街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 同西暦1868年(慶應4年)閏4月3日:“奥羽列藩同盟軍に属す水戸諸生党の市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも、変名は芳賀三左衛門)や、大森信任(※通称は弥三左衛門、弥惣左衛門とも)ら”が、「出雲崎陣屋(現新潟県三島郡出雲崎町尼瀬)」に至りて・・・“留守役・篠原仙之丞(しのはらせんのじょう)へ陣屋明渡しを要求する”・・・も、“回答は得られず”・・・ここにある「出雲崎陣屋」とは、別名を「出雲崎代官所」とも。・・・ここの代官は、そもそも江戸在住でしたので、交渉担当者が留守居役とされた訳です。・・・市川弘美ら水戸諸生党勢の目的は、“新政府軍と対決する際の陣地とするための陣屋占拠”でした・・・が、実は・・・“この時の出雲崎陣屋には、既に先客があって、そのため回答を得られなかった”とのこと。・・・その「先客」とは、越後長岡藩家老・河井秋義(※通称は繼之助、号は蒼龍窟)によって越後国新潟町を追われていた衝鋒隊であり、同国各地で金品の強要を繰り返し、この出雲崎陣屋でも・・・“千両献金せよ!”・・・と衝鋒隊の一部が、献納を迫っていたのです。
      ・・・この日、衝鋒隊の大部分は、既に柏崎方面へ出立しておりました。・・・そんな状況下、市川弘美らの水戸諸生党は、出雲崎陣屋留守居役・篠原仙之丞に対して・・・“陣屋明渡しを要求し、これを受け容れれば、衝鋒隊への献金を拒否しても構わず、更には町の治安維持にも努める”・・・と説得したようです。・・・しかし、留守居役・篠原としては・・・「代官が江戸在住のため、即答出来ない」・・・との“ご尤もな回答”となり・・・結局、この日の市川弘美ら水戸諸生党は、結論を得られずに寺泊方面へ引き下がることとなったのですが・・・。・・・
      ※ 同年閏4月4日:“出羽米沢藩及び陸奥仙台藩の四家老”が、それぞれ「連名」して・・・“奥羽諸藩に対して列藩会議召集の回状”を送る。・・・佐幕派諸藩の武力討伐に固執する新政府・奥羽鎮撫府への対応方法の協議のためでした。・・・また、米沢藩主は上杉家、仙台藩主は伊達家であり、いわずもがなの外様雄藩。・・・
      ※ 同年閏4月5日夜~8日夜:“武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)らの「除奸反正」と復讐に燃える尊皇攘夷派の水戸藩士”が、“江戸・水戸藩邸に残っていた平松忠徳(ひらまつただのり:※通称は茂介)ら10名余り”を、次々と「斬殺」する。・・・これらの斬殺事件については・・・奇しくも、“この後に水戸藩を出奔することになる内藤正直(※通称は弥大夫、号は耻叟、碧海とも)”の回顧録『悔慚禄』によれば・・・「武田氏とは、耕雲斎の孫金次郎と云へる者にて、先に祖父に従ひ北国にて降参したるが、幼年を以って死を減じられ獄中にありしを、此度の変(※王政復古の大号令のこと)に赦されて一隊の兵を率ひて水戸に下りし也、その同勢の中には悪徒兇人も加はり居りて、勅命を借りて人を殺すことなれば、其の残虐なること言ふべからず、人を殺すこと芋の葉を殴るに異ならず」・・・と、記されており・・・また、“この頃の江戸・水戸藩邸における大荒れ状況について”は・・・
      ・・・「閏四月の上旬に、武田勢が江戸藩邸に帰り来たりて、五日の夜より八日の夜まで、邸中の士十数人を斬殺し、之を(邸内にある)大下水に投じ、邸中至るところ鮮血淋漓たり」・・・と、悲惨な情景を述べているのです。・・・
      ※ 同年閏4月7日:“奥羽列藩同盟軍に属す水戸諸生党の市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも、変名は芳賀三左衛門)や大森信任(※通称は弥三左衛門、弥惣左衛門とも)ら”が、“200名”を率いて、「出雲崎陣屋」へ乗り込む。・・・出雲崎陣屋・留守居役の篠原仙之丞との陣屋明渡し交渉が進まないことに立腹した市川らが、自ら水戸諸生勢を率いて陣屋へ乗り込み・・・「今後の出雲崎陣屋は、水戸方が警護する」・・・と一方的に宣言し・・・町内の宿屋には、市川弘美や大森信任、朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)ら3人の部隊長の名を記した宿札を張り出させて、“各隊員の宿舎に出雲崎陣屋を充てた”とのこと。・・・この一方的な占拠行動に対して、陣屋留守居役・篠原仙之丞は、当然に承服せず、尚も議論が続けられていた・・・が、そこへ、会津藩士・有賀圓次郎(ありがえんじろう)が現れると・・・「水戸方は理不尽なため、会津がこれを警護する」・・・との主張が展開されるように。
      ・・・しかしながら、これまた当然に、市川ら水戸諸生党が猛反発すると・・・結局は、水戸方への一任が決まることとなって、“留守居役・篠原らが、泣く泣く明渡した”とのこと。・・・また、この日、新政府軍との本格的な戦闘を前にして、軍事拠点を確保出来て高揚感に湧く水戸諸生党勢ではあった・・・ものの、大きな不安も同時に抱えていたのです。・・・それは、故郷水戸より次々と伝わって来る同志や家族らに対する弾圧の知らせでした。・・・そのため市川弘美は、大森信任や朝比奈泰尚、佐藤信近、筧政布ら幹部達の連名によって、以下のような内容の嘆願書を会津藩へ提出しています。(↓↓↓)・・・

      《市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも、変名は芳賀三左衛門)らが、陸奥会津藩へ提出した嘆願書の内容》
      市川ら水戸諸生党の主張は・・・まず、“元治元年に、武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)の徒が、尊攘之名義を借りて、種々の暴行を働き、且つ容易ならざる陰謀を以って水戸家の安危に関わるから、同志の輩数百人と共に江戸に上り建言したのだ”と。・・・やがて、“諸藩に対して賊徒(=天狗党)追放の幕命が出ると、結局は逆賊伊賀(=武田正生)の残党らは越前に脱走し、一時に滅亡した”と。・・・その後、“昨年暮れ(=慶應3年暮れの12月9日、王政復古の大号令)まで、水戸藩は結構な状況で過ごせていたものの、今年正月になると、薩長之奸謀の罠に陥り、徳川宗家(=旧将軍家)の危急(=1月7日の徳川慶喜追討令を指す)については、言語に絶する事態であった”と。
      ・・・そして、
“この冤罪を晴らすためとして、我々一同は必至の思いで嘆願し、建言もしたが、それらが採用されないままに中納言(=藩主・徳川慶篤)様が本圀寺に詰める者共(=本圀寺党勢)を、水戸藩庁(=水戸城)へ送り込まれた”と。
      ・・・
“これに引続き、武田正生の残党で諸藩に預けられていた者や、陰謀が露見して脱走していた者までが水戸へ帰って来たため、水戸藩領内は頻(しき)りに動揺し、予てより幽閉していた者共までが、家老・松平安房(=松平頼遵)の邸宅へ集合し、無理に多人数を城内へ繰り込んだため(=同年3月10日の水戸城乱入のこと)、士族一同大いに騒擾したばかりでなく、城下の町人まで東西に走り回る有様となっており、万一城へ向って発砲することになっては、不調法の筋と心得て、水戸を退去することとなったが、城外には拠るべく手立てもなく、予てより幕府の恢復(かいふく:=回復)を畢竟(ひっきょう:=究極、至極、最終)の大業とする素志を貫徹するまでは、如何にしても露命を繋ぎ、御政体御一新之上は、主上御聖明必ずや我々の行動を御照覧あらせられることと思う”と。
      ・・・
“ただ、墳墓の地たる水戸を離れて、君父を捨てたことは、深く恐れ入ることであり、如何なる罪科も甘んじて受けることが平素からの願いであるから、ご憐察下されて暫時の間、我々の行動をお許し下さるようお願いする。但し、我々が水戸を退去した後、水戸の居宅において、または脱出後路上で残戮された士分も十余名に及んだ由、たとえ大罪であったとしても、何の糾明もない仕打ちは、如何なものかと存ずる。一旦、水戸を退去した者が藩の恥を申し出るのはおかしいが、主張が上に通じないので止むを得ず右の次第となった。尊藩(=貴藩)とは、ご近親の間柄(=水戸藩主・徳川慶篤の異母弟である昭則が、会津藩主・松平容保の養子となり、名を松平喜徳と改めていたため)である故、右の情況を上に通じて頂ければ、士民之幸福この上なく存ずる”と。・・・

      ・・・上記にある、水戸諸生党が主張する「御政体御一新」というのは・・・当時の新政府側が主張する「御一新」に対する反対の意味を表していて、且つ旧政体(=旧幕藩体制)の回復を指していることは、ほぼ明らかではありますが・・・それが「主上」、つまりは・・・“天皇の承認があるものと信じた上で、薩長の奸謀を云々するところ”は、当時の会津藩の主張とも共通しています。・・・そして、“何の詮議も無く、同志の者が次々と殺害されると云う痛ましい状況を訴えていることについて”は・・・“かつて二、三年ほどを、市川ら門閥保守派による水戸藩政の下で、反対派(=尊皇攘夷派)の多くの者が次々に投獄され、何の詮議もなく処刑されていった事実”をも、否応なく想起させられます。・・・また、この嘆願書の中で、「逆賊伊賀の残党が越前へ脱走した」と主張していますが・・・まさに、この時の市川ら水戸諸生党勢が、逆賊の流れを汲む者達と認識されていたために、水戸を脱走せざるを得なくなっており・・・反対に新政府側からも、「脱奸」などと呼ばれているという現実がありました。
      ・・・それらが、短期間における逆転現象であっただけに、水戸藩末期の歴史においては、より一層深い悲哀を留めることに繋がっているのです。・・・
      ※ 同年閏4月9日:“パリ留学中の徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の元”に、「日本」から・・・“徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の上野・寛永寺大慈院における謹慎や上野周辺に過激なる者達が集結している事などを伝える内容の御用状”が届く。・・・これに対し、「徳川昭武」は、“留学を続けたいという主旨”を、“旧幕府・遣欧使節団に同行していた栗本鯤(くりもとこん:※通称は瀬兵衛、号は鋤雲、旧幕臣)”により「伝達」させる。・・・ここにある「上野周辺の過激なる者達」とは、彰義隊(しょうぎたい)のことだと想われます。・・・そして、この「彰義隊」を結成したのは、新政府側と抗戦を主張する旧幕臣達や、一橋家家臣・渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう:※号は廬陰、明治以降は渋沢喜作と改名、渋沢栄一の従兄弟)、天野八郎(あまのはちろう:※号は斃止)らのことです。・・・
      ※ 同年閏4月10日:「水戸藩探索方役人・磯部秀之助(いそべひでのすけ)」が、「水戸藩庁(=水戸城)」に対して・・・「脱奸踪跡探偵書(だっかんそうせきたんていしょ)」を「提出」する。・・・「脱奸踪跡探偵書」とは、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも、変名は芳賀三左衛門)ら水戸諸生党勢の足取りを辿った内容を含む機密文書のことであり・・・この幕末混乱期から、新政府へ政権移行が為されて安定期に至るまで、且つそれ以後も・・・多種多様な情報が飛び交っていたのです。・・・当時の情報伝達方法は、専ら口伝や文書に依りましたが、第一に確かな情報を得ることが、何よりも当事者達の生死に直結する事柄だった訳です。・・・尚、“江戸には、情報を集めては、その都度諸大名に売る商売を生業としていた者も居た”と云われ・・・秘かに情報収集を行なう間者(かんじゃ:※潜入捜査官やスパイのこと)活動も活発だったようであり・・・時には、“まことしやかな偽情報”、つまりは“風説の流布まで関与していた”とも云われます。
      ・・・いずれにしても、この時の報告内容を要約すると・・・「市川三左衛門等の四百人余りは、各自が槍と鉄砲を持参し、会津勢至堂峠へ一同が泊りて(中略)(四月)八日、新潟に至り十四日まで滞留し、会津藩の西郷源五郎(さいごうげんごろう:※家老の西郷近悳の変名か?)と談合し、千両ほど借用した由、同十六日に弥彦や、寺泊へ泊り、一部は出雲崎泊りで、十七日佐渡へ渡る計画のところ七日位は滞留になるだろうとの風聞あり、十七日佐渡の陣屋より両人ほど寺泊に来て、市川勢の誰かと対談した由、市川勢の宿泊料やその他道中の費用は、勢至堂より水原辺りまでは会津藩が代わって支払ったらしい、新潟からは市川勢で出した(中略)。道中筋は、穏便に通行した由」と。・・・内容としても、なかなかに詳しく・・・また、磯部らが水戸諸生党勢が気付かぬように関係者周辺を探索していたことなども窺えます。・・・最後に、「道中筋は、穏便に通行した」と記されているように、諸生党勢が水戸を離れてから越後国出雲崎に至るまでは、大した戦闘も無く穏便に通行出来た模様です。
      ・・・しかし、これまでの出雲崎陣屋占拠騒動などは触れられていないため、“それ以前に書かれたもの”と考えられます。・・・また、会津藩と水戸諸生党勢との密接な関係も窺えますし・・・このほか、市川が「久賀」、佐藤が「信夫」、朝比奈が「堤」と変名していたことも、“この脱奸踪跡探偵書中”で指摘されております。・・・尚、磯部秀之助が、実際に水戸藩内で、どのような立場にあったのか? などは残念ながら不明となります・・・が、水戸藩が藩主帰国に費用が掛かるためとして、各村へ献金を命じた際、常陸国幡村(現茨城県常陸太田市幡町)の山横目・堀江次郎衛門(ほりえじろうざえもん)が、同年閏4月29日に関係する13カ村から288両を献納する旨の文書を、藩に提出した際の宛名に「磯部」の名があるため、主に民政分野に係わった人物だったのかも知れません。・・・
      ※ 同年閏4月11日:“陸奥仙台藩領の白石城(現宮城県白石市益岡町)”において、“出羽久保田藩(=秋田藩)や、出羽本荘藩、陸奥磐城平藩、陸奥津軽藩(=弘前藩)などの奥羽14藩”が、一同に会して、「列藩会議」を開く。(=白石列藩会議)・・・
      ※ 同年閏4月12日:「白石列藩会議」により・・・“陸奥会津藩家老・西郷近悳(※通称は頼母、明治維新後は保科頼母と改名、号を栖雲、酔月、晩年は八握髯翁とも)による嘆願書や、奥羽諸藩の重臣連名による副嘆願書、陸奥仙台藩と出羽米沢藩の二藩連名による会津藩寛典処分嘆願書の計三通”が、「新政府奥羽鎮撫総督・九条道孝(くじょうみちたか:※最後の藤原氏長者)」へ「提出」される。・・・いずれの嘆願書も、“会津藩や出羽庄内藩を赦免すべき”との内容であり・・・この時の九条道孝は、“陸奥国名取郡岩沼(現宮城県岩沼市)に在陣していた”とのこと。・・・
      ※ 同年閏4月17日:「新政府奥羽鎮撫総督・九条道孝(※最後の藤原氏長者)」が、“奥羽諸藩から提出されていた計三通の嘆願書”を「却下」し・・・「会津征討」を命じる。・・・新政府としては、“武力討伐のほかに選択肢無し”と云わんばかりだったかと。・・・
      ※ 同年閏4月19日:“当初から態度を曖昧にしていた越後高田藩”が、「新政府軍」が迫る・・・と、「高田藩」は、“自領内に居た旧幕府歩兵隊を追放して恭順の姿勢を示し”・・・そこに、“新政府軍・北陸道鎮撫総督とされていた黑田淸隆(くろだきよたか:※通称は仲太郎、了介とも、薩摩藩士)や、山縣有朋(やまがたありとも:※通称は小助、のち小輔、更には狂介とも、長州藩士)、岩村高俊(いわむらたかとし:※通称は精一郎、土佐藩士)らが迎えられる格好となって”・・・“北越鎮撫についての会談”が行なわれる。・・・この会談により、北越を始め、東北を舞台とする本格的な戦争が、いよいよ始められることになりました。・・・
      ※ 同年同日:“出羽米沢藩及び陸奥仙台藩”が、“奥羽鎮撫軍の指示により、既に手配していた会津や庄内への諸攻口における征討軍の解兵について”を、「奥羽鎮撫総督・九条道孝(※最後の藤原氏長者)」へ届ける。・・・まずは外様雄藩の二藩が、新政府による奥羽鎮撫軍の指示統制から離脱した格好となったのです。・・・
      ※ 同年閏4月20日:「陸奥会津藩」が、「白河小峰城(現福島県白河市郭内)」を「攻撃」し、“これ”を「奪取」する。(=白河口の戦い)・・・この時の会津藩は、“宇都宮方面からやって来る新政府軍が、当然に白河小峰城を重要拠点にと考える筈として、先手を打った”と云われており・・・これには、陸奥仙台藩の奉行職にあった坂時秀(さかときひで:※通称は英力)が、会津藩家老・梶原平馬(かじわらへいま)へ、“新政府軍が白河小峰城に入城する前に、これをまず奪うべきではないか? という内容の書状を送った”とされています。・・・
      ※ 同年同日:“陸奥仙台藩士の瀬上主膳(せがみしゅぜん)や、姉歯武之進(あねはたけのしん)、福島藩士・鈴木六太郎(すずきろくたろう)、目明かし・浅草屋宇一郎(あさくさやういちろう)ら10名余り”が、「新政府奥羽鎮撫総督府下参謀・世良修蔵(せらしゅうぞう:※長州藩士)」を「襲撃」して「捕縛」する・・・と、この日「斬首」に処す。・・・そもそもとして、この襲撃計画は、“仙台藩の主席奉行であった但木成行(ただきなりゆき:※通称は土佐)から同月14日には承認を受けていた”とのこと。・・・また、“この世良修蔵斬首刑の報”は、諸藩重臣の集う「白石列藩会議」の場にも届いており・・・その場に居た出羽米沢藩士・宮島吉久(みやじまよしひさ:※通称は誠一郎、号は栗香、養香堂とも)の日記によれば・・・「満座人皆万歳ヲ唱エ、悪逆天誅愉快々々ノ声一斉ニ不止」・・・という状況であったと。
      ・・・いずれにしても、この仙台藩の強硬派が仕掛けた二つの出来事は、以後の奥羽諸藩全体の意思決定に大きな影響を与えることとなり、和平交渉そのものが決裂してしまった訳です。・・・
      ※ 同年閏4月21日:「征討大将軍兼東征大総督・有栖川宮熾仁親王」が、“維新政府の総裁職”を止める。・・・
      ※ 同年閏4月27日:“出雲崎陣屋に布陣していた市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも、変名は芳賀三左衛門)ら水戸諸生党勢”が、“越後国柏崎(現新潟県柏崎市)の鯨波(くじらなみ)海岸付近にて、伊勢桑名藩が新政府軍と戦闘に入ったとの報を受けたため”・・・“朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)と大森信任(※通称は弥三左衛門、弥惣左衛門とも)の部隊”を「派遣」し、「交戦」する。(=鯨波合戦)・・・当時の柏崎は、桑名藩の飛び地であり、反政府軍にとっては越後を防衛するための重要拠点でした。・・・また桑名藩としても、王政復古の大号令以来、会津藩と共に行動し・・・「鳥羽伏見の戦い」に敗れてからは、藩主・松平定敬(※伊勢桑名藩主、京都守護職である松平容保弟)も主戦派の兵士達とともに、この地にあり、これを攻略しようとする新政府軍と対峙していたのです。
      ・・・そのため、高田(現新潟県上越市本城付近)から進出した薩摩や、長州、加賀金沢、越後高田など諸藩との戦闘は、桑名藩による猛烈な抵抗のため、一進一退の戦局となり・・・“この局面で以って、桑名藩兵や会津藩兵に加勢したのが、水戸諸生党勢のうち朝比奈泰尚や大森信任配下の兵達であり、大砲方の7名も加わって、激しい砲撃戦や銃撃戦を繰り広げられた”と云い・・・いずれにしても、市川弘美らの水戸諸生党勢にとっては、新政府軍との初戦となった訳ではありますが・・・。
      ※ 同年閏4月28日:“奥羽列藩同盟軍に属す水戸諸生党勢”が、“越後国柏崎町(現新潟県柏崎市中央町)や同荒浜村(同柏崎市荒浜)”へ「進出」し・・・“新政府軍との戦闘”が始まる。(=北越戦争)・・・当時の史料である『相田日新録』によれば・・・「曇夕方雨、鯨波合戦ニ付会津方敗北之由、宮川(現新潟県柏崎市宮川)ニて喰留可申外無く、若(もし)相敗れ候得ハ此辺如何可相成抔之趣ニ有之、町方荷物運びニて騒敷(さわがしく)候」・・・とあり、実際に戦いが始められてしまった地域住民達の、慌ただしい様子を伝えています。・・・また、前日の「鯨波合戦」においても、会津藩が加勢したことで、その会津藩が地域住民達から主力部隊と考えられていたことが、「会津方敗北」という表現からも分かります。・・・いずれにしても、水戸諸生党勢も、当初は伊勢桑名、会津両藩と共に優勢に戦っていました・・・が、この日に形勢が逆転して・・・水戸諸生党勢は出雲崎方面に退却します。
      ・・・そして、桑名藩領地であった柏崎は、新政府軍に奪われ・・・桑名藩兵は、会津軍などと共に柏崎から北側へ三里ほどの越後国妙法寺村(現新潟県柏崎市西山町妙法寺)へ陣取ることとなり・・・再び新政府軍と対峙することとなったのです。・・・
      ※ 同年同日:「新政府大総督府」が、“武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)らの水戸藩士”に対して・・・“既に明渡されていた江戸城・西の丸の守衛”を命じる。・・・さすがに・・・時の新政府としても、江戸城を明渡されて間もなくの大切な時期に、「除奸反正」と復讐に燃える尊皇攘夷派の水戸藩士達が世間を騒がすような不穏な事態を招く行為を、これ以上黙認することは出来なかったのでしょう。いくら朝廷のご意向があったとしても。・・・“大勢の家族らを失なった武士としての気持ちは理解出来るが、少しだけ冷静になりなさい”と云っているかのような措置でした。・・・
      ※ 同年閏4月29日:“江戸城に入った新政府副総裁職・三條實美(さんじょうさねとみ:※号は梨堂、変名は梨木誠斉)”が、「田安(徳川)家当主・徳川慶頼」を「召還」し・・・“叡慮により、田安家・(徳川)亀之助(※後の徳川家達、田安家の徳川慶頼三男のこと)を以って徳川宗家を相続させる旨の勅命”・・・を「発表」する。・・・このことは、既に成された「江戸無血開城」における条件の一つではありますが・・・“この日に、ようやく明治天皇の叡慮を以って新政府から承認が得られた”ということでしょう。・・・また、“一連の降伏条件についての旧幕府・徳川宗家側の履行が、同時期に完了した”とも考えられるのです・・・が、ここまで、江戸無血開城の決定の日から約2カ月半を要しています。・・・ちなみに、この時の(田安)徳川宗家は、特定の領地を持たない、云わば・・・“屋敷無し所帯とされ、家督という名目の相続についてのみを、新政府から承認されていた”・・・と解釈すべきでしょう。
      ・・・また、かつては将軍として幕府機能の維持や改革などの強化に執念を燃やしていた徳川慶喜公としても、幕府倒壊後は、“ひたすらに徳川の家名断絶だけは避けたいとの思いを強くしていた”でしょうし・・・新政府としても、“徳川宗家を潰すと、更に旧幕府勢力を刺激することに繋がるため、徳川宗家に対する処分については寛大にとの方針を採らざるを得なかったよう”です。・・・

      ※ 同年5月3日:“越後国椎谷町(現新潟県柏崎市椎谷)と同宮川村(同柏崎市宮川)”において、「奥羽列藩同盟軍」と「新政府軍」が「交戦」する。・・・出雲崎方面から海岸沿いを宮川や、柏崎方面に向って前進した市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも、変名は芳賀三左衛門)ら水戸諸生党勢は? と云えば・・・椎谷藩の陣屋に押し寄せて、奥羽列藩同盟軍への加担を迫りました・・・が、これに驚いた椎谷藩は、使者を秘かに新政府軍へと送り、新政府軍の来援を求めることになります。・・・
      ※ 同年5月4日:“駐日仏国公使のレオン・ロッシュ”が、“フランス外務省から帰国命令を受けたため、この日帰国の途”に就き、「日本」を離れる。・・・尚、“レオン・ロッシュの後任公使”には、「マキシミリアン・ウートレー」が「就任」する。・・・結局のところ、レオン・ロッシュが日本滞在中の後半時期が、“個人的な外交の様相”を呈して来ていたため、本国の外務省より帰国命令を受けることとなった訳です。・・・しかし、この帰国命令が届いた際には、既に幕府体制は崩壊していたのです。・・・それでも、レオン・ロッシュの行動については、これに限られる訳ではなく、本国帰国後についても記録が遺されております。・・・
      ※ 同年同日:“水戸諸生党勢の幹部の一人であった佐藤信近(※通称は図書)”が、「越後国寺泊」の「宿舎」において「病死」する。・・・現地寺泊の法福寺(現新潟県長岡市寺泊二ノ関)の過去帳には・・・「大乗院殿実相日信居士」・・・という、高い身分を意味する戒名が発見されています。・・・それには、俗名が「水戸藩信夫(※信近の変名)善次」とあり、但し書きには「家老職佐藤頭正(※図書の意か?)四十四歳 寺泊に追戦して病死」とあります。しかし、墓は無く仮葬塚があるだけです。・・・そもそも、この佐藤信近(※通称は図書)家は、藩祖とされる徳川頼房(※威公)時代から水戸藩に仕えた譜代の家柄であり・・・この佐藤信近は、与力を付けられて家老の格式となり、要職を兼ねた門閥保守派の一人でした。・・・子の信好(のぶよし:※通称は主税)も、越後方面へ同行して、父の病死後も市川弘美らと共に行動し、後に下総国八日市場にて戦死しています。
      ・・・いずれにしても、この佐藤信近(※通称は図書)病死については、“水戸諸生党勢の前途に暗い影を落とす出来事であった”と云われており・・・かつては水戸藩の権力の座にあった門閥保守派達の末路を物語っているかのようです。・・・
      ※ 同年5月6日:“新発田藩などの北越同盟加盟の五藩”が、「奥羽列藩同盟」へ「加入」して・・・“計31藩による奥羽越列藩同盟”が「成立」する。・・・
      ※ 同年同日:“越後国柏崎町と同荒浜村など”において、「奥羽越列藩同盟軍」と「新政府軍」が、再び「交戦」する。・・・これについても、『相田日新録』では・・・「五月六日天気夜雨、水戸人数ハ椎谷、官軍ハ宮川ニ罷在両所之間ニて昨夜より戦有之、不意を被討水戸方敗北、痛人多分出来四ツ頃追々迯(逃)来候、殊ニより官軍押来可申哉ニて町方大騒、右ニ付衣類等荷物畳建具道具等土蔵ニ運入候」・・・と、戦況や町場の様子を伝えています。・・・新政府軍は、この日、椎谷や妙法寺方面を攻撃しました。・・・椎谷の南方八里ほどの当時の宮川には、薩長軍があり・・・そこで、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも、変名は芳賀三左衛門)ら水戸諸生党勢との小競り合い的な戦闘が起こります。・・・この日の夜、雨の中で、新政府軍は椎谷と妙法寺へ総攻撃を仕掛け・・・これに、不意を突かれた水戸諸生党勢が奮戦する・・・も、戦死者17名、負傷者7名を出してしまいました。・・・尚、水戸を脱走して以来、初めての戦死者達となります。
      ・・・ちなみに、この戦死者達の中には、水戸藩郷士格の者でありながら、敢えて農民兵として参加した者達も居たようであります。(≒自らは隠居して自家の家督を次代の者へと譲り、いわゆる義(勇)民の一人として ≒ このことは、この諸生党勢に限らず、かつての尊皇攘夷派の天狗党勢や、鎮派の大発勢など etc ありましたが)・・・この具体例を挙げますと・・・椎谷及び宮川における戦死者の中には、大目付で地方三百石取りの荻君禄(おぎきみよし?:※通称は昇介)や、大番組で地方二百石取りの磯野以徳(いそのもちのり?:※通称は長兵衛)、城代家老であった鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)の家来衆であった鈴木鉄五郎(すずきてつごろう)のほか2名の者達が居たようです。・・・
      ※ 同年5月7日:「朝廷」が、「水戸藩(水戸徳川家)」に対して・・・“パリ留学中の徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)を、急ぎ帰国させるように”と命じる。・・・朝廷の思惑は?・・・兄の徳川慶喜公などから既に届けられていた御用状を後押しする効果を狙っていたのでしょうか?・・・
      ※ 同年5月9日:“奥羽越列藩同盟軍に属す水戸諸生党勢の筧政布(※通称は助太夫、変名は田村兵衛)率いる一隊100名余り”が、“佐渡ヶ島から二隻の船”に「分乗」して・・・「越後国寺泊町」へ戻る。・・・佐渡ヶ島に滞在中の筧政布ら100名余りは、結果としても軍資金を調達出来ずに、“それまでは佐渡警衛を命じられていた”とのことです・・・が、“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも、変名は芳賀三左衛門)らにより本州に呼び戻された”とするのが自然でしょう。・・・いずれにしても、“この日ようやく、水戸諸生党勢の戦闘態勢が整った”と云えます。・・・
      ※ 同年5月10日:“奥羽越列藩同盟軍に属す水戸諸生党勢”が、「越後国寺泊町」を発ち・・・「出雲崎陣屋」へ「移動」する。・・・
      ※ 同年5月13日:“奥羽越列藩同盟軍に属す水戸諸生党勢”が、「出雲崎陣屋」を発ち・・・“陸奥会津藩兵(※規模は二小隊位か?)と共に”、「越後国灰爪村(現新潟県柏崎市西山町灰爪)」へ「布陣」する。・・・この日の水戸諸生党勢は、椎谷の北東7㎞地点にある灰爪に布陣しました。・・・
      ※ 同年5月14日:“越後国灰爪村や、同与板村(同柏崎市与板)、同市野坪村(現新潟県三島郡出雲崎町市野坪)”において、「奥羽越列藩同盟軍」と「新政府軍」が「交戦」する・・・も、「水戸諸生党勢」は、“翌日に掛けて寺泊や弥彦方面”へ「退却」し始める。・・・この日の新政府軍は、戦略上の最大目標であった長岡藩庁(=長岡城:※現新潟県長岡市大手通1丁目)の攻略を前に、“その側背にある敵を、まず討つべし”として、迅速且つ意表を突く攻撃を仕掛け・・・これに、“不意を突かれた水戸諸生党勢や会津藩兵が敗走した”と云われております・・・が、この日における水戸諸生党勢の損害で、負傷後の死亡や消息不明などを含めた戦死者としては・・・阿部惣太郎(あべそうたろう:※後の10月江戸にて病死とも、元水戸藩中奥番)、飯村広蔵(いいむらこうぞう:※病死か?、元水戸藩用部屋留付列)、石川源次郎(いしかわげんじろう:※元水戸藩郡奉行)、磯野理三郎(いそのりさぶろう:※後の7月25日越後与板で戦死とも、元水戸藩徒士目付)、
      今村喜左衛門(いまむらきざえもん)、岩崎勝次郎(いわさきかつじろう)、岩間善吉(いわまぜんきち)、氏川安三郎(うじかわやすさぶろう)、宇野秀五郎(うのしゅうごろう:※元水戸藩与力)、海野志摩(うみのしま:※元水戸藩神職)、大木藤一郎(おおきとういちろう:※元水戸藩小十人組)、岡崎荘七郎(おかざきそうしちろう:※元水戸藩郡奉行)、奥岩勘介(おくいわかんすけ:※負傷後消息不明)、筧平三郎(かけいへいざぶろう)、片山丑三郎(かたやまうしさぶろう:※元水戸藩小十人組)、加藤幸吉(かとうこうきち)、加藤太郎兵衛(かとうたろうべえ:※負傷後死)、鴨志田孫三郎(かもしだまごさぶろう)、川勝清太郎(かわかつきよたろう:※負傷後死)、君島百平(きみしまももべい?)、木村仙太郎(きむらせんたろう)、草根勤三(くさねごんぞう:※名は勘三とも)、小池兼蔵(こいけかねぞう:※元水戸藩先手同心)、後藤吉兵衛(ごとうきちべえ:※元水戸藩郷士)、後藤粂之助(ごとうくめのすけ:※元水戸藩郷士)、小松崎次郎兵衛(こまつざきじろうべえ:※負傷後死)、佐々末吉(さっさすえきち)、白石熊弥太(しらいしくまやた?)、
      杉田三人(すぎたみつひと?)、杉山七次郎(すぎやましちじろう?:※元水戸藩町方勤)、杉山松之介(すぎやままつのすけ:※元水戸藩徒士目付)、鈴木鉄一郎(すずきてついちろう:※元水戸藩大番組)、鈴木庸之介(すずきようのすけ:※元水戸藩先手同心)、鈴木新五郎(すずきしんごろう:※元水戸藩目付方下役)、鈴木貞蔵(すずきていぞう:※負傷後死)、鈴木半七(すずきはんしち:※名は伴七とも)、鈴木祐蔵(すずきすけぞう)、武寅之介(たけとらのすけ)、千賀惣太郎(せんがそうたう)、高安与衛門(たかやすよえもん:※元水戸藩先手同心)、辻島健蔵(つじしまけんぞう)、橋詰酉松(はしづめとりまつ)、塙富太郎(はなわとみたろう:※元水戸藩与力)、疋田政平(ひきたまさひら)、平戸直藏(ひらどなおぞう:※元水戸藩町方同心)、福田律蔵(ふくだりつぞう:※元水戸藩小十人目付)、堀江荘次郎(ほりえそうじろう)、増子弥平太(ましこやへいた:※元水戸藩郷士)、松尾龜八(まつおかめはち:※元水戸藩目付方下役)、松尾辰蔵(まつおたつぞう:※名は辰三とも、後に会津で戦死とも、元水戸藩徒士目付)、松本富吉(まつもととみきち)、
      宮田三郎介(みやたさぶろうのすけ:※元水戸藩先手同心頭)、宮地蔵介(みやちくらすけ:※負傷後死)、三代造酒之介(みだいづくりさけのすけ?:※変名か?、負傷後死、元水戸藩先手)、谷田部八介(やたべはちすけ:※元水戸藩小納戸役)、弓削左内(ゆげのさない:※元水戸藩使番)・・・の計56名とされ・・・負傷者は・・・伊藤銀蔵(いとうぎんぞう)、岩間醒次郎(いわませいじろう?)、海野捨之介(うみのすてのすけ:※元水戸藩郷医)、海野数馬(うみのかずま)、大内建蔵(おおうちたけぞう)、大森其太郎(おおもりそのたろう)、岡崎藤衛門(おかざきとうえもん)、岡崎大次郎(おかざきだいじろう)、尾羽権次郎(おばけんじろう:※元水戸藩徒士目付)、桑名九三郎(くわなくさぶろう?:※元水戸藩留守列郡方勤)、小薗兼次郎(おぞのかねじろう?)、後藤郡司(ごとうぐんじ)、小西清八(こにしきよはち)、斎藤源太郎(さいとうげんたろう)、斎藤道順(さいとうみちより?)、笹沼醒次郎(ささぬませいじろう?)、澤田源八郎(さわだげんぱちろう)、鈴木四郎太夫(すずきしろうだゆう:※元水戸藩小十人組)、田口準之介(たぐちじゅんのすけ)、
      豊島久兵衛(とよしまきゅべえ)、中村乙三郎(なかむらおとさぶろう)、長山長三郎(ながやまちょうざぶろう)、根本宗衛門(ねもとそうえもん)、橋本小三郎(はしもとこさぶろう:※元水戸藩中間頭列郡方勤)、林又次郎(はやしまたじろう)、平山辰之介(ひらやまたつのすけ)、星左五郎(ほしさごろう)、丸山善次(まるやまよしつぐ:※鈴木重棟の家来衆)、吉村真三郎(よしむらしんざぶろう:※元水戸藩馬廻)
・・・の計29名の名前が伝わっており、これらの中には藩士だけではなく、神官や、郷士、郷医といった農村の有志達も居ました。
      ・・・いずれにしても、この後の水戸諸生党勢は、会津藩兵らと共に闘いながらも各地で敗れて、次々と兵員を失なうこととなります・・・が、この日の灰爪村や、与板村、市野坪村辺りにおける死傷者が、最も多かったようです。・・・
      ※ 同年5月15日:“長州藩と薩摩藩を中心とする新政府軍”が、“上野周辺に集結する彰義隊ら旧幕府軍”へ「宣戦布告」して「交戦状態」に入り・・・“この日の夕方には、勝敗が決する”(=上野戦争)・・・彰義隊ら旧幕府軍の武力殲滅を主張する長州藩士・大村永敏(※元の名字は村田、通称は蔵六、良庵、亮庵、後に益次郎、号は良庵、良安、亮安)は、新政府軍内の慎重論を制して、上野を封鎖するためとして各所に兵を配備し、更には彰義隊の退路を根岸方面に限定するため、神田川や、隅田川、中山道や、日光街道などの交通を分断していました。・・・そこに、新政府軍側から宣戦布告が為されて・・・この日の午前7時頃には、正門の黒門口(広小路周辺)や、側門の団子坂、背面の谷中門で、両軍が衝突したのです。
      ・・・また、“この日の天候は、雨であり、北西の谷中方面では藍染川が増水していた”とのこと。・・・“新政府軍は、新式銃の操作に困惑するなどの不手際があった”ともされます・・・が、加賀金沢藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池(しのばずのいけ)を越え、肥前佐賀藩のアームストロング砲や四斤山砲による砲撃を行ない・・・これに対する彰義隊は、東照宮付近に本営を設置し、山王台から応射。・・・結局、東征大総督府下参謀・西郷吉之助(※後の隆盛、薩摩藩士)が指揮する黒門口からの攻撃が、敵方の防備を打ち破ることとなって・・・彰義隊が、寛永寺の本堂へ退却する・・・も、新政府軍が、団子坂方面から防備を破って、彰義隊本営の背後へ回り込み・・・午後5時頃には、戦闘が終結しました。
      ・・・しかし、彰義隊のほとんどが全滅し、生き残った残党達も根岸方面へ敗走したのです。・・・この戦いの結果、新政府軍は、江戸以西を掌握するに至り・・・敗戦した彰義隊の残党達は、公現入道親王(※北白川宮能久親王とも、最後の輪王寺宮)とともに潜伏して・・・その後には、榎本武揚(※通称は釜次郎、号は梁川、変名は夏木金八〈郎〉)の艦隊に乗船して、平潟港(現茨城県北茨城市)へ寄港します。・・・ここで、彰義隊残党の陸軍部隊や一部隊士は、いわき方面へ・・・残る隊士達は、会津方面へと落ち延びました。・・・こうして、「戊辰戦争」における戦線の一つが、北関東の要塞とされる宇都宮や、旧幕府勢力がほぼ温存されていた東北方面へと移ってゆき・・・やがては、その舞台を更に蝦夷地へと移して、箱館・五稜郭(現北海道函館市五稜郭町)に拠る榎本武揚軍が、新政府軍に降伏する西暦1869年(明治2年)5月18日を以って終息します・・・が、結果としても、旧幕府の本拠地であった江戸が、新政府軍によって平定され、この日に完全に占拠された時点で・・・幕府再興の可能性は、潰えてしまうことになるのです。・・・
      ※ 同年同日:「越後国・長岡藩庁(=長岡城)」が、「新政府軍」によって「陥落」し・・・“奥羽越列藩同盟軍に属す水戸諸生党勢”は、「越後国弥彦村」へと「後退」する。・・・
      ※ 同年同日:“パリ留学中の徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の元”に、“新政府からの帰国命令書”が齎(もたら)されるとともに・・・“別便によって日本からの御用状が届き、再び国内情勢について”が伝えられる。・・・この時の徳川昭武は、数えで16歳。・・・
      ※ 同年5月16日:「旧幕府遣欧使節団」が、“前日齎(もたら)された御用状に、徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の処遇についてが定められていたため”・・・“パリ留学中であった徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の帰国方針について”を、内部的に「決定」する。・・・
      ※ 同年5月17日:“パリ留学中の徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の元”に、“日本からの御用状”が再度届けられる・・・と、“異母兄・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)の水戸入りについてを別便の書状によって知らされた徳川昭武”が、“帰国の意思”を固める。・・・「矢の催促」とは、このようなことを云うのでしようね。・・・兎にも角にも、弟の徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)としては、異母兄・徳川慶喜公の処遇がハッキリと明記されていたため、このように即断したのかと。・・・
      ※ 同年同日:“旧幕府遣欧使節団に同行した栗本鯤(※通称は瀬兵衛、号は鋤雲、旧幕臣)”が、「フランス」から「帰国」する。・・・栗本鯤は、パリ留学中の徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の内意を伝えるためとして、徳川昭武よりも一足先に、この日帰国したのです・・・が、後に新政府から出仕の誘いがあったものの・・・結局は・・・旧幕臣としての忠義を誓い、新政府に仕えることを潔しとせず、“出仕の誘いについてを謝絶して、隠退した”とのこと。・・・
      ※ 同年5月18日:“奥羽越列藩同盟に属す陸奥会津藩”から・・・“脱走兵(=水戸諸生党勢)に対する引渡し要求に関する事実上の拒否回答”が、「水戸藩」へ届けられる。・・・この時の会津藩からは・・・“国情が次第に切迫しているため、他藩の世話などは、とても出来ないので、水戸人に対しては、今後一切の関係を断つこととし、当の市川ら水戸諸生党勢も、このことは承知の上である”・・・との、クールな正式回答。・・・しかし、これにより・・・水戸藩は、再び水戸諸生党勢追討軍を派遣して、北越方面へと向かわせることになり・・・一方の北越地方では、「官軍」を称する新政府軍と、「賊軍」と呼ばれることとなる奥羽越列藩同盟軍との間で、本格的な戦闘が始められ・・・市川ら水戸諸生党勢も、列藩同盟側に属して官軍相手に戦うという構図が明確となったのです。・・・
      ※ 同年5月19日:“維新政府の総裁職を止めていた有栖川宮熾仁親王”が、「江戸鎮台」並びに「会津征伐大総督」となる。・・・
      ※ 同年5月20日:「伊豆守」より、“徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)を早く帰国させよとの書状”が、“パリに居た徳川昭武”へ出される。・・・ここにある「伊豆守」とは・・・水戸藩の家老職などを歴任した白井久胤(※通称は忠左衛門、伊豆守とも)が、既に西暦1865年(慶應元年)に病死し、久胤の子孫も「伊豆守」を称していないことから・・・想像すれば、おそらくは・・・この幕末期に、旧幕府の勘定奉行や、関東郡代、長崎奉行、外国事務総裁などを歴任していた河津祐邦(※伊豆守とも、幕府旗本)のことではなかったか? と、私(筆者)は考えるのですが、間違っているかも知れません。・・・兎にも角にも、“当時の徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)が、「伊豆守」と認識する人物からの書状だった”とのこと。・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩士・内藤正直(※通称は弥大夫、号は耻叟、碧海とも)」が、「自宅」を離れて、「水戸城下」に隠れる。・・・このように、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党と同様の門閥保守派と見做されながら、結果としても諸生党勢と共に行動しなかった水戸藩士は多かったようです。・・・この内藤正直も、その一人でした。・・・内藤正直は、かつての天狗党勢が常陸や下野などを転戦していた際に、これを取り締まる立場にあったことから・・・武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)などの天狗党勢の残党や本圀寺党勢などと見做す尊皇攘夷派藩士達から、反対に報復されるのでは? と考えたようです。・・・
      ※ 同年5月21日:「新政府大総督府」が、「上野戦争」の後に・・・“江戸城西の丸の守衛を約1カ月ほど命じていた武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)らの水戸藩士達”に対して、「帰藩」を許す。・・・武田蓋らの水戸藩士達が、新政府によって約1カ月間を江戸城内に留められ・・・云わば、“自重を促し、且つ温存していた目的”は・・・まさしく朝廷からの勅許命令であって・・・つまりは、水戸藩領内の「除奸反正」を達成させるためだったかと。・・・
      ※ 同年5月22日:“武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)率いる水戸藩士ら150名ほど”が、この日「江戸」を発ち・・・「水戸」へと向かう。・・・いよいよ武田蓋らが水戸へ向けて発つという噂が、当時の江戸で既に拡がっており・・・“これを一目見ようと、大勢の人が群がった”と云います。・・・この様子が、当時の改良主義的な雑誌(※一説には佐幕派の新聞とも)とされる『内外新報』には、下記のように記載されております。(↓↓↓)

      「第一番 丸の内に、水の字白地へ黒く書(き)たる四半の幟壱本
       第二番 不動如山 絹地へ上の五文字を黒く書(き)たる旗壱流
           大砲 三門車台にて

       (中略)
       第五番 金の花菱の馬印壱本
       武田氏ハ馬上にて白毛下りし立烏帽子を著し小具足猩々緋の陣羽織にて麾(=軍を指図するための旗)を腰に差したり
       同舎弟 馬上同断

       (中略)
       右隊中、士分八十人許惣勢百五十人ほどなり、全隊の士白練へ赤地錦襴の襟袖口を付たる陣服を着用す、隊長は立烏帽子を著し、其ノ粧(よそお)ひはなはだ花美なり」

      ※ 同年5月24日:“徳川宗家を相続した田安(徳川)亀之助(※後の徳川家達、田安家の徳川慶頼三男)”が、「新政府」から、“駿河国や、遠江国、陸奥国など計70万石”を賜う。・・・この日ようやく、徳川宗家が江戸の代わりとなる領地を与えられ、一応の静岡藩が立藩されたのです。・・・また、兎にも角にも・・・徳川慶喜が願っていた徳川宗家の存続問題だけは、ようやく領地を伴なう格好で以って保証されたのです。・・・ちなみに、陸奥国領地については、この年の9月4日には三河国へと変更されています。・・・
      ※ 同年5月27日:“パリに居た徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“帰国命令の請書”を記し・・・“これ”を、「フリューリー・エラール」へ託す。・・・ここにある「フリューリー・エラール」とは、フランス人銀行家であり、かつての横須賀造船所建設や、武器調達のためなどの旧幕府による資金調達にも係わっており・・・そして、“旧幕府遣欧使節団の財務面の面倒を見た”とされる人物です。・・・このフリューリー・エラールの人物評については、この時フランスから帰国していた栗本鯤によれば・・・「佛人フロリ・ヘラルト(=フリューリー・エラール)は正直温厚の君子。一行の人皆誉(ほめ)居候。富且倹なる者(=金持ちだが倹約家)。所憾(≒物足りなく感じる事は)気力稍乏」とか・・・「勘定(=経理)等も至て正敷(=正直)一毫の私曲(≒一銭のごまかしなどは)無し。夫故(それゆえ)向山、田邊の仏人嫌にても賞賛不置(≒文句無しに褒めている)」・・・他には・・・
      「生徒輩(≒留学生達が)シャンゼルゼィ(の)旅店(=旅館)引拂之節、和春(=ウジェーヌ・エマニュエル・メルメ・カションのこと:※幕末に来日したフランス人神父。レオン・ロッシュの通訳を務めたが、単なる通訳以上の働きをしていたとも)、貞次郎(=栗本鯤の養子であり留学生の引率係)、フロリ三人にて参り、逆旅(=宿屋)主人え勘定の節、フロリ壱人にて蝋燭(ろうそく)の燼掛け(=燃え残し)薪之焼残一々尽く差引相立(=計算し)、逆旅主人と殆ど喧嘩の如くの弁論にて事定まり候由。和春、貞次郎共不堪して(≒居たたまれずに)席を避け候趣なり 《中略》 仏人の性(≒フランス人の人情)、外奢内倹、御國京師(=わが京都)之人情に能(よく)相似候。此方にても能々気風呑込、思ひ切て倹約相用ひ候得は、却て(かえって)尊信致し金子(きんす)を融通致候」と。・・・栗本鯤は、フランス人の事を、外で贅沢するように見えて、内では質素にする暮らしぶりは京都人に通じるとか、節倹を心掛ければ相手が信用し融資も得られるなどと、フリューリー・エラールを通じてフランス人の人情を良く観察していたのです。
      ・・・これ以外には・・・旧幕府遣欧使節団が、滞在用資金の運用や帰国費用の捻出などにおいて、フリューリー・エラールの世話になったことや・・・新政府が承認した外交官を任命するまでフリューリー・エラールが、旧幕府から「名誉日本総領事」に任命されていたことなどを記した渋沢栄一の滞仏日記もありますが・・・いずれにしても、詳細は不明とされます。・・・しかし、当時の仏国リヨン商工会議所などの要請を受けて、日本産の蚕や山繭蚕(やままゆかいこ)の蚕製品輸入に係わる「フランス動植物馴化協会」という団体の書記として、このフリューリー・エラールの名が記録されており・・・“この「動植物馴化協会」の会長が、駐日仏国公使レオン・ロッシュの後ろ盾とも云うべき仏国外相ドゥルアン・ド・リュイスであったことから、日仏間の蚕や生糸を廻るフランス側の人脈や思惑なども浮かび上がる”とのこと。
      ・・・ちなみに、西暦1867年(慶應3年)3月17日に、徳川昭武が率いる遣欧使節団が、現地のレセップス邸において、「日本薩摩琉球国太守政府」と自称する薩摩藩との対立が表面化したという、“その日の夜”に、この遣欧使節団一行がドゥルアン・ド・リュイス主催のパーティーに招かれたことを、渋沢栄一が以下のように記しているのです。・・・「曇夜九時より故の外国事務大臣ロアンデロイス(=前外相ドゥルアン・ド・リュイス)夜茶の招待に陪す各国のミニストル(=公使)その他親属男女會集し種々の饗應あり。此のロアンデロイスと謂へるは墨西哥(=メキシコ)マキシミリアンの事件につきて退職し此の時議院の官(=元老院議員)にて草木会社(≒動植物馴化協会)の頭取を勤めたり」と。・・・
      ※ 同年5月28日:“武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)率いる水戸藩士ら150名ほど”が、「帰藩」する。・・・“白毛を下げた立烏帽子に猩猩緋の陣羽織という派手な格好の武田蓋の姿に、水戸の人々は驚くと同時に、武田らが江戸において、かつて天狗党と敵対した藩士らを次々に襲い、暗殺したことも城下で広く知れ渡っていたため、人々は城下を進軍する武田らを、恐る恐る眺めていた”とのこと。・・・また、この日・・・武田一族のみならず、天狗党勢に参加した同志家族の悉(ことごと)くが、諸生党によって既に殺害されていたため・・・“武田蓋ら凱旋帰藩した者達”は、絶句するに至り・・・武田蓋らによる壮絶な復讐が始まることとなって・・・当時の水戸の人々が懐いていた恐れが、現実のものになってしまいます。・・・この日から、諸生党への弾圧や粛清は、陰惨を極め・・・“その災禍は、諸生党の縁類のみならず、当時中立派であった者や僧侶、豪農などにも及んだ”とされます。
      ・・・尚、この日の武田蓋らが帰藩する光景を目撃した者から伝え聞いたのか?・・・水戸城下に潜伏中の内藤正直(※通称は弥大夫、号は耻叟、碧海とも、水戸藩士)は・・・「西の国より武田氏同勢帰り来たれりと云ふ、其の行列の厳(いか)めしきは謂はん方無しなど云ふ」・・・と綴っております。つまりは、武田蓋らの尊皇攘夷派集団が水戸へ帰藩するという報せに対して、いくら華美な装いの行列だったとしても、「厳めしき限り」と。・・・しかも、まるで武田蓋らを血に飢えた集団かのように。・・・日々不安を懐きつつ募らしていた内藤の眼には、そう映ったのかも知れません。・・・
      ※ 同年5月30日:“奥羽越列藩同盟軍に属す水戸諸生党勢”が、「越後国与板村」へ「進攻」する。・・・この日の水戸諸生党勢の損害は、負傷者計11名。・・・しかし、このうちの1名は後日死亡しています。・・・

      ※ 同年6月1日:“パリに居た徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”へ向けて、“平岡道弘(ひらおかみちひろ:※通称は丹波守、因幡守とも、旧幕府旗本出身の元安房船形藩主)以下4名”から、“早期帰国の達書(たっしがき)”が出される。・・・“以下4名”の中には、浅野氏祐(※通称は伊賀守、旧幕府旗本出身の元若年寄)なども含まれているかと。・・・これら平岡道弘や浅野氏祐らは、江戸城を新政府側へ明渡す際には、主君の徳川慶喜に従がって上野寛永寺大慈院へと移り・・・同年4月15日に徳川慶喜が水戸に入って謹慎するまでは、慶喜に同行していましたから。・・・いずれにしても、この頃の徳川昭武に対しては、日本国内の各方面から、「早く帰国せよ」との大合唱状態にあった訳ですが・・・。
      ※ 同年同日:“奥羽越列藩同盟軍に属していた水戸諸生党勢”が、「越後国与板村」において、「新政府軍」と「交戦」する。・・・この日の水戸諸生党勢の損害は、重傷者2名。・・・
      ※ 同年6月3日夜:“水戸藩士の内藤正直(※通称は弥大夫、号は耻叟、碧海とも)ら数名”が、「出奔」する。・・・この頃、「除奸反正」を叫んで水戸藩政を奪還し尚も復讐に燃える本圀寺党や尊皇攘夷・鎮派などから、水戸を脱走するなど諸生党寄りと目される人物達が付け狙われることになり・・・“その対象とされた者達は、自身の安全に不安を抱いていた”とのこと。・・・ここにある内藤正直らも、武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)らの水戸藩士達が帰藩したことで、更なる危険性を察していたようです。・・・これらについてを、本人自らの回顧録である『悔慚録』によれば・・・内藤正直が逃亡する直前に、水戸藩内の或る友人が来訪し・・・「既に君も暗殺されるべき一覧に、その名が記載されているため、それから逃れる唯一の手段は、再獄救死(≒自ら獄中へ再び入ることにより、吏卒や牢番から守られること)くらいしかない」と忠告され・・・この時の心境を、内藤自身は・・・
      「余は去る、怯(よわ)き政府の下に居て生を求むることを欲せず、出でや朝敵に加わりて幕府の為に快く討ち死にせんこそ、彼暴人等(≒武田蓋勢らのこと)が凶鋒に掛かりて犬死せんには優りぬべし」と。・・・いずれにしても、出奔計画を決意した内藤正直は、“当時60歳過ぎで壮健であった”と云う自身の実母に、この理由を告げたところ・・・これに、いたく嘆き哀しんで、「どうにかして留り居いて、禍を逃れる工夫はないものか」と、出奔中止を求められますが・・・内藤正直自身が、「母の眼前で殺されるよりは、遠く他国に出奔して戦場に臨み、潔く討ち死にした方が憂悲を減ずることになる」と、切に願ったため、“母も涙ながらに許した”と云います。また、この実母も、常々「常に世に男子を生めるほど憂多きことはなし。若し女子ならんにはかかる憂患はあるまじものを・・・」と言って、“嘆息していた”とも。
      ・・・ちなみに、内藤正直の兄弟3名のうち、兄の美濃部茂定(※名は享とも、通称は又五郎、元水戸藩側用人)は西暦1865年(慶應元年)10月25日に斬刑に処され・・・弟であり先手物頭・鹽津煕(しおづひろい?:※通称は四郎左衛門)も、兄の内藤正直が出奔した後つまりは、この日より7日後の同年6月10日夜に、何者かによって斬殺されてしまうのです・・・が、命からがら水戸を脱出した内藤正直は、那珂川を無事に渡り、待ち合わせていた数名と共に北へと向かい・・・久慈川を渡る際には、そこに番人が居たため、彼らを苦心して欺くことで、ようやく渡ることが出来て、“虎口を逃れた安堵感から、仲間同志で喜び合った”と云います。・・・それからは、常陸国太田村(現茨城県常陸太田市)の某宅にて数夜を明かし、「太田の古城に籠って兵を挙げん」と云い触らしたところ、“予てより内藤らと同心していた輩が数十名集まった”とのこと。・・・そこで内藤は・・・
      「此の城に籠りて同士軍(=いくさ)せんよりは、これより会津城に入りて奥羽の大名に属し、快く戦死せんこそ武士の本意ならん。いざ、これより北へ向って打ち立たん」と云って、同志の者達と出立し・・・“北に向う途中の小中宿辺りで吉野英臣(よしのひでおみ:※元水戸藩馬廻組)ら水戸諸生党の幹部と合流して総勢約60名となる・・・と、やがて陸奥須賀川方面(現福島県須賀川市付近)へ出た処で・・・内藤正直は、“この一隊を吉野英臣へ預けて、陸奥棚倉藩士による案内で単身会津へ落ち延びた”と、後に述懐しているのです。・・・尚、これより後の内藤正直は、「吾母なる人は(中略)余が国を去りて後、行衛(=行方)知れず、如何の禍に罹れるならんと思ひ遣られし心中は如何ばかりなりけん。然るに、余は幸に万死を逃れて、後には天朝の官員たるに至れば、母の老後の悦びは実に意外のことなりし。是、余が幸に生を保ちたる故に大不幸の子たるをも免れたる也」と記しております。
      ・・・ちなみに、“自分一人が会津城へ向かい、会津藩兵とともに白河城を攻撃したり、会津城を守るために軍師的な役割を果たした”と云われる内藤正直ですが、これらを裏付ける会津側の史料は見当たりません。・・・そして、“会津城が落城する直前に城を出た”という内藤正直は、この後は米沢に逃れて、更には仙台へと逃れました・・・が、今度は、“水戸藩の追手が迫っている”との噂を聞き付けることとなり・・・岩手一関の舞草村(現岩手県一関市舞川大平付近)まで足を伸ばし、下駄職人・鈴木留五郎(すずきとめごろう)方にて潜伏すること一年余り。・・・“そこで追手をやり過ごした”と云い、世話になった鈴木家に対しては、この時の内藤正直が、陣羽織を形見として与えて、“これが、今に伝わる”とのこと。
      ・・・また、ここにある吉野英臣は、後に仙台藩を頼り、青根温泉(現宮城県柴田郡川崎町青根温泉)にて潜伏しているところを、欺かれて水戸藩の追手に引渡され・・・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)と同じ西暦1869年(明治2年)4月3日に、水戸郊外の長岡原にて斬刑の後、梟首とされました。・・・
      ※ 同年6月8日:“水戸藩領内”にて・・・“除奸反正の勅書を奉じる武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)など尊皇攘夷派の水戸藩士達”が、“常陸国太田村の豪商など10名”を捕える。・・・“武田蓋など尊皇攘夷派藩士達が標的とする奸賊が、同僚藩士や水戸城下に限らず、藩内全域に及んでいたこと”が分かります。・・・それでも、当時の水戸藩内の様子を、後の尾張徳川家第19代当主・徳川義親(とくがわよしちか)が著わした『きのふの夢』という資料では・・・「市川(三左衛門)等も暴は暴なれども、武田の凶暴は言語道断なりき」・・・と伝えています。・・・このような情勢だったためか? この日以後には、豪商など10名を捕らえられてしまった太田村の役人全員が、水戸藩庁(=水戸城)へ連名による嘆願書を提出するなど、ちょっとした騒動となった模様なのですが・・・この時の嘆願書は、下記の通り。(↓↓↓)・・・

      「乍恐以書付奉願候
       一 去ル八日武田様御人数御繰込之折御召捕と相成候小林彦之進殿始八人之者、種々歎願仕候得共、一円御聞届無之、御城下え御引立に相成候に付、家内子弟は勿論我々共(に)至迄一同恐入候次第に御坐候、猶更外御封印之者共都合拾三軒有之候所、中には其日の渡世を以、経営取続罷在候族数軒有之候得は、於村役人殆心配仕候、依之不忍見奉歎願候、何卒寛大之御仁恵を以、御封印之族御免被下置、御召捕之族村下げ被仰付候様仕度、此段幾重にも奉歎願候以上

       太田村 惣役人 (印)
       慶応四年
        辰六月」


      ・・・この内容についてを、極力要約してしまうと・・・「水戸送りとなった太田村の豪商など10名全員を、寛大なる御仁恵を以って、返して欲しい」・・・と。・・・いずれにしても、この頃「除奸反正」を唱えながら行なわれた武田蓋など尊皇攘夷派藩士達の報復行動が、中間派や鎮派に属していた同僚藩士達からの抗議の声を誘発してしまいます。・・・武田蓋ら以外の藩士からは、彼らの行動が武田らの凶行と目に映ってしまった訳です。・・・実際に、“近藤義太夫(こんどうぎだゆう)や青山勇之助(あおやまゆうのすけ)、久米孝三郎(くめこうざぶろう)ら500名余りが、藩庁へ登城し、武田らの非を訴えている”・・・と、そこへまた、“武田蓋勢が乗り込んだため、藩庁内は騒然となり”・・・“本一町目(ほんいっちょうめ:現茨城県水戸市本町1丁目)にあった武田達の宿からは、残っていた隊員が、更に鉄砲を構えて威嚇した”と。
      ・・・結局は・・・“藩として、武田らの非については認めて、これに武田蓋の謝罪を追加的に求める”・・・も、“当然に武田蓋は応じず仕舞いとなる”のです・・・が、この緊迫する事態に至り・・・それまでは、実家の藩政に口を挿(はさ)まず、ひたすらに藩校・弘道館で謹慎していた徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)が、藩内におけるこのような混乱状況を知らされる・・・と、もはや黙っては居られず、目付・岡田斧五郎(おかだおのごろう)へ、事の調停を依頼します。・・・しかし、この調停を以ってしても、なかなか捗(はかど)らず・・・結局は、“武田蓋側から3名を処刑し、一方の近藤義太夫ら数名を投獄や謹慎処分とさせることで決着した”のです。・・・
      ※ 同年6月10日:“除奸反正の勅書を奉じる武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)など尊皇攘夷派の水戸藩士達”が、「天誅」と称し・・・“藩内”にて「暗殺」を始める。・・・「御用召御達留(ごようめしおたっしとどめ)」という文書では、「十日夜武田勢にて天誅之人」として・・・
      ・・・蘆川友直(あしかわともなお:※通称は市兵衛)や、名越正安(なごしまさやす:※通称は大八郎)、秋山興彦(あきやまおきひこ:※通称は長太郎)、福王忠誨(ふくおうただのり:※通称は忠左衛門)、福王忠勤(ふくおうただとし?:※通称は宗之允)、橋本政徳(はしもとまさのり:※通称は富太郎、茂八郎とも)、津川公誠(つがわきみまさ:※通称は三蔵)、鹽津煕(※通称は四郎左衛門)、信木有恒(のぶきありつね:※通称は縫殿進)、久貝正己(くがいまさき:※通称は十次郎)、岡本忠誠(おかもとただまさ:※通称は勇四郎)、信木矢之介(のぶきやのすけ)、小澤本介(おざわもとすけ)の計13名・・・
      その内、首なしの者が、「蘆川」を始めとする計5名・・・と記録しています。・・・この内の「福王」と「信木」は、それぞれ親子であり・・・鹽津四郎左衛門は内藤正直(※通称は弥大夫、号は耻叟、碧海とも)の弟でした。・・・“いずれも、街中や自宅前で殺害された”としているのです。・・・ちなみに、前述の近藤義太夫らと共に抗議行動を起こした学者・青山勇之助は、藩から謹慎を命じられることとなりました・・・が、藩による処分を不当と反発したのですが、このような身の危険もあって、結局は水戸を脱出してしまいます。・・・この青山勇之助のように、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らの水戸諸生党勢とは別だったとは云え、結果として水戸を出る人々が、この頃増えていたようです。・・・
      ※ 同年6月12日:“奥羽越列藩同盟軍に属す水戸諸生党勢”が、「越後国久田村(現新潟県三島郡出雲崎町久田)」から「方丈山(現新潟県南魚沼郡土樽)方面」へ「進攻」する。・・・この6月に入ると、各史料から水戸諸生党勢の動きを知ることが、非常に分かり難くなっております。・・・この日から後の同月19日に掛けては、伊藤辰之助(いとうたつのすけ)隊の出雲崎近辺における交戦記録などはあります・・・が、この月には奥羽越列藩同盟が、新政府に対抗し得る政権樹立のためとも採れる新たな局面を迎えつつありました。・・・江戸における「上野戦争」から彰義隊残党と共に逃れて、会津へ同月6日に入った公現入道親王(※北白川宮能久親王とも、最後の輪王寺宮)を、“列藩同盟の盟主に担ぎ上げようとする計画があった”のです。・・・
      ※ 同年6月15日:“奥羽越列藩同盟軍に属す水戸諸生党勢の内12名”が、“与板方面を見張っている最中に”・・・“新政府軍の砲弾”により、「負傷」する。・・・
      ※ 同年6月16日:「新政府軍」が、「常陸国平潟村(現茨城県北茨城市平潟町)」へ「上陸」する。・・・「上陸」とありますから、当然に・・・“海路を用いて軍艦などの艦船から”ということであり、且つ・・・江戸無血開城の際に決定されていた徳川慶喜降伏条件に関する第3条目(※前ページ中)にある、「一、武器や軍艦については、新政府が纏めておくとともに、新政府側により寛典の処分が下された後には、これらを徳川宗家側へ差し渡すこと」というのが、深く関連しております。・・・但し、榎本武揚(※通称は釜次郎、号は梁川、変名は夏木金八〈郎〉)の艦隊など一部については、これに応じず・・・新政府軍側から云えば、“既に反乱的行動を起こしていた”ということには成るのでしょうが。・・・
      ※ 同年同日:「奥羽越列藩同盟軍」が、“公現入道親王(※北白川宮能久親王とも、最後の輪王寺宮)を盟主とすること”を「決定」する・・・も、「公現入道親王」は、“軍事担当について”を断る。・・・何とも微妙な・・・。要するに・・・“盟主とされることは了承するも、軍事的な意味合いを持つ旗頭とは成らずに、決して明治天皇に対して刃向かう行為では無い”・・と。・・・「尊皇」という思想や哲学面では・・・結局のところ・・・新政府側も、佐幕派とされる奥羽越列藩同盟側も、大して変わらず・・・ただ奥羽越列藩同盟側としては、武士としての本分や防衛戦争的な意味合いが、より強く・・・。・・・
      ※ 同年6月24日:「新政府軍」が、「陸奥国(磐城国)棚倉城」を「占拠」し・・・「新政府大総督府」が、“常陸宍戸藩主や同松岡藩主ら”に対して、“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢を罰すること”を命じる。・・・この頃、かつて藩主とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)が、常野擾乱にて大発勢を率いて、当時の幕府軍と軍事衝突してしまった責任を負うこととなって、切腹させられており・・・藩の取り潰しに遭っていた宍戸藩は、頼徳の父である松平頼位(※通称は将監、字は子有、号は豊山)によって再相続され、この西暦1868年(慶應4年)2月には新政府よって既に復旧されておりました。・・・
      ・・・また、ここにある松岡藩も、同年1月に新政府の特旨によって立藩され、その初代藩主には、かつて水戸藩の附家老とされていた中山信徴(※通称は与三左衛門)が就任して、いわゆる独立大名となっています。
      ・・・いずれにしても、“水戸諸生党勢の始末についてを、新政府は、水戸藩だけではなく、かつての因縁を引き摺る諸藩に対して、お墨付きを与えた”のです。・・・しかし、ここにある“中山信徴(※通称は与三左衛門)に対しては・・・そもそも、当の市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら諸生党が水戸藩庁(=水戸城)を牛耳っていた頃まで、旧幕命や旧藩命などを軽んじて服すことが無かった”とされますので・・・前途多難ではあったかと。・・・

      ※ 同年7月4日:「出羽久保田藩(=秋田藩)」が、「奥羽越列藩同盟」を「脱退」する。・・・!?!・・・同年6月中旬以降の激戦を経たことで・・・何やら、“風向きが大きく変わりつつあったよう”です。・・・そもそも、久保田藩(=秋田藩)では・・・“江戸時代草創期に旧領地だった常陸から出羽へと転封された頃から、尊皇思想については強く根付いていた筈”であり・・・また内政的に云うと、“平均して4年に一度位の間隔で凶作に見舞われ、藩財政はその都度大打撃を受けて、荒廃してしまう土地が多かった”と云います。
      ・・・そんな状況下、この幕末期に「戊辰戦争」が勃発し・・・当時の久保田藩(=秋田藩)は・・・新政府側から、同年4月6日に庄内征討を・・・同年4月27日には、会津征討の命令を、出羽亀田藩や、同本荘藩、同矢島藩、同新庄藩、陸奥津軽藩(=弘前藩)などと共に受けており・・・同年閏4月9日には、奥羽鎮撫使副総督・澤為量(さわためかず:※公卿)から庄内征討への出発の遅れを責められながら、由利地方や新庄藩領内へ兵を集結し庄内藩を攻めようとしたものの・・・“当事者の庄内藩が討伐対象とされる経緯に対して疑問を持ち、薩摩藩による私怨と考える兵士達も多かったため、そもそもとして兵士達の士気が奮わず”・・・一方の庄内藩は、由利地区へ攻勢に出た新政府側連合軍に対して、いち早く察知し同年閏4月20日に反撃を仕掛けたのです。・・・このため、“久保田藩(=秋田藩)を核としていた新政府側連合軍が、総崩れとなり”・・・その後の陸奥仙台藩による「白石列藩会議」への呼び掛けによって、“この時の連合軍は、なし崩し的に解散になった”とのこと。
      ・・・そして、この頃に奥羽鎮撫隊の命令を受けて兵を集めていた仙台藩と出羽米沢藩が、反対に会津藩への支持を表明する・・・と、「白石列藩会議」には、久保田藩(=秋田藩)家老・戸村義效(とむらよしかた:※通称は十太夫)が出席して、同年閏4月11日の奥羽越列藩同盟調印に至った訳です・・・が、同年5月になると、この澤為量(※公卿)が新政府軍の薩摩や、長州、肥前佐賀の藩兵らと共に、久保田藩(=秋田藩)領へ撤退することになり・・・この際の久保田藩は、その後にも続々とやって来るであろう新政府軍を賄い切れずに、陸奥津軽藩(=弘前藩)へ追い払おうとするのです。・・・しかし、澤為量(※公卿)らの目的地としていた当の弘前藩から、入藩を拒否されて、失敗に終わります。
      ・・・そのため、結果的に云うと・・・久保田藩(=秋田藩)領内に、新政府軍・奥羽鎮撫隊の全ての部隊が揃うことになってしまい、奥羽越列藩同盟に属す諸藩から攻撃された周辺諸藩の藩主や、藩士達、西国からの援軍の賄い全てを、久保田藩(=秋田藩)のみが負担することになっていたため・・・軍事費や駐屯経費などの財政面でも、更に藩の台所事情を締め上げることになったのです。・・・このような状況下の久保田藩庁(=久保田城)では、勤皇・新政府側支持派と佐幕・奥羽越列藩同盟派とが、必然的に激しく争うこととなります。・・・しかし、結局は・・・第12代藩主・佐竹義堯(さたけよしたか)が、奥羽越列藩同盟軍や藩内若手の勤皇・新政府側支持派達双方による意見を調整し・・・それらを受け容れる格好で裁断を行なって、“この日ようやく奥羽越列藩同盟離脱を決定した”のです。
      ・・・この日の決定により・・・新政府軍が、陸奥磐城の平藩庁(=平城:※現福島県いわき市平)や、三春藩庁城(=三春城:※現福島県田村郡三春町大町)、二本松藩庁(=二本松城:※現福島県二本松市郭内)などを陥落させる・・・と、奥羽越列藩同盟軍の敗色が、次第に濃厚となってゆくのですが・・・。・・・新政府は、奥羽鎮撫総督府の下参謀・大山綱良(おおやまつなよし:※通称は正圓、角右衛門、格之助とも、薩摩藩士)の命令によって、仙台藩から久保田藩(=秋田藩)への使節とされていた志茂又左衛門(しもまたざえもん)以下11名を殺害すると、久保田城下にて晒し首とし・・・このことが、仙台藩を更に怒らせて、「秋田戦争」が始められることに。・・・
      ・・・こうして、久保田藩(=秋田藩)領内は、他の奥羽越列藩同盟軍を敵と定めたために、領地の2/3に及ぶ広範囲が、戦火に晒されることとなり・・・戦後に新政府から与えられた賞典も、実際の戦費や戦災に全く見合わない程の少額に過ぎず、借財に耐え兼ねていた久保田藩(=秋田藩)は、加護山製錬所(現秋田県能代市二ツ井町)における貨幣鋳造によって難局を凌(しの)ごうとしました。
      ・・・しかし、西暦1869年(明治2年)5月に、新政府が各藩独自の藩札発行や貨幣鋳造を禁止する・・・と、依然として経済的に困窮する久保田藩(=秋田藩)は、“禁止以後も致し方なく密造を続けていた”とのこと。・・・
      ※ 同年同日:“奥羽越列藩同盟軍に属す水戸諸生党勢”が、“陸奥会津藩の重臣・佐川勝(※名は清直とも、通称は官兵衛)が率いる朱雀四番士中隊や清龍三番士中隊と共に、越後国の地蔵堂宿(現新潟県燕市地蔵堂本町)を出発して、与板北方の岩方村(同県長岡市与板町岩方)から山に入って、与板陣屋(※与板城とも、同市与板町与板甲)に連なる山間部へ胸壁を築く”・・と、“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)隊約120名は、堤防以西を守り”・・・“朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)隊約100名は、鷹ケ嶺以西の守り”・・・“筧政布(※通称は助太夫)隊約80名は、近くを流れる信濃川の堤防胸壁守備”・・・に就く。・・・当時の水戸諸生党勢や会津藩兵が、与板陣屋を胸壁を築いて取り囲んだ理由は・・・与板藩主・井伊直安(いいなおやす)が、この「戊辰戦争」において、早々に新政府側へ付いた宗家・近江彦根藩に倣って恭順したためです。・・・これにより、奥羽越列藩同盟軍は、与板藩のことを、“勤皇・新政府側の与板藩として認識する”に至ります。・・・
      ※ 同年7月13日:“越後国寺泊と同国出雲崎の中間辺りに位置する馬頭見張台”において、“奥羽越列藩同盟軍に属していた水戸諸生党勢15名”が、「戦死」する。・・・同年6月中旬頃から、“この付近では連日のように激しい戦闘が繰り広げられていた”のでした。・・・
      ※ 同年7月17日:「明治天皇」が、「詔勅」を発し・・・“天皇自らが江戸で政務を執ること”を「宣言」した上で、「江戸」を「東京」と「改称」する。・・・この詔勅の正式名称は、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。・・・これについては、概ね以下の通り。(↓↓↓)・・・

      《江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書》
      「
(原文)朕今萬機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東國第一ノ大鎭四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ稱シテ東京トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ體セヨ」
      (現代語訳)「私(※明治天皇のこと)は、今まさに政治へ自らの裁決を下すこととなり、億兆とも云われる全てを安んじ、(また、それらを)労(いた)わっている。江戸は、東国第一の大都市であり、また四方から人や物が集まる場所であるから、当然に私自らがその政治を視るべきである。因って、以後は江戸を東京と称することとする。是は、私が国家の東西を同一視するためである。全ての国民は、この意向を(くみ取り)体現しなさい。」

      ※ 同年7月18日:“パリに居た徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の元”に、“日本の栗本鯤(※通称は瀬兵衛、号は鋤雲、旧幕臣)”から、“上野戦争において彰義隊が敗北したという報”が届く。・・・彰義隊が敗北したのが、同年5月15日のことですので、パリの徳川昭武へ報せが届けられるまで、約2カ月を要していた訳です。・・・
      ※ 同年7月19日夕:“これまで水戸藩校・弘道館で謹慎していた徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)”が、“駿府へ自ら移住したいとの旨”を、「新政府大総督府」へ「請願」する・・・と、“この請願”が許されて、この日「水戸」を「出立」する。・・・“徳川慶喜が水戸を去る”という決心をした理由については・・・“この頃の奥羽地方が戦乱の様相となり、その入口付近に位置する水戸に居たのでは、再びその渦中に巻き込まれる恐れがあったため、結果としても新政府に対する恭順の意を、示し続ける障害となりかねなかったから”・・・と云います。・・・いずれにしても、徳川慶喜公としては、水戸から駿府・宝台院(現静岡県静岡市葵区常磐町2丁目)へと移り、再び謹慎生活を続け・・・この後の政局や時局については一切語ることは無く・・・「人の世事を談ずるをも避けて、一向言動を抑遜」・・・していたとのこと。
      ・・・“かつては将軍とされていた自分が、世事に対して口にすれば、否応無く政治的な波紋が生じることとなり、朝廷や新政府から、あらぬ嫌疑などを被(こうむ)るかも知れない”・・・きっと、そう考えた慶喜公は、徳川宗家や実家の水戸藩(水戸徳川家)安泰のためとして、様々な想念を自らの胸の内へしまい込み・・・残りの人生については、狩猟や、絵画、写真撮影などの趣味人として生き抜くことで、“当時の権力や政治に対しては沈黙に徹することにしていた”のかも知れません。・・・この時の徳川慶喜は、数えで32歳。・・・
      ※ 同年7月20日:“パリに居た徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の元”に、“日本の有栖川宮熾仁親王”から、“事実上の帰国命令となる御用状”が届けられる。・・・ちなみに、前述のように・・・この頃の有栖川宮熾仁親王の肩書きは、同年閏4月21日に「維新政府総裁職」を止め・・・同年5月19日には「江戸鎮台・会津征伐大総督」となっております。・・・尚、この時の徳川昭武は、数えで16歳。
      ※ 同年7月22日:“パリに居た徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)へのフランス語教育”が「中止」される。・・・この時の徳川昭武としては・・・“近代の西洋文明を吸収するため、期限ギリギリまで、それこそ粘っていた”と考えられます。・・・
      ※ 同年7月24日:「奥羽越列藩同盟軍」によって、「越後国・長岡藩庁(=長岡城)」が、「奪還」される。・・・“地方における戦局は、一進一退と云った状況でした”・・・が、再び・・・
      ※ 同年同日夕:“パリに居た徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の元”に、“前駐日・仏国公使のレオン・ロッシュや、フランス人銀行家のフリューリー・エラール、仏国陸軍のレオポルド・ヴィレット大佐”が、「来訪」する・・・と、「徳川昭武」が、“自身の帰国が決した旨”を、“彼ら”へ伝えた。・・・尚、この日の夜には、“仏国帝国郵船・副支配人のジャック・クーレー”も「来訪」する。・・・これら4名のフランス人達の中で、レオン・ロッシュとフリューリー・エラールについては、前述しておりますので、ここでは割愛させて頂きまして・・・これらの次にある「レオポルド・ヴィレット大佐」は・・・そもそもは、フランス側が徳川昭武の教育係として推薦した人物であり、パリ万国博覧会への参加や、昭武のパリ留学を目的としていた遣欧使節団の日本人達から、“陸軍大佐”を意味する「コロネル」のニックネームで呼ばれていたとのこと。・・・そして、この「コロネル」のことを、栗本鯤は・・・
      「コロ子ル(=ヴィレット大佐)、樸直軽忽(≒気性は真っ直ぐだが、早とちり気味)にて、乍(=直ぐに)怒(り)て乍(=直ぐに)笑(う)。蓋し之(これ)は武官の常にして可愛(≒憎めない)」・・・と書き遺しているように、性格は裏表のない軍人だったようです。
      ・・・次に、「ジャック・クーレー」ですが・・・彼自身は、仏国帝国郵船の創設者であり・・・遣欧使節団がフランスに到着する一カ月前まで、農商務・公共土木事業担当大臣であったアルマン・ベイックの甥。仏国陸軍大臣を務めて旧幕府の武器調達などに関わりのあったJ. L. ランドン将軍の従兄弟でもあります。・・・このクーレー自身は、この年の・・・西暦1865年(慶應元年)5月には、日仏商社計画や、軍事顧問団の派遣、兵器輸出などの事業のために派遣されて来日しており・・・当然として、“日本国内においても銀行業に関わっていた”と考えられます。・・・そして、クーレー来日から四カ月後の同年9月には、アジア航路を日本まで延ばした仏国帝国郵船・定期客船デュプレックス号が橫浜へ入港しています。
      ・・・また、このクーレーについては、栗本鯤の書簡によれば・・・「クーレイ(=クーレー)は略も可也有之(≒結構策略を弄し)気力も頻盛なれば前(の)三人を籠絡して一言もなく驅役(=駆使)せり。故に此者と談ずれば余程面白く御坐候。乍去(=とは云え)此方にても随分気を取締りて交(=交際)不申候ては軽侮を招可申と中々骨折れ申候。此人、甚だ子供を愛する癖(=性癖)あり。日、木(の)両曜日には必己の子を連れ生徒不残(=決まって自分の子と留学生全員)引連(れ)、蔟々擁行(=皆で手を繋ぎ)所々見物遊歩致候。黄人十輩餘(=肌の黄色い十数人)、ぞろぞろと連行之事故(=連れだって歩いているので)、途中人立致し(=人が集まって来て)、“シノワシノワ(=中国人中国人)”、“ジャッポンジャッポン(=日本人日本人)”と喧呼取圍候得共更に意と不致(≒囃し立てて取り囲んでも一向に意に介さない)」と。・・・ちなみに、仏国帝国郵船は、この約3年後のフランス帝政廃止(※西暦1871年のこと)によって、その名称をフランス郵船会社に変更しています。・・・
      ※ 同年7月25日:“奥羽越列藩同盟軍に属す水戸諸生党勢の筧政布(※通称は助太夫)隊”が、“陸奥会津藩兵らと共に、越後国元与板村(現新潟県長岡市与板町元与板)の新政府軍陣地”を「攻撃」する。・・・
      ※ 同年7月28日:“奥羽越列藩同盟軍に属す水戸諸生党勢の市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)隊と朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)の二隊”が、“陸奥会津藩兵らと共に、与板陣屋(※与板城とも)”を「攻撃」する。・・・
      ※ 同年同日:“それまで奥羽越列藩同盟軍に属していた越後新発田藩”が、「新政府軍」に寝返る。・・・それまでの新発田藩兵の行動については、“領民の蜂起などもあって、奥羽越列藩同盟軍としての働きが徹底されていなかった”という状況であり・・・これに憤った他の奥羽越列藩同盟側が、新発田藩庁(=新発田城)へ威圧する意味で、兵を向け・・・新発田藩主・溝口直正(みぞぐちなおまさ)を、越後国下関村(現新潟県岩船郡関川村下関)に設営されていた出羽米沢藩の本営へ呼び出して人質に取ろうとする・・・も、これもまた、領民の蜂起に見舞われることとなって・・・結果として、新発田藩主の下関訪問が阻止されてしまったのです。
      ・・・この期間中の新発田藩は、奥羽越列藩同盟側の出兵要求を受ける格好で、自藩兵を就けることとなり・・・新発田藩庁(=新発田城)への攻撃は回避されていたのです・・・が、この年の7月に入ると、新政府軍が軍艦を用いて、新発田藩領内に上陸を開始し・・・新発田藩主・溝口直正が、家老らとともに新政府軍の軍艦に同乗して、越後国柏崎の新政府軍本営に至り・・・当時の征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王(※小松宮彰仁親王、総督宮とも)に拝謁し、越後国蒲原郡三条(現新潟県三条市元町)まで供奉することとなって・・・それ以後の新発田藩兵は、一転し新政府軍として行動することとなるのです。・・・そして、これには・・・同月4日に出羽久保田藩(=秋田藩)が既に奥羽越列藩同盟を脱退していた事も、少なからず影響を及ぼしているかと。・・・ちなみに、この戊辰戦争終結後の新発田藩庁(=新発田城)には、“総督府本営が置かれて、新発田藩兵が各地の警衛に当たった”とのこと。・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩」では・・・“若年寄・武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)を先鋒隊長とする一団”と・・・“陣将に山口正定(※通称は徳之進)を、軍司に長谷川允迪(※名は後に清とも、通称は作十郎、号は艮山、青水とも、藩校・弘道館の元舎長)を、衝撃隊長に岡田留蔵(おかだりゅうぞう:※北辰一刀流玄武館門人、元大発勢参加者)を、先鋒隊長に川又松太郎(かわまたまつたろう)及び久方彦介(ひさかたひこすけ:※元大発勢参加者)を、遊撃隊長に小池千太郎(こいけせんたろう:※元大発勢参加者)を、新募隊長に鳥居沖之允(とりいおきのじょう)を、遊軍隊長に酒泉金三郎(さかいずみきんざぶろう:※元大発勢参加者)とする一団”の・・・“都合二団から成る第2次水戸諸生党勢追討軍の総勢約1,000名”が、「編成」され・・・それらが、この日「北越方面」に向かって、「出発」する。
      ・・・このことを、敢えて逆説的に考えれば・・・当時の水戸藩としては・・・藩内にて「除奸反正」を過激に進める武田蓋らの厄介者を、わざわざ昇進させて、それなりに体裁を整えた上で、藩領内から程良く追い出したのではないか? とも考えられる訳です。近親者の仇討ちを口実として。・・・
      ※ 同年7月29日:「越後国・長岡藩庁(=長岡城)」が、「新政府軍」により、再び「陥落」させられる。・・・またしても・・・
      ※ 同年7月内:“写真師(≒写真家)の鈴木真一(すずきしんいち)”が、“徳川慶喜付き小姓”を「撮影」する。(※『日本写真史年表』より)・・・ここにある「鈴木真一」とは、横浜にて日本最初期の写真家・画家とされる下岡蓮杖(しもおかれんじょう:※通称は久之助)に師事した人物であり・・・自身の十数年に亘る写真術研究の末に、陶磁器へ写真を焼き付けるという高度な技術を開発した人でもあります。・・・

・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】