街並と天空   

『 夢と夢をつなぐこと・・・ 』

 それが私達のモットーです。 ~トータルプラン長山の仲介~ 

    

ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】



     ・・・さて、複数の別ページでもご紹介している『日本書紀』が、『古事記』などの“他の古典文書の内容から挿入している部分があったり、簡略的に纏めて引用していることなどについてを考慮する際”は・・・“地名の由来”などを研究をする上において、どうしても各地の「風土記」を或る程度理解しておく必要があると思いますし・・・また、ここで採り挙げる『常陸風土記』は、“私(筆者)の地元話ともなります”ので、出来るだけ詳細に、ご紹介致します・・・が、まずは風土記編纂の背景からご説明したいと思います。

     【風土記編纂の背景】

     「風土記」の編纂は、
漢字の使用が広まり、種々の記録を作ることが盛んになった頃・・・西暦713年(和銅6年)5月2日、元明(げんめい)天皇による官命に依るものでした。・・・この頃は、奈良の地に壮大な都城として平城京が造営され・・・大化の改新以後であって、地方制度などが整備された時期であり・・・「風土記」は、諸国の國司や郡司を総動員して作成させた郷土誌的文書と云えます。・・・但し、「風土記」という名称については、“和銅の頃には、まだ使用せずに、奈良時代以降の平安時代に入ってから使用した”のではないか? とされております。

     「風土記」を撰進させる「詔(みことのり)」の意義としては・・・
     1.律令政治の一環としての意義・・・大和朝廷の支配を、國司を通して確実なものにするための前提として、地方の調査をする。
     2.唐王朝との交流上、地誌編纂の必要性があった
 と想われます。

     「風土記」は、当時の唐風書体である「四六駢麗体(しろくべんれいたい)」で文面が構成されており・・・そして、「大和朝廷」の中央政権による『日本書紀』の編纂事業に関連しており・・・領土的観念に伴う歴史や、地誌編纂を目的としたものです。・・・また、『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、次の6項目について、それぞれの國司に対して報告するように求めています。

     ① 畿内、七道の諸國は、郡、郷の名には、好字(=漢字二字の嘉き字)を著(つ)けよ。【地名表記】
     ② その郡内に生ずるところの、銀、銅、彩色、草木、禽獣(きんじゅう)、魚、蟲(むし)などの物は、具(つぶさ)に色目を録せ。【自然物産目録】
     ③ 土地の沃せき (※肥沃の状態のこと)についてを録せ。【土壌良否】
     ④ 山川、原野の名号の所由についてを録せ。【地名説話】
     ⑤ 古老相伝の旧聞や異事についてを録せ。【民間伝承】
     ⑥ 要求外の内容や事項で報告すべきことについてを録せ。


     上記6項目の中で、一番最初に挙げられている「郡、郷の名には、好字を著(つ)けよ」という部分(①)は、とても重要となります。・・・というのも、漢字が一般的に普及していなかった時代における各地方の地名を、この詔が発端となって、漢字二文字の嘉(よ)き字を当てることとなり・・・これによって、多少の変遷があったとしても、現在まで脈々と受け継がれて来ているからに他なりません。 ・・・『常陸風土記』においても、現在の県名である「茨城(いばらき)」を始めとして・・・「那珂(なか)」や、「久慈(くじ)」、「筑波(つくば)」、「新治(にいはり)」、「笠間(かさま)」、「信太(しだ)」、「行方(なめがた)」、「香島(かしま:=鹿島)」・・・などの地名表記が、“少なくとも奈良時代から現在まで受け継がれて来ている証”とも云えるからです。

     また、現存している「風土記」は、ここで紹介する『常陸風土記』や、『播磨風土記』、『出雲風土記』、『肥前風土記』、『豊後風土記』の“五つだけ”であり・・・“諸國の風土記”には、その逸文として、『釈日本紀』や、その他の古典史料に遺されているだけとなります。・・・特に、日本列島の東側において現存するのは、この『常陸風土記』のみとなり・・・物語性に富む説話や、歌謡が多いことでは、現存する五つの「風土記」の中では、群を抜いており・・・まさに、東國民間伝承の宝庫とも云える古文書です。・・・尚、現存する五つの「風土記」の中で、最も完全に近いものは、『出雲風土記』とされております。

     これらの「風土記」が編纂された時期は、“ちょうど大和朝廷が律令制施行のため全勢力を注いでいた時期であり、律令制定の中心人物とされる藤原不比等(=史:※藤原鎌足の次男のこと)が、右大臣として中央政権で強い勢力を誇った時代”でした。・・・「風土記」において、“土地の有様や、産物を詳しく記せ”と命じたのも・・・“地方の実態を把握したかったから”に相違なく・・・「風土記」に関わった人々を調べてみても、“藤原不比等(=史)の政策を支えていた新進気鋭の官僚達が多いこと”に気付かされます。
     ・・・特に、『風土記』編纂の第一グル-プと目されるのが、西暦719年(養老3年)に任じられた“按察使(あぜち)の人々”です。・・・「按察使」とは、臨時に地方行政を訪ねて視察することを職掌とした令外官のことです。
・・・この按察使の中には、『常陸風土記』の編纂に関わった藤原宇合(ふじわらのうまかい:※藤原不比等〈=史〉の三男のこと)や、『出雲風土記』の編纂に関わったと視られる多治比真人県守(たじひのまひとあがたもり)などがおりました。・・・藤原宇合は、西暦732年(天平4年)に「西海道の節度使」にも任じられており・・・この任期中に、『豊後風土記』や『肥前風土記』が、完成されたと云います。・・・また多治比真人県守が、『出雲風土記』に関わったと視られると考えられているのは・・・彼が、西暦732年(天平4年)に「山陰道の節度使」として派遣されたのですが、その任期中の西暦733年(天平5年)に『出雲風土記』が撰進されていることに起因しております。・・・一般的に、これらの「風土記」には、各地方の地名の由来や、伝承などが含まれ、各郡の記事についてが不完全であるためか? 内容的な面白さに欠けるようにも感じられます・・・が、各地の地名や、伝承・伝説を知る上において、『常陸風土記』と『出雲風土記』は、“極めて特徴的な性格を有している”とも云えるのです。


     『常陸風土記』について

     『常陸風土記』として、現存しているのは、「全本」ではなく、諸所を省略した「抄本」であり・・・「菅政友(かんまさとも、すがまさとも)」による「常陸風土記考証」や、「伴信友(ばんのぶとも)」による「風土記考」などでも・・・“和銅の頃のもの”と推察されており・・・ほぼ「和銅の詔」に因って、編纂されたものとしています。・・・内容的には、“古老相伝の旧聞”による物語的な伝承記録に重点を置きつつも、その用語や文章が非常に美しく優れたものであるため・・・「菅政友」は、“かなり漢文学に精通した人の手によって編纂されたものとして、養老年間(西暦717年~723年)に、当時の常陸國守だった藤原宇合が編纂した”のではないか? と推察しています。

     この『常陸風土記』が編纂された時期は・・・“大和朝廷による東北地方経営が積極的に行なわれた頃であり、蝦夷征討と称して各蝦夷集団を恭順化させ、自らの支配圏を拡大させていた真っ最中”とも云える時期でした。・・・そのため、「常陸國」は・・・地政学的に云うと・・・多くの蝦夷集団が暮らしていた陸奥國と境を接する辺要の地として重要視され、陸路や海路における前線拠点としての役割を担っていたのです。
     『常陸風土記』の特徴としては・・・“古老相伝の旧聞異事を蒐集(しゅうしゅう)し、それらを整理して、常陸國の歴史や、地理的な性質を明確にすること”が、その目的とされ・・・当時の農業開拓の状況や、蛇神信仰、神社の沿革、先住民の分布と討伐の具体相・・・などの、興味深い内容とともに、各郡の冒頭部分では、國造(くにのみやつこ)の始祖についてを、入念に記述しているのです。 そして、この『常陸風土記』が完成する直前の纏めの際、つまりは最終段階では、おそらく・・・“藤原不比等(=史)の三男・藤原宇合が、関与していた”と考えられる訳です。・・・その理由は、“常陸國における開拓などの歴史を強調しながらも、藤原氏祖先である中臣氏の活躍の様相を、詳細に記述しているから”です。・・・『常陸風土記』久慈郡の条では・・・「天智(てんじ)天皇の御世に、使いを遣わして藤原内大臣(※藤原鎌足、かつての中臣鎌足〈※鎌子とも〉)の封戸とを検校せしむ。」・・・という記述があり・・・更には、“遡ること孝德天皇時代において、中臣幡織田臣(なかとみのはたおだのおみ)らが関東を総領していることなどからも、常陸國が中臣氏と深い関係にあることが分かりますし、この藤原宇合が西暦719年(養老3年)7月に、常陸國守として派遣されたということからも、大和朝廷が如何に常陸の地を重用視していたのかが判る”のです。・・・いずれにしても、藤原内大臣(※藤原鎌足、かつての中臣鎌足〈※鎌子とも〉)の孫に当たる藤原宇合は、いわゆる「藤原四家(ふじわらしけ)」のうちの“式家の祖”とされます。・・・この「藤原四家」とは、「藤原氏四家」とも云い、藤原不比等(=史)の4人の息子達が興した四家の総称です。・・・藤原式家の他には、藤原不比等(=史)の長男である藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の「藤原南家」や・・・同じく、次男である藤原房前(ふじわらのふささき)の「藤原北家」・・・同じく、四男である藤原麻呂(ふじわらのまろ)の「藤原京家」があります。・・・しかし、西暦737年(天平9年)には、「天然痘(てんねんとう)」が流行して、藤原不比等(=史)の子息達四兄弟全てが、次々と亡くなったため、藤原氏全体が一時期衰退してしまうのです・・・が、藤原宇合が興したという藤原式家の話題に戻します。・・・そもそもとして、この藤原宇合は、「按察使」の他にも、「式部卿」などの要職を歴任したことから、「式家」と称した訳です。・・・この「式部卿」とは、大和朝廷の式部省長官に当たり、文官の人事考課や、礼式、選叙(※叙位や任官のこと)、行賞を司る要職でして・・・更に、この「式部省」が、役人(=官人)養成機関であった大学寮を統括していたため、いわゆる八省の内でも、中務省に次ぐ重要な省とされていました。・・・ちなみに、後の西暦812年(弘仁3年)からは、“式部卿としては、四品以上の親王が任ぜられる”という慣例が出来上がります。・・・尚、“常陸國と中臣氏や、常陸國と藤原氏との間には、切っても切れないほどの繋がりがあることが分かる”のですが・・・これについては、肝心の『常陸風土記』を見てから考察したいと思います。


     ・・・上記の「菅政友(かんまさとも、すがまさとも:※生年西暦1824年~没年1897年)」とは、水戸の医師の出で、豊田天功(とよだてんこう)や藤田東湖(ふじたとうこ)らに学んで、國史に通じていたため・・・水戸藩士となってから、西暦1858年(安政5年)から、彰考館(しょうこうかん)に勤めることとなりました。・・・そして、義公(ぎこう:※徳川光圀、水戸黄門)が、その編纂に取り組み始めて、旧水戸藩(水戸徳川家)における承継事業とされた『大日本史(だいにほんし)』編纂にも、実際に従事したという経歴を持つ歴史研究者です。・・・この菅政友は、明治維新後の西暦1874年(明治7年)に、現在の奈良県天理市に在る「石上神宮(いそのかみじんぐう:※古代の倭王家に仕えた豪族・物部(もののべ)氏の武器庫だったとされています)・大宮司」となり、“その石上神宮に伝来していた古代の鉄剣”とされる「七支刀(しちしとう:※鉾に似た主身の左右から三本ずつの枝刃を出して計て七本の刃を持つ形であり、全長74.8cm)」を発見しております。・・・発見以前の石上神宮では、この剣の由来そのものが早くに忘れ去られており、「六叉の鉾(ろくさのほこ)」と呼んで、“毎年初めの神田において苗を植える儀式で、神を降ろす(≒呼ぶ)ための祭具として、それまで用いていた”と云います。・・・「石上神宮・大宮司」として、この社宝についてを、つぶさに観察する機会を得た菅政友は・・・“その刀身に、金象嵌銘文(きんぞうがんめいぶん)が施されていること”を発見し・・・更に、剣に付着した錆を落として・・・初めて、その銘文の解読を試みましたが・・・何分、鉄剣だったために、錆による腐食がひどく、読み取れない字もあったため・・・それ以降も、その銘文の解釈や、判読を巡る研究が続いておりました。・・・尚、『日本書紀』には、「七枝刀(ななつさやのたち)」との記述があって、“4世紀頃に、当時の倭國(ヤマト王権)に対して、百濟が朝貢した際に献上されたもの”としているため・・・この「七支刀」との関連性が指摘されています。・・・いずれにしても、刀身の両側から枝が3本ずつ互い違いに突出しているため、“実用的な武器ではなく、祭祀的な象徴として製造されたもの”と考えられます。・・・この「七支刀」は、古代中国や古代朝鮮との関係を記した現存する文字史料の一つであって・・・別ページでふれている『広開土王碑』などとともに・・・“4世紀の倭國(ヤマト王権)に関する貴重な資料”とされ、1953年(昭和28年)には「国宝」に指定されています。・・・その後の菅政友は、太政官修史館や、帝國大学において、修史事業に従事し・・・その著作としては、『南山皇胤(こういん)譜』や、『古事記年紀考』、『菅政友全集』などがあります。

     ・・・上記の「伴信友(ばんのぶとも:※生年西暦1773年~没年1846年)」とは、若狭國旧小浜藩士出身の國学者です。“古典の考証に優れた人物だった”とされ、「平田篤胤(ひらたあつたね)」や、「橘守部(たちばなもりべ)」、「小山田与清(おやまだともきよ)」とともに、「天保の國学の四大人」と呼ばれます。・・・この伴信友は、『神名帳考証土代(じんみょうちょうこうしょうどだい)』など多くの著書を遺しましたが、“師弟関係を好まずに、弟子をとることが無かった”とされる人物でもあります。



      《※ 原文は、漢文表記となっておりますので、『古事記・祝詞・風土記(塚本哲三 校 有朋堂書店:西暦1927年刊)』の『常陸風土記』部分を基として、私(筆者)が訳した内容となります。・・・そして、和歌の訳部分や、「・・・」の後述部分、()など記号がある部分、『常陸風土記逸文』などでの追加部分も、私(筆者)による補足です。・・・また、どうしても、パソコン上で表示や、表現が出来ない旧字などについては、新字を当てたり、(※〈□〉の字は〈□〉偏+〈□〉)などと表現しております。・・・そのため、少々読みづらくなってしまいましたが、文字本来の意味を掴む上で必要と判断致しました。ご了承下さい。・・・尚、本文中の□部分は、原文における欠字や脱字部分です。 ※》

      ◆ 『常陸風土記』


      常陸國司(ひたちのくにつかさ)が、解(こた)えし。古老が申すところの、相傳(そうでん)し聞く(という)舊(ふる:=古)き事を。國郡の舊き事を問うと、古老は答えて曰く・・・「古者(いにしえに)は、自ずと相摸國(さがむのくに)足柄岳坂(あしがらのさか)以東(ひむがし)の諸縣(くにぐに)。摠(すべて)我姫國(あづまのくに)
【※(注釈)我姫、此れを あつま と云い、亦は吾嬬、吾妻、東なり。※】と、稱(とな)え、是の當時は、常陸とは言わず、唯(ただ)、新治(にいはり)や、筑波(つくは)、茨城(うばらき)、那賀(なか)、久慈(くじ)、多珂(たか)の國と稱(とな)えり。各(おの)へ、檢校(けんぎょう:※調査し考え合わせること)を令し、造(みやつこ)と別(わけ)とを、遣わす。」・・・と。其の後に至りて、難波長柄豐前大宮臨軒天皇の世【※(注釈)孝德朝※】に、高向臣(たかむくのおみ)や、中臣幡織田連(なかとみのはたおりだむらじ)らを遣わして、自坂(このさか)より以東(ひむがし)の國を摠領(おさめ)しむ。・・・時に、我姫の道を八國と為し分けて、常陸國は其の一に居(い)れり。・・・何故かと云うと、海の津(つ:※渡し場のこと)は、江(え:※入り江のこと)によって隔たれずに、路(となりて)道を往來し、郡郷と郡界にも山河の峰谷が相い続く(ものなりて)、直通(ひたみち)の意を取りて、(この)名を以って為し、稱えるものなり。・・・或る(人が)、曰く・・・「倭武(やまとたける) 天皇【※(注釈)日本武尊(やまとたけるのみこと)※】が、東夷(あづまのえみし)の國を巡狩(めぐり:※帝王が四疆を、すなわち東西南北の境まで巡幸すること)て、新治の縣(あがた)を過ぎたる所に、國造のヒ(※〈ヒ〉の字は〈田〉+〈比〉)那良珠命(ひならすのみこと)を遣わし、井(戸)を掘らせんと、新たに令して、淨(きよ)く澄んだ泉が流れると、(倭武天皇が、この泉を) 尤(もっと)も好みて愛(め)でたり。・・・時に、乗る輿(こし)を停(とど)め、(その)水を翫(もてあ)び、手を洗うと、御衣の袖が泉に垂れて、(これを)沾(うるお)す。袖を漬(ひ)たす(という)義(ぎ、こころ:=意)に依りて、以って此の國の名を為す。【※(注釈)漬、此れを ひたち、常陸と云い、音は同じ。※】風俗(くにびとの)諺(ことわざ)に、曰く・・・「筑波岳(つくばのたけ)に黑雲が挂(か)かりて、衣袖漬國(ころもでひたちのくに)。」・・・と。・・・つまり、大化の改新以前には、「常陸」とは言わずに、“足柄岳坂以東についてを語って、新治や、筑波、茨城、那賀、久慈、多珂などの小さな國々があり、これらを総称して、我姫國と呼んでいた”と。・・・大化の改新の後には、“その我姫國を更に区分して八國とした”とも。・・・この“八國”とは、相模國(さがみのくに)や、武蔵國(むさしのくに)、上総國(かずさのくに)、下総國(しもうさのくに)、上毛野國(かみけぬのくに)、下毛野國(しもけぬのくに)、「常陸國(ひたちのくに)、陸奥國(みちおくのくに、むつのくに)。

      夫(それ)常陸國は、堺(さかい)是(これ)廣大(こうだい、ひろく)にして、地も亦(また)、遥かに緬(めん:≒拡がり)す。・・・土壌(つち、どじょう)は沃(こ:=肥)え墳(はか)りて、原野さえも肥え衍(はびこ:≒亘)れり。・・・(開)墾を發(た:=発)つ處(ところ)にて、山海の利にも恵まれ、人々は自得(ゆたか)なり。・・・家々も、足饒(にぎわ)う。・・・もし、身を耕耘(こううん:※田畑を耕すこと)に勞(ねぎ)らいて、力を竭(つく:=尽く)し、蠶(かいこ:=蚕)を紡ぐ者有らば、たちどころに富豐(とみ)を取りて、自然と貧窮(ひんきゅう)を免れん。・・・況(いわん)や、復(また)、鹽魚(しおざかな:=塩魚)の味を求めれば、左は山、右は海なり。(≒燃料や食材に困らない)・・・桑を植え、麻を種(まく)にも、後ろは野、前は原なり。・・・所謂(いわゆる)水陸の府蔵(うみくぬがのくら:※海の幸や山の幸が豊かな処という意)や、物産(くにつもの)の膏腴(こうゆ:※土地が肥えていることなど恵まれている様)なり。・・・古人(いにしえびと)が、曰く・・・「此の地は、常世の國(≒不老不死の理想郷や、神仙境のような國)。疑いてはならん。但し、水田が有る所を以ってしても、(湿地が多く)上(≒上等、上質)なるは小さく、(むしろ)中(≒並程度)なるが多し。年が霖雨(≒長雨が続くこと)に遇わば、即(すなわ)ち苗子登らず(≒苗が育たないことがある)の難(なげき:=嘆き)を聞かん(≒それが難点だと人々から不満の声が聞こえる)。歳が亢陽(ひでり:≒日照り、旱が続くこと)に逢わば、唯(ただ)穀實豐稔の歓びを見んか(≒よく陽射しの照る年に逢えば、唯々穀物の実りは豊かで、いかに喜ばしい事か)。」・・・と。[之を略さず]・・・ここについてを、概ね訳すと・・・「常陸國は廣大で耕地は肥沃、原野さえも肥えて、農耕のための有望地。山や海からの恵みもあって、人々や家々にも賑わいがあり、力を尽くして田畑を耕して絹糸を紡ぐ生産労働に励めば、たちどころに富裕になり、自然と困窮から免れる。塩魚の味を求めるならば、そこは左が山、右が海であり困りません。桑を植え、麻を栽培するにしても、そこはまた後ろが野、前は原なので最適です。水陸の物産が豊かな、府の蔵とも云うべき処なのです。古人が云うところ、まさに常世の國とは此の地のことだろうかと。但し、水田の質は、上質と云える処は少なく、中質の処が多いです。一年間で長雨が続くと苗が育たないことがあり、これを嘆く者達がいます。適当な日照りさえあれば、実り豊かとなり唯々喜ばしいのですが。」・・・となりますでしょうか?・・・“まさに、豊穣の地であり、大和朝廷の財政事情からすると、垂涎(すいぜん)の地だったこと”が窺われます。・・・それにしても、“この報告事項に対する調査力や、分析力、表現力など”には驚かされます。・・・ちなみに、この頃の「常陸國國司」は・・・『続日本紀』によれば、阿部狛朝臣秋麻呂(あべのこまいのあそんあきまろ)や、石川朝臣難波麻呂(いしかわのあそんなにわまろ)・・・そして、藤原宇合が居りました。・・・ここの記述にある表現方法を視ると・・・このように、広く肥沃な農用地などに恵まれて豊かだったという常陸國は・・・“この奈良時代に、更に開発が進められていたこと”が分かります。・・・そして、常陸國は、地理的にも陸奥國に近かったことから、“大和朝廷による東北地方の開発事業や、蝦夷政策に関する人材と物資両面における前線拠点としての役割を果たすことになったよう”です。・・・“源順(みなもとのしたごう)が編纂した”とされる平安時代中期の辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』によると、“当時の十一郡に含まれる郷の数”は、「百五十二郷」もあり・・・“田の総面積”は、「四万九十二町歩余り」。これは、当時の陸奥國に次いで、全国2位の耕作規模でした。・・・また、同時代の『延喜式(えんぎしき)』でも、“官稲出挙(かんとうすいこ:※簡単に云えば、税法上の賃借システムのこと)の量について”を、「百八十四万六千束」としており・・・全国1位の割合を占めていたのです。・・・“当時の常陸國は、朝廷勢力下における有数の國とされており、まさしく開拓開墾ラッシュと云って良かった”のでしょう。・・・これらに伴なって、必然的に日本列島各地などから、人々が大勢流入することとなります。


      ◆ 「新治郡(にいばりのこおり)」東は、那賀郡(なかのこおり)。堺(さかい:=境)には、大きなる山。南は、白壁郡(しらかべのこおり)。西には、毛野河(けぬがわ:=毛野川≒現在の鬼怒川)。北は、下野と常陸二國の堺なりて、即ち波太岡(はだのおか)。・・・『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』によれば、“坂戸郷や、竹嶋郷、沼田郷、伊讃郷、博多郷、巡廻郷、月郷、大幡郷、新治郷、下真郷、巨神郷、井田郷の13郷”を記述しており・・・現在の茨城県笠間市や、桜川市、筑西市の一部が、その領域として比定されています。・・・郡衙(ぐんが:※古代日本の律令制度下で、郡司が政務を執った役所。郡家とも云う)の所在は、現在の筑西市古郡。

       古老が、曰く・・・「昔、美麻貴(みまきの)天皇【※(注釈)崇神(すじん)天皇※】 の世に、東夷の荒ぶる賊達を討ち平らげる為【※(注釈)俗に云う、阿良夫流余斯母乃。あらぶるよしもの、即ち荒振よし者。※】、新治の國造の祖であるヒ(※〈ヒ〉の字は〈田〉+〈比〉)那良珠命(ひならすのみこと)を、遣わす。此の人が罷(まかり)り到りて、即ち新たなる井(戸)を穿(うが:※掘ること)つ【※(注釈)今も、新治里に存する。時に随(したが)いて、祭りを致す。※】と、其の水は淨(きよ)らかなる流れなり。井を治(は)ったことに仍(よ)りて、其の名を改めず、今に至りても、郡を著(あらわ)し號(よびな)すものなり。」・・・と。風俗(くにびとの)諺に、曰く・・・「白遠(しらとお)う新治の國」・・・と。[以下之(これ)を略す]・・・「ヒ奈良珠命」とは、出雲系氏族の族長の一人とされています。・・・「白遠う」とは、「新治」の「新(にい)」の部分に掛かる枕詞(まくらことば)です。

      (この)郡(の)以東五十里には、笠間村(かさまのむら)が在り。葦穂山(あしほやま、おはつせやま)を稱(たた)え、道路(みち)を越えて通わんとす。
      古老が、曰く・・・「古(いにしえ)に、名を油置賣命(あぶらおきめのみこと)と稱(とな)えし山賊有りて、今も社(やしろ)の中の石屋(いわや)に在り。」・・・と。俗(人)の歌に、曰く・・・
・・・※歌の原文について(一首)は、省略させて頂きます。当時の大和言葉(やまとことば)に漢字を当てたものですので。・・・
       「言痛(こちた)けば 小初瀬山の 石城にも 率て籠もらなむ 勿(な)戀(こ:=恋)ひそ我妹(わぎも)」・・・と。[以下之(これ)を略す]
       《訳》「もしも、人に知られて辛くされたら、小初瀬山の石室へ、ともに籠もらねばならない。だから気持ちを押さえてくれ、私の恋人よ。」・・・と。[以下之(これ)を略す]
      ・・・「葦穂山」とは、後の平安時代に醍醐(だいご)天皇が、この山の神社に祈願し足の病が治ったことから、「日本最初足尾神社」の勅額を下賜したため、「足尾山」に改称したと云われる山です。標高627.5mの山であり、“古来より山岳信仰の対象となって、山中には霊石とされる巨岩や奇岩も多く、天狗が棲む山”としても知られていました。・・・尚・・・“かつては、油置賣命と呼ばれる山賊が、現在の足尾山山頂にある足尾神社本殿付近と考えられる石屋に暮らしていた”と。・・・ここにある「油置賣命」とは、“天狗のモデルとされた人だった”のでしょうか?・・・ここでは、「油置賣(あぶらおきめ)」とされており、“油や火などを変幻自在に操る仙人や、修験道を極めようとしていた人物、油を取り扱う商人を生業(なりわい)とする渡来系の先祖をルーツに持つ人々の可能性もあった”かと。


      ◆ 「白壁郡(しらかべのこおり)」東は、筑波郡(つくはのこおり)。南には、毛野河。西北に並ぶ新治郡。(※この後の記載なし)・・・当初は、このように「白壁郡」と称しました・・・が、8世紀末の延暦年間に、“先代の天皇だった光仁(こうにん)天皇の諱(いみな)”である「白壁」を避けて(=避諱)、後に「真壁郡」に改称されたと考えられます。・・・『和名類聚抄』によれば、“神代郷や、真壁郷、長貫郷、伴部郷、大苑郷、大村郷、伊讃郷の7郷”を記述しており・・・現在の茨城県筑西市の一部を除くほぼ全域と、桜川市真壁町の一部か? と考えられます。・・・郡衙の所在は、現在の桜川市真壁町古城及び同市同町源法寺。


      ◆ 「筑波郡」東は、茨城郡(うばらきのこおり)。南は、河内郡(かわちのこおり、こうちのこおり)。西には、毛野河。北には、筑波岳(つくはのたけ:=筑波山)。・・・現在の茨城県つくば市の大部分、つくばみらい市の大部分、土浦市の一部、下妻市の一部、常総市の一部、取手市の一部か?・・・郡衙の所在は、現在のつくば市平沢。

      古老が、曰く・・・『筑波の縣(あがた)は、古は紀國(きのくに)と、謂う。美萬貴天皇【※(注釈)崇神天皇※】の世に、采女臣(うねめのおみ)の友屬(ともがら)・筑箪命(つくはのみこと)【※(注釈)友屬とは、同族、伴造(とものみやつこ)の氏族なり。※】を、紀國の國造に、遣わす。・・・時に筑箪命が、曰く・・・「身名(わがな:=我が名)を國に著わし、而(しか)も後の世に流傳(つたえ)たいと欲し、(これを)令す。」』・・・と。即ち、本號(もとのよびな:※紀國のこと)を改めて、更に筑波者(つくは)と稱(とな)えしものなり。【※(注釈)風俗(くにびとの)説に、曰く・・・握飯(にぎりめしの)筑波の國・・・と。※】[以下之を略す]・・・ここにある「紀國(きのくに)」とは、すなわち「木の國」のことであり・・・現在の紀伊半島である「紀伊國」のことをも、示しておりますので・・・この『常陸風土記』が編纂される以前の「筑波の縣」には、“古代から紀伊半島を中心に栄えた名族”とされる「紀(き)氏」や、或いは「木(き)氏」が移住していたことが分かります。・・・おそらくは、“常陸國開発事業に伴なって、これに必要とされる建築土木技術や、河川などによる水運技術などを期待されていた”のでしょう。・・・いずれにしても、当時の「筑波の縣」における開発領主的な氏族としては、「紀氏」や、或いは「木氏」が代表されるかと。・・・【※(注釈)※】にある「握飯」とは・・・今で云えば、“ピクニックやハイキングの名所”・・・或いは、「デートスポット」という意。・・・また、この「握飯」から、水稲稲作が盛んとなっていた当時の光景も連想出来ます・・・が、この【※(注釈)※】の直後に、神々のお話によって説明されております。↓↓↓

      ★ 祖神尊(みおやのかみのみこと)、福慈神(ふくじのかみ)、筑波神(つくはのかみ)傳説
      古老が、曰く・・・『昔、祖神尊(みおやのかみのみこと:※神々の祖神のこと)【※(注釈)此の者は、是(これ)其の後の、富士と筑波二神の親なり。※】が、諸神の處を巡り行きて、駿河國(するがのくに)福慈岳(ふくじのたけ)【※(注釈)福慈は、此れを ふじ と云いて、富士なり。※】に到りて、卒(つい)には日暮れに遇(あ)う。宿を寓(よ)せようと欲し、(それを)請えば・・・此の時、福慈神(ふくじのかみ)が、答えて曰く・・・「新粟初嘗(わせのにいなめ:※初めての新嘗祭のこと)のため、家内が諱忌(ものいみ)せり、今日の間(ほど)は御勘弁を。」・・・と。是に於いて、祖神尊は、恨み泣きて詈(ののし:≒罵)り告げて、曰く・・・「即ち汝の親であるにも拘らず、何で宿させぬか。汝が居(い、お)る所の山は、生涯の極みとなるであろう。冬も夏も、雪や霜となり、冷寒が重ねて襲いて、人民は登れず、飲食(くらいもの)を奠(まつ)る者も勿(な)いほどに。」・・・と。更に、(祖神尊が)筑波岳に登りては、亦(また)止め容(い)れることを請う・・・と、此の時(の)筑波神が、答えて曰く・・・「今夜は新粟嘗(にいなめ)と雖(いえど)も、敢えて尊旨(みことのこころ)を奉らずとはゆかず。」・・・と。爰(ここに)、飲食を設け、祈りを承(うけた)まわらんと敬い拜む。・・・是に於いて、祖神尊は、然るに歡(よろこ)びて、謌曰(うたいたまわ)く・・・「愛乎我胤(うつくしきかもあがすえ)、巍哉神宮(たかきかもかむつみや)、天地竝齊(あめつちとひとしく)、日月共同(つきひとともに)、人民集賀(ひとびとつどいよろこび)、飲食富豐(おみものゆたかに)、代代無絶(だいだいたゆることなく)、日日彌榮(ひにひにやさかえ)、千秋萬歳(ちとせよろずよ)、遊樂不窮者(たのしみきわまらじ)」』・・・と。

       《上記歌の訳》
       愛(うつく)しきかも我がすゑ 高きかも神つ宮
       天地(あめつち)と齊(ひと)しく 月日(つきひ)とともに
       人民(ひとびと)集ひ賀(よろこび) 御食(みけ)御酒(みき)豐かに
       代々絶ゆることなく 日に日に弥栄え
       千秋萬歳(ちとせよろずよ) たのしみ極まらじ

      是を以って、福慈岳は、常に雪となりて、登ることを臨み得ず。其の筑波岳は、歌踊や飲喫(やら:※神とともに飲み食いし宴すること)に(人々が)往き集うため、絶え間無く、今に至れり。[以下之を略す]
      夫(それ)、筑波岳は、雲(上)に高く秀(ひいで)り。・・・最なる頂(いただき)は、西の峰
(=筑波山麓の男体山)が崢嶸(そうこう:※高く険しい様のこと)し、之(これ)を雄神(おのかみ)と謂いて、登り臨むことは、令(ゆる)されず。・・・但し、東の峰(=筑波山麓の女体山)は四方磐石(しほうばんじゃく)にして、昇り降りも決まって屹(そばだ)つが、其の側(そば)には泉が流れ、冬も夏も絶えず。・・・自阪以東諸國(さかよりひむがしのくにぐに)(の)男女は、春に花が開く時や、秋の葉が黄となる節に、(手を)攜(たずさ)え駢(なら)べ、飲食を齎(もたら)し賚(たま)いて、(馬に)騎(の:=乗)り、(或いは)歩いて登り臨み、栖遲(せいち:※世俗を離れ心静かに暮らすこと、休息し隠居すること)し、遊樂す。・・・其の唱えて曰く、・・・※原文について(二首)は、省略させて頂きます。

       筑波嶺(つくばね)に 逢はむと 言ひし子は 誰(た)が言(こと)聞けばか 嶺(みね)逢はずけむ
       《訳》筑波嶺の歌垣で逢おうと口約束したあの娘は誰? (きちんと)誰かの言葉を聞き入れて嶺逢い(≒出会い)をしていますよ!

       筑波嶺(つくばね)に 廬(いほ)りて 妻なしに 我が寢む夜ろは 早やも 明けぬかも
       《訳》筑波嶺の歌垣の後に宿するのに、相手がいなければ? さっさと独りで寝てしまえば、きっと、こんな夜はすぐに明けてしまうさ!

      甚だ多くの歌が詠まれ、(全てを車に)載せること叶わず。(≒“当時の都へ運べない程の量です”との報告)・・・俗に諺に、曰く・・・「筑波峰の会は、娉財(つまどいのたから:=妻問の宝)を得ざれば、兒女(こじょ:=娘)と為せず。」・・・と。

      (この)郡(の)西十里には、騰波江(とばのえ)が在り。
【※(注釈)長さ二千九百歩(ほ:=歩数)、廣さ一千五百歩(ぶ:=面積)。※】[以下之を略す]・・・「騰波江」とは、奈良時代に「大寶湖」と呼ばれ、現在の小貝川沿いに存在した湖。「大寶」の「読み」については、良く分かりませんが・・・「たいほうのうみ」でしょうか?・・・いずれにしても、今では水田となっています。現在の下妻市付近。


      ◆ 「河内郡」東は、筑波郡。南には、毛野河。西北は、新治郡。艮(うしとら:※=東北の方角)は、白壁郡。(※この後の記載なし)・・・『和名類聚抄』よれば、“島名郷や、真幡郷、大山郷、河内郷、八田部郷、菅田郷、大村郷の7郷”を記述しております。・・・現在の茨城県つくば市の一部、つくばみらい市の一部、取手市の一部、常総市の一部、、牛久市の一部、龍ケ崎市の一部、土浦市の一部か?・・・郡衙の所在は、現在のつくば市金田台。


      ◆ 「信太郡(しだのこおり)」東には、信太流海(しだのるかい:※古代の霞ケ浦のこと)。南には、榎浦流海(えのうらのるかい:※古代の香取海〈かとりのうみ〉の一部であり、特に鬼怒川が注ぐ湾入部のこと)。西には、毛野河。北は、河内郡。・・・「流海」とは、古代の霞ケ浦の総称。それぞれの場所で、若干表記が異なることがありますが、「高濱海(たかはまのうみ)」や、「佐賀海(さがのうみ)」、「信太海(しだのうみ)」、「浪逆海(なみさかのうみ)」、「香取海(かとりのうみ)」、「榎浦(えのきのうら)」、「安是湖(あぜのうみ)」などと呼ばれておりました。・・・現在の茨城県稲敷郡美浦村、同阿見町全域と土浦市の一部、牛久市の一部、稲敷市の一部か?・・・郡衙の所在は、不明とされますが、現在の稲敷市江戸崎町下君山付近にあったのではないか? と推定されています。

      ★ 普都大神(ふつのおおかみ)傳説
      古老が、曰く・・・「難波長柄豐前大宮馭宇天皇の世【※(注釈)孝德朝※】、癸丑年(※白雉四年、西暦653年のこと)に、小山上・物部河内(もののべのこうち)や、大乙上・物部會津(もののべのあいづ)らが、摠領・高向大夫(たかむくのまえつきみ)に(対して)、筑波と茨城の郡より、七百戸を分け(与え)、信太郡を置くことを、請う。」・・・と。此の地は、本(もと)(の)日高見國(ひだかみのくに)なり。

      (この)郡(の)北十里には、碓井(うすい)。古老が、曰く・・・「大足日子(おおたらしひこの)天皇
【※(注釈)景行(けいこう)天皇※】が、浮嶋帳宮(うきしまのとばりのみや)に(行)幸され、御水(おみず)の供(そなえ:=備え)を無くせり。・・・即ち、卜者(うらべ)を遣わして、占ないたる所々を、訪れて、穿(うが)つ(≒井戸を掘らせた)。(その井戸は)今でも、雄栗(おぐり)の村に在り。」・・・と。
      此れに從いたるを以って
(=碓井より)西には、高來里(たかくのさと)。古老が、曰く・・・「天地の權輿(てんちのけんよ:≒天地が生まれし初め)に、草木が言(ことば)を語らっていた時、天より降り來たる神ありて、名を普都大神(ふつのおおかみ)と稱(とな)えし。【※(注釈)普都は、此れを ふつ と云いて、フツ、斷物之聲(≒もののこえをたつ)義なり。蓋して、經津主神(ふつぬしのかみ)や、布都御魂(ふつのみたま)と同一系の神を為すか。※】山河の荒ぶる神の類いと和平しつつ、葦原の中津國(あしはらのなかつくに:※この常陸國付近のことか?)を巡り行く。大神には、已(すでに)道を化(か:=変)え畢(お:=終)えて、天に歸(かえ:=帰)らんとの心存(あ)り。・・・即時(やがて)、随身していた(=身に着けていた)器仗(きじょう)【※(注釈)俗に曰く、伊川乃甲、戈(ほこ)、楯(たて)、劍(つるぎ)。伊川乃甲は、此れ即ち いつノかぶと 稜威之甲なり。器とは、嚴の義なり。※】所に執る玉珪(ぎょくけい:※宝玉のこと)、履物(はきもの)に及ぶ(まで)悉(ことごと)く皆、茲(ここ)の地へ脱ぎ置いて、即ち白雲に乘(の:=乗)りては、蒼き天に昇り還れり。」・・・と。[以下之を略す]・・・ここにある「高來里」とは、現在の茨城県稲敷郡阿見町竹来(たかく)にある阿見神社付近と考えられており、古代の信太郡に属していました。この地域は、“物部氏の勢力下にあった”とされています。
      風俗(くにびとの)諺に、曰く・・・「葦原(の)鹿・・・其の味は、喫(の:≒食)めば、山(の)宍(しし:※鹿肉や猪肉のこと)とは異なり、若しくは(頬が)爛(ただ)れり。(≒抜群に美味しい)常陸と下總(の)二國が、大きな獵(か:=狩)りをしても、絶ゆることは無かろう。」・・・と。
      ・・・其の里(の)西には、飯名社(いいなのやしろ)。此れ即ち、筑波岳(の)所に有りて、飯名神の別屬なり。・・・榎浦の津には、驛家(うまや)を置く。東海大道(とうかいのおおみち:※古代の東海道のこと)は、常陸路の頭
(≒入口、始点)にありて、傳驛使(はゆまづかい)らを以って、將(まさに)初めて國を臨まんとし、先ず口と手を洗いては、東に面する香島之大神を拜みて、然る後に入ることを得るものなり。[以下之を略す]・・・「飯名社」とは、現在のつくば市臼井(うすい)にある飯名神社。筑波山の南山麓にあり、社の裏には清流が流れ、現在でも古来からの神域を醸し出しています。・・・「香島之大神」とは、その一柱とされるのが武甕槌命(たけみかづちのみこと)。またの名は・・・建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)とか、建御雷神(たけみかづちのかみ)、武甕雷男神(たけみかづちのおのかみ)、建雷命(たけみかづちのみこと)、建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)・・・とも。・・・次の一柱としては、天児屋根命。・・・その次の一柱としては、經津主大神(ふつぬしのおおかみ)。
      古老が、曰く・・・「倭武天皇【※(注釈)日本武尊※】が、海邊(=海辺)を巡幸して、乘濱(のりはま)に行き至れし(まさに、この)時、濱浦の上に、海苔が多く乾く。【※(注釈)俗に曰く、乃理。のり。※】是に由(よ)りて、能理波麻之村と名(付)けしものなり。」・・・と。【※(注釈)能理波麻は、此れを のりはま と云いて、海苔濱なり。亦(また)は、乗り濱と書く。乗濱の由(よし)なり。※】[以下之を略す]
      ・・・乘濱里(のりはまのさと)(の)東には、浮島村(うきしまのむら)が有り。
【※(注釈)長さ二千歩(ほ)、廣さ四百歩(ぶ)。浮島は、信太湖中に在り。※】四面は、海に絶たれ、山野が交錯(まじわれ)り。戸(いえ、こ)は、一十五(の)烟(けむり:=煙)にて(≒十五軒のみで)、田は七、八町(ちょう)餘り、百姓が居す所であり、火鹽(ひしお:※製塩のこと)によって業(なりわい)を為す。而(しかし)、九つの社が在りて、言行(こともわざ)も、謹んで諱(しめ:≒締め)れり。[以下之を略す]・・・「乘濱」とは、現在の稲敷市。霞ケ浦を臨む古渡や、阿波、伊崎付近の浦浜。・・・「浮島村」とは、現在の稲敷市浮島。・・・「百姓」とは、今に云う“お百姓さん”という意味ではありません。つまりは、当時の農民だけを指しているのではなく・・・或る意味で、文字通りなのですが・・・幾つもの姓(かばね)を持った人々のことであり・・・つまりは、それぞれ異なる先祖をルーツに持ち、現地の開発や開拓に携わった人々のことを「百姓」と、一言で表現しているのです。


      ◆ 「茨城郡」東は、香島郡(かしまのこおり)。南は、佐禮流海(されのうみ:※古代の霞ケ浦東端部、佐我流海とも)。西には、筑波山。北は、那珂郡(なかのこおり)。・・・大化の改新以前には、茨城國造の領域とされ、概ね現在の茨城県中央部に当たる・・・筑波山東側から霞ケ浦北側、北浦西側まで及びます。・・・現在の茨城県水戸市の大部分、笠間市全域、常陸大宮市の一部、桜川市の一部、小美玉市の大部分、東茨城郡城里町全域、東茨城郡茨城町の大部分、東茨城郡大洗町の大部分か?・・・郡衙の所在は、現在の石岡市茨城。・・・尚、常陸國の國府(こくふ)が、現在の石岡市に置かれており・・・石岡小学校の所在地には、國衙(こくが:※國の役所のこと)や、國分僧寺、尼寺などもありました。

      ★ 國巣(くにす)、土蜘蛛(つちくも)、八束脛(やつかはき)、佐伯(さえき)傳説
      古老が、曰く・・・「昔、國巣(くにす)が在りて【※(注釈)國巣は、土着の原住民なり。俗が語るに、曰く 都知久母。即ち つちくも 土蜘蛛なり。又は、曰く 夜都賀波岐。即ち、やつかはき、八束脛なり。※】、山の佐伯(さえき)と、野の佐伯なり。【※(注釈)佐伯は、皇命に從わずの者なり。※】普(段)は、土窟を掘り置いて、常に穴に居(い、お)る。・・・來たる人有らば、則(すなわ)ち、窟(いわや)に入りて、之(これ)に竄(のが:=逃)れ・・・其の人が去れば、之(これ)に遊びて、更に(近)郊へと出ずれり。・・・狼性(おおかみのしょう)、梟情(ふくろうのなさけ)にて、(まるで)鼠(のように)窺(うかが)いては、掠(かす)め盜むなり。・・・慰(なぐさ)みを(以って)招きても、被ること無く、彌(いよい)よ風俗(くにびと)を阻(はば)むものなり。・・・此の時、大臣族(おおのおみのやから)・黑坂命(くろさかのみこと)が、出遊(※野へ狩りに出ずること)の時を伺(うかが)い候(そうろう)て、茨(うばら)の蕀(とげ)を(彼らが暮らす)穴の内に施し・・・即ち、遂に騎兵へ縱(たて:≒激しく)に追いせしめんと、急ぎ令すものなり。・・・佐伯らは、常に走りては、土窟(つちのいわや)に歸(=帰)るが如くに盡(つ:≒尽)くししも、茨蕀(うばらのとげ)に繋がりては、衝(つ:=突)き害(そこな)いて刺傷(きず)付き・・・終(つい)には、疾みて死に散(ち)れり。・・・故に、茨蕀(より)取りて、以って縣名(あがたのな)を著(あらわ)す。」・・・と。【※(注釈)所謂(いわゆる)茨城郡は、今も那珂郡の西に存する。古者は、(この)所に郡家を置く。即ち、茨城郡内に。風俗(くにびとの)諺に、曰く 水依茨城の國と。※】・・・最後尾の【※(注釈)※】にある「水依茨城の國」という表現は、機知に富んでいるように感じられます。「水依」の部分を“如何に読むか”によって、“幾つかの解釈が出来る”のです。・・・まずは、「水依」を「みずより」と読んだ場合には・・・(・・・※佐伯達が、水のように、低き処に溜まるが如く・・・)「自(みず)寄(よ:≒拠)り茨城の國」。・・・または、「水依」を「すいよりし」と読めば・・・(・・・※佐伯達の棲み家、栖の意味で・・・)「棲(す)居(い)拠(よ)りし茨城の國」と。・・・或いは、「水依」を「すいよる」と読めば・・・或る意味で、直接的、且つ多少生々しい表現となるのですが・・・(・・・※佐伯達の血を・・・)「吸(す)い由(よ)る茨城の國」・・・などと理解出来ない訳でもないのです。・・・尚、「黑坂命」とは、神武(じんむ)天皇の皇子・神八井耳尊(かんやいみみのみこと)の末裔とされております。
      或る(人が)、曰く・・・「山の佐伯と野の佐伯は、自ら賊の長(おさ)を為しては、徒衆(かちしゅう:≒配下の者達)を引率し、國中を横行し、大殺(戮)を為しては、劫(おびや:=脅)かす。・・・時に、黑坂命が、此の賊を滅し規(ただ:≒糺)す(ためとして)、茨(うばら)以って、城(き)を造る。【※(注釈)此の句は、茨にて造る城なるを以ってとする、倭習(わしゅう、やまとのならい)か。※】(この)地(の)名を、茨城(うばらき)とする所以(ゆえん)なり。」・・・と。【※(注釈)茨城(の)國造(の)初祖は、息長帶比賣天皇之朝
(=神功朝)に仕えし、天津多祁許呂命(あまつのたけころのみこと)なり。品太天皇(=應神〈おうじん〉天皇)の誕する時に當り至りて、多祁許呂命には、八人(の)子が有り。中(の)男が、筑波に使わされた主(ぬし)なりて、茨城郡(の)湯坐連(ゆえのむらじ)らの初祖なり。※】

      郡(の)西南に從いては、間(はざま)には河が近く有り。信筑(しずく)の川を、謂(い)う。(水)源は、筑波の山より自ずと出でて、西に從いて東へと流れ、郡中(こおりのなか)を廻りては、高濱の海(たかはまのうみ)に入れり。[以下之を略す]・・・「高濱の海」とは、現在の霞ケ浦の一部を指します。・・・「信筑の川」とは、現在の恋瀬川(こいせがわ)。その水源地は、筑波山であり・・・石岡市と、かすみがうら市を通って・・・霞ケ浦に流れ込みます。また・・・「信筑(しずく)」という地名の名残りとして、今でも・・・かすみがうら市内に、「志筑(しずく)」として遺っております。
      夫(それ)、此の地の者は、菲(ひ:※蕪に似た植物のこと)が芳(かお)り、辰(たつ:※龍のこと)が嘉(よろこ)び、落(葉)が搖れる凉しき候(ころ)まで、命(いのち)が(日に=太陽に)向かいて駕(よろこ)び・・・以って、舟に乘りては遊ぶものなり。・・・春は、則(すなわち)浦(の)花が千(を)彩(いろど)りて・・・秋には、是(これ)岸(の)葉が百色(ももいろ)を為す。・・・野頭(のづ、のがしら:※野の入口付近のこと)に於いては、鶯(うぐいす)が歌を聞かせ・・・渚(なぎさ)に於いては、鶴が舞いを覽(み)せる。・・・社(やしろ)の郎(おとこ)や、漁する孃(むすめ)は、遂に濱の洲(はまのす)(に於いて、すなわち)輻湊(ふくそう:※四方から寄り集まること)するを以って、商いに豎(た)ちては、農夫となりて、艀サ(ふさ:※〈サ〉の字は〈舟〉+〈差〉)を棹(さお)して、往來する。【※(注釈)郎 の一字は、一説なり。 艀サ、此れを おぶね と云いて、小舟なり。艀(の)字は、府邊(の)旁(かたわ)ら(の)本(もとの)舟なり。※】況(いわん)や、三夏(の)熱き朝に、九陽(※太陽のこと)が夕を蒸(む)らしては、(下)僕を率い、友と嘯(うそぶ)いて、曲(まが)りし濱に並び坐りて、海(の)中へ望みを騁(は)せるなり。濤氣(なみのけ:≒浪風)が稍(やや)扇(あお)ぐと、暑さを避ける者は、鬱陶(うっとう)しさや、之(これの)煩(わずら)わしさに怯(ひる)みても、岡(の)陰(かげ)が傾き、徐(おもむ)けば、凉しさを追う者。然るに、之(これ)の意により、軫(よこぎ)りては、歡(よろこ)ぶものなり。【※(注釈)『玉篇(ぎょくへん、ごくへん)』(の)許叔(きょしゅく)は、重ねて曰く、「軫(シン、よこぎ)とは、轉(テン、ころげ、ころが)なり。」此れは、動きの義なり。※】詠歌(えいか)に、曰く・・・※『玉篇』とは、古代中国の南北朝時代に、「梁(りょう)」の「顧野王(こやおう)」によって編纂された「部首別漢字字典」。字書としては、『説文解字(せつもんかいじ)』や、『字林(じりん:※現存せず)』の次に古いものとされ・・・“原本系”の『玉篇』は、部分的にしか現存していません。・・・尚、ここにある詠歌の原文について(二首)は、省略させて頂きます。

       高濱に 來寄(きよ)する浪の 沖つ浪 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば
       《訳》高浜に寄せ来る波が、どんなに沖から寄せて来ても(≒他の女が寄って来ても)、私の心が動かないのは、あの娘に心を寄せてるからだ。

      又(また)は、曰く・・・

       高濱の 下風(したかぜ)さやぐ 妹(いも)を戀ひ 妻と言はばや しこと召しつも

       《訳》高浜の浜辺の下を騒がしく吹く風ではないが、恋するあの娘を妻と呼びたい気持ちが込み上げてくる。こんな私なのに。

      (この)郡(の)東十里には、桑原岳(くわはらのおか)。昔、倭武天皇【※(注釈)日本武尊※】が、岳(の)上に停まり留めて、御膳(ごぜん)を、奉進する。時に、(倭武天皇が)水部(もとりべ、みずべ)へ、清き井(戸)を、新たに掘らせんと令し・・・淨(きよ)く香ぐわしい泉が出でると、(これを)飲喫(のみくらう)には尤好(いとよ)し。・・・「敕(みこと)」に、曰く・・・「能(よく)渟(た)まれる水哉(かな)。」・・・と。【※(注釈)俗に曰く、與久多麻禮流彌津可奈。此れを云う よくたまれるみづかな 即ち、能く渟れる水哉なり。※】是(これ)由(よ)りて、今に謂う、里(の)名を、田餘と。【※(注釈)田餘は たまり と云いて、渟まり なり。今、玉里村(たまりのむら)に、玉の井の遺跡あり。※】[以下之を略す]・・・ここにある「田餘」とは、現在の小美玉(おみたま)市の上玉里と下玉里付近。


      ◆ 「行方郡(なめがたのこおり)」東南には、流海が並ぶ。□□□□□【※(注釈)五文字判読不可なり※】北は、茨城郡。・・・行方郡は、現在の茨城県潮来市全域、行方市全域、鉾田市の一部か?・・・郡衙の所在は、不明とされますが、現在の行方市玉造町内と考えられております。

      古老が、曰く・・・「難波長柄豐前大宮馭宇天皇の世【※(注釈)孝德朝※】、癸丑年(※白雉四年、西暦653年のこと)に、茨城國造(の)小乙下・壬生連麿(みぶのむらじまろ)と、那珂國造(の)大建・壬生直夫子(みぶのあたいおのこ)らが、摠領・高向大夫へ、請う。・・・“中臣幡織田大夫(なかとみのはたおりだまえつきみ)らへ、茨城(の)地である八里と、那賀(の)地である七里(と)を合わせた七百餘り(の)戸を割(さ)きて、別に郡家を置くこと”・・・を。・・・所以(ゆえに)、行方郡と稱(とな)えしは、倭武天皇【※(注釈)日本武尊※】が、天(の)下を巡狩(めぐ)りては、海(≒霞ケ浦)(の)北を征(う)ち平らぐ。・・・是に當たりて、此の國を過ぎ、即ち頓(とみ:≒特)に、槻野の清泉(つきのしみず)へと(行)幸しては、水を臨みて手を洗い、以って玉を井(戸)に落としたまう。・・・今も、玉清井(たまきよのい)と謂いて、行方(の)里中に存する。・・・更に、車駕(しゃが:※天子が乗る車や、乗り物のこと)を迴(まわ)しては、現原の丘(あらはらのおか)へ(行)幸し、御膳を、供え奉る。時に、(倭武)天皇が、四(方)を望み、侍從(おもとびと、じじゅう)を顧(かえり)みて、曰く・・・「徘徊する輿(こし)を停め、目を舉(あ)げて望みを騁(は)すと、山阿(さんあ:※山の隅や、山の入りくんだ所のこと)は海のように曲がりて、蛇に委(ゆだ)ねるが如く、参差(しんし:※互いに入り交る様。または、高低長短などあって、不揃いな様)する。峰の頭に雲が浮きては、谿(たに)の(中)腹に霧を擁す。物色(もののいろ)は、可怜(かれい:≒可憐)なりて、郷は甚だ愛(いと)しき體(からだ:≒かたち)なり。此の地の名を、宜しく行細(なめがた、なめくわ)し國(の)者と、稱(とな)えん。」・・・と。・・・後の世が、跡(あと)を追い、猶(なおも)行方と號(よびな:≒呼び名)とする。【※(注釈)風俗(くにびとが)曰く、立雨(たちさめ)零(お)ちる行方の國と。※】其の岡は、敞(ほがら:≒朗)らかに高き(もの)にて、之(これ)を現原(あらはら)と名(付)く。倭武命(やまとたけるのみこと)が、自ら此の岡を降り、大益河(おおやがわ)に至りて、艤舟(よそいぶね)(の)上に乘りたまう時、棹梶(さおかじ)が折れり。・・・因って、其の河(の)名を、無梶河(かじなしがわ)と稱(とな)えし。此れ則(すなわち)、茨城と行方二郡の堺(の)河なり。・・・鮒鯉(ふなこい)の類いは、悉(ことごと)くを記せず。・・・(この)無梶河は、岸辺に達せば、鴨が飛び渡りて、(倭武)天皇(自ら)が躬(み:=弓)を射ると、鴨は弦(つる)に迅(はや)くに應(こたえ)堕(お:=落)つる。・・・仍って、其の地を名(付)けて、之(これ)を、鴨野(かもぬ)と、謂う。・・・土壌は痩せて、草木は生(は)えず。・・・野(の)北には、檪(いちい)や、柴(しば:※燃料とする雑木のこと)、鷄頭樹(かえろで、けいとうじゅ:※かえで、楓のこと)、斗の木(とのき:※ひのき、檜、けやき、欅、こくたん、黒檀などのこと)が、往々にして森森(しんしん:※樹木が盛んに茂っている様、高く聳え立つ様のこと)とし、自ずと山林を成し、即ち枡池(ますのいけ)を有す。【※(注釈)斗 の一字は、一説なり。※】此れは、高向大夫の時に、(ここに)築(きず)きし池なり。
      (郡の)北には、香取神子(かとりのみこ)の社(やしろ)が有り、社の側(そば)は山野なりて、土壌は腴(こ:=肥)え衍(はびこ)り、草木が密生する。
・・・※『毛詩』では・・・「行は列なり、細は微なり」・・・と記述しています。・・・「行細」とは、これを・・・「なみくわ」や、「なめがた」・・・と呼んで、“其の山川河海が、可怜に連綿と並び列(つらな)るを指す”とのこと。・・・ちなみに、この『毛詩』とは、中国最古の詩篇『詩経(しきょう)』の異称です。「毛亨(もうこう)」と「毛萇(もうちょう)」という二人が、伝を付したものだけが遺っていることから、こう呼ばれます。・・・「現原」とは、旧玉造村及び芹澤村一帯のことであり、旧玉造町現原。つまりは、平成17年の市町村合併後の行方市北西部のこととされます。・・・同様に、「鴨野」とは、旧玉造町加茂のことであり、行方市北西部。

      都(の)西(の)津(つ:※渡し場のこと)を濟(な:≒為)せば、所謂(いわゆる)行方の海なり。・・・海松(みる、うみまつ:※緑藻類の一種のこと)及び燒き鹽(しお:=塩)の藻を生じる。(≒産出する)・・・凡(およその)海には、雑魚(ざこ)が在るが、載せるに及ばず。・・・但し、鯨鯢(くじら、けいげい:※雄クジラと雌クジラの総称)の如くは、未だ曾(かつて)見聞せず。・・・この文章の冒頭部分を、注意深く見ると、「郡」ではなく、「都」となっています。・・・“かつては、この行方の一帯には、かなりの賑わいがあって、ちょっとした都のように、常陸國司の目に映った”のでしょうか?・・・確かに、水運は活発だったのでしょうが。・・・或いは、“単なる誤記だった”のでしょうか?・・・
      郡(の)東は、國社(くにのやしろ)にて、此れを縣祇(あがたのかみ、あがたのくにつかみ:※土地神のこと)と、號(よびな)す。社(の)中には、寒泉(しみず)がありて、之(これ)を・・・大井(おおい)・・・と、謂う。・・・縁(そえ)りし郡(の)男女(≒結婚した郡の男女)が、集い會(あ:=会)い、(これを)汲(く)みては飲む。・・・郡家(の)南(の)門(かど:※敷地と外部を区切る塀や垣に開けられた出入口のこと)には、大きな槻(つき)(の木)が一(本)有り。・・・其の北(側の)枝は、自らが地に觸(ふ:=触)れ、垂れ還(かえ)りて、空(の)中に聳(そび)えり。・・・其の地には、昔から水の澤(※沼のこと)が有り。・・・今でも、霖雨(ながあめ、りんう)に遇(あ)えば、廳庭(まつりごとどころ、ちょうのにわ、やくしょのにわ)が濕(しめ:=湿)り潦(わた:=亘)る。・・・郡(の)側(そば)(の)邑(むら)に居れば、橘樹(たちばなのき)が、之(これ)に生(は)える。・・・「槻」とは、主には欅(けやき)のこと。室町時代以前に用いられた欅(けやき)の古名であり、または「トネリコ」や、「ハンノキ」等と呼ばれていた、弓に用いる弾力性に優れた樹木類。

      (この)郡(の)西北は、提賀里(てがのさと)。古(いにしえ)には、佐伯が有りて、名を手鹿(てが)と(呼ぶ)。其の人(=佐伯)が、居した為に、追って里を、著(あらわ)す。
      ・・・其の里(の)北には、香島神子(かしまのみこ:=鹿島神子)の社(やしろ)が在り。・・・(その)社の周りの山野は、地が沃(こ:=肥)えて・・・草木は、栗や、竹、茅(ち、かや)の類いが、多く生(は)える。
      ・・・此れに從いたる
(=提賀里より)以って北(方)には、曾尼村(そねのむら)。古(いにしえ)には、佐伯が有りて、名を、曰く・・・「疏禰ビ古(そねびこ:※〈ビ〉の字は、〈田〉+〈比〉)」・・・と。(これより)名を取りて、村を、著(あらわ)す。・・・今は、驛家(うまや)が置かれる。此れを、曾尼の驛(そねのうまや)と、謂う。・・・「提賀」とは、旧手賀村。・・・「曾尼の驛」については、後世の江戸時代には、“その存在が確認されていた”と云います・・・が、現在では・・・“手賀遺跡が所在する北西の位置にあった”という伝承のみとなります。

      ★ 夜刀神(やとのかみ、やつのかみ)傳説
      古老が、曰く・・・『石村玉穂宮大八洲所馭天皇の世【※(注釈)繼體(けいたい)朝※】に、箭括氏麻多智(やはずのうじのまたち)(という)人が有りて、(この)郡より西(の)谷(やつ)の葦原(あしはら)を、墾闢(こんびゃく:※開墾のこと)し、新たに田を治める。・・・此の時の夜刀神は、耕佃(たつく:※田地を耕営すること)りすること勿(なか)れと、(その)左右を防ぐ障(さわり)となりて、到り來るに盡(≒尽)くさんと、相群(むらがり)ては引率(ひきい)れり。【※(注釈)俗に曰く、蛇が夜刀神を為す と謂うと。其の形は、蛇の身と頭に角を持つと。難を免じようと率いる時、(その姿を)見る人有らば、家門は破滅し、子孫は繼(つ:=継)げず。凡(およそ)此の郡(の)側郊(あたりの:≒近郊の)原には、之(これ)が住む所が甚だ多し。※】・・・是に於いて、(箭括氏)麻多智が、大いに怒情(いかりのなさけ)を起こして、(夜刀神を)駈逐(くちく:=駆逐)し打ち殺さんと、自身(みずからが)仗(つえ:※刀や戟の総称のこと)を執(と)りて、之(これ)に甲鎧(かぶとよろい)を披(ひら)きて、(姿を)著(あらわ)す。乃(すなわち)、(箭括氏麻多智が)山(の)口(くち:≒入口)に至りて、杭(くい)を標(しめ:=示)し、堺(さかい:=境)(に)堀を置きては、夜刀神に告げて、曰く・・・「此れ以上(の処)は、神(の)地と為すことを聽(き:=聴)けり。此れ以下(の処)は、人が田を作ることに須(もち:≒用)いらん。今より以後は、吾(われ)が神祝(かんほき:※神として祝うこと)を為して、永代(の)祭りを敬(うやま)わん。冀(ねがわく)ば、祟(たた)ること勿(なか)れ、恨(うら)むこと勿(なか)れ。」・・・と。・・・社を設けて、(此処に)初めて、祭る。即ち、(夜刀神が)還(かえ)りて、一十町(ちょう)餘りの田を耕し發(た:=発)ちては、(箭括氏)麻多智(の)子孫が、今に至りても絶やさずに、祭り致すことを相(あい)承(うけた)まわれり。・・・其の後、難波長柄豐前大宮臨軒天皇の世【※(注釈)孝德朝※】に至りて、(茨城國造で小乙下の)壬生連麿が、其の谷(やつ)を初めて占いて、池(の)堤(防)を築かんと令した時に・・・夜刀神が、池邊の椎樹(しいのき)に昇り集まりて、時が經(へ:=経)ても去らず。・・・是に於いて、(壬生連)麿が聲(こえ:=声)を舉(あ:=挙)げて、大言する。・・・「此の池を修めんとする令は、民を活かす要(かなめ)となれり。風化(おもむけ:=王化)に從わざるのは、何(いず)れ(の)神か、誰(どの)祇(くにつかみ:※土地神のこと)か」・・・と。即ち、役(えき)する民(たみ)に令して、曰く・・・「目に見ゆる雑(まじ)りたる物や、魚虫の類いには、懼憚(おそれはばか)る所無く、隨(したが)いて打ち殺すに盡(≒尽)くさん。」・・・と。言い了(おわ)れし、その時に・・・神蛇(かみのへび:※夜刀神のこと)が、隱(かく:=隠)れ避ける。・・・所謂(いわゆる)其の池を・・・今は、椎井(しいのい)と、號(よびな)すなり。・・・(その)池の面(おもて:=前)には、椎株(しいのき、しいのかぶ)がありて、清泉(しみず)が出でたる所、(すなわち)井を取りて、池を名(付)くものなり。・・・(これ)即ち、香島(かしま:=鹿島)へ向かう、陸の驛道(うまやのみち)なり。』・・・と。・・・“杭を標して、堺に堀を置く”とは・・・単なる土木工事の段取りではなく・・・“神域と人々が暮らす領域の間に、境界を設け、一種の結界を張ったもの”と考えられますし・・・“原野開発に従事する人々、と自然神との戦いを示し、且つ未開の地の土着先住民に対する先進的な文化民による支配と開発、平和的な共存を図ろうとする過程などが象徴されている”とも云えるのです。

      (この)郡(の)南七里には、男高里(おだかのさと)。古(いにしえ)には、小高(おだか)(と云う)佐伯が有り。其れが居した處(ところ)に因りて、名を為す。・・・國宰(くにのみこともち、くにのつかさ:※國司のこと)たる當麻大夫(たぎまのまえつきみ)の時に、池を築きし所にて・・・今でも、路東(みちのひがし)に存する。・・・(この)池(の)西には、山がありて、艸木(くさき:=草木)が多く密なるに、猪や、猿が、大いに住まう。・・・(この池の)南には、鯨岡(くじらのおか)が有りて・・・上古(≒遠い昔)の時、海鯨(うみのくじら)が匍匐(ほふく:※伏せた状態で移動すること)し、而(しか)も來たる所にて臥(ふ)せり。即ち、栗家池(くりやのいけ)が有る。・・・其の栗が、大なるを以って、池(の)名と為す。・・・(この池の)北には、香取神子の社が有り。・・・「男高」とは、旧小高村。後世の江戸時代には、“大小三つの池だった”と伝わります。
      麻生里(あそうのさと)。古(いにしえ)の昔には、渚沐(なぎさ)の涯(きし:=岸)に、長さ一丈餘りの大竹の如き圍(かこみ)がありて・・・「麻生(あさおう)」・・・と。周り(の)里には、山が有り・・・椎や、栗、槻、檪が生えて・・・猪や、猴(さる:=猿)が、栖住(せいじゅう:※住む、棲むこと)する。・・・其の野では、キン馬(きんば:※健やかな乗馬用の馬のこと)を(産)出する。【※(注釈)キンは、底なる本(=原本)では、草(の)字(を)頭に冠(かんむり)させた すじ 或いは、筋(の)字なり。※】飛鳥淨御原大宮臨軒天皇の世【※(注釈)天武(てんむ)朝※】に、同じ郡(の)大生里(おおうのさと)(の)建部袁許呂命(たけるべのおころのみこと)が、此の野馬を得て、朝廷に獻(たてま)つる。・・・所謂(いわゆる)行方の馬(なめがたのうま)なり。・・・或いは、云う・・・「茨城の里馬(うばらきのさとのうま)は、(これに)非ず。」・・・と。


      ★ 平定東垂荒賊、建借間命(たけかしまのみこと)傳説
      (この)郡(の)南二十里には、香澄里(かすみのさと)。古傳(いにしえのつたえ)に、曰く・・・『大足日子天皇【※(注釈)景行天皇※】が、下總國・印波(いぬば)鳥見丘(とりみのおか)に登り坐られ、連(つらなり)を遙かに望み留まりては、東を顧(かえ)りて、侍臣(おもとびと)へ、「敕(みこと)」を、曰く・・・「海は、即ち青き波が浩(ひろ:≒広)く行きて、陸は是(これ)が丹(あか、たん、に:※赤、朱系の色のこと)(の)霞空が朦(おぼろ)なり。朕(われ、ちん:※景行天皇自身のこと)(が)目にする所は、國が其の中に在るように、見ゆるものなり。」』・・・と。・・・時(の)人は、是(これ)に由りて、之(これ)を霞郷(かすみのさと)と、謂う。・・・東(の)山には、社が有り。・・・榎(えのき)や、槻、椿(つばき)、椎、竹、箭(たけや、や:※弓矢の矢の部分にされること材のこと)、麥門冬(ばくもんどう:※りゅうのひげ、やぶらんの塊根のことで、漢方薬とされるもの)が、往々にして、多く生(は)える。
      ・・・此の里(の)以西には、海(の)中(の)北(方)に、洲(す:※中州のこと)がありて・・・「新治洲(にいばりのす)」・・・と、謂う。然るに、洲(の)上に於いて立ちて、北面を遙かに望めば、新治國小筑波の岳(にいばりのくにのおつくはのたけ)(の)所を見ゆることを稱(たた)えたる所以(ゆえん)なり。因(よ)って、名(付)けられし。
      ・・・此れに從いて、南に十里往(ゆ)かば、板來村(いたくのむら)。近く(の)海濱を臨みては、郡家を、安らかに置く。此れを・・・板來の驛(いたくのうまや)・・・と謂う。・・・其の(更に)西は、榎(の)木が林を成して・・・飛鳥淨御原大宮臨軒天皇の世
【※(注釈)天武朝※】に、麻績王(おみのおおきみ)が遣わされ、之(これ)が居する處なりと。【※(注釈)遣とは、此れ 流され放ち解かれる の義なり。※】・・・其の海には、燒き鹽(の)藻や、海松(みる、うみまつ)、白貝(=うばがい、姥貝のこと)、辛螺(にし)、蛤(はまぐり)、が多く生きる。

      古老が、曰く・・・『新貴瑞垣宮大八洲所馭天皇
【※(注釈)崇神天皇※】の世に、東(國)に垂れたる荒ぶる賊を、平らげんと、建借間命(たけかしまのみこと)が、遣わされる。【※(注釈)此れ即ち 那賀國造(の)初祖 なり。※】(建借間命が)軍士を引率(ひきい)ては、凶(わる)きを滑(なめら)かに略(はかり)行きて・・・頓(とみ:≒特)に、安婆の島(あばのしま)を宿とし、海東の浦(かいとうのうら)を遙かに望む。・・・時に、烟(けむ:=煙)る所を見ゆるが、爰(ここに)疑う人が有りて・・・建借間命が、天を仰ぎ、誓(うけい:※古代日本で行なわれた占いのこと)して、曰く・・・「若(も)し、天人(あめひこ、あまびと)の烟(けむり)ならば、我が上を覆い來たれ。若し、荒ぶる賊の烟(けむり)ならば、海中へと靡(なび)き去れ。」・・・と。時に、烟(けむり)は、海へと射(さ)して、而(しか)も、之(これ)が流れり。・・・爰(ここに)、自ずと・・・(建借間命は)凶(わる)き賊が有ることを知りて・・・即ち、衆に(対して)從うことを命じ、褥食(じょくしょく)させ、而(しか)も(海を)渡らせり。【※(注釈)褥食とは、朝食なり。褥中(しとねのなか)に於いて食する意を為すものなり。※】・・・是に於いて、(その)名を、夜尺斯(やさかし)とか、夜筑斯(やつくし)(とか云った)自らを、首帥(ひとこのかみ:※一群の人の長や首領のこと)と為して、穴を掘り、堡(とりで:※土や石で築いた砦や小城のこと)を造り、常に(その)所に居住(すまう)二人(の)國栖(くす)有り。・・・(建借間命が)官軍を覘伺(うかが)えば、伏せては衛(まも)り、拒みては抗(ふせ)ぐものなり。・・・建借間命が、兵(つわもの)の縱(ほしいまま)に、追い駈(か)けさせれば・・・賊は、逋(のが)れ還り盡(≒尽)くして、堡(とりで)を固く閇(とざ:=閉)し禁(まも)る。・・・俄而(にわかに、やがて)、建借間命が、大いなる權議(けんぎ:※はかりごとをすること)を起こし、救閲(すぐり:≒選り)て、敢えて死ぬるの士(たけきつわもの:≒特に尊敬に値する勇敢な男)を、山阿(さんあ:※山の隅や、山の入りくんだ所のこと)へ、伏せ隱(かく)しては、賊を滅するための器を造らせて、(これに)備える。・・・(そして)虹旌(にじのはた:※虹色の旗、或いは多色から成る旗のこと)を張る筏(いかだ)を編んで、舟を連ね、飛雲(ひうん:※風に吹かれて飛んでいく雲のこと)を蓋(かさ:≒笠)と為しては、嚴(おごそ)かに海の渚(なぎさ)を、餝(かざ:=飾)る。・・・天の鳥琴(あまのとりごと)や、天の鳥笙(あまのとりぶえ)が、波を・・・(そして)遂には、潮(うしお)に隨(したが)いて、杵島唱曲(きしまぶりをうたうこと)七日七夜(なのかななよ)(の間を)、歌舞(うたいまい、かぶ)を樂しみつつ、遊ぶ。【※(注釈)天の鳥琴は、一種の楽器なり。 或いは、曰く 詔琴の誤りか。 杵島唱曲は、歌に 霰(あられ)ふる杵島が岳を賢し人草取りかねて妹が手を取る と。※】・・・時に、賊黨(ぞくとう:=賊党=賊の輩)は、音を樂しみ、(それを)聞くこと盛んになりて・・・(國栖の)男女が、房(ふさ)となり、(堡から)舉(あ)がりては、悉(ことごと)く出で來たり盡(≒尽)くして、濱へと傾き、歡(よろこ)び咲(わら:=笑)う。・・・建借間命が、(官軍の)騎士へ令して、(その)堡(とりで)を閇(と:=閉)ざし、自らの背後から襲撃させる・・・と、種屬(やから、しゅぞく:※國栖の輩という意)を、囚(とら)え盡(≒尽)くして・・・一時(いっとき)に、焚滅(ふんめつ:※焼き払って、滅ぼすこと)する。・・・此の時、“痛くして殺す”と言える所をば・・・今は、伊多久の郷(いたくのさと)・・・と、謂う。・・・“段(ふつと)斬るに臨む”と言える所をば・・・今は、布都奈の村(ふつなのむら)・・・と、謂う。【※(注釈)段斬とは、段が 弗と斬る を云いて、物を斬る響きなり。※】・・・“安んじて殺す”と言える所をば・・・今は、安伐の里(あばのさと)と、謂う。・・・“吉(よ)く殺”すと言える所をば・・・今は、吉前の邑(よしさきのむら)・・・と、謂う。・・・板來(の)南(方の)海には、洲が有りて、(計りは)三、四里を許す。・・・春(の)時には、香島(=鹿島)と行方二郡(から)、男女が來たるに盡(≒尽)くし・・・(その)津(※渡し場のこと)(で)は、白貝(※うばがい、姥貝のこと)や、雑味之貝物(くさぐさのかいつもの)を、拾う。』・・・と。

      ★ 日本武尊(やまとたけるのみこと)傳説
      (この)郡(の)東北十五里には、當麻郷(たぎまのさと)。古老が、曰く・・・「倭武天皇【※(注釈)日本武尊※】が巡行(めぐり)て、此の郷を過ぎたまう頃、名を鳥日子(とりひこ)と云う佐伯が有り。其の逆命(ぎゃくめい:※命令に背くこと)に縁(そえ)りて、便(すなわち)、(これに)隋(したが)い殺略(さつりゃく:※人を殺して財物を奪うこと)する。」・・・と。・・・即ち車(駕)が、之(これ)を經(へ)る所(の)屋形野の頓宮(やかたぬのいりみや)へ、(行)幸するも、道は狭く、地は深淺(たぎたぎ:≒凸凹していて)しいものなるに・・・惡路(あしきみち)の義(こころ)を取りて、之(これ)を・・・當麻(たぎま)・・・と、謂う。【※(注釈)俗に曰く、多支多支斯。たぎたぎし は、惡路之状なり。※】・・・野の土は、埆(や:=痩)せたり。然(しか)れども、紫艸(むらさきぐさ)は生(は)える。・・・香島(=鹿島)と香取二つの神子の社(みこのやしろ)有り。・・・其れを周(めぐ)りし山野には、檪や、柞(ははそ:※コナラの別名。古くは近似種のクヌギやミズナラなどを含めて呼んだらしいとのこと。また、誤ってカシワを云うこともあり。)、栗、柴が、往々にして林を成して・・・猪や、猴(さる)、狼(おおかみ)が、多く住みたり。
      ・・・是に從いて以って南には、藝都里(ぎつののさと)。古(いにしえ)は、國栖が有りて、曰く・・・「寸津ビ古(きつびこ:※〈ビ〉の字は、〈田〉+〈比〉)と、寸津ビ賣(きつびめ:〈ビ〉の字は、〈田〉+〈比〉)(の)二人なり。・・・其の寸津ビ古は、(倭武)天皇
【※(注釈)日本武尊※】の(行)幸に當たりては、命(令)を化(か:=変)え違い背きたりて、甚だ肅(つつし)み敬(うやま)うこと無かりし。・・・爰(ここに)、(倭武天皇が)御劒(みつるぎ)を抽(ぬ:=抜)きて、たちまち(寸津ビ古を)斬りて、(これを)滅する。・・・是に於いて、寸津ビ賣は、心愁(うれ)いて悚懼(しょうく:※恐れ慄くこと)し、白幡(しらはた:=白旗)を表わし擧げ、(倭武天皇を)道に迎えて、拜み奉る。・・・(倭武)天皇は、(寸津ビ賣が)降りたることを矜(あわれ)みて、其の房(ふさ:≒家)を放免せんと、恩旨(おんし)する。・・・更に、(倭武天皇が)輿を乘迴(めぐら)し、小拔野の頓宮(おぬきぬのかりみや)へと(行)幸すれば・・・寸津ビ賣が、(その)姉妹を引率(ひきい)て、風雨をも避けず、朝夕に供(つか)え奉(まつ)りて、信(まこと)なる心力を竭(つ:=尽)くす。(倭武)天皇は、其の慇懃(いんぎん:※真心がこもっていて、礼儀正しいこと)なる惠(めぐみ)と慈(いつくしみ)に親しめり。・・・所以(ゆえに)、此の野を・・・宇流波斯の小野(うるはしのおぬ)・・・と、謂う。【※(注釈)宇流波斯、此れを うるはし と云う。惠慈 なり。※】
      ・・・其の南は、田里(たのさと)と名(付)けられし。息長足日賣皇后【※(注釈)神功皇后※】の時、此の地には、名を古都比古(こつひこ)という人あり。三度(みたび)韓國(からくに)へ遣わされ、其の功勞を重ね、田を賜いたるに因りて、名(付)くものなり。・・・又(また)、波都武之野(はつむのぬ)が有り。倭武天皇【※(注釈)日本武尊※】が、此の野に、停まり宿して、弓弭(ゆはず、ゆみはず:※弓の両端の、弦の輪をかける部分のこと)を修理(つくろ:=繕)いたるに因りて、名(付)けられしものなり。・・・(その)野(の)北(の)海邊には、香島神子の社が在り。・・・土は痩せるも、櫟や、柞(ははそ)、楡(にれ)が則(すなわ)ち一、二(カ)所に生える。【※(注釈)則の一字を、斗 とする説あり。※】
      ・・・此れに從いたる以って南には、相鹿大生里(あいかおおうのさと)。古老が、曰く・・・「倭武天皇【※(注釈)日本武尊※】が、相鹿丘前宮(あいかのおかさきのみや)に坐した此の時、膳炊屋舎(かしわでかしぎや、おおいどの)を、浦濱に搆(かま)え立て、艀を編みては、橋を作りて、御在所(ござしょ、ございしょ)へ通われしものなるに・・・大炊(おおい)の義(こころ)を取りて・・・大生(おおう)の村・・・と名(付)けられし。・・・又(また)は、倭武天皇【※(注釈)日本武尊※】の后(きさき)(の)大橘比賣命(おおたちばなのひめのみこと)が、自ら倭(やまと:=大和)より此の地へ、降り來て、参り遇いたまう。・・・故に・・・安布賀の邑(あふがのむら)・・・と、謂う。」・・・と。[行方郡分は之(これ)を略さず]・・・「屋形野」とは、旧八方村。・・・「當麻」とは、現在の鉾田市当間。・・・「紫艸」とは、ムラサキ科の多年草で、根を紫根(しこん)と呼び、根の色素が紫色であり、染料や薬用とされます。・・・「小拔野」とは、旧小貫村。・・・“波都武の野”とは、現在の行方市小牧付近。・・・“大生の村”とは、現在の潮来市大生。


      ◆ 「香島郡(かしまのこおり)」東には、大海(※太平洋のこと)。南には、下總と常陸との堺である安是湖(あぜのうみ)。西には、流海。北には、那賀と香島の堺である阿多可奈湖(あたかなのうみ)。・・・現在の茨城県鹿嶋市全域、神栖市全域、鉾田市の大部分、東茨城郡茨城町の一部、東茨城郡大洗町の一部か?・・・郡衙の所在は、現在の鹿嶋市神野向。・・・「阿多可奈湖」とは、水が暖かなる義とされており・・・現在の涸沼(ひぬま)のこと。

      ★ 鹿島神(かしまのかみ)傳説
      古老が、曰く・・・『難波長柄豐前大朝馭宇天皇の世【※(注釈)孝德朝※】、己酉年(※大化五年、西暦649年)に、大乙上・中臣□子(なかとみの□こ)【※(注釈)□部分を 鎌 とする説あり。※】と、大乙下・中臣部兔子(なかとみべのうさぎこ)らが、總領・高向大夫に請いて、下總國の海上國造(うなかみのくにのみやつこの)部内(くぬち、ぶない)より輕野(かるぬ)以南(の)一里と、那賀國造部内より寒田(さむた)以北(の)五里とを割きて・・・別に、神郡(かみのこおり)を、置く。・・・其の處とは、天之大神社(あまつおおかみのやしろ)や、坂戸社(さかどのやしろ)、沼尾社(ぬまおのやしろ)が有る所なり。・・・(これら)三(つの)處を合わし、總じて・・・香島之大神(かしまのおおかみ)・・・と、稱(とな)えし。因って、郡に名(付)けられし。【※(注釈)風俗(くにびとの)説に、曰く 霰(あられ)零(おちる)香島の國 と。※】・・・清濁が糺(ただ)され、天地草昧(の)以前(≒浮かぶものと沈むものとが入り交じり、天地の全てが一つに溶け合っていた頃)には、諸祖(かみろみ)天神(かみろぎ)【※(注釈)俗に曰く、賀味魯彌や、賀味魯岐 と謂う。賀味魯彌は、神ろみ と云い、女性神祖。賀味魯岐は、神ろぎ と云い、男性神祖。※】が、高天之原(たかまのはら)に於いて、八百萬神(やおよろずのかみ)を集い會わせり。諸祖神(かみろみのかみ)が、告げるに曰く・・・「今、我御孫命(みまのみこと)が、豐葦原水穗之國(とよあしはらみずほのくに)を、光宅(※神が光によって託そうとすること≒神によるお告げのこと)せん。」』・・・と。・・・事向けては平定せんとする、自ら高天(の)原に降り來たる大神(おおかみ)(のこと)を・・・香嶋天之大神(かしまのあまつおおかみ)・・・と、(その)名を稱(とな)えし。天に則(のっと)る「號(よびな)」を、曰く・・・香島之宮(かしまのみや)・・・と。【※(注釈)香島之宮には、鹿島神宮(の)武雷命(たけみかづちのみこと)を祀りし。※】地に則(のっと)りては・・・豐香島之宮(とよかしまのみや)・・・と名(付)けられしものなり。【※(注釈)俗に曰く、豐葦原水穗之國は、爾(なんじ:※鹿島神のこと)を留め始めんと、將(まさ)に奉上する所なり。荒ら振る神ら、又は石根木立や、草の片葉(に至るまで)が、晝者(ひるのもの)は狹蝿(さばえ:※陰暦5月頃の蝿のこと、うるさくて仕方ない様)音を聲(こえ)し、夜者(よるのもの)は火光が國を明るくして、之(これ)を辭(ことば)とし語れり。此れ、事向けて平定する大神か。上天に從い、之(これ)に降りて、供奉(ぐぶ:※行幸などでお供の列に加わること)す。※】・・・其の後、初國所知美麻貴天皇の世【※(注釈)崇神朝※】に至りて、幣(ぬさ、へい:※神に捧げる供え物や、祓〈はらえ〉の料とするもの)や、大刀十口、鉾二枚、鐵弓(くろがねのゆみ)二張、鐵箭(くろがねのや)二具、許呂(ころ)四口【※(注釈)許呂とは、武具の一種か。※】、枚鐵(ひらくくろがね)一連、練鐵(ねりくろがね)一連、馬一疋、鞍(くら)一具、八咫鏡(やたのかがみ)二面、五色のあしぎぬ一連を、奉る。【※(注釈)俗に曰く、美麻貴天皇の世に、大坂山の頂(いただき)に、白く細き大御服を(纏い)坐(すわ)り、而(しか)も白鉾(しらぼこ)と御杖を取り坐(すわ)りて、命(めい)じる者に、識(し)らせ賜う。「我が前が治め奉りし者か。汝は國を平らげ食を看るにも、勝りしと聞く。依って、大國小國(の)事を給うものなり。」等(など)と、岐(えだみ、き:※分かれ道のこと)を、識(し)らせ賜う。※】・・・時に、(崇神天皇が)八十の伴緒(ばんしょ:※各部族の長のこと)を集わせようと、此の事を撃(げき:※強くうち当てること:※檄を飛ばすこと)し、追って訪問させり。・・・是に於いて、大中臣(おおなかとみの)神聞勝命(かむききかつのみこと)が、答えて曰く・・・「大八島國(おおやしまのくに)は、汝が知りて食(は)む國として止まりし所にて、之(これ)を事向けに賜うものなり。香島國とは、天津大御神(あまつおおみかみ)が教戒事(きょうかいごと:※教えと戒めをすること)を擧(あ)げるため、坐(すわ)られしものなり。」・・・と。(崇神)天皇は、諸(々)を聞き、即ち驚き恐れて・・・(香島=鹿島)神宮に於いて、前件(さきのくだり:※前述の大刀や鉾などのこと)と幣帛(へいはく)とを、奉納するものなり。・・・神戸(かんこ)には、六十五(の)烟(けむり)あり。(≒神宮内の家々は計65軒あり)【※(注釈)本(もと)は八戸なり。難波天皇之世
(=孝德朝)に、五十戸を加え奉りて、飛鳥淨見原大朝(=天武朝)では、九戸を加え奉る。庚寅年(※持統4年、西暦690年のこと)には、合わせて六十七戸をなす。(今は)編戸によりて、二戸を減じ、六十五戸と定めて令す。※】・・・淡海大津朝【※(注釈)天智朝※】に、初めて使人を遣わし、神之宮(かみのみや)を造らしむ。自爾(それより)以來(このかた)修理は絶やさず。年を別けること(=毎年)七月には、舟を造りて、津宮(つのみや)へ奉納す。古老が、曰く・・・『倭武天皇之世【※(注釈)≒日本武尊の時代※】に、天之大神(あまつのおおかみ)が、中臣臣狹山命(なかとみのおみのさやまのみこと)へ宣(のたま)わく・・・「今(の)社(の)御舟は。」・・・と。【※(注釈)狹山命は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)の末裔にて、鹿島連の祖なり。※】・・・中臣臣狹山命が、答えて曰く・・・「謹んで大命を承れり。敢えたる所の辭(ことば)は無し。」・・・と。・・・天之大神が、明くる朝に、復(また)宣(のたま)わく・・・「汝(の)舟を、海(の)中に於いて置く。」・・・と。・・・仍(よ)って、舟主(ふなあるじ)が見るに、(その)岡(の)上に在りし。・・・又(また)、(天之大神が)宣(のたま)わく・・・「汝(の)舟を、(その)岡(の)上に於いて置く。」・・・と。・・・因って、舟主が求むるにも、更には海(の)中に在りし。・・・此の事の如くは、已(すでに)二、三(ふたたびみたび)には非ず。・・・則(すなわ)ち爰(ここに)、惶懼(こうく:※恐れ入ること)し、各(おの)の長さが二丈餘り(の)新たな舟三隻を造りて・・・初めて之(これ)を、獻(たてまつ)らんと令すものなり。・・・又(また)、年を別けること(=毎年)四月十日には、祭りを設けては、酒を灌(そそ:≒注)ぐ。・・・卜氏(うらべうじ)(の)種屬(やから:≒一族)は、男女を集い會わせて、日を積み、夜を累(かさ:=重)ねては、歌舞において、飲み樂しむ。・・・其の唱(うた)に、曰く・・・・・・「天之大神社」とは、鹿島神宮のことであり、武甕槌神(たけみかづちのかみ)を祭神とする元の官幣大社(かんぺいたいしゃ)です。藤原氏の氏神(祖先神)としても知られています。・・・「坂戸社」とは、現在の鹿嶋市坂戸にある社であり、<国指定史跡名>鹿島神宮境内附郡家跡(かしまじんぐうけいだいつけたりぐうけあと)として、平成元年9月22日に追加指定されました。また、この坂戸社は、中臣家の氏神(祖先神)とされる天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っております。・・・「沼尾社」とは、現在の鹿嶋市沼尾にある社であり、これも坂戸社と同時に<国指定史跡名>鹿島神宮境内附郡家跡(かしまじんぐうけいだいつけたりぐうけあと)として、追加指定されました。この社の祭神は、經津主大神(ふつのおおかみ)です。・・・「津宮」とは、現在の香取市津宮。霞ケ浦浜の分社のこと。・・・天之大神(あまつのおおかみ)の神託により、“中臣臣狹山命が舟三隻を奉献した”という故事が、御船祭(みふねさい:※12年に一度の午年に行なわれる式年大祭のこと)の起源とされています。・・・※唱の原文について(一首)は、省略させて頂きます。

       あらさかの 神の御酒を 飲(た)け飲(た)けと 言いけばかもよ 我が醉いにけむ
       《訳》尊い神の酒を飲め飲めと勧められたから、私は酔ってしまったのだろう。

      神(の)社(の)周匝(しゅうそう:=めぐり)は、卜氏が居る所なり。(その)地體(ちたい:≒地勢)は高く、(その)東西では海を臨む。峰谷は、犬(の)牙(の)如しにて、邑里(むらさと)が交錯す。・・・山(の)木や野艸(のぐさ)が、自ら内庭の藩籬(はんり:※藩屏、垣根や防備のための囲いのこと)を屏(おお)い・・・澗(たに:=谷)(の)流れと崕(がけ)(の)泉とが、朝夕に流れを涌(わ:=湧)かして、之(これ)を汲めり。・・・嶺頭(みねのうえ)に舍(やどり)を構(つく)れば、松竹が垣外(かきねのそと)に於いて衛(まも)る。・・・豁(たに)(の)腰に、井を掘れば、薜蘿(つたかずら)が壁上に於いて蔭(かげ)れり。・・・春を經れば、其の村には艶(にお)う百(の)艸花(くさばな)ありて・・・秋を過ぎれば、其の路には千樹(の)錦葉(もみじ)あり。【※(注釈)一説には、艶 の字が 綺 の字かと。※】・・・神仙が幽居(ゆうきょ:※世を避け籠って静かに暮らすこと)する境か、靈が化誕し異なりし地と謂うべきか。【※(注釈)化誕とは、俗に、此の世に化現する を云う。※】・・・佳麗(かれい:※整っていて美しいこと)なる豐かさが、委(ゆだね)られており、(到底)記すことは出来ず。
      ・・・其の社(の)南と、郡家(の)北には、沼尾池(ぬまおのいけ)。古老が、曰く・・・「神世(かみよ)より天より流れ來たる水沼なり。(その)所には蓮根(はすね)が生え、(その)味氣(あじわい)は、他所(の)之(これ)とは太(いと:≒大きく)異(こと)なりて、甘美(かんび:≒美味)なり。病いの者が有りて、此の沼(の)蓮を食(は)めば、早くに之(これ)の驗(しるし:≒効果)を差せり。鮒鯉も多く住めり。(ここは)前郡(さきのこおり)が置かれたる所なりて、橘を多く蒔き、其の實(み:=実)は(また)味之(うま:≒美味)し。

      (この)郡(の)東二、三里には、高松濱(たかまつのはま)。大海の濱邊なり。砂貝が流され、著わされ(また)積りては、高き丘を成す。松林が自生し、椎や柴が交雜し、既に山野の如くなり。・・・東西(の)松(の)下には、八、九歩ばかりの泉が出でて、清渟(きよく)して太(いと:≒とても)好(よ)し。・・・慶雲元年(※西暦704年のこと)には、國司・ウネ女朝臣(うねめのあそん)が卜(うらな)いて・・・鍛冶(かねち、かじ)(の)佐備大麿(さびのおおまろ)らを率いて、若松濱(わかまつのはま)の鐵(くろがね)を採るを以って、之(これ)により劒(つるぎ)を造らんとす。
【※(注釈)慶雲元年は、文武朝 なり。また、〈ウネ〉の字は、〈女〉偏+〈采〉。※】・・・此れより以って南は、輕野里(かるぬのさと)と若松濱との閒(あいだ:=間)に至れり。卅(=三十)里餘りにて、此れは皆、松山なり。伏苓(ぶくりょう:※サルノコシカケ科マツホドのこと。いわゆる生薬。茯苓とも)と、伏神(ぶくしん:※伏苓のうちで松根の部分。いわゆる生薬。茯神とも)とを産(出)し、毎年之(これ)を掘る。・・・其の若松浦(わかまつのうら)とは、即ち常陸と下總二國の堺なり。・・・安是湖(あぜのうみ)の所には、沙鐵(すなのくろがね、さてつ:※砂鉄のこと)が有りて、劒を造らしむのに大いに利がある。然(しか)れども、(ここを)香島の神山(かしまのかみのやま)を為すために、松を伐り、鐵(くろがね)を穿(うが)つとしても、輙(すなわ)ち入(山す)ることは得られぬものなり。・・・「沼尾池(ぬまおのいけ)」は、現在では・・・沼尾神社の西側にある水田となっております。

      ★ 童子女松原(おとめのまつはら)傳説
      (この)郡(の)南廿(=二十)里には、濱里(はまのさと)があり。

      ・・・以って東(の)松山の中には、寒田(さむた)と謂われる、四、五里ばかりの一つの大沼が有り。鯉や鮒が、之(これ)に住めり。(寒田の)沼水(ぬまのみず)は、輕野(の)田二里へと漑(そそ)ぎ流れることを許され、(輕野は)之(これ)により、少し潤(うるお)う田を有す。・・・輕野(の)以東には、大海(の)濱邊がありて、長さ一十五丈、濶(ひろ:=広)さ一丈餘り(の)大船(おおぶね)が、流れ著(つ:≒着)けり。(その大船は)砂に埋もり、朽ち摧(くだ)かれるも、今猶(いまなお)遺(のこ)る。
【※(注釈)淡海の世
(=天智朝)に、覓國(べっこく、くにまぎ:※住むのに適した領土や国を、探して歩くこと)へ遣わすことに擬(なぞら)いて、陸奧國(みちおくのくに、むつのくに)石城(いわき:=磐城)(の)船造(ふなづくり)に大船を作ることを令するが、即ち(難)破し此の岸に打ち上げられし と謂う。※】

      ・・・以って南には、童子女松原(おとめのまつはら)。古(いにしえ)に、年少(の)童子(女)有り。【※(注釈)俗に曰く、加味乃乎賣古や、加味乃乎止止 と。加味乃乎賣古は、かみのおとこ、加味乃乎止止は、かみのおとめ なりて、即ち神之少年、神之少女 なり。※】(その童子)は、那賀寒田之郎子(なかのさむたのいらつこ)と稱(とな)え・・・(童)女を、海上安是之孃子(うみかみのあぜのおとめ)と號(よびな)す。・・・(この二人は)ともに、形容(すがたかたち)が端正なりて、郷里(さとざと)を光華(こうか:※美しく光ること、輝きや光彩を放つこと)せしむ。・・・(その)名聲(めいせい:※名高い評判や良い評判のこと)を、相聞(そうもん:※互いに相手の様子を尋ねること)するに・・・「望みし念を同じくして、自ら愛する心(≒互いを愛する心)を熾(さかん)とし・・・月を經て、日を累(かさ)ねても、カ歌(かがい:※古代において、求愛のために男女が春秋の二季に、山や市(いち)などに集まって歌い踊る行事のこと、〈カ〉の字は〈女〉偏+右上に〈羽〉+右下に〈隹〉)の會を、(催)す。」・・・と。【※(注釈)俗に曰く、宇太我岐。又(また)、曰く 加我毘 なり。※】・・・(その当時の人が)邂逅相遇(かいこうそうぐう:※思いがけなく、たまたま出あうこと)(致)して・・・時に、(那賀寒田之)郎子(いらつこ:※)が歌いて、曰く・・・「・・・※歌の原文について(二首)は、省略させて頂きます。

       いやぜるの 安是の小松に 木棉垂でて 吾を振り見みゆも 安是小島はも
       《訳》安是の小松に清らかな木綿を懸け垂らして、それを手草に舞いながら、私に向かって振っているのが見える。安是の小島の・・・。

      (海上安是之)孃子(おとめ)が、報(こた)え歌いて、曰く・・・

       潮には 立たむと言へど 汝夫の子が 八十島隱り 吾を見さ走り

       《訳》潮が島から寄せる浜辺に立っていようと言っていたのに、貴方は八十島に隠れている小島を見つけて走り寄って來る。

      ・・・(那賀寒田之郎子と海上安是之孃子の二人が、相手からの)優しさを欲し、相(たがい)に語らいつつも・・・(他の)人に之(これ)を知られることを恐れて、自ら遊場を避け、松(の)下に蔭りて(≒隠れて)・・・(互いに)手を攜(たずさ)え、膝を促しつつ、(その)懷(ふところ)を陳(の)べながらも、(互いの)憤(いきどおり)を吐(は)く。・・・既に、戀(こい:=恋)(の)故(に)積りし疹(はしか)が釋(と:※溶解物のこと)かれると(≒互いが懐いていた様々な感情を解き放ち)・・・頻(しき)りに、新たな歡(よろこび)の咲(わらい)を起こしては、(この二人それぞれが、我に)還(かえ)る。【※(注釈)積疹は、積鬱 の義なり。※】・・・時に、玉露(たまつゆ)が杪(こずえ:=梢)にある候(ころ:=頃)には、金風(きんぷう:※秋風のこと)が吹き抜け、皎皎(こうこう:※白く光り輝く様、清らかな様)と桂月(けいげつ:※月の中に桂の木があるという伝説による月の異称のこと)が(那賀寒田之郎子と海上安是之孃子の二人が逢瀬した)處(ところ:=処)を照らし・・・鶴が、之(の)西(の)洲において唳(な:≒鳴)きつる。・・・松は、颯颯(さっさつ:※風が音を立てて吹く様)と(那賀寒田之郎子と海上安是之孃子の二人が逢瀬した)處を、シ(し:※涼風のこと、〈シ〉の字は〈風〉偏+〈思〉)すと吟(うた)い・・・雁(かり)は、東路(あずまのみち)へと度(た:※飛び立つ様、渡る様)つ。・・・山には、舊(ふる:=古)く巖(おごそか)なる泉がありて、寂寞(せきばく:※ひっそりとして寂しい様)とし、夜には蕭(よもぎ)(の)條(すじ)に新たなる霜(しも)が烟(けむ)り・・・近き山は、自ずと林に黄(の)葉を散らして、之(これ)(の)色を覽(み:≒見)せ・・・遙かなる海には、唯(ただ)蒼(あお)き波が、激しく磧(かわら:※川原、河原のこと)へ寄せる聲(こえ)を聽(き)かせり。・・・茲宵(このゆうべ:※那賀寒田之郎子と海上安是之孃子の二人が逢瀬した夜のこと)を、甘味(あま)き語(かた)りに偏(かたよ)り、耽(ふけ)て樂しむこと莫(なかれ)と・・・將(まさに)、闌(たけなわ:=最も盛んな時)なる夜を、頓(とみ:≒特)に忘れて、茲(ここに:≒この時を)樂しむ。・・・俄而(やがて)、鷄が鳴き、狗(いぬ)が吠(ほ)え、天曉(てんぎょう:=夜明け)(の)日が明(あ)ける。・・・爰(ここに)、童子(わらわ)ら(=那賀寒田之郎子と海上安是之孃子の二人)は、為す所を知らず(≒後の振る舞い方が分からず)・・・遂に、(他の)人に見られるを愧(はじ:=恥)て、松樹(まつのき)へと化け成るものなり。」・・・と。・・・(那賀寒田之)郎子を、奈美松(なみまつ)と謂い・・・(海上安是之)孃子を、古津松(こつまつ)と稱(とな)えし。・・・古(いにしえ)より、(これらの)名を著(あらわ)して、改めずに今に至れり。

      ★ 白鳥(しらとり)傳説
      (この)郡(の)北三十里には、白鳥里(しらとりのさと)。古老が、曰く・・・「伊久米天皇の世【※(注釈)垂仁(すいにん)朝※】に、白鳥(しらとり、はくちょう)が有り。・・・自ら天より飛び來たる(白鳥)が、童女(おとめ)(の姿)に化けては、夕に上り、朝には下りて、石を摘み、池を造りしも・・・徒(いたずら)に月日を積みつつ其の堤(つつみ)を築いた為に・・・築いては、壞れ・・・(この時の白鳥は)作り成すことを得ず(≒完成させられなかった)。・・・童女らが唱(うた)いて、曰く・・・・・・「白鳥里」とは、旧大和田村。・・・※唱の原文について(一首)は、省略させて頂きます。

       白鳥の 羽が堤を 包むとも あらふまめうき はこえ(ぃ)□□□□□【※(注釈)歌意未詳なり。「白鳥の羽が日に土を包むとも堤は崩(コ)えて、在らふまめうき」の誤脱ならんかという。※】

      ・・・斯(かくのように)天に昇りては、歌を呂唱(くちぐち)にして、復(また)降り來たることは無し。・・・是に由りて、其の所を・・・白鳥郷(しらとりのさと)・・・と、號(よびな)す。
・・・この白鳥傳説は、いわゆる羽衣伝説と同じ性格のものであり、“異民族が、互いに同化する過程を象徴している”と云われています。古代の日本列島にも、多くの白鳥が飛来していたことからも分かるように、“世界の白鳥伝説にも通じている”と云われているのです。

      以って南(の)所には、平原(はら、へいげん)が有り。(これを)肉折濱(つぬおれのはま)と、謂う。(その)謂(いわ)れは、古(いにしえ)に、大蛇(おおへび、だいじゃ)が有りて・・・“(その大蛇が)東海(ひがしのうみ)へと通(とお)ることを欲し、濱を掘りては穴を作り、(自らの)蛇肉(へびのつぬ)を折って、(その蛇肉を)落とす”と。因って、之(これ)を名(付)けしものなり。・・・或いは、曰く・・・「倭武天皇【※(注釈)日本武尊※】が、此の濱に宿し停まりしも、(付近の人が)水を無くして、羞じ(入)るばかりの御膳を、奉(たてまつ)りし。即ち、鹿角(しかのつぬ)を抜き、(その手に)執(と)りて、(この)地を掘りしと。・・・其の(鹿の)角(つぬ)を折りし為に、之(これ)が名とされる所以(ゆえん)なり。【※(注釈)肉折---鹿島神宮の北方に 角折村 あり。※】[以下之(これ)を略す]


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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
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  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾五へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】