街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 同西暦1860年(万延元年)7月内:「水戸藩士」の「西丸亮(さいまるあきら:※通称は帯刀、号は松陰)」、「野村鼎実(のむらかねざね:※通称は彝之介、号は清籟舎、箕水とも)」、「住谷信順(※通称は寅之介、変名は小場源介、加藤於菟之介とも)」らが、“長州藩の桂小五郎(かつらこごろう:※後の木戸孝允)や松島剛蔵(まつしまごうぞう)らと連帯して行動すること”を約して(=丙辰丸の盟約、成破盟約、水長の盟約とも)、これに基づいた「幕府老中・安藤信正(※陸奥磐城平藩主)暗殺」や“横浜における外国人襲撃”が「計画」される。・・・しかし、この頃の長州藩内は、もともと開国論者だった長井雅楽(ながいうた)による公武合体論が藩の主流を占め始め、結果として長州藩士の参加が困難になっていたために・・・長州側は、これらの計画延期を水戸側へ提案します・・・が、一方で機を逸することを案じた水戸側は、長州側の後援無しの状況で攘夷を実行することに・・・。そこで、水戸側の志士らは、宇都宮にいた儒学者・大橋訥庵の一派と連携して、安藤信正暗殺計画を具体的に進めます。
      ・・・水戸側志士らと大橋訥庵一派の計画では、当初は同年12月15日に決行する予定でしたが、要員不足などの諸事情から12月28日に延期が決定されます・・・が、これが更に延期されることとなり・・・翌年1月15日が、“諸大名が江戸城に総登城し将軍へ拝謁する”という「上元(じょうげん:※小正月のこと)の嘉例式日」であったため、その機会を狙うことに。・・・しかし、決行直前の1月12日、計画の一部が露見してしまい、大橋ら宇都宮側の参加者が幕府によって捕縛されてしまいます。・・・結局のところ・・・この計画の露見によって、当初の幕府老中暗殺計画は大きく狂うこととなり、水戸脱藩の志士達を中心とした残りの参加者だけで実行することに。・・・

      ※ 同年8月15日:“水戸城中で永蟄居中の徳川斉昭が、幕府から処分が解かれぬまま”に「急逝」し・・・“端竜山(ずいりゅうさん:現茨城県常陸太田市瑞竜町にある水戸徳川家累代の墓所)に葬られる”・・・と、「烈公(れっこう)」と諡される。享年61。・・・“徳川斉昭が満月を観覧し、厠(かわや)に立った後に倒れた”と伝えられており・・・また、“壮年の頃から狭心症の症状が診られていたため、直接的な死因は心筋梗塞であった”と推定されています。・・・尚、同年3月に起こった「桜田門外の変」から間もない時期であったため、その報復として彦根藩士に暗殺されたのではないか? という当時の風説があったようです・・・が、当時の彦根藩の調査により否定されております。・・・ちなみに、この徳川斉昭急逝などが影響し、水戸藩内部の事情が定まらなかったことによって・・・「丙辰丸の盟約」や「成破盟約」、「水長の盟約」とも呼ばれる幕府老中・安藤信正暗殺計画の決行予定日を目前にしていながら・・・結果として、“これが更に日延べとなった”と考えられます。

      ※ 同年9月4日:「幕府」が、“一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)や尾張藩主・徳川慶恕(※後の慶勝)、越前福井藩主・松平慶永(まつだいらよしなが:※号は春嶽)の謹慎処分”を「解除」する・・・も、“彼らへの面会や文通について”は、尚も禁じる。・・・

      ※ 同年12月4日:“薩摩藩尊皇攘夷派志士の伊牟田茂時(いむだしげとき:※通称は尚平、伊勢吉とも、変名は永頼、相良武振とも)や神田橋直助(かんだばしなおすけ)、樋渡清明(ひわたしきよあき:※通称は八兵衛、後に五助)ら”が、赤羽広小路ないし芝赤羽新門前町付近において、「アメリカ公使館員ヘンリー・ヒュースケン」へ斬り掛かり・・・この翌日に、「ヒュースケン」が「死亡」する。・・・このヒュースケンは、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの秘書兼通訳を務めており、当時の尊皇攘夷派志士達からすれば、かなりの有名人。・・・時の幕府は、この事件直後から、“辻番所に外国人保護を訴える標識を立てたり、外国御用出役(がいこくごようでやく)を新設するなど、在留外国人達の警護に努めました”・・・が、この後も外国人に対する襲撃事件が続いてしまいます。・・・

      ※ 同年内:“アメリカ人写真師の某(なにがし)”が、「幕府」に対して、“遣米使節随行員を撮影したガラス写真70枚及び覗眼鏡(のぞきめがね)”を贈る。・・・これらが、後に「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」へ「献上」される。・・・尚、この頃の一橋慶喜は、幕府から課せられた謹慎処分は解除されていた模様。但し、面会や文通については尚も禁止されていたため、“後に献上された”と日記に残されている”とのこと。・・・「覗眼鏡」とは、① 箱の一方に凸レンズを取り付け、他方に絵をはめ込んで、拡大して見せる装置。覗き機関(からくり)を含めて云うことも。 ② 水中や海中を見られるように、底にガラスを張った箱。「箱めがね」とも。・・・いずれにしても、万延元年遣米使節の派遣が実施され、「桜田門外の変」が起こり、更に徳川斉昭が急逝して烈公と呼ばれるようになったため、少なからず幕府内の政治力学的なバランスが変化したためかと。
      ・・・ちなみに、ここにある遣米使節のことを、この渡航期間中に改元されていたため「万延元年遣米使節」と呼びますが・・・同年9月27日に遣米使節団が品川沖に帰着し、その翌日に下船しておりますので・・・ここにある記述内容は、“少なくとも同年10月以降の事である”と推察出来ます。・・・そして、この時の一橋慶喜は、数えで24歳。

      ・・・年が明けて、西暦1861年(万延2年)になると・・・
      ※ 西暦1861年(万延2年)2月3日:「ロシア帝国海軍所属・軍艦ポサードニク号」が、「対馬」に来航し・・・“尾崎浦に投錨して測量を行なう”・・・と、浅茅湾(あそうわん)内へ「進航」してしまう。・・・“ポサードニク号の乗員らは、この後半年間余りを、対馬芋崎(現長崎県対馬市美津島町昼ケ浦)に上陸して、そこに兵舎や工場、練兵場などを建設し占拠”した。(=ロシア軍艦対馬占領事件、ポサードニク〈※またはポサドニック〉号事件)・・・いずれにしても、この頃のロシアの思惑は、“極東地域における根拠地の獲得と南海航路の確保にあり、当時アジア一帯に広大な植民地を抱えるイギリスに、先を越されて対馬が租借されることを恐れていた”と云われます・・・が、この事件そのものが、少々ややこしいために・・・当ページ中では、どうしても前後してしまうところもありますが・・・以下に時系列で纏(まと)めてみます。



      この事件が起こった直後、現地の対馬藩主・宗義和(むねよしより)は、尾崎浦に投錨中であったポサードニク号へ、当然のことながら自家の重臣を急派して、非開港場における投錨の非を責めた上で、速やかに退帆するよう抗議します。
      しかし、対馬藩からの抗議に対しては・・・ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフ艦長が、“船が難破して航行に耐えられず、修理のために来航した旨”を回答するとともに、軍艦修理に要する工場などの設営資材や食料のみならず・・・あろうことか? “遊女まで要求した”とのこと。
・・・確かに、西暦1854年(安政元年)12月21日には日露和親条約が締結され、それより四年後の西暦1858年(安政5年)7月11日には日露修好通商条約が締結されておりますが、“遊女を提供する”といった事柄が両国間の正式な外交文書に含まれる筈は無く・・・当然として、この時の対応を巡っては、武力による排撃を主張する尊皇攘夷派と、紛争を避けようとする穏健派との間で論争が巻き起こることになり、対馬藩内が騒然となってしまいます。・・・
      それでも藩主・宗義和は、事を荒立てずに解決しようと接しながら、ロシアによる不法行為については幾度か詰問しました・・・が、これに対するポサードニク号の乗員らは、無回答を貫きつつ・・・も、ロシアの武力を背景に対馬島民を脅かしたり、これと反対に懐柔したり、木材や牛馬、食糧、薪炭などを強奪或いは買収するなど、芋崎を占拠する準備を整え始め・・・更には、短艇を操って沿岸部を測量し、山野を探検しては獣を捕獲したり、中には島民の婦女子を追跡して脅かすロシア水兵も居たため・・・しばしば島民達が激昂するなど、現地では騒動が起きることに。

      このような状況下の同西暦1861年(文久元年:※同年2月19日に改元されたため)3月23日、ビリリョフ艦長が、対馬藩に対して、“イギリス艦隊が対馬に来襲する計画であることを警告するとともに、藩主・宗義和への面会を再三要求するようになり、更には芋崎における租借地まで求めた”ため・・・対馬藩は、これらの対応に苦慮し、面会要求については拒否しながら、長崎と江戸へ急使を派遣して幕府の指示を仰ぐことになります。
・・・ロシア側としては、強引にでも対馬藩に租借地・芋崎を承諾させて、これを更に既成事実として幕府へ認めさせるという戦略であった訳ですが・・・ポサードニク号対馬来航より約一月が経過すると、事態は更に悪化してしまうことに。・・・

      同年4月12日、ロシア兵達が短艇に乗って、大船越(現長崎県対馬市美津島町大船越)の瀬戸(※水上の関所的な水門のこと)を通過しようとした際には、当然のこととして対馬藩の番所付き警備兵や村人達が制止する・・・と、ロシア兵達が農民・安五郎(やすごろう:※死後に士分扱いとなったため、松村安五郎とも)を銃殺し、更には番所付き郷士の吉野数之助(よしのかずのすけ)と大塚清蔵(おおつかきよぞう)2名を捕虜としてポサードニク号へ連行。・・・とうとう死者を出す事態に。・・・しかも“深手を負っていた”という吉野数之助は、虜となったことを恥辱とし、ロシア側の手当を拒んだ上で自身の舌を噛み切り自害。そして、この日のロシア帝国海軍による暴挙は、これらに止まらず、更に番所を襲撃し備付けの武器類を強奪し、数人の村人達及び牛7頭を奪って帰船。・・・

      翌13日には、ロシア水兵100人余りが大船越村に派兵されて、組織的な集団による略奪が行なわれてしまいます。
・・・この事を当時の言葉で表現すれば、単に「異国人らによる狼藉行為」となる訳です・・・が、日本側・・・特に、外交や通商の歴史上、長年に亘って対李氏朝鮮王朝や対中国清王朝の窓口的な役割を地政学的に担っていた対馬の人々からすれば、異国人による侵略行為として目に映った筈であり・・・これはもう、かつての豊臣秀吉が行なった「唐入り」の際の混乱状況に匹敵していたのではないでしょうか?・・・いずれにしても、このような事態は、“暴動或いは本格的な戦争状態の一歩手前の状況にあった”と云えます。・・・一方で、ロシア側・・・特に、当時のビリリョフ艦長にしてみれば、“多少の犠牲者を双方ともに払ってでも、ロシア帝国の狙いを達成するためとして、かなり際どいデモンストレーション的行動に踏み切った”ようにも想えてしまいます。
      ・・・つまりは、“偶発的な事件であると装ってはいても、ここにロシア以外の外国勢力からの干渉を受ける前に、何らかの成果を上げたい”という、一種の焦りのようなものが感じられる訳です。
      このように悪化した事態を収拾するため、対馬藩主の宗義和は・・・ポサードニク号に対し速やかに対馬を退去することを要求しながらも、和親条約上の最低限の物資と考えられる米や塩、薪炭をポサードニク号へ贈ることで、柔軟的な対応を見せるとともに・・・本格的な国際紛争を避けるためとして、藩内の士民達に対しては軽挙を戒めながらも・・・その一方では、“対馬の沿岸部へ密かに砲台を築造したり、対馬藩の飛び領地であった肥前国基肄(きい)郡田代(現佐賀県鳥栖市田代上町)から代官率いる手兵を対馬に渡らせるなど、軍事衝突という最悪の事態にも備えていた”とのこと。
      尚、この事態にあって、対馬藩から急使を派遣された長崎奉行・岡部長常(おかべながつね:※幼名は彦十郎、官途は兵衛尉、右兵衛尉、駿河守とも、幕府旗本)は、対馬藩に対しては紛争を回避するように慎重な対応を指示する一方で、不法行為を詰問する書をビリリョフ艦長へと送り、佐賀や筑前、長州をはじめとする西国の隣藩諸侯にも実情を調査させて、対応策を協議するも、有効且つ早期の一手は打てず。
・・・
      対馬藩から急使を派遣された江戸幕府(=徳川幕府)の対応は? と云うと・・・“そのような事態に至っている”との報告を受けてから初めて驚き、当時の箱館奉行・村垣範正(むらがきのりまさ:※初名は範忠、通称は与三郎、官途は淡路守、号は淡叟、幕府旗本)に命じて、“同地駐在のロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチに対してポサードニク号の対馬からの退去を要求させる”とともに・・・対馬において犠牲者が既に発生していた同年4月13日に、“万延元年遣米使節団の一員で、当時の外国奉行・小栗忠順(※通称は又一、後の小栗上野介、幕府旗本)を、再び咸臨丸に乗船させ対馬へ急派し、現地において事態の収拾に当たらせる”ことに。
      ・・・“初めて驚いた”という部分については、当時の伝達手段上どうしても時差というかタイムラグがありましたし・・・幕府は、この事件が起こる以前からロシア帝国と樺太国境制定に関して正式に協議していたため、“ゆめゆめ相手方が暴挙に至るなどという発想に至らなかった”という事情については、同情的な感情を一定程度覚えますが、やはり・・・これが、当時の日本の外交力の限界点と考えるべきなのでしょうか?・・・時の幕府は、報告直後に外交政策を決定するための基礎的調査に執り掛かりますが、それ自体が後手に回っていたという感は否めませんし、どうしても基礎的な情報量不足と仮想的想定事案への準備不足を感じてしまいます。・・・これらは、長崎の出島や、朝鮮通信使節の渡航ルートとなっていた対馬藩などに頼って、一定の外国勢力とだけ長らく交流していたツケ的な現象だったのでしょうか?
      ・・・おそらくは・・・「桜田門外の変」で斃(たお)れた井伊大老など開国路線に舵を切った幕閣らは、当然に幼少期から「孫氏の兵法」ぐらいは自身の素養としていた筈ですので、“彼を知り、己を知れば”という理屈や、哲学的思想に関して決断する能力及び決断を下した事案を実行する資質については、何ら問題は無かったと考えられます・・・が、如何せん・・・当時の西欧諸国による強かな帝国主義・覇権主義がアジアにも急速に拡がっていたことと、蒸気機関が発明され大洋航海のスピードが格段に増していた時期が重なっていたために、自国による外国勢力に対する調査能力不足や、この能力を補うための技術力や資金力の不足・・・特に、この事件に関して云えば、ロシア帝国の実態や全体像を知り尽くし、且つ生存して幕府関係者へ伝えられる人材の不足などが、少なからず影響していたのではないか? と考えられます。

      同年4月22日には、“ビリリョフ艦長の警告通り”に、イギリス艦2隻が対馬尾崎浦に出現。

      四日後の26日には、更にイギリス艦1隻が対馬尾崎浦に出現。

      しかし、翌日の27日には、イギリス艦3隻全てが対馬を退去する。
・・・これらイギリス艦3隻の対馬出現は、イギリス東洋艦隊によるロシア艦に対する偵察行動だったのか? 若しくは、現地の状況次第で、ロシア艦の行動に追従する狙いがあったのか? については、“あくまでも不明”とされますが・・・
      翌28日、幕府が、箱館奉行所の調役・水野正太夫(みずのしょうだゆう)らを、“ロシア領の貿易及び国情調査のため”として、ロシアの尼港(にこう:※ロシア東部・アムール川河口の港湾都市ニコラエフスク・ナ・アムーレの日本名)へ出発させる。・・・この調査団は、同年6月1日に尼港に到着すると、目的の調査を行なった後の同年7月16日に尼港を発して、同年8月9日に箱館へ帰還しています。・・・当時の幕府も、出来得る限りの手段を講じてはいたのですが・・・調査団が箱館へ帰還したのが8月9日のことであり、持ち帰った調査内容については、箱館奉行・村垣範正による外交交渉には反映されていたのでしょう。・・・しかし・・・仮に、帰還直後に箱館から江戸へ急使を派遣したとしても、方針決定を迫られていた幕府老中・安藤信正(※陸奥磐城平藩主)などの幕閣まで、この調査内容が無事に届けられ、且つ重要な方針決定の瞬間に間に合っていたのか? については、かなり微妙な状況ではあったかと。
      ・・・それでも、“この帰還航路が、もしも・・・同年7月16日に尼港を発して、その調査結果を直接、江戸城へ届けた後に、箱館へ帰還した・・・つまりは、同年4月28日の箱館出港時点において、現地調査団があらかじめ江戸城への報告を第一優先と命じられていた場合には、幕閣も重要な方針を決定する時点において、ロシア軍艦による対馬占領の件に対応する基礎資料を持ち得ていた”とも考えられます。・・・個人的には、せめて・・・“後者であった”という可能性を信じたいところではあります。・・・

      同年5月7日、咸臨丸に乗船した外国奉行・小栗忠順(※通称は又一、後の小栗上野介、幕府旗本)が、対馬に到着する。

      三日後の同年5月10日、外国奉行・小栗忠順(※通称は又一、後の小栗上野介、幕府旗本)が、ポサードニク号のビリリョフ艦長と第一回目の会談を行ない・・・“この会談でロシア側は、対馬藩からの贈品への謝礼を口実として、藩主・宗義和への謁見を強く求め、小栗は謁見を許可する旨”を回答する。
・・・

      四日後の同年5月14日、外国奉行・小栗忠順(※通称は又一、後の小栗上野介、幕府旗本)とビリリョフ艦長との第二回目の会談が行なわれ・・・“小栗がロシア兵による対馬無断上陸を、和親条約違反”として抗議する。

      それより四日後の同年5月18日、外国奉行・小栗忠順(※通称は又一、後の小栗上野介、幕府旗本)とビリリョフ艦長との第三回目の会談が行なわれ・・・“対馬藩主謁見の実現を求めていたビリリョフ艦長に対して、小栗が(※幕府老中・安藤信正が、対馬藩主へのビリリョフ艦長の謁見が、結果的に対馬居留を認めることに繋がるためとしていたため)、謁見は実現出来ない”と前言を覆した回答をすると・・・今度は・・・“話が違うと、ビリリョフ艦長が猛抗議を行なった”・・・が、それでも・・・この時の小栗は、「私を射殺しても構わない」と言い放って、この交渉を打ち切る。
・・・

      翌日の同年5月19日には、幕府が水野正太夫のロシア調査のための派遣とは別に、外国奉行・水野忠徳(みずのただのり:※初名は忠篤、官途は筑後守、下総守、号は癡雲、幕府旗本)に対して欧州派遣を命じる。・・・

      翌日の同年5月20日には、要領を得ぬままビリリョフ艦長との交渉を打ち切った外国奉行・小栗忠順(※通称は又一、後の小栗上野介、幕府旗本)が、対馬を離れて江戸へと向かい・・・江戸に戻った小栗が、老中・安藤信正(※陸奥磐城平藩主)に対して、“①対馬を幕府の直轄領とすること、②今回の事件の折衝は正式の外交形式で行なうこと、③これまでの経緯(いきさつ)についてを国際世論に訴えることなど”を提言する。・・・①については、現代の外交・領土問題でも、似通った出来事があったような?・・・

      一方で、対ロシア交渉に行き詰まっていた対馬藩が、同年5月26日には、とうとう藩主との謁見を実現せざるを得ない状況に至る。・・・

      二日後の同年5月28日には、イギリスの特命全権公使オールコックらが、江戸近郊において、水戸藩を脱藩した尊皇攘夷派浪士15名によって襲撃される(=第1次東禅寺事件)も、オールコックは危うく難を逃れる。・・・?!・・・

      同年6月1日、ビリリョフ艦長がポサードニク号を対馬府中(現長崎県対馬市厳原町桟原)へ回航させると、実際に部下を従えて藩主・宗義和に謁見を果たす。・・・するとロシア側は、そこで短銃や望遠鏡、火薬、家禽など数種を献じて、長日滞留の恩を謝した・・・が、“(意図的且つ巧妙に)芋崎地のロシア帝国への永久租借権をも要求し、その見返りとして大砲50門の進献や警備協力など”の追加的な提案まで持ち掛けた。・・・それでも、この時の対馬藩は、“その件ならば、幕府へ直接交渉して欲しい”と回答して、ロシア帝国の要求を咄嗟に躱(かわ)し、事実上の拒否通告を致しましたが。・・・尚、この時のロシア人達の態度に対しては、“対馬藩の士民達も、激怒はしたものの、辛うじて事なきを得た”とされます。・・・きっと、“島民の誰もが、忍の一字の如くに、この局面を耐え抜いて居られた”と考えられます。

      同年7月9日には、幕府老中・安藤信正(※陸奥磐城平藩主)ら幕閣が、イギリス公使オールコック及びイギリス海軍中将ジェームズ・ホープと、当時の政治課題でもあった開港延期問題の他にも、このロシア軍艦対馬占領事件についても協議するに至り・・・“この中で、イギリス側が、自国艦隊の軍事的な圧力によるロシア軍艦退去を提案した”とされる。・・・尚、この時の協議によって、幕府方針が定まったことで・・・結果として自身による提言内容が早期に受け容れられなかった小栗忠順が、同年7月内に外国奉行を辞任してしまいます。・・・

      同年7月11日、幕府が各国公使館を品川御殿山に設置することを許可する。・・・

      九日後の同年7月20日、幕府が外国奉行・野々山兼寛(ののやまかねひろ:※官途は丹後守、幕府旗本)と目付・小笠原廣業(おがさわらひろなり:※官途は摂津守、讃岐守、甲斐守、伊賀守とも、幕府旗本)に対して、対馬への新たな派遣を命じる。・・・おそらくは・・・この直前に、時の幕府によって、このロシア軍艦対馬占領事件への対応方針が定まったためかと。

      それより三日後の同年7月23日に、イギリスのホープ中将が率いる軍艦2隻(※エンカウンター号及びリンドーブ号)が対馬に到着し、ロシア帝国海軍ポサードニク号に対する示威行動と厳重抗議を行ないながら、対馬からの退去を要求する。・・・しかしながら、“この時のイギリス東洋艦隊の行動の背景には、特命全権公使オールコックが自国による対馬占領をも想定し、それを本国政府へ提案していた”とする指摘もあり。・・・

      同年8月15日、ロシア帝国海軍のポサードニク号が、対馬を去って、箱館に向かう。・・・ようやく・・・

      それより5日後の同年8月20日、箱館奉行・村垣範正(※初名は範忠、通称は与三郎、官途は淡路守、号は淡叟、幕府旗本)が、ロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチとロシア艦隊中国海域艦隊司令官イワン・リハチョーフ大佐と会談を持ち、そこで再び対馬占拠に対する抗議を行なうとともに、日露間における樺太の国境制定に関する協議を再開する。・・・これにより、それまではポサードニク号のビリリョフ艦長の行動をそのままにしていた総領事ゴシケーヴィチが、イギリスによる軍事的且つ外交的な干渉を知ると、ロシアが形勢的に不利と判断するに至り・・・ビリリョフ艦長を説得するためとして、軍艦オプリーチュニク号を対馬へと急派させる。・・・

      三日後の同年8月23日、幕府がロシア帝国海軍による対馬占拠に関して、ロシア帝国外相のアレクサンドル・ゴルチャコフへ公式に抗議する。・・・

      それより二日後の同年8月25日、ロシア総領事ゴシケーヴィチにより派遣されていたオプリーチュニク号が対馬を退去する。・・・この10日前に対馬を去ったポサードニク号は、蒸気機関で航走する軍艦でしたが・・・この日に対馬を退去したオプリーチュニク号は、当時クリッパー船と呼ばれていた快速帆船型の軍艦でしたので・・・おそらくは、雨などの気象条件や何らかの事情によって、日本海海域内のどこかで、お互いを確認出来ぬまま、両船がすれ違ってしまったのかと想われます。・・・

      同年9月内、外国奉行・野々山兼寛らが、幕命を奉じて対馬へ渡航すると・・・“箱館談判の決議に基づいて、ロシア艦滞泊後の善後処置に着手し、対馬におけるロシア人の造営物を破壊し、その資材については長崎へ保管した”とされる。・・・これにて、対馬で起こったロシア軍艦対馬占領事件は、収束に一応向かう訳です・・・が、これより37年も前の出来事として・・・西暦1824年(文政7年)には、“常陸大津浜沖(現茨城県北茨城市大津町)からイギリス捕鯨船乗組員12人が無断上陸してしまう”という事件(=大津浜事件)が発生しており・・・この時の事件対応を巡っては、“後の水戸藩の藩論を、ほぼ三極化(※一般に守旧派と考えられている門閥保守派、この対極とされる改革急進派〈=激派〉、激派ほどには過激な行動を採らずに改革を進めようとする鎮派〈ちんぱ〉の三大派閥)させ始める契機だった”とも考えられますし・・・そして何よりも、外国人を中心に巻き起こった事件に対応しなければならないという諸藩の事情には、一定の共通性が見られ・・・
      ・・・更には、大津浜事件の対応を契機として、「(後期)水戸学」などを基軸とした海防論(=国防論)が具体的な研究対象とされていたため・・・当時の水戸藩士民達の感覚を、一言で云えば・・・大津浜事件から約37年後に起きることになってしまったロシア軍艦対馬占領事件の事を、遠く離れた島で起きた他人事(ひとごと)と割り切ることは出来なかったとも想います。



      ※ 西暦1861年(万延2年)2月19日:“讖緯説(しんいせつ)に基づいた辛酉革命(しんゆうかくめい)の年に当たるため”として、「万延」から「文久」に「改元」される。・・・「讖緯」とは、古代中国で行なわれた予言のことであり、讖緯の説、讖緯思想、図讖などとも呼ばれます。・・・尚、この改元の際には・・・朝廷や幕府の一部から、翌年が辛酉革命による改元の年(※且つ当時の慣習では辛酉改元が2月に行なわれる事になっていた)であるのに、一年足らずでの改元はおかしいとする異論が出されたものの・・・“黒船来航以来、国内情勢の混乱に危機感を懐いた孝明天皇の強い御意向によって行なわれた”とも云われます。

      ※ 同西暦1861年(文久元年)5月28日午後10時頃:“水戸藩を脱藩した尊皇攘夷派浪士15名が、イギリスの特命全権公使に昇格していたラザフォード・オールコックら”を「襲撃」する。(=第1次東禅寺事件)
      ・・・水戸藩を脱藩した攘夷派浪士15名が、武蔵国荏原郡高輪(現東京都港区高輪3丁目)の東禅寺にあったイギリス公使館内へ侵入し、オールコック公使らを襲撃。・・・事件当時の東禅寺には、外国奉行の配下で公使館警備を任務とし、幕府講武所(こうぶしょ)から派遣されていた別手組(べってぐみ)とともに大和郡山藩及び三河西尾藩の藩士らの総勢約200名が応戦することとなり・・・邸の内外で攘夷派浪士達との戦闘が繰り広げられて、双方ともに死傷者(※警備側2名が死亡、警備側10数名が負傷、襲撃浪士側3名が死亡)を出します。・・・ちなみに、「講武所」とは・・・幕末期に幕府が設置した武芸の訓練機関であり、諸役人や旗本、御家人、その子弟らを対象とし、剣術を始めとした洋式の調練や砲術などが教授されていました。・・・講武所の所在については、当初期には江戸築地・鉄砲洲(現東京都中央区湊付近)に置かれましたが、後に「講武場」として正式に発足する際には、神田小川町へ移転しています。
      ・・・尚、講武所の別手組とは・・・当時に外国人殺傷事件が懸念され、これらが実際に多発したため、西暦1861年(文久元年)1月に幕府が急遽結成させた在留外国人などを護衛する組織であり、旧名は「外国御用出役」とも。
      ・・・この襲撃事件は・・・襲撃側の水戸浪士達が、南品川にあった虎屋で用意周到に準備し・・・当日午後8時頃に虎屋を出て、襲撃現場・東禅寺近くの泉岳寺(現東京都港区高輪2丁目)に集結。・・・そして、“オールコック一行が東禅寺に入り暫らく経った午後10時頃、この東禅寺へ三手に別れて襲撃し、実際の戦闘は2時間ほどで終了した”とのこと。・・・尚、この襲撃により、公使のオールコックは無傷のままでしたが、長崎駐在領事のジョージ・モリソン及び書記官だったローレンス・オリファントが負傷します。しかし、この2名は後に本国へ生還しております。・・・いずれにしても、西暦1860年(万延元年)7月に結ばれたという、丙辰丸の盟約や成破盟約、水長の盟約と呼ばれる計画には、当時攘夷と呼ばれた外国人襲撃計画が含まれておりましたので・・・その一つを粛々と決行したということだったのでしょうか?・・・但し、横浜という地での襲撃決行ではありませんでしたが。
      ・・・当時の幕府を主導した人々としては、当然に自らの身辺警護はもちろん、外国要人に対する警護も厳重にしていた筈であり・・・また攘夷派浪士達としても、現実の襲撃場所の変更についてを、結果として余儀なくされていたとは考えられますが・・・



      《“上記の襲撃及び襲撃計画(=第1次東禅寺事件)に参加、または関与した”とされる志士達の経歴や事件後について》

      ・有賀重信(ありがしげのぶ:※通称は半弥、水戸脱藩浪士)
・・・大番組士・有賀〈喜衛門〉重将(しげまさ)の子として、西暦1839年(天保10年)に生まれる。西暦1858年(安政5年)に水戸藩へ「戊午の密勅」が下賜されると、その勅旨の貫徹を主張。江戸へ出府し、水戸藩邸の有司に勅旨貫徹を迫る。・・・西暦1859年(安政6年)12月には、この密勅の返納反対を唱えて長岡宿に屯集(=長岡屯集)するも、これも叶わず・・・後に脱藩して、東禅寺にあったイギリス公使館襲撃に参加する。しかし、この時の戦闘で深手を負い、現場にて戦死する。享年23。

      ・小堀秀富(こぼりひでとみ:※通称は寅吉、水戸藩士の元家従)・・・“下野国芳賀郡北高岡村(現栃木県茂木町北高岡)、或いは下野国芳賀郡南高岡村(現栃木県真岡市南高岡)にあった”と伝わる農業・徳兵衛(とくべえ)の六男として、西暦1843年(天保14年)に生まれる。また、“幼き頃から意気が盛んであり士の気概を持つ少年であった”とも。・・・後に、水戸藩士の谷忠吉(たにただよし:※通称は鉄蔵)の家僕となると、尊皇攘夷の志を強くして、この時の東禅寺イギリス公使館襲撃に参加するも、戦闘の際に深手を負い、現場にて自刃する。享年19。・・・尚、“この小堀秀富の思想形成過程において、その影響を少なからず与えていたであろう谷忠吉”とは・・・自身も脱藩浪士となった後の事とはなりますが・・・後の西暦1864年(元治元年)、那珂湊において幕府が派兵した追討軍を相手に戦う羽目になってしまった「大発勢(だいはつぜい:※水戸藩における尊皇攘夷思想中間派の士民達を含む内乱鎮撫軍のこと)」における軍将の一人としても知られる人物。・・・

      ・古川忠興(ふるかわただおき:※通称は主馬之介、常陸国久慈郡・西金砂神社の元田楽師・郷士格)・・・西暦1839年(天保10年)生まれ。・・・多くの史料は、この古川〈主馬之介〉忠興を、イギリス公使館襲撃の際における「闘死」とされておりますが・・・当の古川家伝承によれば、東禅寺門前において遺書を懐にしての割腹自殺としています。しかも、“この時の遺書記録が残存している”とのこと。尚、この古川家は・・・古くから茨城県常陸太田市上宮河内町の西金砂神社に神官として仕えた家系であり、この幕末期には漢学者を多く輩出しています。
      ・・・この古川〈主馬之介〉忠興の祖父に当たる「別府上人(べっぷしょうにん)」とは、そもそも肥後熊本藩士ですが、当時の水戸藩から招聘された漢学者であり・・・ちなみに、〈主馬之介〉忠興の“父・盛幸(もりゆき)も相当な漢学者であった”と考えられており、“私塾を開いて多くの門弟を育てた”と云われ・・・その門弟達の中には、江戸後期の北方探検家として知られる木村謙次(きむらけんじ:※常陸国久慈郡天下野村〈現茨城県常陸太田市天下野町〉出身の医者であり、西暦1793年〈寛政5年〉に水戸藩の内命を受けて蝦夷地沿岸部を踏査し、西暦1798年〈寛政10年〉には下野源助という変名を用いて幕臣・近藤重蔵〈こんどうじゅうぞう〉の国後〈くなしり〉・択捉〈えとろふ〉島などに参加した人物)なども含まれるとか。・・・〈主馬之介〉忠興の兄・盛恕(もりひろ)も、なかなかの教育者・学者であった模様であり、“18歳の時には既に教授として門弟の教育に当っていた”とのこと。
      ・・・また、近郷に住む藤田彪(※号は東湖、藤田幽谷の次男)に私淑して、古川家の家督を継ぐ前年に当たる西暦1852年(嘉永5年)には、その年2月に謹慎を解かれた藤田彪(※号は東湖、藤田幽谷の次男)の家(≒私塾)に師範代として居留。“その頃、古川盛恕が、藤田彪(※号は東湖、藤田幽谷の次男)と薩摩藩士の西郷吉之助(※後の隆盛)との出会いに立ち会っていた”と伝わります。・・・いずれにしても、ここにある古川〈主馬之介〉忠興自身も、水戸にて文武を修めた後、イギリス公使館襲撃の際に亡くなります。享年23。・・・尚、当の古川家伝承によると、イギリス公使館襲撃以前に兄の盛恕を訪ねて・・・「西国に仕官が決まりました。それにつき太刀を所望致したい」・・・と伝え、“兄から剛刀を譲り受けると去って行った”と云います。・・・

      ・榊享徳(さかきゆきのり:※通称は鉞三郎、水戸脱藩浪士)・・・矢を作る職人でもあった矢師・榊〈忠兵衛〉経滋(つねます)の子として、西暦1840年(天保11年)に生まれる。・・・尊皇攘夷を唱えると、この時のイギリス公使館襲撃に参加したが、重傷を負ったため捕縛され・・・同西暦1861年(文久元年)12月15日、水戸の赤沼牢屋敷(現茨城県水戸市東台2丁目)にて斬首される。享年22。

      ・前木正美(まえきまさみ:※通称は新八郎、水戸脱藩浪士)・・・書院番組士・前木〈市左衛門〉正節(しょうせつ)の子として、西暦1824年(文政7年)に生まれる。・・・尊皇攘夷を唱えてイギリス公使館襲撃に参加した直後、同志の森長昌(もりながまさ:※通称ははじめ多門、後に半蔵、水戸脱藩浪士)とともに現場を脱出する。・・・しかし、この後に常陸国那珂郡入本郷(現茨城県常陸大宮市入本郷)に潜伏していたところを同西暦1861年(文久元年)8月26日に捕吏によって追い込まれると、森長昌とともに自刃する。享年38。

      ・森長昌(※通称ははじめ多門、後に半蔵、水戸脱藩浪士)・・・御使番士・森〈与左衛門〉直元(なおもと)の子として、西暦1826年(文政9年)に生まれる。・・・尊皇攘夷を唱えてイギリス公使館襲撃に参加した直後、同志の前木正美(※通称は新八郎、水戸脱藩浪士)とともに現場を脱出する。・・・しかし、この後に常陸国那珂郡入本郷(現茨城県常陸大宮市入本郷)に潜伏していたところを同西暦1861年(文久元年)8月26日に捕吏によって追い込まれると、前木正美ともに自刃する。享年36。

      ・石井信敏(いしいのぶとし:※通称は金四郎、水戸脱藩元郡務方手代)・・・西暦1831年(天保元年)生まれ。・・・尊皇攘夷を唱えてイギリス公使館襲撃に参加した直後、同志の中村繁広(なかむらしげひろ:※通称は貞介、貞蔵とも、水戸脱藩農民)や山崎信義(やまざきのぶよし:※名は一説には義峯とも、通称は信之介、水戸脱藩農民)、岡見経成(おかみつねなり:※通称は留次郎、富次郎とも、変名は尾上菊次郎、水戸脱藩浪士)らとともに品川宿の虎屋へ戻るも、そこを捕吏に囲まれてしまい自刃を図る。しかし、この時には絶命せず、翌日の西暦1861年(文久元年)5月29日、江戸の伝馬町牢屋敷において死亡。享年31。

      ・中村繁広(※通称は貞介、貞蔵とも、水戸脱藩農民)・・・常陸国那珂郡小舟村(現茨城県常陸大宮市小舟)の農家の子として、西暦1833年(天保4年)に生まれる。・・・当時の尊皇攘夷論に共鳴し、イギリス公使館襲撃に参加した直後、同志の石井信敏(※通称は金四郎、元水戸脱藩郡務方手代)や山崎信義(※名は一説には義峯とも、通称は信之介、水戸脱藩農民)、岡見経成(※通称は留次郎、富次郎とも、変名は尾上菊次郎、水戸脱藩浪士)らとともに品川宿の虎屋へ戻るも、そこを捕吏に囲まれてしまい自刃。享年29。

      ・山崎信義(※名は一説には義峯とも、通称は信之介、水戸脱藩農民)・・・常陸国久慈郡馬場村(現茨城県常陸太田市馬場町)の農家の子として、西暦1842年(天保13年)に生まれる。・・・水戸へ出て、当時の尊皇攘夷論に共鳴すると、後にイギリス公使館襲撃に参加。その直後、同志の石井信敏(※通称は金四郎、元水戸脱藩郡務方手代)や中村繁広(※通称は貞介、貞蔵とも、水戸脱藩農民)、岡見経成(※通称は留次郎、富次郎とも、変名は尾上菊次郎、水戸脱藩浪士)らとともに品川宿の虎屋へ戻るも、そこを捕吏に囲まれてしまい自刃。享年20。

      ・岡見経成(※通称は留次郎、富次郎とも、変名は尾上菊次郎、水戸脱藩浪士)・・・大番組士・岡見〈甚兵衛〉経知(つねとも)の子として、西暦1842年(天保13年)に生まれる。・・・尊皇攘夷を唱えてイギリス公使館襲撃に参加した直後、同志の石井信敏(※通称は金四郎、元水戸脱藩郡務方手代)や、中村繁広(※通称は貞介、貞蔵とも、水戸脱藩農民)、山崎信義(※名は一説には義峯とも、通称は信之介、水戸脱藩農民)らとともに品川宿の虎屋へ戻るも、そこを捕吏に囲まれてしまう。しかし、その急場を凌(しの)いで虎屋を脱出した後、京都へ潜伏した。・・・その後、西暦1863年(文久3年)8月17日の「天誅組(てんちゅうぐみ)の変(※大和義挙や、大和の乱とも)」に参加するが、各所を転戦した後に伊勢津藩の兵に捕縛され・・・西暦1864年(元治元年)2月16日、京都の六角獄舎にて斬首。享年23。

      ・黒澤保高(くろさわやすたか:※通称は五郎、変名は吉野政介、水戸脱藩浪士)・・・西暦1833年(天保4年)、水戸藩郷医・黒澤俊平(くろさわしゅんぺい)の子として、常陸国多賀郡河原子町(現茨城県日立市河原子)に生まれる。・・・西暦1860年(万延元年)7月内に、水戸藩士の西丸亮(※通称は帯刀、号は松陰)や野村鼎実(※通称は彝之介、号は清籟舎、箕水とも)、住谷信順(※通称は寅之介、変名は小場源介、加藤於菟之介とも)らと、長州藩の桂小五郎(※後の木戸孝允)や松島剛蔵らの間において連携協定が約される(=丙辰丸の盟約、成破盟約、水長の盟約とも)と・・・“水戸側の実行者として概ね活動していたのが、この黒澤保高”とされる。・・・この時のイギリス公使館襲撃では、戦闘に参加し現場を脱出すると・・・三田にあった薩摩藩邸上屋敷に一旦匿われた後に、水戸の西丸亮(※通称は帯刀、号は松陰)の下に潜伏するも、そこに幕吏の追捕が迫ったため、再び奥州方面へ逃走。
      ・・・しかし、翌年の西暦1862年(文久二年)1月15日に起きた「坂下門外の変」に、上記の高畑胤正(※通称は総次郎、または房次郎とも、変名は相田千之允、水戸脱藩農民)らとともに参加して闘死。享年30。

      ・木村幸之助(きむらこうのすけ:※通称は幸四郎、水戸脱藩浪士)・・・生没年齢ともに不明。・・・但し、“水戸藩吟味役・木村準之介(きむらじゅんのすけ)の子であった”とされる。・・・この第1次東禅寺事件では、“実際に襲撃に参加した”と考えられ・・・この後の、“同西暦1861年(文久元年)10月に下野国馬頭村(現栃木県那須郡那珂川町馬頭)で捕縛された”という記録が残る・・・も、当時の捕吏達が、この木村幸之助(※通称は幸四郎、水戸脱藩浪士)と、上記の有賀重信(※通称は半弥、水戸脱藩浪士)とを誤認した模様(※この有賀重信は襲撃時に死亡)であり・・・結果的として、人違いや証拠不十分等の理由によって解き放たれたのか? 脱走出来たのか? については定かでないが・・・いずれにしても・・・“西暦1863年(文久3年)の佐原騒擾(※佐原騒動とも)において死亡した”とされる。

      ・渡辺剛蔵(わたなべごうぞう)・・・出自や生没年など不明。・・・但し・・・“元は、常陸国行方郡若海村(現茨城県行方市若海)の修験者であった”とされ・・・この第1次東禅寺事件では、実際に襲撃に参加し・・・“この後の水戸藩混乱期に、いわゆる玉造勢として活動した”と考えられるものの・・・『水戸藩史料』や幕末期の外交史料集『続通信全覧』にも、「渡辺剛蔵」の記録は見つかっておりません。

      ・矢澤金之助(やざわきんのすけ:※変名は安金之介か?)・・・出自や生没年齢など不明だが、“この第1次東禅寺事件では、実際に襲撃に参加した”と考えられる。・・・但し・・・上記の『続通信全覧』には、“矢澤金之助なる人物”について・・・「領分西内之村と申所二潜居候振二付、是又手配為致候処、牧野越中守領分笠間の方迯去(とうきょ:※逃げられている状況のこと)候間、跡追掛候得共、行衛(=行方)難相知。」・・・との記載があって、つまりは・・・“領分西内之村という処に潜伏しているとの情報を得て、実際に(矢澤金之助なる人物)を追い掛けてはみたものの、行方(ゆくえ)については、(どうにもこうにも)知り難く”との報告。・・・文中にある、“矢澤金之助なる人物の領分”とされる「西内之村」とは、水戸藩領内の紙生産地として有名な“西之内”のことか?・・・とすれば、現茨城県常陸大宮市西野内のこと。
      ・・・また、文中の「牧野越中守」とは、この後の「元治甲子の乱(げんじかっしのらん:≒天狗党の乱)」において幕府追討軍の一翼を担うこととなる常陸笠間藩第8代藩主の牧野貞直(まきのさだなお:※別名は貞明や貞利とも)のことであり・・・“これに加えて、水戸藩の混乱時期に差し掛かっていたためとして、矢澤金之助なる人物については行方不明とせざるを得なかった”という記録となっている訳です。

      ・小池庄兵衛(こいけしょうべえ)・・・出自や生没年齢など、ほとんどについてが不明とされる。・・・“この第1次東禅寺事件では、そもそもとして襲撃に間に合わず不参加であった”と考えられるものの、東禅寺事件関与者と目されていたためか? ・・・『水戸藩史料』には、“その名”の記載あり。

      ・高畑胤正(たかはたたねまさ:※通称は総次郎、または房次郎とも、変名は相田千之允、水戸脱藩農民)・・・西暦1828年(文政11年)生まれ。“性格的には任侠に富んで、尊皇攘夷の志に厚かった”と伝わる。・・・尚、“この高畑胤正の身分については、常陸国久慈郡小島村(現常陸太田市小島町)出身の水戸藩組頭、つまりは郷士であった”とする説もあり。・・・そして、“この第1次東禅寺事件の戦闘には、そもそもとして襲撃に間に合わず不参加であったとする説まである”ものの・・・概ねのところは・・・第1次東禅寺事件への関与を疑われて、負傷した後に捕吏による囲みを脱すると、三田にあった薩摩藩邸上屋敷(現東京都港区芝5-7-1・日本電気本社内)に一旦匿われ・・・この後は、“水戸藩領内に隠れた”とされる。・・・いずれにしても、この高畑胤正(※通称は総次郎、または房次郎とも、変名は相田千之允、水戸脱藩農民)は、翌年の西暦1862年(文久二年)1月15日に起きた「坂下門外の変」における幕府老中・安藤信正(※陸奥磐城平藩主)襲撃に参加して闘死。享年35。

      ・千葉有国(ちばありくに:※通称は昌平、水戸脱藩元甲冑師)・・・水戸藩甲冑師・千葉義徳(ちばよしのり)の子として、西暦1832年(天保3年)に生まれる。・・・当時の尊皇攘夷論に共鳴し、有賀重信(※通称は半弥、水戸脱藩浪士)らとともに、東禅寺のイギリス公使館襲撃を企てるも・・・事件当日は、病気のため実際の戦闘には不参加。・・・しかし、事件関与者を追う幕吏から逃れるため、上野国茂呂村(現群馬県伊勢崎市茂呂町)へ逃走した後・・・常陸国の筑波山麓に潜伏していたところを捕縛され、江戸の伝馬町牢屋敷へ送られる。・・・西暦1861年(文久元年)11月25日、同所にて斬首。享年30。

      ・池田忠厚(いけだただあつ:※通称は留吉、為吉とも、水戸脱藩元町方同心)・・・西暦1839年(天保10年)生まれ。・・・尊皇攘夷を唱えてイギリス公使館襲撃に参加した直後、現場を脱出して江戸に潜伏するが、後に捕縛され・・・西暦1862(文久2年)8月14日、江戸の伝馬町牢屋敷にて獄死。享年24。・・・但し、“そもそもとして、この第1次東禅寺事件の戦闘には不参加であった”とする説もあり。

      ・中村乙次郎(なかむらおとじろう:※下野国宇都宮の商家出身者)・・・西暦1828年(文政11年)生まれ。・・・『下野勤皇列伝(前篇)』の表現方法によれば・・・中村乙次郎とは・・・“勤皇志士・中村乙次郎は宇都宮の商家に生まれたが、天下の風雲を眺めて商人として甘んじるを潔(いさぎよ)しとせず、憂國の志士と交わるに至って尊皇攘夷の大義を唱へ、水戸藩の同志に投じて大いに國事を奔走することとなった”とのこと。・・・中村乙次郎は、イギリス公使館襲撃に参加した直後に現場を脱出すると、郷里の宇都宮へ向かうものの・・・ここについても、『修補 殉難録稿(前篇)』の表現によれば・・・“逃れて陸奥郡山に匿(かくまわ)れしが、同月水戸藩の手に捕はれて獄中に死す”と。・・・享年34。・・・但し、“そもそもとして、この第1次東禅寺事件の戦闘には不参加であった”とする説もあり。

      ・下野遠明(しものとうみょう?、しものえんめい?:※通称は隼次郎、号は雪篁〈せんこう〉、変名は竹下鷹之允、水戸藩校・弘道館の訓導であり、元郡奉行見習・画家、桜田門外の変を画策した金子教孝の娘婿)・・・西暦1823年(文政6年)生まれ。・・・“早い時期から尊皇攘夷運動に加わって「桜田門外の変」や、この「東禅寺事件」にも関与していた”と云われる。・・・この後の「坂下門外の変」にも参加し・・・後の「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」では、常陸宍戸藩主・松平頼徳(まつだいらよりのり:※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、本家筋の水戸徳川家:※慶篤の補佐役)の軍勢に加わることとなり、那珂湊において、幕府による追討軍や当時の水戸藩門閥保守派(=諸生党)と交戦する。・・・この後、幕府追討軍へ投降し、武蔵岩槻藩お預けの身(=禁固)とされ・・・西暦1865年(元治2年)4月4日に斬刑。享年43。

      ・堀江芳之助(ほりえよしのすけ:※通称は別に克之助、農民出身であったが郷士格とされる)・・・西暦1810年(文化7年)9月生まれ。・・・西暦1844年(弘化元年)に、時の水戸藩主・徳川斉昭に対する幕府処分に反対する赦免運動を組織し、その時の活躍により一農民から郷士へと取り立てられる。・・・後に、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリス襲撃計画を企てるも、その目的を果たせなかったため、西暦1856年(安政3年)11月27日に自訴し、翌西暦1857年(安政4年)4月4日に獄へ投ぜられるという経歴を持つ。・・・尚、この時のイギリス公使館襲撃そのものには、堀江芳之助は参加していなかったにも拘わらず、事件への関与を疑われて追われていたため、京都へと一旦逃れる。・・・それでも追っ手により捕らわれることとなり・・・後に水戸の赤沼牢屋敷へ移された。・・・結局のところ、明治維新による特赦によって、堀江芳之助は放免されることとなり・・・西暦1871年(明治4年)2月15日に死去。享年62。



      ※ 同西暦1861年(文久元年)8月15日:“ロシア帝国海軍のポサードニク号が、対馬を去って箱館に向かったため、ロシア軍艦対馬占領事件、またはポサードニク〈※またはポサドニック〉号事件と呼ばれる一連の騒動”が、一応の収束へ向かう。・・・のですが、尚も外交的交渉や手続き、それに伴なう措置などは、この日以降も当時の関係当局間で行なわれることとなります。・・・

      ※ 同年10月13日:「幕府」が、「遣欧使節(文久遣欧使節)・竹内保徳(たけのうちやすのり:※通称は清太郎、官位は下野守、幕府旗本)」に・・・“樺太の国境を北緯50度と為すように”・・・と「訓令」する。・・・ここにある竹内保徳の経歴は・・・まず、幕府勘定所へ出仕し、勘定組頭格を経て・・・西暦1852年(嘉永5年)に「勘定吟味役兼海防掛」に就任し・・・西暦1853年(嘉永6年)の黒船来航後は、「台場普請掛」、「大砲鋳立掛」、「大船製造掛」、「米使応接掛」を兼任。・・・西暦1854年(安政元年)には、「箱館奉行」に就任。・・・この年のこととなる西暦1861年(文久元年)には、「勘定奉行兼外国奉行」に就任し・・・“この後の同年12月24日には、遣欧使節の主要メンバーの一人として、30余名を伴なって、横浜を出港し、イギリスへ向かう”のです。

      ※ 同年11月13日:「幕府」が、“前年の西暦1860年(万延元年)12月4日に起きた薩摩藩尊皇攘夷派志士達によるアメリカ公使館員ヘンリー・ヒュースケン斬殺事件”に関して、「ヒュースケンの母・ジョアンネ(※ヨアンナとも)」に対して「1万ドル」の「弔慰金」を支払う。・・・時の幕府による、この時の措置は、“あくまでも政治的な決着方法であり、この事件を外交的に一応落着させた”といったところでしょうか?
      ※ 同年11月16日:「幕府」が、“小笠原島の再開拓のためとして、外国奉行・水野忠徳(※初名は忠篤、官途は筑後守、下総守、号は癡雲、幕府旗本)らを派遣する旨を、英米の両公使”へ「通告」する。・・・ここにある「小笠原島」とは、現在の東京都小笠原村及び父島、母島、聟島、硫黄島、西之島、沖ノ鳥島、南鳥島などの諸島のこと。・・・時の幕府が、英米の両公使へ通告した理由は・・・当然に、国際法上の領有権を主張するためです。

      ※ 同年12月4日:「幕府」が、「外国奉行・水野忠徳(※初名は忠篤、官途は筑後守、下総守、号は癡雲、幕府旗本)」や「小笠原島開拓御用・小花作助(おばなさくすけ:※諱は邦孚、号は白香、幕府旗本)」らに命じて、“アメリカから帰還した後に、当時の外国奉行・小栗忠順(※通称は又一、後の小栗上野介、幕府旗本)などを乗船させて対馬へ急派した直後の咸臨丸”を用いて、「小笠原」へ“佐々倉桐太郎(ささくらとうたろう:※諱は義行、幕臣出身者であり明治期の海軍教官)らの官吏”を「派遣」すると・・・“この日より現地測量を行なう”とともに・・・“島民達に小笠原諸島が日本の領土であることや、先住者たる島民達を保護することを呼び掛けて、彼らの同意を得た”とする。・・・ちなみに、“この頃大忙しであった咸臨丸の艦長”は・・・元常陸笠間藩士の小野友五郎(おのともごろう:※諱は広胖、官位は内膳正、幕臣、数学者〈和算及び洋算〉や海軍軍人・財務官僚としても著名)という人物です。
      ※ 同年同日:“幕府の開拓使とされた外国奉行・水野忠徳(※初名は忠篤、官途は筑後守、下総守、号は癡雲、幕府旗本)ら”が、この日の内に「小笠原島」を「咸臨丸」にて「出発」する。・・・おそらくは、“現地測量や島民達の同意を得るために、当時の官吏を数名程度、小笠原島に残して行った”と考えられます。
      ※ 同年12月19日:“幕府の開拓使とされた外国奉行・水野忠徳(※初名は忠篤、官途は筑後守、下総守、号は癡雲、幕府旗本)ら乗船した咸臨丸”が、「父島」に「到着」する。・・・尚、“父島における現地測量などの開拓事業は、翌々年の西暦1863年(文久3年)5月まで行なわれた”とのこと。
      ※ 同年12月22日:“幕府による遣欧使節(文久遣欧使節)・竹内保徳(※通称は清太郎、官位は下野守、幕府旗本)”が、この日に「英国艦船・オーヂン」へ「乗船」し・・この二日後に「横浜港」を出発・・・翌年の西暦1862年(文久2年)3月5日に「フランス・マルセイユ」に「到着」する。・・・“英国艦船・オーヂン”の「オーヂン」とは、現代風に読めば「オーディン」のこと。・・・“この時の英国艦船・オーディン”を調べると、西暦1847年8月12日に竣工された艦船であり、型式は外輪フリゲート艦。乗員は175人。石炭500tを出力源とし、ボイラー搭載は4基で、速力10ノット。・・・水車部分が船の両サイドにくっ付いた格好の黒船であり、当時としては・・・もはや旧式になりつつあったようでして・・・西暦1865年に売却された後、解体処分されております。


      ・・・年が明けて、西暦1862年(文久2年)に入ると・・・
      ※ 西暦1862年(文久2年)1月15日午前8時頃:“幕府老中・安藤信正(※陸奥磐城平藩主)の行列が、江戸城へ登城するため、自藩邸を出て坂下門外に差し掛かる”と・・・“平山繁義(ひらやましげよし:※通称は兵介、変名は細谷忠斎、水戸藩新番組の平山〈兵蔵〉繁纓の子、水戸脱藩浪士)、小田朝儀(おだともよし:※通称は彦三郎、変名は朝田儀助、水戸藩書院番組の小田〈源太左衛門〉朝久の子、水戸脱藩浪士)、黒澤保高(※通称は五郎、変名は吉野政介、水戸藩郷医・黒澤俊平の子、水戸脱藩浪士)、高畑胤正(※通称は総次郎、または房次郎とも、変名は相田千之允、水戸脱藩農民)及び下野国河内郡本吉田村(現栃木県下野市本吉田)の医師・河野通桓(こうのみちたけ:※通称は顕三、字は士威、変名は三島三郎)、越後国魚沼郡十日町(現新潟県十日町市)の医者・河本惟一(かわもといいち:※姓は川本とも、通称は杜太郎、医者・柳玄の子)ら6名”により、「襲撃」される。(=坂下門外の変)

      ・・・最初に直訴を装う河本惟一(※姓は川本とも、通称は杜太郎、医者・柳玄の子)が、行列の前に飛び出しながら安藤信正の駕篭を銃撃した模様。・・・しかし、弾丸は駕篭を逸れて小姓の足に命中し、この発砲を機に他の5名が行列に斬り込み・・・警護の士が一時的に混乱状態に陥った隙に、平山繁義(※通称は兵介、変名は細谷忠斎、水戸藩新番組の平山〈兵蔵〉繁纓の子、水戸脱藩浪士)が駕籠に刀を突き刺すと、老中・安藤信正は背中に傷を負いながらも、運よく軽傷で済んで、一人で江戸城内に逃げ込む。・・・桜田門外の変以降、老中はもとより登城の際の大名警備は軒並み厳重になっており、当日も供回りが50名以上いたため、浪士ら6名は暗殺目的を遂げることなく、いずれも闘死。(※平山の享年は23、小田の享年は30、第1次東禅寺事件に関与した黒澤及び高畑の享年は、上記の通り。河野の享年は25、河本の享年は23)・・・一方で、浪士ら6名と対戦した警護側は、十数名の負傷者を出したものの、死者は出なかった。
      ・・・それでも、丙辰丸の盟約や成破盟約、水長の盟約などと呼ばれる襲撃計画そのものを達成しようとした者達からすれば、老中・安藤信正暗殺そのものは失敗したものの・・・「桜田門外の変」に続いていた“幕閣に対する襲撃事件そのもの”が、幕府権威の失墜を更に加速させることに繋がり・・・結局は、この事件を契機とされ、安藤信正は同年4月に老中職を罷免。同年8月には、隠居及び蟄居を命じられることとなり、“陸奥磐城平藩としても2万石の減封”とされてしまいます。

      ・・・尚、この襲撃計画には、水戸脱藩浪士・元小普請組の川辺元善(かわべもとよし:※通称は左次衛門、変名は内田万之介)も参加していましたが、襲撃現場には到着したものの・・・結果として時間を費やす間に遅刻してしまったために、同志らとは合流出来ず、この襲撃自体が終了。・・・それでも、これに間に合わなかった事を大いに悔やんだ川辺元善は、この後長州藩邸の桂小五郎(※後の木戸孝允)を訪ね、「斬奸趣意書(ざんかんしゅいしょ)」を渡した後に自刃しています。享年31。

      ※ 同年2月11日:“幕府からの強い公武合体要請”により・・・「和宮親子内親王(※仁孝天皇の第8皇女、孝明天皇の異母妹、後の明治天皇は甥に当たる)」が、江戸へ到着して、皇室から「降嫁」する・・・と、「江戸城」において、“第14代征夷大将軍・徳川家茂との婚儀”が、「即日挙行」される。・・・尚、和宮親子内親王は、西暦1851年(嘉永4年)7月12日に孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と既に婚約されていましたが、公武合体を強く勧める幕府から、“和宮と熾仁親王は未だ結納を済ませていないため、それは内約となり、もし破約しても天皇の信用を損なうものではない”とされたとのこと。・・・ちなみに、和宮親子内親王の婚約相手とされていた有栖川宮熾仁親王は、後の西暦1867年(慶應3年)に、水戸藩主・徳川慶篤や一橋慶喜の異母妹であった貞子(さだこ)と、ご結婚されることになります。

      ※ 同年4月16日:「薩摩藩」の「島津久光(しまづひさみつ:※後の薩摩藩主・島津忠義の実父)」が上京し、「幕政改革に関する意見書」を、「朝廷」へ「上奏」する。
      ※ 同年4月23日:「寺田屋事件(※寺田屋騒動とも)」が、京都伏見の旅館「寺田屋」にて発生する。
・・・“薩摩藩の国父たる地位を掌握するためなどとして、当時の島津久光が自藩内の尊皇攘夷派を始末した事件”とされますね。・・・
      ※ 同年4月25日:“幕府によって謹慎を命じられていた一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、“この日を以って、自身への面会や文通について”を許される。

      ※ 同年5月7日:“自身への面会や文通についてを許された一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、この日に「江戸城」へ「登城」する。
      ※ 同年5月内:「幕府」が、“日本に駐在する各国の代表者に、小笠原諸島の領有権”を「通告」する。
・・・“この前年から続けられ、開拓使とされた外国奉行・水野忠徳(※初名は忠篤、官途は筑後守、下総守、号は癡雲、幕府旗本)らによる成果として”です。

      ※ 同年7月6日:「一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、「幕府」によって、“一橋家の再相続”を命じられ、「将軍後見職(しょうぐんこうけんしょく)」に「就任」する・・・とともに、「松平慶永(※号は春嶽、前越前福井藩主)」も「政治総裁職(せいじそうさいしょく)」に「補任」される。・・・「将軍後見職」とは、ともに新設された政事総裁職や京都守護職(きょうとしゅごしょく)と並ぶ江戸幕府(=徳川幕府)三要職の一つ。・・・但し、実際には・・・“桜田門外の変で斃れた大老・井伊直弼が形式的に擁立を構想していたもの”とされ、幕府の正式な役職ではなく、伴なうべき実権も有しておりませんでしたが。・・・尚、この後の一橋慶喜は、江戸城を発って、京都へ向かうこととなります。
      ・・・ちなみに、一橋慶喜と松平慶永が当時の政界に復帰すると・・・元大老・井伊直弼が行なった「安政の大獄」が、“振り返れば、甚だ専断であった”とされ・・・時の幕府により・・・
      ① 近江彦根藩の井伊家に対し10万石削減の追罰
      ② 大獄当時の弾圧的な取調べをした者達の処罰
      ③ 大獄で幽閉されていた者達の釈放
      ④ 「桜田門外の変」や「坂下門外の変」における尊皇攘夷攘運動による遭難者達を、和宮親子内親王が降嫁された祝賀として大赦
      ・・・が行なわれることとなり・・・当時の幕閣と呼ばれる人達の顔ぶれは、旧一橋派が復活することに。・・・これにより、後の「文久の改革」が着手されることとなります。・・・いずれにしても、「安政の大獄」とは・・・幕藩体制の規範意識の低下や優秀な人材の欠如を招いて、諸藩から幕府への信頼を大きく低下させることとなり、“結果としては、反幕派による尊皇攘夷運動を激化させるとともに、江戸幕府(=徳川幕府)滅亡の遠因になった”とも云われます。・・・
      ※ 同年7月22日:「幕府」が、“諸大名らの参勤交代制度を改めて、各藩主ら妻子達による国許への帰国”を許す。

      ※ 同年8月21日:「生麦事件」が、“武蔵国橘樹郡生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近”において「発生」する。
・・・あろうことか? “島津久光(※後の薩摩藩主・島津忠義の実父)の大名行列に乱入したという騎馬上のイギリス人達を、行列供回りの藩士達が殺傷(※1名死亡、2名重傷)してしまった”という事件。

      ※ 同年9月30日:「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、「営中」において、「開国説」を主張する・・・とともに、「政事総裁職・松平慶永(※号は春嶽、前越前福井藩主)」による「破約攘夷説」を斥(しりぞ)ける。・・・「営中」とは、「柳営」すなわち江戸城内のこと。・・・この時の一橋慶喜公の考えは・・・“段階的に進める開国論に傾いていた”と考えるべきなのでしょうか?・・・云わば、開国へのソフトランディング?
      ・・・いずれにしても、“各国との条約を一旦破棄してから、適切な相手国のみを選んで”という松平慶永らの説は、もはや受け入れられず。・・・この時の一橋慶喜公の考えを代弁するならば・・・“大老・井伊直弼らによる前幕府体制によって条約締結を認めるに至っていたのであるから、国際条約という重要な取り決めを当事国一方の都合によって破約、すなわち破棄なんてしたら、相手国から違約を難癖的に主張されて、結果として西欧諸国連合艦隊による報復攻撃や侵攻などがあるかも? 隣国の清国(清王朝)のように?”・・・となる訳でして・・・一橋慶喜公とは、生粋の現実主義者(リアリスト)だったのではないでしょうか?
      ・・・幼少の頃から、西欧の文物などに接していた慶喜公からしてみれば、尊皇の哲学的思想については、もちろん水戸徳川家の出身者ですから、もはや自身の体の一部のようなものではあったのでしょうが・・・“攘夷が達成し得るという確証も無いままに、一国家の行く末についてを、天子(=天皇)から政(まつりごと)を預かる幕府であるが故に、尚更のこと幕藩体制を布く徳川家などの独断で決める訳にはゆかない”・・・との考えに至ったかと。つまりは、文字通りなのですが・・・あくまでも「攘夷」よりも「尊皇」が優先するのです。

      ※ 同年11月1日:「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、「中納言」に任じられる。
      ※ 同年11月27日:“公卿の三条実美(さんじょうさねとみ:※号は梨堂〈りどう〉、変名は梨木誠斉)ら”が、「江戸城」を訪れ、“攘夷決行の勅定”を「伝宣」する。・・・これに、「第14代征夷大将軍・徳川家茂」と「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が拝す。
・・・「三条実美」とは・・・この翌年の、西暦1863年(文久3年)に、公武合体派の皇族や公卿達と、薩摩藩や会津藩らが連動したクーデター「八月十八日の政変」を起こして、朝廷を追われ、京都を逃れるため長州へ移る人物であり、いわゆる「七卿落ち」することとなる“攘夷強硬派”・・・。

      ※ 同年12月15日:「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、「江戸」を発って、陸路にて「京都」へ向かう。・・・云わば、“将軍・徳川家茂の露払い役や地均し役”として。

      尚、「安政の大獄」によって、“最も苛烈な処断を受ける格好となっていた水戸藩”では、この年・・・尊皇攘夷思想を重んじ、当時の幕政に反発した改革急進・密勅返納反対派(=激派)が、「ロシア帝国海軍軍人殺害事件」や、「桜田門外の変」、「第1次東禅寺事件」、「坂下門外の変」を起こしたり・・・或いは、“これら事件関与した”という疑いを強く持たれたことにより、幕府から更に糾弾されることに。・・・これに伴ない、水戸藩改革派全体が勢力を失なうこととなって・・・結果として、幕府に恭順しようとする門閥保守派が、藩内で勢力を強め始めることに繋がります・・・が、この頃は、まだ藩内が、激派ほど過激な行動を採らずに密勅を朝廷へ返納すべきという朝廷返納派(=鎮派)や、改革急進・密勅返納反対派(=激派)が、藩の主要勢力だったためか?・・・那珂湊の「水戸藩営大砲鋳造所」において、鉄製大砲鋳造が再開されております。
      ・・・また、この年の日本国内は・・・“残留していたコレラ菌によって、またもやコレラが再流行し、およそ56万人の患者が出た”と云います。・・・しかし、この時も・・・“江戸には入らなかった”という文献と、“江戸だけでも7万3千人~数10万人が死亡した”という文献があるのですが・・・これらの差異についても、“時の討幕派が政情不安を煽るためとして、意図的に流した流言であった”と見る歴史家が多いですね。


      ・・・年が明けて、西暦1863年(文久3年)に入ると・・・
      ※ 西暦1863年(文久3年)1月5日:「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、入京して、「東本願寺(ひがしほんがんじ:現京都府京都市下京区常葉町)」を(旅)館とする。
      ※ 同年1月10日:「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、御所に「参内」し、初めて「孝明天皇」に「謁見」する。
・・・この時、一橋慶喜は、数えで27歳。
      ※ 同年1月11日:“公卿の三条実美(※号は梨堂〈りどう〉、変名は梨木誠斉)ら8名が、勅を奉じて、将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)の旅館に望み、攘夷実行期限の決定”を迫る。・・・当時の一橋慶喜公に対して、更なる政治的プレッシャーが・・・。

      ※ 同年2月13日:「第14代征夷大将軍・徳川家茂」が、“朝廷からの攘夷実行の求め”に応じて、「江戸城」を発ち、「京都」へ向かう。
      ※ 同年2月28日:「朝廷」が、「因幡鳥取藩主・池田慶徳(いけだよしのり:※徳川斉昭の五男)」を「摂海守備総督(せっかいしゅびそうとく)」に任じる。
・・・「摂海守備総督」とは、幕府の了解の上で、大坂湾周辺から侵攻してくる外国勢力に備える為、朝廷によって設置された役職。・・・ちなみに・・・ここにある池田慶徳公も水戸徳川家の出身者であり、当然に「水戸学」が心身ともに滲み込んだ御仁ですが・・・このことで、当時の朝廷、若しくは孝明天皇が、“攘夷実現のためとして水戸徳川家の出身者達に大きな期待を寄せていたこと”が分かります。

      ※ 同年3月2日:「政事総裁職・松平慶永(※号は春嶽、前越前福井藩主)」が、“将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)が長州藩などの尊皇攘夷派勢力と妥協しようとした”ため、これに「反対」して“自身の政事総裁職についての辞表”を「提出」するも・・・この日は受理されず。・・・・・・
      ※ 同年3月4日:「第14代征夷大将軍・徳川家茂」が、「上洛」する。・・・尚、この上洛に、「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が「同行」する。・・・将軍の上洛そのものは・・・“第3代征夷大将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)以来、229年振り”のことであり・・・この時の徳川家茂が、“義兄に当たる孝明天皇に対して攘夷実行を誓った”とのこと。
      ・・・そして、水戸藩主・徳川慶篤に従がった水戸藩士らは、京都の本圀寺(ほんこくじ)へ駐屯して、禁裏守衛や後に将軍となる一橋慶喜の補佐及び身辺警護に当たったため、後に「本圀寺党」と呼ばれることとなります・・・が、この「本圀寺党」は、“水戸や在府(=在江戸)の藩士や神官、郷士達から組織される混成部隊であり、それぞれが尊皇攘夷思想を重んじる改革急進・密勅返納反対派(=激派)、或いは鎮派であった”とも云えますし・・・これと同時に、この「本圀寺党」には、大場景淑(おおばかげよし:※通称は弥右衛門、号は一真斎)や、鈴木重義(すずきしげよし:※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)、山口正定(やまぐちまささだ:※通称は徳之進)、長谷川允迪(はせがわただみち?:※名は後に清とも、通称は作十郎、号は艮山、青水とも、藩校・弘道館の元舎長)らの幹部達が含まれておりました。
      ・・・ちなみに「本圀寺」は、2代水戸藩主・徳川光圀の生母の追善供養を行なうなど・・・水戸藩とは、そもそも所縁のある寺院でありまして・・・その所在は、現京都府京都市山科区御陵大岩。
      ※ 同年3月19日:「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、「第14代征夷大将軍・徳川家茂」に従って「参内」する。・・・この時、初めて“真の叡慮(まことのえいりょ:※孝明天皇の真意のこと)を拝して、近日の勅定(※前年11月27日の公卿・三条実美らによって伝宣された攘夷決行の勅定のこと)に疑うべきものがある事”を知る。・・・・・・

      ※ 同年3月25日:“当時の京都を離れて領国の越前に帰国していた政事総裁職・松平慶永(※号は春嶽、前越前福井藩主)”が、「逼塞(ひっそく:※門を閉ざして昼間における人の出入りを許さないという、武士や僧侶に科せられた刑罰のこと)処分」が下されるとともに、「政事総裁職」を罷免される。・・・・・・
      ※ 同年4月20日:“(結局は、時の幕府によって)攘夷実行の期限”が、「同年5月10日」と定められる。・・・“時の朝廷によって、幕府が受け容れざるを得なかった”ということ?
      ※ 同年4月22日:「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、「攘夷実行の勅定」を奉じて、「京都」を発ち、「江戸」へ向かう。

      ※ 同年5月8日:「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、「江戸」に帰る。
      ※ 同年5月10日~6月5日:「長州藩」が、“攘夷実行のため”として、「馬関(=下関)海峡」を「封鎖」し・・・“航行中のアメリカ、フランス、オランダの艦船”に対し、「無通告砲撃」を加える。
・・・この無通告砲撃への報復として、約半月後に、アメリカとフランスの軍艦が馬関(=下関)海峡内に停泊中の長州藩の軍艦を砲撃するなど、長州藩の海軍へ壊滅的打撃を与えたものの・・・それ以降の長州藩は、損傷した砲台を修復したり、対岸の豊前小倉(ぶぜんこくら)藩領の一部をも占領して、新たな砲台を築きつつ、海峡封鎖を続行する。(=下関事件)
      ※ 同年6月13日:「第14代征夷大将軍・徳川家茂」が、「大坂」を発って、海路にて「江戸」へ向かう。・・・・・・
      ※ 同年6月14日:「摂海守備総督・池田慶徳(※因幡鳥取藩主、徳川斉昭の五男)」が、「イギリス艦船」へ「発砲」し、“攘夷実行の姿勢”を示す。・・・
      ※ 同年6月16日:「第14代征夷大将軍・徳川家茂」が、「江戸」に帰る。

      ※ 同年8月18日:“この日、朝議が一変して、長州藩の禁裏・堺町御門警備を免じられ、陸奥会津藩及び薩摩藩を中心とする公武合体派の諸候によって、長州藩を主とする尊皇攘夷派勢力及び三条実美(※号は梨堂〈りどう〉、変名は梨木誠斉)ら急進派の公卿達7名を京都から追放する”というクーデター事件が起こる。(=八月十八日の政変、文久の政変、堺町門の変とも)
・・・この時に急進派の公卿ら7名が長州へ下ったことを、「七卿落ち」と云います。・・・また、この政変の中心的役割を担った会津藩が動員した藩兵は1,500名であり、薩摩藩兵は150名。・・・そして、急進派の公卿ら7名とともに、京都を追放されることになった長州藩兵は1,000名余りであったと。

      ※ 同年10月26日:「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、「江戸」を発って、海路にて「京都」へ向かう。・・・・・・

      ※ 同年11月12日:「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、「兵庫」に「到着」する。・・・・・・
      ※ 同年11月26日:「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、この日再び入京して、「東本願寺」を(旅)館とする。

      ※ 同年12月21日:「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、「京都・若狭小浜藩屋敷(※若州屋敷とも)」を「宿所」とする。
・・・若州屋敷の所在は、現京都府京都市中京区西ノ京池ノ内町。・・・結局のところ、一橋慶喜は、この後の西暦1867年(慶應3年) 9月21日まで、この若州屋敷を自身の活動拠点とすることに。
      ※ 同年12月22日:「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、“政事総裁職・松平慶永(※号は春嶽、前越前福井藩主)の問い”に答えて・・・“政事(まつりごと)の方針については、(一徳川家などの)中興に非(あら)ずして、創業にあるべき旨”を言う。・・・もの凄く重要な場面ですね。・・・映画にしたら、重要なカットです。きっと。
      ※ 同年12月27日:「第14代征夷大将軍・徳川家茂」が、「江戸」を発って、「京都」へ向かう。・・・“徳川宗家を継ぐ将軍自らが孝明天皇のお傍に居なければ!” という気運だったのでしょうね。きっと。
      ※ 同年12月30日:「朝廷」が、“将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)ら有力諸侯達”を、「朝議参豫(ちょうぎさんよ)」に命じる。・・・「朝議参豫」とは、朝廷が任命する数名の有力諸候などによって行なわれる合議制会議の参加メンバーのこと。・・・同年8月18日に起こった禁門における政変(=八月十八日の政変、文久の政変、堺町門の変とも)によって、長州藩と尊皇攘夷急進派の勢力が一掃されつつあった直後期・・・当時の京都には、将軍後見職の一橋慶喜や、島津久光(※薩摩藩主・島津忠義の実父)、前政治総裁職・松平慶永(※号は春嶽、前越前福井藩主)、伊達宗城(だてむねなり:※前伊予宇和島藩主)、山内豊信(やまうちとよしげ:※号は容堂、前土佐藩主)といった有力諸侯達が続々と集まることとなり・・・彼ら有力諸侯は、薩摩藩による周旋の結果、朝議参豫という肩書を与えられることとなって、朝廷主導の国事に関する議論に参加することとなった訳です。
      ・・・そして、何よりも・・・“この朝議の目的は、同西暦1863年(文久3年)の春に果たせなかった公武合体体制の確立とされた”のですが・・・


      ・・・年が明けて、西暦1864年(文久4年)に入ると・・・
      ※ 西暦1864年(文久4年)1月11日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟である余八麿(よはちまろ)”が「元服」を済ませて・・・「松平昭徳(まつだいらあきのり:※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)」と名乗った後に・・・“禁裏守衛のためとして、水戸藩士100名余り”を伴なって、「江戸」を発ち、「京都」へ向かう。・・・この時の松平昭徳の立場を云えば、“将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)の名代として”・・・つまりは、“将軍・徳川家茂の護衛及び補佐役”として、且つ“遅れ馳せながらの出立だった”のでしょう。・・・いずれにしても、この時の松平昭徳は、数え年で12歳。
      ※ 同年1月15日:「第14代征夷大将軍・徳川家茂」が、“禁裏守衛のためとして、生涯二度目の上洛”をする。・・・将軍の徳川家茂は、前年3月4日に・・・“義兄に当たる孝明天皇に攘夷実行を誓っていました”から。・・・いずれにしても・・・この上洛によって、公武合体を承認した孝明天皇の信任を受けることとなり・・・“公武合体体制が事実上成立した”と考えられます。・・・
      ※ 同年1月21日:「第14代征夷大将軍・徳川家茂」が、「参内」して、“公武一和及び攘夷の功を奉ずべき旨”の「勅諭」を賜う・・・とともに、「朝廷」が、“将軍・徳川家茂”を「従一位」に「昇叙」し、「右大臣」に「転任」させる。・・・尚、これに、「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が従がう。・・・
      ※ 同年1月中旬以降のこととして:「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」が、「京都・二条城」において、“開国の方針については一変せんこと”を「主張」する・・・も、幕府老中らは是を聴かず。・・・二条城の所在は、京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町。
      ※ 同年1月28日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟である松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「京都」に「到着」し・・・“禁裏守衛などのために集められた水戸藩士が、総勢300名”となる。・・・この時の松平昭徳に従っていた水戸藩士100名余りは・・・前年の西暦1863年(文久3年)3月4日から水戸藩主・徳川慶篤に従がって京都・本圀寺に駐屯していた「本圀寺党」と合流することとなり・・・“この時総勢300名となった”訳です。

      ※ 同西暦1864年(文久4年)年2月20日:讖緯説に基づく「甲子革令(かっしかくれい)の年」に当たるため、「文久」から「元治」に「改元」される。

      ※ 西暦1864年(元治元年)3月7日:「長州藩主・毛利慶親(もうりよしちか:※後の敬親)」が、「長州藩士・有福恂允 (ありふくじゅんすけ:※通称は有福半右衛門)」に「上京」を命じ、「将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)」へ「書(簡)」を寄せて・・・「攘夷の国是を変ぜず、正議の堂上を復職せしめ、以って、その生父斉昭公の遺志を継がん」・・・と説かせる。
・・・この書簡の効果は、如何ほどであったのか?・・・
      ※ 同年3月9日:“朝廷から朝議参豫を命じられていた将軍後見職・一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、“この朝議参豫について”を辞す。・・・“僅か2カ月と数日という短期間”で、公武合体体制確立の象徴のような、合議制会議参加メンバー資格を?・・・“よっぽどの事があった”ようですね。・・・通説では、“日本という国家の将来像に対する、各参加メンバーにおける方向性の不一致が大きかった”とされますが・・・それまで政(まつりごと)を担っていた徳川幕藩体制、つまりは徳川将軍家の将来の立場や処遇の問題があったかと。
      ※ 同年3月18日:“尾張、水戸、加賀金沢、筑前福岡、因幡鳥取、伊勢桑名、同津、備後福山、伊予今治、石見津和野、讃岐丸亀の諸藩士と、尾張藩の附家老・成瀬正肥(なるせまさみつ)の家人ら”が、「京都東山」の「曙亭(あけぼのてい:※明保野亭とも)」にて、“攘夷の事”を議す。・・・この頃の京都周辺では・・・“攘夷の風”が、強く吹き曝(さら)しており・・・“事の展開が目まぐるしい”ですね。
      ※ 同年3月19日:「長州藩士・久坂玄瑞(くさかげんずい)」が、「在京水戸藩士・山口正定(※通称は徳之進)」を伴なって「長州」へ「帰藩」し・・・“諸国の形勢”を「報告」する。これにより、“長州藩主の毛利慶親父子は、重臣らと議した後に、大挙上京の期を暫らく弛(ゆる)める事”とする。・・・“攘夷決行を巡って様々な動き”が・・・
      ※ 同年3月22日:“上洛していた水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)”が、“上洛中の将軍に代わって関東守備”を命じられ・・・後日「江戸」へ向かう。・・・?・・・
      ※ 同年3月25日:「幕府」が、“一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)の将軍後見職を免じる”・・・と、「朝廷」は、「一橋慶喜」を「禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)」と「摂海防禦指揮(せっかいぼうぎょしき)」を命じる。・・・「禁裏御守衛総督」とは、幕府の了解のもと、禁裏(=京都御所)を警護する為に、朝廷により、設置された役職のこと。・・・「摂海防禦指揮」も、幕府の了解のもと、大坂湾周辺から侵攻してくる外国勢力に備える為に、朝廷により設置された役職であり、“摂海守備総督を統率する役目であった”と考えられます。・・・この時の一橋慶喜は、数えで28歳。

      ※ 同年3月内:“時の幕府は、薩摩藩による兵庫と湊川における楠木社(※かつてから義臣とされていた楠木正成公を祀る社のこと)の創建を喜ばず、幕府自らがこれに当たろう”と欲す。・・・尚、水戸藩士らの間でも、“幕府がこれを創建すべき”と望む者あり。・・・本来の尊皇思想からすれば、薩摩藩が突出して行なうのではなく、“幕府が率先しなければならない筈である”との、筋論(すじろん)ですね。これは。

      ・・・更に・・・この頃には既に・・・幕閣内の対立などによって、横浜鎖港が一向に実行されないという局面に憤慨した水戸脱藩浪士・藤田信(ふじたまこと:※通称は小四郎、藤田彪の四男)などが・・・幕府に対して横浜の即時鎖港を要求するため、非常手段を採ることを決意するに至り・・・北関東各地を遊説しつつ軍用資金を集めるなどの動きが活発化しており・・・そして・・・“これらが、それぞれの沸点に達したか? のよう”に・・・

      ※ 同西暦1864年(元治元年)3月27日:“水戸脱藩浪士・藤田信(※通称は小四郎、藤田彪の四男)らを主要メンバーとする尊皇攘夷改革激派(≒後の天狗党)の一部”が、「筑波山」で「挙兵」し・・・世に云う「元治甲子の乱(≒天狗党の乱、筑波山挙兵事件)」が起こる。・・・この時、藤田信(※通称は小四郎、藤田彪の四男)は、62名の同志達と共に筑波山に集結し挙兵。・・・これには、常陸国の小川や潮来、那珂湊などの学館に集まる元藩士らが参じており・・・“前水戸藩主・徳川斉昭(※後の烈公)の神主(しんしゅ:※儒教の葬礼にて、死者の官位や姓名を書く霊牌であり、仏教における位牌のこと)を奉じ、徳川斉昭の遺志を継ぐ行為であり、更には日光東照宮へ拠ろう”という「計画」でした。・・・尚、この時の藤田信(※通称は小四郎、藤田彪の四男)は若干23歳であったため、水戸町奉行であった田丸直允(※通称は稲之衛門)を説いた後に、筑波山挙兵の主将としています。

      ・・・この藤田信らによる筑波山挙兵の後には、関東各地から続々と浪士や農民らの義士や義民達が集結し、数日後には150名、その後の最盛期頃には約1,400名という大集団へと膨れ上がることとなりますが・・・これとは別のこととして、“この時の武装集団のこと”を、筑波山で挙兵したという理由から、「筑波勢(つくばぜい)」や「波山勢(はざんぜい)」と当時称されることに。
      ※ 同年同日:当時の「水戸藩庁(=水戸城)」は、結果としても“藤田信(※通称は小四郎、藤田彪の四男)ら脱藩浪士達による筑波山挙兵を鎮静化させることが出来ず”・・・「幕府」に対しては、“自藩の若年寄・岡田徳至(おかだのりよし:※通称は徳之介、新太郎、兵部、信濃守とも、号は確翁)を急遽派遣する”とともに・・・当然に、“江戸定府していた藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)に対しても、この挙兵事件についてを報告する”に至る。・・・・・・・・・


・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】