのことで帰ることが出来た。朕(われ)は、貴方が朝廷を尊び、國への忠誠を示したことを喜ぶ。」・・・と、「詔(みことのり)」して、「表彰」する。・・・(そして)“大伴部博麻の一族へ、土地などの褒美”を、与えた。
      ・・・尚、この後の西暦707年(慶雲4年)にも、“讃岐(さぬきの)國の錦部刀良(にしごりとら)や、陸奥國の生王五百足(みぶのいおたり)、筑後國の許勢部信太形見(こせべのかたみ)らが、帰還した”とされております。・・・このように、持統天皇期に入った当初期においても、「白村江の戦い」の戦後処理の一環とも云える政策が続けられていた訳です。・・・但し、“肝心の持統天皇が、いつ大伴部博麻に対して、詔して、表彰した”のか? についてが、「同年内」とされております。・・・やはり、後世の貴族達の日記類にあった、不確かな風聞情報を基にした記述なのでしょうか?・・・それにしても、大伴部博麻や、持統天皇の台詞(せりふ)が、必要以上に劇場的ですね。・・・それでも・・・“ポツリ、ポツリ、とではあります”が・・・“かつては倭国人と呼ばれていた人々が、唐王朝から解放されて、大和朝廷が治める日本列島に帰還出来たのは、事実だった”かと。・・・そうでなければ、この『日本書紀』の編纂者達は、わざわざ原史料などを発掘しなかったのではないか? と、考えられるからです。
      ・・・それに、これについては・・・天武朝や持統朝の時代のことですから・・・朝鮮半島や、大唐國の地などへと、遠くへ引き連れられていた人達が、確かに存在していたにもかかわらず・・・当時の大和朝廷側からすれば、彼らは日本列島内の実態などを、詳細に唐王朝側から聞き取られている筈であり・・・帰還出来た人達さえも、唐王朝側への内通者や、情報提供者などとして認識される恐れがあって、容易には帰還出来ない風潮があったのでしょう。・・・もしかすると、“唐王朝側からの事前通達も無く、或る覚悟を持って、密航紛(まが)いの強硬渡航に踏み切った人達が居た”のかも知れません。・・・“そう考える”と、感慨無量です・・・が、反対に・・・“30年近くも唐國に留まった人達が、蓄えた筈の知識量”とは?・・・“当時の日本人(やまとびと)にしたならば、計りしれないものがあった”とも、云えるかと。・・・また、“本人達の名誉回復には、時間が相当に掛かる”と云う一つの事例かと。・・・


      ※ 西暦691年内:“良民(りょうみん:≒自由がある民)と賤民(せんみん:≒自由のない民)の身分を区別する規定”を、定め・・・“開放された奴婢(ぬひ)の身分”を、「庚寅年籍」により「確定」する。「陵戸の制(りょうこのせい)」を、定める。(※持統天皇5年)・・・「賤民」とは、“律令制における古代日本の身分階級の一つであり、奴隷階級に相当します。このうちの「奴(ぬ、やつこ)」は、男性の奴隷を・・・「婢(ひ、みやつこ)」は、女性の奴隷を指します。・・・ここにある「奴婢」とは、一般的に、職業の選択の自由や、家族を持つ自由、居住の自由などについてを制限されておりましたが、一定の年齢に達したり、その他の条件を満たすと、解放される場合もありました。・・・しかしながら・・・基本的には、それは酷(ひど)い扱いであり、市場などで取引の対象にされていたとか。
      ・・・古代の日本では、元々奴隷階級だった者達を、「夜都古(やつこ)」と称して・・・「奴婢」については、夜都古の子孫の者や、戦時における捕虜や、帰化人、或いは罪を犯すなどして、奴婢の身分に落とされた者達でした。・・・この「奴婢」は、従前から売買の対象とされていました・・・が、律令制が整備される過程では、田畑と同様の扱いを受けるようになり・・・この前年の西暦690年に、一旦は奴婢の売買が禁止された訳です。・・・しかし、前年の売買禁止措置のみでは、様々な不具合が生じていたため・・・ここにあるように、翌年の西暦691年2月に詔を発して、“各官司への届出を条件として、売買が許可されることになった”とのこと。・・・そして、やがて律令制が確立されると、ここにある「賤民」を、「五色の賤(ごしきのせん)」と呼んで、五段階に別けておりますが・・・下から二つの階層が、「奴婢」に当たります。・・・そのうち、朝廷が所有した者達を、「公奴婢(くぬひ)」、または「官奴婢(かんぬひ)」と呼んで、“宮内省の官奴司(かんぬし)の下で、雑務に従事”させました。
      ・・・この「公奴婢」、または「官奴婢」が、66歳を過ぎる・・・と、「官戸」に昇格し・・・76歳を越えると、「良民」として、“解放された”とのこと。・・・また、地方の諸氏豪族が所有した者達を、「私奴婢(しぬひ)」と呼んで、“この身分そのものを、代々相続することが可能とされていたよう”であり・・・これら「私奴婢」に対しては、“口分田として、良民の1/3が支給された模様”です。・・・当時の一般的な奴婢達は、“他の賤民と違い、戸(いえ)を成すことが許されず、主家の下に暮らした”とのこと。・・・そして、古代日本の奴婢達は、その父母のどちらかが「奴婢」ならば、その子も「奴婢」とされており・・・“律令制下における奴婢の割合は、全人口の10~20%前後だった”と云われ、“五色の賤の中における割合が、最も多かった”とされています。・・・また、その公私を問わずに、この「奴婢」は、「公奴婢」が非常に少なく・・・“その分布については、近畿地方に限られていた”とのこと。・・・尚、奴婢達は、“主に耕作に従事する農業奴隷だった”とも云えます。
      ・・・この条にある「陵戸の制」も、“五色の賤の一つであり、諸陵寮の管理下で、天皇や皇族の陵墓の守衛に使役させられた者達”です。・・・“後の西暦757年(天平宝字元年)における養老律令施行によって、賤民扱いとされ、その一族が世襲によって、陵墓の管理に当たるようになった”とのこと。そして、身分的には・・・賤民の中では、良民に最も近く・・・“戸(いえ)を形成し、良民と同じく口分田を支給され、課役を免除されておりました”・・・が、当時は、当色婚(とうじきこん:※同じ身分層同士の婚姻関係のこと)と定められていたため、“陵戸同士の婚姻しか認められません”でした。・・・後の平安時代に入ると、「良民」を奪って「奴婢」とすることなどについては、“賊盗律(ぞくとうりつ:※謀反や殺人など国家秩序に対する犯罪である賊とし、強盗行為や人身売買など官民の財物及び人身を侵奪する犯罪である盗に関する犯罪と罰則を規定したもの)の制定によって、表向きには禁じられるようになりました”・・・が、逆に云えば・・・“誘拐して奴婢とする悪習が遺っていたよう”です。
      ・・・また、経済的な理由によって、奴婢となる者達も居たようであり・・・当時の債務返済では、役身折酬(えきしんせっしゅう:※古代の日本で行われた労働によって債務を返済する行為のこと)と呼ばれる返済方法が認められていたため、“多額の負債を背負ってしまうと、奴婢の身分とされて、使役する者達も居た”と云います。・・・しかし、いずれにしても・・・古代日本の奴婢制度は、律令制の崩壊と共に瓦解する格好となり、10世紀初頭の平安時代中期頃には、「奴婢廃止令」が発布されるようにはなりますが。


      ※ 西暦692年内:「畿内」において、「口分田の班給」が、「開始」され・・・「持統天皇」が、「班田大夫(はんでんたいふ)」を、“四畿内”へ、遣わす。(※持統天皇6年)・・・この「口分田の班給」が、次第に全国的な規模へと拡げられた模様です。


      ※ 西暦693年内:「農民」に対して、「黄色衣」を・・・「奴(ぬ、やつこ)」に対しては、「黒色衣」を・・・(それぞれ)着用させる。・・・“桑(くわ)や、紵(お、からむし)、梨(なし)、栗(くり)などの栽培”を、「奨励」して、“五穀の助け”とする。(※持統天皇7年)・・・当時は、“ファッションの自由も制限されていた”のです・・・が、「奴婢」のうちの「奴」・・・、つまりは、“男性のみの制限だったよう”であり・・・女性については、“或る程度のファッションの自由を認めていた”とも読み取れます。・・・ここにある「紵」とは、イラクサ科の多年草であり、古くから薬用植物ともされており、“その植物繊維を採取するため、栽培されていたよう”です。


      ※ 西暦695年12月内:「持統天皇」が、「藤原宮(ふじわらのみや)」へ、遷る。【藤原京への遷都】(※持統天皇8年)・・・この頃の大和朝廷の外交方針は・・・唐王朝とは、公式な国交を持たず・・・新羅に対しては、対等な関係を認めずに相手側から朝貢するという関係を強(し)いるものでしたが・・・当時の新羅としては、唐王朝との対抗関係があったためなのか?・・・結果的には、大和朝廷側の条件を呑む恰好となります。しかし、当時の新羅としても・・・本格的な唐風の都城へ遷都するなど、外形的に体裁を整えつつあった新生日本國とは、朝貢的な外交関係を結んでいたようです。・・・そのためだったのか? 日本側からは新羅へ、西暦687年~695年に掛けて、三度に亘り、学問僧などの留学生達が派遣されています。・・・それでも、当時の特殊な東アジア情勢下における新生日本國との朝貢関係は、相手側の新羅からすれば・・・“そもそもにおいて、渋々対応していた”と考えられ・・・次第に日本國への不信感を募らせることとなり・・・結果としては、両国間の友好関係は、次第に崩れてゆきましたが。


      ※ 西暦697年8月1日:「持統天皇」が、「軽皇子」へ「譲位」し・・・新たに「文武天皇」が、「即位」する。(※持統天皇11年=文武天皇元年)・・・この文武天皇の和風諡号についても、二つあり・・・『続日本紀』の西暦707年(慶雲4年)11月12日の条には、「倭根子豊祖父天皇(やまとねことよおほぢのすめらみこと)」とされ・・・同じく『続日本紀』の西暦797年(延暦16年)の条には、“追諡された”という「天之真宗豊祖父天皇(あめのまむねとよおほぢのすめらみこと)」があります。


      さて、“この頃の東アジア情勢に、広く目を向ける”と・・・
      西暦698年:“靺鞨の粟末部(ぞくまつぶ:※粟末という部族のこと)”が、「高句麗遺民」などとともに、“中国満州南部”において、「渤海(ぼっかい)國」を「建国」しています。
・・・建国当初は、唐王朝と対立しました・・・が、やがては、唐王朝から「冊封」を受けて従うようになります。・・・それまでは、百濟や高句麗などを滅ぼした巨大帝国・唐王朝でさえ、“これらの故地の統治に関しては、結果的にも試行錯誤させられていたこと”が分かります。

      ※ この頃の「日本國」は・・・“新羅との関係が次第に悪化する最中”にあって・・・“渤海からの朝貢を受ける格好”で、「遣渤海使」を「派遣」しています。・・・この「渤海國」との交流は、現在の新潟や北陸などの日本海側沿岸部を中心として進められることとなり・・・その後においても、日本國の朝廷は、引続き・・・“朝鮮半島情勢や唐王朝に関する情報など、東アジア情勢全般の情報入手ルートの多角化を図っていた”と考えられます。


      ・・・結局のところ・・・“時を少し遡ることとなります”が・・・「白村江の戦い」などでは、一旦は唐と新羅の勝利に終わり、大陸には巨大帝国としての唐王朝が出現することとなりました。・・・この「白村江の戦い」は、“当時の東アジア勢力図を大きく描き変える発端となった戦役”と云えます。・・・そして、この当時の倭国(ヤマト王権)の大敗北は・・・日本史上における、鎌倉時代の元寇や、第2次世界大戦後のGHQによる占領を除けば・・・“日本が国家として、異国勢力の占領下に入る危険性が最も高かった敗戦”とも云えるのです。・・・また、この敗戦によって、当時の倭国(ヤマト王権)が、領土こそ奪われなかったものの、朝鮮半島における既得権益を大きく失なうことになって、自国の国防体制や政治体制の変革を、更に迫られることとなった訳です。・・・そして、天智天皇期には、国家体制が急速に整備され、やがては「近江令法令群」と呼ばれるものが、策定され始めることに。・・・後の天武天皇期には、日本史上初の律令法とされる「飛鳥浄御原(律)令」の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急ピッチで進められることになります。
      ・・・尚、この『日本書紀』では、「白村江の戦い」の以前から、“倭国(ヤマト王権)が、日本(やまと)へと国号を変えていた”としておりますが。・・・

      ・・・『旧唐書』や、『新唐書』が記すように・・・「日本(やまと)」という国号は、“日本列島を東方に見る国、つまりは中国大陸からの視点に立脚した呼称”なのです。・・・これについては、“平安時代初期に成立した”とされる『弘仁私記(こうにんしき)』序においても・・・“日本國が中国に対して、日の本(ひのもと)、つまりは、太陽が昇る方角である東方に所在することが、日本の由来である”・・・と、説明されており・・・平安時代に盛んに行なわれていた、『日本書紀』を講読する様子を記した『日本書紀私記』諸本においても・・・“中国側の視点により名付けられた”・・・とする説が採られています。・・・古代の日本国内では、大和朝廷が勢力範囲を拡げて、ほぼ統一を果した頃以降に、自国のことを「やまと」と呼称したようですが・・・その頃の古代中国や朝鮮半島諸国では、「日本(やまと)」のことを、依然として「倭国」として認識し、且つ呼称としていたのです。・・・「日本(やまと)」のことを・・・
      「石上神宮(いそのかみじんぐう)」の「七支刀(しちしとう)」にある「銘文」や、中国側史書(※『前漢書』や、『三國志』、『後漢書』、『宋書』、『隋書』など)、或いは高句麗の『広開土王碑文』などの全てにおいて・・・「倭」や、「倭国」、「倭人」、「倭王」、「倭賊」などと記述しているのです。・・・そのため、ヤマト王権側の代表者は、外交的な場面に際しては
・・・かつての倭の五王達(※5世紀頃のこと)のように・・・「國書」において、“自らのこと”を、「倭国王」や「倭皇」と、“慣例的に記すようになっていた”のです。・・・しかしながら・・・古代中国王朝との正式な国交が、約120年に亘って途絶えていた頃の、後の話となりますが・・・“7世紀初期頃からの国交再開時”には、『日本書紀』において・・・「東の天皇が敬いて、西の皇帝に白す。」・・・とし、『隋書』では、・・・「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云々。」
      ・・・という「國書」を、“当時の倭国(ヤマト王権)側が渡していた”という記述があり・・・“自国のことを、それまでのように、「倭」と称することを避けていたこと”も分かります。・・・古代中国側の史料では、『旧唐書』東夷伝に、初めて「日本(やまと)」という国号が登場し・・・「日本國は、倭国の別種なり。其の國、日の辺に在るを以って、故に日本を以って、名と為す。」・・・「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す。」・・・「或いは曰く、日本は旧(もと)小國、倭国の地を併す。」・・・などと、「倭」が、自らの国号を、「日本(やまと)」へと変えた理由を説明しています。・・・また、『新唐書』においても・・・「國は日出ずる所に近し、以って名と為す。」・・・とあり、『隋書』にある「日出処天子」とも共通しているのです。
      ・・・それでも、7世紀には「遣隋使(≒朝貢団)」に続いて「遣唐使(≒朝貢団)」が、しばしば派遣されています・・・が、ハッキリと、いつから「倭」を変えて、「日本(やまと)」という国号にしたのか? については、明らかではありません。・・・使者などによる外交交渉に関する出来事についてを、比較的に詳しく記述している『日本書紀』も・・・そもそもとして、8世紀に国号としての「日本(やまと)」が、ほぼ確立された後に編纂された史書であり・・・編纂時点において現存した原史料の記載内容に対して、元々記述されていた可能性のある「倭」の字についてを・・・つまりは、“国号に関する全てを、日本(やまと)と改めていた”という可能性があるのです。・・・このことが、「倭国(ヤマト王権)」 ⇒ 「大和朝廷 ≒ 日本」へと、国家体制を大きく切り換えた転換点を見い出すことを、結果的に分かり難くさせている訳です。
      ・・・ちなみに、この『日本書紀』では、初代天皇とされる「神武(じんむ)天皇」のことを、和風諡号では「神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)」と記述しておりますし、また・・・「饒速日命(にぎはやひのみこと:※日本神話に登場する神。『古事記』では、邇藝速日命と表記。別名としては、櫛玉命〈くしたまのみこと〉や、天照國照彦火明櫛玉饒速日命とも。物部氏や、穂積氏、熊野國造らの祖神と伝わる)」が
・・・「虚空見つ日本の國」・・・と、“日本のことを呼んだ”とされてもおります・・・が、これら『記紀』そのものが、“天武天皇期以後に編纂された史料”なのです。
      ・・・これ以外の文献では・・・『三國史記新羅本紀』の西暦670年の条に
・・・「倭国が国号を日本と改めた。」・・・とあり、“西暦733年に記された”という『海外國記』逸文では・・・“西暦664年に、筑紫太宰府へ来た唐王朝の使者に対して、日本鎮西筑紫大将軍牒とある書を与えた”・・・とも云いますが、これについても真偽不明とされております。・・・結局のところ、確かであろうと目されるのは、『続日本紀』における記述でありまして・・・“西暦702年に、そして約32年ぶりに唐を訪れた(第8次)遣唐使(≒朝貢団)が、唐側としては大倭國の使者として扱ったのに対して、自らについてを日本國使と主張していたということ”なのです。・・・『旧唐書』東夷伝の記述内容は、この際の日本側の主張についてを裏付けているかのようです。


      「倭」と「日本」の関係について
・・・『日本書紀』によれば・・・倭国(ヤマト王権)を構成した諸勢力が中心となって、ほぼ統一が果たされた古代日本では・・・漢字の流入とともに、「倭」を借字として、「やまと」と読むようになり・・・やがて、その「やまと」に当てる漢字についてを、「倭」から「日本」へと変更し・・・当初期には、これを「やまと」と呼んだとされています。・・・「日本」という国号表記が定着した時期は、“7世紀後半から8世紀初頭までの間”と考えられています。

      ・・・この頃の東アジアは、西暦618年に成立した唐王朝が、その勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響力を及ぼし始めることとなりました。

      ・・・時の斉明天皇は、西暦658年に、臣の阿倍比羅夫に対して、“当時の海外勢力だった粛慎(しゅくしん)の(旧樺太)征伐”を命じています。
      ・・・西暦663年の「白村江の戦い」における倭国(ヤマト王権)の大敗北などにより・・・唐王朝が、使者を倭国(ヤマト王権)へと遣わして、両国の戦後処理を行なってゆく過程においては・・・“倭国(ヤマト王権)側としては、どうしても唐王朝との対等関係を目指し、律令国家へ変革してゆく必要性が生じていた”のです。・・・これらによる情勢の変遷に伴なって・・・天智天皇は、「近江朝廷之令(=近江令)」を制定しました。(※西暦668年のこと)・・・やがて、西暦672年の「壬申の乱」を経て・・・後の天武天皇が、強大な権力を掌握し、天皇を中心とする体制構築を、更に推し進めることとなり・・・天武天皇没後の西暦689年の「飛鳥浄御原令」から、西暦701年の“大宝律令制定へと至る過程において、国号表記としての、日本が誕生した”と考えられるのです。


      ・・・しかしながら、前述のように、“その具体的な成立時期について”は、「史料」によって特定されている訳ではありません。
      ・・・それでも、これを推定する見解としては、二つの説に絞り込まれております。

      ・・・その一つは、“天武天皇の治世(西暦672年~686年)に成立していた”とする説です。
・・・この説は、“天武天皇の治世時において、既に天皇という称号の表記が確立するとともに、日本という国名表記についても、ほぼ同時期に確立していた”とする見解です。
      ・・・もう一つは、“西暦701年の大宝律令の成立前後に、日本という国名表記が確立した”とする見解です。・・・但し、『日本書紀』西暦645年(大化元年)7月の条にあるように、“高句麗や百濟からの使者”に対する「詔」として・・・「明神御宇日本天皇」・・・とあるが故に・・・今日では、後に定められた「大宝律令公式令」を元として、後世の『日本書紀』の編纂者達が、潤色を加えたものではないか? とも考えられている訳です。

      ・・・尚・・・“唐王朝にて8世紀前半頃に成立した”とされる『唐暦(とうれき)』では・・・西暦702年に・・・「日本國から遣使(※遣唐使のこと)があった。」・・・と記述されており・・・また、“後世に成立した”とされる『旧唐書』や、『新唐書』でも・・・“この時の遣唐使(≒朝貢団)によって、日本という新国号が唐王朝へ伝えられた”・・・とされております。・・・両書ともに・・・“日の出の地に近いことが国号の由来である”・・・として、国号の変更理由については・・・“雅ではない倭国の名を嫌ったから”・・・という日本國側からの説明を、そのままに記述してはいるものの、倭国と日本國との因果関係については・・・“単なる国号だけの変更ではないという可能性についてを言及している”のです。
      ・・・つまり、前者の『旧唐書』では、“小國だった日本が、倭国を併合した”とし・・・後者の『新唐書』では、“日本側使者が、倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪ったなどと主張はしているものの、これらについては、疑わしい”としていて、“日本とは、隋王朝期の西暦600年頃に、当時の古代中国王朝と初めて通じた国として認識され、古くから交流のあった倭国とは別の国である”・・・と捉えているのです。更には・・・“倭国王の姓は、そもそも阿毎氏だった”・・・ということや、そもそもとして・・・“筑紫城に居た神武天皇が、大和(ヤマト)を征服して天皇となった”・・・とも記述しています。
      ・・・いずれにしても、これらの記述によって・・・“遅くとも、西暦702年には、「日本」という国号が、異国の唐王朝によって、初めて承認されていたこと”が確認出来る訳です。


      ・・・ちなみに、“これまでに発見されている「日本」という国号が記された最古の実物史料とされるもの”としては
・・・“西暦734年に銘された”という「井真成(せいしんせい、いのまなり)墓誌」がありましたが・・・2011年7月に、“禰軍という百濟人武将の墓誌において、「日本」という文字が発見された”という論文が、中華人民共和国において発表されています。この墓誌は、“西暦678年に製作された”と考えられておりまして・・・もし、これが事実だったなら・・・「日本」という国号が確立した時期については・・・“従来説より、更に56年程遡ること”・・・になります。


      “このように、それまでの国際情勢などの影響により生じた”と視られる「日本」という国号(≒地名)は・・・いずれにしても、“西暦678年~702年頃に、ハッキリと現れて来た”と考えられるのです。

      その「発音」については
・・・「日本」のことを、国内においては、「やまと」と読み・・・当時の国際的な「読み(音読)」では、「ニッポン(呉音)」ないし、「ジッポン(漢音)」と呼ばれていた・・・と推察されています。
・・・尚、いつ頃から「ニホン」という「読み(音読)」が始まったのか? については、定かではありませんが・・・やがて、「仮名」による表記が、世の中で使用され始める(※後の平安時代頃か?)と、「にほん」と表記されるようになり・・・これと、ほぼ同時期から、「ひのもと」と和訓されるようになった・・・と考えられます。
      ・・・ちなみに、“後世の室町時代に、ほぼ完成した”と考えられる謡曲(ようきょく)や、狂言(きょうげん)の世界では
・・・当時の中国人には、「ニッポン」と読ませ・・・同時代の日本人には、「ニホン」と読ませておりますし・・・その後の安土桃山時代には、当時の「ポルトガル人」が編纂した『日葡辞書(にっぽじしょ)』や、『日本小文典(にほんしょうぶんてん)』などによると・・・「ニッポン」や、「ニホン」、「ジッポン(※現在には伝わっていない音、元は漢音か?)」・・・などの「読み(音読)」が見られるため、その用例などから察するに・・・“改まる場面や強調したい場面”では、「にっぽん」と読み・・・“日常の場面”では、専ら「にほん」と読んでいた・・・様子が窺えます。
      ・・・そして、このことから・・・中世の日本人が、中国語的な語感である「ジッポン」という「読み(音読)」を使用したのは、“当時の中国人や西洋人などの異国人との会話で以って、つまりは対外的な場面に限定されていた”と考えられます。・・・また、“専ら対日本人との会話となる日常生活の場面”では、「にっぽん」や、「にほん」という「読み(音読)」を用いていたのではないか? と考えられているのです。



・・・・・・・・・・※時代的に進めて別ページに続ける予定です・・・・・・・・・・





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