街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 同西暦1864年(元治元年)4月2日のこととして:“元治甲子の乱(≒天狗党の乱、筑波山挙兵事件)が起こったため”・・・“幕府閣僚らが、宸翰(しんかん:※天皇自筆の文書のこと)が無謀な攘夷を戒めていること”を「根拠」として、“幕府内における水戸派或いは一橋派勢力からの圧力を斥(しりぞ)けようと図り、朝廷に対する周旋を強化”しつつ・・・「老中・牧野忠恭(まきのただゆき:※越後長岡藩主)」が、“筑波勢の討伐及び事態を沈静化させるため”として、「水戸藩」に対して「筑波勢取締り」を命じる。・・・更には、“当時老中職を罷免されていた小笠原長行(おがさわらながゆき:※肥前唐津藩の世嗣)に対して、小笠原の幕閣への復帰を求める”も・・・これについては、“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)や、幕府の政事総裁職・松平直克(まつだいらなおかつ:※武蔵川越藩主)らの反対により果たせず”といった「状況」となる。
      ・・・尚、“江戸市中において、食用や照明用とされていた菜種油が欠乏し始めた”ため、「幕府」が“関東八カ国に対して江戸へ油の回送”を命じる。
・・・江戸で菜種油が欠乏し始めた理由は、度重なる異国船来航による影響のため、当時の流通機構が麻痺してしまったためです。きっと、江戸市中の人々による買い込みや店側の売り渋りなどもあったでしょう。・・・これに加えて、前月27日には筑波山挙兵が起こったことも、大江戸に直ぐ伝わっていた筈であり・・・まさに現代版オイル・ショックが起きてしまった模様を伝えているかと。
      ※ 同年4月3日:「幕府老中・牧野忠恭(※越後長岡藩主)」が、“下野宇都宮藩と上野館林藩に日光東照宮の厳重警備を命じる”・・・とともに、“水戸藩ほか関東及び東北の28藩に対しては、筑波勢の取締り”を命じる。・・・関東及び東北の28藩については、以下の通り。(↓↓↓)

      《老中・牧野忠恭(※越後長岡藩主)から筑波勢取締りを命じられた28藩》
       【常州すなわち常陸国】
土浦藩、笠間藩、志筑藩、麻生藩、下館藩、下妻藩、茂木藩、谷田部藩
       【野州すなわち下野国】佐野藩、吹上藩、喜連川藩、太田原藩、壬生藩、足利藩、黒羽藩、烏山藩
       【総州すなわち下総国】小見川藩、結城藩、多古藩、古河藩、佐倉藩、高國藩、生實藩
       【奥州すなわち陸奥国】福島藩、三春藩、湯長谷藩
       【上州すなわち上野国】高崎藩、安中藩

      ※ 同年同日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「水戸藩家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)」へ、“自身が禁裏御守衛総督と摂海防禦指揮を兼務したことを報せる”・・・とともに、“武田自らが兵を率いて上京し、自身を助けること”を「依頼」する。・・・御三卿とされる一橋家は、そもそもとして・・・独立した「家」ではなく、「将軍家(徳川宗家)の家族」として認識されていたため、固有の家人や家臣団を持ちませんでした。・・・“幕府旗本や出身家からの云わば、付け人がいただけだった”と考えられますので、このような依頼内容になったかと。・・・尚、朝廷からは新設された役職を2つも与えられていた一橋慶喜公でした・・・が、幕府としては、この役職就任についてを追認する格好であった訳であり・・・“慶喜公自身の手足の如くに動くこととなる直属の配下達を、どうにも手配出来なかった状況など”も窺えます。・・・やはり、頼みの綱は、実家の水戸徳川家であったかと。
      ・・・尚、この時点ではまだ、筑波勢挙兵の事実については、触れられておりません。・・・当然に、“水戸藩家老・武田正生から一橋慶喜公へは、何らかの一報が届けられていた”とは考えられますが。
      ※ 同年同日:「筑波勢」が、「筑波山」を下りて、「下野国日光(現栃木県日光市)」へ進む。・・・この日は、「沼田」、「大島」、「海老ケ島」を経て、「常陸国小栗村(現茨城県筑西市小栗)」に泊まる。・・・尚、この日に“筑波勢の第1次編成”が決まる。・・・「筑波勢」と呼ばれる彼らは・・・同年3月27日の旗揚げから数日間を筑波山で過ごしていた訳です。・・・このことからも、当時の人々が志(こころざし)や目的などを一致させて武装集団化する際には、各人一人一人の資質や能力などを考慮し、適切な人材を〇番隊の隊長に据えるなど・・・“軍事的且つ外交交渉に役立つ部隊編成が為されていた”と視るべきでしょうか?
      ※ 同年4月4日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「附家老・中山信徴(なかやまのぶあき:※通称は与三左衛門)」及び「家老・興津良能(おきつながよし:※通称は蔵人)」を、「幕府老中・板倉勝静(いたくらかつきよ:※備中松山藩主)」へ遣わして、“(横浜)鎖港の幕議決定の要”を説かせる。・・・この頃の水戸藩では、尊皇攘夷の達成を目指しながらも・・・急激な変化を必ずしも良しとしない勢力(=鎮派)や、あくまでも少数派の勢力だった改革急進・密勅返納反対派(=激派)が、藩政を主導していたため・・・藩主・徳川慶篤としては、幕府が横浜鎖港を実行しない限り、筑波山に立て篭る挙兵勢力の鎮撫については、(彼らの主張を、幕府がある程度認めなければ)到底出来ないと主張した訳です。・・・
      ※ 同年同日:「筑波勢」が、「常陸国小栗村」を発ち、「谷貝(やがい)」を経て「鬼怒川」を渡る。・・・この日は、「下野国」の「石橋宿(現栃木県下野市石橋)」に泊まる。
      ※ 同年4月5日:“この日の昼過ぎ頃、下野石橋宿を発った筑波勢”が、「宇都宮宿(現栃木県宇都宮市の中心市街地から中西部地域付近)」に至り、「傳馬町(現栃木県宇都宮市傳馬町)」の「本陣」に入る。・・・尚、ここで、“下総や下野付近の浪士や義民達”が多く参加する。
・・・下総及び下野付近の浪士や義民達が、筑波勢に多く参加していたという背景には・・・幕末期、特に黒船来航以来続いていた・・・北関東における困窮状態の農村集落や、疲弊化の一途を辿る地元経済・・・更には「水戸学」を主軸とする思想や哲学の浸透など・・・が、互いに混じり合う状況があったかに想えます。・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)」及び「家老・興津良能(※通称は蔵人)」が、“幕府老中・板倉勝静(※備中松山藩主)の求め”により、「江戸城」へ「登城」すると・・・この時、「板倉勝静」から“前議を復し、且つ水戸藩家士を上京させ、これを朝廷と幕府に建言(けんげん:※申し立てること)すべき”と告げられたため・・・「藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「藩士・長谷川允迪(※名は後に清とも、通称は作十郎、号は艮山、青水とも、藩校・弘道館の元舎長)」に対して、「上京」を命じる。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩士の金子久維(かねこひさお:※通称は勇二郎、字は公廉、変名は西村久介、桜田門外の変に関与した金子教孝の次男)と川瀬知新(かわせともちか:※通称は専蔵、表右筆)”が、「江戸」において、“下野宇都宮藩家老・鳥居小八郎(とりいこはちろう)ら”と会い・・・“水戸藩士らが動揺している状況を報せ、もし筑波勢が暴発して宇都宮城下に至った際には、直ちに通報するとともに穏便に措置願いたい”と求める。・・・

      ・・・そして、筑波勢は当初、徳川家康を祀った聖地である日光東照宮へ攘夷を祈願し、その実行のために軍事行動を起こす予定でしたが・・・

      ※ 同年4月6日:“筑波勢の藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)と齋藤佐次右衛門(さいとうさじえもん:※元水戸藩市中取締役人)”が、「宇都宮藩庁(=宇都宮城:現栃木県宇都宮市本丸町)」を「訪問」し・・・「藩校修道館」にて、「家老・縣六石(あがたりくせき:※県勇記とも)」や、「戸田三左衛門(とださんざえもん:※戸田公平とも)」、「安形半兵衛(あがたはんべえ)」と「会談」する。・・・そして、“筑波勢が攘夷決行のため挙兵した経緯を述べ、日光東照宮の廟前に誓願しようとする意向を告げる”・・・とともに、“下野宇都宮藩が筑波勢に協力するよう”に「要請」し、且つ“日光占拠への理解”を求める。
      ※ 同年4月7日:“筑波勢の齋藤佐次右衛門(※元水戸藩市中取締役人)ら”が、“下野宇都宮藩家老・縣六石(※県勇記とも)らと再度会談”し・・・その後に「筑波勢」が、「宇都宮」を発って「日光」へと向かう。
・・・しかし・・・
      ※ 同年同日:「下野宇都宮藩」が、「日光奉行・小倉〈但馬守〉正義(おぐら〈たじまのかみ〉まさよし)」へ向けて「早馬」を出して・・・“筑波勢が日光占拠のために向かっていること”を報じる。
      ※ 同年4月8日:“将軍・徳川家茂が上洛していたため江戸の留守を預かる老中の板倉勝静(※備中松山藩主)と井上正直(いのうえまさなお:※遠江浜松藩主)、牧野忠恭(※越後長岡藩主)”が、「連署」して・・・“水戸浪士が筑波山に集結した事”を、“在京中の政事総裁職・松平直克(※武蔵川越藩主)や、老中・酒井忠績(さかいただしげ:※播磨姫路藩主)、水野忠精(みずのただきよ:※出羽山形藩主)”へ報じる。
・・・
      ※ 同年同日:“田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)率いる筑波勢”が、「徳次郎駅(とくじらのうまや:※現栃木県宇都宮市徳次郎町)」と「今市宿(現栃木県日光市今市)」に「分宿」する。
      ※ 同年4月9日:「朝廷」が、“非常の際には宮や摂関家、堂上公家(※上級貴族のこと)は禁裏の建春門(けんしゅんもん)から、諸藩主は宜秋門(ぎしゅうもん)より参内させる”こととし・・・“九門外警守の部署を定めて、禁裏南門を水戸藩、紀伊藩、伊予松山藩に警守させる旨”を令す。
・・・このように・・・時の朝廷としては、水戸藩や紀伊藩など徳川幕藩体制における御三家や親藩を頼りとして、禁裏を警守させようとしていた訳です。・・・
      ※ 同年同日:“筑波勢の藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)ら12名”が、「日光東照宮」を「参拝」する。・・・そして、“主将の田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)や藤田信らが、尊皇攘夷の大義に依って奮起したことを明らかにする”とともに・・・「檄文(げきぶん)」を「各地」へ飛ばして、「同志の徒」を募るなど、“その党の編成について”を改める。・・・この時の筑波勢が、自らを“党”とし、いわゆる「天狗党」として自称するようになったと。・・・ちなみに、“この天狗党こと筑波勢”は・・・そもそも急進的な尊皇攘夷思想を共有していました・・・が、日光東照宮への攘夷祈願時の檄文には・・・「上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼し、神州の威稜万国に輝き候様致し度」・・・と記すなど、表面的には敬幕を掲げており・・・“攘夷実行については、あくまでも東照宮(※徳川家康のこと)の遺訓である”・・・としておりました。
      ※ 同年4月10日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、“元藩士の田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)や藤田信(※通称は小四郎、藤田彪の四男)らの徒(=筑波勢)を鎮撫せん”・・・と、“藩士の美濃部茂定(みのべしげさだ:※名は享とも、通称は又五郎、側用人)や、立原韻(たちはらひびき:※通称は朴次郎、号は祐堂、徒士頭、彰考館総裁の立原翠軒の孫)、山国共昌(やまぐにともまさ:※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄、目付役)ら”を、「下野国宇都宮」へ「派遣」する。・・・“立原韻の祖父に当たる立原翠軒(たちはらすいけん:※名は万、通称は甚五郎、別号は東里や此君堂とも)”とは・・・2代藩主・徳川光圀(※義公)が水戸藩の事業とした『大日本史』の校訂に努め、水戸藩政にも尽力していた人物です。著書には、『海防集説(かいぼうしゅうせつ)』、『西山遺聞(せいざんいぶん)』、『此君堂文集(しくんどうぶんしゅう)』、『新安手簡(しんあんしゅかん)』などがあり。
      ※ 同年同日:“筑波勢の岩谷敬一郎(※元玉造郷校館長、元潮来郷校館長)や、竹内延秀(※通称は百太郎、変名は竹中万次郎、元水戸藩士)、齋藤佐次右衛門(※元水戸藩市中取締役人)ら37名”が、「日光東照宮」を「参拝」する・・・と、「藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)」が、更に“各地へ向けた檄文”を認(したた)め・・・“田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)、藤田信、岩谷敬一郎、竹内延秀の連名による檄文”を・・・「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川斉昭の五男)」及び「備前岡山藩主・池田茂政(いけだしげまさ:※徳川斉昭の九男)」のみならず・・・「幕府老中・板倉勝静(※備中松山藩主)」に対しても、“この檄文”を送る。・・・池田慶徳公と池田茂政公へ檄文を送った理由は・・・“彼らが、水戸徳川家出身者だったため、筑波山挙兵及び日光東照宮参拝の事実を知らせるとともに、筑波勢の行動に賛同して貰い、且つ西国でも攘夷の実行を促す狙いがあった”かと。
      ・・・老中・板倉勝静へ送った理由は・・・これこそ、「武士(達)の一分(いちぶん)」・・・つまりは、“大義名分を明らかにし、自らの挙兵事実を知らせるため”であったかと。・・・尚、この時点では・・・当時の幕閣の中で、板倉勝静ぐらいは・・・“筑波勢挙兵の事実に理解を示し、この騒動そのものを利用するなどして”・・・“横浜鎖港など幕府による対外政策変更の契機にして欲しい”との期待感も含まれております。・・・
      ※ 同年4月11日:“日光奉行・小倉〈但馬守〉正義からの通報を受けた近隣諸藩”が、「筑波勢」に向けて「出兵」する。・・・これにより、“日光占拠を諦めざるを得なくなった筑波勢は、日光を発って、太平山(おおひらさん:現栃木県栃木市平井町)へと向かう”こととなり・・・この日は「今市宿」と「鹿沼宿(現栃木県鹿沼市)」に「分宿」する。・・・さすがに・・・筑波勢を率いる田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)や、藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)などの首脳陣は・・・これぐらいの騒動となることは、予測していた筈。きっと想定事項だったのでしょう。
      ※ 同年同日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、この日「江戸」に戻る。・・・そして、“攘夷の幕議が決せぬ限り、筑波山に屯集した徒(=筑波勢)を鎮撫し難き事”を、「奥右筆頭・野村鼎実(※通称は彝之介、号は清籟舎、箕水とも)」から、「幕府」に対して重ねて述べさせる。・・・当時の筑波勢にしてみれば、“この時の藩主・徳川慶篤の行動が、まさに援護射撃になった”とは想いますが・・・これについては・・・水戸藩(水戸徳川家)と幕府との間で行なわれた・・・“正当性のぶつけ合い”、或いは“責任所在についての擦り付け合い”など・・・と観る向きもありますね。・・・尚、水戸藩主・徳川慶篤公の江戸帰還には・・・時の将軍家から、水戸藩(水戸徳川家)の附家老職を世襲していた中山信徴も同行しております。
      ※ 同年4月12日:「筑波勢」が、「金崎宿(現栃木県栃木市西方町金崎)」に泊まる。
      ※ 同年4月13日:“水戸藩の美濃部茂定(※名は享とも、通称は又五郎、側用人)と立原韻(※通称は朴次郎、号は祐堂、徒士頭、彰考館総裁の立原翠軒の孫)、山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄、目付役)ら”が、「修道館」にて“下野宇都宮藩家老・縣六石(※県勇記とも)ら”と「面会」し、“金崎宿付近に屯集する浪士ら筑波勢を鎮撫するための応援を求める”・・・と、その後に「太平山方面」へと向かう。
・・・この時の美濃部茂定などからすれば・・・筑波勢の現在地を捕捉し、まずは勢を率いる首脳陣達と話し合いを始めなければ、何らの成果も得られない訳ですから。
      ※ 同年同日:「筑波勢」が、「金崎宿」と「栃木宿(現栃木県栃木市)」へ「分宿」する。・・・度々、「分宿する」という表記となりますが・・・要するに・・・筑波勢そのものが、宿場町間の街道や山道を、長蛇の列にならざるを得ない規模や状態になっていたため・・・それこそ、“分宿せざるを得なかった”のです。
      ※ 同年4月14日:「筑波勢」が、「太平山」に「到着」する。・・・“筑波勢は当初、連祥院(れんしょういん:※現栃木県栃木市平井町の大平山神社境内地内にあった天台宗寺院)に宿泊を希望した”・・・ものの、“当の連祥院が、別当寺であって且つ留守だったため、宿泊についてを断られてしまい”・・・同山中にあった「多聞院(たもんいん:※現栃木県栃木市平井町の大平山神社境内地にあった学問所のこと)」を「本陣」とした。・・・この当たりの事情や、筑波勢に参加した志士達、当時の宿場町などの様子については・・・『波山始末(はざんしまつ:※旧水戸藩士・川瀬教文〈かわせのりふみ〉らによる著書であり、底本は明治30年に発刊、天狗党による筑波挙兵・水戸藩内訌戦・天狗党処刑までが記されたものであって、明治32年に史談会による編纂の後に発行)』や、『波山記事 全(はざんきじぜん:※大正7年に発行された日本史籍協会叢書)』などが詳しいので、これらから一部を抜粋致します。(↓↓↓)


      『波山始末』より
      ・・・「斯くて日光山は宇都宮藩を始として諸藩の守衛厳重にして、殊に奉行小倉但馬守承諾せざれば参籠すること能わず、遺憾ながら一と先日光山を打立、栃木駅迄引返し衆議を尽し、野州大平山に據り時機を見合せんとて、(四月)十四日山田市郎・小林幸八を大平山連祥院へ遣し、拙者共重役の者当山へ心願あり祈祷相願度旨申入れ、献香料として金五圓差出し、同勢の内故水戸前中納言殿神輿持参するに由りの附従重役両人は旅店にては差支えあり、其他は旅店にて苦しからざる旨申入たる処、連祥院は当時留守にて別当へ止宿の義は差支の趣返答あるに由り、多聞院を借入れ本陣と致し、烈公の神位を奉し玄関には紫絹地に葵紋附の幕を打張り、下寺山内旅店等へは隊長を始め役々の宿割表札を掛け幕張り致し、本陣には大砲三挺を備え置き其銃槍武器の装飾を為し、山下栃木口・富田口・皆川口へ見張番所木戸を相構え、昼夜厳重警備を為したりけり」・・・「奉行小倉但馬守」とは、日光奉行の小倉〈但馬守〉正義のこと。
      ・・・尚、上記下線部分の表記「金五圓(きんごえん)」とは、明らかな誤記。正しくは「金五両(きんごりょう)」であったかと。・・・若しくは、明治期に入って30年以上経過していたための明治政府への政治的且つ社会的な配慮だったのでしょう。・・・「圓」・・・つまりは、「円」という通貨そのものの流通が、明治4年5月10日に制定された新貨条例(明治4年5月10日太政官布告第267号)によって定められたものでしたので。「圓」であった筈がありません。・・・それにしても、何と・・・紫絹地に葵紋附の幕を打張り?・・・つまりは、筑波勢が「お家」、すなわち水戸徳川家の家紋(=幕紋)まで用意して、本陣を構えていた”とのこと。
      ・・・いずれにしても、これらの事を総合的に判断する前に・・・明治維新が成って富国強兵路線を突き進んでいた明治期や大正期における日本社会の風潮などを考慮せねば、如何に歴史本と謂えども、結果的に読み間違ってしまうことがある訳でして、“富国強兵路線のためとして、かつての尊皇攘夷思想そのものの美談化が図られていた”という側面をも割り引いて考えねばなりませんし・・・結局のところ、慎重の上にも慎重に読み解かなければならず・・・扱う時代は、かなり違いますが、『日本書紀』を読む時などと同様ですね。
      ・・・この場合・・・“あくまでも、旧水戸藩士の川瀬教文という御仁が、どうしても後世に伝えようとした上での話”として、著者或いは編纂者達の表現上の工夫までをも汲み取る姿勢が、結果的にも読み手側に必要とされるのかも知れません・・・が、史実としては・・・“筑波勢が、お家の家紋(=幕紋)を用意していた事”は、ほぼ間違いないだろうとも想います。“主将の田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)という御仁そのものが、自身が水戸藩の重職に就いていた経歴があるにも拘らず、藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)らからの強~い説得の上で筑波山挙兵に至った”とされておりますので。・・・云わば、この時の筑波勢にすれば・・・“お家の家紋(=幕紋)を入手して携えている”という意味は・・・まさに、“後世の戊辰戦争(ぼしんせんそう)で出現することとなる官軍掲揚の錦旗(きんき:※錦の御旗とも)に匹敵する存在だった”でしょうから。・・・“このことを考える”と・・・“後世の錦旗(※錦の御旗とも)利用を発想した”とされている御仁である岩倉具視(いわくらともみ:※号は対岳)卿は? ともなりますが・・・。

      『波山記事 全』より
      ・・・「浪人共党類追々相加人数相増、旅宿差支候に付、大平山絶頂之団子茶屋〔注釈 此茶屋凡十四五軒位にて、壹軒前間口五間、奥行五間位、合間口壹丁程に有之由〕商売差留、軽輩之もの共は右茶屋へ止宿致候由に相聞得申候」・・・“当時、大平山の山頂にあった団子茶屋が凡そ十四、五軒ぐらいあって、それら全てにおいて商売を中止させ、筑波勢或いは波山勢と呼ばれていた者達のなかで軽輩の者らを止宿させていた”とのこと。・・・


      ※ 同西暦1864年(元治元年)4月15日:“水戸藩主より命じられた美濃部茂定(※名は享とも、通称は又五郎、側用人)や、立原韻(※通称は朴次郎、号は祐堂、徒士頭、彰考館総裁の立原翠軒の孫)、山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄、目付役)ら”が、「筑波勢」を追って「太平山」に「到着」すると・・・“主将・田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)や、藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)など筑波勢の幹部ら”と「面談」して・・・“筑波勢を解散して水戸藩領へ帰還するように”・・・と「説得」を図る。・・・事態収拾のために、今に云う「交渉人」として、ようやく筑波勢に追い付いた訳ですが・・・ここで改めて・・・挙兵した側の主将は田丸直允であり・・・一方で、“水戸藩による鎮撫を説得する側の交渉人の一人として、田丸直允の実兄である山国共昌が担当していた”という事実は、注目に値しますね。
      ※ 同年4月16日:“水戸藩士の山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄、目付役)と美濃部茂定(※名は享とも、通称は又五郎、側用人)、立原韻(※通称は朴次郎、号は祐堂、徒士頭、彰考館総裁の立原翠軒の孫)が、再度太平山に入り、終日筑波勢の幹部ら”と「面談」する。・・・この面談の後、“立原は栃木宿へ引き上げる”・・・も、「山国」と「美濃部」は「連祥院」に「宿泊」する。・・・山国共昌と美濃部茂定の二人については、大平山中の連祥院に宿泊出来た・・・となると、上記の『波山始末』の中で語られている・・・日光奉行の小倉〈但馬守〉正義による大平山周辺の取締りが、かなり厳しかったことが窺えますね。・・・したがって、“幕府側の内意を汲んでいた水戸藩の交渉人達には、当時の連祥院を利用させた”というところではないでしょうか?
      ※ 同年4月17日:“江戸在府の老中ら”が、“在京していた政事総裁職・松平直克(※武蔵川越藩主)や他の老中ら”に向けて、「書(簡)」をしばしば、且つ秘かに致し・・・以って、「水戸藩」による「入説(にゅうせつ)」に備える。・・・水戸藩による“入説”ですか・・・。・・・この当時、江戸に在府していた老中らの心境については理解出来ますが・・・。・・・当初から、水戸藩(水戸徳川家)の実態については・・・“どちらに転ぶか分かったもんじゃない!”・・・との気持ちや、江戸留守居役としての自身らの保身などが、垣間見えて来ますね。・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「書(簡)」を「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、一橋慶喜の異母兄)」及び「備前岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟)」に送って・・・“諸々の斡旋”を「依頼」する。・・・諸々の斡旋・・・つまりは、“実家たる水戸藩(水戸徳川家)の危急の事態に際して、実弟達の政治力や影響力を頼りにした”・・・ということ。
      ※ 同年同日:この日も、“水戸藩士の山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄、目付役)と美濃部茂定(※名は享とも、通称は又五郎、側用人)”が、“筑波勢の幹部ら”と「終日面談」する。・・・面談の後には、“両名とも”に「栃木宿」へ引き上げる。・・・山国・美濃部の両名が、面談の後に、この前日に立原韻が引き上げていた栃木宿へ向かった・・・となると、“終日面談の結果”は・・・何らかの確証的な事実や提案事項を把握したか?・・・或いは、平行線を辿るような結果に終わり、全く以って妥協案が纏まらなかったか?・・・の二つの可能性ぐらいとなりますが・・・。
      ※ 同年4月19日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「家老・岡部以忠(おかべもちただ:※通称は忠蔵、荘八とも)」を「上京」させる・・・と、更に「関白・二条斉敬(にじょうなりゆき:※徳川慶篤や一橋慶喜らの従兄弟)」や、「将軍・徳川家茂」、「禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」へ「書(簡)」を致して・・・“速やかに横浜鎖港の英断が為されること”・・・を請う。・・・当時の藩主・徳川慶篤からすれば、“打てる手は、全て打っておく”・・・との方針であったようです。・・・いずれにしても、筑波山で挙兵した筑波勢達にも大義があるのではないか?・・・と。
      ※ 同年4月内:「水戸藩」では・・・“武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)ら江戸在藩の執行部が、筑波勢の動きに同調する格好で、幕政への介入を画策し、禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務し、また在京していた一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)や在京藩士達との連絡を密にして、朝廷への周旋”を「依頼」する。・・・尚、“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜”が、「原忠敬(はらただたか:※名は忠成とも、通称は市之進、号は伍軒、藤田彪の従兄弟)」及び「梅澤守義(うめざわもりよし:※名は亮とも、通称は孫太郎)」を、「水戸藩」より「雇用」する。・・・この頃、一橋慶喜公が実家の水戸藩(水戸徳川家)から呼び寄せたという原・梅澤両名は、今に云うところの「出向人事」に当たります・・・が、“大藩にも拘らず、たった二人きりだった”とも云えます。
      ・・・“二人きりだった”という理由については・・・一橋慶喜公側の理由としては、“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮という新たな役職を兼務したために、自身の手足のように動き、また高度な政治的な判断能力を備える人材を欲していた”・・・一方で、このための人材確保を相談されていた水戸藩・武田正生側の理由としては、“京都・本圀寺に駐屯する自藩士らが既に300名に達しており、その上、水戸周辺の地元の状況が、かなりキナ臭くなりつつあった時期にあって、何らの大義名分を持たせぬままに、新たに自藩士らを京都へ大挙させてしまうと、当時の公家社会や幕府から要らぬ誤解を受けかねない”、“ひいては、かつての教え子でもあった一橋慶喜公の真の考えを汲取る”・・・ためであったかと。

      ※ 同年5月2日:「第14代征夷大将軍・徳川家茂」が、“自身の帰東のため”として、“政事総裁職・松平直克(※武蔵川越藩主)や老中・水野忠精(※出羽山形藩主)、在京諸侯ら”を従えて、「参内」する・・・と「朝廷」が、「松平直克」に対して・・・“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)と協力して、横浜鎖港に尽くすべき”・・・と命じる。・・・この時の将軍・徳川家茂の帰東理由については・・・既に孝明天皇から攘夷決行を託され・・・そして、松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)が率いて来た水戸藩士らなどが禁裏を守衛しており・・・また、“北関東においては筑波勢が挙兵して不穏な状態が発生していたため、事態を収拾するには将軍自らが江戸を留守にしてはいられないという事”であったかと。
      ※ 同年5月4日:「水戸藩」が、“横浜鎖港を断行すること”を、再度「幕府」に促す。・・・この時点では、水戸藩主・徳川慶篤や藩執行部も、“横浜鎖港だけは、すべきとの主張でした”が・・・。
      ※ 同年5月初旬のこととして:“水戸城下の岩船山願入寺(現茨城県東茨城郡大洗町磯浜町)”において、“門閥保守派の家老・市川弘美(いちかわひろとみ:※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら”が、「集会」を開くと・・・“戊午の密勅については、朝廷へ返納すべき”とする「朝廷返納派(=鎮派)の一部」とともに、「諸生党(しょせいとう)」を「結成」し・・・“その建白書”を「作成」して、「藩庁(=水戸城)」へ「提出」する。・・・この頃がちょうど、水戸藩(水戸徳川家)の今後を考えれば・・・“運命の分かれ道”であったのかも知れません。・・・
      ※ 同年5月9日:「禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、“摂海(≒大坂湾)を巡視するため”として、「下阪(げはん:※都を下ること)」する。・・・摂海防禦指揮を任じられたための視察であったとともに、大坂付近の市中(≒町場)の状況視察でもあった筈です。
      ※ 同年5月11日:「備前岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟)」が、「書(簡)」を、「朝廷」と「幕府」に上げて・・・“下野太平山に屯集した水戸藩士ら(=筑波勢)の願意を許し、且つ攘夷の先鋒とさせてやって欲しい”・・・と請う。・・・そして、「関白・二条斉敬(※徳川慶篤や一橋慶喜らの従兄弟)」と“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”に対しても、“その斡旋”を「依頼」し・・・「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、一橋慶喜の異母兄)」と“常陸宍戸藩主・松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、水戸徳川家が本家筋に当たる)父子”へも、「書(簡)」を復して、“その意”を述べる。・・・この頃は、まだ・・・池田茂政公も、実家の水戸藩(水戸徳川家)や、挙兵事件を起こした筑波勢に対しても、同情的であり・・・どちらかと云えば、応援団長的な存在だったかと。
      ※ 同年5月12日:“伊勢桑名藩士・高野市郎左衛門(たかのいちろうざえもん)と陸奥会津藩士らが、共に謀って、在府していた幕府老中・板倉勝静(※備中松山藩主)”に「謁(見)」し・・・そこで「老中・板倉勝静」は、“高野市郎左衛門ら”から・・・“常陸及び下野の浪士らが(※筑波勢のような勢力が新たにという意)、長州藩士と呼応して事を挙げようとしている”と「報告」される・・・とともに、“この時局では、将軍・徳川家茂の退京は不適切である”と述べられる。・・・すると、“老中・板倉勝静は、これに同意した”とされる。・・・尚、“会津藩士が単独で、書(簡)を京都の藩邸に致し、同様に説くも、遂にこの説得の通りにはならなかった”とも。・・・これらのことは、いったいどういう事なのでしょうか?・・・単なる密告の類いでなければ・・・将軍・徳川家茂の退京を遅らせる目的の政治工作?・・・何やら後者である可能性が高いように感じられますね。
      ※ 同年5月13日:“在京する水戸藩士・原忠敬(※名は忠成とも、通称は市之進、号は伍軒、藤田彪の従兄弟、一橋家へ出向中)ら”が・・・“将軍・徳川家茂が江戸へ帰府する以前に(横浜)鎖港の廟議を決するべき”・・・と、「関白・二条斉敬(※徳川慶篤や一橋慶喜らの従兄弟)」や、“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)ら”に対して説いた・・・ものの、実行されなかったため・・・「原忠敬」が、“出向元であった水戸藩江戸屋敷へ、この日の動静についてを報じるとともに、老中・板倉勝静らを排斥する必要性”を告げる。・・・“一橋家へ出向中の原忠敬など、この時の在京水戸藩士らは、(横浜)鎖港の廟議を決する事を、第一優先事項としていた模様”ですね。・・・そして、当然に・・・このことは、“江戸に居た武田正生へも伝えられる”ことになります。・・・ある種の失望とともに。
      ※ 同年5月14日:“水戸城下の七間町(現茨城県水戸市本町1丁目付近)と柵町(同水戸市柵町)”において、“城代・鈴木重棟(すずきしげむね:※通称は石見守、式部とも)、家老の朝比奈泰尚(あさひなやすなお:※通称は弥太郎)及び市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら3名”を名指しし・・・“彼ら3名を弾劾して、断固として討幕攘夷の挙に及ばんとする趣旨”を、「榜示(ほうじ:※札を立て表示すること)」する者あり。・・・この時、討幕(=倒幕)を叫ぶ者が現れたと???・・・外国製品の流入によって、結果的に生活に困窮した庶民による仕業か?・・・或いは、討幕(=倒幕)思想を懐く一部の他藩勢力の仕業か?・・・いずれにしても、水戸を中心に常陸国を討幕(=倒幕)への発火点としたい者達の仕業であったかと。・・・どうしても連想してしまうのが・・・後のこととなりますが・・・“かの江戸無血開城の直前時期に、江戸薩摩藩邸焼き討ち事件が勃発します”・・・が、“その時の世相にそっくり”なのです。・・・もしかすると、“これが事前のリハーサル的行為だった”のかも知れません・・・。
      ※ 同年5月15日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「小姓頭取・国分膳介(こくぶぜんすけ)」と「目付・生熊治衛門(いくまじえもん)」を、「水戸」へと遣わす・・・とともに、「支藩」であった「松平頼縄(まつだいらよりつぐ:※常陸府中藩主)」から、“水戸藩主の内意”を、「城代・鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)」へ「伝達」させて・・・“水戸藩における内紛を未然に鎮撫しよう”とする。・・・当然と云えば、当然の対応だったかと。
      ※ 同年同日:“水戸藩より命を受けていた側用人・美濃部茂定(※名は享とも、通称は又五郎)や、目付・山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄)、徒士頭・立原韻(※通称は朴次郎、号は祐堂、徒士頭、彰考館総裁の立原翠軒の孫)”が、再び「太平山・連祥院」に至りて・・・“筑波勢を率いる田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)らを諭(さと)す”・・・も、“田丸直允らが、それに服すことなく、更には筑波勢に参加する浪士達の人数が日々増加”する。・・・この日が、“水戸藩による筑波勢鎮撫の最終期限だった模様”・・・。
      ※ 同年5月16日:「第14代征夷大将軍・徳川家茂」が、「江戸」へ「帰府」するため、「大坂」を発つ。・・・“誰かしらによる将軍退京遅延のための政治工作”は、期待が裏目に出てしまった可能性が・・・。
      ※ 同年同日:「水戸藩」では・・・“藩校・弘道館の諸生ら(≒概ね諸生党)”が、「水戸藩庁(=水戸城)」に「登城」して、“重役達と面会する”・・・と、“藩領内の要路において筑波勢に与しようとする徒ら”が、“浮浪狂暴化しているため、各学館役員らに鎮定させるべき・・・との嘆願書”を「提出」する。・・・諸生党は、この時点から・・・“尊皇攘夷思想を重んじる改革急進・密勅返納反対派(=激派)を排除するための行動を、実際に開始し、水戸藩庁(=水戸城)の実権を握るための行動を事実上開始した”と考えられます。・・・
      ※ 同年5月17日:「フランス・パリ」において、“幕府から既に開港されていた横浜港を再度閉鎖するという交渉を託されていた筈”の、「遣仏使節(=横浜鎖港談判使節)」とされた「池田長発(いけだながおき:※幕府旗本)」や、「河津祐邦(かわづすけくに:※伊豆守とも、幕府旗本)」らが・・・「パリ約定」に「調印」することに・・・。・・・

       ・・・遣仏使節(=横浜鎖港談判使節)が取り交わした約定とは・・・

       ①長州藩によるフランス船砲撃に対する賠償金支払い(※幕府が10万ドル負担、長州藩は4万ドル負担)
       ②フランス船に下関海峡を自由航行させる保証
       ③輸入品の関税率低減(※一部品目は無税)
 ・・・というもの。

       ・・・そもそもとして、このような経緯及び結果となったのは・・・交渉の相手方・フランスが、長州藩との下関戦争における賠償金の請求や、横浜など三港の自由港化、更には新たな開港場などを強く要求したため・・・“遣仏使節(=横浜鎖港談判使節)としては、もはや鎖港そのものが不可能であり、むしろ早急な開国の必要性を感じたから”であると。・・・きっと、“強烈な外圧だった”に違いありません・・・が、この頃の日本国内の状況は? と云えば、一部の首脳陣の真意は別としても・・・“大勢の考えは攘夷実行へと大きく傾き、これを促すための筑波勢挙兵や異国人襲撃事件が多発して、ほぼ真逆の事態に至っていた”とも云えます。

      ※ 同年5月19日:「水戸藩士・長谷川允迪(※名は後に清、通称は作十郎、号は艮山、青水とも、藩校・弘道館の元舎長)」が、“江戸に居た野村鼎実(※通称は彝之介、号は清籟舎、箕水とも、同藩奥右筆頭)”へ、「書状」を送り・・・“藩内情勢が内紛の危機にあることを告げ、速やかに攘夷を決行し、藩論を一定せしめん”・・・と説く。・・・諸生党だけではなく、長谷川允迪らにも・・・“藩論を一定せしめん”とするためには・・・異論を唱える者達を排除するという思考が・・・見え・・・隠れ・・・。
      ※ 同年同日:“水戸城下の泉町(現茨城県水戸市泉町)にあった制札場(せいさつじょう:※高札場のこと)”において、“岩船山願入寺に屯集した諸生(≒諸生党)を非難する文”を、貼る者あり。・・・きっと、同月16日に諸生党が起こした行動に対する、いわゆる反動だったかと。
      ※ 同年5月20日:「第14代征夷大将軍・徳川家茂」が、「江戸城」に「到着」する。・・・“それまでの幕府は、将軍上洛中だったため、北関東における筑波勢の横行に対して、水戸藩及び諸藩に鎮撫要請をするのみであった”ものの・・・これにより、ようやく筑波勢への対応措置が決定されることとなり・・・「老中・板倉勝静(※備中松山藩主)」が、“水戸藩家老を江戸城へ呼び出して、筑波勢取締りを厳重に命じる”・・・とともに、同じく「老中・牧野忠恭(※越後長岡藩主)」が、“関東諸藩”に向けて、改めて「筑波勢追討令」を発する。・・・“あくまでも将軍家(徳川宗家)の威光を背景としていることを明らかにする”との意図があったかと。・・・ちなみに、この将軍・徳川家茂帰府以前の同年4月11日に、水戸藩主・徳川慶篤も、自藩の江戸屋敷に帰って来ております。・・・京都・本圀寺には、実弟の松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)を含めた多くの自藩士らを配置させておりますので、“江戸に戻って来たのは、必要最小限の人員であった”とは考えられますが。
      ※ 同年同日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「摂海(≒大坂湾)視察」から「帰京」する。・・・下阪から数えて、約12日間。・・・一橋慶喜公にとっては、非常に重要な期間になっていたかと。・・・それにしても、将軍・徳川家茂の江戸帰府と同日だったとは?・・・偶然だったのでしょうか?・・・もしかすると・・・将軍の京都 ⇔ 江戸間陸路の途中・・・例えば、東海道中の箱根辺りまでを海上から護衛しつつ、各方面の分析や今後の方針などについての計画を立案していたのかも知れませんね。
      ※ 同年5月22日:“朝廷が水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)に対して、横浜鎖港の断行に尽力せしめんとしている旨”を・・・「幕府」が、“慶篤”に対して、「伝達」する。・・・幕府が、“この時に伝達した”という内容は、同年5月2日の将軍・徳川家茂以下が参内した時の話ですね。・・・ということは、同年5月2日の将軍らの参内時には、水戸藩主や水戸徳川家の出身者達は同席していなかった、或いは排除されていたことが分かります。それ故に・・・時の朝廷が、わざわざ・・・“(幕府と)水戸藩主・徳川慶篤とが協力して、横浜鎖港に尽くすべき”・・・と釘を刺していた訳です。・・・そして、この時の幕府の対応は、かなり消極的と云うか・・・恐る恐るといったところでしょうか?
      ・・・これらのことは、つまり・・・“将軍・徳川家茂が江戸城へ無事に到着したことが確認されてから、朝廷の内意が水戸藩主へ伝えられていた事”を意味しており・・・且つ、“将軍・徳川家茂の江戸への帰還途中に、何らかの襲撃計画があるかも知れないという重大な懸念があった事実”を物語っているような気が致します。・・・想えば、“同年5月12日にあった”とされる・・・老中・板倉勝静と伊勢桑名藩士・高野市郎左衛門及び陸奥会津藩士らとの謁見がありましたね。・・・もしかすると、これが鍵?・・・“筑波山で挙兵した常陸及び下野の浪士らのような武装集団が新たに幾つも発生し、それらが合流し始めて大規模な集団に成長し、やがて江戸城に襲い掛かるだろう”・・・との「吹聴」、或いは“同様の風説が流布された”のかも知れません。これもまた、『日本書紀』で語られている諸事と酷似しています。大昔であれ、ちょっと昔であれ、我々日本人は、あまり変わらぬことをしているのかも知れません。
      ・・・いずれにしても・・・そんな状況に至るまで? と云うか・・・ここに、長らく続く江戸幕藩体制という巨大組織が根幹から揺らいでしまうほどの、当時の世相が垣間見えるのです。・・・
      ※ 同年5月24日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「書(簡)」を、“藩校・弘道館教授頭取(※総教とも)の儒学者・青山延光(あおやまのぶみつ:※通称は量太郎、号は佩弦斎、晩翠とも、青山拙斎の長男、小姓頭兼務)や郡奉行ら”に与えて・・・“岩船山願入寺に屯集した徒(≒概ね諸生党)を鎮撫せしめ、尚速やかに鎖港実行に尽力し、聖旨(せいし:※天皇の思いや考えのこと)に奉答(ほうとう:※謹んで答えること)すべき”・・・との「意」を諭し示す。・・・この時点においては・・・水戸藩主の考えが・・・既に挙兵していた筑波勢よりも、むしろ自藩の諸生党らを抑え込むというものであったことが分かります。
      ・・・ちなみに、“青山延光の父の拙斎(あおやませっさい:※名は延于、通称は量助、量介とも、別号は雲竜とも)”とは、2代藩主・徳川光圀(※義公)が水戸藩の事業とした『大日本史』の校訂に努め、それを編纂する専門部署の彰考館総裁や、藩校・弘道館の開学に先立って、その教授頭取(※総教とも)になった人物です。・・・著書には、『皇朝史略(こうちょうしりゃく)』、『続皇朝史略(ぞくこうちょうしりゃく)』、『明徴録(めいちょうろく)』、『文苑遺談(ぶんえんいだん)』、『詞林摘英(しりんてきえい)』、『拙斎文集(せっさいぶんしゅう)』などあり。
      ※ 同年5月25日:「幕府」が・・・“太平山と筑波山に屯集する徒(=筑波勢)の狼藉行為によって、関東一円の治安が極度に悪化していること”を「問題視」し・・・“関東八州と越後国、信濃国の領主ら”へ・・・“筑波勢を厳重に警戒せしめんとする「筑波勢追討令」を重ねて令す・・・とともに、「水戸藩」に対しては、“浪士に対する説諭(せつゆ:※悪い行ないを改めるよう言い聞かせること)及び帰家することなどら”を令し・・・更には、水戸藩家老で門閥保守派(=諸生党)の市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)に対して、“筑波勢の侵入に備えて厳重な警戒態勢となっていた武蔵国の小金宿及び千住宿(現東京都足立区市見沼区中川)、逆井(現千葉県柏市逆井)を通過出来るように”・・・と、身元確認用としての「竜字の印鑑」を送る。
      ・・・!!?・・・“当時の幕府を考えれば、当然の事とも云えます”が・・・水戸藩(水戸徳川家)が徳川御三家ではあったものの・・・“身元確認用としての竜字の印鑑を、市川弘美など一介の家老に対して送るという行為そのもの”が・・もはや、水戸藩(水戸徳川家)への内政的介入に他なりませんが・・・“竜字の印鑑を送る”という行為には、そもそもとして・・・将軍家(徳川宗家)から水戸藩(水戸徳川家)に送り込まれていた附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)の存在が、深く関わっていた筈です。・・・ちなみに、この中山信徴は・・・後のこととはなりますが・・・“西暦1868年(慶應4年)1月24日に、明治新政府の特旨により常陸松岡藩が立藩される”と、その初代藩主として独立大名とされ・・・翌年6月22日には版籍奉還のため藩知事に就任し・・・西暦1871年(明治4年)の廃藩置県によって免官。・・・その後は、「日光東照宮の宮司」や「氷川神社大宮司」などを務めます。
      ・・・このような経歴を持つ人物ですから、本人の思想については、“尊皇攘夷の達成を目指しつつも、急激な変化を必ずしも良しとせず、「戊午の密勅」については朝廷へ返納すべきとする鎮派に属す考えを持っていた”のではないでしょうか?・・・いずれにしても、「竜字の印鑑」については・・・当時の中山信徴は、“時の幕府と、炎に包まれる寸前の水戸藩(水戸徳川家)との狭間”にあって、云わば中間管理職的な苦労や苦悩が絶えなかったのでは? と考えられます。
      ※ 同年同日:「水戸藩」では・・・「城代・鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)」と「家老・朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)」が、“藩校・弘道館の文武師範らに諭す”・・・とともに、“藩士や町民、農民などの各家の主が南(≒江戸方面)へ上ること”を「禁止」する。・・・そして、“家老の朝比奈泰尚や、佐藤信近(さとうのぶちか:※通称は図書)、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)、使番・渡邊半助(わたなべはんすけ:※元々は鎮派)らを、文武師範と諸生ら500名余りとともに、岩船山願入寺へ集結させる”・・・と、後に「武装」させて・・・“この一団(≒諸生党勢)を、朝比奈泰尚ら”に、「水戸城南千波原(現茨城県水戸市城南辺りから同水戸市千波町字千波原付近か?)」でへと率いさせる。・・・かなりキナ臭くなっております。・・・
      ※ 同年5月26日:“諸生らが率いた一団(≒諸生党勢)”が、「水戸城南千波原」を発って、“藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の居る江戸の水戸藩邸へと向かう”・・・と、この日のうちに、「長岡宿(現茨城県東茨城郡茨城町長岡)」を経て、「府中宿(現茨城県石岡市府中)」に「宿泊」する。・・・とうとう動き出してしまいました。諸生党勢が・・・。尚、諸生党勢が筑波勢追討ではなく、まず水戸藩江戸屋敷へ向かった理由は・・・当然に、藩主・徳川慶篤を改心させるためだったかと。
      ※ 同年5月27日:「幕府」が、“直轄する関東天領の代官ら”に対しても、「筑波勢取締り」を命じる。・・・再三に亘って、当時の水戸藩主や水戸徳川家出身者、水戸徳川家に縁のある人々だけでなく、時の朝廷までもが、攘夷決行を叫ぶ最中にあってさえ・・・幕府という巨大組織が、方向舵を一度きってしまうと・・・なかなか変えられないものなのかも知れません。
      ※ 同年同日:“諸生らが率いた一団(≒諸生党勢)”が、「府中宿」を発つ。・・・この日のうちに、「稲吉宿(現茨城県かすみがうら市稲吉)」と「土浦宿(現茨城県土浦市大手町付近)」を経て、「藤代宿(現茨城県取手市藤代及び片町付近)」に「宿泊」する。
      ※ 同年5月28日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、“在江戸家老の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)や、興津良能(※通称は蔵人)、在江戸目付・山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄)”に対して、「致仕(ちし:※職を退くこと、または退職し隠居すること)及び謹慎」を・・・「在江戸附家老・中山信徴(※通称は与三左衛門)」に対しては、「謹慎」を命じ・・・次いで、「鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)」を“新たな江戸家老”に加え・・・「尾崎為貴(おざきためたか:※通称は豊後)」と「大久保忠貞(おおくぼたださだ:※通称は甚五左衛門、甚十郎とも)」を“国許・水戸の国家老”に・・・それまで「若年寄」とされた「岡田徳至(※通称は徳之介、新太郎、兵部、信濃守とも、号は確翁)」を「大寄合頭(おおよりあいがしら)」に・・・「藤田健次郎(ふじたけんじろう:※健二郎とも、藤田彪の次男、信の兄)」を「側用人」に「任命」する。
・・・このように、水戸藩内の人事を大きく刷新したものの・・・。
      ・・・ちなみに、ここにある「鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)」とは、“後の本圀寺党における主要人物”とされております。また、水戸藩においては、同じ「鈴木姓」でもあった“水戸城代・鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)の本家筋”に当たります。・・・同姓のため、少しばかり紛(まぎ)らわしいですが・・・後者の鈴木重棟が、名目上も・・・“諸生党の領袖の一人”とされておりますので・・・つまりは、水戸藩内における藩論統一などでは・・・結果的にも、“本家 VS 分家という対立関係が生じてしまった訳”です。・・・この当たりの複雑な事情が、この幕末期における水戸藩の混乱状況を物語っているとも想えますし・・・それぞれの藩内勢力が、尚も厳しい政策実行手段を採らざるを得なかったか? とも感じます。・・・が、水戸藩の鈴木家についてを云ってしまえば・・・“当時の将軍家(徳川宗家)と水戸徳川家の関係性と似通ったものだった”と云えるのかも知れません。・・・
      ※ 同年同日:“諸生らが率いた一団(≒諸生党勢)”が、「藤代宿」を発つ。・・・この日のうちに、「我孫子宿(現千葉県我孫子市本町及び白山付近)」と「小金宿」を経て、「松戸宿(現千葉県松戸市松戸及び本町付近)」に「宿泊」する。・・・500名余りの武装集団が、刻々と水戸藩江戸屋敷に迫って来ております。・・・
      ※ 同年5月29日:“松戸宿を発って諸生らが率いる一団(≒諸生党勢)総勢500名余り”が、「千住宿」を経て、“江戸上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも)に居た藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)のもと”へ赴く。・・・そして、この「諸生党勢」が・・・“筑波勢の狼藉行為を訴えるとともに、従来からの激派重用人事に対しては、悉(ことごと)くを罷免するように”・・・と「要求」する。・・・この時の諸生党としては・・・結果的にも、藩主・徳川慶篤を改心させて、自身の勢力側に取り込む事に成功し・・・従来から水戸藩を執行していた改革急進・密勅返納反対派とされる激派が、大幅に排除されることとなって・・・水戸藩の江戸上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも)や、江戸中屋敷(※駒込邸とも)、江戸下屋敷(※本所小梅村、現東京都墨田区向島1丁目付近)における執行部の人事体制についてを・・・当時の勢力バランスで以って表現すれば・・・概ね以下の通りとなっておりました。(↓↓↓)
      ・・・実際には、この前日に、あらかじめの刷新人事が決定されておりましたが。

       諸生党 > 鎮派 > 激派≒かなり少数・・・という具合であったかと。・・・尚、あくまでも・・・当時の水戸藩執行部における人事上の話であり、水戸藩全体における藩士民らの実態とは、掛け離れてもおりますが。

       ・・・そして、このように諸生党勢と行動を共にしていた鎮派の一部が、生粋?の諸生党へ与える影響力は、かなり弱かった模様であり・・・生粋?の諸生党に主導権を握られっ放しであったようにも感じられます。・・・実際に鎮派と呼ばれていた人々の数は・・・諸生党や激派に比べても、圧倒的に多かった筈なのです・・・が、現代のように民主的な多数決主義という発想そのものが乏しい時代でもあり、致し方ない状況だったかと。・・・尚、これには水戸藩特有の家臣団構成も影響していると考えられます。・・・この水戸藩特有の家臣団構成とは、“その立藩以来、家老格などの譜代の上級家臣が少なく、郷士格など中級や下級の家臣層の人数が圧倒的に多かった”という特徴を持っていた事です。(※これについては、次ページに再度後述致します)
       ・・・ちなみに、“水戸城南千波原を発った際の諸生らが率いた一団(≒諸生党勢)が500名余りから編成されていた”との事ですが・・・幕府直轄下にあった当時の松戸宿や千住宿などは別としても・・・“家老とされた朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)や、佐藤信近(※通称は図書)、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らが率いていた”とされる、この一団(≒諸生党勢)と志(こころざし)を同じくする別の少数精鋭集団によって、水戸藩領内の各宿場や各所が、適宜警備され、且つ緊急連絡要員として配置されていたことも、容易に想像出来ます。・・・

      ※ 同年5月30日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、“家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)や、佐藤信近(※通称は図書)、朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)”に対して・・・“藩士激徒(※水戸藩士のうち激派に与する者達のこと)で江戸府内を徘徊する者を見れば、これを厳に逮捕せよ”・・・という「書(簡)」を与える。・・・藩内の勢力同士における対立の狭間にあって、裁定する藩主・徳川慶篤公としての立場は困難を極めていたとは考えられます・・・が、家臣達の献策に対しては・・・全て「よかろう」と裁定したことから・・・「好かろう様」などと揶揄されていた御仁ですので・・・。・・・しかし、下線部分のように、“厳に逮捕せよ”としていたのは、「江戸府内を徘徊する者」に限定していた訳でもあります。・・・ということは、これは・・・“当時、激派に与していると自認している者達への暗号的なメッセージであった”とも読み取ることが出来ます。
      ・・・つまりは、“暫らく大人しくして居れ。目立った行動はするな。また江戸は今、危険であるから、府内には絶対に近寄るな。”・・・との、昔で云う、“藩主の内意だった”かと。・・・いずれにしても、“同月28日に行なわれた藩執行部における人事刷新のキッカケ”としては・・・水戸藩自体に内乱の様相が蔓延し始めていたことを感じ取ったためだったのか? 或いは、藩内の秩序や治安を急速に鎮静化させるためだったのか?・・・いずれにしても、たった二日前に行なった刷新人事の後のことであり、藩政の舵取り自体が微妙な状態になっていたのでした。・・・
      ※ 同年同日:“田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)らが率いる筑波勢”が、“下総結城や下野壬生、常陸下館などの諸藩に対して盟約への参加を勧誘する”・・・も、“同時に軍資金などの提供を強要したため、かえって諸藩から厳戒態勢を採られる”こととなって・・・“諸藩が、幕府へ、その急を報じてしまう”。・・・すると、“筑波勢が太平山を下る趨勢”となり・・・「下野国栃木町(現栃木県栃木市)」に入った後に、「定願寺(現栃木県栃木市旭町)」や「金龍寺(現栃木県栃木市万町)」などに「分宿」した。・・・結局のところ、筑波勢は・・・同年4月14日から、この5月末まで太平山に滞在していたことになり・・・また、この頃の諸生党による政治的な攻勢についても、知り得ていた筈の筑波勢なのですが・・・軍資金不足や食糧不足が喫緊課題であったため・・・結局は、自らの軍勢を分団するとともに、近隣町村の役人や富農、商人らを恫喝して金品を徴発しつつ、筑波山へと引き返すこととなった模様。・・・
      ※ 同年5月内:「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、一橋慶喜の異母兄)」が、「朝廷」と「幕府」へ、「書(簡)」を、再び奉り・・・“速やかに攘夷期日を確定し、太平山に屯集する徒(=筑波勢)と諸有志を、その先鋒たらしめん”・・・と請う。・・・と、再びの嘆願。・・・実家たる水戸藩(水戸徳川家)から出してしまった筑波勢を、横浜鎖港などに対する攘夷実行部隊にして欲しいと。・・・いずれにしても、当の筑波勢の挙兵目的は、あくまでも攘夷の実行であり・・・具体的には、一旦開港してしまった横浜港を、再び鎖港させるという事でしたから・・・そもそもとして、当初から討幕(=倒幕)的な発想などは全く無く・・・そのため、日光東照宮に参拝した後に、挙兵の大義名分を明らかにする檄文を各方面へ送っていた訳です。・・・しかし、当時の幕府としては、対外国政策において・・・云わば、“退くに退けない状況”であり・・・従来通りの幕藩体制を貫こうとする方針からすると・・・挙兵に至った筑波勢や、これを輩出させた水戸藩の存在自体が、かなり目障りとなっていたことは、ほぼ確かかと。

      ※ 同年6月1日:「関白・二条斉敬(※徳川慶篤や一橋慶喜らの従兄弟)」が、「右大臣(うだいじん)・徳大寺公純(とくだいじきんいと)」と・・・“以前に備前岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟)が奉じた太平山屯集浪士に関する嘆願書に対する指令について”・・・を諮(はか)る。・・・時の朝廷内における政治的な談義?・・・それとも、根回し的な?
      ※ 同年同日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「家老・山野邊義芸(やまのべよしつね:※主水とも)」を「罷免」し・・・同じく「参政・岡田徳至(※通称は徳之介、新太郎、兵部、信濃守とも、号は確翁)」と「杉浦政安(すぎうらまさやす:※通称は羔二郎)」には、「隠居及び蟄居」を命じる。・・・そして、これら罷免された激派に代え・・・新たな「家老」として、「市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)」や、「佐藤信近(※通称は図書)」、「朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)」、「戸田忠則(とだただのり:※通称は銀次郎、戸田忠敞の嫡男)」、「大久保忠貞(※通称は甚五左衛門、甚十郎とも)」を・・・新たな「城代家老」や「参政」として、「鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)」や、「太田資春(おおたすけはる:※丹波守とも)」、「渡邊半助(※元々は鎮派)」を任じる。
      ・・・要するに、“激派を大幅に排除した刷新人事(※同年5月28日実施)では不充分である”と、人事の翌日に水戸藩江戸屋敷に到着していた諸生党勢の面々が認識したようでして・・・“この日、藩主によるお墨付きを貰った”・・・感じ。・・・結局のところとしては・・・この時点において、諸生党が水戸藩政の実権を、ほぼ完全に掌握するに至った訳ですが・・・この日の人事裁定によって、執行部の勢力バランスは・・・「諸生党 > 鎮派 > 激派 ≒ ほぼ0」・・・となった模様。・・・
      ※ 同年同日:“太平山を下りた筑波勢が、下野国栃木町を出立する”・・・と、「同国小山(現栃木県小山市)」を経て、“下総結城藩の城下”に入って「分宿」する。・・・
      ※ 同年6月2日:“筑波勢の岩谷敬一郎(※元玉造郷校館長、元潮来郷校館長)と川俣渉(かわまたわたる:※通称は茂七郎、出羽松山脱藩浪士)”が、“隊士らを引き連れて、下総結城藩の重役達”と「面談」し・・・“筑波勢への協力”を「要請」する。・・・
      ※ 同年6月3日早朝:“江戸城に登城した政事総裁職・松平直克(※武蔵川越藩主)”が、「将軍・徳川家茂」に対して、“幕閣の板倉勝静(※備中松山藩主)や、酒井忠績(※播磨姫路藩主)、諏訪忠誠(すわただまさ:※信濃諏訪藩主)、松平乗謨(まつだいらのりかた:※後の大給恒、三河奥殿藩及び信濃田野口藩主)ら4名を排除するように”と迫り・・・“彼らを登城停止”へと追い込む。・・・この日の出来事は、政事総裁職・松平直克にしてみれば・・・いわゆる一橋派、或いは水戸派的な政治行動でしたが・・・
      ※ 同年同日:「下総結城藩」が、“協力を要請していた筑波勢に対して、藩としての協力は出来ぬ”との「正式回答」をする・・・も、“首席家老であった水野勝善(みずのかつよし)や、千種鑿助(ちぐささくすけ)、尾崎喜助(おざききすけ)、松本小次郎(まつもとこじろう)、杉山梅吉(すぎやまうめきち)らの藩士達”が「脱藩」して、「筑波勢」へと身を投じる。・・・この幕末、どこの藩も藩論が一枚岩に結束している事自体が稀な状況だったことが分かります・・・が、当時の筑波勢としては、水野勝善らの参加が、新たな同志の獲得であったと同時に・・・長期的に考えれば、行く末の軍糧や軍資金の調達が、益々課題となってまいります。・・・
      ※ 同年同日:“下総結城藩から協力要請を正式に断られた筑波勢幹部の岩谷敬一郎(※元玉造郷校館長、元潮来郷校館長)と田中愿蔵(※郷校時雍館の元館長)らが、結城城下から小山宿(現栃木県小山市小山)へ引き返す”・・・と、“彼らを待っていた筑波勢の同志達”が、「結城城下」を離れて、「常陸下館城下」まで進む。・・・
      ※ 同年6月4日:“諸生党の意を受け容れる格好となった水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)”が、「江戸城」に「登城」する・・・と、“この前日に幕閣4名を登城停止に追い込んだ政事総裁職・松平直克(※武蔵川越藩主)を激しく非難”し・・・今度は、“松平直克が反対に登城停止”に追い込まれる。・・・???・・・何とも、チグハグな状況です。・・・横浜鎖港問題や筑波勢への対応などの諸問題を巡った上での、政治権力による駆け引きか?・・・いずれにしても、これにより、10日余りに亘って、江戸城に主要閣僚が、誰も登城しない・・・という異常事態が続きます。
      ※ 同年同日:“水戸藩の参政に任じられた渡邊半助(※元々は鎮派)”が、故徳川斉昭(※後の烈公)の正室であり、当時落飾していた貞芳院(ていほういん:※名は吉子、芳子とも、慶篤や慶喜の実母、有栖川宮織仁親王の第12王女)”に向けて、「書(簡)」を呈(てい:※差し出すこと)し・・・“家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)と朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)、佐藤信近(※通称は図書)を、藩地(=水戸領)へ斥(しりぞ)けん”・・・と請う。・・・???・・・ここにきて激派と呼ばれる者達に、新たな応援団現るか?・・・と思いきや・・・この渡邊半助という人物は、“元々尊皇攘夷思想は持ってはいたものの、「戊午の密勅」を朝廷へ返納すべきという朝廷返納派であり、且つ激派のような過激な方法論に対しては懐疑的であった鎮派の一人”とされますので・・・つまりは・・・“当時の藩政が余りにも、諸生党寄りに偏ってしまったため、朝廷と水戸藩との太い架け橋の象徴的な存在でもあった貞芳院の威を借りて、水戸藩内乱については防ごう”・・・と、活動していたのではないでしょうか?
      ※ 同年同日:「筑波勢・田中愿蔵(※郷校時雍館の元館長)」が、「下野壬生藩」と「面談」する。ここで・・・“筑波勢への協力を要請し、断れば兵を差し向ける”・・・と強行に「威嚇」するも・・・「壬生藩」は、当然の如く「拒絶」する。・・・この頃、その規模が既に約700名余りまで膨れ上がっていた筑波勢としては・・・軍資金や食糧の不足を解消する事が、喫緊課題だったことが分かります。・・・この前日には、それこそ・・・“焼け石に水的な軍資金や食糧については、元下総結城藩藩士らから調達出来た”とは考えられますが。
      ※ 同年6月5日:“京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり:※陸奥会津藩主)から、主に不逞浪士(ふていろうし)取締りと市中警備を任された新撰組(しんせんぐみ:※新選組とも)”が、“京都三条木屋町(現京都府京都市中京区中島町)の旅館池田屋に潜伏する長州藩や土佐藩などの尊皇攘夷派志士達”を、「襲撃」する。(=池田屋事件)・・・
      ※ 同年同日:“筑波勢・田中愿蔵(※郷校時雍館の元館長)によって組織された別働隊”が、「下野国壬生町(現栃木県下都賀郡壬生町)」を離れて、「同国栃木町」に入る・・・と、“軍用金の献納”を「要求」する。・・・“喫緊課題を解消しようとする筑波勢が、自らの隊を分団し、近隣町村の役人や富農、商人らを恫喝して金品を徴発する”・・・という行動を許容してしまったのです・・・が、要するに・・・血気盛んな若者達を抑えきれなかった訳です。・・・
      ※ 同年6月6日:「神宮大宮司」及び「禰宜(ねぎ)」が、“水戸藩士による参籠(さんろう:※祈願のため神社や寺院などへ、ある期間を籠もること、お籠もりとも)”に関して、「朝廷」へ、「上申(じょうしん:※意見を上の者に申し述べること、具申とも)」する。・・・当時、水戸藩領内に存した大社や神社だけではなく・・・“関東はおろか、全国各地の大社や神社で、水戸藩士による参籠申請が続出していた”模様です。・・・そのため、神宮や神社の神官らとしては・・・“それぞれの意見を朝廷へ述べるとともに、今後の対応策を問い合わせる”という意味もあったと考えられます。
      ※ 同年同日:“筑波勢の田中愿蔵隊が、下野国栃木町の戸田長門守陣屋(※下野足利藩の陣屋のこと、現栃木県栃木市旭町)に対して軍用金献納を要求する”・・・も、“それを拒絶した陣屋側”から「砲撃」されて、戦闘状態に突入してしまう。・・・尚、この戦闘により発生した火災が燃え拡がって、「同国栃木町」を焼き尽くす。・・・とうとう戦闘状態に突入して、当時の下野国栃木町の人々に、多大な迷惑を掛けることに。・・・
      ※ 同年6月7日:「下野宇都宮藩主・戸田忠恕(とだただゆき、とだただくみ、とだただひろ)」が、“常陸及び下野各所に水戸浪士らが出没し掠奪(=略奪)する状況”を、「幕府」へ報じて・・・“討伐の命があらんこと”・・・を請う。・・・自領内を荒らされ、筑波勢に参加する領民達を多く出してしまった宇都宮藩にしてみれば・・・“自藩存亡の一大事”・・・でしたので、このような反応は当然かと。当時の幕藩体制施政下では、国許で事件や不祥事が発生すると・・・「改易」、すなわち“お家の取り潰し”もザラでしたから。・・・もしかすると、近隣の結城藩から脱藩者が続出していた情報が、いち早く宇都宮藩に齎(もたら)されていた可能性も大。
      ※ 同年同日:「京都五條大橋(※現京都府京都市を流れる鴨川に架設された橋)」において・・・“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)を大奸賊”・・・と罵(ののし)る「落書」あり。・・・
      ※ 同年6月8日:「京都」にて、また「落書」あり。・・・その内容は・・・“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)に天誅(てんちゅう)を加えんと言う者”や・・・“近々のうちに旅館などを放火すると言う者があった”と。・・・当時の鎖国論者達、つまりは尊皇攘夷派志士達の仕業だったのでしょうか?・・・それとも、反対の立場を採る開国論者や、異国勢力と手を結ぶ者達の仕業だったのでしょうか?・・・判然としません。・・・しかしながら、孝明天皇のお膝元であった京都の街が、かなり物騒な世相となっていたことは、ほぼ間違いない事かと。
      ※ 同年6月9日:「幕府」が、“常陸府中、同宍戸、同谷田部、同下妻、同下館、同土浦、下野宇都宮、同足利、同壬生、下総結城、武蔵川越の諸藩”に対して、“常陸と下野にて横行する浪士の討伐(=筑波勢追討令)”を・・・“下総古河、同関宿、上野館林の三藩及びその麾下の士とした本多修理(ほんだしゅり)と宇津鉞之助(うつえつのすけ?)ら”に対しては、“各領邑または代官支配地の戒厳”を・・・また、“諸国の関所を警守する諸藩(※下総佐倉藩や下野茂木藩などか?)”に対しては、“長州藩に随従する浪士らと筑波山屯集の党との連絡を遮断すべき”・・・と命じる。・・・ここで、“以前の同年5月12日に伊勢桑名藩士・高野市郎左衛門と陸奥会津藩士らが老中・板倉勝静に伝えた情報についてを、当時の幕府が如何に重視していた”のかが分かります。・・・
      ※ 同年6月11日:「幕府」が、「江戸府内取締役・酒井忠篤(さかいただずみ:※新徴組を預かった出羽庄内藩主)」に対して・・・“野州(=下野国)に横行する浮浪の追捕を免じて、専ら府下警守(=江戸市中の警守)を命じる”・・・とともに、「上野高崎藩主・大河内輝照(おうこうちてるあき:※輝声、松平右京亮とも)」と「常陸笠間藩主・牧野貞直(※別名は貞明や貞利とも)」に対しては・・・“常陸と下野にて横行する浪士らを打たらしめ、使番・小出順之助(こいでじゅんのすけ:※幕府旗本)と氷見貞之丞(ひみさだのじょう:※幕府旗本)を軍監”となして、これに附す。・・・また、“常陸府中、同土浦、同谷田部、同下館、同下妻、下野宇都宮、同壬生、同足利、下総結城、武蔵川越の諸藩”にも令して、“藩兵の進退を一として軍監の指揮”に従わせる。(=筑波勢追討出兵令)
      ・・・“江戸府内取締役・酒井忠篤が預かった新徴組(しんちょうぐみ)”とは・・・元々は、江戸幕府(=徳川幕府)によって将軍上洛の際の警護を目的として西暦1863年(文久3年)1月に結成募集された浪士組でしたが・・・この頃は、幕府から江戸市中警護と海防警備の命を受けて、出羽庄内藩の御預かり組織となっていました。・・・ちなみに、この新徴組から後に分派する壬生浪士組(みぶろうしぐみ)を経て旗揚げされることとなった新撰組(※新選組とも)とも、当然ながら交流があり・・・後の西暦1868年(慶應4年)には、江戸において放火や掠奪、暴行などを繰り返して旧幕府側を挑発し、あくまでも討幕(=倒幕)姿勢を崩さなかった自称・官軍の薩摩藩・・・に対する報復措置として、この新徴組などが江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件を起こすこととなり・・・いわゆる「戊辰戦争」の、“直接的な発端になった”と云われます。
      ※ 同年同日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「小姓頭取・吉見直政(よしみなおまさ:※通称は總太郎、治左衛門、軍治とも、元大納戸奉行)」を通じて、「前家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)」に対して・・・“江戸を発ち、藩地(=水戸領)へ退き帰れとの旨”・・・を「下知」すると・・・「武田正生」が、秘かに「水戸」へ向かう。・・・この時の藩主・徳川慶篤としては、きっと・・・“その内意を以って、武田正生の命を救おうとした”のでしょう。・・・それだけ、“江戸藩邸の周辺が、キナ臭い状況となっていた”ことが分かります・・・が、ということは?・・・もしかすると・・・“同年6月4日に藩主自らが江戸城に登城して、政事総裁職・松平直克(※武蔵川越藩主)を激しく非難し、松平直克のことを登城停止させた”という背景には・・・“この当たりの諸事情から、相手方に何かを仕掛けるタイミングがチグハグしており時期尚早である”・・・との判断が働いていた可能性があるのかも知れません。
      ・・・すると、「好かろう様」と呼ばれていた水戸藩主像とは、かなり異なる印象かと。・・・いずれにしても・・・この徳川慶篤も、故徳川斉昭という実父の下で長らく働いていた武田正生から多大な影響を受けている一人であって、武田正生の性格をも充分に理解している訳でして・・・ただ単に、“江戸を発ち、藩地(=水戸領)へ退き帰れ”というメッセージを送れば・・・阿吽(あうん)の呼吸の如くに・・・“水戸藩(水戸徳川家)、ひいては日本国の将来のために、武田正生自らが悟って、何かしら別の手段を講じるだろう”・・・との内意だったかと。・・・但し、史実からすれば・・・かつての大海人皇子(※後の天武天皇)が吉野で隠遁生活を始める際に、“大海人皇子を吉野へ放つとは、野に虎を放つものであると当時揶揄されていたこと”・・・と、ほぼ同様な事態に陥り・・・更に、結果は真逆になってしまいますが。・・・
      ※ 同年6月12日:“水戸藩士の菊池三左衛門(きくちさんざえもん)、小山田平之允(おやまだへいのじょう:※平之進とも)、鈴木大(すずきはじめ:※安之進、保之進とも)ら”が、“同志30名余りと共に、前老中・太田資始(おおたすけもと:※遠江掛川藩主)邸に至りて、謁(見)を求める”・・・と、“太田資始が、水戸藩内紛を扇動し、鎖港の幕議を阻(はば)み、政事総裁職・松平直克(※武蔵川越藩主)を排斥したことなど”・・・を挙げて、「太田資始」を「難詰」する。・・・前老中であったとしても、かつての幕閣の一人だった太田資始に対して、“水戸藩士らが直談判した”という事実。・・・これは、当時の幕藩体制を維持しようとする幕閣の人達の目からすれば、“行き過ぎた行為に映ったこと”でしょう。・・・そして・・・
      ※ 同年6月14日:「水戸藩」が、“藩士の小山田平之允(※平之進とも)や、鈴木大(※安之進、保之進とも)ら”を「処罰」する。・・・この時の水戸藩の執行部体制は・・・諸生党の思想、すなわち門閥保守的な考えに支配されておりますので・・・前老中・太田資始を詰問した藩士らに対する、この時の処罰については・・・“無礼な上に、不届きであった”・・・と理解することは出来ますが・・・。・・・かえって、多くの水戸藩士民らの不平不満は蓄積されることとなり・・・。
      ※ 同年6月15日:「幕府」が、“関東八州の代官に命じて、浮浪の徒を追捕させる”・・・とともに、“下野壬生藩主・鳥居忠宝(とりいただとみ:※丹波守とも)の大坂加番を免じて”、「浮浪」を「追捕」させる。・・・また、“専ら府下警守(=江戸市中の警守)を命じられていた酒井忠篤(※新徴組を預かった出羽庄内藩主)が、凶徒を捜索し逮捕するため”として、「江戸町奉行」と「勘定奉行」に対して、「援助」を請う。・・・酒井忠篤が、凶徒を捜索し逮捕するためとして江戸町奉行の援助を求めた事は、比較的理解し易いことです・・・が、勘定奉行へも援助を求めたということについては・・・“当時の幕府が考える凶徒らの資金についての流れを掴む”と同時に・・・“凶徒らを探索するために掛かる経費を、特別に出金して欲しい”との意図もあったかと。
      ※ 同年同日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)が、江戸城に登城する”・・・と、“将軍・徳川家茂から、親諭(しんゆ:※訓示的な意味合いが濃いお話しやお言葉のこと)を受けたため”・・・“その旨”を、「家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)」や、「佐藤信近(※通称は図書)」、「朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)」に授けることとなり、また・・・“筑波山屯集の激徒(=筑波勢)を鎮圧せよ”・・・と命じる。・・・これによって、「水戸藩の筑波勢追討軍」として・・・“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)や、友部八太郎(ともべはちたろう)、大井幹三郎(おおいみきさぶろう)、渡邊伊衛門(わたなべいえもん:※使番)らの諸生から成る藩士ら総勢700名余り”が、「結成」される。(=諸生党勢)・・・ここで、ようやく・・・「(≒諸生党勢)」ではなく、「(=諸生党勢)」と表記出来る段階と云えますが・・・。
      ・・・そもそもとして、将軍・徳川家茂の親諭には、当時の幕閣と水戸藩の門閥保守派たる諸生党との綿密な打ち合わせがあった筈であり・・・当時の諸生党からすれば、藩政を回復させることを目的として、藩主のみならず将軍家(徳川宗家)や幕府からのお墨付きを授けられたことにより・・・長年に亘って藩内の反対勢力であった激派達を一掃するための口実を得た格好となります。・・・いずれにしても、この日の出来事が・・・水戸藩の内乱を深刻化且つ複雑化させることとなり、血み泥の粛清合戦の発端となってしまいます。・・・
      ※ 同年6月16日:「幕府」が、「上野高崎藩主・大河内輝照(※輝声、松平右京亮とも)」と「下総佐倉藩主・堀田正倫(ほったまさとも:※相模守とも)」に対して、“水戸藩への応援”を命じ・・・また、「常陸笠間藩主・牧野貞直(※別名は貞明や貞利とも)」に対しては、「暴徒討伐の任」を解く。・・・この時の笠間藩内は、かなり混乱していたため・・・“暴徒を討伐出来るような状態では無かった”・・・と、時の幕府が判断していたことが分かります。
      ※ 同年同日:“一橋家雇いの原忠敬(※名は忠成とも、通称は市之進、号は伍軒、藤田彪の従兄弟、水戸藩から出向中)”が、「備前岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟)」に、「書(簡)」を致して・・・“幕府要路における対立や水戸藩内紛などについての鬱憤(うっぷん)の情を訴えながらも、池田茂政と因幡鳥取藩主・池田慶徳(※池田茂政の異母兄)との間で協議をし、ともに(水戸藩〈水戸徳川家〉の)時難を、救済されるように”・・・と望む。・・・一橋家雇われの原忠敬としては、この頃仕えていた一橋慶喜公などの説得が不調に終わり、或る種の失望感に包まれながらも・・・もはや、ここに至っては・・・“残される頼みの綱が、水戸徳川家出身者達への働き掛けであった”と考えられます。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩士の林忠五郎(はやしちゅうごろう)や江幡広光(えばたひろみつ:※通称は貞七郎、別名として定彦)ら”が、「京都千本組屋敷(=町奉行所与力長屋)の外」にて、「一橋家側用人・平岡円四朗(ひらおかえんしろう:※名は方中、円外とも、幕府旗本出身の一橋家家老並)」を、「要殺(ようさつ:※待ち構えて殺すこと)」する・・・も、「一橋家使役・過人(≒非常勤の者)」であった「川村恵十郎(かわむらけいじゅうろう)」が奮戦し、“林忠五郎及び江幡広光両人”を討ち取る。・・・当時、平岡円四朗の主人に当たる一橋慶喜公は、公武合体派諸侯の中心人物とされていました・・・が、そこに暗躍した人物として、水戸藩士の攘夷派達から、「奸臣」と見做されていたのが、この時に暗殺された平岡円四朗と、同じく一橋家用人・黒川雅敬(くろかわまさたか:※通称は嘉兵衛、幕府旗本)だった訳です。
      ・・・ちなみに、このことからも・・・一橋慶喜公の傍には、ごく少数の水戸藩出身者であった原忠敬などよりも多くの幕府旗本出身者達が居たことが分かると同時に・・・彼ら双方ともに、出向元の意を汲み取ろうとするため、一つの政治課題を解決する手段においても、当然として二派に別れていたことなども推察出来るのです。
      ※ 同年6月17日:“小出順之助(※幕府旗本)と氷見貞之丞(※幕府旗本)を軍監とし、北条新太郎(ほうじょうしんたろう:※幕府旗本)を徒士頭とする(筑波勢)追討幕府軍総勢3,775名”が、「江戸」を発つ。・・・このことは・・・“幕府が、直属の陸軍をも動員したという意味合いを持つ”とともに・・・“筑波勢のことを、完全に賊徒と見做したこと”を物語ります。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)を陣将とする諸生党勢”が、「江戸」を発ち、「千住」において「追討幕府軍」と「合流」する。・・・追討幕府軍総勢3,775名と、ほぼ完全に同調しておりましたが・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩家老で鎮派とされる榊原照煦(さかきばらてるあき:※通称は新左衛門)、大久保忠貞(※通称は甚五左衛門、甚十郎とも)、鳥居忠順(とりいただまさ:※通称は瀬兵衛)、岡田徳至(※通称は徳之介、新太郎、兵部、信濃守とも、号は確翁)、加藤直博(かとうなおひろ:※通称は八郎太夫、四郎衛門とも)、白井久胤(しらいひさたね:※通称は忠左衛門、伊豆守とも)、太田原伝内(おおたわらでんない)などの尊皇攘夷派藩士や神官・農民ら”が、“前藩主・斉昭(※烈公)の遺書を奉じて、市川ら諸生党の排斥を訴えるためとして、水戸周辺の同志達ととも”に、「江戸」へ向かう。・・・このように、“水戸藩江戸屋敷や藩庁(=水戸城)にて藩執行部を牛耳り始めた諸生党に対する、強~い反発が生じていた訳です”が・・・これはもう、“同時多発的な一斉蜂起に近かった”かと。・・・但し、この時はまだ・・・“一部の人々を除いては、各々の腰刀や鍬などを携えた軽武装だった”とは考えられますが。
      ※ 同年6月18日:「幕府」が、“政事総裁職・松平直克(※武蔵川越藩主)に対する江戸城登城停止を解除する”と・・・“同月3日における松平直克の要求通り”に・・・“幕閣の板倉勝静(※備中松山藩主)や、酒井忠績(※播磨姫路藩主)、諏訪忠誠(※信濃諏訪藩主)、松平乗謨(※後の大給恒、三河奥殿藩及び信濃田野口藩主)ら4名”を「罷免」する。・・・幕府内における権力闘争なども、水戸藩内の事情と同様に・・・“一進一退の時局だった”ことが分かりますし・・・松平直克や板倉勝静らの江戸城登城停止措置そのものについては・・・喧嘩両成敗的、且つ両者の言い分を聞いた上での裁定に必要とされた一時的な措置と解釈出来るのかも知れません・・・が、同月3日から数えて、ちょうど14日(=2週間)後ということは・・・一言で云えば、“時の幕府による自己都合に因るもの”との解釈も出来るかと。・・・つまりは、“幕府が自らの軍事行動を示すため、実際の軍隊編成などに要する準備期間でもあった”かと。
      ※ 同年同日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)”が、「書(簡)」を、“肥後熊本藩主・細川慶順(ほそかわよしゆき:※後の韶邦)の弟”である「長岡良之助(ながおかよしのすけ:※後の護美)へ致して・・・“将軍・徳川家茂の帰東後における幕閣及び水戸藩内紛の情勢を告げながら、また自家(=一橋家)への嫌疑も少なからざる”・・・と述べる。・・・“かつては、将軍後見職をも務めた一橋慶喜公が、今回の幕閣人事の混乱や水戸藩内紛の情勢について、その責任の一端は自らにもあるとして、自己反省していた様子”が窺えます・・・が、これは・・・“少なくとも、(筑波勢)追討幕府軍総勢3,775名が江戸を発ったことにより、これらの事態の推移についてが、或る程度読めていたからだったから”かと。・・・もしかすると、この時点で既に、水戸藩内の鎮派とされる勢力による反発的な行動についても、予測していたのかも知れません。・・・
      ※ 同年同日:「備前岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟)」が、「書(簡)」を、「有栖川熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)」及び“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”へ、呈(※差し出すこと)して・・・“水戸藩内紛の鎮撫と藩論を反正(はんせい:※正しい状態にかえすこと)させるために、斡旋されること”・・・を請う。・・・ちなみに、この有栖川宮家(ありすがわのみやけ)と水戸徳川家は・・・故徳川斉昭の正室であり、藩主・徳川慶篤と一橋慶喜兄弟の実母である貞芳院(※名は吉子、芳子とも、有栖川宮織仁親王の第12王女)や、長兄・徳川慶篤の正室・幟子(たかこ)女王なども、有栖川宮家の出身者であるなど・・・そもそもとして、宮家と深い縁戚関係にあった訳ですが・・・後の西暦1867年(慶應3年)には、徳川慶篤や一橋慶喜の異母妹に当たる貞子が・・・兄・慶喜の養女とされた後に、ここにある有栖川宮熾仁親王と結婚されています。
      ・・・これらの事からも分かるように、水戸徳川家の場合・・・「徳川姓」を使用する武門家系ではありながら、実は京都の公家社会と伝統的に姻戚関係を結ぶなど、つまりは強い歴史的な繋がりを持っておりましたので、血統的に云えば・・・“徳川将軍家(徳川宗家)の血よりも、お公家さんの血がグッと濃く”なっております。・・・そのため・・・“尊皇攘夷思想や哲学を持つとされる水戸学の素地になった”と云っても過言ではありません。
      ※ 同年6月19日:“水戸で謹慎する水戸藩の前家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)が、江戸における諸生党の行状を知る”・・・と、激しく憤り・・・“長男の彦衛門(ひこえもん)や次男の魁介(かいすけ)ら”を従えて、再び「江戸」へと向かう。・・・これは、“水戸藩家老で鎮派の榊原照煦(※通称は新左衛門)らが江戸へ発った2日後のこと”となります。・・・
      ※ 同年6月20日:“幕府による将軍・徳川家茂の御前で行なわれた評議”において・・・“政事総裁職・松平直克(※武蔵川越藩主)が筑波勢への武力討伐に反対したため、老中・牧野忠恭(※越後長岡藩主)や井上正直(※遠江浜松藩主)から厳しく批判され、また他の奉行や目付達からも猛反発”される。・・・またもや・・・幕府内における権力闘争、巻き返しが図られた訳です・・・が、当時の幕府という主体の意思決定が・・・日毎に様変わりしていたことが分かりますし・・・“江戸の仇(かたき)を長崎で討つ”・・・的な?
      ※ 同年同日:「関白・二条斉敬(※徳川慶篤や一橋慶喜らの従兄弟)」が、“前日の朝議(※朝廷の評議のこと)”に基づき、「右大臣・徳大寺公純」に対して・・・“太平山に屯集する浪士からの建白や、備前岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟)への副書、因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、一橋慶喜の異母兄)らが建白した事への処置を、禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)に一任すべきか否か”・・・また、“石見津和野藩主・亀井茲監(かめいこれみ)による建白書を却下すべきか否か”・・・に関して、その意見を問う。・・・この頃の津和野藩は、長州藩に隣接していたことなどから、藩内の佐幕派と尊皇派との狭間で、かなり苦慮していた模様。・・・したがって、この時の建白書も、どちらかと云うと、いわゆる「長州征討論」に対しては消極的であり・・・当時の津和野藩としては、現実の長州征討を回避するため、朝廷へ働き掛けていたことが窺えます。
      ※ 同年同日:“水戸藩家老で鎮派とされる榊原照煦(※通称は新左衛門)らが率いる一団”が、「水戸藩・江戸上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも)」に「到着」する。・・・水戸藩の前家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)らよりも、一足先に江戸に到着していた訳です。
      ※ 同年6月21日:“筑波勢の田中愿蔵隊”が、「土浦城下」にて「土浦藩兵」と「交戦」し・・・「真鍋宿(現茨城県土浦市真鍋3丁目付近)」を「焼き討ち」する。・・・更には、「常陸国新治郡中貫村(現茨城県土浦市中貫)」や、「森沖新田(現茨城県土浦市沖新田)」に火を放った後に・・・「稲吉(現茨城県かすみがうら市稲吉)」を経て、「常陸府中」の「萬福寺(現茨城県石岡市茨城1丁目)」へ「宿営」する。・・・“田中愿蔵によって組織された”という・・・“この筑波勢別働部隊”が・・・同月5日から6日に掛けて行なった栃木宿への狼藉行為に続いて・・・この日、真鍋宿などでも、放火や略奪、殺戮行為などを働いたため・・・「改革急進・戊午の密勅返納反対派(=激派) = 暴徒集団の天狗党」として・・・特に、世間から認識された模様。・・・
      ※ 同年6月22日:「幕府」が、「松平直克(※武蔵川越藩主)」の「政事総裁職」を「罷免」する。・・・松平直克が罷免された理由は、同月20日の出来事です。
      ※ 同年同日:“水戸を発っていた水戸藩前家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)ら一行が、江戸に向かう途上の府中宿で橋本屋に投宿する”と・・・“既に水戸藩小川郷校(現茨城県東茨城郡小川町小川)に屯集していた尊皇攘夷派(≒激派)達が、武田正生ら一行の府中宿入りを聞きつけて、続々と府中宿を訪れるようになり、近隣の各寺院に宿営”した。・・・最終的には、この後に「天狗党勢」と呼ばれる武装集団を率いることになる武田正生ですが・・・これまでは、むしろ過激な行動を自重しながら、周囲に対しても同様に抑制させていたに違いなく・・この日の前後頃から、他の尊皇攘夷派(≒激派)達が、橋本屋に投宿していた武田正生に対して、強い要請や積極的な働き掛けが行なわれ・・・当時の武田正生としては・・・“次第に、武力を背景とした藩論の統一を目的とし、その後における攘夷決行も已む無しとの考えに変わっていった”・・・とするほうが、より自然なのかも知れません。
      ※ 同年同日:“筑波勢の田中愿蔵隊”が、「常陸府中」を離れて、「竹原宿(現茨城県小美玉市竹原)」へと移動し、「旅籠・伊勢屋」に「投宿」する。・・・
      ※ 同年6月23日:“この前日に、松平直克(※武蔵川越藩主)が政事総裁職を罷免されたこと”に続いて・・・“幕府内の水戸派とされる外国奉行・沢幸良(さわゆきよし)ら”が、この日、「幕府」によって「罷免」される。・・・やはり、この件も江戸時代の常套手段とされる喧嘩両成敗的な人事・・・と、思いきや・・・どうやら、そうではなさそうです。・・・これについては、明らかに・・・“水戸派と目され、また要職にあった人物の追い落とし人事”かと。
      ※ 同年同日:“水戸藩前家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)ら一行が、府中宿に集結した尊皇攘夷派達(≒激派)と共に江戸へ向かった”ものの・・・“同月21日に筑波勢・田中愿蔵隊による真鍋宿への焼き討ちによって、土浦城下が通行止めにされていたため”・・・已む無く「同国小川」へ向かう。・・・
      ※ 同年6月24日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、“江戸に到着した鎮派の榊原照煦(※通称は新左衛門)と大久保忠貞(※通称は甚五左衛門、甚十郎とも)、鳥居忠順(※通称は瀬兵衛)らの家老達”に対して・・・“早急に帰藩し、且つ藩士らの鎮撫についてを命じる”・・・と、“榊原照煦ら”が、「江戸」を発つ。・・・また、これと同時に、“藩政を掌握するためとして躍起になっていた家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)”が、「前家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)ら激徒(≒激派に与する者達)の鎮圧」を、藩内に命じる。・・・江戸に押し寄せた鎮派の集団を追い返して・・・激徒(≒激派に与する者達)の鎮圧を・・・。いずれにしても・・・これが、当時の水戸藩執行部(=諸生党)による正式回答であった訳です。
      ※ 同年同日:“とりあえず常陸国小川へ向かっていた水戸藩前家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)らの一団ではあったが、再び江戸に達する道へと、その進路を採る”・・・も、“またしても、その往く手を阻まれる”こととなり・・・「下総国小金駅(こがねのうまや)」の「東漸寺(とうぜんじ:現千葉県松戸市小金)」にて、“足止め状態”とされる。・・・そんな最中・・・“偶然にも、自藩士らの鎮撫命令を受けたために水戸へと引き返す榊原照煦(※通称は新左衛門)らの一団”が、この「小金駅」に「到着」する。・・・然るに、この「小金駅」において、“水戸藩の藩政改革などについてを謀議した諸士ら(※武田正生や榊原照煦などのこと)”が、「書(簡)」を、“藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)へ上呈し”・・・“家老・佐藤信近(※通称は図書)や朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)らを退けるとともに、横浜鎖港を実施すべきことなどを嘆願する”・・・と決する。
      ・・・この小金駅での場面は・・・“ここまでの流れを見る”と、確かに・・・偶然に鉢合わせしたようにも想えますし・・・また反対に、特定の人物同士が、あらかじめ示し合っていたか? のようにも感じられますが・・・“真相は、藪の中と云ったところ”でしょうか?
      ※ 同年同日:“水戸に居た国家老・戸田忠則(※通称は銀次郎、戸田忠敞の嫡男)や側用人・藤田健次郎(※健二郎、建二郎とも、藤田彪の次男、信の兄)、萩清衛門(はぎせいえもん)、豊田靖(とよだやすし:※通称は小太郎、号は香窓、水戸学者豊田天功の長男)、栗田寛剛(くりたひろたけ:※通称は八郎兵衛、奥右筆)、矢野唯之允(やのいのすけ?)ら数十名”が、水路を用いて、「江戸」へと向かう。・・・尚、“これと前後して、藩の士庶(=武士や庶民も)で江戸に向かう者が相次ぐ”こととなり・・・“共に藩論を挽回し、家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らを排斥しよう”とする。・・・“水路を用いて”とありますので、国家老・戸田忠則などとしては・・・“既に、江戸への陸路が幕府方や諸生党らにより遮断されていた事を知っていた”と同時に・・・同月17日の榊原照煦ら鎮派一団の水戸出立や、同月19日の武田正生ら一団の水戸出立などとは別にして・・・成功確率が高く、且つ“より早く江戸に到達し得る方法”を選択していたことが分かります。
      ・・・これは、“当時江戸に定府していた藩主・徳川慶篤への危急の報せとともに、この事態に至った詳細説明をするためだった”・・・と考えて、まず間違いないでしょう。
      ※ 同年6月25日:“山城国山崎に屯集した浪士の真木保臣(まきやすおみ:※元筑後久留米藩士、元水天宮の祠官)や、長州藩士の久坂玄瑞と入江九一(いりえくいち:※別名は河島小太郎)ら”が、“尾張や水戸など諸藩の京都留守居役”へ、「陳情書」を致して・・・“上京の趣旨についてを述べる”・・・とともに、「斡旋」を「依頼」する。・・・
      ※ 同年同日:“筑波勢に向けられた追討幕府軍”が、「下総結城」に、続々と到着し始める。
      ※ 同年6月26日:“水路を用いて江戸に向かった水戸藩国家老・戸田忠則(※通称は銀次郎、戸田忠敞の嫡男)と側用人・藤田健次郎(※健二郎、建二郎とも、とも、藤田彪の次男、信の兄)ら”が、「水戸藩江戸上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも)」に、「到着」する。
・・・“水戸を出立して、たったの2日後に江戸へ到着した”のです。・・・ズバリ、水路を用いたから。
      ※ 同年6月27日:「幕府」が、「水戸藩」に対して・・・“下総国小金駅に屯集する藩士ら(≒榊原照煦ら率いる一団と合流した武田正生らの尊皇攘夷派集団)を解散させ、その帰国を命じる”・・・とともに、“下総国松戸や同国市川、武蔵国中川番所の警戒を、更に厳とし”・・・“下総佐倉や同国小見川、同国生実(おゆみ)、常陸麻生などの諸藩”に対しても、“常陸利根川付近を警戒するように”と命じる。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩の市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らが率いる諸生党勢”が、「追討幕府軍」に続いて、「下総結城」に「到着」し、そこで・・・“前家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)らが大挙して江戸に向かった”・・・との報を聞き及ぶと、「書(簡)」を、「水戸城代・鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)」へ寄せて・・・“武田正生らに対する出兵”を求める。・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩家老・大久保忠貞(※通称は甚五左衛門、甚十郎とも)」が、「下総国小金駅」から、「水戸藩江戸上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも)」に、「到着」する。・・・この時の大久保忠貞も・・・国家老・戸田忠則や側用人・藤田健次郎らと同様に・・・“諸士らとの小金駅評議の結果とともに、江戸定府の藩主・徳川慶篤へ、この事態に至った詳細説明をするため”として・・・“忠貞を含む少人数での行動だった”と云えるでしょう。
      ※ 同年6月28日:「幕府」が、“松平直克(※武蔵川越藩主)による政事総裁職の退職願提出”を以って、この事を令するとともに・・・“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)を、専ら横浜鎖港の事に任じて、しばしば江戸城に登営すべき”・・・と、「布達(ふたつ:※官公庁などが広く人々に知らせること、通達すること)」する。・・・まずは、松平直克についてですが・・・結局は、今で云う「依願退職」や「自主退職扱い」とした体裁となっています。・・・尚、この時の幕府としては・・・水戸藩主の徳川慶篤や、その慶篤を後押しす朝廷、或いは筑波勢などが声高に叫ぶ横浜鎖港という政策に対する・・・“出来るものならやってみよ”という「意思表明」だったようにも感じてしまいます。何故なら・・・水戸藩では、諸生党と呼ばれる門閥保守派達が藩政を急速に牛耳り始め・・・領内各地では、より尊皇攘夷思想が強い激派達と、大勢の鎮派達が合流し始め・・・何処かで火花が飛び火してしまうと、いつでも内紛に発展しかねないような時期でしたから。
      ・・・いずれにしても・・・“水戸藩主・徳川慶篤を、専ら横浜鎖港の事に任じて、しばしば江戸城に登営すべき”・・・という部分に、幕府による皮肉が込められていると感じるのは、私(筆者)だけでしょうか?
      ※ 同年同日:“前日の大久保忠貞(※通称は甚五左衛門、甚十郎とも)”に続いて・・・“当初は水戸へと引き返す筈であった榊原照煦(※通称は新左衛門)と鳥居忠順(※通称は瀬兵衛)ら”が、「下総国小金駅」から「水戸藩江戸上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも)」に「到着」すると・・・“戸田忠則(※通称は銀次郎、戸田忠敞の嫡男)らとともに、水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)”に「謁(見)」して、それぞれの「意見」を述べる。・・・つまり・・・“彼らは、前藩主・斉昭(※烈公)の遺書を示して、諸生党の罪責及びその排斥を訴えた”のです。
      ※ 同年6月29日:“長州兵らが京都に集まっているため”として・・・「朝廷」が、「禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」に対して、“その鎮撫”を命じる。・・・京都周辺も、かなりキナ臭い状況となっております。・・・更には、水戸藩(水戸徳川家)の出身者達は、どうにもこうにも・・・当時の長州藩と関係付けられたり(※確かに藩内の一部勢力とは盟約もありましたが)・・・反対に、このような鎮撫を命じられたりと・・・兎角、“長州征討論を軸に、物事が進んでいるよう”に想えます。・・・まぁ、致し方ない政治状況だったとも思えますが。
      ※ 同年6月内:「水戸藩庁(=水戸城)」が・・・“党派の分立を戒(いまし)めるように”・・・と、“自藩の領内各地”へ令す。・・・これは、当然に・・・諸生党が考える藩論に統一しようとする政策に依るものでしたので・・・そう易々とは・・・当時の藩士民ら個人の思想や、高揚していた熱気を冷ますほどの効果は無かったように想えます。


・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】