街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 同西暦1864年(元治元年)9月1日:「幕府」が、・・・“諸大名の参勤交代及び藩主妻子の在府制度を、文久2年(西暦1862年)以前の状態に復す”・・・と命じる。(=文久の改革)・・・幕府は、諸大名の参勤交代の頻度を3年間に1度、約100日の江戸滞在とする条件緩和を行なったのです。・・・これは、日本全体としての軍備増強と全国の海岸警備を目的として実施された訳です・・・が、“同時に人質として江戸に置かれていた藩主の妻子についても帰国を認めたことで、結果としては幕府の力を弱めることに繋がった”とも云われ・・・これについては、“前越前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)の政治活動に依るもの”とされておりますね。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)”が、「那珂湊」と「附近の要地」に兵を配地して・・・“水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら諸生党勢の来襲”に備える。・・・すなわち、「水戸藩家老・榊原照煦(※通称は新左衛門)」を「軍事総督」とし、「水戸藩士」の「三木直(※通称は左太夫)」や、「白井久胤(※通称は忠左衛門、伊豆守とも)」、「富田知定(とみたともさだ:※通称は三保之介、元側用人)」を「軍事奉行」とし・・・軍については、先・中・後の三陣に分けて、本営を「日和山(※別名は御殿山、現茨城県ひたちなか市山ノ上町湊公園内)」に置く。
      ・・・これと前後して、「武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)」が、別働隊を率いて、「館山(現茨城県ひたちなか市館山)」に拠り・・・“田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)や藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)ら元藩士の党(≒筑波勢)”は、「平磯(現茨城県ひたちなか市平磯町)」に「駐屯」する。【綱要】
・・・この当たりの時期からは、軍略的且つ地理的な表記が多様となり、個人名なども多くなってしまうため、【綱要】とさせて頂きます。ご了承下さい。・・・いずれにしても、“藩政を回復するという名目で、常陸に帰還した筈”の「大発勢」が・・・時の悪戯(いたずら)によって、“(筑波勢)追討幕府軍と諸生党勢を相手に戦う羽目となり、それらの矛盾を抱えつつも、或る種の覚悟を持ち始めた時期頃”・・・と云えます。・・・
      ※ 同年9月4日:「水戸城兵(=諸生党勢)」が、“田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)ら元藩士の党(≒筑波勢)”を、「砲撃」する・・・が、“浪士の藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)や、飯田利貞(※通称は軍蔵、元笠間藩郷士)、林正徳(※通称は五郎三郎、藩校・弘道館の元舎長、元潮来郷校掛)ら”は、「平磯」を発って、「常陸国北郡」に向かい、「水戸城兵(=諸生党勢)」を「牽制」する。【綱要】・・・
      ※ 同年9月5日:“追討幕府軍歩兵隊と下総佐倉、同小見川、常陸麻生などの藩兵”が、“那珂湊付近にあった鹿島潮来地方の浪士(=潮来勢)”を、「砲撃」する。【綱要】・・・この際の潮来勢の規模については、“約300人であった”と伝わります。・・・尚、“この前日まで潮来勢を主に率いたのは、林正徳(※通称は五郎三郎、藩校・弘道館の元舎長、元潮来郷校掛)らであった”とのことであり・・・“この潮来勢も、追討幕府軍側から、敵と見做されていた”ことも分かります。・・・
      ※ 同年同日:“浪士の藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)と林正徳(※通称は五郎三郎、藩校・弘道館の元舎長、元潮来郷校掛)ら”が、“常陸国額田(現茨城県那珂市額田北郷、東郷、南郷付近)に駐屯する水戸城兵(=諸生党勢)及び陸奥二本松、同福島、下野宇都宮、同壬生藩の連合軍”を破って、ここを「占領」する。・・・また、“浪士の国分信義(こくぶのぶよし:※通称は新太郎、元水戸藩士、元新徴組)や、井田好徳(いだよしのり:※通称は平三郎、因幡とも、元水戸藩士)、朝倉景行(あさくらかげゆき:※通称は源太郎、元水戸藩士)らが、同国河合(現常陸太田市上河合町、下河合町付近)の渡り口に進んで、水戸城兵(=諸生党勢)及び二本松藩兵と交戦する”・・・も、“夕刻に至っても、勝敗は決せず”・・・“国分信義ら”は、「同国額田」へと向かう。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“浪士の大津彦之允(※元水戸藩小十人組)や、油田敬之介(※元水戸藩士)、黒澤亀太郎(くろさわかめたろう:※元水戸藩士)ら”が、助川の囲みを破って、「常陸国長倉(現茨城県常陸大宮市長倉)」へと向かう・・・も、“道が塞がれるなどして、大津彦之允ら”が、「同国島村(現茨城県常陸太田市島町)」にて「戦死」する。・・・次いで、“陸奥二本松及び磐城平藩の両藩兵や、諸生党勢の寺門登一郎、菊池善左衛門(きくちぜんざえもん)ら”が、「助川陣屋(※助川海防城とも)」を「包囲」する・・・と、「領主・山野邊義芸(※主水とも)」が、「二本松藩兵」に「降伏」する。【綱要】・・・まずは、大津彦之允や油田敬之介らの少数部隊についてなのですが・・・同年8月24日に、助川領主・山野邊義芸と遭遇した後にも、引き続き「水戸入り」を模索していたようです。数々の困難はあったでしょうが。
      ・・・そして、文中の「助川の囲み」については・・・“常陸那珂川が鮭(サケ)遡上の南限”とされておりますので、元々の意味は・・・まさに、“遡上する鮭(サケ)を水揚げするための、簗(やな)などの漁具や漁場を指している”と考えられますし・・・「助川(すけがわ)」の「助(すけ)」という字についても、“歴史的にも鮭(サケ)との深い関わりがある”とされます・・・が、ここには、もう一つ別の意味もあろうかと想います。・・・おそらくは・・・当時「助川の囲み」と呼ばれ、当然に浅瀬であった場所に・・・(筑波勢)追討幕府軍や諸生党勢側の兵らが、何らかの理由によって集まって来ており・・・“そこを、大津彦之允らが強行突破したことを物語っていて”・・・“そこに集まっていたのが、鯉淵勢と当時呼ばれていた農民を主体とする部隊だったから”かと。・・・つまりは、「鯉(コイ)」を「鮭(サケ)」に見立てて、且つ「助川の囲み」を「鯉の淵(コイのふち)」に見立てたのかと。(※決して「ダジャレ」ではありません。大真面目です。)
      ・・・いずれにしても・・・いくら浅瀬ではあっても、また農民兵を主体とする鯉淵勢3,000名余り全てが「助川の囲み」に居たとしたら・・・当然に、大津彦之允らの少数部隊では、強行突破することさえ難しいので。・・・要するに、大津彦之允らの少数部隊としては・・・その囲み自体(≒自らに対する包囲網)が緩(ゆる)い、相手方の弱点(=ウィークポイント)を上手く突き、且つ相手方の隙(すき)をも活用する格好で、常陸国長倉へと向かった・・・ものの、結局は長倉には辿り着けずに、島村で亡くなったと。・・・尚、大津彦之允らが、何故に長倉へ向かったか? については・・・“当時の大津彦之允らのうちの誰かが一人、鯉淵勢の一部に近寄りさえすれば、筑波勢を除名された田中愿蔵(※郷校時雍館の元館長)らの消息についても聞き取り出来た”という可能性もあったかと。
      ・・・同年7月28日の時点では、1,000人位だった鯉淵勢が、3,000人余りという大所帯となっていた訳ですので、田中愿蔵らを打ち負かした時に生じる油断もあったでしょうし・・・長倉の手前の地域には、田中愿蔵らが一定期間を耐え抜いた郷校・時雍館が、野口村(現茨城県常陸大宮市野口)にあり・・・仮に、これが完全に破壊されて使用が不可能だったとしても・・・目的地としていた長倉には、少なくとも・・・当時の水戸藩が、各村々に奨励し整備していた稗倉(ひえぐら:※飢饉対策などの為とした穀物倉庫)があったのです。大津彦之允らの行動については、このような軍糧事情が当時あったと考えられます。・・・助川領主・山野邊義芸については・・・結局のところ、同年8月24日以降も動くことが出来ずに、本人は二本松藩兵に、この日降伏したようですが・・・
      ※ 同年9月6日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、「下野烏山藩主・大久保忠美(おおくぼただよし)」に対して・・・“助川辺りからの逋亡(ふぼう:≒逃亡)に備えるため”として・・・「領内(=烏山:現栃木県那須烏山市城山)の厳備」を命じる。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“追討幕府軍歩兵隊と下総佐倉、同小見川、常陸麻生などの藩兵”が、“那珂湊付近の鹿島潮来地方の浪士(=潮来勢)”へ「砲撃」した後、更に「進軍」して「常陸国大船津(現茨城県鹿嶋市大船津)」へ迫る・・・と、“鹿島潮来地方の浪士(=潮来勢)らの多くが、ここで戦死する”・・・も、“塙重義(はなわしげよし:※通称は又三郎、元水戸藩士)や立花辰之介(たちばなたつのすけ:※元水戸藩士)らについて”は、(その)囲みを破って、「逃走」する。【綱要】・・・“約300人位であった”と云われる潮来勢が、塙重義や立花辰之介などを除いて、“そのほとんどが、この日に壊滅した”とされております。・・・
      ※ 同年9月7日:「幕府」が、「軍艦奉行・木下謹吾(きのしたきんご)」に対して・・・“軍艦を発し常陸と下総の東南海上を巡視し、常陸や下野の浪士脱出を監視し、且つ住民の航海を禁止させる”・・・とともに、“この日、その旨を沿海の諸藩”へ「通達」する。【綱要】・・・とうとう、幕府は・・・大発勢が拠る那珂湊の背後を押さえるためとして。・・・しかも、前水戸藩主・徳川斉昭(※烈公)が、生前に幕府・海防参与として芽吹かせて、発展させることなどにも積極的だった沿岸防備や軍艦など具体的な海軍力を・・・まさか、幕府が自藩に向けることになるとは!・・・何という皮肉・・・。
      ※ 同年同日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、「陸奥棚倉藩」に対して・・・“助川から脱出する浪士に備えること”・・・を命じる。【綱要】・・・「棚倉藩」とは、陸奥国(磐城国)白河郡や菊多郡、磐前郡、磐城郡などを治めた藩です。藩庁は白河郡棚倉城(現福島県東白川郡棚倉町)に置かれており・・・当時の藩主は、松平康泰(まつだいらやすひろ)。・・・しかし、この松平康泰は、生来病弱であったため、実際に藩政を執ることが出来ずに、江戸藩邸で療養中であり・・・この追討幕府軍総括・田沼意尊からの命令を受けた後の同年11月18日に死去。享年16。・・・いずれにしても・・・追討幕府軍総括・田沼意尊が、“当然に幕府中枢と連携し合い、陸海からの那珂湊周辺への砲撃戦で以って、浪士らが散り散りになる筈と想定していたこと”が分かります。・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩庁の部将(※諸生党幹部のこと)・筧政布(かけいまさのり:※通称は助太夫)が、兵数百人を率いて、陸奥福島や、同二本松、下野宇都宮、同壬生の諸藩兵と共”に、「常陸国額田」に「進軍」する・・・も、“浪士の林正徳(※通称は五郎三郎、藩校・弘道館の元舎長、元潮来郷校掛)や、中村重明(なかむらしげあき:※通称は親之介、元水戸藩士)、飯田利貞(※通称は軍蔵、元笠間藩郷士)らの潮来勢及び筑波勢”から、「邀撃(ようげき:=迎撃)」される・・・と、「大敗」す。(=額田の戦い)【綱要】・・・このように・・・史料では、浪士達の出身勢力を「潮来勢」とか「筑波勢」などと表記しており・・・“潮来勢が完全に壊滅したとか、筑波勢が大発勢に完全に吸収されて麾下となったなど”という認識ではありません。・・・それにしても、その機動力や精神力が・・・“ものを言う”・・・“白兵戦においては、潮来勢や筑波勢と呼ばれた一派が、かなり強かったこと”が分かります。
      ※ 同年9月9日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、「下総佐倉藩」に対して、「常陸国潮来」への「出兵」を命じる。【綱要】・・・佐倉藩は、これまでも・・・筑波勢とほぼ同じ勢力と考えられていた潮来勢への・・・さながら対応専属部隊として、追討幕府軍の指揮下にありました・・・が、追討幕府軍総括・田沼意尊としては、本隊に従う佐倉藩兵を分団してまで・・・“新生潮来勢が、次から次へと湧いて出て来るような処を、軍事的に抑え込むという戦略だったよう”です。・・・
      ※ 同年同日:“領主・山野邊義芸(※主水とも)が降伏した後、尚も助川陣屋(※助川海防城とも)で抵抗し続けていた家臣ら”が、力尽き・・・この日、「助川陣屋」が「落城」する。・・・領主本人は、同年9月5日時点で二本松藩兵に降伏していました・・・が、その後五日間も屈しなかったとは・・・。陸上からの砲撃戦や銃撃戦、そして白兵戦なども、単発的に行われていたことは、想像に容易く・・・。・・・領主自らによる配下達への説得交渉なども、あったのかも知れません。・・・或いは、落城の最後まで反抗し続けていたのは・・・それまで、重傷を負って助川陣屋に匿われる格好となった浪士の大津彦之允や油田敬之介などの筑波勢一派の残党であったかも知れませんね。・・・
      ※ 同年同日:“浪士の林正徳(※通称は五郎三郎、藩校・弘道館の元舎長、元潮来郷校掛)や、藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)、飯田利貞(※通称は軍蔵、元笠間藩郷士)らの潮来勢及び筑波勢”が、「常陸国額田」を発して、「同国田彦(現茨城県ひたちなか市田彦)」に至り、「宇都宮藩兵」を「本国」まで「敗走」させる。【綱要】・・・潮来勢及び筑波勢は・・・“これより2日前の額田の戦いで敗走していた宇都宮藩兵が田彦に駐屯している”・・・との情報を得ていた模様です。・・・そのため、“包囲攻撃を敢行し、撃破に成功した”とのこと。・・・各個撃破は、陸戦の常套手段であり、目まぐるしいほどに移り変わる戦況においては、“活きた情報は、かなり貴重であった”かと。
      ※ 同年9月10日:“浪士の林正徳(※通称は五郎三郎、藩校・弘道館の元舎長、元潮来郷校掛)らの潮来勢”が、「祝町(現茨城県東茨城郡大洗町磯浜町)」へ「帰陣」する・・・と、“藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)、飯田利貞(※通称は軍蔵、元笠間藩郷士)らの筑波勢”は、「平磯」へ「帰陣」する。【綱要】・・・やはり・・・潮来勢と筑波勢とは・・・どちらに主導権があったか? は別にしても・・・“あくまでも別集団ではあるものの、共同作戦や共同歩調を採っていた”と考えるべきでしょう。
      ※ 同年9月11日:「幕府」が、“関東及び陸奥地方”へ令して・・・“常陸と下野における逋亡の徒”・・・を、厳に「追捕」させる。【綱要】・・・
      ※ 同年9月12日:“浪士の跡部小藤太(あとべことうた:※武田正生の三男であり、分家筋の跡部小藤太正直の養子、元水戸藩士)”が、“実父の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)の意”を受けて・・・“朝廷に奉る所あり”・・・と、“松平福長(まつだいらふくなが:※通称は福之介、元水戸藩士)や、杉山安太郎(すぎやまやすたろう:※元水戸藩士)、太宰天達(だざいあまたつ?:※通称は清衛門、清右衛門とも、元水戸藩士)ら”とともに「那珂湊」を出て、「潜行」する・・・も、この日、「跡部小藤太」と「松平福長」が、「常陸国飯島村(現茨城県鉾田市飯島)」にて、「土兵」により取り囲まれ、「福相院(現茨城県鉾田市上沢)」にて、ともに「自刃」する。・・・また、「杉山安太郎」も「笠間」にて捕らえられ・・・「太宰天達」も、「常陸国宍倉村(現茨城県かすみがうら市宍倉)」にて、同年10月20日に「自刃」する。【綱要】・・・文中の「土兵」とは・・・その現地、つまりは飯島村の民兵のこと。
      ・・・“武田正生の三男であった”とされる跡部小藤太の没年齢については不明です・・・が、松平福長については、享年34と伝わり・・・杉山安太郎については、これまた詳細不明。・・・太宰天達については、享年36。
      ※ 同年9月13日:「幕府」が、“関東及び陸奥地方”へ令して・・・“常陸と下野における逋亡の徒を捕らえた後、その罪状が明らかな者に対しては、直ちに処断する事”・・・を許す。【綱要】・・・このように、“厳しい御達し”となった背景には・・・逋亡の徒らが各村々にて匿われてしまう可能性もあったからかと。・・・各村々の人々からすれば、つい近頃まで農民などとして同じ様に働いていた仲間同然の者達でしたから。・・・いずれにしても、これにより・・・“捕縛後は、問答無用にて斬り捨てる”ことも・・・出来る訳でして、“地域感情というもの”を考慮せず、ただひたすらに幕府に従おうとする人々は、捕縛した者らを丁重に取り調べることなどは少なかったのでは? とも想いますし、この時に、徐々に水戸藩政を主導しつつあった諸生党からすれば・・・“幕府から、良い口実を与えて貰えた”・・・ということになるのでしょう。
      ※ 同年同日:「下総佐倉藩」が、「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」に対して、“常陸国潮来への出兵遅延に関して”を、「弁明」する。【綱要】・・・?・・・きっと、“佐倉藩内のゴタゴタによって、潮来出兵が遅延していたこと”を物語っているかと。・・・それまでの佐倉藩の出兵先であった常陸国内で行なわた戦闘も凄まじく、相当な人的損失もあったでしょうし・・・また、佐倉藩内の様相でさえ・・・尊皇攘夷派に傾く士民らを多く抱えていたため、それどころではなかったかと。・・・当時の下総佐倉藩にしてみれば・・・この頃は、既に・・・“元々、筑波勢を排除するためとして追討幕府軍が編成されていた筈なのに、いつの間にやら自領地と近隣地域とも云える潮来へ、新たに発生して来る潮来勢を何とかしろ!” との命令であり・・・かなり複雑な心情が伴なっていたかと。・・・
      ※ 同年9月14日:「幕府」が、「監軍(=軍監)・高木宮内(たかぎくない)」を「常陸国塩ヶ崎(現茨城県水戸市塩崎町)」へ・・・「監軍代・日根野藤之助(ひねのふじのすけ)」に「歩兵隊」を率いさせ「同国中根(現茨城県ひたちなか市中根)」へ・・・「水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)」を「同国部田野(現茨城県ひたちなか市部田野)」へ・・・「監軍・戸田五助(とだごすけ)」を「同国夏海(現茨城県東茨城郡大洗町成田町にある夏海湖付近)」へ・・・と、それぞれ「進軍」させ・・・“鹿島地方より北上する陸奥棚倉及び下総佐倉の藩兵らと共に、大発勢や筑波勢・潮来勢が拠る那珂湊”を、「包囲」させる。【綱要】・・・これらは・・・“陸上における大包囲網作戦”です。・・・
      ※ 同年9月16日:“水戸藩庁(=水戸城)を拠点とする家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら諸生党”が、“浪士の立原韻(※同年8月23日戦死、通称は朴次郎、号は祐堂、徒士頭、彰考館総裁の立原翠軒の孫)や、田原道綱(たわらみちつな)、梅澤鐡次郎(うめさわてつじろう)、大津彦之允(※同年9月5日戦死)、川俣渉(※通称は茂七郎、出羽松山脱藩浪士)らの首”を、「梟(きょう)」し・・・“村樫易王丸(むらかしいおうまる)、昌木晴雄(※号は宗仙、下総国結城の神職出身、下野国佐野の元開業医)、井口半兵衛(いぐちはんべえ)、今瀬伊織(いませいおり)ら”を、「磔刑」に処す。【綱要】・・・やはり、“これより3日前の幕府からの御達しを口実”として・・・。私(筆者)が個人的に、“特に酷過ぎる扱いだった”と感じるのは・・・立原韻などの件。・・・既に戦死していた彼らを梟首するとは・・・“まるで、極悪人扱い”ですし・・・“当然に、その首を塩漬けなどして保存していた筈であり、予め準備していた”・・・としか考えられません。
      ・・・つい近頃まで同じ様に、水戸藩(水戸徳川家)で働く者同士であったにも拘らず、ここまで冷徹になれるものかと。・・・更に云えば、その死後においても、死者や死者の一族らを辱しめることは・・・武士に限らず、一般的な日本人の死生観からすれば、如何なものかと。・・・“かつての西洋で行なわれた魔女狩りの如く”の、このような処刑場面を・・・諸生党が仕切る水戸藩庁(=水戸城)であったとは云え・・・しかも、儒教的思想の影響が大きい「水戸学」を育んだ水戸の地で・・・反対派とされる激派や鎮派の者達とその一族・・・ひいては、当時の民衆へも見せ付ける・・・という真意については、到底理解出来ません。・・・それに、このような不始末では・・・火に油を注ぐような行為であって、結局は・・・“武士道が通じぬ奴ら”・・・と、相手方の感情を、更に激しく燃え上がらせるだけだったでしょう。・・・正直に云えば、諸生党の方達には、もう少し冷静に物事を判断し、相手方の粛清や根絶、完全なる水戸藩政掌握を目指すのではなく・・・迫り来る西欧列強諸国の動向や、民衆の声などを考慮して欲しかった。
      ・・・いずれにしても、諸生党勢も極限状態に陥っていた事は理解出来るのですが・・・こんな状況は、“長州藩包囲網についても、そうです”が・・・外からみれば、“格好の実験場”となり、那珂湊付近の情勢についてを・・・“まさに望遠鏡を用いて、太平洋上から覗かれていた訳です”から・・・。・・・“後世の者が、とやかく言っても、栓無きこと”なのですが・・・。
      ※ 同年同日:“浪士の林正徳(※通称は五郎三郎、藩校・弘道館の元舎長、元潮来郷校掛)や、井田好徳(※通称は平三郎、因幡とも、元水戸藩士)、朝倉景行(※通称は源太郎、元水戸藩士)ら”が、同志(=潮来勢)を率いて、「常陸国大場村(現茨城県水戸市大場町)」にて、「追討幕府軍」を破る・・・と、次いで、「同国島田(現茨城県水戸市島田町)」や“同国大貫(現茨城県東茨城郡大洗町大貫町)附近へ退きながら”も、「交戦」し・・・「涸沼川(ひぬまがわ)」を挟んで「対峙」する。【綱要】・・・
      ※ 同年9月17日:“幕府目付(=監軍)・戸田五助率いる追討幕府軍”が、“上野高崎、下総佐倉、陸奥棚倉の三藩の兵ら”と共に、「常陸国夏海」を発して、「同国大貫」に迫り・・・次いで「同国磯浜」に向かう・・・が、これに、“浪士・林正徳(※通称は五郎三郎、藩校・弘道館の元舎長、元潮来郷校掛)らの潮来勢”が、拒んで「交戦」する。・・・また、「幕府軍艦」が、“常陸国大洗の海岸を巡視する”・・・とともに、“中根口にあった幕府歩兵隊”が、“家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らの兵(=諸生党勢)”と共に、「同国部田野の原(現茨城県ひたちなか市部田野付近)」及び「同国前浜(現茨城県ひたちなか市前浜)」を「攻撃」する。【綱要】・・・尚、この時の幕府海軍に所属していた艦船は、黒龍丸(こくりゅうまる)。・・・但し、この船は・・・元はと云えば、越前福井藩が購入し幕府へ献上した外国製の輸送船。・・・当時、これに数門の大砲を搭載して軍艦とした模様。
      ・・・いずれにしても、この黒龍丸が洋上に展開し・・・陸上では追討幕府軍と水戸藩諸生党勢が共同して那珂湊付近を包囲しながら・・・黒龍丸が、陸上への艦砲射撃を行なった訳です。・・・
      ※ 同年同日:“家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら諸生党が藩政を握る水戸藩”が、“浪士らを追討する諸陣営”に対して・・・“常陸国助川附近に屯集する徒の警戒を厳とするように”・・・と令す。【綱要】・・・
      ※ 同年9月18日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、「陸奥磐城平藩」に対して・・・“常陸国手綱(現茨城県高萩市上手綱及び下手綱)附近に出兵させ、同国助川を脱出する浪士を捕らえるように”・・・と命じる。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“幕府の歩兵頭並(=軍監)・北条新太郎(※幕府旗本)、持筒組頭・深津弥左衛門(ふかつやざえもん)、作事奉行・岡部長常ら”が、“水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)の兵(=諸生党勢)を先鋒とし、常陸国部田野の原を経て平磯口へと迫らせる”・・・と、“浪士の藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)や飯田利貞(※通称は軍蔵、元笠間藩郷士)らの筑波勢”を、「虎塚(現茨城県ひたちなか市中根の虎塚古墳付近か?)」にて破り・・・「六軒家(現茨城県ひたちなか市中根付近か?)」を焼く・・・も、“那珂湊に屯集していた浪士の浅田富之允(あさだとみのじょう:※元水戸藩士)や村田正興(むらたまさおき:※通称は理介、元水戸藩郡奉行)の兵”が、“市川弘美の兵(=諸生党勢)を横撃”し、これを「敗走」させ・・・更には、“期に後れたる壬生藩兵”が、「苦戦」して「潰走」する。
      ・・・また、“追討幕府軍の一隊”が、「柳沢口(現茨城県ひたちなか市柳沢付近)」から「峰山(現茨城県ひたちなか市峰後付近)」に掛けてを「砲撃」する・・・も、夜に入ると・・・“浪士・大胡資敬(※通称は聿蔵、変名は菊地清兵衛、元水戸藩士)の兵”が、これを「襲撃」して破る。【綱要】
・・・彼我の兵力差が歴然とする中にあって・・・“まさに一進一退という戦況”と云えます。・・・
      ※ 同年同日:“同年7月3日に筑波勢を除名された田中愿蔵(※郷校時雍館の元館長)率いる一団(≒田中隊)”が、“追討幕府軍等により既に落城し空となっていた助川陣屋(※助川海防城とも)”へ「入城」する・・・と、ここを拠点として、再び「追討幕府軍」と、「激戦」を繰り広げる。・・・同年7月28日に、郷校・時雍館を拠点として、当時1,000人超と云われる規模(※一説には3,000人)の鯉渕勢と交戦した田中愿蔵らが、再び・・・。一言で云えば、「しぶとい」・・・。
      ※ 同年9月19日:“常陸国夏海にあった追討幕府軍が、陸奥棚倉、上野高崎、下総佐倉の藩兵ら”と共に、「同国大貫」に「進軍」し、「同国磯浜」へ迫る・・・と、“浪士の林正徳(※通称は五郎三郎、藩校・弘道館の元舎長、元潮来郷校掛)や、井田好徳(※通称は平三郎、因幡とも、元水戸藩士)、朝倉景行(※通称は源太郎、元水戸藩士)、国分信義(※通称は新太郎、元水戸藩士、元新徴組)ら”が、「川又口(現茨城県水戸市川又町付近)」を守って、“同国富士山(現茨城県東茨城郡大洗町大貫町の浅間神社付近か?)の敵”を、「迎撃」した・・・が、「林正徳」が「戦死」。【綱要】・・・林正徳の享年33。・・・ここで、林正徳を喪(うしな)ったのは、潮来勢としては、かなりの痛手だったかと。・・・
      ※ 同年同日夜半:“浪士の眞木景嗣(まきかげつぐ:※通称は彦之進、元水戸藩郡奉行)や栗田寛剛(※通称は八郎兵衛、元水戸藩奥右筆)ら”が、「那珂川」を渡って、「常陸国小泉(現茨城県水戸市小泉町)」にあった「追討幕府軍」を破る・・・と、“浪士・谷忠吉(※通称は鉄蔵、元水戸藩士)の兵”も、“同国柳沢水車場(現茨城県ひたちなか市柳沢字下瀬)から同国福平(現茨城県高萩市福平)にかけて分散していた追討幕府軍”を、「襲撃」する。【綱要】・・・彼我の兵力差が歴然とする中にあっては、襲撃に次ぐ襲撃を選択する戦法も、致し方ないことかと。・・・
      ※ 同年9月20日~21日:“大貫口(現茨城県東茨城郡大洗町大貫町付近)にあった追討幕府軍”が、再び「常陸国磯浜」に迫って、「火」を放つ・・・も、“浪士の井田好徳(※通称は平三郎、因幡とも、元水戸藩士)や朝倉景行(※通称は源太郎、元水戸藩士)ら”が、これを「迎撃」して、“陸奥棚倉や下総佐倉の藩兵ら”を「敗走」させる・・・と、“次いで、同国大貫にあった幕府陣営(※高崎藩のこと)”に襲い掛かり、これを破る。【綱要】・・・この頃の潮来勢としては、“林正徳(※通称は五郎三郎、藩校・弘道館の元舎長、元潮来郷校掛)の弔い合戦”としていた模様です。・・・それにしても、強い・・・。
      ※ 同年9月22日:「追討幕府軍」が、“大挙して、常陸国磯浜を襲い、市街へ火を放つ”・・・と、“浪士の井田好徳(※通称は平三郎、因幡とも、元水戸藩士)や朝倉景行(※通称は源太郎、元水戸藩士)ら”が、これに「奮闘」して当たる・・・も、遂に「敗退」す。【綱要】・・・彼我の兵力差があり過ぎ?・・・
      ※ 同年同日:“那珂川以南の地が、悉(ことごと)く追討幕府軍に帰す”・・・と、この日、“潮来勢の祝町陣所(現茨城県東茨城郡大洗町磯浜町)へ退いていた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役、水戸藩主名代)の元”に、“幕府陣営からの講和使”として、「手代・田中銈之助(たなかけいのすけ)」が「来訪」する。【綱要】・・・?・・・
      ※ 同年9月25日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、「笠間」から「水戸」へと「進軍」し・・・その「本営」を、「水戸藩校弘道館」に置く。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“水戸中根口の浪士追討軍(≒追討幕府軍など)”が、兵を分け・・・“水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)の隊は、常陸国磯前(現茨城県東茨城郡大洗町磯浜町の大洗磯前神社付近)から”・・・“壬生藩兵と幕府歩兵頭並(=軍監)・北条新太郎(※幕府旗本)の兵及び作事奉行・岡部長常らの諸隊は、同国部田野から”・・・共に、「同国平磯」を「攻撃」する・・・と、“磯前口にいた守将・三橋弘光(※通称は金助、金六とも、変名は山形半六、元水戸藩士)は、寡兵にて敵わず退く”・・・も、“浪士・藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)ら”は、「壬生藩兵」を「邀撃(=迎撃)」して、「砲戦」を行なう。・・・すると、「浪士追討軍(≒追討幕府軍など)」が、“北風に乗じて、同国平磯を焼き”・・・遂に、これを「陥落」させる。・・・これにより、“筑波勢守将・田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)らは、神輿(みこし)を奉じながら那珂湊に移ることを余儀なくされる”ことに。
      ・・・また、“当の那珂湊”では・・・“将の谷忠吉(※通称は鉄蔵、元水戸藩士)や井田好徳(※通称は平三郎、因幡とも、元水戸藩士)ら”が、「同国部田野」に出でて、「浪士追討軍(≒追討幕府軍など)」を「挟撃」し、これを退ける。【綱要】
・・・「神輿」とは、すなわち前水戸藩主・徳川斉昭(※烈公)の神主のこと。つまりは、位牌。・・・いずれにしても、この日に行なわれたのは・・・浪士追討軍(≒追討幕府軍など)からすれば、「大包囲網作戦」であり・・・追われる浪士民らにすれば、「決死覚悟の那珂湊突入作戦」・・・と云ったところでしょうか?
      ※ 同年9月26日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の名代とされた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)”が、“水戸藩元家老の鳥居忠順(※通称は瀬兵衛)や大久保忠貞(※通称は甚五左衛門、甚十郎とも)ら従士30名余り”を従えて「那珂湊」を発ち・・・「常陸国夏海」にあった「幕府陣営」に赴く。・・・そこで、“松平頼徳ら”は、「幕府監軍・戸田五助」と会見し・・・“共に江戸に向かうこと”・・・を約す。【綱要】・・・何の因果か、幕府から追討される立場とされてしまった松平頼徳らは・・・結果として、自身らの命を以って、幕府に対して真意を訴え、且つ大発勢を救うためとして・・・この四日前の幕府方手代・田中銈之助による講和交渉を受け容れることとなり・・・幕府陣営へこの日、出頭した訳ですが・・・。
      ※ 同年同日:“助川陣屋(※助川海防城とも)に籠城していた田中愿蔵(※郷校時雍館の元館長)率いる一団(≒筑波勢を除名された田中隊)”が、“浪士追討幕府方の二本松藩兵や諸生党勢らの大軍に包囲されたため、已む無く城を脱出する”こととなり・・・「高鈴山(現茨城県日立市と常陸太田市の境)方面」へと落ち延びる。・・・いずれにしても、筑波勢を除名された田中隊とすれば・・・八日間は、助川陣屋(※助川海防城とも)で持ち堪えていたことになりますが・・・。
      ※ 同年9月27日:“幕府監軍・戸田五助に率いられ、江戸に向かっていた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役、水戸藩主の名代)らの一行”が・・・“堅倉宿(=片倉宿)手前の西郷地辺り”において・・・“追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)と水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)の命を受けた追手”によって「捕縛」され・・・遂に「水戸」へと「召喚」されて、“下市町の会所(現茨城県水戸市宮内町の吉田神社付近か?)”に、「投獄」される。【綱要】・・・この前日に、幕府監軍・戸田五助と約定を交わした内容を、反故とするかの如く・・・。・・・今で云えば、“完全に紳士協定違反的な行為”ですね。
      ・・・いずれにしても、これによって・・・当時の幕府監軍・戸田五助という人物は、水戸藩(水戸徳川家)、若しくは大発勢に対して同情的であったことと・・・そして、おそらくは・・・水戸藩家老・市川弘美からの要求を良しとする追討幕府軍総括・田沼意尊による総合的な判断が、監軍・戸田五助とは異なっていたこと・・・を物語るのかと。・・・
      ※ 同年9月28日:「幕府」が、“常陸と下野における浪士追捕のためとして、軍艦・黒龍丸を派遣すること”・・・を「諸藩」へ「通達」して・・・“陸海共同”による「攻撃」をさせる。【綱要】・・・しかしながら・・・この時の黒龍丸は、同月17日には既に、大洗海岸を巡視し、その直後から実戦配備されていたことが明らかなため・・・この記事については・・・元々は外国製輸送船を改装した新生軍艦・黒龍丸が、実際に大洗海岸へ配備され、相応の戦果を得たことにより・・・“時の幕府が、海軍力としての機能性を確信”し・・・引いては・・・“当時強力な軍艦を保持して対異国政策を主導する立場である”・・・と、“改めて世間に主張するため、諸藩へ喧伝した”・・・と捉えるべきでしょう。
      ※ 同年同日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、“松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役、水戸藩主の名代)の身柄”を・・・“水戸藩支族であり、家老格の松平頼遵(まつだいらよりちか?:※通称は万次郎、安房守とも)邸”における「禁固」とし・・・“その家士及び従衛士の悉(ことごと)くについて”を、“水戸城中”における「拘禁」とする。・・・尚、“松平頼徳の家士であった近習・小幡友七郎(おばたともしちろう:※宍戸藩士)ら7名”が・・・“主君の難を救えなかった事を恥じて”・・・この日、「自刃」した。【綱要】・・・松平頼徳らについては、とりあえず禁固処分や拘禁処分でしたので・・・極刑という訳ではありませんでしたが、このように、“罪人扱いとされた”のは、明白です。・・・そのため、いわゆる殉死者を、7名も出してしまいました。・・・
      ※ 同年9月29日:“家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら諸生党が藩政を握る水戸藩”が、“追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)の命”に依り・・“藩主名代とされていた松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)に随従した藩士の鳥居忠順(※通称は瀬兵衛)や大久保忠貞(※通称は甚五左衛門、甚十郎とも)ら”を・・・「投獄」、或いは「謹慎」に処す。【綱要】・・・前日に続く一連の処分でしたが、この日に行なわれたのは・・・あくまでも、水戸藩による自藩士達への処分です。・・・
      ※ 同年9月30日:「奥州塙代官・安井仲平(やすいなかひら:※号は息軒、儒学者)」が、「水戸脱藩浪士・高橋幸之介(たかはしこうのすけ)」を「捕縛」する。【綱要】・・・「奥州塙」とは、現福島県東白川郡塙町。・・・ちなみに、当時の安井仲平は・・・高齢のため、実際には奥州塙へは赴任しておらず、“江戸住まい”でしたので、現実に高橋幸之介を捕らえたのは、塙代官配下の者となります。・・・「儒学者・安井仲平」としての業績は・・・“江戸期儒学の集大成を成す人物と評価され、近代漢学の礎を築いた”・・・とされ・・・その門下生には・・・谷干城(たにかんじょう:※土佐藩士、後の明治新政府初代農商務大臣)や陸奥宗光(むつむねみつ:※紀伊藩士、後の明治新政府第6代農商務大臣など歴任)・・・など延べ2,000名に上る逸材が輩出されています。
      ・・・もしかすると・・・この日、安井仲平に捕らえられた高橋幸之介は、このようなこともあって・・・“当時から儒学者として高名な安井仲平を頼り、且つ水戸藩の主張や事情説明を訴え出よう”・・・と、奥州塙代官所へ自ら投降したのかも知れません。・・・尚、安井仲平の妻「佐代」は、森鴎外(もりおうがい)の歴史小説『安井夫人』のモデルとされます。
      ※ 同年9月内:“家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら諸生党が藩政を握る水戸藩”が、“浪士・田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)らに与する元家老・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎)ら”に対する「俸禄」を止める。【綱要】・・・“俸禄を止める”とは・・・もはや、水戸藩主との主従関係は成立しておらず・・・“藩とは関わり無し”・・・と公言したのであり・・・事情はともあれ、筑波勢に加担することになった元家老・武田正生ら一連の者達を、“水戸藩士とは認めず、ただの浪士身分”とした訳です。・・・但し、あくまでも、藩政を握っていた諸生党の面々による独断的な処分とも云えます。・・・それに、“実際に筑波勢へ参加した者達としても、当然の如くに、浪士身分での挙兵との認識だった”でしょうが。・・・それにしても・・・“建前上、水戸藩の内乱を鎮めるためとして藩主から差し向けられた筈の大発勢参加者本人のみならず、その家族達までをも、水戸藩(水戸徳川家)との関わりを無くしてしまえ!” という残酷な処分だったかと。・・・

      ・・・尚、同西暦1864年(元治元年)9月頃まで・・・“那珂湊の水戸藩営大砲鋳造所では、鉄製大砲が鋳造されていた”と考えられ・・・結果として・・・“水戸藩営大砲鋳造所が操業して、実際に製造出来た鉄製大砲の総数は、20数門”と云われております・・・が、正確な数については不明とされます。
      ・・・ちなみに・・・この「水戸藩営大砲鋳造所」が、“この年に操業を停止させられた直接的な理由”としては・・・「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」に伴なって、「大発勢」と呼ばれる多数の尊皇攘夷派士民を含む水戸藩内乱鎮撫軍に対して、筑波山で挙兵した「筑波勢(≒後の天狗党勢)」が・・・いつの間にやら・・・那珂湊で大発勢に加勢することとなり・・・結果として・・・(筑波勢)追討幕府軍及び水戸藩門閥保守派(=諸生党)と交戦する事態に発展。・・・現実には、大発勢と筑波勢(≒後の天狗党勢)の一部などが拠った那珂湊を、陸地からだけではなく、幕府海軍・黒龍丸などの艦船が展開及び包囲して、洋上から艦砲射撃を行なったため・・・“同年10月5日前後頃、水戸藩営大砲鋳造所内の反射炉が破壊されたためだった”と考えられます。・・・製鉄炉たる反射炉が壊れてしまえば、大砲製造などは出来ませんので。・・・


      ※ 同年10月1日:「幕府」が、“常陸宍戸藩主・松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)及び、その父である松平頼位(まつだいらよりたか:※通称は将監、字は子有、号は豊山)”の「官位」を「剥奪」し・・・“頼位の身柄”を、「羽前新庄藩邸」への「御預(おあずけ:=幽閉)」とし・・・“頼徳の子息及び宍戸藩家老・中野敬助(なかのけいすけ)を含む宍戸藩士ら40名余り”を、「讃岐高松藩江戸藩邸」への「御預」とする。・・・更に「幕府」は、「宍戸藩江戸藩邸」を「没収」し、“陸奥守山と常陸府中の二藩の兵”に、そこを「監守」させる。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“追討幕府軍と諸藩兵ら”が、「常陸国岩船山(現茨城県東茨城郡大洗町磯浜町)」や「同国柳沢」などから・・・那珂湊の「イ賓閣(いひんかく)」や「反射炉」、「峰山」など・・・の“大発勢や筑波勢、潮来勢が居残る拠点”を、一斉に「砲撃」する。・・・そのため、“那珂湊に屯集していた主将・榊原照煦(※通称は新左衛門、元水戸藩家老)”が、「幕府」に対して・・・“止戦中の筈であり、武士に有るまじき違約行為である”・・・と詰(なじ)る「書状」を送る。【綱要】・・・「イ賓閣」とは、かつて水戸藩2代藩主・徳川光圀(※義公)が、現茨城県ひたちなか市山ノ上町湊公園内の日和山、別名御殿山に建てた別荘のこと。尚、「イ」の文字は、正しくは「夕」の下に「寅」という字。・・・いずれにしても、榊原照煦(※通称は新左衛門、元水戸藩家老)などの那珂湊に居残っていた諸勢の面々としては・・・“講和交渉の代表者たる常陸宍戸藩主・松平頼徳が、この頃既に水戸で禁固刑を受けていたことなど、知る由も無かったこと”・・・を物語ってもおります。・・・
      ※ 同年同日:“助川陣屋(※助川海防城とも)の陥落後、高鈴山方面へと落ち延びた田中愿蔵(※郷校時雍館の元館長)率いる一団(≒筑波勢を除名された田中隊)”が・・・“心身ともに憔悴し、慣れぬ山中を迷いながら”・・・も、常陸国北部の「八溝山(やみぞさん)」へ辿り着く・・・が、その山頂にある八溝嶺神社(現茨城県久慈郡大子町上野宮)の社前において、隊を解隊して・・・各々の隊士が散り散りに山を下りて行く。・・・この時・・・“山頂の八溝嶺神社の社前に辿り着いた者は、300名程であった”・・・と伝わりますが、そのほとんどの者達は、最終的に陸奥棚倉藩を中心とする追討幕府軍によって捕縛され、後に斬首とされてしまいます。・・・尚、田中愿蔵が八溝山頂で、この時詠んだとされる句が、二首伝わっており・・・『古里の 風の便りを 聞かぬ間は 我が身独りの 八溝哀しき』・・・『青葉にて 散るとも葦(よし)や 紅葉の 赤き心は 知る人ぞ知る』。・・・
      ※ 同年10月2日:「追討幕府軍」が、前日に続けて・・・“大発勢や筑波勢及び潮来勢が居残る那珂湊和田台場(現茨城県ひたちなか市和田町2丁目付近)に向けて”・・・“猛烈な砲撃”を仕掛ける。・・・停戦中の筈なのに・・・。
      ※ 同年10月3日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、「武蔵忍藩」に対して・・・“那珂湊を攻撃していた佐倉藩兵への応援”・・・を命じる。【綱要】・・・つまりは、武蔵忍藩に「後詰め」を命じたのです・・・が、これは・・・佐倉藩が潮来出兵時に遅延した理由と関係しているのでしょうか?・・・
      ※ 同年同日:“奥州塙代官所に捕らえられた高橋幸之介(※元水戸藩士)”が、「斬刑」に処される。【綱要】・・・この時の高橋幸之介は、奥州塙代官・安井仲平(※号は息軒、儒学者)に対して、“何らかの、ダイイング・メッセージを伝えられた”のでしょうか?・・・残念ながら、これについても不明となります。・・・しかし、“高橋幸之介の斬刑執行まで、約4日間の猶予がありましたので”・・・。
      ※ 同年同日:“この日も追討幕府軍によって猛烈な砲撃を仕掛けられていた那珂湊屯集の大発勢や筑波勢、潮来勢ではあった”・・・が、“講和交渉の代表者たる松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)らが拘禁された事実を知る由もなく”・・・ひたすらに停戦の約定を守り続けて、反撃出来ず。・・・・・・
      ※ 同年10月4日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が・・・“小姓組与頭・高山安左衛門(たかやまやすざえもん)の軍務怠慢を責めて”・・・「高山安左衛門」に「小普請組入り」と「逼塞」を命じる。【綱要】・・・現代で云う、降格人事及び自宅謹慎処分。・・・この頃既に、追討幕府軍内部の軍務取締りが始められていた模様です・・・が、この処分が・・・ただ単に、“当時の大発勢や筑波勢及び潮来勢に対する同情心や、諸勢に対する共感的な行為が、元にあった”としたなら・・・軍務怠慢という理由で以って、何者であっても処分出来てしまうような・・・気も致しますが。
      ※ 同年同日:“八溝山頂で自らの隊を解隊した田中愿蔵(※郷校時雍館の元館長)”が、「奥州真名畑(現福島県東白川郡塙町真名畑)」において、「塙代官所」によって「捕縛」される。・・・・・・
      ※ 同年10月5日:「幕府」が、“水戸藩家老格・松平頼遵(※通称は万次郎、安房守とも)邸において禁錮とされていた宍戸藩主・松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)”に対し・・・「大目付・黒川盛泰(くろかわもりやす:※近江守とも、幕府旗本)」及び「目付・羽田正見(はねだまさみ:※十左衛門とも、幕府旗本)」を、「検使」として遣わして、「死」を賜う。・・・また、この時・・・“松平頼徳の家臣ら1,000名余り(=大発勢や筑波勢、潮来勢の一部を含む)”が、「追討幕府軍」に対して、「投降」する。【綱要】・・・「死を賜う」とは、“切腹する権利を与えた”ということ。・・・これによって・・・表向きには、“松平頼徳の武士としての面目が保たれ、幕府が尊厳ある死を保障した”という意味合いを持ちます。
      ・・・しかしながら、そもそもの話として・・・結果的にも、“幕府へ真意を訴える機会を与える”という口実によって誘い出される格好となってしまった・・・松平頼徳が率いる大発勢が・・・行き掛かり上であったとは云え・・・“急進的な尊皇攘夷思想を唱える過激派勢力と見做されていた筑波勢や潮来勢との狭間で、野合(やごう)した”・・・との「結果責任」を問われて、且つ“切腹させられた”ことに他なりません。・・・尚、松平頼徳は、この切腹に際して・・・「差し来たる銀太刀大小は、粗末ながら万次郎殿へ進上致し度きにつき」・・・と、同族の松平頼遵に対し、“自身の分身ともされる大小の刀を託した”とのこと。・・・
      ※ 同年同日:「追討幕府軍」と“諸藩兵”が、大挙して陸と海から「那珂湊」を「包囲」し・・・「佐倉藩兵」は、「常陸国岩船山」から・・・“幕府目付(=幕府軍監)・小出順之助(※幕府旗本)の手勢”は、「同国小泉村」から・・・「幕艦・黒龍丸」は、「海上」から・・・「イ賓閣」や、「和田台場」、「反射炉」など、悉(ことごと)くを「砲撃」する。・・・そして、“書院番頭・織田信裕(※幕府旗本)と水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)の兵(=諸生党勢)”、並びに「陸奥福島藩」は、「同国部田野」から・・・「大番頭・神保相徳(※幕府旗本)」は、「柳沢口」から・・・共に並び進みて「峰山」を廻り・・・遂に、これを「陥落」させる。【綱要】・・・おそらくは・・・“この日以前に、那珂湊・水戸藩営大砲鋳造所の反射炉などは、徹底的に破壊され、結果的に操業停止に追い込まれていた”と考えられます。
      ・・・いずれにしても、“追討幕府軍及び諸藩兵が、停戦中にも拘わらず、猛烈な砲撃を加えた”ということは・・・すなわち、このことが、“当時の幕府の真意”を表しており・・・同時に・・・“幕府の威信を取り戻せる”と信じていたからに他なりません。・・・たとえ徳川御三家ではあっても、幕府を飛び越える言動や主張は許さず・・・且つ、事前に・・・“燻(くす)ぶる火の粉は完膚なきまでに叩き潰して置く”と。・・・ちなみに、同日に記載されている上記の内容・・・「松平頼徳の家臣ら1,000名余り(=大発勢や筑波勢、潮来勢の一部を含む)が、追討幕府軍に対して、投降する」・・・とは、“ここにあるような作戦行動の後の出来事だった”と考えられます。・・・大発勢や筑波勢、潮来勢などが居なくなって、云わば“もぬけの殻となった那珂湊”を包囲攻撃しても、何の意味もありませんので。・・・このように、歴史的な事柄を記録する際には・・・どうしても、記録者や当時の為政者の思惑によって、その表現方法が制約を受けるなどの影響が出てまいります。・・・これについては、致し方ない事とも想いますが、注意が必要です。
      ・・・この西暦1864年(元治元年)10月5日の出来事に関して云えば・・・あった事実としては、間違いないものの・・・時系列をハッキリさせない、或いは・・・敢えて分かり難くしているようです。・・・やはり・・・“追討幕府軍などと大発勢などとの間で以って、停戦中、或いは講和交渉中だったのか否かについての結論を、先送りせざるを得なかった”のでしょうか?・・・この10月5日の記載方法では・・・まず、“常陸宍戸藩主・松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役)の死”を伝え・・・その他の者達については、“こう相成り”・・・そして、那珂湊周辺における諸軍の動きについては、“こうだった”・・・としているのです。・・・
      ※ 同年10月6日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が・・・“歩兵頭並(=軍監)・北条新太郎(※幕府旗本)及び歩兵差図役頭取勤方・香山栄左衛門(かやまえいざえもん:※幕臣、蘭学者、米国ペリー提督の浦賀来航時の通訳者)の軍務怠慢を責めて”・・・“両名”に、「小普請入り」と「逼塞」を命じる。【綱要】・・・現代で云う、降格人事及び自宅謹慎パートⅡ。・・・
      ※ 同年10月8日:“在京する薩摩藩士・西郷吉之助(※後の隆盛)”が、“在藩していた大久保利済(おおくぼとしずみ:※通称は一蔵、正助とも、後の利通)”へ、「書状」を致し・・・“長州藩征討や水戸藩党争の情勢及び幕府の対外措置について”を報じて・・・“その所見”を告げる。【綱要】・・・“その所見を告げました”・・・か。・・・いずれにしても・・・この頃の薩摩藩の動向も、不安定と云える状況であり・・・西郷吉之助や大久保利済の間でさえ、微妙な感じでしたから・・・敢えて、所見を添えて報告したのでしょうね。・・・
      ※ 同年10月9日:「追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、“水戸で本営地としていた弘道館”を発って、“常陸国柳沢や同国塩ヶ崎などの諸陣”を、「巡視」する。【綱要】・・・早々と・・・那珂湊の防衛陣地群を破壊し尽くした後に・・・巡視した訳ですね。・・・
      ※ 同年同日:「追討幕府軍」は、“常陸部田野を攻略しよう”と・・・「小姓組番頭・井上正常(※幕府旗本)」を「総押え(≒現地司令官)」と為し・・・「福島藩兵」を「常陸国一本松(現茨城県ひたちなか市武田字一本松か?)」及び「前浜口」へ・・・「壬生藩兵」を「館山(現茨城県ひたちなか市館山)口」へ・・・“水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)の手勢”を「明神山(現茨城県ひたちなか市湊本町の明神町商店街付近か?)方面」へ・・・「宇都宮藩兵」を「馬渡(現茨城県ひたちなか市馬渡)口」へ・・・「越後新発田藩兵」を「和田台場」へ・・・“書院番頭・織田信裕(※幕府旗本)の手勢”を「雲雀塚(ひばりつか:現茨城県ひたちなか市西十三奉行のひばりヶ丘バス停付近か?)」へ・・・共に並べて「進軍」させる。・・・追討幕府軍や、これに従う諸藩兵と諸生党勢としては・・・“停戦中、或いは講和交渉中だったのか? について”を、「別の事」とし・・・
      ・・・“大発勢の代表者に死を賜い、1,000名余りの投降者を一時収容した上で”・・・各地に散在していた残存勢力(=大発勢や筑波勢、潮来勢の一部を含む)の各個撃破と、完全なる拠点制圧を目的として、この日に進軍した訳です。・・・尚、このように・・・文献上の表現が、この頃から・・・水戸藩家老・市川弘美(=諸生党)が・・・“さも、追討幕府軍の直属の傘下に組み込まれているか?”・・・のような表現に変わっております。・・・このことが意味するのは? ・・・市川弘美らの諸生党幹部らは、“幕閣の一部から、この後の新生水戸藩の匂い袋でも嗅がされていた”のでしょうか?・・・
      ※ 同年10月10日:“追討幕府軍などが大挙して常陸国部田野へ進軍する”・・・と、“浪士の井田好徳(※通称は平三郎、因幡とも、元水戸藩士)と朝倉景行(※通称は源太郎、元水戸藩士)ら”は「同国潮来」から・・・「浪士・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)」らは「同国館山」から・・・「浪士・富田知定(※通称は三保之介、元水戸藩軍事奉行)」らは「同国湊(現茨城県ひたちなか市湊本町付近)」から・・・「浪士・村田正興(※通称は理介、元水戸藩郡奉行)」らは「同国稲荷山(現茨城県ひたちなか市和尚塚)」から・・・ともに来たりて、「部田野軍総帥・田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)」を助ける。・・・更に、“浪士の藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)と飯田利貞(※通称は軍蔵、元笠間藩郷士)ら”もまた、「同国前浜」より来たりて・・・“潮来勢と大発勢及び筑波勢”が「再結集」し・・・“大規模な戦闘”となり・・・遂に、“追討幕府軍など”を「撃退」する。・・・そのため、「追討幕府軍」及び“諸藩兵ら”は、再び「包囲の策」に転じる。
      ・・・この日の時点で、追討幕府軍に投降したのは、あくまでも・・・“故松平頼徳の家臣ら1,000名余り(=大発勢や筑波勢、潮来勢の一部を含む)であり、投降場所は峰山で”・・・ということになります。・・・それにしても、追討幕府軍が全軍で以って部田野攻略を仕掛けた訳ではないので、有り得る話ではあります・・・が、別々の拠点で戦っていた潮来勢や大発勢、筑波勢などの諸勢の動きが、とても素早く・・・且つ、強かった。・・・それだけに、筑波勢挙兵時の旗頭とされ、この頃は部田野軍総帥とされていた田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)の存在意義が大きかったとも云えますが。
      ・・・そして、追討幕府軍総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)については・・・“この前日に攻略していた諸陣を巡視していた”にも拘わらず、田丸直允が部田野を守っていたことを知り得なかったのか? という疑問も湧いて来ますし・・・“故松平頼徳の家臣ら1,000名余り(=大発勢や筑波勢、潮来勢の一部を含む)も、投降していた”にも拘わらず・・・“その内の誰一人として、当時の軍事機密的な事項について、口を割らなかった”とすれば・・・追討幕府軍そのものが、1,000名余りの投降者から、停戦若しくは講和交渉の代表者たる松平頼徳の死を知られることとなり・・・云わば、「騙(だ)まし討ち」と憤慨され・・・かえって、追討幕府軍総括としての失策を問われる事態に至ったかと。・・・
      ※ 同年10月11日:“那珂湊に屯集した榊原照煦(※通称は新左衛門、元水戸藩家老)が、幕府目付(=監軍)・戸田五助と福島藩兵の陣営”へ、「書状」を致して・・・“水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)の奸謀(かんぼう:※悪巧みのこと)を告げて、もとより追討幕府軍に対して抗戦する意思など無いこと”・・・を述べる。・・・そして・・・「榊原照煦」が、“同志の鮎澤國維(あゆさわくにゆき?:※通称は伊太夫、元水戸藩士、元弘道館舎長)と三木直(※通称は左太夫、元水戸藩士)らの諸将”と、「軍議」を致し・・・“鮎澤國維らが、那珂湊の地勢そのものが守戦するのに不便、且つ糧食が窮乏するのも必然であるため、常陸国北部へ転陣すべき”・・・と唱えるも、“榊原照煦らが、これを不可”として、「議決」には及ばず。【綱要】・・・この日の軍議の際、榊原照煦らの脳裏にあったことは、いったい何だったのか?
      ・・・いずれにしても、“それまで大発勢を率いた松平頼徳が、死を賜った6日後のこと”であり・・・那珂湊の現状や水戸周辺の情勢、幕府における水戸藩(水戸徳川家)の立場、江戸に定府している藩主の意向・・・など様々な情報が錯綜していたのか?・・・それらを総合的に判断し、現実として今後の方策をどのように選択すべきかなどについて、鎮派勢力幹部達特有の考えや、悩みがあったのかも知れません。・・・
      ※ 同年10月13日:“家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら諸生党が藩政を握る水戸藩”が・・・“藩士・小池友順(こいけともゆき:※通称は安之允)ら36名が浪士軍(≒大発勢や筑波勢及び潮来勢など)に参加したこと”・・・を罰して、“それぞれの屋敷等”を、この日「没収」する。【綱要】・・・
      ※ 同年10月14日:「幕府」が、“若狭小浜や信濃高遠、信濃飯山、信濃岩村田、越後椎谷、その他甲斐や信濃、中山道に領地を持つ諸藩”に対して・・・“常陸や下野に横行した浪士が遁走(とんそう:=逃走)するという風聞を以って、これを討伐せよ”・・・と命じる。【綱要】・・・那珂湊周辺地域における大包囲網作戦の善後策ですね。これは。・・・“もしも、鼠(ねずみ)が、網を掻い潜った場合には討伐せよ”・・・と。
      ※ 同年10月16日:“同年9月29日に故松平頼徳(※大炊頭とも、字は伯生、号は繍山、宍戸藩主、水戸徳川家が本家筋に当たり慶篤の補佐役、水戸藩主名代)に随従して、水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)ら諸生党が藩政を握る当時の水戸藩により投獄されていた鳥居忠順(※通称は瀬兵衛、水戸藩元家老)や、大久保忠貞(※通称は甚五左衛門、甚十郎とも、水戸藩元家老)、山中広成(※通称は新左衛門、水戸藩から宍戸藩への元附家老)、丹羽久照(にわひさてる:※通称は恵介、元水戸藩奥右筆)、片岡常道(かたおかつねみち:※通称は為之允、元水戸藩士)ら17名と宍戸藩士・菊地荘介(きくちそうすけ)ら20名余り”が、「水戸藩」によって、この日「斬刑」に処される。【綱要】・・・“正当な取り調べ”は、期待出来る筈もなく・・・。
      ※ 同年同日:“同月4日に奥州の真名畑で捕縛された田中愿蔵(※郷校時雍館の元館長)”が、“久慈川の畔(現福島県東白河郡塙町の道の駅「はなわ」敷地内)”において、「斬首」される。・・・田中愿蔵はこの時、若干21歳。・・・尚、辞世の句は・・・「陸奥(みちのく)の 山路に骨は 朽ちるとも 猶も護らん 九重の里」・・・この「元治甲子の乱(=天狗党の乱)」における彼に対する世間の評価は、大きく別れる人物ですが、かなりの秀才であったことに違いはありません。・・・
      ※ 同年10月17日:「追討幕府軍」が、この日再び「那珂湊」を攻める。・・・“中根口の追討幕府軍及び水戸藩家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)らの諸隊(=諸生党勢)”が、「常陸国部田野」に出て、「稲荷山」と「館山」へ向かう・・・と、“明神山を守備する浪士勢と新田(現茨城県ひたちなか市○○字○○新田か?)口を守備する浪士の浅田富之允(※元水戸藩士)や、村田正興(※通称は理介、元水戸藩郡奉行)、新井直敬(あらいなおたか:※通称は源八郎、住谷信順の弟、元水戸藩士)らの諸隊”が、これらを「稲荷山」に迎え・・・“館山に屯集した武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)の兵”も、更に出でて「交戦」する。
      ・・・そして、“追討幕府軍の別動隊の一つ”が、“六軒家附近”に「陣」を構えて、「一本松」から「砲撃」する・・・と、“浪士の三木直(※通称は左太夫、元水戸藩士)と眞木景嗣(※通称は彦之進、元水戸藩郡奉行)ら”が「新田口」から・・・“富田知定(※通称は三保之介、元水戸藩軍事奉行)”は、“雲雀塚の西方”から・・・“稲荷山にあった浪士の藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)と飯田利貞(※通称は軍蔵、元笠間藩郷士)らは「平磯口」から・・・“同国潮来に屯集していた浪士”は「雲雀塚方面」から・・・共に、“一本松の追討幕府軍”を「邀撃(=迎撃)」し、「大敗」させる。・・・すると、「追討幕府軍」は、「巨砲」や「戎器(じゅうき:※刀剣、銃砲、爆発物の類などの兵器のこと)」を「遺棄」して、「撤退」するに至る。【綱要】
・・・一本松の追討幕府軍らが遺棄した巨砲や戎器は・・・当然のこととして、浪士軍?の戦利品となり、彼らの武器とされる訳です。
      ※ 同年10月18日:「追討幕府軍」が、“その精鋭”を挙げて、「中根口」より「常陸国部田野」へと「進軍」し、“其の先鋒部隊”が「雲雀塚」から「明神山」などに迫る。・・・これに対して・・・“浪士の田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)ら”が、「平磯口」へ「出陣」し・・・“浪士の藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)及び飯田利貞(※通称は軍蔵、元笠間藩郷士)”と「潮来勢」が、「防戦」する。・・・“新田口の浪士・浅田富之允(※元水戸藩士)と中軍(ちゅうぐん:※左右または前後の部隊の中央に位置する部隊のこと)の富田知定(※通称は三保之介、元水戸藩軍事奉行)の兵”もまた、「雲雀塚方面」から「応戦」する・・・も、「苦戦」。・・・しかし、“柳沢口の浪士・谷忠吉(※通称は鉄蔵、元水戸藩士)の兵”が「来援」する・・・と“形勢を挽回”し・・・終に、「追討幕府軍」を破った。・・・この交戦は、以後も数日に及ぶ。【綱要】
      ・・・大発勢と云うか、筑波勢と云うか、潮来勢と云うか、幕府方からすれば浪士軍?・・・もはや、どのように呼べば適当なのか分かりません・・・が、皆・・・相当に強いです。・・・たとえ・・・前日に追討幕府軍が遺棄した巨砲や戎器を奪取していた・・・としても、“本来の大将というべき人物”が、見当たらない軍勢の筈なのに。・・・この結束力や見事な軍略を立てていたのは、いったい誰だったのでしょうか?・・・まさに、“手負いの狼のよう”でもあります。・・・いずれにしても・・・何やら・・・短期間で、皆の意志を統一し、まるで・・・“活路を見い出さん!”・・・と奮戦しているようにも感じます。・・・
      ※ 同年同日:「追討幕府軍歩兵頭・平岡準(ひらおかじゅん:※通称は四郎兵衛、幕府旗本)」が、“常陸国岩船山に屯集していた戸田忠則(※通称は銀次郎、戸田忠敞の嫡男、元水戸藩家老)や、藤田健次郎(※健二郎、建二郎とも、とも、藤田彪の次男、信の兄、水戸藩側用人)、久木直次郎(ひさきなおじろう:※水戸藩士)、笠井権六(かさいごんろく:※水戸藩士)ら大発勢の鎮派”に対し、“同じく鎮派勢力の説得”を「依頼」をして、“陣中から、日和山(現茨城県ひたちなか市山ノ上町湊公園内、※別名は御殿山)を本営としていた大発勢主将・榊原照煦(※通称は新左衛門、元水戸藩家老)宛”に・・・“富田知定(※通称は三保之介、元水戸藩軍事奉行)を岩船山陣中へ遣わして貰いたい”・・・との「書状」を届ける。・・・またしても、各地で双方が交戦している最中に、追討幕府軍からの接触があった模様。・・・もしや?・・・“大発勢を率いていた松平頼徳が死を賜った”という事実が、当時の戒厳令のため、大発勢の鎮派勢力に伝わっていなかったのではないか?
      ・・・或いは、真逆であって、いち早く伝わっていたが故に・・・この騒乱の第1級戦犯とされた松平頼徳が切腹したため、事の収束が図れる筈と考えたのか?・・・などと、いろいろ連想してしまう訳です。・・・しかし、前日やこの日の局地戦では、大発勢などの諸勢が大勝しながらも・・・やはり、長期戦をいつまでも続ける訳にもゆかぬだろう・・・と、結果としては・・・“和平案を探っておく必要ありと考える人々が双方に居た”・・・と考えたほうが素直なのでしょうか?・・・。
      ※ 同年10月20日:同月18日に続いて・・・“常陸国岩船山に屯集していた戸田忠則(※通称は銀次郎、戸田忠敞の嫡男、元水戸藩家老)ら大発勢の鎮派”から・・・“富田知定(※通称は三保之介、元水戸藩軍事奉行)を岩船山陣中へ遣わして貰いたい”・・・との「書状」が再度届く。・・・更には・・・“大発勢主将・榊原照煦(※通称は新左衛門、元水戸藩家老)自身に岩船山陣中へ来訪して欲しい”・・・との「書状」も届けられる。・・・このように、大発勢主将・榊原照煦と直接会って相談するべく、書状が届けられた背景には・・・追討幕府軍が、敵方のうち大発勢を構成する兵員数が一番多いと認識していたことがあったかと。・・・まずは、そこから風穴を開けようと。・・・
      ※ 同年10月21日:「那珂川辰ノ口・渡船場」において、「大発勢鎮派・富田知定(※通称は三保之介、元水戸藩軍事奉行)」が、「追討幕府軍歩兵頭並・都築鐐太郎(つづきりょうたろう)」及び「歩兵差図役・小山金之助(こやまきんのすけ?)」と、「面会」し・・・そこで・・・“幕府軍としては、大発勢と戦う意思は無く、敵とするのはあくまでも筑波勢であるので、ここは幕府軍を那珂湊に引き入れて筑波勢追討に協力すべき”・・・と求められる。・・・これにより・・・「富田知定」が、「日和山」の「本営」に戻って、“榊原照煦(※通称は新左衛門、元水戸藩家老)ら”と「評議」し・・・“同月23日には幕府軍を那珂湊の日和山に引き入れること”・・・を「決定」する。・・・尚、この時合意に達した約定についての条件は、追討幕府軍総括・田沼意尊も当然に承諾の上。・・・しかし、大発勢主将・榊原照煦と追討幕府軍との間で合意された約定は、この後反故にされてしまいますが・・・そこには、“当時の水戸藩政を掌握していた市川弘美ら諸生党の影響が、かなり反映されていた”と云われております。
      ・・・ちなみに、幕府軍歩兵頭・平岡準から、榊原照煦一派(=鎮派)の説得を頼まれた大発勢側交渉役の一人・久木直次郎は・・・後の明治28年(西暦1895年)まで長生きされて・・・「首尾よく平穏に自首に及びたる後、若し斬首など行なわる様の事にては、後に悔ゆとも及ばざる・・・」・・・との談話を遺しております。・・・
      ※ 同年10月22日:「大発勢主将・榊原照煦(※通称は新左衛門、元水戸藩家老)」が、「同志」や“それまで共闘した同士ら”に対して・・・“翌日23日には、追討幕府軍を那珂湊の日和山に引き入れ、これに投降することに決した”・・・と「通知」する。・・・・・・
      ※ 同年同日:“筑波勢として戦う田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)や藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)、既に弟と行動を共にしていた山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄、元水戸藩目付役)ら”が、「館山・浄光寺(現茨城県ひたちなか市館山)」にあった“武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)の陣営”を訪ねて・・・“一同の進退について”・・・を「協議」する。・・・そこでは・・・“討死覚悟で幕府軍と最終決戦を挑む”・・・という“武田正生らの主張”に対して・・・“ここで死ぬるは犬死に等しい”・・・と諌める「藤田信」があり・・・藤田は・・・“これより先は、京に居られる一橋慶喜(※この時禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務、徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)公の元へ馳せ参じ、尊皇攘夷の素志(そし:※平素から抱いている志のこと)を訴えるべきである”・・・と説いた。
      ・・・この協議の結果・・・“武田正生の一族と筑波勢、潮来勢、鮎澤國維(※通称は伊太夫、元水戸藩士、元弘道館舎長)、浅田富之允(※元水戸藩士)、三木直(※通称は左太夫、元水戸藩士)、黒澤覚蔵(くろさわかくぞう:※元水戸藩士)ら”が、“幕府軍への投降”に「反対」して・・・“那珂湊を脱出すること”・・・に決する。
・・・・・・
      ※ 同年10月23日:「追討幕府軍」が、大挙して「那珂湊」を「攻撃」し・・・“磯浜口の幕府軍歩兵及び佐倉、高崎二藩の兵”が、等しく「進軍」し「那珂湊」へ入る・・・と、“守将・榊原照煦(※通称は新左衛門、元水戸藩家老)、谷忠吉(※通称は鉄蔵、元水戸藩士)、村田正興(※通称は理介、元水戸藩郡奉行)、新井直敬(※通称は源八郎、住谷信順の弟、元水戸藩士)以下1,000名余り”が・・・“以前の約定”に従い・・・「幕府軍」に「投降」する。・・・・・・
      ※ 同年同日:“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)と山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄、元水戸藩目付役)の隊や、田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)と藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)の筑波勢など諸隊”が、“館山浄光寺の陣営”を発って、「北方」へと走る。・・・・・・・・・
      ※ 同年同日:“浪士の三木直(※通称は左太夫、元水戸藩士)や鮎澤國維(※通称は伊太夫、元水戸藩士、元弘道館舎長)、浅田富之允(※元水戸藩士)らの諸隊及び井田好徳(※通称は平三郎、因幡とも、元水戸藩士)と朝倉景行(※通称は源太郎、元水戸藩士)らの潮来勢”もまた、相共にして「西北」へ走る。・・・・・・・・・・・・
      ※ 同年同日:「追討幕府軍」が、“館山などの筑波勢及び潮来勢の諸陣営を焼き払う”・・・と、“榊原照煦(※通称は新左衛門、元水戸藩家老)らの身柄”を、「銭座(ぜにざ:※銭貨を鋳造した組織または機関のこと)」へ移して、これを「佐倉藩兵」に「警守」させる。・・・銭座の所在地については・・・現茨城県ひたちなか市海門町2丁目の銭座稲荷神社付近か?・・・いずれにしても、この日・・・追討幕府軍に対して投降する者達と、投降せずに何らかの目的を果たそうとする者達とが・・・決別した訳です。それぞれが信じるままに。・・・
      ※ 同年同日夜頃か?:“別々に那珂湊周辺を発っていた”・・・“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)と山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄、元水戸藩目付役)の隊”や、“田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)と藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)の筑波勢などの諸隊”、“三木直(※通称は左太夫、元水戸藩士)や鮎澤國維(※通称は伊太夫、元水戸藩士、元弘道館舎長)、浅田富之允(※元水戸藩士)らの諸隊”、“井田好徳(※通称は平三郎、因幡とも、元水戸藩士)や朝倉景行(※通称は源太郎、元水戸藩士)らの潮来勢”が・・・「常陸国南酒出村(現茨城県那珂市南酒出)」にて「合流」を果たし、“お互いの無事”を喜び合う。・・・この合流により・・・“総勢1,000名余りの大部隊”となってから、更に「北上」し・・・この日、「同国大宮村(現茨城県常陸大宮市の上町、下町、北町、南町付近)」に「宿営」する。
      ・・・尚、ここで一団となった総勢1,000名余りのことを、まさしく・・・「天狗党勢」・・・と呼ぶことが出来そうです。つまりは、“この義兵集団を構成した浪士達の目的と手段が、この時期ようやく集約されることとなって、ほぼ一致出来た”・・・と考えられるからです。・・・すなわち、“当初は鎮派であった”と考えられる武田正生を主将とする勢力や・・・現実に筑波山で挙兵し激派と呼ばれた田丸直允や藤田信らの筑波勢・・・更には、この筑波勢と呼応する行動を見せていた潮来勢など・・・の諸隊構成員の総意が、ほぼ統一され、尊皇攘夷の素志を天下国家の万民に対して訴えようとした訳です。・・・ちなみに、筑波山で挙兵し激派と呼ばれた田丸直允や藤田信らは、もとより「天狗党」と自称していましたが。・・・本ページでは、歴史的事実を踏まえ、この当たりから、「天狗党」や「天狗党勢」と表記致します。・・・そうでもしないと、これ以前の場面場面における行動が理解しずらかった為です。何卒ご了承下さい。・・・



      ・・・それにしても、上記の集団を、何故に「天狗党」と呼んだのか? については・・・ハッキリしないのですが・・・少し考察してみたいと思います。・・・また、横道に逸れてしまう気も致しますが・・・

      そもそも、「天狗」とは・・・古代中国では、凶事を知らせる流星を意味するものです。
・・・大気圏に突入し、地表近くまで落下する火球(=隕石の類い)は、しばしば空中で爆発し大音響を発します。・・・このような天体現象を、当時の古代中国の人々が、咆哮を上げて天を駆け降りる犬の姿に見立てていた事が、『史記』を始めとする『漢書』や『晋書』からも分かります。・・・つまり・・・「天狗」とは、天から地上へと災禍を齎(もたら)す凶星として恐れられていた訳です。
      では、日本では? ということになりますが・・・古代日本には、漢字などともに仏教が伝来した(=輸入した)訳ですが、本来この仏教の仏典(=聖典)には、「天狗」という言葉や単語はありません。・・・強いて云えば、かつて古代インドで見られた流星の名を、古代の中国人が「天狗」と翻訳したものが遺されているだけです。

      ・・・日本の史料において・・・「天狗」という表記が初見されるのは、『日本書紀』舒明天皇紀9年(西暦637年)2月の条です。
      ・・・その記述とは・・・当時の倭国(ヤマト王権)の都の空において・・・
      ・・・“東から西へと流れる大星が現れ、同時に雷に似た音有り。時の人曰く「流星の音、亦(また)は地の雷」と。是に於いて、僧旻や僧が曰く「流星に非ず。是は天狗なり。其れが吠える聲(こえ)は雷に似れり」と。翌3月には「日蝕(=日食)」あり”
・・・と。
      ・・・つまりは・・・“都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れると、当時の人々はその音の正体について、「流星の音だ」とか「地の雷だ」などと云ったが、この時唐から帰国していた遣唐使学僧の旻(みん:※中国系の渡来氏族出身とされ、魏の陳思王〈曹植〉の後裔とする系図あり)などの僧達は・・・「流星などではない。これは天狗(あまつきつね、てんぐ)であり、天狗の吠える聲が雷に似ているだけだ」・・・と云ったと。翌3月には日蝕(=日食)あり。”・・・と。

      ・・・上記のように、飛鳥時代についてを語る『日本書紀』に、流星として登場した「天狗」でした・・・が、その後の史料上で、流星を「天狗」と呼ぶ記録は無く・・・結局のところ、“古代中国の天狗観”は、舒明天皇期後の日本には暫らくの間、根付かなかった様子が分かります。

      ・・・その後、この舒明天皇の時代から長きに亘り・・・いかなる書物にも、「天狗」という表記は登場しませんが・・・。
      ・・・平安時代の中頃になると、今度は・・・いわゆる「妖怪」や「神」として登場するようになります。
      ・・・これには・・・舒明天皇期の役行者(えんのぎょうじゃ:※役小角のこと、呪術者、修験道の開祖)や、平安期の弘法大師(※空海のこと、密教系真言宗の開祖僧)などの偉業ともに、同じく平安期に発展した天文学や暦、陰陽道などを含む易学などが、少なからず影響した・・・と考えられます。
      尚、この平安時代の中頃から再び語られるようになった「天狗」の姿やイメージは・・・“善悪の両面”を持つ「妖怪」、若しくは「神」とされ・・・“元々(=前世)は、人間であった筈”・・・と解釈されるようになります。
      ・・・このような「天狗」の中でも・・・特に優れた能力を秘める仏僧や修験者などが、その死後などにおいて、ずば抜けて強力な神通力を持つ「大天狗(おおてんぐ、だいてんぐ)」になる・・・と謂われ・・・その姿は、他の天狗(≒普通の天狗?)と比べて・・・“より長い鼻を持つ「鼻高天狗(はなだかてんぐ)」や、半人半鳥で背中に翼を持つ「烏天狗(からすてんぐ)」が最も多い”・・・とされました。

      ・・・平安時代から、時が過ぎ・・・“後の南北朝時代(西暦1370年頃)に成立した”と考えられている軍記物語『太平記』の中にある・・・
      ・・・「石鎚山法起坊(いしづちやまほうきぼう)」と云う「天狗」は、・・・当時からすれば、“大昔の偉人”であり、まさしく人間としての役行者(※役小角のこと、呪術者、修験道の開祖)のことであって・・・「大天狗」の中でも、“別格扱い”とされています。
      “この当時から、石鎚山法起坊が別格扱いされた”という背景には・・・『太平記』の著者達? や、この当時の人々が・・・“無双の神通力を持っていたとされる大昔の偉人・役行者が大天狗中の大天狗とされていては、いかなる妖怪や魔怪の類も、これに服せざるを得ないだろう”・・・と、認識していたことがあったかと。
      また・・・『太平記』では・・・“この役行者(※役小角のこと、呪術者、修験道の開祖)に付き従った”として、有名な・・・“前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)という夫婦鬼”のうち、夫の前鬼は・・・
修験道の苦行を積んだ後に「大天狗」になったとされ、「那智滝本前鬼坊(なちのたきもとぜんきぼう:※別名は大峰山前鬼坊)」とも呼ばれます・・・が、その姿は・・・“苦行前とほとんど変わらぬ鬼の姿”で表現されています。
      更に・・・『太平記』に登場する、平安時代後期の崇徳上皇(すとくじょうこう)は・・・上皇が怨霊化した後に「大天狗」となり、人間界を荒らしたという伝説が有名であり、且つ史料でも確認出来る実在の人物でもあります。
      “この有名な伝説が発生した”という背景には・・・“当時は、元々仏僧などの死後の魂などが、天狗に変化すると一般的に考えられていた”・・・ものの、この崇徳上皇の場合には・・・“怨霊化する以前に仏教へ深く帰依しており、且つその怨念の凄まじさを以って、生きながらにして怨霊化し、その後に大天狗になった”・・・と解釈されている事があります。
      ・・・ちなみに、この『太平記』では・・・“崇徳上皇大天狗”は、「金色の鳶(とんび)」の姿で表現され・・・その口から吐く毒の息によって、都に疫病を流行らせ、時の貴族や大臣を病気や死に追い込み、「延暦寺の強訴」や、「鹿ケ谷の陰謀」、「安元の大火(あんげんのたいか:※西暦1177年4月28日に平安京において発生した大火災のこと)」などを引き起こした・・・とされています。
      ・・・上記のうち、「安元の大火」は、別名を「太郎焼亡」とも呼びますが・・・この理由は、“天狗が大火などを引き起こす”・・・との俗信が元々あって・・・且つ、“崇徳上皇大天狗”、すなわち「愛宕山太郎坊(あたごやまたろうぼう)」が「安元の大火(=太郎焼亡)」を引き起こした・・・と考えられたためです。

      ・・・ちなみに、本ページで記述している・・・開国問題などで揺れに揺れる江戸幕府(=徳川幕府)の終焉期・・・すなわち、明治時代の当初期頃に・・・この崇徳上皇の御霊を、生前の配流先であり、没地の讃岐から現京都府京都市上京区へ創建した白峯神宮(しらみねじんぐう)に帰還させて、「神」としてお祀りしています。・・・これは、崩御前の孝明天皇と睦仁親王(むつひとしんのう:※後の明治天皇)の親子が、王政復古の大号令の後・・・“西暦1868年(慶應4年)8月27日の新天皇即位の礼執行”に際して・・・“この崇徳上皇の怨念の発現を恐れたため”・・・とされているのです。

      この他にも、『太平記』では・・・“元々仏僧以外の貴人や武将などが、自身の生前の傲慢や慢心による結果ではなく、前世の悲運を呪った末に、人間と全く変わらない姿で大天狗化する姿”が表現されています。

      ・・・いずれにしても・・・“大天狗化する者は、その前世に優れた業績や霊力、呪力を秘めていたとされていた人物”が少なくありません。・・・また、こういった事が・・・“昔の人々の心にあった天狗という対象”の「格式」を上げさせて・・・「天狗」が、神や仙人、仏、菩薩などと同等の扱いを受けることとなり・・・また反対に、人間界に大害を齎(もたら)す「大天狗」にあっては・・・“その他の妖怪などには及ぶもの無し”・・・と、まるで日本妖怪の頂点に君臨するかのように謂われていたのです。・・・つまりは、当時解明出来なかった災害や現象などの多くを、都合の良い「天狗」を担ぎ出して、無理矢理説明していたのでしょう。・・・このことは・・・『日本書紀』のあちこちで、当時起きた政変や変事についてを記述(=説明)する際に、“天狗のような容姿や仕業をする人影を表現していることなど”からも分かります。

      ・・・さて、後の江戸時代中期頃になると、
密教系の祈祷秘経とされる『天狗経』が書かれることとなり・・・その後、地域地域における民間信仰などと相まって・・・これに登場する「四十八天狗」が有名になります。

      この「四十八天狗」の中には、当然に・・・上記の「石鎚山法起坊」や、「那智滝本前鬼坊(※別名は大峰山前鬼坊)」、「愛宕山太郎坊」・・・などの「大天狗」も含まれております。
・・・ちなみに、「○○坊」と付くと、「天狗」の「個体名」として捉えがちですが、これは「山」に充てられた「名」であるため、実際は「天狗の地域集団名」と捉えた方が良さそうです。・・・つまりは、基本的に「四十八天狗」とは・・・「大天狗の住処」+“大天狗とそれに属する者達の集団名”と理解すべきかと。

      そして、“上記の三大天狗の他の、四十五天狗”の中には・・・
      実のところ、「常陸筑波法印(ひたちつくばほういん)」という「大天狗」が登場するのです。
・・・この「常陸筑波法印」には、「坊」の字が含まれておりませんので・・・上記の例からすれば・・・「法印」を、「大天狗の個体名」と考えても良さそうです。・・・尚、「四十八天狗」のうち、「坊」の字が含まれていないのは、この「常陸筑波法印」を含めて、計5つ(※柱?名?人?)となっています。・・・

      ・・・ということは、これら計5つ(※柱?名?人?)の「大天狗」は・・・元々が神であれ、生前が高僧であれ・・・ほぼ特定された後に、今日に至り、現在も“信仰や畏怖の対象”とされている筈です・・・が、残念ながら・・・これら計5つ(※柱?名?)の「大天狗」のうち、“この常陸筑波法印のみが詳細不明”とされているのです。
      ・・・それでも、“これを紐解く手掛かり”が一つあります。・・・それは、「法印」という「個体名」が遺されているからです。・・・この「法印」という“名そのもの”が、「仏教用語」であり、且つ“僧位の最上位を著わしている”と考えれば・・・この事を裏付けているのでしょうか?・・・実は、「常陸筑波法印」が「大天狗」となる以前には、“知足院中禅寺(現茨城県つくば市筑波)の開山僧・徳一上人(とくいつしょうにん)であった”という説があるのです。
      ・・・この「徳一上人」とは・・・
奈良時代の有名な公卿の一人で、かの藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ:※後の恵美押勝)の十一男とも伝わる人物であり・・・関東から東北地方に掛けて数多くの寺院を創建し、彼が開山したと伝わる寺院は・・・“知足院中禅寺のほか60カ所余り”・・・と云われています。
      ・・・また、現在の知足院中禅寺は、本尊として十一面千手観世音菩薩を信仰する真言宗寺院であり、筑波山神社の神宮寺。坂東三十三箇所第25番札所でもあります。開山されたのは、延暦元年(西暦782年)のこと。・・・尚、平安時代には、弘法大師(※空海のこと、密教系真言宗の開祖僧)が実際に入山して、“知足院中禅寺と号した”と伝えられています。・・・“この徳一上人本人”は、法相宗(ほっそうしゅう)の僧でした・・・が、後に時代の潮流か? 他の宗派であった真言宗が隆盛したため、法相宗自体が次第に先細りしたのであり・・・法相宗と現在の真言宗との宗派の違いについては、個人的には矛盾しているとは感じません。

      ・・・もしかすると、幕末期にこの筑波山で挙兵した“自称天狗党勢の面々”は、この「常陸筑波法印」という「大天狗」が持つ強力な神通力、すなわち「天狗」に化ける以前の「徳一上人」の法力(ほうりき:※仏法の威力や功徳の力のこと)や霊力などを信じて、且つ“あやかろう”とする信念を以って、自らを「天狗党」と称していたのかも知れません。

       ・・・何故に「天狗党」と自称したのか? 或いは「天狗党」と呼称されたのか? については・・・
       ・・・“上記の徳一上人大天狗化説”の他にも・・・

       ◆ 水戸藩内の政治的敵対勢力であった門閥保守派(=諸生党)が、急進的尊皇攘夷改革派(=激派)への揶揄の意味を込めて、「天狗党」と呼称したとの説
       ◆ 水戸藩の急進的尊皇攘夷改革派(=激派)が、“藩内の政治的敵対勢力であった門閥保守派(=諸生党)が自勢力を天狗党と呼称した”のを逆手に取って、自ら天狗のような神出鬼没の働きをしようとの意味を込め、「天狗党」と自称したとの説
       ◆ 水戸藩の急進的尊皇攘夷改革派(=激派)の人々の会合の場において、尊皇攘夷論の議論が沸騰し、様々と意見が出尽くした頃に・・・「もし、京都(=天皇を含む朝廷)と江戸(=幕府)との間に不調和な事態が生じた場合・・・いったい我々は、京都(=天皇を含む朝廷)と江戸(=幕府)とのどちらに就くべきか?」・・・と二者択一の議題提案をする者が居て・・・その場に居た藤田彪(※号は東湖、藤田幽谷の次男)が、「京都(=天皇を含む朝廷)に就いた方がこれだよ!」と言って、“自身の鼻頭に両拳を重ね、天狗の真似をした”と。・・・それ以来、“京都方(=天皇を含む朝廷方)に就いた者が、天狗のように鼻が高く、霊威や大義を持つ”という意味で、尊皇攘夷思想を持つ人の集団を「天狗党」と呼んだという説
        ・・・などもありますが。




      ※ 同西暦1864年(元治元年)10月24日:“天狗党を自称する総勢1,000名余り”が、「常陸国大宮村」を発ち、「同国大澤村(現茨城県久慈郡大子町大沢)」まで進む。・・・“これより先は、京に居られる一橋慶喜公の元へ馳せ参じ、尊皇攘夷の素志を訴えるべきである”・・・と。
      ※ 同年10月25日:“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)や、田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)、藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)、井田好徳(※通称は平三郎、因幡とも、元水戸藩士)らが那珂湊を退いた後の天狗党勢”は、所々で追討幕府軍や農兵と接しながら・・・も、この日、「常陸国大子(だいご)村(現茨城県久慈郡大子町大子)」に入って「陣営」を置く。【綱要】・・・「大子村」とは・・・前水戸藩主・徳川斉昭(※烈公)が、生前に和歌を詠んだ「月居山(つきおれさん:現茨城県久慈郡大子町袋田)」や、名瀑「袋田の滝」などで有名な・・・山深い里村ですが・・・。
      ※ 同年10月26日:「追討幕府軍」が、“以前の約定に従がって同月23日に投降した榊原照煦(※通称は新左衛門、元水戸藩家老)ら大発勢”を、「常陸国塩ヶ崎村・長福寺(現茨城県水戸市塩崎町)」へと「護送」する。・・・
      ※ 同年同日:“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)らが、相諮りて西上することに決した”ため、この日「軍令」を定める・・・とともに、“武田正生を総大将に推し”・・・“元筑波勢を天勇、虎勇、竜勇の三隊と成して、田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)に、これら三隊を率いさせ”・・・“元潮来勢を正武、義勇の二隊と成して、井田好徳(※通称は平三郎、因幡とも、元水戸藩士)に、これら二隊を率いさせた”・・・ものの、“そこへ追討幕府軍が来襲した”ことにより・・・数日間、「防戦」する。【綱要】・・・この頃の武田正生らとしては・・・筑波勢(≒天狗党)の挙兵以来、一部の者達が度重なる兇行により、各地の民衆達の恨みを買うこととなり・・・そのため、“元筑波勢が土兵らの反撃に遭遇し、結果として大損害を被っていた”ことを踏まえて・・・“新生・天狗党勢を、好意的に迎え入れる町や村に対しては、放火や略奪などの狼藉行為を禁じた軍規を定めた”・・・と云われます。
      ・・・そして・・・実際の道中でも、この日定められたという軍規が、ほぼ順守されたため・・・“通過地の領民らを安堵させ、好意的に迎え入れる町や村も少なくなかった”・・・とも云われます。・・・結局のところ・・・那珂湊を脱出し合流を果した新生・天狗党勢としては、宿賃などの諸費用を各宿場に対して、きちんと支払うなど、現実としても規律厳守に努めていたことは・・・後世の島崎藤村(しまざきとうそん:※本名は春樹、詩人・小説家)の晩年の代表作と云われる歴史小説『夜明け前』でも語られており、そのことは理解出来ますが・・・この日に定められた軍令については、以下の通り。(↓↓↓)


      《新生・天狗党勢の西上に当たって定められた軍令條》

      一、無罪の人民を妄(みだ)りに手負わせ殺害致候事。
      一、民家に立入り財産を掠(かす)め候事。
      一、婦女子を猥(みだ)りに近付け候事。
      一、田畑作物を荒し候事。
      一、将長の令を待たず自己不法の挙動致候事。

        右制禁の條々相犯すに於いては、断頭を行なうもの也。・・・つまりは・・・“これらの罪を犯した者は、首を刎(は)ねる”・・・と。


      ※ 同西暦1864年(元治元年)10月27日:「天狗党勢」が、「月居山」において、“追撃して来た諸生党勢や追討幕府軍傘下の新発田藩兵”と「交戦」する。・・・“故徳川斉昭(※烈公)の神輿を、元筑波勢が持参していた”ため・・・結果的にも、“烈公生前の故地で、戦闘が繰り広げられてしまった訳”です。・・・
      ※ 同年10月28日:“諸生党が藩政を握る水戸藩”が、「家老・岡部以忠(※通称は忠蔵、荘八とも)」に対して、「揚屋入」を命じる。【綱要】・・・この頃の諸生党は、異論を封じるためとして、更に強硬な措置を講じています。・・・現職の家老を、獄に繋ぐ訳ですから。
      ※ 同年同日:「天狗党勢」が、“追撃する諸生党勢及び追討幕府軍傘下の新発田藩兵”と、再び「月居山」にて「交戦」しつつも、“西上の準備”を進める。・・・
      ※ 同年10月29日:「幕府」が、“那珂湊にて投降した大発勢の榊原照煦(※通称は新左衛門、元水戸藩家老)ら466名”を「下総佐倉藩」へ・・・同じく“村田正興(※通称は理介、元水戸藩郡奉行)ら436名”を「上野高崎藩」へ・・・同じく“その他の者252名”を「下総関宿藩」へ・・・“それぞれ分け預ける”こととし・・・次いで、「大目付・田沢政路(たざわまさみち)」と「目付・小俣景行(おまたかげゆき)」が、“これらの者達の訊問”を「開始」する。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩士の原忠敬(※名は忠成とも、通称は市之進、号は伍軒、藤田彪の従兄弟、一橋家へ出向中)や、長谷川允迪(※名は後に清とも、通称は作十郎、号は艮山、青水とも、藩校・弘道館の元舎長)、梅澤守義(※名は亮とも、通称は孫太郎、一橋家へ出向中)、野村鼎実(※通称は彝之介、号は清籟舎、箕水とも、水戸藩奥右筆頭)ら”が、「書(簡)」を、「備前岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟)」に呈(※差し出すこと)し・・・“藩地(=水戸領)の争乱を述べ、併せて救済すること”・・・を請う。【綱要】・・・再び・・・


・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】