街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ・・・さて、前ページのように、いわゆる跡目争いを発端とする「山入一揆(※山入の乱とも)」と呼ばれる佐竹氏同族間での争いは、鎌倉における山内上杉氏と犬懸(いぬがけ)上杉氏との対立や、関東公方と室町幕府との対立など、様々な事案が複雑に絡み合って、更に長期化していくことになりますが・・・ちょうど、この頃の各武門家系に伝わる家紋(※昔は、幕紋などと呼びました)の原デザインのルーツなどに関連して・・・中世家紋の歴史を知る上において、大変貴重な史料がありまして・・・しかも、これが、現在の茨城県常陸大宮市長倉を、その舞台としているため・・・ここで少しばかり、寄り道したいと思います。(※興味のない方は、このページを読み飛ばして下さい)



      【 家紋(=幕紋)について・・・『長倉追罰記(ながくらついばつき)』を読み解く・・・ 】


      ここで、ご紹介するのは・・・『長倉追罰記』や『長倉状(ながくらじょう)』などと呼ばれる、いわゆる「戦記物」です。
      ・・・この舞台とされている「長倉」とは、上記にもあるように、現在の茨城県常陸大宮市長倉です。
      ・・・中世室町時代における幕紋記載の多さでは、この『長倉追罰記』が、他の同類本と比較しても群を抜いております。
      ・・・尚、家紋そのものについて云えば・・・近世の江戸時代には、『武鑑(ぶかん:※当時の大名や幕府要人の氏名や石高、俸給、家紋などを記した年鑑形式の紳士録、ガイドブック)』や、家紋目録本「紋づくし」、講談などの影響によって、世間で持て囃(はや)されることとなり、当時の武士層だけでなく商人や一般庶民間においても、実際に参勤交代時の「大名行列見物」などの参考資料として用いられておりました。
      ・・・『長倉追罰記』や『長倉状』の内容としては・・・西暦1435年(永享7年)6月下旬頃からの話となり・・・常州(=常陸国)佐竹郡において、佐竹氏支族の長倉遠江守(ながくらとうとうみのかみ)を、岩松右馬頭持國(いわまつうまのかみもちくに)という武将が実戦部隊の大将として追罰したことを記したものです。

      ・・・尚、「著者」や、「成立年代」すらも詳細が不明とされ・・・後者の『長倉状』には、「幕(家)紋名」は全く記されておりませんが・・・前者の『長倉追罰記』には、現在では見られない「家紋」とされる「三たうし」や、「俎に真魚箸(まないたにまなばし:※まさしく料理をするための道具、まな板と箸のこと。これも実形は不明ですが、長方形の板に二本の箸が並んで置いてあるものだったと想像出来ます)」のほか、作り名字の文言記載があることなどから・・・“この合戦記そのものは、かなり古いもの”ではないか? と考えられており・・・故に、『長倉追罰記』のほうは、長倉城攻めを記した『長倉状』を実録の下敷きとし、寄せ手諸将の幕紋を列挙しているため・・・“戦さそのものが終わってから、ほど遠からぬ後世において認(したた)められたものだった”とも云われております。
      ・・・いずれにしても、『長倉追罰記』の文中には、参加した全国諸将の宿陣の際の、「幕紋」の記述があり、江戸期以前の家紋を知る上で、大変貴重な史料でもありますし・・・『続群書類従(巻第六百十四合戦部四十四)』より、基本的に「原文」まま、私(筆者)による現代語訳や、解説付きとし、多少読み解き易く致しましたので、以下へ記載します。・・・尚・・・解説部分については、“仮に同族であっても、数多くの流派や家紋がございますし、中世頃の事柄ですので、必ずしも当時のまま現代まで継承されている保証もありませんので、そこはご了承頂きまして、参考資料程度”として下さい。


      『長倉追罰記』
      かつするときんは。胡越もこんていとなる。
・・・「かつす」とは、「かづす」という上代東国の方言であり、語義も未詳ですが、誘う意があるとされています。・・・そして、「きん」とは、「来向かふ」という意味だと想います。・・・また、「胡越」とは、古代中国の北方にあった胡国及び南方にあった越国のことであり、互いに縁が無く無関係な様を云う場合などに使う表現です。・・・尚、「こんてい」とは、「こんでい」、或いは「こでい」とも呼ばれ、漢字にすると、「健児」。・・・これは、“いわゆる武家時代における仲間(ちゅうげん)や、足軽(あしがる)など、騎馬武将に付き従った下僕達のこと”です。・・・したがって・・・ここの現代語訳は・・・「縁も所縁も無い遠い処で健児(こんでい、こでい)となり誘われては来たものの・・・」・・・となりますでしょうか? ちなみに、ここの文章によって『長倉追罰記』や『長倉状』の著者自身を示唆していると考えられ・・・相当に筆まめな人物だったことも分かります。

      隔つるときんは。肝胆も疎遠となる。・・・「肝胆(きもぎも)」とは、この場合は「気力」や「胆力」のことだと想います。・・・ここの現代語訳は・・・「遠く隔たれた地へ来たため、気力や胆力が遠のいてゆくのです。」・・・と、正直に著者自身の心細い心持ちを表現しており、続け様に・・・。

      ましてやいはん末の世は。・・・ここの現代語訳は・・・「ましてや云っておくべきか、末世へ対して。」・・・

      闘諍けんこの敵味方。君臣父子のあらそひ。・・・「この敵と味方が闘い争わねばならぬ。それは、君臣や父子(おやこ)間の争いだった。」・・・

      とんしんちのはかりことを。いちようのうちにめくらし。・・・「屯進地における謀(はかりごと)を、一葉の内にて順ぐり知らされたのです。」・・・この際の「謀」とは、策略や計略という意味よりも、当時としては、一般的な仕事という意味の方が、より強そうです。

      しんさん□(※判読不可、「三」か?)四のかちまけを。千里の外に得るとかや。・・・「新参(者)が、遠く離れた地において、三度、四度の勝ち負けを得たんだとか。」・・・ちなみに、「千里の外」とは、実際に千里以上離れていたのではなく、あくまでも、当時の慣用的な表現方法ですので、とりあえず、ここでは「遠く離れた地」と置き換えました・・・が、「しんさん」を「辛酸」と読むとすれば・・・「辛酸を極める三、四度の勝ち負けが遠く離れた地だったとか。」となるのかも知れません。

      抑比は。永享七年乙卯の六月下旬の事なるに。・・・「ここでまず、抑えておくべきか。これが永享七年(西暦1435年)乙卯六月下旬の事だったと。」・・・

      常州佐竹の郡。長倉遠江守御追罰として。御所の御旗進発し。岩松右馬頭持國。大手の大将承り。八月中旬にはせむかふ。茂木の郷に着陣す。同かれか要害に馳向て。六千余騎にて張陣。かの籠城のありさま。四方切て。東西南北に対すへき山もなし。前は深谷。後は又岳峨々と聳たり。東に山川漲流。西には渓水をたゝへたり、是を用水に用る。日本無双の城と見へたり。・・・「常州(=常陸国)佐竹氏の郡に拠る長倉遠江守に対する御追罰(軍)として、御所(=鎌倉府)の御旗を奉じる軍勢を進発させるため、岩松右馬頭持國が大手(門)の大将を承(うけたまわ)ることとなった。(岩松右馬頭持國が率いる追罰軍が)八月中旬に馳せ向かうと、茂木郷(現栃木県芳賀郡茂木町茂木)に着陣した。同じく彼が、(現地の)要害に馳せ向かうと、六千騎余りにて陣を張った。かの(=長倉遠江守の)籠城の有り様を視るに、四方が切り立っており、その東西南北には対すべき山も無かった。(長倉城の)前は深い谷であり、後ろはまた、岳が峨々(がが)として聳(そびえ)ていた。
      (その)東には、山河の流れが漲(みなぎ)り、(その)西には渓水を湛えていたため、是(これ)を用水としていた。(長倉城が)日本無双の城と見えた。」・・・うーん、“日本無双の城という表現は、少し誇張し過ぎ”かも。まぁ、“当時の長倉城周囲の地勢についての表現は、このようだった”とは想いますが。・・・いずれにしても、戦記物として、話を盛り上げるためだったのでしょう。・・・すると・・・六千騎余りという表現も疑わしくなり・・・現実に茨城県常陸大宮市長倉のお隣にあった茂木郷に陣を張ったのは、総勢六千人余りだったのかも知れません。もし、本当に六千騎だったとすると・・・必然的に、一騎当たり二、三人の仲間さんや足軽さん達が付き従う筈なので、最大で総勢二万四千人余りとなる訳でして・・・このようには、あまり考えられません。・・・ここは、時の室町幕府から派遣された岩松右馬頭持國などの諸将が、長倉城の堅固な防御柵や仕掛けの類いに手を焼き、総勢六千人余りで攻め掛かっても、なかなか落ちなかったと読むべきかと想います。

      先大手に向て大将の御陣。鎌倉殿御勢。其次に大将岩松殿。公方勢引率。野田。徳河。佐々木。梶原。簗田。(程)野をはしめとして。すきまもなくつゝき。左は山内殿。那和。前橋。金山。足利。佐貫。佐野を初めとして。常州一國同幕をうちつゝき。右は扇谷殿。江戸。品川。河越。松山。ふかやをはじめとして。武州一揆も打続。東は那須の一党。其次海上。油井。大須賀。相馬。総州一揆張陣。西は又小田。結城。宇都宮。相続て陣をはる。北は小山薬師寺。佐野小太郎。高橋傍士塚陣屋をならへてひしと打。大手搦手入替々々攻戦といへ共。終に堅固に持かため。
      ・・・「先(=長倉城)の大手(門)に向かう処へ、大将鎌倉殿(※鎌倉公方、関東公方とも)の御陣が置かれ、その次に(追罰軍を率いた)大将の岩松殿が在陣して、公方勢を引率し、(ここに)野田や徳河、佐々木、梶原、簗田、(程)野をはじめとして隙間なく続き、(その)左には山内殿(=山内上杉家)が。(これに続いて)那和、前橋、金山、足利、佐貫と。佐野を初めとして、常州一國(の衆)も同幕し、打ち続いた。(その)右には、扇谷殿(=扇谷上杉家)、江戸、品川、河越、松山と。ふかや(=深谷)をはじめとして、武州一揆(=武州の土豪ら)も打ち続いた。(その)東には、那須の一党が。その次に海上(うなかみ)、油井(ゆい)、大須賀、相馬が。総州一揆(=総州の土豪ら)も陣を張る。(その)西には、また小田が。結城、宇都宮、も相(あい)続いて陣を張る。(その)北には、小山の薬師寺、佐野小太郎、高橋などの傍(かたわら)において、侍達が塚や陣屋を、隙間なく並べていた。(そして、長倉城の)大手(門)や搦手(からめて)より、入れ替り立ち替わりに城を攻め立てたものの、終止頑強に持ち固められてしまった。」・・・

      同年十月廿八日結城宇都宮相続。籌をいはくの中に廻し。長倉遠江守開陣畢(おえる)。彼の遠江守。名を日本に上。誉を八州に振。・・・「同年十月廿八日に、結城や宇都宮が相(あい)続いて、籌(はかりごと)を異幕(≒異なる主張のもとに大勢側と幕〈ばく〉を違えていたという意か?)の中へ廻すと、長倉遠江守は(その)陣を閉じた。かの遠江守は、(その)名を日ノ本に上げることとなり、(その)誉れを(関)八州に振るった。」・・・こうして、西暦1435年(永享7年)10月28日に、長倉城は降伏開城したのです。・・・ここにある「籌(はかりごと)」とは、長倉遠江守こと、長倉遠江守義成(ながくらとうとうみのかみよしなり)の説得を試みる使者のことだったのでしょう。・・・また、結城氏も宇都宮氏も、分家筋や庶流を含む佐竹一族と、それぞれ姻戚関係を結んでいましたので、まさに適役だったと考えられます。・・・これが、当時の政略結婚という形態が持つ保険的役割でしたから。

      此時某打めくり。次第不同にうちなかすまくのもんをそかそへける。御所の陣かとをほしくて。・・・「この時、某(それがし:=自分≒著者)は、御所の陣は何処かと知りたくて、あちこち巡っていたのです。見たままのことであり、(順序は)不同となりますが、(陣中に)内流されていた幕(まく)の紋を数えてみたのです。」・・・(↓↓↓)

      梢の冬のなか空に桐のまんまく二引。御一家もみなこれ同し。・・・「梢(こずえ)の冬の最中、空には桐の万幕二引が。御一家も皆これ同じ。」・・・ここにある「桐」とは、いわゆる「五七の桐」のこと。「二引」とは、「足利二ツ引紋」とも呼ばれ、「御一家」とは、「鎌倉公方」や「関東公方」と呼ばれた足利持氏(あしかがもちうじ)や、京都室町に在していた「征夷大将軍」の足利義教(あしかがよしのり)などの「足利氏」のこと。・・・家系的に云えば、「清和源氏義家流(※これを特に河内源氏とも呼びます)の足利氏流」。・・・尚、長倉遠江守追罰軍を率いた岩松右馬頭持國も、上野国新田郡岩松郷(現群馬県太田市岩松町)に拠点を置いた「清和源氏新田氏義兼流の岩松氏流」のため、同じ「幕紋」を使用しました。

      竹に雀は上杉殿御両家。・・・「上杉殿御両家」とは、室町時代における関東地方の話であるため、扇谷上杉家(おおぎやつうえすぎけ)及び山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の両家を示していると考えられます。・・・家系的に云えば・・・どちらも、「藤原北家勧修寺流の上杉氏流」。

      九ともへは長尾か紋。・・・「九ともへ」とは、「九巴」のこと。・・・長尾(ながお)氏は、元々は相模国鎌倉郡長尾台村(現神奈川県横浜市栄区長尾台町)に拠点を置いた「桓武平氏鎌倉氏流の長尾氏流」。

      水色に桔梗は土岐の紋。・・・土岐(とき)氏は、美濃国土岐郡(現岐阜県土岐市全域、同県瑞浪市の大部分、同県多治見市の一部)に拠点を置いた「清和源氏頼光流の土岐氏流」。「土岐源氏」とか「美濃源氏」とも呼びます・・・が、常陸国や武蔵国など、関東地方にも、その分流家系が多いです。

      斎藤かなてしこ。・・・「なてしこ」とは、「撫子」のこと。・・・斎藤(さいとう)氏は、「藤原北家利仁流の斎藤氏流」。主な根拠地は、越前国や、加賀国、武蔵国、美濃国、常陸国、出羽国など多いものの・・・特に、「撫子紋」を使用するのは、美濃斎藤氏の流れを汲む家系が多いようです。

      鹿は富樫之助。・・・「鹿紋」は、実形不明。また「富樫之助」の読みも不明。・・・“とがしのこれすけ?” ・・・或いは、そのまま・・・“とがしのすけ?”・・・但し、富樫(とがし)氏は、加賀国石川郡土無加之(とむかし:≒富樫〈とがせ〉)郷(現石川県南部野々市市付近)に拠点を置いた「藤原北家利仁流の富樫氏流」。

      伊勢國司北畠殿のわりひし。・・・「わりひし」とは、「割菱」のこと。・・・北畠(きたばたけ)氏は、現在の京都府京都市上京区にある京都御苑北部の「北畠(※≒北側の畑)」へ移ったことに因み、北畠氏を名乗り始めた「村上源氏中院家庶流の北畠氏流」。その根拠地は、伊勢国や陸奥国に多いです。

      大内介かからひし。・・・・・「からひし」とは、「唐菱」のこと。これを「大内菱」とも呼びます。・・・「大内介(おおうちのすけ)」とは、周防国(現山口県東南部)に拠点を置いていた大内氏のことを示しています。・・・この大内氏は、旧百済國の聖王(※聖明王とも)の第3王子だった琳聖太子(りんしょうたいし:※生没年不詳)の後裔と自称しており・・・この琳聖太子が、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良(たたら)」と名乗り始め、その後に同国大内村(現山口県山口市大内の一帯)に居住したことから、「大内」を自らの名字(=苗字)にしたとする、謎多き氏族です。・・・尚、平安時代初期頃に編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』では、旧任那系渡来人とされる「多々良氏」も記載されているため、この一族との関連性などについても考えられております。・・・きっと・・・“菱紋そのものにも、子孫繁栄などの意味がある”と想像出来ますので・・・「唐菱紋」を継承し続けること自体にも、強いメッセージが込められているのでしょう。

      甲斐武田とわかさの守護は武田ひし。・・・「わかさ」とは、「若狭国」のこと。・・・甲斐国及び若狭国の「守護職」を務めた武田氏は、その大元と云えば・・・前ページの後半部分にあるように・・・常陸国那賀郡武田郷から甲斐国北巨摩郡へと、その拠点を移すこととなった「清和源氏義光流の武田氏流」。

      半月に丸ひしは興津左衛門。・・・「半月に丸ひし紋」は、実形不明。・・・興津左衛門(おきつさえもん)の家系は、駿河国蘆原郡興津(現静岡県静岡市清水区興津本町)に拠点を置いた「藤原南家工藤船越氏流の興津氏流」とされます。・・・しかし・・・そもそも、「興津」という地名は、古くは「奥津 (おくつ) 」や、「息津(おきつ)」、「沖津 (おきつ) 」などと呼ばれていた可能性も指摘されており・・・また・・・“現地にある興津宗像神社の一祭神である興津島姫命(おきつしまひめのみこと)が、この地に定住したから”とか・・・或いは、“平安末期頃から、既に興津氏が定住していたため、その名字(=苗字)を地名にした”との説もあります。

      越前の織田と由佐の河内守か瓜の紋。秋元も是を打。・・・織田(おだ)氏の「瓜紋」は、「織田瓜(おだか)」とも呼ばれます。・・・織田氏は、越前国織田荘(現福井県丹生郡越前町織田)を発祥とする「桓武平氏清盛流の織田氏流」を自称しますが、藤原氏や忌部(いんべ)氏の出身とする説もあります。・・・「由佐(ゆさ)の河内守」とは、「遊佐河内守(やさのかわちのかみ)」であると考えられ・・・かつて、「藤原摂関家」の荘園だった出羽国飽海(あくみ)郡遊佐(ゆざ)郷(現山形県飽海郡遊佐町)を拠点とした「遊佐(ゆさ)氏」のことを示しております。・・・その家系は、小山氏流畠山氏の家臣家系とも云うべきでしょうか?・・・秋元(あきもと)氏は、上総国周淮(すえ)郡秋元荘(現千葉県君津市清和市場付近)を拠点とした「藤原北家道兼流?の宇都宮氏流秋元氏流」。

      朝倉かみつもつかう。・・・「みつもつかう」とは、「三つ木瓜」のこと。・・・この朝倉(あさくら)氏は、元々・・・但馬国養父(やぶ)郡朝倉村(現兵庫県養父市八鹿町朝倉)を拠点とする但馬朝倉氏から分派し、越前国へ移った後に「戦国大名」へ発展した越前朝倉氏のことが有名。・・・いずれにしても、朝倉氏は、開化天皇の後裔? 或いは、孝徳天皇の後裔? とも伝わる「日下部(くさかべ)氏流の朝倉氏流」。

      飛騨國司姉小路殿は日光月光。・・・「日光月光紋」は、実形不明。・・・西暦1435年(永享7年)の長倉城攻めの際”に、「飛騨國司」を務めていた姉小路(あねがこうじ)氏は、「藤原北家閑院流の三条氏流姉小路氏流」。

      月に九えうは千葉之介。八えうは上総介。・・・「月に九えう」とは、「月に九曜」のこと。これと同様に「八えう」とは、「月に八曜」のこと。・・・また、「千葉之介(ちばのすけ)」とは、千葉氏の家督相続者が代々名乗った称号「千葉介(ちばのすけ)」のこと。・・・そして「上総介」とは、桓武天皇曾孫の高望王(=平高望)が、平姓を賜り、上総介として上総国へ赴任したことに因んで、上総氏の家督相続者が代々名乗った称号。・・・したがって・・・千葉氏は、下総国千葉郡千葉荘(現千葉県千葉市中央区付近)を拠点とした「桓武平氏良文流の千葉氏流」であり・・・上総氏もまた、下総国相馬郡(現茨城県北相馬郡の一帯及び現千葉県旧南相馬郡の一帯)を有し「相馬五郎(そうまごろう)」と名乗った平常晴(たいらのつねはる)を祖とする「桓武平氏良文流の上総氏流」。

      三引両は三浦之介。・・・「三浦之介(みうらのすけ)」とは、「三浦介(みうらのすけ)」や「三浦荘司(みうらのしょうのつかさ)」などを自称し且つ、いわゆる「三浦党」を率いた三浦(みうら)氏を代表した人物のこと。・・・古くから、三浦半島の相模国御浦(みうら)郡三浦荘(現神奈川県横須賀市、同県逗子市、同県三浦市、同県三浦郡葉山市の全域)に盤踞しました。・・・家系的に云えば、「桓武平氏良文流の三浦氏流」。

      小山は左巴也。朝比奈も是同し。但遠江の朝比奈はけんひし也。・・・小山(おやま)氏は、下野国都賀郡小山庄(現栃木県下野市の上古山及び下古山付近)に拠点を置いた「藤原北家秀郷流の太田氏流小山氏流」。・・・朝比奈(あさひな)氏については、当の系譜類が錯綜しているため、正確な系譜は不詳とされ、この中世や後の近世に歴史上登場する朝比奈氏の位置付け、また果たして同族として考えるべきか? についてなども不明です。・・・ちなみに、この『長倉追罰記』の著者は、この長倉城攻めに参陣した朝比奈氏についてを、大別して認識していた様子が窺えます。こんな昔から。・・・つまり、前者のように小山氏と同様の「左巴(ひだりどもえ)紋」を使用した一門衆と、後者のように「剣菱紋」を使用した一門衆とを別けながら列記しておりますから。
      ・・・家系的な話に戻すと・・・この前者と後者の、どちらがどちらでという確証はありませんが・・・“朝比奈氏が、上記の三浦一族出身の和田義盛(わだよしもり)の子だった朝比奈義秀(あさひなよしひで)から興った”という伝承のほか・・・“駿河国志太(しだ)郡朝比奈郷(現静岡県藤枝市岡部町の一帯)に拠点を置いて朝比奈氏を興した”とする『朝比奈家譜』もあり・・・もしも、上記の三浦一族出身だった場合には、桓武平氏良文流の三浦氏流?・・・一方の『朝比奈家譜』の通りであるとすると、藤原北家堤兼輔の後裔氏流?・・・尚、「剣菱紋」を使用したという遠江の朝比奈氏は、駿河国益頭郡(やくづぐん:※後の益津郡〈ましづぐん〉)に拠点を置いた「藤原北家堤兼輔氏流」としています。
      ・・・このように列挙すると、何やら、藤原北家堤兼輔氏流説のほうが、より根拠があるように感じられてしまいます・・・が、私(筆者)としては、当時の世相や社会情勢などを想像するに・・・『これら遺されている伝承や史料類の全てが事実と云える状況だったのだろう。』・・・と、個人的には考えます。当時「武士」や「侍」とは言ってはいても、言い換えれば土豪や国人衆などと呼んでも構わない時代でしたし、また現実に自己勢力の拡張や安泰を図る上で、ありとあらゆる手段を講じ、政略的な姻戚関係などもあちらこちらで築きながら、当時の人々が精一杯生きていた時代でしたから。
      ・・・所詮は、「源平藤橘」などと、その出自を区別したところで、あまり意味が無いようにも思えますが・・・その一方で、確かに云えることは・・・先人達、すなわち我々のご先祖様達それぞれが、実際にどのように生き抜いて、また家紋そのものや、名字(=苗字)、或いは地名に、どんなメッセージが込められているのか? についてを、最低限知ることは、我々子孫達共有のテーマであると、考えるからであります。もしも、ご先祖様の一人でも欠けていたら、自分自身の存在がありえなかった訳ですから。
・・・「名字(=苗字)」と「家紋」については、尚も続きます。

      宇都宮は右巴なり。行方岡部も是を打。・・・「右巴(みぎどもえ)」とは、「右三つ巴」とも呼ばれます。・・・この宇都宮(うつのみや)氏にも諸流が伝えられております。一説には藤原北家道兼流? または、下毛野氏流? 或いは、中原氏流?とも。・・・但し、“藤原宗円(ふじわらそうえん)という人物が、源頼義(みなもとのよりよし:※源頼信の嫡男)と源義家による前九年の役において戦功を挙げ、現在の栃木県宇都宮市馬場通り一丁目にある二荒山神社(※別称は宇都宮とも)の別当職に任じられた後、宗円の孫に当たる宇都宮朝綱(うつのみやともつな)から、宇都宮氏を名乗り始めた”とのこと。・・・次に、岡部(おかべ)氏ですが・・・ここにあるのは、常陸国行方(なめがた)に盤踞した岡部氏のことであり、これは佐竹氏の分家筋、つまりは支流に当たります。佐竹宗家4代目当主・佐竹義重(さたけよししげ:※戦国時代に鬼義重と称される武将とは異なります。彼のご先祖ではありますが。)の六男だった義綱(よしつな)が、分家して岡部氏を名乗り始めたのです。
      ・・・いずれにしても、佐竹氏庶子であっても、“後述される佐竹氏の家紋の変化紋とはせず”に、宇都宮氏と同様の「右巴紋」だったことから・・・“義綱の生母家系の家紋を使用した可能性が高い”と考えられます。・・・つまりは、“当時の佐竹氏側に、義綱に興させる新しい分家に対して、生母家系の勢力をも政治的に取り込むという期待の表れでもあった”のでしょう。

      永井と那波は。三星に一文字にて。・・・ここの「永井(ながい)氏」とは、「長井(ながい)氏」の書き間違い(=表記ミス)であると云うか・・・「長」も「永」も、同様とする当時の人々の漢字に対する認識が影響していると考えられます。・・・そして、この『長倉追罰記』に登場する「長井氏」にも、諸流が幾つもありますが・・・それらの元々を辿れば、出羽国置賜郡(おきたまぐん:※中世から近世に掛けては長井郡とも)長井荘(現山形県長井市)に拠点を置いた「大江氏流」。・・・ちなみに、大江氏は、古代からの「源平藤橘」と同様に、「本姓」であって、「名字(=苗字)」ではありません。・・・那波(なわ)氏にも、二流あります。・・・一流は、上野国那波郡那波庄(現群馬県伊勢崎市及び現佐波郡玉村町)に拠点を置いた「藤原北家秀郷流の那波氏流」。・・・もう一流は、「大江氏流」であり、『系図纂要(けいずさんよう)』では・・・“前者の「藤原北家秀郷流の那波氏流」が衰退した後に、これに代わって、上野国那波郡那波庄を領したことから、那波氏を称した”としています。

      昔の因幡守広元か末葉毛利の一家にて。一品と云字の表体也。・・・この部分の全てを訳すと・・・「昔の因幡守広元(=平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した大江広元のこと)の子孫である毛利一家については、一品と云う字の表体である。」・・・と、なります。・・・尚、「一品」とは、「三星に一文字表体」とも呼ばれます。・・・家系的に云えば、元々は相模国愛甲(あいこう)郡毛利(もり)庄(現神奈川県愛甲郡愛川町から同県厚木市の一部)に拠点を置いた「大江氏季光流」です。・・・毛利(もうり)氏と云えば、後世の人間からすると、中国地方の毛利というイメージが、どうしても強いですが。・・・そして、更に鎌倉時代に遡れば、上記にある長井氏の祖が拠点とした出羽国置賜郡長井荘に辿り着くことが出来ます。「昔の因幡守広元」、すなわち平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した大江広元の次男が、長井時広(ながいときひろ)という鎌倉幕府の評定衆や引付衆などの要職を務めた人物でしたから。
      ・・・ちなみに・・・長井氏は、鎌倉幕府滅亡後も、足利高氏(※後の尊氏)の側近として、室町幕府中枢にあり、14世紀に伊達氏によって出羽国置賜郡長井荘を奪われるまで、その勢力を保っていました。”・・・ここまで、この『長倉追罰記』を読み進めると、多少の表記ミスなどもあり、冒頭部分では著者が、「次第不同に」と一応の理(ことわり)を挿入しているものの、かなりの構成力(≒校正力)を発揮しているように感じますね。・・・それぞれの氏(うじ)と家紋における当時の相関関係に相当精通した人物でないと、このような書面(※『長倉状』など)を後世に遺せなかったでしょうから。・・・この当たりに、『長倉状』には家紋名が全く記されていない事とともに、この『長倉追罰記』については、“実際の長倉城攻めが終わってから、ほど遠からぬ後世において認(したた)められたものだった”と云われる所以があるのかとも想います・・・が、これと同時に、執筆理由が何であれ、“信憑性が高い史料として、後世へ繋げよう”との意気込みも感じられるのです。

      三文字松河は赤松と小笠原。・・・「三文字松河」とは、「三文字松皮」のことであり、いわゆる「三階菱紋」のこと。つまりは、松皮菱を三枚重ねた紋様です。・・・赤松(あかまつ)氏は、播磨国赤穂郡赤松村(現兵庫県赤穂郡上郡町及び同県佐用郡佐用町)の地頭職に補任されたことにより、この氏を名乗り始めたと自称しており、村上源氏季房流の赤松氏流? 或いは、藤原氏? とも。・・・尚、この赤松氏は、後に家紋を、「二引両に左三つ巴」や「五七の桐」へと変えますが、この長倉城攻めの際には、“三文字松河を使用していた”との重要証言です。・・・小笠原(おがさわら)氏は、甲斐国中巨摩郡小笠原村(現山梨県南アルプス市小笠原)に拠点を置いた「清和源氏義光流の加賀美(かがみ)氏流小笠原氏流」。
      ・・・ちなみに、西暦1435年(永享7年)の長倉城攻めの際の当主は、小笠原政康(おがさわらまさやす)であり、当時に戦乱を度々起こした鎌倉公方への抑え役として、足利義持(あしかがよしもち:※室町幕府第4代征夷大将軍)などからも重用され、西暦1425年(応永32年)には、信濃守護職に任命されております。・・・そして、この嫡流家系は、信濃国と京都に分かれることとなり、この分家や庶流家系も、信濃国は勿論のこと、阿波国や、備前国、備中国、石見国、三河国、遠江国、陸奥国へも拡がりを見せており・・・まさに、西暦1435年(永享7年)の長倉城攻めの際における『長倉追罰記』の著者の認識としては、“室町幕府や鎌倉府を支える武門家系の大氏族だった”のです。

      四つ目結は佐々木判官。・・・ここにある「佐々木判官(ささきはんがん)」とは・・・“鎌倉時代末期から南北朝時代に掛けて活躍した”という、「佐々木高氏(ささきたかうじ:※法名は道誉)」のことではありません。・・・西暦1435年(永享7年)の長倉城攻めの際とは、年代的に全く合致しないからです。・・・したがって、ここについては・・・佐々木判官の嫡流・・・或いは、その一族郎党・・・と読むべきと考えます。・・・こう考えて、西暦1435年(永享7年)頃の佐々木氏の直系卑属は? と調べてみると・・・この佐々木高氏(※法名は道誉)より、4代目の頃に当たります。これより以前に、京極(きょうごく)氏を名乗っていた京極持高(きょうごくもちたか)の頃です。・・・佐々木(ささき)氏から京極氏へ名乗りを変えた理由については・・・ご先祖の佐々木高氏(※法名は道誉)が、元々は佐々木氏傍流家系の京極氏宗家出身者だったためです。要するに、復姓した感じとなります。
      ・・・尚、ここの記述によって、『長倉追罰記』の著者の時代認識なども垣間見えます。・・・つまりは、京極氏と記述するよりも、あの佐々木判官を輩出した氏族としたほうが、世間の認識に適うと考えたのでしょう。・・・この当たりの事情については確信などは、ほとんどございませんが・・・何やら、読み物とするための脚色のようにも感じられます。・・・しかし、『長倉追罰記』の元となる『長倉状』を、実際に書き遺した人物の認識としては、京極氏を名乗っていた事実を知らず、あくまでも佐々木氏傍流という認識だったのかも知れません。このことも、白黒ハッキリしません・・・が、仮に、京極持高の頃であっても、実際に守護職として出雲や隠岐、飛騨の三カ国を任されていましたので、飛騨国など関東地方に近い地域から、現実に常州(=常陸国)佐竹郡の長倉城に向けて、京極氏配下の佐々木氏やその郎党達が派兵されていたこと自体には、あまり矛盾はないかとも想います。・・・いずれにしても、佐々木氏は、近江国蒲生郡佐々木荘(現滋賀県近江八幡市安土町)を発祥とする「宇多源氏扶義流の佐々木氏流」。

      一六目結は本間の四郎。・・・「本間の四郎」とは、読んで字の如くに四男を示すのか? はたまた、代々世襲していた通称なのか? などについては不明です。・・・いずれにしても、ここにある本間(ほんま)氏は、相模国高座(こうざ、たかくら:※古くは高倉と表記)郡本間(現神奈川県座間市辺りか?)を発祥とし、後に相模国愛甲郡依知(えち)郷(現神奈川県厚木市金田、同市上依知、同市下依知付近)へ拠点を移した「武蔵七党横山党の海老名氏流本間氏流」。

      海老名は庵に瓜のもん也。・・・海老名(えびな)氏は、相模国高座(※古くは高倉と表記)郡海老名村(現神奈川県海老名市)に拠点を置いた、上記にある本間氏の本家筋であり・・・元々は、本姓を「小野朝臣(おののあそん)」とする「武蔵七党横山党の海老名氏流」。

      松に鶴は高井左衛門。・・・この頃の「高井左衛門(たかいさえもん)」とは、“現在の群馬県高崎市柴崎町にある進雄神社(すさのおじんじゃ)の社家・高井左衛門太夫(たかいさえもんたゆう)のことだった”と考えられます。進雄神社の社紋も、「松に鶴」であり、一致していますので。・・・この高井(たかい)氏の家系は、桓武平氏良文流の三浦氏流高井氏流?

      さんきにさるは洲西かもん。・・・「さんきにさる」とは、「算木に鶴」の“書き間違い(=表記ミス)”と考えられ・・・「洲西(すさい)」とは、「周西(すさい)氏」のこと。・・・この周西氏は、中世に存在した「上総国周西郡(※後の周淮〈すえ〉郡)」に拠点を置いた「桓武平氏良文流の上総氏流周西氏流」。

      午の尾かへふねつる。・・・「へふねつる」とは、「鶴の丸紋」、或いは「舟鶴紋」だったと考えられ・・・「午の尾」とは、「牛尾(うしお)氏」のこと。・・・この牛尾氏は、下総国香取郡牛尾(現千葉県香取郡多古町牛尾)に拠点を置いた「桓武平氏良文流千葉氏流の牛尾氏流」。

      楠浦加月にほし。・・・ここの「加」は「か」であり、その意味は「が」。・・・楠浦(くすうら)氏は、甲斐国八代郡楠甫村(現山梨県市川三郷町楠甫)に拠点を置いた「藤原北家秀郷流の楠浦氏流」。

      極楽寺が水車。・・・極楽寺(ごくらくじ)氏は、相模国鎌倉郡極楽寺村(現神奈川県鎌倉市極楽寺付近)に拠点を置いた、「桓武平氏直方流の北条氏流極楽寺氏流」。

      三本杉は狩野介。但たかの羽を打事も有。・・・「狩野介(かのうのすけ)」とは、狩野(かの、かのう、かりの)氏の家督相続者が代々名乗った称号です。・・・尚、この狩野氏も、諸流ありますが・・・ここの二流については、“三本杉紋を用いた”という前者が、伊豆国田方(たがた)郡狩野(かの)荘(現神奈川県南足柄市狩野)に拠点を置いた「藤原南家為憲流の工藤氏流狩野氏流」であり・・・“鷹の羽紋を用いた”という後者が、下野国那須郡狩野(かりの)村(現栃木県那須塩原市槻沢)に拠点を置いた「藤原北家道兼流?の宇都宮氏流狩野氏流」。

      山中かさかきふし。・・・「さかきふし」とは、「逆さ藤」のことであり、いわゆる「下がり藤」のこと。・・・この山中(やまなか)氏とは、「山内(やまのうち)氏」の書き写し間違い(=表記ミス)が元にあったと考えられ(※原文〈当サイトでは次ページ〉に、当の山中氏の記述があるため)・・・“後者の山内氏だった”とすれば、相模国鎌倉郡山内庄(現神奈川県鎌倉市山ノ内)に拠点を置いた「藤原北家秀郷流の山内氏流」。

      めひきかこは松田かもん。・・・「めひきかこ」とは、「目引籠」のこと。・・・この松田(まつだ)氏は、相模国足柄上郡松田庄(現神奈川県足柄上郡松田町の一帯)に拠点を置いた「藤原北家秀郷流の波多野氏流松田氏流」。

      葛西はかしは。・・・「かしは」とは、「柏」のこと。・・・葛西(かさい)氏は、下総国葛飾郡葛西荘(※葛西御厨〈かさいみくりや〉とも。現在の東京都葛飾区、江戸川区、墨田区などにあった伊勢神宮の荘園のこと)に拠点を置いた「桓武平氏良文流の秩父氏流豊島氏流葛西氏流」。

      大石の源左衛門はいてうの木。・・・「いてうの木」とは、「銀杏(いちょう)の葉紋」。・・・大石源左衛門(おおいしげんざえもん)の家系は、信濃国小県郡大石郷(現長野県東御市滋野乙字大石)に拠点を置いた清和源氏義仲流の大石氏流? 或いは、藤原北家秀郷流の大石氏流? と考えられます。

      五ほん筋は結城七郎。但ともへを打事も有。・・・「結城七郎(ゆうきしちろう)」とは、下総結城氏の通称名。・・・西暦1435年(永享7年)の長倉城攻めの際の当主は、11代目の結城氏朝(ゆうきうじとも)であり、小山泰朝(おやまやすとも)の次男です。・・・よって、下総結城氏は、下総国結城郡(現茨城県結城市)に拠点を置いた「藤原北家秀郷流の小山氏流結城氏流」。・・・しかし、この『長倉追罰記』の著者が、“巴紋を使用することもあり”と、わざわざ但し書きを記述した背景については・・・これには、おそらく・・・“当時の社会情勢が大きく影響していた”と推察出来ます。
      ・・・そもそも、下総結城氏からは、鎌倉時代末期に、結城氏の祖とされる小山朝光(おやまともみつ)が得た陸奥国南部地方の白河(=白川)郡白河庄(現福島県白河市)へ、小山朝光の孫である結城祐広(ゆうきすけひろ)が移住し、そこを本拠地とすることで、結城氏の勢力拡大を図りました。・・・これが、いわゆる白河結城氏の始まりとされています・・・が、やがて・・・この『長倉追罰記』が記述する頃の話になりますと・・・この白河結城氏は、白河(=白川)氏を名乗り始め、一時は宗家たる下総結城氏の勢力をも凌ぐ気運となり・・・結局のところは、室町幕府と鎌倉府の間が対立するという事態においては、宗家たる下総結城氏とは、時として共同歩調を採らずに独自路線を貫くことで、巧みに自身の生き残りを賭けていたのです。・・・そんな社会情勢でしたから、この『長倉追罰記』著者が、結城氏の長、すなわち惣領家については、“あくまでも結城七郎を立てる下総結城氏の方である”と認識していたことが分かるのです。
      ・・・いずれにしても、時の経過とともに、結城氏そのものが使用した「五ほん筋」、つまりは「五本筋の扇紋」は、いつの間にやら、ここの文中で但し書きされている「巴紋」に移り変わることとなりますが。・・・これについては、北関東地方及び東北地方南部における・・・後世の下総結城氏及び白河結城氏こと、白河(=白川)氏、そして、後に記述される佐竹氏との、それこそ、三つ巴の関係が成就したことが、大きく影響しております。・・・【ヒント】五本筋って、一見すると五本骨に見えませんか?・・・

      永楽の銭は三河國水野か紋。・・・「永楽の銭」とは、「永楽銭」そのものを紋としたもの。・・・この水野(みずの)氏は、尾張国知多郡阿久比郷小河村(現愛知県知多郡東浦町緒川か?)に拠点を置いた小河氏(=小川氏)より分家し、一時期は同国春日井郡水野郷(現愛知県瀬戸市中水野付近か?)を根拠地とした清和源氏満政流の小河氏流水野氏流? 或いは、藤原北家近衛家道経流の小河氏流水野氏流?

      中條はさゝの丸 ・・・「さゝの丸」とは、「笹に丸紋」。・・・中條(ちゅうじょう)氏は、武蔵国北埼玉郡中条保(現埼玉県熊谷市上中条付近)を発祥とする武蔵七党横山党の小野氏流中條氏流? 或いは、藤原北家道兼流の八田氏流中條氏流?

      あしなし。すはま小田の大輔。・・・「あしなし。すはま」とは、ここは、二句に分かれず一句であり、「足無洲浜(あしなしすはま)」のこと。“現代では、この足付洲浜紋はほとんど消失している”と云われますが、“当時はあった”との重要証言。しかし、この紋の正確な実形は不明。・・・「小田の大輔」とは、常陸国筑波郡小田村(現茨城県つくば市小田)に拠点を置いた小田(おだ)氏のことであり・・・ここの「大輔(だいすけ)」とは、律令制以降の八省や神祇官の次官だった大輔(たいふ)という官職名を用いて自称していたものです・・・が、現実として、大勢力であると当時周囲から認識されないと、これを使用する意味も無いため・・・現在のつくば市小田を本拠地とした茨城県南地域の大豪族と云ったところでしょうか?・・・家系的には、「藤原北家道兼流の八田氏流小田氏流」。

      しゝにほたんは多田の三郎。萩の矢も是をうつ。・・・「しゝにほたん」とは、「獅子に牡丹」。・・・獅子は百獣の王であり、牡丹も百花の王とも呼ばれたものなので、“この二つのデザインを組合わせていた紋”であって・・・この紋は、“絢爛豪華だった”と云えそうです。尚、“平安時代には、既にあったとされ、紋の図柄はリアル且つ精細だった”とのこと。・・・ちなみに、「多田(ただ)の三郎」の「三郎」とは、「新羅三郎」こと「源義光」、すなわち、“多田三郎のご先祖様のこと”であり・・・摂津国河辺郡多田荘(現兵庫県川西市の全域及び同県宝塚市北部、同県三田市東部、同県川辺郡猪名川町の一部)を本拠地とした「清和源氏頼光流の多田氏流」。・・・「萩(はぎ)の矢」は・・・一見すると、萩野矢(はぎのや、はきのや)氏、または萩谷(はぎのや、はぎたに)氏、或いは「萩の矢紋」など・・・実際に、名字(=苗字)なのか? 紋なのか? 判然としません。
      ・・・もし、これが名字(=苗字)のことであり、萩野矢=萩野谷)氏や萩谷氏とすれば・・・“どちらにしても、その土地の地勢や自然環境から派生した名字(=苗字)である可能性が高い”と考えられ・・・そして、・・・「萩野(はぎの)」や、「萩原(はぎわら)」、「萩尾(はぎお)」・・・などとの関連性も窺われます。これらの家系についても、それぞれ諸説及び諸流がありますが、これらを敢えて列挙すると・・・常陸国久慈郡を発祥とする「藤原北家利仁流」。・・・他にも「村上源氏」や、「宇多源氏」、「桓武平氏」etc。尚、萩野矢(=萩野谷)氏については、常陸国が発祥とも云われており、現代の茨城県北部や栃木県などの関東地方に比較的多く分布しているようです。そして、萩谷氏については、現在の茨城県常陸太田市藤田町や同県那珂郡東海村船場、同県筑西市五所宮字萩山などが発祥地と考えられ、関東地方の他に京都府や東北地方にも分布するようです。
      ・・・しかし、ここに記述される文章を、ユニークな解釈をすることも可能です。・・・私(筆者)が、この『長倉追罰記』や『長倉状』が遺された時代背景を、勝手に推察するに・・・この「多田の三郎」は、全国各地の地方豪族や、これら書物の読み手からすれば、源氏勢力の超有名ブランドだったため、或る意味、“そのままで”読んでしまいます。・・・つまりは、“萩の矢にも是をうつ”と。・・・すると、“何だか意味が通じるものがあると想う”のです。
      ・・・想えば、鎌倉武士などと呼ばれる頃から・・・或いは、それ以前より、武人達の主要武器は、言わずもがなの「弓矢」でした。・・・かの元寇(蒙古襲来)の際には、それぞれの武士が自らの戦果を、他の武士達のものと区別するために、自分で使用する矢の尾っぽ(矢羽部分など)に独自の印や紋様を装飾しておりましたから。・・・しかも、ここに登場する「萩」とは、マメ科ハギ属の総称とされる落葉低木。秋の七草の一つにも数えられますし・・・古来から先人達によって親しまれた花でもあります。・・・かの『万葉集』では、最もよく詠まれる花です。・・・要するに、文中の「是(これ)」とは、「しゝにほたん」を指し示すのではなく、むしろ「萩(の花)」を示していると考えて、この文章全体を現代語訳すると・・・「獅子に牡丹は、多田の三郎の紋であり、矢にも萩(の花)の紋を誂(あつらえ)えていた。」・・・となります。・・・このように表現することによって、『長倉追罰記』の著者は・・・この戦記話を、更に盛り上げようとしたのではないか? ・・・と。


      かふら矢は。武蔵國の住人太田源次郎也。・・・「かふら矢」とは、「鏑矢(かぶらや)」のこと。・・・「武蔵國の住人、太田源次郎(おおたげんじろう)」とは、武蔵国豊島郡(現東京都千代田区千代田)に、初めて江戸城を築いたことなどで有名な太田資長(おおたすけなが:※法名は道灌)のことではなく・・・この西暦1435年(永享7年)の長倉城攻めの際の当主としては・・・資長(※法名は道灌)の父・資清(すけきよ:※法名は道真)か? と思いきや、“この資清は源六郎(げんろくろう)と呼ばれていました”ので・・・資清の父、つまりは・・・資長(※法名は道灌)の祖父だった太田資房(おおたすけふさ)のことと考えられます。・・・いずれにしても、西暦1435年(永享7年)当時の太田(おおた)氏は、有名な「太田桔梗(おおたききょう)紋」ではなく、「鏑矢紋」を用いたこととともに・・・“その時々において、武門家系の家紋デザインが変遷していたこと”も分かります。・・・この太田氏は、丹波国桑田郡太田(現京都府亀岡市ひえ田野町太田を発祥とする「清和源氏頼光流の太田氏流」。

      十六葉の菊のもんは野田福王かもん也。・・・野田(のだ)氏は、下野国梁田郡野田村(現栃木県足利市野田町)を発祥とする熱田神宮(現愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目)の宮司を務めた藤原南家巨勢麻呂流の野田氏流? 或いは、桓武平氏維茂流の大掾氏簗田氏族? とされます。・・・次の福王(ふくおう、ふくお)氏は、大昔の藤原鎌足(※生前は中臣鎌足)が天智天皇より下賜されたことに始まった「氏」とされるため、「藤原氏流の福王氏流」。・・・ちなみに、“三重県三重郡菰野町大字田口の福王山にある福王神社は、約1400年前、敏達天皇期頃に百済から仏工の安阿弥が来朝して毘沙門天を刻み、後にこの像を聖徳太子(厩戸皇子)の命によって福王山に安置され、鎮護国家と伊勢神宮の守りとした”と伝えられるお社です。・・・このことから、福王氏の「十六葉の菊紋」には、“鳥居のデザインが誂(あつらえ)られていた”と考えられます。・・・いずれにして、この『長倉追罰記』や『長倉状』には、武門家系として登場しております。

      團に菊は児玉たう。・・・ここの「團(だん、ふ)に菊」とは、「児玉たう」、つまりは・・・「児玉党(こだまとう)」と続いているため・・・「團扇」、すなわち「団扇(うちわ)に菊」と考えられます。・・・「児玉党」は、武蔵国児玉郡児玉庄(現埼玉県本庄市児玉の一帯及び同県児玉郡付近)に拠点を置いており、武蔵七党の一つに数えられます。

      梁田はあほひ。・・・「あほひ」とは、「立葵」のこと。・・・梁田(やなだ)とは、簗田(やなだ)氏のことであり・・・近江国坂田郡(現滋賀県長浜市)の余呉湖(よごこ)付近から下野国簗田郡(現栃木県足利市の一部)の「簗田御厨(やなだみくりや)」へと拠点を移した「桓武平氏維茂流の大掾氏流簗田氏流」。

      わちかひは高家のもん。・・・「わちかひ」とは、「輪違い」のこと。・・・「高家(こうけ)」とは、高(こう)氏のことであり・・・“古代から平安時代頃まで、高句麗(≒高麗)系渡来人の子孫達が、高氏を名乗った”と云われており・・・その後に天武天皇の皇子だった高市皇子(たけちのみこ)を祖とする高階(たかしな)氏が、「高家」や「高氏」と称しました。・・・よって、西暦1435年(永享7年)の長倉城攻めの際の高家とは、鎌倉時代から南北朝時代に掛けて、鎌倉府の足利氏に仕えていた「高階氏流の高氏流」。・・・この「高階氏流の高氏流」からは、他にも諸流家系を多く派生しています。・・・ちなみに、これより遡ること西暦1343年(興国4年)頃まで常陸国内で行なわれていた南北朝争乱時に、南朝方の北畠親房(きたばたけちかふさ)と対戦した北朝方の武将に、高師冬(こうのもろふゆ)という人物がおりましたので・・・ここに「わちかひは高家のもん」とある高家は、高師冬の子孫に当たるかと。

      たてつなは二階堂。同六郷も是を打。・・・ここの「たてつな」とは、本来の「たてすな(=立砂)」を誤読したため、“結果的に書き間違い(=表記ミス)した”と考えられており・・・この「立砂紋」についても、“三つ盛立砂だった”と云われます。・・・そもそも、「立砂」とは、朝廷へ参内する際に用いた牛車(ぎっしゃ、ぎゅうしゃ)を止めるために、そこへ盛り上げた砂の丸山のこと。・・・そして、神社の境内地などにおいて、砂を円錐状に盛った盛砂とか斎砂などと呼ばれるものもあり、これらも同様に「立砂」と呼ばれます。・・・ちなみに、「京都」の上賀茂神社には、“一対の立砂が盛られており、これは御神体山を象(かたど)ったもので、神が降臨される憑代(よりしろ:=神籬〈ひもろぎ〉)である”とされています。・・・いずれにしても、「たてつな」こと、「立砂紋」は・・・“神と関わる神籬たる神社を表した盛砂や立砂を、家紋の原デザインとした”のではないか? と推測することが出来ます。
      ・・・ここの文中にある二階堂氏は、相模国鎌倉郡の永福寺(ようふくじ:現神奈川県鎌倉市二階堂)周辺を発祥とし、陸奥国岩瀬郡(現福島県岩瀬郡鏡石町及び同郡天栄村)を拠点とした「藤原南家為憲流の工藤氏流二階堂氏流」。・・・何故に、「二階」だったか? と云いますと・・・源頼朝が、鎌倉に永福寺を建立した際に、そのお堂が、当時の関東地方では珍しい2階建の建物だったため、それを見た当時の人々が、そこを「二階」と呼んだため・・・結果として、“地名になった”とされております。・・・尚、現代の二階堂氏の多くは、「三つ盛亀甲に花菱紋」を用いるものの、“今も、三つ盛立砂紋を継承する家系もあり、その図柄は神社の盛砂そのものである”とのこと。・・・そして、六郷(ろくごう)氏は、出羽国仙北郡六郷村(現秋田県仙北郡美郷町六郷)を発祥とする「藤原南家為憲流の工藤氏流二階堂氏流六郷氏流」であり・・・この『長倉追罰記』や『長倉状』の著者自身が、“二階堂氏も六郷氏も、同族家系であると認識していたため、これらを列記したこと”も分かります。

      しゆろの丸は富士の大宮司。・・・「しゆろの丸」とは、「丸に棕櫚(しゅろ)」のこと。・・・「富士の大宮司」とは、駿河国富士郡富士上方(現静岡県富士宮市の一帯)の国人領主であり、富士山本宮・浅間大社(現静岡県富士宮市宮町)の大宮司を代々継承する社家である富士(ふじ)氏のこと。・・・この富士氏は、元々・・・いわゆる欠史八代の一人にも数えられる程の大昔・・・“時の孝昭天皇(こうしょうてんのう:※和風諡号を、『日本書紀』では、観松彦香殖稲天皇〈みまつひこかえしねのすめらみこと〉。『古事記』では、御真津日子訶恵志泥命〈みまつひこかえしねのみこと〉と表記)を始祖とする和邇部(わにべ)氏である”と伝わり・・・“それまで近江国を拠点としていた和邇部氏が、西暦801年(延暦20年)に、駿河国富士郡へ進出した後に、富士氏を名乗り始めた”とされています。・・・この時の進出理由については、かの坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の東征に従ったのではないか? とも。・・・いずれにしても、ここにある富士氏は、本姓を「和邇部宿禰(わにべのすくね)」とする「和邇部氏流の富士氏流」。

      きほたんは杉かもん。・・・「きほたん」とは、「枝牡丹」とか、「木牡丹」とも呼ばれる紋。・・・ここにある杉(すぎ)氏については、諸説及び諸流があって、なかなか判然としないものの・・・“室町時代を通じて足利家傘下とされていた、元々は西国出身の家系だったこと”は、ほぼ間違いないようです。・・・“西暦1435年(永享7年)の長倉城攻め頃には、陶(すえ)氏や内藤(ないとう)氏と並んで、周防大内氏の三家老に列せられていたようです”ので・・・多々良氏族の大内氏流杉氏流か?・・・そして、次に続く文章に、「内藤備前かりうこにてまり」とあるのは、単なる偶然なのか? 或いは、この『長倉追罰記』の著者に、何らかの意図があったのでしょうか?

      内藤備前かりうこにてまり。・・・「りうこにてまり」とは、「輪鼓に手毬」のこと。・・・ここにある「内藤備前(ないとうびぜん)」が、西暦1435年(永享7年)の長倉城攻め当時における、いったいどの当主だったのか? については、現存する史料上では判然としないのです・・・が・・・この内藤(ないとう)氏は、元々鎌倉時代に源頼朝に仕えた内藤盛家(ないとうもりいえ)と云う人物を、ご先祖とする「藤原北家秀郷流の内藤氏流」。
      ・・・この長倉城攻めより4年前に当たる西暦1431年(永享3年)には、当時の細川京兆家(ほそかわけいちょうけ)内衆(うちしゅう)とされていた内藤信承(ないとうのぶつぐ?)という人物が、丹波国の守護代に就任することとなって、丹波国船井郡八木(現京都府南丹市八木町)を根拠地としたことや・・・この内藤氏が、「輪鼓に手毬紋」を継承していること・・・そして、内藤信承の後裔と考えられる内藤元貞(ないとうもとさだ:※丹波国守護代、丹波八木城主)という人物が、『応仁記(おうにんき)』という後世の戦記物の中において、西暦1467年(応仁元年)6月8日の記述中(=井鳥野合戦之事として)に、内藤備前守(ないとうびぜんのかみ)という名で登場していること・・・などが実際に確認出来るため・・・私(筆者)は、“細川京兆家の内衆だった内藤信承が、長倉城攻めの軍功なり、関東におけるそれなりの実績が認められて、丹波国の守護代とされ”・・・“彼の地位や、役職、一族の勢力を世襲した内藤元貞が、官位の備前守(びぜんのかみ)を得ることになった”のではないか? と考えます。
      ・・・こう考えると、そもそもの『長倉状』や、この『長倉追罰記』が認(したた)められた時期については・・・“少なくとも、長倉城攻め直後の西暦1435年(永享7年)から、応仁の乱が始められる西暦1467年(応仁元年)までの期間”・・・“つまりは、この約32年間に絞り込める”のではないか? という気が致します。


      楠薬師寺が菊水。小山の薬師寺かともえの紋。・・・「菊水(きくすい)紋」とは、“菊花紋の一つであり、文中の楠(くすのき)氏こと楠木(くすのき)氏や和田(わだ)氏の代表的な家紋”です。・・・そもそもは、鎌倉時代後期の後醍醐(ごだいご)天皇より、恩賞として「菊紋」を下賜されたという南朝方の楠木正成(くすのきまさしげ)が、この紋をそのまま用いるのは恐れ多いと、彼が信奉する吉野水分(よしのみくまり)神社(現奈良県吉野郡吉野町吉野山)に伝わる「流水(りゅうすい)紋」とを組み合わせて、“この菊水紋を創った”とされております・・・が、肝心な楠(=楠木)氏の家系は? となりますと・・・“本姓を橘(たちばな)氏とする伊予の橘氏(※越智〈おち〉氏の分家筋)などとする説”や・・・“同様に橘氏を祖としていても、熊野国造(くまののみやつこ)の和田(わだ)氏出身者とする説”・・・或いは、“楠木氏は元々鎌倉幕府における御家人であり、利根川流域に基盤を持っていた東国武士の有力集団の一つであって、それが後に播磨や摂津、南河内、和泉などへ移住し、そのまま土着したとする説など”があります。
      ・・・確かに・・・“南北朝争乱時期に、南朝方の楠木正成の代官として、正成の弟である正家(まさいえ)が、常陸国の瓜連城(うりづらじょう:現茨城県那珂市)に派遣されて、当時の佐竹氏が守る舞鶴城(※別名は、太田城、佐竹城、青龍城とも)を攻撃したと”いう史実がありますね。・・・いずれにしても、諸説ありまして、未だ定説は存在していないという状況です。・・・それでも、確実に云えることは・・・“当時の楠木正成が、南河内において、既存の支配体制に対抗し、且つ頑強な力強さなどを発揮して、彼の一党が悪党と呼ばれる程の、云わば棟梁格として見做されていたこと”です。
      ・・・そして、次に・・・“この楠(=楠木)氏と同紋を用いた”という薬師寺(やくしじ)氏とは、鎌倉幕府の御家人として、西国へ移住し、摂津国八部(やたべ)郡輪田(わた)荘(現兵庫県神戸市兵庫区和田岬町の一帯)の地頭職に就いた薬師寺氏のことであり・・・家系的に云えば、「藤原北家秀郷流の小山氏流薬師寺氏流」。・・・但し、次に小山の薬師寺についてを挿入して、この家系については「巴紋」を使用していたと。この「小山の薬師寺氏」についても、家系的に云えば、前者の薬師寺氏と同じく、下野国河内郡薬師寺村(現栃木県下野市薬師寺)に拠点を置いた「藤原北家秀郷流の小山氏流薬師寺氏流」。・・・そして・・・ここにある文章全体から読み取れることは・・・この『長倉追罰記』の著者は、少なくとも・・・前者の楠(=楠木)氏と後者の薬師寺氏との間に、和田氏の存在があると認識しているとともに・・・引き続き関東地方に盤踞し続けていた薬師寺氏については、同族小山氏と同様の「巴紋」を、当然に使用していたと認識していることも窺えるのです。

      久下は一番と云文字。・・・久下(くげ)氏は、元々武蔵国大里郡久下郷(現埼玉県熊谷市久下)を発祥とする清和源氏経基流の久下氏流? または、武蔵七党に属す私市党(きさいとう)? ともされますが、いずれにしても、“熊谷(くまがい)氏との血縁関係があった”と考えられております。・・・ここにある久下氏は、次郎重光(じろうしげみつ)の代に、「源平の争乱」にて戦功を挙げると、「承久の乱」の後には、丹波国氷上(ひかみ)郡栗作郷(現兵庫県丹波市山南町)へと移って、丹波国の国人領主となりました。・・・尚、「一番文字紋」の由来については、かの『太平記』に記されており・・・そこで語られるのは、「源平の争乱」の際における、或る遣り取りのこと。概ね以下の通り。
      ・・・足利高氏(※後の尊氏)が丹波国篠村八幡宮(現京都府亀岡市篠町篠八幡裏)で挙兵した時・・・久下時重(くげときしげ)が、250騎を率いて真っ先に馳せ参じた。久下時重の旗印に「一番」とあるのを、不思議に思った高氏(※後の尊氏)が、その由来についてを尋ねると、高氏(※後の尊氏)の側近武将だった高師直(こうのもろなお)が・・・「源頼朝が土肥の杉山(※相模国土肥郷のこと)で挙兵した際、久下重光(くげしげみつ)が一番に馳せ参じた。頼朝は、もし天下を取ったならば一番に恩賞を与えよう、と一番という文字を書いて与え、やがてそれを家の紋としたのである。」・・・と答え、この時の高氏(※後の尊氏)は、「それは吉例」と喜んだと。

      あけはのてうは伊勢守ひろなりも是を打。・・・「あけはのてう」とは、「揚羽の蝶(あげはのちょう)」のこと。・・・「伊勢守(いせのかみ)」とは、伊勢平氏(いせへいし)と呼ばれた一族のことであり・・・「ひろなりも」とは、特定の個人名ではなく・・・「広(う)也(と)も」、すなわち「(が)広しと謂えども」の意。・・・いずれにしても、ここにある「伊勢守」こと「伊勢平氏」は、本姓を「平朝臣(たいらのあそん)」とする、桓武平氏嫡流の平国香(たいらのくにか)や、平貞盛(たいらのさだもり)の血筋であり、他の坂東八平氏に代表される家系と同様に、暫らく関東に拠点を置きました・・・が、清和源氏一門の河内源氏が鎌倉を中心として勢力を拡大させると、次第に在地の平氏一門をも服属させるようになりました。・・・しかし、後に伊勢平氏と呼ばれるようになった一族については、伊勢国(現三重県北中部、愛知県弥富市の一部、愛知県愛西市の一部、岐阜県海津市の一部)へと下向して、源氏の家人とはならず、源氏と同様に、朝廷や権門貴族に仕える軍事貴族としての道を歩んだのです。

      まひさきは御櫛のもん。・・・「まひさき」とは、「舞い鷺(さぎ)」のこと。・・・文中の「御櫛」とは、おそらくは「みくし」と読むのではないか? と想います。・・・もしも、これを「おぐし」と読むならば、次ページにある「水にかりは小串五郎。」という一文と、辻褄が合わなくなってしまいますので。・・・したがって、この「御櫛」を「みくし」と読むとすれば・・・この「御櫛」とは、“御櫛(みくし)氏を示す”と考えることが出来まして・・・現在の奈良県平群町大字椹原には、御櫛神社が鎮座しており・・・この『長倉追罰記』が記された中世頃については・・・“御櫛生供御人(みくししょうくごにん)という職名が存在していた”という事実に繋がるのです。
      ・・・この御櫛生供御人とは、和泉国日根郡近木(こぎ)郷(現大阪府貝塚市近木町)を、主な拠点とした一党(≒氏族)であり・・・律令制における中務省(なかつかさしょう)に付属した機関だった内蔵寮(くらりょう)へ属しながらも、時の天皇や、院、摂関家にも兼属し、実際に櫛(くし)を製作して、これらの櫛を、時の天皇などへ貢納する職人集団だったと考えられます。・・・ちなみに、“和泉国日根郡近木郷の御櫛生供御人には、実際に給免田が与えられ、舂米(しようまい)をも給与されていた”と云います。・・・いずれにしても、当初期は、職能集団だった筈の世襲一族でさえ、この『長倉追罰記』が記された中世頃には、武門家系の一つとして認識され、「舞い鷺紋」を使用していたことが分かります。・・・尚、「御櫛」と書いて、「おぐし」と読み、現代まで「御櫛(おぐし)姓」を継承する家系もあるようです。家系的な話については、全く分かりませんが・・・御櫛生供御人が内蔵寮に属していたとすれば・・・元々は、何処の貴族家系へ辿り着くのではないか? とも想います。

      北条殿三うろこ。同横井も是を打。・・・「三うろこ」とは、「三つ鱗」のこと。・・・言わずもがなの北条(ほうじょう)氏のことですが・・・この『長倉追罰記』が記された中世頃は・・・鎌倉幕府の執権職を、代々継承した家系のことであり、「後北条(ごほうじょう)氏」と区別される家系とは異なります。・・・どちらにしても、桓武平氏の一流ではありますが。・・・いずれにしても、ここの文中にある家系は、桓武平氏直方流の北条氏流を自称しており、伊豆国田方郡北条郷(現静岡県伊豆の国市寺家付近か?)を、その発祥の地としています。・・・また、ここにある横井(よこい)氏も、前述の北条氏の庶流を自称する家系です。“鎌倉幕府第14代執権の北条高時(ほうじょうたかとき)から数えて5代下った横井時永(よこいときなが)から、横井姓を使用した”とのこと。よって、桓武平氏直方流の北条氏流横井氏流?

      大極入道は巴のもん。緒方佐伯も是同し。・・・この『長倉追罰記』が記された中世頃の「大極入道(たいきょくにゅうどう)」とは、いったい誰なのか? について・・・「入道」とは、いわゆる“出家僧のこと”ですので・・・私(筆者)が想像力を働かせ、同時代人を調べてみると・・・この頃を生きた一人に、ようやく辿り着くことが出来ました。・・・臨済宗の寺院「東福寺(とうふくじ:※現京都府京都市東山区本町15丁目)」の禅僧だった「大極」という御仁です。別号を「雲泉(うんせん)」としたため、「雲泉大極」とも呼ばれます。・・・この御仁は、『碧山日録(へきざんにちろく)』という日記を遺されていますが、あいにくと、これには・・・この『長倉追罰記』で語られている、西暦1435年(永享7年)の長倉城攻め当時の記述はなく、“概ね西暦1459年(長禄3年)から1468年(応仁2年)までのもの”とされています。
      ・・・ちなみに、ここにある「大極入道」が、この「雲泉大極」だったならば、この西暦1435年(永享7年)の長倉城攻め当時は・・・雲泉大極の誕生年が西暦1421年(應永28年)と伝わりますので、「14歳」。まさに「小坊主(こぼうず)」と呼ばれる頃、すなわち年若の修行僧だった筈です。・・・更には、この「雲泉大極」は、“近江国に拠点を持つ鞍智(くらち、くらじ)氏の出身だった”とも伝わっておりますので・・・“当時、出家前の雲泉大極が、武門家系の鞍智(くらち、くらじ)氏の一員として長倉城攻めに参加した”とも考えられますし・・・“鞍智氏そのものが、そもそも武門家系と言うよりも、戦さにおいて必ず発生する戦没者供養を使命とされた氏族だった”という可能性も考えられます。・・・“中世頃には、戦後における暗黙の事として、敵味方を問わずに死者を弔うという掟のようなものがありました”ので。
      ・・・いずれにしても、この「雲泉大極」が遺された『碧山日録』は、太極自身の生活や私事、僧侶としての渉外などの公務を中心として、古代の名僧の伝記や語録の抜粋、教典に対する太極自身の解釈や考証、絵画や書物の鑑賞、詩の覚書などにも使用されており・・・結局のところ、“寺院の運営や、僧侶の仕事、生活に関する記述も見られるため、室町時代後期が検証出来る貴重な史料である”とのこと。特に、「応仁の乱」へと時代が進む最中の混乱した世情が活写されており、この頃台頭し始めた足軽(あしがる)や、庶民に関する記述が豊富であり、山城国木幡郷の郷民活動や、清水寺の勧進僧が民衆に施した救済に関する記述は、注目に値します。・・・但し、この『碧山日録』に書かれる、太極自身の文体が達筆過ぎる嫌いがあり、且つ太極自身の個性など独特の雰囲気を醸し出す内容のため、かなり難解であるとも。これに、太極自身の経歴についてが不明な点が多いことなども、“更に拍車を掛けている”とのことです。
      ・・・尚、次に・・・ここの文中では、緒方(おがた)氏と佐伯(さえき)氏も、「巴紋」を使用していたとしています。・・・緒方氏は、豊後国大野郡緒方郷(現大分県豊後大野市緒方町の一帯)を拠点とし、本姓を「大神朝臣(おおみわあそん)」とする「豊後大神(ぶんごおおが)氏流」。
      ・・・佐伯氏は、平安時代より豊後国南部佐伯地方(現大分県佐伯市付近)に拠点を置いて、氏祖を「大伴室屋(おおとものむろや)」、本姓を「佐伯宿禰(さえきのすくね)」とする「豊後大神氏流の戸次(へつぎ)氏流」。ちなみに、別ページで記述している「佐伯」とは、(※『常陸風土記』茨城郡の条)いわゆる部民(ぶみん)としての「佐伯」のことですが、「佐伯」を、そもそも「さえ(へ)き」と読むことについては諸説ありまして・・・『常陸風土記』のように、「障(さへ)ぎる者(き)」だったため、朝廷の命に反抗する者の意味と説くものや・・・『日本書紀』景行天皇紀に「騒いだ」とあることに着目し、大声を発して邪霊や邪力を追い祓ったり、相手を威嚇するといった呪術的儀礼に従事するのが、彼らの職掌だったと考えて、「佐伯部」は「サハグ部」であるとの説・・・或いは、聞き慣れない言葉を話すので、騒(さえ)ぐように聞こえたことに由来するとする説などがあります。
      ・・・いずれにしても、この『長倉追罰記』では、九州中北部一帯を拠点としていた氏族である緒方氏や佐伯氏が、遠路はるばると、北関東の常陸国那珂郡長倉まで、やって来ていたことを語っております。

      神保か藤の丸。・・・神保(じんぼう)氏は、越中国射水(いみず)郡放生津(ほうじょうづ:現富山県射水市放生津町)に拠点を置いた越中神保氏のことであり・・・元は? と云えば、上野国多胡郡辛科(からしな)郷神保村(現群馬県高崎市吉井町神保)を発祥とします。・・・家系的には、「秦(はた)氏流の椎宗(これむね)氏流神保氏流」。・・・この惟宗氏は、平安時代に始まる氏族であり、謎多き秦氏の子孫とされています。・・・但し、神保氏には、“桓武平氏や橘氏を、自称する諸流もある”とのこと。・・・また、「秦氏流の椎宗氏流神保氏」については、「竪二引両紋」とされますが、この『長倉追罰記』が記された頃は、“藤の丸、つまりは丸に藤という、藤原氏族系に多いとされる紋を使用していた”との重要証言。・・・ちなみに、8段目下にある三河鈴木氏の「藤の丸紋」とは、“デザインがかなり異なっていた”と考えられます。

      椎名かをもたか。・・・「をもたか」とは、「沢潟(おもだか)」のこと。・・・椎名(しいな)氏は、下総国海上郡椎名内村(現千葉県旭市椎名内か?)、或いは下総国千葉荘椎名郷(現千葉県千葉市中央区付近か?)を発祥とする「桓武平氏良文流の千葉氏流椎名氏流」。・・・この『長倉追罰記』が記された頃には、“下総国から越中国新川郡の松倉城(現富山県魚津市鹿熊字城山)辺りへ、本拠地を移していた”と考えられます。

      大戸羽尾か飛つはめ。・・・「飛つはめ」とは、「飛燕(とびつばめ)」のこと。但し、実形不明。・・・大戸(おおと)氏にも、諸流ありますが・・・ここにあるのは、その本姓を滋野朝臣(しげのあそん)とする氏族であり、元々は常陸国那賀郡武田郷(現茨城県ひたちなか市武田)を発祥とする武田氏に従う格好で、信濃国小県郡海野(うんの)荘(現長野県東御市本海野)から上野国吾妻郡大戸村(現群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)へ移ることになった「滋野(しげの)氏流海野氏流の浦野(うらの)氏流大戸氏流」。単純に「大戸浦野氏」とも呼びます。・・・どうして、このように断言してしまうのか? と申しますと、ここの文中に、“羽尾氏も同じ紋を使用した”と、この『長倉追罰記』の著者が認識しているためです。・・・つまりは、大戸氏も羽尾氏も、ほぼ同族であると。・・・したがって、羽尾(はねお)氏についても、大戸氏と同様のことが云えますが・・・上野国吾妻郡羽根尾村(現群馬県吾妻郡長野原町羽根尾)から信濃国小県郡海野荘へ移ることになった「滋野氏流海野氏流の羽尾氏流」。

      十文字は島津左馬頭。・・・「十文字紋」は、言わずもがなの島津(しまづ)氏の紋ですが・・・「左馬頭(さまのかみ)」とは、いったい誰なのか? について・・・西暦1435年(永享7年)の長倉城攻めの際の当主は、9代目の島津忠国(しまづただくに)です。島津氏を、薩摩、大隅、日向の三カ国の守護大名として、安定させた人物でもあります。・・・しかし、この島津忠国が、実際に官位として、左馬頭を受けたとか、或いは通称として使用した形跡が見られないため(・・・※スミマセン。私〈筆者〉の調査力不足かも知れません・・・)・・・この『長倉追罰記』では、島津一族の同門家系であり、通称名として左馬頭を使用した人物が、西暦1435年(永享7年)の長倉城攻めに同陣したと読んで構わないと想います。・・・いずれにしても・・・家系的には、“清和源氏頼朝流”を自称していた時期もあるようですが・・・これも、やはり・・・本姓を「秦氏流惟宗朝臣」とする「秦氏流の惟宗氏流島津氏流」。
      ・・・島津氏を名乗り始める発端については、惟宗忠康(これむねのただやす)という京侍(きょうざむらい)が、主筋である藤原摂関家(=藤原北家)筆頭とされた近衛家(このえけ)の島津荘(しまづのしょう:現宮崎県中南部から鹿児島県に掛けて)の荘官(=下司)として、九州に下向し勢力を拡大することとなり・・・惟宗忠康の実子ではないか? と目される惟宗忠久(これむねのただひさ:=島津忠久)が、“当時の新興勢力だった源頼朝から、正式に島津荘の地頭に任じられることとなり、島津を称した”のが始まり。・・・ちなみに島津荘は、中世日本における最大規模の荘園でした。

      一文字伊東六郎。・・・ここにある「伊東六郎(いとうのろくろう)」とは、「伊東祐堯(いとうすけたか)」のこと。日向伊東氏6代目当主(※伊東氏では11代目)のことであり・・・「六郎」とは、この頃の伊東氏当主が代々世襲した通称名です。・・・伊東(いとう)氏は、そもそも伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を根拠地とした「藤原南家為憲流の工藤氏流狩野氏流伊東氏流」のことであり・・・「伊東」とされた由来については・・・単に、“伊豆国や伊豆半島の東の辺りだったから”とする説もありますが・・・「伊豆の藤原」が転じて「伊豆東浦の藤原」、これを短くして「伊東」と呼んだという可能性もあります。・・・尚、西暦1335年(建武2年)に日向国(現宮崎県)の都於郡城(とのこおりじょう:※別名は浮船城とも。現宮崎県宮崎市都於郡町)の「地頭」を任じられ、そこへ赴任した伊東祐持(いとうすけもち)から日向伊東氏が始まります。・・・いずれにしても、西暦1435年(永享7年)の長倉城攻めの際には、「一文字紋」を使用し、南九州から北関東の常陸国那珂郡長倉まで、遠路やって来ていたことを物語っております。

      鷹の羽は菊地もん。・・・「菊地(きくち)」とは、「菊池(きくち)」のことですが、これにも諸説及び諸流があって、なかなか判然とはしないものの・・・ここにあるのは、肥後国菊池郡菊池村(現熊本県菊池市)を発祥とする「藤原北家隆家流の菊池氏流」を自称する家系ですが・・・或いは、紀(き)氏流の菊池氏流か? とも考えられています。・・・いずれにしても、九州から北関東の常陸国那珂郡長倉まで、遠路やって来ていたことを物語っております・・・が、この『長倉追罰記』の著者は、ただ単に各家名と各幕紋を羅列していた訳ではなく、遺されていた『長倉状』の各家名を元として、これを整理し、自身の校正力を充分に発揮しているようにも感じます。・・・尚、“土偏の菊地氏の現代分布は、岩手県や北海道に多く見られる”とのこと。

      熊野鈴木は稲の丸に榊也。・・・「稲の丸に榊(さかき)」の実形は不明。・・・「熊野鈴木」とは、「熊野の鈴木(すずき)」という意。・・・「熊野」とは、紀伊半島南端部(※現和歌山県南部と現三重県南部からなる地域)を示しており・・・そこは、言わずもがなの熊野信仰の中心地。・・・そして、ここに記述される「熊野の鈴木氏」の元々の家系は・・・本姓を「穂積朝臣(ほづみのあそん)」とする「穂積(ほづみ)氏流」。この「穂積氏」は、大和国山辺郡穂積村(現奈良県天理市前栽町付近か?同市新泉町か?)や、大和国十市(といち)郡保津村(現奈良県磯城郡田原本町保津)を、その本拠地としました。・・・また、ここにある「穂積氏流の鈴木氏」は、熊野本宮大社(現和歌山県田辺市本宮町本宮)の出身家系であり、ここや末社の神官を、代々受け継ぎます。
      ・・・ちなみに、西暦1435年(永享7年)の長倉城攻めの頃の鈴木氏は、12世紀頃より、熊野から紀伊国藤白(現和歌山県海南市藤白)へと移り住んだ後にも、同国雑賀荘(現和歌山県和歌山市街地周辺)や三河国矢並(現愛知県豊田市矢並町)へと分家したため・・・穂積氏流の鈴木氏流の嫡流や、これら分出家系を総称して、「鈴木党」とか、「熊野党」、「雑賀衆(さいかしゅう)」などと呼びます。・・・いずれにしても、長倉城攻めの際には、穂積氏流であることを彷彿とさせる、「稲の丸に榊紋」を使用していたことが分かります。

      三河鈴木は藤の丸。・・・ここにある「三河鈴木」とは、上記にある熊野の鈴木氏から分出した家系であり、「穂積氏流の鈴木氏流三河鈴木氏流」。単に、「鈴木党」とか、「熊野党」、「三河鈴木氏」などとも呼びます。・・・この三河鈴木氏は、“鎌倉時代から南北朝時代の頃に、三河国矢並に土着した”と伝えられており・・・室町時代に入ると、同国矢並を本拠として、同国加茂郡の一帯に勢力を広げて、三河西北部における有力な国人領主として台頭しました。・・・尚、「藤の丸紋」を使用して、藤原氏系を標榜する意図があったのか? 或いは、「稲穂に丸紋」だったにもかかわらず、単に藤と見間違われたのか? についてを知る術(すべ)は、残念ながらありません。

      大すなかしは泉安田。・・・「大すなかし」とは、「追洲流(おうすながし)」のこと。・・・泉安田(いずみのやすだ)とは・・・「泉の安田(=保田)」の意であり、この場合の「泉(いずみ)」とは・・・“和泉(いずみ)国を直接的に示すのではなく、これよりも少し南方にあった紀伊国在田(ありた:=有田)郡保田(やすだ)荘(現和歌山県有田市辻堂)を示している”と考えられます。・・・“当時は、何処何処の○○氏という場合には、概ね○○方面のという、何かと通りの良い地名を使用した”と考えられますので。・・・ここの文中にある安田(保田)氏は、元々は、甲斐国山梨郡安田郷(現山梨県山梨市小原西付近)を発祥として、安田(やすだ)氏を名乗り始め、鎌倉幕府成立後に、紀伊国在田(=有田)郡保田荘の地頭に任じられて、そこへ拠点を移したために、保田(やすだ)氏へと、使用する文字を変化させた家系とも云えます。・・・家系的に云えば、「清和源氏頼光流の武田氏流安田(保田)氏流」。

      三本からかさ名越の紋。・・・「三本からかさ」とは、「三本唐傘」のこと。・・・ここにある名越(なごえ)氏は、相模国鎌倉郡名越(なごえ:※現神奈川県鎌倉市大町の旧地名)を発祥とする「桓武平氏直方流の北条氏流名越氏流」。

      小もんの皮は秩父殿。・・・「小もん」については・・・私(筆者)が使用する古語辞典には、「小紋(こもん)」とあり、細かな模様を織物の地一面に染め出したものとされますので・・・「皮(かわ)」とは・・・きっと、河(かわ)のことだったのではないでしょうか? この文中では、秩父(ちちぶ)氏のことを記しているため・・・「皮」には、山深い処というイメージが湧きますし、河も秩父の渓谷や渓流をイメージ出来ますので。・・・いずれにしても、秩父氏は、武蔵国秩父郡(現埼玉県秩父市及び秩父郡の一帯)を拠点とした氏族であり・・・平将恒(たいらのまさつね)を祖とする桓武平氏良文流の秩父氏流か? 或いは、知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の末裔氏族か? と考えられます。

      かりかねは安倍との。・・・「かりかね」とは、「雁金(かりがね)」のこと。・・・「雁(かり、がん)」は、古来より、幸せを運ぶ鳥として、珍重されました。・・・これは、“古代中国の前漢時代の蘇武(そぶ)という人が、匈奴(きょうど)との内紛に巻き込まれ、捕われることになったものの、雁の足に手紙を付けて放ったことにより、ようやく19年目にして自身の生存を知らせることが叶うこととなって、自身の帰国許可に繋がった”という故事によります。この故事から、吉報を齎(もたら)す手紙を、「雁書(がんしょ)」などとも呼びます。・・・ここにある「安倍(あべ、あんべ、あんばい:※≒阿部)との」とは、「殿」ともされておりますので、時代的な背景を考えると・・・大和国十市郡阿倍村(現奈良県桜井市阿部付近)を本拠地とした大氏族、且つ本姓を「阿倍臣(あべのおみ)」とし、後に「安倍(≒阿倍)朝臣(あべのあそん)」とする家系でしょう。・・・この家系からは、平安時代に、かの安倍晴明(あべのせいめい)を輩出しています。

      八つほしは飯塚。・・・「八つほし」とは、「八つ星」のこと。・・・飯塚(いいつか、いいづか)氏も、列島各地に諸流がありますが、この「氏」を名乗り始めた時期などを考えると・・・おそらく、ここにある「飯塚氏」とは・・・“現在の茨城県小美玉市栗又四ケに、飯塚館(いいづかやかた)を築いた飯塚氏のことだった”と考えられます。・・・平安時代の平国香は、「常陸大掾」として権勢を誇りましたが、その後裔の平五郎左衛門兼忠(たいらのごろうざえもんかねただ)という人物が、この地に居を定め、飯塚氏を名乗り始めることになりました。・・・この「平五郎左衛門兼忠」は、2代目常陸大掾氏に当たる繁盛(しげもり:※平国香の次男)の五男と伝わっております。・・・よって、家系的に云えば「桓武平氏国香流の常陸大掾氏流飯塚氏流」。

      すみをしきに三文字は伊予の國の河野の一党。・・・「すみをしきに三文字」とは、「角折敷に三文字」のことであり・・・「折敷(おしき)」とは、三方(さんぼう)のこと。・・・この三方とは、“神樣へ食物などを供えるための白木の台であって、三方に孔が空いていることから、このように呼ばれるようになった”と云われており・・・この三方を、上から見ると四角形または八角形しているため、この様が折り敷くという表現に相応しかったことから、「折敷(おしき)」とも呼びます。・・・いずれにしても、神樣と関係の深い紋と云える、この紋は・・・伊予の大山祇(おおやまづみ:※大三島とも)神社(現愛媛県今治市大三島町宮浦)や、伊豆の三嶋大社(現静岡県三島市大宮町2丁目)の神紋とされ、これらの神社を信仰する越智(おち)氏一族の代表紋でもあります。・・・よって、ここにある「伊予の國の河野(こうの、かわの)の一党」とは、伊予国風早(かざはや)郡河野郷(現愛媛県松山市河野の一帯)を発祥とし、「河野水軍」とも呼ばれた、本姓を「越智宿禰(おちのすくね)」とする「越智氏流の河野氏流」。

      備前こしまは品の字。駿河小島は八の字。・・・「備前こしま」とは、「備前の児島(こじま)氏」・・・「駿河小島」とは、「駿河の小島(こじま、おじま)氏」のこと。・・・前者は、備前国児島郡児島郷(現岡山県岡山市の一部、同倉敷市の一部、玉野市全域)を発祥とする家系であり、鎌倉時代末期から南北朝時代に掛けて活躍した武将・児島高徳(こじまたかのり:※表記は兒嶋髙德)を輩出しています。尚、使用紋については、「品の字」としており・・・“これは、三つ星だった”と考えられます。・・・「八の字紋」を使用したという後者の駿河小島氏は、武蔵七党丹党(たんとう)の庶流に当たる小島氏です。
      ・・・この「丹党」とは、平安時代後期から鎌倉時代に掛けて、武蔵国入間郡や、同国秩父郡、同国児玉郡西部(=旧賀美郡)に亘る地域で繁栄した武士団でした。・・・よって、この「駿河小島氏」は、“丹党の有力氏族だった秩父基房(ちちぶもとふさ)の孫に当たる光成(みつなり)が、武蔵国賀美郡小島郷(現埼玉県本庄市小島の一帯)を拠点としたことにより、小島氏を名乗り始めた”という氏族であり・・・家系的に云えば、「桓武平氏良文流の秩父氏流小島氏流」。・・・尚、この小島氏は、この『長倉追罰記』の著者が、「駿河の小島氏」と認識しているように、子孫達が上杉氏の傘下に加わった影響などもあって、関東一円に広まり分布しています。

      下総の境はともへ。是は千葉のそうとかや。・・・この部分の全てを訳すと・・・「下総の境(さかい)は巴。是は千葉の草(そう:※庶子のこと)であるとか。」・・・つまり、この『長倉追罰記』の著者は、「下総の境氏」のことを、“千葉氏の庶流である”と、ほぼ断定している訳です。・・・よって、家系的に云えば、上総国武射(むさ)郡境村(現千葉県山武郡芝山町境)を根拠地とした「桓武平氏良文流の千葉氏流境氏流」。

      さゝりんとうは石川。・・・「さゝりんとう」とは、「笹竜胆(ささりんどう)」のことであり、自ら清和源氏であることを示す際に使用した代表的な紋でもあります。・・・尚、ここにある石川(いしかわ)は、「石河(いしかわ)」を含み・・・河内国石川郡石川荘(現大阪府南河内郡河南町一須賀付近)を拠点とし、源義家(※通称は八幡太郎)の六男だった義時(よしとき)を祖とする「清和源氏義家流(※これを特に河内源氏とも呼びます)の石川(=石河)氏流」。または、単に「石川(=石河)源氏」とも。

      もつかうは熊谷。・・・「もつかう」とは、「木瓜(もっこう)」のこと。・・・この熊谷(くまがい)氏にも、列島各地に諸流ありますが・・・いずれも元々は・・・“平安時代から武蔵国大里郡熊谷(くまがや)郷(現埼玉県熊谷市熊谷)を本拠地とした桓武平氏直方流の熊谷氏流を自称”しています。

      車は伊勢の外宮の宮方榊原が紋也。・・・「車」とは、「車輪紋」のこと。・・・「車輪紋」と云うと、私(筆者)を含め、いわゆる「源氏車(げんじぐるま)紋」を想像する人が多いと思いますが・・・実際には、輻(や:※車輪軸と外側輪とを結ぶ、放射状に取り付けられた細長い棒のこと〈=いわゆるスポーク部分)と呼ばれる部分に変化を持たせるなどして、本流や支流の区別や、他家との差別化をしているため、多種多様な紋様があります。
      ・・・とは云え、“車輪紋”の「源氏車」は、古来から源氏など公家や貴族をルーツとする家系を表す紋様として、広く使用されていることは事実ですし・・・ここにある「伊勢の外宮の宮方榊原」とは・・・当然に、「伊勢神宮外宮の社家を務める榊原(さかきばら)氏」の意です。・・・“この榊原氏のことを、同じく伊勢神宮外宮の社家であり、明治初期までこの役目を世襲し続けた、度会(わたらい)氏流の榊原氏”とする向きもあります・・・が、この一方で、伊勢神宮そのものには、古来から神紋を定める必要すら無かったため、後の明治期になって、ようやく皇室の紋章である「十六菊」を神紋としたという、社会的な背景もあります。・・・それでいて、西暦1435年(永享7年)の長倉城攻め当時に、榊原氏を示す紋として、実際に“車輪紋”を使用し、武門家系氏族として参陣していたことも分かる訳でして・・・“これらが同時に事実だった”とすると、一見して矛盾しているようにも思えます。
      ・・・しかしながら・・・この「伊勢神宮外宮の社家を務める榊原氏」についてを、更に特定すると・・・「藤原北家秀郷流の佐藤氏流榊原氏流」と云えるのです。もっと簡単に云ってしまえば、「藤原氏」です。・・・現実として、“伊勢神宮外宮の社家を務めた榊原氏は、この榊原を名乗り始める以前は、佐藤(さとう)氏を称していた”のです。
      ・・・この「佐藤氏」については、ご先祖が「左衛門尉(さえもんのじょう)」という官職に任じられたことに由来するとか・・・或いは、“下野国佐野(現栃木県佐野市)や、佐渡国(現新潟県佐渡市の佐渡島)を発祥地としていたため”と考えられておりますが・・・“佐藤一族の一部が、伊勢国壱志(いちし)郡榊原村(現三重県津市榊原町)へと土着し、藤原氏の隆盛に伴なう格好で以って、この『長倉追罰記』にもあるように、榊原氏を名乗り始めながら、伊勢神宮外宮の社家を務めるようになった訳”です。・・・尚、この榊原氏とともに、“佐藤氏の一流も、伊勢国に土着し同様に伊勢外宮の宮方を務めるようになったことを記念し車輪紋を使用した”とのこと。・・・やがては、伊勢信仰の広がりに伴ない、佐藤氏が、神官や御師(おし)として、諸国へ分散し・・・結果として“車輪紋”も全国的に広まることとなり、佐藤を姓とする家系の代表紋となりました。・・・したがって、車輪紋以外を使用する佐藤氏は、伊勢国へ土着しなかった別流と云えるのです。
      ・・・ちなみに、“この文中にある伊勢神宮外宮の社家を務める榊原氏の一部が、後に分派して、三河国へと移り、当時の松平(まつだいら)氏に仕えるようになり、その後裔には、徳川四天王の一人に数えられる榊原康政(さかきばらやすまさ)を輩出します”・・・が、その当時の榊原氏使用家紋については、「源氏車紋」としつつも、自らは清和源氏を称しております。・・・このことについては・・・そもそもとして、“藤原氏と清和源氏のどちらを自称してはいても、清和源氏が藤原氏から派生していること自体に違いが無かったため、清和源氏と自称したほうが、より武門家系であることを強調出来るという背景があったから”に、他なりません。・・・したがって、“この三河榊原氏が、清和源氏を称するようになった”のも・・・本来的に藤原氏と云う、同じ祖先を持つとされる、主家たる徳川(とくがわ)氏と同様に、“清和源氏義家流を自称することで、自流や徳川氏が武門家系であることを強調するためだった”とも考えられる訳です。・・・これとは別のこととして、この三河榊原氏の“車輪紋”についてを、特に「榊原車(さかきばらぐるま)」などとも呼びます。

      鳥居のもんは。八幡の神職。宮崎の法印か紋也。・・・この部分の全てを訳すと・・・「鳥居紋(とりいもん)は、八幡の神職や宮崎の法印が使用する紋である。」・・・ここにある「八幡の神職」とは、文字通りに、八幡宮や八幡神社の神職達という意。・・・これらの総本社は、「宇佐神宮(うさじんぐう:現大分県宇佐市南宇佐)」であり・・・そこの神職を束ねる「大宮司職」は、平安時代中頃まで、豊後大神(おおが)氏が務めました・・・が、平安時代以前の奈良時代に、「宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん:※道鏡事件とも)」が起きたため・・・「神主職」については、以後は宇佐(うさ)氏が台頭することとなり・・・後には、この宇佐氏から分流した家系(=宮成〈みやなり〉氏、到津〈いとうづ〉氏、岩根〈いわね)氏、安心院〈あじむ〉氏)が、世襲するようになっていました。・・・したがって、この『長倉追罰記』の著者が、現に「鳥居紋」を使用し、西暦1435年(永享7年)の長倉城攻めに参陣したという氏族を特定せずに、「八幡の神職」と一括りにした理由にも頷ける訳です。
      ・・・次に、八幡の神職と同様に、“鳥居紋を使用した”という「宮崎の法印」ですが・・・そもそも「法印(ほういん)」とは、僧位の最高位であり、法眼(ほうげん)や法橋(ほつきよう)の上位に当たる法印大和尚位(だいかしようい)の略とされます。簡単に云えば、高僧や偉いお坊さんのこと。・・・ここにあるように、『長倉追罰記』の著者が、わざわざ「宮崎の」としているため・・・ここは、宮崎(みやざき)氏出身の高僧、或いは九州宮崎(みやざき)地方からやって来た高僧と読むべきかと想います。・・・当時の長倉追罰記著者さえも、人物や○○氏流○○党などについてを特定しなかったため、詳細については不明となりますが、“現に鳥居紋を幕紋としていた”との証言です。

      七星は望月。・・・望月(もちづき)氏は、信濃国佐久郡望月(現長野県佐久市望月)に拠点を置いて、本姓を「滋野氏」とする家系です。・・・この望月氏の由来は・・・平安時代初期頃に遡りますが・・・信濃国の貢馬(こうば:※馬を朝廷に献上すること。または、献上される馬そのもの。鎌倉時代には、馬を朝廷へ貢献する前に将軍が営中で内覧しました。)において、それまで8月29日に行なっていた駒牽(こまひき)の儀式を、満月の日(=望月、8月15日)に改めるようになります。・・・この日に、駒牽された貢馬のことを、特に「望月の駒」と呼びました。・・・そして、“朝廷への貢馬の数が最も多かった”とされるのが、「信濃御牧(しなののみまき)」の「牧監(もくげん、ぼくかん)」とも伝えられる「滋野氏」であり、信濃十六牧の筆頭とされる望月の駒を継承した一族に対して、望月の姓が与えられることとなったのです。・・・よって、「七星紋」を使用したという望月氏は、「滋野氏流の望月氏流」。

      梶の葉は諏訪のほうり。・・・ここにある「諏訪のほうり」とは、諏訪の大祝(おおほうり)を務めた諏訪(すわ)氏のことであり・・・“平安時代末期には、既に梶の葉紋が諏訪大社(※長野県の諏訪湖周辺に四宮あり)の神紋とされていたこと”が分かります。・・・この諏訪氏は、信濃国諏訪郡(現長野県諏訪市及び同県諏訪郡下諏訪町付近)を拠点としつつ、武士と神官双方の性格を合わせ持つ氏族でした。・・・「武士」としては、“桓武天皇の後胤? や、清和源氏満快流の諏訪氏流? を自称して、鎌倉幕府執権北条氏の御内人を務めたり、その後には、南朝方武将や室町幕府足利将軍家の奉公衆を務めるなど、当時としては、一般的な国人領主だった”とも云えます・・・が、「神官」としては、信濃国及び諏訪神社を観請した地などでは、絶対的な神秘性を以って、捉えられておりました。
      ・・・これは、朝廷から、諏訪大社が信濃国の一の宮として重んじられていたことも、その背景とされますが・・・“ご祭神の諏訪明神(すわみょうじん)、つまりは建御名方命(たけみなかたのみこと)が、そもそも軍神とされ、且つ諏訪氏自らが建御名方命の後胤をも自称していたため、古来から極めて尊貴な血統として武人達の尊崇を集めていたことなどに、最も影響を受けた”のではないか? と考えられます。


・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】