街並と天空   

『 夢と夢をつなぐこと・・・ 』

 それが私達のモットーです。 ~トータルプラン長山の仲介~ 

    

ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】



・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      【近世Ⅰ】《一所懸命と本領安堵》
      ※ 西暦1570年(元亀元年):この年は、織田信長(おだのぶなが)と徳川家康(とくがわいえやす)の連合軍によって、「姉川の戦い」や、対一向宗徒との「石山合戦」が始められた年であり・・・
      ・・・常陸では、当時・・・「鬼義重(おによししげ)」や、或いは「坂東太郎(ばんどうたろう)」などと呼ばれていた佐竹義重(さたけよししげ:※18代目佐竹宗家当主)が、“関東における後北条氏や、南陸奥の白河氏などと勢力争いを繰り広げ、まさに日夜に亘る交戦の最中”にありました。・・・“この佐竹義重は、早くから織田信長と友好関係を結んで”おり・・・武田信玄(たけだしんげん)の嫡男とされた勝頼(かつより)が・・・“佐竹氏と同じ清和源氏の誼(よしみ)を以って、信長や家康へ対抗しよう”・・・と、義重に協力を求めた際にも・・・義重は、“これを拒否”しています。

     ・・・尚、“この年には、後に「天英公(てんえいこう)」と呼ばれることとなる佐竹義宣(さたけよしのぶ:※後の19代目佐竹宗家当主)が誕生し・・・“まさに、戦国の世に産声(うぶごえ)を上げた”のでした。・・・


      ※ 西暦1574年(天正2年):“織田信長の奏請”により、「佐竹義重」が、「従五位下(じゅごいのげ)」及び「常陸介(ひたちのすけ)」に、「補任」される。


      ※ 西暦1582年(天正10年)6月2日:「本能寺の変」によって、“織田信長が斃(たお)される”と・・・
      ・・・「佐竹義重」は・・・“「賤ヶ獄(しづがだけ)の戦い」にて柴田勝家(しばたかついえ)を破り、天下人への足掛かりを掴んだ羽柴秀吉(※後の豊臣秀吉のこと)の元”へ・・・「戦勝祝いの使者」を、いち早く「派遣」する。
・・・このように・・・義重の嫡男である佐竹義宣が、後の豊臣政権との親交を更に深めるキッカケは・・・父の義重と織田信長との友好関係に遡ることが出来る訳です。


      ※ 西暦1585年(天正13年):“元服を済ませた佐竹義宣”が、“下野国那須郡(現栃木県那須烏山市)の烏山(からすやま)城主・那須資胤(なすすけたね)の娘(※後の正洞院のこと)”と、「結婚」する。・・・これは、佐竹義重と那須資胤との間で交戦中だった頃の和睦条件として、那須資胤の娘を義宣の妻に迎えることや、佐竹氏と那須氏との軍事同盟の証として、人質という意味合いなどがあったためですが・・・。
      ※ 同年(天正13年):「豊臣秀吉」が、「関白(かんぱく)」となって、「豊臣氏」を名乗り始めると・・・“豊臣秀吉と佐竹義重との親交は、嫡男である義宣へと、徐々に継承される”こととなり・・・


      ※ 西暦1586年(天正14年)~1589年(天正17年)頃:「佐竹義重」が・・・“あくまでも表向きに隠居し、嫡男の義宣に家督については譲ったものの、尚も実権を伴なう格好で、義宣の後見役”に、就く。
・・・“この期間は、佐竹氏宗家における当主交代のための、政権移行期間だった”と云えます。・・・この頃の佐竹氏(≒佐竹家)とすれば、自己勢力圏が拡大し続けていたため、それに伴ない佐竹家臣団も大所帯となり・・・それまでは、一門衆や分家庶流と呼ばれる同族の者達を中心に取り仕切っていた事案についても、新たに家臣加わった者達も関わる支配体制の構築を急いでいた訳です。・・・短的に云えば、守護大名から戦国大名への脱皮期間でした。・・・この家臣団再編については、“佐竹氏宗家のみの人員が増員された訳ではなく、政治的且つ社会的なバランス感覚を持って、現実に行なわれていた”と考えられます。・・・佐竹氏族全体から見れば、“当然の如く同族家系を多く含んでいたため、かつては長年(※佐竹氏4代に亘る約100年間)続けられていた「山入一揆(※山入の乱とも)」などの佐竹氏宗家の跡目争いが発生し易くなって、いわゆる戦国大名化が遅れてしまう要因ではあった”とは想います。・・・そして・・・確かに、この頃の佐竹義重・義宣親子としても、“時の豊臣政権を後ろ盾とし、佐竹氏宗家を中心軸に据えて、家臣団の再編を図っていた”とは云えますが。・・・いずれにしても、支配領域の拡大や家臣団の大型化などは、従前からの軍制だけではなく、様々な分野における意思決定の方法においても、当然に佐竹家中を複雑化させることとなり・・・次第に、体制そのものを変革せざるを得ない状況が生まれるため・・・“これらに適応出来るシステム作りに、義重親子がともに取り組んでいた期間だった”と云えるのかも知れません。
      ・・・また、このことによって・・・佐竹義宣は、徐々に領内における争い事の仲裁などの差配や、外交や軍事の表舞台に立たされることとなり・・・父である義重の前に、常に立ちはだかる障害だった後北条氏や、伊達氏との抗争の真っ只中に、その身を置くことになります。・・・特に、佐竹義宣と伊達政宗(だてまさむね)とは、年齢も近く、血縁も近い従兄弟(※義宣の生母は政宗の叔母)だったにもかかわらず・・・両者による睨み合いは、熾烈さを極めることとなって・・・もしも、大決戦ともなれば、どちらか一方が滅亡するのではないか? という危険性を含み始めていた矢先・・・


      ※ 西暦1589年(天正17年)11月28日:「佐竹義宣」が・・・“天下統一目前の豊臣秀吉から、小田原において尚も抵抗していた北条氏直(ほうじょううじなお)に対する出陣命令を受ける(=小田原征伐への出陣命令)”も・・・“南郷(※現福島県南西部のこと)において伊達政宗と対峙中だった”ため・・・この命令に直ちに従うことが出来なかった。


      ※ 西暦1590年(天正18年)5月内のこととして:“小田原征伐のため豊臣秀吉自らが京を出立したという知らせを受けた佐竹義宣”が・・・“自身の与力大名であり従兄弟でもあった宇都宮国綱(うつのみやくにつな)とも対応を協議した後”に・・・“いち早く小田原へ参陣するためとして、自身に直属する約3千の将兵達や、表向き隠居の身だった父・義重の軍勢及び宇都宮国綱の軍勢を含めた総勢1万名余りを率いる”・・・と、“後北条氏方の諸城を落としつつ、小田原”へと、「進軍」する。
      ※ 同年5月25日:“豊臣政権の石田三成(いしだみつなり)”が、“佐竹義宣の一門衆だった佐竹義久”へ宛てて・・・“義宣が豊臣秀吉に謁見する際における心構えについてを述べた文書”を・・・“使者の島清興(しまきよおき:※通称は左近とも)”に届けさせる。
(※『秋田藩家蔵文書』より)・・・このように、佐竹義宣の豊臣秀吉への謁見に関しても、或る意味で仕切っていたのが、取次役とされた石田三成であって・・・この後にも、佐竹家と密接な関係を築くことになったのです。・・・
      ※ 同年5月27日:「佐竹義宣」が、「豊臣秀吉」に「謁見」して、「臣下の礼」を採る。

      ※ 同年6月16日~翌7月16日:“佐竹勢として佐竹義宣及び佐竹義重、宇都宮国綱の軍勢”が、“石田三成が指揮する忍城(おしじょう:現埼玉県行田市本丸)攻め”に加わり・・・“これを水攻めとするための堤防構築”に、「従事」する。
・・・この時の籠城側総大将は、成田長親(なりたながちか)です。・・・小説や映画にもなりましたね。

      ・・・“やがて、数十万の大軍から総攻撃を受けた小田原城(現神奈川県小田原市城内6)が、ほとんど無血にて開城させられると、後北条氏が滅亡すること”になり・・・
      ※ 同年7月19日:「豊臣秀吉」が、「宇都宮国綱」とともに「下野国宇都宮」へ陣を移して・・・“小田原征伐に参陣した東北地方の諸大名の処遇について”・・・を、「決定」する。
・・・“豊臣秀吉による国内統一事業は、これを以って完成した”とされており・・・特に、このことを「宇都宮仕置」とも云います。・・・ちなみに、このように呼ばれるのは・・・“かつての源頼朝が、奥州合戦の際の西暦1189年(文治5年)7月19日に鎌倉を発った後、宇都宮大明神(うつのみやだいみょうじん:※現在の宇都宮二荒山神社〈うつのみやふたあらやまじんじゃ〉のこと、現栃木県宇都宮市馬場通り一丁目)に奉幣し、奥州を平定した”という「故事」に倣って・・・“後世の豊臣秀吉も、この故事と同日の7月19日に鎌倉を発ってから、宇都宮城(現栃木県宇都宮市本丸町)において主要な仕置を行なったため”だとか。

      ・・・いずれにしても、この後の佐竹義宣は、“豊臣秀吉による奥州仕置(おうしゅうしおき:※奥羽仕置とも)などにも従う”こととなり・・・
      ・・・佐竹義宣が、“伊達政宗と予(かね)てから領地争奪戦を繰り広げていた南奥羽(※滑津や赤館、南郷)についても、佐竹氏の知行地として、豊臣秀吉から正式に認められる”こととなって・・・結局のところは、“従兄弟同士でもあった義宣と政宗との領地争奪戦については、永久に中断されること”になります。

      ※ 西暦1590年(天正18年)7月5日:「徳川家康」が、「豊臣秀吉」によって、“滅亡した後北条氏旧領の関八州(=武蔵国、伊豆国、相模国、上野国、上総国、下総国、下野国の一部、常陸国の一部)”へ、「転封」される。

       ・・・ここで、この時点(※西暦1590年〈天正18年〉8月1日のこと)における、“佐竹氏族全体の直接的な所領地を合計しておきます”と・・・本領だった常陸国(但し結城氏の領地を除く)及び下野国(しもつけのくに)の一部・・・つまりは、“豊臣秀吉から、計21万貫余り(≒35万石余り)を、知行として安堵(あんど)する旨の朱印状(しゅいんじょう)が与えられた訳”です。


       “この時の朱印状について”は、概ね下記の通り。

       ① 110,000石は、佐竹義宣分として。
       ②  10,000石は、佐竹義重分として。
       ③  10,000石は、佐竹義久(さたけよしひさ)分として。
       ④ 128,800石は、与力家来衆(よりきけらいしゅう)分として。(※)
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      合計 258,800石(≒21万6,758貫文)

      上記の朱印状の内容によれば・・・“佐竹義宣及び義重親子の知行分と(佐竹)一門衆筆頭とされた佐竹義久知行分と、(佐竹)与力家来衆分との割合を比較すると、およそ50.23% 対 49.77% となる”ため・・・この当時の領主権力としては・・・“長らく北関東に盤踞していた佐竹宗家は、守護大名としての形態を依然として踏襲しており、いわゆる戦国大名への転換が図られ難かったため、その軍事及び経済的な基盤について豊臣政権下における西国地方の大名家と比較すれば、脆弱だった”と云わざるを得ません。
       尚、上記④の(※)(佐竹)与力家来衆には、“一門衆筆頭の佐竹義久を除く他の(佐竹)一門衆や、元を正せば佐竹氏に遡る分家や庶流の氏族が多く含まれており、更には豊臣秀吉に服従せずに独立領主の道を閉ざされていた勢力なども、佐竹氏配下として、ここに編入されている”ことからも・・・“佐竹家中における各氏族らの家臣化という課題も、依然として不十分だった事が読み取れる”のです。

      佐竹義宣は、“上記朱印状による所領安堵の直後から、豊臣秀吉の後押しを背景として、常陸国全域へ自家勢力の支配を及ぼそうとの意図を明確にし始める”こととなり・・・まず、“自らの居城を、佐竹氏族の故城とも云える舞鶴城(※別名は、太田城、佐竹城、青龍城とも)から、馬場城(※別名は水戸城、水府城とも)へ移すという計画”を定めます。

      ・・・いずれにしても、このような情勢下において・・・
      ※ 西暦1590年(天正18年)12月19日:“当時の馬場城(※別名は水戸城、水府城とも)を自らの居城としていた江戸重通(えどしげみち)”が・・・“豊臣秀吉の内意を受けた格好で、常陸国の支配権を認められた佐竹義宣”により、「追放」され・・・“結城晴朝(ゆうきはるとも:※下総結城氏17代当主)の下へ”と、落ち延びる。
・・・この時の江戸重通が、佐竹家から追放対象とされた理由は、“以前の小田原征伐の際に、豊臣秀吉方に参陣しなかったため”とされます。
      ※ 同年12月20日:「佐竹義重」が、“この前日に追放処分とされた江戸重通に属していた18カ所の砦”を、「陥落」させる。・・・前日の馬場城攻略及びこの日の砦攻略が、表向き隠居の身である筈の佐竹義重によって実行されたのは、“佐竹宗家当主の義宣が上洛中だったため”です。
      ・・・すると、豊臣秀吉からの内意を背景としていた佐竹義重は・・・「これに続け!」・・・と謂わんばかりに、翌日には・・・
      ※ 同年12月22日:「佐竹義重」が、「(常陸)府中城」に拠る「大掾清幹(だいじょうきよもと)」を攻めて・・・“常陸平氏の名門氏族だった大掾氏”を、「滅亡」させる。・・・
      ※ 同年12月23日:“上洛中の佐竹義宣”が、“豊臣秀吉の奏請”によって・・・「従四位下」の「位」を賜ることとなり・・・「侍従(じじゅう)」及び「右京大夫(うきょうのだいぶ)」に、「補任」される。・・・これに続いて・・・


      ※ 西暦1591年(天正19年)1月2日:「佐竹義宣」が、「豊臣秀吉」から、「羽柴姓」を、与えられる。・・・この頃の豊臣秀吉の行動が、“常陸国内における佐竹宗家による支配体制の強化を促す目的があったことや、表向きには隠居の身と黙認しつつも、佐竹義重という人物の武人や武将としての器量を認めていたこと”を、裏付けております。・・・上記の官位奏請や、豊臣秀吉の旧姓である羽柴姓などが佐竹義宣に与えられたのは、“かつての後北条氏に加担したと見做されていた江戸氏や、常陸国内の故地とも云える(常陸)府中に盤踞していた各勢力についてを、結果的にも一掃した”と云う一定の成果を、佐竹義宣が豊臣秀吉への手土産とすることで・・・今後も、豊臣家、或いは豊臣政権への忠誠を誓うと云うアピールだった訳でして・・・一方・・・これらに応じた豊臣秀吉の行動も、それらの恩賞とするとともに・・・『その路線にて、今後も励めよ!』・・・との、政治的な意味合いもあったかと。

      ※ 同年2月9日:“京から戻った佐竹義宣”が、“大掾氏に与した常陸国鹿島郡と同国行方郡に散在する鹿島氏などの国人領主達(=国人衆)15人”を・・・“舞鶴城(※別名は、太田城、佐竹城、青龍城とも)における梅見の宴”に招いて、「謀殺」し・・・“一挙に、常陸国全域に亘る支配権確立”に、「成功」する。・・・謀殺された国人領主達(=国人衆)は、当時は「南方三十三館(なんぽうさんじゅうさんやかた)」と称されていたとのこと。・・・いずれにしても、上洛して豊臣政権の強大さや堅固さなどを目の当たりにしていた佐竹義宣としては、一連の本領安堵や官位授与などにより、常陸国内統一のための大義名分及び、そのためのお墨付きを正式な格好で得られたため、自身により最終的な決着を図ったかと。・・・実際に小田原征伐に参陣しない者達を常陸国内に残す訳には、いかなかったのかも知れません。・・・そして、表向きには隠居の身だった父・義重が、長年に亘り佐竹氏の主な抵抗勢力だった江戸氏や大掾氏などを討伐し、常陸国内にて既に露払い役となっていた訳です。・・・云ってみれば、常陸国内における長年のしがらみから、佐竹氏が解き放たれた、歴史的な瞬間だったのかも知れません。・・・鬼義重や坂東太郎などと恐れられていた父・佐竹義重ですら、長年のしがらみの渦中にあって、軍事力だけでは常陸国内の統一が達成出来ず、時には織田信長との交流を図るなどしていたものの・・・ここに来て、ようやく・・・関東や奥州などにも実際に何十万人もの軍勢を派兵するような全国規模の豊臣政権が出現していた訳ですから。・・・ちなみに、この時の佐竹義宣は、若干22歳。隠居の佐竹義重は、44歳から45歳となる直前の頃。
      ※ 同年2月内~翌3月20日:“既に佐竹宗家の家督を、嫡男・義宣へ譲っていた佐竹義重”が、その「実権」についても、「義宣」へ、譲る。・・・このことによって、佐竹義重は、舞鶴城(※別名は、太田城、佐竹城、青龍城とも)にて、隠居暮らしすることなり・・・この翌日以降には、佐竹義宣が自らの居城を水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)へ移したため・・・水戸よりも、少し北方にあった舞鶴城(※別名は、太田城、佐竹城、青龍城とも)に暮らす佐竹義重を、「北城様(きたしろさま)」と呼称したとのこと。・・・しかし、この佐竹義重が、本当の意味で隠居暮らし出来るのは・・・この後に本人が60歳を迎える前後だったかと。

      ※ 同年3月21日:「佐竹義宣」が、“自身の居城”を、「舞鶴城(※別名は、太田城、佐竹城、青龍城とも)」から「馬場城(※別名は水戸城、水府城とも)」へと移し・・・「一門衆筆頭・佐竹義久」に、“その馬場城(※別名は水戸城、水府城とも)の普請(ふしん:=整備拡張)を命じる”・・・と、その城の名を、「水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)」へと、正式に改める。
      ※ 同年4月内のこととして:“佐竹義宣が前居城の舞鶴城(※別名は、太田城、佐竹城、青龍城とも)へ残していた、若干24歳の正室である那須資胤の娘(※後の正洞院のこと)が、謎の自害を遂げる”という「事件」が、起こる。
・・・この謎の事件については・・・“豊臣秀吉の勘気を被った実家である那須氏と、豊臣政権下において既に有力大名となっていた佐竹氏との間柄の狭間で板挟みとなって、気を遣った末だった”という説などがあります。・・・いずれにしても、結果としては・・・一貫して豊臣政権と良好な関係を保っていた佐竹氏は、当時の困難極まりない状況を乗り切りました・・・が、“小田原征伐において討伐対象とされた後北条氏との狭間にあって、静観の構えを見せた那須氏などは、この後に滅亡してしまう”のです。・・・そして、いずれにしても、当時の佐竹氏としては・・・それまでは・・・“常陸国北面において急成長著しかった伊達氏と対峙し続け、一方の南面においては小田原征伐によって滅亡させられる後北条氏との長年に亘る交戦状況だった”のを・・・“結果としては、一挙に佐竹氏優勢状況へ持ち込めた”ものの・・・“常陸国西面にあった那須氏という友好勢力を失ってしまった”とも云えるのです。・・・ちなみに、“後北条氏に加担していた土浦(つちうら:現茨城県土浦市)の菅谷氏(すがやし)や、江戸崎(えどさき:現茨城県稲敷市)の土岐氏(ときし)、牛久(うしく:現茨城県牛久市)の岡見氏(おかみし)、守谷(もりや:現茨城県守谷市)の相馬氏などは、結果として、いずれも没落してしまう”こととなり・・・“馬場城(※別名は水戸城、水府城とも)から落ち延びていた江戸重通を、受け入れていた下総国の結城氏”は・・・“17代目の当主だった結城晴朝が、自身の後継者として、豊臣秀吉の養子だった秀康(ひでやす:※徳川家康の庶子)を申し受けることで、豊臣政権への恭順の意思を示しながら、自家の安泰を図る”こととなりました。・・・これは、自家存続のための、云わば苦肉の策だったのでしょう。・・・豊臣秀吉からすれば、江戸重通という武将が、自身の政権に反逆する討伐対象でしたから。

      ※ 同年6月内のこととして:「豊臣政権」から「佐竹義宣」に対して・・・“奥州への出兵規模が2万5千人という非常に重い軍役”・・・が、命じられる。・・・この派兵動員は、同年10月までの約4カ月間も続けられることとなりました。・・・当時の豊臣政権としても、ただただ北関東の一大名家に対して、常陸国内統一のための大義名分や、そのためのお墨付きを与えていた訳ではなく・・・“とことん利用し尽くす”という方針だったのでしょう。・・・このことを、中世の鎌倉時代的に云えば、“御恩と奉公の関係だった”かと。・・・ちなみに、この頃の佐竹氏は、徳川氏や、前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並び立てられ、「豊臣政権の六大将」と称されて、“一定の期待感を担っていた”とのこと。

      ※ 同年9月16日:「豊臣秀吉」が、“いわゆる唐入りのためとして、諸大名に対して出兵を命じる”こととなり・・・“常陸国の佐竹義宣は、5千人規模の出兵”を、命じられる。・・・この軍役については、翌年の西暦1592年(文禄元年)1月から、翌々年の閏9月までの約21カ月間も続けられることとなり、後に「文禄の役(ぶんろくのえき)」と呼ばれることとなりますが・・・

      “この当時、佐竹義宣に命じられていた5千人規模という軍役について”が、途中で・・・「御軍役役2,869人」・・・と、“肥前国(ひぜんのくに)名護屋城(なごやじょう:現佐賀県唐津市及び東松浦郡玄海町)にあった陣中”から、「通達」され・・・結果としては、“約3千人規模”に、減じられる。・・・このように、軍役そのものの規模について減免が認められた背景としては・・・唐入りの準備そのものが、当時の豊臣政権、特に石田三成を中心とした能吏達によって急ピッチで進められていたため、肥前国名護屋城周辺に布陣する各諸大名家の配置に関して、かなりの調整作業が必要となり・・・また、これに伴なって各大名家に布陣させるスペース、つまりは土地の広さや、それらの地勢などに応じて、それなりの政治的な配慮も必要とされる訳でして・・・まさに、“石田三成ら兵站分野を担う能吏達の政治的手腕が問われていた”でしょうし・・・一方の佐竹家としてみれば、“未だ政情不安定な常陸国支配を主な理由として、石田三成らの能吏達に豊臣秀吉への取次役となって貰(もら)い、豊臣政権の憶(おぼ)えが目出度(めでた)かった一門衆筆頭・佐竹義久などを通じた文書による働き掛けを、絶え間なく続けていた”ということも要因にはあるかと。・・・いずれにしても・・・


      ※ 西暦1592年(文禄元年)1月10日:“唐入りのための出兵命令に従った佐竹義宣”が、「水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)」を、「出立」する。

      ※ 同年4月13日朝:“日本軍の一番隊として、宗義智(そうよしとし:※対馬領主宗氏20代目当主、後の対馬府中藩初代藩主)”が、“李氏朝鮮(りしちょうせん:※朝鮮王朝や朝鮮封建王朝とも)の釜山鎮(ふざんちん)城郭への攻撃”を、「開始」する。
      ※ 同年4月21日:“水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)を出立していた佐竹義宣”が、「肥前国名護屋城」に、「到着」する。


      ※ 西暦1593年(文禄2年)5月23日:“予備軍とされていた佐竹義宣”が、“朝鮮半島へ渡海するように”と、命じられる。

      ※ 同年6月13日:「(佐竹)一門衆筆頭・佐竹義久」が、“唐入りの(佐竹家)先陣部隊として、1,440人”を率いて、「名護屋」を、「出陣(≒出航)」する。
・・・しかし・・・

      ※ 同年7月7日:“朝鮮半島へ渡海するため待機していた佐竹義宣”に対して・・・“渡海を見合わせるようにとの主旨の通達”・・・が、届けられる。・・・この頃の朝鮮半島各地における戦況は、既に日本軍と李氏朝鮮軍が交戦しており、その当初期には日本軍の連戦連勝が続いたものの・・・総じて云えば、一進一退という状況になって、いわゆる膠着状態に陥っておりましたが・・・奇しくも、この同日、戦局の潮流が大きく変わります。・・・そもそも海戦用の水軍組織を用いず、朝鮮半島沿岸部を西進するという作戦すら立案しなかった日本軍は、当初から陸戦部隊や後方で輸送任務に当たっていた部隊から急遽水軍を編成して、李氏朝鮮軍に対抗していたものの・・・脇坂安治(わきざかやすはる:※賤ヶ岳の七本槍の一人であり、後の淡路国洲本藩主や伊予国大洲藩初代藩主、龍野藩脇坂家初代)による、いわゆる抜け駆け戦術が、主な原因となって・・・“1,500人規模の日本水軍が、朝鮮水軍による誘引迎撃戦術によって撃破された”のです。・・・これを「閑山島(かんざんとう)海戦」と呼びます・・・が、戦局全体としては、中国から明王朝軍が進出して、各地の戦線が膠着するようになり、いわゆる休戦時期に入った訳です。・・・もしかすると、“この同日に佐竹義宣に対して渡海を見合わせるようにとの通達が届いた”という直接的な理由は、日本水軍の主力を担っていた脇坂安治の水軍部隊が壊滅的な損害を被ったため、出陣(≒出航)前の佐竹勢1,429人(=総勢2,869人-佐竹義久が率いた先陣部隊1,440人)を、渡海させるという手段そのものを失っていたためだったのかも知れません。・・・いずれにしても・・・“この日に届いた通達によって、佐竹家当主の義宣自身が朝鮮半島に渡ることは無かった”とのこと。


      ※ 西暦1594年(文禄3年)1月19日:「佐竹義宣」が、“新たに伏見城(ふしみじょう:現京都市伏見区桃山町周辺)普請”を、「豊臣秀吉」から、命じられる。・・・“この時、佐竹家分として割り当てられた普請期間は、約10カ月間であり、その規模は3千人役という労役”。・・・“後に伏見城が竣工する”・・・と、“城下の屋敷”が、「佐竹義宣」へ、与えられる。・・・当時の豊臣政権は、唐入り(=文禄の役)が休戦状態になったからと云って、北九州の肥前国名護屋から国元(=常陸国)までの帰国を、易々と許するような甘い考えは、持ち合わせてはいないのです。・・・唐入りで戦さ働きが無ければ、別の働きを見せるまで、とことん利用し尽くすまでのことなのです。・・・しかし・・・一方の佐竹家、或いは佐竹義宣個人としても、“唐入り(=文禄の役)のために整備した軍役体制を活用しながら、当時の大坂城や名護屋城、伏見城などに用いられていた石垣造り等の近世築城技術や、普請体制そのものを学び尽くすという、絶好の機会に充てられていたことは間違いなかった”と想像出来ます。・・・尚、“佐竹義宣へ与えられた”という上屋敷跡の推定地は、京都府京都市伏見区桃山福島太夫西町。現在の京都教育大付桃山小学校の東辺りとのこと。

      ※ 同年内:“西暦1591年(天正19年)3月21日から開始されていた水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)の普請”が、更に押し進められて・・・“一応の完成”を、見る。・・・今風に云えば、あくまでも予算と工期の関係に当たる事情が、当時もあったのでしょうが・・・“佐竹家、或いは佐竹義宣個人が学び取った築城技術などが、可能な限り新水戸城に盛り込まれていた”のではないでしょうか?・・・いずれにしても、“この頃の佐竹義宣は、常陸国内など佐竹家所領において実施されていた、いわゆる太閤検地(たいこうけんち)などを通じて、奥州の検地奉行などを務めていた石田三成などの豊臣政権の能吏達とも、かなりの信頼関係を築いていた模様”です。・・・そして、“この秀吉時代の豊臣政権と佐竹家との深い結び付きが、後世の佐竹家の運命を決定付けた”と云っても、過言では無いのですが・・・

      ・・・西暦1594年(文禄3年)に実施された太閤検地の結果として・・・
      ※ 西暦1595年(文禄4年)6月19日:「佐竹義宣」が、「豊臣秀吉」から、新たな「朱印状」を受領し・・・“佐竹氏支配領国が、54万5,765石”に、「設定」される。

      ※ 同年7月16日以降:「佐竹宗家当主・佐竹義宣」が、“佐竹家中の知行割りなどが、概ね下記のように”・・・「決定」し、更に・・・“従来からの領国支配体制を、一斉に見直すこと”に、「着手」する。
・・・この政策転換についてを、具体的に云えば・・・常陸国などにおいて中世室町時代から続けられていた、領国各地に散在していた佐竹氏の分家庶流氏族や、配下豪族達の一族から・・・主だった者達や、その家来衆を、水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)下に配置し、現実に水戸周辺に住まわせることで、大名たる佐竹宗家当主の各命令に、即時に応答出来る軍制などの組織作りに傾注した訳です。・・・このことは、“他の関東や東北などにあった各大名家のお手本とも云うべきもので、まさに時の豊臣政権が佐竹家に期待していたこと”ではありますが・・・“分家庶流氏族を多く含む佐竹氏分家庶流氏族や、その他配下豪族達(=麾下武将達)からすれば、大変な出来事だった”に違いありません。・・・“先祖伝来の古城周辺の土着地を離れると同時に、その古城の格付けが単なる砦の如くの役割とされ、何世代にも亘って良好な人間関係を築き上げていた在地領民達との絆(きずな)にも、大きな影響があった”でしょうから。・・・しかし、“このような時代の変化に伴なう大きな変革が齎(もたら)される際には、何十万人も動員することが出来る豊臣政権の出現を目の当たりとしていた佐竹家中の人々は、唐入り(=文禄の役)出兵や伏見城普請などを経験することで、関東や東北以外の情勢にも一段と配慮するようになり”・・・“或る意味では、若き佐竹宗家当主に協力的に、また率先して現実的な行動を採った”のではないでしょうか?・・・これらを裏付けるかのように・・・かつての「山入一揆(※山入の乱とも)」などの佐竹氏同族間での争いや、反乱一揆の類いが起きたという話は、この時期に遺されてはおりません。・・・もしも・・・この時期に、これらの類いが、佐竹領国内で勃発していたならば・・・“その時点で以って、時の豊臣政権から領国支配能力無しと結論付けられ、佐竹宗家のみならず佐竹氏族全体や配下豪族達(=麾下武将達)も一斉に改易されて、それぞれの一族郎党皆が根無し草の浪人となり、きっと豊臣秀吉子飼いの武将が佐竹家領国を引き継ぐことになっていた”のではないでしょうか?・・・しかしながら・・・史実は、このような事態には、至らなかった訳ですが・・・私(筆者)としては・・・その実力や、利用価値という観点について云えば・・・東国における過小評価することが出来ない大勢力として・・・西暦1590年(天正18年)7月5日に関八州に転封されていた徳川家や・・・佐竹氏と血縁関係もあり、かつての関東管領家を継承する上杉家・・・当主同士が従兄弟だったにもかかわらず、隣り合わせの地域に互いが盤踞していたため、領地争いで敵対していた伊達家・・・などの存在勢力自体が・・・“時の豊臣秀吉、或いは豊臣政権から認識されていた事が、佐竹家の存続に大きな影響を与え”・・・また、一方の佐竹家としても、“太閤という位まで昇り詰めていた豊臣秀吉の本意をしっかり受け止めて、その新体制構築のため懸命に、自己勢力の改革に努めていた”と考えます。・・・そして、“当時の佐竹家中のほとんどの人々が、もはや古来からの伝統や血統、土着地などへの想いだけに拘るだけでは、新時代の潮流に乗り遅れるだけで、武門家系が本来的に受け継いでいた大義名分と云う、大切な哲学まで見失いかねないと悟っていた”のではないでしょうか?・・・それでも、“城下の武家屋敷に暮らして町場などを見つつ、水戸城へ登城して軍事訓練や政務、評議などを行なうという心機一転のウキウキ生活も、それぞれが生まれ育った先祖代々の土地を離れていた訳ですから、当時の佐竹家中の人々が懐いた、チョッピリ寂しいという気持ちも想像出来る”のではないでしょうか?
      ・・・ちなみに、この佐竹家が後の江戸時代当初期に出羽国(でわのくに)へ転封されるまでの期間を、俗に「常陸佐竹氏時代」とも云いますが、その頃の佐竹家中に属した人々のお墓が、当時の水戸城下に点在していた寺院墓地などに遺っていることも多いため・・・ご自身のルーツ調べに、興味のある方のうち、現地調査が可能であり、且つ運が良ければ、ご先祖様の戒名などが彫られた墓石に巡り合うことも出来るのではないでしょうか?・・・但し、後世における戦乱や、戦後の再開発などによって、寺院墓地そのものが移転されていたり、墓石そのものが整理されて弔われている可能性もあるので・・・あくまでも、運が良ければ、ということにはなりますが。・・・それでも、各家系の宗派や、菩提寺そのものなどが特定出来れば、少なくとも俗名及び戒名には辿り着ける可能性は高いかと想います。

      ・・・いずれにしても、西暦1595年(文禄4年)7月16日以降に実施された佐竹家の知行割りは、下記の通り(※上記記述の下線部分)であり・・・在地領主と領民達との間の伝統的且つ従来からの主従関係などを、一定程度を切り離すことで、佐竹宗家の統率力や軍事組織を、更に強化したのです。

       [1] 250,000石は、佐竹義宣分として。
          このうち100,000石は、無役(むえき:※軍役賦課の対象から免除される知行高のこと)の注記あり。
       [2]  50,000石は、佐竹義重分として。この全てが無役との注記あり。
       [3]  60,000石は、佐竹義久分として。(※)
          このうち10,000石は、無役の注記あり。
       [4] 168,800石は、与力家来衆分として。
       [5]  10,000石は、豊臣家蔵入分として。
       [6]   1,000石は、代官(=佐竹義久)分として。(※)
       [7]   3,000石は、石田三成分として。
       [8]   3,000石は、増田長盛(ましたながもり)分として。
--------------------------------------------
      合計 約545,800石

      上記によれば・・・佐竹義宣及び義重親子、(佐竹)一門衆筆頭・佐竹義久の知行分と・・・(佐竹)与力家来衆分・・・の割合を、比較すると・・・およそ65.96% 対 34.04%・・・となっているため・・・いわゆる佐竹宗家の領主権力が、以前に比べると、16%程強化されていることが分かります。・・・その一方で・・・上記のように、(佐竹)一門衆筆頭・佐竹義久は、自身の6万石の他に・・・豊臣家蔵入分や、石田三成分、増田長盛分に次いで、豊臣政権の(取次役)代官として1千石を受領しており・・・これを、当時の上杉家に譬(たと)えるならば、まさに執政とされていた直江兼続(なおえかねつぐ)のような、“独立大名的な扱いとなっていた”のです。・・・このことについてを、佐竹家中から見れば、“いつ何時でも、豊臣政権に偏(かたよ)った思想の持ち主と思われかねない特殊且つ微妙な立場に置かれたこと”を意味しております。
      ・・・そして、“無役高(=軍役免除)を得た”のは・・・佐竹義宣と・・・自身の隠居を認められる格好となった佐竹義重・・・また、豊臣政権の(取次役)代官とされた佐竹義久だけ・・・であり、元を正せば佐竹氏に遡る分家や庶流氏族を多く含む与力家来衆には、これが認められておりません。・・・いずれにしても、“間断なく過大な軍役を賦課する豊臣政権の下で、佐竹宗家が16万石もの軍役免除高を保証されたことは、佐竹氏族全体にしても、実に大きな特典だった”と考えられます。・・・“西暦1594年(文禄3年)1月19日頃から約10カ月間続けられたという伏見城普請などに対する恩賞の意味があった”のでしょうか?
      ・・・尚、佐竹領内の総石高54万5千8百石に対して、豊臣家蔵入分や、石田及び増田両人の分として、計1万6千石という総石高が、割合的に少なく思えてしまいますが、然(さ)に非ずなのです。

      ・・・ちなみに、『義宣家譜(よしのぶかふ)』なる佐竹義宣の「伝記」によれば・・・
       当時の佐竹義宣は、一門衆の筆頭であり豊臣政権の(取次役)代官として任命された佐竹義久に対して、豊臣家蔵入地及び代官(=佐竹義久)分とされる村や、その村の石高などの明細を指示する「黒印状(こくいんじょう:※墨を用いて押印した上で発給した公文書のこと)」を発しており・・・これには・・・「御蔵入、久慈之郡里川東」・・・とあり、これは俗に奥七郡の一つとして呼ばれていた、佐竹氏族全体の根拠地東部に当たり・・・この地は、舞鶴城(※別名は、太田城、佐竹城、青龍城とも)と久慈川河口の間、久慈郡内を流れる里川の東部一帯にあって、旧来から佐竹氏族全体の発展を支え続けていた最も豊かな水田地帯だった訳です。
      ・・・いずれにしても・・・いくら少ない石高であろうと、当時の佐竹領内に、豊臣家や豊臣政権の能吏達への蔵入地が設置されてしまえば・・・鎌倉時代以降の佐竹氏などによって継続的に行なわれていた・・・古代から続く農業開発などに伴なう各種の生産力だけではなく、鉱山開発・・・特には、金山開発状況に関する情報封鎖が困難となって・・・結果的にも、時の豊臣政権へ筒抜け状態となってしまうのです。・・・少なくとも、中世から近世まで佐竹氏族全体の軍事力を支え続けていたのは、鉱山の開発であり・・・16世紀末の記録によれば、佐竹氏の支配下にあった常陸国は、越後や佐渡に次ぐと云われる金の産出量を誇っておりましたので。・・・したがって、時の豊臣政権によって、佐竹氏全体の軍事的強さの源泉だった鉱山開発状況についてを、間接的或いは直接的に掌握されるということは、佐竹領内すなわち常陸国において、全国的な豊臣政権による支配体制をも受け容れるということであって、つまりは・・・“これを受け容れると同時に、更に政権基盤を強化されてしまうという運命にあった”のです。・・・時の豊臣政権としては・・・あくまでも、これらの情報について、一言で云えば国力などについてを精査及び確認した上で・・・諸大名、この場合には・・・“佐竹家の存在意義や、利用価値などを判断していた”のではないでしょうか?・・・また敢えて、この頃の諸大名に関してを云えば、この太閤検地と呼ばれる制度や、時の豊臣政権から続け様に繰り出された各種の法制度そのものについてを受け容れるか否か? が、一種の「踏み絵」を踏む行為同然だった訳であり・・・もしも、これについてを、一つでも否としたり、或いは目的が達成出来なかった時には・・・お家の存続自体が否定され、即時改易となり・・・これまた即時に、一族郎党皆が浪人生活となるのです。・・・時は、唐入りと称する「文禄の役」が膠着状況に陥り、豊臣政権としては目論んでいた新たな領地獲得が、あまり期待出来なかったため・・・結果としては、“論功行賞や恩賞として与える土地そのものが不足していた”のです。・・・“全国各地における領地差配に関する能力が疑われてしまった領主勢力などは、バッサリと改易”されて・・・“朝鮮半島における働きが目覚しかったと認められた武将達などへ、アッサリと与えられていた”のではないでしょうか?


      ・・・いずれにしても、このような情勢下において・・・
      ※ 西暦1597年(慶長2年)10月内のこととして:「豊臣政権」が、“佐竹家の与力大名とされ、佐竹義宣の従兄弟でもあった宇都宮国綱”を、「改易」する。
・・・この改易処分に伴なって、佐竹家も何らかの処分を受ける可能性があったものの・・・“予(かね)てより、親交を深めていた石田三成の取りなしにより処分を免れた”と云います。・・・このことについては、『栃木県史』史料編中世三、十一号中の「佐竹文書」に収録されております。それによれば・・・

      【・・・佐竹義宣から父の義重へ宛てた同年10月7日付けの書状には・・・】
      “一旦は、佐竹家に対しても改易命令が出されたものの、結局は石田三成の取りなしによって免れた事の仔細(しさい)について”が・・・
       そして・・・『・・・佐竹義宣は、一刻も早く上洛して秀吉公に挨拶すべきだが、宇都宮氏改易を主導した浅野長政(あさのながまさ)の検使が、宇都宮領内調査のため現地へ向かっているので、それに覚(さと)られぬよう密かに上洛するように・・・。』・・・という“石田三成から(佐竹義宣へ)の内々の指示について”・・・が記されているのです。


      ・・・いずれにしても、当時の佐竹家は、自家の改易を免れたものの・・・
      ※ 西暦1598年(慶長3年)8月18日:“この日、太閤まで昇り詰めた天下人の豊臣秀吉が亡くなり、世がまた不穏な情勢”になり始める。
・・・・・・


      ※ 西暦1599年(慶長4年)閏3月3日:“豊臣政権における五大老のうちで重鎮とされていた前田利家(まえだとしいえ)”が、亡くなる。・・・・・・
      ※ 同年閏3月4日:“加藤清正(かとうきよまさ)や、福島正則(ふくしままさのり)、加藤嘉明(かとうよしあき)、浅野幸長(あさのゆきなが)、黒田長政(くろだながまさ)、細川忠興(ほそかわただおき)、池田照政(いけだてるまさ:※後に輝政と改名)の七将が、大坂城下にあった石田三成の屋敷を襲撃する”・・・も、“襲撃対象とされた石田三成が、豊臣秀頼(とよとみひでより:※豊臣秀吉の三男)に侍従していた桑島治右衛門(くわじまじえもん)の通報によって、これを事前に察知”し・・・“島清興らとともに、佐竹義宣の屋敷へ、密かに逃れること”に、「成功」する。(=石田三成襲撃事件)・・・尚、この襲撃事件の前後処理に当たった関係者として、徳川家康の書状に記されているのは・・・“加藤清正や、福島正則、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)、藤堂高虎(とうどうたかとら)ら七名となっております”・・・が、いずれにしても・・・どちらの七将であっても、この約1年半後の「関ヶ原合戦」における東軍の中核を担った武将達です。・・・尚、石田三成の屋敷跡の推定地としては・・・上屋敷跡が、京都府京都市伏見区桃山町治部少丸。現在の伏見桃山城三の丸の西辺り。・・・下屋敷跡は、京都府京都市伏見区治部町。現在の西丹波橋の西南辺りとのこと。
      ・・・ちなみに、上記文中にある島清興について・・・この島清興が、石田三成の腹心として仕えていた当時の動向については、これまで不明なことが多いとされていました・・・が、“彼が記した書状が、二通程、大阪府内の民家から発見された”と、東京大学史料編纂所及び長浜城歴史博物館によって2016年(平成28年)7月1日に発表されました。・・・それによれば、“これら二通の書状は、いずれも小田原征伐後の西暦1590年(天正18年)7月に記されたもの”であって・・・“これらを記した島清興が、小田原征伐の頃には石田三成に仕えて既に重臣クラスの立場にあった”と考えられております。・・・そして、この島清興が書状を宛てた人物は? というと・・・“一通は、佐竹義宣の外交官的な重臣とされる小貫頼久(おぬきよりひさ)へ宛てた書状”でした。・・・その内容は、“常陸平氏の名門氏族だった大掾氏が、当時の豊臣秀吉側へ人質を出すことを渋っていたため、今後の対処についてを、佐竹家側へ問い合わせたもの”であり・・・このことが、まさに・・・“かつて(常陸)府中城に拠った大掾清幹が、西暦1590年(天正18年)12月22日に、佐竹義重により攻められて滅亡した”という直接的な要因と考えられるのです。・・・もう一通については、“(佐竹)一門衆筆頭とされていた佐竹義久へ宛てた書状”であり・・・内容は、“佐竹領内における領地差配に関する方法などを、指示したもの”です。・・・いずれにしても、“当時の大坂城と常陸国舞鶴城(※別名は、太田城、佐竹城、青龍城とも)の間では、書状によって、今後についての指示や働き掛けなどのために、互いの実務担当者間で密接な打合せが行なわれていたこと”が分かります。

      【・・・さて、この石田三成襲撃事件時における佐竹義宣の行動については・・・】
      『義宣家譜』によれば、概ねのところ・・・
      “伏見屋敷滞在中の佐竹義宣が、石田三成屋敷襲撃の知らせを受けると、直ちに佐竹家氏の与力大名だった相馬義胤(そうまよしたね)及び佐竹義久を石田邸へ遣わし、自らも大坂に乗り込み宇喜多秀家(うきたひでいえ:※豊臣秀吉の猶子)とも相談の上で、自らの女輿(めごし)に石田三成を乗せて忍ばせると、自ら馬上から女輿を守りながら、伏見の宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)屋敷へと逃れさせた。”・・・と云うのです。・・・尚、宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)の屋敷跡の推定地は、京都府京都市伏見区桃山町板倉周防。現在の乃木神社の北辺りとのこと。

       ・・・ちなみに、「猶子(ゆうし)」とは、兄弟や親類などの縁者、或いは他人の子と親子関係を結んだ子のことです。・・・他人の子も、その対象としているため、現代の特別養子縁組に近い感じではあります・・・が、この当時の人々、特に武士や公家と呼ばれていた人々が懐く目的と、現代社会における目的とは異なるものであり・・・今風に云えば、『・・・箔(はく)をつけるため・・・』となって・・・“かなり政治的な意味合いが強かった”かと。・・・但し・・・飢饉や戦乱に明け暮れていた戦国時代には、これらの人々以外の庶民も、様々な既得権益や継承する義務などを背負っていましたので・・・ここに、「家督」という概念が生じることとなり・・・古代の末期頃から続いていた「名主(みょうしゅ、なぬし)」という豪農身分の人に例えれば、この人は紛れもなく農民層の人ですが・・・もしも、当時の当主及び跡継ぎ(=後継者)候補者の両者を、飢饉などの天災や、戦乱などによって、ともに喪(うしな)ってしまった場合には・・・この家の家督相続上において、とてつもなく大きな問題が生じる訳です。・・・その場合には、「名主」という重責を担うことが出来る能力や資質を兼ね揃えている人物を・・・非常に、便宜的なことではありますが・・・兄弟や、親類縁者、若しくは血縁の無い他人などから適任者を選抜し・・・“選抜された者が、そこの家督相続権を正式に継承する者として、誰かによって承認されることで、先代当主の跡目を引き継いでいくこと”になるのです。・・・いずれにしても、“現代における特別養子縁組の趣旨については、第一に児童福祉のため”とされており・・・あくまでも、最初に特別養子となる子のために養親(ようしん)と呼ばれる保護者が選ばれるのであって・・・この当時に行なわれていた猶子制度とは、まず第一に「家」という単位を主眼に置いたものであり、かなり事情が異なっていた訳です。・・・そして、かつての豊臣秀吉は・・・ここにある宇喜多秀家の他にも、八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう:※戦国時代から江戸時代前期にかけての皇族、歌人。八条宮〈=桂宮〉家初代。正親町天皇の孫にして、誠仁親王の第六皇子。母は勧修寺晴右の女だった新上東門院〈=藤原晴子〉。)などを対象として、当時の猶子制度を巧みに活用し、また養子縁組をも多く成立させておりました・・・が、この石田三成襲撃事件の際には・・・“佐竹義宣が、秀吉の猶子だった宇喜多秀家へ石田三成を託したという目的”と、『義宣家譜』の西暦1599年(慶長4年)閏3月4日記述中にもあるように・・・“豊臣秀頼(※豊臣秀吉の三男)に侍従する桑島治右衛門の通報によって、この襲撃を事前に察知出来たという事象”・・・とが、“当然のように、符合しているように想える”のです。・・・もしかすると、この時期当たりにおける佐竹義宣の石田三成襲撃事件への対応が、徳川家康によって後の佐竹家が出羽へ転封されるという遠因となっていたのかも知れません。・・・一般的には、関ケ原合戦時における佐竹家の対応が、その原因とされてはおりますが。・・・尚、この『義宣家譜』には・・・この石田三成襲撃事件の黒幕とまでは、さすがに申しませんが・・・“少なくとも、この経過についてを眺めていたであろう徳川家康について”を、以下のように間接的な表現としております。

      ・・・そして・・・“伏見の宇喜多秀家(※豊臣秀吉の猶子)屋敷へ辿り着いた石田三成は、襲撃の翌日に、徳川家康に自らの保護を求める”こととなり・・・“三成の大坂脱出を知った加藤清正らは、家康に三成の身柄引渡しを請うも、結局は家康から宥(なだ)められることとなり、また家康が結城秀康(ゆうきひでやす:※徳川家康の次男)に三成を大津(現滋賀県大津市浜大津)まで送らせたため、石田三成が居城の佐和山城(現滋賀県彦根市の佐和山頂)へ無事に帰ることが出来た。”・・・とされます。・・・尚、徳川家康の屋敷跡の推定地は、2カ所がありまして・・・一つ目は、京都府京都市伏見区桃山町三河。桃山高校の東辺り。・・・二つ目は、京都府京都市伏見区桃山町板倉周防の乃木神社辺りとのこと。・・・しかし、いずれにしても・・・“当時の佐竹義宣は、石田三成の救出に関してを、徳川家康へ釈明しようとはしなかった”・・・とされ・・・そこで・・・

      “この騒動(=石田三成襲撃事件)の後、佐竹義宣自身の一連の行動についてを、義宣の茶の湯の師匠でもあった古田重然(ふるたしげなり:※古田織部とも)が、徳川家康に対して釈明するよう勧める。”・・・こととなり・・・

      “当の佐竹義宣は・・・「三成が公命に背いた訳でも無いのに、加藤清正らは三成を討とうとした。自分はかつて三成より恩を受けたため、三成の危急を見て自らの命に懸けて救っただけのことである。このことを家康殿に謝罪すべきと言うなら、貴殿が良きに計られよ。」・・・と応えた。”・・・と云うのです。・・・すると・・・
      “この返答を受けた古田重然(※古田織部とも)が、細川忠興に徳川家康への取りなしを依頼する”こととなり・・・徳川家康への取りなしを依頼された細川忠興は、そもそもとして石田三成襲撃事件に関与していた人物でもありますが・・・この時の古田重然(※古田織部とも)が、細川忠興を佐竹義宣の取りなしを依頼出来る人物として適任であると考えた背景には・・・細川忠興が、単に茶の湯などに通じていたり、有職故実を継承していた家系出身者だったことだけではなく・・・“古田重然(※古田織部とも)の出身が、元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えた古田氏だったことや、細川忠興が佐竹氏と同じく清和源氏名門家系の細川氏出身だったことが、大きく影響している”かと想います。・・・“当時の古田重然(※古田織部とも)や佐竹義宣としては、細川忠興が正統な武門家系だった同じ清和源氏家系の者として、事件時の佐竹義宣の対応についてを共感される可能性が高かったこと”は、間違いなく・・・もしかすると、徳川家康も、清和源氏家系の義国流得川氏(※後の徳川氏や世良田氏)の末裔を自称し、後に征夷大将軍に任命される訳でして・・・この事件そのものを、“あくまでも豊臣恩顧武将達、いずれも清和源氏とは縁遠い家系の者達同士によって行なわれた事件と決着させるとともに、同じく正統な武門家系だった佐竹家に対して、この時に何らかの政治的な傷を負わせると、結果として太閤秀吉とは別の格好で新政権樹立を目論む徳川家康にとってみても、後々禍根となる恐れがある”などとして・・・結果としては、徳川家康の政治的な配慮を促す狙いが、当初からあったのかも知れません。・・・いずれにしても・・・
      “細川忠興から佐竹義宣の返答を伝え聞いた徳川家康は・・・「義宣が身命に懸けて旧恩に報いたのは、義と云うべきである。異存などは無い。」・・・と答えた。”・・・と、語られており・・・そして・・・“この後の同年9月5日には、江戸城に居た徳川秀忠(とくがわひでただ:※徳川家康の三男)が、徳川家康から勧められて水戸へ帰る途中の佐竹義宣一行に対して手厚い饗応をしたこと”や・・・また、“この饗応に対する返礼品などの贈答物の遣り取りが、佐竹義宣一行との間で行なわれていたこと”・・・なども確認出来ますが。




      さて、上記の「知行割り」における[3]及び[6]の(※)などに関連して、時代的に前後してしまう箇所が多分にありますが、“この頃の歴史を複層的に捉えるため”にも・・・ここで、いろいろと補足説明しておきたいと思います。

      まず、「佐竹義久」とは
・・・佐竹氏の一門衆であり、佐竹東家の当主だった佐竹義堅(さたけよしかた)の次男。「東義久」とも呼ばれます。受領名は山城守(やましろのかみ)で中務大輔従五位下。武熊城(たけくまじょう:※別名は武熊館、武熊故城とも、現茨城県水戸市柳町)城主。

      この佐竹義久は、佐竹東家当主として、本家(=佐竹宗家)の18代目当主の佐竹義重に従い、各地を転戦して武功を挙げます。外交面においても、西暦1579年(天正7年)には相模国を本拠とする後北条氏に対抗するためとして、甲斐国の武田氏との同盟締結(=甲佐同盟)に携わるなど・・・“佐竹一族の重鎮として重用され、佐竹氏による陸奥方面の交渉事や軍権をも任されていた”と云います。
      後に、豊臣秀吉と懇意となり、秀吉直轄地の代官を務め、西暦1591年(天正19年)1月2日には、「豊臣姓」をも下賜されます。
      “いわゆる唐入り(=朝鮮半島出兵)”と呼ばれる「文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)」では、西暦1593年(文禄2年)6月からの約1カ月間、この義久が佐竹勢1,440人を率いて出陣しました。
      これらの功績が認められ、豊臣秀吉から直接、常陸国鹿島郡及び真壁郡に計6万石を与えられ、更には豊臣家直轄領から1,000石の代官をも務めて、さながら独立大名的な処遇となりました。
・・・「山城守」と謂い、「従五位下」と謂い・・・これらの処遇は、“さながら上杉家執政の直江兼続といった具合い”であり・・・。
      “佐竹家の動向が不安定だった”とされる「関ヶ原合戦」の後には、“この佐竹義久が徳川家康と交渉し、佐竹宗家の本領安堵を取り付けた”ととも云われます・・・が、その直後に義久は、亡くなってしまいます。・・・この義久が亡くなったのは、“西暦1601年(慶長6年)11月28日のこと”と伝わります。・・・佐竹義久の死因については、“病死や、自害とも、或いは徳川家康によって佐竹宗家の当主を義久とされることを危険視した勢力に暗殺された”とも伝わっており、謎とされています。・・・ちなみに、佐竹義久の居城とされた武熊城(※別名は武熊館、武熊故城とも)は、“東西約550m南北約440m規模だった”と伝えられており・・・“関ヶ原合戦後に佐竹家が出羽国(でわのくに:現秋田県久保田)へ転封されると、直ぐに廃城”とされて・・・“後の西暦1651年(慶安4年)には、水戸徳川家の管理下における柳堤(りゅうてい)築造の際、千波湖の埋立て工事に伴なう採土によって、城跡さえも跡形も無くなること”に。・・・この施策の根底にあったのは、当時の新生水戸藩の成り立ちや、統治機構を考えるに・・・“佐竹氏温故を呼び覚ます可能性があった現地における記憶遺産の完全抹消を意図していた”のでは? と、個人的には感じてしまいますが・・・。


      ・・・このことについては、実際に・・・戦国時代末期の佐竹氏家臣に、「車斯忠(くるまつなただ)」という武将もおりましたし。・・・かの司馬遼太郎氏の時代小説『城をとる話(1965年、光文社刊)』のモデルとされた人物と云った方が分かり易いかも知れません。・・・この車斯忠は、丹波守(たんばのかみ)を称していたので、その通称を「車丹波」という名でも知られております。・・・別名としては、「猛虎(もうこ)」とか、「義照(よしてる)」、「忠次(ただつぐ)」とも。

      ・・・いずれにしても、この車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)は、西暦1592年(文禄元年)の「文禄の役(ぶんろくのえき)」の際、“主君の佐竹義宣に従い肥前国名護屋城に在陣していた”と云われ・・・その後に、徳川家康による「会津征伐(=上杉討伐)」を前にして、佐竹家を離れる・・・と、今度は・・・“上杉景勝(うえすぎかげかつ)の下で、陸奥国福島城(現福島県福島市杉妻町)や、梁川城(やながわじょう:現福島県伊達市梁川町字鶴ケ岡)に在番していた”と云われます。・・・しかし、これは・・・“名目上、中立の立場を採っていた佐竹氏が、上杉氏に助力するために、反徳川の急先鋒だった車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)を、現地へ送り込んだ”とも云われているのです。

      ・・・しかし、「会津征伐(=上杉討伐)」のために出陣した筈の徳川家康が、一転して関ヶ原方面に向かうこととなり・・・そして、この「関ヶ原合戦」によって、“天下の趨勢が明らかになる”・・・と、この車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)は、再び佐竹家に復帰しますが・・・。

      ・・・徳川家康による関ヶ原合戦後の仕置きにおいて、“主家たる佐竹家が常陸国54万石から出羽国20万石への転封に事実上内定される”と・・・“車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)は、これに猛反発し、新たな徳川政権への徹底抗戦を唱えました”が・・・

      ・・・しかし、西暦1602年(慶長7年)5月8日、この仕置きが正式に決定され・・・“この転封の告知が、転封先不明且つ転封後の石高についても不明のまま、京都の伏見屋敷に居た佐竹義宣に対して為される”と・・・間も無く、甲斐武田氏を継いでいた徳川家康の五男・松平(武田)信吉(まつだいらのぶよし、たけだのぶよし)が、それまで佐竹義宣の居城としていた水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)25万石を拝領して、下総佐倉(しもうささくら)から常陸へ入国してしまいます。

      ・・・すると・・・車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)は、“娘婿(※一説には妹婿)の大窪久光(おおくぼひさみつ:※通称は兵蔵)や、馬場政直(ばばまさなお)とともに、水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画を企てる”・・・も、“この奪還計画が露見し、西暦1602年(慶長7年)7月に、皆が捕らえられ”・・・同年10月、「磔刑(たっけい、はりつけのけい)」や、「斬首刑」に処せられます。
・・・ちなみに・・・「大窪久光(※通称は兵蔵)」とは、大窪城(※本丸跡は現茨城県日立市大久保町4丁目の暇修館〈かしゅうかん〉付近)主だった大窪種光(おおくぼたねみつ:※通称は駿河守)の長男。・・・久光の父だった「大窪種光」とは、西暦1587年(天正15年)6月には佐竹南家当主の佐竹義種(さたけよしたね)から名の一字を与えられて種光と名乗り、この当時には、佐竹東家当主だった佐竹義久の重臣となっていました。“総じて佐竹宗家からの信任が厚かった”とされる人物です。・・・尚、種光自身は、次男の光遠とともに、当時の佐竹家転封に従っています。・・・次の「馬場政直」とは、佐竹秀義(さたけひでよし:※佐竹宗家3代目当主)の子・北酒出季義(きたさかいでのすえよし)を祖とする美濃佐竹氏の出身者です。・・・父の佐竹基親(さたけもとちか:※通称は和泉守、新介とも、別名を馬場篤親、長山基親とも)は、室町幕府奉公衆を務めた後に、常陸国へ帰国し宗家筋の常陸佐竹氏に仕えると、佐竹家の京都留守居役として外交分野で活躍することとなって、佐竹北家や佐竹東家、佐竹南家に次ぐ地位を与えられていた人物です。・・・(・・・※この美濃佐竹氏については、別ページでも多少ふれてはおりますが・・・)・・・

      ここで、この美濃佐竹氏についてを、詳しく説明すると・・・・
      そもそも、この「美濃佐竹氏」とは、鎌倉時代に入った直後期に起きた「承久の乱」における佐竹氏の戦功に対する所領として、美濃国の山口郷及び上有智荘を与えられて、常陸国から移住した佐竹一族であり・・・初代とされる北酒出(佐竹)季義以降の約300年以上に亘って、美濃国や京都で活躍しました・・・
が、常陸国を離れれば、もはや他の佐竹氏同族家系と混同される心配が少なくなったためなのか?・・・いずれにしても、復姓するような格好で、美濃国や京都などでは、再び「佐竹氏」を名乗るようになり・・・

      やがて、北酒出(佐竹)季義の後の子孫達は、在地領主となっていた長男系と・・・京都に出ることになる次男系・・・とに分流します。

      しかし、この後の南北朝時代に入ると、南朝方に与した長男系は没落することとなり、一方で北朝方に与していた次男系が台頭することに。・・・特に、佐竹義尚(さたけよしひさ:※他に3名程同姓同名の別人が居たので注意を要す)という人物は、時の室町幕府第3代将軍だった足利義満(あしかがよしみつ)の弓の師匠に登用されて、この義尚の子孫が代々室町幕府の奉公衆を務めることになります。

      この佐竹義尚は、長山義尚とも呼ばれ、法号は常尚入道。
“清和源氏義光流の佐竹氏一門の美濃佐竹(長山)氏当主だった佐竹義基(さたけよしもと:※別名は長山義基)の長子だった”とされ・・・
      ・・・詮秀(あきひで?)や、尊慶(たかよし?)、源常(げんじょう?:※僧侶)、英文(えいぶん?:※僧侶)らの兄であり・・・
      ・・・また、基尚(もとひさ)の父であり・・・
      ・・・基永(もとなが)や光佐(みつすけ?:※光任とも)、基英(もとひで)・源端(げんずい?:※僧侶)らの祖父であり・・・
      ・・・光家(みついえ:※法号は舜方入道)の曾祖父であり・・・
      ・・・澄常(すみつね)、基親の高祖父であり・・・
      ・・・そして、水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画を企てて、西暦1602年(慶長7年)10月に処刑されてしまう馬場政直の六世の祖に当たります・・・が、上記の法号や俗名(≒個人名)などの名に共通している「常」の字は「常陸国」に由来し・・・「源」の字は「(清和)源氏」から・・・そして、「光」の字については、“(清和)源氏のなかの美濃源氏や土岐源氏と呼ばれる家系が、美濃佐竹(長山)氏と姻族となった影響によるものであること”・・・などが分かります。

      ・・・ちなみに・・・一般的には、上記の佐竹基親や政直が常陸馬場氏を名乗り始めた初代だったのではないか? と考えられておりますが、然(さ)に非ず。・・・実は、この「馬場」という氏族名は・・・当時から武門家系として一般的に認識されていた清和源氏の一族が、平安時代後期頃の武将または歌人ともされる源仲政(みなもとのなかまさ:※別名は多田仲政、馬場仲政)という人物当たりから、既に使用されていた氏族名なのです。・・・つまりは、同じ清和源氏ではあったものの、厳密に云えば別地域で勢力を持つ別流家系が用いた氏族名でした。・・・然(しか)るに、当の基親及び政直親子の本人達は、初めて「馬場」という名を使用するという気持ちは、サラサラ無かったかと想います。・・・むしろ・・・(・・・※基親及び政直らの宗家に当たる常陸佐竹氏は、もちろん清和源氏義光流ですが・・・)・・・この常陸佐竹氏が、そもそも常陸国佐竹郷へ入部し、「佐竹」を名乗る以前から使用されていた名であるため・・・佐竹氏全体の同祖源流とも云える摂津源氏の一族名だった「馬場」という名を名乗り始めたこと自体に、深~い意味が込められているかと。・・・そして、車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らとともに、水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画を企てるという思考についても、納得出来る側面があろうかと想います。・・・何せ、改称される以前の水戸城は、元々「馬場城」と呼ばれていたのですから。

      また、『美乃佐竹系図』や、『佐竹宗家北酒出本源氏系図』と呼ばれる史料によれば・・・“上記下線部分にある佐竹光家(※法号は舜方入道)の生母が、在地武将・土岐冬親(ときふゆちか)の娘だった”とされているため・・・“美濃国においては、政略的な婚姻関係を、同じ清和源氏同士で結んでいたこと”が分かりますし・・・光家(※法号は舜方入道)自身の子らには、嫡男の澄常(すみつね)と次男の基親の他にも二女があって・・・このうちの嫡男は、「佐竹(北酒出)弾正少弼澄常」と名乗り・・・次男の基親については、「長山左門基親」と名乗っていたこと・・・そして、長女については、“やはり同じ清和源氏義光流とされる甲斐武田氏出身の武将または歌人だったとも伝わる武田尚信(たけだひさのぶ:※通称は民部少輔、法号は招雲斎道鑑)の養女となっていたこと”・・・次女については、“飛騨国司の姉小路氏の室になったことなど”も分かるのです。

      尚、基親及び政直親子らが「馬場」を名乗り始める以前の代には、別名の如く「長山」を使用したとのことですが・・・これについては、美濃国内にあった旧地名に由来致します。・・・これは、つまり・・・嫡男として家督を譲られる者は、先祖から受け継がれていた「佐竹(北酒出)」の名を重んじ・・・次男以降など新たに一門家系を打ち立てる者は、現地の地名だった「長山」を用いたことを意味しており・・・そして、旧地名の所在については、おそらく・・・“かつての鎌倉時代前期頃には在ったとされる権現山(ごんげんやま)上の長山城(現岐阜県岐阜市芥見長山付近の古城址)辺り”が、清和源氏の「長山氏」のルーツかと想います。私(筆者)も「長山」ですので。・・・但し、私(筆者)自身のルーツ調査で判ったことですが・・・中世の鎌倉時代頃から、この「長山」という名を用いる家系についてを詳細に調べると、旧常陸国内に限っただけでも、少なくとも三家系ありまして・・・そのうちの一家系については、上記の通りの『美乃佐竹系図』や『佐竹宗家北酒出本源氏系図』にも現れる家系です・・・が、次の一家系は、常陸佐竹氏などと同じ清和源氏であって、しかも近世の(常陸)佐竹家に属した家系ではありますが、この家系についてを厳密に云えば、同じ清和源氏ではあっても別流家系と云えます。・・・そして、もう一家系については、血統や家紋などが前述の二家系とは全く異なるものの、やはり前述の二家系と同様に、近世の(常陸)佐竹家に属した家系でした。・・・このように、旧常陸国内に限っても、このような具合いですので、全国的に「長山氏」を見た場合には、当てはまらないこともあろうかとは想いますが。(・・・※この当たりについては、あくまでも参考として下さい。・・・)

      ・・・と、少々横道に反れましたが・・・佐竹義尚(※長山義尚とも、法号は常尚入道)まで、話を戻します。
      ・・・“生まれ育った美濃国を発ってから、時の室町幕府将軍の弓の師匠に登用され、自身の絶頂期だった”とも云える佐竹義尚(※長山義尚とも、法号は常尚入道)でしたが・・・“後に、弟子の足利義満(※室町幕府第3代将軍)から勘気を被ることとなり、突如として美濃国山口郷などにあった所領を没収される”・・・と、“足利義満(※室町幕府第3代将軍)が建立した京都の相国寺(しょうこくじ:※現京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町)の寺領として、この山口郷の地が西暦1402年(応永9年)に寄進”されてしまいます。
・・・当時から、この相国寺は、京都五山の第二位に列せられる程の大寺院(臨済宗相国寺派)です。・・・そして、“美濃佐竹(長山)氏などによって、長年に亘り開発されていた美濃国山口郷大矢田(現岐阜県美濃市大矢田)では、美濃紙(みのがみ:※美濃和紙のこと)の生産などが進められていて、これら物品の市(いち)が定期的に開かれていた”とのこと。・・・また、室町幕府奉公衆という役職については、佐竹義尚(※長山義尚とも、法号は常尚入道)の子孫達への世襲が認められていたようではあります・・・が、“当時の美濃佐竹(長山)氏の経済事情などを想像するに、まさに火の車状況だった”かと。

      ・・・ちなみに、相国寺への寄進が行なわれた直前期頃、つまりは南北朝時代には、この美濃佐竹(長山)氏から、土佐佐竹氏を分出しております。・・・この土佐佐竹氏は、北朝方の細川氏に従う格好で四国地方へ渡ると、土佐国大忍荘(おおさとのしょう)や久礼(くれ)を、その勢力下に置き、一大勢力を形勢しました。・・・そして、久礼城(現高知県高岡郡中土佐町久礼)を拠点として、土佐国守護・細川氏や、後に土佐に入って来た一条氏、更に四国を統一した長曾我部氏などの重臣として、それぞれ仕えて、いわゆる戦国の世にその名を残しております。・・・いずれにしても、“足利義満による美濃佐竹(長山)氏の所領没収の背景には、義満の政策方針などが深く関わっていた”かと。・・・もしかすると、南北朝の合一を果たした足利義満としては・・・もはや、弓矢などで以って武張っている武門家系などには、これ以上の蓄財や成長などを許さずに・・・“それならばと、仏教などを優先させて国内の文化面を進展させよう”との狙いがあったのかも知れません。

      ・・・この後、佐竹義尚(※長山義尚とも、法号は常尚入道)の孫に当たる佐竹基永の代になると、相国寺と相論を起こして・・・結果としては、旧領だった山口郷の東半分の地域については取り戻します。・・・しかし、山口郷の西半分については・・・(・・・※『蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)』と呼ばれる相国寺にあった寮舎主の日記によれば・・・)・・・相国寺と美濃佐竹(長山)氏との間で、西暦1488年(長享2年)5月頃まで、この相論が続けられていた模様です。・・・没収されてから、86年間も・・・。

      ・・・やがて、戦国時代と呼ばれる時代に入ると・・・
      ・・・美濃国の国主は、土岐氏から斉藤道三(さいとうどうさん)に替わることとなり、室町幕府という組織の権威や統治能力などは、失墜してしまいます。

      ・・・こうした中、佐竹基親(※通称は和泉守、新介とも、別名を馬場篤親、長山基親とも)は、時の足利義晴(あしかがよしはる:※室町幕府第12代将軍)から、長らく疎遠となっていた幕府と常陸佐竹氏との関係改善を託されることとなり、時の幕府からの使者という格好で、西暦1537年(天文6年)に、常陸国の佐竹宗家を訪れることとなり・・・
(・・・※『正宗寺本佐竹文書』所収の「亀岡新介殿文書写置」に、佐竹基親宛の足利義晴からの書状と大舘尚氏〈おおだちひさうじ:※法号は常興〉の副状〈そえじょう〉が残されております。・・・)・・・また、この際に、佐竹基親(※通称は和泉守、新介とも、別名を馬場篤親、長山基親とも)が、“佐竹義篤(さたけよしあつ:※16代目佐竹宗家当主)へ、『美乃佐竹系図』を持参した”と考えられ・・・この後、佐竹基親(※通称は和泉守、新介とも、別名を馬場篤親、長山基親とも)は、佐竹宗家の16代目当主だった佐竹義篤(さたけよしあつ)から室町幕府関係者らへの進物を携えて、京都へ一旦戻ります。

      ・・・その後の佐竹基親(※通称は和泉守、新介とも、別名を馬場篤親、長山基親とも)は、西暦1538年(天文7年)11月と西暦1543年(天文12年)に、常陸へ再下向しており・・・その間の西暦1540年(天文9年)には、佐竹義篤(※16代目佐竹宗家当主)が、従四位下(じゅしいのげ)の右馬権頭(うまのごんのかみ)に任じられるなど、佐竹基親(※通称は和泉守、新介とも、別名を馬場篤親、長山基親とも)が室町幕府と常陸佐竹氏の取次役を果たしました。
・・・このことは、まるで・・・後の織田信長時代の明智光秀(あけちみつひで)や、その後の豊臣政権における石田三成などの役割とソックリですね。しかも・・・!?・・・

      ・・・上記の過程を経た後の佐竹基親(※通称は和泉守、新介とも、別名を馬場篤親、長山基親とも)は、永禄年間(※西暦1558年~1570年)には常陸国に定住し、そのまま佐竹義篤(※16代目佐竹宗家当主)や、その嫡男だった佐竹義昭(さたけよしあき:※17代目佐竹宗家当主)の家臣となります。・・・これもまた、明智光秀が織田信長に召し抱えられる際などの事情とソックリですね。・・・単なる偶然なのでしょうか?・・・確か、明智光秀も美濃国に盤踞した清和源氏の土岐源氏出身者でしたね。・・・?!?・・・

      ・・・いずれにしても、美濃佐竹(長山)氏としては、実に約300年以上を経た後の常陸国への再定住となりました。・・・そして、佐竹基親(※通称は和泉守、新介とも、別名を馬場篤親、長山基親とも)が佐竹宗家に戻ると、このことを契機として、それまでの「佐竹」や「長山」という名を使用せずに、改めて「馬場」という名を使用した訳ですが・・・それはそうと・・・佐竹基親(※通称は和泉守、新介とも、別名を馬場篤親、長山基親とも)ら美濃佐竹(長山)氏一族は、美濃国山口郷東部地域の他にも、丹波国や和泉国にも所領を持っておりましたが・・・“室町幕府による統治機構が形骸化していたことに伴なって、各地の所領が近隣他勢力からの押領に悩まされ続けていた”とされております。・・・それでも、美濃佐竹(長山)氏としての歴史的な役割などについては、この頃に一応の括りとされた訳です。

      ・・・そして、この佐竹基親(※通称は和泉守、新介とも、別名を馬場篤親、長山基親とも)の長子だった馬場政直は、車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)や大窪久光(※通称は兵蔵)とともに、新たな徳川政権への水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画を企てて、処刑されることになりました・・・が、その子孫については、母方の大山氏(・・・※この大山氏も、別ページにもあるように、常陸佐竹氏の分家庶流家系です。かつての山入一揆(※山入の乱とも)と呼ばれる佐竹氏同族間における争いの際には、大山氏の居城だった大山城〈現茨城県東茨城郡城里町〉に、佐竹宗家15代目当主の佐竹義舜が匿われていたことなどもありました。・・・)に育てられた後に、“再興された祖先所縁の北酒出氏、または北酒出氏一族の袋田(ふくろだ)氏の家督を継承した”とのことです。・・・しかしながら・・・我々は、車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)や、大窪久光(※通称は兵蔵)、馬場政直による水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画事件のことを、ただ単に時流を悟らない武骨者(ぶこつもの)の仕業(しわざ)と片付けてしまって良いのでしょうか?・・・そこには、戦国時代の武将や武士達特有の・・・云わば、“生き様と死に様が、同時に語られているよう”に思えてなりませんが。・・・その一方では・・・常陸佐竹氏の出羽転封を決め、水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画を企てられた側の徳川家康としても、“佐竹氏と同じ清和源氏義光流の武田氏を継がせた松平(武田)信吉(※徳川家康の五男)を、水戸という地に配置することで、現地に対する政治的な配慮を一定程度は見せていた”とは考えられるのですが・・・。・・・そして・・・このことには・・・“当時の佐竹氏や、上杉氏、武田氏などの清和源氏家系が懐いていた”と考えられる疑問、つまりは・・・そもそもとして、徳川氏は武門の棟梁に成り得る清和源氏と云えるのか? という認識が、“その根底にはあった”と考えられ・・・。過去において幕府体制を布いたのは、かつての源頼朝と足利高氏(※後の尊氏)の二人のみだった訳でして・・・“新徳川政権という体制が、直前期の豊臣政権による政治体制についてを、そのままには継承しないとの発想から生じる相違点だった”・・・。・・・徳川氏による新しい政治体制が、少なくとも車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)や大窪久光(※通称は兵蔵)、馬場政直などには理解されず、結果として反発されて、“決死覚悟の蜂による一刺しを被る寸前だったとも云える”のですが・・・。

      ・・・いずれにしても、更に車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)などの話には、“後日談”があります。・・・
      ・・・この水戸城奪還計画が露見し、車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)が逃亡している最中、“まさに捕らえられんとする寸前”に・・・“間が悪い咳(せき)をしてしまったそう”です。・・・“それによって、発見されてしまい、捕縛されるに至った”と。
・・・

      ・・・尚、“車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)の首を埋葬した”とされる首塚が、現在も茨城県水戸市元吉田町にございます。・・・そこは「車塚(くるまつか)」と呼ばれ、祠(ほこら)が設置されて、“咳や喉の神様”としてお祀りされています。・・・“地元では、この祠に甘酒を献上すると、咳が治(おさ)まるとの御利益(ごりやく)が伝えられているそうです”が・・・そもそもは、“現地に当時あった一本松の陰に隠れていた車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)が咳をしたため発見されたこと”に因むとか。

      ・・・ちなみに、水戸城(※別名は水府城、馬場城とも)奪還計画事件の報告を受けた当時の徳川家康は、車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らが処刑された後に、“ひどく機嫌を損なっていたよう”でして・・・「我としては、謀反は憎いが、豪勇忠良の武将を斬り取り、強盗や人殺しの罪因と同じ磔に処するとは、名に相応しい武将の扱いを知らぬ所業だ。」・・・と、五男・松平(武田)信吉の管理下で執行された処刑についてを、“厳しく叱責した”と謂います。・・・それだけ、“水戸という地を治めるに当たっては、五男・松平(武田)信吉へ掛けていた期待が大きかった”とも云えるのでしょう。・・・しかし、この松平(武田)信吉は、生来病弱だったらしく、車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らが捕らえられた西暦1602年(慶長7年)7月から数えて・・・約1年と2カ月後の水戸で・・・僅か21歳で死去しており、更に・・・この松平(武田)信吉には、子女が無かったため、甲斐武田氏が、再び断絶してしまうことになり・・・これに伴なって、“この松平(武田)信吉に従って水戸へ入った家臣達の多くが、後に立藩される新生水戸藩に仕えること”になりました。・・・尚・・・新生水戸藩に仕えることになった家臣達のルーツの多くは、常陸国をルーツとする清和源氏義光流の武田氏に、当初から従っていた家系が多かった筈であり・・・つまりは、“それぞれのご先祖様が暮らした常陸国に何百年ぶりかの帰還”とも云えるため・・・“このこと自体もまた、彼らにとっては感慨深いことだった”かと。・・・いずれにしても、水戸の地で亡くなった松平(武田)信吉の墓所は、茨城県那珂市瓜連の常福寺(じょうふくじ)にあり、法名は浄巌院殿英誉善香崇厳。・・・後に、甥に当たる徳川光圀(※義公)によって、茨城県常陸太田市瑞竜町の瑞龍山(ずいりゅうさん:※水戸徳川家累代の墓所であり、現在は管理上の理由により、一般には非公開)に葬られております。

      ・・・そして、後の幕末期には・・・かの「吉田松陰(よしだしょういん)」が、この「車塚」を訪れて、“車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らに纏(まつ)わる伝承に深く感動していた”と云われます。・・・・・・またもや、単なる偶然なのか? 或いは必然なのか? 定かではありませんが・・・この「車塚」の近く(・・・※現在の茨城県水戸市元吉田町・・・)には、平安時代後期の築城と推定される吉田城跡があり・・・この城が、“常陸佐竹氏時代の車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)の居城”とされているのです。・・・この吉田城も、多聞に洩れず、佐竹家転封に伴なって廃城とされてはしまいましたが。・・・江戸時代中期頃の西暦1700年(元禄13年)暮れには、当時の「敬峯和尚(けいほうおしょう)」によって、同地に「仏日山(ふつにちさん)常照禅寺(じょうしょうぜんじ)」が創建されております。・・・現在でも、ここの境内周辺地には、土塁(どるい)や空掘(からぼり)の形跡が遺っておりまして・・・また、この常照寺の由来も・・・常照寺創建を発案したのが、何を隠そう水戸藩2代目藩主の徳川光圀(※義公)です。・・・そもそもとして・・・当時の徳川光圀(※義公)は、“京都大徳寺の高僧だった仰堂和尚(ぎょうどうおしょう)を迎えて、この寺院を創建しよう”と考えたようですが・・・“徳川光圀(※義公)自身及び仰堂和尚のお二方が没してしまったため、仰堂和尚の弟子に当たる敬峯和尚が、常照寺を創建するに至った”とのこと。

      ・・・いずれにしても、これらの事情から察するに、“当時の新生水戸藩を任されることになった徳川光圀(※義公)の苦心の跡というもの”を、感じ取ることが出来ます。・・・要するに、これらは・・・“新生水戸藩特有の事情とも云える”のですが・・・佐竹義宣(※19代目佐竹宗家当主)のお供として、出羽秋田へ従いたいけれど、それが様々な事情により現実としては叶わず、旧領内の各地に土着し続けねばならなかった常陸佐竹氏の分家や庶流の家系の者達らを、領内に多く包含しつつも・・・言い換えれば・・・“基本的には佐竹旧臣達の家系だらけという、当時の新生水戸藩の領内について、かつての車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)らが企てたような反発を起こさせずに、如何にして政治的な安定傾向へと導きつつ、如何にして領内の財政事情等についてを現実に発展させる”のか? という・・・“ある意味で宿命的な課題が、新生水戸藩と呼んでいい時期の歴代藩主達には課せられていた”のです。・・・これらを大きく前進させた、或いは軌道に乗せた功労者とは、言わずもがなの徳川光圀(※義公)です。・・・そして・・・思想及び哲学的な分野において、これを担っていた新生水戸藩の事業というのが、後に「水戸学」を華開かせることになる『大日本史』の編纂事業でもあったと、私(筆者)自身は勝手に納得しております。

      ・・・尚、常陸佐竹氏時代の車斯忠(※通称は車丹波、別名は猛虎、義照、忠次)の居城だった「吉田城」も・・・そもそもは・・・“常陸平氏の名門氏族だった大掾盛幹(だいじょうもりもと)が館を建てて、初めて「吉田氏」を称して治めた”と謂われている処であり・・・幕末期の「吉田松陰」も、“杉家(すぎけ)から長州の吉田家へ養子に入った”という身の上でしたから、同じ「吉田氏」という姓などのルーツに惹かれるものもあって、遥々と常陸国の故地まで遊学して来たのかも知れません。・・・これらもまた、「水戸学の精神」と申しますか、必然的に「大義名分」というものに深く関わる事柄ですから。・・・ここまで記述すると、もはや理屈ではなく、筋道(すじみち)の話となってしまうのですが・・・「水戸っぽ」と自称する、或いは他称される人々の遺伝子(DNA)には・・・私(筆者)も、その末裔と云えますが・・・近世の江戸時代が始まる以前において常陸国北部辺りで約400年続いた常陸佐竹氏時代の記憶情報が組み込まれている”ような気がしてなりません。(・・・※あくまでも個人的な感想です。科学的な根拠などはございません。ご了承下さい。・・・)

      《・・・“上記のついで”と云ってはなんですが・・・この常陸佐竹氏時代、つまりは・・・“平安時代頃から、近代の明治時代当たりまで”の・・・云わば、佐竹氏族達の視点 ⇔ 水戸徳川氏の視点 ⇔ それぞれの明治維新後へのバトンタッチ・・・のような、超長編の歴史小説が、もし大河ドラマ的に描けたならば、かなり壮大なスケール感を持つ物語となるでしょう。・・・しかし、私(筆者)などには、これを実現する文才などというものは、残念ながらありませんので・・・どなたか、チャレンジしては頂けませんでしょうか? あくまでも、私(筆者)の個人的な希望です。・・・それでも、実際としては・・・通常の大河ドラマでは、時間的な制限などによって、きっと収まり切らないでしょうから・・・現代の効率主義的経済論からすると、非現実的な夢なのかも知れませんが。せめて歴史小説だけでも・・・。



・・・・・・・・・・※時代的には関ヶ原合戦頃から、別ページに続ける予定です・・・・・・・・・・





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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】