街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 同西暦1869年(明治2年)6月17日:「明治新政府」により、「水戸藩」も「版籍奉還(はんせきほうかん)」を許されることとなり・・・“それまで藩主とされていた徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)”が、「水戸藩知事(※知藩事とも)」に「任命」される。
『水戸藩資料』より・・・明治新政府により、遂に・・・いわゆる「秩禄処分(ちつろくしょぶん)」が断行されます。・・・明治新政府は、“日本列島各地の封建武士団”、つまりは・・・“諸藩(=各大名家)の俸禄支給制そのものに対して、手を突っ込んだ訳”です。・・・尚ここでは、「(明治新政府が主体となって)版籍奉還を許した」と記述しておりますが・・・
      ・・・現実としては・・・「朝廷が、明治新政府による諸藩版籍奉還の請を許し、(現)藩主を以って藩知事(※知藩事とも)と為す」・・・という行政手続きで進められました。
      ・・・尚、この「版籍奉還」に伴ない、“従来からこの日まで存続していた諸藩に対する総知行高は、およそ10分の1に削減された”と云い・・・当時の感覚すれば、“どこの藩もお家の一大事となって、てんやわんや状態だった”かと・・・。・・・特に、幕末期の諸藩にしてみても・・・仮に、明治維新そのものに対しては、大きな影響を与えなかった小藩であったとしても・・・“何処もかしこも、商人からの借金やその返済に苦しみ、結果として借財の山が蓄積されていた”と考えられ・・・。
      ・・・そもそも、黒船来航による“開国鎖港問題の本質”には・・・度重なる天災や飢饉、戦乱などによる国内経済の疲弊と低迷・・・これに加えて、海外製品や技術や思想などの国内流入、反対に国内産物や製品の海外への大量輸出など・・・つまりは、経済・貿易摩擦や文化摩擦などが、その大元にあった訳でして・・・。・・・いずれにしても、当時の明治新政府は“聖域なき大改革の一手”としていた訳ですので、“当時の士分の人々も、これに甘んじるほかなかった”と考えられます。まさに、「武士は食わねど高楊枝」といった状況。・・・私(筆者)としては、何よりも・・・このような時代を生き抜いた“ご先祖達全ての方々”に、感謝の言葉しか見つかりません。
      ※ 同年同日:「明治新政府」が、“公卿及び大名の称”を廃し、“これら”を改めて「華族(かぞく)」と称す。・・・

      ※ 同年8月17日:「明治新政府」が、「水戸藩」に対して・・・“天塩国(てしおのくに:※古文書では天鹽國と表記)の苫前郡(とままえぐん)、並びに天塩郡(てしおぐん)、上川郡(かみかわぐん)、中川郡(なかがわぐん)、渡島郡(おしまぐん:※古文書では麟嶋郡と表記)への開拓許可”を下す。『水戸藩資料』より・・・「天塩国」とは、大宝律令の国郡里制を踏襲し、戊辰戦争(≒箱館戦争)終結直後に制定された地方区分の国の一つ。いわゆる五畿八道のうちの「北海道」のこと。・・・いずれにしても、この時点における「藩」という単位そのものは、従来からの形態のままであったかと。・・・内容は、かなり異なっておりましたが。・・・いわゆる「秩禄処分」が断行され、諸藩(=各大名家)に属していた人々には、「家禄」や「俸禄」というものが停止されておりましたので。・・・それぞれの家でも、それまでに蓄えた微々たる蓄財を切り崩してゆく他無く・・・。
      ・・・2カ月というのが、限界だったのでしょう。・・・いずれにしても、新天地・北海道開拓へ!!! と奨励した後の開拓許可に他ならず・・・。・・・但し、北海道と呼ばれる以前の蝦夷地における開発や開拓事業については・・・かつての水戸藩主・徳川光圀公(※後の義公)や、水戸藩知事(※知藩事とも)・徳川昭武の父・斉昭公(※後の烈公)などの悲願とも云える事業でもありましたので、当時の水戸藩としては、複雑な心境だったかと。・・・明治新政府としては、“四の五の言わずに、取り組んで下さい!” との事なのでしょうが。・・・

      ※ 同年9月19日:「有栖川宮熾仁親王」が、“元水戸藩主・徳川斉昭〈※後の烈公〉の娘・貞子”と、“再度婚約”する。・・・
      ※ 同年9月26日:“薩摩藩北陸出征軍の総差引(※司令官のこと)とされていた西郷吉之助(※後の隆盛)”に対して、「正三位」が、叙せられる。・・・しかし、この後の同年12月に、薩摩藩主・島津忠義の名で以って、自身に対する位階返上の案文を書き上げ・・・この時初めて、「隆盛」という名を用いたとか。・・・そして、「薩摩藩知事(※知藩事とも)」ではなく、わざわざ「薩摩藩主」としているところが、また注目かと。・・・
      ※ 同年9月28日:「明治新政府」が、“駿府で隠居していた元将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男)の謹慎処分”を、解く。・・・水戸藩知事(※知藩事とも)となった弟・徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)が参朝して、永世下賜されてから、“ちょうど2週間後の事”でした。・・・尚、このように・・・西暦1868年(慶應4年)7月19日夕に水戸・弘道館を出立し、宝台院(現静岡県静岡市葵区常磐町2丁目)で以って、“再びの謹慎をひたすら”に続けていた徳川慶喜公は、「箱館戦争(=五稜郭の戦い、己巳の役(きしのえき)とも)」の終結などによって、一応の維新が達成されることとなり、“自ら望んだ謹慎生活”を解かれることとなりました・・・が、謹慎生活とは云っても、それは・・・“あくまでも政治に関わる言動を慎むといった風”であり、個人的な趣味や自らの探求心をくすぐる「写真術」などの「西洋技術」や、「異国文化」については・・・つまりは・・・『政治とは一切関わり無し』・・・と、逆に造詣を深めていたようにも感じます。

      ※ 同年10月5日:“謹慎処分が解かれた元将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男)”が、“静岡紺屋町の元代官屋敷”へ移る。・・・“静岡紺屋町の元代官屋敷”とは、現在の料亭・日本庭園:浮月楼(ふげつろう)のことです。・・・所在は、静岡県静岡市葵区紺屋町11-1。
      ※ 同年10月25日:“元将軍の徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男)の夫人・美賀子”が、この日「東京」を、「出立」し・・・翌月3日に、“静岡紺屋町の元代官屋敷”に「到着」する。・・・翌月3日以降は、“徳川慶喜公夫婦が約10年ぶりに共に暮らすようになった”そうです。

      ※ 同年11月7日:“有栖川宮熾仁親王と元水戸藩主・徳川斉昭〈※後の烈公〉の娘・貞子との婚約”が、「勅許」される。・・・
      ※ 同年11月15日:“有栖川宮熾仁親王の住まい”が、「東京」へ「移転」される。・・・このことも、「時代の流れ」と一言で云ってしまえば、容易(たやす)いことなのでしょうが・・・少なくとも歴史的には・・・かつての平安京以来ずっと、非常事態以外は京都を離れなかった天皇家や宮家の人々、公家衆と呼ばれる人々でしたので・・・東(あずま)の京(みやこ)たる、当時の東京(=旧江戸)へ恒久的に移住しなければならないとなれば、熟知たる想いがあったかと。どうしたって、ご先祖様達の墓地なり陵墓などが、京都周辺地域に遺される訳でして。・・・

      ※ 同年12月20日:“元水戸藩主の徳川光圀公(※後の義公)と徳川斉昭(※後の烈公)”に対して、「従一位」が、「追贈」される。・・・この頃の水戸徳川家に纏わる記事で分かることとしては・・・もはや・・・疲弊していた「水戸徳川家」なり「水戸藩」を、再興若しくは復興させようとの施策だったかと。婚姻も含めて。


      ※ 西暦1870年(明治3年)1月16日:「有栖川宮熾仁親王」と“元水戸藩主・徳川斉昭〈※後の烈公〉の娘・貞子”が、「成婚」する。・・・

      ※ 同年4月3日:「有栖川宮熾仁親王」が、“明治新政府の兵部卿”に、「就任」する。・・・

      ※ 同年9月14日:「水戸藩知事(※知藩事とも)・徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)」が「参朝」する・・・と、“箱館追討における軍功”を以って、“永世下賜の行賞(=3,500石)”を、受ける。『水戸藩資料』より・・・この時の「3,500石」というのが、とても気になります。・・・いくら「藩知事(※知藩事とも)」と呼称変更されたって、旧来からの家臣達の窮乏状況を知る徳川昭武に対して、たったの「3,500石」って、財政規模としては小規模過ぎるんじゃないでしょうか?・・・「3,500石」とは、旧水戸藩の実質石高35万石の僅か1%。ちょうど、1/100です。
      ・・・また、「秩禄処分」を断行してから、約1年と3カ月が経過した頃です。藩知事(※知藩事とも)・徳川昭武にしたって、約1年と3カ月もの期間を、全く無俸給で多くの元家臣達を働かせる訳にもゆかなかったでしょうから。当然に、最低限度蓄えられていた旧の年貢収入たる「米」などを、かなり切り崩して支給していたに違いなく・・・。・・・しかも、徳川昭武が藩主に就任する以前から内訌状況にあった旧水戸藩は・・・当然に、積み重なる軍資金や軍糧などの支出や借財、経済損失額、人的な損失などが、他の諸藩に比べても圧倒的に多かったと云えるでしょうから。・・・時の朝廷の後ろには、当然に明治新政府が存在する訳であり、この「3,500石」という規模は、或る意味で限界だったということなのでしょうか?・・・すると、地方の混乱状況を抑制させるための起爆剤にする目的があったか? 若しくは、権威の象徴たる朝廷として、諸藩に恩情を示せば事が足りる。・・・或いは、“無い袖は振れられない”ということだったのかも知れません。・・・いずれにしても、この時の永世下賜とは、追加的且つ臨時予算的な地方交付金だったかと。

      ※ 同年内:「水戸藩知事(※知藩事とも)・徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)」が、“いわゆる北海道開拓について”を、「巡見」する。・・・残念ながら、私(筆者)には・・・「水戸藩知事(※知藩事とも)・徳川昭武本人が、西暦1869年(明治2年)○○月○○日、実際に天塩国の何処どこを巡見した。」・・・ということを2次的に示す史料を発見出来ませんでした。・・・したがって、もしかすると・・・“水戸藩知事(※知藩事とも)・徳川昭武が、旧家臣の誰かを正式な巡見使に任命し、実際に現地へ派遣して、巡見使からの報告を、この1869年(明治2年)内に受けていた”・・・ということなのかも知れません。・・・
      ・・・しかしながら・・・「○○の頃、実際に(水戸)徳川様が、現地巡見のため供連れで、馬車(※この表現で明治期ということが分かります)や馬乗りで、(複数回)お越しになった。」・・・という伝承や口伝の類いが、水戸近郊在住の古老達(※明治生まれや大正生まれの人達)から伝わっており、歴代水戸徳川家当主達の為政者としての責任感の強さを物語るエピソードもあるため、徳川昭武本人が、或る程度の期間を設定して、実際に北海道巡見を行なっていたとしても、何ら不思議ではないのですが・・・。・・・それでも尚、現実的に考えれば、“西暦1869年(明治2年)当時混乱期にあった水戸を離れる時間的な余裕は、水戸藩知事(※知藩事とも)に与えられていた筈は無い”と考えます。
      ・・・ちなみに、ここで史料に現れない伝承や口伝の類いを引用しましたが、注意が必要な点がありますので、追記しておきます。・・・それは、当歴史関連ページを通して読んで頂ければ、気付かれると思うのですが・・・伝承や口伝の類いそれぞれにおける内容、特には伝承や口伝で語られている時代や時期についてです。・・・ここで引用した伝承や口伝の類いには、「馬車」との表現があるため、幕末期以降の明治初期頃との推測が可能ですが、もしも・・・この「馬車」の表現が無かったら、どうでしょう?・・・江戸時代に至る以前の常陸佐竹氏時代の話と、語られる主体ともども混同されてしまったり・・・時代をもっと降(くだ)ったとしても、昭和10年代後半の世相とも重なって、“然もありなん”と想えてしまいます。・・・
      ・・・実際に・・・この後の昭和時代における太平洋戦争が、終結する少し以前の頃と考えられるのですが・・・「○○の頃、軍服姿の(水戸)徳川様が、現地視察のため、馬乗りでお越しになった。」・・・という伝承や口伝の類いもあるのです。・・・太平洋戦争時の状況を考えれば、当時工業地帯として発展していた日立港に対する米軍艦船から、艦砲射撃や空襲が始められる直前の時期ですので、おそらくは・・・水戸よりも、もっと西部、もっと内陸部へと、(水戸)徳川家ご一家集団での(臨時)疎開地を選定するためだったのでしょう。・・・左記の表現に、もし「軍服姿の」という形容が無ければ、語られる時期の推定さえ出来なくなる訳です。・・・
      ・・・特に、それぞれの栄枯盛衰はあれど・・・中世以来、水戸近郊地域に暮らし続けて、且つ絶えることなく継承されている家系の人々が多い地域では、自ずと似通った伝承や口伝の類いも多くなるため、一方で見分ける視点というのも養わなければならないと、つくづく感じている次第です。


      ※ 西暦1871年(明治4年)6月25日:「明治新政府」が、「兵部卿・有栖川宮熾仁親王」を、「免官」する。・・・

      ※ 同年7月2日:「明治新政府」が、「有栖川宮熾仁親王」を、「福岡藩知事(※知藩事とも)」として「異動」させる。・・・
      ※ 同年7月14日:この日「廃藩置県」が行なわれると同時に、「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)」が「水戸藩知事(※知藩事とも)」を免じられる・・・と、これに伴ない・・・“従来から水戸藩によって進められていた天塩国五郡の開拓事業”が、“開拓使による事業”へと「移管」され・・・“徳川昭武の住まい”も、「東京向島・小梅邸(※旧水戸藩下屋敷のこと)」に移される。一部『水戸藩資料』より・・・この時の徳川昭武公は、数えで19歳。・・・いずれにしても・・・この「廃藩置県」によって、“全国の華族及び士族に対する家禄や賞典禄などの秩禄”が・・・従来の藩から、明治新政府に切り替えられて支給されました。・・・また、この「廃藩置県」は・・・平安時代後期以降続いていた、特定領主が領地や所領を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定し、同時に大きく変革するものであり・・・“明治維新における最大級の改革”と云えましたが・・・



      ・・・この時点で、旧常陸国などを含む近代日本の社会構造が、大きく様変わりしましたので・・・あくまでも、“統治・行政機構についてのみ”となります・・・が、時系列で以って、西暦1875年(明治8年)5月7日までを・・・いささか限定的且つ変則的ではありますが、一応整理しておきたいと思います。・・・





































西暦1838年(天保9年)時点における所領と藩名・藩主など















西暦1861年(文久元年)時点における藩主など








西暦1869年(明治2年)時点における所領・藩主・石高・家格など
             と1870年(明治3年)以降の出来事

※下記欄中の「江戸城における詰所」とは、
いわゆる「伺候席(しこうせき)」のことであり・・・かつて江戸城へ登城した大名達や旗本衆が、征夷大将軍(※以下は将軍と省略)に拝謁する順番を待つためとして定められた控席のこと。別名は「殿席」とも。実際に、拝謁者の家格や、官位、役職によって区分されるなど、大名家の家格を表すものとして重要視されており・・・将軍の執務・私的生活空間とされる「奥(おく)」から間取り配置的に云って最も近かった部屋が、江戸城黒書院にあった控室であって、その部屋を「溜間(たまりのま)」と呼び、臣下のために用意される最高の席として使用されました。・・・この「溜間」を世襲的に使用出来たのは、彦根藩井伊家や、会津藩及び高松藩の両松平家、姫路藩及び庄内藩の両酒井家などです。
 次いで・・・「奥」に近かったのが、「雁間(かりのま)」、「菊間広縁(きくのまひろえん)」、「帝鑑間(ていかんのま)」の順となっており・・・主に徳川将軍家の譜代大名達が詰める席とされました。・・・ちなみに、実際の官位や実質石高を比較すれば、当然に「大廊下(おおろうか)格」や「大広間(おおひろま)格」の親藩大名や外様大名の方が格上とされましたが、将軍との親疎という観点で云えば、親藩大名や外様大名達の方が遠ざけられていた様子が分かります。
 尚、「大広間席」や、「帝鑑間席」、「柳間席」と定められた大名達は、「表大名(おもてだいみょう)」と呼ばれ、五節句の慶事の際や月次のみ登城したとのこと。

※下記欄中の「城構え陣構えの別」とは、西暦1615年8月7日(慶長20年閏6月13日)に江戸幕府(=徳川幕府)が制定した法令である・・・いわゆる「一国一城令(いっこくいちじょうれい)」に依るもののことであり・・・つまりは、当時の諸大名が、“原則として居城以外全ての城の破却せよ”との命令を受けたため、戦国期当時の城構えなどが大きく制限されることとなって・・・現に各地に多くあった城や砦の類いが、恒久的な「廃城」若しくは「取潰し」とされています。

※下記欄中の「爵位」については、西暦1884年(明治17年)7月7日以降の叙任によるものであり、下記欄中記載の藩主、若しくは同藩主や同藩知事(※知藩事とも)の立場を引継いだ家の戸主(=当主)達を含めて記載。










西暦1871年(明治4年)7月14日の「廃藩置県」により新たに決められた県名

   ↓↓


同年11月13日に再編された際の県名













西暦1875年(明治8年)5月7日
に再々編された際の県名と状況
































































































































 水戸藩・徳川斉昭

那珂郡127ヵ村
久慈郡141ヵ村
茨城郡のうち、115ヵ村
多賀郡のうち、34ヵ村
鹿島郡のうち、6ヵ村
行方郡のうち、25ヵ村
新治郡のうち、14ヵ村


その他にも
・下野国那須郡のうち16ヵ村あり現在の栃木県へ

 徳川義篤

※左記の所領に、茨城郡21ヵ村(旧幕府領6ヵ村、旧旗本領17ヵ村)、新治郡1ヵ村(旧旗本領)、相模国三浦郡1ヵ村(旧寺社領)、鎌倉郡11ヵ村(旧寺社領6ヵ村、旧幕府領5ヵ村、旧旗本領2ヵ村)、天塩国苫前郡、同国天塩郡、同国中川郡、同国上川郡、北見国利尻郡が加わる。・・・尚、「相給(あいきゅう:※一つの村落に対して複数の領主が割り当てられている状態のこと。村や郷が分割されたために分郷とも呼ばれます。)」が存在するため、村数の合計は一致しない。

徳川昭武・江戸定府・35万石

 三家譜外の別:徳川御三家(水戸)
 江戸城における詰所:大廊下上席
 城構え陣構えの別:城
 爵位:侯爵

※「大廊下席」とは、
将軍家の親族が詰めた部屋であり、上之部屋と下之部屋の二つに仕切られ・・・上之部屋は、徳川御三家が詰める部屋とされ・・・下之部屋は、加賀藩前田家が詰める部屋とされる。但し、江戸時代後期になると、十一代将軍・家斉の男子を養子に迎えたり、女子を正室に迎えたりする大名が多発し・・・たとえば、阿波藩蜂須賀家や津山藩越前松平家、明石藩越前松平家などが当たる。これらの当主達は、大広間から大廊下に転じる場合もあった。

左記のうち旧常陸国域のみが水戸県に
   ↓↓
  茨城県

そのまま茨城県に

 宍戸藩・松平頼かた(まつだいらよりかた:※かた の字は、竹冠の下に均)

茨城郡のうち、27ヵ村

 松平頼徳

松平頼位(まつだいらよりたか)・江戸定府・1万石

 三家譜外の別:水戸徳川家連枝
 江戸城における詰所:帝鑑間
 城構え陣構えの別:陣
 爵位:子爵

※この宍戸藩は、そもそもとして・・・上記にある水戸藩の2代目藩主・徳川光圀(※後の義公)によって、異母弟の松平頼雄(まつだいらよりお)が1万石を分与されて、1682年(天和2年)2月に立藩されています。・・・そのため・・・この宍戸藩松平家など分家筋のことを、「水戸徳川家連枝」とか「親藩大名」などと呼びます。
・・・また・・・立藩以来、宍戸藩松平家が江戸定府し、本藩たる水戸藩によって実質的な藩政の執行をされていたため、現地に藩庁たる「宍戸陣屋(※現茨城県笠間市平町)」を設置して年貢納入を図るのみで、際立った治績は見られなかったとか。

※「帝鑑間席」とは、幕府成立以前から徳川氏に臣従していた大名が詰める席であり・・・この席に詰める大名達のことを、幕府は譜代大名(=譜代席)と呼びました。・・・但し、ここにある水戸徳川家連枝・宍戸藩松平家などからの親藩大名や、外様大名(※真田氏など)からの願いによって、この席に移った大名(=御願譜代)や・・・新規取立ながら家格向上によって、この席に移った大名(※柳沢氏など)もありました。・・・尚、父親が重職者の場合には、嫡子(=部屋住)が(下記にある)雁間へ出たとか。

  宍戸県
   ↓↓
  茨城県

そのまま茨城県に

 笠間藩・牧野貞一(まきのさだかつ)

茨城郡のうち、84ヵ村
真壁郡のうち、28ヵ村


その他にも
・陸奥国(=岩代国)石川郡のうち5ヵ村
・陸奥国(=磐城国)田村郡のうち14ヵ村
・同国磐前郡のうち12ヵ村
・同国磐城郡のうち30ヵ村ありいずれも現在の福島県へ

 牧野貞直(まきのさだなお)

牧野貞邦(まきのさだくに:※後の貞寧〈さだやす〉)・8万石

 三家譜外の別:譜代
 江戸城における詰所:雁間
 城構え陣構えの別:城
 爵位:子爵

※「雁間席」とは、
幕府成立後に新規に取り立てられた大名のうち、城主の格式を持った者が詰める部屋のことであり、老中や所司代の世子達も、この席に詰めていた。・・・尚、ここに詰める諸大名は「詰衆」と呼ばれて・・・他の席の大名とは異なり、毎日登城したため・・・幕閣の目に留まり易く、役職に就く機会が多かったとされ・・・上記の帝鑑間から、この雁間席への移動を望む大名も多かったとも。

  笠間県
   ↓↓
  茨城県

そのまま茨城県に

 松川藩
 (※但し、この時点では未だ立藩されておらず陸奥守山藩として存在)

茨城郡のうち、4ヵ村
鹿島郡のうち、19ヵ村
行方郡のうち、11ヵ村


その他にも
・陸奥国(=磐城国)田村郡のうち31ヵ村あり現在の福島県へ


※左記に同じく松川藩は立藩されていない

松平頼之(まつだいらよりゆき)・江戸定府・2万石

 三家譜外の別:水戸徳川家連枝
 江戸城における詰所:大広間
(おおひろま)
 城構え陣構えの別:陣
 爵位:子爵


※この松川藩も、そもそもは・・・上記にある水戸藩の2代目藩主・徳川光圀(※後の義公)によって、異母弟の松平頼元(まつだいらよりもと)が2万石を分与されて、1661年(寛文元年)9月に「額田(ぬかた)藩」が立藩されました・・・が、頼元の死後に跡を継いだ松平頼貞(まつだいらよりさだ)の代に、藩領を陸奥国守山へ移封されたため、頼貞は旧領を全て本藩たる水戸藩へ返還し、以後は陸奥守山藩として存続していたのです・・・
・・・が、幕末期になると・・・
それまで江戸定府とされていた陸奥守山藩主・松平頼之は・・・1870年(明治3年)12月24日、藩領はそのままで、陸奥守山から藩庁を旧鹿島郡成田村松川にあった「松川陣屋(※現茨城県東茨城郡大洗町成田町松川)」へ移転し、また藩主自ら任地に在住するためとして、この「松川藩」が立藩されたのです。・・・尚、松平頼之本人も、元水戸藩主・徳川斉昭の二十二男であり、徳川慶喜の異母弟に当たります。1869年(明治2年)の陸奥守山藩6代目藩主・松平頼升(まつだいらよりのり)の隠居によって、養子となり家督を相続していました。・・・しかし、翌1871年(明治4年)に、藩庁の物置から出火し、また強い北風に煽られて、建築物の大半を焼失し、復興を遂げる間も無いまま・・・「廃藩置県」によって、この松川藩も廃藩となったのです。
・・・ちなみに、1873年(明治6年)には、藩主・松平頼之本人が夭折したため・・・当時、会津松平家との養子縁組を解消していた異母兄・松平喜徳(まつだいらのぶのり:※徳川斉昭の十九男)が家督を継いでいます。

※「大広間席」とは、主に国持大名(※国主のこと)及び准国持大名(※准国主のこと)が入った部屋のこと。但し、ここにある水戸徳川家連枝・陸奥守山藩松平家など、国主以外でも四品以上の官位を持った親藩及び外様大名も、この席に詰めることがあった。

  松川県
   ↓↓
  新治県

新治県から茨城県に

 下館藩・石川総貨(いしかわふさとみ)

真壁郡のうち、30ヵ村

その他にも
・河内国石川郡のうち25ヵ村
・同国古市郡のうち5ヵ村ありいずれも現在の大阪府へ

 石川総管(いしかわふさかね)

※左記の所領に、真壁郡2ヵ村(旧幕府領1ヵ村、旧旗本領1ヵ村)が加わる。

☆同左 石川総管・2万石

 三家譜外の別:譜代
 江戸城における詰所:雁間
 城構え陣構えの別:城
 爵位:子爵

  下館県
   ↓↓
  茨城県

そのまま茨城県に

 下妻藩・井上正健(いのうえまさかた)

真壁郡のうち、23ヵ村

その他にも
・下野国都賀郡のうち12ヵ村あり現在の栃木県へ
・武蔵国埼玉郡のうち5ヵ村
・同国大里郡のうち2ヵ村ありいずれも現在の埼玉県へ

 井上正兼(いのうえまさかね)

※左記の所領に、真壁郡1ヵ村(旧幕府領1ヵ村、旧旗本領1ヵ村)が加わる。・・・尚、「相給」が存在するため、村数の合計は一致しない。

井上正巳(いのうえまさおと)・1万石

 三家譜外の別:譜代
 江戸城における詰所:菊間広縁
 城構え陣構えの別:陣
 爵位:子爵

※「菊間広縁席」とは、
「菊間縁側(きくのまえんがわ)」とか、「菊間縁頬(きくのまえんきょう)」などと呼ばれていたものであり・・・幕府成立後に新規取立となった大名達の内、無城と決められた者が詰める部席のこと。・・・この他、幕府旗本に与えられる役職とされる「大番頭」や、「両番頭」、「旗・鑓奉行武役」の職にあった者達の詰席としても使用されたとか。

  下妻県
   ↓↓
  茨城県

そのまま茨城県に

 松岡藩
 (※但し、幕藩体制下では上記水戸藩の一領域とされ、正式な藩とは認めらず)

多賀郡のうち、29ヵ村



※左記に同じく松岡藩は立藩されていないが、幕府から水戸藩への附家老とされた中山家当主が、左記領地を代々所領した。
この1861年(文久元年)3月1日までの当主は、中山信宝(なかやまのぶとみ)が務めたが、その急死により・・・同年3月2日以降は、弟の信徴(のぶあき)が当主となる。

中山信徴・2万5千石

 三家譜外の別:譜代
 江戸城における詰所:無席
(※但し、1868年〈明治元年〉1月24日までは、水戸藩列水戸〈徳川〉家家老格)
 城構え陣構えの別:城
 爵位:男爵


※尚、中山氏の居館があった敷地は、松岡藩の就将館(しゅうしょうかん)として利用された後に・・・現在の高萩市立松岡小学校(現茨城県高萩市下手綱43番地)となっており・・・“その校庭には土蔵が現存している”とのこと。

  松岡県
   ↓↓
  茨城県

そのまま茨城県に

 府中藩・松平頼縄(まつだいらよりつぐ)

茨城郡のうち、3ヵ村
行方郡のうち、9ヵ村
新治郡のうち、6ヵ村

 ※左記に同じ

※左記の所領のうち新治郡3ヵ村が、下記にある土浦藩へと編入された後に・・・茨城郡4ヵ村(旧幕府領2ヵ村、旧旗本領4ヵ村)、新治郡1ヵ村(旧幕府領1ヵ村、旧旗本領1ヵ村)が加わる。・・・尚、「相給」が存在するため、村数の合計は一致しない。

松平頼策(まつだいらよりふみ)・江戸定府・2万石

 三家譜外の別:水戸徳川家連枝
 江戸城における詰所:大広間
 城構え陣構えの別:陣
 爵位:子爵

※この府中藩の前身母体に当たる「保内(ほない)藩」と云う藩が、上記にある水戸藩の2代目藩主・徳川光圀(※後の義公)によって、異母弟の松平頼隆(まつだいらよりたか)が2万石を分与され、1661年(寛文元年)9月に常陸国久慈郡(※現茨城県久慈郡大子町保内)で立藩されていました・・・が、1700年(元禄13年)9月に、保内藩主・松平頼隆に対して、当時の幕府から常陸国(※新治郡、茨城郡、行方郡のうち)及び陸奥国(※岩瀬郡などのうち)内の新たな2万石を加増されることとなり・・・松平頼隆が、常陸府中に陣屋を置いて在住して、この「府中藩」を立藩しています。・・・尚、府中藩立藩に伴ない、それまでの藩領とされていた保内2万石は、本藩たる水戸藩へと返還されて、保内藩は廃藩となっています。
・・・但し、新生府中藩の所領の大半が陸奥国内にあったため、藩主・松平頼隆は陸奥長沼にも陣屋を設置したり、何分にも所領同士が分散していたことや、所領内生産力が低かったことなどから財政難に陥ることとなって、府中藩財政を早くから逼迫していたとか。

※1869年(明治2年)の版籍奉還時に、「府中」を「石岡」へと改称する。

  石岡県
   ↓↓
  新治県

新治県から茨城県に

 土浦藩・土屋彦直(つちやよしなお)

茨城郡のうち、8ヵ村
新治郡のうち、47ヵ村
信太郡のうち、16ヵ村
筑波郡のうち、53ヵ村


その他にも
・出羽国(=羽前国)村山郡のうち18ヵ村あり現在の山形県へ
・陸奥国(=磐城国)石川郡のうち10ヵ村
・陸奥国(=岩代国)岩瀬郡のうち2ヵ村ありいずれも現在の福島県へ
・下総国相馬郡のうち6ヵ村あり現在の千葉県へ
・和泉国日根郡のうち11ヵ村あり現在の大阪府へ
・美作国吉野郡のうち3ヵ村
・同国勝北郡のうち16ヵ村ありいずれも現在の岡山県へ

 土屋寅直(つちやともなお)

※左記の所領に、新治郡41ヵ村(旧幕府領9ヵ村、旧旗本領27ヵ村、旧水戸藩領3ヵ村、旧石岡藩領3ヵ村、旧志筑藩領2ヵ村、旧谷田部藩領1ヵ村)、河内郡21ヵ村(旧幕府領1ヵ村、旧旗本領5ヵ村、旧谷田部藩領15ヵ村)、信太郡76ヵ村(旧幕府領18ヵ村、旧旗本領40ヵ村、旧関宿藩領14ヵ村、旧仙台藩領8ヵ村、旧牛久藩領2ヵ村)が加わる。・・・尚、「相給」が存在するため、村数の合計は一致しない。

土屋拳直(つちやしげなお)・9万5千石

 三家譜外の別:譜代
 江戸城における詰所:雁間

 城構え陣構えの別:城
 爵位:子爵

※土屋拳直は、元水戸藩主・徳川斉昭の十七男であり、徳川慶喜の異母弟に当たる。
斉昭の従弟であった土浦藩第10代藩主・土屋寅直の養子として、1868年(慶応4年)5月6日に、寅直の隠居により家督を継いだ。

  土浦県
   ↓↓
  新治県

新治県から茨城県に

 志筑藩
 (※但し、この時点では未だ立藩されておらず、いわゆる旗本領として存在)

新治郡のうち、20ヵ村

※左記に同じく志筑藩は立藩されていない

※左記の所領のうち2ヵ村が、上記にある土浦藩へと編入された後に・・・新治郡5ヵ村(旧幕府領5ヵ村、旧旗本領1ヵ村)が加わる。・・・尚、「相給」が存在するため、村数の合計は一致しない。

本堂親久(ほんどうちかひさ)・1万110石

 三家譜外の別:外様から譜代
 江戸城における詰所:無席から柳間
(やなぎのま)
 城構え陣構えの別:陣
 爵位:男爵

※この志筑藩が、藩として正式に立藩が認められたのは、1868年(慶応4年)7月14日のこと。
・・・これは、ちょうど・・・新政府軍と佐幕派・奥羽越列藩同盟軍が激戦を繰り広げていた頃であり、明治天皇が詔勅を発して、天皇自らが江戸で政務を執ることを宣言し、「江戸」を「東京」と改称する直前期に当たります。
・・・元は? と云えば、長らく在地した本堂氏の10代目当主・本堂親久の代に、明治維新による混乱期を迎えることになって・・・この本堂親久が、「戊辰戦争」では、“新政府軍による東征に従軍”し・・・その直後期に実施された「石直し(こくなおし:※いわゆる検地のこと)」と呼ばれた所領替えによって、新田2110石分の加増が認められ・・・都合1万110石で以って「大名格」に列せられることとなり、「藩(=大名領)」としての立藩が認められたのです。
・・・したがって、江戸時代のほとんどの期間についてを云えば・・・この志筑地域は、現に「旗本領」とされておりました。
・・・ちなみに、もっと古い話をすれば・・・
・・・そもそもは、1602年(慶長7年)に、常陸を統一していた佐竹家が出羽国久保田(=秋田)へ減転封されたのと、ほぼ同時に本堂氏が入れ替わる格好で以って・・・当時の「会津征伐(=上杉討伐)」で軍功があった出羽国本堂城(現秋田県仙北郡美郷町本堂城回)主・本堂茂親(ほんどうしげちか)が、常陸国新治郡志筑へ8,500石で入部し・・・その後、この茂親が、徳川家の「旗本・交代寄合」となって・・・1645年(正保2年)からは、この志筑の地(=志筑城跡)に、「志筑陣屋」を構えたのです。尚、「志筑陣屋」があった場所は、現在の茨城県かすみがうら市中志筑。

・・・いずれにしても・・・1869年(明治2年)の「版籍奉還」によって、本堂氏10代目当主・親久が、「志筑藩知事」として、家禄195石を賜る・・・も、1871年(明治4年)の「廃藩置県」により「志筑藩」が廃藩となって、「志筑県知事」に就任しました・・・が、同年11月に免官となるまでの間、旧志筑藩士達を「樺太(=サハリン)における開拓事業」に当たらせるなどしております。

※「柳間席」とは、五位及び無官の外様大名や、交代寄合、表高家、並の寄合衆が詰める部屋のこと。准国主でも五位の時は、ここに詰め、四品に昇進すると大広間へ移ることに。・・・尚、各家の嫡子も皆同席とされたとか。

  志筑県
   ↓↓
  新治県

新治県から茨城県に

 谷田部藩・細川興建(ほそかわおきたつ)

新治郡のうち、1ヵ村
河内郡のうち、22ヵ村
筑波郡のうち、20ヵ村


その他にも
・下野国芳賀郡のうち27ヵ村あり現在の栃木県へ

 細川興貫(ほそかわおきつら)

※左記の所領のうち、新治郡1ヵ村と河内郡の15ヵ村が、上記にある土浦藩へ・・・また、河内郡のうち1ヵ村が牛久藩へ・・・同じく、河内郡のうち1ヵ村が宮谷県(みやざくけん:※1869年(明治2年)に安房国や上総国、下総国、常陸国内の旧幕府領管轄のため、明治新政府により一時期設置されていた県であり、現在の千葉県南部及び東部、茨城県南東部を管轄した)へと・・・それぞれ編入された。

☆同左 細川興貫・1万6千300石

 三家譜外の別:外様
 江戸城における詰所:柳間
 城構え陣構えの別:陣
 爵位:子爵

※細川興貫が、1871年(明治4年)2月8日に下野国茂木へ転封となり・・・それまでの藩領は、約5カ月後に行なわれた「廃藩置県」により、土浦県に編入される。

  土浦県
   ↓↓
  新治県

新治県から茨城県に

 牛久藩・山口弘封(やまぐちひろくに)

新治郡のうち、11ヵ村
河内郡のうち、13ヵ村
信太郡のうち、2ヵ村


その他にも
・下総国豊田郡のうち1ヵ村
・同国岡田郡のうち4ヵ村
・同国相馬郡のうち2ヵ村あり但し、いずれも明治新政府の府県統合(1875年〈明治8年〉5月7日)により、(常陸)利根川以北地域が、当時の千葉県から茨城県へと編入される。

 山口弘敞(やまぐちひろあきら)

※左記の所領のうち信太郡2ヵ村が、上記にある土浦藩へ編入される・・・も、新治郡6ヵ村(旧旗本領)、河内郡5ヵ村(旧旗本領4ヵ村、旧谷田部藩領1ヵ村)が加わる。

山口弘達
(やまぐちひろよし)・1万石

 三家譜外の別:譜代
 江戸城における詰所:菊間広縁
 城構え陣構えの別:陣
 爵位:子爵

  牛久県
   ↓↓
  新治県

新治県から茨城県に

 龍(ヶ)崎藩
 (※但し、この時点では未だ立藩されておらず出羽長瀞藩として存在)

河内郡のうち、4ヵ村


その他にも
下総国豊田郡のうち4ヵ村あり現在の茨城県へ
・同国千葉郡のうち1ヵ村
・同国埴生郡のうち1ヵ村
・上総国長柄郡のうち2ヵ村
・同国武射郡のうち4ヵ村
・同国山辺郡のうち、3ヵ村あり(※但し、龍〈ヶ〉崎藩の立藩時に、大網宿1ヵ村を、上記にある宮谷県へ編入される) ⇒ いずれも現在の千葉県へ
・武蔵国多摩郡のうち6ヵ村あり現在の東京都へ
・同国埼玉郡のうち5ヵ村(※但し、旧旗本領2ヵ村を編入される)
・同国新座郡のうち2ヵ村ありいずれも現在の埼玉県へ

※左記に同じく龍(ヶ)崎藩は立藩されていない

※龍(ヶ)崎藩は、出羽国長瀞藩主と長瀞藩藩知事(※知藩事とも)を経た上総国大網藩知事(※知藩事とも)・米津政敏(よねきつまさとし)が、1871年(明治4年)2月17日に、藩庁を「龍(ヶ)崎陣屋」へ移したために立藩されました・・・が、この立藩時には、旧仙台藩領1ヵ村、旧幕府領2ヵ村、旧旗本領2ヵ村を編入。・・・尚、この龍(ヶ)崎陣屋の推定地は、現在の龍ケ崎市立龍ケ崎小学校正門付近であり、所在は茨城県龍ケ崎市3316番地。・・・そして、「相給」が存在するため、村数の合計は一致しません。

米津政敏・1万1千石

 三家譜外の別:譜代
 江戸城における詰所:菊間広縁
 城構え陣構えの別:陣
 爵位:子爵


※尚、分散領地のために苦しんだ長瀞藩時代からの逼迫財政が、新生龍(ヶ)崎藩となっても、相変わらずの実態であって・・・藩知事(※知藩事とも)・米津政敏が、明治新政府に対して5,000両と云う資金を嘆願したにもかかわらず・・・“望みが叶うことは無かった”とか。・・・いずれにしても、そんな状況下で「廃藩置県」を迎えることになり、この龍(ヶ)崎藩も廃藩となるのです。

・・・ちなみに、この龍(ヶ)崎藩が立藩される以前の同地域は・・・概ね江戸時代を通じて、陸奥仙台藩・伊達家の飛び領地とされるなど・・・実際に「采地(さいち)陣屋」などが置かれて、米などの物資を東北地方から一大消費地・江戸へ送るための流通拠点となっていましたので、いわゆる水運業などが盛んな宿場町として、一定程度発展していた様子が分かります。

龍(ヶ)崎県
   ↓↓
  新治県

新治県から茨城県に

 麻生藩・新庄直計(しんじょうなおかず)

茨城郡のうち、4ヵ村
行方郡のうち、19ヵ村

 新庄直彪(しんじょうなおとら)

新庄直敬(しんじょうなおたか)・1万石

 三家譜外の別:外様
 江戸城における詰所:柳間
 城構え陣構えの別:陣
 爵位:子爵


  麻生県
   ↓↓
  新治県

新治県から茨城県に




















概ね下総国の領域について・・・ちなみに、現在の茨城県と千葉県との県境い付近やそれら周辺地域のことを、俗に・・・「チバラキ」と云う造語で以って自称する人々が存在する理由には・・・右に示す歴史的な経緯や変遷が少なからず影響しているのではないでしょうか?

多古藩・久松勝慈(ひさまつかつなり)・1万石

・下総国香取郡のうち5ヵ村


その他にも
・陸奥国(=磐城国)石川郡のうち6ヵ村
・同国楢葉郡のうち7ヵ村ありいずれも現在の福島県へ
・下野国都賀郡のうち6ヵ村
・同国河内郡のうち1ヵ村ありいずれも現在の栃木県へ

 三家譜外の別:譜代
 江戸城における詰所:菊間広縁
 城構え陣構えの別:陣
 爵位:子爵

※久松勝慈本人は、戊辰戦争時の1868年(慶応4年)2月に、実父・勝行(かつゆき)とともに、徳川将軍家との訣別を示すためとして、姓を松平から久松へ改めた。・・・尚、久松勝慈の正室は昌子(まさこ)であり、この昌子の父は常陸府中藩9代目藩主・松平頼縄。

  多古県
   ↓↓
  新治県

それまで新治県に含まれていた下総国香取郡のうち5ヵ村を千葉県へ分割

高岡藩・井上正順(いのうえまさより)・1万石

・下総国香取郡のうち11ヵ村


その他にも
・同国印旛郡のうち1ヵ村
・同国相馬郡のうち11ヵ村
・上総国市原郡のうち10ヵ村
・同国埴生郡のうち1ヵ村
・同国山辺郡のうち2ヵ村
・同国武射郡のうち2ヵ村ありいずれも現在の千葉県へ

 三家譜外の別:譜代
 江戸城における詰所:菊間広縁
 城構え陣構えの別:陣
 爵位:子爵

※井上正順は、同時期の常陸下妻藩主・井上正巳と同じ一族であり、互いに親戚筋に当たります。
・・・詳しくは・・・この高岡藩の2代目藩主・井上政清(いのうえまさきよ)の三男・政式(まさのり)の次男である正敦(まさあつ)が、常陸下妻藩初代藩主の井上正長(いのうえまさなが)の養嗣子となって、その跡を継いだためです。・・・要するに、常陸下妻藩を世襲する井上家が、この高岡藩初代藩主たる家祖・政重(まさしげ)の兄・正就(まさなり)の系統。

  高岡県
   ↓↓
  新治県

それまで新治県に含まれていた下総国香取郡のうち11ヵ村を千葉県へ分割

小見川藩・内田正学(うちだまさのり/うちだまさあきら)・1万石

・下総国香取郡のうち17ヵ村

・同国海上郡のうち1ヵ村あり現在の千葉県へ

その他にも
・陸奥国(=磐城国)白川郡のうち9ヵ村あり現在の福島県へ

 三家譜外の別:譜代
 江戸城における詰所:菊間広縁
 城構え陣構えの別:陣
 爵位:子爵

 小見川県
   ↓↓
  新治県

それまで新治県に含まれていた下総国香取郡のうち17ヵ村を千葉県へ分割

           ・・・現在の茨城県内には、上記にある地域の他にも、いわゆる「天領
(※江戸幕府による直轄地の俗称)」が多く存在しました。・・・
           ※但し、幕府直轄地が、実際に「天領」と呼ばれるようになったのは明治期のことであり・・・大政奉還後に当時の幕府直轄地が明治新政府に返還された際、「天朝の御料(=御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのが、“その始まり”とされます。・・・その後に、この呼称が江戸時代にも遡って使われるようになったため、江戸時代に使われていた呼称ではないことに注意を要す。
           ※当の江戸時代には、“これら幕府直轄地のこと”を・・・正式には、「御料所(=御領所)」や「代官所」、「支配所」とし・・・地方文書では、“大名領(=藩領)や旗本領についてを私領とした”のに対して、「公料(=公領)」や「公儀御料所(こうぎごりょうしょ)」と呼称していました。・・・尚、世間一般的には、「幕府直轄領」や「徳川幕府領」、「徳川支配地」、「幕府領」、「幕領」などと呼んだとか。
           ・・・いずれにしても・・・

           幕末期における「常陸天領」として・・・尚、人名は当時代官を務めていた旗本のことであり・・・地方区分についても、あくまでも当時のものとなりますが・・・

           安藤伝蔵(あんどうでんぞう) --- 茨城郡19ヵ村、鹿島郡9ヵ村、新治郡17ヵ村、筑波郡38ヵ村、真壁郡102ヵ村
           北条平次郎
(ほうじょうへいじろう) --- 茨城郡5ヵ村、新治郡2ヵ村
           福田所左衛門
(ふくだしょざえもん?) --- 茨城郡1ヵ村、新治郡2ヵ村、信太郡1ヵ村、真壁郡2ヵ村
           多田銃三郎
(ただじゅうざぶろう) --- 多賀郡10ヵ村
           小川達太郎
(おがわたつたろう) --- 鹿島郡13ヵ村、行方郡3ヵ村、新治郡1ヵ村、河内郡48ヵ村、信太郡16ヵ村
           大竹左馬太郎
(おおたけさまたろう) --- 鹿島郡1ヵ村、行方郡1ヵ村
           林金五郎
(はやしきんごろう) --- 鹿島郡1ヵ村
           河津伊豆守
(かわついずのかみ) --- 河内郡8ヵ村、信太郡1ヵ村
           真岡代官所(山内源七郎
〈やまうちげんしちろう〉) --- 真壁郡9ヵ村



      ※ 同西暦1871年(明治4年)7月25日:「元福岡藩知事(※知藩事とも)・有栖川宮熾仁親王」が、“父・有栖川宮幟仁親王の隠居”により、“その家督”を「相続」する。・・・

      ※ 同年11月13日:“旧常陸国及び下総国において”・・・「水戸県」と「宍戸県」、「笠間県」、「下館県」、「下妻県」、「松岡県」を統合して、「茨城県」に・・・「石岡県」と「土浦県」、「牛久県」、「麻生県」、「松川県」、「龍(ヶ)崎県」、「志筑県」、「多古県」、「高岡県」、「小見川県」を統合して、「新治県」とする・・・再編成が実施される。・・・上表などの通り。
      ※ 同年11月14日:「明治新政府」が、「元福岡藩知事(※知藩事とも)・有栖川宮熾仁親王」に対して、「福岡県令」を「更任」する。・・・


      ※ 西暦1872年(明治5年)1月6日:“元将軍の徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男)”に対して、「従四位」が叙せられる。・・・この時の徳川慶喜公は、数えで36歳。
      ※ 同年1月9日:“有栖川宮熾仁親王の妃・貞子”が、「薨去」する。・・・有栖川宮熾仁親王ご夫婦の新婚生活は、2年にも及ばず・・・。

      ※ 同年4月5日:「明治新政府」が、「福岡県令・有栖川宮熾仁親王」を「免官」する。・・・

      ※ 同年5月内:「元水戸藩知事(※知藩事とも)・徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)」が、“華族・中院通富(なかのいんみちとよ/なかのいんみちとみ)の娘・栄姫(※瑛子とも)”と「婚約」する。・・・この時の徳川昭武公は、数えで20歳。


      ※ 西暦1873年(明治6年)5月18日:「有栖川宮熾仁親王」が、“元新発田藩知事・溝口直正(みぞぐちなおまさ:※元越後新発田藩主)の養兄妹・栄姫(はるひめ:※後に董子〈ただこ〉と改名)”と「婚約」する。・・・
      ※ 同年5月30日:“有栖川宮熾仁親王と元新発田藩知事・溝口直正の養兄妹・栄姫(※後に董子〈ただこ〉と改名)との婚約”が「勅許」される。・・・
      ※ 同年5月内:「元水戸藩知事(※知藩事とも)・徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)」が、“フランス語の勉強のため”として・・・“フランス人のA・ジボアン”を「フランス語教師」とする。(※翌年9月まで) ・・・この時の徳川昭武は、数えで21歳。・・・想えば、「明治」と改元される以前の、西暦1868年(慶應4年)7月22日に中止されるまでパリ留学していた昭武は、既にフランス語を学び始めており・・・“そのブランク期間”は、およそ5年となっていました。

      ※ 同年7月30日:「有栖川宮熾仁親王」と“元新発田藩知事・溝口直正の養兄妹・董子(ただこ)”が「成婚」する。・・・


      ※ 西暦1874年(明治7年)6月4日:「有栖川宮熾仁親王」が、“華族会館の初代館長”に「就任」する・・・も、同年11月1日に「辞任」する。・・・きっと諸々の事情があったのですね。・・・

      ※ 同年9月25日:「元水戸藩知事(※知藩事とも)・徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)」が、「陸軍少尉」を「拝命」し・・・「陸軍卿・山縣有朋(※通称は小助、のち小輔、更には狂介とも、元長州藩士)」から・・・“兵学寮付きの辞令”・・・を受ける。・・・長きに亘って武門家系として継承されて来た水戸徳川家当主も、このように明治維新政府の軍組織へ組み込まれることになりました。・・・このようなことは、何も旧水戸藩に限らず・・・それまで、同じく武門家系として生きて来た多くの士族達も同様でした・・・が、その多くは・・・同年11月13日に再編成された旧茨城県や旧新治県の役人、教育者、警察組織に加わるなどしています。・・・いずれにしても、この時の徳川昭武は、数えで22歳。
      ※ 同年9月26日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)」が、“陸軍兵学寮の権頭(ごんのかみ)であった保科正敬(ほしなまさたか:※名は俊太郎とも)”から、「陸軍戸山学校付」を命じられる。(※但し、辞令の日付は同月25日) ・・・陸軍戸山学校の所在地は、東京都新宿区戸山。現在は、都立戸山公園及びその周辺。


      ※ 西暦1875年(明治8年)1月10日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)」が、“伏見屋の権左衛門(ごんざえもん)”に案内されて、「千葉県松戸」へ「遊猟」に行く。・・・この時、徳川昭武は、数えで23歳。
      ※ 同年1月23日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)」が、「陸軍戸山学校」を退校した後・・・(馬)車にて「松戸駅(まつどのうまや)」へ参り、「一泊」する。・・・翌日は「遊猟」する。・・・よっぽど松戸がお気に召されたようでして・・・「遊猟」とは云うものの、もはや・・・ご自身による現地調査や視察と云った具合に感じますが。・・・
      ※ 同年1月30日:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)」が、“この日の昼過ぎより、翌日の遊猟のためとして松戸へ一泊し”に行く。・・・やはり・・・当時の徳川昭武は、この年1月を中心に松戸の地を遊猟し、実際に周辺環境などを相当に見歩いた模様です。・・・松戸駅付近が、水戸と東京(=旧江戸)とを結ぶ宿場町であったことが、その由縁として大きく影響していると云えます。・・・また、後のこととなりますが・・・徳川昭武の実兄であった先代水戸藩主・徳川義篤の長男・篤敬(あつよし)を、昭武の養嗣子として水戸徳川家の家督を継がせ・・・義篤次男の篤守(あつもり)には、昭武が水戸徳川家相続したことにより当主不在となっていた(御三卿)清水家の家督を継がせ・・・昭武の嫡子となる者が、この後に産まれこととなれば・・・(※この後に生まれる実子・武定(たけさだ)に至っては、誕生する以前の段階ですが※)・・・分家としての「松戸徳川家」を創設する・・・という要因となっているように感じてしまいますね。・・・

      ※ 同年4月4日:「明治天皇」が、“徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)の小梅邸(※旧水戸藩下屋敷のこと)”へ「行幸」し・・・「御製(ぎょせい)」を「下賜」する。『明治天皇紀』より・・・「御製」とは、天皇や皇族が手ずから書いたり作ったりした文章(※政令の類は除く)や詩歌、絵画などを云います。一般には、天皇が詠んだ和歌のことを云うことが多いとされています。
      ・・・尚、この時に詠まれたのが・・・「花くはし 桜もあれど 此やどの 世々のこころを 我は問ひけり」・・・というもの。
      ・・・「桜」とは、かつての「桜田門外の変」から始まった激動の時代を物語っていると考えられますが・・・いずれにしても、水戸徳川家や旧水戸藩に属した者達に対する慰労のお気持ちもあったかと。

      ※ 同年6月7日:“元将軍の徳川慶喜(※元水戸藩主の徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男)の元へ、渋沢栄一(※武蔵国榛沢郡血洗島村出身の旧幕臣)が出頭したため”・・・「徳川慶喜」は、“渋沢栄一ととも”に、「瀬名村(現静岡県静岡市葵区瀬名)」へ「出猟」する。・・・この時、徳川慶喜は、数えで39歳。

      ※ 同年9月内:「明治新政府」が、“全国の華士族に対する家禄支給方法”を、従来の「米」から「金禄」へ切替える。・・・かなり大きな社会変革且つ歴史的な社会実験だったと云えるかと。・・・士族つまりは武士階層の者達だけでなく、何よりも公家社会を構成していた貴族階層の者達にとっては。・・・何せ、荘園経営などが始められる以前よりあった・・・古代日本の頃からの伝統的な慣例として、頑(かたく)なに受け継いで来ていたものでしたから。・・・経済的に云えば、「物の価値」 = 「経済価値」 ≒ 「金禄(※貨幣)つまりは資本」とした訳です。・・・
      ・・・当時の華士族達の生活を考えると・・・「米」について云えば・・・自家精米なりして食したり、家人達へそれぞれ分配することは出来ていたのに・・・当時の米問屋なり米を取り扱う商人へ、実際にいくらかの金禄(※貨幣)を支払って、いちいち銘柄米や分量を選んで購入する・・・というスタイルへと強引に変化させられ・・・当時の大都市・東京(旧江戸)や、貿易などで栄える地方中核都市などは、ともかくとしても・・・大半の農村や漁村などを抱える一般の地方経済人にとっては、発給された金禄(※貨幣)に対する信用性や信憑性(≒交換比率や取引相場など)が、大きく問われる訳でして。・・・結果としても、大きな社会的インパクトを与えていたかと。・・・
      ・・・尚、これが遠因となっているのか? は諸説ありますが・・・このような社会変革が行なわれている際には、各家々における相続や事業承継問題などが生じ易く・・・また、ズル賢い発想を持つ輩が、いつの時代も湧き出て来るようでして・・・しばらく後には・・・各地で以って、いわゆるペテンや詐欺などの民事事件発生の形跡・・・詳しくは、旧大日本帝国憲法(※1889年〈明治22年〉2月11日公布、翌1890年〈明治23年〉11月29日施行)下における民法判例などもありますね。・・・それらの判例なども、日本の歴史の一部と捉えれば、現代人たる我々にとっても、決して無意味な事ではありません。きっと。

      ※ 同年12月下旬:「徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)」が、“華族・中院通富の娘・栄姫(※瑛子とも)”と「結婚」する。・・・この時の徳川昭武は、数えで23歳。・・・正式婚約より3年以上が経過しておりました。・・・この婚約中の期間についてを、どのように考えるか?・・・やはり・・・水戸徳川家なり旧水戸藩周囲の世情が、ようやく落ち着き始め、いくらか安定傾向が見えていた頃だった・・・と云えるのではないでしょうか?・・・裏を返せば、3年以上の期間が必要だったとも。・・・

・・・・・・・・・・※次ページへ続ける予定です。・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治帝即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】