街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      ※ 西暦1865年(元治2年)1月3日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)や、京都所司代・松平定敬(※伊勢桑名藩主、京都守護職である松平容保弟)ら在京諸侯が、参内して、正を賀す”・・・と、“特に一橋慶喜が去冬の天狗党勢鎮定の功”を賞されて、「末広(すえひろ)」を賜う。【綱要】・・・朝廷から賜った「末広」とは?・・・扇子(せんす)・・・或いは、茶道具の類いだったかも知れません。・・・いずれにせよ、広がり栄える意で、祝い事に用いた縁起物だったかと。
      ※ 同年1月3日:“前年12月28日に近江国海津を発っていた水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「京都・本圀寺」に「帰着」する。【綱要】・・・
      ※ 同年同日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が・・・“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)が居る若狭小浜藩屋敷(※若州屋敷とも)”へ「年賀」に赴く。・・・“松平昭徳の本圀寺帰着直後の出来事”であり、単なる年賀挨拶とは考えられ難く・・・“兄から弟へ課せられていた任務の結果報告や中間報告などもあった”と考えるのが自然かと。
      ※ 同年1月18日:「常野浪士追討軍(=追討幕府軍)総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら天狗党勢の受取りのため”として、「上京」し・・・次いで、「越前国敦賀」へと向かう。【綱要】・・・・・・
      ※ 同年1月19日:“浪士・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)など天狗党勢の身柄”が、「常野浪士追討軍(=追討幕府軍)総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」に引き渡される。【綱要】・・・“それまでは、金沢藩士・永原甚七郎らによって越前国敦賀にて厚遇されていた”と云われる天狗党勢でしたが、田沼意尊率いる追討幕府軍が敦賀に到着すると、状況が一変してしまったようです。・・・関東で天狗党勢が齎(もたら)した惨禍を目の当たりにしていた田沼意尊らは、この金沢藩による天狗党勢に対する厚い待遇に激怒し・・・それまで天狗党勢収容を担当した金沢藩から、天狗党勢の身柄引渡しを受けた後・・・直ちに、彼らを「鰊倉(にしんぐら:※鰊粕の貯蔵施設のこと)」の中へ放り込んで、そこで厳重に監禁しました。武田正生や藤田信など一部の幹部達を除いた、ほとんどの者達を。・・・具体的には、彼らを・・・“手枷足枷(てかせあしかせ)とし、衣服は下帯一本に限って、一日当たり握飯一つと湯水一杯のみを与えた”・・・とのこと。
      ・・・すると、腐敗した魚臭と用便(排泄)用の桶が発する異臭が籠る狭い倉の中へ大人数が押し込められたため、当然に鰊倉内の衛生状態は最悪となり・・・また、折からの厳寒も相まって、免疫力を失なった者達が続出し・・・結果として、“収容中に20名以上が亡くなった”・・・と云います。・・・
      ※ 同年1月23日:「朝廷」が、“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)の天狗党勢鎮定における功”に対して・・・「賞詞」を賜う。・・・この時の松平昭徳は、数えで13歳。・・・
      ※ 同年1月29日:「水戸藩」が、“大寄合頭・戸田忠則(※通称は銀次郎、戸田忠敞の嫡男、元水戸藩家老)や、大番頭・渡邊半助(※元々は鎮派)、寄合の久木直次郎及び笠井権六らによる藩政取締りが不出来であったこと”を責めて・・・“彼らの食禄と邸宅を没収し、彼らを禁固する”・・・とともに、“それぞれの子ら”には、「扶持米」を給しながらも、「蟄居」させる。【綱要】・・・これも、やはり・・・諸生党が水戸藩の実権を掌握し、“徳川慶篤から新たな藩主が決定される以前の期間中に行なわれた2回目の処罰”となりますが・・・藩主・慶篤を補佐していた戸田忠則や・・・当初は諸生党を率いたこともある鎮派・渡邊半助・・・大発勢に参加した鎮派・久木直次郎及び笠井権六ら・・・の責任を問い・・・この日、一斉に処分したのです。・・・藩内の政権移行期とは云え、大発勢に協力・・・つまりは、藩主・慶篤の意向を酌んで行動した筈の者達に対する・・・“あからさまな処分”でした。
      ・・・渡邊半助については・・・“前藩主・徳川斉昭(※烈公)の正室だった貞芳院への働き掛け”が、諸生党側に露見してしまったためなのでしょうか?・・・いずれにしても、この時の諸生党は、“当時の幕府の御意向というものを第一優先に物事を進めていた”ことが分かります。・・・

      ※ 同年2月1日:“幕府大目付・黒川盛泰(※近江守とも、幕府旗本)ら”が・・・“浪士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)ら25名”・・・を「糾問」する。【綱要】・・・ここにある「黒川盛泰」とは、追討幕府軍総括・田沼意尊に従がって、大発勢を率いることとなった宍戸藩主・松平頼徳に対して、前年10月5日の切腹申し渡しや、検使役を担った人物でもあります。・・・尚・・・この日は、黒川盛泰らが越前国敦賀に到着してから、おそらく10日程経っていた頃と考えられますので・・・“この日、黒川盛泰らが糾問した”ということは、“彼ら25名に対する処遇については、この時既に決定されていた事”を物語っているかと。・・・いずれにしても、この武田正生ら25名に対しては、かなり厳しい取調べや拷問が行なわれていた筈です。
      ・・・また、ここでは・・・“武田正生を含む25名”となっておりますが・・・結果からすれば・・・“これより3日後、武田正生ら天狗党勢の幹部24名が斬刑に処される”ことになります。・・・すると、“25名のうちの1名、つまりは斬刑に処されなかった者とは、いったい誰なのか?”・・・となりますが、この1名が・・・黒川盛泰らによる拷問中に亡くなってしまったのか?・・・或いは、拷問に耐えられず、幕府側に都合の良い情報提供をしたため、司法取引的に無罪放免となったのか?・・・または、何があっても公表出来ない、すなわち表向きに出来ない人物だった(※例えば、当初から水戸藩に潜入していた幕府側情報提供者や工作員的な人物などの可能性もあったかと)のか?・・・それとも、“25名”という表記が、単なる誤記だったのか?・・・“全く以って謎”となりますね。・・・
      ※ 同年同日:「越前福井藩」が、“常野浪士(=天狗党勢)を警固するため”として・・・“家老・酒井孫四郎(さかいまごしろう:※通称は与三左衛門、禄助とも)に藩兵を率いさせ、同国敦賀へ赴かせる”・・・とともに、「前藩主・松平慶永(※号は春嶽)」が、「家老・酒井孫四郎」に命じて・・・「大目付・黒川盛泰(※近江守とも、幕府旗本)」に対し・・・“浪士の処置については公正でなければならない”・・・と説かせる。【綱要】・・・“最終局面における武士の情けパートⅢ?”・・・
      ※ 同年2月3日:“大目付・黒川盛泰(※近江守とも、幕府旗本)ら”が、“越前福井、近江彦根、若狭小浜の三藩”に対して・・・“常野浪士(=天狗党勢)を斬首する者(=介錯人)を出すように”・・・と命じるも、「福井藩」が、“その猶予”を請う。【綱要】・・・この日、福井藩が首斬り役(=介錯人)提供を事実上辞退したという理由については・・・“前福井藩主・松平慶永(※号は春嶽)が、尊皇攘夷派からの報復を恐れたため、役目を辞退させたのだ”とも伝わっております・・・が、私(筆者)は、おそらく“武士の情けパートⅣ”であったかと。・・・天狗党勢に対する一橋慶喜公による厳しい処分然り。・・・実際に、天狗党勢の鎮圧で活躍したという福井藩府中城主・本多副元も、元はと云えば常陸府中の生まれ育ちでしたから。
      ・・・つまりは、“同郷意識が互いに強く、相手方が自分達と思想や哲学を共有し得る同郷の者達であり、ましてや自分の身内も同然であった場合、相手方が無関係の者達と比較した時に、より厳しい手段を以って一定責任を果たさねばならない”・・・というのが、「朱子学」の影響を強く受ける「水戸学」でしたし、また・・・当時の武士道精神を学び育った者達に共通して植え付けられていた使命でしたから。
      ・・・このことは、幕府から討伐対象、若しくは鎮圧対象とされていた武田正生らの天狗党勢に参加した者達にも云えることですが、自分達に襲い掛かる者達以外の一般の人々に対しては、むやみな狼藉行為を厳に慎む行動を採っていた訳でして・・・むしろ相手方が思想を共有出来る同郷の者達や自分の身内と同然であったからこそ、尊皇攘夷の素志(※平素から抱いている志のこと)などを知らしめるために、わざわざ軍事行動を伴なう派手なパフォーマンスで演出していたのではないか? とも想える程であり・・・要するに・・・天狗党勢に参加した者達は皆、追討幕府軍や諸生党勢を相手に激戦を繰り広げた那珂湊を脱出する際には既に、自分達が死ぬことは承知の上であって、後は残された人生の使い方と使い処、すなわち花道を探し求めていたのではないか? とさえ考えられます。
      ・・・そして、この西暦1865年(元治2年)2月3日・・・福井藩は、幕府大目付・黒川盛泰らから斬首役を出すようにと指名され、しかも・・・その筆頭に挙げられていた訳です。・・・当時の福井藩とすれば、幕府から自藩一藩のみとはされなかったものの、筆頭に指名されて非常に困惑したのも事実でしょう。・・・それにしても、“幕府が斬刑を執行する介錯人を命じた福井藩以外の二藩”が、彦根藩と小浜藩だったとは・・・。どちらの藩も、かつての「安政の大獄」に深く関与していた藩でしたので、或る意味で徹底した施策を、当時の幕府は採用した訳です。・・・ちなみに、実際の天狗党勢の斬刑には・・・“彦根藩士が首斬り役(=介錯人)に志願し、かつての桜田門外で殺害された主君・井伊直弼の無念を晴らした”・・・とも伝えられております。・・・

      ※ 同年2月4日:「幕府」が・・・“元水戸藩士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元家老)や、武田彦衛門(※武田正生の長男)、武田魁介(※武田正生の次男)、田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)、藤田信(※通称は小四郎、藤田彪の四男)、
      須藤孝正(※通称は敬之進)、根本義信(※通称は新平、変名は岸新蔵)、畑以義(はたもとよし?:※通称は弥平、変名は小栗紋平)、竹内延秀(※通称は百太郎、変名は竹中万次郎、元水戸藩士)、滝平佳幹(※通称は主殿、行方郡玉造村大神宮の元神官)、三橋弘光(※通称は金助、金六とも、変名は山形半六)、
      山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄、元目付役)、山国共惟(やまぐにともただ:※通称は淳一郎、山国共昌の長男)、長谷川守本(はせがわもりもと:※通称は通之介)、村島正義(むらしままさよし:※通称は万次郎)、井田好徳(※通称は平三郎、因幡とも)、朝倉景行(※通称は源太郎)、
      川瀬知新(※通称は専蔵、元表右筆)、国分信義(※通称は新太郎、元新徴組)、米川和常(よねかわかずつね:※通称は米吉、変名は米橋誠之進)、高野昌長(たかのまさなが:※通称は長五郎)、川上清太郎(かわかみきよたろう)、内藤昇一郎(ないとうしょういちろう:※常陸国那珂郡大宮村の元農民)、前島義重(まえじまよししげ:※通称は徳之助、常陸国上戸村庄屋・前島久五郎の長男)ら24名”

      ・・・を「斬刑」に処して・・・“武田正生と山国共昌、田丸直允、藤田信ら4名の首級について”は、「水戸」で「梟(きょう)」することに決す。【綱要】
・・・こうして・・・“武田正生ら天狗党勢の幹部24名全員が、来迎寺(現福井県敦賀市松島町2丁目)の境内において斬首される筈だった”・・・のですが、何故か? 藤田信のみ、死刑執行日が19日程ずれて・・・“同年2月23日に亡くなった”・・・とされています。・・・これには、様々な理由が考えられますが・・・天狗党勢の結成母体の一つとも云える筑波勢挙兵の首謀者と目されていた藤田信のみが、幕府大目付らによる厳しい取調べや拷問を受け、這って動く程の体力さえも無かったか? 或いは、取調べ調書に漏れなどが無いように、詳細記録を残すためだったのか? 若しくは、越前福井藩の前藩主・松平慶永(※号は春嶽)らの勢力が、何らかの政治的圧力を加えたためだったのか? わざわざ藤田信のみに虜囚の辱(はずかしめ)めを受けさせるためだったのか?・・・など、いろいろと可能性は考えられます。
      ・・・尚、天狗党勢幹部らの処刑場とされた「来迎寺」は、“元々は町人専用の処刑場だった”と云われるため・・・当時の武士階級出身者にとっては、“恥辱の極みだった”とは云えるかと。
      ・・・いずれにしても、天狗党勢幹部ら4名の首級は、それぞれ塩漬けにされた後に、水戸へと送られ・・・同年3月25日より3日間、諸生党が藩政を握る水戸城下において「引き回し」され・・・更には、激戦地だった那珂湊においても晒されて、その後に「野捨て」とされたのです。・・・
      ・・・ちなみに、武田正生や、武田彦衛門(※武田正生の長男)、武田魁介(※武田正生の次男)に申し渡された「斬刑宣告文」・・・この理由書には、かつての水戸藩門閥保守派の重鎮・結城朝道(ゆうきともみち:※通称は寅寿〈とらじゅ、とらかず、ともひさ〉、名は晴明とも、元水戸藩執政)の名が見え、かねてから藩内抗争が続いていたことなども物語ってもおります・・・が、いずれにせよ、水戸藩・市川三左衛門らによる申し立てに依るものとされております。・・・また、“彼ら天狗党勢幹部達3名”の「辞世の句」も伝わっておりますので・・・ここで、併せてご紹介致します。(↓↓↓)・・・



    《斬刑宣告文》

     元水戸殿書院番頭彦衛門父隠居
            武 田 伊 賀
     右
            武 田 彦 衛 門
     右伊賀次男大番組
            武 田 魁 介


    「其方共儀元同藩市川三左衛門等申立候趣主家ニ於て採用相成候てハ故同藩結城寅寿之存意貫き家政取乱るる様可相成と存廻り愁訴致段ハ主家の為筋と存込仕成候心得ニ有之共慎中の身分下総国小金駅へ出張追々同志の者共多人数屯集又ハ鎮静として出張致候松平大炊を申欺随従致城内へ入可申と仕成其上常州那珂湊其外所々暴行御討手並主家へ敵対剰ヘ主家縁辺へ相便り可申と軍装を以て所々横行国々動乱為致農民を悩す段御大法を犯し不容易所業ニ及ぶ右始末不恐公儀仕方重々不届至極ニ付厳科ニも可被処所追て右次第恐入候儀と心付加州勢へ降伏致候ニ付格別の御宥免を以て斬罪申付もの也」


    《辞世の句》

    ・武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)

     かたしきて寝ぬる鎧の袖の上におもひぞつもる越のしら雪
     雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪 〈計2首〉


    ・田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)
     ※意図的に辞世の句を遺さなかったか、何らかの理由で伝わらなかったか? 〈計0首〉

    ・山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄、元水戸藩目付役)
     ゆく先は冥土の鬼と一と勝負 〈計1首〉

    ・藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)
     かねてよりおもひそめにし真心を けふ大君につげてうれしき
     さく梅は風にはかなくちるとても にほひは君が袖にうつして 〈計2首〉


    ・・・ここで、特に注目するのは、“藤田信の1首目の内容”です。この辞世の句は、『義烈回天百首(ぎれつかいてんひゃくしゅ)』という、西暦1874年(明治7年)9月に発行された幕末志士達の歌を集めた和歌集に掲載されているものですが、その評価としては・・・“編集者の思い込みや、伝聞の誤りによって、内容の信用度はあまり高くないが、当時の民衆の幕末志士に対する思いや、英雄譚の需要などを読取ることが出来る”・・・と、一応はされております。
    ・・・いずれにしても、“もしも藤田信の1首目の内容が真実だった”とすれば・・・「大君(たいくん)」とは、藤田信からすれば、自ずと一橋慶喜公のことを示す筈であり・・・「けふ」すなわち「今日」、「予てより思潜(おもひそ)めにし真心を大君に、告げて嬉しき」となります。・・・つまりは、西暦1865年(元治2年)2月23日に、お忍びの一橋慶喜公が越前国敦賀の来迎寺を訪ね、藤田信と直接は対面出来ずとも・・・何らかの方法で、“尊皇攘夷の素志”を伝えることが出来た事を示唆している訳です。
    ・・・もしかすると、この当たりの事情が、武田正生ら23名の天狗党勢幹部達の斬刑執行日から遅れること19日程経ってから、藤田信が斬刑に処された理由だったのかも知れません。・・・また、これも想像の域を出ませんが・・・もしも・・・藤田信から「大君」に対する確実な意志伝達を、幕府が保証しなければ、肝心な取調べ事項については、藤田信は“完全黙秘”を貫き通し・・・何が何でも、「大君」へ直接に意志伝達させよ! さもなくば、自らが「大天狗」となって、更なる大災を齎(もたら)すものと心得よ!・・・などと、周囲を嚇(おど)し掛けていた可能性も??? ・・・



      ※ 同西暦1865年(元治2年)2月8日:“幕府老中・阿部正外(※陸奥白河藩主)及び本庄宗秀(※松平宗秀とも、丹後宮津藩主)”が、“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男、後の徳川慶喜のこと。尚、一橋慶喜は通称、本名は松平昭致)”に対して・・・“江戸へ帰府する台命(たいめい:※将軍や三公など貴人の命令のこと)を伝える”・・・も、「一橋慶喜」は、これに従わず。【綱要】・・・一橋慶喜公としては、あくまでも朝廷を守護する姿勢を採った訳です。これこそ尊皇思想だったかと。・・・また、この時局において江戸へ帰るのは、先が読めない上に、打てる選択肢が狭められるとの政治判断も働いていた筈。・・・
      ※ 同年2月15日:「幕府」が・・・“元水戸藩士の秋山正則(あきやままさのり:※名は正元とも、通称は又三郎)や、高橋秀辰(たかはしひでたつ:※通称は市兵衛)、小野信之(おののぶゆき:※通称は藤五郎)、芹澤豪幹(せりざわたけもと?:※通称は助次郎、介次郎とも)、滝口正栄(たきぐちまさえ?:※通称は六三郎)、岩間誠道(いわましげみち:※通称は久次郎、岩間誠之の弟)、玉造清之允(たまつくりせいのじょう:※名は徳之介とも)、安藤信順(あんどうのぶより:※通称は彦之進)、桑屋道一(くわやみちかず?:※通称は元三郎)ら135名”・・・を、「越前国敦賀」にて「斬刑」に処す。【綱要】・・・
      ※ 同年2月16日:「幕府」が・・・“元水戸藩士の浜野忠正(はまのただまさ:※通称は松次郎)や、下野遠則(しものみちのり?:※通称は廉三郎)、中村重明(※通称は親之介)、市毛幸之介(いちげこうのすけ)、本村園三郎(もとむらそのさぶろう)、関内徳光(せきうちのりみつ:※通称は熊五郎)、大久保信弘(おおくぼのぶひろ:※通称は信之介)、檜山茂高(ひやましげたか:※通称は三之介)ら102名”・・・を、「越前国敦賀」にて「斬刑」に処す。【綱要】・・・・・・
      ※ 同年2月19日:「幕府」が・・・“元水戸藩士の綿引忠保(わたひきただやす:※通称は左近、変名は羽黒久米之介)、や、原弁之介(はらべんのすけ)、川島盛之介(かわしまもりのすけ)や農民の秋葉与衛門(あきばよざえもん)及び黒澤八郎(くろさわはちろう)ら75名”・・・を、「越前国敦賀」にて「斬刑」に処す。【綱要】・・・同年2月4日からの処刑者数累計は、336名となります。・・・・・・・・・
      ※ 同年2月21日:「幕府」が・・・“元水戸藩士の武田蓋(たけだかい?:※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、すなわち武田正生の孫)や、鈴木福太郎(すずきふくたろう)、古内丑太郎(ふるうちうしたろう)、関清太郎(せききよたろう)、照沼粂次郎(てるぬまくめじろう)ら100名余り”・・・を「遠島(えんとう)」に処す。【綱要】・・・「遠島」とは、追放よりも重い刑とされ、江戸幕府(=徳川幕府)では東日本の天領の流刑者達を、主に八丈島などの伊豆七島と佐渡島へ配流しました。・・・尚、武田蓋らが、「遠島処分」で済まされた理由は、“若年であったから”とされています。・・・ちなみに、武田蓋は、この時16歳。・・・
      ※ 同年2月22日:「幕府」が、“日光東照宮の奉幣使(ほうへいし)参向のため”として・・・“共に通行する沿道の諸候ら”に対して、「警衛」を命じて、“常陸や下野の浪士”に備えさせる。【綱要】・・・「奉幣使」とは、勅命によって、奉幣のために山陵や神宮、神社に出向く使者のこと。・・・この時の幕府としては・・・油断すれば、奉幣使一行が常陸や下野の浪士達の格好の標的となるのではないか? と、いわゆる“報復の連鎖”を警戒していた模様です。・・・
      ※ 同年2月23日:「幕府」が・・・“元水戸藩士の朝倉景敏(あさくらかげとし:※通称は三四郎、朝倉景行の弟)や、樫村直経(かしむらなおつね:※通称は平太郎)、杉山当直(すぎやままさなお:※通称は秀太郎、杉山当人の子)ら16名”・・・を、「越前国敦賀」にて「斬刑」に処す。【綱要】・・・“天狗党勢に与していた”という理由により、斬刑に処された者達の累計は、合計352名に上ります。・・・また、「お構いなし」や「追放」とされた者達が、187名。・・・水戸藩領の農民らという理由により、水戸藩へ引渡された者達は、130名となります。・・・ちなみに、“これらの処刑の様子を見ていた”という、或る加賀金沢藩士は・・・「徳川家の命禄が尽き果てんとしていることを準備されていたかの如き、と考えられよう」・・・と記しているほか・・・そして、行き掛かり上天狗党勢に従軍させられていた美濃や尾張の農民ら78名が、幕府によって釈放されているのですが・・・“そのうちの一人が、次のように述べて、処刑された人々の冥福を祈った”と云います。
      「武田をはじめ、(幕府役人からの)呼出しの後に帰って来る人がいないので、江戸表へお差し送りかと思ったが、承ったところでは、いずれも打ち首になったとのことである。仕置場の方角を遠望したところ、天に鷲や烏が千羽も群がり、愁(うれ)いの鳴き声を聞いた。ただ、今もそれが耳に残り、永く世話となりし人々が死塁になると思った。私事による悪事で済まされる筈もないが、段々とご慈愛に預かり紛れつつ、せめてもと、一ぺんの香花を手向けたいと思う。」・・・と。・・・
      ※ 同年同日:「幕府」が、“近江彦根藩への敦賀警備を止めさせる”・・・とともに、“水戸藩へ引渡す浪士137名のうち70名”を「付預(つけあずけ)」とする。【綱要】・・・何故に、幕府は近江彦根藩へ“137名のうちの70名を預けた”のでしょうか?・・・「預け」とは、本来は「監禁刑」を意味します。・・・おそらく、このことは・・・“幕府が、「桜田門外の変」などの共謀者達を、更に炙(あぶ)り出し、取り調べるための時間的な猶予を彦根藩へ与えたことを示唆している”・・・と想います。・・・更に云えば、“137名のうち67名の身柄は、「桜田門外の変」などとは無関係であった”とされて、この後水戸藩へ送られるのですが・・・“残りの70名については、何らかの関係性が認められた”・・・ということであり、且つ“その仕置きについても、彦根藩に一任していた”ことが分かります。・・・きっと・・・“この70名には、彦根藩による過酷な訊問や監禁が待ち受ける運命だった”かと・・・。
      ※ 同年2月24日:「幕府」が、“若狭小浜藩への敦賀警備を止めさせる”・・・とともに、“流罪となる浪士137名を、小浜藩へ暫らくの期間”について「付預」とする。【綱要】・・・このように、前日に近江彦根藩へ命じた件と同様に、“幕府のさじ加減ひとつで、諸事が決められていた”ことが窺えます・・・が、一方では・・・西暦1863年(文久3年)12月21日以降については、既に・・・一橋慶喜公が京都・若狭小浜藩屋敷(※若州屋敷とも)を宿所、すなわち自身の活動拠点としていたため、“更に流罪となる筈だった浪士137名の健康状態など様々な情報を比較的早く入手出来る訳であり”・・・もしかすると、“水戸浪士達との書状の遣り取りなど”・・・何らかの・・・間接的且つ限定的な意思伝達については可能だったのかも知れません。・・・それとも、若狭小浜藩と云うのは、単なる偶然の一致なのでしょうか?・・・
      ※ 同年2月25日:「常野浪士追討軍(=追討幕府軍)総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、「越前国敦賀」を発って、“帰府の途”に就く。【綱要】・・・こうして・・・田沼意尊は、“現地における厳しい仕置き”を終えて、江戸へと向かったのでした。・・・
      ※ 同年2月26日:“幕府大目付・黒川盛泰(※近江守とも、幕府旗本)ら”が、“常野浪士追討軍(=追討幕府軍)総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)に続いて”・・・「越前国敦賀」を発ち、“帰府の途”に就く。【綱要】・・・
      ※ 同年2月内:“下総及び常陸両国諸村の名主や組頭ら”が・・・“去々年以来の水戸浪士らの所在や掠奪(=略奪)の事情”・・・を、「幕府」へ「上申」する。【綱要】・・・“幕府への上申”とはなっておりますが・・・実態としては、幕府による裏付け捜査や後追い調査だったかと。・・・

      ※ 同年3月5日:「水戸藩」が、“常野浪士に与した党”を、「常陸国長岡」において、「処刑」する。【綱要】・・・・・・これも、やはり・・・諸生党が水戸藩の実権を掌握し、“徳川慶篤から新たな藩主が決定される以前の期間中に行なわれた3回目の処罰”となります・・・が、この時の様相は、更に厳しいものがありました。・・・この時、長岡の原で磔刑に処せられたのは・・・大発勢に参加するも、一旦逃れた後に、“再び囚われの身となった三木源八郎(みきげんぱちろう:※水戸藩元小姓頭取)と、その子の之秀(ゆきひで)などの十数名”です。・・・“常野浪士に与した党として、浪士の家族まで、水戸城下の上町下町辺りを引き廻しとされた後に、長岡の原に集められ、一斉に処刑されてしまった”とのこと。・・・
      ※ 同年同日:「下総古河藩」が、重ねて「書(簡)」を「幕府」へ致して・・・“日光東照宮への神忌の下向使警衛か、或いは水戸藩浪士の御預(=幽閉)か、其の一方についてを免じられるように”・・・と請う。【綱要】・・・当時の古河藩主は、土井利則(※官職名により大炊頭とも)です。・・・前年12月11日の時点では既に、那珂湊にて投降した大発勢のうち榊原照煦ら100名を預けられており・・・更に前月22日に発せられた幕命を受けていたため・・・“その両方は、とても遂行することは出来ません”・・・となった模様。・・・
      ※ 同年3月6日:「幕府」が、「横濱佛蘭西語傳習所(よこはまふらんすごでんしゅうじょ)」を「開設」する。・・・通称は、「横浜仏語伝習所」とも。所在は、現在の神奈川県横浜市中区本町6丁目。・・・「語学学校」とはされていたものの、そのカリキュラムには、フランス語だけではなく、地理学や歴史学、数学、幾何学、英語、馬術などもあったとか。
      ※ 同年3月9日:「美濃大垣藩」が、“常野浪士の糾問状”を、「幕府」へ「上申」する。【綱要】・・・この時の大垣藩が、それまで幕府や尾張藩などから重宝されて、諸々の命令や協力要請を受けていたのには、“実は訳があった”のです。・・・当時の藩主は戸田氏彬であり、現に天狗党勢の西上を阻止するため大垣藩兵が活躍しましたが、“このように天狗党勢に対しては他藩と比べ積極的に関与せざるを得ない理由を抱えていた”とも云えます。・・・その理由は、やはり・・・先代藩主の戸田氏正(とだうじまさ)時代に遡りまして・・・この氏正は、西暦1856年(安政3年)10月25日に隠居し、長男の氏彬に家督を継がせましたが・・・それまで、「安政の大獄」が始められる約2年前までは、水戸藩主・徳川斉昭と親しい間柄であったため・・・自藩においては藩政改革に努め、大砲鋳造などの洋式軍制導入を積極的に行なうなど、次第に尊皇攘夷論に傾倒した人物でした。・・・したがって、「安政の大獄」が始められると、当然に水戸派の人物、ひいては水戸藩寄りの藩と見做される危険性を抱えていたのです。
      ・・・このような評価を払拭するため、家督を継承して藩主となった長男の氏彬は、“天狗党勢対策においては積極的な態度を認知させたかった”と考えられます。・・・そして、このような最中に、或る意味で・・・その実績を認められつつあった大垣藩が、常野浪士達の糾問状を幕府へ上申した訳です。・・・このことが意味するのは、幕府が浪士達を果断に処刑していたという事実とともに・・・一方では、“常野浪士達からも、聞く耳を持っていた”と後世に知らしめることが出来るため・・・結果としても、“多大な効果があった”とも云えますが・・・まさに・・・諸藩の事情というものが入り乱れていた、当時の世相が窺えるかと。・・・
      ※ 同年3月10日:「幕府」が、“常野浪士追討において人馬を継立(つぎたて:※宿毎に人馬を替えて送ること)する経費が嵩(かさ)んだため”として・・・“日光街道の間々田宿、小山宿、宇都宮宿”に対して、それぞれ「金二百両」を「貸与」する。【綱要】・・・ということは、裏を返せば・・・この時点で金二百両を宛(あて)がわなければ?・・・つまりは、“各宿場町を拠点とした尊皇攘夷論の再燃”・・・若しくは、“一揆発生を封じ込む必要性に迫られていた”・・・ということかと。・・・
      ※ 同年3月11日:「常野浪士追討軍(=追討幕府軍)総括・田沼意尊(※玄蕃頭とも、遠江相良藩主)」が、「越前国敦賀」より「帰府」して、「登営」する。【綱要】・・・「登営」とは、江戸城に登城することですので、つまりは・・・将軍・徳川家茂や幕閣への任務完了報告を伴なう登城だったかと。・・・
      ※ 同年同日:「陸奥白河藩」が・・・“常野浪士が領内を通行した際に措置を誤った藩士については謹慎させたこと”・・・を、「幕府」へ「上申」する。【綱要】・・・白河藩主は、幕府老中・阿部正外。・・・そんな幕閣の自領内で、“痛恨のミス”が発生した模様。・・・と云うか、“尊皇攘夷派に与した自藩士の存在を、ひた隠し”にしている気配も・・・。
      ※ 同年3月13日:「幕府」が、“肥前福江藩の領内”にて、“常野浪士35名”を罰する。【綱要】・・・福江藩???・・・「福江藩」とは、五島列島全域を治めた藩であり、「五島藩(ごとうはん)」とも呼ばれます。・・・そんな西国で常野浪士ら35名が組織的な行動を採っていた? ・・・もしかすると、肥前佐賀藩や、長州藩、薩摩藩などと連携する協議を目的としていたか?・・・想い起こせば・・・「桜田門外の変」の前後も・・・。
      ※ 同年3月14日:「朝廷」が、「幕府老中・本荘宗秀(※松平宗秀とも、丹後宮津藩主)」を、“御召(おめ)し”によって「参内」させる・・・と、“本荘宗秀に東下を命じて、(征夷)大将軍の上洛を促さしめ、且つまた水戸藩の興廃(こうはい:※盛んになることと、廃れること)に関する措置については朝裁(ちょうさい:※朝廷の裁決や裁断のこと)を経るべき”・・・と令す。【綱要】・・・当然のことながら・・・この時の水戸藩(水戸徳川家)は、「興廃」という厳しい文言を、朝廷から充てられる程に・・・その興廃状況が、幕府が朝廷からの注文を受ける程、喫緊の政治課題と認識されていたことが窺えます。・・・尚、天狗党勢の降伏後も、一橋慶喜公を筆頭として・・・水面下では、朝廷に働き掛け続けていた勢力が複数あったことは、ほぼ明らかかと。・・・

      同年同日(=西暦1865年4月9日):アメリカ合衆国内にて、「アポマトックス・コートハウスの戦い」が起こり・・・“それまで約4年間(※西暦1861年4月12日から)続けられ、総力戦だった”・・・と云われる「南北戦争」が、「事実上終結」する。・・・この「南北戦争」は・・・アメリカ合衆国内の北部諸州とアメリカ連合国を称した南部諸州との間で行なわれた内戦であり、史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入されていました。・・・そして、このことが、当時の日本に大きな影響を与えることとなります。・・・日本には、開港されたばかりの諸港を通じて、アメリカ国内で需要が減った中古の小銃類が大量に、しかも高値で輸入されることとなり、これらが・・・後に起こる「戊辰戦争」や「西南戦争」では、実際に最新兵器として使われているのです。・・・特に・・・アメリカで発明された機関銃・ガトリング砲は、当の「南北戦争」では、あまり使用されず・・・“日本の戊辰戦争で、初めて本格的に使用された”・・・と云われます。・・・

      ※ 同年3月15日:「幕府老中・本荘宗秀(※松平宗秀とも、丹後宮津藩主)」が、「京都」を発って、“帰府の途”に就く。【綱要】・・・当時の幕府としては・・・この前日に受けた朝廷の要求は、この時代を通じて幕府によって長らく続けられていた内政管轄というものに対する干渉的な要求に他ならず・・・これを、“一大事”と悟った老中・本荘宗秀自らが、江戸へ向かうことになったかと。・・・もしかすると、当時の朝廷としては、本荘宗秀自身の領地が京阪地域に近かったため・・・“京阪地域における世相の混乱状況など諸々の状況についても、江戸にある幕府へ伝えさせる”・・・という狙いがあったのかも知れません。・・・朝廷、すなわち“孝明天皇の御召しによって、参内させられた本荘宗秀”は、当然に天皇の内意を汲み取る筈ですので。・・・
      ※ 同年3月17日:「長州藩主・毛利慶親(※後の敬親)」が・・・“自藩の急進改革派が主張していた武備恭順”・・・を「藩論」とすることに決す。・・・「武備恭順」とは・・・文字通り、“武に備えながらも、命令に慎んで従う態度を採ること”です。・・・云い替えれば・・・“他国と仲良く振る舞うことで、表向きは従がう態度を取りつつも、内心では戦うことも想定し備えている状態”・・・を指しており、これを映像的にイメージするなら・・・恐れ多くも、千手観音菩薩のお姿のようだったかと。“菩薩の優しい微笑みや合掌を見せつつも、その背後の手には武器を幾つも持って備えているというようなお姿”でしょうか?・・・
      ※ 同年3月22日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の夫人ら”が、「江戸」に至りて、「上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも)」に入る。【綱要】・・・徳川慶篤公自らが、幕府に対して恭順の態度を示すためだったのでしょうか?・・・また、徳川慶篤の夫人らを、水戸から江戸へ送ったのが、諸生党であったことを考えると?・・・いずれにしても、あくまでも幕命によって命じられる前に、定府大名・水戸徳川家ながらも、幕府へ人質を差し出す覚悟を示していたのかと。・・・
      ※ 同年同日:「水戸藩」が、“大寄合頭の筧政布(※通称は助太夫)や、鵜殿平七(うどのへいしち)ら”を・・・“元藩士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)らを追討した功績”・・・により賞する。以後しばしば、このような事あり。【綱要】・・・“諸生党による諸生党のための論功行賞”・・・。
      ※ 同年3月25日:「水戸藩」が、“元藩士の武田正生(※通称は彦九郎、伊賀守とも、号は耕雲斎、元水戸藩家老)や、田丸直允(※通称は稲之衛門、元水戸町奉行)、山国共昌(※通称は兵部、喜八郎とも、号は止戈堂、田丸直允の実兄、元水戸藩目付役)、藤田信(※通称は小四郎、水戸脱藩浪士、藤田彪の四男)の首級”を、「水戸城下」において「梟」する・・・とともに、“武田正生の妻及び児孫(じそん:※子と孫、子孫のこと)”を「斬刑」とし・・・“その女(むすめ:=娘)や山国共昌らの妻子”を「終身禁固刑」に処す。【綱要】・・・故武田正生の遺族のうち・・・既に屋敷を没収され囚われの身となっていた妻の延子(※とき、とき子とも、享年40)や、六男・武田桃丸(※享年9)、七男・武田金吾(※享年3)、孫・武田孫三郎(※武田正生の長男であった彦衛門の三男、享年15)、武田金四郎(※彦衛門の四男、享年13)、武田とし(※彦衛門の娘、享年11)、武田熊五郎(※彦衛門の五男、享年10)、阿久津梅(※故武田正生の妾)、こめ(※故武田正生家の下女)は・・・
      ・・・“この日”に、牢屋敷において「斬刑」に処されることとなり・・・長男・彦衛門の妻・幾子と故武田正生の四女・よし子(※当時12歳)ら二人は、「永牢(ながろう、えいろう:※終身牢舎に閉じ込めておく刑罰で、現在の終身刑に当たる)」にされました・・・が、故武田彦衛門の妻・幾子(※藤田彪の妹、享年43)は、西暦1865年(慶應元年)9月24日に絶食によって水戸獄中にて死亡し・・・故武田正生の四女・よし子は、後の西暦1868年(慶應4年/明治元年)に赦免されるのですが、この時既に下脚萎縮による歩行障害を持つ身体になっていたとのこと。・・・尚、結果として・・・この武田家で生き残った男子は、故武田正生の五男である猛(たけき:※通称は源五郎)と、武田彦右衛門の長男である蓋(※通称は金次郎、母は藤田彪の妹、すなわち武田正生の孫)の二人だけとなったのです。・・・
      ※ 同年3月26日:“水戸藩家老の市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)や、佐藤信近(※通称は図書)ら”が、「江戸」を発って、「帰藩」する。【綱要】・・・それまで江戸に滞在していた諸生党の面々が、この日のうちに帰藩、つまりは藩庁たる水戸城に帰っているので、きっと帰路では馬を使った筈です。・・・また・・・たとえ市川弘美や佐藤信近らが水戸藩領地内に辿り着くにしても、その道中の何処かで、自分達が襲撃されるのではないか? という警戒感を滲(にじ)ませているよう・・・にも想えますし・・・おそらくは・・・藩主・徳川慶篤の夫人らを、駕籠(かご)などを用いて江戸へ護送して来たのが、市川弘美や佐藤信近らだったのでしょうね。・・・当然に、藩庁たる水戸城周辺の藩政を主導しながら、“江戸における諸生党の立場についても揺るぎが無いように”という配慮と云うか・・・“政治的な縛りを掛け、また幕閣との連携のために江戸に現れた”・・・・と視るべきかと。・・・
      ※ 同年3月27日:「幕府」が、“諸物価引下げを命じる”・・・とともに、“諸品の買占めや売惜しみ”を禁じる。【綱要】・・・このように、幕府は統制経済的な施策を採用しました・・・が、効果の程は? と云うと・・・従来の鎖国政策を止めて、開いた港から西欧諸国の珍品類が輸入されることになったのです・・・が、いわゆる・・・“国内需要がさほどに無い、安かろう悪かろうの諸品”が、日本国内へと流入し・・・この対価として、貴重な金や銀、銅などの鉱物資源が大量に海外流出していましたから・・・。友好通商条約とは言いながら・・・実際に不平等な条約締結の影響は、江戸市中のみならず全国的な規模で流通や経済を停滞させることとなり・・・“当時の人々の、家計上の遣り繰りは、苦労が絶えなかった”と云えるかと。・・・実際に、この頃は各地で・・・飢饉が発生したり、コレラが流行して・・・餓死者が続出し、米問屋・米蔵の打ち壊し騒動や、農民一揆などが多発しております。・・・
      ※ 同年同日:「幕府」が、「使番」または「目付」を、“下総佐倉や、同関宿、同結城、上野高崎、上総飯野、同佐貫、武蔵川越、同忍、同岩槻、安房館山、陸奥福島の諸藩”へ遣わして・・・“それぞれに分預けた水戸藩士らの処分決定について”・・・を達せしむ。【綱要】・・・

      ※ 同年4月2日:「幕府」が・・・「水戸藩郷士・萩谷義方(はぎやよしかた:※通称は平八)」を「下総銚子」にて・・・「農民・江橋五衛門(えはしごえいもん)」を「武蔵川越」にて・・・それぞれ「斬刑」とする。・・・
      ※ 同年4月3日:「幕府」が・・・“元水戸藩士の新井直敬(※通称は源八郎、住谷信順の弟)や、村田正興(※通称は理介、元郡奉行)”に対して、「上総佐貫」に於ける「自刃」を命じる・・・とともに、“元水戸藩郷士の黒澤成憲(くろさわしげのり:※通称は覚介)及び木村善道(きむらよしみち:※通称は三穂介)”を、「同所」にて・・・「元水戸藩郷士・雨宮干丘(あめみやかんきゅう:※通称は鐡三郎、那珂湊文武館の元館長)」を、「下総結城」にて・・・“元水戸藩士の五十嵐和裕(いがらしかずひろ:※通称は宗四郎)や、園部兼知(そのべかねとも:※通称は俊雄)、床井親徳(とこいちかのり:※通称は荘三)”を、「武蔵忍」にて・・・それぞれ「斬刑」とする。・・・これに前後して、“諸藩へ付預中の常野浪士ら”で、命を落とす者多し。【綱要】・・・
      ※ 同年4月4日:「幕府」が・・・“元水戸藩士の下野遠明(※通称は隼次郎、号は雪篁〈せんこう〉、変名は竹下鷹之允、水戸藩校・弘道館の訓導であり、元郡奉行見習・画家、桜田門外の変を画策した金子教孝の娘婿)及び田尻知好(たじりともよし:※通称は新介、元郡務方)”を、「武蔵岩槻」にて・・・「元水戸藩士・興野成信(おきのなりのぶ:※通称は助九郎)」を、「上総東金」にて・・・それぞれ「斬刑」とする。【綱要】・・・
      ※ 同年4月5日:「幕府」が・・・“元水戸藩士の榊原照煦(※通称は新左衛門、元家老)や、谷忠吉(※通称は鉄蔵)、里見親賢(さとみちかかた:※通称は四郎左衛門、元水戸町奉行、旗奉行里見親長の子)、富田知定(※通称は三保之介、元軍事奉行)、福地広延(※通称は政次郎、神勢館長兼砲術師範役)、眞木景嗣(※通称は彦之進、元郡奉行)、栗田寛剛(※通称は八郎兵衛、元水戸藩奥右筆)、鈴木宜大(すずきのぶひろ:※通称は荘蔵)ら”に対して、「下総古河」に於ける「自刃」を命じる・・・とともに、“元水戸藩士の梶信基(かじのぶもと:※通称は清次衛門、元寺社役)や、林正龍(はやしまさたつ:※通称は了蔵)、大胡資敬(※通称は聿蔵、変名は菊地清兵衛)、福地道遠(ふくちどうえん?:※通称は勝衛門、元小納戸役、福地広延の長男)、沼田泰誨(ぬまたやすのり?:※通称は久次郎、元奥右筆頭取)、原忠愛(はらただえ?:※通称は熊之介)、宮本信守(みやもとのぶもり:※通称は辰之介)ら”を、「同所」にて・・・
      ・・・「元水戸藩士・木村善唯(きむらよしただ:※通称は円次郎)」を、「安房館山」にて・・・それぞれ「斬刑」とする。【綱要】
・・・この日・・・“以前の約定の通り”・・・大発勢を率いて那珂湊にて投降した榊原照煦(※通称は新左衛門、元水戸藩家老)らが、堀田正倫(※相模守とも)の下総佐原陣屋から、土井利則(※官職名により大炊頭とも)の下総古河藩へ移された後、切腹が命じられ・・・同日から、大発勢に参加した他の者達も、次々と斬刑に・・・。

      ※ 同西暦1865年(元治2年)4月7日:「禁門の変」や「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」など、“数多(あまた)の災異や社会不安があった”として、「元治」から「慶應」に「改元」される。・・・

      ※ 同西暦1865年(慶應元年)同日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が、「書(簡)」を、「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、一橋慶喜の異母兄)」に致して、“(池田慶徳の)参勤”を促す。【綱要】・・・果たして・・・水戸だけではなく、水戸藩江戸屋敷の実権を掌握していた諸生党による文書検閲の網を、潜り抜けることが出来たのでしょうか?・・・きっと、そうではなく、“諸生党の面々による承認の上での事だった”と考えられます。・・・
      ※ 同年同日:“在京する水戸藩士の原忠敬(※名は忠成とも、通称は市之進、号は伍軒、藤田彪の従兄弟、一橋家へ出向中)や、梅澤守義(※名は亮とも、通称は孫太郎、一橋家へ出向中)、野村鼎実(※通称は彝之介、号は清籟舎、箕水とも、奥右筆頭)、長谷川允迪(※名は後に清とも、通称は作十郎、号は艮山、青水とも、藩校・弘道館の元舎長)”が、「書状」を、「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、一橋慶喜の異母兄)」に致して・・・“(水戸)藩政の匡正(きょうせい:※正しい状態にすること、正すこと)”を「依頼」し・・・次いで、「長谷川允迪」と「山口正定(※通称は徳之進)」が、「因幡鳥取」へ赴いて、“鳥取藩主・池田慶徳による(水戸藩政匡正の)斡旋”を請う。【綱要】・・・当時の水戸藩政を掌握していた諸生党の面々だけでなく・・・当時在京し、諸生党へ完全に同調し切れない原忠敬なども・・・お家(水戸徳川家)お取り潰しなどの危機を感じ、それを回避するためとして、懸命の努力をしていたことが分かります。・・・
      ※ 同年同日:「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、一橋慶喜の異母兄)」が、「書(簡)」を、“関白・二条斉敬(※徳川慶篤や一橋慶喜らの従兄弟)や、前関白・近衛忠熙(このえただひろ:※号は翠山)、権大納言・正親町三条実愛ら”へ致して、“朝旨”を仰ぐ。・・・また、“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”にも、「書状」を致して、「議」する所あり。【綱要】・・・ここにある「近衛忠熙」とは、将軍継嗣問題で一橋派に属して「戊午の密勅」の献策をしたために、「安政の大獄」により失脚し、落飾謹慎していた人物です。・・・いずれにしても、“窮地に陥った実家の水戸藩(水戸徳川家)を匡正させるため”として・・・鳥取藩主・池田慶徳公が周囲から期待され・・・また、その期待に応えるために、実際に各方面に対して尽力されていたことが分かります。・・・
      ※ 同年4月15日:「幕府」が、“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の願い”を許して・・・“庶子の慶敬(あつよし:※徳川慶篤の長男、一橋慶喜の甥)を嫡子”・・・と為さしむ。・・・時に、「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、一橋慶喜の異母兄、故徳川斉昭の五男)」及び「備前岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟、故徳川斉昭の九男)」は、“水戸藩の内訌(ないこう:※内乱や内紛のこと)を憂い、朝命(ちょうめい:※天皇の仰せ、朝廷の命令)を以って、禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)を、徳川慶篤の継嗣とすること”を諮る。【綱要】・・・内訌の当事者たる水戸藩(水戸徳川家)にしてみれば・・・ここに来て、“非常に微妙な情勢となっていた”のでした。
      ・・・当主、すなわち新藩主については・・・“朝廷が、藩主・徳川慶篤の異母弟である松平昭徳(故徳川斉昭の十八男)”を、既に推しており・・・“幕府としては、藩主・徳川慶篤の庶子である慶敬(※徳川慶篤の長男、一橋慶喜の甥、故徳川斉昭の孫)を嫡子と、ほぼ内定”し・・・“故徳川斉昭(※烈公)の実子である藩主・徳川慶篤の弟達は、慶篤の同母弟である一橋慶喜公を長兄の継嗣とするため、新たに朝命を後ろ盾として画策し始め”・・・要するに、“この頃の次期水戸藩主候補者が3名だったという状況”なのです。・・・
      ※ 同年4月内:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「京都」に「学問所」を建てて、“在京の家臣ら”に「就学」させる。・・・“在京の家臣ら”と云っても、一橋慶喜公直属の家臣は、原忠敬(※名は忠成とも、通称は市之進、号は伍軒、藤田彪の従兄弟、一橋家へ出向中)や、梅澤守義(※名は亮とも、通称は孫太郎、一橋家へ出向中)など、かなり少なかった筈ですので・・・ここは、“概ねのところ、在京する水戸藩士らに”と読むべきでしょう。・・・もしかすると、幕臣や他藩出身者も迎い入れるような私塾的な研究機関であった可能性も、無きにしも非ず。
      ・・・いずれにしても、この時の一橋慶喜公は、禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮を仰せつかっていた訳でして・・・本人もオランダやフランスなどの西欧諸国を通じて、様々な情報については一番知りたかった筈。・・・更には、関東で生まれ育った者達に、京都における公家社会や西欧の事情というものを深く理解させるために、“江戸と距離の離れた京都の学問所という場”を用意して、現代でいうシンクタンク機能を担わせていたのかも知れません。・・・

      ※ 同年5月2日:「信濃上田藩」が・・・“常野浪士を鎮定するために出兵した、昨年中の状況について”を・・・「幕府」へ「上申」する。【綱要】・・・この時の上田藩主は、松平忠礼(まつだいらただなり)です。・・・この忠礼の父であり、前藩主であった松平忠固(まつだいらただかた)は、この時既に亡くなっていました・・・が、その生前中・・・西暦1854年(嘉永7年)の日米和親条約と、西暦1857年(安政5年)の日米修好通商条約という二度の条約締結時に、いずれも幕府老中を務めた人物であり・・・当時の前水戸藩主・徳川斉昭と対立しながらも、終始一貫して開国を主張して、幕府の開国論を牽引した支柱的な存在でした。
      ・・・日米修好通商条約締結に先立っては、西暦1857年(安政4年)には「産物会所(さんぶつかいしょ)」を、国元の信濃国小県郡上田(現長野県上田市)及び江戸に設置し、上田藩の特産品であった生糸を江戸へ出荷する体制を作り上げ、生糸の輸出を準備させています。・・・現に、横浜開港と同時に生糸輸出を始めたのも、この上田藩です。・・・しかし、この松平忠固は、「安政の大獄」が始められると、次第に大老・井伊直弼と対立するようになり・・・結果としては、老中職を罷免され・・・西暦1859年(安政6年)に死去しています。・・・この後、松平忠固の三男であった忠礼が継ぐこととなった訳ですが、忠礼が若年(※満9歳の時)で家督相続したことや、忠固が幕政に傾注し過ぎて、国元の藩政を顧みなかったために財政が悪化し、家中では藩政の主導権を巡って政争が起こるなどの混乱が続いていたのです。・・・このような背景もあって、“遅れ馳せながらも、この日幕府へ上申した”・・・という具合だったかと。・・・
      ※ 同年5月5日:「幕府」が・・・“常野浪士の鎮定に従事した歩兵奉行・河野通和(こうのみちかず:※和の字は、正しくは人偏+和、通称は伊予守、幕府旗本)や、歩兵頭・平岡準(※通称は四郎兵衛、幕府旗本)ら”・・・を賞する。【綱要】・・・
      ※ 同年5月内:「幕府」が、「元水戸藩士・小野新之助(おのしんのすけ)」を「京都」において捕らえ、これを「斬刑」とする。【綱要】・・・
      ※ 同年5月16日:「将軍・徳川家茂」が、“長州藩再征のためとして”・・・「江戸」を発つ。【綱要】・・・とうとう、幕府軍が第2次長州征討のために動き始めてしまいました。・・・

      ※ 同年閏5月1日:「幕府」が、“米価引下げのため”として・・・“米と雑穀の自由売買”を許す。【綱要】・・・いったい大丈夫だったのでしょうか? ・・・かつて行なわれた「お救い米」の時に反し・・・幕府の米蔵に納められていた備蓄米を潤沢に放出することをしなかったり、この年も米や雑穀の不作状況が続いたら・・・かえって米価を高騰させる気もしますが・・・。・・・それとも、飢饉が発生しそうな江戸以外の地域に、半ば強制的に米や雑穀を流通させようとしたのでしょうか?・・・いずれにしても、これより約2カ月前に行なわれた諸品の買占めや売惜しみを禁じる命令の効果を、更に加速させる必要性があったとは考えられますし・・・現実としては、この頃・・・近隣諸国の村々では、村自体が経済破綻しコミュニティそのものが崩壊した状況にあり、大勢の村人達が食料や職を求めて、大江戸へ流入していたのも事実でしたから。・・・とりあえず民心を安定化させようとの、当時の幕府の狙いについては、一応理解出来るのですが。
      ・・・とにもかくにも、江戸を中心とする関東地方や、当時の戦乱に巻き込まれていた地域では、総人口に対する食料が枯渇しつつあった状況が分かります。・・・
      ※ 同年閏5月12日:「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、一橋慶喜の異母兄、故徳川斉昭の五男)」が、「書(簡)」を、「備前岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟、故徳川斉昭の九男)」に致して・・・“水戸藩の内訌措置に関する意見”・・・を求める。【綱要】・・・この時に行なわれていたのは、実家に対する兄弟間の意見調整だったかと。・・・しかも、当時の水戸藩(水戸徳川家)にすれば、この上なく有り難いことだったと考えられます。・・・
      ※ 同年閏5月21日:「備前岡山藩主・池田茂政(※徳川慶篤、一橋慶喜の異母弟、故徳川斉昭の九男)」が、「書(簡)」を、「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、一橋慶喜の異母兄、故徳川斉昭の五男)」へ寄せて・・・“水戸藩の内紛処置に関する意見”・・・を問う。【綱要】・・・この時に行なわれたのは、兄弟間における実家に関する情報の共有だったかと。・・・
      ※ 同年閏5月22日:「将軍・徳川家茂」が、「上洛」して・・・“直ちに、禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)を扈従(こしょう:※貴人に付き従うこと)して参内する”・・・と、“長州藩への再征事由について”を、「奏上」する。・・・この時、第2次長州征討の実施を、朝廷すなわち孝明天皇へ奏上した訳です。・・・
      ※ 同年閏5月24日:「将軍・徳川家茂」が、「下阪」する。・・・“中一日で京都を離れて下阪した”ということは・・・上洛の大きな目的は、孝明天皇への奏上だったかと。・・・
      ※ 同年閏5月内:「幕府」が、“上総大多喜藩主・大河内正質(※松平正質とも)が長州征討軍に従軍するため”として・・・“(大多喜藩で)預かり中の常野浪士を、武蔵川越や、同忍、同岩槻、下総古河、同結城、同生実、同高岡、上総久留里、同請西、同飯野、同一(之)宮、同佐貫、安房勝山、陸奥福島、出羽長瀞、三河西大平の諸藩”・・・に引き渡す。【綱要】・・・

      ※ 同年6月2日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「下阪」し・・・「備前岡山藩邸」を「館」とす。・・・表向きには、第2次長州征討のためであり・・・そして、実家である水戸藩(水戸徳川家)の内紛処置に関連する打ち合わせ目的もあったかと。・・・
      ※ 同年6月5日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「筑前福岡藩邸」へ移る。・・・これより後は、“下阪する毎に、此れ”を「旅館」とす。・・・当時の一橋慶喜公としては、“第2次長州征討に専念して、各地から齎(もたら)される情勢を分析し、各方面との協議のためには、当時の筑前福岡藩邸が最適地だった”と考えられます。・・・
      ※ 同年6月14日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「帰京」する。・・・一旦、帰京した訳ですね。この日。・・・帰京目的は?・・・
      ※ 同年6月17日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「参内」して・・・“長州藩の処分案を奏上する”・・・と、「勅允(ちょくいん:=勅)」を蒙(こうむ)る。・・・なるほど。・・・
      ※ 同年6月21日:禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)が、「下阪」する。・・・何とも、慌ただしい感じです。・・・
      ※ 同年6月24日:「幕府」が、“フランス・パリにおいて開催される万国博覧会への参加推薦”に対し、これを「承諾」する。・・・もしや?・・・
      ※ 同年同日:「薩摩藩士・西郷吉之助(※後の隆盛)」が、“土佐脱藩浪士の坂本直柔(※通称は龍馬)ら”と、「京都」において「会談」し・・・“薩摩藩の名儀を用いた武器購入を願う長州藩の要請について”・・・を「受諾」する。・・・これが・・・いわゆる討幕(=倒幕)を念頭に置いた動きであり、薩長同盟締結時の最重要場面ですね。・・・いずれにしても、第2次長州征討の勅が下されると・・・当時の一橋慶喜公などの政治的な思惑とは別方向への動きが、水面下で行なわれていた訳です。・・・

      ※ 同年7月6日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「帰京」する。・・・
      ※ 同年7月19日:「水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)」が・・・“幕府による措置が、常野擾乱に関して寛大なるを以って、益々謹慎すべきこと”・・・を、「領内」へ諭す。【綱要】・・・“益々以って恭順姿勢を貫くように”と。・・・
      ※ 同年7月22日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「下阪」する。・・・
      ※ 同年7月24日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「帰京」する。・・・・・・

      ※ 同年8月14日:“天狗党勢に加わって越前敦賀に幽閉中の小林秀(こばやしひで:※通称は幸八、変名は小林忠雄)”が・・・“かつての事件(※ロシア帝国海軍軍人殺害事件のこと)の実行犯であったことを自白したため”として・・・この日、「幕府」によって「磔刑」に処される。・・・「ロシア帝国海軍軍人殺害事件」とは、西暦1859年(安政6年)7月27日に発生した・・・ロシア帝国海軍少尉及び水兵の2名が死亡し、賄い係1名が重傷を負った襲撃事件。・・・
      ※ 同年8月15日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「下阪」する・・・も、“この日のうち”に「帰京」する。・・・
      ※ 同年8月24日:“フランスの資金援助及び技術協力を受けた幕府”が、「横須賀製鉄所建設」に「着手」する。・・・
      ※ 同年8月内:「幕府」が、“江戸における諸物価高騰のため”として・・・この月から、「町会所」において、“貧民への救米と救銭”・・・を「支給」する。・・・同年閏5月1日に、米価引下げのためとして、米と雑穀の自由売買を許していた幕府でした・・・が、ようやく・・・「お救い米」を米蔵から放出し・・・加えて、「お救い銭」をも支給した・・・とのこと。・・・閏5月1日から数えて、約3カ月強を要しており、結局は後手後手の施策だったようにも感じます・・・が、時の幕府としては・・・“この年の作柄状況を見極めた上での支給決定だった”と云えるかも知れません。・・・いずれにしても、幕府の米蔵や金蔵には、江戸市中に対して見境なく放出出来るほどの潤沢な米や銭が蓄えられていた訳ではなかった様子です・・・が、但し・・・これは、いわゆる一般会計上の話であって・・・“徳川将軍家存亡の危機などの非常事態用に蓄えられていた”・・・と云われる、いわゆる予備会計とは別だった・・・と考えられます。
      ・・・少なくとも、後に江戸城を接収することとなる明治新政府軍などは、そこに眠るであろう財源を当てにしていた訳ですので。・・・ここに、かの「徳川埋蔵金伝説」が語られる所以があります。・・・

      ※ 同年9月16日:“イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四カ国代表者”が・・・“兵庫先の開港及び条約の勅許について”・・・を、“幕府と交渉するため”として・・・“イギリス、フランス、オランダの三カ国連合艦隊”を率いて、「兵庫港(=神戸港)」に「来港」する。(=兵庫開港要求事件、四カ国艦隊摂海侵入事件)・・・この事件は・・・“英仏蘭の三カ国連合艦隊の軍事力を背景として、安政五カ国条約の勅許と兵庫の早期開港を迫る”・・・ものでした。・・・この時の将軍・徳川家茂は、第2次長州征討のためとして大坂城に滞在中であったため・・・“現に軍事的な威圧を掛けていた英仏蘭米の四カ国艦隊は、下関戦争による賠償金を1/3に減額する代わりに、兵庫開港を2年前倒しすることを提案し、これらの要求を受け容れなければ、自由行動、すなわち実際に軍事行動を起こす”と。・・・つまりは、幕府の長たる将軍・徳川家茂や、京都の孝明天皇の目前で、外交的且つ軍事的な圧力を掛けた訳です。
      ・・・すると?・・・少なくとも・・・同年8月15日における一橋慶喜公の動きについては、禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮職を拝命していた訳ですので・・・異国勢力の動静を知り得た人物と接触し、一橋慶喜公が何らかの情報を得ていた可能性もありますし、もしそうだったら・・・この当時に異国勢力の動静を知り得た人物と云うのは誰だったのか?・・・という興味も湧いて来ます・・・が、私(筆者)の考え過ぎなのでしょうか?・・・ちなみに、この時の英仏蘭の三カ国連合艦隊とは・・・英国軍艦が4隻(※船名は、プリンセス・ロイヤル、レパード、ペラロス、バウンサー)・・・仏国軍艦が3隻(※船名は、グエリエール、デュプレクス、キャンシャン)・・・蘭国軍艦が1隻(※船名は、ズートマン)・・・の、合計8隻であって・・・“米国については、この時には軍艦を派遣せず”・・・とされています。・・・同西暦1865年(元治2年)3月14日には、アメリカ国内の「南北戦争」が終結しており・・・どうにも、“この時の米国の真意が気になる処”です。
      ・・・単に、自国の海域で軍艦が必要な時期で、たまたま数的な余裕が無く、兵庫港(=神戸港)に派遣出来なかっただけなのか?・・・それとも、自国で発明された最新兵器・ガトリング砲(※機関銃)については、日本国内の各勢力のうち、現実に最高値で購入する相手方を見極めるためなどに、(日本国内勢力への)輸出の手配をするだけで事足りており、この時の軍艦を用いる威圧的な行動には、絶妙な措置に留め置くという外交的な配慮を見せていたのでしょうか?・・・いずれにしても、英仏蘭米の四カ国代表者が連携していながら、当時の各国の思惑や狙い・・・そして、それぞれの行動には、“少なくはないズレ”というものを感じます。
      ・・・また・・・当時の一橋慶喜公の脳裏には・・・日本国内における仏国と英国の代理戦争、若しくは・・・この二カ国の他に米国、蘭国などが見え隠れしており、もしも一手を間違えれば、予測困難な未来が到来しかねないというイメージが、チラ付き始めたのではないか?・・・と想像出来ますし・・・加えて・・・天狗党勢関連の騒乱が一応鎮まり、さて第2次長州征討の勅が下されたという直後期に、よりによって西欧諸国からチョッカイ出されるとは!?!・・・という戸惑いも大きかったかと。・・・
      ※ 同年9月21日:「将軍・徳川家茂」が、「参内」して・・・“長州藩再征の勅允(=勅)”・・・を蒙る。【綱要】・・・当時の朝廷にも、当然に・・・“兵庫港(=神戸港)における英仏蘭米四カ国艦隊出現の報せ”は届いていた筈ですので・・・京都の禁裏周辺も、かなり騒然としていたとは考えられますが・・・とりあえずはと、“予定通りの長州藩再征の勅允”を命令されてしまった模様です・・・が、これも当然に・・・兵庫港(=神戸港)の一件についての、孝明天皇の内意が伝えられていた・・・とは、想いますが。・・・そのため、一橋慶喜公に対しては・・・
      ※ 同年同日:「常陸宍戸藩」が・・・“長州藩再征のため藩地に配兵の命があるを以って、江戸城の鍛冶橋門(かじばしもん)警備と其の配兵の一部を免除するように”・・・と、「幕府」へ請う。【綱要】・・・「鍛冶橋門」の正式名称は、「鍛冶橋見附門」。所在は、現在の東京駅南側方面の・・・鍛冶橋通りの鍛冶橋交差点の南端辺り。・・・当時は、この辺りまで江戸城の外堀があり、「鍛冶橋」が架けられておりました。・・・そして・・・“この鍛冶橋見附門周囲の警備を、一万石余りの外様大名が一年毎に担当した”・・・とのこと。・・・
      ※ 同年9月25日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が・・・“将軍・徳川家茂の促しによって”・・・「下阪」する。・・・再び、京都から大坂城へ・・・
      ※ 同年9月26日:「幕府・横須賀製鉄所」が、「起工式」を「挙行」する。・・・フランスの資金援助と技術協力を受けて。・・・
      ※ 同年9月27日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「帰京」する。・・・当然に・・・“英仏蘭米四カ国代表者との、一定程度の交渉を終えて”・・・ということかと。・・・

      ※ 同年10月1日:「将軍・徳川家茂」が、「上表(じょうひょう:※君主に文書を奉ること、この場合の相手は天皇)」して・・・“其の職を、一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)へ譲り、隠退(いんたい:※世を逃れ閑居すること)したいとの旨”・・・を請う。・・・しかし、許されず。・・・???・・・時の征夷大将軍自らが、その職を一橋慶喜へ譲った後に、隠退したいと・・・。“英仏蘭米四カ国から外圧を受け、第2次長州征討も、これからという危急の時期”に、心身ともに疲れ果ててしまった模様。・・・“徳川家茂は、元々病弱な身体だった”・・・と云われているため、分からなくもないのですが・・・。・・・尚、“この時の孝明天皇は、大いに驚き慌てて、徳川家茂の辞意を取り下げさせ、その後の幕府人事への干渉はしないとの約束をした”・・・と云いますので。
      ・・・この当たりに背景には、いずれにせよ・・・“薩摩藩が深く関与しており、また朝廷の一部の人物に対して、薩摩藩士・大久保利通(おおくぼとしみち:※通称は一蔵、正助とも、改名前は利済)の献策があった”とされており・・・史料によれば・・・“当時の幕府が管轄する外交権そのものを、朝廷自らが行ない、具体的には外交分野で薩摩藩が助言する体制を採用して”・・・結局は・・・“従来から幕府が管轄していた業務を、半ば強制的に、朝廷と薩摩藩へ移行することを目論んでいた”とされます。・・・そして、当時の日本に対し外圧を掛けていた英仏蘭米四カ国としては・・・“要求した質問事項に対する回答期限(※10日以内)を一方的に設けながら、要求に反するならば軍事行動を起こすぞ!!! との脅迫だった”・・・とのこと。・・・
      ※ 同年10月4日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「参内」して、「条約の勅許」を「奉請」する。・・・「条約の勅許」とは、当然に・・・“英仏蘭米四カ国からの要求だった兵庫開港2年前倒しなどの件”ですが・・・これも、史料によれば・・・“一橋慶喜公の奉請により、当初は朝廷側と幕府側の出席者が参加した会議であり、しかも孝明天皇の御前で行なわれた緊急招集会議だった”・・・とのこと。しかし、“攘夷という方針を曲げられない天皇の内意によって会議自体が紛糾して、長時間が経過してまい、結果としては夜を徹しての会議”となって・・・その最終局面では・・・当時失墜し掛けていた幕威や、幕府の既得権限を死守するため・・・或いは、尊皇に徹するなどとして、何が何でも勅許を得たかった一橋慶喜公が・・・“有力諸藩の京都留守居役達を招集し、それぞれの藩論を述べさせた後に、国内の趨勢を天皇に理解して貰う!”という、云わば荒技を仕掛けたと。
      ・・・また、この会議では・・・“一橋慶喜公自らの切腹話を持ち出して、条約勅許を天皇に強く迫った”・・・とも。・・・まさに、この会議では・・・喧々諤々(けんけんがくがく)の議論が繰り広げられた模様であり・・・“或る意味で、後の日本の行く末を方向付けた、最も重要な会議だった”と云えるかも知れません。・・・結果としても・・・“この時の献策を斥(しりぞ)けられた格好となる薩摩藩士・大久保利通(※通称は一蔵、正助とも、改名前は利済)が、一橋慶喜公に対して、反感の情や遺恨の念を懐いた”・・・とも。・・・そんなエピソードが伝わる位に、前代未聞の出来事であり、且つもの凄い会議だったかと。・・・
      ※ 同年10月5日:「朝廷」が、“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)が奉請した条約について”は、「勅許」する・・・も、“兵庫開港を2年間前倒しすることについては、不許可とする勅書”・・・を出す。・・・このように、兵庫開港の時期については、外圧に屈しない格好となりましたが・・・条約締結については、勅許があった訳でして・・・朝廷、すなわち、“天皇のお墨付きを、外交的に英仏蘭米四カ国に与えることになった”のです・・・が・・・一方の西欧列強からすれば・・・“軍事力を背景として、日本へ外圧を掛け続ければ、何らかの成果を引き出せる!!!”・・・という確証をも与えることになってしまったかと。・・・
      ※ 同年10月10日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「将軍・徳川家茂」から「政務輔翼(せいむほよく:※政務における補佐や扶翼のこと)」を、命じられる。・・・「政務輔翼」とは、文字通り、将軍・徳川家茂を補佐する役目だったかと。・・・朝廷の思惑によって、かつて決められた禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮の役職に・・・この時、将軍家(徳川宗家)を補佐するという役目も加えられた訳です。・・・しかし、これが微妙と云えば、かなり微妙な具合だったかと。・・・“将軍家(徳川宗家) = 江戸幕府(=徳川幕府)”・・・と云えるのならば、問題も無いのですが・・・“将軍家(徳川宗家) ≒ 江戸幕府(=徳川幕府) = 将軍を擁するだけで、譜代大名達、すなわち時の幕閣達の連合政権”・・・だったとしたら?・・・いずれにしても、この時の政務輔翼拝命の件が、後の一橋慶喜公の選択に、深く関わってまいります。・・・
      ※ 同年10月24日:「水戸藩」が、“元国家老・尾崎為貴(※通称は豊後)の禄”を「没収」し、「蟄居」に処す・・・とともに、“元藩士の杉浦政安(※通称は羔二郎)や、三浦贇男(※通称は平太郎)ら”を、「禁獄(きんごく)」とする。【綱要】・・・「禁獄」とは、獄に未決囚、或いは受刑者を拘禁すること、またそれを手段とした刑罰であり・・・江戸時代には、「永牢」などの刑罰も存在したとのこと。・・・
      ※ 同年10月25日:「水戸藩」が・・・“元家老・岡田徳至(※通称は徳之介、新太郎、兵部、信濃守とも、号は確翁)や、藩士の岡田損蔵(おかだそこぞう?:※岡田徳至の叔父)、美濃部茂定(※名は享とも、通称は又五郎、側用人)、大竹勘次郎(おおたけかんじろう)、武藤善吉(むとうぜんきち:※元大番組)、安藤木工之進(あんどうもくのしん)、齊藤利貞(さいとうとしさだ:※通称は市右衛門)、高橋重太夫(たかはしじゅうだゆう)、吉見直諒(よしみなおあき:※通称は喜代八郎、吉見直政の子、元矢倉奉行)、那須寅藏(なすとらぞう)、小山田任之允(おやまだただのじょう)、津田豐太郎(つだとよたろう:※津田信平の子)、小林六衛門(こばやしろくえもん)、柿栖敦重(かきすあつしげ:※通称は次郎右衞門、立原喜言の三男、柿栖敦行の養子)、水野信順(みずののぶより:※通称は哲太郎、寺社方勤元締)、有賀半蔵(ありがはんぞう:※有賀〈半弥〉重信の兄か?)、三浦贇男(※通称は平太郎)、岡部城之介(おかべじょうのすけ)、岡部雅樂吉(おかべうたきち:※岡部〈忠蔵〉以忠の次男)”・・・を、「斬刑」に処し・・・
      ・・・「太田藏吉(おおたくらよし:※通称は九藏、御細工人)」を「永牢」に処す。【綱要】
・・・ここで特筆すべきは・・・“この前日に禁獄と決まった筈だった三浦贇男ら”が、その翌日には「斬刑」に処されることとなり・・・そして、“御細工人の太田藏吉”までもが、「永牢」に処されてしまったことです。・・・ちなみに、この太田藏吉なる人物のご先祖にも、御細工人の「太田一有(おおたかずあり:※通称は助衞門)」がおりまして・・・その作品としては・・・“徳川光圀公(※義公)の20歳時と50歳時の顔面を模(かたど)ったというお面”が「義公木彫面」として、久昌寺(きゅうしょうじ:現茨城県常陸太田市新宿町)に現存しています。・・・つまりは、当時の尊皇攘夷派志士として積極的に活動していた訳ではなく・・・単に、先祖代々の家業として、“時の水戸藩主からお取り立てがあった家系の子孫だったが故に”という理屈によって・・・太田一有の子孫である藏吉(※通称は九藏)が、「永牢」という厳しい刑を受けていた訳です。
      ・・・いずれにしても、“この時に水戸藩政を掌握していた諸生党が、かつての藩政に遡ってまで尊皇思想の歴史的な影響をも抹消しようとしていた”・・・ことが分かり・・・結局のところ・・・諸生党が藩政の実権を掌握している、この際に!!! と・・・“このように連綿と受け継がれる尊皇思想や攘夷思想などを巡り、改革急進・密勅返納反対派(=激派)及び鎮派達を一気に抹殺するためとして、この日の水戸・赤沼牢屋敷において決行された暴挙だった”と云えます。・・・そして・・・この諸生党による暴挙は・・・当時の幕府にも、当然に動揺や衝撃を与えることとなり・・・後の幕府方針は、水戸藩内の動揺を憂慮するという理由によって、穏健政策に転じられることになって・・・また・・・この時の水戸藩主・徳川慶篤も、“遠山重明(とおやましげあき:※通称は熊之介、藩校・弘道館の舎長)を側用人見習いとし、遠山ら鎮派を藩政に参加させて藩政刷新を目指し、当時囚われていた藩士らを謹慎処分で済ませようとした”とのことです・・・が、結果としては上手く行かず・・・。
      ※ 同年10月29日:「幕府」が、「鹿島社大宮司・塙大隅守(はなわおおすみのかみ:※鹿島則孝のこと、通称は荘三郎、主税之助とも、幕府旗本・筑紫〈佐渡守〉孝門の三男)」を「罷免」して、「押込(おしこめ:=押籠)」に処し・・・“其の子”である「出羽守(でわのかみ:※鹿島則文のこと、通称は布美麿、矗之輔とも、鹿島則孝の長男)」を、「逮流(たいる:※逮捕した後に遠島にすること)」に処す。・・・“常野浪士騒擾の事”に「連座」するなり。【綱要】・・・「押込(=押籠)」とは、主に武士や庶民に対して適用され、自宅、或いは自室などの前に戸を立てて閉鎖(※いわゆる座敷牢のこと)し、一定期間における昼夜の出入りや通信などの一切を禁じて、謹慎及び幽閉する刑罰であり・・・江戸時代には、自由刑の一種として比較的軽い罪の場合に適用されたとのことです・・・が、大社の神官職にある者達であっても、当時の連座責任を追及されることとなって、時の幕府からは容赦されなかった様子も分かります・・・が、ここで・・・当時の尊皇攘夷思想などについてを、更に深く掘り下げるために・・・(↓↓↓)



      ・・・上記の塙大隅守こと「鹿島則孝」とは・・・筑紫孝門(ちくしたかかど:※通称は佐渡守)の三男として、西暦1813年(文化10年)に江戸・牛込逢坂で生まれ・・・西暦1837年(天保8年)12月6日に、鹿島社大宮司・鹿島則瓊(かしまのりよし)の婿養子となり・・・西暦1843年(天保14年)には、水戸藩9代藩主・徳川斉昭に謁見・・・西暦1858年(安政5年)11月6日に、鹿島社大宮司職を継ぎ・・・同年11月15日には、第14代征夷大将軍に内定されていた、当時の徳川慶福(※後の家茂)と謁見し・・・それから、ちょうど一月後の同年12月15日には、「将軍代替ノ礼」のためとして、正式に将軍となった徳川家茂と、再度の謁見をしています。・・・西暦1862年(文久2年)には、禁裏から鹿島社への米の寄附があったため、その返礼等のために、長男である出羽守を、自身の代理として上京させてもおります。

      そして・・・本ページのように、「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」が起こる・・・と、西暦1864年(元治元年)9月2日には、潮来勢が鹿島社に屯集して・・・“潮来勢が同月6日に、鹿島社を発とうとしていた矢先”・・・結果として・・・“これを追撃する幕府軍との遭遇戦”に見舞われることになって・・・この時、潮来勢と呼ばれた水戸藩士民達とともに、塙大隅守なども、幕府軍から一斉銃撃を浴びせられてしまいます。・・・この時の戦況については・・・“鹿島社の宮域に発砲され、その弾丸は霰(あられ)の如し”・・・とされ、また・・・“塙大隅守は、同月5日夜から鹿島社に宿直して、そこを警衛していたため、人的損害については事無きを得た”・・・ものの・・・“此の時、大舟津の一ノ鳥居が焼失した”・・・とも。

      ・・・ちなみに、“塙大隅守の実父である筑紫孝門(※通称は佐渡守)”とは、幕府の浦賀奉行や日光奉行などを歴任した武門家系の人であり、つまりは・・・当時の「幕臣」と云える人物です。・・・
      ・・・やがて・・・筑紫孝門(※通称は佐渡守)の子孫達の代になると・・・塙大隅守及び出羽守親子が、当時の政治的オピニオン・リーダーの一人とされる水戸藩9代藩主・徳川斉昭の影響を当然に受け、その後に水戸藩領地に隣接する鹿島社の大宮司職を、それぞれ継ぐこととなり・・・結局のところは・・・まず・・・筑紫孝門(※通称は佐渡守)の孫であって、塙大隅守の長男だった出羽守が・・・時の幕府から、“実父の大隅守よりも以前に、謹皇の志士達との濫(みだら)な交流や、神宮の祭典を変更をした事”を追及され・・・当時の「罪」に問われることとなって、西暦1865年(慶應元年)7月には「揚屋入」とされ・・・翌西暦1866年(慶應2年)5月24日に“八丈島へ配流される”のです・・・が・・・実父・塙大隅守は? と云えば、“当初は長男・出羽守と同罪とされて、この西暦1865年(慶應元年)10月29日に「押込」を命じられる”・・・も、翌西暦1866年(慶應2年)の2月には「放免」されております。・・・

      ・・・このことは、詰まるところ・・・当時の幕府は、“この親子の罪については、一旦は同罪とした”・・・ものの、“その罪の度合い”については・・・“長男のほうが、父と比べて、より重かった”と、後に結論付けた訳です。
・・・この背景には・・・塙出羽守が、幼少時から「水戸学」を学んで育ったことや、“彼が21歳頃の西暦1860年(万延元年)に、江戸の安井仲平(※号は息軒、儒学者)が開いた私塾の「三計塾(さんけいじゅく)」に学んだ経歴が大きく影響していた”・・・と考えられるのですが・・・やがて、この塙出羽守も、西暦1869年(明治2年)5月1日には「赦免」されることとなって・・・同月28日には「帰京」し、翌6月13日には、鹿島へ「帰郷」しておりまして・・・実に・・・“遊学期間を除く約3年間を、八丈島など鹿島以外の土地で暮らした”ことになります。

      ・・・いずれにしても、“長男・出羽守の鹿島帰郷直後期に当たる同年7月1日”には、実父の塙大隅守が・・・鹿島社境内地に、学問所とされる「稽照館(けいしょうかん)」を開設しており・・・ちなみに、この「稽照」とは、『古事記』序文にある「古(いにしえ)を稽(かんが)ひ 今を照らす」から引用した名称です。・・・尚、この「稽照館」の初代校長を務めたのが、長男の塙出羽守であって・・・その講師陣は? と云えば、これも鹿島社の神官達が務めておりまして・・・「稽照館」では、『古事記』や『日本書紀』などの他にも、『令義解(りょうのぎげ)』や、『日本外史(にほんがいし)』、『祝詞考(のりとこう)』、『春秋左氏伝』などの国学や、漢学古典の講義が行なわれ・・・長歌や短歌の創作なども、当時の生徒達への課題として与えられていたようです。・・・また、鹿島社領域内の子弟達だけが生徒として限られていた訳ではなく、“周辺の波崎(現茨城県神栖市)や潮来(現茨城県潮来市)などからも通学する者があった”・・・とも伝えられております。

      ・・・この後の西暦1876年(明治9年)9月7日には、“実父・塙大隅守の隠居”に伴なって、長男・出羽守への家督相続がなされ、出羽守が正式に鹿島社大宮司職を継ぎます・・・が、西暦1884年(明治17年)4月2日には、伊勢神宮の大宮司職に任じられることとなり、既に隠居していた実父・塙大隅守は勿論のこと、一家揃って伊勢へ移住することに。・・・ちなみに・・・“実父・塙大隅守については、晩年の15、6年間は平穏な暮らしが送れた”と推測出来ますが、西暦1892年(明治25年)10月2日に、享年80で没しておられます。・・・しかし、“彼は生来、筆まめだった”らしく・・・その著書には、『桜斎随筆(おうさいずいひつ)』や『家茂将軍謁見記(いえもちしょうぐんえっけんき)』などがあって、“かなりの量の遺文”が伝えられております。

      ・・・尚、この塙大隅守が開設し、長男・出羽守が初代校長を務めた「稽照館」は・・・後の版籍奉還や、廃藩置県、神官神職制度の大改革、学制頒布など・・・明治の激動期に曝(さら)されることになり、従来より鹿島社が「神領」として治めていた2千石も奉還されることとなって、自然消滅的に「廃校」を迎えております。・・・詳細な記録が遺されていないため、いつの時点で廃止されたのか? については不明です・・・が、“廃校の後には、稽照館に務めた講師達の多くが、私塾を開いて、明治初期における地方教育の一端を担った”・・・と伝えられています。・・・しかしながら・・・当時の塙大隅守及び出羽守親子や講師達の多くが、そこまでして伝えたかった、或いは受け継ぐべきと考えていたのは、いったいどんな事柄だったのでしょうか?・・・単に・・・廃藩置県以前に水戸藩(水戸徳川家)が存続していた頃、単に優秀な人材が枯渇状態に陥ってしまったという悲劇的な状況を打開するための方策とされただけのことでしょうか?
      ・・・いずれにしても、「水戸学」と呼ばれる特定の学風に限らず・・・様々な分野の研究や、継続的に行なわれていた教育方針が、当然に与えることになるであろう・・・当時の人々の気質や気風などを想像すれば・・・如何に重要であると考えていたか? については、ご理解頂けるかと。



      ※ 同西暦1865年(慶應元年)10月内:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)や、一橋家家士の原忠敬(※名は忠成とも、通称は市之進、号は伍軒、藤田彪の従兄弟、水戸藩から出向中)、梅澤守義(※名は亮とも、通称は孫太郎、水戸藩から出向中)、水戸藩士の野村鼎実(※通称は彝之介、号は清籟舎、箕水とも、奥右筆頭)、長谷川允迪(※名は後に清とも、通称は作十郎、号は艮山、青水とも、藩校・弘道館の元舎長)”が・・・「書状」を、“それぞれ”「因幡鳥取藩主・池田慶徳(※徳川慶篤の異母弟、一橋慶喜の異母兄、故徳川斉昭の五男)」へ致し・・・“長谷川允迪の派遣を告げるとともに、水戸藩(水戸徳川家)の内情を報じて、其の救解(きゅうかい:※罪を弁護し救うこと)に対する協力”・・・を請う。【綱要】
      ・・・このように、長谷川允迪を派遣し、鳥取藩主・池田慶徳へ救解のための協力を依頼をした人々は・・・“時の幕府に採り入られることによって、ほぼ完全に水戸藩政の実権を掌握していた”と考えられる・・・“市川三左衛門ら諸生党の思いのままという状況”を、何とか打開しようとしたのです。・・・

      ※ 同年11月1日:“水戸藩主・徳川慶篤(※一橋慶喜の同母兄、つまりは最後の征夷大将軍・徳川慶喜の同母兄)の弟・松平昭徳(※後に徳川昭武と改名し最後の水戸藩主となる人物、故徳川斉昭の十八男)”が、「京都・二条城」へ登って、「将軍・徳川家茂」に「謁見」する。【綱要】・・・
      ※ 同年11月2日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「将軍・徳川家茂」に対して・・・“摂海防禦指揮職の辞任についてを申し出る”・・・も、許されず。・・・・・・
      ※ 同年11月3日:“禁裏御守衛総督及び摂海防禦指揮兼務の一橋慶喜(※徳川斉昭の七男、一橋慶喜とは通称、本名は松平昭致)”が、「将軍・徳川家茂」に対して・・・“同年10月10日に命じられた政務輔翼職の辞任についてを申し出る”・・・も、許されず。・・・前日に続く、これらの辞任要請は・・・“単なる政治的な駆け引きだった”のでしょうか?・・・
      ※ 同年同日:「将軍・徳川家茂」が、「大坂城」へ「入城」する。・・・一橋慶喜公の摂海防禦指揮職辞任や政務輔翼職辞任についてを許さなかった将軍・徳川家茂が大坂城に入城してしまったことによって・・・結局のところ・・・当時の幕府としては、兵庫開港要求事件(=四カ国艦隊摂海侵入事件)を巡る混乱状況の最中にあって、小笠原長行(※元幕府老中、肥前唐津藩の世嗣)や板倉勝静(※備中松山藩主)の老中再任については実現させた・・・ものの、朝廷の一部では、将軍・徳川家茂に対する失望論が広がることとなり・・・一橋慶喜公への信望が更に高まると云う影響を与えることになったかと。・・・
      ※ 同年11月6日:「水戸藩士・長谷川允迪(※名は後に清とも、通称は作十郎、号は艮山、青水とも、藩校・弘道館の元舎長)」が、「因幡鳥取藩」に至りて・・・“水戸藩(水戸徳川家)の内情を報じるとともに、其の救解のための周旋”・・・を求める。【綱要】・・・
      ※ 同年11月7日:「幕府」が、“西国31藩”に対して・・・“第2次長州征討の出兵”・・・を命じる。(=第2次長州征討令)・・・とうとう、幕府は第2次長州征討を軍事発令してしまいました。・・・薩長同盟締結の気配については、当時の幕府内の誰かしらは感じ取っていたとは想うのですが。・・・“彼我の戦力差を過信してしまった”のでしょうか?・・・
      ※ 同年11月20日:「幕府」が、“大目付の永井尚志(ながいなおゆき:※通称は玄蕃頭、幕府旗本)や、戸川安愛(とがわやすちか、とがわやすなる:※号は晩香、幕府旗本)、松野孫八郎(※幕府旗本)”を遣わして・・・「長州藩家老・宍戸備後助(ししどびんごのすけ:※別名は山縣半蔵)」を、“安芸広島・国泰寺(こくたいじ:現広島県広島市西区己斐上)へ召し出す”・・・とともに、“八箇条について”を「訊問」する。・・・ここで永井ら大目付は、八箇条の質問を宍戸に向ける・・・も、宍戸が「逐条答書」という国情陳述書を提出して、幕府から掛けられた嫌疑についてを否定しています。
      ・・・尚、この時の「国泰寺会談」には、新撰組(※新選組とも)局長・近藤昌宜(こんどうまさよし:※通称は勇、後の大久保剛、大久保大和)らも、永井の家来として同行しており、“この近藤が遺した、会津藩に対する出張報告”とされる『京都守護職始末』同年12月22日付けの記述によれば・・・“長州藩としては武備恭順の姿勢であること、広島に滞陣中の幕府方の士気が低く開戦しても勝目が薄いこと、長州藩が表面上でも恭順するならば寛典な処置で対応していく方針が望ましいことなど”・・・を述べています。・・・ちなみに・・・近藤を家来として同行させた「永井尚志」とは・・・長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎に赴いて、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍し・・・後に「外国奉行」に任じられると、ロシアやイギリス、フランスとの交渉役を務めて、通商条約締結を実際に行なった人物です。
      ・・・これらの功績によって、後に「軍艦奉行」に転進する・・・も、直後期の将軍継嗣問題では一橋慶喜公を支持する一橋派に与したため、南紀派・大老であった井伊直弼によって罷免されることとなり、一時期は失脚させられていた人物でもあります。・・・しかし、「桜田門外の変」によって大老・井伊直弼が斃(たお)された後の西暦1862年(文久2年)には、「京都町奉行」に抜擢されることとなり・・・西暦1863年(文久3年)の「八月十八日の政変」や、西暦1864年(元治元年)の「禁門の変」では、幕府側の使者として時の朝廷と交渉するなど、その能力を再び発揮することに。・・・“ちょうど、この頃”は「大目付」とされていました。・・・そして、この後の西暦1867年(慶應3年)には「若年寄」まで出世し・・・更に後の“大政奉還時にも、その交渉能力を発揮した”とされ・・・「鳥羽伏見の戦い」の後には、一橋慶喜公に従って江戸へ戻ります・・・が、その後は・・・“榎本武揚(えのもとたけあき:※通称は釜次郎、号は梁川、変名は夏木金八〈郎〉)ら”と共に蝦夷地へ向かって、旧幕府軍の「箱館奉行」に就任し、新政府軍と交戦しています。
      ・・・しかし、“新政府軍との戦い”に敗れて、榎本らと共に自決しようとしたところを、周囲から止められて、新政府軍に降伏することに。・・・西暦1872年(明治5年)には、明治新政府へ出仕することになって、「開拓使御用係」や「左院(※明治初期の立法府のこと)・小議官」の職を経た後の・・・西暦1875年(明治8年)には「元老院・権大書記官」に任じられました。・・・また、この「永井尚志」は、“後世の作家・三島由紀夫の父方の高祖父”に当たります。・・・
      ※ 同年11月30日:「広島・国泰寺」にて、“幕府側と長州藩側との第2回会談”が行なわれる。・・・“この際の長州藩側出席者”は、「宍戸備後助(※別名は山縣半蔵)」や、「木梨彦右衛門(きなしひこえもん)」、並びに“諸隊の代表者”。・・・この頃既に、詳しくは同年11月上旬頃には・・・幕府側が、長州への攻め口としての部署割りを決定していたため・・・“まさに一触触発の状況だった”・・と云えます。・・・尚、“諸隊の代表者”とは・・・“かの奇兵隊などの長州藩諸隊を統率した人達”です。・・・
      ※ 同年11月内:「幕府」が、“物価調整のためとして”・・・「諸色会所(しょしきかいしょ)」を「計画」する。・・・「諸色」とは、江戸時代において物価を指した言葉であり・・・“一般的には、米を除いた日常品価格を指す場合が多い”とのこと。・・・この幕末期における、諸港を開いた後の海外貿易により、諸色の更なる価格高騰を招いてしまったため・・・このように、“生活物資の流通機構を半国営化する”という「諸色会所構想」が唱えられたのです・・・が、結局のところは・・・江戸幕府(=徳川幕府)による大政奉還によって実現には至らず。・・・


・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治天皇即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍へ 【[小まとめ]水戸学と水戸藩内抗争の結末・小野崎〈彦三郎〉昭通宛伊達政宗書状・『額田城陥没之記』・『根本文書』*近代・西暦1869年(明治2年)2月から概ね同年5月内までの約4カ月間・水戸諸生党勢の最期・生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々・徳川昭武の箱館出兵・「箱館戦争」と「戊辰戦争」の終結・旧幕府軍を率いた幹部達のその後】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】