・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・
※ 同西暦1600年(慶長5年)8月26日:“東軍方(≒徳川方)の軍勢約8万が、西軍方(≒石田方)の宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)勢や小西行長、石田三成、島津義弘、豊臣秀頼の馬廻衆ら約2万人が守る大垣城”を「包囲」し始める。これに対して、「大垣城」の「西軍方(≒石田方)」は、「毛利勢」へ「救援」を「要請」する。(※同年8月29日付黒河内長三(くろこうちちょうぞう)宛保科正光書状より)・・・ちなみに、「大垣城の西軍方(≒石田方)が救援要請したという毛利勢」とは、“近江国瀬田(現滋賀県大津市瀬田)と守山(現滋賀県守山市)の間に当時陣取っていたという毛利輝元の手勢2万のこと”かと。・・・また、“西軍方(≒石田方)の伊勢方面軍の総大将とされていた宇喜多秀家とその手勢が、当時の東軍方(≒徳川方)により包囲され始めていた大垣城に入城することが出来ていて、ここに本来は大坂城の豊臣秀頼の傍近くに待機する筈の馬廻衆らも参戦していたこと”も分かります。“何が何でも、東軍方(≒徳川方)に大垣城を突破させてはならない”との切迫感が伝わって来ますが・・・
※ 同年8月27日:「岐阜城陥落の報せ」を受けた「徳川家康」が、“岐阜攻めに参戦した諸大名や諸将達へ戦功”を賞する「書状」を送り、「福島正則」には“自身と徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)勢が到着するまで軍事行動を控えるように”と「指示」する。(※同年8月27日付福島正則宛徳川家康書状及び同年8月27日付藤堂高虎他8名宛徳川家康書状他より)・・・
※ 同年同日:“伊勢路を進み東軍方(≒徳川方)の安濃津城や松坂城を降伏させた西軍方(≒石田方)伊勢方面軍の毛利秀元(※毛利元就四男の穂井田元清次男であり、毛利輝元の従兄弟)らの軍勢”が、「美濃」ではなく「尾張」を目指す。・・・この時の西軍方(≒石田方)伊勢方面軍は、美濃国で暴れていた東軍方(≒徳川方)の背後に回り込むことで、楔(くさび)的な役割を担おうとしたのではないでしょうか?
※ 同年8月29日:「上杉家執政・直江兼続」が、“白河城(※別名は小峰城、白河小峰城とも)に在陣していた結城朝勝”に宛てて・・・“佐竹筋に相談し、江戸へ目付(めつけ:※密偵のこと)を遣わして探索を依頼する内容”の「返書」を送る。(※『読史堂古文書』より)・・・
※ 同年9月1日:「徳川家康」が、「松平(武田)信吉(※徳川家康の五男)」や、“浅野長政ら”に「江戸城留守居」を命じ、“自ら約3万3千の兵ととも”に、「東海道」を「西進」し始める・・・と、“この頃美濃国垂井に集結していた福島正則や、池田照政(※後に輝政と改名)ら東軍方(≒徳川方)の主力諸将に向けて、自分の到着まで自制するよう再度指示”した「書状」を送るとともに・・・「掘直寄(ほりなおより:※いわゆる直江状にもあった堀直政の次男または三男、後の越後坂戸藩、信濃飯山藩、越後長岡藩、越後村上藩主)」に向けては、“大垣城については、水攻めによって落城させるつもりであること”を伝える「書状」を送る。(※同年9月朔日付福島正則、池田照政等宛徳川家康書状及び同年9月朔日付堀直寄宛徳川家康書状より)
・・・いずれにしても、徳川家康は同年8月5日からの約1カ月を江戸城に居ながら、様々な戦略を練り、様々な指令を発して、この頃ほぼ安全地帯となっていた東海道を、この日西進した訳です・・・が、一方の西軍方(≒石田方)は、当時・・・“総大将だった毛利輝元、或いは大坂城に居た豊臣秀頼の出馬を要請していた”とされるものの・・・いずれも、淀殿(※豊臣秀吉の側室、秀頼の生母、北近江の戦国大名だった浅井長政の娘)から拒否されて実現しません。・・・この頃の毛利輝元については、“出馬の意思があった”とも謂われますが、“豊臣政権三奉行の一人だった増田長盛が東軍方(≒徳川方)に内通している”との風聞などもあり、“結果として動けなかった”ともされています。・・・それにしても、“大垣城を水攻め”ですか?・・・掘直寄に対して、“大垣城攻めは長期戦になるから”と伝えた、この時の徳川家康の意図は?・・・ただ東北地方や地元の越後地方の平定を優先して欲しいと伝えただけだったのでしょうか?
※ 同年9月2日:“西軍方(≒石田方)の北陸道平定軍に従軍していた京極高次(※正室は、浅井長政の娘であり淀殿の妹だった初)勢約3千”が、突如として「戦線離脱」する。・・・
※ 同年9月3日:“同年8月24日より徳川家家臣・井伊直政から明渡し勧告されていた西軍方(≒石田方)の犬山城”が、この日に「開城手続き」が「完了」する。・・・井伊直政から調略を受けていた竹中重門(※竹中半兵衛重治の嫡男)や関一政、加藤貞泰に加えて、稲葉貞通及び典通親子、稲葉方通などの諸将ら、そして犬山城主だった石川貞清でさえ・・・関一政から、“犬山城内が、既に多勢に無勢となっていては、もはや勝ち目無し”などと、実際に言われたかどうかは定かではありませんが、現実として・・・この日に、石川貞清は居城を放棄し、西軍方(≒石田方)の本隊に合流すると・・・“後の関ヶ原合戦の本戦では、宇喜多秀家勢の右翼に陣取って奮戦した”とされます。
・・・尚、稲葉貞通及び典通親子については、自身らの本拠地でもあった郡上八幡城が、同じ美濃衆であって既に東軍方(≒徳川方)を表明していた遠藤慶隆(えんどうよしたか)や金森可重(かなもりありしげ、かなもりよししげ)らによって攻撃を受けていることを知ると、これを救援するための行動を当然にすることとなり・・・この日の二日前に当たる同年9月1日からは、「八幡城の合戦」が実際に行なわれ・・・結局のところ・・・同年9月14日以降には、稲葉貞通らの郡上八幡城が、東軍方(≒徳川方)へ降伏することになりますが・・・これもまた、同族間での争いの構図となってしまいます。この頃の稲葉貞通は、旧交のあった福島正則からの密書によって東軍方(≒徳川方)への参陣を勧められて、“現に犬山城の明渡しにも従っていた”にもかかわらず。・・・この「八幡城の合戦」では、その敵味方として、遠藤慶隆と、その従兄弟でもあった遠藤胤直(えんどうたねなお)が戦うこととなりますが・・・いずれにしても、美濃衆の大半が・・・「美濃源氏」や「土岐源氏」とまで呼ばれる、中世から土着性などの伝統を色濃く受け継いでいた武門家系の集団でしたから。
・・・関ヶ原合戦の諸戦、特に前哨戦と云われる、この頃は・・・規模の大小にかかわらず、同族内の意見統一や方針決定に関して、誰が主導する立場で以って一族郎党を率いてゆくのか? という根源的な問いが、東軍方(≒徳川方)西軍方(≒石田方)両者から突き付けられていた訳です。・・・もしかすると、このように対立し、拮抗する勢力同士の狭間にあった中小勢力は・・・信州の真田家も、そうでしたが・・・自己勢力の最終的な生き残りを賭ける意味を込めて、且つリスクを分散するために、同族間の者同士を敵味方として、敢えてその身を置いていたのではないでしょうか? しかも、当時は誓紙などの書面や書状などを以って、互いの意思を確認していた時代です。現代と違って、非リアルタイムの時代ですし・・・後の江戸時代には、卑怯卑劣な行為とされる調略行為も、当時の一般感覚からすれば、自己勢力が生き残るための常套手段であって・・・結果的に難局を切り抜けた徳川家康は、後に自身が神格化されることになった訳です。・・・その意味で云えば、豊臣秀吉も同じでしたね。
※ 同年同日:“細川幽斎及び幸隆親子や三淵光行らが籠城する丹後田辺城(※別名は舞鶴城〈ぶがくじょう〉とも)”に向けて、「日野輝資(ひのてるすけ:※正二位権大納言の公家であり、法号は日野唯心)」や、「中院通勝(なかのいんみちかつ:※正三位権中納言の公家であり、和歌や和学を細川幽斎に学ぶ)」、「富小路秀直(とみのこうじひでなお:※従三位の公家)」が、“和平の使者”として「出立」する。・・・この時の公卿らが、勝手に西軍方(≒石田方)を忖度(そんたく)したということなのでしょうか?
※ 同年同日:「京極高次(※正室は、浅井長政の娘であり淀殿の妹だった初)」が、“自身の居城だった近江大津城(現滋賀県大津市浜大津5丁目)に約3千の兵とともに籠城し、東軍方(≒徳川方)への加担を鮮明にする”と、その直後頃から「西軍方(≒石田方)」により「大津城」が「包囲」され始める。・・・
・・・その一方で、約3万8千の兵で組織された徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)勢は、中山道を西進する予定でしたが・・・
※ 同年9月3日:“真田昌幸らが籠る信濃上田城を攻撃中の徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)が、蘆名盛重(※改名前は義広、佐竹義重の次男であり、義宣の次弟)から同年8月25日に佐竹義宣が水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)帰陣したとの報せを受ける”と・・・“赤館城に在陣していた蘆名盛重”へ向けて・・・「去廿五日義宣御帰陣之由、尤存知候、然者(しかれば)貴所于、今御在陣由、御苦労察入候。」・・・という「返書」を送る。(※『佐竹文書』・同年9月3日付蘆名盛重宛徳川秀忠書状より)・・・この書状内容を現代語訳すれば・・・「去る25日に(佐竹)義宣が(水戸城へ)御帰陣為されたとのことであり、
(これについては、私も)尤(もっと)もなことと存知ておるので、貴方(※蘆名盛重のこと)が今在陣されておられる所では御苦労もあろうかと察しております。」・・・となるでしょうか?
・・・いずれにしても・・・“この時の徳川秀忠勢には、水戸城の佐竹義宣により派遣された佐竹義久勢余りが加わる予定であることが伝わっていた”と考えられます。“この時既に、水戸城へ帰陣していた佐竹義宣についてを、佐竹義久からの早馬による伝令などから仔細を伝え聞いていた”のでしょうね。
※ 同年9月3日から8日:“約3万8千の徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)勢が、西軍方(≒石田方)に与する約2千の真田昌幸勢が籠もる信濃上田城を落とすことが出来ず”に・・・結果として、「西進」を足止めさせられる。・・・このように、“約2千の真田昌幸勢に手こずって、徳川秀忠勢が後の関ヶ原合戦に間に合わなかった”とされます・・・が、この時の徳川秀忠が父の家康から受けていた当初の任務は、中山道の制圧であり・・・“上田城攻城戦は徳川秀忠の独断に依るものではなく、徳川家康からの直近の命令に沿ったものだった”とされています。・・・徳川家の主力部隊を預けられていた訳ですし。
※ 同年9月5日:“砥石城(といしじょう:※別名は戸石城、伊勢崎城、枡形城、本城、米山城とも、現長野県上田市上野)を放棄し、上田城へ撤退して徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)に降伏を申し出ていた真田昌幸”が・・・一転して、「徹底抗戦」を「表明」する。(※同年9月5日付浅野長政宛徳川秀忠書状より)・・・真田昌幸、徳川秀忠勢を翻弄しています。
※ 同年9月6日:「後陽成天皇」が、“細川幽斎の歌道の弟子だった三条西実条(さんじょうにしさねえだ:※細川幽斎に古今伝授を相伝した三条西実枝の孫であり、当時は従三位)、中院通勝(※正三位権中納言の公家であり、和歌や和学を細川幽斎に学ぶ)、烏丸光広(からすまるみつひろ:※歌人、能書家であり、細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究めた人物)”を、「勅使」として「東軍方(≒徳川方)」及び「西軍方(≒石田方)」へ派遣し・・・“遂に、両軍の講和を命じる”・・・と、“丹後田辺城(※別名は舞鶴城〈ぶがくじょう〉とも)で籠城していた細川幽斎及び幸隆親子や、三淵光行らが、講和命令に従うこととなり・・・同月13日に田辺城(※別名は舞鶴城〈ぶがくじょう〉とも)を明渡して、西軍方(≒石田方)の前田茂勝居城である丹波亀山城(※別名は亀岡城、亀宝城、荒塚城、霞城とも、現京都府亀岡市荒塚町)への移動”に応じる。・・・
※ 同年9月7日:「西軍方(≒石田方)」が、“毛利輝元の叔父だった末次元康(すえつぐもとやす:※毛利元就の八男であり、毛利隆元の弟)”を「大将」とし、“同じく輝元の叔父である小早川秀包”や、「立花宗茂」、「筑紫広門(※筑紫惟門の次男であり、同姓同名の広門の養子のこと)」らに“約1万5千の軍勢”を率いさせ、“京極高次(※正室は、浅井長政の娘であり淀殿の妹だった初)が籠城していた大津城攻撃”へ向かわせる。(=大津城の戦いへ)・・・
※ 同年同日:“毛利輝元の重臣・吉川広家”が、「美濃国南宮山(なんぐうさん)」に「着陣」する。・・・ここにある「南宮山」とは、現在の岐阜県大垣市や、不破郡垂井町、関ケ原町、養老郡養老町に跨る標高419mの山であり、その山頂は大垣市と垂井町の境界上にあります。別名は「美濃ノ中山」とも。
※ 同年9月8日:「上杉家執政・直江兼続」が、“上杉景勝の側近・清野長範(きよのながより)”に向けて、“佐竹家に遣わすという返書を見たことや、関東方面では変事も無きこと”を報せる「書状」を送る。(※『岩井文書』より)・・・ここにある、“関東方面では変事も無きこと”とは、いったい何を示しているのでしょうか?・・・これについては・・・“あくまでも、上杉景勝本人へ責任が及ばぬようにと、直江兼続一人の責任として推し進めている行為としていた”のかも知れません。
※ 同年9月9日:“約3万3千の兵を率いた徳川家康”が、「岡崎」に「進軍」する。・・・当時の岡崎は、城主・田中吉政により急ピッチの都市計画事業が進められていた処でした。
※ 同年同日:“徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)の手元”へ、“利根川増水によって使者による伝達が遅れていた徳川家康西進の報せと、徳川秀忠勢の関ヶ原方面への合流という新たな命令”が、この日に届けられる。・・・伝達が遅れていたという理由はともかく・・・いずれにしても、“この日の時点で、新たな命令書が届けられても、約3万8千と云われる徳川秀忠勢が、美濃国関ヶ原付近に布陣することは到底無理だった訳”です。・・・“もしも、徳川秀忠勢が西進を急ごうとすれば、上田城の真田昌幸から直ちに追い討ち攻撃を掛けられた”でしょうから。・・・“当然に、信濃国は山々や渓谷に囲まれており、大軍が移動するにも長蛇の列となる筈”であって、しかも・・・“これらの山々や渓谷伝いに、西軍方(≒石田方)に与していた真田昌幸らの山城や砦、罠の類いがあちこちに構築されていた訳です”から。
・・・すると・・・“同年8月25日に常陸の佐竹義久が率いて行ったという3百騎余り、つまりは・・・“通常の騎馬武者だった場合には、600~1200人以上の規模の軍勢だった”と考えられますが・・・。そもそもとして・・・“当時増水していたという利根川を、容易く渡河して徳川秀忠勢に合流出来ていた”のでしょうか? “この利根川は、その荒れ狂う様などから、坂東太郎とも呼ばれた大河だった訳です”が。・・・おそらくは・・・“徳川秀忠へ向けられた佐竹勢3百騎余りの中から選抜された伝令役も、きっと命懸けだった”に違いありません。
・・・などと、ここまで、佐竹義久という武将についてを記述しておきながら・・・“佐竹義久が当時置かれていた”と云われる事情や状況については、諸説あります。これら其々についての真偽は定かではありませんが・・・
一説には・・・“当時の佐竹家動向について疑念を懐いていた徳川家康が、古田重勝や島田(次兵衛)利正を同年7月24日に派遣して、新たに佐竹家からの証人、すなわち人質を求める”と・・・“佐竹義宣が、この佐竹義久や、奇しくも同年同日に佐竹義宣が赤館以北への進軍についてを差し止める指令を宛てたとされる須田(美濃守)盛秀両名の子らを、東軍方(≒徳川方)へ人質提供していた”
(※『佐竹家旧記』所収・梅津(主馬)利忠(うめづ〈しゅめ〉としただ)覚書より)とか・・・“3百騎余りを率いて信濃上田城を攻める徳川秀忠勢に合流しようとした佐竹義久勢ではあったものの、中山道を西進する東軍方(≒徳川方)の総大将とされた徳川秀忠が、この佐竹義久の加勢申入れについては、何らかの理由によって丁重に断り、常陸へ帰国させた”
(※『義宣家譜』より)とする説があります。
・・・いずれの説も、当時の徳川家康の内意を充分に理解していた佐竹義久、つまりは・・・当時の佐竹家中からも「家康派」と目されていた佐竹義久が、“主家の佐竹義宣への説得工作を担わされていた、或いは担わざるを得ない状況にあったこと”を肯定する説となります。・・・ちなみに、これらの背景にあったのは・・・後世の『徳川実紀(とくがわじっき)』によれば・・・“当時の徳川家康が、佐竹義宣について”を
・・・「今の世に佐竹義宣ほどの律儀者を見たことがない。」・・・とか、
「しかし、あまり律儀過ぎるのにも困る。」・・・などと評していたことからも分かりますが。・・・いずれにしても、“この人物評価については、会津征伐(=上杉討伐)や関ヶ原合戦前後期における佐竹義宣や、佐竹家の動向を念頭に置いたものだった”と考えられております。・・・現代茨城人の一人とも云える人間としては、何とも耳が痛いと申しますか、非常に複雑な心境ではありますが。
※ 同年9月10日:“約3万3千の兵を率いた徳川家康”が、「熱田」に「進軍」する。・・・「熱田」とは、現在の愛知県名古屋市熱田区のこと。
※ 同年9月13日:“約3万3千の兵を率いた徳川家康”が、「岐阜」に「進軍」する。・・・当時の岐阜は、同年8月23日に西軍方(≒石田方)の城主・織田秀信が既に降服して、東軍方(≒徳川方)の城となっておりました。
※ 同年同日:“丹後田辺城(※別名は舞鶴城〈ぶがくじょう〉とも)で籠城していた細川幽斎及び幸隆親子や三淵光行ら”が、後陽成天皇による勅命を受け容れて、この日予定通り”に「開城」する。・・・いずれにしても・・・同年9月6日の決定によって、田辺城の戦いについては西軍方(≒石田方)の勝利となりました・・・が、結果としては・・・小野木重勝らの丹波但馬方面軍1万5千が、同年7月19日からの期間を田辺城に釘付けにされることとなって・・・この日行なわれた田辺城開城から二日後に当たる関ヶ原の戦いの本戦には間に合わなかった訳です。
※ 同年9月14日:「徳川家康」が、「美濃赤坂岡山(現岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)」に「設営」した「本陣」に入る。・・・“この時の徳川家康は、中山道から西進して来る筈の徳川秀忠勢約3万8千の到着を、今か今かと待っていた”とされます。
※ 同年同日:「石田三成」が、“赤坂付近を流れる杭瀬川(くいせがわ)に兵を繰り出し、東軍方(≒徳川方)の中村一忠(※中村一氏の子であり、この後に徳川秀忠から偏諱を受けて、忠一と改名)や有馬豊氏(ありまとようじ)を誘い出す”という「島清興(しまきよおき:※通称は左近とも、石田三成の重臣)」による「進言案」を「採用」し・・・この日、“この進言案”が「成功」する・・・と、「宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)勢」の「明石全登(あかしてるずみ:※全登には、これ以外にも複数の読みが伝わります)」と「連携」して、“東軍方(≒徳川方)の軍勢”を、散々に打ち破る。・・・まだ、この時点では、西軍方(≒石田方)も奮戦していたことが分かりますが・・・
※ 同年同日:“西軍方(≒石田方)であり、豊臣政権三奉行の一人だった前田玄以が、大坂城を退去する”・・・と、突如として、“閑居(かんきょ:※のんびり暮らすこと)してしまう”という「事態」が「発生」する。・・・この前田玄以も・・・“事の中途、或いは当初から、東軍方(≒徳川方)の内応者だった”という説もありますが・・・いずれにしても・・・この出来事からも分かるように、西軍方(≒石田方)の結束力が乱されることとなり、当初の戦略目標などが少しずつ狂い始めて、後に大きな影響として現れることとなるのです。
※ 同年同日:「小早川秀秋(※故豊臣秀吉の正室だった北政所の甥)」が、“松尾山(まつおさん)にて既に陣を敷く伊藤盛正(いとうもりまさ)を押し出す格好”で「在陣」する。・・・ここにある「松尾山」とは、現在の岐阜県不破郡関ケ原町にある標高292mの山であり、当時の東軍方(≒徳川方)や西軍方(≒石田方)の配置が一望出来る場所です。“この松尾山には、元々南北朝時代から戦国時代まで松尾城があったため、布陣の際に伊藤盛正や小早川秀秋がその跡を利用した”と云われます・・・が、それまでの小早川秀秋は、東軍方(≒徳川方)への内応を、黒田長政を経由し徳川家康へ打診しながらも・・・“伏見城の戦いの後には、自ら病いと称して実際の戦場には出ていなかった”とされます。
・・・このためだったのか? “石田三成ら西軍方(≒石田方)の首脳達は、小早川秀秋に対して不信の念を抱いていた”とされますが・・・この小早川秀秋が、“西軍方(≒石田方)の首脳達から不信の念を抱かれた”という背景には・・・「文禄・慶長の役(※いわゆる唐入り、故豊臣秀吉による朝鮮出兵のこと)」における石田三成の報告が発端となって、豊臣政権下における小早川秀秋の所領が「筑前名島35万石」から「越前北ノ庄12万石」へ大きく減封されることとなり、その苦しかった時期を徳川家康に回復してもらう恰好となって、筑前や筑後に復領し、しかも「所領石高も59万石」へと大幅に増加されたため・・・“結果的に徳川家康への大恩があった”ともされています。・・・したがって、“当時の小早川秀秋としては、石田三成個人に対する遺恨の念よりも勝(まさ)って、当初から東軍方(≒徳川方)への参戦を想定していた節があり、伏見城攻めの一件によって成り行き上、仕方なく西軍方(≒石田方)に与していた”という経緯があった訳です。
・・・ちなみに、“約1万5千の軍勢を擁する小早川秀秋を、自勢力に繋ぎ留めるためとして、徳川家康も石田三成も同様に、小早川秀秋に対しては破格の恩賞を与える約束を行なっていた”とされ・・・現実として、当時の小早川秀秋に対しては・・・
東軍方(≒徳川方)は、“上方の二カ国を与える”と提示し
・・・西軍方(≒石田方)も、“当時幼少だった豊臣秀頼が元服するまでの期間について、小早川秀秋を関白に就任させ、更には播磨(はりま)一国を加増する”とまで提示していたとのこと。・・・“まさに、綱引き状態だった”かと。
※ 同年同日夜:「徳川家康勢」が、“赤坂の陣を出て、中山道を西へと向かう構え”を見せる。・・・?・・・
※ 同年同日夜:“徳川家康勢が中山道を西へと向かう構えであることを察知した石田三成勢”が、“福原長堯ら”に「大垣城」の「守備」を託して、「東軍方(≒徳川方)」よりも早く「大垣城」を「出陣」する・・・と、「関ヶ原方面」へと「転進」し始める。・・・!・・・
※ 同年同日夜:“それまで西軍方(≒石田方)の北陸方面軍に従軍していた大谷吉継勢”が、「関ヶ原」に「着陣」する。(※同年10月7日付本多正純(※本多正信の長男)宛池田照政(※後に輝政と改名)書状より)・・・それにしても、この時の大谷吉継勢の規模は、“手勢の千二百人だけだった”のでしょうか? 『日本戦史・関原役』によれば、兵数600とされております。・・・いずれにしても、当時の大谷吉継は、同年8月5日付の真田昌幸他二名宛石田三成書状中の「備えの人数書」によれば、“北国口の主将を任されていたよう”ではあります・・・が、そもそもとして、“徳川家康に対抗する石田三成に対して諫めていた”と云いますし、北陸道方面にも守備する兵士などを、それなりに配置して来ていたでしょうから、半分の数とされていることにも納得出来ますね。
※ 同年同日夜:“西軍方(≒石田方)による関ヶ原への転進を知った徳川家康”が、“松平康元(まつだいらやすもと:※徳川家康の異父弟)や、堀尾忠氏(※堀尾吉晴の次男または長男)、津軽為信(つがるためのぶ)ら”に、「大垣城」の「監視」を命じる・・・とともに、“自らの軍勢に対しては、即座に関ヶ原へ進軍すること”を命じる。・・・
・・・いずれにしても、小早川秀秋(※故豊臣秀吉の正室だった北政所の甥)などを巡る水面下における謀略や、全国各地の諸大名や武将達それぞれの思惑、そして各地で軍事的衝突が入り乱れる中・・・“東西両軍が、中山道や北国街道、伊勢街道が交差する要衝の地”だった「関ヶ原」へと、次第に集結し始め・・・
※ 同西暦1600年(慶長5年)9月15日早朝:「美濃国不破郡関ヶ原(現岐阜県不破郡関ヶ原町)」を「主戦場」として、「東軍方(≒徳川方)」と「西軍方(≒石田方)」により、“天下分け目の関ヶ原合戦が始められる”(・・・※当時の誰しもが長期戦を予想する最中・・・)も、“本戦が、たったの半日で勝負が決する”こととなり・・・“結局のところ、東軍方(≒徳川方)大勝利”に終わる。・・・ちなみに・・・この合戦において大敗北を喫した石田三成らの西軍方(≒石田方)首脳達にしてみれば・・・
東軍方(≒徳川方)の背後を突ける筈と期待していた会津の上杉景勝には・・・“徳川秀忠勢を相手とせずに、最上義光が領した山形方面へと向けられること”となり・・・
常陸の佐竹義宣には・・・“当主だった佐竹義宣が西軍方(≒石田方)への加勢を主張する”も・・・“当時は隠居の身だったとは云え、一代で佐竹家を北関東や仙道筋の一大勢力に成長させた父の佐竹義重や、蘆名氏を継いでいた蘆名盛重(※改名前は義広、佐竹義重の次男)、佐竹氏一門衆の筆頭だった佐竹義久らから、西軍方(≒石田方)加勢への強硬な反対を受けることになった”と云われ・・・結果として・・・“義宣自身の主張を押し切ることが出来ずに、佐竹義久に3百騎余りを率いらせて徳川秀忠勢に加勢させる”など・・・事後から視れば、“どっちつかずの曖昧な態度に終始されてしまったのか”と。・・・いずれにしても、この当時は・・・“佐竹家の傘下とされていた多賀谷重経(たがやしげつね)や、下野国山川(現栃木県足利市山川町)の領主・山川朝信(やまかわとものぶ)・・・この他にも、“佐竹家与力大名だった相馬義胤(そうまよしたね)、岩城貞隆(※佐竹義重の三男であり、義宣や蘆名盛重の弟)らも、会津の上杉景勝に通じていた”とされますが。・・・これについては、“上記で前述した結城朝勝などの関与があったため”・・・と考えられております。
結局のところ・・・上杉景勝と佐竹義宣という二大大名が、ほぼ軍事的空白地帯となった関東で暴れ回ることをせず、上方へ西進する徳川家康勢を攻撃しなかった(=出来なかった)ことが・・・石田三成などの西軍方(≒石田方)首脳達にとっては、大誤算となり・・・“関ヶ原合戦の結果に響いていたこと”は、ほぼ間違いなかったかと。・・・しかしながら・・・このような情勢となった背景には・・・やはり・・・当時の徳川家康により限定されてしまった相互の情報伝達手段や、その能力・・・諸大名や諸将達が第一義的に重んじた大義名分自体が、後世においては塗り替えられる可能性・・・そして・・・生き残っていればこそ、あらゆる手段で以って後世に伝えられる筈とする中世武士の、特には坂東武者や田舎武士と自称していた人々特有の哲学的な思想・・・などがあったかに想えます。
※ 同西暦1600年(慶長5年)9月15日:「徳川家康勢」が、“石田三成の居城とされる佐和山”まで「進軍」する。(※同年9月15日付伊達政宗宛徳川家康書状より)・・・
※ 同年同日:“西軍方(≒石田方)の末次元康(すえつぐもとやす:※毛利元就の八男であり、毛利隆元の弟)”が、“東軍方(≒徳川方)の京極高次が開城”した「大津城」に入る。・・・このように・・・「大津城の戦い」は、京極高次の降伏により、西軍方(≒石田方)が勝利した格好となるも・・・“大津城に足止めされる格好となった西軍方(≒石田方)の一部は、関ヶ原に布陣することさえ出来なかった訳”です。
※ 同年9月17日:“西軍方(≒石田方)の「末次元康(※毛利元就の八男であり、毛利隆元の弟)”が、「大津城」を「退去」する。・・・
※ 同年同日:「東軍方(≒徳川方)」が、“石田三成の居城とされる佐和山城”を「落城」させる。(※同年10月8日付秋田実季宛最上義光書状より)・・・
※ 同年同日:“西軍方(≒石田方)・大垣城内にあった相良長毎、秋月種実(あきづきたねざね:※秋月種長の父)、高橋元種ら三名が、籠城戦継続派だったと考えられる熊谷直盛や垣見一直、木村(宗左衛門)勝正(きむら〈そうざえもん〉かつまさ:※木村清久の一族か?)などを殺害し、その首級を持参して東軍方(≒徳川方)へ投降する”も・・・「大垣城」に残っていた「福原長堯」は、“この後の20日過ぎまで抵抗”を続ける。(※同年9月21日付相良長毎宛井伊直政より)・・・
※ 同年同日:“東軍方(≒徳川方)・徳川家康と西軍方(≒石田方)・総大将とされた毛利輝元との間”で・・・「福島正則」や「黒田長政」を介した「戦後交渉」が始められる。(※同年9月17日付毛利輝元宛福島正則及び黒田長政書状より)・・・既に、この頃から・・・
※ 同年9月21日:「上杉家執政・直江兼続」が、同家の家臣であり、革籠原(かわごはら:※現福島県白河市白坂石阿弥陀)に在した島津忠直(しまづただなお)らと共に、上杉討伐軍に対する一番隊とされた安田能元(やすだよしもと)に向けて・・・“白河城(※別名は小峰城、白河小峰城とも)から、西軍方(≒石田方)惨敗との風説があること”を知らせる「書状」を送る。(※『奥州文書』所収・同年9月21日付安田能元宛直江兼続書状より)・・・この時点では、あくまでも・・・“まだ風説や風聞の類いとされていたようです”が・・・。
※ 同年同日:「伊達政宗」が、“自身の叔父・留守政景(るすまさかげ)”に向けて・・・「佐竹よりも使者御座候、何やうにも入魂(じっこん)有度(ありたき)にて候間、相(※相馬家のこと)之事も佐(※佐竹家のこと)次第たるべく候と存候。」・・・という「書状」を送る。(※『留守文書』所収・9月21日付留守政景宛伊達政宗書状より)・・・ちなみに、この書状については、“慶長五年の書状だった”のか? について諸説ありますが、ここでは・・・この年以外には、当時の伊達政宗が、このような書状を認(したた)める必要性も無いため、“西暦1600年(慶長五年)のこと”と推定しております。・・・そして、この書状内容を現代語訳すれば
・・・「佐竹からも使者がありましたが、(佐竹家としては)何としても入魂(じっこん)となりたい様子に窺(うかが)えました。(したがって)相馬家の事も、佐竹家の(出方)次第であると存じております。」・・・となるでしょうか?
・・・いずれにしても、“この同年9月21日以前には、伊達政宗と佐竹義宣という従兄弟同士の間において、何らかの交渉事が進められていたこと”が分かります・・・が、このことは・・・“一方の佐竹家による伊達家に対する謀略の類いだった”とも云えそうです。・・・と云うのも、この頃・・・「関ヶ原合戦」が行なわれた同日には、会津の上杉勢が最上義光との交渉を打ち切ると、米沢口から山形へと進撃し、長谷堂城(※別名は亀ヶ城とも、現山形県山形市長谷堂城山)に籠る最上勢と激戦を繰り広げており・・・また、この時の伊達政宗は、最上勢へ援兵を出しながら、自らも福島城(※別名は大仏城、杉妻城、杉目城とも)及び梁川城(※別名は鶴ヶ城とも、現福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡)への攻略を画策し・・・越後では、引き続き国衆一揆(≒上杉遺民一揆)が活発化していましたので。
※ 同年9月22日:“東軍方(≒徳川方)・徳川家康と西軍方(≒石田方)・総大将とされた毛利輝元との間で、従来の毛利家所領が安堵されるという条件の和睦”が「成立」する。(※同年9月22日付井伊直政及び本多忠勝宛毛利輝元起請文より)・・・一旦は、このような条件で和睦となったものの・・・
※ 同年9月25日:“徳川家康及び徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)が、毛利輝元が大坂城を退去した後に福島正則や黒田長政ら五名が入城したことを確認した旨”の「書状」を、“東軍方(≒徳川方)諸将達”へ送る。(※同年9月25日付福島正則他四名宛徳川秀忠書状、同年9月25日付池田照政及び浅野幸長宛徳川家康書状より)・・・
※ 同年9月27日:「徳川家康」が、「大坂城」に「入城」し、「豊臣秀頼」と「和睦」する。・・・“この時の豊臣秀頼は僅か8歳だった”とされますので、まさに曽孫(ひまご)をあやすような光景だったかと。・・・現実として、徳川家康は・・・この後の西暦1603年(慶長8年)に、僅か7歳だった孫の千姫(せんひめ:※豊臣秀頼や本多忠刻〈ほんだただとき:※本多忠勝の孫〉の正室となった女性であり、徳川秀忠と江の長女、号は天樹院〈てんじゅいん〉)を、豊臣秀頼へ嫁がせて、義理の祖父となった訳ですが。
※ 同年9月29日:“関ヶ原合戦における西軍方(≒石田方)敗報を入手した上杉勢が、直ちに最上領内からの撤退を開始する”・・・と、“最上勢及び伊達勢の援軍部隊が、退却する上杉勢へ追撃を加えて、大損害を与え”・・・“伊達政宗勢の主力部隊は、福島城(※別名は大仏城、杉妻城、杉目城とも)及び梁川城(※別名は鶴ヶ城とも)を攻めて、上杉家の守将部隊を相手に激戦を繰り広げる”こととなる。・・・ドサクサ紛れ?・・・きっと、この直前まで、“極度の緊迫感に包まれていた両陣営だった”でしょうから・・・もしも、猛者達の高ぶった感情を制御しようと試みたとしても、さほどの効果は上がらなかったかも知れません・・・が。・・・相手方より、たった一日前に、関ヶ原合戦における西軍方(≒石田方)敗報を入手した上杉勢が・・・最上勢を相手に戦う意義を失ない、意気消沈状態だった処へ・・・最上勢は、ともかく・・・伊達政宗勢主力部隊が、福島城と梁川城へ襲い掛かったのは、合戦後の論功行賞なり、戦後社会を見据えての行動に他なりませんので。
・・・これも「戦国の倣い」と、一言で云ってしまえば、それまでなのですが。・・・
※ 同年9月30日:“上杉家と交戦中だった伊達政宗と最上義光が、関ヶ原における東軍方(≒徳川方)大勝利の報せ”を受け取る。・・・この9月29日及び30日の出来事などから察するに・・・当時、水戸へ帰城していた佐竹義宣に対しては、いわゆる東軍方(≒徳川方)諸将達や、徳川家康、徳川秀忠などからの直接的な通知の類いは無かったようであります。あくまでも史料を読み解く上での話ですが。・・・ここに、ほぼ敵対視されていた佐竹義宣に対する徳川家康などの冷徹さも垣間見える訳です。・・・しかしながら、当時の佐竹義宣も・・・“佐竹家伏見屋敷留守居役とされていた太縄(讃岐守)義辰(※大縄と表記されることもあり)や、連歌師などの伝手(つて)などを頼りにして、この9月29日の直前頃、或いは遅くとも30日直前頃には、上方における東軍方(≒徳川方)大勝利の報せを受けていた”と考えられます。・・・そして・・・“その直後の佐竹義宣は、上方在陣中の徳川家康及び秀忠親子に向けて、勝利の賀使を急遽派遣した”のですが・・・
※ 同年10月1日:“石田三成、小西行長、安国寺恵瓊(※臨済宗の僧、道号は瑶甫、号は一任斎、正慶とも。豊臣政権時においては豊臣秀吉から大名に取り立てられたとするのが通説)ら三名”が、「京六条河原」にて「斬首」される。・・・
かくして・・・関ヶ原合戦において大勝した徳川家康によって、信賞必罰(しんしょうひつばつ)と呼ばれる措置が、迅速に実施されることとなり・・・大いなる恩栄(おんえい)に喜ぶ者達があったのと同時に・・・一方では、惨めな減封や廃絶などの措置に泣く者達など・・・それこそ、全国諸大名や諸将達にとっては、悲喜こもごもの世相が展開される時流になってゆきます。・・・そして・・・近未来の立場や政局を案じたであろう諸大名などが、敵味方の別なく徳川家康が居た伏見城へと向かう中・・・常陸の佐竹義宣は、自らの釈明や謝罪などのために徳川家康の元へは出向かずに、それらについてを父の義重や佐竹義久に託すことになります。・・・この行動については・・・“一見すると、佐竹義宣が水戸で謹慎蟄居しているようでもあり、潔(いさぎよ)い姿勢”にも感じられます。
・・・しかし、おそらくは・・・当時の佐竹義宣にすれば・・・“会津征伐(=上杉討伐)や上方における大戦さの際の行動に関しては、佐竹家当主としての結果責任や、また伏見城に向かうことにも或る種の慎重さが現実に求められていた”とは考えられます。・・・そして、きっと・・・「会津征伐(=上杉討伐)」を発端とし、急展開を見せた「関ヶ原合戦」における全国諸大名の動静・・・特には、徳川家康から討伐対象とされた上杉景勝や・・・当初から東軍方(≒徳川方)に与した伊達政宗や最上義光らの東北地方領主達が見せた実際の動き(=慶長出羽合戦)・・・などについてを事細かに調べ上げ、それら諸大名達の意思表明や態度表明、そして実際の軍事行動に対する徳川家康による総合評価などを分析することにより・・・“当時は、かつてよりも大所帯となっていた佐竹家そのものや、義宣の弟達が継いでいた各家の存続のためとして、出来得る限りの奔走をしていた”のではないか?・・・と想像する次第であります。
※ 同年10月10日:“徳川家康と毛利輝元の間で同年9月22日に定まっていた和睦の条件”が、結果的にも反故とされる恰好となり・・・“毛利家については、周防及び長門の二カ国への減封”と決まる。(※同年10月10日付毛利輝元及び毛利秀就宛徳川家康起請文より)・・・
※ 同年10月14日:“上方にも独自の情報網を持つ伊達政宗”が、“京都の茶人・今井宗薫(いまてそうくん:※本名は兼久、官名を帯刀左衛門、号は別に単丁斎とも、今井宗久の子)”に向けて・・・「内府(※徳川家康のこと)が御下向ならば、佐竹の隠居(※佐竹義重のこと)を江戸に証人(※人質のこと)として引越させ、心安く会津征伐(=上杉討伐)が行なわれるように進言する。佐竹などは、どんなことを命ぜられても違背することは無かろう。」・・・という「書状」を送る。(※『上杉景勝卿記』所収文書より)・・・「今井宗薫」とは、故豊臣秀吉に御伽衆として仕え、秀吉没後は徳川家康に接近して、松平忠輝と伊達政宗の娘である五郎八姫の婚約成立に尽力した茶人です・・・が、“このことが、まさに秀吉の遺命に逆らうものである”との批判が、当時から集中していた人物でもあります。
・・・いずれにしても、この書状内容は当然の如くに徳川家康へ届けられる筈であり、個人的な遺恨からなのか? 「会津征伐(=上杉討伐)」を、“尚も継続すべき”という伊達政宗から、徳川家康に対する強い働き掛け・・・そして・・・親戚同士でありながら、長年に亘り対立的な関係となっていた佐竹家の弱みを見透かした意見でもあったかと。・・・“政宗本人の叔母の配偶者だった義重を人質提供しても、佐竹家としては徳川家康に手向かいするようなことは無い筈である”と。・・・一見すると、このような表現だったため、如何にも佐竹家のことを伊達政宗が軽視しているかのようにも思えますが・・・果たして、それだけなのでしょうか?・・・私(筆者)は、“この書状の宛先が今井宗薫だったところに味噌がある”と考えます。・・・つまりは、この時の伊達政宗が果たした役割というのは、“かつての石田三成襲撃事件において佐竹家の取り成しに貢献した”とされる・・・佐竹義宣の茶の湯の師匠・古田重然(※古田織部とも)や、佐竹氏と同じ清和源氏で政治力などに長けていた細川忠興などの役割と同様だったかと。
・・・観方を変えれば・・・“実際に上杉家を相手に戦い、軍事的損失も出していた”という、この時の伊達政宗の発言力は、古田重然(※古田織部とも)や細川忠興などが佐竹家に貢献してくれた頃よりも、遥かに強力なものだったかと。・・・それを、徳川家康へ直接書状を送るのではなく、敢えて今井宗薫という茶人を仲立ちとして(=ワンクッション置いて)いるところが、“また絶妙だった”と云えます。・・・きっと、“佐竹家との間には積年の思いもあった”と考えられる伊達政宗が、この事態に際しても、“佐竹家が今後も成り立つように働き掛けていたこと”から察するに、この人の器の大きさにも感心させられてしまいます。・・・とかく伊達家と佐竹家は犬猿の仲と考えられがちですが、現に佐竹義宣と伊達政宗の体には同じ血が流れているため、互いの性格や考え方なども理解し合えていたのかも知れませんね。
・・・そして、この書状が送られる以前の頃より・・・すなわち、“会津征伐(=上杉討伐)として伊達勢や佐竹勢が出陣していた頃から、既に隠居の身となっていた佐竹義重自らが、正室の宝寿院(ほうじゅいん:※伊達晴宗の娘)の実家を継いでいた伊達政宗と、情勢に対する意見交換を行なうとともに、互いの家が危急の事態に陥った際には北関東及び東北の有力大名である佐竹家と伊達家が協力し合うという密約が成立していた”とも考えられます。・・・要するに・・・佐竹家の当主だった義宣は、“難癖に近い恰好で討伐対象とされた上杉景勝に思いを寄せて、これに協力すべき”と考え・・・その父で隠居の身であった義重は、“今後の事態変化に伴なうリスクを分散するために、徳川家と娘・五郎八姫の婚約成立に漕ぎ着けていた伊達政宗と協力すべき”と考えていたのでしょう。・・・そして、この義重の考えを良く理解し、これに同調したのは、かねてより陸奥方面の交渉事や軍権をも任されていた佐竹義久だった訳です。
・・・それにしても、当時の伊達政宗が、敢えて今井宗薫から徳川家康へ内報させるという一定の配慮を見せている背景には、いったい何があったのでしょうか?・・・ただ単に、佐竹義宣や佐竹家に対する徳川家康の疑念や怒りの思いが強かったが故なのでしょうか?・・・これらも確かにあったのでしょうが、本質的には・・・当時の徳川家康でさえ、全てが全て見通せていた訳ではなく、“特に「会津征伐(=上杉討伐)」に関わっていた諸大名達の態度表明や軍事行動などには不可解、或いは複雑怪奇で理解し難い点も多く、これら其々の確証を得るには、それなりの時間を要していた”という事情もあろうかと想います。・・・それ故に、“上杉家や佐竹家の処遇については、後回しの措置にしていた”とも考えられるのです。
・・・ということは、現実に諸戦において軍事的な損失を被っていた伊達政宗や最上義光、そもそも「会津征伐(=上杉討伐)」のキッカケを徳川家康に情報提供していた、堀監物(※堀秀治の家老の堀直政のこと)ら堀一族らでさえ、その時の経過についてなどを念のために調べ上げられる対象だった筈であり・・・上方、特には「関ヶ原合戦」に参戦しなかった、或いは参戦出来なかった諸大名や諸将達の心境を察するに・・・「同情」という言葉以外は見つかりません。・・・いずれにしても、この同年10月14日の時点では・・・当時の伊達政宗としても、“佐竹家の処遇問題にかこつけて、「会津征伐(=上杉討伐)」を継続して欲しいとの要望を徳川家康に届けるという政治的なメリットもあった”と考えます。
・・・尚・・・上方における西軍方(≒石田方)挙兵の責任については、同年10月1日に石田三成や小西行長、安国寺恵瓊ら三名の処刑に伴ない、“一応の政治的な決着が図られました”・・・が、「会津征伐(=上杉討伐)」に関わり、北関東や東北、北陸に残っていた諸大名達らには、その最中に「内府ちかひ(=違い)の条々」、または「家康違いの条々」という“かなり際どい文書が上方より触れ廻されていたため、誰に大義があったのか決め難い”という事情などもあったかと。
※ 同西暦1600年(慶長5年)10月15日:「徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)」が、「水戸」の「佐竹義宣」に「挨拶状」を送る。(※『義宣家譜』より)・・・あくまでも徳川秀忠からの挨拶状であり、“徳川家康が伊達政宗や最上義光に対して上方における勝利報告を急使によって直接知らせたこと”とは、待遇的に云っても、かなり異なっております。
※ 同年10月20日:「徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)」が、“佐竹氏一門衆の筆頭であり、当初から東軍方(≒徳川方)を支持していたとされる佐竹義久”に「返書」を送る。(※『佐竹文書』より)・・・この時もまた、徳川秀忠からの返書であり・・・徳川家康から佐竹家へ宛てられた書状ではありません。・・・もしも、このことが・・・“徳川家康の佐竹義宣に対する不快感を示し、且つ書状を送らなかった”ということだったなら・・・“佐竹家の前途には容易ならざる運命を暗示していた”とも云えるかと。
※ 同年10月23日:「上杉家執政・直江兼続」が、“家中における主戦論者だった甘糟〈備後〉景継や、安田〈筑前〉堅親(やすだ〈ちくぜん〉かたちか)、竹股〈左京亮〉利綱(たけまた〈さきょうのすけ〉としつな)、黒川〈豊前〉為実(くろかわ〈ぶぜん〉ためざね)ら”に対して・・・「佐竹口(※常陸国北方の佐竹家所領のこと)より働、江戸より無事之内証(※表向きとせずに内々にしておくこと、外部には隠しておくこと、ナイショ話のこと)候ニ付、而(しかも)相止候。」・・・と言って・・・“関東への上杉勢出撃を抑え、上杉家が徳川家と和睦する方針”が、「決定」される。(※『上杉景勝卿記』所収文書より)・・・そうでした。・・・「会津征伐(=上杉討伐)」を発端に始められ、俗に「北の関ヶ原」とも呼ばれる「慶長出羽合戦」は、上方における「関ヶ原合戦」に関連する諸戦とは、“ほとんど別物の戦役だった”と、再確認させられる訳です。
・・・したがって、この頃の上杉家中には、かねてからの密約により、“佐竹勢とともに徳川家康の本拠地だった江戸城へ攻め込むべしとの強硬な主戦論があった”と見られ・・・それを、執政の直江兼続自らが、主君の上杉景勝の内意を酌み取り
・・・「江戸より無事之内証候ニ付」・・・と、“彼ら主戦論者達を説き伏せた”というエピソードであります。・・・ここにある、
《現代語訳》「江戸からの無事の内証」とは・・・当時の直江兼続には・・・“江戸表から、徳川家に対して抗戦することが如何に無駄なことになるのかについてが説かれており、且つ徳川家と上杉家とが和睦せざるを得ない情勢であるとの認識を相手方から伝えられている”・・・という状況を示しているのです。
・・・直江兼続は、限定的とも云える最上家の長谷堂城攻めを決行しておりますが・・・現に、その他の諸戦については、伊達政宗や自らの討伐戦を仕掛けて来るであろう徳川秀忠勢などを相手とする防衛戦争と云えるものに徹して・・・“内々では、徳川家との講和実現をも模索していた”のです。
・・・これについては・・・“いわゆる「直江状」の内容にも登場し、上杉家担当役とされていた榊原康政や、徳川家康の懐刀とされた本多正信が、若松城(※別名は会津若松城、会津城、黒川城、鶴ヶ城とも)の上杉景勝に向けて、降伏を勧める書状を送り”・・・また、“上杉家の伏見屋敷留守居役とされていた千坂景親(ちさかかげちか)からも、上方の様子についてを詳しく知らされ、徳川家康との講和を進言されていること”からも分かります。
・・・いずれにしても、この時の直江兼続による上杉家中への説得があったため、“上杉家と徳川家が直接的に軍事衝突を起こす可能性が、ほぼ無くなった”と云えるのでしょう。
同年11月内:「薩摩」の「島津家」が、「徳川家康」に「謝罪」する。・・・これにより、当時の徳川家康が、“西軍方(≒石田方)に加担した、或いは結果的に加担した”という疑念を懐く大大名のうち、その処分についてを「未決」としていたのは・・・“「関ヶ原合戦」の導火線とも云える「会津征伐(=上杉討伐)」の標的とされた上杉景勝と、態度が終始ハッキリせずに曖昧と考えられていた佐竹義宣の二大名だけだった”のです。・・・更に付け加えると・・・前者の上杉家は、「慶長出羽合戦」において最も多くの死傷者を出し・・・その上杉家を相手とした最上義光勢が、これに続く死傷者を出しましたし・・・この次には、伊達政宗勢が。・・・それに、越後における国衆一揆(≒上杉遺民一揆)に苦しめられていた堀勢が続きます・・・が、常陸やその周辺地から赤館城へ向かった佐竹家の軍勢だけは、死傷者などの軍事的な損失については、ほとんど無かった訳であり、“ほぼ無傷のまま北関東の地に残存していた”訳です。
・・・このことは、軍夫として挑発されていた当時の農民達にとってみれば、同西暦1600年(慶長5年)10月頃には無事に郷里へ戻ることが出来たため、それまで数カ月も続いていた緊張感からも解き放されることとなり・・・“民心については、一旦落ち着いていた状況”と考えられますが・・・一方の佐竹家中では、自家の今後についてを・・・“徳川家主体による豊臣政権後の政治主導や運営が明らかとなり、徳川家康による今後の出方を、結果的にも憂慮して、かなり重苦しい雰囲気に包まれていた”に違いありません。・・・
同年12月内:「上杉景勝」が、「家臣・本庄繁長」を「上洛」させて、「徳川家康」に「謝罪」するとともに、“講和条件について”の「交渉」を始める。・・・“この時期に始められたという上杉家側の交渉役には、ここにある本庄繁長の他にも、徳川家康の懐刀とされた本多正信とも親交が深かった千坂景親が担当した”とのことであり・・・この後の上杉家は、徳川家康から“対上杉防衛軍総大将に指名されたという結城秀康(※徳川家康の次男)や、本多忠勝、榊原康政ら”に対しても、自家の取り成しを依頼しています。・・・これらのように、当時の上杉家としても、自家存続のために必死だった訳であり・・・これらの働き掛けが、結果的に功を奏したのか? “当初は、上杉家の所領没収を予定していたとされる徳川家康も、その姿勢を次第に軟化させた”とされております。
・・・ちなみに、この頃の総合的な功績が、実父の家康から認められた結城秀康は、翌西暦1601年(慶長6年)に「下総10万石」から「越前一国67万石」に加増転封されて、“かつての柴田勝家(しばたかついえ)が築いた”とされる「北ノ庄城」を、約6年を費やして大改修して自らの居城とし・・・その後には、「結城」を改めて、「松平」に復姓し、“越前福井松平家を興すこととなる”のですが・・・こと、当時唯一残されていた課題とも云える常陸佐竹家の処遇問題については、何ら表面的な動きを見せること無く・・・。
※ 西暦1601年(慶長6年)1月21日:「佐竹義宣」が、「家臣・真壁(掃部助)重幹(※真壁氏幹の甥)」に対して・・・「会津(=上杉家)へ御勢遣(※出兵のこと)が近々あるそうだから、内府(※徳川家康のこと)から指令があり次第出陣する。」・・・と伝え、“戦陣の準備”を命じる。(※『秋田藩家蔵文書』所収・佐竹義宣文書より)・・・?・・・前年の暮れには、徳川家と上杉家の間で講和条件についての交渉が始められてはいたものの、この時点では未だに和議が成立せず・・・その上、この頃の上杉家は、福島や庄内方面において尚も戦闘を継続していた訳です。・・・このような時期ですから、当時の徳川家康から常陸の佐竹義宣へ、“もしかすると、本格的に会津(=上杉家)を攻める事態になるかも!?”という趣旨の打診があったのかも知れません。・・・また、“この趣旨に近い風説が、当時は流布されていた”という可能性もあります。
・・・しかしながら、この頃の徳川家と上杉家との講和交渉は、上杉家が本多正信や榊原康政の他にも、徳川家康の外交僧・西笑承兌(※臨済宗の僧、号は月甫、南陽、相国寺承兌とも)の周旋によって、結果としては上杉家側の状況が好転していたため・・・“当面の間は、新たな「会津征伐(=上杉討伐)」が起こされるという事態は回避されていた”という状況でした。・・・ですから、もしも、このような風説の類いがあったとしても、結果としても単なる風説に終わっていた筈なのです。・・・“そのような情勢下に、当時の佐竹義宣が、配下の者に会津出兵のための指示を出した”となると?・・・ここにある「御勢遣」という言葉の主体は、つまりは内府(※徳川家康のこと)の軍勢を示しておりますので・・・当時の徳川家康からすると、“佐竹義宣が、実際にどのような動きを見せるのか? についてや、結果として佐竹家の真意を計るための、策略の類いだった”のかも知れませんね。・・・当時の徳川家康してみれば、当然に・・・今後敵対勢力と成り得る勢力自体の根絶を目指していたでしょうし、既に上方にある豊臣政権を抑え込んでいた訳ですから。
・・・尚、このような風説の類いが、単なる風説で終わるとともに、“佐竹義宣本人が実際の戦さ働きによって、徳川家に対する忠義心などを示す機会をも失なってしまった”とも云えるのですが・・・。・・・そして、これ以前の佐竹家には・・・現実の「会津征伐(=上杉討伐)」の際には、自家が上杉家のように徳川家康と敵対関係となった訳では無いとして、“特に上杉家のような積極的な講和交渉や、家康への取り成し工作の類いを行なった”という具体的な形跡や史料が、残念ながら限られております。・・・徳川家と直接対決した訳でもないから、講和交渉なんて当てはまる筈は無く、“家康への取り成し工作の類いの必要すら無い”と、これ以前の佐竹義宣は考えていたのでしょうか?
・・・実は、この当時の状況に似通った情勢に至った過去の大事件がありました。・・・そうです。かの西暦1582年(天正10年)6月2日に起きた「本能寺の変」です。・・・これにより、当時の織田家や羽柴秀吉(※後の豊臣秀吉のこと)との良好な関係を維持していた常陸の佐竹義重にとっては、自家の今後の発展に大きく繋がる大転換時期でしたので・・・ましてや、当時・・・当事者たる義重が、隠居の身とは云え、佐竹家中の大きな支柱とされていた時期です。当然に、かつての当事者としての経験などが活かされて然るべき場面です。・・・それが、何故に後世へ、ほとんど伝えられない状況となったのか? など・・・これらについては、本ページの下記部分で触れたいと想います。
・・・いずれにしても、“この後の佐竹家は、ひたすらに徳川家へ恭順する姿勢を採って、徳川家康の歓心を得るように努めた”とはされておりますが・・・。・・・そうだとしても、何故に・・・そこまでして、積極的な恭順姿勢を示すようになったのか?・・・
※ 同年3月27日:「朝廷」が、「徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)」の「官位」を、それまでの「中納言」から「大納言」へ「昇任」する。(※『徳川実紀』より)・・・
※ 同年4月10日:「徳川秀忠(※徳川家康の三男であり、徳川家嫡男)」が、それまで居た「伏見城」を、この日に発ち、“江戸城への帰途”に就く。・・・ここについては・・・“徳川家康が、引き続き伏見城に居残って新体制のための政治手段や、諸々の戦略的な構想を練り続け”・・・“跡継ぎの秀忠には、東国支配の要(かなめ)として、江戸城の更なる要塞化や巨大化、これらに伴なう城下町整備などのために江戸へ向かわせた”・・・と読むべきかと。
※ 同年4月14日:「伊達政宗」が、「家臣・猪狩下野守(いかりしもつけのかみ)」に向けて・・・「中納言様(※徳川秀忠のこと)が御下向の由につき、半途まで(佐竹)義宣が登られたとのこと。(ついては)我等も罷り出たく思うけれども、此(の)境目が油断ならぬので、出向けない。」・・・という「書状」を送る。(※『政宗君治家記録引証記』より)・・・当時の伊達政宗は、「此(の)境目」とあるように、“上杉勢を相手として福島方面で対陣しつつ、睨み合っていた”という状況です。・・・尚、当時の伊達政宗は・・・徳川秀忠が前月末頃に大納言へ昇任された事を知らずに、「中納言様(※徳川秀忠のこと)」と書いたようです。このような間違い筆記については、この伊達政宗に限られることではなく、全国の地方大名も同様だったかと。
・・・全国の地方大名も、こと朝廷に関しては、公家の娘と婚姻するなど独自の政治的パイプを、細々ながらも保とうとしておりました・・・が、故豊臣秀吉が政庁として使用し、且つ複数の有力公家への政治的な働き掛けを行なう機能を持った伏見城という政治拠点を、堂々と徳川家康及び秀忠親子に陣取られていた訳ですので、このような事も致し方無いことだったかと。いわゆるタイムラグです。・・・尚、佐竹義宣が率いていた佐竹家中の一例としては・・・とりわけ常陸佐竹氏族の場合では、約3百年以上の長きに亘り京の都や美濃国にありながら、時の幕府衆として、或いは近隣のお公家さんとの交流を保ち暮らしていたのが、前のページにもある美濃佐竹(長山)氏などだった訳です。しかし・・・この時期には、その大方が常陸へと帰郷して、当時の佐竹家中に再編成されることとなり・・・美濃国で派生していた一部の者達(=一族)は、土佐などへと移り住んでおり、既に京都付近地域には在地しておりませんでした。
・・・したがって、“常陸の佐竹家中の者では、常陸佐竹家氏のために、当時の京都付近地域において働くことが可能で、且つ政治的・専属的な役割を達成するための経済基盤や人脈を持つ人材そのものが乏しかった”という状況なのです。これは、当時地方にあった大名家も同様ですが。・・・そして、こういった意味では・・・故豊臣秀吉の政策や統治方法、特に徳川家康らが関ケ原合戦直後期から、こういった機能や役割を見逃さずに、矢継ぎ早、且つあらゆる手段でフル活用している点も、さすがだったと想いますし・・・また、元々近畿圏の旧勢力との繋がりの深かった細川幽斎などの影響力というものを考えずにはいられません。
・・・ちなみに、一つ前の記事・・・西暦1601年(慶長6年)4月10日の記事については・・・かの『徳川実紀』では、“徳川秀忠の江戸帰城についてを
同年9月のこと”とし・・・『新編常陸国誌』も、『慶長見聞記』や『佐竹文書』の内容から、“
同年9月下旬に江戸城へ帰った徳川秀忠のことを、それまで水戸に居た佐竹義宣が神奈川まで出迎えに行った”としておりますが・・・どちらの時期も、“正しくは、西暦1601年(慶長6年)4月の出来事だった”と考えられます。これら『徳川実紀』などは、いずれも後世に記されたものですので、記事の基となる史料の類いにも限界があった訳です。
※ 同年4月15日:“隠居していた佐竹義重”が、「上洛」して・・・“前年以来、伏見城に滞在していた徳川家康”に「謁見」し・・・“佐竹家の不戦についてを謝罪した”とする。(※『義宣家譜』より)・・・これが確かな事であれば・・・“当時の佐竹家の行く末を憂慮した御隠居様が、自らの身柄を証人(※人質のこと)となることを覚悟して徳川家康へ自らを差出しに行ったということにも為りかねません”が・・・。とにかく相手方の懐へ単身飛び込むような行為であり、豪気という一言に尽きます。・・・正室の宝寿院(※伊達晴宗の娘)の実家を継ぐ伊達政宗による、佐竹家取り成しの効果があったのか否か? については、残念ながら分かりませんが、当時の伊達政宗が、京都の茶人・今井宗薫を仲立ちとしていたので、その効果が全く無かったとは言えませんね。
※ 同年5月17日:“伏見に上洛していた佐竹義宣”が、“国許の水戸に居た家老・和田(安房守)昭為(わだ〈あわのかみ〉あきため)”に向けて・・・「大沢(備前)義国(おおさわ〈びぜん〉よしくに)を伏見屋敷留守居役に任じ、その大沢(備前)義国を伏見屋敷へ赴任させること」を命じる「書状」を送る。(※『秋田藩家蔵文書』所収・佐竹義宣文書より)・・・この時の佐竹義宣は、先に上洛し伏見城の徳川家康に謁見していた父の身を案じて、自らも上洛したのでしょうか?・・・それとも、同年4月中に神奈川で徳川秀忠を出迎えた直後に、そのまま水戸へは帰らずに、父からの連絡を待った上で上洛したのでしょうか?・・・この当たりの詳細な経緯については、『義宣家譜』にも記されていないため、残念ながら史料上は確認出来ませんが、“この西暦1601年(慶長6年)5月17日の時点で、佐竹義宣が佐竹家伏見屋敷に居たことは、ほぼ確かなこと”と云えそうです。
・・・但し、“父の義重ではなく佐竹義宣本人が、伏見城の徳川家康に謁見出来た”という史料はありません・・・が、“伏見滞在中の佐竹義宣は、何とか徳川家康に会って、佐竹家の不戦についてを謝罪し、家名存続などの懇願をした筈”と云われております。・・・もしも・・・“何らかの理由によって、徳川家側や佐竹家側における文書や史料に遺されなかった”とすれば・・・“当時の徳川家康と佐竹義宣の間では、もしも後世に伝えられると、都合の悪い事柄を相当に含む遣り取りが実際に行なわれたため、互いに文書に残さずという合意が、あらかじめ成立していた”か?・・・或いは・・・“当時の佐竹義宣が、徳川家康から自身の行為などを過剰に咎められて、結果として武士の面目をつぶされたため、秘密にしておきたかった”という可能性などがあるかも知れません。・・・この当たりに、“当時の徳川家康による後々の全体構想や、佐竹氏族全体への思いが練り込められていた”と想像出来る訳ですが・・・当時の佐竹家としては、何とも辛いところだったかと。・・・いずれにしても、この後の佐竹義宣は、一旦水戸へと帰ります。
※ 同年7月1日:“上杉家の本庄繁長及び千坂景親両名から、徳川家との和睦が可能となった報告を受けた上杉景勝と直江兼続”が、共に「上洛」し、「豊臣秀頼」に「謁見」する。・・・
※ 同年8月8日:“上洛していた上杉景勝及び執政・直江兼続”が、「結城秀康(※徳川家康の次男)」に伴なわれて、「伏見城」の「徳川家康」を「訪問」して、「謝罪」する。・・・“この日は結城秀康が伴なっていた”とのことであり・・・“いわゆる取り成し効果というものが、かなり重要視されていたことなど”が分かります。
※ 同年8月26日:“上杉家の処遇についてが、陸奥会津120万石から、75%減の出羽米沢30万石への減封”と、“上杉景勝ら”に対して、正式に言い渡される。・・・この時の上杉景勝は
・・・「武命の衰運、今において驚くべきに非ず。」・・・とだけ述べたとか。・・・
※ 同年10月内:“水戸に戻っていた佐竹義宣が、徳川家康の江戸帰城を出迎えるため”として、「江戸」に入る。(※『秋田藩家蔵文書』所収・佐竹義宣文書より)・・・
※ 同年11月5日:「徳川家康」が、“それまで居た伏見城”を離れ、この日「江戸城」に帰る。・・・まさに凱旋的な帰国場面だったかと。・・・但し、江戸城や江戸城下の光景については、築城や土木工事などの大プロジェクト進行中といったところでしょうか?
※ 同年11月28日:「上杉家」が、「出羽米沢」へ「移転」する。・・・この日、米沢へ移転した上杉家でした・・・が、この上杉家の場合も、何らの障害も無くスムーズに転封されていたという訳ではありません。・・・この直前まで酒田城(※別名は亀ヶ崎城、東禅寺城とも、現山形県酒田市亀ヶ崎1丁目の酒田東高校)を預かる志駄義秀(しだよしひで)が、“上杉家に対する処分に不服あり!”として、徳川家康の命により酒田城接収のため来た最上義光勢と一戦交えております。・・・この当たりについては、佐竹家の車斯忠などの場合もありますので、似通った事情によるものだったかと。
・・・しかし、この志駄義秀については、酒田城明渡しを拒否して防戦するも、敵わずに開城して米沢へ撤退し、後には高野山への蟄居を命じられます・・・が、西暦1603年(慶長8年)には上杉家への帰参が叶い・・・西暦1607年(慶長12年)には、時の江戸幕府(=徳川幕府)の指示によって、一時再蟄居するも・・・西暦1611年(慶長16年)には、上杉家への再帰参を果たしており・・・後の西暦1614年(慶長19年)には、「大坂の陣」に出陣し・・・西暦1622年(元和8年)には、改易された最上家の仕置きに際して、今度は反対の立場から奉行とされているのです。・・・まさに、ネバーギブアップ人生。・・・この志駄義秀の場合と、佐竹家の車斯忠などとの違いについては・・・それぞれが謀反的な行動を起こした時期が異なっていたことのほかに、志駄義秀は生き延びたのに対し、車斯忠らは処刑されてしまったということでしょうか?・・・。
※ 同年同日:“佐竹家一門衆の筆頭とされていた佐竹義久”が、この日に亡くなる。・・・“諸説ある佐竹義久という人物が亡くなったこと”は・・・当時の佐竹家にとっては、かなり重大な出来事だったかと。しかも・・・奇しくも、“上杉家が出羽米沢へ移転された同日の出来事”です。・・・そして、諸説ある義久の死因については・・・自害説や病死説の他にも暗殺説などがあって、いずれも確証的なものは無く、今でも謎のままとされてはおりますが・・・
ここで、上記の佐竹義久という人物に関して・・・徳川家康による佐竹家処遇問題に関わる事柄などを、一応押さえておきたいと思います。
・・・この当たりの事情については、『佐竹家旧記』所収・「梅津(主馬)利忠覚書」に、一説が挙げられており・・・
・・・これによれば、概ねのところ・・・
(※当然に西暦1600年(慶長5年)7月24日以降のこととして)「佐竹義宣が、一門衆筆頭の佐竹義久を上洛させて、自家の立場を釈明させた。佐竹義久とは、佐竹家中でも六万石を領する第一の重臣とされ、天正一九年(=西暦1591年)には、故豊臣秀吉から豊臣姓を賜り、朝廷から従五位下中務大輔に任じられ、徳川家康や徳川秀忠にも度々会っていた人物である。しかし、この佐竹義久は、当初より石田三成や上杉景勝の側に付くことに対しては賛成ではなかった。この後、佐竹義久が本多正信から佐竹義宣の不鮮明な態度を詰問され国替え処分についてを内示されると、佐竹宗家当主の義宣が出兵を控えて上杉勢の関東進出に備えたのは、徳川秀忠の指図による行動であり、また徳川家康が西上の後に上杉勢の追撃を抑えたことは、むしろ大功であるから、国替えどころか恩賞を賜りたいと返答した。そこで、徳川家康が、佐竹義久に対して宇都宮十二万石を与えようとしたものの、当の義久が受け取らなかったため、その代わりとして、その一代の間(※佐竹義久一代限りについて)は、佐竹家の国替えについてを命じないことを約していた。」・・・と。
・・・つまりは、前のページなどでも多少ふれておりますが・・・この佐竹義久の死についての謎とは、自害説や病死説のほかにも・・・当時の徳川家康によって佐竹宗家の当主を義久とされることを危険視した佐竹家側から・・・または、様々な場面で諸事情を知る立場だった佐竹義久の存在を消しておくべきとする佐竹家側及び上杉家側から・・・或いは、佐竹義久一代限りという約束事を、違(たが)えた格好とされたくない徳川家側からの・・・少なくとも、三つの暗殺説が成り立つ訳です。・・・いずれにしても、「梅津(主馬)利忠覚書」にある・・・「宇都宮」・・・という場所については・・・佐竹家とも、いろいろと所縁のある地域でしたので、“さもありなん”と納得出来るのではありますが、その次にある・・・「十二万石」・・・という部分が、どうしても気になります。
・・・もし、このような遣り取りが、当時の佐竹義久と徳川家康との間で行なわれていたのが事実だった場合には・・・かつての豊臣秀吉が、上杉家執政・直江兼続を、秀吉の直臣扱いとし、上杉景勝からの距離を放そうとしたことや・・・その後の上杉家が、結局は直江兼続の所領地だった出羽米沢30万国へ、丸々減転封されたことなどにも重なってくる訳です。つまりは・・・当時の徳川家康が懐いていた当初の構想では、佐竹義久を「宇都宮十二万石」へ移した後に、佐竹家中ごと「宇都宮十二万石」に閉じ込めようとしたのではないか? と。・・・いずれにしても・・・当時の徳川家康の脳裏には、豊臣政権五奉行の一人で徳川家康派の浅野長政が主導したという宇都宮国綱(※佐竹義宣の従兄弟であり、かつての佐竹家与力大名)改易事件の顛末や、この佐竹家や上杉家の間をウロチョロする結城朝勝などの存在があったのではないか? と想います。・・・それにしても、佐竹義久が上洛してまで、佐竹氏族が約5百年も盤踞していた当時の常陸を離されずに済むように奔走していたのも事実だったと想うのです。
・・・しかし、残念ながら・・・当の佐竹義久の場合には、“直江兼続のように徳川家康の側近達に取り入って主家の立場を出来得る限り有利な方向へ導いていたとする活動記録”が遺されてはおりません。・・・この背景には・・・当時の佐竹義久としては、“佐竹氏族の旗頭・佐竹義宣が、関ヶ原合戦の直前に徳川家康による新たな人質提供を断ったこと自体には、それなりの責任は感じてはいたのでしょうが、かつての石田三成や上杉景勝との、かねてからの密約関係については、その存在の有無を含めた秘密を保持する限り、徳川家康からの咎(とが)めなどを受けずに済む”と考えていた節があるのです。
・・・また、その一方で・・・「会津征伐(=上杉討伐)」や“関ヶ原合戦頃”に交わされた書状の類い・・・つまりは、“上杉家を含む西軍方(≒石田方)と佐竹家の間で交わされた文書類は相当数があった”とは考えられるものの・・・もし、佐竹家側から滅ぼされてしまった石田三成へ宛てた書状があった(※例えば誓紙の類いなど)としても・・・それは故豊臣秀吉の遺命に沿う内容だった筈であり・・・むしろ、“何年何月何日を以って、各自が作戦行動に出るなどとする誓紙の類いを交わす危険を冒してまで、作成する筈が無かった”とも云えるのです。
・・・現実として・・・後の上杉家においても、徳川時代と呼ばれる頃から・・・それまでの佐竹家と遣り取りしていた筈の書状については、全く伝えられておりません。・・・反対に、上杉家や石田三成などの西軍方(≒石田方)から佐竹家側へ送られていた筈の書状もまた、徳川時代から佐竹家に伝えられたものはありません。
・・・それでも、かろうじて、佐竹家と上杉家との間で何らかの密約的なものが成立していたのではないか? と推察出来るのは、当時の上杉家中で連絡し合った書状内容に、佐竹家の行動についてが記されているからです。・・・これらの中で重要とされた機密文書類については、おそらくは・・・処刑された石田三成や全国の諸大名達の場合と同様に・・・“「関ヶ原合戦」によって、それ以後の形勢がハッキリしたので、その直後期から上杉家及び佐竹家の両家で、新徳川家康体制による後難を恐れて、それぞれが焼却処分したため”と考えられます。・・・何かしらの密約文書的なものの最後の条に・・・「前条のいずれか一つでも成就しなかった場合には、本文書並びに本書に関連する事項を掲載する文書類一切を、自家の責任で以って処分することとする。」・・・との、一文があれば、事が足りますので。
・・・この当たりの事情についてを考える際にも、肝心な局面では誓紙の類いは交わすけれども、基本的には同じような思想や事情により行動することを、上杉家と佐竹家のそれぞれが互いに理解し合っていたという、強固な信頼関係を物語るエピソードと捉えることも出来る訳でして・・・上記の『佐竹家旧記』所収・「梅津(主馬)利忠覚書」の一説もまた、“単なる逸話の一つとして捉えた”としても、なかなかに興味深いですし、その意味も深いかと。
※ 同年12月26日:“江戸に居た佐竹義宣”が、“国許の水戸に居た家臣・真壁(掃部助)重幹(※真壁氏幹の甥)”に向けて・・・「江戸では変わった事も無い。内府様(※徳川家康のこと)は渡野(※鷹野のこと)から今日還御された。」・・・という「書状」を送る。(※『秋田藩家蔵文書』所収・佐竹義宣文書より)・・・ここにある書状内容の表現方法を見れば、当時の佐竹義宣の心境における変化が、何となく伝わってまいります。・・・同年1月21日時点の佐竹義宣は、同じ真壁(掃部助)重幹に送った書状では、徳川家康のことを、ただ「内府」としておりましたので。・・・尚、「渡野(※鷹野のこと)」とは、鷹狩り場のことですので・・・“当時の徳川家康が、武蔵国の忍(おし)や川越辺りへ鷹狩りへ行く時間はあるのに、佐竹義宣が江戸に来ていたにもかかわらず、徳川家康には会えなかったこと”を滲(にじ)ませております。
・・・尚、この西暦1601年(慶長6年)の時点では、いわゆる西軍方(≒石田方)諸大名の大部分が改易処分となって、代わりに戦功があったと認められる東軍方(≒徳川方)の諸大名達は、それぞれ加増されることとなり・・・毛利家や上杉家の他には・・・島津家だけが処分未定とされ、この島津家も徳川家と一進一退の交渉をして、削封を免れようと必死に努力を続けている状況です。・・・そして、「会津征伐(=上杉討伐)」に参戦した伊達政宗は? と云えば、陸奥国刈田郡を加増され・・・最上義光は? と云えば、出羽国庄内三郡を加増され・・・越後の堀秀治は、据置き処分が決まっていました・・・が、常陸の佐竹義宣は? と云えば、“賞罰に関する何らの沙汰も無いままに、この西暦1601年(慶長6年)を過ごしていた”と考えられます。
※ 西暦1602年(慶長7年)1月2日:「佐竹義宣」が、“家臣ら”に・・・「来たる20日より水戸の普請を行なうためとして、知行高百石に対して三人の割合で人夫を供出すること」・・・を命じる。(※『秋田藩家蔵文書』所収・佐竹義宣文書より)・・・これは、佐竹義宣による新年冒頭の国許に関する政策発表であり、“新たな戦役などのために準備する水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)普請のための人夫供出などではない”とされています。・・・したがって、当時の佐竹義宣としては、新徳川家康体制というものが、常陸の佐竹家に対しては、ほぼこのまま据置くのかも知れないという前提のもとに、このような内部通達をしていた訳です。・・・そうだとしても・・・当時の佐竹義宣が、何らかの予感的なものを懐いていたが故の、“この後の水戸では何が起こるか分からないので、何があっても対応出来るように人員(≒兵員)の準備だけは怠るな!!! という、常陸佐竹氏族を率いる者としての本能的な警戒感の表れだったよう”にも感じます。一門衆の筆頭とされていた佐竹義久を失なって間も無くのことですから。
・・・いずれにしても、おそらくは・・・“この命令通りに、同年1月20日から屋敷街や城下町が拡張整備が行なわれた”とは考えられますので、水戸では多少なりとも、それなりの賑わいがあったかと。
・・・ちなみに、前のページ(ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七)では、故佐竹義久の居城とされていた武熊城(※別名は武熊館、武熊故城とも)についてを・・・「佐竹義久の居城とされた武熊城は、“東西約550m南北約440m規模だった”と伝えられており・・・“関ヶ原合戦後に佐竹家が出羽国(でわのくに:現秋田県久保田)へ転封されると、直ぐに廃城”とされて・・・」・・・と、“サラリと紹介しておりました”が、もしかすると・・・“何らかの、当時の佐竹家にとって不都合な事実や、新徳川家康体制から指摘される恐れがある何らかの確証の類いが、故佐竹義久の居城を発信元として世に広められることが無いように・・・”・・・との配慮が、多分に働いていたという可能性も見え隠れしているような???・・・これ以上の詮索は無用ですね。佐竹義久の死因については、何処かの勢力の息が掛かった忍者による暗殺だったと考える人もいるぐらいですから。
※ 同年3月7日:「佐竹義宣」が、この日「伏見」へ「上洛」し、“既に上洛していた徳川家康”に「謁見」する・・・と、その後に、“大坂城の豊臣秀頼”に「謁見」する。・・・“この時の佐竹義宣の上洛については、父・義重などからの説得があった”ともされますが、“上洛そのものは、上々の首尾だったらしく、義宣は大いに悦んだ”と云います。・・・しかしながら、「西暦1602年(慶長7年)3月7日」という“日付について”は、ここでは「同年3月23日付真壁(掃部助)重幹宛佐竹義宣書状」を基にしております。・・・『義宣家譜』では、“そもそもとして月日についてを記さず”・・・また、『佐竹国替記』や『佐竹家旧記』に所収される『古先御戦聞書』などは、“佐竹義宣の水戸出立について”を「同年4月10日」とし、“その武者行列は義宣が騎馬百十騎、鉄砲百挺、弓百張、鎚百筋を従がえた”としておりますので。
・・・もしも、このような華美な武者行列が事実であり且つ、この時期の佐竹義宣が、自身若しくは自家が処罰されるという予感的なものがあったならば・・・むしろ、華美な武者行列を控えて、上杉景勝のように小人数による旅支度となる筈であり・・・“どうしても、この後の佐竹家出羽転封を知る者からすれば、何やら策略的な意思を感じてしまう”のですが。・・・この時のような光景からは、“佐竹の坂東武者達は、二言目には槍や鉄砲と叫んで、既に平和そのもので当時治まっていた京都へ、古めかしくも故習に倣って武者行列でやって来た”という京貴人達の嘲笑が聞こえて来るようであります。・・・誠に残念ながら、当時の佐竹の武者行列は、道化師行列のように観られていたのかも知れません。・・・すると、“佐竹義宣というか、坂東武者や東国武士全体が、赤っ恥を掻かされていたことになる”のですが。・・・これは徳川家康や、その側近達、若しくは徳川家中の佐竹家担当者による策略による結果だったのでしょうか?
・・・いずれにしても、このような武者行列を率いた佐竹義宣にすれば、“かつては石田三成襲撃事件を経験し、そもそもとして・・・徳川家康が、「会津征伐(=上杉討伐)」を積極的に誘導していたのではないか? と考え、大大名たる佐竹家の威厳を最低限保ちながら、万一の不測の事態にも備え得るという態勢としたまでのことであり、この上洛そのものも決死の覚悟で臨んだ行動であって、至極当然のこととした”と云えるかも知れません。・・・尚、これもまた、後世の『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』では・・・当時の徳川家康は、佐竹義宣の行動についてを
・・・「上杉景勝より憎むべき行為である。」・・・として、“厳しく非難していた”・・・と記してもおりますので・・・この時の佐竹義宣は、徳川家康の内意に反して、“坂東武者の意地の見せ処と謂わんばかりに、大きな熊に対する蜂の一刺し的な上洛劇を演じた”のかも知れません。
・・・だとすれば、東国武士達からすれば、『天晴れ佐竹! 良くぞ東国武士の意地を見せた! 西国だけで天下分け目の戦さなどと云い、勝手に終わらせるな!』という、当時の声が聞こえて来るようでもありますが・・・。
※ 同年3月23日:“伏見滞在中の佐竹義宣”が、“国許・水戸に居た家臣・真壁(掃部助)重幹(※真壁氏幹の甥)”に向けて・・・「(豊臣)秀頼様、内府様(※徳川家康のこと)に御礼申、仕合(しあわせ:=幸せ)無残所候、此(の)表無相替儀候。」・・・という「書状」を送る。(※『秋田藩家蔵文書』所収・同年3月23日付真壁(掃部助)重幹宛佐竹義宣書状より)・・・この書状内容を現代語訳すれば
・・・「豊臣秀頼様と徳川家康様に御礼申し上げ、幸せであり思い残すところも無し。この事を替えて表現することは出来ない。」・・・となるでしょうか?・・・そして、お気付きでしょうか?・・・やはり、当時の佐竹義宣の胸の内では、その序列については・・・あくまでも、まず「(豊臣)秀頼様」があって、その次に「内府様(※徳川家康のこと)」となっているのです。・・・史実(=前条)では、“徳川家康への謁見の後に(豊臣)秀頼へ謁見した”ということになっておりますが、事実としては、どうだったのでしょうか?
・・・佐竹義宣が頑固一徹の律儀者だったなら、謁見の順番が史実と逆であった、若しくは謁見の順番を史実と逆にしようとしていた可能性も???・・・何故、『寛政重修諸家譜』では・・・当時の徳川家康は、佐竹義宣の行動についてを
・・・「上杉景勝より憎むべき行為である。」・・・として、“厳しく非難していた”・・・と記し、後世に伝えているのでしょうか?
※ 同年3月内或いは4月内とも:「徳川家康」が・・・“島津家との三年越しの和議交渉を決着させ、島津家については所領を削ること無く”・・・「講和」を許す。・・・関ヶ原合戦に西軍方(≒石田方)として参加した島津義弘が居たにもかかわらず。・・・“北関東の佐竹家とは、雲泥の差があった”と云えます。・・・やはり、江戸との地政学的且つ距離的な問題だったかと。
※ 同年4月28日:“伏見滞在中の佐竹義宣”が、「家臣・田中(越中守)隆定(たなか〈えっちゅうのかみ〉たかさだ)」に向けて・・・“伏見屋敷のための普請費用を注文する書状”・・・を送る。(※『秋田藩採集文書』所収・同年4月28日付田中隆定宛佐竹義宣送金注文書状より)・・・徳川家中の人物を迎える必要に迫られたための伏見屋敷普請だったのでしょうか? いずれにしても、この直前頃に徳川家から何らかの打診があった模様です。・・・ここにある「田中(越中守)隆定」とは、かつては岩城家の家臣でしたが、西暦1590年(天正18年)頃から佐竹家に仕え始め、隠居した佐竹義重付きの家老であり、その義重の手足のような働きをして、その政治力などが評価され、後に宿老とされた人です。“云わば、この田中(越中守)隆定は、佐竹家の金庫番とも呼べる人物でしたので、“この時の佐竹義宣は、伏見屋敷の通常予算では賄い切れない臨時予算を追加的に催促した”と考えられます。
・・・「大子(だいご)町史」によれば・・・西暦1591年(天正19年)5月20日には、この田中隆定が佐竹義重から金役の徴収と新たな金山開発を命じられております。・・・いずれにしても、当時の佐竹義宣は自家の将来に関しては、不安などをあまり感じていなかった様子であり、或いは動揺を気取られぬように振る舞っていたのかも知れません・・・が、この頃の徳川家康としても、“表面上は佐竹義宣と機嫌好く引見していた”と見られます。・・・しかし、前年の11月28日に、佐竹家一門衆・筆頭とされていた佐竹義久の死による影響が少なからずあったかとも想えます。・・・と云うのも・・・当時の徳川家康や、その側近達の中で以って・・・“「会津征伐(=上杉討伐)」の際の佐竹家と上杉家の間で、何らかの密約があったとする疑惑が再浮上したり、或いは証拠の類いが捏造されたり露見したのが、この西暦1602年(慶長7年)4月末頃だった”と見られるからです。
・・・いずれにしても、かつての豊臣政権下における上杉家執政・直江兼続のように、佐竹家の外交や軍事分野などを概ね担っていた人物が亡くなっていた訳ですから、当然に佐竹義久は突然死んだのか? という注目を浴びる訳であり・・・正直なところ・・・北関東から佐竹家を切り離して、遠ざけたいと考える人物にしてみれば、格好の的となる訳ですから。・・・もしかすると・・・この後に起こされる「大坂の陣」における豊臣家が、当時の徳川家から糾弾されることとなった梵鐘表記問題と同様に・・・佐竹義久の死因自体が追及されていたのかも知れません。・・・
※ 同年5月8日:“徳川家康から使者”として、「榊原康政」及び「花房(助兵衛)道兼(※別名は職秀とも)」が、「佐竹家・伏見屋敷」を訪れ・・・“佐竹義宣及び蘆名盛重(※改名前は義広、佐竹義重の次男であり、義宣の次弟)、岩城貞隆(※佐竹義重の三男であり、義宣や蘆名盛重の弟)、佐竹家与力大名・相馬義胤の所領を没収し、佐竹義宣には出羽のうちで替地を新たに与えるので、常陸在住の佐竹家家臣やその家族達を陸奥南郷(※現福島県南西部のこと)に一時移らせること”を・・・「佐竹義宣」へ申渡す。・・・すると、この時の「佐竹義宣」は・・・「兎角(とかく)の意趣は無く、(徳川家康の)賢慮次第。」・・・と「返答」する。(※『義宣家譜』及び『当代記』より)・・・!!!・・・と、なるでしょうか? ドラマ的に表現すると。この時の佐竹義宣の心境を「まさに青天の霹靂だった」と記す史書もありますが・・・いずれにしても、ここにある西暦1602年(慶長7年)5月8日という時期については、『義宣家譜』からとなっており・・・佐竹義宣の返答内容については、『当代記』によっております。
・・・しかし、この佐竹家への国替え申渡し日については・・・『国典類抄』では、同年5月7日・・・『時慶卿記』では、同年5月18日・・・としており、また後世江戸時代に入ってからの史料では、「同年5月7日」や、「同年5月8日」、「同年5月16日」などとする諸説もあります。・・・とりあえず、“ここでは『義宣家譜』の同年5月8日説を採りました”が、「同年5月16日」や「同年5月18日」とする説も、“替地とされていた出羽国のうちの久保田(=秋田)という地域が決定され通知された日だった”と解釈することが出来ます。・・・尚、『義演准后日記』の同年5月21日の条には、“あくまでも、伝聞として佐竹家が改易されたことや、当時の伏見辺りも些か物騒になったとの噂があったこと”が記されています。・・・いずれにしても、“当時の佐竹義宣は、具体的な転封先も明らかにされず、転封後の実質的な石高などについても全く伝えられなかった”・・・或いは、“伝えることさえ出来ない情勢だった”とされています。
※ 同年5月8日或いは翌9日:“伏見滞在中の佐竹義宣”が、「家臣・大和田(近江守)重清(おおわだ〈おうみのかみ〉しげきよ)」を、この日に“国許・水戸”へと「急派」し・・・“当面の佐竹家移封措置について”・・・を伝えさせる。(※『秋田藩採集文書』より)・・・これが、早馬による急使第一報となるのでしょう。
※ 同年5月12日:“佐竹家の出羽転封を報せる飛脚”が、この日に「伏見」を発つ。(※『義宣家譜』より)・・・“同年5月8日に徳川家康の使者とされる榊原康政及び花房(助兵衛)道兼(※別名は職秀とも)が佐竹家の伏見屋敷を訪れて出羽転封を通達した”とするならば、この同年5月12日までは中三日となります。・・・“この中三日という期間を要していること”が、少々気になるところですが・・・“佐竹家による接待や饗応の中において、当時の榊原・花房両氏により、曖昧な表現で佐竹義宣へ伝えられていた”のでしょうか?・・・それとも、“佐竹家伏見屋敷内では、徳川家康の意向についての判断や確認などのために、相当の日数を要した”ということなのでしょうか?・・・いずれにしても、飛脚出発が遅れた原因や事情については、史料上は確認出来ないため、謎のままとなります・・・が、“数回に亘って断片的な情報且つ断続的に送られていた”と考えられますので・・・“この同年5月12日に、佐竹家伏見屋敷からの最終便が送られた”と読むべきかと。
※ 同年5月13日:“佐竹義宣の近臣で、伏見に当時あった梅津憲忠(うめづのりただ:※梅津政景の兄)”が、“自身の家来”に・・・「御国替は是非に及ばぬことである。自分は屋形様(※佐竹義宣のこと)の御供をして此方(※伏見のこと)から、直ぐに奥(※出羽のこと)へ下ることになるだろう。(自分の)妻子については水戸に居ることは出来まいが、宇都宮に居住することは差し支え無いでしょうから、(どうか自分の妻子らを兄上の)屋敷内を貸して住まわせて欲しい。水戸では(きっと)馬など(の調達は)不自由でしょうから、迎えのための馬を遣わして呼び寄せてやって下さい。」・・・という内容の「書状」を託し、“宇都宮に在住していた兄・梅津彌生(うめづやよい:※梅津憲忠や政景の兄)の元”へ走らせる。(※『秋田藩採集文書』・同年5月13日付梅津彌生宛梅津憲忠書状より)
・・・この梅津憲忠の書状からは、“自身の妻子でさえ出羽へ連れ立っては行けなかったという事情や、当時の佐竹家中が不安に充ちていた状況”が分かりますが・・・これらは、“佐竹家の新たな所領が、ただ出羽と指示されていただけで、出羽の何処かについてなど詳細についてが榊原・花房両氏から伝えられていなかったため”であり・・・“常陸の代替地として、出羽一国が与えられるのか? 秋田実季の所領だけが与えられるのか? 出羽仙北地方一帯が与えられるのか? 最上義光が領していた地域が与えられるのか? などについて、様々な噂や憶測が、当時も飛び交っていたため”と考えられ・・・また、“転封を命じた徳川家康らが、出羽国の広狭や実際の石高についてを詳しく把握していなかったため、伝えようにも伝えられなかった“という側面もあったかと。
※ 同年5月14日:“上洛中の伊達政宗”が、“国許の家臣”に向けて・・・“佐竹家の出羽秋田への国替えについてを報せて、相馬領内に当時居住していた自身の夫人の母親を、仙台に迎える手筈”・・・を命じる。(※『政宗君治家記録引証記』より)・・・
※ 同年5月15日:“伏見滞在中の佐竹義宣”が、“国許・水戸に居た家老・和田(安房守)昭為”に向けて・・・「于(ここに)今最上にて何程高を被下候と仰出(おおせいで)は無之候間、定而(さだめて)替地少分に可出候間・・・」・・・という“佐竹家出羽転封”に関する「書状」を送る。(※『秋田藩家蔵文書』所収・佐竹義宣文書より)・・・この書状内容を現代語訳すれば
・・・「ここに今、最上(所領)において如何程の(石)高を下されようと仰出(おおせいで)が無きままのため、替地については少分に定められるであろうから・・・」・・・となるでしょうか?・・・いずれにしても、“この同年5月15日時点における佐竹義宣は、自家の転封先については、最上義光が領していた地域が与えられると考えており、また石高については仰出(おおせいで)が無いので全く分からんが、きっと少なくなるであろうから”・・・としているのです。・・・“この前日に伊達政宗が知り得ていた情報”とは、格段の差があった訳です。当事者の佐竹家には、確実な情報を伝えられることさえ無く・・・。
・・・尚、『秋田藩採集文書』によれば、この時の佐竹義宣が国家老・和田(安房守)昭為へ詳しく指令した概要については、以下の通り。
「一、(佐竹)家臣団の整理に関する件 諸牢人(※諸浪人のこと)の扶持(ふち)は放す(=客将や浪人達が暮らすための財源については、その身柄とともに佐竹家から解き放す)。譜代(の家臣)であっても、従来通りの扶持は与えられない。五十石取りや百石取りの給人や諸に在郷する給人(※50石や100石取りの家臣や国人衆達)は、秋田へは連れて行かない。供する者達だけに、(それらの)荷物を陸奥南郷(※現福島県南西部のこと)へ運ばせよ。小給人達については、(常陸に)居残って百姓(※農民などのこと)になろうとも、(或いは別の)主人を取ろうとも、各自の分別に任せよ。秋田へ連れて行く給人達には、新たな領地の石高が決定され次第に知らせる。
一、武器類や道具類の処分に関する件 槌(つち)などが多くて新たな領地へ運ぶことが出来なければ、四、五百丁を江戸へ遣わし、また水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)にも二、三百丁を置いたまま城受取りの役人へ渡すこと。弓や鉄砲については、全てを陸奥南郷(※現福島県南西部のこと)及び江戸へ送ること。その他、蔵内にある道具類については、有用な物は江戸へと送り、無用の唐絵や墨蹟などは焼き棄てること。
一、年貢収納及び支払いの件 蔵入地の年貢については、従来通り百姓(※農民などのこと)と政所(※年貢徴収する村役人のこと)との引合い済の通りに徴収すること。今夏の年貢については、なるべく徴収し百姓(※農民などのこと)には切手(※年貢の納入済証のこと)を渡して、年貢先納の件で後々難しきことと為らぬよう取り計らうこと。また伏見(※佐竹家の伏見屋敷のこと)では、出物(※支払い対象物のこと)が多いので、それらの金を国元(※常陸国のこと)で調達出来次第に差し上(のぼ)らせること。
一、兵子(※兵糧のこと)の処分に関する件 水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)内にある兵子(※兵糧のこと)は封を付けて、(城受取りの)検使に充てる使用分とすること。在々(※村々のこと)の境目にある兵子(※兵糧のこと)については、買い手さえあれば安くとも売り捌き、買い手が無ければ封を付けて安置すること。行方(なめがた)にある兵子(※兵糧のこと)については、舟で江戸へと運び、もしそれが出来なければ行方の舟付き(※船着き場のこと)へ集めて留め置くこと。」
・・・との指令ですが・・・この指令を受取ることになった人々、常陸在郷や水戸の人々の困惑などは、如何ほどだったかと想います。・・・扶持を放される者達は、突如として路頭に迷わされることとなり・・・出羽秋田へお供すると決めていた者達でさえ、まだ落ち着き先も定まらず、陸奥南郷(※現福島県南西部のこと)各地に、それぞれの仮の宿を見付けて、家族や荷物を先んじて送り出さねばなりませんので。・・・
・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
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ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】