街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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      さて、このページからは・・・少し視点を変えて・・・茨城(いばらき)のプロフィール【第一部】と、その歴史を中心に【第二部】・・・他の関連ページでは、ローカル的な歴史話が幾つも出てまいりますし、それらについても理解し易くなるのではないか? と勝手に思いまして・・・【第二部】につきましては、“内容的にザックリ”としており・・・甚だ恐縮ではありますが・・・“基本的には、時代の流れに沿ってダイジェスト的に、そして所々を詳細”に纏(まと)めてみることに致します。

【第一部】茨城のプロフィール



      ・・・まずは、【第一部】茨城(いばらき)のプロフィールから・・・


      ・・・現在の茨城県は、関東平野の北東部に位置し、東側一帯が海岸線が連なって、鹿島灘(かしまなだ)を取り囲みます。
      ・・・平成28年7月1日現在の県人口は、
2,909,072人。
      ・・・県の面積は、6,096.93平方キロメートル(平成26年現在)で、全国第24位の広さです。・・・地勢が、概ね平坦なため、その可住地面積は3,982.47平方キロメートル。全国第4位の広さです。
      ・・・茨城県は、平成18年3月27日現在で44市町村から成り・・・県庁所在地は、水戸市(北緯36°22′東経140°28′)。・・・旧国名は、常陸国(ひたちのくに)及び下総国(しもうさのくに)。
      茨城県の南端は、東京から僅か40㎞の近さにあり・・・千葉県との境を流れる利根川を渡ると、低い台地に開かれた水田や、それを囲むように疎林が続いて、古来からの日本的風土を漂わせる田園風景を伝えつつも、東海道の東端・水戸街道(現国道6号線)沿いの各宿場として栄えた古い町並みや、各城下町を中心として戦後急速に開発されて来た住宅団地を数多く見掛けることが出来ます。
      茨城県の自然探勝地と云えば・・・まずは、県北部の大子町(だいごまち)にある袋田の滝(ふくろだのたき)。日光の華厳の滝(けごんのたき)をも凌ぐ名瀑(めいばく)として良く知られ、茨城県の重要な観光資源です。・・・古くは、平安時代の歌僧・西行法師(さいぎょうほうし)が、この袋田の滝を訪れ・・・「花もみち 経緯にして  山姫の 錦織出す 袋田の瀧」・・・と詠んで、その魅力を称え・・・江戸時代初期頃の水戸藩2代藩主・徳川光圀(※義公)も、“自身が隠居し常陸太田市(ひたちおおたし)の西山荘(せいざんそう)に移ってからは、度々訪れていた”と伝わります。
      ・・・茨城県の東方一帯を占める海岸線に目を向けると、神栖市(かみすし)から大洗町(おおあらいまち)の周辺に掛けて、広大な砂丘が連なる砂浜海岸があります。・・・その海岸風景は、県中央部に位置する大洗町や、ひたちなか市の辺りまで往くと・・・一転して、岩礁が突出する男性的とも云える岩石海岸へと変わり・・・磯節(いそぶし)に歌われるような、波の花散る勇壮な景観を見ることが出来ます。
      ・・・更に海岸線を北部へ辿ると、海食によって、複雑な形態を見せる断崖絶壁や、岩礁海岸へと姿を変えます。北茨城市の五浦(いづら)は、その代表的な海岸であり・・・日本近代美術の再興者・岡倉天心(おかくらてんしん)は、この海岸を選んで、東京・谷中(やなか)から日本美術院を移して・・・“横山大観(よこやまたいかん)や、下村観山(しもむらかんざん)、菱田春草(ひしだしゅんそう)、木村武山(きむらぶざん)らの愛弟子とともに、日本画の研鑽に励んだ”という由緒があります。
      ・・・男体山(なんたいさん)と女体山(にょたいさん)から成る筑波山は・・・それこそ、『萬葉集(まんようしゅう)』などでも詠われたように、云わば“常陸の枕詞(まくらことば)のような存在”であり・・・関東平野に屹立する山容の見事さに、古来より“西の富士山”と対比されて来ました。・・・ここに鎮座する筑波山神社は、数々の古典史料からも分かるように、古来から縁結びの神様として信仰を集めて・・・また、その山麗そのものが神域と考えられ、時の為政者により庇護されて来ており・・・男体山にある男体社には、「イザナギノミコト」が・・・女体山にある女体社には、「イザナミノミコト」が、それぞれ祀られています。“この二柱の神々”は・・・「日本神話」において、“最初に創造された”と云われる大八島國(=日本列島全体)や、山野、食物など・・・“いわゆる八百万の神(やおろずのかみ)の大元”であり・・・云わば、“天地創造の神々”です。
      ・・・江戸時代には、江戸城の鬼門方面を鎮護する霊山として信仰され・・・幕府の祈願所が置かれており・・・確か・・・現在でも、当時の幕府や、水戸藩2代藩主・徳川光圀(※義公)との御縁もあって、「三つ葉葵の御紋」が、大きく掲げられている筈です。・・・尚・・・特に、江戸時代中期以降は、この筑波山を構図に入れた浮世絵が数多く摺られたことなどもあって、“伊勢神宮や善光寺などとともに参詣者希望者が多かった”とか。・・・最近では、登山などの目的で、この筑波山を訪れる方々も多いのではないでしょうか?
      上記の筑波山麓を、その南端に臨む山塊の主峰と云えば、八溝山(やみぞさん)です。・・・この山は、茨城県と福島県との県境に位置しており、県内唯一の1,000m級の山。茨城県内における最高峰となります。・・・これらの山塊に水源を発する奥久慈(おくくじ)をはじめとして、県北部には花園や、大北、花貫(はなぬき)などの渓谷美が多いです。
      明治から昭和に掛けてのジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家とされる徳富蘇峰(とくとみそほう)が・・・「水郷の美、天下に冠たり。」・・・と云った景観も、“お国自慢の一つ”かと。・・・霞ケ浦(かすみがうら)には、紫峰(しほう)筑波山を背にして映える湖面の景観が、見事な風情を漂わせております。・・・『常陸風土記』では、「板来(いたく)」として記された潮来(いたこ)地域は、古来から菖蒲(しょうぶ:=アヤメ)が咲く水郷の里として有名でした。・・・特に、江戸時代には、霞ケ浦や、北浦(きたうら)、利根川における寄港地の一つとされ、水運の港町として栄えましたが・・・時を遡れば、この潮来には・・・西暦1185年創建と伝わる臨済宗・長勝寺(ちょうしょうじ)があります。これは、“鎌倉幕府を開いた源頼朝が建立し、水戸藩2代藩主・徳川光圀(※義公)が再建した”という寺院です。
      ・・・その庭には、俳人・松尾芭蕉の句牌があり、人々を魅了して来た潮来の伝統美を知ることが出来ます。・・・尚、“源頼朝の菩提の為に寄進した”と謂われる銅鐘は、国指定重要文化財。・・・その山門や、仏殿は、県指定文化財。・・・また、その境内にも、鹿島紀行において、松尾芭蕉が帰路に詠んだ句碑があり、歴史の深さを感じることが出来ます。

      花の名所の「花」と云えば・・・茨城では、“言わずもがなの梅”となりますが・・・その名所として、最も有名なのが、偕楽園(かいらくえん)と弘道館(こうどうかん)の2カ所です。

      ・・・一つ目の偕楽園は、岡山市の後楽園(こうらくえん)や、金沢市の兼六園(けんろくえん)と並び称されて、日本三名園の一つです。そこには、拡張部を含めない本園部分だけで、約100種3,000本もの梅や、1,000本近くの孟宗竹などが植えられています。・・・そもそも、この偕楽園は・・・西暦1833年(天保4年)に、水戸藩9代藩主・徳川斉昭(※烈公)が藩内を一巡した後に、当時の千波湖(せんばこ)を臨む七面山を切り開いて、回遊式庭園とする構想により造られたものです。・・・この巨大な大名庭園は、“領民と偕(とも)に楽しむ場にしたい”と、斉昭自らにより「偕楽園」と名付けられました。・・・この「偕楽」とは、中国の古典である『孟子(もうし)』の・・・「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり。」・・・という一節から引用したものであり・・・このことを、“斉昭自ら”が著した『偕楽園記』では・・・「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり。」・・・と述べています。
      ・・・そして、この偕楽園は、斉昭による「水戸学の精神(※後述します)」に基づいた愛民精神が反映され・・・竹園と梅園で以って、陰と陽とを表しており・・・この庭園は、開園当初から、毎月「三」と「八」が付く日には、当時の領民に対しても開放されていました。・・・尚、現在でも、この伝統が受け継がれており・・・この偕楽園は、日本三名園のうちで唯一、無料で入園することが可能であり・・・様々な種類の梅や、美しい竹林を満喫出来ます・・・が、園内にある当時の別荘・好文亭(こうぶんてい)への入館については有料となります。・・・ちなみに、この好文亭の1階から2階の部分には、日本初と云われる滑車手動式の配膳用エレベーターがあります。・・・これについては・・・そもそも、水戸藩2代藩主・徳川光圀(※義公)を尊敬する徳川斉昭(※烈公)が、“御先祖の光圀(※義公)同様に、自身も探究心が強い人物であり、また食通だったから”と云われております。
      ・・・そして、この「好文亭」という名は、“梅の異名”である「好文(こうぶんぼく) 」に由来しており・・・“元々は、古代中国王朝・晋(しん)の武帝(ぶてい)が、学問に親しむと花が開いて、学問を止めると花が開かなかった”・・・という故事に基づいております。
      ・・・そもそもの話として・・・徳川斉昭(※烈公)が、この回遊式庭園を構想するに当たって、何故に梅の木を選んだのか? については、きちんとした理由があります。・・・それは、斉昭(※烈公)が著わした『種梅記(しゅばいき)』の中に遺されているのですが、「梅」についてを以下のように述べています。・・・“まず、春先に咲く梅の花は、雪を溶かし春を告げる花として、多くの人々の心を和ます存在であるということ。そして梅の実には、酸が多く含まれていることから、この実を食すことで、人々の喉の渇きと疲れを癒し、潤してくれる存在である”と。・・・このことは、つまり・・・“梅の実を、実際に梅干しとすれば、防腐効果や殺菌効果を持ち、且つ長期保存も可能となるため、江戸時代を通じて頻繁にあった飢饉(ききん)への対策や、戦時用の携帯食料として最適だった”ということかと。・・・それに・・・梅干しは、当時の人々の感覚では、単なる漬物と云うよりは・・・どちらかと云うと、“食中(しょくあたり)や、腹痛などに対する和漢薬の一種として考えられておりました”ので。
      ・・・ちなみに、かつての戦国時代における合戦時には・・・“兵糧として、干し飯(ほしいい)や、乾燥させた味噌などとともに、梅干しも欠かせないものだった”とされ・・・“携帯していた梅干しを眺めるだけで、実際には食べず、その酸っぱさを(自己暗示的に)連想し、自身の口腔内に(ほぼ強制的に)唾液を出させて、結果として喉の渇きに耐えた”という逸話が伝えられておりますし・・・また、江戸時代中期以降に・・・筑波山参拝や、富士山参拝、お伊勢参り、四国巡礼のお遍路旅など全国各地で・・・“各街道筋の旅ブーム”が、庶民にも浸透し始めると、“その旅支度には、梅干しが必需品だった”とか。・・・こういったことからも、『梅の備えあれば、まさに憂い無し』ということだったのでしょう。・・・尚、“この偕楽園が完成した後に、水戸を中心として県内各地へ、梅干しの文化が一層広がったこと”は云うまでもありません。
      ・・・では、孟宗竹による竹園のほうは? と申しますと・・・梅と同様に、春先には軟らかく食感の良い「竹の子」として食せることは勿論です・・・が、成長した「竹」を伐採し、程良く乾燥させるなどの各行程を経て「竹材」とすれば・・・丈夫で長持ちする「弓」などの耐久消費財を生産することが可能であり、そして・・・“このことが、当時財政難だった水戸藩(水戸徳川家)を間接的に援けることにも繋がったから”です。・・・これらの耐久消費財とは、当時の下級藩士達が内職仕事としていた「水府提灯(すいふちょうちん)」だったり、「水筒」などの様々な竹細工による日用品でした。・・・これらに要する頑丈な「竹材」には、「孟宗竹」が最適とされ・・・また、“斉昭(※烈公)が、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:※旧称は男山八幡宮)から、わざわざ取り寄せて、この偕楽園の竹園を整備させた”と云います。
      ・・・尚、「水府提灯」とは、“その骨組みが、一般の提灯のような一重らせん構造とは異なり、複数の各輪材を丈夫な糸で結束させ、且つ茨城県常陸大宮市の旧山方町地域で生産された上質な和紙である西ノ内紙(にしのうちし)を表面に張り付けるという構造だった”ため・・・かなり耐久性に優れたものとなり、当時の徳川将軍宗家などにも、献上されております。

      ・・・上記の偕楽園とともに梅の名所とされる弘道館は、西暦1841年(天保12年)7月に、同じく水戸藩9代藩主・徳川斉昭(※烈公)によって設立された藩校です。・・・斉昭(※烈公)の意向により、設立当初から多くの「梅」が植えられ・・・その本数については、やはり『種梅記』の碑に記されています。・・・斉昭(※烈公)による漢詩『弘道館に梅花を賞す』には・・・「千本の梅がある。」・・・と。・・・但し、現在では、その数を減らして、約60品種800本となってはおりますが。・・・いずれにしても、この藩校・弘道館では・・・主に「漢学(『四書五経』を中心とする儒学)」や、『古事記』、『日本書紀』などの国典を学ぶ「学問所」と、武術などの稽古を行なう「武道館」とを併設し、水戸藩(水戸徳川家)では文武両道が奨励されますが・・・その他にも・・・「医学館」や「天文館」などもありました。・・・そして、斉昭(※烈公)は、水戸以外の領内各地に、当時の分校に当たる「郷校」を15校を設置し・・・その波及効果によって、更に「私塾」や「寺子屋」が、領内各地に誕生しています。
      ・・・「私塾」として、主な処としては・・・加倉井砂山(かくらいさざん:※名は久雍〈ひさやす〉、通称は淡路、別号は西軒、懶庵とも)による「日新塾(にっしんじゅく:現茨城県水戸市成沢町)」や、藤田幽谷(ふじたゆうこく:※名は一正、通称は次郎左衛門)による「青藍舎(せいらんしゃ:現茨城県水戸市梅香)」などが有名です。
      ・・・上記の「日新塾」では、「読書」や、「数学」、「歴史」、「理科」、「乗馬」、「砲術」、「練兵」、「撃剣」、「詩文」など、“文武両道を錬磨する多様なものであって、全国からの入門者や遊学の徒が集い、その塾生は約30年間で約三千名にも及んだ”とも云われ・・・“加倉井砂山の方針のもとで、一党一派に思想が偏ることを好まず、各方面に国家有用の人物を創るという指導で以って、当時の個性尊重型教育や、女子教育まで行なったこと”は・・・当時、「水戸学」が主流になっていた水戸藩では、“かなり珍しい私塾だった”と云えます。・・・それでも、その門人には・・・
      ・・・「桜田門外の変」に参加した斉藤一徳(さいとうかずのり:※通称は監物、号は文里、変名は佐々木馬之介、常陸国静神社の神官)や、鯉淵鈴陳(こいぶちりんちん:※通称は要人、常陸国諏訪神社の神官)、「坂下門外の変」に参加した河野顕三(こうのけんぞう:※名は通桓、変名は三島三郎、下野国医師)、「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」に参加した藤田信(※通称は小四郎、藤田彪〈東湖〉の四男、藤田幽谷の孫、水戸藩士)や、飯田利貞(いいだとしさだ:※通称は軍蔵、笠間藩郷士)、明治新政府で「枢密院顧問官」などを務めた香川敬三(かがわけいぞう:※旧名は鯉沼伊織、変名は小林彦次郎、水戸藩士)、“東京川崎財閥前身の川崎組や川崎銀行の創始者”である「川崎八右衛門(かわさきはちえもん:※加倉井砂山娘の香蘭と結婚)・・・などの多彩な人物を輩出しております。
      ・・・そして、藤田幽谷(※名は一正、通称は次郎左衛門)による「青藍舎」の門人としては、会沢安(あいざわやすし:※通称は恒蔵、号は正志斎、欣賞斎、憩斎とも、水戸藩士)や、飛田逸民(とびたいつみん:※名は武明、勝とも、通称は勝太郎、水戸藩士)、岡崎正忠(おかざきまさただ:※通称は忠介、号は槐陰、水戸藩士)、国友尚克(くにともたかかつ:※通称は与五郎、号は善庵、宝竹堂とも、水戸藩士)、豊田天功(とよだてんこう:※名は亮、通称は彦次郎、号は松岡、晩翠とも、水戸藩士)、吉成信貞(よしなりのぶさだ:※号は慎亭、南園とも、水戸藩士)、杉山復堂(すぎやまふくどう:※名は忠亮、通称は千太郎、別号は致遠斎、水戸藩士)、吉田令世(よしだのりよ:※通称は平太郎、号は活堂、水戸藩士、藤田幽谷の娘婿)、川瀬教徳(かわせのりなり:※通称は七郎衛門、水戸藩士)・・・など、優れた人物を輩出しています。
      ・・・いずれにしても、これらの「私塾」は、当時の武士や庶民など身分の別なく入学することが出来たため・・・“学問の普及と精神的感化の点においては、藩校にも勝るものがあった”と云います。・・・ちなみに、“この幕末期における藩校(及び郷校)建設や、教育熱の盛り上がり”は・・・“水戸藩(水戸徳川家)の領内だけには止まらず、諸国雄藩へと拡がる起爆剤的な影響を齎(もたら)すこと”になります。

      ・・・さて、上記の藩校・弘道館は、山野邊家などの重臣達の屋敷地があった水戸城三の丸内に建設されることとなり・・・その建造には、水戸藩家老・戸田忠敞(とだただたか:※通称は忠太夫、号は蓬軒)が携わりました。・・・初代の教授頭取には、会沢安(※通称は恒蔵、号は正志斎、欣賞斎、憩斎とも)と青山延于(あおやまのぶゆき:※号は拙斎〈せっさい〉)が就任し・・・そして、その経営に当たる学校奉行には、安島信立(あじまのぶたつ:※通称は帯刀〈たてわき〉)が任命されております。・・・尚、八角形の建物として知られる八卦堂(はっけどう)内の石碑(=弘道館記碑)は、斉昭(※烈公)の選文に依るものですが、藤田彪(ふじたたけき:※号は東湖〈とうこ〉)が草案した建学精神が、漢文によって記されております。
      ・・・ちなみに、この藩校・弘道館は・・・水戸藩2代藩主・徳川光圀(※義公)が編纂を始めた『大日本史』の影響を受ける“後期水戸学研究の実践舞台”とされ・・・武道の他にも、広く自然科学や、諸学問の教育などが為されていました。・・・そして、“水戸藩(水戸徳川家)の財政事情が逼迫(ひっぱく)していながらも、かなり大規模な藩校を設立させたことから、当時の水戸藩(水戸徳川家)の教育政策が窺える”と云われております。


      「後期水戸学」とは、その一面としては・・・当時の西欧列強諸国からの開国開港圧力や、異国に対する脅威論が高まる社会情勢の中にあって・・・“天皇や朝廷の権威などを背景とし、自らの国家体制の強化を図ることによって、日本国の自治独立や安全保障などを確立すべき”という思想を持つ哲学でした。・・・そもそもとしては、「前期水戸学」と呼ばれる思想・哲学があって、これを・・・後世の「後期水戸学」と比べれば・・・「前期水戸学」は、「朱子学(しゅしがく)」の影響による道徳的な思想や、尊皇思想などが、より強いものであって、“異敵を打ち払う”と云う攘夷思想は、さほど強くはなく・・・むしろ・・・幕末期頃に、この「前期水戸学」が、更に研究され、一定の発展を見せていたが故に・・・それまで「前期水戸学」により培われていた思想・哲学が、当時の国際的な外交関係や紛争関係・・・それぞれの西欧列強諸国の技術力や思惑・・・西洋文明を急速に知るための探究心・・・などと、攘夷思想というものが結合したために、「後期水戸学」を形成したのではないか? と考えられます。
      ・・・そして、この「後期水戸学」を、“確立した”と云われるのが、会沢安(※通称は恒蔵、号は正志斎、欣賞斎、憩斎とも)であり・・・“彼は、当時の尊皇攘夷(※正統な統治者たる天皇を尊崇し異民族等を打ち払うこと)運動の理念的な指導者として、全国的に仰がれた人物”とされています。・・・“彼の著書である『新論(しんろん)』は、当時の尊皇攘夷派志士や運動家達の座右の書として、水戸藩(水戸徳川家)のみならず、日本各地で広く読まれるようになっていた”とのこと。


      ・・・尚、他の諸藩の藩校などの場合には、「卒業に対する概念」を、設けることが一般的ですが・・・水戸藩(水戸徳川家)の藩校・弘道館と、15の郷校では・・・“学問は、一生涯を通じて行なうものである”という考えに基づき・・・敢えて、「卒業の概念」というものを設けず・・・“若者も老人も、共に同じ場で学んでいた”ともされます・・・が、実際には、「藩学出席強制日数」という形式的な基準を設定しておりました。・・・そして、“いわゆる文武”のうち・・・「武館」へは、無試験で入学することが出来ました・・・が、「文館」への入学については、一定水準以上の学力を要件としつつも、“当時の家格と入学する本人の実力とが合致するような人材を育成するという目的によって、本人の家柄に基づいて出席日数の制限が行なわれ、その家柄が比較的に低い者には、出席すべき日数を少なく設定していた”とも云います。
      ・・・開校から、暫く後には・・・水戸藩内における改革急進派(≒天狗党:てんぐとう)と門閥保守派(≒諸生党:しょせいとう)との間で、思想的且つ政治的な対立が激しくなり・・・藩校・弘道館や郷校なども、その対立の舞台となってしまいます。

      ・・・水戸徳川家の出身者だった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、いわゆる「大政奉還」の10日後に当たる西暦1867年(慶応3年)10月24日に、自身の征夷大将軍職の辞職についてを朝廷へ申し出て、謹慎生活に入りました・・・が、西暦1868年(慶応4年≒明治元年)4月、いわゆる官軍との間で取り決められた江戸城開城の合意事項に沿って、実家がある水戸へ引き移ることとなり・・・自身の幼少時代を過ごした「弘道館・至善堂(しぜんどう)」に入りました。・・・しかし、“当時の水戸藩(水戸徳川家)は、10代藩主・徳川慶篤(※諡号は順公、慶喜の同母兄)が病没し、藩主不在などによる混乱状態にあったため”・・・“徳川慶喜自身が、この思想的且つ政治的な対立構造に巻き込まれることが、容易に予想されていたことなど”もあって・・・同年7月には、再び駿府(後の静岡)へと、移ることとになります。
      ・・・正式に改元して「明治元年」とされた、西暦1868年10月1日~2日頃には、「会津戦争」で敗走していた諸生党が、水戸へ舞い戻り、この「弘道館」に立て籠もって・・・諸生党勢は、水戸城に入った本圀寺党(ほんごくじとう:※水戸藩10代藩主・徳川慶篤が生前中に率いた尊皇攘夷派藩士の志士達が、京都の山科の本圀寺に駐屯し、皇室の守衛や、藩主の実弟・慶喜などの補佐に当たって、本圀寺勢と呼ばれることとなり、後に本圀寺党と呼ばれました)及び天狗党の残党達”と、水戸城・大手門を挟んで交戦する事態に至り・・・この「弘道館」の「文館」や、「武館」、「医学館」など多くの建物が、銃撃や砲撃によって焼失しました。・・・これを、「弘道館戦争」と云います。・・・後に・・・この「弘道館」は、西暦1872年(明治5年)12月8日に閉鎖され・・・その後は、明治新政府による「太政官布告」によって、いわゆる「公園」とされ・・・概ね、現在に至ります。
      ・・・尚、「文化財」として保存されているのは、弘道館戦争を経ても遺されている「旧弘道館(きゅうこうどうかん)」であり・・・“国の特別史跡”に指定されています。・・・“その中”にある「正庁」や、「至善堂」、「正門」は、国の重要文化財に指定されています。・・・ちなみに、“旧弘道館の建物について”は、「茨城県都市公園条例」によって、「有料公園施設」とされ、観覧は有料となります。

      特に重要なのは、上記の「偕楽園」と「弘道館」とが、“梅の名所である”と同時に・・・“互いが、一対の施設として機能するように想定され、それぞれが築造・建築されていること”です。・・・つまり、“偕楽園は、心身で以って保養する場所”であり・・・もう一方の“弘道館は、心身で以って学び鍛える場所”とされているのです。


      尚、“花の名所で云う”と・・・初夏には、潮来の「菖蒲(しょうぶ:=アヤメ)」や、北茨城の「シャクナゲ」の大群落・・・が、その代表格であり・・・秋には、「菊まつり」が、県内各地で催されます。・・・特に、「笠間の菊まつり」は、関東一円に聴こえる程の“秋の風物詩”となっております。

      ・・・これらの自然探勝地の他にも・・・“東国一の大社”とされる「鹿島神宮」や・・・「筑波山神社」・・・“浄土真宗発祥の地”とされる「西念寺(さいねんじ)」をはじめとする、“親鸞上人(しんらんしょうにん)の遺跡巡り”・・・青銅製大仏としては、世界最大級の高さ(約120m)を誇る「牛久大仏(うしくだいぶつ:現茨城県牛久市)」も、“親鸞上人の偉業と所縁の深い宗教施設”です。
      ・・・また、奈良時代の繁栄を留める石岡(いしおか)の「國分寺跡」や、「國分尼寺跡」・・・昭和初頭の大火を契機としている、“レトロな欧風木造商家建築群(※街道沿いの正面部分が欧風に装飾されたため「看板建築」などと呼ばれております)”・・・真壁(まかべ:現茨城県桜川市)の「伝正寺(でんしょうじ)」や、「雨引観音(あめひきかんのん)」・・・水海道(みつかいどう:現茨城県常総市)の「弘経寺(ぐぎょうじ)」・・・下妻(しもつま)の「大宝八幡宮(たいほうはちまんぐう)など・・・県内各地で・・・いわゆる神社仏閣や、古城址などの史跡巡りをすることが出来たり・・・中世や近世を調査する際に役立つ史料等に触れる機会にも恵まれることも多いため・・・歴史好きの人などにとっては、特に捨て難い魅力があるのではないでしょうか?


      ・・・ちなみに、現在の茨城県民は・・・総じて、郷党意識と呼ばれるものが、やや低く・・・いわゆる“お国自慢下手”と云われます・・・が、これは・・・“江戸時代を通じて、諸藩の領地を細分化し、しかも一貫して頻繁に領主の国替えを行なった”と云われる・・・江戸幕府(=徳川幕府)の政策自体に、由来しているようでして・・・明治維新後も、農林漁業以外には、特に県独自の産業が振興し得なかった理由に共通しているのではないか? とも云われております。
      ・・・しかしながら、“徳川御三家と呼ばれる水戸徳川家のお膝元”とされる水戸市周辺地域では・・・“その事情は、かなり異なっていた”かと。・・・水戸藩(水戸徳川家)は、2代藩主・徳川光圀(※義公)の『大日本史』の編纂事業を背骨として・・・いわゆる「大義名分」を明らかにしようとする、「水戸学(≒前期水戸学及び後期水戸学)」の学風が興り・・・また藩としても、多大な経費を割きながら、人材の育成などに励みました。
      ・・・この水戸藩(水戸徳川家)は・・・幕末期においては、前述の藤田彪(※号は東湖〈とうこ〉や、会沢安(※通称は恒蔵、号は正志斎、欣賞斎、憩斎とも)などの愛国主義者を、多く輩出し・・・当時の尊皇攘夷論(そんのうじょういろん)の牽引役(けんいんやく)となって・・・長州の吉田松陰(よしだしょういん)や、薩摩の西郷隆盛(さいごうたかもり)など、後の明治維新へ導いた志士達に対して、大きな影響を与えました。・・・「水戸学(≒前期水戸学及び後期水戸学)」の学風や伝統などに基づいて、人々の気風や気質については・・・“現在も、「水戸っぽ」と呼ばれる人々の中に受け継がれている”と云われております。




【第二部】茨城の歴史を中心に



      ・・・それでは、【第二部】茨城(いばらき)の歴史を中心に・・・へ話題を移したいと思います。

      ・・・“大和朝廷による統一支配が確立されてから、ほぼ100年が経った5世紀頃の北関東には、強大な勢力を持つ地方豪族が出現する”ようになりました。
      ・・・「茨城(いばらき)」には・・・“古来より、新治(にいはり)や筑波(つくは)、茨城(うばらき)、那賀(なか:=仲、那珂)、久慈(くじ:=久自)、多珂(たか:=高)の六カ国に区分されていました”・・・が、“大化の改新によって、この六カ国が統合されること”になり・・・改めて「常陸国」と呼ぶようになります。
      ・・・“常陸国と呼ぶようになる”と・・・“この地においても、地方豪族同士間の権力争いなどによる栄枯盛衰が、それぞれ展開される”ことになり・・・“源平勢力の台頭”に代表される「武士団」が出現。・・・やがて、“中世の幕開け”を齎(もたら)します。・・・そして、江戸時代直前の常陸国には、「佐竹氏」と「結城氏」という、“代表的な二大勢力に、ほぼ集約”されました。
      ・・・“近世の江戸時代には、徳川光圀(※義公)と徳川斉昭(※烈公)の二大名君を輩出した水戸藩(水戸徳川家)は、徳川御三家としても重要な立場にあり、当時の政治や文化面においては優れた政策を実行し、特に幕末維新期における水戸出身の志士達の活躍は、目覚ましいものがあった”と云います。


      【旧石器時代~弥生時代頃】《茨城の曙》

      ・・・洪積世(こうせきせい)の終わり頃に、日本列島はユーラシア大陸と分離しました。
・・・この頃の火山灰である関東ローム層から、人類活動の遺物が発見されております。
      ・・・縄文時代以前は、いわゆる土器を伴なわない先土器文化と呼ばれる時代であり・・・県内では、高萩市や常陸大宮市(旧山方町)から、握斧(ハンドアックス)が発見されています。また、この頃の遺跡と推測される遺物が、城里町(旧常北町)や、石岡市(旧八郷町を含む)、常陸大宮市(旧大宮町)、筑西市(旧協和町)などにも見られます。
      ・・・縄文時代は、出土する土器によって、五期(或いは六期)に区分されます。・・・県内では、この五期全てに亘っており、“当時の縄文人達が、その都度において生活を向上させながらも、比較的長い期間、安定的に繁栄出来ていたこと”を物語っています。・・・この頃を代表する貝塚としては、水戸市の大串(おおくし)貝塚をはじめ、県南地域に集中しています。・・・特に、霞ケ浦の沿岸部には、大型の貝塚が見られ、県北地域の海岸沿いには、数こそ少ないものの、獣骨や骨角製釣針を含む貝塚が発掘されています。
      ・・・“紀元前300年~400年頃になると、水稲稲作技術や金属を伴なった農耕を主な生活の糧とする弥生文化が、日本列島の東にまで到達し始める”こととなり・・・那珂川(なかがわ)の流域からは、この頃と見られる弥生式土器が出土しています。・・・また、発掘例は少ないものの・・・籾(もみ)の形跡を留めている土器や、稲穂を掴むための石包丁(いしぼうちょう)なども、県内の遺跡において散見されています。


      【古代】《西方文化の伝来》
      ・・・狩猟や漁労、採集による暮らしから、次第に農耕文化へ移行すると、農耕などの生業(なりわい)を主とする各集落では、必然的に部族を発生させることとなり・・・これら各部族内においては、自然発生的に、富める者と貧しい者、支配する者と支配される者など、大別すると二つの階級が生まれ、やがて(地方)豪族と呼ばれる者達が、発生するに至ります。

      ・・・『常陸風土記』によると・・・
      崇神(すじん)天皇の御世、那賀國造(なかのくにのみやつこ)の祖とされる建借間命(たけかしまのみこと)は、霞ケ浦の安婆の島(あばのしま:※阿波や阿波崎の地名が現在に伝わります)まで、やって来ました。・・・すると・・・そこには、國栖(くす)と呼ばれる部族が、既に棲み付いており・・・なかなか、建借間命へ服従するには至りません。・・・そこで、建借間命は一計を案じ・・・船中で杵島曲(きしまふり:※肥の國の民謡のこと)を唄って、それこそ歌舞音曲を七日七夜(なのかななよ)続けたところ・・・穴に籠もっていた國栖達が、誘い出されて、これを見物しに来ました。・・・建借間命は、この際を捉えて襲い掛かると、國栖を征伐した・・・などと、伝えられております。

      ・・・ちなみに、上記の建借間命は、
九州地方の「多ノ臣族」であり、時の大和朝廷の命令を受けて、東国へ下向することとなって・・・下向後は、いわゆる東国開発に伴なって繁栄しました。・・・つまり、常陸国の那賀國造(=那珂國造)の祖でもあった訳です。・・・“このような伝承は、ひたちなか市の鏡塚(かがみづか)や、行方市(旧玉造町)にある三昧塚(さんまいづか)などの有り様、或いは霞ケ浦沿岸部に多い古墳などからも、ある程度裏付けることが出来ます。
      ・・・上記の「鏡塚」とは、大きな前方後円墳であり、中からは二面の漢式鏡が発掘され・・・同じく「三昧塚」からは、甲冑や馬具、直刀、漢式鏡、金銅冠など、大陸文化と繋がりのある複数の埋葬物が発掘されております。
      ・・・また、県内にある古墳のうち、約70%は前方後円墳であり、そのうちの約10%が円墳ですが、“なかでも鹿島地域の古墳数が、群を抜いて多い”とのこと。
      ・・・これらのことと、“東国一の大社”とされる鹿島神宮の創建時期とを考え合わせても、いわゆる西方文化が、常陸地方へ伝播したのは・・・およそ、この当たり頃からと考えられるのではないでしょうか?

      ・・・尚、県北地域においては、横穴式古墳群が多くなっており・・・また、装飾古墳も幾つか見ることが出来ます。・・・年代的には、4世紀頃ではなく・・・「丸山(まるやま)」や、「勅使塚(ちょくしづか)」、「愛宕山(あたごやま)」、「鏡塚」、「梵天山(ぼんてんやま)」など・・・それぞれの規模が、壮大な古墳であるため、5世紀頃のものと推定されており・・・また、“この頃のものが、県内においては最も古い”とされています。

      ・・・こうして観ると・・・大和朝廷による統一支配が確立された4世紀から、ほぼ100年が経ち・・・その支配圏が、次第に東国地方にも及ぶこととなり・・・5世紀に入ると、大和朝廷との関係を深めていた(地方)豪族による間接支配が始まることになって・・・6世紀初め頃には、“東国各地において、その支配力や権力を誇るような(地方)豪族の多くが、現に土着していること”が分かります。


      《平氏一族の内乱と平将門の野望》
      ・・・平安時代になると・・・
      桓武(かんむ)天皇の曾孫だった高望王(たかもちおう:※平高望とも)が、
平(たいら)姓を賜り、上総介(かずさのすけ)として、上総国へ赴任したのです・・・が、その任期が満了しても、京の都へは帰らずに・・・そのまま土着して、下総(しもうさ)や常陸にまで、その勢力範囲を拡げることとなります。・・・そして、この平高望の子息達には、国香(くにか)や、良兼(よしかね)、良将(よしまさ)、良文(よしふみ)らの男子がおりました。
      ・・・やがて・・・平国香が、「常陸」を・・・平良兼は、「上総」を・・・平良将は、「下総」を・・・それぞれ分領することとなって・・・それぞれが、土着地域において繁栄するようになりますが・・・

      ・・・父の良将を早くに亡くした平将門(たいらのまさかど)は、
都へ上京すると、藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕えるようになりました。・・・しかし、中央政権における自身の出世を諦め、いざ故郷の下総へ帰って来ると・・・亡父である良将の遺領である筈の下総の地が、実の伯父達によって著しく奪われていたことを知ると、激しく怒り・・・
      ・・・この平将門が、西暦935年(承平5年)に、伯父の国香を滅ぼしたことを発端として・・・いわゆる「平氏一門の争乱」が始められることとなり・・・平将門は、国香の遺児、つまりは・・・“将門の従兄弟である貞盛(さだもり)と相対峙することになった”のです。
      ・・・西暦939年(天慶2年)11月になると・・・平将門は、自身の所領地において、農兵を組織し、まずは常陸国の国府を急襲。・・・これに勝利した将門は、常陸国の国印を、あっけなく、その手中に収めると・・・当時、本拠地としていた下総国の豊田郷(とよだごう:現茨城県常総市)へと引き上げました。
      ・・・こうして・・・平将門による謀反(むほん)は、公然の事実として、時の朝廷から認識されるようになりました・・・が、その一方で、上昇志向が強かった将門が、僅か1カ月の間・・・云わば、続け様に・・・下野(しもつけ)を襲うと・・・更には、上野(こうずけ)の国府をも陥れることになります。
      ・・・“このように、関八州(かんはっしゅう)の悉(ことごと)くを席捲(せっけん)する”に至った平将門は・・・彼自身に従う豪族達を、それぞれの国司に任命し、王城を築かせると、八省百官の制を立てて、自らを新皇(しんおう)と称するようになりました。

      ・・・しかし、“この東国に独立国家を打ち立てよう”とする将門の野望も・・・たった一本の流れ矢によって、水泡に帰すことになりました。
・・・一時期には、関八州を制覇し、破竹の勢いで以って、平貞盛の居館を襲い、その妻を捕らえて、本拠地に引き上げていた将門でしたが。・・・それも、連日連夜の戦闘により疲労の極限に達していた自らの軍団を解いた一瞬の隙に・・・。・・・平貞盛とともに、下野の押領使(おうりょうし:※警察などの軍事的官職のこと)に任じられた藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が朝廷から派遣されると、彼らが率いる一隊が、平将門の居館を急襲し、それが成功したのです。
      ・・・乱を起こしてから僅か1カ月・・・自らの野望を、ほぼ手中に収めつつあった東国の風雲児は、若干38歳にて、その生涯を閉じることになったのです。



      《東国武士と源氏の結びつき》
      ・・・“東国の風雲児だった平将門を倒す”という軍功を挙げた平貞盛の子孫達は、やがて・・・
      ・・・後に中央政権を掌握する平清盛(たいらのきよもり)を輩出する直系家系として栄えることとなります・・・が、平貞盛の弟だった維幹(これもと)の代に、
兄の貞盛から、“常陸の地”を分封され、国府に属する官人「常陸大掾(ひたちだいじょう)」に任じられて・・・筑波郡の多気(たけ:現茨城県つくば市北条)を本拠地とし、そこで自身の勢力を更に盛んにすると・・・その子孫達が、代々大掾職を継いだため・・・平維幹の直系家系は、常陸平氏の本家とされる「大掾(だいじょう)氏」を名乗るようになりました。

      ・・・更には、将門の乱が鎮圧されてから、90年ほど経つと・・・
      ・・・平将門のもう一人の叔父だった良文の孫に当たる平忠常(たいらのただつね)が、東国において乱を起こし
・・・上総の国府を襲って、安房(あわ)の国守を捕らえて焼殺するなどしました。
      ・・・まさに、“90年ほど前に平将門が歩んだ道と、軌を一とする動きを示していた”のです。・・・尚、“この時も、近隣諸国の国司らは完全に無力であり、新たに任命された国司達も、平忠常を恐れるあまり、任地へ下向しようともしない状況だった”とのこと。

      ・・・しかし、西暦1031年(長元4年)になると・・・朝廷は、平忠常のことを本格的に追討するため、源頼信(みなもとのよりのぶ)を現地へ派遣することとなり・・・
      ・・・それまで、乱を起こしていた筈の平忠常は、一戦も交えることなく、源頼信の前に屈してしまいます。
      ・・・このことは、“この時に鎮圧軍の旗頭とされた源頼信に集まる期待や軍事力、つまりは人徳と政治力が備わっていた人物である”と、認識されていたからに他なりません。
・・・そして、これは・・・“常陸平氏の本家である大掾維幹(だいじょうこれもと:※平維幹とも)すらも、源頼信の馬前に馳せ参じ、その命(めい)に服していたことなどから”も分かります。

      ・・・その後の「前九年の役(ぜんくねんのえき:※西暦1051年~1062年)」と、「後三年の役(ごさんねんのえき:※西暦1083年~1087年)」の際には・・・
      ・・・源頼信の孫に当たる源義家(みなもとのよしいえ:※通称は八幡太郎)が、坂東武者(ばんどうむしゃ)を率いて、奥州(おうしゅう)の安倍(あべ)氏や、清原(きよはら)氏を討つなど・・・“当時の源家(みなもとけ、げんけ)と、坂東武者と呼ばれた東国武士との関係は一層深まる”こととなり・・・いわゆる清和源氏(せいわげんじ)と呼ばれる家系が、東国において、その勢力を拡大させる契機となりました。

      ・・・ちなみに、奥州街道沿いの街々には・・・今も、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)に纏(まつ)わる伝承や、伝説が数多くあり・・・“義家が実際に休息した処とか、義家が武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈願した処だった”・・・などと謂われる場所が伝えられています。・・・これらは、源家の嫡流と、当時の東国の民心とが、いかに寄り添うものだったかを、物語っているのでしょう。・・・尚、源義家は、自身の幼少期に山城国(やましろのくに)の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:※旧称は男山八幡宮とも、現京都府八幡市八幡高坊)で元服(げんぷく)したことから、「八幡太郎」と称しました。


      【中世】《鎌倉幕府の成立と郷土「茨城」の武将達、そして名字(=苗字)と地名の関係》
      ・・・「後三年の役(※西暦1083年~1087年)」の際、兄の義家に従い「蝦夷征伐(えみしせいばつ)」に参加していた源義光(みなもとのよしみつ:※通称は新羅三郎)は・・・その平定の後に、「常陸介(ひたちのすけ)」に任じられることになります。
・・・ちなみに、この源義光も、当時の近江国にあった新羅明神(しんらみょうじん:現大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから「新羅三郎(しんらさぶろう)」と称していました。
      ・・・この源義光は、常陸介の在任中に・・・常陸国の各地に荘園を設けて、着々と自家の支持基盤を固めつつ、奥州の菊田荘(きくたのしょう:現福島県いわき市)をも、武力を背景に制圧することになりました。
      ・・・そして、源義光の子だった義業(よしなり)が、常陸平氏の本家・大掾清幹(だいじょうきよもと:※或いは、吉田清幹とも)の娘を娶ることとなって・・・やがて、子の昌義(まさよし)を儲けます。

      ・・・この源昌義が、常陸国久慈郡(くじぐん)佐竹郷(さたけごう:現茨城県常陸太田市稲木町周辺の旧佐竹村)に土着することとなり・・・そこの地名から、「佐竹(さたけ)氏」を名乗り始めることになります。
      ・・・この昌義は、自身で「源朝臣佐竹昌義(みなもとのあそんさたけのまさよし)」を称するとともに・・・当然の如くに、“自身が、佐竹氏の始祖であること”を示していた訳です。
      ・・・これによって、延々約400年の間、この「佐竹氏」が、常陸地方の名門豪族として、歴史上に多くの足跡を残すことになりますが・・・

      ・・・やがて、時は・・・平清盛の絶頂時代を迎えることとなり・・・
      ・・・平安時代末期の西暦1174年(承安4年)正月には、平清盛の義弟だった平時忠(たいらのときただ)が、当時の平氏の栄華を讃えて・・・「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし。」・・・・・・すなわち、これを現代語訳すると・・・「平家にあらずんば、人に非ず。」・・・と評したと謂う時代に移行するのです。

      ・・・しかし、“このことも、振り子が、元の状態に戻るが如く”に・・・
      ・・・西暦1180年(治承4年)には・・・“後白河法皇(ごしらかわほうおう)の皇子であり、高倉天皇(たかくらてんのう)の兄宮(あにみや)に当たる以仁王(もちひとおう)が、平氏追討(へいしついとう)を命じる令旨(りょうじ)を、諸国の源氏勢力や大寺社に向けて発する”・・・という事態に発展してしまいます。
      ・・・この時の以仁王は・・・当時の平家の絶頂期においては・・・“地味な立場であり続けながらも、唯一人在京し中央(平氏)政権内に残っていた源氏の長老格・源頼政(みなもとのよりまさ:※当時77歳。清和源氏のなかの摂津源氏、或いは多田源氏とも呼ばれます)の支援を得ていた”・・・とされます。
      ・・・しかし、平氏追討という挙兵計画自体が、平氏方へ露見してしまい、また挙兵計画に対する準備不足もあったためか?・・・反対に、平氏方から追討されてしまうことになります。
      ・・・結局のところ、以仁王と源頼政は、平氏方との間で行なわれた「宇治平等院(現京都府宇治市)の戦い」に関連して、敗死(※同西暦1180年5月下旬頃)し・・・この騒動は、早期に鎮圧されることになりました。
・・・この騒動についてを、「以仁王の挙兵」とか、「以仁王の乱」、「源頼政の挙兵」などと云います。

      ・・・しかしながら、この騒動を契機として、諸国の反平氏勢力が挙兵することとなり・・・“源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵して、全国的な動乱になった”とされる「治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」へと繋がるのです。

      ・・・西暦1180年(治承4年)4月27日には、伊豆国(いずのくに)に流されていた源頼朝にも、叔父の源行家(みなもとゆきいえ)によって、“以仁王からの令旨”が届けられていました
・・・が、この時の頼朝は、早急には動かずに、暫らく事態を静観していたようです。
      ・・・しかし、平氏政権が、この令旨を受け取っていた諸国に散在する源氏勢力の追討(※源氏追討とも)を企てていたため・・・この時、伊豆に居た源頼朝自身も、その危機の中にあることを、ようやく悟ります。
      ・・・同年8月17日、源頼朝は、“自身が挙兵する”という意思を固めると・・・“安達盛長(あだちもりなが)を使者として、源家累代の家人の動向を探らせる”とともに・・・“亡父だった源義朝(みなもとのよしとも)の代から縁故のあった坂東(=関東)にある各豪族に対して、自身の挙兵への協力を呼び掛けた”のです。
      ・・・そして、この時の頼朝は・・・相模国(さがみのくに)の三浦半島に本拠地を置いて、大きな勢力を有していた三浦一族を、頼みの綱としていましたが・・・
      ・・・一方の・・・“三浦一族は、頼朝の挙兵地までが遠路だったため、なかなか参陣出来ずにいた”とのこと。
      ・・・すると、源頼朝は・・・同年8月23日に、自軍が小勢と知りつつも、相模国足柄下郡石橋山(現神奈川県小田原市)まで出陣し・・・“以仁王による令旨を奉じて、その御旗(みはた)を高らかに掲げた”と云います。
・・・・・・
      ・・・しかし・・・三浦一族が、頼朝の期待通りに参陣出来なかったため・・・小勢部隊だった頼朝方が、平氏方の大軍勢と相対峙するも・・・結局のところは、大敗を喫してしまいます。・・・これを「石橋山の戦い」と云います。
      ・・・この時に敗走することになった源頼朝は・・・一時、山中へ逃げ込み・・・後に、船で安房国(あわのくに)へ落ち延びることとなり・・・やがて、その安房の地で再挙を図ることになるのですが・・・

      ・・・“この頃の源頼朝の胸に去来していたこと、或いは頭の中によぎっていたことがある”のです。
・・・・・・
      ・・・西暦1180年(治承4年)に、「石橋山の戦い」が起こった後の頃の話となりますが・・・
      ・・・当時の常陸にあった名門豪族・佐竹氏にとっては、まさに悪影響として、深刻な問題が次々と表面化し・・・この時の佐竹氏は、“まさに存亡の危機に直面することになった”のです。
      ・・・“佐竹氏が存亡の危機に直面させられていた”という背景には・・・
      ・・・当時の源頼朝と、佐竹氏2代目当主の佐竹隆義(さたけたかよし)との間で・・・
      ・・・双方ともに、当時の源氏の棟梁(≒武門の旗頭)という立場に対する、感覚上及び対面上の
・・・云わば、“当時の武士が持っていた誇り(=プライド)と、お互いの血統に対する価値観の違いが表面化したものだった”とも云えるのですが・・・すなわち、どちらが本来的に、源氏の御大将(おんたいしょう)であるべきか? という“大義名分の領域における衝突となってしまった”のでした。・・・・・・

      ・・・ちなみに、この当たりの常陸人(≒茨城人)の気質が、後に「前期水戸学」という思想・哲学が生まれた背景の大きな理由でもある・・・と、私(筆者)は勝手に納得しておりますが、ここで「前期水戸学」に触れると少なからず、このページを割くこととなりますので、このことは別ページで触れさせて頂くことに致しまして・・・“話題を平安時代末期に戻したい”と思います。

      ・・・さて、佐竹氏2代目当主・佐竹隆義、或いは当時の常陸人(≒茨城人)からすると・・・
      ・・・当時の源頼朝のことを・・・“かつては在京した源氏の嫡流ではあったものの、何故か平清盛によって殺害されずに許され、この時は伊豆国へ流罪とされていた一人の若者に過ぎず”という認識であり・・・しかも、“その流罪中に、桓武平氏(かんむへいし)を称する伊豆の豪族・北条時政(ほうじょうときまさ)の長女・政子(まさこ)と婚姻関係を結んで、大姫(おおひめ)という長女まで生まれていた”という状況です。
      ・・・つまり、当時の佐竹氏からすれば・・・

      ・・・まずは、これで源氏の血統が保てるのか? という認識だった・・・。
      ・・・そして、“源頼朝が平氏に対して挙兵したタイミング(※西暦1180年8月23日時点)において、当主の佐竹隆義が偶然にも? 上洛中であって、結果的にも頼朝に呼応出来なかった”という事情があったということ。・・・(・・・※『佐竹家譜(さたけかふ)』では、この時の頼朝挙兵に対する対抗措置として、平清盛、或いは平宗盛(たいらのむねもり:※清盛の三男)による奏請(そうせい)があり、源氏勢力だった佐竹隆義を、敢えて平氏方に留めておくため、隆義を上洛させ、従五位に叙任したこととしております。・・・)
      ・・・また、長きに亘り坂東武者の本拠地たる北関東において、現実に尚も勢力を保ち続けているのは、自家(≒佐竹氏とその分家筋や庶流)ではないか! という自負心があったことや・・・源頼朝が挙兵するタイミング(※西暦1180年8月23日時点)が、当主不在中だった佐竹氏を、軽視する行為そのもの・・・或いは、戦さにおける抜け駆け行為に近く、武士には、あるまじきこととして目に映っていたと考えられ・・・容易には、源頼朝の傘下、或いは臣下として振る舞うことに、かなりの抵抗があったという状況だったのです。

      ・・・その一方で、当時の源頼朝からすると・・・
      ・・・佐竹氏のことを、自身に危機が及んでいた「石橋山の戦い」における大敗後においても、源氏の名門を自称していた佐竹氏は、平氏方を標榜し、一向に自身に与する気配すら無く・・・そもそもとして、佐竹氏が源氏の名門を自称していても、過去に常陸平氏の本家とされる大掾氏の血統が混じっている以上、純粋な源氏であると断言出来る訳もなく・・・特に、慎重な性格とされる頼朝にしてみれば、尚更に常陸地方にある佐竹氏が、自身の背後を脅かす軍事的な脅威であり、血統的に云っても目障りな存在に他ならなかった訳です。

      ・・・いずれにしても、これら双方の事情を背負いながら・・・
      ・・・西暦1180年(治承4年)10月20日、かの「富士川の戦い」において・・・平維盛(たいらのこれもり:※清盛の嫡孫であり、重盛の嫡男)が率いる軍勢を敗走させた源頼朝が・・・その勢いで以って・・・一気に、京の都まで攻め上ろうとしていたところ・・・
      ・・・既に頼朝の傘下にあった上総広常(かずさのひろつね)や、千葉常胤(ちばのつねたね)らが・・・「まず東国を固めるべし。そのためには、まず佐竹を討つべし。」・・・と、進言したことは有名。
・・・・・・
      ・・・すると、源頼朝は・・・西暦1180年(治承4年)11月に、佐竹追討の軍勢を興して、府中(ふちゅう:現茨城県石岡市)にあった常陸国府に布陣しました。
      ・・・この時、当主だった佐竹隆義の常陸の留守を預かっていたのは、義政(よしまさ)と秀義(ひでよし)という兄弟でした。・・・そして、この時の源頼朝による軍事行動に対しては・・・“兄の佐竹義政は、同じ源氏として、和を請うべき”と主張し・・・“弟の秀義は、これに抗戦すべき”と主張します。
・・・真っ向から、兄弟の意見が割れていたのです。
      ・・・すると、同年11月4日、源頼朝は、陣中にて軍議を行ない・・・上総広常が、舞鶴城(まいづるじょう:現茨城県常陸太田市、※別名は、太田城、佐竹城、青龍城とも)へ使者を遣わして、兄の佐竹義政を常陸国府へ誘い出します。・・・そして・・・義政が頼朝の陣へ向かう途上・・・あろうことか、大矢橋(おおやばし:※矢立橋とも)において、佐竹義政を斬殺してしまいました。
      ・・・これを知った弟の佐竹秀義は・・・覚悟を決め・・・舞鶴城(※別名は、太田城、佐竹城、青龍城とも)では防戦に不適として、要害堅固だった金砂郷城(かなさごうじょう:現茨城県常陸太田市、※別名は金砂城、金砂山城、西金砂城とも)に立て籠もります。
      ・・・それでも、“ここへ数千の軍勢で攻め寄せた”という頼朝軍でしたが・・・天嶮の要害だった金砂山に、往く手を阻まれてしまいます。
      ・・・そこで・・・翌15日、源頼朝は・・・またしても・・・上総広常による策を採用し・・・“佐竹秀義の叔父に当たる佐竹蔵人義季(さたけのくろうどよしすえ)という人物を、自軍に内応させる”と・・・諸沢口(もろさわぐち)の間道(かんどう:=搦手、からめて)から、頼朝軍を案内させました。
      ・・・すると・・・身内の裏切りによって、不意を突かれた格好となった金砂郷城(※別名は金砂城、金砂山城、西金砂城とも)は、抗しきれずに、とうとう陥落してしまいます。
      ・・・その後の頼朝軍は、“同年11月17日に、金砂郷城(※別名は金砂城、金砂山城、西金砂城とも)の城壁を焼き払う”と・・・
      ・・・“翌18日には、当時の佐竹氏の領地を没収し、他の傘下武将に対する論功行賞(ろんこうこうしょう)へ充てた”と云います。
・・・

      ・・・しかし、この時の敗者となった佐竹秀義などにもまた・・・後日談があります。
      ・・・この時の秀義は、金砂郷城(※別名は金砂城、金砂山城、西金砂城とも)陥落直前に、辛くもそこを脱出すると・・・“以後暫くの間を、現在の北茨城市にある花園山にあった岩穴の中で、猿に餌を分けて貰いながら過ごした”とか・・・或いは、“城が陥落する直前に、山伏(やまぶし:=修験者)に案内されて、花園山の金剛王院満願寺(こんごうおういんまんがんじ:現花園神社)に匿われた”・・・と。

      ・・・上記の二つには共通点がありますね。
      ・・・まずは花園山、次に、猿=山伏?

      ・・・いずれにしても・・・この後には、佐竹秀義は、源頼朝に臣従することとなり・・・
      ・・・西暦1189年(文治5年)の奥州合戦においては、佐竹秀義が先陣を賜って武功を挙げ・・・鎌倉幕府の御家人(ごけにん)として認められ、旧領(=常陸北部)の領有を許されることになります。
・・・これらのことからも・・・“佐竹宗家を筆頭とする、その分家や庶流などの勢力全体が、当時の源頼朝にとっても、無視出来ない規模や実態だったこと”が分かります。
      ・・・ちなみに・・・西暦1180年(治承4年)11月の“金砂郷攻城戦”において・・・“当時の敵方へ内通した”という佐竹蔵人義季は・・・その後、周囲(≒佐竹氏宗家や分家、庶流)から、冷遇されるようになり・・・更には、源頼朝からも勘気(かんき)を受けて、幽閉(ゆうへい)されてしまい・・・やがて、源頼朝没後の話となりますが・・・上洛することとなり・・・そこで、山城国革島荘の下司職に補任されると・・・それ以後は、「革島氏(かわしまし)」を称するようになりました。・・・当時としては、厳しい現実というものがあったのでしょう。・・・“引き続き佐竹氏を名乗ることが許されなかったということ”でもあります。・・・
      ・・・そして・・・金砂郷城(※別名は金砂城、金砂山城、西金砂城とも)そのものも・・・後の南北朝時代に入ると、「山入一揆(やまいりいっき:※山入の乱とも)」と呼ばれる、云わば、“同族間における争い”で以って・・・“都合計三度も、時の佐竹氏が立て籠もった”・・・という重要戦歴がある山城なのです
・・・が、残念ながら・・・その後の廃城時期など詳細については、不明とされております。

      ・・・尚、佐竹追討の際に、頼朝方として暗躍した上総広常や、千葉常胤などの行動の背景には・・・
      ・・・現在の茨城県取手市と守谷市(≒北相馬郡)、千葉県柏市と流山市、我孫子市(≒南相馬郡)周辺にあった・・・“中世寄進型荘園とされる相馬御厨(そうまみくりや:※御厨とは、皇室や伊勢神宮、下鴨神社の領地を意味しています)を巡る支配権及び勢力圏に関する長年に亘る諸問題が、その根底にあった”と考えられ・・・
      ・・・更に、『吾妻鏡(あずまかがみ)』では・・・千葉氏が、源頼朝に加担した理由についてを・・・一応・・・“累代の源氏の郎党(≒家人)だったから”とは説明していますが・・・

      ・・・当時の千葉常胤や上総広常などからすれば、自身らが桓武平氏氏族だったため・・・源氏そのものが、等しく新参者の一人に他ならず、ましてや源頼朝個人に対して、突然に御恩(ごおん)を感じるような対象では、ありませんでした。・・・つまりは・・・かねてから、平氏と結ぶ房総藤原氏による相馬御厨への横槍行為や、常陸佐竹氏による武力侵攻などへの対策として・・・時の源頼朝を担ぎ上げることにより、それらを撥ね退けて、それまで大きく奪い取られていた旧領を復活させるための起死回生の策だった訳です。・・・これについては、佐竹追討そのものが、佐竹氏の排除を意図していた千葉氏や、広常が当主となった上総氏によって、あらかじめ仕組まれていたとする見解すらあるのです。・・・いずれにしても、“この相馬御厨の支配に関する攻防が、治承・寿永の乱の原動力の一つとなっていた”のではないか? と考えられております。
      ・・・ちなみに、上記の佐竹追討後においても、相馬御厨を巡る房総平氏内部における千葉氏と上総氏との争いは、根本的には解決せずに・・・相馬常清(そうまつねきよ)と、その子である定常(さだつね)が、常清の兄・上総広常の軍事力を背景に御厨を掌握した可能性が高いと云われており・・・広常自身も下総や常陸国内に進出しようとした形跡も見られます・・・が、この上総広常も・・・結果的には、その軍事力を警戒する源頼朝によって討たれてしまい・・・上総一族は、所領を失なったり、頼朝や千葉常胤に従属するなどしております。
      ・・・そして、この上総氏の没落後には、相馬御厨の支配権についてを、千葉氏が掌握するに至り・・・“後に、千葉常胤の次男である相馬師常(そうまもろつね)に譲られると、その子孫達が相馬氏を称して存続した”・・・と、通常は解釈されてしまうのです・・・が、現実としては・・・大きな問題を、もう一つ抱えていたのです。

      ・・・この・・・“もう一つの大きな問題”とは・・・これもまた、少々時を遡ってしまうのですが・・・
      ・・・佐竹追討後においても、相馬御厨から寄進を受け取る側だった伊勢神宮が・・・西暦1167年(仁安2年)6月14日付の和与状(わよじょう:※贈与や訴訟事における和解を表した証文のこと)についてを、有効と見做していたことが、そもそもの発端となっていたのです。
      ・・・この証文によって・・・伊勢神宮としては・・・“佐竹氏(※当時の佐竹義宗のこと、佐竹家2代目当主の隆義の弟)が正当な給主である”とする認識についてを・・・つまりは、鎌倉幕府成立後においても、何ら変えてはいなかった訳です。
      ・・・そのため、当時の千葉氏としては・・・かつての千葉常重(ちばつねしげ)が有していた御厨の前身である布施郷(ふせごう)の地主職(じぬししき:※国衙によって補任された職の一つ。土地の私有を公認され、一定の得分が与えられた)という立場を、上手く利用するようになりました。
      ・・・そして・・・その後に、相馬御厨に対する鎌倉幕府による地頭(じとう)設置についてが文献上で確認出来るのは・・・西暦1227年(嘉禄3年)のことであり・・・その当時の地頭は、相馬義胤(そうまよしたね:※師常の子)と推定される相馬五郎という人物です。
      ・・・また、これも・・・相馬御厨における地頭設置の正確な時期については不明となりますが・・・
      ・・・千葉常胤 ⇒ 相馬師胤(そうまもろたね) ⇒ 相馬義胤・・・の三代のいずれかが、相馬御厨の地頭に任ぜられていたと考えられ・・・これにより、“千葉氏(≒相馬氏)は相馬御厨の支配権を、名実ともに回復出来た”と考えられます。
      ・・・この後については、やはり・・・相馬氏が、御厨内の所領を代々継承することになりますが
・・・その一部については、婚姻などに伴なって、岩松氏(いわまつし)や、島津氏(しまづし)などにも継承されることになります。
      ・・・尚、伊勢神宮の雑掌(ざっしょう:※本所や領家の代理人として、荘園の管理や訴訟事務を取り扱った者のこと)が御厨に関わっていたことが、室町時代の西暦1425年(応永32年)まで確認されていることから・・・“この頃まで、この相馬御厨が存在していた”と考えられます。

      ・・・ここまで長々と記述しましたが・・・
      ・・・佐竹追討の背景の根底にあったのは・・・御厨という荘園、すなわち生産性のある土地を巡る支配権が大きく影響していた訳でありまして・・・当時の坂東(=関東)における在庁官人達=開発領主達の、云わば時代に伴なった変貌と・・・国司=目代(もくだい:※国司が現地に私的な代官派遣した家人などの代理人のこと)との対立の激化・・・“在地領主層の弱体化と、その限界点などを、如実に示している”と云えるのです。
      ・・・これらには・・・まず第一に・・・それまでの開発領主による領地領有が、郡司や郷司という役職において、国衙から保証されていたものだったということがあります・・・が、それが・・・あくまでも、役職という立場において保証されたものだったため・・・国司側としては、その任をも解くことすら出来る職権を持っている訳でして・・・これらが、“相馬郡においても、現実に行使されていた”ということです。・・・更に云えば・・・“その周囲には、他の開発領主達が、隙あらばと狙っているという状況”なのです。

      ・・・このような時代に伴なう変貌の初期段階において、実際に相馬御厨に関与したのは・・・桓武平氏の上総常澄(かずさのつねずみ)と、清和源氏の一人である頼朝の父・源義朝(みなもとのよしとも)でした。
      ・・・やがて・・・平氏政権の権力を背景としながら・・・常陸の佐竹氏が、相馬御厨争奪戦に加わった訳です。
      ・・・これらに関わっていた、どの勢力も・・・それぞれが、安定的な運営状態を目指して、現地の荘園から伊勢神宮などへ適宜に寄進しておりましたが・・・
      ・・・この段階では・・・既に、自己勢力の直接的な支配地だけではなく、郷の単位ほどの、周辺に散在した公領についても、云わば切り取り次第といった具合であり・・・“連続的に、その規模を拡大し、更に荘園を設置する”という感じでありまして・・・“もはや各自の私領だけではなく、郡司などの役職や管轄権としての自身の支配圏などを、一層固定化し、更に磐石なものにようとしていた”・・・と考えると、分かり易いかも知れません。
      ・・・しかし、そんな荘園からの寄進自体も、それだけでは確実なものにならなかったことは・・・この相馬御厨などを巡る諸問題を見れば、一目瞭然ではありますが。
      ・・・この相馬御厨についてを云えば・・・本所たる伊勢神宮は、必ずしも下司となった時の寄進主(=開発領主)を、保護し切れなかった訳でして・・・要するに、“自身の取り分が確保され、更に増えるのであれば、実際に千葉常澄が下司職であっても、源義朝であっても、何ら構わなかった”とも云えますし・・・もしかすると・・・“畿内から遠く離れた東国より、幾度となく寄進が届けば、それはそれで運に恵まれていたのだ”・・・という感覚だったのかも知れません。


      ・・・しかしながら、当時の地方豪族や、武士層の人々にとってみれば・・・そんな閉塞的且つ訳が分からない理屈が蔓延していた、平安時代の末期も末期に・・・云わば、時代のうねりによって・・・後世に幕府と呼ばれる統治機構が生み出されることとなり・・・ようやく、鎌倉時代が到来するのです。

      ・・・この頃・・・云わば、存亡の危機を乗り越えた「佐竹氏」は、源頼朝没後も一貫して、鎌倉幕府を支え続けることとなり・・・「大掾氏」や・・・幕府創立の功臣とされる小山朝光(おやまともみつ)に始まる「結城氏(ゆうきし)」・・・筑波及び河内地域に勢力を保っていた「八田(はった)氏」・・・の三氏族は、「常陸四大氏族」と称される程、繁栄致します。・・・いわゆる地方豪族としては、このほかにも・・・千葉氏より派生し、かつての相馬御厨に由来する地域を領していた「相馬氏」や・・・小山一族から派生した「下妻(しもつま)氏」・・・「関(せき)氏」・・・「下河辺(しもこうべ)氏」・・・などがあり、“当時の歌人貴族としても著名な藤原定家(ふじわらのさだいえ、ふじわらていか)との親交が深かった”とされる宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)の甥が、笠間の佐白山(さしろやま)に城を築いて、「笠間(かさま)氏」を名乗り始めます。

      ・・・このように、平安時代から鎌倉時代中期頃まで・・・今に伝わる武門家系の多くの名字(=苗字)が、それぞれの地名などに由来して発生または派生しております。・・・尚、各家系に伝わる家紋(※昔は、幕紋などと呼びました)の原デザインのルーツについても・・・その多くが、この頃から使用されている筈です。
      ・・・ちなみに、ルーツ的な話を付け加えるとすると・・・上記の佐竹追討における登場人物であり、金砂郷城(※別名は金砂城、金砂山城、西金砂城とも)攻城戦の後、暫らくして鎌倉幕府の御家人となった、佐竹秀義の子に当たる北酒出季義(きたさかいでのすえよし)という人物は・・・当然に、常陸佐竹氏の分家庶流家系と云えますが・・・一方では、美濃佐竹氏の祖とも呼ばれます。(・・・※『美乃佐竹系図(みのさたけけいず)』あり・・・)
・・・この美濃佐竹氏とは・・・鎌倉幕府成立直後頃に起きた「承久の乱(じょうきゅうのらん)」において戦功を挙げたため、常陸の佐竹氏が美濃国の所領を与えられて、常州(=常陸国)から美濃へ移住した家系とされております。
      ・・・いずれにしても、このことは・・・“当時の御家人などが、領地差配に関連して、日本列島中へ移動していたこと”を裏付けるととともに・・・“それまで常陸国に暮らしていた際には、周囲が同族家系、つまりは佐竹氏だらけで、互いに混同し易かったため、現に土着し差配していた現地の地名から、北酒出などと、それぞれが別の名字(=苗字)を名乗っていたこと”をも、裏付けている訳でして・・・現実として、美濃国へ移ることとなれば・・・もはや、同族同士で混同する心配もないため・・・“結局のところは、復姓して、赴任先の美濃国においては、元の名字(=苗字)である佐竹を名乗って暮らした”・・・という興味深いパターンではあります。
      ・・・また、このほかにも・・・常陸国と美濃国と間における、古くからの深い関わり具合が分かりますが・・・両国とも、源氏の勢力基盤を支えた源氏の故郷とも云えるお土地柄です。・・・畿内の外で、京都に地域的にも近かったのが、美濃であり・・・東国に至れば、坂東(=関東)における、云わば“前線基地たる常陸だった”のですから。

      ・・・上記のほかに、“もう一例二例付け加える”とすると・・・
      ・・・“後の戦国時代における名将として知られる武田信玄のルーツ”・・・つまりは、甲斐源氏の武田氏発祥の地は、元はと云えば・・・現在の茨城県ひたちなか市武田です。

      ・・・12世紀初め頃の平安時代末期・・・源義家(※通称は八幡太郎)の弟だった義光(※通称は新羅三郎)が、常陸国への勢力拡大を図り、長男の義業(よしなり)を久慈郡佐竹郷(現茨城県常陸太田市稲木町周辺の旧佐竹村)へ、三男の義清(よしきよ)を那賀郡武田郷(現茨城県ひたちなか市武田)に、それぞれ土着させたのです。
      ・・・そして、三男の義清が、現地の地名から、武田を名乗り始めることとなり・・・武田氏の始祖となります。
      ・・・しかし・・・義清とその子である清光(きよみつ)は、武田郷周辺に、既に土着していた豪族との間で、勢力を張り合っていましたが・・・そのなかで、行き過ぎた行為を、相手方から朝廷へ訴えられることとなり・・・それが原因で、義清父子は、甲斐国(かいのくに)へ配流とされることになったのでした。
      ・・・こうして、甲斐国に土着することになった義清父子は、そこを新天地として、甲斐源氏発展の礎を築くこととなり・・・やがて・・・その17代後に、信玄が輩出されることになるのです。

      ・・・また、この武田信玄の譜代家老衆として、飯富虎昌(おぶとらまさ)という強~い武将がおりましたが・・・彼のルーツは、上総国の望陀郡(もうだぐん)飯富庄(いいとみのしょう:現千葉県袖ケ浦市飯富)と、一応されておりまして・・・そして、正しくは「飫富」と表記するのですが・・・
      ・・・飯富(おぶ)氏の初代については・・・源義家(※通称は八幡太郎)の孫に当たる飯富源太忠宗(おぶげんたただむね:※源忠宗とも)とも、この忠宗の孫に当たる源大夫判官季貞(げんたゆうほうがんすえさだ:※源季貞とも)、或いは、その子の源宗季(みなもとのむねすえ)だったのではないか? などと云われます。

      ・・・これらのことは、単なる偶然なのか? 或いは必然なのか? ・・・実は・・・茨城県水戸市内においても、飯富(いいとみ)と呼ばれる地名を、現在まで継承していることから・・・武田氏と飯富氏との関係性を見るに・・・この当たりにも、名字(=苗字)と地名の、何らかの関係性があるのではないか? と想われます。

      ・・・そして・・・上記の飯富虎昌の弟とされる山縣昌景(やまがたまさかげ)も、武田家譜代家老衆として、後代には武田四天王の一人にも数えられる程でしたが・・・彼の名字(=苗字)上のルーツについても、同じ様なことが云えるのです。
      ・・・この名字(=苗字)のルーツも・・・元はと云えば、美濃国山縣郡発祥の清和源氏多田頼綱流(せいわげんじただよりつなりゅう)の美濃山縣氏に辿り着くことが出来ます。
      ・・・この多田頼綱流は、そもそも清和源氏頼光(よりみつ)流から分出している訳でして・・・当初は、摂津国(せっつのくに)に根を張り・・・源頼朝が挙兵し、鎌倉幕府を築く直前の頃・・・“以仁王の挙兵に加わることとなった、当時の源氏の長老格とされる源頼政の家系と、非常に近い”と云いますか・・・“ほぼ一緒である”とも云えるのですが・・・

      ・・・これもまた、単なる偶然なのか? 或いは必然なのか?
      ・・・実は・・・茨城県常陸大宮市(旧山方町)にも、正確な築城年代が定かでない古城とされる山方城(やまがたじょう)が、“かつてはあった”のです。
      ・・・この山方城とは・・・“西暦1408年(応永15年)に、上杉憲定(うえすぎのりさだ)の次男だった龍保丸(=後の佐竹義人、義仁とも)が婿養子となって佐竹氏を継承した際、その後見役として、上杉の一族であり、且つ美濃国山方(≒山縣)を名字(=苗字)の地とする藤原氏支流だった山方能登守盛利(やまがたのとのかみもりとし)の居城にされた”と伝わっております。
      ・・・当然に、“当初は居館程度ではあった”と考えられますし・・・また、“藤原氏の支流が、源氏であること”は、もはや議論の余地も無いところではありますが・・・
      ・・・そもそもとして、この山方能登守盛利の代から、山方(やまがた)氏を称するようになり・・・“この元を辿れば、守護や、初代の関東管領(かんとうかんれい)、または山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の祖として知られる上杉憲顕(うえすぎのりあき)の一族だった憲利(のりとし)を、その父に持つ”としているのです。
      ・・・この当たりの事情については、後に「山入一揆(※山入の乱とも)」と呼ばれる、云わば佐竹氏同族間における争いが発生する一因にもなっており、歴史的にも興味深い事柄であると想います。

      ・・・ちなみに、古城の山方城は、現存しておりませんが、その城跡(現茨城県常陸大宮市山方字御城)には模擬天守が造られ、現在は公園として整備されており、空堀や土塁が遺構として残っております。


      《南北朝の争乱》
      ・・・西暦1333年(元弘3年)には、鎌倉幕府が滅亡することとなり、世は再び、混乱状態に向かうことになります。
      ・・・足利高氏(あしかがたかうじ:※後の尊氏)が登場し、室町幕府を開いてから、南北両朝の統一が成るまでの五十有余年は・・・各地の豪族や武士達の去就そのものが、様々な変転を見せるようになります。・・・まさに、守護大名として地位を確立する者がいれば、没落という悲運に見舞われる者達も居た訳です。
      ・・・西暦1336年(延元元年)には、「鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)」とされた陸奥守(むつのかみ)・北畠顕家(きたばたけあきいえ)が、南朝を支援するため、陸奥や出羽の軍勢を率いて、上洛しようと西上の途中で・・・これを食い止めようとする北朝支援の佐竹氏率いる軍勢が、甕の原(みかのはら:現茨城県日立市)において軍事衝突したことを皮切りに、大規模な争乱が常陸国内各地で勃発しました。

      ・・・ちなみに、この時の戦場とされた城には・・・鎌倉時代に移行する直前期に行なわれた、源頼朝による佐竹追討の際にも戦場とされた金砂郷城(※別名は金砂城、金砂山城、西金砂城とも)や、同じく天嶮の要害とされていた武生(=武弓)城(たきゅうじょう:現茨城県常陸太田市、※別名は高倉山城、麓城、龍カ井城とも)などがあります。
      ・・・上記の武生(=武弓)城は・・・現在の紅葉シーズン中における風景や、バンジージャンプなどでも有名な竜神大吊橋の向かい側、まさに直近と呼べる場所にありましたが・・・やはり、金砂郷城(※別名は金砂城、金砂山城、西金砂城とも)などと同様に、当時の猿や山伏など、相当に此処を熟知する者しか立ち入らないような、危険極まりない処です。
      ・・・いずれにしても、この時、佐竹氏8代目当主の貞義(さだよし)は、南朝方の楠木正成(くすのきまさしげ)の代官として、瓜連城(うりづらじょう:現茨城県那珂市)に派遣されていた弟の正家(まさいえ)によって攻撃され、舞鶴城(※別名は、太田城、佐竹城、青龍城とも)を放棄することとなり・・・またしても、金砂郷城(※別名は金砂城、金砂山城、西金砂城とも)に籠城しつつ、この戦いでは、南朝方の那珂通辰(なかみちとき)を討ち取るなど、これを撃退しています。
      ・・・それより約3年の後には、東国の軍勢を掌握するため、新たに顕家の父・北畠親房(きたばたけちかふさ)が常陸へ入国しましたが・・・
      ・・・この北畠親房が、西暦1343年(興国4年)に、吉野へ帰るまでの4年間が、南朝方と北朝方の間で、最も激しく争われた期間となりました。・・・北畠親房は、興良親王(おきながしんのう)を奉じて、神宮寺(じんぐうじ:現茨城県稲敷市)や、阿波崎(あばさき:現茨城県稲敷市)、小田(おだ:現茨城県つくば市)、関(せき:現茨城県筑西市)、大宝(たいほう:現茨城県下妻市)などの南朝を支援する諸城を転戦していたのです。

      ・・・すると、これを迎え討つ北朝方には、高師冬(こうのもろふゆ)や、佐竹氏、結城氏などが参陣することとなり・・・
      ・・・結局のところは・・・“大宝と関の両城陥落によって、南朝方の軍勢が崩壊した”と云えます。

      ・・・そして、この対立軸のなかで、北朝を支援した武将達は、それまでは貴族や社寺の支配下にあった荘園を各地で奪取し・・・室町幕府という封建的な政権の確立に伴ない、強大な勢力を誇るようになって・・・やがては、「守護大名」と呼ばれるようになります。
      ・・・尚、北畠親房が、小田城にありながらも、その戦陣のなかで・・・『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』や、『職原抄(しょくげんしょう)』を著わして・・・後の史観に大きな影響を与えることとなったのは、特筆すべきことでしょう。


      《群雄割拠の興亡と“お家騒動”》
      ・・・南北朝の統一から、後に豊臣秀吉による政権が確立するまでの約200年間については・・・中央政権(=室町幕府=足利幕府)の弱体化によって、各地では群雄が割拠する事態を巻き起こすこととなり・・・大小様々あった豪族達からすれば、まさに淘汰の荒波を被ることととなります。
      ・・・そんな中にあっても、常陸国や下総国において、最後まで命脈を保っていたのは、“佐竹氏と結城氏の二大氏族と云える”のです・・・が、佐竹氏にとっては、決して順風満帆な道のりだったとは云えません。

      ・・・西暦1416年(応永23年)の「上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)」の際には、常陸平氏本家たる大掾満幹(だいじょうみつもと)が、上杉禅秀に味方し・・・一方の佐竹義人(さたけよしひと:※佐竹氏12代目当主)や、結城基光(ゆうきもとみつ:※結城氏9代目当主)らは、「鎌倉公方(かまくらくぼう)」の足利持氏(あしかがもちうじ)を助ける格好となります。

      ・・・そして、この反乱鎮圧における功績によって、佐竹氏は「鎌倉評定衆(かまくらひょうじょうしゅう)筆頭」とされることとなり・・・その一方で・・・それまで大掾満幹の本拠地とされていた馬場城(ばばじょう:現茨城県水戸市、※別名は水戸城、水府城とも)が、佐竹家家老の江戸通房(えどみちふさ)によって奪われることになります。・・・こうして、常陸平氏の名門氏族たる大掾氏は、僅かに(常陸)府中城(ふちゅうじょう:現茨城県石岡市)を保つのみとなって、かつての勢いを失速させてしまうのです。

      ・・・しかし、上記のように馬場城(※別名は水戸城、水府城とも)を奪取して、その管理下に置き、また鎌倉評定衆の筆頭とされた佐竹氏でした・・・が、西暦1490年(延徳2年)に、領内で「山入一揆(※山入の乱とも)」が勃発してしまいます。
      ・・・この「山入一揆(※山入の乱とも)」とは・・・云わば、佐竹宗家 VS 山入氏(やまいりし)を中心とする佐竹一族との内乱、つまりは佐竹氏同族間における争いです。

      ・・・このことは、上記の【中世】《鎌倉幕府の成立と郷土「茨城」の武将達、そして名字(=苗字)と地名の関係》の最終盤でも、少しばかりふれておりますが、以下に多少詳しく記述することに致します。

      ・・・この「山入一揆(※山入の乱とも)」が起きた背景には・・・
      ・・・そもそも、これより、約83年ほど遡るのですが・・・西暦1407年(応永14年)9月に、佐竹氏11代目当主の佐竹義盛(さたけよしもり)が他界すると、相続男子がいなかった佐竹宗家は、関東管領の山内〈上杉〉憲定(やまうち〈うえすぎ〉のりさだ)の次男だった龍保丸(※後に義憲 → 義人〈義仁〉と改名)を婿養子としました。
      ・・・これに対して・・・佐竹氏8代目当主・佐竹貞義(さたけさだよし)の七男だった山入師義(やまいりもろよし)の子・与義(ともよし)は、同じく同族の稲木義信(いなぎよしのぶ)や、長倉義景(ながくらよしかげ)、額田義亮(ぬかたよしすけ)らとともに、同門のなかから嫡男を選ぶことをせずに、しかも武家の名門たる源氏の佐竹氏に、貴族家系である藤原姓の婿養子が入ることに、断固反対したのです。
      ・・・ちなみに・・・山入氏や、稲木氏、長倉氏、額田氏などは、全て清和源氏であり、佐竹氏と呼んでも、構わない家系です。・・・ただただ、現に土着していた地名などによって、呼び別けていたに過ぎません。・・・また、これらのほかにも、小場(おば)氏や、小瀬(おせ)氏、小田野(おだの)氏、北酒出(きたさかいで)氏、大山(おおやま)氏など、数多くの家系が佐竹氏から派生しております。


      ・・・上記のように、いわゆる跡目争いが、「山入一揆(※山入の乱とも)」の直接的な契機とされている訳ですが・・・その根底には・・・佐竹氏の本拠地たる当時の常陸国北部において、奈良時代から続けられていた金や銅、錫(すず)などの鉱物採掘が、細々ではあったものの、現実に継続して行なわれていたことや、長い期間を通じて地域開発が進められていたため、農業生産力が高めであり、源氏勢力の人口を増やし易く、その所領内には要害堅固な砦や山城などの軍事拠点を築き易かった。・・・つまりは・・・軍事力を温存し続ける環境が整っていて、自己勢力を増やすに易く、守りに堅かったという視点を持つと、更に分かり易くなります。
      ・・・常陸国に限って云えば・・・この「山入一揆(※山入の乱とも)」の際が、“武門家系の成長途上中の飽和点にあった”とも云えますし・・・それが、婿養子を迎える事態を契機として、実際に跡目争いという格好で出現した訳です。・・・これと同時に、個人的には・・・この当たりにも、大義名分などに拘わってしまう常陸人(≒茨城人)の気質が良く現れていると感じてしまいますが・・・。



・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】