街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 同1868年(慶應4年)年8月1日:“劣勢に苦しむ奥羽越列藩同盟軍”が、“前月に新政府軍により再び陥落させられた長岡藩庁(=長岡城)や、越後新発田藩が新政府軍へ寝返ったことなどにより、自軍の退路が閉ざされる恐れが生じたため”・・・「総退却」を「開始」する。・・・
      ※ 同年8月2日:“奥羽越列藩同盟軍に属す市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢”は・・・“新政府軍が越後国蒲原郡一之木戸村(現新潟県三条市仲之町付近)にあった佐藤織之進(さとうおりのしん:※会津藩士)率いる新遊撃隊を砲撃する”・・・と、“陸奥会津藩や伊勢桑名藩兵と共に援戦し”・・・“この後も、新政府軍による追撃を躱(かわ)しながら、退却を続けた”・・・
      ※ 同年同日:“パリに居た徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“鉄砲や、写真、地図、望遠鏡等の買上げ品”を決める。・・・
      ※ 同年8月3~4日:“奥羽越列藩同盟軍に属す市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢の多数”が、「越後国蒲原郡加茂(現新潟県加茂市)」へ・・・更に翌4日には、「村松城(現新潟県五泉市村松)」へと至り・・・“新政府軍と戦闘を繰り返しながらも、尚も会津を目指す”・・・が、“一部の者達は、それぞれ戦闘の最中に別行動を余儀なくされて、陸奥会津藩へ助けを求めることとなり”・・・「北越戦争」に敗れると、“会津藩の指揮下に入る”・・・
      ※ 同年8月5日:“パリ留学中の徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“画学教師のジェームス・ティソ”に、“自身の肖像画”を描かせる。・・・
      ※ 同年8月6日:“パリ留学中の徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の元”に、「水戸藩」から、“お迎え役とされた井坂泉太郎(いさかせんたろう)と服部潤次郎(はっとりじゅんじろう)”が「到着」する。・・・そもそもの話となりますが・・・徳川昭武のパリ留学に当初から付き添っていた水戸藩の小姓達(※ここにある井坂と服部の2名を含む)は、この年の前年(西暦1867年12月21日)に病気を理由として帰国願いを提出し・・・これが承認される格好で、この年(西暦1868年)1月には、パリを離れて既に帰国していたのです。・・・但し、“彼ら小姓達が一時帰国したと云う真の目的”は・・・“主に留学総経費の節約があって、次に徳川昭武のちょんまげ断髪を阻止するために、国許へ戻った”のではないか? とも考えられます。・・・と云うのも、井坂や服部らの小姓達は、その一途な性格のためだったのか? 徳川昭武がスイスを訪問する時の同行人選に漏れた際に・・・「(小姓)一同で以って切腹する!」・・・と、ちょっとした騒動を巻き起こしていたそうですから。
      ・・・当時の徳川昭武などが、その爪先から頭のてっぺんまで西洋人の如くに装うことが、当時の東洋人たる日本人達の感覚からすると・・・一種の文明的劣等感が影響していたのでしょうが、かなりの文化的インパクトを与えていたことが分かります。・・・そう云えば、当時の明治天皇御自身の肖像画などは、ほとんど西洋風の軍服姿が多かったような印象が。・・・いずれにしても、徳川昭武のお迎え役とされた井坂服部両名がパリに到着する前日に、画学教師のジェームス・ティソに肖像画を描かせていたということは?・・・それまでの日本人を象徴する「ちょんまげ」は断髪されていたのでしょうね。徳川昭武は既成事実としてしまわれたようです。さすが水戸徳川家の若君様と云ったところでしょうか。・・・
      ※ 同年8月11日:“パリ留学中の徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“自身の乗馬姿”を「写真撮影」させる。・・・この頃の徳川昭武としては、自身の帰国が決まっていたが故に、西洋文明で生み出された文物のみならず、自身の装いなどを肖像画や写真で以って積極的に残し、且つそれらを出来るだけ多くの日本人達へ伝えていようとしていたのではないでしょうか?・・・あくまでも、私(筆者)の私見ではありますが。・・・当時の徳川昭武への、日本の各方面から届けられていた数々の御用状(※帰国命令書を含む)の中には・・・先代水戸藩主・徳川慶篤(※諡号は順公)や、駿府で隠居した徳川慶喜らの兄達のほかにも・・・いち早く新政府側に恭順した元尾張藩主・徳川慶勝(※改名前は慶恕)公などによる影響が、かなりあったように想えます。いわゆる副状(そえじょう)などが、御用状の中に添えられていたのではないか? と。・・・
      ※ 同年8月中旬頃:“会津藩の指揮下に入った水戸諸生党勢の一部”が、“険しい山々を越えて”・・・“会津藩領の越後国津川(現新潟県東蒲原郡阿賀町津川)”に、「到着」する。・・・この“津川への帰還”は、水戸諸生党勢が新潟を目指し同年3月中旬に通過して以来、約5カ月ぶりの出来事でした。・・・また、山々の景色の移り変わりと同時に、“水戸諸生党勢の顔ぶれ”も、当初から大きく変わっていたのです。・・・水戸藩前家老・佐藤信近(※通称は図書)をはじめとして、既に100名以上が戦死し・・・或いは、病死や行方不明となって・・・この勢力は、自ずと弱まることに。・・・
      ※ 同年8月17日:“水戸藩による第2次水戸諸生党勢追討軍約1,000名”が、“常陸笠間や、下野小山、上野前橋”から「三国峠」を越えて、「越後国」に入る・・・と、「越後口総督府」に、“新政府軍への編入を願い出て”・・・この日、“その編入と市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢の討伐について”が「許可」される。・・・第2次水戸諸生党勢追討軍としては、単なる「除奸反正」のための遊撃軍として行動するには、もはや限界を迎えていた訳です。・・・北越や東北の各地で軍事衝突が繰り返され・・・また、自らが敵と定める相手方が、陸奥会津や伊勢桑名の藩兵達と共に共同戦線を張っていたのですから。何と云う皮肉。・・・敵味方として交戦した、どの勢力も・・・思想面で云えば、大した違いは無かった筈なのに。・・・但し、第2次水戸諸生党勢追討軍と水戸諸生党勢の間には、「除奸反正」という大義名分と私怨的な要因などが、当時の武士達の本分(ほんぶん)や一分(いちぶん)と呼ばれるものにプラスされていましたので、いずれ・・・その闘いは、熾烈を極めてしまうことに。・・・
      ※ 同年8月20日:“新政府軍へ編入された水戸藩による第2次水戸諸生党勢追討軍約1,000名”が、「越後国高田(現新潟県上越市本城付近)」に「到着」する・・・も、“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢”は、“この時既に越後国津川方面から陸奥会津城下”へ入る。・・・
      ※ 同年8月21日:“会津国境いの要衝の一つであった母成峠(ぼなりとうげ:※現福島県中央部、郡山市と耶麻郡猪苗代町の境界にある峠のこと)”が、“会津藩兵や、大鳥圭介(おおとりけいすけ:※旧幕臣、西洋軍学者)率いる旧幕府軍、土方義豊(※通称は歳三、号は豊玉、変名は内藤隼人)率いる新撰組(※新選組とも)による必死の防戦にもかかわらず”・・・「新政府軍」が「突破」した。・・・すると、“この敗北の報せを受けた陸奥会津藩”が、「軍議」を行ない、“新たな防御体制”を「決定」し・・・“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢の内150名を、会津藩家老・西郷近悳(※通称は頼母、明治維新後は保科頼母と改名、号を栖雲、酔月、晩年は八握髯翁とも)の麾下に置いて、背炙山(せあぶりやま)の冬坂峠(ふゆさかとうげ:※現福島県会津若松市東山町石山)防御を命じる”・・・とともに、直ちに“現地”へ「出発」させた。
      ・・・会津藩家老・西郷近悳の性格については、“直情型であり、藩主・松平容保との相性が悪く、意見が対立することも多かった”とも云われます・・・が、そもそもの話として、かつては会津藩主の京都守護職就任に反対し、後の対新政府軍との戦争についても否定的な主張をする人物でした。・・・しかし、同年5月における「白河戦争」で会津藩が大敗した責任を取らされる格好で、蟄居閉門とされていた西郷近悳は・・・この時の軍議に、何故か? 藩主・松平容保に呼び出されて参加すると、その席で・・・「このような状況に至ったのも、藩主以下の重臣達の責任であり、全員が切腹すべし」・・・と主張し・・・結果として、会津藩内から顰蹙(ひんしゅく)を買うこととなります。・・・そのため・・・軍事的には、この当時さほどに重要ではなかった前線地の一つ・冬坂峠へ、会津藩内では処置の難しかった水戸諸生党勢と共に配置されたのではないか? という見解もあります。要するに、厄介箱とした訳ですね。・・・
      ※ 同年8月23日:「新政府軍」が、「母成峠」を「突破」する・・・と、“猪苗代湖畔”を経て、この日、「戸の口」に至る。・・・対する陸奥会津藩としては、必死に防戦したものの、各地で敗走してしまうこととなり・・・その中には、かの「白虎隊」もありました。・・・そして、“この時、冬坂峠とは別の場所で防戦していたとされる水戸諸生党勢の一部の者達も、敗走しており”・・・この中には、水戸藩出身の黒崎雄二(くろさきゆうじ:※常陸国久慈郡大子出身、当時17歳、大子郷校・学監であった黒崎藤右衛門の子)が参加していました。・・・彼は、“同年代から成る白虎隊と、一時は行動を共にしていたこと”を・・・「白虎隊の一部と合しまして、日向山という所、滝沢峠から十丁ほど隔たった峠がございまして、其方に加わり」・・・と、後の「史談会速記録(※明治39年、黒崎雄二が55歳の時)」に残しています。・・・ちなみに、“この時の黒崎雄二は、白虎隊と別れた後に、銃弾が飛び交う中で、会津城下へ潜伏した”とのこと。・・・
      ※ 同年同日:“それまで冬坂峠を守備していた水戸諸生党勢の内150名”が、“新政府軍会津城下接近との報を受けたため・・・“他の部隊”と「合流」して、「会津城」に入る・・・も、この時には既に、“他の水戸諸生党勢ら200名余りが、会津城三の丸にあって、城東北側の隅部分を守備していた”・・・そのため、「陸奥会津藩主・松平容保」が、“水戸諸生党勢の内、高田彦助(たかたひこすけ)ら約20名”に対して、「西の出丸」を「守備」させる。・・・この時の会津城は、藩兵達の多くが藩境守備に就いていたため、防備上手薄な状況となって・・・云わば、“落城の危機”にありました。・・・この窮地を救ったのが、“水戸諸生党勢だった”と云われ・・・水戸諸生党勢は、波状攻撃によって押し寄せる敵を撃退しつつ城を守ったため、“会津藩から感謝されていた”とのこと。・・・尚、市川弘美ら水戸諸生党勢もまた、長年宿敵とした天狗党勢などを相手にしていただけあって、近接する白兵戦や陽動的な機動作戦などに軍事的に重用され・・・また、それ相応に強かった事などが分かります。・・・
      ※ 同年8月25日:“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢の26名”が、“会津城下周辺を、新政府軍に囲まれ、入城出来ない会津藩家老・内藤介右衛門(ないとうすけえもん)隊総勢約1,000名を援護するためとして”・・・「小田山山頂」に登って、「発砲」し、“敵方の注意を引き付けること”に「成功」する・・・と、“その隙”に、「内藤隊」が「強行入城」した。・・・これにより、“会津藩側は城内の守備体制を再び整えることが可能となり”・・・“それぞれが守備する持ち場”を、改めて「決定」する・・・と、“それまで西の出丸を守備していた高田彦助ら20名の水戸諸生党勢は、城の西北側隅部を”・・・“三の丸の180名余りは、八幡社から北側の理門までを”・・・そして、“三の丸の南側にある南門外に位置する延寿寺辺りを、残りの市川勢と白虎隊ら”・・・に「守備」させた。・・・前条と同じく、陽動的な機動作戦だったかと。
      ・・・また、会津藩側が、会津城を守り抜くという意志が強固だったのは、或る意味で当然だとしても・・・水戸諸生党勢としては?・・・もはや敗走して帰るべき故郷も無く・・・自らの生存意義と武士の一分などを賭けて・・・まさに、“死に物狂いの働きがあった”かと。・・・
      ※ 同年8月27日:「明治天皇」が、「内裏(※京都御所のこと)」において、「即位の礼」を執り行い・・・“自身の天皇即位について”を、“内外”に向けて、「宣明」する。(=明治天皇の即位の礼)・・・ちなみに、別ページでも、怨霊や天狗などに関連し触れておりましたが・・・この頃の明治天皇は、自らの即位の礼を執り行なうに際し、同年8月18日に勅使を讃岐国へと遣わし・・・平安時代の崇徳天皇の命日である同月26日に、勅使に崇徳天皇の霊前で宣命を読み上げさせると・・・崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて、「白峯神宮(現京都府京都市上京区飛鳥井町)」を同年9月6日に創建しております。・・・

      ※ 同年9月1日:“パリ留学中の徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“フランス南西部のビアリッツ”に「到着」し・・・その「離宮」で、“ナポレオン一家に対する暇乞い(いとまごい)”をする。・・・お別れの御挨拶・・・。・・・
      ※ 同年9月3日:“陸奥会津藩の飯田大次郎(いいだだいじろう)”が、“それまで別れて城内守備に就いていた市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢400名を纏(まと)め”・・・“城外にあった米代四ノ丁の栃木邸”を、“その屯所とすること”を「決定」し・・・“南町門と花畑門の守備に当たらせる”・・・この日ようやく・・・水戸諸生党勢にも屯所が宛がわれた訳です・・・が、当然に城外でした。あくまでも水戸出身者達の部隊であり、新政府側からは「奸賊」とされていましたので・・・この措置については、或る程度は理解出来ますし、また致し方無かったかと。・・・しかし、城下の者達まで会津城に籠っていた事実からすれば、水戸諸生党勢は「捨て石」とされているような気配も・・・。・・・
      ※ 同年9月4日:“フランス滞在中の徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「ペリューズ号」に「乗船」して、「マルセイユ」を「出港」し・・・“帰国の途に就く”・・・この時の徳川昭武は、数えで16歳。
      ※ 同年9月5日:「新政府軍」が、“会津城花畑門の西側にある河原町門”を「襲撃」する・・・と、“会津藩兵らのみでは苦戦が強いられる状態となる”・・・も、“其処”に「水戸諸生党勢」が「加勢」し・・・この後には、“他の部隊”も、次々と「到着」して・・・“この日の新政府軍は、敗走した”・・・
      ※ 同年9月7日:“連日の戦闘によって、会津城内で食糧不足が深刻化し始めていたため”・・・“会津藩側による新政府軍の食糧奪取計画が練られることとなり”・・・“会津藩重臣の佐川勝(※名は清直とも、通称は官兵衛)を隊長とする朱雀隊や、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢など約1,000名が、この日出撃し”・・・“各地で新政府軍兵を打ち負かして”・・・“一定程度の食料や武器弾薬を奪うことに成功する”・・・この他にも、当時の会津城内外では、かなりの混乱と深刻な状況や、悲劇的な話が数々伝えられております。・・・
      ※ 同年(慶應4年)9月8日:“会津において局地戦が繰り広げられる中”・・・「明治天皇」が、「慶應」から「明治」へと「改元」し・・・“一世一元の制を定める”・・・尚、改元の詔書を発したのは、この日でした・・・が、改元の時期については、“慶応4年1月1日に遡って、適用する事とした”のです。・・・但し、本ページなどでは、敢えて・・・“そのままの表記と致します”が。・・・
      ※ 同西暦1868年(明治元年)同日:“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢や、会津藩の木元隊、越後長岡藩兵ら”が、「飯寺村(現福島県会津若松市門田町大字飯寺村)」にて、「新政府軍」と「遭遇」する・・・も、“この時に発生していた濃霧のため、視界不良だったこともあり”・・・“退却した会津藩兵を追撃する宇都宮藩兵のことを、市川弘美ら水戸諸生党勢と勘違いした長岡藩兵が、敵陣の中へ突入してしまい”・・・この時、“長岡藩隊長の家老・山本帯刀(やまもとたてわき)以下十数名”が、「捕縛」されて、後に「殺害」される。・・・ちなみに、この時生き残った長岡藩兵達は・・・後に水戸諸生党勢と行動を共にし、水戸や銚子方面などを転戦することになります。・・・
      ※ 同年9月10日:“水戸諸生党勢の朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)や筧政布(※通称は助太夫)の部隊”が、「永井野(現福島県大沼郡会津美里町永井野)」に、この日「布陣」する。・・・尚、史料からは、これらの部隊の規模までは判然としません・・・が、数十名規模の小部隊だったかと。・・・
      ※ 同年9月11日:“前日に永井野に布陣した水戸諸生党勢の朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)や筧政布(※通称は助太夫)の部隊”が、“会津藩隊長の佐川勝(※名は清直とも、通称は官兵衛)の命により”・・・「会津藩兵」と共に、「高田(現福島県大沼郡会津美里町高田)」へと至る。・・・高田へと向かった目的は、敵との交戦及び食料などの確保です。・・・いわゆる「ゲリラ戦法」を採っていましたから。・・・
      ※ 同年9月16日:“会津藩兵と共に高田から戻った水戸諸生党勢・朝比奈隊が、永井野南方の守備を固める”・・・と、“同じく筧隊は、永井野東方の高橋川沿いに布陣した”・・・“新政府軍との戦いは、当初は一進一退と云う戦況となった”が・・・やがては・・・“会津藩が優勢となり”・・・結局のところ、「新政府軍」が、“永井野南方の上甲村(現福島県大沼郡会津美里町本郷上甲)”へと「敗走」する。・・・しかし、“その上甲村には、水戸藩から派兵された第2次水戸諸生党勢追討軍約1,000名の内二小隊(※遊撃隊長・小池千太郎〈※元大発勢参加者〉と新募隊長・鳥居沖之允の二隊)が、既に待ち構えており”・・・其処に、“新政府軍側の高崎藩兵らが敗走して来る”・・・と、“反撃に転じようとする鳥居隊”が、「上甲村」から「尾岐窪(現福島県大沼郡会津美里町尾岐窪)」へと「進軍」を始め・・・「小池隊」は、「鳥居隊」と別れて、「仁王(現福島県大沼郡会津美里町吉田仁王)」を「攻撃」した。
      ・・・さて・・・この時、水戸藩派兵の第2次水戸諸生党勢追討軍の本隊は、塔寺(現福島県河沼郡会津坂下町大字塔寺)の守備に就いており・・・また、「除奸反正」と唱えて、復讐に燃える先鋒隊長・武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)らは、“未だに越後の長岡付近にあった”とされます。・・・そして、この日の鳥居・小池両隊による進軍や攻撃のため、対する会津藩兵は陣地を一旦離れますが・・・その後、勢いを再び盛り返していたため・・・これらと交戦した第2次水戸諸生党勢追討軍の鳥居・小池両隊は、上甲村へと引き返してしまいます。・・・しかし、“この上甲村撤退時”に、敵方から奪った銃器類のほかにも・・・“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)や朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)らの手による文書数点”という重要な証拠品を押収したことで・・・この後の第2次水戸諸生党勢追討軍本隊への通報に至るのです。・・・
      ※ 同年9月19日:“会津周辺にて食料確保等を目的とし、遊撃戦を繰り返していた水戸諸生党勢は、水戸藩から派兵された約1,000名規模の第2次水戸諸生党勢追討軍が、自軍の間近まで接近していたことを知らず”・・・“会津藩隊長・佐川勝(※名は清直とも、通称は官兵衛)の退却指示によって”・・・「永井野」から、“更に南方の大内村(現福島県南会津郡下郷町大内)”を経て・・・この日、「会津田島(現福島県南会津郡南会津町田島)」へと至る。・・・

      ※ 同年9月22日:「陸奥会津藩」が、「新政府軍」に対して、この日「降伏」する。(=会津戦争の終結)・・・“これまでの会津戦争”は、約一カ月間に亘る局地戦や籠城戦が繰り広げられ、また死者数千人を出すと云う悲惨な戦争でした。・・・飯盛山における白虎隊の自刃や、家老・西郷近悳(※通称は頼母、明治維新後は保科頼母と改名、号を栖雲、酔月、晩年は八握髯翁とも)の家族9名の自害など、悲劇的な話が数多く伝えられております・・・が、この悲惨な戦い直後の光景についてを、前述した黒崎雄二(※常陸国久慈郡大子出身、当時17歳、大子郷校・学監であった黒崎藤右衛門の子)が如実に証言しています。・・・これを要約すると・・・
      ・・・「白虎隊士らと別れた後に、会津城入城を図ったものの、門前払いとされてしまった黒崎は、仲間と逸(はぐ)れてしまい、砲弾が飛び交う最中、ようやく一人で以って、南門傍にあり、また辛うじて会津藩の守備範囲内であった東照宮へと辿り着く。しかし、黒崎は極度の疲れと安堵した一瞬の気の緩みから、この社前で熟睡してしまう。
      ・・・目が覚めると、自身の周囲には、大勢の人が寝ており、これら皆を起こそうとしたものの・・・黒崎以外の者は皆亡くなっていた。・・・この後の黒崎は、南門の番人に頼んで城中に入れてもらい、三の丸守備に就いていた水戸諸生党勢と再合流を果たして、兄にも会えた」
と。・・・
      ・・・尚、この日・・・黒崎などを追う立場だった、会津城近郊の永井野(現福島県大沼郡会津美里町永井野)にあった第2次水戸諸生党勢追討軍内では、水戸諸生党勢の動向についてを、「水戸へ向かったらしい」、「いや、北方へ逃亡したようだ」と云う概ね二つの噂が取り沙汰され・・・これに、第2次水戸諸生党勢追討軍の陣将とされた山口正定(※通称は徳之進)が、“水戸諸生党勢が向かうのは水戸である可能性が高い”と判断し・・・“同日に、国許への至急の使いとして徒目付・渡辺吉太郎(わたなべよしたろう)を指名した上で、水戸に派遣した”と。・・・
      ※ 同年9月24日:“会津城近郊を出発していた第2次水戸諸生党勢追討軍の徒目付・渡辺吉太郎”が、「水戸藩庁(=水戸城)」へ「到着」し、“仔細について”を「報告」する・・・と、“これにより慌てた水戸藩は、水戸諸生党勢らが通行しそうな場所に藩兵を配置するとともに、支藩の宍戸藩・守山藩や松岡藩の中山家などに呼び掛けるなどして”・・・“一応の守備態勢を敷く”・・・当時の水戸藩は、諸生党勢らが故郷・水戸を目指していると知ったのが、“まさに自藩の領内に立ち入る直前だった”とのこと。・・・そして、徒目付・渡辺吉太郎による、この日の報告のみならず・・・“ほぼ同時に、馬頭村や小野河岸対岸からも、それぞれ報告を受けていた”と考えられるため、様々な情報が錯綜し、かなりの混乱状況があったのでしょう。・・・何と云っても、長きに亘る自藩内天狗党との抗争後における・・・“藩士数激減の最中のこと”であり・・・また、第2次水戸諸生党勢追討軍派兵中のことでもあった訳でして。・・・結局は、防備側が少人数のため、“水戸諸生党勢の水戸入りを、阻止し切れなかったよう”です。
      ・・・ちなみに、ここに登場する「渡辺吉太郎」とは、水戸藩士・渡辺正信(わたなべまさのぶ:※通称は喜介)の長男であり、「床机廻」から「歩士目付」となった人物であり・・・この頃は、水戸藩の「軽銃隊副長」とされていました。・・・かつて、西暦1864年(元治元年)の大発勢投獄の際には、下総古河にて拘禁され・・・西暦1868年(慶應4年/明治元年)の初め頃には解放されており・・・この翌年の西暦1869年(明治2年)からは、いわゆる「北征」に従軍し・・・同年4月29日には、蝦夷地の矢不来(現北海道北斗市矢不来)にて負傷し・・・同年5月9日、青森病院にて死亡。享年28。・・・
      ※ 同年9月25日:“会津藩重臣の佐川勝(※名は清直とも、通称は官兵衛)から、自藩降伏の報が会津田島に伝えられる”・・・と、“戦略上重要な拠点を失なった水戸諸生党勢”は、“水戸藩による討伐隊・総勢約1,000名が会津に来ていたため、水戸城に残る藩士らは少数である筈との希望的な予測をし、故郷・水戸へ帰ること”を「決定」した。・・・そして、“会津藩隊長の佐川勝(※名は清直とも、通称は官兵衛)に別れを告げる”・・・と、“会津藩以外の兵(※旧幕府軍兵や、新撰組隊士、越後長岡藩兵などのこと)らととも”に、「水戸」へと「出発」し・・・“粟生沢(現福島県南会津郡南会津町粟生沢)からの険しい山越え”を「敢行」する・・・と、“この日のうちに、会津藩領を出る”・・・その後、「板室(現栃木県那須塩原市板室)」を経て・・・「百村(現栃木県那須塩原市百村)」に至り、「宿泊」した。・・・この時の水戸諸生党勢の意思決定に関しては・・・当時の会津藩が、戦闘継続能力を失ない掛けて・・・もはや降伏する他無かったと云う事情については、さすがに理解したのでしょうが・・・
      ・・・武士の一分に拘(こだわ)る流浪集団を、或る程度糾合し、土地勘などが豊富な故郷・水戸で、旧幕府勢力の再起を図ることを優先し、また期待したのでしょう。きっと。・・・
      ※ 同年9月26日夜:“水戸諸生党勢ら約300名が、新政府軍を避けるように”・・・「高林(現栃木県那須塩原市高林)」や、「石上(現栃木県大田原市上石上、下石上)」を経て・・・“この日夜半”には、「片府田(現栃木県大田原市片府田)」に至る。・・・この頃ちょうど・・・新政府軍による略奪行為などに反発した会津田島周辺の農民などが、自警団的な農兵部隊を組織し、周辺地域において遊撃戦を展開していた模様です。・・・特に、粟生沢の農兵隊は強かったようでして・・・“水戸諸生党勢らの山越えの際も協力的だった”とも伝わります。・・・また、それまで険しい山間部を抜けて来た水戸諸生党勢らとしては・・・“水戸に繋がる那珂川に合流する箒川(ほうきがわ)を見て、一同が或る種の安堵感に包まれたよう”でありまして・・・。・・・“総勢約300名の内30名が、宝寿院(現栃木県大田原市片府田)に宿泊し、残りの約270名は民家に分宿した”とのこと。・・・
      ※ 同年9月27日未明:“事前に水戸諸生党勢ら約300名の動きを察知した地元の下野大田原藩や、近江彦根藩、阿波淡路徳島藩による三藩合同の混成部隊約500名”が、“片府田に分宿する水戸諸生党勢らに対して”、「攻撃」をと、“ちょうど朝餉の支度をしていた水戸諸生党勢らは、慌てて応戦し、激しい銃撃戦となって”・・・“これに続いて、白兵戦に移行する”・・・と、“徳島藩兵は動かず”・・・“大田原と彦根の藩兵達”が「応戦」する・・・も、“不意打ちに遭った水戸諸生党勢らが、戦況不利と判断するに至り”・・・“約2時間後には、佐良土(現栃木県大田原市佐良土)方面へと立ち去った”・・・下野大田原藩が三藩合同混成部隊に参加していた事自体は、まさに地元を統治していた藩でしたから、一応理解出来るのですが、それにしても・・・またしても・・・ここに、彦根藩と徳島藩が登場しているのです。・・・しかも、徳島藩に至っては、“ご挨拶程度の銃撃戦のみ”に参戦している訳でして・・・。
      ・・・“後の事は、地元の藩と因縁浅からぬ藩とで行なえば良し”との判断の上での行動だったのでしょうか?・・・いずれにしても、この時の戦闘によって、水戸諸生党勢ら9名が戦死しています。・・・この直後期には、戦死者全員が地元の宝寿院墓地に埋葬されたものの、久しく弔う者が居ない無縁仏とされていたようです・・・が、これより20年後の明治21年9月27日には、このことを哀れんだ地元の女性達によって、供養塔を建てられて慰霊されております。・・・
      ※ 同年同日:“佐良土に向かった水戸諸生党勢らと下野黒羽藩との間で戦闘となる”・・・も、“この日の夕刻には、水戸諸生党勢らが押し切ったのか? 箒川を渡河し”・・・“黒羽藩兵も、水戸諸生党勢らに対する追撃を加えなかった”・・・すると、“水戸諸生党勢らは、小川(現栃木県那須郡那珂川町小川)から、那珂川を渡河して、水戸藩領の馬頭村(現栃木県那須郡那珂川町馬頭)へと至り”・・・“其処で、元同僚の水戸藩兵らと初戦を交えた”・・・この時の相手方は、“宮村関門を警護していた先手同心物頭・久米鉄之進(くめてつのしん)率いる藩兵らであり”・・・結局のところは、“多勢に無勢と云った戦況となって”・・・“水戸諸生党勢らが、勝利した”・・・“水戸諸生党勢らは、この直後に、獄舎(※馬頭村にあった郷牢のこと)を破って、当時の政治犯扱いとされていた罪人らなどを、その手勢に加える”・・・と、「馬頭村」に「宿泊」した。・・・このように、既に・・・旧幕府軍兵や、新撰組隊士、越後長岡藩兵などを糾合した格好となっていた水戸諸生党勢らは・・・
      ・・・馬頭村の獄舎を襲い、その頭数を小人数ながらも増やしていったのです。・・・しかし、当時の水戸藩(水戸徳川家)にしてみれば・・・“かつての桜田門外の変の頃”から、この「戊辰戦争」に至るまで、藩政の実権交代が何度も繰り返され、数々の一揆や騒動へと発展してしまい・・・郷士を含む藩士達の総数が激減していた上、藩主が不在状態の時期に(第2次)水戸諸生党勢追討軍が出征中だったため・・・領内警備については、どうしても手薄となる訳でして。・・・約300名規模と云われる武装集団に対して、宮村関門警護兵達が抵抗し切れなかったのも、致し方無かったかと。・・・それを想えば、追撃を加えなかった黒羽藩兵達も、また然(しか)り。・・・“手負いのネズミ達を、敢えてネコを襲うような猛獣に化けさせる必要性は低かった”と云わざるを得ず・・・。・・・
      ※ 同年9月28日:“水戸諸生党勢らの多く”が、「水戸」を目指して、「馬頭村」を「出発」する・・・も、“一部の者達は、小砂(現茨城県ひたちなか市小砂町)から左貫(現茨城県久慈郡大子町左貫)を経て、大子(現茨城県久慈郡大子町大字大子)へと向かう”・・・そして、“当初の目的通りに水戸を目指した一団”は、「高部(現茨城県常陸大宮市高部)」から「小野(現茨城県常陸大宮市小野)河岸」に至り・・・“ここで再び、那珂川を渡ろうとする”・・・も、“対岸から大砲を撃ち込まれて、思うようには渡河出来なかった”・・・が、「黒崎雄二(※常陸国久慈郡大子出身、当時17歳、大子郷校・学監であった黒崎藤右衛門の子)」が、“自ら櫓を漕ぎ、また砲弾の雨を潜り抜け、流弾網突破を最初に仕掛ける”・・・と、“無事に那珂川を渡り切り”・・・この後、“水戸諸生党勢らが、次々と対岸の敵陣へ斬り込む”・・・と、“水戸藩兵らは、大砲を放置したまま、逃走した”・・・このような文章にすると・・・まるで戦争物映画のワン・シーンのようですが・・・史実としても、本当の事だったようです。
      ・・・また、水戸藩側からすれば、この時の大砲を収奪されてしまったことが、後々大きな被害を齎(もたら)すこととなり・・・かなりの痛手だったかと。・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩」が・・・“水戸諸生党勢らが水戸に迫りつつある最中に、藩内で恐怖心や緊張感が広まっていたことを、その理由として”・・・“それまで赤沼に入獄させていた家老・天野景教(あまのかげのり:※通称は伊内)や、若年寄・近藤儀太夫らの諸生派重臣達40名余りを”・・・“翌10月1日に掛けて”、次々と「斬刑」に処する。・・・この出来事については、『天保明治水戸見聞実記』は・・「近藤儀太夫、菊地善左衛門等四十余人を斬る。軽罪の者にて、幽閉を赦されしは、遠山熊之介等四十余人あり」と記しています。
      ・・・尚、「家老・天野景教(※通称は伊内)」とは、西暦1864年(元治元年)8月10日に、当時の水戸藩主・徳川慶篤の名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)が江戸より水戸・薬王院(現茨城県水戸市元吉田町)に到着した際に、水戸藩家老・市川弘美の使者として遣わされた人物です・・・が、この時の水戸城兵(=諸生党勢)が、松平頼徳の先衛役へ向けた砲撃を行ない、遂に敵味方となって戦端を開いた訳です。・・・想えば、“この時から、大発勢の悲劇に繋がった”のでした。
      ・・・また、『天保明治水戸見聞実記』で、“この時に幽閉を赦された”と云う「遠山熊之介」とは、遠山重明(※通称は熊之介、藩校・弘道館の舎長)のことであり、“改革派の鎮派”に属し、また人望が厚かった人物とされておりまして・・・かつては、“水戸藩主の意を酌んだ側用人見習いとして、藩政刷新を目指し、当時囚われていた水戸藩士らを謹慎で済ませようと行動するも、諸事情によって上手く行かなかった”という経歴の持ち主でもありますが・・・
      ・・・いずれにしても、当時の水戸藩の内情からすれば・・・“改革派の鎮派たる大発勢寄りの勢力のことを、「天狗にも非ず、市川にも服従せず、中間にあったのが、近藤義太夫や、内藤弥太夫、石河幹二郎、菊地善左衛門、久木直次郎の派」と云うような判断基準で認識されていた”とされ・・・また・・・“実際に、公平な議論で以って、中間的な立場を採った”とされる派閥でした・・・が、“いくら中立勢力を標榜していても、反天狗である限り、市川弘美らの諸生党派に近い存在”と、判断されてしまった模様なのです。・・・これらについては、“かなり厳しい処断が下された”と云わざるを得ませんが・・・この時に、斬刑、磔刑、牢獄死されたと云う方達48名を、以下に。(↓↓↓)・・・

      九月廿八日 牢屋敷に於ける斬罪之者(※『水戸藩末史料』より、基本的に原文のまま)
      藤谷春榮、菊地善左衛門、戸祭誠五郎、青木又三郎、佐々八次郎、佐野孫次郎、蔭山又十郎、野村喜左衛門、森秀之介、瀬尾弥一衛門、小山亀五郎、渡邊稲之允、天野伊内、近藤義大夫(※近藤儀太夫のこと)、藤谷省齋、安松左一郎、岡見彦五郎、藤咲金次郎、軽部熊太郎、小泉喜四郎、野澤三郎衛門、本郷精一郎、山崎□之進、高野九郎兵衛、根本清衛門、皆川左平次、横山九郎衛門、鈴木鈷太郎、鈴木順次郎、小川辰蔵、林傳三郎、栗原庄次兵衛、市川市次郎、齋田税之介、河方竹之介、内藤魁之介、小野瀬源蔵、津田孝之助、前嶋淳徳、鈴木健介、藤田久蔵、長山治十、市川市太郎、渡邊伊衛門、谷田部獅子之介、(兒玉薗衛門、大畠理八郎)両人生晒之上磔、牢死 太田十郎左衛門

      ※ 同年9月29日:“尚も水戸を目指した水戸諸生党勢”が、この日、“石塚村(現茨城県東茨城郡城里町石塚)の水戸藩守備隊”を「撃破」して・・同日中に、「飯富(現茨城県水戸市飯富町)」へ至る・・・と、“其処で、三隊に別れ、水戸藩による警護が厳重な場所を避けながら、那珂川沿いに、水戸城下を目指した”・・・そして、“それらの内一隊は、谷中の水戸藩共有墓地の坂から本道に出て、下金丁や、上金丁、田見小路へと向かい”・・・“もう一隊は、那珂川沿いを進んで、田見小路へ向かう”・・・更には、“もう一隊が、那珂川沿いを進んで、水戸藩庁(=水戸城)の北側に当たる杉山河岸から城内を狙った”・・・が、“その途中で小競り合いが発生し”・・・“水戸諸生党勢と水戸藩側双方に死傷者が出る”・・・この日については、西暦1906年(明治39年)の史談会インタビューにおける黒崎雄二(※常陸国久慈郡大子出身、当時17歳、大子郷校・学監であった黒崎藤右衛門の子)が・・・
      ・・・「石塚で宿を取ると見せまして、その実は一泊もしませぬ。それから、いよいよ城中に斬り入る内議であります。その時、死を決して進むのに醜い風(貌)をして倒れては恥ずかしいから、頭の髪を結い毛の伸びた者は剃るが宜しいと言うので、風俗を改めましたが、如何せん衣服は穢(けがれ)てございます。若しも、不幸にして目的を果たせぬ際には、瑞竜山(※水戸徳川家累代の墓所のこと)に参って、残らず割腹するという協議であります。それで一層力を得まして、その晩に立ちまして、水戸城へ参ったような訳であります」・・・と、ひたすらに水戸を目指していた水戸諸生党勢の一人として、当時の記憶を辿っております。・・・
      ※ 同年同日夜:“谷中から水戸城下へ進攻した市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)率いる一隊”が、“市川家墓所の祇園寺(現茨城県水戸市八幡町)を、その左手に見ることが出来る下金丁から上金丁に至る辺り”で、“水戸藩付家老・山野邊義芸(※主水とも)率いる部隊”と「激突」し・・・“北越方面や会津における修羅場を潜り抜けていた市川隊が、次第に優勢となって、山野邊隊が城内へ撤退した”・・・が、“市川隊の最後尾にあった側用人・荻庄左衛門(おぎしょうざえもん:※当時58歳)及び勇太郎(ゆうたろう:※当時35歳)親子が、谷中から本道に出た所で以って、自隊とは逆方向へと向かう”・・・と、“程なく自家の菩提寺とする常葉村の本行寺(現茨城県水戸市上水戸4丁目)に辿り着いた”・・・“其処で、父・庄左衛門は、母親への遺書を認(したた)めた後に、今は亡き父の墓前”で、「自刃」し・・・“子・勇太郎も、父の後を追った”・・・“この時の荻庄左衛門による母宛ての遺書”には・・・
      ・・・(原文)「三月以来奧越にて数度戦争仕候処、帰路途中被左之手を打抜、一統に後壱人に相成、進退止り候間、恐入候得共覚悟致候間、何卒御安度奉願候」・・・とあって、“(中略)水戸への帰路途中、自身の左手に、いわゆる貫通銃創を受けて、進むも退くも出来ない状態に陥ったため、また他者の足手まといとならぬようにと覚悟したので、お母上様にあっては何卒、御安堵頂きたく・・・”と読み取れます。・・・但し、この荻親子が自刃した時期については、市川隊が翌10月2日に水戸を退去した際とする説や・・・自刃に至る理由にしても・・・強行に水戸城下に入ろうとする市川弘美に対して、“この荻親子は、先祖の墳墓の地を汚すべきではなく、当時の水戸藩への帰順を申し出ることを主張するも、結果として受け容れられなかったから”とする説もあります。
      ・・・しかし、そもそもの話として、荻親子の祖先は・・・はじめ、佐竹氏出羽転封直後期の松平(武田)信吉(※徳川家康の五男)に仕えて二百石取り・・・続いて、水戸藩祖・徳川頼房(※諡号は威公)に仕えた三百石取りの旧家であり・・・荻庄左衛門の妻であり、勇太郎の母は・・・“かつては反天狗党の中心人物と目されて、また前藩主・徳川慶篤(※諡号は順公)の執政として専横の限りを尽くし、藩主暗殺をも企てた”と云われる、故結城朝道(ゆうきともみち:※別名は寅寿、西暦1856年〈安政3年〉4月25日没)の姉に当たり・・・そして、この荻庄左衛門自身も、1864年(元治元年)頃には、常に市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)に属しながら筑波勢追討の功績を上げて・・・同年11月には、水戸藩の「側用人」となり・・・また、子・勇太郎も、父と共に功績を上げて、同時期に「中奥小姓」とされておりまして・・・荻家そのものは、譜代・中士格の名家とも云うべき、お家柄なのです。
      ・・・尚、父の荻庄左衛門は、かつての北越方面における戦陣において・・・「草枕むすふかりねの木間より 光をてきに弓張の月」・・・という一首を遺してもおります。・・・いずれにしても、ようやく故郷・水戸へと辿り着きながら、自らの死を、選ばずを得なかった荻親子の悲哀を感じます。・・・

      ※ 同年10月1日未明(※この日は新暦の11月14日に当たる):“この日の水戸は、早朝から快晴。西寄りの風が吹いていた”・・・“その最中、水戸諸生党勢の市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)隊が、鬨(とき)の声を上げながら、水戸藩庁(=水戸城)へと向かい”・・・“午前4時頃には、城下北側を攻め、北郭見附門(※現在の茨城新聞社辺り)を破って、大手門付近まで迫った”・・・すると、“市川隊が、大手橋を挟む恰好で、守備側の水戸藩兵らと対峙する”・・・しかし、“守備側の水戸藩兵らが、大手門を閉ざして、城内から銃撃を加え始める”・・・と、“市川隊が、反対側の藩校・弘道館に入って、これに応戦した”・・・が、“この時の激戦により、市川弘美の長男・主計(かずえ)ほか多数の戦死者が出てしまう”・・・
      ・・・その一方で、“那珂川に沿う御杉山に陣取っていた朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)隊が、この頃ちょうど急な坂の上にあった柵門を目指して駆け上がっていた”・・・が、“守備側の水戸藩兵らは、ここも突破されては、いよいよ城内に侵入されるとあって、必死に防戦することとなり”・・・結局は、“この朝比奈隊も、柵門を攻め切れずに、市川隊が結集し始めていた弘道館へと向かった”・・・しかし、“その弘道館にあった朝比奈隊の若手頭・志水陸一郎(しみずりくいちろう:※清水陸一郎とも)が、この戦局に納得せず、市川と朝比奈らの幹部に対して”・・・「今ならば城内の兵が少ない。兵らが集まる前に城内に攻め込む」・・・と「主張」する・・・も、“これを無謀な行為として拒否されることになる”・・・
      ・・・すると、“志水陸一郎(※清水陸一郎とも)は、この直後に、同志十数名を引き連れて、一旦御杉山へと戻り、その西端の城壁をよじ登って、再び城内への強行突入を図った”・・・“強行突入した志水(※清水とも)ら十数名は、奮戦したため、水戸藩兵らへ、かなりの損害を与えた”・・・が、“彼我の戦力差が大きく、次第に追いつめられることとなって”・・・「全員死亡」した。(=弘道館の戦い)
・・・ちなみに、“この時の朝比奈隊には、旧幕府軍兵や越後長岡藩兵も参加していた”とされます・・・が、その内の旧幕府軍兵は・・・「徳川再興」と書かれた大旗を押し立てては居たものの・・・“この時も、水戸藩における藩内抗争という立場で以って、実際の戦闘には、ほとんど加わらなかったよう”であり・・・越後長岡藩兵についても、ほぼ同様だったかと。・・・まさに地元人と云える水戸諸生党勢の者達にしてみれば、藩庁や水戸城下に関して当然詳しかった筈であり、先鋒部隊として強行突入を図るのも、また当然だったと云えるかと。・・・
      ※ 同年同日午前10時頃:“それまで水戸城下で交戦していた水戸藩兵ら”が、“水戸諸生党勢の市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)隊が不在中の城南・柵町御門から、城内へと戻って再結集を図る”・・・も、“多勢による熱気の中で、城内側から弘道館に向かって弾丸が頻(しき)りに撃ち込まれたため”・・・“水戸諸生党勢が、占拠していた弘道館側から、城内に向けて応戦発砲した”・・・すると、“再び激しい銃撃戦となり、流れ弾が前水戸藩主・徳川慶篤夫人らの居室前庭にも着弾した”と。(=弘道館の戦い)・・・・・・
      ※ 同年同日午後4時頃:“水戸藩庁(=水戸城)に居た本圀寺党の家老・鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)ら重臣達”が、「軍議」において、“藩校・弘道館に籠る市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢を、三方面から一斉突入して総攻撃し、諸生党勢の殲滅を図る”と「策案」し・・・“一隊目が、大手門から弘道館の正門を破る事”・・・“二隊目は、柵町御門から弘道館の南柵門を破る事”・・・“三隊目は、御杉山柵門から弘道館の北柵門を破る事”・・・などが「決定」され、“これらの計画が実行されることになった”・・・“水戸藩庁(=水戸城)の大手門が開かれると同時に、多くの水戸藩兵が、鬨の声を上げながら大手橋を渡って、弘道館の正門に殺到し、正門脇の通用門を破る”・・・
      ・・・すると、“攻め手の水戸藩兵らが、其処から次々と突入した直後に、二手に別れ”・・・一手は、“北側の文館へ向かい”・・・“もう一手は、“南側の武館へ向かう”・・・が、“この時に文館へ向かった監府隊総勢100名余りを率いる目付・鮎澤國維(※通称は伊太夫、元弘道館舎長)”が、“その胸に敵弾を受けて”、「戦死」した。・・・間もなくして・・・“水戸藩兵らが、弘道館の南北から雪崩を打って突入し、弘道館の各所で水戸諸生党勢と、約一時間に亘る激闘が繰り広げられることとなり”・・・「久米鉄之進」も、“水戸諸生党勢・市川隊と再び刃を交えて”、「戦死」する。・・・しかし、この激戦の趨勢は・・・“数に劣る水戸諸生党勢は、次第に後退し始め”・・・“弘道館西側の調練場辺り(※茨城県旧庁舎辺りのこと)まで追い詰められたところで、夕暮れを迎える”・・・と、“残存する水戸諸生党勢”が、“北郭見附門付近にあった山野邊邸(※現在の茨城新聞社辺り)に向かって”、「総退却」を始める。(=弘道館の戦い)

      ・・・まず、上記にある「鮎澤國維(※通称は伊太夫、元弘道館舎長)」は・・・高橋多一郎の実弟であり、後に鮎澤家の養子に入り・・・天保年間末頃に、藩校・弘道館の舎長となって・・・西暦1858年(安政5年)に、水戸藩へ「戊午の密勅」が下された際には、攘夷を志向する列藩への回達を主張する・・・も、その翌年には、「安政の大獄」に連座させられ、豊後国における禁固刑に。・・・この後に、その禁固刑が放免されて・・・西暦1864年(元治元年)には、那珂湊で幕府軍と戦うものの・・・これに敗れると、天狗党勢による西上に参加しました・・・が、尚も京都を目指す天狗党勢と、西上途中で離脱することとなって・・・後に、備前国を経て京都に至り、当時の水戸藩への復帰を果たすと・・・本圀寺党勢らとともに、藩政回復の勅書、つまりは「除奸反正の勅書」を奉じて、故郷・水戸に帰還し・・・その後も、第1次水戸諸生党勢追討軍の一員として、白河方面にも従軍し・・・この時には、水戸藩庁(=水戸城)守備に就いていた訳です。享年は46。
      ・・・次にある「久米鉄之進」は、同年9月27日の馬頭村で、水戸諸生党勢らを相手に、既に交戦しており、この時の諸生党勢らに馬頭村を突破されてしまった格好となりますが、この日・・・“その雪辱を晴らさん”・・・と立ち向かった訳ですが、遭えなく戦死。享年53。・・・
      ※ 同年同日夜:“この日の水戸における激戦により”・・・“水戸藩側と水戸諸生党勢の両軍が、ともに疲れ果て、その夜には、特に目立った動きを見せず”・・・しかし、“水戸諸生党勢に同行し、徳川再興という大旗を掲げていた旧幕府軍兵や越後長岡藩兵ら”は、“この日の夜半”に、「水戸」を「脱出」した。・・・いずれにしても・・・この日の「弘道館の戦い」によって・・・当時、日本最大と云われた藩校・弘道館は、その「正門」や、「正庁」、「至善堂」の一部を除く、ほぼ全てが焼失して・・・多くの貴重な蔵書類も、焼失してしまいました。・・・ちなみに、現在ある弘道館の正門や正庁玄関には、当時の弾痕が残っております。・・・しかも、この「弘道館の戦い」の最中から、相対峙していた水戸藩庁(=水戸城)側でも火災が発生し・・・弘道館だけでなく、弘道館の南側にあった水戸藩重臣達の武家屋敷群までもが・・・城内から撃ち込まれた砲弾によって、火災が発生。
      ・・・それが、折からの西風に煽(あお)られて、更に周辺へと延焼し・・・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)の屋敷(※現在のJR水戸駅辺り)など7軒が焼失しました。・・・この「弘道館の戦い」による人的損害については・・・戦死者が、水戸諸生党勢90人、水戸藩側89人とされ・・・負傷者は、水戸諸生党勢78人、水戸藩側130人・・・水戸藩側に捕縛された諸生党勢11人・・・とされますが、この時に捕縛された11人も、直後に処刑されてしまうため・・・この「弘道館の戦い」における直接的な戦死者は、処刑者を含めると、両軍で190人以上となります。・・・結局のところ・・・水戸藩では、“かつての桜田門外の変の頃から、優秀な人材を散々に失ない続け”・・・またしても・・・それぞれの志(こころざし)などの違いによって翻弄される格好となった訳です・・・が、ここで・・・これ以前の頃から、この「弘道館の戦い」までを、各記録類などにより、少し整理したいと思います。(↓↓↓)・・・



      《水戸藩側における藩庁及び城下守備の記録とその戦死者などについて》

      当初から、諸生党勢追討に向かった陣将・山口正定(※通称は徳之進)や、先鋒隊長・武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)らの第2次水戸諸生党勢追討軍が、北越方面から未だに帰還出来なかったため・・・結果的に勝者とされる水戸藩側には・・・家老・鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)ら本圀寺党勢の帰藩組が、まず中心となって・・・支藩の宍戸藩や・・・支藩の府中藩・・・支藩の守山藩・・・かつての幕府から水戸藩付家老とされた後に、独立大名とされて間も無くの松岡藩主・中山信徴(※通称は与三左衛門)・・・一旦は、かつての幕府軍に降伏したものの、王政復古の大号令後に藩政へ復帰して、藩庁守備に積極姿勢を示した付家老・山野邊義芸(※主水とも)・・・などを主体としており・・・それに加えて、水戸周辺諸藩も、明治新政府から出兵命令を受けております・・・が、それぞれの藩兵達による部隊は・・・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢と同様に・・・
      ・・・水戸藩守備側にも、藩士や郷士達以外に、神官や、郷医、村役人、多くの農村有志のほか、少数の町民有志など・・・から構成されておりました。

      ○「郡司助衛門の参戦日記」
      この郡司助衛門という人物は・・・旧石川村(現茨城県水戸市石川)生まれで・・・かつての「元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)」の際に、“尊皇攘夷改革派の鎮派たる大発勢”に属し・・・那珂湊で降伏した後、上総飯野藩の保科家に預けられ・・・その後赦されて、西暦1868年(慶應4年)4月に水戸藩の軍制が再編されると・・・組頭とされ、実際に帰藩が赦されるなどして復活した農兵達へ編入されて・・・一代限りの苗字帯刀と、代々の麻上下(あさかみしも:※麻布で作った単〈ひとえ〉の裃〈かみしも〉のことであり、武士出仕時における通常の礼装のこと)を許されたという人であり・・・同年8月には、「金二円二人扶持」で以って、家老・鈴木重義(※通称は内蔵次郎、後に靱負や、縫殿とも)付きの同心として命じられ・・・この時の「弘道館の戦い」に参加していたのですが・・・。
      ・・・そもそも、水戸藩危急の事態に備えるためとして、虚を突かれた格好の水戸藩側が、このような矢継ぎ早の施策で以って領民達を動員せざるを得なかったという事情も窺えます・・・が、「郡司助衛門の参戦日記」では、以下のように当時の戦況を記しております。・・・

      「官軍奥羽ニ下向スルニ際シ、先ニ脱走セル奸徒等潜伏スル所ナク、水戸城虚ナルヲ伺ヒ、水戸ヲ襲ソワントスルノ報アルヲ以、同月(※9月のこと)廿八日隊長ニ付属シ、上町金澤坂ニ出陣ス、 (中略) 同二十九日同勢三十人余大手門ヲ操出シ、田見小路ニ至リシニ、奸徒早クモ町街ニ充満シ、其鉾先鋭ク、小勢ヲ以防ントスル由ナキ報アルヲ以テ、退テ北見附門外ニ戦フ其勢十人余利アラスシテ退キ、城ニ入ントス、大手橋ノ辺リニ隊長令シテ曰ク、南門見附危シ疲(※疾か?)ク馳セテ助力スベシト、直チニ此レニ赴キシニ、僅十人ニ不足小勢ニテ大敵ヲ防クコト不能ヲ以、退キテ城ニ入ントスレハ、早大手ノ城門ハ閉鎖シテアルヲ以テ、転シテ東照宮社山裏ヨリ入、柵町裏千湖ノ淵ヲ潜行シ、漸クニシテアカス城門(※柵町にあった城門のことであり、普段は閉ざされていた模様です)ヨリ入ル、同志者皆討死シタリト評スト云フ、奸徒等三ノ丸ニ侵入ス、是ヨリ戦争烈シク昼夜砲声止時ナシ」
      「十月朔日大手城門ヲ開キ、無二無三ニ衝出シ接戦ス、負傷多シ、奸徒等其鋭気ニ当リ難ク、同二日夜脱走シ下総国八日市場ニ至ル」

      上記が・・・郡司助衛門が属した小隊が、西暦1868年(明治元年)9月29日から10月1日に掛けて経験したという戦況であり・・・「奸徒等」、つまりは、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢が下総国八日市場方面へ脱走するに至るまでを記しております。・・・戦術的に云っても、虚を突かれた格好の水戸藩側が苦戦を強いられていた様子が分かりますし・・・また、水戸諸生党勢の侵入を防ぐためとして、城の正門に当たる大手門を、いち早く閉めてしまった経緯を、比較的仔細に伝えており、他の記録にはあまり見られないことかと思います・・・が、これらの激戦における水戸藩側の犠牲者も少なくはありませんでした。・・・同年10月1日午後4時頃の条にもあるように、水戸藩側の戦死者及び負傷の後の死亡者が89人(※一説には87人)、負傷者は130人(※一説には133人余り)に上り、水戸諸生党勢の戦死者や負傷者などと比べても、氏名や名前が判明している戦死者数は、ほぼ同数とされます・・・が、負傷者の総数については、おそらくは・・・水戸藩側の方が、比例して多かったのではないか? と推測出来ます。
      ・・・如何に激戦となってしまったのか? また、水戸藩側からすれば、如何ほどに水戸諸生党勢の奮戦ぶりに悩ませられていたのか? などが分かるかと。・・・


      【氏名などが判明している戦死者・・・※基本的に原文のままであり、〈 〉内は享年ではなく没年齢となります】

      [藩校・弘道館における戦死者]
      目付・鮎澤國維(※通称は伊太夫、元弘道館舎長)〈45〉、先手同心物頭・久米鉄之進〈52〉、谷晋太郎〈37〉、太田鉞之介〈22〉、中奥番・里見平算〈43〉、書院番組・兒玉市之允〈27〉、同・萩谷理衛門〈45〉、 郡奉行見習・皆川源吾〈33〉、大番組・松本金左衛門〈46〉、同・新家半之允〈23〉、小十人目付・武石傳之允〈27〉、同・金子七之允〈45〉、同・亀井宇八〈26〉、歩士目付・片岡五郎介〈25〉、歩士・雨宮新介〈32〉、同・増山理左衛門〈27〉、同・岡部忠三郎〈50〉、遊撃隊・馬場祐四郎〈25〉、郡方勤・三田寺秀太郎〈31〉、郷士・鈴木要介〈40〉、同・大森左平次〈34〉、同・黒澤助七〈35〉、同・佐藤彦七〈37〉、医学館元締・塙與兵衛〈41〉、石井信之介〈17〉、手代格・木下清吉〈34〉、目付同心・宮田静三郎〈35〉、若年寄付同心諒・川崎総吉〈24〉、先手同心組・小貫諒之介〈35〉、同・軍司捨吉〈18〉、同・木村金吾〈32〉、同・蔀捨五郎〈35〉、同・前野泰次〈34〉、同・鈴木彦衛門〈28〉、同・荒槇蔵之介〈44〉、同・宇留野藤三郎〈25〉、
      町方同心組・中根八之介〈34〉、漁業改役・小池泉三郎〈25〉、郡方手代・萩谷傳衛門〈26〉、旗同心・山口佐吉〈46〉、先手同心組・佐藤正助〈37〉、谷田川萬正〈29〉、山崎亀太郎〈26〉、砂押熊吉〈42〉、山田彦兵衛〈33〉


      [田見小路における戦死者]
      大番組・福田重兵衛〈38〉、遊撃隊・川又捨吉〈16〉、押役・植田荘八〈36〉、小泉梅吉〈18〉

      [杉山門下における戦死者]
      大番組・佐藤平三郎〈24〉、新番組・江幡定衛門〈61〉、徒目付・野嶋斧太郎〈31〉

      [杉山門における戦死者]
      村岡常野允〈18〉

      [杉山河岸における戦死者]
      新番組・菊池久平〈50〉

      [海老久保柵における戦死者]
      新番組頭・平山兵蔵〈55〉

      [水戸城内・彰考館における戦死者]
      馬廻組・浅川安之允〈44〉、郡手代・関忠之允〈31〉、河西織部〈43〉

      [水戸城外・南町における戦死者]
      徒目付・初瀬兵大夫〈不明〉

      [水戸城南郭における戦死者]
      歩士組・荻留蔵〈27〉、持筒同心組・和田鉦吉〈23〉、大越専介〈21〉、小池倉蔵〈26〉

      [水戸城北郭における戦死者]
      小普請組・梶留四郎〈21〉、遊撃隊・小田次郎〈21〉、与力・小泉藤三郎〈30〉、細谷八蔵〈48〉、安藤津衛門〈40〉

      [上金町における戦死者]
      芳賀荘三郎〈43〉

      [下金町における戦死者]
      文庫役列・明珍恒衛門〈69〉、滝川全太郎〈27〉、大越留三郎〈17〉

      [西町における戦死者]
      与力・潮田猟之介〈54〉

      [城門外における戦死者]
      与力・桧山総一郎〈34〉、赤須隆三郎〈31〉、目付同心・関俊之介〈27〉、山田吉兵衛〈30〉

      [常磐村における戦死者]
      金方元締・中田金兵衛〈50〉、中田金兵衛の子・昌吉〈27〉

      [泉町における戦死者]
      清水末蔵〈23〉

      [馬口労町における戦死者]
      岡田弥八郎〈63〉


      《水戸諸生党勢側における藩庁攻防戦(=弘道館の戦い)の記録とその戦死者などについて》

      藩庁攻防戦(=弘道館の戦い)については、前条にもある黒崎雄二(※常陸国久慈郡大子出身、当時17歳、大子郷校・学監であった黒崎藤右衛門の子)の回顧談が詳しいかと。・・・この黒崎雄二は、北越戦争以来の実戦を経験した数少ない水戸諸生党勢の生き残りとされる人物ですし。・・・

      時系列的に云うと、かなりヤヤコシクなり・・・また、“同西暦1868年(明治元年)年10月1日未明から同日午前中頃までの出来事”ともされますが・・・

      まずは、同年9月29日の条にもあるように・・・「石塚で宿を取ると見せまして、その実は一泊もしませぬ。それから、いよいよ城中に斬り入る内議であります。その時、死を決して進むのに醜い風(貌)をして倒れては恥ずかしいから、頭の髪を結い毛の伸びた者は剃るが宜しいと言うので、風俗を改めましたが、如何せん衣服は穢(けがれ)てございます。若しも、不幸にして目的を果たせぬ際には、瑞竜山(※水戸徳川家累代の墓所のこと)に参って、残らず割腹するという協議であります。それで一層力を得まして、その晩に立ちまして、水戸城へ参ったような訳であります」・・・という次第となり・・・この後の黒崎雄二は、北越戦争敗走後に会津城で巡り合えた兄の部隊と別れ・・・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)付きで、朝比奈隊の若手頭でもあった志水陸一郎(※清水陸一郎とも)が指揮する部隊に合流するためとして、弘道館へは直行せずに、水戸藩庁(=水戸城)北側の御杉山方面へ向かったものの・・・
      ・・・「御杉山の戦い」で、志水(※清水とも)らの部隊が全滅してしまったため、御杉山を放棄して弘道館に退き上げたのですが・・・その弘道館では、“玄関付近における戦闘で、既に負傷していた兄と、筧政布(※通称は助太夫)が一緒に土手の側に居た場面”を目撃しております。・・・これが、“同年10月1日未明から同日午前中頃までの出来事”とされます。・・・
      ・・・そして、“この時以降の出来事”についてを、後の黒崎雄二は、以下のように語っているのです。(↓↓↓)・・・

      「知名の人皆が弘道館で亡くなりましたような次第で、負傷者ばかり沢山居ります。此処では城から直ぐ見下ろされるから、山ノ辺(=山野邊)の屋敷へ引上げたら宜しかろうと云ふので、 (中略) 山ノ辺(=山野邊)邸へ残らず引上げました。其の時怪我人が七十八名ございました。傷の浅深に拘わらず、歩行の出来ぬ者は皆自殺して、跡は邸に火を掛けて焼き捨てるとの約束でありました。故に、私共が逃出て、凡一里計も行き、長岡(現茨城県東茨城郡茨城町長岡)に至りて後を顧みますと、火の手が上りました。跡に残りて二、三人が介錯を為し、又邸に火を掛けたのは、宗庵(安)と申す医者でありまして、志(清)水陸一郎の弟(※兄との誤認です)でありました。 (中略) 弘道館で戦ひつつ、其処に三日居りました。是亦(これまた)、糧食もありませぬ、武器もありませぬ」

      上記の回顧談では・・・当時の水戸諸生党勢が、かなりの苦境状態に立たされていた様子が伝わってまいります。・・・いずれにしても、この藩庁攻防戦(=弘道館の戦い)における水戸諸生党勢側の犠牲者は、相当数に昇っていたかと。・・・「奸賊討取□(≒併の人偏なし)討死扣帳」によれば・・・「討取り八十六人、不明の首級三十六も召捕り十一人」・・・とありますが、負傷者については全く以って不明となります。・・・ちなみに、これらの水戸諸生党勢らの中には・・・対する水戸藩側と同様に・・・藩士や郷士達以外に、農民、僅かの町民も含まれており・・・この中には、やはりと云うべきか? 越後出身の某(なにがし)や、下野浪人・某などが含まれております。

      [藩庁攻防戦(=弘道館の戦い)における戦死者]
      「市川主計(市川弘美の子)、市川安三郎(市川弘美の子)、鵜殿内匠、太田源五郎、生駒誠蔵、河合傳次、村松信蔵、宮田常之介、野澤藤太郎、佐々木雲八郎、介川治衛門、藤咲小衛門、宮田介太郎、小田部壮三郎、猪飼傳衛門、佐々八三郎、大久保久八郎、宇田川松之介、中川任一郎、中澤寅一郎、小嶋為四郎、田島重次郎、高倉常五郎、戸村三郎四郎、滑川総四郎、黒羽鉄五郎、後藤小平太、生井岸次郎、小貫要介、荘司誠一郎、長山徳十、藤田卯之介、磯崎二郎左衛門、茅根善吉、岩澤政五郎、瀧徳太郎、田崎年次郎、松田半左衛門、弓削左内、生井秀三郎、菅谷貞蔵、小泉幾太郎、打越所一郎、目黒安次郎、阿部弥吉、渡邊織之介、森山友衛門、久保菅衛門、高野金蔵、高野金七、高野田衛門、長澤亀之介、木村謙吉、大沼平蔵、市毛子之吉、川崎六郎、木村弥一衛門 等その他姓名詳ならざる者数十人あり。また、前後捕に就きたるもの 兒玉園衛門、大島理八郎、渡邊伊衛門、小泉佐十郎、鯉渕幸蔵、嶋崎左介、松本長衛門、田崎謙次郎等あり、後皆刑せらる。」



      ※ 同西暦1868年(明治元年)10月2日:“水戸藩庁(=水戸城)北郭・見附門付近の山野邊邸に籠っていた水戸諸生党勢には、尚も続けて戦う余力は無く”・・・“この日は散発的な戦闘に終止した”と。・・・しかし、“水戸諸生党勢が、突如として、この日の夜に籠っていた山野邊邸に、火を放って”・・・“既に先発していた旧幕府兵らの後を追い始めた”・・・が、“この時に負傷して移動出来ない者は、自刃、または介錯されて、猛火の中に散る”・・・尚、“この日の夜に山野邊邸を発ったものの、同志達と離れてしまった佐々木雲八郎や野澤藤太郎らの数名”が、「大塚村(現茨城県水戸市大塚町)」において、「自刃」する。・・・ここにある佐々木雲八郎や野澤藤太郎ら数名については・・・上記のように、藩庁攻防戦(=弘道館の戦い)における戦死者に含まれております。・・・
      ※ 同年10月3日夜:“水戸諸生党勢や、旧幕府軍兵、越後長岡藩兵らから成る総勢190名余り”が、“行方郡玉造村(現茨城県行方市玉造)で再合流した後に、現地で高瀬船(たかせぶね)二艘と伝馬船(でんません)一艘を調達し、夜陰に乗じる格好で以って、目的地を銚子方面と定め、霞ケ浦を渡る”・・・しかし、“水戸藩から予め市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢など残党が通過するとの情報を得て警戒していた常陸麻生藩兵ら”が、“不審な船団を霞ケ浦で発見したため、陸地から大砲や小銃を撃ち掛ける”・・・も、“暗闇中に見失なった”・・・ここにある「高瀬船」とは、日本の近世以降に普及した川船を代表する存在であり、大小様々なものが建造されていたようですが・・・当時の霞ケ浦水域や下総国の利根川流域でも、既に水運を担う最も重要な川船とされており・・・これまた当然に、帆走(はんそう)や帆曳(ほびき:※牛馬や人が曳くこと)が出来る帆船でした。
      ・・・そして、「伝馬船」とは、日本の近世から近代に掛けて用いられた小型の船であり・・・その用途としては、親船や本船の出入港時の曳航などに用いるもので、現在のカッターボートに該当しますので・・・“再合流を果たした水戸諸生党勢ら総勢190名余りは、怪我人などを出さずに、船3艘を調達することに成功し、その上で足早な帆船の機能を活かして、常陸麻生藩兵らによる追撃を潜り抜けた”と読み解くべきかと。・・・
      ※ 同年10月4日夕:“水戸諸生党勢や、旧幕府軍兵、越後長岡藩兵らから成る総勢190名余り”が、“牛堀村(現茨城県潮来市牛堀)より、常陸利根川を経て、河川の流れに乗る”・・・と、この日の夕刻には・・・“一艘が、下総国飯沼村(現千葉県銚子市飯沼町)に着岸し”・・・“残りの二艘は、隣の松岸村(現千葉県銚子市松岸町)に着岸して”・・・それぞれ「上陸」した。・・・“これらの上陸地点は、上野高崎藩の領地(※飛び領地)内にあり、当時の銚子陣屋(現千葉県銚子市陣屋町:※別名は飯沼陣屋とも)が置かれていたため”・・・“この高崎藩・銚子陣屋側が、水戸諸生党勢や、旧幕府軍兵、長岡藩兵らに対して降伏を呼び掛ける”・・・と、“旧幕府軍兵(※新遊撃隊、回天隊、純義隊、貫義隊)99名及び長岡藩兵11名、降伏勧告に応じた”・・・が、“水戸諸生党勢のほとんど、つまりは水戸藩所縁の者達約80名は、降伏する事を拒絶して”・・・“高崎藩側との間で軍事的緊張が一気に高まることとなり”・・・其処で、“高崎藩兵の銃弾を受けた元水戸藩馬廻組・大森金六郎(おおもりきんろくろう)”が、「戦死」した。
      ・・・これにより、“降伏勧告を拒絶した市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢”は、“高崎藩による追撃を躱(かわ)しつつ、尚も南下し続けた”
・・・それにしても、旧幕府軍兵(※新遊撃隊、回天隊、純義隊、貫義隊)99名が、銚子陣屋で降伏に応じた理由として、まず考えられるのは・・・“当初は、銚子から船を用いて、大鳥圭介(※旧幕臣、西洋軍学者)が率いる旧幕府軍が当時駐屯していた仙台を目指すも、現実として船の調達や物資など諸々の手配が極めて困難となり、結果として仙台行き自体を断念したもの”かと。・・・次に、長岡藩兵の11名が同じく降伏に応じた理由として、考えられる事は・・・そもそもとして、この時の長岡藩兵達は、隊長とされた家老・山本帯刀を「会津戦争」で失なった後にあっても・・・市川弘美ら水戸諸生党勢に、ほぼ同行し、この銚子まで遥々やって来ていた訳です。・・・やはりと云うべきか?
      ・・・“当初は、この銚子から船で仙台へ向かい、長岡藩主ご一行に合流しようと意図していたためでした”・・・が、“当の藩主様が、明治新政府に対し、既に降伏した事実を高崎藩から聞き付けたため、この日ようやく降伏した”と考えられます。・・・尚、ここにある「大森金六郎」とは、「会津戦争」にて既に戦死した大森信任(※通称は弥三左衛門、弥惣左衛門とも)の弟であり・・・この大森金六郎のお墓は、良福寺(現千葉県銚子市松岸町2丁目)と酒門共有墓地(現茨城県水戸市酒門町)の二基あります。
      ・・・ちなみに、“これまで辛苦を共にして来た筈の水戸諸生党勢達は、この銚子において、ごく少数ではあった”と云うものの・・・何故に、“大森金六郎のような脱落者達を出した”のでしょうか?・・・常識的に考えても、やはり個人の体力と気力の限界点だったとは想います・・・が、かつて対立軸にあった天狗党勢などのように、彼らもまた・・・“自ら諸生党の素志(そし:※平素から抱いている志のこと)を後世に訴えるという大義を託されていた”・・・という可能性も、否定出来ないかと。
      ・・・そして、この後の市川弘美ら水戸諸生党勢は、この「銚子」を発ち・・・“かつての江戸、つまりは改称後の東京を目指したよう”です。・・・彼らとしては、当然に・・・“もし自分達が、この銚子で降伏したとしても、遅かれ早かれ、当時の水戸藩へ身柄を引渡されることとなり、その後どうなるか? についてまで悟っていた筈”であり・・・結局は、『変名を使うなどして、大都市における一時的且つ落人(おちうど)的な潜伏生活については已む無し。もしかすると、情勢によっては、小人数で以って海外渡航の機会などに恵まれるかも知れない。』・・・と、自らの人生や命を懸けることになるのですが・・・・もはや、“茨(いばら)の道を選択せざるを得なかった”と考えられます。・・・
      ※ 同年10月5日:“上野高崎藩の追撃を躱(かわ)しつつ南下した市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢80名”が、“海が見える漁村の飯岡(現千葉県旭市飯岡)に至った”・・・が、“其処は人の往来が多く、水戸諸生党の一団が目立ってしまうため”・・・“更に、西へと進み”・・・“野中村(現千葉県旭市野中)付近で、一泊した”・・・彼ら水戸諸生党勢にとっては、僅かな希望を辿りながらの逃避行だったかと。・・・
      ※ 同年10月6日早朝から午前10時頃:“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢80名”が、“この日の早朝に、野中村付近を出発する”・・・と、「椎名(現千葉県旭市椎名内)」や、「神宮寺(現千葉県旭市神宮寺)」、「東小笹(現千葉県匝瑳市東小笹)」、「下富谷(現千葉県匝瑳市八日市場下富谷)」を経て・・・“この日午前10時頃”には、“八日市場の福善寺(現千葉県匝瑳市八日市場イ)に至る”・・・しかし、“住職が当時不在中だった福善寺側”が、“水戸諸生党勢の境内立入りについてを、拒否したため”・・・“水戸諸生党勢は、境内前の本道に上って休憩に入り、勝手に昼飯の支度を始めてしまう”・・・が、“この時既に、総勢80名の内20名が負傷していた”とされる。・・・“隊を率いた市川弘美が、其処で水戸藩から差し向けられた追手が迫るとの情報を得る”・・・と、“この状況では、全員が討ち取られると判断した市川弘美”が、“隊士全員を、本道に集めて”・・・
      「・・・東京を目指すは、不可と相成り」・・・と、その理由を述べて、“自ら諸生党を解散すること”を「宣言」し、また・・・「各自に金子(きんす)を渡すので、それぞれ落ち延びよ」・・・と命じるが・・・それでも、“最期の時まで戦い抜くと、この命令に従わない者が20数名あり”と。・・・この状況に際し・・・“市川弘美や、朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)、筧政布(※通称は助太夫)の元家老三人が、彼ら20数名の説得を図る”・・・も、“尚も彼ら20数名の意志は固く、結局は市川弘美らとともに、最期の戦いに臨むこととなった”・・・そして、“福善寺の周辺には人家が多く、戦闘に及べば付近住民へ迷惑を掛けてしまうとする市川弘美ら”が、“寺の裏山から北側へと抜けた、松山村(現千葉県匝瑳市松山)と中台村(現千葉県匝瑳市中台)辺りを、最期の戦場に選んだ”と。・・・程なくして、“水戸藩から差し向けられた水戸諸生党勢追討軍(※純真隊とも)約500名”が、「福善寺」に「到着」した。
      ・・・“その一番隊長は、尼子扇之助(あまごせんのすけ)”・・・“二番隊長は、松延喜之助(まつのべきのすけ)”・・・“三番隊長は、河西辰次郎(かわにしたつじろう)”・・・ここで、“福善寺に留まっていた水戸諸生党勢の負傷兵ら”が
(・・・※仲間を遠ざけるための時間稼ぎであったのか? また、自ら死に急いでいたのか? などについては、定かではないものの・・・)、追討軍兵へ向かって斬り掛かり”・・・“これに挑発された格好の追討軍が、水戸諸生党勢の負傷兵らが籠る福善寺に向けて火を放つ”・・・と、“追討軍を斬り付けた負傷兵ら10名”が、「焼死」した。(・・・※結局のところ、この地域住民に迷惑を掛けまいとする市川弘美らの思いとは、真逆と結果になってしまうことに。・・・)この後の市川弘美ら水戸諸生党勢が、西方寺墓地(・・・※現千葉県匝瑳市中台にある脱走塚と呼ばれる場所か?・・・)へ「布陣」する・・・と、“諸生党隊士5名”が・・・
      ・・・“その手前にあった龍性院(現千葉県匝瑳市中台)近くの山中で待ち伏せて、追討軍の尼子一番隊が来ると同時に、斬り込み突撃を始めた”
・・・“この5名の内の一人については、豆を絞る時のような鉢巻きをした若武者であって、馬上の人だったが、この時に銃弾を受けて即死した”と伝わっております・・・が、この馬上の若武者は、朝比奈泰尚の甥であり、その養子にもなっていた「靱負(ゆきえ)」であったのではないか? と考えられています。・・・いずれにしても、“この斬り込み突撃によって”・・・“水戸諸生党勢追討軍(※純真隊とも)の尼子一番隊”が、“ごく至近距離に、水戸諸生党勢の残党らが居ること”を「察知」し・・・“庚甲塚(こうしんづか)辺り”を、その「本陣」とした。(=松山戦争)・・・「庚甲塚」とは、そもそもは・・・“古代中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと”ですが、「庚申塔」や「庚申供養塔」とも呼ばれます。
      ・・・いずれにしても、この条にある「庚甲塚」には、“松の大木が、当時数多くあった”と伝わっており・・・また、その松山村周辺地域で行なわれた戦争だったため、「松山戦争」と呼ばれます。・・・
      ※ 同年同日午前11時頃から午後1時頃:“西方寺墓地近くの庚甲塚辺りを本陣とした水戸諸生党勢追討軍(※純真隊とも)の尼子一番隊”が、“水戸諸生党勢の残党らに対する攻撃”を、「開始」する(・・・※この時の攻撃に応じた水戸諸生党勢の残党十数名も、必死の形相で尼子隊に突撃した”と伝わり・・・また、“この突撃に対して、一旦気後れした尼子隊の隊士が、馬印を捨てて逃げ出す場面があった”とも云います。・・・)と、“其処は、やがて多勢に無勢と云う戦況となって”・・・“時間経過とともに、反攻に転じた尼子隊が、水戸諸生党勢の残党らを、次第に追い詰める”・・・が、“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)が、白兵戦の最中に、獅子奮迅の戦いぶりを見せて、味方が次々と倒される中でも、生きることへの執着を示し(・・・※つまりは、『ここで死んでなるものか!』と。・・・)、“草場に隠れては、谷津田を走って、この戦場を離脱した”・・・
      ・・・そして、“筧政布(※通称は助太夫)に従っていたと云う黒崎雄二(※常陸国久慈郡大子出身、当時17歳、大子郷校・学監であった黒崎藤右衛門の子)”も、“兄の藤右衛門(とうえもん)や片山牛之助(かたやまうしのすけ)ら5名で以って、逃走した”と。・・・この戦いの趨勢としては・・・“西方寺墓地の陣地まで撤退した水戸諸生党勢の残党らが、更に後退を図るも、尼子隊が繰り出す鉄砲や槍によって、次々と倒されることとなり”・・・“この日午後1時頃には、その勝敗が決まり”・・・結局は、“この戦いによる水戸諸生党勢の残党らの戦死者は30名、焼死者10名、行方不明者は40名とされ”・・・“水戸諸生党を牽引した朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)と筧政布(※通称は助太夫)の元家老2名”も、「戦死」し・・・“戦死者の内5名については、負傷後の逃走中に亡くなった”と。(=松山戦争)
・・・このように・・・この日、組織としての水戸諸生党勢は、ほぼ壊滅状態に至った訳です・・・が、西暦1868年(慶應4年)3月頃から、ここまでの約8カ月間における水戸諸生党勢の軌跡を追跡すると・・・
      ・・・“北越や、会津、水戸、八日市場など約1,000㎞を、概ね徒歩で以って転戦していたこと”になります。・・・そして、人数的に云えば、水戸を出発した当初期の時点では、総勢500名以上あった”と考えられるものの・・・“最期の激戦地・八日市場では、総勢80名に激減しており”・・・また、それら80名の内の半数近い者達が、この八日市場で戦死しています。・・・次の数字については、信憑性が高い史料が無いため、あくまでも概数扱いとなりますが・・・“北越では、約160名”・・・“会津で、15名”・・・“水戸で、80名”・・・“八日市場で、30名”・・・“その他、片府田や、千葉、大子などにおける65名余り”・・・を合わせると、「350」という数を超えております。・・・そして、捕縛後に処刑された者が、70名・・・自刃や病死は、20名・・・移動途中で別れた者や行方不明者は、“100名以上”に上り、この中には・・・会津戦争中に、本隊と連絡が取れなくなって、“已む無く出羽庄内藩へ逃れた26名”を含みます・・・が、“当時の出羽庄内藩は、この26名については・・・
      ・・・“水戸藩による引渡し要求を拒んで、東京へ逃がした”とされるのです。・・・
      ・・・尚、水戸諸生党勢の構成についても、反対勢力とされる天狗党などと同様に・・・水戸藩の重臣から中下級藩士や郷士の他にも・・・医師や、神官、農民、職人などの商工町民から構成されていて、それらの出身階層も多様であり・・・“ほとんどオール・水戸藩チーム状態だった”と云えるかと。・・・そして、水戸諸生党勢の全体指揮については・・・概ねのところは、元家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)が執りましたが・・・時には、朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)や、佐藤信近(※通称は図書)、筧政布(※通称は助太夫)、大森信任(※通称は弥三左衛門、弥惣左衛門とも)なども、各隊の指揮を執っています・・・が、彼らが実際に陣頭に立って指揮を行なっていたか? については不明であり、“あくまでも陣将とされていた”ということかと。・・・また、その時々の部隊構成についても、これまた判然としませんが・・・“この松山戦争中に、筧政布(※通称は助太夫)に従っていた”と云う黒崎雄二(※常陸国久慈郡大子出身、当時17歳、大子郷校・学監であった黒崎藤右衛門の子)は・・・
      ・・・後に、「10名で一組を成した」と伝えておりますので、それに沿えば・・・“幾つかの組を束ねた部隊が存在しており、それを元家老や若年寄らが分担し指揮を執った”という可能性は考えられます。・・・
      ・・・更には、北越戦争関係史料とされる『戊辰役戦史』や『会津戊辰戦史』などを視てみますと・・・会津藩からは、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら水戸諸生党勢のことを「水戸藩脱走兵」と表現しており・・・あくまでも、“会津藩指揮下という前提で以って、主戦に臨んでいたこと”が窺えるのです。・・・尚、これらの北越戦争関係史料において、隊名として実際に登場するのは・・・「市川隊」や、「朝比奈隊」、「筧隊」の他にも・・・「伊藤隊」が視られます。・・・この「伊藤」とは、「伊藤辰之助(いとうたつのすけ)」のことであり、市川ら3名の元家老達よりも数多く、これらの文献上に見られます・・・が、水戸諸生党勢が会津藩兵とともに北越から会津へ引き揚げる時期を境に、突如として文献から、その名が消えてしまうのです。・・・そこで、この「伊藤辰之助」という人物を調べてみますと・・・『水府系纂(すいふけいさん:※水戸藩の藩士系譜を収録した史料のこと)』によれば・・・
      ・・・西暦1864年(元治元年)の“天狗党 V.S 諸生党の戦い”で活躍し、那珂湊など各地で戦功を挙げ・・・同年10月24日には、諸生党が主導していた当時の水戸藩から、100石を賜って「馬廻組」となっていますし・・・「北越戦争」でも、“新政府軍を打ち負かし、鬼と呼ばれるほどの勇猛ぶりを発揮した”という記述が遺っているのですが・・・奥羽列藩同盟軍が新政府軍に敗れると、今度は二十数名の同志達とともに伊勢桑名藩の神風隊に参加し・・・出羽庄内藩兵などと合流してからは、会津から出羽鶴岡(現山形県鶴岡市)へ向かったようです。・・・そして、新政府軍が会津城を落城させると・・・庄内藩によって、鶴岡城下に近い大山(現山形県鶴岡市大山)の民家で、暫らくは匿われたようですが・・・“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら諸生党の目的地とされる東京へ、後に逃がされた”とのこと。
      ・・・更には、この伊藤辰之助は、明治新政府の下で警官となり、当時の西郷隆盛(※改名前は吉之助、元薩摩藩士)に共鳴してからは、この西郷隆盛派の密偵として働いて・・・結局は、“東京における西郷派の決起に加わろうとして逮捕された”とされ・・・やはり、それ以降については詳細不明となりますが。
      ・・・それにしても、“この松山戦争で散り散りとなったと考えられる行方不明者40名”は、その後どうなったのでしょうか?・・・市川弘美については、以下のように、判明していることもあるのですが・・・。・・・
      ※ 同年同日午後1時頃以降のこととして:“それまで水戸諸生党勢を率いた市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)”が、“その右腕に深手を負っては居たが、自ら血路を開いて”・・・“南西に一里ほどの距離にある高野村(現千葉県匝瑳市高野)に暮らす旧知の剣客・大木佐内(おおきさない)を頼った”と。・・・「市川弘美」は、“その大木宅にて、手当を受けた後”・・・“夜になってから、小舟に乗り、現地の湿地帯を渡って”・・・“其処の松林の中に、仮小屋を作り”・・・と、“其処で暫らくを過ごした”と。・・・この時の市川弘美は、一人で当座の隠れ小屋を確保したようです。・・・既に「弘道館の戦い」では、二人の息子を失なっておりましたので。・・・
      ※ 同年10月9日:“水戸諸生党勢の残党らを、ほぼ壊滅させた水戸諸生党勢追討軍(※純真隊とも)”が、“25名の水戸諸生党員の首級を携えて、この日に八日市場を発ち”・・・「銚子」へと向かう。・・・しかしながら、この時の水戸諸生党勢追討軍(※純真隊とも)は、「松山戦争」が収束するまでの間に、その行動に周辺住民らに対する乱暴狼藉を伴なっていたようでして・・・“各地元から反感を買ってしまった”と云います。・・・そして、水戸へ帰還する途中期となる当時の銚子では・・・『高崎藩記』によれば・・・“水戸諸生党勢追討軍(※純真隊とも)兵らが、田中玄蕃(たなかげんば:※ヒゲタ醤油の創業家)など地元有力者らの七軒と、宿泊先とされた宝満寺(現千葉県銚子市台町)に対して、抜刀して押し入り、合計一万三千七百両の他、衣類や刀剣類が強制的に奪われた”とも。・・・また、“これらのような負の記憶を基として”・・・“やがては当時の水戸諸生党勢に対する同情心へと繋がり”・・・“翌西暦1869年(明治2年)5月には、現地に供養塚が建立される”に至った模様です。
      ・・・ちなみに、“この供養塚を建立したのは、当時の中台村の人々であった”と云われ・・・当時の村人達は、首を落とされた遺体を丁重に埋葬し、「戦死二十五人墓」との墓石を立てて供養し・・・後の西暦1926年(大正15年)4月には、この戦跡:「脱走塚」に、地元有志が中心となって、「水戸藩士志士弔魂碑」を建立。・・・尚、その碑文は、「松山戦争」の戦没者であった朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)の縁者であり、当時の操觚界(そうこかい:※出版界やジャーナリズムのこと)において、「徳富蘇峰」とも並び称される朝比奈知泉(あさひなちせん)による文章となっております。・・・その内容は、私情と云うものが極力抑えられており・・・「生父、伯叔父と従兄皆国難に斃る。今翁に頼りて一門奮闘宗家陣歿の跡を審らかにしたり」・・・と記されています。・・・更に、その後の西暦1966年(昭和41年)10月には、“松山戦争から100年を記念する百年祭”が、当時の八日市場市によって行なわれており・・・水戸からは、代表者が参列して、「脱走塚」と呼ばれる墓前に梅樹を植えて、慰霊の意を表しております。
      ・・・“これら水戸藩を廻る苛烈な党争終末の地”は、様々な想いを後世に語り掛けているようです。・・・

      ※ 期日を特定する記述不可《※同年10月10日頃から翌西暦1869年(明治2年)2月25日頃に掛けてか?》:“筧政布(※通称は助太夫)に従っていたという黒崎雄二(※常陸国久慈郡大子出身、当時17歳、大子郷校・学監であった黒崎藤右衛門の子)や、兄の藤右衛門、片山牛之助ら5名”が、“登戸駅(のぼりとのうまや:現千葉県千葉市中央区登戸)へ向かうため、頭髪や装いを商人風に整えて”・・・「成田参詣のために、下野烏山(からすやま)から来た」・・・と、“新政府軍兵らの尋問を躱(かわ)したため、黒崎兄弟二人は無事に東京へ入ることが出来た”・・・が、“この時期に、逃亡に成功する者もあれば、捕縛された後に処刑される者もあった”と。・・・ちなみに、現千葉県域では・・・筑後久留米藩兵に、水戸諸生党勢の残党7名が殺害されておりますが・・・その内の5名については、大嶺摠七郎(おおみねそうしちろう)らの水戸出身者であって・・・残りの2名は、陸奥守山藩と新撰組(※新選組とも)の人です。
      ・・・尚、豊栄村(現千葉県匝瑳市飯倉)では、傷を負った水戸諸生党勢の残党3名も、首を刎ねられており・・・また、同年10月11日には、水戸諸生党勢の残党1名が、下総多胡藩士に多古村(現千葉県香取郡多古町多古)にて捕まり、後に水戸藩へ引渡され、故郷・水戸で処刑されています。・・・高野村に暮らしていた剣客・大木佐内については、松林の仮小屋で匿っていた市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)に対し、食事などを時折運んで援助していました・・・が、やがて周辺住民に勘付かれたため・・・この二人が共に、当時の唐辛子売りに変装して、東京を急遽目指すこととなり・・・市川(現千葉県市川市)まで来ると、捕吏による探索が更に厳しくなったため・・・ここで二人は別行動することに決めて・・・“市川弘美については、首尾よく東京に潜入しました”・・・しかし、市川で別れた大木佐内は、自宅がある高野村へと帰っております。
      ・・・それでも・・・その後の大木佐内は、“密告によって捕まり、水戸へと送られ、赤沼獄にて拷問を受けた”・・・ものの、“市川弘美の行方については、一切口を割らなかった”とされており・・・“東京に潜入出来た市川弘美は、「久我三左衛門(くがさんざえもん)」と変名し、三女の徳(とく)が嫁いだ芝三田・宝徳寺(現東京都港区三田4丁目)に身を寄せた後に、青山百人町の剣道師範・島上源兵衛(しまがみげんべえ:※源五郎とも)宅に潜伏とていた”・・・が、“この頃の水戸藩が、市川弘美の行方についてを、尚も探索し続けて”・・・“ようやく市川弘美の潜伏先を突き止めた”とされます。
・・・ちなみに、赤沼獄にて拷問を受けた後の大木佐内は・・・八日市場の「文武館」で、子弟教育に励んで・・・西暦1925年(大正14年)に亡くなっています。・・・また、八日市場にある福善寺には、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎(かのうじごろう)の書による「文武両道大木佐内先生の碑」と呼ばれる顕彰碑が建てられてもおります。・・・
      ※同西暦1868年(明治元年)10月13日:「明治天皇」が、初めて「東京」に「行幸」する。(=東京奠都〈とうきょうてんと〉)・・・「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられてから、約半年後の出来事でした・・・が、ここにある「奠都」と、いわゆる「遷都(せんと)」の語の使い方を巡っては、尚も議論があるところですが、一義的には・・・「奠都」とは、“都を定める事を表す”のに対して・・・「遷都」とは、“都を移すこと”を云う・・・とされ、天皇や政治中枢機能などの移動が伴なっていれば・・・“実質的には、ほぼ同じ意味”・・・とされており、この当時の場合には、そもそもとして旧都とされる京都の廃止が含んでいるのか?含んでいないのか? が論点となっています。
      ・・・これについて、私(筆者)の見解を述べさせて頂ければ・・・明治天皇が、この日に改称後の東京へ実際に行幸されて、約半年前の宣言を、実態として体現したという体裁となり・・・また、同年4月21日の東京には、既に「大総督府」が置かれていた訳でありまして・・・たとえ、“この後の明治天皇が、一旦京都へ還幸す”と、されてはいても・・・翌年(明治2年)以降は、明治天皇が、その崩御時まで東京に居住していたことなどから考えれば・・・「奠都」≒「遷都」と考えても良いのではないか? と考えます。・・・ちなみに、西暦1872年(明治5年)5月以降は、天皇が京都へ戻る際の語としては・・・「還幸」ではなく、「行幸」が使用されておりますし。・・・
      ※ 同年10月23日:“江戸鎮台と会津征伐大総督を拝命していた有栖川宮熾仁親王”が、“両職の辞表”を、「明治天皇」へ「提出」し・・・同年10月25日に、「帰洛」する。・・・“江戸や会津方面の鎮圧や平定が為されたという判断で以って、これらの辞表を提出し”・・・「帰洛」つまりは、“京都へ戻られた”ようです。・・・

      ※ 同年11月3日夕刻:“フランス・ルセイユを同年9月4日に出帆していた徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、この日の夕刻に「帰朝」し、「神奈川」に「上陸」する。・・・水戸藩古参の者達からすれば・・・“若君が、ようやく天皇が治める日本本土に戻られたそうじゃ!!!”・・・という感覚だったかと。・・・現代人が考えるような「帰国」とは、“あくまでも故郷・水戸入国の時だった”でしょうから。・・・
      ※ 同年11月18日:“フランスから帰朝した徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、“先代水戸藩主・故徳川慶篤(※諡号は順公)の養子”とされる。・・・これらを、云わばエスコートした立役者は、当然に・・・異母兄であり、駿府で隠居していた徳川慶喜公。・・・そして、このエスコートを後押ししたのは・・・いち早く新政府側に恭順した元尾張藩主・徳川慶勝(※改名前は慶恕)公らだったかと。・・・
      ※ 同年11月23日:“先代水戸藩主・故徳川慶篤(※諡号は順公)の養子とされた徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「明治天皇」に「拝謁」し・・・“諸外国の事情について”を、「説明」する。『明治天皇紀(吉川弘文館)』より・・・この時の徳川昭武は、数えで17歳。
      ※ 同年11月24日:「明治新政府」が、“先代水戸藩主・故徳川慶篤(※諡号は順公)の養子とされた徳川昭武(※最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)に対して、箱館賊徒追討を命じる事”を「決定」する。『水戸藩資料(吉川弘文館)』より・・・ここにある「箱館賊徒」とは、榎本武揚(※通称は釜次郎、号は梁川、変名は夏木金八〈郎〉)ら旧幕府軍などから成る反政府勢力のことでありますが・・・数えで17歳であり、フランスから帰朝したばかりの若君・徳川昭武に対して、再びの追討命令が下されると、この日決められたのです。・・・“かつての天狗党勢鎮圧の際のように”・・・そして、当時の維新政府にしてみれば・・・“朝廷の覚え目出度き水戸藩出身の若君を以って追討に率先して働いてくれれば、もし水戸藩の人的損害などが甚大となっても、それはそれで良し”と。
      ・・・当時の水戸藩(水戸徳川家)にしてみれば・・・この若君を少数で以って送り出し、結果だけは大きな戦功を期待するという訳にもゆかず・・・かと云って、藩内の「除奸反正」については、完全と云える状況ではなく・・・その領内や支藩なども、それらの社会全般が、かなり疲弊しており・・・“兎にも角にも、もはや試練の一つとして、降り掛かる多くの苦難を乗り越えるほか無い運命だった”かと。・・・
      ※ 同年11月25日:“先代水戸藩主・故徳川慶篤(※諡号は順公)の養子とされた徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)”が、正式に「水戸藩」を「襲封」し・・・「第11代水戸藩主」となる。・・・ちなみに、先代水戸藩主・故徳川慶篤(※諡号は順公)には、長男の篤敬(あつよし)がおりました・・・が、“この篤敬より僅かに2歳年長”であり、しかも・・・“かつては他家(※徳川御三卿の清水家のこと)の養子にされていた経歴を持つ実弟・昭武を何故に?” という疑問が湧きますが・・・そもそもとして・・・“長男の篤敬に代えて、実弟・昭武を自家へ戻し、藩主を継承させる”という変則的な事態に至った背景には・・・当時の水戸藩庁(=水戸城)の中心勢力であった本圀寺党が、それまでの3年間を諸生党などの門閥保守派の傍で養育されていた篤敬を、直ちに水戸徳川家当主とする事に対して、躊躇したのではないか? という説があります。
      ・・・しかしながら、これは・・・この徳川昭武が・・・西暦1864年(文久4年)1月の時点でのこととなりますが・・・“昭武が、数え年で僅か12歳の時、京都に入り、既に本圀寺党勢の名目上の頭首(=党首)とされていたため”です。・・・尚、この条にあるように・・・徳川昭武は、当時の世情不安などを背景として、“自身よりも2歳年下の甥に代わって、水戸徳川家の家督を相続しました”が・・・これもまた・・・当時の昭武がパリ留学中だったことなどを理由として・・・藩主・慶篤の死については・・・表向きには、“水戸藩庁(=水戸城)内における重病扱い”とされ・・・“翌月の西暦1868年(明治元年)12月まで、藩主・慶篤の喪そのものが伏せられていた”のです。・・・
      ・・・そして、この徳川昭武の甥・篤敬は・・・“版籍奉還以後の話”となりますが・・・昭武の養嗣子とされ・・・篤敬が陸軍士官学校を卒業した後の西暦1879年(明治12年)に、養父の昭武同様に、フランスへ留学しており・・・西暦1883年(明治16年)には、養父・昭武の隠居によって、水戸徳川家の家督を継ぐこととなります。・・・その後には、「イタリア特命全権公使」や「式部次長」などを歴任し・・・西暦1893年(明治26年)には、「大日本写真品評会会長」に就任。・・・尚、徳川昭武が篤敬へ水戸徳川家家督を譲って隠居した後に、次男の武定(たけさだ)を儲け(※長男の武麿〈たけまろ〉は早世)・・・西暦1892年(明治25年)の特旨によって、武定に対して「子爵」が授けられ、「松戸徳川家」が創設されることになります。・・・
      ・・・また、先代水戸藩主・故徳川慶篤(※諡号は順公)には、次男の篤守(あつもり)もおりました・・・が、昭武の水戸徳川家相続により当主不在となっていた元徳川御三卿の清水家を、この篤守が継ぐことになったのです。・・・

      ※ 同年内:“駿府で隠居していた徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)”が、「船橋鍬次郎(※旧幕臣、一説には写真家・中島仰山とも)」に・・・“京都の旅舎における自像や、旅館の内厩、愛馬の飛電、二条城内、二条城本丸(鶏卵紙四ツ切)”を、「撮影」させる・・・とともに、“徳川慶喜自身”が、“船橋鍬次郎に付いて”・・・更に「写真術」を「研究」する。・・・また、「明石博高(あかしひろあきら:※名は博人、号は静瀾)」が、“徳川慶喜から、オランダより写真器械を購入することを乞われる”・・・と、“この明石博高が、我が国初の大板撮影を行なって”・・・“その印画”を、「徳川慶喜」へ「献上」した。(※『日本写真史年表』より)・・・ここにある「明石博高」とは、京都生まれの人であり、“幕末明治期の医師や、化学者、衛生学者、殖産家とされ”・・・主に「理化学」や「薬学」を研究し・・・この西暦1868年(明治元年)には、御所内への病院開設の他に・・・養蚕場や、牧畜場、学校、授産所などの創設にも尽力し・・・
      ・・・西暦1874年(明治7年)には、京都で日本最初の医師免許試験の実施についてを提言しており・・・“後の西暦1877年(明治10年)のコレラ流行に際しては、2年後の再流行を予言して、検疫制度の採用を提案するなど、公衆衛生を始めとする、多くの殖産事業に挺身する”・・・も、“私財を消費し尽くすこととなり、一人の開業医として失意のうちに没す”と。・・・何だか・・・私(筆者)が、本ページ執筆中の世相と似ているような気が?・・・【※本ページ執筆時期は2020年(令和2年)3月のコロナ・ショック時です】・・・

・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】