街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



     ・・・かくして、「ウルム氷期」と呼ばれる「氷河期」の間に、“ユーラシア大陸と陸続きだった”・・・云わば、“半島状の日本へ各方面から移り住んだ後期旧石器時代人が、縄文人の根幹を成した”と考えられています。
     その一例として・・・“太平洋側”にある愛媛県の「上黒岩岩陰遺跡」において、「放射性炭素年代測定」により約1万4,500年前(縄文時代)と測定された「人骨化石」が発掘されているのです。

     “約1.2万年前頃”、この「ウルム氷期」が“終わり”を告げて、急激な温暖化による海面上昇が始まると、日本は・・・ユーラシア大陸から、完全に分離されることとなり・・・“現在の海岸線に似た形状”、すなわち“弧状の日本列島を形成した”のです。
     これにより、“約1.2万年前頃の南西諸島」を除く日本列島に暮らした後期旧石器時代人の文化面など”に対して、大きな変化が齎(もたら)されることとなり、次の「縄文時代」へ移行してゆきます。
     「旧石器時代」と、この「縄文時代」の“主な違い”には・・・「土器の出現」や「竪穴住居の普及」、「貝塚の形式」などが挙げられます。

     “この頃の日本列島人=縄文人”は、主に「縄文式土器」を作り“縄文時代早期以降には、列島各地に定住”し始めて、「竪穴式住居」に暮らしました。
・・・これら縄文人達の暮らしの一端が窺い知れる興味深い遺跡として・・・主なものとしては・・・青森県青森市三内丸山にある大規模集落跡「三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)」や、この三内丸山遺跡の南に位置(青森県青森市野沢字小牧野)する環状列石「小牧野(こまきの)遺跡」・・・秋田県鹿角市十和田大湯にある「大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)」・・・岩手県二戸郡一戸町岩舘字御所野にある「御所野(ごしょの)遺跡」・・・など。

     いずれにしても・・・“彼ら縄文人”は、「弓矢」を用いた「狩猟」や、「貝塚」などに見られる「漁労」、「植物」の「採集」などを主な生業(なりわい)とし・・・「打製石器」や「磨製石器」の他にも・・・「火焔型土器(かえんがたどき)」や、「土偶(どぐう)」などの、いわゆる“縄文式土器類”・・・「骨角器(こっかくき)製」としては、「銛(もり、ヤス)」や、「鏃(やじり)」、「釣り針」、“ハマグリなど二枚貝の腹縁を欠いて刃”にした「貝刃(かいじん)」、「篦(へら)」、「匙(さじ)」、“衣服を縫い合わせるため”の「縫い針」、装飾品としての「首飾り」、「耳飾り」、「髪飾り」、「腰飾り」、“単独の彫像品”・・・“収穫物を運搬したり保存するため”の「編み篭」・・・“世界でも最古級と考えられ、祭器や食器として”の「漆器(しっき)」〈※上記の三内丸山遺跡にて発掘されております〉など・・・多種多様な道具類を使用していたことが分かります。
     ・・・“彼ら”が、堅果の「クリ」を、「選択」や「選抜」を繰り返し行なったことにより、結果として「栽培化」の動向を窺い知ることが出来るとする研究や、「大型縄文集落内」及び“その周辺の地層”に眠っている「クリ」や「クルミ」などの「花粉量」などを調べて、“苗木から栽培していた形跡を探ろう”という研究、野生の「イヌビエ」から穀物の「ヒエ」への“栽培化過程を追跡出来る”とする研究も公表されています。
      また・・・“彼ら”が、「縄文時代中期の初め頃」から「縄文時代晩期」に掛けて・・・「小規模集団(部族)」による「焼畑」と「陸稲(りくとう)栽培」を導入していたことも分かります。
      ・・・南西諸島では、引続き“旧石器時代的な暮らしでした”が、約6,000年前頃(縄文時代中期頃)から、「縄文式の貝塚」が現れて来て、“およそ平安時代末期(12世紀)頃まで続いていた”と考えられています。

     尚、“文献上での話”となりますが、『日本書紀』の記述によると・・・“ちょうど、この頃に当たる縄文時代の終わり頃”に、いわゆる“古代の日本が建国された”としています。・・・まさか、後世に現れて来ることとなる「国家」というものではなく・・・あくまでも・・・“日本列島各地に各部族が定住し始め、縄文集落が大型化し、小国すなわち地域国家群(≒部族社会や氏族社会の基)が形成された”と読んだほうが良いのですが。・・・“それはそれは、ゆっくりと、そして約13,700年間の長期間も続いた縄文時代”ですから、“世界的にも稀”な、そして・・・“とても独自性に富み、特徴的だった”と云える「縄文式土器」や「土偶」などを作製し・・・“それらを利用していたという縄文人の暮らしの一端を窺い知るだけ”でも・・・さすがに、農耕文明とまでは云いませんが・・・“独特な縄文文化を華開かせていた”ということは、確実に云えることです。

     ちなみに、日本列島の「先史時代」は、「旧石器時代」(※人類が日本列島へ移住して来た時)から始まり、「弥生時代」(※紀元前3世紀頃:但し、縄文時代の終期と弥生時代の始期には論争あり)当たりから、「古墳時代」(3世紀中頃~7世紀頃)に掛けて“終焉したもの”とされており・・・「文化人類学」、「民俗学」の視点によれば・・・以下の・・・“少なくとも五つ”の“それぞれの文化背景を持つ種族”が、“それぞれの時期”において、“従来から縄文人達が暮らす日本列島”へ・・・“新たに渡来して来た”と考えられております。


      1) “メラネシア方面”から、狩猟民的、母系的、秘密結社的な文化と芋栽培技術を持ち込んだ人々・・・“縄文時代中期の初め頃”に渡来した。「乳棒状石斧」、「棍棒用石環」、「石皿」、「土器形態」と「文様」、「土偶」、「土面」、「集団構造」が、「メラネシア原住民の文化」と著しく一致する。「男性が秘密結社的な祭り」をする。《※例えば、現秋田地方に見られる「ナマハゲ」など》「タロ芋の一種」である「里芋」を栽培し「祭事」の際などに食す。

      2) “東南アジア方面”から、狩猟民的、母系的な文化と陸稲栽培技術を持ち込んだ人々・・・「縄文時代晩期」に渡来した。「狩猟」とともに、山地丘陵の斜面において「焼畑」をし「陸稲栽培」をした。《※その特徴としては、太陽神「アマテラス」の崇拝や「家族的・村落共同的シャーマニズム」、「司祭的女性支配者」を立てることなど》

      3) “中国江南地方”から、漁労民的、男性的、年齢階梯制的な文化と水稲耕作技術を持ち込んだ人々・・・紀元前5~4世紀(縄文時代晩期)頃、“古代中国の呉越両国滅亡”に伴なう民族移動の余波として、「揚子江」がある「夏口地方」の“南側沿岸地域”より渡来し、「弥生文化」において“南方的と云われる諸要素”に影響する。「入れ墨」などの“アウストロネシア系種族文化”を持ち、「水稲耕作技術」や進んだ「漁労技術」と「板張り船製造技術」を齎(もたら)す。また「若者宿」や、「娘宿」、「寝宿」、「産屋」、「月経小屋」、「喪屋」など“その機能”に応じた小屋を独立して建てるという慣習や、「年齢」や「世代」などの区分により、“集団社会を階層付けた、年齢階梯制を持っていた”とされる。

      4) “北東アジア・ツングース方面”から、狩猟民的、父系的、(ハラ)氏族的な文化と畑作技術を持ち込んだ人々・・・「弥生時代初期」に、“古代中国の東北地方や朝鮮半島経由”によって「ツングース系統種族」が渡来した。「アワ」や「キビ」を、「焼畑」により栽培しつつも、「狩猟」も行なった。“アルタイ語系の言語”を、最初に日本列島に持ち込んだのは、この種族とされる。《※その特徴としては、「櫛目文土器」や「穀物穂摘み用半月系石器」など》 「現代日本語」において「ウカラ」や、「ヤカラ」、「ハラカラ」など「同属集団」を意味する言葉「ハラ=カラ」は、“ツングース諸語における外婚的父系同属集団”を呼んだ語「ハラ(Hala)」に“その系統を持つ”とされる。

      5) “アルタイ・朝鮮半島方面”から、支配者的、父権的、(ウジ)氏族的な文化を持ち込んだ人々・・・「支配者王侯文化」や「国家的支配体制」を持ち込んだ「天皇氏族」を中心とする「部族文化」を齎(もたら)した。“上記 3)の文化と同系同質の種族”が、西からやって来た「アルタイ系騎馬遊牧民」によって征服され、「国家」という組織に一旦組み込まれる。“古代中国の東北地方南部において暫く成立していた”が、“1世紀(弥生時代中期)当たり”から徐々に南下し始め、また“朝鮮半島南部”にて暫く留まった。3~4世紀頃(弥生時代末期から古墳時代初期)に日本列島に渡来する。「大家族」や、「(ウジ)族」、“種族による縦三段から成る種族構造を持つ”ほか、「(ウジ)父系的氏族」、「軍隊体制」、「王朝制」、「氏族長会議」、「奴隷制」、「氏族職階制」、「各種の職業集団」、「鍛冶職集団」などを持つ。
          「氏族」や「種族」を五つに区分するという「五組織的な社会構造」とともに、同じような「軍事組織」や、「天神崇拝」、「父系的と云える祖先崇拝」、「職業的シャーマニズム」などの宗教的な要素も、この文化であり、「ユーラシア大陸ステップ地方」の「遊牧系騎馬民族(モンゴル周辺)の文化」と本質的に完全一致している。

     このように、「縄文時代晩期」から「弥生時代初頭」に掛けて(※紀元前3世紀頃:但し、縄文時代の終期と弥生時代の始期には論争あり)、“再びユーラシア大陸から新しい技術や、それぞれの文化背景を持った新石器時代人”が“西日本の一角に渡来した”のです。この「弥生時代」には、「水稲耕作」や、進んだ「漁労技術」、「板張り船製造技術」などの、新しい文化が齎(もたら)され、“彼ら古代人同士間の勢力圏や暮らしも、大きく変容していった”と考えられます。
     更には、「弥生時代初期」(紀元前200年)頃に、「金属」が“日本列島に齎(もたら)された”と考えられています。
     そもそも「金属」は、“メソポタミア地方で発見され、実際に利用され始めた”と云われています。この「金属材料」と、その「加工技術」は、ヨーロッパやアジアなどへと広がり・・・“日本列島へは、紀元前200年頃に、古代中国や朝鮮半島を経由して、齎(もたら)された”と考えられており・・・“日本では、いわゆる青銅器時代と呼べる時代を経ることなく、鉄利用時代が到来した”とも。


     ・・・“日本列島に金属製品生産技術が定着していく過程について”は、次のように推察されています。
        ① 「金属製品」の「使用段階」・・・海外より「現品」を「輸入」。
        ② 「金属製品」の「製作段階」・・・「金属原材料」を輸入し「加工」。
        ③ 「金属原材料」の「生産段階」・・・「たたら」等による「精錬開始」。


     ・・・上記①のように、当初は「鉄製」の「鍛造(たんぞう:※ハンマーなどで熱した金属を成形すること)品」や「青銅器製品」として入って来ましたが・・・やがて、“古代中国や朝鮮半島など”を経由して、「技術者集団(≒渡来系の人々)」が、実際に「移住」。・・・“それから、鋳造(ちゅうぞう:※溶かした金属を型にはめ込んで、器物を造ること)品や鍛造品を生産した”と推測されています。
     ・・・日本列島における「鋳物(いもの)作りの初期段階」では、“古代中国から輸入した銅製品の模倣”から始まり・・・その後、「銅鐸(どうたく)」や「腕輪」、「飾り用の鋲(びょう)」など、“日本独自とも云える製品”が作られました。
     ・・・「銅製品」については、主に「装飾品」や「祭器」などに使用され・・・一方、「実用品」については「鉄」を用いるなど、“使い分けが行なわれた”ようです。
     ・・・溶解した金属を流し込む「鋳型(いがた)」は・・・当初期には、“削り易い”とされる「砂岩(さがん)」などに「製品」の「型」を彫り、“その窪みに流し込む”という「開放型」から始まりました。・・・さすがに、“長期間に亘る旧石器時代や縄文時代を生き抜いた来た人々”ですね。
     ・・・次の段階では・・・「二枚」の「型」を互いに合わせて、“その隙間に流し込む”という「合わせ型」になりました。
     ・・・やがて・・・“古代中国から輸入された鏡の模様などを模倣しよう”と・・・平らにした「粘土」に、「鏡」を押付け、「型」を取り、「溶湯(ようとう:※溶解した金属のことであり、鋳物の場合には合金)」を流し込むという、「石型」よりも成形し易かった「土型」へ発展してゆきます。
     ・・・上記の「銅鐸(どうたく)」も、「石型」から始まり、「土型」に発展しましたが・・・実のところ・・・何のために使用されたのか? その用途については、“ハッキリ”と解っておりません。・・・それでも・・・おそらくは「祭器」や「楽器」の類いではないか? と長年云われておりました。・・・しかし、2015年6月、淡路島で発見された“銅鐸4個”に、「音」を鳴らすための「青銅製の舌(ぜつ:※振り子と考えられているもの)」が発見され・・・また、翌年の2016年1月には、“発見された弥生前期末~中期初頭の銅鐸7個の全て”に、「舌」及び“これを吊るすため”と考えられる「紐(ひも)」の存在が確認されたため・・・「銅鐸」は、“何かしらに吊り下げて使用されていた”・・・と推測されております。
     ・・・“これら銅鐸”は・・・初期の小型のものは、その形状から・・・「鈕(ちゅう:※印や鐘、鏡などのつまみ部分のこと)」の内側に、紐などを通して吊るし・・・舞上面に開けられた穴から「木」や「石」、鹿角製や青銅製の「舌」などを垂らし・・・“胴体部分か、或いは舌そのものを揺らして”・・・“内部で胴体部分の内面突帯と接触させることで鳴らした”・・・と考えられております。“西洋の鐘”と同様に。
     ・・・「鈕」の下部及び側面に・・・“紐によって長期間吊るされていたと考えられる擦れ跡や、内部の突帯に舌が当たることで出来たと考えられる凹形の損傷”が、これらの「銅鐸」にあったためです。
     ・・・ちなみに・・・「銅鐸」には、「梵鐘(ぼんしょう:※寺院の釣鐘のこと)」のような、胴体部の外面を叩くことで出来る痕跡が付いたものは、未だ出土例がありません。
     ・・・尚、実際に「銅鐸」を鳴らしていた時代には・・・“この内面突帯の摩滅を軽減するため”と考えられていますが・・・“内面突帯部分を2本に増やして、強度を増した銅鐸が増える傾向にあります。
     ・・・しかしながら・・・「弥生時代」を経て、「古墳時代」に入ると・・・“突如として、銅鐸生産自体が途絶えてしまう”ことに。・・・

     さて、「世界四大文明」と云うと・・・上記の“金属を発見して、初めて利用した”とされる「メソポタミア文明」や、「エジプト文明」、「インダス文明」、「黄河文明」を指しておりますが・・・近頃、“中国の長江流域で約1万年前の稲作を中心とした農耕遺跡”が発見されており・・・どうやら、これが・・・“世界で最も古い農耕文明”ではないか? と考えられております。
     ・・・いずれにしても、上記のような「農耕文明の勃興」が・・・各地で「定住」を促進し、従来の集落などを、更に「都市化」させることとなり、“広汎に亘る協業など人々の生活へ革命的変化を齎(もたら)した”・・・とされ、その一方では・・・人間社会に、指導者階級と労働者階級という身分が発生し、結果として・・・貧富の格差が生じ始めた訳です。・・・
     ・・・農耕文明が勃興する以前は、「血族」や「種族」が“それぞれの集団を構成”していましたが・・・
     農耕文明が勃興すると・・・“その枠”を越え、“地域そのものを集団の基盤とする”ようになってゆきます。・・・これは、“古代の農耕、特に小麦や水稲稲作が、多くの人手を必要する生産手段だったため”です。
     そして、このことが・・・“農耕の生産効率を更に上げるため”として、「農具」の一部分を、「石器」から「金属」へと変えてゆきます。・・・このことは、“狩猟道具や、戦争などの際に使用される武器についても同様だった”と考えられます。

     ・・・「弥生時代」の北海道と東北地方北部では、・・・「水稲耕作」などの新しい農耕文化が受け入れられることは無く・・・尚も、“続縄文時代”とも云える状況でした。・・・これは、寒冷な気候風土が適合せずに、結果としても、“稲が上手く育たなかったため”とも考えられます・・・が、そもそもとしては、自然環境が豊かであり、「山菜類」や「クリ」などの堅果類の実りが多く、また「サケ」や「マス」などの水産資源や「貝類」、「海藻」なども「漁労」によって、「シカ」などの獣類も狩猟によって、豊富に収獲出来るため・・・“総じて、「稲作」に頼らずとも食料事情が安定していたこと”を物語ってもいるのです。・・・これらのことは、「縄文時代前期中頃以降」の大規模集落跡「三内丸山遺跡」や、“他の東北地方以北にある遺跡群”における発掘調査などが、更に進めば・・・“まだまだ分かることも多い”と想います。

     ・・・いずれにしても、“概ね、これら以外の日本列島内”では、「水稲耕作」などの新しい農耕文化を中心とする農耕社会が、次第に浸透して行くこととなり・・・時の経過とともに、“各地”へと広まります。・・・これらに伴なって、“各地域”には「農耕集団」、特に「水稲稲作集団」が形成され始め・・・更には、“その規模を大型化”させて・・・「弥生集落」と呼ばれる程に成長します。・・・この「弥生集落」の“中心部”には、「堀」を廻らして、集落内の「水田」を潤(うるお)すとともに、集落の「首長」や「有力者」、「収穫穀物類」などを守るかの如き「柵」が設けられ(※これが城郭建築の始まり)、いわゆる「環濠(かんごう)集落」を形成しました。・・・このことは、当時「小国」と呼ばれる位の規模であった“地域国家群の間”において・・・“富の奪い合い、すなわち小規模な強奪や戦争が発生し得た”という情勢を物語っています。
     ・・・また、当時多く築造された「墳丘墓」は、“大型地域集団”の「首長墓」と目されており、“社会において身分格差が生じ始めていたことの裏付けになる”と考えられています。


     【 “在地の縄文人と新しい文化を齎(もたら)した渡来系の人々との共存社会の出現(≒弥生時代の到来)”及び、これらに伴なう「新興言語の登場」】


     「水稲耕作」などが齎(もたら)された「弥生時代」において・・・“南西諸島や北海道など一部を除いた日本列島内に暮らす人々”=「弥生時代人」を、“4タイプ”に「大別」すると・・・
      1) “渡来系弥生人”・・・「水稲耕作」などの新しい「文化」を持った「渡来系の人々」及び“その子孫達”、“これら渡来系の人々と縄文人達が混血して誕生した人々及びその子孫達”
      2) “縄文系弥生人”・・・“既に在地”し、「芋栽培」や「焼畑陸稲栽培」、「塩生産」、「交易」などをしていた「縄文人」の中で、“新しい文化を取り入れたり、結果的に受け入れた人々及びその子孫達”
      3) “縄文時代人”・・・“以前からの縄文文化を頑(かたく)なまでに継承し続けた人々及びその子孫達”
      4) “渡来系縄文時代人”・・・“渡来した後に、在地の縄文文化を取り入れたり、結果的に受け入れたりして、それらを継承し続けた人々及びその子孫達”
     ・・・常識的に考えても、“上記 4)の人々は、一次的なものであり、且つ少数であった”と考えられ・・・やがては“1)~3)の人々のいずれかに吸収されたり、同化していった”と想われます。

     ちなみに、“農耕文明が勃興した”という「裏付け」にもなると想いますが・・・“黒海とカスピ海に挟まれた地域辺り”とも云える「コーカサス地方」において、“考古学的には最古(約8,000年前)の発酵食品”とされる「ワイン」が確認されております。・・・また、「イラン」においても、約7,000年前”に「ワイン」を造っていた形跡が確認されています。・・・尚、当時の「イラン」とは・・・いずれ別ページでもふれますが・・・いわゆる“古代ペルシャ”です。“古代日本とも接点があったこと”を、間接的に『日本書紀』が教えてくれているようです。・・・これらについては、“それこそ別ページでのお楽しみ”とさせて頂きます。
     ・・・いずれにしても、“この頃の日本列島”は? と云うと、「縄文時代中期頃」です。“ちょうど芋栽培を始めた頃だった”と考えられます。
     ・・・少なくとも、“沿岸部”に暮らした「我々の祖先」に当たる“縄文人達”は、「土器」を利用し「塩生産」を日常的に行なっていました。当然に「塩」が、“食糧の腐敗を遅らせる”という「効果」を理解していたでしょう。・・・そのため、「物々交換」などの“原始的な交易に利用していた”と考えられます。・・・ということは、「現象」や「反応」として「芋」が「発酵」することや「醸造」出来ることを、“経験的且つ結果としても理解していた”のではないでしょうか?

     ・・・しかし、残念ながら・・・「縄文時代」における“概ねの日本列島”に限ると・・・その「土壌性質」により、“考古学的に確実と云える証拠が発見される可能性自体が極めて小さい”と云わざるを得ませんが。
     ・・・それでも、“この後”の「弥生時代」には、上記 4)の「水稲耕作」などの新しい文化を持った“渡来系弥生人”が、原始的な「アルコール(※下記に記述しています)」や、他の「発酵食品」など、或いは「発酵」や「醸造」に関する“技術そのものを持ち込んで来ていた可能性は高い”と云えるでしょう。・・・基本的に、「火の使用」とともに、「発酵」を促すための「器(うつわ)」や、「空間」としての「土器」、「発酵」させる「原食材(=芋や米など)」、「水」、そして・・・「空気中」や「藁苞(わらづと)」などの自然界に存在する「発酵」を促すための「微生物」や、「発酵」を「補助」するための“自ら”の「唾液」、「発酵」を抑えて「保存」させるために用いる「塩」などが揃えば・・・「酒」や「酢」、「麹」、「味噌」、「納豆」など、“現代の発酵食品に近いもの”を作ることが出来る訳ですから。

     ・・・このことは、“現代日本の食卓を見れば、一目瞭然”なのかも知れません。・・・“氷(河)期以降の日本列島に暮らしていた我々の祖先達は、“温暖かつ湿潤な気候であったが故に、発酵や醸造をさせるために効果を発揮する微生物や、自然環境そのものなどに恵まれていたこと”が幸いして、古来より様々な発酵食品を作り飲食して来たのではないでしょうか?
     ・・・一説には・・・現在も、琵琶湖周辺地方における「郷土(保存)食」・・・そして、多くの日本人が好きな「寿司の元祖(=ルーツ)」ともされる・・・「ニゴロブナ」と「米」、「塩」を原料として「発酵」させた「鮒寿司(ふなずし)」は、“約1,500年の歴史を持つ”とも云われ・・・“古文書でも約1,000年前まで遡ることが出来る”とされていますので。・・・“偶然に偶然が重なる”ことによって、“この弥生時代当たり、或いは遡って縄文時代当たり”に・・・“今日あるような発酵食品が出来てしまっていても、不思議ではない”ように想えます。・・・“あくまでも、可能性の上での話です”が。
     ・・・いずれにしても、上記のような農耕社会が形成されつつあった「弥生集落」や“列島各地”においては、これら原始的な「アルコール」や「発酵食品」が、「交易」や「宗教儀式」、“集団内”や“集団外”との「調和」を図るためなど、“様々な社会的場面”において、“絶大な効果を齎(もたら)したこと”は、想像に難くありません。・・・もしかすると・・・“初対面の人や、遠方からやって来た人”に対して・・・「まぁ、まずは一杯どうぞ!この集落の地酒です」とか・・・「・・・飲みすぎたか?・・・フラフラする。」なんていう・・・“現代とさほど変わらぬ光景だったのか”も知れませんね。

     ・・・“日本列島内が、上記のような様相になる”・・・と、必然的に“彼ら弥生時代人の間”で使用する「言語」も、“その性質を変えなければならなかった”と考えられます。
     つまり・・・「芋栽培」や「焼畑陸稲栽培」、「塩生産」、「交易」などを始めた頃(=縄文時代)には・・・
     “血族や種族集団内”が、「血族」や「姻族」、“直系”や“傍系”など・・・「風貌」や「特徴」が似た人、「名前」が似た人、等々・・・すなわち、“見分けるのに紛らわしい人々の集団だった”ため、“本来は、その内輪における意思伝達手段であった筈”の「言語」によって・・・“誰が”、“誰に”といった「個人」を判別出来ることが、まず必要とされて・・・「人称」や「格」などを、“正確に伝える得る、精巧な文法を持つに至っていた”と考えられるのです。
     ・・・その一方で・・・新しい文化が広がると同時に、“列島各地が、更に集団化し、結果として人口密度が高くなる”など・・・それぞれの「地域社会」を形成します。・・・すると、“その枠”を超えて、“各地域において、多数派を占める集団や、その多数派を率いる個人”に対しては・・・“伝達すべき役割や意義を説明したり、他の地域間との交易などにおける交渉や取引が必要とされる社会的場面では・・・“むしろ単純化し、洗練化させ、誰でも直ぐに理解出来る”ような共通言語が求められた”のでしょう。・・・「新興言語の登場」です。


     ・・・そのため、“この頃”の「新興言語」、すなわち「上古代における日本語」も・・・現代の「中国語」や「英語」に例えられるように・・・

の       1) 「文法」を“全般的”に「単純化」し・・・
      2) とりわけ、「名詞」や「動詞」に「接辞詞」を付加して、「人称」や「格」を表す「形態法」を「縮小」させたり「排除」して・・・
      3) これらに加えて、先に「行動」を伝えてしまう「SVO(主語+述語+目的語)型の語順」
      ・・・などが“当初の頃は、列島各地において、結果として採用されていた”のではないか? と考えております。


     ・・・「新興言語」は・・・まさに、“多くの人々を複雑な作業工程を持つ農耕へ従事させようという、その意図通り”に・・・“短期間で、その勢力範囲(≒使用圏)を拡大化”させて・・・“現在も見られるような、簡略化された世界言語の分布を形成した”と考えられるのです。

     ・・・しかしながら・・・“古代の中国語など、周辺地域からの言語的な影響が薄かった”と目される「環日本海諸語(※中国言語圏に隣接する地域の朝鮮語や日本語などのこと)」においては・・・
     ・・・“ユーラシア大陸の東端部に存在した”という「地政学的条件」や、それぞれの「気候風土」や「歴史」などによって、“絶妙なバランスが成立”し・・・
     ・・・「芋栽培」や「焼畑陸稲栽培」、「塩生産」、海を介した「交易」など、“各地域間において交流が盛んに行なわれたこと”・・・
     ・・・“それぞれの言語的、且つ文化的な背景を持つ中小勢力部族が、大多数を占めていたため、武力制圧などの強硬な解決方法を、その都度選択するよりも、“むしろ互いが協調して暮らす方がメリットが大きかった”・・・等々。
     ・・・様々な時間軸、自然環境、上古代における社会的背景、当時の日本列島人(※いわゆる縄文人や弥生人を含みます)それぞれの性格など、の様々な条件が揃うことにより・・・
     ・・・結果的に「助詞」が発達することとなり・・・
     ・・・最終的に、「SOV(主語+目的語+述語)型の語順」に落ち着いたのではないか?・・・
     ・・・つまりは、コミュニケーションを必要とする、それぞれの社会的場面においては・・・“早急に結論を急いだり、また相手方に対しても急がせる必要性が無かった”・・・
     ・・・もっと云うと・・・“在地の縄文人達が、水稲耕作技術など新しい農耕文化や、渡来系の人々を概ね受け入れたことなどにより、上古代におけるユーラシア大陸などの周辺情勢から様々な影響を吸収し尽くした時代、それが弥生時代だった”と云えるのではないか? と考えております。

     ・・・そもそも、“紀元前5~4世紀(縄文時代晩期)頃に渡来したと考えられている中国江南地方からの帰化人達は、古代中国における戦乱を避けるため、大海原を渡って日本列島に辿り着いた難民とも云える人々”であり・・・実のところは・・・“戦乱なんて、もう懲り懲りだった筈”でありまして・・・“彼らが渡海する以前”から・・・「産物や森林資源などが豊富で暮らし易く、しかも小さい集落が点在するだけで、大規模集落があっても小国規模であるらしい」・・・と伝え聞いていた日本列島には・・・『むしろ平和的に土着させてもらい、水田や舟を造るなど、たとえ戦乱時にあっても食糧不足に陥らないよう、豊かな農耕集落や漁労集落の建設に邁進すべき』・・・と考えたのではないでしょうか?
     ・・・この「弥生時代」に、“いわゆる縄文時代人と渡来系弥生人という二つの大勢力間において、一方が他方を追い払った”という「従来説」については・・・“日本列島内における文化摩擦や、食糧獲得上の地域的な小競合いを生じさせていた”という可能性は考えられるものの・・・
     ・・・“それらが起こった背景”を推察するに・・・
     “追い払う側として”は・・・それまで暮らしていた「土地」を放棄し、または“去るを得ず”、「難民」となって困窮していた際に・・・“日本列島内に土着した人々が、各人の努力の末ようやく”・・・“農耕集落や漁労集落など、それぞれ一部族としての人口を増やすこと”により・・・結果として、「大規模弥生集落」を築いたという事情があり・・・
     ・・・もう一方の・・・“追い払われる側として”は・・・「縄文時代」と云う、“世界的にも稀であり、且つ平和的に長らく続いた時代を享受していたため、古代中国のような大規模な戦乱にも見舞われたという経験がほとんど無く”・・・しかも、「狩猟」や「漁労」のため「弓矢」や「棒」などを使用するものの、そもそもとして、“あまり戦闘的な部族ではなく、渡来した人々に対しても、むしろ寛容性や包容力を持った平和的な部族であり、当時彼らが暮らしていた生活圏も、食糧事情としては恵まれた土地柄であり、余力もあった”と考えられます。“大勢の渡来系帰化人達を受け入れるまで”は。・・・“追い払われる側とされる縄文時代人達の想定を遥かに超える大勢の難民集団”、今に云う「ボートピープル」が、“途切れも無く次々に、舟で着岸して来る”といった状況。・・・これでは、“当時の、小国程度の集落規模”では・・・到底、“大勢居た難民達”を支え切れません。当然に・・・「こっちに来るな! 来た処へ帰れ! こっちはダメ、もう食べ物は無いです。だから、あっちへ行って!お願いだから!」・・・と。
     ・・・仮に、“何らかの手段によって相手方に伝えられたとしても、埒が明かない話”です。難民達には帰る処などありませんから。・・・結局のところ、“在地の縄文時代人達が暮らした生活圏の食料事情が著しく低下していた”と考えられます。・・・この時点で、“在地の縄文時代人達”は、「究極の選択」を迫られることとなります。・・・そして「決断」しました。・・・「あんた達が行かないなら、我らが行く!」と。・・・実際に、“こう言ったか”は別としても・・・“多くの縄文時代人達は、それまで住み慣れていた在地を離れ、日本列島内の北方面や南方面、或いは山間部などへ、自ら移り住むことにより、無用な衝突を避けた”という事情。・・・きっと、“一つや二つの在地縄文時代人達の集団による力を結集し、やって来る集団に対して、個別に立ち向かおう”としたところで、相手は多勢に無勢です。しかも、“何だか良く解らない高度な技術を使いこなす部族”です。・・・或いは、“当時の縄文時代人達の集落全体が、束になって追い払おう”としても、不可能だったかも。
     ・・・いずれにしても、私(筆者)としては、“この時の対応は賢明だった”とも想います。・・・それに・・・“当初から大勢の渡来系帰化人達を受け容れた、多くの縄文時代人達としてみても、もし何らかの理由で在地する生活圏で食糧確保が難しくなった場合には、新たな生活圏を探して移住すれば済むだけのこと”であり・・・つまりは、“当時の日本列島内が、自然環境が豊かであることを知り抜いていたため、自部族が暮らせるフィールドが、まだまだあるとの認識を持ち、または無用な衝突を、敢えて避けられるだけの余裕もあった”ことなども、考慮すべきであり・・・“いわゆる武力によってのみ、縄文時代人達が各方面へ追い払われた”という「従来説」とは、“かなりイメージが異なる”ように想えます。・・・尚、“これらの事を、或る意味で裏付けている”のが、近年の「分子人類学(※特に、DNAなどの遺伝子解析)」による研究成果なのですが、このことについては後述致します。

     ・・・列島各地の民間伝承や逸話、日本神話を含む『古事記』や『日本書紀』(※これら二書のことを『記紀』と呼びます)などを読むと、日本列島へ渡来して来た、概ねの人々に対しては、彼ら彼女らについてを、自らの祖先神や、外来の神として見做す世界観に包み込まれているような気がしてなりません。・・・『古事記』や『日本書紀』など、すなわち『記紀』で語られている事は、果たしてデフォルメされた真実なのか?・・・それとも、後の編纂者らが都合良く創作や脚色を加えたものであって、事実とは程遠い単なるフィクションなのか?・・・このことは、『記紀』が編纂される以前・・・飛鳥時代より以前の、東アジア情勢が深く関係しているのですが・・・これらについては、別ページを複数用意しますので、ここではふれないことと致します。


     ・・・さて「環日本海諸語」が形成されて来る過程では・・・“彼ら縄文人や弥生人などの新石器時代人が、半定住、或いは定住(=土着)した日本列島各地において・・・“まさに新石器時代的とも云える身体的特徴”が現れて来ることとなり・・・一方で、“渡来系弥生人が流入しなかった地域では、尚も縄文人的な身体的特徴”を留めております。・・・このことは、“当然である”とも云えます・・・が、“水稲稲作の普及過程とも同期しているよう”です。
     ・・・更に、“3~4世紀頃(弥生時代末期から古墳時代初期)”には、「支配者的」、「父権的」、「氏(ウジ)族的」な文化を持ち込んだ人々が渡来し・・・やがては・・・「古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)」と「飛鳥時代(西暦592~710年)」を経て、「奈良時代(西暦710~794年当たり)」に掛けて、“以下の身体的特徴が徐々に平均化されていった”と考えられております。


      “縄文人的な身体的特徴”とは・・・一般的に、比較的に小柄な体格で、顔の彫りが深く、二重の瞼(まぶた)、厚い唇、多毛、頭髪が波状、湿った耳垢・・・などがあり・・・これらの身体的特徴は、“熱帯雨林への環境適応のため”と考えられています。
      “新石器時代的”、すなわち“水稲耕作などの新しい文化を持っていた渡来系弥生人の身体的特徴”とは・・・・一般的に、背が高くガッチリとした体型で、顔の彫りが浅く、一重瞼で目頭に蒙古襞(もうこひだ)が見られ、薄い唇、体毛が少なく、頭髪は直毛、乾いた耳垢・・・などがあり・・・これらの身体的特徴は、“寒冷地への環境適応のため”と考えられています。

        ※ユーラシア大陸東部の「モンゴロイド」は、“寒冷地適応の程度の軽重”によって、「古モンゴロイド」と「新モンゴロイド」に大別されることもありますが・・・遺伝学的に見ると、“他の集団間との差異に比べて、大きな隔たりが無いため”・・・「南方系モンゴロイド」と「北方系モンゴロイド」と区分する場合もあります。・・・現在の人類学では、どちらかと云うと、「形質研究」よりも「遺伝子研究」が重要視されているのです。・・・ちなみに、現代の「モンゴル地域」や「中国東北部」、「朝鮮半島」には・・・「北方系モンゴロイド」の人々が、圧倒的に多いのに対して・・・「ユーラシア大陸南部」や「島嶼部」へ行く程に・・・「南方系モンゴロイド」の人々が“多くなる”と云えます。

     遺伝学的には・・・「縄文人」は、“ユーラシア大陸や東南アジア方面に点在した大陸系やその他の民族グループとは、かなり異なる遺伝的構成(※塩基配列の違いあり)だった”ことも解っています。・・・また、近年の現代日本人の遺伝子解析によって、“我々現代日本人”を構成する「本土人」や「琉球人」、「アイヌ人」の全てが皆、「縄文人の血(≒遺伝情報)」を受け継いでいることが解かり・・・具体的には、「縄文人特有の遺伝子(DNA)」を、“本土人は平均して一人当たり約12%ほどを受け継いでいる”ことも解かって来ております。(平成28年9月1日:※国立遺伝学研究所などによる研究グループ発表)
     ・・・かつては、“約3万年前頃”に、ユーラシア大陸から渡来し、「先土器時代」と「縄文時代」の文化を築いていた「先住民」を・・・新たに大陸から流入した“現代日本人の祖先が追い払ったとか、駆逐してしまった”という「従来説」がありました・・・が、現在は「分子人類学(※特にDNAなどの遺伝子解析)」によって、結果的にも「否定」されているのです。


     ・・・では、そろそろ「文字の歴史」などについて、ふれたいと思います。
・・・日本列島の「旧石器時代」における「神代文字」などの“古代記号的文字?” については、確かに“古代ロマン”もあり、私(筆者)自身の関心を惹き付けるものなのですが・・・“古代の文明論そのものや、これが現代日本語に繋がる確実な起源と云える”の否か? などの視点を含めてしまうと、“難解且つ多岐に亘る恐れ”があり・・・そもそも、日本だけでなく、世界の考古学史そのものなどを塗り変える可能性もあるため、本ページでは省略したいと思います。・・・ここからは、あくまでも“我々現代日本人”が日常において利用している「現代日本語」で使われる「文字」としての「漢字」を“ベースにして話を進める”ことに致します。・・・(※神代文字などについては、他の学術研究者の方や一般研究者の方、他サイト様などにお任せします)

     さて、日本の「縄文時代」に当たる頃・・・
     “まさに、お隣の古代中国”において・・・「漢字」の原形とされる・・・「象形(しょうけい)文字」の一種・・・「甲骨(こうこつ)文字(≒亀甲獣骨文:きっこうじゅうこつぶん)」が発生したと見られています。
     その時期は・・・「伝承」によります。・・・“古代中国における甲骨文字(≒亀甲獣骨文)の発祥”には・・・“以下の二つの説”がありまして・・・
     1) 「黄帝」
(こうてい:※中国の神話伝説上において、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされていて、三皇のうちに数えられることもある人物)の代(紀元前2,500年頃)に・・・「倉頡」(そうけつ)という「黄帝」の「官吏」が、実際に「砂浜」を歩いた「鳥の足跡」を参考にして作った「文字」とされる。
     2) また『易経』
(えききょう:※古代中国の占筮〈細い竹を使用する占い〉の書物。符号を用いて状態の変遷、変化の予測を体系化した古典。中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。著者は「伏羲(ふっき・ふくぎ)」とされており、「中国」では・・・『黄帝内經(こうていだいけい、こうていだいきょう、こうていないけい:※現存する中国最古の医学書と云われます)』、『山海經(せんがいきょう)』と合わせて「上古三大奇書」とも呼びます)においては、「仙人」のような、“いわゆる聖人が漢字を作った”と記されています。


     ① 『山海經(せんがいきょう)』とは・・・“古代中国”の「戦国時代」から「秦(しん)」王朝と「漢代」に掛けて、“徐々に付加執筆され成立したもの”と考えられ・・・“中国最古の地理書(≒地誌)”とされています。・・・但し、それは・・・今日的な「地理書」ではなくて、“古代中国人の伝説的地理認識を示すものである”ため、現代中国においても、“奇書扱い”とされているようです。・・・実際には、“多数の著者の手に依るもの”と考えられておりまして・・・その内容のほとんどは、“各地の動植物や、鉱物などの産物を記しています”が・・・中には、“空想的なものや、妖怪、神々などの記述も多く”含まれており・・・そこにこそ、“古代中国各地の神話が伝承されている”と推測出来るため・・・後世失われたものが多い中国神話の重要な基礎資料と位置付けされてもおります。・・・特に、“本書中”の「五蔵山經」は・・・“時代を追って成立した本書の中でも、最古の成立”であり・・・“儒教的な傾向を持たない古代中国の原始山岳信仰を知る上で、貴重な地理的資料となっている”のです。
     ・・・また“当時の日本に関係していると見られる記載部分もあります”が、これについては後述致します。
     ・・・元々は、「絵地図」に「解説文」を組み合わせた構成だったため、『山海図經』と呼ばれていました・・・が、“古い時代”に絵地図部分が失われて現存していません。・・・そのため、現在遺されている地図などの画像は、『山海經』本文にある文章を基に、後世において想像されたものであり、伝来する系統によっては全く違う画像となっているものも存在しています。・・・そして、「本文」も“当初のままのもの”は伝来してはおらず、後世に「編集」や「再構成」が施されているため、“各所各所”で復元されていない「箇所」や、「再構成」によって「方位」などの文意が不明確となっている箇所も存在しています。・・・「五蔵山經(南山經から中山經の5巻)」では、“本文中”に、その巻に登場した「山の数」や、“距離を合計して何里であるかを示す”などの文章が登場しますが、おおよそであっても、“本文”に示されている「山の数」や「距離」などと辻褄が合っていないのです。・・・これは、“復元されずに消滅してしまった文章があったため”と考えられています。
     ・・・また、「五蔵山經」には、“現在の中華人民共和国河南省洛陽近郊を中心として叙述されている点”や、“後世の儒学者達が排除した”と考えられる「伝説」や「鬼神」が多く登場する点・・・「西王母(せいおうぼ、さいおうぼ:※古代中国信仰において、西方の崑崙山上に住する女性の尊称であり、全ての女仙達を統率する聖母。半人半獣の「天厲五残(疫病と五種類の刑罰)」を司る女仙、女神であり、『人の姿で豹の尾、虎の歯で、よく唸る。蓬髪(乱れた髪)に玉勝(宝玉の頭飾)をのせていて、穴に住む。』・・・という登場人物?)」が、まるで「鬼神」のような描写であることなどから、「五蔵山經」部分の成立は「東周時代(春秋戦国時代頃)」ではないか? との説もあります。・・・ちなみに、日本へは「平安時代」に伝来し、「江戸時代」には「刊本」として流通していたようです。

     “考古学的に現存する最古”の「漢字」は・・・殷(いん:※考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝。紀元前17世紀頃~ 紀元前1046年。文献では、夏〈か〉とも)王朝を滅ぼして、王朝を立てたとされ、紀元前11世紀に周(しゅう)によって滅ぼされたと云われる・・・“商(しょう:※商朝とも)の時代において、卜(ぼく)と呼ばれる占い結果を書き込むために、甲骨に刻まれた(=使用された)文字である”とされています。
     ・・・これらにより・・・「文字」として使用出来る「漢字」が、“ほぼ出来上がった”のは・・・今から約3,300年前頃ではないか?・・・と考えられているのです。


     そもそも、“殷王朝以前の時代”には、いわゆる「新石器時代遺跡」などから発見される“記号的なもの”はありました。・・・日本列島の「旧石器時代」における「神代文字」などの“古代記号的文字? にも似たような状況だった”と云えます。
     とにかく・・・“それら記号的なものが、洗練化や収れんしてゆく過程”において・・・当初の「甲骨文字」は、「物」を“見たまま”に描く「象形文字」と云えるもので・・・むしろ「絵」に近い様相を持つものも多く・・・当然に現在では使用されなくなった、“上下左右が反転したものや、絵や記号に近い部分が付けられている”・・・“文字?”が存在していました。・・・それでも、“或る種の状態を表現するため”の「動詞」や、「形容詞」が出現し・・・例えば・・・“人が地面を表す横線の上に立っている様(さま)”を、「字」で表すと・・・「立」となります・・・が、これを「指事文字」と云います。・・・“人が木の袂(たもと)に居る様”から、「休」。・・・“女性が子供をあやす様”から、「好」(※これを、会意文字と云います)などの「字」も、既に含まれていたようです。
     ・・・更には、「同音」の「単語」を、それまで使われていた「別」の「字」によって表す「代用字」も出現し・・・例えば・・・“鳥の羽を示す翼(よく)の原形”を、「同音」であったために、“次のことを示す単語へと流用”し・・・これを後に、「翌」としました。・・・このように・・・おそらくは、“独自の発展を遂げたと見られる、現在の漢字書体には、似通っている部分が数多く見受けられる”のです。
     ・・・その後、「青銅」を扱う「技術」を“持ち得た頃”には・・・「青銅器」に鋳込まれた「金文」という「文字」が登場して来ることとなります。

     そして、「殷」から「周」王朝の時代となって、“文字数が飛躍的に増加した”と考えられます。
      “古代中国”において・・・「清らかで澄んだ様子」・・・を「セイ」と発音していたため・・・“井戸端に新芽が芽生えた様”から、「青」とされ、他にも、これに連なる「象形文字」として用いられました。・・・この「セイ」という発音と、「文字」の「青」は、「形容詞」だけではなく・・・“清らかで澄んだものを呼ぶ様々な名詞”にも使用され始め、それぞれの「漢字」が“割り当てられるようになった”のです。・・・「水」が「セイ」なら「清」。・・・「日差し」が「セイ」ならば「晴」などと。・・・また、「侖(リン、ロン)」という「字」も、“短冊を揃えて整然とした様”から発しており・・・同じく、“揃えたものを示す象形文字です”が・・・“人間関係が整然”としていれば、「倫」。・・・“理路整然とした理屈”ならば、「論」・・・「車」が揃えば、「輪」・・・という「漢字」が、それぞれ作られました。・・・“このような漢字の一群”を、「漢字家族」と呼び・・・その「音符」に相当する「青」、「侖」などとともに・・・“意味の類別を表す意符”が組み合わさった「形声文字」が発達したのです。

     ・・・「周」王朝が“混乱の時代を迎えた頃”には・・・「漢字」は、“各地で独自の発展を見せる”こととなります。・・・これは、広~い古代中国での話ですから・・・“各地に様々な自然現象や多種多様な気候風土や植生などが元々あって、そこで農耕文化などが広まったため”だと想います。

     ・・・“春秋時代頃”・・・「周」王朝は、「西周」と「東周」に分裂し、互いに争いました。・・・「東周」が、「洛邑(らくゆう:※現在の中華人民共和国河南省洛陽市付近)」へ遷都し、結果的には勝利しますが・・・やがて、「戦国時代」と“呼ばれる頃になる”・・・と、「東周」は、かなり衰退してしまいます。・・・“このことに呼応するかのよう”に・・・「漢字」の「意味」や「字形」などの抽象化が進んでしまい、“地方ごとに通用する字体が異なる”と云った事態も発生していました。

     ・・・やがて、“中国全土を初めて統一した、秦の始皇帝(しこうてい:※生年 紀元前259年~没年 紀元前210年頃?)が登場する”・・・と、“各地でバラバラだった字体の統一に着手した”とされています。・・・これは、“秦が、周(西周)の故地を本拠地として受け継いでいたため”・・・“周(西周)で使用した文字や、言語的な系統を、基本的に継承し保持していた”・・・とも云えます。
     ・・・“この際に発生した”のが、「小篆(しょうてん)」と呼ばれる「字体」でしたが・・・“尊厳に溢れ過ぎた難解な書式だった”ようです。・・・つまりは、“脚色が強く面倒だった”ようでして・・・。

     この秦王朝の後の「漢代」になると・・・「下級役人」を中心に、使い難い「小篆」の“飾り部分を省いたり、曲線で表していた部分を直線化したり”と、いろいろと変化が生じました。・・・これが、やがて・・・「隷書(れいしょ)」という「字体」になります。この「隷書」は、「木簡」や「竹簡」、「書物」などに毛筆で書かれるだけでなく、「石碑」に刻まれる「字」にも使用されました。・・・“この隷書を走り書いたもの”を、「草隷(そうれい)」と呼んで・・・そして、これが「草書(そうしょ)」となってゆきました。・・・また、“隷書を、より直線的に書いたもの”が「楷書(かいしょ)」へと発達し・・・これを・・・“更に崩した字体”が「行書(ぎょうしょ)」となったのです。

     そして・・・“ちょうど、この頃(≒紀元前2世紀頃から紀元前1世紀頃に掛けて)”・・・“古代中国の書物上”に、「日本」を示すと考えられる「記述」が初見されます。・・・上記の① 『山海經』と、② 『論衡(ろんこう)』③ 『漢書(かんじょ)』地理志という“三つの書物において”です。・・・“これら三書中”では、「日本」や「日本列島人」とおぼしき「倭(わ)」とか「倭人(わじん)」という「表記」が為されておりました。
     そもそも・・・「倭」という「一字」には・・・私(筆者)自身が利用している「漢和辞典」によると・・・(1)①したがうさま。柔順な(=やさしく、ものやわらかな)さま。また、つつしむさま。 ②うねって遠いさま。
 (2)やまと。昔、中国で日本を呼んだ名称。・・・という字義(意味)であり・・・
     ・・・「小篆」などの「篆文」における「形声文字」とされ、【 人 + 委 】として成ります。
     ・・・右側の「音符」である【 委 】は、“なよやかな女性”の意味や、“したがう”の意味、“くねくねと遠い”という意味。

     ・・・とにもかくにも・・・“これらの書物によって、古代中国に暮らす人々”から、“倭や倭人が、どのように映っていたのか”が判るので、詳しく分析してみましょう。・・・まずは・・・


      ① 『山海經(せんがいきょう)』における「倭」の記述は・・・
      ・・・「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(『山海經』第十二・海内北經)
     《訳》『蓋國は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に屬す。

      ・・・ちなみに・・・『山海經』第九・海外東經では・・・“東方の海中に、黒齒國という国があり、その北には扶桑が生えて、太陽が昇る国がある”・・・とされていました。
      ・・・この『山海經』が編纂された“古代中国の戦国時代から秦王朝と漢代頃”において・・・“倭が燕という国に属していた”というのは・・・“かなり怪しく、疑わしい記事”であり・・・今ならば、“訂正記事や、訂正広告をしても済まされない位の、大間違い記事だった”のですが・・・少なくとも、“倭と燕が、間接的には交流していて、何らかの繋がりがあった”と見られていたことが分かります。・・・しかし、上記でもふれたように・・・『山海經』そのものが「伝説」や「神話」の体裁(ていさい)を採用しており、「架空の国」や「想像上の国」、「想像上の産物」などが多いため、“事実を忠実に反映しているものなのか?” についてを、かなり疑問視されているのです。・・・したがって、この記述については、“あくまでも参考資料程度ということ”になりますでしょうか。


     ※② 『論衡(ろんこう)』とは・・・「後漢時代」の「王充(おうじゅう:※生年 西暦27年~没年 1世紀末頃)」が著した全30巻85篇から成る思想書。そのうちの第一篇は、「篇名」のみであり散佚している。「王充」は、“実証主義の立場”から、「自然主義論」や、「天論」、「人間論」、「歴史観」など多岐多様な事柄を説きつつも、一方では非合理的な「先哲」や、「陰陽五行思想」、「災異説」を「迷信論」として、徹底的に批判しています。また・・・“王充死後の2世紀末頃に、本書が世に出た”とされる。

      ② 『論衡』における「倭人」の記述は・・・
      ・・・「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第十八)
      《訳》『周の時は天下太平にして、倭人來たりて鬯草(ちょうそう)を獻ずる。

      ・・・「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二十六)
      《訳》『周の時は天下太平にして、越裳は白雉(しろきじ)を獻じ、倭人は鬯草を貢ぐ。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くにあたわず。

      ・・・「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢國篇第五十八)
      《訳》『成王の時に、越裳は雉(きじ)を獻じ、倭人は鬯草を貢ぐ。

      ・・・周王朝の時代は・・・日本では、だいたい・・・「縄文時代晩期」から「弥生時代前期」の頃となりますから・・・“この頃から、古代中国の人々が、当時の日本列島などに暮らす人々を、倭人として認識していた”と考えられます。・・・また、「周」の「王」が、その効用を期待して、「白雉(しろきじ)」を食したり、「鬯草(ちょうそう:※暢草のこと)」を服用していたことが分かります。・・・特に、“倭人が貢いだ”とされる「暢草」とは、「中国江南地方」より南方で育つ薬草でして、“当時のアルコールに漬け込んだものを飲んでいた”と考えられています。・・・しかし、“周王朝に対して暢草を貢いだ”という「倭人」は、“この暢草を、いったい何処から入手した”のでしょうか?・・・「貢物」ですから、“それ相応の量を揃えていた”と考えられますし、それが「日本列島」から“持ち込んだ品だった”のか?・・・はたまた・・・“大陸内”で採集して、纏(まと)め上げた後に周王へ貢いだものだった”のか?・・・いずれにしても、“こんな大昔から、日本海や東シナ海を介した交流があった”ことが分かります。
      ・・・しかしながら、この『論衡』では・・・「倭」ではなく、あくまでも「倭人」と記述しており・・・この「倭人」が、当時の「倭国」を代表する在地外交官の任を受けた人物だったのか?・・・或いは、“倭国から現地に漂着した漂流民の生き残り”であり、倭国へ帰るために、周王に対して貢物をして、新たに周王朝と倭国とを交流させるという意図があったのか? などについては、全く分かりません。
      ・・・ちなみに・・・“当時のアルコール”とは、おそらくは・・・“現代の濁酒(どぶろく、にごりざけ)に近かったものではないか”と想います。当時の中国江南地方では、「米」を中心とする農耕が既に始まっており・・・“当倭人と呼ばれた人々や、日本列島に暮らしていた人々が、新しい水稲農耕技術や板張り船製造技術などを、渡来系弥生人達とともに、受け入れ始まっていた頃でした”から。・・・この「倭人」が、“渡来系弥生人”だった場合には、「海」を介した交流があっても、何ら不思議ではありません。
      “上記文章”では、(儒増篇 第二十六)において、更に「越裳(=越)」と挿入して、「倭人」と並べて記述していることより、著者である「王充(おうじゅう)」が、“古代中国の呉越地方”と「倭人」との間に、“何らかの関係性がある”と認識していたことが窺えますが・・・これは・・・きっと、“この暢草を貢いだという倭人が、過去に倭国へと渡った元越人本人か、その子孫、つまりは渡来系弥生人だった”と認識していたのかも知れません。・・・ちなみに、この『論衡』の著者「王充」の生まれは、「会稽(かいけい)郡上虞(じょうぐ)県」とされており、“華北地方から江南地方に移住した”という経歴を持つ人物でした。また、彼の『(中略)~ 白雉を食し暢草を服用するも、凶を除くにあたわず(≒結局役には立たなかった)。』といった表現方法も、迷信や不合理などを徹底して批判する思想家としての人柄を強く感じることが出来ますし、実証主義を貫いた人物とも評価されてもいますので、前述の「越裳(=越)」と「倭人」の関係性についての記述の信憑性は高いのではないか? とも想えますが・・・。
      ・・・とにもかくにも、「王充」が生きた「後漢時代」には、「倭人」が古くは周王朝の時代から、何らかの関係を持ち・・・“倭という国から、海を渡って、周に対し朝貢したと考えられていたこと”・・・が分かります。


      ・・・しかし、ここで・・・“敢えて私(筆者)自身の個人的な感想を付け加える”とすると・・・考古学的、或いは常識的に考えても、時代を遡れば遡るほど、後世における情報量は少なくなる筈なのですが・・・思想書であるためなのか・・・何故か、全体的に“その表現”が詳しくなったり、逆に省かれたりしています。・・・その記述に、「成王」という王の称号や「越裳」という国名を挿入したこと、“雉(きじ)が本当に白かったのか否か?” などは、ともかくとして・・・特に、“本書中における一番最初の倭人についての記述”と考えられる・・・(異虚篇第十八)以降の文章中において、「獻(=献)」という字が、「貢」という字に“置き換わってしまっている”という点が、気になります。
      現代日本語においては、「献ずる」と「貢ぐ」を、“ほぼ同じ意味”、或いは“ほぼ同じニュアンスとして、使用しております”が・・・皆様に、現在の漢和辞典を開いて頂いて、この“二字の意味を見比べれば、お解り頂けるか”と思います。・・・この“二字”の「漢字」としての文字の成り立ち(=甲骨文や金文、小篆や大篆などの篆文)からしても、“かなりの違いがある”のです。・・・これらの矛盾点を整理するために、まずは下記をご覧下さい。


      ・・・私(筆者)自身が利用している漢和辞典では・・・
      (※文字の成り立ち(=甲骨文や金文、小篆や大篆などの篆文)については、本ページ上において表示が出来ないため、省略して字義(意味)のみの比較とさせて頂きます)
       「獻(=献)」という文字の字義(意味)は・・・①たてまつる。ささげる。すすめる。 (ア)犬を祖先の祭りに供える。 (イ)音楽を奏して神を祭る。 (ウ)ささげる。君に物を奉る。「献上」 (エ)君に申しあげる。上奏する。 (オ)人に物を贈る。 (カ)酒を客にすすめる。 たてまつる物。 (ア)供物。 (イ)献上品。 賢人。=賢。「文献」

       「貢」という文字の字義(意味)は・・・①みつぐ。ささげる。たてまつる。朝廷に地方の産物を献上する。 ②みつぎ。みつぎもの。 夏代の税法の一つ。一人の男が五十畝の田地からあがる収穫の十分の一を納める。 すすめる。人材を推薦する。 ついえる。やぶれる。

      ・・・この“二字の字義(意味)におけるかなりの違い”とは・・・「貢」という文字に、上記下線部分があることでしょう。・・・そもそも、「漢字」が“文字として、ほぼ使用出来るようになった”と考えられる殷王朝よりも・・・更に前の、“夏(か)の時代(※中国の史書のみに登場する王朝で、考古学上の発見はない)からの、当時の税制の名残りとして、その意味が伝えられていた”のです。・・・これは、本ページの「テーマ」である“現代日本の地名”にも共通しますが・・・驚くべきことに、“後世日本”の「安土桃山時代」に、「豊臣秀吉」が行なった「太閤検地」のような・・・当時(“古代中国”)の政治システムを、“たった一つの漢字によって、具体的に今日まで伝承していること”なのです。
      尚、この「貢」には・・・「獻(=献)」とは違い・・・“様々な物や言葉、音楽活動だけではなく、自身や他人を含めた人そのものまでを対象”としていて・・・現代では、字義(意味)の「序列」が五番目になってしまいましたが・・・“古代における勢力争いや、政治的な権力闘争などで負けた方が屈服や服従をさせられたことを連想させる言葉”・・・「ついえる。やぶれる。」という意味まで含まれるのです。また、この「貢」という漢字の成り立ちを調べて頂くと解るのですが・・・「貢」には、「獻(=献)」に比べて、「貨財(かざい)をささげる」という意味が“より濃く”なります。

      ・・・このように、“当初使用されていた文字が置き換わってしまった原因”は・・・ズバリ云うと、著者の「王充」が亡くなってから、“約百年も経った後の2世紀末頃に、本書が世に出たとされていること”にあります。・・・“著者の没後約百年”も経っても、「王充の思想書」を世に出して広めた、広めたかったという、“漢代の或る人物の思想的な意図や、政治的な意図を、少なからず感じざるを得ない”のです。・・・ですから、『論衡』における「倭人」の記述における表現方法には、残念ながら・・・著者「王充」の「信念」や「哲学」、「思想」からは、“多少なりとも外れてしまっている可能性がある”のです。
      ・・・これらのことは、“いったい何を物語っている”のでしょうか?・・・この『論衡』中の(異虚篇第十八)、(儒増篇第二十六)、(恢國篇第五十八)では・・・あくまでも、「倭人」としていて、「倭」とか「倭国」とかいう、“一地域や小国(※古代中国から見れば、あくまでも遠く東方にあるという連合国家の一つに過ぎなかった)”としていて、具体的な表記をしていません。・・・もっと云うと・・・“周王朝時代の頃に、確実視されていた”・・・「越裳」という「国名」を、“わざわざ挿入し並べる”ことによって・・・ごく一部の「倭人」についての「言い伝え」や、「漢代」において知り得ていた“日本列島人の姿”を元にして、結果的に一つの「文章」に纏(まと)め上げているようにも読み解ける訳です。
      ・・・元々は、実証主義を貫いた人物と評価される「王充」が記述した『論衡』でしたし、前述の『山海經』と比べれば“信憑性が高いもの”と考えられるにもかかわらず・・・“誠に惜しいとしか、云い様がない ”のですが・・・やはり、この『論衡』も“参考資料程度”ということになりそうです。・・・惜しい。


      ちなみに、この「王充」は、下記③『漢書(かんじょ)』地理志を編纂した「班固(はんこ)」の“五歳程年上の先輩”であり・・・“兄弟子”とも呼べる「王充」は、“若い頃に、当時の都「洛陽」で「班固」の父である「班彪(はんひょう:※この人も漢の歴史家)」に師事し、学問を修めた”と云いますし、当然に「班固」の知人でもあったため、“思想的にも何らかの影響を及ぼしている可能性が高い”とは云えますが・・・。


     ※③ 『漢書(かんじょ)』地理志とは・・・『漢書(かんじょ)』の「地理志」の部分を指す。
      『漢書』は、「後漢」の「章帝(しょうてい:※第3代皇帝)」の時に、「班固(はんこ:※後漢初期の歴史家、文学者)」、「班昭(はんしょう:※中国初の女性歴史家、後漢の作家であり、班固の妹)」らによって、編纂された「前漢」のことを記す歴史書とされる。『漢書』の制作は、「班固」の父である「班彪(はんぴょう)」が、「司馬遷(しばせん)」の『史記(しき)』を継いで書いた『後伝(ごでん)』に始まる。「班彪(はんぴょう)」は、息子の「班固」に先立って、既に65編を編纂していた。勅命によって、「班固」が父の業績を引き継ぐこととなり、『史記』及び未完の『後伝』を、整理補充して『漢書』の制作に着手し、“ほぼ完成させた”が、“その内”の「八表」と「天文志」は未完で終わります。・・・“未完の理由”は・・・永元4年(西暦92年)に、時の皇帝「和帝」が、「竇憲(とうけん)一派」の逮捕を命令し・・・「班固」もまた、竇(とう)一族の娘を娶っていたため、“この事件に連座させられ獄死してしまったため”です。
      ・・・それまで確固たる地位を王朝内に築いていた「竇憲」が、皇位簒奪という謀反を計画したため、それを察知した「和帝」が、反対に「竇憲」の「大将軍の印綬」を没収し、「冠軍侯」に改封し、その後「自殺」を命じました。・・・ちなみに、“この時”・・・「和帝」が「竇憲」を排除するために、「宦官(かんがん)」を利用したことから、それ以降の“後漢王朝では宦官の勢力が強まっていった”ようです。
      そして、『漢書』の“未完部分について”は、「班固」の妹である「班昭」らによって完成されることとなりました。
      内容的には・・・『漢書』は、「二十四史」の一つとされており、「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る「紀伝体」で、「前漢」の成立から「王莽(おうもう:※新王朝の皇帝)政権」までが書かれた。この『漢書』は、「断代史(※一つの王朝に区切っての歴史書)」の形式を採用した“初めての歴史書”であり・・・“この形式”は、後の「正史編纂の規範」となります。『後漢書』との対比から『前漢書』とも云います。また、『史記』と並び、「二十四史」の中の“双璧”と称えられ・・・故に、「元号」の「出典」に多く使われました。この『漢書』は、『史記』と重なる時期の記述が多いために、当然に比較されることも多く・・・“その特徴”としては、あくまでも「歴史の記録」に重点が置かれていたため、『史記』に比べて「物語」の記述が少なく、“面白みに欠けます”・・・が、「詔」や「上奏文」を、そのまま引用しているため、“正確さ”においては『史記』に勝っており・・・“思想的には、儒教的な観点によって統一されている”とのこと。
      ・・・ちなみに、『史記(しき)』は・・・「前漢」の「武帝(ぶてい)」の時代に、「司馬遷(しばせん)」によって編纂された中国の歴史書。「正史」の第一に数えられる。「二十四史」の一つ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書(たいしこうしょ)』だったが、後世に『史記』と呼ばれるようになり、これが“一般的な書名”とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る「紀伝体」の歴史書で、その叙述範囲は伝説上の「五帝」の一人「黄帝」から「前漢」の「武帝」まで。このような記述の仕方(※通史と云います)は・・・中国の歴史書、とりわけ「正史記述」の雛形(ひながた)となっている。「二十四史」の中でも、『漢書』と並んで、“最高の評価を得ているもの”であり・・・単に、“歴史的価値だけではなく、文学的価値も高く評価”される。
      ・・・日本でも古くから・・・(※『史記』の伝来時期は正確には判明していませんが、聖徳太子〈厩戸皇子〉の十七条憲法の典拠の一つとして『史記』を挙げる見解あり)・・・読まれており、「元号の出典」としても12回採用されている。

      ③ 『漢書』地理志における「倭」や「倭人」の記述は・・・
      ・・・「(中略)然東夷天性柔順 異於三方之外 故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也夫 樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」(巻28下地理志第八下燕地の条)
      《訳》『(中略)然(しか)るに東の夷(えびす)は天性が柔順であり、三方の外に於(お)いて異なる。故に、孔子は道(=道徳、≒儒教)の行なわれざるを悼(お)しみ、設(も)し海に於(お)いて浮(ふ)したならば、九つ(≒多くの)の夷(えびす)が居るものと欲す。以(ゆえ)有るかな。夫(そ)れは、樂浪(らくろう)海の中に倭人が有り、分かちて百餘國を爲し、歳時を以(も)って(≒定期的に)來たりて獻見すると云うもの也(なり)。

      「樂(楽)浪(らくろう)郡」とは、「前漢」の「武帝」が紀元前108年に“衛氏朝鮮の故地”に設置した「漢四郡(かんのしぐん)」の一つ。“他の三つ”は、「真番郡」、「玄菟郡」、「臨屯郡」となります。この「樂(楽)浪郡」の「役所(=郡庁)」は、現在の朝鮮民主主義人民共和国平壌付近”にありました。「樂(楽)浪海」とは、“朝鮮半島周辺の海”であり・・・すなわち、“古代中国(≒大陸側)から視て、遠く東の海”ということになります。

      ・・・“上記の文章”では、全体的に、「孔子」の「世界観」を引用しながら、“遠回しに”「倭人」と「倭国」を表現しています。
      まず・・・“上記文章中”の『三方の外に於(お)いて』「三方」は・・・いわゆる「中華思想」によって説明出来ます。
      ・・・“古代中国”においては(・・・※現代においても?・・・)、異民族(※モンゴル系遊牧騎馬民族のこと、すなわち元王朝や、清王朝)による支配を含め、“(中国)大陸を制覇した王朝のこと”を「中国」や「中華」と呼びました。そして・・・その「中国、」或いは「中華」から見て、「四方」に居住し、“中華王朝”に帰順しない周辺民族を、「夷狄(いてき)」、或いは「四夷(しい)」と総称しました。・・・「夷狄」とは、「中華思想」における「支配民族(※漢民族、漢人とは限らない)」による「異民族」への「蔑称」であり・・・「戎狄(じゅうてき)」や、「蛮夷(ばんい)」とも呼ばれました。
      ・・・次の「四夷(しい)」とは、「東夷(とうい)」、「西戎(せいじゅう:※中国西部に住んでいた遊牧騎馬民族で、度々中国の歴代王朝に侵入して略奪を行なったことから、特に西戎という言葉に、蔑〈さげす〉んだ意味合いを込めています)」、「南蛮(なんばん:※中国大陸を制した王朝が南方〈現ベトナムなど〉の帰順しない異民族に対して用いた蔑称)」、「北狄(ほくてき:※古代中国における北方の中原的都市文化を共有しない遊牧騎馬民族を呼んだ蔑称)のことでした。
      よって「三方」とは、「西戎」、「南蛮」、「北狄」を示しているのです。

      そして・・・“上記文章中”では、“東の夷(えびす)は、総じて天性が柔順である”として・・・「三方(=西戎、南蛮、北狄)の天性とは異なる。」・・・と、断定的に表現し・・・“民族的に異なる”ことや、“中国歴代王朝に対して朝貢していた東夷も含めていたこと”を示唆しています。・・・ここで、注意が必要なのは、「従順」ではなく「柔順」という「表記」がされていることです。“両者の意味”は微妙に異なっており・・・「柔順」は、「やさしく、ものやわらかなこと」を意味しますが・・・「従順」は、「おとなしく、さからわないこと」を意味しますので。・・・要するに、「東夷」の全ての勢力が“古代中国歴代王朝に従っていた訳ではない”のです。
      また、“孔子と、彼の高弟の言行を、彼の死後に弟子達”が記録した書物として有名な『論語』(公治長第五)においても語られている・・・

      ・・・「子曰 道不行 乗桴浮干海」
      《訳》『子曰く、道(=道徳、≒儒教)行なわれず。桴(ふ、いかだ)に乗りて海に浮かぶべし。』
      つまり・・・「孔子は言った。ここ(=当時の中国)で道徳が受け入れられないのならば、桴に乗って、(東の)海に浮かぶと云われる九つ(≒多くの)の夷(えびす)が居る“遠くの未開世界”へ行きたい」と。

      ・・・“孔子の一種の憧れ”を描写していることからも分かるように・・・『・・・遠すぎて実際には良く分からないけれど、きっと今の暮らしより、“生きる意味”を見い出せる処に違いない!!・・・』・・・という、孔子の想いが伝わって来ます。

      上記『漢書(かんじょ)』地理志の“文章”は・・・『故に、「孔子」は道(=道徳、≒儒教)の行なわれざるを悼(お)しみ、設(も)し海に浮(ふ)したならば、九つ(≒多くの)の夷(えびす)が居るものと欲す。』・・・と、続きます。
      そして・・・『以(ゆえ)有るかな。(≒それもそのはず)』・・・と、続け様に・・・「倭人」と「倭国」の姿を、“より具体的に”、且つ“一例を挙げて”・・・『樂浪(らくろう)海の中に倭人が有り、分かちて百餘國を爲し、歳時を以(も)って(≒定期的に)來たりて獻見すると云うもの也(なり)。』・・・と、表しているのです。

      ちなみに、そもそもの「夷(えびす)」の字義(意味)ですが・・・私(筆者)自身が利用している漢和辞典では・・・①えびす。未開国。また、未開人。 (ア)特に東方のえびす。「東夷」 (イ)四方の異民族の総称。 (ウ)外国。遠方。 ②たいらげる。 (ア)敵をうち滅ぼす。上奏する。 (イ)治める。治まる。 (ウ)平らにする。ならす。 (エ)刈りとる。除く。 (オ)殺す。 ③たいらか。 (ア)ひらたい。「険夷」 (イ)おだやか。 なみ。普通。等しい。 つね。人が常によるべき道。 傷。きり傷。また、傷つける。そこなう。「傷夷」 《そして、日本独自の「国字」・「国訓」として》えびす。 (ア)えぞ。えみし。昔、関東以北に住んでいたアイヌ民族。 (イ)あらあらしい武士。 (ウ)七福神の一つ。恵比寿。
      その文字の成り立ち(甲骨文や金文、篆文)は・・・古くからの象形文字とされ・・・ひものまきついた矢の象形。いぐるみ《=[「射(い)包(くる)み」の意]飛んでいる鳥を捕らえるための仕掛け。矢に網や長い糸をつけて、当たるとそれが絡みつくようにしたもの。》の意味や、いぐるみで傷つけたいらげるの意味を表す。また、東方のえびすの意味を表した【 尸(しかば、かばね) 】に通じ、えびすの意味をも表す。【 夷 】を音符に含む形声文字に、「痍(い・きず)」などがある。「夷」は、字形・音・意味の上で、(弓)矢と近い関係にある・・・とされています。
      ・・・尚・・・「夷」には、その“かたち通り”に、「一」+「弓」+「人」とする説もあり。

      この「えびす」という「読み」などについてをご説明すると・・・「日本神話」を多く含む『古事記』では、「いざなき」と「いざなみ」という“二神の間に生まれた最初の子”を、「ヒルコ(蛭子)」と云いました。この「ヒルコ」という名前は、環形動物(かんけいどうぶつ)の「ひる(=蛭)」に由来し“身体が不完全な赤ん坊”を意味しています。『古事記』では、「いざなき」と「いざなみ」が、「ひるこ(=蛭子)」を「葦舟(あしぶね)」に乗せて、“海に流してしまいます”が・・・その後、この「ひるこ(=蛭子)」がどうなったのか? についての記述は一切ありません。このことは『日本書紀』についても同様なのですが・・・。
      ・・・その一方で・・・“お正月に何百人もの男達が、一斉に全力疾走して福男を選ぶ”という「祭事」で有名な兵庫県西宮市の「西宮神社」は、全国の“えびす神社”の「総本社」であり、“その主祭神”を「蛭子」としています。この「蛭子」は、「夷(えびす)三郎」とも呼ばれ、「福の神」として崇められているのです。・・・つまり、『古事記』において「葦舟」で海に流されてしまった「ひるこ(=蛭子)」は、やがて「西宮神社」に漂着し、そこで「神様」として「信仰」されるようになった訳です。
      ・・・そして・・・「蛭子」は、「えびす」とも読まれて・・・“中世の頃”には、「恵比寿」と表記されるようにもなり、「福の神」の「一柱(ひとはしら)」となっています。・・・この「恵比寿様」を想像する際に、「釣り竿」と「鯛(タイ)」を持っている“お姿”のイメージが一般的ですが・・・この「ひるこ(=蛭子)」が、「海」からやって来た「神」として・・・すなわち、「豊漁の神」として、現代でも「漁」に携わる人々などから多くの信仰を集めているのです。
      ・・・しかし、何故に・・・「蛭子」を「えびす」と読ませるのか?・・・これは・・・「民俗信仰の世界」に、“そのヒントがある”とされています。・・・古来より、「漁」に携わる人々などの間では・・・「海岸」に打ち上げられた「漂流物」・・・とりわけ、“珍しい造形のもの”や、「鯨(クジラ)」などの“大型海獣の死体”、「漁」の“最中”などに発見された“人間の水死体など全て”を・・・「えびす」と呼ぶ「風習」があったようなのです。・・・“古代の日本人が、これらに遭遇したのは、海の神による思し召しであると認識していた”ことが良く分かります。・・・「えびす」という「読み」を持つ・・・「夷」や「蝦夷」、「戎」、「胡」という「漢字」も、元々は・・・“遠い海の彼方(かなた)からやって来た異民族を表す言葉だった”ため・・・「海」に流されて漂ってきた「ひるこ(=蛭子)」を、「えびす」と呼んだのです。
      ・・・『古事記』において、“不具のため両親(=両神)から捨てられてしまった”という「ひるこ(=蛭子)」の「不幸話」は、可哀そうなこととして感じられるとともに、いったいどうなってしまったんだろう? と“ヤキモキ”しますが・・・後に、「ひるこ(=蛭子)」が「神様」として尊ばれたという「後日談」では、“古代の日本人”が持っていた「生(せい)」に対する「尊ぶ心」や、「優しさ」、「死生観」などが感じられるのではないでしょうか?

      以上のことから、“中国の正史として、信憑性が高い”と云われる『漢書』地理志においては・・・「東の夷(えびす)」が“九種族、或いはそれより多くの種族が居る”と記述され・・・“その種族の一つとして、樂(楽)浪海(≒遠く東の海)の上にある、百餘りから成る倭という国が認識されており・・・“そこに暮らす倭人達の一部が、古代中国の勢力下にあった朝鮮半島の樂浪郡平壌付近の郡庁を、定期的に訪問し、献上品を届けながら周辺都市や農村を見て行ったこと”・・・などが読み解けるのです。
      尚、ここで使用された「漢字」は・・・「 ~ 獻見云」・・・であり、「王充」の『論衡』に多くあるような「貢」ではなく・・・あくまでも、「献」なのです。

      ・・・「後漢初期」の“生粋の歴史家”、そして文学者であり・・・結果として、獄死してしまう「班固」にしてみれば・・・“事実確認の難しさがある、遠い昔の出来事に対しても、正確性を追求していた”ことや・・・殊更に“語気”を強めて強調し、「発注元」であった“現王朝に対する後世での美化に繋がることを嫌う”といった・・・云わば、“反骨精神の表れなどがあった”のかも知れません。


      いずれにせよ、『漢書』が完成した“この頃”はちょうど、日本列島の「弥生時代中期後半(紀元前1世紀~2世紀初め頃)」となります。
      “この頃”の日本列島は・・・“北海道と東北地方北部以外のほぼ全域”において、「水稲耕作」などの新しい文化が広まって、「小国(≒大型地域集団)」を形成していました。
      “これら小国(≒大型地域集団)の一部には、古代中国王朝と通交していた処”もあり、中国側からは「国」と称(=見做)されていました。・・・『後漢書』東夷列傳でも、“紀元前後(≒西暦0年前後)当たりには、このように国として後漢と通交したとされる小国(≒大型地域集団)が、100前後あった”としています。

      西暦57年には、「倭」の「奴國王(なこくおう)」が、「後漢」の「光武帝」に朝貢し(※この通使は、「大夫」と“名乗った模様”で、おそらくは役職名のこととされます)、「金印」を授与されたことになっています。

      ・・・後世の江戸時代天明年間頃か? とされておりますが・・・当時の「福岡藩主黒田家」により伝えられたものとして、「漢奴國王印:かんのわのなのこくおういん」が出土したとされておりますので・・・“1世紀頃の古代日本の一地方国家”、或いは“それなりの規模を持つ地域連合国家による後漢との、何らかの朝貢的な交流が、地域によってはあったもの”と考えられています。

     ・・・尚、同じく「後漢時代」の“西暦100年頃”には・・・
     『説文解字(※著者は許慎〈きょしん〉)』
・・・“中国初の字書”。「字書」とは、「漢字」を分類した「辞典」のこと。「字典(じてん)」とも。「狭義」としては、「部首」を設け、「字形」により「漢字」を分類したものを指しますが・・・「広義」としては、「作詩」の「押韻」のために「韻」により「漢字」を分類した「韻書」を含み、更には「語」を集めて「意味」により分類した「訓詁書」を含む。・・・『説文解字』では、9,353字の「漢字」について、その成り立ちを解説し、“その中の約8割”を「形声文字」が占めているのです。
      ・・・このような「文字形成」の背景には・・・“事物や事象を感性的に捉えて枠にはめ込む、古代中国における習慣が影響していた”・・・とも云います。・・・その結果として、「音素文字」や「単音文字」を“作り出していく傾向が抑制された”のではないか? と考えられているのです。

     また・・・“同時期”の「倭国」では・・・“複数の小国(≒大型地域集団)が、互いの社会的且つ政治的な結束力を、次第に強める”こととなり・・・「倭国連合」と呼び得る“政治的な連合体”を形成します。・・・これが、“2世紀初頭頃のこと”と考えられています。・・・また、『後漢書』東夷列傳では・・・“この倭国連合と呼び得る政治的連合体の盟主のこと”を、「倭国王」と称し・・・“最初期”の「倭国王」としては、“西暦107年に後漢へ朝貢した”とされる「帥升(すいしょう:※師升とも。生没年不詳)」の「名」を挙げています。
      ・・・「帥升(=師升)」とは、「弥生時代中期から後期頃」の“倭国(※まだ統一国家ではない国の一つ)の有力な王”と推測されており・・・“外国史書において、その名が遺された日本史上最初の人物”ではないか? とされます・・・が、実のところ・・・「帥升(=師升)」というのが「名前」なのか?、或いは「職名」なのか?・・・はたまた・・・“単に、派遣使節団を率いたお師匠様的な王という意味だった”のか? などは不明です。・・・そして、『後漢書』東夷列傳によれば・・・「帥升(=師升)が、朝貢の際に、人材(※奴隷的労働者か?留学生なのか?などは不明)を百六十人献上し、謁見を請うた。」・・・という記述しか無いため・・・「帥升(=師升)」は、“後漢から倭国王とは認められずに、謁見すら出来なかった”とする説もあります。・・・また、この時の「倭国王」と、“西暦57年に後漢へ朝貢して金印を授けられた”という「委奴國王」との関係なども、明らかにされている訳ではありませんし・・・「倭国」が「後漢」から見て、“どのような位置関係にあった”のか? も分かりません。
      ・・・但し、『古事記』や『日本書紀』の記述内容から・・・“この頃の倭国は、大和地方ではなく、まだ九州地方にあった可能性が高い”・・・と云われてはおりますが。

      この「倭国」は、“2世紀初頭頃からの半世紀程は、政治的に安定していたよう”です・・・が、“中国史書”によれば・・・“2世紀後半に入る”と、「倭国大乱」と呼ばれる“内乱が発生した”とされています。
      ・・・“ここで登場して来る”のが・・・有名な「邪馬台國(やまたいこく:※邪馬壹國とも表記)」と「卑弥呼(ひみこ)」です。
・・・“中国側の五つの古い書物(※『後漢書』東夷列傳第75、『三國志』魏書巻30東夷伝倭人〈通称:魏志倭人伝〉、『梁書』巻54列傳第48諸夷傳東夷条倭、『隋書』巻81列傳第46東夷傳倭國、『北史』巻94列傳第82倭國のこと)”に、それぞれ記述されているのですが・・・
      ・・・概ねのところ・・・『長く続いた大乱を終結させるために、邪馬台國(=邪馬壹國)の一人の女性・卑弥呼を倭国連合の女王として立てることで、国中(※属する連合国家全てのこと)が服した』・・・と云います。尚、“彼女について”は・・・「既に成人していたが、夫は無く、鬼(神)道を用いて、よく衆を惑わした。」とも。・・・そして、“その大規模な争乱があったのは、2世紀後半のこと”であり・・・女王・卑弥呼は、魏王朝との通交(※西暦238年か239年のこと)においては・・・“女王・卑弥呼が、魏に使いを送り”・・・“魏の皇帝から、「親魏倭王」の称号と、「仮の金印」、「銅鏡」百枚を授けられる”・・・こととなり、“倭国連合内の安定を図った”・・・と。
      ・・・“西暦238年か239年に、卑弥呼が魏に対して使いを送った後のこと”については・・・“中国側史書の記述”において、“尚も倭国連合内で混乱が収まらなかった情勢だった”のか?・・・或いは、“倭国連合側が、制度的或いは文化的な遅れを自覚し、魏王朝を取引相手やお手本として見定めると同時に、もう一方の魏王朝側が倭国連合を敵対勢力ではなく、味方として引き留めておきたいがため、結果的として両者の利害が一致しただけのことだった”のか?・・・などについては、以下の「略年表」からも、幾分読み取れますが・・・いずれにしても、何と云うか・・・倭国連合と魏王朝それぞれの、“矢継ぎ早な、或る種の意欲”を感じ取ることが出来ます。・・・とにかく、このことで・・・“比較的に平穏な時代だった”とされる「弥生時代」の“倭人(≒日本列島人の一部)と呼ばれた人々”からすれば・・・“かなりの社会的インパクトが、当時の文化面や国家という概念に対して与えられた筈”と、想像出来るのです。・・・


      西暦243年: 「倭王」が、「大夫」の「伊聲耆(いぜり?)」、「掖邪狗(やざこ?)」ら八人を、「復遣使」として、「魏」へ派遣し・・・「魏」が、「掖邪狗」らに「率善中郎将」の「印綬」を授ける。
      西暦245年: 「魏」が、「難升米(なしょみ?)」に「黄幢(こうどう:※黄旗、高官や将軍の証とされる)」を「仮授与」する。(=帯方郡に付託す)。
      西暦247年: 「倭」が、「載斯(さいし?)」と「烏越(うえつ?)」らを「帯方郡」に派遣し、「援」を請う。「魏」が、「難升米」に「詔書」及び「黄幢」を正式に授与する。
      西暦248年頃、或いはその前後: 「日本列島」にて「皆既日食」。(西暦247年3月24日に日没)
                    「卑弥呼」が「死去」し、「墓」が造られる。(※『梁書』では、正始年間(西暦240年~249年)に卑弥呼が死去したとされます)
                    「男」の「王」が立つが、“國中が混乱し、互いに誅殺し合って千人余が死んだ”とされる。
                    「日本列島」にて「皆既日食」。(西暦248年9月5日に日没)
                  (※)「卑弥呼」の宗女「壹與(いよ)」を13歳で「王」に立て、“國中が遂に鎮定”する。「女王位」に就いた「壹與」が、「掖邪狗」ら20人に、“帯方郡の武官”だった「塞曹掾士(さいそうえんし)・張政(ちょうせい)」の帰国を見送らせて・・・「掖邪狗」らは、そのまま「魏の都」へと向かい、「男女の生口(※古代の奴隷民のこと)」30人と「白珠」5,000孔、「青大句珠」2枚、「異文の雑錦」20匹を貢ぐ。
      西暦266年: 「倭」の「遣使」が「入貢」する。(※『晋書』では、邪馬台國(=邪馬壹國)からの最後の入貢とされる)

            ・・・(※)「壹與(いよ:没年不詳)」とは・・・「日本」の「弥生時代」に当たる西暦248年頃或いはその前後に、『三國志 』魏書巻30東夷伝倭人〈通称:魏志倭人伝〉中の「邪馬台國(=邪馬壹國)」の女王「卑弥呼」の「宗女」であって・・・“その卑弥呼の跡を13歳で継いだ”・・・とされる女性のことです。〈通称:魏志倭人伝〉中では、「壹與」と表記されますが、“後代の書”である『梁書』や『北史』では「臺與(たいよ?、とよ?)」と表記しています。・・・「臺與」の代字として、「台与(たいよ?、とよ?)」と表記される場合もあります。「臺與」の「表記」や「読み」については、異説も多く“卑弥呼同様に、謎の多い女王”と云えます。・・・『日本書紀』神功(皇后)紀に引用される『晋書』では・・・西暦266年「倭の女王の使者が朝貢した」・・・との記述があるために・・・かつての「江戸時代」には、この「女王」が「卑弥呼」と考えられておりました・・・が、「卑弥呼」が“西暦250年以前に死去してしまっている”ため・・・。

      ・・・尚、この年「西暦266年」は・・・古代中国では、「曹操(そうそう)」に始まる「魏」の「曹一族」から、「司馬(しば)氏」が建てた「晋(しん)」へと・・・いわゆる「禅譲革命」が行なわれた“翌年の出来事”となります。
      “この西暦266年の朝貢記録を最後”に・・・“中国史書”から、邪馬台國(=邪馬壹國)や倭に関する記録が一旦途絶えてしまいます。・・・

      ・・・“この次に現れる”のは・・・“147年後の西暦413年(古墳時代初頭)”の「倭王の讃(さん:※倭の五王の一人)」による「朝貢」となります。

      また・・・上記の「壹與」と後の「倭国(ヤマト王権)」との関係性にも諸説あって・・・“正直なところハッキリ”しません。・・・尚、人物の比定についても諸説あり・・・近年では、“この倭国女王”は、「壹與」=「神功皇后(じんぐうこうごう)」のことではないか? と考えられています。・・・しかし・・・「壹與」を、誰に比定するのか? という議論が、「卑弥呼」が“誰であったのか?”という議論や、「邪馬台國(=邪馬壹國)」が“どこにあって、どんな国家に受け継がれていったのか”と云う議論と、切り離すことは出来ないのではないか? と考えられるため・・・今のところ、定説はありません。・・・ちなみに、個人的には・・・「卑弥呼」という「表記」については・・・“当時の魏人達が、倭国人達が自らの首領のこと”を、「ヒメミコ」や「ヒメ」と「発音」していたのを、“ただ聴いたまま”に、単に「漢字」へ置き換えただけで、“一個人”を示す「固有名詞」ではないように感じます。


      ・・・ちなみに、「陳寿(ちんじゅ:※三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。生年 西暦233年~没年 297年)」が編纂した、この『三國志』魏書巻30東夷伝倭人〈通称:魏志倭人伝〉のみが、約二千字という膨大な文字数を使って、「邪馬台國(=邪馬壹國)」などについてを、詳細に記述しており・・・そこには、“当時の特殊な地政学的事情が背景にあったもの”と推察されています。・・・要するに、“魏王朝が衰退していく過程にあって、内政面や、倭国や他の朝鮮半島諸国などとの間における外交面で、現に影響を出し始めていた”と考えられるのです。
      尚、この『三國志』中には、特別に「倭人伝」という独立した「列伝」が存在した訳ではなく、「東夷伝」の中に「倭」及び「倭人」の記述があるのです。・・・したがって、「倭人」に関する「条」のみならず、「東夷伝」の“全てを通読しなければ意味がない”という考え方もあり・・・更には、『三國志』研究者は・・・「『三國志』の著者である陳寿の世界観や、当時の政治状況については、約37万字に及ぶ『三國志』(※それに付けられている裴松之〈はいしょうし〉の〔西暦372~451年〕の注は、本文に匹敵する約36万字あり)の全てに目を通すだけではなく、その世界観を形成している儒教の経典に通じなければ分からない」・・・とさえ、しているのです。
      ・・・また、この『三國志』は、“中国の正史中で、初めて日本に関する纏(まと)まった記述”となっており・・・『後漢書』東夷列傳のほうが、“扱う時代は古い”のです・・・が、この『三國志』魏書巻30東夷伝倭人〈通称:魏志倭人伝〉のほうが、『後漢書』東夷列傳よりも、“以前に書かれている”のです。・・・そして、この『三國志』魏書巻30東夷伝倭人〈通称:魏志倭人伝〉では・・・“当時の倭国に、女王が都とする邪馬台國(=邪馬壹國)を中心とする国が存在し、この女王に属さない国も存在していたこと”の他にも、その「位置」や「官名」、「生活様式」、「当時の倭人の風習」、「動植物の様子」なども記述されていて・・・“3世紀頃の日本の姿を知る貴重な史料”と云えます。・・・しかし・・・“必ずしも、当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らない”ことから、「邪馬台國(=邪馬壹國)」に関する“様々な論争の原因となっている”訳です。・・・
      ・・・この『三國志』魏書巻30東夷伝倭人〈通称:魏志倭人伝〉では、“記述される位置関係や里程において、ズレなどが大きく信頼性に欠ける点”が、論争の根拠として挙げられ・・・“そもそもの史料としての価値自体”に疑念を投じる研究者もおりますし、別の研究者も・・・「〈通称:魏志倭人伝〉には、卑弥呼が使者を派遣した当時の曹魏(そうぎ)の内政や外交、史家の世界観に起因するなど、多くの偏向(歪(ゆが)んだ記述)が含まれている」・・・と、指摘しています。・・・『後漢書』東夷列傳と、『三國志』魏書巻30東夷伝倭人〈通称:魏志倭人伝〉の、どちらの記述内容に重点を置くべきか?・・・なかなか、もどかしい限りですね。

      しかし・・・“中国史書”の中では、「倭」や「倭国」に関する記述が比較的に多い『三國志』魏書巻30東夷伝倭人〈通称:魏志倭人伝〉とは異なり・・・“日本史書”である『記紀』と呼ばれる『古事記』や『日本書紀』には・・・これらの「邪馬台國(=邪馬壹國)」や、「卑弥呼」の名称、「倭国大乱」を想起させる記述などが見られないため・・・“このような倭国大乱状況自体”を否定する意見もあります。・・・但し、“『記紀』中の天照大神(あまてらすおおみかみ)を卑弥呼として読む”という説に立脚した場合には、“天照大神と素戔鳴(すさのおのみこと)との争いが、倭国大乱を反映している”という可能性も出てまいります。
      また、“古代中国王朝”からすると・・・そもそも・・・『・・・倭人の国が遠くにあって、そこにはたくさん小さな国があって、みんなバラバラで、ちょくちょく貢ぎに来るわ、あちこち見て廻って帰ってしまうわ、小国同士で長期間戦(いくさ)をするわ、女性を“何かの象徴”として女王に立ててしまうわ、文字や言葉も纏(まと)まってないし、文化的にも遅れてるし、大変な処だねー。』という、“政治的プロパガンダ効果(マイナスイメージ・キャンペーン)を狙い、結果として、現中国王朝を美化し、正当性を持たせる”といった「中華思想」による、“当時の意図が見え隠れしている”ような気もしますが・・・これ以上の論評は避けます。

      ・・・いずれにしても、この後・・・「文献」ではありませんが・・・“今から1,600年以上前(5世紀頃:※古墳時代の中頃)”の「倭人の有力者」の「墓」と目される「前方後円墳」が、近年「朝鮮半島南部」においても、発見されておりますので・・・“当時の朝鮮半島南部辺りまで倭人が暮らしていた”ことについては、窺い知ることが出来るのです。
      ・・・さて・・・「卑弥呼」が、「魏の皇帝」から「親魏倭王」の「称号」とともに授けられたという、「仮の金印」と「銅鏡百枚」について(※上記の下線部分)ですが・・・“後の西暦240年に、中国帯方郡から、魏の使者が倭国を訪れ、詔書や印綬(=金印)を奉じて、倭王に拝受させている”・・・とのことであり・・・歴代中国王朝としてみても、“朝貢システム上の矛盾は、さほど無い”ので・・・むしろ注目するのは、「仮の金印」ではなく、「銅鏡百枚」のほうなのですが・・・
      ・・・何せ、“古代のこと”ですから・・・「銅鏡」が百枚もあったら・・・さぞや、“鬼(神)道に用いて、衆を惑わすような”「仙術」や「占術」に役立ったことでしょう。・・・“銅鏡を細工(=再加工)する高度な技術”があれば、「火」や「光(ひかり)」を利用することで・・・当時の人々からすれば・・・まるで、“何かのお告げ的現象”を演出することが出来たでしょうから。
・・・それに、このことは・・・“当時の民衆掌握術として利用された傾向が強い”ようにも感じますが・・・これとは別のこととしても、現代に至るまで受け継がれている・・・“日本列島各地”にある「神社」の「ご神体」の多くは・・・“この鏡”ですから。
      ・・・(※もちろん、その時代時代や、神社そのものを、御祀(おまつ:=祭)りする際の世相(≒目的)”などによって、「金幣」とか、或いは「空間そのもの」など・・・“他のもの”である場合も当然にありますが。)・・・要するに、“我々が、神社それぞれのお社(やしろ)に対して鈴を鳴らし、柏手を打つ”ことによって・・・『神様、私に気付いて!これだけのことを私は一生懸命やったのですが、あとは神様にお願いするしかないので、○○お願いします!』・・・などと祈願する行為は・・・すなわち、“そのご神体(≒鏡)へ我々自身を映す”という行為であり、“我々自身の身体と心に宿る魂(たましい)や、ご先祖様に対して問い掛けて、祈念する”という行為に他ならないのです。
      ・・・日本の「古神道」では、特に・・・いわゆる「日本神話」で語られているように・・・“幸(さち)を齎(もたら)す神様だけでなく、時には災いを齎(もたら)す神様という格好”で出現し・・・“我々に畏怖(いふ)の念を覚えさせることとなる、まさに森羅万象(=自然現象)そのもの”を、「八百万の神(やおろずのかみ)」として、“御祀(=祭)り”しておりますが・・・“それぞれが擬人化された○○の神様”≒“我々日本人全てを網羅するルーツ”≒“ご先祖様達”≒“氏神(うじがみ)様”・・・などを“物語っておりまして・・・“ほぼほぼ、ご先祖供養をしていることに他ならない”のです。・・・ですから、きちんとした諸作法などの修行を積んで、「神主(かんぬし)さん」や「お禰宜(ねぎ)さん」と呼ばれる“方達”が「神官」とされ・・・“それぞれの神様に対して、まるで平安時代の和歌を吟(ぎん)じているかのように”・・・「祝詞(のりと)」を、「言(こと)の葉(は)」に乗せて、“それぞれの祈願事を届けている”のです。
      ・・・このことは、おそらく・・・また、時代を遡ってしまいますが・・・“約13,700年間位も続いた縄文時代当たりで、かたち創られ、それが磨かれながら、今日まで受け継がれて来た日本人の感性の一部分なのだろう”・・・と考えております。

     さて、「中国」では・・・「六朝(りくちょう)」とも呼ばれる「南北朝時代」から、“唐王朝の時代当たりになる”と・・・各個人や各地域ごとで「書写」が広まり・・・「字体」に、“独特な崩し”が生まれて・・・一般庶民の間では、「通字」や「俗字」と呼ばれる「漢字」が多く使用されました・・・が、かの「科挙制度(※中国で約1,300年間続けられた官僚登用試験)」では、由緒正しい「正字」の使用が求められることになりました。

     ・・・宋王朝の頃には、「商人」などが使用した「文字」を、“仕事上頻繁に扱う人々が活躍する時代”となり・・・「俗字」が幅広く用いられたようです。・・・そして、「木版印刷技術」の「発展」によって、「楷書」には「印刷書体」が生まれて・・・やがて、「宋朝体(そうちょうたい)」が発生します。

     ・・・明王朝から清王朝の時代に掛けて、『康煕字典(こうきじてん)』などに代表されるような、現代においても広く使用される「明朝体(みんちょうたい)」が確立。・・・この「明朝体の起源」は、「後漢末期」に確立された「楷書」に辿り着きます。

     ・・・ちなみに、「漢字」は、“現代も使われ続けている世界の文字の中では最も古く成立したもの”と考えられています。“人類史上”でも、最もその「文字数」が多い文字体系であり、その数は10万文字を遥かに超えて、他の文字体系を圧倒しています。・・・但し、そのうちの「万単位」のほとんどは、歴史的な文書などの、古文書にしか見られず・・・現代では、それらの使用頻度は、かなり低くなっており・・・

     ・・・“現代中国”の研究によれば・・・“機能的非識字状態にならないようにするためには、3千から4千程の漢字を知っていれば充分である”・・・とされております。
     ・・・また「ラテン文字」に代表される「アルファベット」が、一つの「音価」を表記する「音素文字」であるのに対し・・・「漢字」は、一般に・・・それぞれが個別の意味を持ち、「音節」に対応している「形態素」となりますが・・・現代中国語の「単語」は、“その大部分が、二つ以上の漢字を組み合わせたものになっている”とのこと。・・・本来は、「一字」が「一義」を表すことだけを重視し、「表意文字」とした訳ですが・・・これは、古代中国語の「一音節」が「一つの意味」を表すという、“孤立語的な言語構造に由来するため”と考えられており・・・正確に云うと、「音」と「意味」の両方を表記する「表語文字」となるのです。・・・つまりは、「一字」が「一語」を表しているのです。
     ・・・このような漢字の特徴から・・・伝統的な「文字学」では、「漢字」を「形」や「音」、「義」の“三要素”によって分析してきました。・・・しかし「一つの音の持つ語」が「派生義」を生んで、「一字」が複数の(※全く正反対の、或いは無関係で一方の字義(意味)からは想像出来ないような)「字義(意味)」を持っていたり・・・「読み」が変わって、複数の「字音」を持っていたりする場合もあります。・・・また、「外来語」を表記する場合など、単純に「音」を表すために作られた「漢字」もあり、「字義(意味)」を持たない場合もあります。・・・そして・・・“これら字義(意味)の有無”を問わず、「一音節」を表す「文字」という点においては、「音節文字」である日本語の「仮名」と“近い関係にある”・・・と考えられています。

     “古代中国へ朝貢していた朝鮮半島諸国”や、「琉球王國」、「ベトナム」では、この「漢字」を輸入して使用しました。・・・「琉球王國」を除く“古代日本”では、“古代中国の勢力下に完全に入ること”は、歴史的に見てもありませんでした。・・・繰り返しとなりますが・・・「金印」として有名な「漢奴國王印:かんのわのなのこくおういん」が出土(※江戸時代天明年間頃か? 当時の福岡藩主黒田家に伝えられたものとして)しているので・・・“古代日本の一地方国家或いは、それなりの連合国家により、何らかの朝貢的な交流が、地域的にはあった”とは見られてはいます・・・が、その「形態」や「機能」を利用するために、「漢字」を「輸入」し・・・現在においても、使用しています。また「シンガポール」や、「マレーシア」などのように、“中国から移住した華僑(かきょう)と呼ばれる人々の子孫達が多く居住していることなどを理由”に、「漢字」が使用されている「国」や「地域」もあります。
     ・・・“これら漢字を使用する周辺諸国を包括”して、「漢字文化圏」と呼びます。

     ・・・現代の「漢字」は、「中華人民共和国」や、「台湾」、「日本国」、「大韓民国」、「シンガポール」などで、「文字表記」のための手段として用いられています。・・・しかし、近年は各国の政策によって、「漢字」を簡略化したり、使用制限などを行なったりしたため・・・現在においては、これらの国々の間で、完全にその「文字体系」を共有している訳ではありません。・・・「日本国」においては「仮名」を・・・「大韓民国」では、「ハングル」などのように、“漢字以外の文字とを、併用している場合”もあります。・・・尚、現在の「大韓民国」では、「漢字」をあまり用いなくなっています。・・・また、「北朝鮮」や「ベトナム」のように、“公式に漢字使用を止めた国もあります”が・・・
     それでも・・・たとえ「漢字」を使用しなくなっても・・・それとともに、流入した「語彙」が、各言語の「語種」として、大きな割合を占めているのは事実です。・・・「漢字音」は、「地域」や「時代」によって変化し、「地域」によっても「発音」が異なります・・・が、その源(みなもと)となる「中古音」から、各地域による「音韻変化」に従って規則的に変化しているため・・・“類推可能な共通性を持っている”のです。・・・そして、「地域」によって「発音」が違う場合でも、「同じ字」で表すことが出来るため・・・「漢字」を使った「筆談」によって、「コミュニケーション」が図れることもあります。・・・一方では、古来からの「字形」の複雑さなどのため、「手書き」をする際の「省略」や「書き間違い」などによって・・・「字体」は、地域と時代によって、少なからず変化して来ました。
     ・・・そうして、変化した「字体」のうち、“或る程度の範囲で定着した俗字”が、それぞれの「国」において「正字」に選ばれることとなり・・・結果としても、「字形」において、僅かな「差異」が見られる場合もあります。・・・また、「地域音」や“地域特有の字義(意味)を表すため”の「国字」や、「方言字」、「異体字」も多く作られて来ました。・・・日本における「国字(=和製漢字)」も、“その一種であると云える”のでしょう。



・・・・・・・・・・次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から時代へ・日本列島内の様相】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】