街並と天空   

『 夢と夢をつなぐこと・・・ 』

 それが私達のモットーです。 ~トータルプラン長山の仲介~ 

    

ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】



・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 西暦660年正月元日:「高句麗」の「使人」として、“乙相賀(おつそうか)の取文(すもん)ら100人余り”が、「倭国(ヤマト王権)」の「筑紫」に泊まる。

      ※ 同年3月内のこととして:「倭国(ヤマト王権)」の「阿臣(※名を洩らせり)」が、「粛慎國」を「(討)伐」する。・・・“船師(ふなし、ふないくさ)は、200艘”と。・・・「阿臣」は、大河の側(そば)に至りて、己(おのれ)の船に乗りつつ、“陸奥の蝦夷”に対し(命)令を下す。・・・この時、“渡島の蝦夷”は、海の畔と向かいの河越しに、1000余りが営していた。・・・(すると、その)営の中の二人が、急ぎ叫びながら進み(=出て来て)・・・「粛慎の船師が多く来たりて、我等を將(まさ)に殺そうとするが故に、河を済(すま:=澄)すような(心)にて、仕官を欲し願う。」・・・と云う。「阿臣」は、船を遣わし・・・“両箇(≒進み出た二人のことか? 或いは、海の畔と向かいの河越しにいた蝦夷という意味か?)に居た蝦夷を喚(よ:=呼)び至らしめよう”・・・と、“賊の隠れたる所と、其(それ)に與(くみ:=組)する船の数”を問う。・・・(すると、)“両箇の蝦夷”は、(※実際には、阿臣のもとに)戻らずに「使い」を遣わし、“その隠れたる所”を指(差)して・・・「船は20余艘。」・・・と伝えて来る。・・・(すると、)「阿臣」は、“綵帛(あやのきぬ、さいはく:※模様のある絹のこと)や兵(器)、鉄などを、海の畔に積み(降ろさせ)て、すなわち(粛慎に対し)貪(むさぼ)り(≒畏まって)、嗜(たしな)むようにと、(命)令するため”に・・・「使い」を遣わし、(粛慎を)喚(よ:=呼)ばせた。・・・(すると、)「粛慎」は、(その粛慎側の)船師を遣わし、羽を木に繋げて舉(あ:=挙)げ旗としながら、棹(さお:=オール)を斉(せい:≒一斉に)しつつ近付いて、浅き処(=浅瀬)に停まらせた(=停船した)。・・・(そして)“一船の裏から、二(人)の老翁を出し、廻らせて(=その二人に、その海畔に、荷を積み降ろさせた場所を)、綵帛などの物を視ていた”・・・が、“そのうちに、それぞれ提(さ)げた(=下暢した)布一端を携えて、単衫(ひとえ、たんせん:=単衣)に着換えて”、船に乗り、還り去って行った。・・・(すると、)“俄(にわか)に、老翁が、更に来て(=再度来て)、着換えていた単衫を脱ぎ置き、提げた布一端をも置いて、船に乗り退いて行った”と云う。・・・(すると、)「阿臣」は・・・“(粛慎らが)弊賂辨嶋(へろべのしま)へ復(かえ)った後にでも、(何故に)肯か不か(返答しに)来ないのか?”・・・と、数船を遣わして、喚(よ:=呼)ばせた。“食べ頃(≒機が熟す時)には、和を乞(こ)うじるものだ”と。・・・(しかし)遂に、己(おのれ:≒自軍)の柵に拠り戦って、(実際に)肯か不かを聴くしかなかった(=という情勢に至った≒戦闘に至った)。【※(注釈)弊賂辨は、渡嶋とは別なり※】干(ひる:=昼)時には、「能登臣馬身竜(のとのおみのまむたつ)」が、“敵の爲に”、殺される。・・・猶(なお)も戦って、未だ倦(う)まない間(≒決着をみない時)に、「賊」が“己(おのれ)の妻子”を殺し、(そして)破れる。
・・・ここでは、粛慎國討伐に至った経緯や結末などが、一つのエピソードを挙げて比較的詳細に語られています。・・・まず、“陸奥の蝦夷が、この時既に、倭国(ヤマト王権)下に組み入れられていたこと”を示唆しており・・・次に、“渡島の蝦夷1,000余りも、倭国(ヤマト王権)に恭順すると伝えた”とされています。つまりは、“粛慎を何とかしてくれれば”と。・・・そこで、阿臣は、粛慎らを喚(よ:=呼)び出すこととしました。・・・しかし、使いを派遣して阿臣が居る処まで来るようにと、粛慎に促しました・・・が、彼らは応じませんでした。・・・そこでまた、綵帛や兵(器)、鉄などを、海の畔に積み上げて、粛慎らを誘い込みます。・・・すると、ようやく粛慎らが、船を連ねて、鳥の羽根を木に取り付け、旗のように掲げ、オールを揃えて漕ぎ、浅瀬に船団を留めたのです。・・・“彼ら粛慎が、見事に訓練されており、船戦さが出来る腕前だったこと”も窺い知れるかと。・・・そして、或る船から老翁二人が、綵帛や兵(器)、鉄などを視ても、兵(器)や鉄などではなく、単衣(ひとえ)の衫(=上着)に興味を示し、自らが着用して、布一端を持って、一旦引き揚げたのです。・・・ここで、兵(器)や鉄に興味を示さなかったのは何故でしょうか?・・・倭国(ヤマト王権)から入手するまでもなく、粛慎が鉄生産技術を既に持っていたのでしょうか?・・・それとも、他の相手から、これらを入手出来る別の交易ルートがあったのでしょうか?・・・更には、既に新羅などとの関係が深く、倭国(ヤマト王権)と交易などの交流を避けたほうが良いという外交判断が働いたのでしょうか?・・・いずれにしても、この際に行なわれた行為は、“いわゆる沈黙交易の事例”とされております。・・・つまりは、これによって、“老翁二人が、単衣の衫と布一端とに、相応しい別の品物を持って戻って来たならば、倭国(ヤマト王権)と粛慎の間で、交易が新たに始まることになった”のです。・・・ところが、“(粛慎の)老翁二人は、一旦持ち帰った二品を、全て返却して来た”訳です。要するに、“交易など一切の交流が不成立に終わった瞬間だった”のです。・・・そこで、またもや阿臣は数船を派遣して、粛慎に対し再考を促しましたが・・・結局のところ、彼ら粛慎勢力は良しとはせず、弊賂辨嶋へ戻ってしまいます。・・・この「弊賂辨嶋」とは、アイヌ語でブナの木が植生する島のことであり・・・“おそらくは、奥尻島のことだろう”と、推定されています。・・・そもそも、この一文からは、倭国(ヤマト王権)の阿臣と粛慎双方の船体の大きさなどは、読み取れません・・・が、阿臣の総勢200艘に対し、粛慎が20余艘という記述を信じるとすれば・・・“彼我の戦力差が大きく、結果としても、まともな戦いとはならなかった筈”です。・・・それ故に、阿臣としては、当初より彼ら粛慎から倭国(ヤマト王権)に対して、直接朝貢させるという形に持ち込みたかったのでしょう。・・・そのため幾度も、粛慎との接触を図ったのです。・・・尚、倭国(ヤマト王権)が、過去における蝦夷征討や、粛慎討伐を行なった目的としては・・・一連の朝鮮半島情勢(=百濟情勢)や、どんどん大国化してゆく唐王朝の姿を目の当たりにして・・・あくまでも、侵略目的という意味合いは薄く・・・ズバリ云うと、“倭国(ヤマト王権)周辺地域における交易などの既得権益の確保と、軍事徴用面などにおける有用な人材や兵力集団として、倭国(ヤマト王権)に各地に点在する部族集団を丸抱えに取り込みたい! という思惑や、倭国(ヤマト王権)周辺諸国を牽制する目的が強かった”と考えられます。

      ・・・同じくして、この3月内には、遂に・・・「百濟」に対して、「新羅」からの要請を受けた「唐王朝」が、「派遣軍」を起こします。(※新羅も従軍したため、いわゆる連合軍となりますが、この際の唐の水陸軍兵力については、総勢約13万人、新羅軍は、約5万人と云われます)・・・そして、“この唐王朝軍と新羅による連合軍の侵攻”によって・・・「百濟」は、“各地で劣勢に立たされる”こととなり、連敗状況に陥っております。


      ※ 同年5月8日:“高句麗の使人・乙相賀の取文ら”が、「筑紫」から「難波館」に「到着」する。・・・高句麗の使人だった乙相賀の取文ら一行が、正月元日に筑紫に泊まり、5月上旬に難波に到着したということは・・・倭国(ヤマト王権)側の判断によるものだったのか?・・・または、何か別の足止め要因があったのか?・・・もしかすると、ほとんど水上経路を辿らずに、現在の下関辺りから、わざわざ陸路での旅路とされたのかも知れません。・・・一方の高句麗側としても、総勢100人余りの使命を帯びた使節団なので、悠長に難波館まで来たなどとは、常識的に考えられません。・・・それなのに、何の目的で、倭国(ヤマト王権)に来て、彼らが何を奏上していったのか? という一切について具体的な事柄全てが、同年正月の記述とともに省かれているのです。・・・何やら・・・次の条の記述中にある“仁王般若之会の準備などが、最重要だった”と、云いたい風な表現をしておりますが、現実にはそうではなかったと考えられます。・・・当時の朝鮮半島情勢からすれば、高句麗は当然に倭国(ヤマト王権)に対して新羅への出兵を求めていたことが、容易に想像出来るのです・・・が、当時の倭国(ヤマト王権)が、そのようにするということは、当然に唐王朝に対する明確な敵対行為となります。そして、遣唐使節団(≒朝貢団)を派遣し、唐の文化を導入途中だった倭国(ヤマト王権)にとっては、大きく行き過ぎの嫌いがあった訳です。そのため・・・新羅への軍事介入など、高句麗に対する具体的な協力を示さない形で以って・・・云わば、中立性を保ちたいという思惑があったために・・・倭国(ヤマト王権)側は、高句麗に対する明確な返答を避けるため、わざわざ遠回りで飛鳥の都へ導き、返答そのものを保留し続けていたのではないでしょうか?
      ※ 同年5月内のこととして:「斉明天皇」が、「勅」して、“百の高座と百の納袈裟”を作らせ、「仁王般若之会(にんのうはんにゃのかい)」を行なう。・・・そして、「皇太子(※中大兄皇子のこと)」が、“民が時を知るため”に使う「漏剋(ろうこく:※水時計のこと)」を初めて造らせる。・・・また、(粛慎討伐から帰還した)「阿臣(※名を洩らせり)」が、“蝦夷50人余り”を献じる・・・と、「斉明天皇」が、“石上池(いそのかみいけ)の辺りに、(その)高さが廟塔(びょうとう:※寺院の塔のこと)”のような「須弥山」を作り・・・そこで、“粛慎37人”を「饗応」する。・・・また、“國中の百姓が、訳もなく兵(器)を持って道を往来した”と云う。【※(注釈)國の老(人)は、百濟國が所(=領土)を失う相かと云った。※】・・・ここの文章後半部分から分かることも・・・“とにかく世情が緊迫していた”ということです。・・・そのために、“斉明天皇は仁王般若会を行ない、国家鎮護を祈願した”と考えられ・・・当然に、この時の仁王般若会については、高句麗の使人だった乙相賀の取文らもの耳に届いていたでしょうし、もしかすると同伴する高句麗人の僧らも出席していたのかも知れません。・・・ここにある「仁王般若会」とは、『護國三部経(ごこくさんぶきょう)』の一つである『仁王経(にんのんぎょう)』を所依(しょえ:※仏教用語で、教理などのよりどころのこと)とし、100の仏菩薩像と100の高座を設け、100人の僧を請じ、鎮護国家や万民快楽などを祈願する勅会(ちょくえ:※勅旨によって行なわれる法会のこと)のことです。・・・しかしながら、『日本書紀』の編纂者達は、特に、國の老(人)の言を引用して、“百濟滅亡の予兆”を、わざわざ記述しております。・・・これは、つまり・・・当時の政権にある者が気付いていなかったと、暗に批判していることとなるのです。・・・ちなみに、この文章中にある「石上池」とは、現在の奈良県高市郡明日香村の飛鳥寺(あすかでら)の北西一帯・・・そこを発掘調査した後には、田となっているようですが、“古代の漏刻跡とされる水落遺跡(みずおちいせき)”に隣接している「石神遺跡(いしがみいせき)」のことです。・・・いずれにしても、「須弥山」や「漏剋(※水時計のこと)」という、“水の流れを緻密に利用した装置が古代の日本に導入され始められていた”ことも驚きですが、これらの構造や仕組み、これらの技術を伝えた人々についても、興味が湧くところではあります。

      ※ 同年7月16日:“乙相賀の取文ら”が、「高(句)麗」へ、罷(まか)り歸(=帰)る。また、「覩貨邏(≒吐火羅)人・乾豆波斯達阿(げんづはしだちあ)」が、“妻を留めておくので、願わくば倭国(ヤマト王権)への朝(見)後に、本國に歸(=帰)して欲しい”と、「(高〈句〉麗への)送使」へ請う。(そのため)数十人と(共に)、“西海の(海)路”に就いた。【※(注釈)高麗沙門道顕の『日本世記(にほんせいき:※高句麗からの亡命僧道顕の著とされるが、巻数未詳であり、逸文として伝わる)』に曰く、七月に云々。「春秋智(しゅんじゅうち:※新羅の武烈王、金春秋のこと)が、大将軍の蘇定方(そていほう)の手を借りて、百濟を挟み撃ちて亡(ほろ:=滅)ぼしたと。或いは曰く、百濟が自づから亡(=滅)ぶ。大夫人の君(※百濟王の后のこと)は、妖女無道のように、擅(ほしい)ままに國柄を奪って、賢良を誅し殺した由(よし)にて、斯(この)禍(わざわい)を召(まね)いた故なり。慎むべきだった。(重ねて)慎むべきだった。」と。其(そ)の注(※『日本世記』の注釈のこと)は云う、「新羅の春秋智(※新羅の武烈王、金春秋のこと)は、(高句麗は)内臣の蓋金(がいきん:※高句麗大臣の伊梨柯須弥〈いりかすみ〉、つまりは泉蓋蘇文〈せんがいそぶん〉のこと)の願いを訊くことが出来なかったと。故に、亦(また)唐に使いを(出)し、俗の衣冠を捨てて、天子に媚(こび)請うて、禍を隣國(※高句麗から観て隣の、百濟のこと)に投じ、斯の意を行なう者を搆じていた(=唐の天子の意向を気にしていた)。」と。『伊吉連博徳書』は云う、「庚申の年(※“この年”つまりは西暦660年のこと)八月に、百濟は已(すでに:=既に)平らげられた後の九月十二日に、客(※倭客のこと。つまりは伊吉連博徳ら)を本國に放した。十九日には自ら(※伊吉連博徳らのこと)西京(※長安のこと)より発つ。十月十六日には、東京(※洛陽のこと)に還り到りて、始めて阿利麻ら5人と相見えることを得た。十一月一日には、将軍の蘇定方らによって捉えられていた百濟王以下、太子隆らの諸王子13人、大佐平の沙宅千福、國辨成以下は37人、50位の人が朝堂に奉進し、天子に向いて急いで引き走った。(すると)天子は、見前(=目前)において放着し恩勅した。十九日には労いを賜いて、二十四日には自ら(※伊吉連博徳らのこと)東京(※洛陽のこと)より発つ。※】・・・“高句麗の使人だった乙相賀の取文らの帰国の途とともに、同日に覩貨邏(≒吐火羅)人の乾豆波斯達阿らも帰国の途に就いた”と云うのです。・・・前条で語られている倭国(ヤマト王権)内の世情とともに、朝鮮半島情勢が風雲急を告げており・・・或る程度、ハッキリとした情報が、倭国(ヤマト王権)内に齎(もたら)されていた様子が分かります・・・が、ここで帰って行ったという覩貨邏(≒吐火羅)人の人数にも注目致します。“彼らについて”は「数十人」と記述されているので、“それぞれが別々に漂着して、それまでの期間を倭国(ヤマト王権)内で暮らし、覩貨邏(≒吐火羅)人同士のコミュニティが存在していたこと”を推察することが出来ますし・・・“そのコミュニティを統率するリーダー的人物として、乾豆波斯達阿の名が登場している”のです。・・・そして、覩貨邏(≒吐火羅)人の彼らが、西海の(海)路に就いたことから、“当時の倭国(ヤマト王権)の中心地だった都(≒飛鳥地方や難波の地)よりも、地理的にも、西側地域の出身者達だった”という裏付けともなる訳です。・・・また、何よりも・・・覩貨邏(≒吐火羅)國や舎衞(しゃゑ)國が、古代中国から観て、かなり西域の国(※現在のトルコやイランなどの中東地域など)であるとか、タイやミャンマー(=旧ビルマ)などのかなり遠方の勢力だったとするならば、覩貨邏(≒吐火羅)人である乾豆波斯達阿が・・・「・・・妻を留めておくので、願わくば(中略)本國に歸して欲しい。・・・」・・・などと、言う筈も無いですし・・・仮に言ったところで、覩貨邏(≒吐火羅)と倭国(ヤマト王権)との交流(≒朝貢関係)が始まるという実現性も低いと云わざるを得ないため、倭国(ヤマト王権)側の誰一人として信用しなかったでしょうから。・・・しかし、ここには、“倭国(ヤマト王権)側が、覩貨邏(≒吐火羅)という勢力に対して、それまで数十人の異邦人を養い続け、そして一括して送り届けたという古代国家としての度量を見せること”など、強(したた)かな外交戦略が隠されている訳です。・・・また、ここの【※(注釈)※】にある“高麗沙門の道顕”とは、釈道賢(ほうしどうけん)や釈同顕(ほうしどうけん)などとも呼ばれますが、なかなかのキーパーソンなのです。高麗沙門の道顕は、斉明天皇の時代に高句麗から渡来しましたが、仏教そのものに関する活動というよりも、むしろ式占(しきせん:※占いの一種であり、その特徴としては、占うに当たり計算を行なう際に、式盤〈しきばん〉や或いは、ちょく〈※木偏+式と表記〉と呼ばれる簡易な器具を使用するところとされます)を用いるなどして、主に、倭国(ヤマト王権)の外交面などにおける政策ブレーンとして活躍した人物でした。そして、何よりも藤原宗家との関係も深かった人物とされており、当時の倭国(ヤマト王権)や、後の大和朝廷の外交政策に、影響を少なからず与えた可能性があるのです。しかも、高麗沙門の道顕は、古代日本と百濟や高句麗との私的外交記録とされる『日本世記』を著していました。・・・この『日本世記』そのものは現存していませんが、このような逸文として、『伊吉連博徳書』などとともに、この『日本書紀』に引用されているのです。そして、その内容として・・・『伊吉連博徳書』に続き・・・やはり、「日本」という国号を使用しています・・・が、そもそもとして・・・『日本書紀』の編纂者達は、当時の政権の意向についてを、自らは述べずに・・・道顕の『日本世記』から引用することによって、“句麗の見解についてを、記述している”のです。・・・尚、『日本世記』という書名そのものが、道顕が命名したものかどうか? という点についても判らないため、この当時に、倭国(ヤマト王権)が、対外的にも日本と称されていたというハッキリとした証拠とはならないとされています。・・・ここにある「春秋智」とは、かつて、倭国(ヤマト王権)に人質として滞在していたこともあって、当時も智人や賢人として認識されていたのでしょう。・・・「蘇定方」とは、西暦656年から657年に掛けて、突厥(とっけつ:※古代中国から観て、北方の勢力のこと)と戦い、古代中国の中央アジアへの進出基盤を固め・・・西暦659年には、“パミール高原の西まで攻め入った”という唐の大将軍とされる人物です。・・・西暦642年には、“新羅の金春秋(※後の武烈王のこと)が高句麗への使者に立ち、百濟を討つことを要請しましたが、高句麗の大臣だった蓋蘇文は、これに反対し、逆に金春秋(※後の武烈王のこと)を拘束した”とか。・・・ちなみに、新羅の金春秋(※後の武烈王のこと)が、新羅国内における年号や章服についてを、“中華の制に改める”のは・・・西暦648年に入唐した後からのことです。

      ・・・同年7月には、“とうとう”・・・「唐王朝」と「新羅」により、「百濟」が「滅亡」してしまいます。・・・“西暦475年に、高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落させられて、熊津(くまなり)へ遷都とした”と云う・・・奇しくも、“その熊津城において、唐王朝に対し降伏する”こととなります。・・・ちなみに、“この際には、百濟・義慈王(きじおう)は、かつて佐平・成忠らの進言を聞き入れなかったことを、深く後悔した”と云います。・・・尚、“ここまでの、唐王朝により主導された百濟征服戦”を、「百濟の役」と云います。

      ・・・同年8月、「唐王朝」は、“麾下(きか)の将軍・劉仁願(りゅうじんがん)に、旧百濟王都・泗ビ(しび:※ビの字は、サンズイ+比)城を守備させるため”として・・・また、「王文度(おうぶんたく)」を「熊津都督(くまなりととく)」とするために・・・それぞれを、“現地”へ「派遣」しました。・・・そして、“戦勝記念碑”となる「大唐平百濟國碑銘(だいとうへいくだらこくひめい)」を建てて・・・そこでも・・・“戦前の百濟の退廃ぶり”についてを・・・「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」・・・と彫り、“かなり手厳しい評価”です。・・・と云うか、“勝者の論理”となりますが。・・・ちなみに、この「大唐平百濟國碑銘」は、現在の大韓民国扶餘郡にある「定林寺(チョンリムサジ)」の「五重石塔」に現存しています。
      ・・・しかしながら・・・“唐王朝の当初目標は、あくまでも高句麗征伐”であって・・・“百濟征伐は、そもそも高句麗への障害要因を除去するという目的だったため、唐王朝の主力軍は、百濟平定後には高句麗方面へ向かう”ことになっていました・・・が、“これに呼応して”・・・“旧百濟の王族や将軍だった鬼室福信(きしつふくしん)や黒歯常之(こくしじょうし)らが中心となって、百濟復興運動を旧百濟各地で展開する”ようになります。
      ・・・同年8月2日、“旧百濟の王族や将軍だった鬼室福信や黒歯常之らの百濟残党”が、“旧百濟地方”において、“小規模な反撃”を「開始」する。
      ・・・同年8月26日、“鬼室福信や黒歯常之らの百濟残党”が、“新羅軍に対抗するため”として・・・「任存(にんぞん:※現在の大韓民国忠清南道の礼山郡大興面)」を、“防衛拠点”とする。


      ※ また、“この頃”・・・“鬼室福信や黒歯常之らの百濟残党”が、“倭国(ヤマト王権)への人質として滞在させていた“旧百濟の王子・豊璋(ほうしょう)を、新たな王に擁立しよう”と画策し、「倭国(ヤマト王権)」に対して「救援要請」すると・・・“倭国(ヤマト王権)の斉明天皇や中大兄皇子(※後の天智天皇)らが、これらを承諾し、旧百濟からの難民や、捕虜の唐人らを受け入れることに決した”ため・・・結果的にも、“唐王朝や新羅との対立姿勢を、より深める”こととなります。・・・

      ・・・同年9月3日、“唐王朝より派遣された将軍・劉仁願”が、「泗ビ城」に「駐屯」する・・・も、“百濟残党が、泗ビ城南方の山”に、4、5箇所の「柵(さく)」を築造し、そこを根拠地として・・・“再び泗ビ城に対する侵入を試みるよう”になります。・・・すると、“こうした百濟残党や百濟遺民達に呼応して、他の20余城も、百濟復興運動に応じ始める”こととなって・・・「熊津都督・王文度」が、“着任直後期”に、「急死」してしまいます。


      ※ 同年9月5日:“百濟・達率(※名を洩らせり)と沙弥(しゃみ)・覚従(かくじゅう、かくじゅ)ら”が、「倭国(ヤマト王権)」に来て曰く【※(注釈)或る本では、難を逃れ来て告げたと云う※】・・・「今年七月、新羅が隣(※百濟のこと)と親しまず、力に任せて勢いを作る。唐人を引き搆じて、百濟を傾け、覆す。君臣は、総じて俘(とりこ、ふ:※捕虜のこと)となり、生類がほぼいなくなる。」・・・と。【※(注釈)或る本は云う、今年七月十日、大唐の蘇定方が、船師を率いて、軍を尾資之津(びしのつ)に上陸させる。新羅王・春秋智は、兵馬を率いて、怒受利之山(ぬずりのむれ)へ軍を動かし、三日(間)百濟と戦い、挟み撃ちとし、我が王城(※百濟方の城のこと)を陥(おと)す。同月十三日、王城が破れ始める。怒受利之山とは、百濟の東の堺(=境)なり※】是においては、尚も、西部恩率・鬼室福信が任射岐山(にざぎのむれ)に據(よ:=拠)りて発憤する。【※(注釈)或る本は、北任敍利山(きたのにじょりのむれ)と云う※】他の達率らは、自ら進(軍)して、中部の久麻努利城(くまぬりのさし)に據(よ:=拠)る。【※(注釈)或る本は、都々岐留山(つつきるのむれ)と云う※】それぞれに散る(兵)率を誘いて、一つ所にて営す。兵(つわもの)は、前(さき)の役(えき:※百濟の役のこと)にて盡(つき:=尽き)ていたため、杖や踏み板を持って戦う。新羅軍は、その兵(器)を奪いて、百濟を破る。しかしながら、百濟兵は鋭く翻(ひるが)えし、敢えて唐には入らず。(鬼室)福信らは、遂に同國を鳩集(きゅうしゅう:≒吸収、急集、糾合)し、共に王城を保つと。國人が尊(たっと)びて曰く・・・「佐平・(鬼室)福信と佐平自らが進んだが、(鬼室)福信のみが、神の武の如き權(けん:≒権)を起こして、既に亡(=滅)びた國を興す」・・・と奏(上)する。・・・「沙弥」とは、いわゆる具足戒(ぐそくかい:※波羅提木叉〈はらだいもくしゃ〉のことであり・・・つまりは、出家僧の伽内における戒律を、まだ授けられてはおらず、僧伽の正式なメンバーとなっていない見習い僧や小僧のこと。・・・この見習い僧が、男性(≒少年)であれば沙弥(しゃみ)、女性(少女)であれば沙弥尼(しゃみに)と呼ばれます。・・・ここの文章では、“倭国(ヤマト王権)に百濟情勢が伝えられた様子”とともに・・・【※(注釈)※】として、“旧百濟国内における百濟復興運動、とりわけ新羅や唐王朝に対する反乱や、その戦いぶり”を語っています。
      ※ 同年9月12日:“百濟を平定した唐王朝”が、“正都・長安に監禁していた伊吉連博徳らの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)の一部”を、「解放」する。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】

      ・・・このような情勢下・・・“先に高句麗に向かっていた唐王朝軍の主力部隊”は、“百濟残党や百濟遺民達による各地の反乱に対して、鎮圧行動を採れず”に・・・「新羅軍」が、“百濟遺民勢力の掃討を担当する”こととなり・・・
      ・・・同年10月9日、「新羅軍」が、“百濟残党や百濟遺民達の掃討作戦”を、「実行」し始める。


      ※ 同年10月16日:“伊吉連博徳らの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)の一部”が、「副都・洛陽」に戻り、“西暦659年9月15日以来離れ離れとなっていた東漢長直阿利麻や坂合部稻積らの5人”と「合流」する。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】

      ・・・同年10月18日、「新羅軍」が、“旧百濟のニレ城”を、「攻略」する・・・と、“それまで百濟復興運動に応じていた20余城”が、次々と「降伏」してしまう。
      ・・・同年10月30日、「新羅軍」が、“泗ビ城の南にあった山を拠点としていた百濟遺民駐屯軍”を、「殲滅」する。・・・“この時の新羅軍”は、1,500人を「斬首」。・・・しかし、“百濟残党や百濟遺臣ら達が抑えていた任存城や、周留(する)城など”は、尚も抵抗を続けた。


      ※ 同年10月内のこととして:「百濟」の「佐平・鬼室福信」が、「佐平・貴智(きち)」らを遣わして・・・“唐の俘100人余り”を、「倭国(ヤマト王権)」へ献じる。“美濃國不破(ふわ)及び片縣(かたがた)のニ郡に居る、今の唐人らのこと”なり。また、(佐平・貴智らは)“救援する師(※軍を率いる人のこと)”や「王子・余豊璋」を乞いて、曰く【※(注釈)或る本は、佐平・貴智と達率・正珍(しょうちん)なりと云う※】・・・「唐人は、我がボウ賊を率いて来たりて、我のあらゆる場所において、我が社稷(しゃしょく)を覆し、我が君臣を俘とする」と。【※(注釈)百濟王・義慈、其の妻・恩古、其の子・隆ら、其の臣の佐平・千福や、國弁成、孫登ら、凡(およそ)五十余りは、秋七月十三日において、蘇将軍の爲に捉えられ、唐國に送り去られていた。蓋(がい)して是(これ)は、故無く兵(≒兵と兵器)を持った徴(しるし:=前兆)か※】・・・「然るに、百濟國は天皇の護念を遙(はるか)に頼り、更に邦(くに)を成すことを以って、鳩集した。そして今、百濟國が天朝に遣わし侍(はべ)りたる王子・豊璋を迎えて、將(まさ)に國の主にせんと、謹み願った。」・・・と云々。・・・(斉明天皇は)詔して曰く・・・「師を乞われ、救いを請われしを、古(いにしえ)の昔より聞いており、恒(つね)に自らの典を著(あらわ)さんこと絶えずして、危(機)を扶(たすけ)よう。百濟國が、依るところに靡(なび)き、告げられたところに靡かれて、邦本(くにもと)が喪で乱れ窮(きわま)りて、我(の処)に歸(=帰)り来た。戈(ほこ)を枕とし、胆(きも)を嘗(なめ)ていれば、必ず(そこには)救いが存(あ)らん。(彼らは)奪い難き志(こころざし)を有して、表啓(のため)に遠くより来たる。百道(※百濟とともに歩む道という意味か?)と倶(とも)に前(すす)みて、雲会(≒雲海)や雷動のように、沙ロク(※新羅の官職名と考えられる)を倶に集めて、其の鯨鯢(けいげい)を翦(はさ)み、彼(か)を弛(ゆる)めて倒し懸けよと、将軍に分けて命じるべし。有司宜しく具(とも)に之(これ)の爲に與(あた:=与)えて、礼を以って発し遣わせよ。」・・・と云々。【※(注釈)王子・豊璋及び妻子を與(あた)えたる其の叔父・忠勝(ちゅうしょう)らを送る。其の発し遣わしたという正しき時は、七年(※斉明天皇七年、西暦660年のこと)に見える。或る本では、(斉明)天皇は、豊璋を立てて王と為(な)し、塞上(さいじょう)を立てて輔(すけ:※補佐役のこと)として、礼を以って発し遣わしたと云う。※】・・・“唐の俘100人余りが、佐平・貴智らにより、連れて来られて、一時期暮らした場所が、美濃國の不破及び片縣の二郡”であり・・・また、「今」と表現されておりますので、『日本書紀』が編纂された時期、“すなわち奈良時代頃には、美濃國の不破及び片縣の二郡に、唐人や、唐との関係の深い渡来人らの居留地が存在していたこと”も分かります。・・・“この時の百濟王子・余豊璋は、倭国(ヤマト王権)に留め置かれていた人質”でした。・・・「ボウ賊」とは、この場合・・・唐や新羅に加担し、百濟の民を害するような行為をする悪人や罪人に対する蔑称です。・・・「社稷」とは・・・「社」が、土地神を祭る祭壇を意味しており・・・「稷」は、キビなどの穀物の神を祭る祭壇のことですので・・・これらを総じると、“(古代)国家のこと”を意味しております。・・・「恒に自らの典を著さんこと絶えず」とは・・・“倭国(ヤマト王権)自らの血脈や皇統譜、国家組織など全般において、死守しなければならない決まり事”・・・つまりは、“(倭国(ヤマト王権)における絶対の掟(おきて)”と読んで良いのだと想います。・・・“其の鯨鯢”とは、つまり・・・其の大魚 ⇒ 其の大悪人 ⇒ 新羅のこと ・・・を比喩していると考えられます。・・・しかし・・・“もしかして、その新羅よりも、強大な唐王朝軍との軍事衝突があっても、場合によっては致し方なし”との、ニュアンスも読み取れますね。・・・「倒し懸けよ」とは、大きな魚を吊るすように、頭を逆さにして吊されるような苦しみ(≒罰)を与えよという意味になります。・・・尚、【※(注釈)※】の中にある「忠勝」とは・・・“妻子を與(あた)えられたという子から見る叔父、すなわち豊璋の弟であること”が分かります。また、「塞上」も、“豊璋の弟である塞城のこと”です。常識的に考えると・・・“豊璋、忠勝、塞上(=塞城)”・・・という年齢順になるかと。

      ※ 同年11月1日:“合流を果した生き残りの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)”が、「副都・洛陽」において・・・“唐王朝将軍・蘇定方らによって捉えられていた百濟王以下の、太子・隆らの諸王子13人と、大佐平や沙宅、千福、國辨成以下の37人、(総勢)50位の人が、朝堂へと奉進し、(唐王朝の)天子に向かって、引き急いで走り、天子の見前(=目前)にて、放着(ほうちゃく:※囚われの身分から放つという意味か?)されて、恩勅している光景”を、「目撃」する。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】・・・“同年10月16日には、伊吉連博徳らと離れ離れとなっていた東漢長直阿利麻や坂合部稻積らの5人とが合流していた”のですから・・・“(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)としては、約半月もの帰間を、積極的に中国内陸部の洛陽に留まっている理由は、あまり無かった”と考えられます。・・・したがって、“目撃した”というよりは・・・“唐王朝によって、わざわざ見せ付けられた”と考えるほうが良いかと。・・・そして、“唐王朝によって殺害されずに生かされた(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)”にしてみても・・・“早期に帰国して不正確な報告をするよりも、唐王朝の意向をより正確に報告をするために、しっかりと見届けていた”と云ったほうが適切かも知れません。
      ※ 同年11月19日:“合流を果した生き残りの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)”が、「唐王朝」から「労(ねぎら)い」を賜わる。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より※】・・・ただ単に、労いを賜わった訳ではなく・・・ここでは、“いろいろと言い含められていた”のでしょうね。きっと。
      ※ 同年11月24日:“合流を果した生き残りの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)”が、「洛陽」を発つ。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用しています※】・・・“唐王朝より、労いを賜わってから、たった5日後のこと”となります。・・・やはり、“同年10月16日から11月1日までの期間については、生き残りの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)が、すぐさま帰国の途に就けるような物理的な余裕や外交的な成果が無かった”・・・つまりは、“唐王朝主導による、或る種の取引や外交交渉を行なわざるを得なかった”と考えたほうが良さそうです。

      ※ 同年12月24日:「斉明天皇」が、「難波宮」に「(入)幸」する。「(斉明)天皇」は・・・“(鬼室)福信が乞うた意に隨(したが)い、救軍を遣わそうとし、(まずは)斯(この)(行)幸を初めとして、(自身が)筑紫へと(行)幸し、諸(々)の軍器を備えようと思った”と。・・・ちなみに、この時の斉明天皇は、御歳67歳。古代としては、かなりのご長寿とは云えますが・・・“当時の斉明天皇の脳裏にあったという想いについて”を、このように間接的に伝える・・・この『日本書紀』編纂者達の狙いは?・・・

      ※ 同年内:「斉明天皇」が・・・“百濟の為に、新羅を伐(う)つことを欲して、駿河國において船を造るように”・・・と「勅」す。・・・(造船が)已(すで:=既)に訖(おわ:=終)りて、「績麻(うみお、うみの)の(近)郊」に挽(ひ:=引)き至った時、其の船は・・・夜中に、故無く、艫舳(ともへ:※ともと、へさきのこと)が相反れる。・・・“衆は、敗れ終わること”を知る。・・・「科野國(しなののくに:=信濃國)」では・・・「蠅が群れで西に向いて、巨坂を飛び踰(は:=跳)ねた。(その)大きさは、裕に十圍(かこい:=囲)ほど。(その)高さは蒼天に至るほどだった。」・・・と言う。或いは、「救軍が敗れ績(つ)むぐ、怪(あやし:※連敗する時に起こるとされる怪奇現象のこと)ということ」を知る。「童謡(わざうた)」には、・・・(※ここでは、当時歌われていたという童謡が挿入されておりますが、ここでは割愛させて頂きます)・・・・・・この条では、見逃せない凶兆が、予言的に表現されています。それも、クドイほどに・・・“いきなり三段重ねの表現が、なされている”のです。最後には、当時歌われていたという童謡まで、風刺として引き合いに出して。・・・「績麻郊」とは、伊勢國多気郡績麻郷近郊のことであり、現在の三重県多気郡明和町の祓川(はらいがわ)河口付近です。・・・「巨坂」とは、信濃と美濃の國堺(くにざかい)、神坂峠(みさかとうげ:※木曽山脈南部にある現在の岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある峠のこと)ではないか? とされています。・・・「十圍」とは、一圍が約一尺のことなので・・・十圍では、約十尺となり、約303㎝=約3.03mのこととなります・・・が、この場合は、大きさそのものには、あまり意味はありません。要するに、“蠅の群れが、一筋の帯状を成して、この辺りを飛び廻って、通常では考えられない有り様だった”ということです。・・・しかし、何故これらの現象が、倭国(ヤマト王権)による救軍の連敗の兆候となるのでしょうか?・・・この『日本書紀』の編纂者達が、この頃の倭国(ヤマト王権)政権に対して、かなり批判的に視ていると想わざるを得ません。・・・かつての、いわゆる神功皇后による新羅遠征時における神懸かり的な記述とは、真逆とも云える凶兆を、並記しているのです。

      ・・・“この時期に、朝鮮半島内に駐屯していた唐王朝軍は、治安維持などのためとして、百濟の役の際よりも、更に総兵力を増強していた”・・・と云われます。・・・但し、“百濟の役で活躍した主力部隊は、高句麗へ向かっていたため、唐の各地から招集された諸民族から成る混成部隊だった”と考えられるのです。・・・“当然に、その中には、百濟の役で降伏投降していた百濟遺臣達が含まれていた”でしょう。・・・ちなみに、後に起きることとなる「白村江の戦い」に参戦した「唐王朝水軍の主力」には、“当時靺鞨(まっかつ)と称される勢力により構成されていた”とも云います。・・・この「靺鞨」とは、前ページでもふれておりますが・・・現在の中華人民共和国東北部からロシア連邦沿海地方付近に居住していた「農耕漁労民族」とされており、「ツングース族」とも云われております。
      ・・・いずれにしても、“白村江の戦いに動員されたという唐陣営の軍勢”は、水軍7,000名、170余隻。指揮官は「劉仁軌(りゅうじんき)」や、「杜爽(とそう)」、“百濟の役にて降伏投降していた元百濟皇太子”の「扶余隆(ふよりゅう)」。・・・陸軍の総兵力については、不明とされますが、その指揮官は、「孫仁師(そんじんし)」や、「劉仁原(りゅうじんげん)」、“新羅皇太子”の「金法敏(きんほうみん:※後の文武王のこと)」と考えられています。・・・ちなみに、“百濟の役に動員された時の総勢が、約13万人、新羅軍については約5万人”と云われますので・・・“ほぼ、それらと同数か?、それ以上だった”と考えられます。・・・しかし、“それら全てが、倭国(ヤマト王権)軍や、百濟遺臣達の部隊に向けられた”とは考え難いかと。朝鮮半島各地の主要拠点においては、治安維持や守備、兵站のために、どうしても・・・“それなりの兵数など、相当な人員が必要となるから”です。

      ※ 東アジアが混乱していた、この西暦660年頃:“西暦653年5月の(第2次)遣唐使(≒朝貢団)として、唐に渡り留学していた僧の道昭が帰国した”とされています。・・・この道昭が、倭国(ヤマト王権)に持ち帰った多くの経論や経典類は、後の大和朝廷が平城京:現在の奈良県奈良市及び現大和郡山市近辺へ遷都する際などに、平城右京の禅院に移されて、後も重用されることとなります。


      ・・・そして・・・いわゆる「白村江の戦い」が“迫り来る”こととなります。・・・


      ※ 西暦661年正月6日:“斉明天皇らが乗船する御船(みふね)”が、「西征」のためとして、“その海路”に就く。
・・・御船が出港したのは、難波津とされています。
      ※ 同年正月8日:“斉明天皇らが乗船する御船”が、「大伯海(おおくのうみ)」に至る。(この際に中大兄皇子一行が乗った船上において)「大田姫皇女(おおたのひめみこ:※中大兄皇子の姫のこと、大田皇女とも)」が、“女(子)を出産”し・・・その「皇女」が、「大伯皇女(おおくのひめみこ:※大来皇女とも)」と「命名」される。・・・「大伯海」とは、備前(びぜんの)國邑久郡(おくぐん)の前に拡がる海のことであり、現在の岡山県邑久郡(おくぐん)付近の海とされています。・・・尚・・・斉明天皇自身も、ご高齢の女帝ではありますが・・・大田姫皇女が船上で出産していることからも判る通り・・・おそらく、“古代の戦(いくさ)では、卜筮(ぼくぜい)によって占い、天候や風、海流などを読むことが、当時の弓矢や弩などの中長距離系主力武器の効果に、当然として深く関わりますので・・・“作戦立案上の最重要ポイントだった”と云える訳でして・・・“霊力を持つとされる高貴な女性達、つまりは巫女(みこ)が在陣することは当然の事だった”のかも知れません。もしかすると、“かつての神功皇后による神懸かり的な新羅遠征を倣っていた”のかも知れません。しかも、出征中の船上で生まれたのが、皇女でしたので、“この時の倭国(ヤマト王権)軍にすれば、軍威を高揚させる吉兆と捉えられた”のではないでしょうか?・・・古代国家の存亡を懸けた大戦(おおいくさ)を前にして、わざわざ出産間近の大田姫皇女を引率していった感もありますね。これは、私(筆者)の全くの想像ですが。
      ※ 同年正月14日:“斉明天皇らが乗船する御船”が、「伊予・熟田津(にきたつ)」の「石湯行宮(いわゆのかりみや)」に泊まる。【※(注釈)熟田津は此れを、に枳柁豆と云う※】・・・「石湯行宮」は、“現在の愛媛県松山市の道後温泉にあった”とされています。・・・御船の上で、大田姫皇女が大伯皇女を出産したため、“産後の休養のために”ということとなり・・・急遽、当初の予定を変更したことが窺われます。・・・もしかすると、船上の大田姫皇女が、波に揺られるなどして、斉明天皇らが予想する出産予定日よりも、早いタイミングで大伯皇女が誕生したのかも知れませんね。・・・【※(注釈)※】にある「に」という字は、「音読み」で「ジ」という字です。ここでは、どうしても表示出来ません。ご了承下さい。
      ※ 同年正月25日:“合流を果した生き残りの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)”が、「唐」の「越州」に「到着」する。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】

      ※ 同年3月25日:“斉明天皇らが乗船する御船”が、「那大津」へ至り還りて、「磐瀬行宮(いわせのかりみや)」に居し・・・「斉明天皇」が、“此の名”を曰く・・・「長津(ながのつ、ながつ)」・・・と「改名」する。
・・・「磐瀬行宮」とは、一般的には現在の福岡市南区三宅辺りか? と考えられております・・・が、四国地方にある村山神社(現愛媛県四国中央市土居町津根)の由緒では・・・『日本書紀』の原文に・・・「御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮。」・・・とあることを根拠として、斉明天皇らが伊予熟田津の石湯(※道後温泉のこと)から東へと船を還し、この村山神社に滞在していたとしています。・・・また、1954年3月31日までは、同所に「長津村」が存在しており、現在ある長津小学校や長津郵便局などのように、地名と申しますか、かつての名残りも見られます。・・・こちらの具体的な伝承を信じますと、“斉明天皇が改名した長津”とは、かつての三島港(みしまこう)と川之江港(かわのえこう)ということになるのでしょう。《※現在では、この二港が合併し、三島川之江港(みしまかわのえこう)となっています。》・・・このように、“たった一つの地名について”も・・・この磐瀬行宮の件でも分かるように・・・各候補地において現実的な遺跡等の発掘調査などが行なわれて、結果として、それらが確定しないと、ハッキリとしたことが云えない事柄なのです。しかし、依然として・・・具体的な伝承と現実的な各地域の歴史というものが、或る意味で重要になって来ると、その信憑性が、かなり増すことも事実だと云えます。・・・また、ここにある一文では、「居す」となっておりますので、“斉明天皇らが、一時の本陣とした”という意味も含まれているように想われます。更には、“斉明天皇らは、この地において、軍容が整った百濟救援派遣第一軍の到着や、齎(もたら)される様々な情報などを待っていた”か? のようでもあります。・・・いずれにしても、斉明天皇らの乗船する御船の軌跡(=航路)だけを、想像してみても・・・同年正月14日から3月25日までには、大田姫皇女と誕生したばかりの大伯皇女、その世話をする近従などを、伊予の熟田津石湯行宮に逗留(※斉明天皇とは別行動を採って)させたという可能性や・・・仮に、斉明天皇らと共に行動していたとしても、当時の船足(=船団のスピード)について考慮すれば、約1カ月程の期間的な余裕を確保出来るため、様々な可能性が考えられる要因となっているのです。・・・そして、ここの文章には、この時の斉明天皇が“こう思った”とか、“こう考えた”とかいう表現が、一切出てきておりません。・・・この当たりにも、『日本書紀』編纂者達の思惑が働いているのでしょうか?・・・ちなみに、“港の名を長津と改名した理由そのものについて”も・・・“長(居する、逗留する)津や、長(い安寧を祈願した)津、何かしらの長(生きを祈願した)津など”・・・いろいろと想像出来ますね。

      ※ 同年4月1日:“合流を果した生き残りの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)”が、「唐」の「越州」から「上路」して、東へ歸(=帰)る。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】・・・「上路」ということは、おそらくは陸路ということですね。・・・そして、「(ただ)東」としていますので、“倭国(ヤマト王権)への東路に就く”と読んで構わないかと。
      ※ 同年4月7日:“合流を果した生き残りの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)”が、「チョウ岸山(チョウがんさん)」の「明(みなみ:=南)」に行き到る。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】・・・本文中の「チョウ」という字は、「木偏」+「聖」。音読みすると、「テイ」・・・訓読みでは、「かわや」となります。
      ※ 同年4月8日:“合流を果した生き残りの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)”は、“鶏が鳴く時(=早朝、明け方)”に、「船」を「大海」に放ち、“西南の風”に順(したが)う・・・も、“海の中では途(みち)に迷い、漂蕩(ひょうとう:=漂流)して、辛く苦い(思いを)した”と。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】・・・“やっとのこと”で、生き残り合流を果した津守連吉祥率いる伊吉連博徳らの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)でした・・・が、唐を出発して、帰路に就いた途端・・・またもや・・・漂流してしまいました。・・・“この頃は、帰国するだけでも命懸けだった”のです。
      ※ 同年4月8日夜か9日の早朝:“(海を漂流していた)生き残りの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)を乗せた船”が、八(日の)夜か九日の早朝には、“僅かに(≒やっとのことで)耽羅(たんら、ちんら)の嶋(=島)”に到る。(そこで)すなわち“嶋人(=島人)の王子・阿波伎(あわき?、あわぎ?)ら9人”を、同じ(ように)客船に載せ、招き慰(なぐさ)めて、“帝朝に擬(なぞら)えて(倭国〈ヤマト王権〉に対して)献(たてまつ)らん”とす。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】・・・この一文では、「帝朝に擬えて」としておりますので・・・おそらく・・・「帝朝」とは、“唐王朝のことを示す筈”であり・・・つまりは、“唐王朝以後の朝貢関係システムのこと”を語っているのだと考えられます。・・・生き残りの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)としては、“この海難事故を、むしろ好機として、耽羅の王子ら9人と共に帰国し、倭国(ヤマト王権)と耽羅との国交(=朝貢関係)を開こうとした”と考えられます。
      ※ 同年4月内のこととして:「百濟」の「(鬼室)福信」が、「倭国(ヤマト王権)」に「使い」を遣わして・・・“其の王子・糺解(くげ:※一般的には豊璋のこととされていますが、下記も御参照下さい)を迎えること”・・・を乞う。【※(注釈)釈道顕(ほうしどうけん)の日本世記に曰く、百濟・(鬼室)福信が書(ふみ)を献(ささげ)て、東朝(※倭国〈ヤマト王権〉のこと)にいた其の君(きみ)・糺解(のこと)を祈ったと云う。或る本は云う、四月には(斉明)天皇が朝倉宮に遷居したと。※】・・・ちなみに、百濟義慈王の王子だった豊璋は、倭国(ヤマト王権)の人質として、倭国(ヤマト王権)に滞在していました。豊璋は、“西暦643年には、大和國三輪山において、養蜂を試みた”とも云います。そして、この人物については、一般的に、「余豊」とか、「扶余豊」、「扶余豊章」、「豊章」、「翹岐」、「糺解」とも、表記され、また読まれているのです・・・が、まず、ここの5番目にある翹岐(ぎょうき)について、気になりませんでしょうか?・・・そうです。・・・“西暦642年4月8日に、母国の百濟を追放され、また彼のの従者と共に、蘇我蝦夷が倭国(ヤマト王権)に呼び寄せたという王族・翹岐について”を、百濟義慈王の王子・豊璋と・・・何と同一視しているではありませんか?・・・“その時には、安曇山背連比良夫(あずみのやましろのむらじひらふ)が、この翹岐なる人物を、自邸に迎えて、安置した(≒安んじて生活させた)”とされているにもかかわらず。・・・いずれにしても、“豊章と呼ばれていた人物”は、それより以前の西暦631年3月1日には、百濟・義慈王より人質とされて、倭国(ヤマト王権)へとやって来て、10数年を倭国(ヤマト王権)国内で暮らしておりますので・・・この『日本書紀』を読み進める上では、とにもかくにも・・・“いずれも百濟王族には違いないが、明らかに別人だった”・・・と考えるべきなのです。(※この翹岐については、再度後述致します)・・・尚、豊章を示す表記の中に、豊という通字が、多くの文献に残っている理由については・・・この後の短い期間ではありましたが、“百濟の豊章王として、王に即位したから”と考えられます。・・・この『日本書紀』を、素直に通して読むと・・・“豊章の名”を省略しているため、つまりは・・・“豊章の身柄保障を願う”と云った、再度の帰国要求などではなく・・・“其の(=豊章の)王子だった糺解の身柄を、まず要求したように”、読めるのです。・・・いずれせよ、朝鮮半島情勢の緊迫度合いが判ります。・・・尚、ここに記述されている糺解についても、出来るだけ詳しく後述致します。

      ※ 同年5月9日:「斉明天皇」が、「朝倉橘廣庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」に「遷居」する。・・・“この宮を作るに当たり、朝倉社の木を切り除いたため”に、「神」が忿(いか:=怒)りて、「(寝)殿」を壊し、亦(また)「宮中」では、「鬼火(おにび:※いわゆる怪火のこと)」を見る(=怪火が出現した)。・・・これにより、「大舎人(おおとねり:※宮中で宿直や供奉などを司った下級官人のこと) 」や“諸(々)の近侍(きんじゅう)”に、「病死者」が「続出」する。・・・五月二十三日には、「耽羅」が、“王子・阿波伎ら”を遣わして、「貢献」を始める。【※(注釈)『伊吉連博徳書』は云う、・・・(内容が、後述と重複しているため、割愛させて頂きます)※】・・・“朝倉橘廣庭宮の推定地について”は、現在の福岡県朝倉市須川とも云われます・・・が、具体的な場所については、特定されておりません。・・・斉明天皇が朝倉橘廣庭宮に遷居した理由は・・・“倭国(ヤマト王権)側による戦略上の純粋な理由だった”のか?・・・“長期戦を覚悟したため”なのか?・・・それとも、“百濟王子の豊璋護送計画が決定し、初期目的の第一段階がほぼ実現出来たため、本陣を遷しただけのこと”なのか?・・・そして、“朝倉社の神による怒り”とは・・・“倭国(ヤマト王権)に尚も属さなかった倭人集団によって、局地的なゲリラ戦があった”ということなのか?・・・或いは、“在倭国(ヤマト王権)の唐人や新羅人などによる妨害作戦があった”ということだったのか?・・・等々、可能性は幾つもありそうですが・・・いずれにしても、約4カ月程前までの記述とは、一転して・・・“神の怒り=祟り”まで、持ち出しており・・・間違いなく、白村江の戦い勃発以前の凶兆を、より直接的な表現としています。・・・つまり、斉明天皇の所業に対して、“神々の支持が無かった”と云いたいのです。
      ※ 同年5月23日:“生き残りの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)”が、“朝倉の朝(庭)”に「奉進」する。「耽羅」は、“此の時から、入朝し始める”・・・も、「使人(※今回の遣唐使節団のこと)らは、寵命(ちょうめい:※この場合には、唐王朝皇帝や上級の官人から指示を仰ぐこと)を蒙(こうむ)ること無し」・・・と、“(韓)智興の傔人・東漢草直足嶋(やまとのあやのかやのあたいたりしま)から、讒(そしら)れた爲”・・・“使人(※東漢草直足嶋以外の遣唐使節団のこと)らが、天上の神に(対して、その)怨(うら:≒恨)み(を)徹(とお)す”・・・と、「足嶋」が「震死(しんし)」した。・・・時の人が稱(となえ)て曰く・・・「大倭の天の報(むくい)は、近きかな」・・・と。【※(注釈)『伊吉連博徳書』より引用※】・・・まず、耽羅については・・・これより以後は、公式記録に残るだけでも、計9回の耽羅使節が倭国(ヤマト王権)≒大和朝廷を訪れることとなり、西暦679年に耽羅が新羅に服属する際まで朝貢をし続けています。・・・また、後の大和朝廷側からも、西暦679年と684年(※いずれも天武天皇期)に使者を派遣しています。・・・確か・・・『隋書』東夷傳ワ國傳 にも・・・“これより、たった54年前の記述”として、「耽羅」という国名がありましたね。・・・おそらくは・・・当時まで、倭国(ヤマト王権)は耽羅との間で、ただ正式な国交を持っていなかっただけで、当然に耽羅という島(≒地域)の存在自体は知っていたのでしょう。・・・そして、遣唐使(≒朝貢団)として派遣された、今回のミッションについては・・・“数々の困難を乗り越えて帰国した人々の大きな成果としては、自らが経験し学習した知識など、往路における、あらゆる情報だった”と考えられます。・・・しかし・・・入唐直前期に大使を亡くしたり、唐王朝に監禁されたりと、不運が続くこととなり、そのままの状況では、たとえ帰国が叶ったとしても、“目に見える外交的な成果無し”とは、さすがに報告しずらいため・・・“耽羅へ、わざわざ立ち寄って外交上の成果を求めた”という可能性もありますね。・・・それに・・・そもそもとして・・・“耽羅という小国”としては、西暦660年7月まで、百濟に臣従していましたが、後の「百濟の役」によって、敗戦を経験し・・・ちょうど、この時に、生き残りの(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)が、都合良く漂着して来た訳です。・・・耽羅側としても、この際に、倭国(ヤマト王権)との外交的なパイプを構築しておければ、その後の百濟周辺事態などに対応出来ると考えても、何ら不思議ではありません。・・・要するに、耽羅としては、倭国(ヤマト王権)の助力を求め・・・倭国(ヤマト王権)としても、耽羅を派兵時の補給地などの橋頭堡(きょうとうほ)とすることで・・・互いの思惑が合致したと云えるのでしょう。・・・しかしながら、この条の後半部分では・・・西暦659年12月、韓智興の傔人・西漢大麻呂(かわちのあやのおおまろ)が、(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)を讒言したため、唐によって韓智興が三千里の外へという流罪にされておりましたが・・・“ここでもまた、別の傔人とされる東漢草直足嶋に讒言された”とあるので・・・現実として、伊吉連博徳が唐に対して奏じた内容が功を奏していたのか? とりあえずは、韓智興に対する三千里の外の流刑についても執行停止となった模様であり、(韓智興も)しぶとく遣唐使節団(≒朝貢団)一行に復帰して帰国していたことは分かります・・・が、やはり今回も、傔人の東漢草直足嶋が何をどう讒言したのか? については記述されておりません。・・・いずれにしても、東漢草直足嶋の讒言によって、この遣唐使節団(≒朝貢団)そのものが、辛酸を舐めさせられることとなり・・・耽羅の王子を引率しては来たものの、全体的な評価を著しく減ぜられてしまい・・・“朝倉の朝(庭)から、その労が報われることは無かった”と云うのです。・・・上記下線部分の「震死」とは・・・「かむときしてころす」・・・とも読まれるのですが、“その震という様”は、霹靂(へきれき)や落雷の炸裂音のことを指しており・・・つまりは、“帰国した(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)・使人達による怨念が、上天の神に徹(とお)ることとなって、東漢草直足嶋が雷に撃たれて死んだ”と云うのです。・・・しかしながら、この表現は・・・伊吉連博徳の言葉遣いを、『日本書紀』の編纂者達が引用したものなので・・・結局のところは・・・“当時の倭国(ヤマト王権)政権が、この遣唐使節団(≒朝貢団)の使人達に対して、正当な評価を出来なかった”という批判となっているようです。・・・また、「大倭の天の報」という表現なのですが・・・“時の人の言葉を、伊吉連博徳が採録したもののよう”でして・・・「大倭」とは、おそらくは、“倭国(ヤマト王権)国内にある連合国家群の総称”を指すのでしょう・・・が、その後ろに続く「天の報」という用語が、どうしても気になります。・・・もし、本当に時の人が、このように語ったのならば・・・“この時の人は、当時の相当な知識人”としか考えられません。“天が、この政権に報いを齎(もたら)す”という考え方は、この当時としては、“いかにも中国的な思想”なのです。・・・すなわち、“倭国(ヤマト王権)国内にある連合国家群を統治していた政権が、倭国(ヤマト王権)に伝わる古来よりの神託を信じなかった”ということを、主張していることに他なりません。・・・やはり、『日本書紀』の編纂者達が、『伊吉連博徳書』の内容を基として、“当時の倭国(ヤマト王権)政権に対する批判のために用いたことになるのだ”と想います。・・・それは、さて置き・・・今回の(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)は、“唐においては、百濟と通じている”と執拗に疑われて、一旦は全員流罪に決まり・・・その後には、別々に監禁され・・・帰国した後にも、“朝倉の朝(庭)からは、新羅に通じていると疑われてしまったよう”でして・・・当時の倭国(ヤマト王権)政権から、結果として、かなり遠ざけられてしまった感があります。・・・この『日本書紀』では・・・彼ら(第4次)遣唐使節団(≒朝貢団)の船旅においても、遣唐大使・坂合部連石布(※坂合部連磐鍬とも)などの、大きな期待を掛けられていた人材や、将来有望な人材の多くを失なうことになってしまい・・・“まさしく、当時の東アジア情勢という大波に翻弄された遣唐使節団(≒朝貢団)だった”・・・そして、“全く不運続きの遣唐使節団(≒朝貢団)”ではあったが・・・この『日本書紀』の編纂者達が、わざわざ『伊吉連博徳書』から引用してまで・・・“当時の倭国(ヤマト王権)の天皇や、草創期の朝廷組織などの国家体制(≒国体)などを、唐王朝に認めるさせるように働き掛けていたという事実を、何としても後世に遺したかった”のではないか? とも考えられるのです。・・・尚、“自らの傔人から、二度に亘り、讒言されてしまう”という事態を招いた責任者とされ、彼らの主人とされる韓智興という人物については、さらに謎が深くなってしまいますが・・・本当に実在した人物なのでしょうか?・・・だって、名前が「韓+智興」ですよ。・・・“まるで、かなりの策略家の如き・・・”。・・・ちなみに、この名前が『日本書紀』に初見されるのは、“孝徳天皇(白雉5年)2月の条”です。しかも、これもまた『伊吉連博徳書』からの引用です。・・・《原文》「・・・併十二人。別倭種韓智興、趙元寶、今年共使人歸。」・・・《訳》「・・・など併せて十二人だったが、別(こと)に倭種(やまとのうじ)の韓智興、趙元寶(ちょうげんぽう)は、今年使人と共に歸れり」と。

      ※ 同年6月内のこととして:「伊勢王(いせのおうきみ)」が、「薨(みまか)」る。・・・「薨(みまか、コウ)」という文字を使用しています。・・・古代中国の周から漢代に掛けて、儒学者達が纏めた礼に関する書物を編纂した『礼記(らいき)』では・・・「天子の死は崩と曰ひ、諸侯は薨と曰ひ、大夫は卒と曰ひ、士は不禄と曰ひ、庶人は死と曰ふ」・・・とされておりますので、伊勢王は、当然に薨の立場にあった諸侯の王だった筈なのです・・・が、伊勢に暮らしていた事以外に、諱(いみな)や忌み名(いみな)、真名(まな)などの名が記述されていません。・・・ただ、『日本書紀』西暦650年2月15日の条において、白雉の輿(こし)の後頭を執(と)る一人として、その一番目に伊勢王と記述されているため、ここにある伊勢王と同一人物と考えられております。また、このように『日本書紀』が、具体的な伊勢王の死因や諱などにもふれずに、ただ・・・「六月、伊勢王薨。」・・・として、簡素な表現方法を用いていることや、西暦650年2月15日の条における伊勢王の記述、斉明天皇の皇孫だった建王(たけるのみこ)関連の記述との比較などから察するに・・・当時の倭国(ヤマト王権)の皇統系譜からは相当外れていた人物として・・・例えば、“倭国(ヤマト王権)配下の一族などとの姻族関係を持った地方豪族の長たる王など”が考えられます。・・・そして、『日本書紀』の編纂者達が、“わざわざ、当時から倭国(ヤマト王権)の麾下(きか)だったのだ”と・・・さりげなく主張しているようにも感じるのです。・・・逆に云うと、この時の倭国(ヤマト王権)は、まだ日本列島内の各主要地域を覆い尽くす程の勢力ではなく、依然として連合王権の格好を保つ地方が、各地に存在していたことを裏付けているようにも想えます。・・・いずれにしても、『日本書紀』では、“伊勢の王が、この時期に亡くなったと云うことによって、結局は不吉な凶兆として、挿入している”と考えられます。

      ※ 同年7月24日:「(斉明)天皇」が、「朝倉橘廣庭宮」にて「崩御」する。・・・ここで、意気軒昂だった筈の斉明天皇が、何の前ぶれも無く、いきなり崩御されてしまいました。・・・“これまでは、斉明天皇の行動が神意に背いたものだったとも云わんばかり”だった『日本書紀』の文脈では、肝心な死因についてなどは、一切記述しておりません。・・・いずれにしても、“皇位継承権では第一順位である筈”の中大兄皇子(※後の天智天皇)は、すぐには天皇には即位せず・・・皇太子のまま、称制(しょうせい:※天皇の代行者として振る舞うこと)したのです。・・・一説には・・・ご高齢だった斉明天皇が、“邦の津(ほうのつ:※現在の福岡県辺りの古代港?)で急死された”とも云われます。・・・
      ※ 同年7月内のこととして:“蘇将軍(※唐将軍の蘇定方のこと)と突厥(とっけつ)王子・契ヒツ加力(けいひつかりき:※ヒツの字は、草冠+必)ら”が、水陸二路より、“高句麗の城下”に至る。・・・「皇太子(※中大兄皇子のこと)」が「長津宮」に「遷居」して、“水表(≒海外)の軍政”を稍(ようや)く聴く。・・・「蘇定方」とは、過去に突厥平定を行なった将軍であり、突厥王子の契ヒツ加力は、その蘇定方に帰順して、唐王朝の将軍となっていました。・・・次に、ここにある長津宮とは・・・おそらくは・・・“故斉明天皇が生前に改名した磐瀬行宮とは、別宮だった”と考えられます。・・・それは、『日本書紀』斉明天皇紀の翌月の記述(※下記の同年8月1日の記述のこと)において、これと磐瀬行宮を区別しているからです。それでも・・・或いは、宮の所在については、ほぼ同じにあったという可能性もあります・・・が、生前の斉明天皇が居した宮と皇太子(※中大兄皇子のこと)が居した宮とは、建物が別だったのではないでしょうか? 要するに、別棟です。・・・そう考えると、中大兄皇子(※後の天智天皇)が、とりあえず称制し遷居した宮についてを、行宮(かりみや)と呼ばなかったことにも納得出来ますし、中大兄皇子(※後の天智天皇)の考えや決意などが窺えます。そして・・・彼が、まず行なったことは、この長津宮において、至急的速やかに、海外、特に朝鮮半島内の唐王朝軍や新羅軍に関する情報を収集することであり・・・その結果として、ようやく届いた情報を基に、百濟救援派遣軍の出兵を急いだのではないか? と考えられるのです。

      ※ 同年8月1日:「中大兄皇子(※後の天智天皇)」が、“故斉明天皇の喪(も)”に従い、奉って「磐瀬行宮」へ至り還る。・・・この日の夕方、「朝倉山」の上に、「大笠」を着た「鬼」が有り、“故斉明天皇の喪の儀(=葬列)”を臨み見る。“衆は皆”、怪しみ嗟(なげ:≒嘆)く。・・・それにしても・・・またしても、“笠を着た鬼の登場”です。しかも、“大笠”。・・・この場合は・・・雲が掛かったような彗星を、正面から観たために、留まって見えただけのことなのか?・・・または、異様に見える月など、別の天体による現象だったのか?・・・或いは、当時の人々が鬼と錯覚してしまいそうな中東や西洋系の人を指し示していて、別の事を暗示しているのか?・・・はたまた、乙巳の変以降の倭国(ヤマト王権)が行なっていた仏教優先政策や親百濟路線政策などに対する反動にも似た、古来よりの神託や在来宗教などの伝統を頑なに守ろうとしたり、親百濟路線政策を変更させたいと考えた国内勢力による仕業(しわざ)だったのか?・・・結局のところは、謎となります・・・が、そうなると、“約2カ月前における凶兆を暗示する表現”が、どうしても気になるのです。・・・そもそも、“この頃は、百濟や旧任那(みまな)地方に対する救援作戦の真っ只中にあった訳でして・・・常識的に考えても、倭国(ヤマト王権)は、云わば臨戦態勢だった筈です。・・・そして、当然ながら、自軍や朝鮮半島で抵抗を続ける百濟遺民達に動揺が拡がらぬよう、斉明天皇の死を伏せ、緘口令(かんこうれい)を敷き、即座に故斉明天皇の後継者たる中大兄皇子(※後の天智天皇)を総大将とし、倭国(ヤマト王権)の朝鮮半島情勢への対応方針についてを再確認しなければならないのです。その上で、喪の儀(=葬列)の段階に至らなければならない筈です。・・・しかし、この『日本書紀』では、このような緊迫感が、全く感じられない記述となっています。・・・“現実には、同年7月24日から7月末日までの約一週間で、秘かに磐瀬行宮へ故斉明天皇のご遺体を移し、重臣達を召集し、次期後継者として中大兄皇子(後の天智天皇)に承認させて、朝鮮半島派兵方針も再確認し、正式な葬儀については飛鳥に引き返してから行なうこととして、これもまた秘かに磐瀬行宮で喪の儀(=葬列)を出立させていた”と考えられます。・・・しかしながら、“その喪の儀(=葬列)を、鬼が大笠を着て、朝倉山上から見ていた”と云うのです。“当然に、それを目の当たりにした人々が、何事かと怪しみ、天皇の死が世間に知られることになった”という論法なのです。・・・こういった表現方法は、後世の読み手からすると、何か悪意的に感じられる程に、呑気な光景に映ります。・・・これでは、遡ること約2カ月前において、まるで・・・“故斉明天皇や、その後継者たる中大兄皇子(※後の天智天皇)らの、当時の倭国(ヤマト王権)政権が、無為無策の時間を費やして、尚も哀慕の情に浸っていた”か? のような印象を与えているのです。・・・いずれにしても、“後世にて編纂される歴史書には、編纂している側の都合が、どうしても現れてくる”という一例であると想います。
      ※ 同年8月内のこととして:“前(さき)に送る将軍として、大花下・曇比邏夫連(あずみのひらふのむらじ)や、小花下・河邊百枝臣(かわべのももえのおみ)ら”を・・・“後(のち)に送る将軍として、大花下・倍引田比邏夫臣(あべのひけたのひらふのおみ)や、大山上・物部連熊(もののべのむらじくま)、大山上・守君大石(もりのきみのおおいわ)ら”を遣わし・・・「兵杖」と「五穀」を送りて、「百濟」を救わんとす。【※(注釈)或る本では、此(こ)の末に続いて云う、別に大山下・狹井連檳榔(さいのむらじあじまさ)と小山下・秦造田来津(はたのみやつこたくつ)を使わして、百濟を守護させたと。※】・・・未だ皇太子・中大兄皇子(※後の天智天皇)は、斉明天皇の喪を同年8月1日に行なうと、故斉明天皇の遺志を引き継ぐべく、百濟を救うために、これと前後して二軍を、兵器や食糧とともに派遣していました。・・・ここにある曇比邏夫連は、かつての百濟・武王(ぶおう)の葬儀に参列したのでしょう。この阿曇比邏夫連という人物は、『日本書紀』西暦642年(皇極天皇元年)に帰国しており、“当時の百濟事情に精通していた人物”とは考えられますが、何せ約20年も前のことであり、この頃には壮年者、或いは高齢者だったと考えられます。・・・河邊百枝臣は、この年の16年後に当たる西暦677年(天武6年)に、民部卿に任じられているので、やはり壮年者だったとは考えられますが、『日本書紀』西暦646年(大化2年)3月の条に見える河邊臣百依(かわべのおみももより)と同一人物であれば、決して若い人ではありません。・・・いずれにしても、“これら二人は、外交及び民政の役割を課せられた将軍と文官だった”のかも知れません。・・・倍引田比邏夫臣は、かつて蝦夷や粛慎と戦った阿倍氏を率いる、云わば“実戦経験者だった”と考えられ・・・物部連熊は、かつての武門家系として隆盛していた物部氏における、「熊」という「名」から想像するに、“いかにも勇猛な人物だった”のでしょう。・・・守君大石は、かつて有間皇子の謀反事件に連座し、上毛野國に流罪とされていましたが、“ここで復帰していること”が分かり、後の西暦665年(天智天皇4年)には送唐客使(※実質的には遣唐使ともされる)にも選ばれる経歴から察すれば、“難しい立場での交渉に長けていた人物だった”のかも知れません。・・・狹井連檳榔は、物部氏の同族ともされています。(※詳しくは後述致します)・・・秦造田来津は、西暦645年(大化元年)9月の条では、古人大兄皇子を担ぎ、謀反に連座した朴市秦造田来津(えちのはたのみやつこたくつ)のことであり、“造船技術などの先端技術を持つ秦氏の一族だった”ことから、「造船責任者」とされたようです。・・・いずれにしても、この当時の危急の際に至って・・・“過去の政変により遠ざけられていた実力者達にも、復帰するための最後のチャンスが与えられたよう”でもあり・・・また、この条を改めて読むと・・・或いは、“当時の倭国(ヤマト王権)中枢にあった人物から、“使い捨ての如く、海外派兵されていた気配”も感じてしまいます。・・・この当時の倭国(ヤマト王権)の統治システムを考えれば・・・動員する兵達や、軍糧の回収システム、つまりは租税や軍役の徴収機構が各地に分散していた豪族達に牛耳られており、いくら天皇などが発破を掛けたところで、スムーズに事が進む訳ではなく、“特に時を要していたよう”ですから。・・・一方、緊迫の朝鮮半島情勢と云えば・・・・・・この頃の同年5月には、高句麗と靺鞨の連合軍が、新羅の北漢城を攻め入って、陥落寸前まで追い込みました・・・が、結局のところは、隕石落下や落雷などの災異があったため、高句麗及び靺鞨連合軍が撤退しています。・・・ちなみに、“この頃の靺鞨も、決して一枚岩という状況にはなく、唐王朝に加担したり、このように高句麗と連合したりと、外交方針そのものが落着かなかった様子”も分かります。・・・そして・・・同年6月には、新羅の武烈王が崩御し・・・同年8月には、百濟遺民達の妨害活動によって、新羅は百濟に駐屯していた唐王朝軍に対する支援にも、次第に苦労するようになっています。・・・したがって、今回の倭国(ヤマト王権)の第一派遣軍の目的は、“敵の武器を奪って戦うことを余儀なくされていた鬼室福信らに対して、不足物資を供給し、どこに百濟王子・豊璋らを護送するのかについてを決定するのか? という準備を兼ねたものだった”と考えられます。・・・しかし、ここでは・・・あくまでも戦闘部隊と読める第一派遣軍の規模そのものについてが、一切記述されておりません。・・・“当然に軍事機密だった”ということなのでしょうか?・・・それとも、“豪族達の封戸や、彼らの勢力圏内に暮らした人々を率いた私軍的な集団だったため、総兵力などの規模の見当が付かず、この『日本書紀』に記述出来なかっただけのこと”なのでしょうか?・・・

      ※ 同年9月内のこととして:「皇太子・中大兄皇子(※後の天智天皇)」が、「長津宮」に御(お)わして、「織冠(しょくかん、おりもののかぶり)」を以って、「百濟王子・豊璋」に授ける。復(また)、“多臣蒋敷(おおのおみのこもしき)の妹”を、「妻」とす。(そして)「大山下・狹井連檳榔」と「小山下・秦造田来津」に、“5000余りの軍を率いさせて、本郷(もとつくに)へと遣わす”とともに、送り衛(まも)らせる。・・・“豊璋が國に入る時”には、是にて「(鬼室)福信」が、“國朝の政を奉らん”とし、稽首(おが:=拝)み迎え来て・・・皆、悉(ことごとく)を委ねる。・・・「織冠」とは、織物で作る繍(ぬいと)で縁(ふち)どった冠であり、金銀の鈿(かんざし)があったとされています。・・・「大織」が冠位の最上位となり、その下には「小織」がありました・・・が、「大織」が授けられるのは、後の中臣鎌足(※後の藤原鎌足)のみとなります。・・・唐王朝の織冠制度が、当時の高句麗や百濟、新羅の王などに授けられたため・・・“倭国(ヤマト王権)が、これに倣った”と考えられます。・・・つまりは、“王子・豊璋のことを、倭国(ヤマト王権)に臣従する王と見做し、多臣蒋敷の妹を妻とさせるとともに、その趣旨を明確にした”のです。・・・ここにある「多臣(おおのおみ)」とは、神武(じんむ)天皇を祖とする名門氏族でもあります。・・・『日本書紀』の認識では、“豊璋が、倭国(ヤマト王権)が任命する百濟王として迎えられ、(鬼室)福信ら全ての百濟遺民達から、その国政を委ねられたということ”になるのでしょう。・・・倭国(ヤマト王権)は、大山下・狹井連檳榔と小山下・秦造田来津に、5,000余りの兵員を付けて警護しながら、豊璋らを送り届ける場所を具体的に決めたのでしょう・・・が、「本郷」や「國」と記述してはいても・・・どこに、どのように上陸したのか? についてが・・・記されておりません。・・・いずれにしても、現在の錦江(きんこう)河口付近のことと考えられており・・・唐王朝水軍の主力部隊を構成していた靺鞨軍が、この頃には百濟遺民達によって弱体化させられていたとはいえ・・・5,000余りの兵員を乗せた倭国(ヤマト王権)船団が、これにどう対応したのか? についても不明となります。・・・もしかすると・・・豊璋らが、無事に上陸出来たのは、(鬼室)福信らの百濟遺民達と高句麗が、朝鮮半島の北方辺りにおいて、共同作戦を採用し、唐王朝軍と新羅軍を引き付けていたのかも知れません。・・・この前月の時点で、将軍とされ、派遣されていた大花下・曇比邏夫連と小花下・河邊百枝臣や、大花下・倍引田比邏夫臣、大山上・物部連熊、大山上・守君大石らの第一派遣軍の軍勢規模についてが、“結果的にも伏せられている”・・・のに対して、“百濟王子・豊璋を送り届ける役目を担った部隊についてのみ、軍勢規模5,000余り”と、記述されているのです。・・・

      ※ 西暦661年10月7日:“故斉明天皇の喪”が、“歸(=帰)りの海(路)”に就く。是(これ)において、「皇太子」が、“或る所に泊まって、(故斉明)天皇を哀慕し、乃(なんじ:=汝)の口」より號(さけ:=叫)びて、曰はく”・・・「枳瀰我梅能 姑集枳舸羅ニ(※ニの字は、人偏+爾) 婆底々威底 舸矩野姑悲武謀 枳瀰我梅弘報梨」・・・と。
      
・・・(※字数からすると、五・六・五・七・七調というのでしょうか?・・・私(筆者)による訳ですので、間違っているかも知れませんが)・・・
      《詩の訳》「君(きみ)が梅(≒芽⇒目)の 乞(こ)いしゅうからに 泊(は:≒果)てて居(い)て かくの乞(こ)悲(ひ、い)むも 君(きみ)が梅(≒芽⇒目)拾い放(ほう:≒報い?)り(≒なし=無し?為し?)」
      ・・・この詩を、ジックリ眺めてみると・・・何だか、実母の斉明天皇の目を、梅の蕾(つぼみ:=芽)に掛けて、もの悲しく哀愁タップリに吟じているように想えますし・・・また、この「梅」や「芽」⇒「目」が、故斉明天皇が朝鮮半島情勢に介入していく意思決定の直前時期に重要視していたと考えられる神託の目のことだったならば・・・この時点で事実上の後継者だった中大兄皇子(※後の天智天皇)の本心が吟じられているようにも想えます・・・が、これもまた・・・後世で意図的に挿入された詩ということなのかも知れません。・・・
      ※ 同年10月23日:“故斉明天皇の喪”が、「難波」に還り、「(停)泊」する。

      ※ 同年11月7日:「中大兄皇子(※後の天智天皇)」が、「飛鳥の川原」において、“故斉明天皇の殯”をして・・・同月9日まで、「発哀(はつあい)」する。
・・・「発哀」とは、死者を弔うために、川で泣き声を上げる礼の一つとされています。「挙哀」、「発哭」、「奉哀」、「慟哭」とも記しますが・・・いずれにしても、歴史的には・・・“後世の平安時代の、宇多(うだ)天皇崩御以降”では、このような風習は途絶えてしまいます。・・・きっと、現代韓国などのニュース映像中の葬儀場面で見られるような光景だったのでしょうね。
      ※ 同年11月内のこととして:“百濟遺臣・鬼室福信が捕らえた唐人・続守言(しょくしゅげん)ら”が、「筑紫」に至る。【※(注釈)日本世記は云う、「十一月、(鬼室)福信が獲(え)たる唐人続守言らが筑紫に至る」と。或る本は云う、「辛酉年(※この年、すなわち西暦661年のこと)に、百濟佐平・(鬼室)福信が献じた唐の俘・一百六口(=百六人)を、近江國の墾田に居しめた」と。庚申年(※前年、すなわち西暦660年のこと)には、既に云う、(鬼室)福信が唐の俘を献じたと。故に今存ると注す。其れ決め焉(いず:※ここでは、句末に置いて語調を整え、また断定の意を表しています)く。※】・・・ここにある「続守言」とは、“飛鳥時代後期(7世紀後半)に、唐から倭国(ヤマト王権)に帰化した”とされる渡来人です・・・が、この後の持統天皇期には、「大和朝廷」の「音博士(おんはかせ、こえのはかせ)」となっており・・・そもそもとして・・・この『日本書紀』の編纂実務者の一人ではないか? とも目される人物なのです。・・・この先にも、『日本書紀』を中心に読み進めていく上で、関連性が高い事柄なので、少し掘り下げたいと思います。
      ・・・この続守言らが倭国(ヤマト王権)に連れて来られて暫く後には、同じく渡来唐人だった薩弘恪(さつこうかく)と共に大和朝廷に仕えることとなり、西暦689年(持統天皇3年)には、「稲」を・・・西暦691年(持統天皇5年)9月には、「銀20両」を・・・西暦692年(持統天皇6年)12月にも、「水田4町」を賜っているのです。・・・『日本書紀』そのものが、“この時の続守言と薩弘恪については音博士だった”と記述しており・・・“主に帰化人達”が、これを担当していたことが知られています。・・・この「音博士」とは、「儒教の経書」を読む際に、当時の「唐語(漢音)」によった「音道(おんどう、こえのみち)」を教えるための役職です。要するに、“語学の教師”です。・・・「大学寮」に属す「明経道(みょうぎょうどう:※儒学を研究及び教授した学科のこと)」の学生に対して、“経書の唐語(漢音)による音読法”を教えていました。“音博士の定員は2名であって、従七位上相当”とされています。・・・しかしながら、“当時の倭国(ヤマト王権)国内に居る限りにおいては、唐語(漢音)が用いられる事はほとんど無く、この音読法のみを学ぶ者は、ほとんど居なかった”ととも云います。・・・それでも、唐文化の影響が更に強まる平安時代初期頃には、「漢音」に対する関心からか? 西暦817年(弘仁8年)4月17日付けで、「音生設置の格」が発布されています。・・・また、“遣唐使(≒朝貢団)として派遣される予定者だった官人や僧侶に対しては、音博士による漢音の試験が課されていた模様”です・・・が、尤も、これも・・・“一時的な事であって、平安時代中期頃には、明経道を独占する中原(なかはら)氏や、清原(きよはら)氏の出身学者達が就任する名誉職になっていた”と云います。いわゆる“ハラ族出身者のこと”です。・・・いずれにしても、“音博士とされた続守言は、飛鳥浄御原令の選定や、国史の編纂事業に関わった”と考えられています。・・・尚、続守言の正確な没年については不明となりますが・・・西暦700年(文武4年)の大宝律令選定時の奉勅者名に、薩弘恪があるのに、続守言の名が無いことや・・・この『日本書紀』などの国史編纂に関わっていたと考えられるにもかかわらず、続守言自身の渡来に関する記事に曖昧な部分があることから、“西暦692年(持統天皇6年)12月14日から西暦700年6月17日までの間には、引退若しくは死亡していた”と考えられています。・・・或る言語学者の研究によれば・・・持統天皇期に編纂された日本初の正史となる『日本書紀』において、“その音韻や真仮名の用字、文法、語彙などを精査した結果”・・・正格調の漢文で書かれ、結果として倭習(わしゅう:※日本人が漢文を作る際、当時の日本語による影響によって行なわれる独特な癖や用法のこと。倭臭や和習、和臭とも)が少ない語群α(巻14雄略天皇から19欽明天皇紀、巻24皇極天皇紀から27天智天皇紀)と・・・その表記や文法において、強い倭習が認められる語群β(巻1神代上から13允恭〈いんぎょう〉安康〈あんこう〉天皇紀、巻22推古天皇紀から23舒明天皇紀)・・・とに別けて分析すると・・・前者・語群αの著作者については、当時の唐の音韻を、正確に把握している一方で、倭国(ヤマト王権)の習俗や語法を理解出来ていない部分が多く認められることから、“これらが渡来唐人一世によって書かれた可能性が高いとし、具体的な著作者として、続守言と薩弘恪を当てている”のです。・・・“上記の西暦692年(持統天皇6年)の水田4町の賜与について”も、『日本書紀』を編纂したことによる功労と考えられています。・・・更には・・・後者・語群αの中でも、巻14雄略天皇紀から巻19欽明天皇紀までと、巻24皇極天皇紀から巻27天智天皇紀までとは・・・“担当者が異なっている形跡がある”と云います。・・・この『日本書紀』巻26において、“続守言本人の渡来に関する記事”に、自身が別伝を附すること自体、あり得ないため・・・“巻14雄略天皇紀から巻19欽明天皇紀までの編纂実務者は、続守言だった”と結論付けているのです。
      ・・・これらのように、『日本書紀』は、“持統天皇期の云わば、国家事業として編纂された正史だった”ため・・・現実には、複数の編纂実務者が関わっており、彼らが持っていた文化的背景や思想、クライアントだった或る特定の編集者の存在、編集者側の文化的背景や思想、そして、この編纂事業に対する思想や哲学に立脚した上での歴史観で語られているのです。・・・ですから、どうしても・・・それぞれの編纂実務者に因(よ)るところとなって・・・彼らが持つ文化的背景や思想などのために、儒教や仏教、古代の中華思想、大陸的な視点が影響してしまい・・・“結果として、これらに傾向してしまった”とも云えるのです・・・が、そもそも・・・“このような編纂手法そのものが、古代中国で発明されたものであり、漢字という文字そのものまで、輸入して利用し続けている訳ですから、致し方ないことなのだ”とも想います。
      ・・・逆に云うと、“より古代日本的な視点で語られている”のが、『古事記』と云えます。こちらは、日本神話や各地の伝説や伝承、逸話などが多く記述されており・・・“この『日本書紀』でも、重要な参考史料としている”のです・・・が、やはり漢字を使用しているために、完全に儒教や仏教、古代の中華思想、大陸的な視点に影響されていないのか? と訊ねられれば、“そうではない、と云うしかない”のですが・・・それでも、確実に云えることとしては・・・古代の日本人・・・我々の祖先達が、現実に何をどう考えて、日々を暮らしていたか? を窺い知ることが出来る手掛かりや、その世界観に満ちているとも云えるのです。『古事記』は、『日本書紀』が完成される少し前の頃とも云える、“たった8年前の、西暦712年(和銅5年)に、太朝臣安萬侶(おおのあそみやすまろ:※太安万侶とも)が編纂し、時の女帝だった元明(げんめい)天皇に献上された”という歴史書です。・・・そもそもとして、『記紀』と呼ばれる『古事記』と『日本書紀』が編纂される以前には、『帝紀(ていき)』や、『旧辞(きゅうじ)』という歴史書が存在しておりました。・・・前者の『帝紀』は、“歴代天皇や、皇室の系譜類、皇居名、治世年数、崩御年干支、寿命、陵墓所在地、その治世における主な出来事など”を含んだ歴史書とされており・・・これは、“倭国(ヤマト王権)の語部(かたりべ)などが暗誦(あんしょう)して、天皇大葬の際の殯などで誦(よ)み上げられる”という慣習によって伝承されました・・・が、つまりは「口伝(くでん)」でした。・・・しかし、6世紀半ば頃になると、文字として輸入された「漢字」によって書き表されるようになったものです。・・・後者の『旧辞』は、“各氏族に伝来していた歴史書”と考えられており・・・また、“当時の中央豪族や地方豪族達に関連する事柄が満載だった筈”と考えられております。・・・いずれにしても・・・これらの『帝紀』と『旧辞』の内容を・・・“この後(※天智天皇の次)の天武(てんむ)天皇”が・・・“暗唱能力が、当時ズバ抜けて高かった”と云われる「舎人(とねり)」・・・または、“時の天才舎人など”とも呼ばれた「稗田阿礼(ひえだのあれ)」・・・に“誦み習わせていた”のです。・・・それを、後の「女帝・元明天皇」が、“稗田阿礼が伝承されていた、彼・・・若しくは、彼女の記憶にある古事(ふること)を、そもそも文字(漢字)によって、後世に遺すため”として・・・“太朝臣安萬侶に与えられた文書化ミッションによって完成した”のが、『古事記』だった訳です。・・・すなわち、『帝紀』と『旧辞』という書物そのものは、元明天皇が天皇に即位する以前・・・つまりは、西暦707年(慶雲4年)7月17日以前には、残念ながら「散逸」しており・・・“文書記録としては、当時に伝わっていなかった”のです。
      ・・・ちなみに、『古事記』に話を戻しますと・・・“その序文”には・・・“太朝臣安萬侶が、稗田阿礼から聞き取ったり、書き記す作業における苦労話”が記述されております・・・が、これらについては、“古来より倭国(ヤマト王権)に伝わっていた”とされる・・・“やまとことば(≒大和言葉)独特の音声を遺すために、漢字の音読みと訓読みを交えて記した”という話なのです。・・・「やまとことば(≒大和言葉)」とは・・・現在では、“専ら日本語の語種(※単語の出自のこと)の一つ”とも、されているものです・・・が、「漢語」や「外来語」に対して、“日本固有の語のこと”を指してもおります。・・・これは、飛鳥時代頃まで、大和國や大和飛鳥地方を中心に話されていたと考えられている言語でもあります。・・・尚・・・この「太朝臣安萬侶」も、『日本書紀』の編纂に参加しているとの説もありますし・・・『日本書紀』中の、この条では・・・“西暦661年9月まで倭国(ヤマト王権)百濟同盟を担保するための人質”だった「百濟王子・豊璋」と・・・『古事記』の編纂者であり、この『日本書紀』の編纂にも関わっていたかも知れない”と云われる「太朝臣安萬侶」の・・・“意外な関係性をも窺い知る”ことが出来ます。・・・それと云うのも・・・“この太朝臣安萬侶の祖父である多臣蒋敷の妹を、百濟王子・豊璋に娶らせているから”です。・・・要するに、当時の倭国(ヤマト王権)の中枢にあった人物からすれば・・・もはや、百濟王子・豊璋は「姻族」となり・・・当然に、“親戚筋の人”と云える訳です。・・・これとともに・・・百濟王子・豊璋は、倭国(ヤマト王権)内において、あくまでも人質とされていましたが、“実際の待遇としては、賓客扱いとされており、決して悪い環境下に置かれて居た訳ではない”とも考えられる訳です。・・・西暦643年には、“大和國三輪山において、養蜂を試みた”とも云いますし。当時の倭国(ヤマト王権)としては、かなりの自由度を、豊璋に与えていた訳ですから。

      ※ 同年12月内のこととして:「高麗(こま:※高句麗人のこと)」が言った。・・・「十二月を惟(おも:=思う)えば、高麗國では、寒きこと極まり、カイ(※カイの字は、サンズイ+貝)も凍りて、(それ)故に、唐軍の雲車や衝ホウ(※ホウの字は、車偏+朋)ありて、鼓鉦(こがね)吼(ほえ)るがこと然(しか)り。高麗の士卒は、膽(きも)を勇みて雄壮する。(それ)故更に、唐の二つの壘(とりで)を取る。唯(ただ)二つの塞(とりで)が有った。亦(また)夜に取る計(はかり)に備えた。唐兵は、膝(ひざ)を抱えて、哭(な)き、鋭鈍の力を拔(ぬ)くこと能(かな)わぬほどに竭(つ)きた」・・・と。・・・「臍(へそ、ほぞ)の恥(はじ:≒端)を噬(か)む、此に非らずして何ぞや」・・・と。【※(注釈)釈道顕が云った、「春秋の志(こころ)を言うと、まさに高句麗を干(ひ)え起こすことにあったが、まず先に百濟に聲(き)こうとした。百濟は近くに甚しく侵されることを急ぎ苦しんだ。故に、こういう仕儀となった」と。※】・・・まず、この文章の冒頭部分からして・・・或る高句麗人の言によって、当時のことを回想しておりますので、この文章自体は、明らかに『日本書紀』の編纂者達による挿入文章であることが分かります。・・・そして・・・“この、或る高句麗人”とは、唐王朝による戦乱が収まった頃・・・つまりは、“後世の日本を「大和朝廷」と呼ぶ頃に、既に渡来していた人物だったこと”とも分かります。・・・また、文中にある「カイ」とは、河のカイ江を指していると考えられております。・・・「雲車及び衝ホウ」とは、いわゆる唐王朝軍の・・・“古代の戦車≒チャリオット及び攻城兵器のこと”でしょう。・・・要するに、“カイ江が凍結したため、唐王朝軍のこれらの陸上兵器が渡河することが出来て、鼓鉦を鳴らしながら、高句麗の平壌城を取り囲んだ模様”・・・を語っているのです。・・・“そんな状況下にあっても、高句麗の士卒は、勇敢に戦い、これらの一部を押し返し、唐王朝軍の壘二つを取り、残すを塞二つのみとした戦況に持ち込み、夜襲を仕掛ける準備をしていた”と、高麗人が回想した内容です。・・・尚・・・ここでは、「とりで」と、同じく読める「二文字」が出てまいりますが・・・「壘」は、“城郭を取り囲む土塁(どるい)を示して”おり・・・「塞」は、“文字通りに、城塞を示している”と考えられますので・・・中世日本の戦(いくさ)を知る我々現代人にしてみれば・・・『・・・高句麗軍が頑張ったとはいえ、一旦敵に取られた城塞を取り返せなかったんだったら・・・大したことないじゃん。』・・・などと感じてしまいます。しかし、然(さ)に非ず。・・・「土塁」は、敵にとってみれば、攻撃を仕掛ける軍事拠点ですので・・・“当然、そこには唐王朝軍ご自慢の最新兵器が配置されていた”と考えられるのです。・・・ですから、“高句麗の士卒達としては、平壌城に対して打撃力の大きい、これら最新兵器を、まず以って奪取若しくは破壊したのだ”と考えられます。・・・これらのことについては、“極めて戦略に適っている”とも想います。・・・すると・・・“唐兵は、その寒さと恐れによって、膝を抱えて哭(な)きながら、衝ホウにより城門を破壊する際の鋭鈍の力を、拔(ぬ)くことも能(かな)わぬほどに(力)竭(つ)く程だった”・・・にもかかわらず・・・“或る高句麗人が、臍(へそ、ほぞ)の恥(はじ:≒端)を噬(か)む、此に非らずして何ぞや。(≒このような好機を失ったことを後悔しても仕切れない恥とは、この事である)・・・という状況になった”と云うのです。・・・ここでは、『日本書紀』の編纂者達が、高句麗防衛戦における奮戦ぶりを語る文章を挿入しつつも・・・結果としては、或る高句麗人が回想するに・・・『・・・後悔してもし切れない恥となった・・・』・・・としているのです。・・・【※(注釈)※】にある「春秋」とは、これもまた「新羅・武烈王」、すなわち「金春秋」のことを指していると考えられ・・・“この新羅・武烈王、すなわち金春秋が、主導する格好で以って、唐王朝軍を朝鮮半島に招き入れられたこと”を、敢えて匂わせているように感じます。

      ※ 同年内:“播磨國司・岸田臣麻呂(きしだのおみのまろ)らが、宝剣を献じた”が・・・“狹夜郡(さよのこおり)の人”は、「禾田(いねた)の穴の内より獲た」と言う。・・・又(また)「日本(やまと)」は、「百濟」の「加巴利浜(かへりのはま)」に泊りて、“高(句)麗軍将ら”を救う。・・・(この際には)「火を燃やし(続けて)、灰は變(へん:=変)じて孔(あな)を為し、鏑(かぶら:=矢)が鳴くが如くに、細き響(ひびき)が有った」・・・と。或いは曰く、「高麗と百濟が、終(つい)に亡(ほろ)びる徴(しるし)か」。・・・ここでは、何やら・・・これから起こる高句麗と百濟の滅亡劇を匂わしながら、更には・・・さりげなく、「日本」と表記しています。・・・そもそも・・・『播磨風土記』讃容郡(さようのこおり)中川里の条では、近江天皇(※天智天皇のこと)の御世に・・・“丸部具(わにべのそなえ)の一家が買ったと云われる剣の祟りによって、この一家が死に絶えてしまうと、後に苫編部犬猪(とまみべのいぬい)が、土の中から、その剣を得たところ、怪しい剣だったため、朝廷に奉った”とされております。・・・そして・・・“ここで播磨國司とされている岸田臣麻呂という名前について”は、この『日本書紀』の他には見られない・・・とされておりまして・・・つまり・・・“狹夜郡の人”とは、「苫編部犬猪」のことと解釈され・・・更に、「禾田の穴の内より獲た」とは・・・「彼の地の墟を圃(はたつくり)すると、土の中より此の劔を得たり」・・・とあるので、『日本書紀』では、“このことを語っている”と考えられるのです。・・・ちなみに、“この宝剣そのもののこと”を、『播磨風土記』讃容郡中川里の条では、更に詳しく記述しておりまして・・・「・・・剣の柄は腐ってはいたが、刃は鏡の如くに輝いて、刃を焼かせると蛇の如くに伸び縮みしたため、異剣として朝廷に奉ったが・・・結局のところは、後に、この里に戻された・・・」・・・と記述されているのです。・・・“この時の異剣、つまりは妖剣が、どうして高句麗や百濟の滅亡の兆候となる”のか? については、良くは分かりませんが・・・“剣という、強力な武器が、かつての高句麗地方から技術者とともに齎(もたら)された”という意味なのでしょうか?・・・それとも・・・“かつての倭国(ヤマト王権)が当時の朝鮮半島情勢に介入して、高句麗の騎馬軍戦術に対して、ほとんど無防備状態でコテンパンにされたという、苦~い経験談を根拠として語っている”のでしょうか?・・・いずれにしても、この『日本書紀』では・・・“実際に宝剣か? 妖剣であるのか? は別として、この剣が本来有るべき処に納まっていないと、土地神による祟りがあるのだ!!!”・・・と云っているように想えます。その上で、“日本(やまと)から百濟に派遣された軍兵達が、危機にある高句麗を救うという兼務的な役割をも担っていたよう”にも語っているのです。・・・但し・・・これは、同年8月内に派遣された将軍である大花下・曇比邏夫連、小花下・河邊百枝臣、将軍とされた大花下・倍引田比邏夫臣、大山上・物部連熊、大山上・守君大石らの戦闘部隊と考えられる第一派遣軍と・・・大山下・狹井連檳榔と小山下・秦造田来津による百濟王子・豊璋を警護し送り届ける役目を担った部隊とを・・・別々に念頭へ置きつつ・・・どちらか一方の部隊を別けて考慮し、それを語っているだけかも知れませんが。・・・また、“百濟の加巴利浜(≒帰りの浜?)で、火を燃やしていると、灰が孔を形成した”とのこと。・・・いったい、どういうことなのか?・・・しかも、鏑(かぶら:=矢)が飛んでいるかのように、細い音が響いて、「フュー」と鳴っていた模様であると。・・・まるで、日本(やまと)と高句麗の間で、互いの合図のために、火矢の一種か何かが飛び交ったかのような形容ですし・・・もしかすると、現地において、即席の土器製の笛(≒オカリナ)を作り、それを使用したか? のような形容でもあります。・・・これも、どうして高句麗や百濟の滅亡の兆候となるのか?・・・良く分かりません。・・・しかし、“現実には理解し難い魔術的(神懸かり的)な現象を起こした”と云いたいのでしょうね。・・・「加巴利浜(≒帰りの浜?)」とは、“倭国(ヤマト王権)が、従来から、百濟に対して旧任那地方の一部についての管理権(≒管理義務)を与えていた土地だった”という可能性が高く・・・しかも、「加巴利浜」という単語が、“和語による地名”と考えれば・・・当然に朝鮮半島から日本列島へ向かって出港するための準備をする浜辺だった”とも想像出来ます。・・・いずれにしても、“その所在は白村江(※現在の錦江河口付近)の近郊だった”と考えられるかと。・・・それでも、“日本(やまと)が、百濟王子・豊璋を送り届け、高句麗軍将らを救うためなどとして、少なくても5,000余りの兵員から成る軍兵を送っていた”としても、何ら不思議ではありません。日本(やまと)が、耽羅などの小国とも以前から外交的な交渉をしていたように、“兵站(へいたん)を確保する”という目的を持ちながら、朝鮮半島南部各地に、これを中継するための拠点構築を積極的にしていたとしても、何ら矛盾しませんので。・・・いくらなんでも、直接或いは直線的に、白村江(=現在の錦江河口付近)に向かうことは、かなりの危険が伴なう筈ですので・・・加巴利浜辺りで一旦野営し・・・百濟側の鬼室福信らとの連携を図った後に・・・“機会を窺い、具体的な上陸地点や、各宿営地の準備を急いでいた”とも考えられます・・・が、それにしても・・・“このように、朝鮮半島南部に、それなりに纏まった集団=倭国(ヤマト王権)派遣軍が突如として姿を現した時には、錦江付近にあった各勢力に対して、相当の動揺を与えたことにはなったのでしょう。・・・


      ・・・そして・・・いわゆる「白村江の戦い」が「勃発」します・・・が、ここで・・・


     【 ・・・そもそもの「白村江(はくすきのえ、はくそんこう)」の「地名」と「読み」・・・そして「旧任那地方」について ・・・】


      「朝鮮半島」の「白村江(※現在の錦江河口付近)」とは・・・「日本」では・・・「白村江(はくそんこう)」を、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みすることが多いです。・・・但し、「白村江」という河川があった訳ではなく、あくまでも、“白江(※現在の錦江のこと)が黄海に流れ込む海辺付近”を、「白村江」と呼んでいたのです。・・・「江(え)」は「入り江」の「え」と同じであり、「和語」による“海辺などの水辺のこと”です。・・・また、「はくすき」の「き」は、「和語」における「城(き)」であり、「城」や「柵」を、意味しております。・・・“実際の白江の河口付近”には、「白村」という名の「城」や、「柵(き)」があったとされています。・・・但し、“村主(すくり:※渡来系帰化人の郷長のこと)の村について”を、「百濟語」においては、「スキ」と発音するということで・・・これに由来して、「はくすきのえ」と読むとの説もあります。・・・ちなみに、「白村江」のことを・・・「漢語」では、「白江之口」と書きます。(※『旧唐書』より)
      「旧任那(みまな)地方」について・・・5世紀頃まで、「朝鮮半島南部」に「任那」と呼ばれる「倭国(ヤマト王権)」が領有していた地方(・・・※古代中国王朝は、その都度において、国としていましたが・・・)がありました。・・・しかし、時代の流れに伴ない、その領土そのものは、「百濟」や「新羅」などによって、次第に吸収されてゆきました・・・が、“これと同時に、当時の戦乱などの混乱状況から逃れるためとして、倭国(ヤマト王権)が統治する日本列島に、多くの移民が流入していた”と考えられています。“それぞれの文化背景や、知識を持って渡来して来た”のです。・・・したがって、この時代には、「倭国(ヤマト王権)」だけでなく、ほとんどの国が・・・「鉄生産」や「進んだ農耕栽培」、「軍制」など・・・様々な先進的技術や文化を持つ技術者などの集団”、つまりは、更なる「安寧」や、「富」、「権力」などを求めて、“領(国)内外の充実を図る一方で、自己国家としての存続や独立、それぞれの国家体制(≒国体)などを実現するため、あらゆる手段を用いて追求していた時代だった”と云っても良いかと想います。


・・・・・・・・・・次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】