街並と天空   

『夢と夢をつなぐこと・・・』

それが私達のモットーです。
トータルプラン長山の仲介


ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾伍~

地名の由来(ダイヤモンド富士・逆さ富士)イメージ


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・・・・・・・・・・前ページよりの続き・・・・・・・・・・



      さて、前ページや、それ以前にもあるように・・・水戸徳川家に連なる人達・・・つまりは、徳川慶喜や、徳川昭武、徳川篤敬(とくがわあつよし:※第10代目水戸藩主・徳川慶篤の長男として生まれ、徳川昭武の養嗣子となって、この後に水戸徳川家第12代目当主となる人物)などが、“当時の写真術などの最先端技術に対して、熱心に取り組んだ姿”を想像するに・・・単なる名家の趣味域での話を、遥かに超えている訳ですが・・・実際に、これらを研究対象とすることで、“西洋人の思想や哲学を知ることに繋がっており”・・・また、“各種技術の導入に止まらず、日本の未来への発展に繋げよう”と、ハード及びソフト両面の力で以って、当時の人々の意識改革を促す狙いがあったのではないか? と感じざるを得ません。
      ・・・そう考えると・・・幕末から維新期頃の徳川慶喜や、徳川昭武、徳川篤敬、ひいては・・・当時の水戸藩や、諸藩、それぞれの身分の違いなどに関わりなく・・・“当時の一般人の心に、或る程度浸透していた”と云われる・・・“水戸学の真髄”が理解出来るのではないでしょうか?・・・
      ・・・ともすると、この「水戸学」は、“テロリズム的な原理主義を生んだ悪の権化のように語られがち”であり・・・私(筆者)としては、『つくづく非常に残念な事』と感じてしまうのですが・・・現在でも、「水戸っぽ」と呼ばれる人々の中に、現に受け継がれていると云われる・・・この「水戸学」の「気風」や「気質」は・・・そもそもは・・・水戸藩の立藩当時、つまりは水戸徳川家が生まれた時代的な背景に遡ることが不可避であり・・・更に云うと、徳川家が常陸国に入る以前の話として・・・“とにもかくにも、常陸佐竹氏時代が約500年続いていたという影響”を、どうしても無視することが出来ないのです。・・・


      ・・・そこで、本ページの前半部分では・・・ページ構成としては、時系列的に前後する箇所があったり・・・また、あくまでも私(筆者)の自論であって、誠に恐縮なのですが・・・ここで改めまして、少し昔に遡ってみたいと思います。・・・



      [小まとめ] 水戸学と水戸藩内抗争の結末

      さて、“水戸っぽ気質の本質について”を・・・ズバリ言うと、“由緒や筋目(すじめ)の類いの話”となります。・・・これについては、旧常陸国北部から南部地域における歴史的背景を理解すれば、なお分かり易いと思うのですが・・・


      ・・・そもそもは
・・・この日本列島に、ユーラシア大陸を経由し金属が齎(もたら)されることで農業開発などが盛んとなり、各地に「クニ」と呼ばれる小国家群が発生し・・・やがては、“地方豪族と呼ばれる王権的な支配構造を持った勢力同士が、互いに連合や対決を繰り返していた”とされる「古墳時代」を経て・・・「漢字」や「仏教」などが伝来した「飛鳥時代」を迎えます。・・・かなり大雑把な記述となりますが、ご了承下さい。・・・

      ・・・もちろん、この時代より遥か以前から、旧常陸地方には、人々が実際に暮らしておりました・・・が、当時の中央集権的な勢力による間接的な支配を、現地の地方豪族達が受け容れる格好で以って、土地の開発や、開拓、殖産興業などが、政策として本格的に進められるようになり・・・“当時の特殊技能や先端的な技術を持った集団”とも云える氏族達が、日本列島各地などから旧常陸地方へ派遣されるようになります。これが、ちょうど「古墳時代から飛鳥時代の頃」です。・・・この頃の旧常陸地方は、当時の中央政権から、その地政学的な位置関係などによって、東国や関東地方における重要拠点とされ、「百姓」とも呼ばれた氏族達が、常陸国の各地に点在し・・・且つ、それぞれの氏族が土着し始めます。・・・この場合の「百姓」とは、現代とは異なり、単なる農業従事者を指す訳ではありません。・・・読んで字の如く、“百の姓(かばね)を持つ氏族”、つまりは・・・“それぞれの由緒やルーツなどが、ハッキリしている姓(かばね)を持つ氏族が、百ほどあったため”・・・“それらの総称”とした訳です。・・・

      ・・・やがて、次の「奈良時代」に入る・・・と、別ページの『常陸風土記』の内容からも分かるように・・・旧常陸国内各地に対しても、基本的に「漢字二文字」による「地名」が名付けられました。・・・当時の「やまと言葉」の「音(おん)」に、“その意味するところの漢字を当てた”のです。・・・また、当時の朝廷は、「大宝律令」や“限定的な戸籍”などの法整備を進めながらも、中央集権的な律令国家建設に邁進して・・・列島各地に「国衙(こくが)」や、「郡衙(ぐんが)」、「駅(うまや)」などの各役所を置いたり・・・仏教による国家鎮護などを目指して「国分寺(こくぶんじ)」を建設するなど・・・各地方からの労役(ろうえき)や物産品などによる税回収システムを確立してゆきます。・・・これらによって、畿内地方にあった朝廷や都市そのものが・・・結果的としても、列島各地から動員される労役や物産品など、つまりは当時の租税システムに支えられながら・・・次第に、その権威や、文化、規模などを、拡大したり発展させて来たのです。・・・

      ・・・すると、各地の地方豪族や、中央の朝廷内における役職不足(=ポスト不足)などを背景とする氏族の一部が、列島各地に開かれた「荘園(しょうえん)」の現地経営に乗り出したり・・・地方役人としての役職(=ポスト)を求めるなどして・・・各地に土着し・・・其処で、自らの一族による勢力そのものを、維持したり拡大させながら、中央政権内における発言権や役職などを更に求めてゆくという権力構造が、云わば自然発生致します。・・・これが、“藤原氏に代表されるような貴族と呼ばれる幾つかの氏族達が中心軸となって世を謳歌していた”とされる「平安時代」です。
      ・・・しかし、当時の都などが大火によって幾度も焼失したり、各地で飢饉や大規模な自然災害が起こるなどして、次第に殺伐とした世相となってゆく(※まさに平安の世を求めていた時代へ)・・・と、“貴族と呼ばれた氏族達”は、競うように渡来仏教に帰依して・・・それぞれが由縁のある場所に、「氏寺(うじでら:※今で云う菩提寺のこと)」としての「寺院」を建立し・・・其処へ、自らの直系卑属などの一族出身者を、多く出家させて、各寺院の経営を支えてゆくようになります・・・が、“この時の社会保障的なシステムでさえも、当然の如く、或る意味で限界点に達してしまい”・・・やがては、“貴族達の卑属家系の者の中から選抜して、その本家筋の人々を、主に武力によって自衛する侍(さむらい:※侍ふ〈さぶらう〉を語源とします)”を生み出しました。
      ・・・ちなみに、「寺」の横に「人」が立っている訳ですから、そもそもは「氏寺」たる「寺院」を守っていたことを描写しているため、現代人の感覚からすれば・・・“有り得ない光景”にも映ります・・・が、日本史の中世から近世の初め頃に掛けては・・・それぞれの振幅(ふりはば)などについては、“大なり小なりあった”としても・・・当時の「寺院」には、実際に・・・万が一の時に備えるためとして、当時の防御的な機能を持つ建築群や、「武器」となり得る道具類を常備していたことなども分かります。・・・この頃の「寺院」には、時の統治権力に対する、政治的且つ一定程度の発言権などが当時認められていたことも、また頷けることかと。・・・
      ・・・但し、近世の初め頃、つまりは「江戸時代」の初期以降については、主に銭による流通経済が発展したため・・・宝物(ほうもつ)としての武器を除外すれば、実際の使用を想定した「武器」を備えるような「寺院」は、“徐々に少なくなった”・・・とは考えられます。・・・それでも、日本の古武術を本流としたり、中国の少林寺拳法(しょうりんじけんぽう)などにイメージされるような・・・“実戦的な護身術について”は、出家僧達の自己鍛錬として、尚も続けられていたのではないか? とは想いますし・・・このことは、神社を祀る「神道」にも通じる話ではありますが。・・・
      ・・・現代における「剣道」や「柔道」など、日本の古武術に起源を持つ「武道」を学んだり、鍛錬したりする建物のことを、「道場」と呼びます・・・が、これは、そもそも・・・神社の境内や寺院内にあった「堂場(どうじょう)」の「堂」の文字が、いつしか「道」に置き換わったためです。・・・いずれにしても、これらの「堂場(≒道場)」では、“その教義や学問などを実際に学ぶ”という寺子屋的な機能が期待されたため・・・幕末期の水戸藩内の話で云うと・・・藩校の分校に当たる「郷校」や“私塾の類い”は、“○○神社の境内地内にあった建物だったり、境内地の近くに建っていた場合が多い”です。・・・その理由としては、“第2代水戸藩主・徳川光圀(※義公)が、当時藩内に増え過ぎていたとされる各仏教寺院や、その末寺、堂場(≒道場)などを、合理化政策によって減らす”・・・とともに、やはり「神道」についても、“一村一社を原則とする合理化政策を推し進めるなどして”・・・“当時の水戸藩士や藩内領民達に降り掛かる、祭祀費用の負担軽減や、墓地不足問題の解消などを図る目的が、結果的にあった”と解釈されております。
      ・・・しかし、一連の合理化政策の目的は、これらだけでは無かったように、私(筆者)は考えておりますが、このことについては、改めて後述することに致しまして・・・時系列を、少し以前の頃に巻き戻し・・・

      ・・・とにもかくにも、貴族達の直系卑属の中から、「侍」や「武士(もののふ、ぶし)」と呼ばれる人々が発生する・・・と、次第に・・・権勢を振るうためか? 自己勢力の安泰を図るか? などの動機は別にして・・・“時の天皇家や、次期天皇候補者、有力な中央貴族達と、実際に血縁を結びたがる”という気運が発生してまいります。・・・やがて、時の天皇家と貴族出身の女性配偶者(パートナー)の間に、皇位を継承する者が生まれて、その後無事に天皇位を継承すると・・・将来の皇位継承者を多く確保する目的で、更に多くの子供を儲けます。・・・当時は、無事に出産出来ても、若くして夭折(ようせつ:※早死にのこと)することなどが多かったため、逸(はや)る気持ちは分かりますが。・・・
      ・・・純血意識と云うか? 信仰心が強かったためなのか? 血統が近い者同士による重婚が多かったため、いわゆる虚弱体質で生まれる子供が多く、更に夭折に拍車を掛けていた訳です。・・・これは、さて置き・・・例えば・・・時の天皇との間に子供が生まれ、天皇と貴族双方の血統を受け継いだ親王(皇子)や内親王(姫)が多く成人出来たならば出来たなりに、今度は・・・かつての貴族達が経験したように、中央の朝廷内における役職不足(=ポスト不足)の問題が再び生じてしまいます。・・・そんな頃の旧常陸国は、数少ない「親王任国」として、その実権を伴なった長官(※親王が任命された)が、「常陸介(ひたちのすけ)」とされます・・・が・・・このような役職や、荘園などから税を直接的に回収可能な領地を与えられなかった他の兄弟達は・・・結局のところ、「臣籍降下(しんせきこうか)」させられることに。・・・しかし、その兄弟達の中から、やがて・・・「二大武士団(勢力)」と呼ばれる氏族が誕生することになったのです。
      ・・・それらが、「桓武天皇」を祖とする「桓武平氏などの四流」と・・・代表的なところでは、「清和天皇」を祖とし「清和源氏」などを派生することとなる「源氏二十一流」です。・・・そして、これも・・・かなり大雑把な話となりますが・・・かつての「平将門」や「常陸大掾氏」などを輩出した「平氏勢力」が、旧下総国と旧常陸国南西地方などに跨(またが)る地域を中心に繁栄し・・・次第に、このような「侍」や「武士」と呼ばれる勢力が、地方基盤を掌握して台頭する時代となり・・・更には、“この二大武士団(勢力)同士による覇権争い”、つまりは「源平合戦」が列島各地で繰り広げられ・・・いわゆる「武家政権」によって政治が主導される「鎌倉時代」が到来します。・・・尚、この時代には、それまでの「荘園制」などが大きく改変されるとともに、「鎌倉新仏教」と総称されるような新たな宗教的潮流なども発生しています。・・・
      ・・・その頃の旧常陸国北方(※現茨城県常陸太田市を中心とする地域)付近には、上記の「清和源氏」の中から・・・「佐竹郷(さたけごう)」に土着し、其処の地名から、いわゆる苗字(名字)を名乗った「佐竹氏」が繁栄します。・・・そして、この「佐竹氏」から、“数多くの分流・庶流家系”を輩出して・・・これに比例するが如く、旧常陸国北方各地の「地名」などに由来する「○○姓」を、数多く派生することになります。・・・つまり、“現に佐竹姓を受け継いでいない分流・庶流家系のほとんど”は・・・
      ・・・本(もと)を正せば・・・「佐竹氏」の血統を受け継いだ「佐竹氏族」・・・若しくは、「藤原氏」などの血統を受け継いでいる家系であり・・・このうちの「佐竹氏」の源流を正せば、「清和源氏」に辿り着き・・・この「清和源氏」を正せば、「清和天皇」や「藤原氏」に辿り着き・・・この「清和天皇」や「藤原氏」を正せば・・・「藤原鎌足(※生前は中臣鎌足)」となり・・・この「藤原鎌足」は、“旧常陸国鹿行地方の神官系氏族”とも云うべき「中臣氏」に、そのルーツや由緒を見い出せる訳です。
      ・・・これらのことが、かつての「常陸佐竹氏」に属した家系全てを網羅しているとは、さすがに申しませんが。・・・確かに・・・その時代時代における政治状況や勢力争いなどの諸事情によって・・・現に“清和源氏と一括り”とはされていても・・・厳密に云えば、「佐竹氏」とは、“少しずつ違う流れを持つ家系”・・・例えば、“南北朝の頃”や「室町時代」には・・・“旧常陸国南部(現茨城県稲敷市や龍ケ崎市)周辺を中心に土着した”と考えられる「土岐氏(ときし:※美濃源氏とも呼びますが、これも清和源氏の一流)」を祖に持つ家系や・・・そもそもは、「源姓」から「土岐氏」が派生する以前の頃に、先んじて分流した家系であって、且つ旧常陸国へ土着している一族などがあったり・・・そもそもとして、“滅んだ”とされている「常陸大掾氏」の血統を受け継ぐ家系、つまりは「源氏」ではなく「平家」の家系が、中世に戦国大名化してゆく「常陸佐竹氏」に取り込まれる格好で以って、いわゆる「佐竹家臣団」に含まれた家系・・・等々、その家系によって様々なのです。
      ・・・これらのことは、別ページでも触れておりますが・・・現茨城県域は、中世や近世の古文書などの史料が、数多く保存されており・・・また、未発見史料も県内各地に遺されている可能性が高いと目されている地域ですので、各家系のルーツ調べの手掛かりを掴む宝庫だとも云えます。・・・そうであるが故に、複雑且つ難解とも云えるのですが・・・。

      さて・・・上記の事柄や、本題の「水戸学」に関連するのではないか? とも想いますので・・・ここで、次の書状を題材として紹介したいと思います。・・・

      2011年(平成23年)3月11日に起きた東日本大震災の際、壁や瓦が壊れた土蔵(※現茨城県ひたちなか市の小野崎家)の中から・・・戦国大名の伊達政宗(だてまさむね)から、額田城(ぬかたじょう:現茨城県那珂市額田南郷)城主・小野崎〈彦三郎〉昭通(おのさき〈ひこさぶろう〉あきみち:※後の額田〈久兵衛〉照通)に宛てた密書(※内容は起請文形式、年代は西暦1589年〈天正17年〉のもの)・・・が発見されております。・・・この小野崎〈彦三郎〉昭通(※後の額田〈久兵衛〉照通)は、当時の佐竹義宣(※第16代佐竹宗家当主、天英公とも)の麾下に属していた武将であるため・・・伊達政宗が関東へ南下する機会を窺う中で、常陸における小野崎氏族勢力の蜂起を期待したのではないか? と目される書状なのですが
・・・その原文と現代語訳は、以下の通り。(↓↓↓)

      「起請文の事
      一、南郷出馬之上、何有ろうとも入馬候儀、其元
(そこもと)へ可有通信之事
      《訳》一、(自分が:※伊達政宗のこと)南郷へ出馬する際には、何があろうと(その南郷へ自分が率先して)着陣致す所存であり、その時には必ず、其元(=小野崎昭通殿)への通信(≒告知)を致すこと。
      一、其元事切候以後、若無事に取成事候者、相談之事
      《訳》一、其元(=小野崎昭通殿)が(佐竹と)手切れ状態となった後に、もしも(小野崎昭通殿の)身柄や所領を、無事にとの取り成しが必要となれば、(その)相談に(自分が率先して)応じること。
      一、中川北に江戸領之内、弓前本意に付而者、可宛行事 此旨偽に候者、梵天、帝尺、四大天王、堅牢地神、熊野三所権現、八幡大菩薩、麻利支尊天、惣而日本国中大小神祇、無紛各々可蒙御討者也、よって如件」
      《訳》一、那珂川北(岸)にある江戸(氏)の所領の内、(佐竹氏と江戸氏の間における)合戦で、(小野崎昭通殿が)本懐を遂げられた暁(あかつき)には、(小野崎昭通殿の)所領を宛て行なうこと。此の旨に、(もしも)偽りがあったならば、梵天や、帝尺、四大天王、堅牢地神、熊野三所権現、八幡大菩薩、麻利支尊天など日本国中の大小全ての神々からの罰を、紛(まぎ)れも無く、(自分が)蒙(こうむ)るものである。よって、(かの一)件の如くに。

      上記の「密書(※内容は起請文)」の是非については、ともかく・・・この書状の宛先とされた「小野崎〈彦三郎〉昭通(※後の額田〈久兵衛〉照通)」のルーツに関することとして・・・
      「小野崎氏(おのさきし)」とは
・・・旧常陸国久慈郡小野崎(現茨城県常陸太田市瑞竜町小野崎)に興った氏族であり・・・そもそもは、“平安時代中期に下野国などで活躍した”と云われる「藤原秀郷(ふじわらのひでさと:※従四位下、鎮守府将軍)」を祖とし、本姓を「藤原氏」とする武門家系であり・・・代々世襲して、「常陸国守護代」を勤めておりました。・・・西暦1109年(天仁2年)には、“藤原秀郷の玄孫(四世)”と伝えられる「藤原通延(ふじわらのみちのぶ)」が、下野国から常陸国久慈郡太田郷の地頭(じとう)に任じられ・・・実際に、太田郷へ入部する・・・と、「太田大夫(おおただいぶ)」と称して、「太田城(おおたじょう:※現茨城県常陸太田市中城町の太田小学校、別名は佐竹城、舞鶴城、青龍城とも)」を築城するなどしています。・・・
      ・・・しかし、この頃既に・・・新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の孫に当たる源昌義(みなもとのまさよし)が、「後三年の役(※西暦1051年から1062年)」における戦功により、「佐竹郷」を領有し・・・また、現に「佐竹氏」と称しながら、その勢力を現地へ盤居させていたのです。・・・昌義の子・佐竹隆義(さたけたかよし)の代になると・・・この佐竹隆義が・・・当時の太田城主であり、藤原通延の孫に当たる藤原通盛(ふじわらのみちもり)を服属させています。・・・
      ・・・やがて・・・この藤原通盛が、「小野台地(現茨城県常陸太田市瑞竜町小野崎の瑞竜中学校周辺)」へ遷されることとなり・・・“其処の突端部分(≒崎)”に、「小野崎城」を築いてから、“小野崎氏を名乗り始めた”とされます・・・が、一説には、“佐竹氏が小野崎姓を名乗らせた”とも云います。・・・いずれにしても・・・当時は、いわゆる“苗字(名字)の名乗り・名乗らせブーム”とでも申しますか“・・・周囲が皆、「藤原姓」や「源姓」のままで、実際に暮らし始める・・・と、“諸事混乱が生じ易く、諸々差し障りがあった”という、当時の事情が窺えます。・・・そして、「小野崎姓」を名乗り始めた通盛の子・小野崎通長(おのさきみちなが)の代から・・・正式に「佐竹氏」へ臣従し・・・それ以降は、“常陸佐竹氏における宿老格の重臣”とされておりまして・・・時には「佐竹四天王」と呼ばれるほどであり、“数々の戦乱において軍功を重ねた”とも云います。・・・
      ・・・尚、“この小野崎氏そのもの”も・・・後に、三つに分流し・・・嫡流を受け継ぐ「山尾小野崎氏」や、「石神小野崎氏」、「額田小野崎氏」となります。・・・また、これら三つの家系から、「小貫氏」や、「(常陸)大森氏」、「茅根氏」、「根本氏」、「助川氏」、「内桶氏」などの分流・庶流家系を、多く輩出しております・・・が、「佐竹四天王」と称された“小野崎氏そのもの”にも、「四天王」と呼ばれる“ご家来衆”がおりました。・・・この「小野崎四天王」には、時代により異同はあるのですが、それらを敢えて列挙すると・・・「赤津氏」や、「武士氏」、「江畑氏」、「中郡氏」、「(常陸)大森氏」、「瀧氏」、「天龍氏」、「石佐氏」、「波氏」、「茅根氏」、「赤須氏」・・・となります。・・・

      ・・・ちなみに、上記の嫡流「山尾小野崎氏」には・・・14代目・成通(しげみち?)の後継者として、佐竹義篤(さたけよしあつ:※常陸佐竹氏の第16代目当主)の子・義昌(よしまさ)が入っているため・・・“小野崎氏そのもの”が、この時に、“佐竹氏の一門格”とされます。・・・しかし、上記の3番目にある「額田小野崎氏」については、当時の「小野崎三氏」の中にあっても、“やや自立心や独立性が強かった模様”でありまして・・・“かつての佐竹氏内乱(=山入一揆、山入の乱とも)の際にも、当時の混乱状況に乗じて、主家(≒宗家)たる常陸佐竹氏の所領を横領するなどしたため”・・・“その時の変則的な行動が”・・・“後に至っても、佐竹宗家から危険視され続けていた模様”であり・・・上記の「密書(※内容は起請文形式、年代は西暦1589年〈天正17年〉のもの)」の頃に、当時の佐竹義宣(※第16代佐竹宗家当主、天英公とも)から・・・まさに、『異心や逆心あり!』・・・との嫌疑を受けて、小野崎〈彦三郎〉昭通(※後の額田〈久兵衛〉照通)が、実際に攻撃されてしまうのです。

      ・・・以下に、“その時の概要記録《※2013年(平成25年)に、現茨城県那珂市額田の「根本家」にて発見された『額田城陥没之記(※別名は額田城陥落之記、58ページから成る史料であり、小野崎家の菩提寺住職が西暦1785年〈天明5年〉に記したとされる原本の写し)』》と、『根本文書(那珂市歴史民俗資料館蔵)』”を、現代語訳し読み易くしましたので、是非ご覧下さい。(↓↓↓)


      『額田城陥没之記(※別名は額田城陥落之記、58ページから成る史料であり、小野崎家の菩提寺住職が西暦1785年〈天明5年〉に記したとされる原本の写し)』より抜粋・・・【小野崎〈彦三郎〉昭通の逃亡に関する概要記録・現代語訳】

       「当時の江戸氏(宗家)四天王には・・・谷田部(=矢田部)重胤や、宿(=江戸氏宗家の宿老・江戸通澄のこと)、加納通朝、篠原通知があり・・・谷田部(=矢田部)と加納(=神生)は、(互いに)対抗者同士であった。・・・谷田部(=矢田部)と加納(=神生)との争いに、加納(=神生)氏が額田氏と宍戸氏へ加勢を依頼する・・・と、谷田部(=矢田部)が、主君(※佐竹本家のこと)を味方として、加納(=神生)を討ち、加納(=神生)は額田城へ逃れた。
       ・・・佐竹本家が、加納
(=神生)の引き渡しを(額田城に対して)要求する・・・も、これを額田氏が拒む・・・と、佐竹氏は大いに怒って、額田を囲んだ。」
       「額田勢は、小身と謂えども、その勢いは分量を超えて、
(現に)七百騎を保っていたため、佐竹義宣が兵を出す・・・も、勝利せず。」
       「佐竹勢による再三に亘る攻撃も、額田勢の反抗に対しては、為す術
(すべ)無く・・・(結局は)石田三成を頼って、太閤秀吉の退城勧告を取り付け、(その)太閤奉書で以って、(小野崎)昭通へ使者を送る。」
       「奉書かくの如し、速やかに退城せよと。もし違背せば、一族残らず共々に科罪に処せんと。」
       「
(佐竹)北家の密使により、佐竹(家)菩提寺たる天徳寺に、(小野崎昭通へ)退城を勧める動きあり。(佐竹)南家が(小野崎昭通の)逃亡を勧める。(小野崎昭通が、これらの事を)危ういと見るや、(今度は)黒羽大関氏を頼った。(すると、小野崎昭通は)其処も危ないと(伊達氏と)内通し、日光の中禅寺へと逃亡した。(其処で)伊達の使者に迎えられて・・・(小野崎昭通は、以前の)密書にある約束通りに、伊達政宗を頼って落ち延びた。」

      「慶長四年
(※西暦1599年のこと) :伊達政宗の娘・五郎八姫と家康六男・松平忠輝が婚約する。
       慶長五年
(※西暦1600年のこと) :関ケ原合戦に、(小野崎昭通が)伊達方として参戦する。
       慶長七年
(※西暦1602年のこと) :佐竹義宣の秋田(=出羽久保田)移封に伴ない・・・(小野崎)昭通と額田氏旧臣が、旧領・額田城片庭屋敷へ戻る。
       慶長十一年
(※西暦1606年のこと):伊達政宗の娘・五郎八姫が松平忠輝へ嫁ぎ・・・(小野崎昭通は)松平忠輝に従い、越後・窪寺へ。」
      「松平忠輝が、大阪冬の陣
(及び)夏の陣(慶長二十年〈※西暦1615年のこと〉)にて、軍功が無く非礼ありて、(父・徳川)家康の不興を買い、伊勢・朝熊へと配流されるにより・・・(小野崎)昭通は額田・片庭へ戻る。」
      「江戸芝・増上寺に
(対して)、水戸(徳川)家から武功の者を求める依頼あり。・・・常州(=常陸国)・額田に小野崎昭通ありと、増上寺・国師によって水戸(徳川)家へ推薦される。」
      「水戸
(徳川)頼房(※水戸藩祖のこと、諡号は威公)の言に曰く・・・『かくの如き武功の士は、他国よりも求め得んと欲するところ、自領に居るとは幸いなり。外領に出す勝手、之(これ)有るべからず』・・・と。」


      以下は、『根本文書(那珂市歴史民俗資料館蔵)』より抜粋
・・・【小野崎〈彦三郎〉昭通(※後の額田〈久兵衛〉照通)家に関する概要記録・現代語訳】

      「額田城主・小野崎昭通は、元和四年(※西暦1618年のこと)に、水戸(徳川家)・徳川頼房に仕えて、禄六百石を賜る。(小野崎昭通は)額田久兵衛を名乗りて、これを代襲する。(この小野崎)昭通が、(名を改めて、額田久兵衛)照通となって、その子・定通も、孫・忠通も久兵衛を襲名した。」

      ・・・と、上記のように、佐竹義宣(※第16代佐竹宗家当主、天英公とも)から攻められた小野崎〈彦三郎〉昭通(※後の額田〈久兵衛〉照通)は・・・一旦は、伊達政宗を頼って「関ケ原合戦」にも従軍し・・・佐竹義宣が出羽に移封された後には、“旧領・常州(=常陸国)の額田城片庭屋敷に戻った”と。・・・そして、徳川家康の六男・松平忠輝(まつだいらただてる)の麾下として、「大阪冬の陣」及び「夏の陣」に従軍する・・・も、「松平忠輝」が、父・家康の不興を買うこととなり、伊勢・朝熊へ配流されてしまったので・・・“再び、額田・片庭へ帰った”と。・・・更には、“この時から数えて3年後に、カクカクシカジカあって”・・・「水戸徳川家」に仕えることとなり、「額田久兵衛(ぬかたきゅうべえ)」と名乗り始め・・・“子孫代々、久兵衛と云う名を襲名した”と。・・・

      ・・・このような「額田小野崎氏」の歴史については・・・非常に興味が湧くのではないでしようか?・・・上記の“密書(※内容は起請文形式、年代は西暦1589年〈天正17年〉のもの)が示す伊達氏内通の是非について”は、ともかくとして・・・結局のところ・・・

      ・・・当時の小野崎〈彦三郎〉昭通(※後の額田〈久兵衛〉照通)は、徳川氏と婚姻関係を持つことで、その姻族となった伊達氏を頼ることになったものの・・・後に父・家康の不興を買ってしまう松平忠輝に従軍した結果・・・云わば、“宙ぶらりん状態となって”・・・“約3年という期間については、主君を持たない浪人或いは地侍(じざむらい)的な暮らしを送っていたこと”も、分かりますし・・・そして、この状態から脱するキッカケ自体も・・・“当の徳川氏が、水戸に藩を立藩したためであった”と。・・・しかも・・・「禄六百石」と云い、“当時の現地雇用(採用)としては、比較的高禄によって召し抱えられていたこと”や・・・立藩当初の水戸藩(水戸徳川家)には、徳川家譜代の家臣達が圧倒的に少なく、云わば人材不足の状況だったため・・・“関ケ原合戦以降も東軍側に属し、且つその素性などが明らかな人物を積極的に雇用(採用)していたことなど”も、分かります。
      ・・・また、この小野崎〈彦三郎〉昭通(※後の額田〈久兵衛〉照通)の場合、その雇用(採用)理由として・・・“本人が、佐竹氏とほぼ同族でありながら、その宗家と対決していた経緯(いきさつ)を、水戸藩祖・徳川頼房(※威公)が一定程度認めていたという事実”をも、示唆しています。・・・つまりは、『関ケ原合戦の際に、態度が曖昧となり、強いて云えば敵方と認識されかねなかった佐竹宗家や佐竹氏族全体を、事実として敵に廻して奮闘した人物であった』と。・・・この小野崎〈彦三郎〉昭通(※後の額田〈久兵衛〉照通)とは、かつての・・・“南北朝時代に、当時の足利尊氏に対抗した坂東武者・源義貞(みなもとのよしさだ:※通称は新田義貞)に酷似している”とも云えますので。・・・但し、この昭通(※後の照通)の場合には、現実の戦さで亡くなってはおりませんが。・・・しかし、これらについては・・・“小野崎〈彦三郎〉昭通(※後の額田〈久兵衛〉照通)本人が、やや自立心や独立性が強かった”ということだけでなく・・・きっと、“自らの勢力は佐竹宗家と同格と云わんばかりの戦国時代特有の精神性や実行力などを、持ち合わせていたからだった”のかと。
      ・・・それでも、上記の「根本文書」によれば・・・結果として、水戸藩(水戸徳川家)に召し抱えられることとなった、当事者たる〈彦三郎〉昭通(※後の額田〈久兵衛〉照通)が・・・おそらくは自発的に・・・“小野崎姓と或る意味で決別し、額田姓を用いたよう”なので・・・ここに、“当時の侍や武士としての複雑な心境と云いますか? 悲哀というものが、かなりあった”とも、推察出来るのです。もし、そうでなければ、“後ろめたさや遠慮心などの一切を排除して、堂々と小野崎姓を使用し続ければ良い”のですから。・・・
      ・・・また、そもそもの話となりますが・・・“実際に、佐竹義宣(※第16代佐竹宗家当主、天英公とも)が額田城を攻めた”という背景には・・・““佐竹氏による常州(=常陸国)統一を期待していた”とされる、“時の豊臣政権の存在が深く関係しており”・・・もしも、“その期待に応(こた)えられなければ、佐竹氏族全体も、その後どう扱われるか不透明な情勢だったこと”を、考慮しなければなりません。・・・
      ・・・尚、「小野崎氏」の嫡流たる「山尾小野崎氏」と、もう一つの「石神小野崎氏」については・・・“佐竹義宣(※第16代佐竹宗家当主、天英公とも)の秋田(=出羽久保田)移封”へ従がっており・・・その後も、“佐竹家重臣”として、現代まで「小野崎姓」を継承されておりますし・・・反対に、『水府系纂(※水戸藩の藩士系譜を収録した史料のこと)』にも・・・「水戸藩士」として、現に「小野崎姓」を確認することが出来ますので、“佐竹家秋田(=出羽久保田)移封の際には、分家せざるを得なかった小野崎氏の方々も居られる訳”です。・・・

      さて、上記のように、“佐竹家秋田(=出羽久保田)移封の後に立藩された水戸藩(水戸徳川家)に、現地(=常陸国)雇用(採用)された武門家系の人々のこと”を・・・一般的には、当時から「郷士(ごうし)」と呼び・・・特に、“この立藩当初期頃に雇用(採用)された佐竹氏一門衆や、その旧臣(=遺臣)達のこと”を、「旧族郷士」と云って・・・この「旧族郷士」には、「大内氏」や、「西丸氏」、「長山氏」、「大森氏」、「蓮見氏」、「野口氏」、「益子氏」などがありますが・・・
      ・・・“立藩当初の水戸藩(水戸徳川家)”では・・・平安時代末期から「関ケ原合戦」の後頃まで、佐竹氏が約500年近くも盤居していたため・・・その領国を任されることになった水戸藩(水戸徳川家)は・・・“撫民的な意味合いを持たせる”とともに、“藩政の円滑な施行を図る上で、既に土着していた土豪勢力や地侍達の影響力を無視することが出来ず”・・・初代藩主(=藩祖)・徳川頼房(※威公)や、2代藩主・徳川光圀(※義公)の頃には、上記にある「旧族郷士」が、数多く登用されています。・・・
      ・・・江戸時代中期以降は、当時の「江戸定府の制」などのために、特に財政状況が厳しかった水戸藩(水戸徳川家)の実態を改めるためとして・・・“献金による貢献度によって、その家格を郷士として登用する”という、いわゆる「献金郷士」と呼ばれた家系も登場しています。・・・「菊池氏」や、「緑川氏」などは、“当時の水戸藩政に対する貢献度合いが高かった”とされ、特に「郷士身分」を与えられた一例です。・・・
      ・・・上記のように、「水戸藩(水戸徳川家)」では・・・“藩の武力(軍事力)や財政を支える目的を達成するためとして、郷士登用の形態や、郷士身分内における運用方法”が、様々発生しています。・・・例えば・・・“戦闘員たる郷士”としては、「特置郷士」や、「救済郷士」・・・“非戦闘員たる郷士”としては、「旧族郷士」や、「登用郷士」・・・に区分され・・・それぞれが、水戸藩(水戸徳川家)領の(各地方)行政を支えるための身分として用いられていたのです。・・・
      ・・・また、“当時の水戸藩(水戸徳川家)における郷士達”は・・・“他の諸藩とは、些か事情が異なる”のですが・・・
      ・・・役職の上下を別にすれば、現に藩士達と「同列」とされていたため・・・その身分とともに課せられる責任については、極めて重いものがあり・・・いつしか、自藩における財政再建のために、身分を切り売りするような政治手法や手段についてが・・・結局のところ・・・当時の水戸藩(水戸徳川家)にとっては、思想・哲学的に云って許容され難くなったため・・・「献金郷士」については、次第に廃止される方向に進みました。・・・しかし、その一方で・・・“既に郷士とされていた従来からの郷士達”を、「本郷士」とし・・・“登用時の採用基準について”が、極めて厳格にされて・・・「郷士格」や、「郷士列」、「郷士並」と呼ばれる階級を新たに定めるとともに・・・それぞれ・・・「郷士格は10石」、「郷士列は7石、または無給」、「郷士並は7石、5石、または無給」・・・と細分化されております。・・・尚、“同じ郷士身分内”においても、「格式代官列」に並ぶことが最も栄誉なこととされ、“御徒列や小十人列などの様々な身分が定められた”とも云います。
      ・・・また、幕末期に入ると、黒船来航などを契機として西欧列強からの外圧が強まったことで、水戸藩領内に尊皇攘夷の気運が一気に高まって、報国のために奔走する義民達が、数多く現れることとなり・・・そのため、“彼ら義民達を賞する目的など”で、「郷士」や「郷士並」として登用したという例もあります。・・・

      ・・・などと、ここまで長々と記述し・・・「“第2代水戸藩主・徳川光圀(※義公)が、当時藩内に増え過ぎていたとされる各仏教寺院や、その末寺、堂場などを、合理化政策によって減らす”・・・とともに、やはり「神道」についても、“一村一社を原則とする合理化政策を推し進めるなどして”・・・“当時の水戸藩士や藩内領民達に降り掛かる、祭祀費用の負担軽減や、墓地不足問題の解消などを図る目的が、結果的にあった”と解釈されております。・・・しかし、合理化政策の目的は、これらだけでは無かったように、私(筆者)は考えておりますが、このことについては、改めて後述することに致しまして・・・云々・・・としておりました件について、そろそろ・・・

      ・・・実は、“上記の下線部分にて、ほとんど書いてしまっている”のですが・・・
      ・・・つまり・・・“佐竹氏族の勢力が、約500年近くも、何らかの格好で以って、維持や拡大をし続けた”と云われ、そもそもとして領地経営が難しい土地柄を・・・徳川家康が、十一男・徳川頼房(※威公)へ託したため・・・藩の経営を、正常な状態で以って軌道に乗せるまでは、徳川氏による経営自体が危ぶまれる状況だった訳です。
      ・・・そんな状況下にあった、当時の初代藩主(=藩祖)・徳川頼房(※威公)や、2代藩主・徳川光圀(※義公)の立場や発想を想像すれば・・・もしも長らく土着していた土豪勢力や地侍の影響力を無視して領地経営を行なえば、“佐竹遺臣達による組織的な騒動や、大規模な農民一揆の類いが、頻発してしまう可能性が高く”・・・もし、そうなれば・・・云わば・・・“水戸徳川家の存立自体が危ぶまれる事態となることが必定となり”・・・それは、徳川家康からの期待を裏切ると同時に、“自身らの名分(めいぶん)や面目(めんぼく)も立たず”という状態を意味しますし・・・果たして、幕末や明治期まで至る水戸藩(水戸徳川家)が存続し得たのかどうか? さえ疑問符が付きます。・・・こういった極限状況について云えば、“上記にある佐竹氏宗家と額田小野崎氏が置かれていた情勢と、何ら変わらなかった”かと。・・・
      ・・・いずれにしても、初代藩主(=藩祖)・徳川頼房(※威公)や、2代藩主・徳川光圀(※義公)としては・・・具体的且つ出来うる限り、差し障りのない格好で以って水戸藩政を経営する途上にあって、どうしても・・・云わば、“佐竹温故の色を払拭、或いは希釈し続けるという作業を、地道に実行しなければならなかった訳”です。・・・すると、“出来得る限り素性が明らかな家系の者達を、或る程度多く現地雇用(採用)しなければならず”・・・実際の祭祀や信仰面等で、大きな影響力を持つ社寺などに対して、一定の改革を迫る政策を採らざるを得なくなります。・・・当然に、由緒のある各寺院は、“各家系の氏寺(※今でいう菩提寺のこと)”とされ・・・由緒のある各神社も、“各家系の氏神”であったり、“地域の文化や学問などの拠点”とされておりましたので・・・これらのほとんどが、“現に約500年近くも、佐竹氏の分流・庶流家系とともに、互いに密接な関係を保っていた訳です”から。
      ・・・尚、旧水戸藩領内には、今日まで存続する古い社寺が数多くありますが、いわゆる「佐竹家時代」から庇護されて来た「社寺」と、「水戸徳川家時代」から庇護されて来た「社寺」・・・との違いを見分けるには・・・それぞれの「社殿」や「お堂」に掛けられている「幕(まく)」にある「紋」を視れば、ほぼ一目瞭然です。・・・つまりは・・・前者は、「佐竹氏の家紋」が・・・後者は、「徳川氏の家紋」が・・・“染め抜かれた幕として、現に垂れております”ので。・・・さすがに、全てが全て、これに当てはまる訳ではなく・・・中には、「佐竹氏」及び「徳川氏」の両方から庇護を受けて、大切に扱われて来たことが分かる「社寺」もございます。・・・しかし、これらの事を根拠として、更に云えば・・・“これらのような背景そのものが、時に誤解を受け易い「水戸学」を生んだ根本的な要因となり”・・・そして、“2代藩主・徳川光圀(※義公)が始められた『大日本史』編纂事業の着想点であって”・・・また、“この編纂事業の真の達成目標だった”とも云えるのです。あくまでも、私(筆者)の自論ですが。


      ・・・それでは、ここまで暫らく日本史の近世当たりまでの話に集約していたので、本ページのテーマ「日本近代史」に戻ります。・・・



      ※ 西暦1869年(明治2年)2月26日夜:「水戸藩神勢隊」が、“久我三左衛門と変名し東京で潜伏生活をしていた水戸諸生党勢の市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)”を、“青山百人町の剣道師範・島上源兵衛宅(※源五郎とも)”において、「捕縛」する。・・・ここにある「神勢隊」については、残念ながら詳細不明です。・・・しかし、「神勢(しんせい)」とありますから、おそらくは・・・かつての天狗 Vs 諸生の争いがある最中に、9代藩主・徳川斉昭(※後の烈公)が、藩士のための製砲所兼射的場として那珂川右岸に建てた施設とされる「神勢館(現茨城県水戸市若宮町辺り)」に所属した部隊であったかと。・・・但し、この「神勢館」は、西暦1864年(元治元年)8月に焼失し、その後の明治維新時の戦乱にも遭遇したため再建されずに廃止されておりまして・・・現在は、「神勢館・五町矢場」として史跡碑が建立されています。
      ・・・そして、この条にある捕縛時の様子と捕縛後の様子が、後の「史談会記録(※西暦1894年(明治27年)の1月及び2月のこと)」に記されておりまして・・・その史談会インタビューに答えたのは、“天狗党出身者とされる小又慶二郎(おまたけいじろう)という人物”なのです・・・が、その内容は? と云いますと・・・
      「隊長の村上快助(むらかみかいすけ)が、水戸から来たとは言わずに、尾張からだと言って、島上に面会した。(しかし、我らを水戸藩による捕吏と察した)島上が、家で縄を掛けないでくれと言いつつ、短刀を携え出て来た市川を連れて来た。我らは、これに腰縄を掛けて、家から引き出した。その夜は豪雨であったが、傘も差さずに、ずぶ濡れで歩きながら、水道橋の入墨御門の前まで来た時、市川に覚えがあろうと言うと、驚いた様子で足が動かなくなった。・・・市川は痛いということを知らない。打たれても、一向に平気で、責めが済んでから、好きな物を食わしてやると言うと、鰻飯が食いたいと言うので、それを食わせると、縛られながらも、むしゃむしゃ食った」と。
      ・・・尚、「水道橋の入墨御門」とは、“言わずもがな”の、水戸藩江戸上屋敷(※小石川藩邸、小石川御門外とも、現東京都文京区後楽1丁目付近)のことであり・・・水戸諸生党勢で最後の幹部とされる人物が、この日とうとう捕えられることになったのです。・・・

      ※ 同年4月3日:「水戸藩」が、“水戸諸生党勢の市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)”を・・・「叛逆無道重々不行届き至極大胆の致し方に付、後昆の誡として、上下御町引き渡し、生き晒らしの上、長岡原に於て、逆磔(さかさはりつけ)に行なふ者也」・・・と断じて、「処刑」する・・・とともに、“諸生党員の佐藤万衛門(さとうまんえもん)ら4名”も、同所における「磔刑」に処す。・・・尚、「水戸藩」は、“生粋の諸生党員ではなかったものの、当時の諸生派と目されて仙台で捕縛されていた吉野英臣(※元水戸藩馬廻組)ら5名”をも、「斬首刑」に処した。・・・当時の市川弘美に下された「逆磔」という刑罰は、水戸藩政史上、極めて稀なものであったかと。・・・この時の・・・当時の逆磔刑の様子については、“明治新聞からの抜書き”とされる『水戸藩紀事』には・・・
      ・・・「水(戸)藩元家老・市川三左衛門(は)昨辰年(に)脱走して、奥州より (中略) 先頃、東京青山辺(りの)剣術師範人の家に潜伏せしを、水戸神勢隊に召捕(えられ)、水戸表に引(か)れしが、四月上旬(に)水戸長岡原に於て、逆磔に掛けられたり、尤(もっとも)逆磔と云ふは、生(いき)なから逆さまに致し、晒し置(く)其上にて突殺(つきころ)し候由(そうろうよし)
      元来、人を逆さまに致し置
(く)時ハ、忽(たちま)ち死する故(ゆえ)、額(ひたい)に穴を明け血を出し候得ハ、生き居(り)候由ニて、(市川)三左衛門の額を、錐(きり)にても、みぬき(=視抜き)穴を明け、其党数人残らず刑せらるゝを見せ、其上にて突殺候事のよし」
      ・・・と、その悲惨な死を描写しており、また・・・
      「長岡原の刑場へ(の)見物人(が)山の如く(に)詰め掛け尺寸の地をも余さず、並木の両側へは飴菓子などを売る商人等(が)余多(あまたの)見世(みせ:=店)を張り、其状(は)(あたか)も祭礼場の如し、刑場へ斯(か)く大勢出掛けしは、前代未聞と人々語り合へり」・・・と伝える本もあります。
      ・・・尚、市川弘美の処刑が執行される寸前、つまりは・・・“その死に際(ぎわ)”に・・・「勝負は、これから!!!」・・・と、“市川が叫んだ”とする話もあります。
      ・・・いずれにしても・・・幕末期から明治当初期に掛けて、時の幕府や新政府軍を相手とし、水戸藩内における抗争などを、その最期の時まで戦い抜いた市川は・・・万感の思いを込めて、次の辞世を詠んだのでしょう。(↓↓↓)・・・

      《市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)の辞世の歌》
      「君ゆえに すつる命はおしまねど 忠が不忠になるぞ悲しき」



      水戸藩の家老職まで勤めた市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)、享年53。・・・その墓所は、水戸市内の祇園寺(現茨城県水戸市八幡町)。・・・ちなみに、市川弘美の妻・岸子(※幾志とも)は、長男・主計(かずえ)の妻とともに、水戸の獄舎に繋がれました・・・が、後に出獄を許されることになり・・・武田蓋(※通称は金次郎、父は武田彦衛門、母は藤田彪の妹、つまりは武田正生の孫)などの、当時の仇相手からの視線を気にしながら・・・も、岸子(※幾志とも)は、「101歳」という長寿を全うしています。・・・さすが、水戸の女性は、かなりの精神力や胆力を持ち得て居たようです。・・・このことを裏付ける証言として・・・岸子(※幾志とも)は、生前中に・・・「・・・実は、夫はフランスに逃げるつもりで準備をしていたが、外国船の出航が一日遅れたために捕まり・・・」・・・と、述べているのです。
      ・・・そして、“当の市川家”には、そのことを示唆する・・・“夫・市川弘美が海外生活のために独習した”という「ドイツ語」や、「化学」、「数学」などの原稿が遺されており・・・そもそもとして、これらの夫・市川弘美の遺品の中に、上記の「辞世の歌」があるのです。・・・

      ・・・尚、“水戸諸生党勢の代表的な存在だった”とされる市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)などの幹部達は、それぞれ各家の男子達とともに、各地を転戦していました・・・が、市川弘美の子である主計(かずえ)と安三郎(やすさぶろう)二人が、「弘道館の戦い」によって、水戸の御杉山にて戦死し・・・朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)の甥であり、泰尚の養子にもなっていた靱負(ゆきえ)は、八日市場における「松山戦争」で戦死。・・・大森信任(※通称は弥三左衛門、弥惣左衛門とも)は、会津にて戦死し、弟・金六郎も、銚子において戦死。・・・筧政布(※通称は助太夫)は、弟・平十郎(へいじゅうろう)共々、八日市場における「松山戦争」にて戦死。但し、兄の筧政布については、文献上で・・・“松山戦争における戦死扱い”とはされているのです・・・が、当の墓碑には、「明治二十九年没」とあって、これもまた謎のままです。・・・佐藤信近(※通称は図書)は? と云えば、越後寺泊にて病死し、信近の長男・主税(ちから)と四男・留男(とめお)も、八日市場にて戦死しています。・・・
      ・・・上記の者達に加え・・・いわゆる主従で以って、諸戦に参加した者も多く・・・猪西貞之助(いのにしさだのすけ、いにしさだのすけ)が、平介(へいすけ)ら従者4名とともに、越後与板にて戦死し・・・井上和次郎(いのうえわじろう)も、越後や馬頭村で戦闘に加わり、鉄吉(てつきち)ら従者4名とともに戦死。・・・先手同心頭だった兒玉園衛門(こだまそのえもん)は、「弘道館の戦い」に敗れ、八日市場を目指す途中の長岡村(現茨城県東茨城郡茨城町長岡)で捕縛されて、同村の刑場で磔刑に処されます・・・が、西暦1868年(慶應4年)3月上旬に、諸生党勢が水戸を脱出する際には、小中村(現茨城県常陸太田市小中町)出身の郷士・佐川民三郎(さがわたみさぶろう)が、この兒玉園衛門から報せを受けて、一旦は奥州へと逃れた後に、水戸諸生党勢・市川隊に合流したものの・・・報告者であった兒玉よりも早くに、会津で捕縛されてしまい・・・西暦1871年(明治4年)に、水戸の獄中で病死しています。・・・
      ・・・また、いわゆる「郷士」に限って視れば・・・上記の佐川民三郎のほかにも・・・黒崎雄二(※常陸国久慈郡大子出身、当時17歳、大子郷校・学監であった黒崎藤右衛門の子)と、兄の藤右衛門もそうですし・・・増子民部左衛門(ますこみんぶざえもん)や、飯村紀七郎(いいむらきしちろう)、鷲子村(とりのこむら:現茨城県常陸大宮市鷲子)の薄井友衛門(うすいともえもん)など・・・も、水戸藩領の各地から諸生党勢に参加しています。・・・増子民部左衛門については、家族とともに、その最期まで転戦して、八日市場で戦死。
      ・・・飯村紀七郎は、他の水戸諸生党勢らと馬頭村で別れて、七番組とされる猪飼傳衞門(いのかいでんえもん:※元水戸藩大目付)とともに大子(だいご)へ戻り、そこで再起を図ろうとする・・・も、これが叶わず、金品を奪って野州(栃木県)へと逃走し・・・尚、この時、猪飼傳衞門(※元水戸藩大目付)が鉄砲で撃たれて戦死しており・・・薄井友衛門については、“会津で死んだ”という説と“徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭の七男)について静岡へ行った”という二説がありますが・・・薄井の親類は、“北越方面にて戦死、或いは自刃した”と云われる者もあり・・・薄井友衛門の弟・謹之進(きんのしん)は、会津で戦った後に函館・五稜郭(ごりょうかく)にて戦死しています。・・・この他にも、水戸諸生党勢から「五稜郭の戦い」に参加した人々も居るため、諸生党勢全てが故郷・水戸へ向かった訳ではなく・・・“諸生党の素志を達成するためとして、リスク分散を図っていた様子”が窺えるのです。・・・
      ・・・また、諸生派の代表的存在でありながら、自身は市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)と行動を別にした水戸城代家老・鈴木重棟(※通称は石見守、式部とも)の家来衆とされる・・・“越後で戦死した鈴木鉄五郎や、丸山善次(まるやまぜんじ)のほか4、5人の名があるため”・・・“これらの者達が市川ら水戸諸生党勢とともに戦っていたこと”が分かります。・・・

      ・・・水戸諸生党勢の代表的存在とされる市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)が処刑されたのは・・・「元治甲子の乱(≒天狗党の乱)」が、“敦賀における天狗党勢の大量処刑により終息してから数えて”・・・およそ4年が経過していました。・・・この後にも、“当時の諸生党残党と目された人々”は、“罪人扱い”とされ、「士籍」を剥奪され・・・更には、“彼らの墓を造ること”も許されず・・・“この西暦1869年(明治2年)の7月頃までの期間に、300名程の処刑が執行された”と云われております。・・・しかし、時が過ぎ・・・西暦1889年(明治22年)になると、水戸諸生派達の「家名再興」を許す「太政官布告」が為されることとなり・・・西暦1892年(明治25年)までに、水戸諸生派500名以上が復籍を果たして、「戸籍」を新たに得て、法的には社会復帰しています。但し、水戸に残る者達は? と云えば・・・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)の妻・岸子(※幾志とも)のように、息を潜めながらも逞(たくま)しく暮らした人々が居る一方で・・・“故郷を去り、他へ移る人々も多かった”と云われます。・・・
      ・・・尚、水戸市内の祇園寺には、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)とともに戦った朝比奈泰尚(※通称は弥太郎)の墓もあって・・・その墓地の入口付近には、「水戸戊辰殉難慰霊碑」が西暦1934年(昭和9年)に建立されていますが・・・“この慰霊碑建立の中心人物とされる”のは・・・“当時の水戸藩側に属して水戸諸生党勢を攻撃し、自身も「弘道館の戦い」の最中に被弾し、重傷を負った”とされる室田義文(むろたよしあや)です。・・・この室田義文は、明治維新政府下で外交官になったり、当時の国立銀行頭取など実業家としての側面を持っており・・・「特命全権公使」や、「錦鶏間祗候(きんけいのましこう:※華族や官吏などの功労者を優遇するため、明治時代半ばに設けられた資格であり、職制や俸給等のない名誉職)」、「貴族院議員」など・・・を務めた人物でした。
      ・・・“そんな彼が”・・・「天狗、諸生両派とも、その誠忠に至っては毫(すこし)も異ならざるものである故に、両者の霊を併せ祀るは後人の為すべき務(つとめ)である」として・・・「恩光無邊(おんこうむへん)」 の篆額(てんがく)を揮毫(きごう)し、「水戸戊辰殉難慰霊碑」の建設資金援助も行なっているのです。・・・尚、“この慰霊碑の裏側”には、現に「525人」 の名が、「殉難者」 として刻まれており・・・“この慰霊碑建立より60年目”に当たる1994年(平成6年)には、地元有志による慰霊が行なわれて、「由来碑」が建てられております。・・・

      ・・・「尊皇攘夷」と「尊皇開国」などの“時代的な懸案事項の間で以って揺れ始め”・・・いつの間にやら、「討幕(=倒幕)」や「明治維新政府樹立」へと、時代が大きく変化する中にあって・・・“これらと同期した徳川御三家たる水戸藩の内部党争の結末として”・・・上記のような「前代未聞とも云える大勢の見物人が刑場へ」という光景は、明治期を迎えた水戸周辺の人々にとってすれば・・・“決して他人事ではなく、歴史的転換点の目撃者や当事者としての意識を、強く植え付けているよう”に感じます。・・・また、これと同時に・・・天狗党や本圀寺党など、結果として藩政に復権した格好の水戸藩側の人々は、それまでの紆余曲折した経緯(いきさつ)や、それらに伴なう悲劇性などから注目されがちですが・・・その対立勢力とされる諸生党側の事跡は? と云えば・・・その殆んどが抹消されており、結果的にも“悪党的な扱いとされることが多い”と云えます。
      ・・・しかし、“当時の立場というもの”が仮に違ってはいても・・・“実際に(日本)国を想い、故郷たる水戸藩(水戸徳川家)を想う心境については同様であった”に違いなく・・・いったい何を以って、時の「正邪」や「善悪」を判断すれば良いのでしょうか?・・・これまでの一連の歴史的事件は、“これらの事についてを、特に考えさせられることが多い”と云えます・・・が、これまでは・・・天狗 Vs 諸生の対立構図は、幕末期の水戸藩を二分した勢力・・・つまりは、天狗党と諸生派の抗争と、一般的に言われております。
      ・・・しかし、これらの二大グループが、どのような考えを持ち、何故に激しく対立したのか? については、諸説があって、定説と云えるものは無く、また明確になっている訳でもありません・・・が、そのことを一定程度裏付ける証言が、西暦1906年(明治39年)の「史談会速記録」にあるのです。・・・“水戸諸生党勢における数少ない生き残り”とされる黒崎雄二(※常陸国久慈郡大子出身、大子郷校・学監であった黒崎藤右衛門の子)による証言です。この黒崎雄二は、“天狗 Vs 諸生の争いに関して”を
・・・
      ・・・「水(戸)藩は、久しい前より二派に別れて居りまして、正奸の名を立てまして、党派の争いがありました。故に、小梅の水戸邸に於いても、確たる御調(おしらべ)も無かろうと、私は存じます。また、これを一々、何人(なにびと)が説明できるかという、お尋ねがありましたならば、水戸人に於いては、恐らくは要領を得たお話は出来ぬかと考えます。」と。・・・ちなみに、この証言の中で、「小石川の水戸邸」ではなく、「小梅の水戸邸」と発言している箇所が、現代人の我々にとって、尚更理解し難いかと。・・・あくまでも「速記録」だった訳でして、当時の黒崎雄二が・・・「こいしかわ」と言うところを、わざわざ「こうめ」と発音する訳も無かった筈です。
      ・・・すると、考えられるのは・・・“当時の水戸人ならば理解出来る言葉で語った”という可能性が高いかと。・・・つまり、この発言は、一種の比喩であって・・・「小梅の水戸邸」とは、“西暦1868年(明治元年)11月25日に、先代水戸藩主・故徳川慶篤(※諡号は順公)から正式に水戸藩を襲封したばかりの、若き第11代水戸藩主・徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)が居わす水戸(藩)邸(※水戸藩下屋敷のこと)”・・・或いは、“(この黒崎雄二が、本圀寺党勢の頭目と考えている)徳川昭武が新藩主となっていた水戸藩庁(=水戸城)”という意味合いがあったかと。・・・いずれにしても、水戸藩内部抗争の淵源には、“『大日本史』の編纂を廻る師・立原翠軒と、その弟子・藤田幽谷との間における対立から始まった”と、一般的に言われますが・・・この学問上の対立が、やがて・・・当時の政治問題と密接に関係して、世継問題や藩政改革を廻る対立となり・・・更に藩内抗争が、現実の権力を廻る闘争となって一層深刻化し・・・天狗党勢の筑波山挙兵などへと発展してしまった訳です。
      ・・・それでも、幕末期の水戸藩には・・・「諸生党勢」や・・・「大発勢」、「本圀寺党勢」・・・「天狗党勢」・・・に代表される三大派閥が、実際に存在しており・・・そして、それぞれが志した行動をする最中にあっても、“これら三大派閥のどこに属するかに関わらず”・・・“秋田(=出羽久保田)へ常陸から転封された佐竹氏に、かつて属した分流・庶流家系や常陸土着家系などの多く”が、「藩士」や「郷士」、「村役人」、「名主」、「神官」、「商家」、「農民」など、それぞれの当時の身分に関わりなく・・・つまりは、“等しく義民として、水戸藩政に深く参画していたこと”が、文献上も多く読み取れますし・・・また、“このような矛盾的な蓄積が元々内包されていた水戸藩(水戸徳川家)だったが故に、一気に現象として噴き出たものであった”かと。・・・尚、“この長きに亘った熾烈な(水戸)藩内抗争”を廻っては・・・西暦1839年(天保10年)時点における水戸藩の家臣名簿には、「3,449人」の名が記載されてはいたものの・・・西暦1868年(慶応4年/明治元年)時点では、僅か「892人」の名しか遺されておりません。
      ・・・ちなみに、上記のように・・・西暦1869年(明治2年)には、市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)が亡くなって、その後にも同年7月頃まで、一連の処刑が執行されたり、水戸藩からも箱館・五稜郭戦へ出兵させられていたため・・・“水戸藩家臣や領民達の実数については、以前の892名よりも更に減少している筈”であり・・・これらがまた、“水戸藩内における抗争終焉までの激しさなどについて”を、切実に物語っているかと。・・・

      ・・・では、長らく続いた水戸藩内抗争が結末を迎え、生き残った水戸諸生党勢や諸生派と呼ばれた人々は、その後どのように生き抜いたのでしょうか?・・・

      ・・・これについては、西暦1869年(明治2年)7月に、明治維新政府下の密偵(※捜査員か?)が・・・「・・・(水戸)藩内は混雑を極めている。主な原因は、市川を処刑したあとも七月頃までに、仲間(を)約三百人処刑したからだ。・・・」・・・という報告をするなど・・・“当時の諸生派と視られた人々が、明治という新時代を迎えても、尚も水戸藩による追及に怯えながら、政治犯や思想犯罪人として生きなければならなかった”という状況が分かりますし
・・・「大子町史研究・第十一号」に掲載された故鷺松四郎氏の論文「中津原新田の開墾と徒罪人の使用」では、“同西暦1869年(明治2年)から水戸藩が徒罪人の使用を開始したことや、その中に諸生派出身者達が居ることなど”が指摘されており・・・
      ・・・その論文には、“西暦1871年(明治4年)から翌年に掛けて行なわれた中津原(※現茨城県久慈郡大子町下津原付近か?)の新田開発に、当時の徒罪人・130人が56ケ村から送り込まれたが、その多くは諸生派の者達であって”・・・“(同茨城県久慈郡大子町)小生瀬(こなませ)出身の者達が11人で、一番多く”・・・そして、“彼らに課せられた刑期は、7日間から2年間と幅があった”と。・・・また、“彼らが徒罪人とされていたため、通常の新田開発のように扶持米を支給する必要が無く、反対に徒刑扶持代を納入させた後に徒罪人小屋へ拘禁した”とも。・・・尚、故鷺松四郎氏は・・・
      ・・・「徒罪人の使用に関しては、当時の経済的な側面と云うよりも、政治的な側面に重点が置かれて・・・必要な普請に対する強制労働で以って、政敵・諸生党に与した者に対する赤頭巾赤小印(※掟を破った制裁に被らせる赤い頭巾や、赤い小さな印が付いた囚人服のことか?)という懲罰を課すことが、(復権した当時の)天狗派からすれば、一石二鳥、(或いは一石)三鳥の政策であった訳である」・・・と述べているのです。・・・

      ・・・ちなみに、元大子郷校・学監であった黒崎藤右衛門の兄弟については・・・兄・藤右衛門と弟・雄二が、大子から水戸諸生党勢・市川隊に加わっておりました・・・が、ともに八日市場から、改称後の東京へと脱出して・・・兄・藤右衛門は、負傷がもとで重篤化し、後に亡くなりますが・・・弟・雄二は? と云うと、西暦1872年(明治5年)に、“藩脱籍者であっても復籍出来た”とされる「太政官布告(※明治5年式戸籍、または壬申戸籍〈じんしんこせき〉とも)」を見た後に・・・故郷・大子へと戻り・・・其処で手続きを採って、いわゆる「復籍」を果たしております。
      ・・・しかし、当時の水戸藩(水戸徳川家)から諸生派と視られていた人々が、この黒崎雄二のような復籍を果たしたのは・・・「西暦1873年(明治6年)が、80人余り」、「西暦1889年(明治22年)が、260人余り」、「西暦1892年(明治25年)が、170人余り」・・・だったとされており・・・それでも、明治維新政府下の新たな戸籍を得られて、法的には社会復帰出来た筈の彼らにとって・・・現実の世界は、そう甘いものでは無く・・・“水戸藩領内では息を潜めて暮らし、また故郷・水戸を離れて藩外へ出て行く者も多かった”と云い・・・“この黒崎雄二も、その一人だった”と。・・・
      ・・・“その黒崎雄二”が・・・何と?!・・・“22歳となった西暦1873年(明治6年)1月に渡米し、十年後の1884年(明治17年)には帰国した”・・・と、黒崎本人(※当時55歳)が、断片的に語った「史談会速記録(西暦1906年〈明治39年〉」があるのです。・・・しかも、黒崎が「渡米した」と云う時期が、“明治維新政府下で欧米諸国へ派遣された岩倉使節団が帰国する約8カ月前のこと”であり・・・黒崎が「帰国した」と云う時期もが、“岩倉使節団が帰国して、当時の西郷隆盛(※改名前は吉之助、元薩摩藩士)らが預かる留守政府との間で、いわゆる「明治六年政変」が燻(くすぶ)り始めた頃と、ちょうど重なっている”のです。・・・当時のような政情不安定な時期には、密航的な海外渡航が可能だったのか? などとも、勝手に考えました・・・が、確たる身元引受人や保証人などが無いままで、且つ・・・それらに加えて、渡航に関連する準備資金が、相当に必要となる筈であり・・・当時それなりの資金力を持ったスポンサーや、本人の海外渡航に対する相当な覚悟が不可欠な筈です。
      ・・・すると、この場合に・・・私(筆者)が、どうしても連想してしまうのは・・・この黒崎雄二が属していた水戸諸生党勢・市川隊の長たる元家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)の存在なのです。・・・つまりは、“市川弘美の妻・岸子(※幾志とも)が、生前中に語っていた”とされる・・・「・・・実は、夫はフランスに逃げるつもりで準備をしていたが、外国船の出航が一日遅れたために捕まり・・・」・・・という下線部分と、“夫・市川弘美が海外生活のために独習した”という「ドイツ語」や、「化学」、「数学」などの原稿が遺されており・・・という下線部分が、特に気になるのです。
      ・・・これは、あくまでも私(筆者)の勝手な想像となりますが・・・元家老・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)は、江戸在住の何某(なにがし)へ、水戸諸生党勢の生き残りで期待する若者に対する海外渡航のための基金を、あらかじめ預けていたのではないでしょうか?・・・そして、その基金を活用することとなった黒崎雄二にしてみても、フランスやドイツなどの外国語学習を、或る程度積んでいたからこそ、その当時に海外渡航するという決断をしたのではないでしょうか?・・・と云うのも、“この水戸藩士に復籍した黒崎雄二が、まずはイギリスへ渡航して、或る程度の英語力などを培っていた模様”なのです。・・・“其処で、一人の日本人・北畠道龍(きたばたけどうりゅう:※紀州出身の浄土真宗西本願寺派・僧侶であり、日本人初の仏蹟巡礼に成功した人物とされる。生1820年~没1907年)に出会い、道龍の目的を達成するための通訳者の一人として随行することを頼まれた”と。・・・

      ・・・明治維新政府が成立した当初期の世相を理解するのが、やや難解なので、少し話を遡って整理してみたいと思います。・・・

      ・・・政体機構としての江戸幕府(=徳川幕府)が明治維新政府に成り替わると、従来からの封建制度や身分制度、教育制度など様々な社会構造が、否応なく大きな変容や変化が伴なう時代となります。・・・それまで為政者側から得られていた恩恵や保証の類い(=寺領制)を失ない掛けていた当時の仏教界は・・・日本史上で以って、その存在意義などを突き詰められることになれば、当然に・・・それまで一般的に禁教とされていたキリスト教の如くに、外来からの渡来宗教の一つと認識されることになり・・・ひいては、明治天皇を立憲君主として頂く日本民族にしてみれば、時の武士権力の庇護下に長らくあった菩提寺や、その末寺・・・若しくは、時の天皇や公家社会から国家鎮護を祈祷することなどを主目的とされ建立されて来た大寺院までが、より一層の独立的な経営が求められることになるのです。・・・しかし、全国的且つ、ひと昔前の社会的な背景を考えれば・・・“それまでの歴史的な期間を、政治的な理由で以って、本来は他宗教たる神道とともに、半ば当然の如くに神仏混合とされて、時の為政者側の庇護下にあった各寺院が多かった”と考えられます。
      ・・・しかし、水戸藩(水戸徳川家)などの一部に限って云えば、“あくまでも藩内事情により行なわれ、且つ第2代水戸藩主・徳川光圀(※義公)の頃から続けられていた領内一村一社政策とともに、同じく寺院をも合理化し、藩士達を含む領民全ての経済的な負担を軽減するという政策目標が立てられて、領内各地の寺院下にあった末寺までが既に廃寺とされていたため、一見する風景としては、多少違っていた”かと。・・・それでも・・・これらの事情を背景として、各寺院の仏像や伽藍などの打壊しが行なわれたり、それらが古美術品として海外流出してしまった社会的な潮流が、いわゆる「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」だったかと。・・・
      ・・・そのような状況下にあった北畠道龍(※紀州出身の浄土真宗西本願寺派・僧侶であり、日本人初の仏蹟巡礼に成功した人物とされる。生1820年~没1907年)は、西洋哲学や体系的な学問を学ぶためとして、西暦1881年(明治14年)末頃に横浜を発ち・・・翌西暦1882年(明治15年)からアメリカや、ヨーロッパ諸国(※ドイツ、オランダ、デンマーク、スウェーデン、オーストリア、トルコなど)を歴訪して学んだ後・・・更に仏教改革に対する志を燃やして、上記の黒崎雄二と出会う・・・と、翌西暦1883年(明治16年)10月25日、イタリア・プリンジーゼ港から、ともに英国船・モンゴリア号へ乗船して・・・航海17日後となる同西暦1883年(明治16年)年11月11日に、インド・ムンバイへ上陸したのです。・・・このインドへの渡航目的は、仏教が衰えて、ヒンドゥー教が盛んなインドにおいて、大昔の釈迦の墓を発見すること・・・つまりは、当時の遺跡調査だったようです。・・・当時としては、“為せば成る、為さねば成らぬ何事も的な探検だった”かと。
      ・・・いずれにしても、“僧侶・北畠道龍は、随員した通訳者・黒崎雄二と共に、インド・バナーラスを経由し20日ほど掛けて、ヒンズー教の聖地・ガヤーに到着した”と。但し、“現地語でしか会話が通じず、手真似口真似(≒ジェスチャー)で目的の墓を探しながらの旅路だった”とも。・・・そして、“其処から13㎞南方のブッダ・ガヤーの聖地を訪れた北畠道龍が、随員した黒崎雄二を抱いて狂喜乱舞し、感動した道龍が「阿弥陀経一巻」を誦して”・・・「年を経て 名のみ残りし 伽耶の里 今日みほとけの 跡を訪うかな」・・・と詠じ、また・・・この歌を・・・“現地にあった高さ四尺余りの自然石へ書き留め、その裏に”・・・「日本開闢来 余始詣于 釈尊之墓前 明治十六年十二月四日 道龍」・・・と刻み、“当時の17円も要して石碑を建てた”とか。・・・しかし、この時の北畠道龍と黒崎雄二は、ブッダ・ガヤーに聳(そび)え立つ大塔を、「釈尊之墓」と勘違いしていたのです。
      ・・・この「ブッダ・ガヤー」とは・・・「ゴータマ・シッダッタ」、或いは「ガウタマ・シッダールタ」こと、いわゆる「釈迦牟尼仏」が、悟りを開かれた場所であって、仏教徒にとっては最高の聖地とされます・・・が、“当のブッタが亡くなられた”のは、「クシナガラ」とされているのです。・・・そして、この時の北畠道龍と黒崎雄二が、其処に辿り着く以前の・・・“12世紀から13世紀頃に掛けて、当時のイスラム教徒達が侵入したために、既に仏教寺院は破壊されており”・・・更には、“定められた戒を受けて、また比丘(びく)と呼ばれていた出家僧達も虐殺されていた”のです。・・・ちなみに、この頃の事を伝えているチベット出身の巡礼僧・ダルマスワーミン(※生1224年~没1246年)は・・・「ボードガヤのマハーボーディ寺院では、(当時の)比丘達が全て逃亡してしまい、最後に残った四人が、仏像を安置していた部屋の入り口を、煉瓦で閉じて、寺の入り口ドアをも塗り込めて、避難した」と。
      ・・・つまりは・・・その後の仏教徒達は、次第にインド周辺諸国から、その姿を消すこととなって・・・この「ブッダ・ガヤー」も、“長らく荒廃し、ボードガヤ同様に土砂に埋もれていた”のです。・・・ヒンズー教の霊場とされていたブッダ・ガヤーの発掘が行なわれたのは、西暦1876年からのことであり・・・本格的な発掘が始められたのが、西暦1880年のこと。・・・西暦1881年には、「金剛法座」が発見されています。・・・この時の北畠道龍と黒崎雄二が、この「ブッダ・ガヤー」を訪れたのが、この二年後に当たる西暦1883年(明治16年)12月頃のことでしたので、勘違いしてしまったのも無理はないかと。
      ・・・いずれにしても、当時発掘中であった大塔の石片2つを貰い受けた北畠道龍は、随員した通訳者・黒崎雄二と共に同年12月12日に「ブッダ・ガヤー」を発ち・・・同年12月20日に、インド・カルカッタを出港し・・・シンガポールを経由した後の翌西暦1884年(明治17年)に、日本へ帰国し・・・『印度紀行釈尊墓況説話筆記(※明治17年刊行)』や、『天竺行路次所見(※明治19年刊行)』を刊行しています。・・・また、浄土真宗の仏教書を基点として、多くの宗派・学問的立場に拠る仏教書全般を出版する法藏館(ほうぞうかん:※京都市下京区正面通烏丸東入にある老舗の仏教系出版社のこと)の西村七兵衛も、『北畠道竜師印度紀行(※明治17年刊行)』を刊行しています・・・が、そもそもとして・・・
      ・・・この北畠道龍(※紀州出身の浄土真宗西本願寺派・僧侶であり、日本人初の仏蹟巡礼に成功した人物とされる。生1820年~没1907年)を、海外へ派遣した大谷光尊(おおたにこうそん:※京都出身の浄土真宗西本願寺派・本願寺第21世宗主、法名は明如〈みょうにょ〉、法号は信知院)による急進的な宗門改革運動が、宗門内外の批判によって挫折してしまい・・・
      ・・・また、北畠道龍本人も、“その過激な物言いが疎まれて浄土真宗の僧籍を剥奪されてしまったり、大学の創立を目指すも挫折したりと、その後も波乱万丈な人生を送った”とか。・・・すると、この北畠道龍の印度紀行に随行し帰国した黒崎雄二が、どのような人生を送ったのか? などについて興味が尽きないところです・・・が、これについては、黒崎雄二本人による手記などが発見されない限り、謎のままとなります。・・・但し、“市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)が果たせなかった海外渡航するという夢を、一兵卒たる黒崎雄二が実現したということは、ほぼ間違いない事だった”かとも。・・・

      ・・・いずれにしても・・・当時の若年層からご老体に至るまで、優秀且つ貴重な人材の多くを失ない続けた水戸藩(水戸徳川家)を出身とする者達で、且つ明治維新政府内で中心的に活躍出来た人物は・・・“一部の人達を除けば、ほぼ皆無という状況”となってしまいます。・・・

      ・・・想い起こせば・・・西暦1824年(文政7年)に起きた「大津浜事件」などを契機として、沿岸防衛についてを強く意識付けられ、また当時の海外事情や西欧技術の研究などが盛んとなって・・・現実に、「追鳥狩(おいとりがり)」と称する大規模軍事訓練を実施したり、“幕末期の目覚めが早かった”とも云える藩だけに、非常に惜しい状況になったかと。・・・しかし、これと同時に・・・私(筆者)は、“上記のような過酷な時代を、現に生き抜いた先人達の生き様や、死に様”が・・・今でも、「水戸っぽ」と呼ばれる人々の潜在意識や、遺伝子レベルに刻み込まれているように思えてなりません。・・・「水戸っぽ」の気質として、良く語られるのは・・・一般に、「理屈っぽい」とか、「怒りっぽい」、「骨っぽい」或いは「飽きっぽい」の、いわゆる「三ぽい」です・・・が、これら全てを、敢えて裏読みすれば・・・本来の「水戸っぽ」とは、“自己主張する事などが特に下手な訳でもないのに、何かに対して限界まで我慢したりする傾向がある”のです。
      ・・・要するに・・・「何かと我慢強く、なかなか自己主張をしない。逆に云うと・・・世間的には、そんなに自己主張をしなくとも、それなりに上手く暮らしてゆける」と。・・・“こういった気質が、水戸っぽの三ぽい全てに通じている”のではないか? と、多々感じます。・・・そして、これらのことには、それぞれに相当の理由があって・・・本ページに至るまでの中世から近世、特に幕末期という・・・歴史的には、ごく短期間と云える時期に・・・“水戸藩領内や周辺地域などで繰り広げられた激動の光景を、多く目の当たりにした人々の記憶が、かなりの度合いで作用しているよう”に、想えてならないのです。
      ・・・それぞれが目指していた目標到達点などについては、当時の水戸藩の誰しもが、然ほどに変わらなかった筈なのに・・・いつしか、些細な行き違いや、実際の手法論などの違いによって、当時の身分に関わりなく始められた藩内抗争に、多くの人々が翻弄されることとなり・・・実の兄弟や、家族、親戚付き合い、立場上の上下関係など、様々な社会的単位を超える格好で以って、結果として対立してしまったのですから。・・・“かなりの精神的な衝撃を、当時の人々の心に与えて、トラウマの如く深く植え付けられて居た”のではないでしょうか?・・・




      ※ 同西暦1869年(明治2年)4月15日:「第11代水戸藩主・徳川昭武(※故徳川斉昭の十八男)」が、“箱館賊徒追討のためとして、自藩兵(=陸軍兵力)ら総勢219名とともに”・・・「蝦夷地(えぞち)・江差(現北海道檜山郡江差町)」へと向かう。・・・この同月3日に行なわれた水戸諸生党勢・市川弘美(※通称は三左衛門、善次郎、主計とも)の処刑によって・・・幕末期に繰り広げられた藩内抗争に関して、一応の収束が図られる格好となり・・・そして、“明治維新政府下の新生・水戸藩(水戸徳川家)としては、これより仕切り直すという決意を、全国諸藩に向けて表明するかの如くの出兵だった”かと。・・・しかし・・・軍勢の規模感としては、やはり少数という気も致します・・・が、生粋の水戸藩士や郷士達は、藩内抗争を廻って既に激減しており・・・また、江差のような遠国への行軍路を考えれば・・・少なくとも無傷に近く、戦力に足り得る精鋭の者達を招集して、藩主・徳川昭武が率いて往く筈ですので、これも致し方なかったかと。・・・いずれにしても、この時の徳川昭武は、数えで17歳。・・・

      ※ 同年5月11日:「新政府軍」が・・・“戊辰戦争の最終局面とするべく陸海両面から”・・・「箱館総攻撃」を「開始」し、「五稜郭」へと迫る・・・と、旧幕府軍との間で、“最後の大規模な軍事衝突”となる。・・・

      ※ 同年5月18日早朝から同年6月11日に掛けて:同年5月18日早朝に、“榎本武揚(※通称は釜次郎、号は梁川、変名は夏木金八〈郎〉)ら旧幕府軍政権(=蝦夷共和国、蝦夷島政府、箱館政権とも)の幹部達”が、“亀田(現北海道亀田郡亀田町)にあった新政府側の屯所”へ「出頭」し・・・同日昼に、「五稜郭」が「開城」される。・・・この時、“郭内の約1,000名”が「投降」して、「武装解除」も「完了」した。・・・尚、“室蘭方面の開拓と守備に当たっていた開拓奉行・澤太郎左衛門(さわたろうざえもん)以下250名”は、同月22日に「新政府軍」へ「投降」し、翌6月11日には「箱館」に「到着」。・・・これにより、「箱館戦争」及び「戊辰戦争」が「終結」した。・・・降伏した旧幕府軍の将兵達は、一旦箱館の寺院などに収容され、その後には弘前藩などへ預けられる・・・と、そのほとんどが、翌年の西暦1870年(明治3年)に釈放されます。・・・

      ・・・その一方で、旧幕府軍を率いた幹部達については? と云うと・・・

      旧幕府軍政権(=蝦夷共和国、蝦夷島政府、箱館政権とも)・総裁とされる榎本武揚(※通称は釜次郎、号は梁川、変名は夏木金八〈郎〉)は
・・・西暦1872年(明治5年)1月6日、特赦によって出獄する・・・と、明治新政府に仕え、開拓使となり北海道の資源調査を行ない、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣や文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任して、子爵となります。・・・また、メキシコへ殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設しています。

      旧幕府軍政権(=蝦夷共和国、蝦夷島政府、箱館政権とも)・副総裁とされる松平太郎(まつだいらたろう:※名は正親、旧幕府の元陸軍奉行並、岩津松平家の後裔とも)も・・・西暦1872年(明治5年)の特赦によって出獄する・・・と、明治新政府の開拓使御用係及び開拓使五等出仕に任ぜられて、箱館在勤を命じられる・・・も、翌年には辞任してしまう。・・・その後には、三潴県(みずまけん:※旧筑後国、当初の管轄地域は、現福岡県筑後地方、後に佐賀県が合併された)・権参事(※当時の事務方トップの役職)を経て・・・ロシア・ウラジヴォストークへ外務省・7等として出仕して派遣される・・・も、これも程無くして退職。・・・そして、現地ロシアで貿易商を、中国で織物業などを営んだが、商才に欠けていたのか? いずれも失敗してしまい、流浪の日々を送る。・・・晩年は、妻と子に先立たれ、“弟・小六郎(ころくろう)とともに榎本武揚の保護下で生活していた”と云われ・・・西暦1909年(明治42年)に、伊豆賀茂郡の湯本屋にて病死。享年71。
      ・・・しかし、この松平太郎は、「蝦夷共和国」幹部の中でも明治期に不遇であったせいか、榎本武揚や大鳥圭介と比べると知名度は劣るものの、そもそも大変有能であったとされ・・・“江戸無血開城”の前後にも官軍に対して“面従腹背の態度”を取り、相手を翻弄しつつ、また銀座などから百万両もの軍資金を一旦押収することに成功し、結果的には20万両前後は大鳥へ渡すことが出来たとされます。当時、幕府の精鋭部隊であったものの、流浪集団とも云えなくもない「伝習隊」が、その後1年間も維持されていたのは“彼の功績が大であった”と云えるのです。また、旧幕府軍政権(=蝦夷共和国、蝦夷島政府、箱館政権とも)内では、榎本の「洋才」に対し、松平の「和魂」と云われるほど、その人望は厚かったとされ、蝦夷地占領後に行なわれた「公選入札(※選挙のこと)」では、榎本に次ぐ得票を得て、旧幕府軍政権における副総裁に就任し、主に民政や外交面で活動していたのです。

      旧幕府軍政権(=蝦夷共和国、蝦夷島政府、箱館政権とも)・陸軍奉行とされる大鳥圭介(※西洋軍学者)は・・・西暦1872年(明治5年)1月8日の特赦によって出獄する・・・と、明治新政府・左院(※明治初期の立法府のこと)の少議官や、開拓使5等出仕を経て・・・大蔵小丞の職を兼任し、開拓用機械の視察と公債発行の交渉のため、欧米各国を歴訪する。・・・西暦1874年(明治7年)3月に帰国した後には、開拓使に戻り・・・後に陸軍大佐の拝命を経て・・・工部省4等出仕。そこでは、いわゆる「技術官僚」として、殖産興業政策に貢献し、工作局長として官営工場を総括した。セメントやガラス、造船、紡績などのモデル事業を推進し、内国勧業博覧会の審査員として国内諸産業の普及と民力向上に尽力し、「工業新報」を発刊して、先進的技術の普及に尽力したほか・・・「堰堤築法新按」の翻訳や民間草の根レベルの水利・ダム技術の紹介などにも努めた。・・・西暦1877年(明治10年)に「工部大学校」が発足すると、初代校長に任命された。
      ・・・西暦1881年(明治14年)には、工部技監に昇進し、勅任官となって技術者としては最高位となる。西暦1885年(明治18年)には元老院議官に就任し、その翌年の西暦1886年(明治19年)学習院院長兼華族女学校校長となるなど、技術や教育関係の役職を歴任。後の西暦1889年(明治22年)には、外交官に転じると、「駐清国特命全権公使」を拝命し、同年11月に現地へ着任し、西暦1893年(明治26年)には「朝鮮公使」を兼任することとなり、その翌年の6月には朝鮮へ赴任した。そこでは、朝鮮の近代化を建言したため、朝鮮の反日派から発砲を受けるなど、日清戦争開戦直前の困難な時期に実際の外交交渉に当たった。西暦1894年(明治27年)10月11日に「朝鮮公使」を解任されると、帰国後の同年11月10日には「枢密顧問官」へ転じた。
      ・・・西暦1900年(明治33年)には、多年の功により「男爵」の爵位を授けられた・・・ものの、その晩年は・・・西暦1902年(明治35年)9月28日の「小田原大海嘯(おだわらだいかいしょう:※相模湾西岸一帯で発生した高潮災害)」で被災したり、相次いで息子達に先立たれるなど、不幸にも見舞われ・・・西暦1911年(明治44年)に、自身の別荘で食道癌のため死去。享年78。

      旧幕府軍政権(=蝦夷共和国、蝦夷島政府、箱館政権とも)・海軍奉行とされる荒井郁之助(あらいいくのすけ:※諱は顕徳〈あきのり〉、後に顕理〈あきよし〉)は・・・西暦1872年(明治5年)の特赦によって出獄する・・・と、榎本武揚らとともに明治新政府の開拓使として出仕した・・・が、西暦1876年(明治9年)には、これを辞任し・・・札幌農学校(現北海道大学)の前身に当たる「開拓使仮学校及び女学校」の初代校長を勤める。自身は、「気象学」や「翻訳」に励み・・・後の西暦1887年(明治20年)には、永明寺山(現新潟県三条市東大崎)において皆既日食の観測を行ない、日本で初めてとなる「太陽コロナ」の写真撮影を成功させる。・・・西暦1890年(明治23年)には、初代・中央気象台長に就任し・・・西暦1894年(明治23年)には、「従五位」を賜る。・・・尚、元々は“下戸(げこ)”であったにもかかわらず、その反面で“大の甘党”であったためか、自身の糖尿病がもとで、西暦1909年(明治42年)に死去。享年74。

      旧幕府軍政権(=蝦夷共和国、蝦夷島政府、箱館政権とも)・箱館奉行とされる永井尚志(※通称は玄蕃頭)も・・・西暦1872年(明治5年)1月6日、特赦によって出獄する・・・と、榎本武揚らとともに明治新政府へ仕えて、「開拓使御用掛」となり・・・その直後の同年1月19日に、左院の少議官に異動となる。また同年4月には、「正六位」を賜り・・・同年10月の明治新政府による官制改革によって、左院三等議官に異動する。・・・西暦1875年(明治8年)4月には、左院三等議官を免ぜられ、同年7月には「元老院権大書記官」となる。・・・しかし、これより間もなく、同年12月には、免本官(※罷免のこと)となり、「正六位」の位も返上。・・・西暦1891年(明治24年)7月1日、永井尚志が死去すると、「従五位」に昇叙し、これに続いて「正五位」に叙せられた。享年76。・・・この永井尚志は、かつて・・・最後の将軍となった徳川慶喜が、朝廷に対して「大政奉還」する際に、実際に“その奏上文を草案した人物”として知られております。

      旧幕府軍政権(=蝦夷共和国、蝦夷島政府、箱館政権とも)・軍艦蟠竜丸(ばりゅうまる)の艦長とされる松岡磐吉(まつおかばんきち:※諱は惟孝〈これたか〉)については・・・榎本武揚らとともに東京辰の口の「兵部省軍務局糺問所」に収監されて、未決のまま在獄期間約2年を、ここで英語を学ぶなどして過ごしていたものの・・・西暦1871年(明治4年)7月5日5時に、熱病により獄中で死亡した。・・・これは、実際に特赦を受ける約半年前のことであり、“亡くなったのが夏季であっため、兵部省によって仮埋葬され、その後に松岡家の菩提寺へ葬られた”とのこと。享年は29、或いは30とも。・・・西暦1872年(明治5年)1月6日の榎本武揚らへの特赦と同時に、「死後赦免」という扱いとなる。・・・尚、かつて会津藩が「会津戦争」に敗れた後に、それまでの藩領が会津松平氏から没収され、最後の会津藩主となった松平容保自身は、鳥取藩預かりの禁錮刑となった・・・ものの、後の西暦1869年(明治2年)には、松平容保の嫡男への「家名存続」が許されることとなり、陸奥国斗南(現青森県むつ市)に「斗南(となみ)藩」が立藩されます。
      ・・・その「斗南」へ付き従った「旧斗南藩士」、すなわち“旧会津藩士”の「武田信愛(たけだのぶよし?)」という人物から、この松岡磐吉に関する明治新政府への「赦免嘆願書」が提出されており・・・“この松岡磐吉の人となり”についてを、「気骨本幹ありてよく衆を御す」と評価したとの事。

      旧幕府軍政権(=蝦夷共和国、蝦夷島政府、箱館政権とも)における室蘭方面・開拓奉行とされる澤太郎左衛門も・・・榎本武揚らとともに東京辰の口の「兵部省軍務局糺問所」に収監されますが、後の西暦1872年(明治5年)1月6日の特赦によって出獄する・・・と、やはり、「開拓使御用掛」として明治新政府に出仕します。・・・この直後期とも云える同年2月には、兵部省6等出仕し、海軍兵学寮分課に勤務。・・・同年9月には、「海軍兵学寮大教授」となります。・・・西暦1875年(明治8年)には、「兵学権頭兼兵学大教授」に。・・・その翌年に、それまでの「海軍兵学寮」が「海軍兵学校」に変更されると、“5等出仕扱い”で「海軍兵学校教務課長」に。・・・西暦1879年(明治12年)には、「兵学校砲術課長」となり・・・西暦1882年(明治15年)には、「兵学校教務副総理」となり、「勲五等」を賜ります。・・・西暦1885年(明治18年)8月には、「海軍一等教官」となり・・・同年10月に、「従五位」も賜ります。
      ・・・そして、西暦1886年(明治19年)2月に「海軍」を退官する・・・と、西暦1889年(明治22年)2月には、「従四位」を叙せられ・・・西暦1898年(明治31年)に肺炎にて死去。享年65。その死後には、「正四位」を叙せられた。・・・ちなみに、「日本海軍」において、“海上砲の操砲訓練を行なった最初の人物は、この澤太郎左衛門であった”とされています。

      ※ 同年5月内:「旧幕臣・徳田孝吉(とくだこうきち)」が・・・“当時、朝敵として幽閉されていた松本良順(まつもとりょうじゅん)”から「写真術」を学ぶ。『日本写真史年表』より・・・この「徳田孝吉」とは、元将軍・徳川慶喜(※元水戸藩主・徳川斉昭〈※後の烈公〉の七男)にも「写真術」を教えた人物であり、“静岡で最初の写真館を開いた”とか。・・・そして、ここにある「松本良順」とは、幕末明治期の医師(御典医、軍医)、政治家。父は佐倉藩藩医で順天堂を営む佐藤泰然(さとうたいぜん)。外務大臣の林董(はやしただす)は実弟。幼名は佐藤順之助(さとうじゅんのすけ)。後に幕医の松本良甫(まつもとりょうほ)の養子となる。西暦1871年(明治4年)に従五位に叙せられた後に、「順」と改名。号は「蘭疇」、「楽痴」とも。・・・いすれにしても、この後に赦免されて出獄が叶うと、東京早稲田に西洋式の病院となる「蘭疇院(らんちゅういん)」を設立した。

・・・・・・・・・・※次ページに続く・・・・・・・・・・





  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱へ 【はじめに:人類の起源と進化 & 旧石器時代から縄文時代へ・日本列島内の様相】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐へ 【縄文時代~弥生時代中期の後半頃:日本列島内の渡来系の人々・農耕・金属・言語・古代人の身体的特徴・文字としての漢字の歴史や倭、倭人など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参へ 【古墳時代~飛鳥時代:倭国(ヤマト王権)と倭の五王時代・東アジア情勢・鉄生産・乙巳の変】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その四へ 【飛鳥時代:7世紀初頭頃~653年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その伍へ 【飛鳥時代:大化の改新以後:659年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その六へ 【飛鳥時代:白村江の戦い直前まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その七へ 【飛鳥時代:白村江の戦い・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その八へ 【飛鳥時代:白村江の戦い以後・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その九へ 【飛鳥時代:天智天皇即位~670年内まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾へ 【飛鳥時代:天智天皇期と壬申の乱まで・東アジア情勢】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾壱へ 【飛鳥時代:壬申の乱と、天武天皇期及び持統天皇期頃・東アジア情勢・日本の国号など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾弐へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾参へ 【奈良時代編纂の『常陸風土記』関連・其の二】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾四へ 【《第一部》茨城のプロフィール & 《第二部》茨城の歴史を中心に・旧石器時代~中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾伍へ 【中世:室町時代1435年(永享7年)6月下旬頃の家紋(=幕紋)などについて、『長倉追罰記』を読み解く・其の一】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾六へ 【概ねの部分については、『長倉追罰記』を読み解く・其の二 & 《第二部》茨城の歴史を中心に・中世頃】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七へ 【《第二部》茨城の歴史を中心に・近世Ⅰ・関ヶ原合戦の直前頃まで】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾八へ 【近世Ⅱ・西笑承兌による詰問状・直江状・佐竹義宣による軍法十一箇条・会津征伐(=上杉討伐)・内府ちかひ(=違い)の条々・関ヶ原合戦の直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾九へ 【近世Ⅱ・小山評定・西軍方(≒石田方)による備えの人数書・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦直前期】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾へ 【近世Ⅱ・関ヶ原合戦の諸戦・関ヶ原合戦の本戦・関ヶ原合戦後の論功行賞・諸大名と佐竹家の処遇問題・佐竹家への出羽転封決定通知及び佐竹義宣からの指令内容】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾壱へ 【近世Ⅱ・出羽転封時の世相・定書三カ条・水戸城奪還計画・領地判物・久保田藩の家系調査と藩を支えた収入源・転封決定が遅れた理由・佐竹家に関係する人々・大名配置施策と飛び領地など】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾弐へ 【近世Ⅲ・幕末期の混乱・水戸学・日本の国防問題・将軍継嗣問題・ペリー提督来航や日本の開国及び通商問題・将軍継嗣問題の決着と戊午の密勅問題・安政の大獄・水戸藩士民らによる小金屯集】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾参へ 【近世Ⅲ・安政の大獄・水戸藩士民らによる第二次小金屯集・水戸藩士民らによる長岡屯集・桜田門外の変・桜田門外の変の関与者及び事変に関連して亡くなった人達】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾四へ 【近世Ⅲ・丙辰丸の盟約・徳川斉昭(烈公)の急逝・露国軍艦の対馬占領事件・異国人襲撃事件と第1次東禅寺事件の詳細・坂下門外の変・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の勃発】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾伍へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)4月から同年6月内までの約3カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾六へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)7月から同年8月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾七へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)9月から同年10月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾八へ 【近世Ⅲ・1864年(元治元年)11月から同年12月内までの約2カ月間・水戸藩(水戸徳川家)や元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)を中心に】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その弐拾九へ 【近世Ⅲ・1865年(元治2年)1月から同1865年(慶應元年)11月内までの約1年間・水戸藩(水戸徳川家)を中心に・元治甲子の乱(天狗党の乱、筑波山挙兵事件とも)の終結と戦後処理・慶應への改元・英仏蘭米四カ国による兵庫開港要求事件(四カ国艦隊摂海侵入事件とも)・幕府による(第2次)長州征討命令】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾へ 【近世Ⅲ・1865年(慶應元年)12月から翌年12月内まで・元治甲子の乱の終結と戦後処理・水戸藩の動向・第2次長州征討の行方・徳川慶喜の将軍宣下・孝明天皇の崩御・世直し一揆の発生】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾壱へ 【近世Ⅲ・1867年(慶應3年)1月から12月内までの約1年間・パリ万博と遣欧使節団・明治天皇即位・長州征討軍の解兵・水戸藩の動向・大政奉還・王政復古の大号令・新政体側と旧幕府】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾弐へ 【近代・1868年(慶應4年)1月から同年4月内までの約4カ月間・討薩表・鳥羽伏見の戦い・征討大号令・神戸事件・錦旗紛失事件・五箇条の御誓文・江戸無血開城・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾参へ 【近代・1868年(慶應4年)閏4月から同年7月内までの約4カ月間・戊辰戦争・白石列藩会議・白河口の戦い・鯨波合戦・北越戦争・上野戦争・越後長岡藩庁攻防戦・除奸反正と水戸藩の動向】
  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾四へ 【近代・1868年(慶應4年)8月から同年(明治元年)内までの約5カ月間・明治帝即位の礼・会津戦争の終結・水戸藩の動向・弘道館の戦い・松山戦争・東京奠都・徳川昭武帰朝と水戸藩の襲封】

  ある不動産業者の地名由来雑学研究~その参拾六へ 【近代・1869年(明治2年)6月から1875年(明治8年)内までの約6年間・旧常陸国などを含む近代日本における社会構造の変化・統治行政機構の変遷を見る】